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« 40年振りの再会 | トップページ | 小泉八雲 天の河緣起  (大谷正信訳) その3 »

2019/09/30

小泉八雲 天の河緣起  (大谷正信訳) その2

 

[やぶちゃん注:本篇についての詳細は「小泉八雲 作品集「天の河緣起そのほか」始動/天の河緣起(大谷正信訳)(その1)」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 自分はそれへたつた一つの神社の記錄を見出すことが出來た。それは尾張の國星合村原註三といふ村にあつて、七夕森といふ杜に圍まれて居る七夕神社といふのである。

原註三 ところが近代のどんな地名簿にもそんな村の記載がない。

[やぶちゃん注:尾張ではないが、現在の三重県松阪市星合町星合神社(波氐(はて)神社)が現存し(グーグル・マップ・データ)、「松阪市観光協会」公式サイト内のこちらによれば、『古くは伊勢国における七夕伝説発祥の神社とされ』、『三雲管内、新田開発以前の白砂青松の地で行われていた七夕祭は「伊勢星合祭」と呼ばれてい』たとし、『現在も「星合」「鵲」という地名が残り、神社の近くには「鵲橋」が存在し』、『主祭神は「天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)」』で、『古い文献には「多奈波太姫(たなばたひめ)」とあ』るとある。小泉八雲が言っているのはこれの可能性がある。]

 が、然し天平勝寶前でも、織姬の傳說はよく知られて居たらしい。といふのは養老八年(紀元七百二十三年)の七月七日の夜に、歌人の山上憶良が、

  天漢(アマノカハ)相向立而(アヒムキタチテ)吾戀之(アガコヒシ)君來益奈利(キミキマスナリ)紐解設奈(ヒモトキマケナ)

といふ歌を作つたといふことが、記錄されて居るからである。

[やぶちゃん注:以上は、「万葉集」巻第八の「山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)の七夕の(なぬかのよ)の歌十二首」と前書する、その冒頭の一首である(一五一八番)。整序すると、

 天の川相向き立ちて我が戀ひし君來ますなり紐解き設(ま)けな

で、歌の後に、

 右は、養老八年七月七日に、令旨に應(こた)ふ。

とある。「令旨」は皇太子の命令。但し、講談社文庫の今西進氏の「万葉集」の注によれば、『養老八年は二月に神亀』に『改元』されているから、『六か七の誤り』とある。]

 七夕祭は日本では千百五十年前に、支那の先例に從つて、ただ、宮中の祭りとして、初めて行はれたもののやうに察しられる。其後貴族と武人階級とが帝室の手本を模し、俗に云ふホシマツリ卽ち『星祭』を行ふ習慣が漸次下に及び、終に七月の七日は、其言葉の十分の意味に於て、國民的祭日となつた。が、その行ひ方は、時代によつてまた國を異にするに從つて、餘程違つて居つた。

[やぶちゃん注:ウィキの「七夕」によれば、『日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた』。『「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の』一『書第』一『にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷』十『春雜歌』二〇八〇番の「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者將長」(たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ)『など』、『七夕に纏わる歌が存在する』。『そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある』。『日本では、雑令によって』七月七日が『節日と定められ、相撲御覧(相撲節会』(すまいのせちえ)『)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた』。『その後、平城天皇が』七月七日に『亡くなると』、天長三(八二六)年、『相撲御覧が別の日に移され』、『行事は分化して』、『星合と乞巧奠が盛んになった』。『乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん』『、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い』、七月七日の『夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を』四『脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉』一『枚に金銀の針をそれぞれ』七『本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき』、『灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた』。『二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない』とある。]

 宮中での儀式は極はめて細細した念入りの者であつた。それは具さに公事根源に――設明の繪圖を添へて――載せてある。七月の七日の宵に、宮居のうちの淸涼殿と呼ぶ建物の東の庭に莚を鋪き、その莚の上に星神に捧げる供物を載せる机四脚を立てる。普通の食物の供物のほかに、その机の上に酒、香、花を活けた朱漆りの華盤、箏と笛、五色の絲を貫いた目の五つある針一本を載せる。其饗宴を照す爲め、机の橫に黑漆りの燈臺をたてる。庭の他の部分にタナバタの星の光りが映るやうに、水盥が置かれ、宮中の貴女達は、其水に映る星影で針に絲を通すことを試みた。首尾よく通した者は翌年中幸運とされてゐた。

