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2019/09/12

小泉八雲 露の一滴 (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“A Drop of Dew”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“KOTTŌ”(来日後の第九作品集)の話柄数では十三番目に配されたものである。作品集“KOTTŌ”はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。今回は標題ページから示した。添辞“Tsuyu no inochi.” “―Buddhist proverb.”はここにのみ示されてあるからである。但し、これは翌一九〇三年の再版本である)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。

 底本は上記英文サイトInternet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。Project Gutenberg版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

Kotto_030

 

  露の一滴

 

    露のいのち。――佛敎の諺

 

 書齋の窓の竹格子に、一滴の露が垂れて居る。

 その小さい球面には、朝の色、――空と野と遠くの樹の色が映つて居る。逆さの影がそのうちに見える、――それから、戶ロに子供の遊んで居る小さい家のさまが、顯微鏡面の繪のやうに映つて居る。

 見える世界以上のものが、その露の一滴にあらはれて居る、見えない世界、不可思議な世界も亦そのうちに再現して居る。その一滴の内にも外にも、たえざる運動――原子と力との永久に不可解な運動、――それから空氣と日光に觸れて複雜な色彩を示すかすかなる戰慄がある。

 

 佛敎は魂と云はれる今一つの小宇宙の象徴をこの露の一滴に見る。……人間とは正しく目に見えない究極の元素が、假に暫く一團となつて、――空氣と土と生命を反映する、永久に不可思議な戰慄に滿ちた、――それから自分を取りまく靈の力のどの響きにも、どうにかして應ずる――ものでなくて何であらう。……

 

 やがてその小さい光の球は不思議な色や逆さの繪と共に消え失せる事であらう。丁度その通り、私共も――讀者も私も間もなく解けて消え失せねばならない。

 露の消えるのと人間の消えるのと、その間に何の差別があらう。言葉の違ひだけ。……しかしその露の一滴はどうなるだらう。

 太陽のために原子は分れて、上つて、さうして散る。雲と土に、河と海に行く、それから陸と川と海から再び引き拔かれて、再び新たに落ちて散る。乳色の霧の中に這ひ込み、霜、霰、雹、雪のうちに白くなる、――大宇宙の形狀色彩を再び反映する――未だ生れ出でない赤い心臟の小さい鼓動と共に動く。それぞれの露の一滴は外の滴――霧と雨との滴、血と汗と淚の滴となるためには、無數の同じ原子と、再び結合せねばならない。……

[やぶちゃん注:ここで小泉八雲は「リグ・ヴェーダ」に現れるインド神話の、創造神が、ヒラニヤ・ガルバ(Hiranyagarbha:英語:「黄金の胎児」などと訳される)として、原初の水の中に孕まれて生まれたとする説を意識しているように私には思われる。]

 幾度であらう。この太陽の未だ燃え出ぬ以前、幾十億代の昔、それらの原子は多分外の滴とともにどこかの宇宙で世界の空の色と大地の色を反映しながら、搖れてゐたであらう。それからこの現在の宇宙が空間から消失したあとでも、その原子自身は、――それを造つた不可解の力によつて――多分引續き露と結んで、未來の惑星の朝の美を映すであらう。

 

 自己と私共が名づけるその合成物の原子も正しくこれと同樣。日月星辰以前に私共の原子はあつた、――さうして生動し、活動して、――物の外貌を反映した。それから目に見ゆるの星が悉く燃えつくしても、その原子は疑もなく心の形成に與かるであらう、――思想、情緖、記憶のうちに――未だ進化せんとする世界に、未だ生きんとする人々の再び凡ての喜びと悲しみのうちに再び顫動するであらう。……

[やぶちゃん注:「日月星辰」「辰」は「日・月・星の総称」で、より広範な「天体・空・宇宙」の謂いとなる。

「顫動」「せんどう」。小刻みにふるえ動くこと。]

 

 私共の個性、――私共の特性はどうなるだらう。私共の觀念、情操、回想、――私共の特別の希望と恐怖と愛憎はどうなるであらう。さて露の萬億每に原子の戰慄と反映の極少量の差別があるに相違ない。それから生死の大海から引き上げられた靈の蒸氣の無數の粒の一つ一つに同じやうに極少量の特質がある。私共の個性は永遠の眞理から見れば、一滴の戰慄のうちの微分子の特殊な運動と丁度同じ事である。恐らくどの外の滴に於ても、その戰慄と映象は全く同一である事は決してあるまい。しかし露はいつまでも結びかつ解けよう。さうしていつも搖れ動く繪があらう。……迷のうちの迷は、死を無と解することである。

[やぶちゃん注:「映象」「えいしやう」と読んでおく。原文は“the picturing”であるから、目に見得る上での形状・属性の意であろう。「映像」でよかろう(平井呈一訳も『映像』である)が、或いは直後の訳と同じ「繪」でもよい。]

 無ではない――無くなるべき自我はないからである。何であつたとして、私共はそのものであつた、――何であるにしても、私共はそのものである、――何であらうとも、私共はそのものにならねばならない。人格、――個性、――それは夢のうちの夢の幻影に過ぎない。あるものはただ無窮の生命だけ、それからあるらしく見えるものはただ、その生命の顫動に過ぎない、――日、月、星辰、――地、空、及び海、――それから人間、及び空間時間。一切のものは影である。その影は現れて又消える、――影を造るものは永久に造る。

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