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2019/09/25

小泉八雲 蟲の硏究 蝶 一 (大谷正信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“BUTTERFLIES”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”。来日後の第十作品集)の最後に配された「蝶」・「蚊」・「蟻」三篇からなる第十八話“INSECT STUDIES”の第一番目の話である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。なお、この前のページには“BUTTERFLY DANCE”とキャプションした雅楽の胡蝶の舞の図が載る。原本の挿絵の英文解説中には“Keichū Takéunouchi”とあるが、これは浮世絵師・挿絵画家であった武内桂舟(たけうちけいしゅう 文久元(一八六一)年~昭和一七(一九四二)年)のことではないかと疑う(彼であればパブリック・ドメインである)。以下に挿絵を示しておく。上記原本画像(PDF)自体からは何故か絵が取り込めないため、プリント・スクリーンを行い、加工ソフトでトリミングし、演者外の余白部分の汚点は清拭した。なお、この舞楽についてはウィキの「胡蝶(舞楽)」を見られたい)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

Photo_20191019050701

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落とし、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。最後に纏めて字下げポイント落ちである訳者注は、適切な箇所に同ポイントで、引き上げて附した。

 なお、本篇「蝶」は四章からなり、注を附し始めたところ、長くなりそうなので、章で分割して公開することとした。]

 

 

    蟲 の 硏 究

 

  

 

       

 日本文學には廬山譯註一にといふ名で知れて居るあの支那の學者の幸運を、自分は希望出來ればと思ふ! 十日每に訪ねて來ては蝶の話をして吳れた、天人であつた、靈の少女二人に愛せられて居たからである。處で、支那には蝶に關した不思議な物語――靈的な物語――があるので、自分はそれが知りたいのである。だが、永久自分は支那文を、いや日本文すらも、讀む事が出來なからう。それで自分が非常な困難をして、どうにかして飜譯しようとする僅かの日本詩歌にも、支那の蝶物語を引いて居るところが甚だ多いので、自分はタンタラスの苦に苦しめられて居るのである。……そして、固よりの事、自分のやうな懷疑的な男をいつか訪ねて呉れるやうな靈の少女は一人もあるまい。

譯註一 廬山は劉子鄕とあゐべきもの。稽神祕苑に『劉子鄕居廬山。有五綵雙蝶、遊花上、其大如燕、後化二女、來号歡、云云」とある。

[やぶちゃん注:底本では「!」の後に字空けはないが、特異的に入れた。

「稽神祕苑」は無名氏撰で、宋代以前に書かれた呉楚地方の伝承を記したものとされる。当該書からの引用は探せなかったが、「太平廣記」の「神五」に以下の「劉子卿」を見出せた。原拠は「八朝窮怪錄」とある。

   *

宋卿子卿。徐州人也。居廬山虎溪。少好學、篤志無倦。常慕幽閑、以爲養性。恆愛花種樹、其江南花木。溪庭無不植者。文帝元嘉三年春、臨翫之際、忽見雙蝶、五彩分明、來游花上、其大如鷰、一日中、或三四往復。子卿亦訝其大。九旬有三日、月朗風淸。歌吟之際、忽聞扣扃、有女子語笑之音。子卿異之、謂左右曰、「我居此溪五歲、人尙無能知、何有女子而詣我乎。此必有異。」。乃出戶、見二女。各十六七、衣服霞煥、容止甚都。謂子卿曰、「君常怪花間之物。感君之愛、故來相詣、未度君子心若何。」。子卿延之坐、謂二女曰、「居止僻陋、無酒叙情。有慙於此。一女曰、「此來之意、豈求酒耶。況山月已斜、夜將垂曉、君子豈有意乎。子卿曰、「鄙夫唯有茅齋、願申繾綣。」。二女東向坐者笑謂西坐者曰、「今宵讓姊。餘夜可知。因起、送子卿之室。入謂子卿曰、「郎閉戶雙棲、同衾並枕、來夜之歡、願同今夕。」。及曉、女乃請去。子卿曰、「幸遂繾綣、復更來乎。一夕之歡、反生深恨。」。女撫子卿背曰、「且女妹之期、後卽次我。將將原作請。據明鈔本改。出戶、女曰、「心存意在、特望不憂。」。出戶不知蹤跡。是夕二女又至、宴如前。姊謂妹曰、「我且去矣。昨夜之歡。今留與汝。汝勿貪多誤、少惑劉郎。」。言訖大笑、乘風而去。於是同寢。卿問女曰、「我知卿二人、非人間之有。願知之。」。女曰、「但得佳妻、何勞執問。乃撫子卿曰、「郎但申情愛、莫問閑事。」。臨曉將去、謂卿曰、「我姊實非人間之人、亦非山精物魅、若說於郞、郞必異傳、故不欲取笑於人代。今者與郎契合、亦是因緣。慎跡藏心、無使人曉。卽姊妹每旬更至。以慰郞心。」。乃去、常十日一至、如是數年會寢。後子卿遇亂歸鄕、二女遂絕。廬山有康王廟。去所居二十里餘。子卿一日訪之、見廟中泥塑二女神。幷壁畫二侍者。容貌依稀、有如前遇、疑此是之。