[やぶちゃん注:「公事根源」(くじこうげん:小泉八雲の原文は“Kōji Kongen”となっている)書名。「公事根源抄」とも呼ぶ。朝廷の年中行事を十二ヶ月に分けて、それぞれの由来を解説した書。全一巻。一条兼良撰。室町時代の応永二九(一四二二)年成立。現存しない行事や、これを通しての民俗信仰を窺うことが出来る好史料である。国立国会図書館デジタルコレクションの「公事根源」のここの「乞巧奠」

「華盤」「けばん」。華道では花立ての下に置く式台のようなものを指すが、小泉八雲の原文は“vases of red lacquer containing flowers”(「vases」は「花瓶・壺」)で、ここは花立てそのもの。]

 宮廷に仕へる貴族(クゲ)はこの祭jの日に宮中へ或る供物をしなければならなかつた。其供物の性質と、其奉呈の仕方とは敕令で極まつて居た。かつぎを冠り、禮裝をした位階ある貴女が、盆に載せて宮中へ運び行くのであつた。其貴女があゆみ行く時、その頭上に、六きな紅い傘を供人がさす。盆の上にはタンザク(歌を書くに用ひる色の美しい紙の縱長い角な切れ)七枚、クズの葉七枚、硯七面、そうめん(一種のヷアミセリ)七すぢ、筆十四管、夜伐つて露が滋く置いて居る芋の葉一束が載せてあるのであつた。式は宮殿の庭で寅の刻――午前四時――に始つた。先づ星神を讚へる歌を書くのに使ふ墨を用意するに先だつて、其硯を丁寧に洗つて、一年一面葛の葉の上に置く。露が置いて居る芋の葉の一束をそれから一つ一つの硯の上に載せる。水を用ひずに、この露で墨の水をつくるのである。此式は凡て、玄宗皇帝の頃、支那の宮廷で流行つて居たものを模倣したもののやうである。

[やぶちゃん注:「ヷアミセリ」“vermicelli”。ヴェルミチェッリ(イタリア語:Vermicelli)。イタリア料理で使われる麺類であるパスタの一つ。名称は「ミミズやヒルのような長い虫」という意味の「ヴェルメ」(verme)の指小形で、「小さいヴェルメ」の意。スパゲッティよりやや太めの二・〇八~二・一四ミリメートルのものを指す。英語読みの「vɜrmɨˈtʃɛli」「vɜrmɨˈsɛli」の「ヴァーミセリ」「バーミセリ」という名でも知られている(ウィキの「ヴェルミチェッリ」に拠る)。]

 德川將軍時代になつて、初めて七夕祭は、眞に國民的な祭日となつた。そしてこの日を祝つて伐りたての竹へ、色變りのタンザクを結ひ付ける通俗の習慣は、漸く文政(千八百十八年)時代に剏まる[やぶちゃん注:「はじまる」。]。前には短册は頗る上等な紙でつくつたもので、この古からの貴族的儀式は念入りであつたが、それに劣らずまた金のかかるものであつたのである。が、德川將軍時代に種種な色の頗る廉價な紙が製造された。それでこの祭日の式は費用をかけずに、どんなに貧しい階級の人達でも、思ふままこれを行ふことが出來るやうになつた。