   *

「タンタラス」原文“Tantalus”。古代ギリシア語のラテン転写では“Tántalos”。タンタロス。ギリシア神話の神でゼウスの息子。シピュロス山の王であったが、罪を犯したために地獄に落され、永劫の罰を受けている。罪については諸説あるが、ピンダロスは神々の食卓から神聖な食物(アンブロシアとネクタル)を盗んでそれを人間に与えたからとする。ホメロスを始め多くの詩人は、地獄に落された彼は飢えと渇きに苦しめられ、池の中に首までつかりながら、水を飲もうとすれば、水はさっと引いてしまい、また、頭上には、たわわに成った豊かな果樹の枝が垂れ下がっているが、実に手を伸ばすと、風がその果実を攫ってゆくとされる。また、ピンダロスによると、彼の頭上には大石がまさに落ちようとしており、彼は常に大石に押しつぶされる恐怖に憑りつかれてているとされる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

 例を舉げて云へば、その女を蝶が花だと思つて、群を爲して後を追つた――それ程に匀ひ香んばしく又美はしかつたといふ、あの支那の少女の身の上總てが知りたい。それからまた、蝴蝶に自分の愛人を選ばせたといふ玄宗皇帝卽ちミン・ヒソン帝の蝶譯註二に就いてもつと知りたいものだと思ふ。……帝はその驚くべき庭園でいつも酒宴を催された。それには非常に美しい婦人が侍んべつて居た[やぶちゃん注:「ん」ママ。]。そして籠に入れてある蝶をその美人の間へ放たれると、蝶はその中の一番美しい婦人の處へ行つてとまる。するとその一番美しい婦人へ帝の寵は與へられるのであつた。ところが、玄宗皇帝が楊貴妃(支那人はヤン・クエイ・フエイと呼ぶ)を眼にせられてからといふもの、蝶に愛人を選ばせることをさせられなかつた。――それは不幸な事であつた、楊貴妃が帝を非常な困難へ陷らしめたから。……それからまた、日本では莊周といふ名で有名な支那の學者が、自分が蝶になつた夢を見、その夢の裡で蝶が有つあらゆる感じを經驗したといふ、その經驗に就いてもつと知りたいものだと思ふ。この人の精神は實際、蝶の姿になつてさまよひ步いたのであつた。それで眼が覺めた時、蝴蝶生活の記憶や感情がその心中に餘りに生き生きと殘つて居たので、人間のやうな行爲が出來なかつたといふことである。……最後に自分は種種な蝶をば或る皇帝とその從者との靈魂だと認めた支那の或る公認の原文を知りたいものだと思ふ。

譯註二 開元遺事に「明皇宮中春宴、令妃嬪各插額花、帝親捉粉蝶放之、隨蝶所止幸之、謂元蝶、幸柳妃、專寵、不復此戲」とあり。

[やぶちゃん注:「ミン・ヒソン帝」これは音写訳がおかしい。原文は“Ming Hwang”で、玄宗は「唐明皇」とも呼ばれたが、これはその「唐」を除いた「明皇」の中国音を示したものであり、音写するなら、「ミィン・ファン」である。