 このお祭りに關する民習は地方によつて異つた。出雲の――出雲では社會のあらゆる階級が、士も平民も、殆んど同じ樣にしてこの祭日を祝つたものであるが――出雲の慣習は昔は殊に興味あるものであつた。それを簡單に記述すれば、封建時代の幸福な生活の模樣が幾分か偲ばれよう。七月の七日の夜、寅の刻には誰れも起きる。そして硯と筆とを洗ふ。それから家の中の庭で、芋の葉から露を集める。此露をアマノガハノシヅク(『天の川の滴』)と呼んで居た。庭へたてる竹に吊るす歌を書くのに使ふ新しい墨をつくるのに用ひるのである。七夕祭の時に友人同士互に新しい硯を贈るのが常であつた。そして家に新しい硯があれば、新しい墨をそれに使ふのであつた。それから家中の者が銘銘歌を書く。大人は、その能に應じて、星神を讚へる歌を作つた。子供等は云うて貰ふ歌を書きとるか、又は間に合せの歌を作らうとしたりした。餘りに年齡(とし)が若くて手傳つて貰はなければ筆の使へぬ子供は、親か姉か兄かに手を持つて貰つて、お祭りに關した語一つ又は句一つ――例へば『アマノガハ』とか、『タナバタ』とか、或は『カササギノハシ』(鵲の橋)とか――の文字を短册の上に形だけ書いた。庭へ伐りたての竹を、枝葉をそのままに、二本――雄竹(ヲトコダケ)と雌竹(ヲンナダケ)と――たてる。それは六尺許り離して立てるので、その間へ渡した綱へ五色の紙片と、五色の染め絲の總絲を吊るす。その紙片は上衣――キモノ――を現して居るのである。竹の葉と枝とへ、家中の者が歌を書いた短册を結ぴ付ける。そしてその二本の竹の間に、若しくはその直ぐ前へ置く机の上へ、星神への色色な供へ物――果物、素麵、酒、それから胡瓜に西瓜といつた樣な種種な野菜――を入れた器を置くのであつた。

 が、此祭りに關して一番妙な出雲の習慣は、ネムナガシ卯卽ち『眠流し』式であつた。夜明け前に若い者は、ネムの葉と豆の葉とを交ぜて造つた束を携へて流れ川へ行く。その川へ著くと、その葉束を流れへ投げ込んで、

 

    ネムハナガレヨ!

    マメノハハトマレ!

 

といふ短かい歌を唄ふのであつた。その歌は二樣に解釋が出來よう。といふのはネムといふ語はネムリ(睡眠)といふ意にも亦、ネムリギ或はネムノキ卽ち『睡り木』(英語のミモザ)といふ意にも取れるし、――一方またマメといふ綴りは、カナで書くと、『豆』を意味しもすればまた『活動』、『力』、『元氣』、『壯健』などを意味しもするからである。が、その式は象徴的のもので、歌の心は、

 

    ねむ氣よ、流れ去れよ!

    元氣の葉よ、止りてあれ!

 

といふのであつた。それを濟ますと、若い者は皆その水の中へ飛び込んで、その翌年は怠惰は全く流し去つて、永く元氣な努力心を保たうといふその決心のしるしに、水を浴びたり泳いだりするのであつた。

 

 が、然し七夕祭が其最も繪畫的な光景を示したのは多分エド(今の東京)でであつたらう。お祭りの續く二日――七月の六日と七日――の間、町は、歌が結ひ付けられえ居る新しい竹が家家の屋根の上にたつので、大竹藪の觀を呈するのであつた。百姓は其日は竹で大儲けが出來たもので、祭日用にと幾百といふ荷車で竹を町へ持ち込んだ。江戶での此祭りの今一つの特色は、歌の結ひ付けてある竹を手に、町を持ち步く子供の行列であつた。その竹一本一本にまた、七夕の星の名が漢字で書いてある赤塗りの札が結ひ付けてあつた。

 が、德川の治世中は、殆んど到る處、この七夕祭はあらゆる階級の若い者に愉快な祭日で――日の出前に提燈を出して飾るのに始つて、ずつと翌晚まで續く祭日で――あつたものだ。この日は男の子も女の子も、一等いい著物を著て友人と鄰人とへ式の訪問をした。

 

 七月はタナバタヅキ卽ち『七夕の月』と呼ばれてゐた。この月はまたフミツキ卽ち『文の月』とも呼ばれてゐた。それは七月の間は到る處で、天つ空なる戀人をたたへて歌を作つたからである。

[やぶちゃん注:底本では、行空けで次の段落が始まるが、原本ではここに「*」が三角形に配されたブレイク・マークが入るのでここまでで、一区切りとして公開する。]

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