「開元遺事」「開元天寶遺事」。盛唐の栄華を物語る遺聞を集めたもの。五代の翰林学士などを歴任した王仁裕(じんゆう 八八〇年~九五六年)が後唐の荘宗の時、秦州節度判官となり、長安に至って、民間に伝わる話を収集し、百五十九条を得て、本書に纏めたという。但し、南宋の洪邁(一一二三年~一二〇二年)は本書を王仁裕の名に仮託したものと述べている。玄宗・楊貴妃の逸話を始め、盛唐時代への憧憬が生んだ風聞・説話として味わうべき記事が多い(小学館「日本大百科全書」に拠る)。以下は、調べたところ、同書の巻一に、

   *

開元末、明皇每至春月、旦暮宴於宮中、使妃嬪輩爭插艷花。帝親捉粉蝶放之。隨蝶所止幸之。後因楊妃專寵。遂不復此戲也。

   *

とあるのと一致する。

「ヤン・クエイ・フエイ」原文“Yang-Kwei-Fei”。「楊貴妃」は音写するなら「イァン・グゥェイ・フェィ」である。

「莊周……」以下は私の偏愛する「荘子(そうじ)」(「内篇」の「斉物論」)にある有名な、

   *

 昔者、莊周、夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喻適志與。不知周也。俄然覺、則蘧蘧然周也。不知周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶。則必有分矣。此之謂物化。

 昔者(むかし)、莊周、夢に胡蝶と爲る。栩々然(くくぜん)として胡蝶なり。自(みづか)ら喻(たの)しみて志に適(かな)ふか、周なることを知らざるなり。俄然として覺むれば、則ち、遽々然(きよきよぜん)として周なり。知らず、周の夢に蝴蝶と爲るか、蝴蝶の周と爲るか。周と蝴蝶と、必ず、分(ぶん)、有らん。此れを「物化(ぶつか)」と謂ふ。

   *

「栩々然」嬉しげに楽しむ様子。「遽々然」明白なはっきりとした見かけ上のさま。「必ず、分(ぶん)、有らん」まあ、見かけ上は区別はあることはあるといった軽くいなした謂い。「物化」万物の変化など実際には本質の絶対的な変化などはない、荘周と蝶は一如(いちにょ)という境地を示しための、見かけ上の下らない物の変化現象を指している。

「種種な蝶をば或る皇帝とその從者との靈魂だと認めた支那の或る公認の原文」私は不学にして知らない。識者の御教授を乞う。]

 蝴蝶に關する日本文學の大半は、僅かの詩歌を除いて、支那起源のものであるらしい。日本の藝術や歌や習慣にあんなに愉快に表現されて居る此題目に就いてのあの古い國民的審美感情すらも、初めは支那の敎への下に啓發されたものかも知れぬ。日本の詩人及び晝工が、そのダイメイ卽ち職業上の稱呼に、テフム(蝶夢)イツテフ(一蝶)といふやうな名をあんなに屢〻好んだのは、支那に先例があつたからだといふので、確かに說明が出來る。そして今日に至るまで、テフハナ(蝶花)テフキチ(蝶吉)・テフノスケ(蝶之助)といふやうな源氏名を藝者が好んで用ひて居る。蝴蝶に同係のある源氏名のほかに、そんな種類の實際の名(ヨビナ)――「蝴蝶」といふ意味のコテフ或はテフといふやうな――が今なほ用ひられて居る。そんな名は、槪して女だけが有つて居る、――尤も珍らしい例外はあるけれども。……そして此處へ書いてもよからうと思ふが、陸奧の國では、一家の末娘をテコナと呼ぶ珍奇な古い習慣が今なほ存在して居る。他では癈語になつて居るこの奇妙な語は、陸奥の方言では蝶といふ意味である譯註三。古典時代にはこの語はまた、美女といふ意味も有つて居た。……

譯註三 倭訓栞に『てふ蝶をよむは音なり。相摸下野陸奧にてテフマ津輕にカニベ又テコナ云云」とあり。

[やぶちゃん注:「僅かの詩歌を除いて、支那起源のものであるらしい。日本の藝術や歌や習慣にあんなに愉快に表現されて居る此題目に就いてのあの古い國民的審美感情すらも、初めは支那の敎への下に啓發されたものかも知れぬ」ここで「僅かの詩歌を除いて」と小泉八雲が言っているのは、「万葉集」に一首も蝶を対象物として実詠したものが一首もないことを意識しているものと思われる。則ち、「万葉集」の時代以前の日本人の「古い國民的審美感情」は、「支那の敎への下に啓發されたもの」でない、特殊な忌避感情が働いていたことの証左であると私は思う。空中を美しくも妖色を呈して浮かぶように飛ぶ軽い、眼につく不思議な生きものとしての蝶は、後で小泉八雲が述べる通り、人間の魂(生きた人間から離脱した幽体或いは死者の霊魂)として強く意識された結果としての忌避が形成された考えてよい。京では古くは死者の遺体は郊外の野原に風葬・不十分に土葬されたが、そうした領域は蝶が市中より、より群舞する環境にあり、また、一部の蝶は遺体に群がることさえもあったかも知れぬ。そうした囲い込みがあれば、蝶が和歌からは厭避されて不思議でない。無論、以後、漢籍の多量の流入によって、「支那の敎への下に啓發された」本邦の蝶に対する逆ベクトルとしての嗜好的「國民的審美感情」が形成されたとする論説は少しも誤ってはいないと言える。小泉八雲自身、後段で「そんな信仰は或は支那そのものよりも古いものかも知れぬ」とも述べているのである。

「蝶夢」知られたところでは、江戸中期の時宗僧で蕉門の流れを汲む俳人蝶夢(享保一七(一七三二)年~寛政七(一七九六)年)がいる。名は九蔵。号は洛東・五升庵・泊庵など。京出身で京都帰白院の住職。当初は其角系の門人であったが、後に支麦(美濃派・伊勢派)系に転向し、その後、蕉風復興運動を志し,住職を辞し、明和五(一七六八)年、洛東岡崎に五升庵を結んだ。「芭蕉翁発句集」など芭蕉作品の集成・芭蕉墓所である義仲寺の護持・俳諧法要「時雨会(しぐれえ)」の主催など、芭蕉顕彰に力を注いだ(平凡社「百科事典マイペディア」他に拠る)。

「一蝶」英一蝶(はなぶさいっちょう 承応元(一六五二)年~享保九(一七二四)年)が知られる。江戸中期の画家で大坂の人。名は信香、朝湖と号した。江戸で狩野安信に入門し、後、岩佐又兵衛・菱川師宣らの風俗画をとり入れ,軽妙洒脱な画風を形成した。芭蕉・其角らの俳人や役者の市川團十郎ら、通人との交渉が多くあったが、将軍綱吉の生母桂昌院の周辺をも巻き込んだ醜聞事件に連座し、元禄一一(一六九八)年に三宅島に遠流となった。十一年後の宝永六(一七〇九)年に将軍代替わりの恩赦を受けて江戸に帰り、この時「英一蝶」と改めた(同前)。

「倭訓栞」「わくんのしほり」と読む。江戸後期の国語辞書。全九十三巻。谷川士清(ことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)編。彼の死の翌年安永六(一七七七)年に刊行が始まるが、最終的完成は谷川の死後実に百年余後の明治二〇(一八八七)年となった。全三編からなり、前編には古語・雅語、中編には雅語、後編には方言・俗語を収録する。第二音節までを五十音順に配列し、語釈を施して出典・用例を示す。よく整備されたもので、日本最初の近代的国語辞書とされる(以上は諸辞書の記載を綜合した)。

「てふ蝶をよむは音なり」『「てふ」〔と〕「蝶」を讀むは「音」なり。』の意。「蝶」には訓がない。

「相摸下野陸奧にてテフマ」小学館「日本国語大辞典」の「ちょうま(テフマ)」(漢字は「蝶馬」)にはここで引用されているものを「物類称呼」(江戸中期の方言辞書。全五巻。越谷吾山(こしがやござん)著。安永四(一七七五)年刊。諸国の方言を収集、天地・人倫・草木など七部門に分けて考証・解説を付したもの)として引く。

「津輕にカニベ又テコナ」「カニベ」は不詳だが、以下の小学館「日本国語大辞典」の記載によれば、「てこな」(漢字は「手児名・手児奈」)の記載中に、やはり「物類称呼」の『蝶 てふ』『津軽にて、かかべとも、てこなとも云』とあるから、ここは大谷のミスか植字工の誤植で、「カカベ」が正しいと考えてよい。「かかべ」を引くと、岩手県でも採取されている。一方の「テコナ」は「手兒(てこ)な」(なは美称・親愛の接尾語)で「可愛らしい幼児」のことから「蝶」の異名とする。小泉八雲も後段で述べいるように、悲劇の美少女「真間の手児奈」は万葉以来の古伝承であるから、陸奥のその愛称に無関係とは言えないが、特にそれと強く結びつけて考察する必要があるかどうかは微妙に留保する。であれば、伝承地である千葉やそこにごく近い江戸に於いて蝶を「てこな」と呼ぶことが行われ、異名として残っていてよい(「てこな」の音は美しい)と私は思うからである。]

 

 蝴蝶に關する日本人の奇妙不思議な信仰のうちで、其源を支那に發して居るものがあるといふことは、また有りさうな事である。が、そんな信仰は或は支那そのものよりも古いものかも知れぬ。一番興味ある信仰は生きて居る人間の魂が蝶の姿になつて、さまよひ步くことがあるといふのだらうと自分は思ふ。この信仰からして面白い空想が發展し來たつて居る。例へば、蝶が客間へ入つて來て、葭戶の裏へとまると、一番好きな人が會ひにやつて來て吳れるといふ考へなどそれである。蝶は誰れかの魂かも知れぬといふ事は、蝶を恐わがる理由にはなつて居らぬ。が然し、蝶でも非常に澤山に出て來て、それで人の恐怖心を惹起し得る時がある。現に日本の歷史にそんな出來事の記錄がある。平ノ將門が、その有名な謀叛を私かに[やぶちゃん注:「ひそかに」。]準備して居る時に、京都に莫大な蝶の群が現れたので、時の人は、この出現を凶兆と考へて大いに畏怖した。……多分、その時の蝶は、戰に死ぬる運命を有つて居つて、そして何か不可思議な死の前知らせの爲めに、戰爭のつい前に動搖を感じた、幾千の人の魂であると思はれたのであつた。

譯註四 吾妻鏡に「寳治元年三月十七日庚午、黃蝶飛、凡充滿鎌倉中、是兵革兆也、承平則常陸下野天喜。亦陸奥出羽四箇國之間、有其怪、將門貞任等及鬪戰訖。而今此事出來。猶若可有東國兵亂歟之由。古老之所疑也」とあり。

[やぶちゃん注:

底本は「吾妻鏡」のそれを「寬文五年」とするが、これは「寬元五年」の誤りで、さらに寛元五年は二月二十八日に宝治に改元しているので二重に誤っている。致命的な誤りなので、本文を特異的に訂した。「吾妻鏡」の寳治元(一二四七)年三月十七日のそれは以下。

   *

十七日庚午。黃蝶群飛【幅假令一許丈。列三段許。】。凡充滿鎌倉中。是兵革兆也。承平則常陸下野。天喜亦陸奥出羽四箇國之間有其怪。將門貞任等及鬪戰訖。而今此事出來。猶若可有東國兵亂歟之由。古老之所疑也。

○やぶちゃんの書き下し文

十七日庚午。黃蝶、群飛ぶ【幅は假令(たとへば)一許(ばか)りの丈(じやう)[やぶちゃん注:約三メートル。]、列は三段許り。】。凡そ鎌倉中に充滿す。是れ、兵革の兆しなり。『承平(じようへい)には、則ち、常陸・下野、天喜にも亦、陸奥・出羽四箇國の間に、其の怪、有り。將門・貞任等(ら)、鬪戰に及び訖(をは)んぬ。而るに今、此の事、出來(しゆつたい)す。猶ほ若(も)し、東國に兵亂有るべきか』の由、古老の疑ふ所なり。

   *

「承平」(六三一年~九三八年)の五(九三五)年に、藤原忠平の元家人で桓武天皇玄孫の平将門が亡き父良将の遺領を巡る紛争の末、伯父の平国香を殺し、「平将門の乱」の濫觴の淵源となり、将門は天慶二(九三九)年に常陸・下野・上野の国府を占領、一時、関東を支配下において「新皇」を称したが、翌年、平貞盛・藤原秀郷らに討たれた。「天喜」(一〇五三年~一〇五八年)は「前九年の役」の一つの特異点。平安後期に起った源頼義・義家による陸奥の俘囚長安倍氏討伐戦であるそれは長く続いた(古くは「奥州十二年合戦」と呼ばれた)。当時、陸奥六郡を支配して勢力のあった安倍頼良(頼時)が国府に貢賦を納めず、徭役(ようえき:無償強制労働及びその代替としての物納)も務めないことから、太守藤原登任(なりとう)、秋田城介平繁成らはこれを討伐しようと攻めたが、失敗、朝廷では永承六(一〇五一)年、源頼義を陸奥守に任じてこれを追討させた。頼良は一旦は帰服したが、頼義の守任期終了間際の天喜四(一〇五六)年に反乱を起し、頼義側の宿営を襲撃して衣川に拠った。頼義は重任して安倍氏征伐に当たり、翌年、頼良を敗死させたが、頼良の子貞任を中心にした安倍氏の結束が堅く、頼義らの苦戦は続いた。しかし、出羽の俘囚清原光頼・武則らの応援を得、康平五(一〇六二)年、漸く貞任を倒してこの乱を鎮定したのであった。「陸奥・出羽四箇國」は不審な表記。陸奥・出羽と、「四箇國」ではなく六郡(胆沢郡・江刺郡・和賀郡・紫波郡・稗貫郡・岩手郡の総称。現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域に相当)ならば史実に合う。「東國に兵亂有るべきか」この三ヶ月後に鎌倉幕府内のクーデタ「宝治合戦」(三浦氏の乱)が起こっている。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元(一二四七)年六月五日、鎌倉で武力衝突が発生、北条氏とその外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。但し、「吾妻鏡」は後代に編纂されたもので、北条氏の謀略が主導した同合戦の辻褄合わせをした可能性が高いと追われる。]

 が然し、日本人の信仰では、蝶は生きて居る人の魂のこともあるが、死人の魂のこともある。現に、最後に肉體を離れる事實を知らせる爲めには、魂は蝶の姿を採ることになつて居る。それで、その爲めに、どんな蝶でも家の中へ入る蝶は、深切に取り扱つてやるべきものである。

[やぶちゃん注:私は亡き母もそう言って、送り出していたのを思い出す。]

 通俗な戲曲の中には、上述の信仰竝びにをれに關聯したいろんな奇異な信仰を暗示して居る處が澤山に在る。例を舉げると、「トンデ―デル―コテフ―ノ―カンザシ」卽ち『飛んで出る蝴蝶の簪』といふよく人の知つて居る芝居がある。蝴蝶といふ美人があつて、無實の罪を著せられ、殘酷な取扱ひを受けるので自殺する。女の仇を討つてやらうといふ男がその非違の本人を長い間かかつて探すが分らぬ。然し到頭死んだその女の簪が蝶に變じて、その惡漢が隱れて居る場處の上を飛んで仇計ちの手きをする。

[やぶちゃん注:私は不学にして、ここに示された「『飛んで出る蝴蝶の簪』といふよく人の知つて居る芝居」の浄瑠璃・歌舞伎を知らない。識者の御教授を乞うものである。

「非違」(ひゐ)は法に背くこと。「非道」と同じい。]

 

 ――婚禮の場合に出て來るあの大きな紙製の蝶(雄蝶と雌蝶)は固より何等靈的な意義を有つて居るものと考へてはならぬ。象徵として、睦まじい合體の喜悅と、新婚夫婦が恰も樂しい庭園を輕輕と――或は飛び上り、或は舞ひ下りるが決して遠くは離れずに――翔る番ひの蝶のやうに一緖に、一生を過ごすやうにとの希望とを表すものに過ぎない。

[やぶちゃん注:小学館「日本大百科全書」の「雄蝶雌蝶(おちょうめちょう)」に『結婚式の杯事(さかずきごと)のときに使う銚子(ちょうし)や提子(ひさげ)につける、折り紙の雄雌の蝶のこと。通例は金銀や紅白の紙を蝶の形に折り、そこに金銀の水引(みずひき)で蝶の触覚をつけて用いる。婚礼の式場が普通の家に設けられる場合は、両親のそろった男女の子供が選ばれて、そこで新夫婦の杯に同時に双方から酒をつぐ。このため』、『雄蝶雌蝶の名称は、もとの意味から転じて、この』二『人の男女の子供をさしていう場合もある』とある。グーグル画像検索「雄蝶雌蝶」をリンクさせておく。]

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