フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 小泉八雲 平家蟹 (田部隆次訳) | トップページ | 小泉八雲 露の一滴 (田部隆次訳) »

2019/09/12

小泉八雲 螢  (大谷正信訳)

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“Fireflies”。「fly」には「dragonfly」(蜻蛉(とんぼ))のように蠅以外に飛ぶ虫の総称でもある)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“KOTTŌ”(来日後の第九作品集)の話柄数では十一番目に配されたものである。作品集“KOTTŌ”は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここから)。ホタル(昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ下目ホタル上科ホタル科 Lampyridae のホタル類)についての自在なエッセイである。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した。挿絵画家は既に述べた通り、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 原註は最後にポイント落ちで本文四字下げで纏められているが、本篇は少し長めなので、それぞれを適切と思われる本文内に同ポイントで行頭からとして移した。傍点「ヽ」は太字に代えた。なお、私は「蛍」という新字が生理的に嫌いなため、本注でも「螢」で表記した。

 途中に注を附したが、ちょっと膨大になった。小泉八雲の本文のリズムを阻害しているので、まずは私の注を飛ばして読まれんことをお薦めする。

 

Kotto_028

 

  



     

 

 自分は日本の螢のことを話したい。が、昆蟲學的にでは無い。諧君が然かあるべきであるやうに、此問題の科學的方面に趣味があるならば、目今、束京帝國大學で講義をして居られる生物學の一日本人敎授に啓蒙を求めらるべきである。その敎授は Mr,S. Watase(S といふ字はその名前の Shōzaburō を表はして居る)と自署されるが、敎授は亞米利加で學生をして居られ、又、敎授もして居られた人で、その數數の講義が――動物の燐光、動物の電氣、昆蟲及び魚類の發光器官、その他生物學の驚くべき題目に就いての講義が彼地で出版になつて居る原註一。敎授は螢の形態、螢の生理、螢の光度測定、その發光物質の化學、その光りの分光器的分析、及びエエテル振動の語辭でのその光りの意義に就いて知られて居る一切のことを語り得る人である。温度と環境との條件が尋常な場合には、日本の螢の或る一種が出す光りの脈搏は、平均一分間に二十六であること、此蟲が捕へられて怯えると、俄に其率が上つず一分間に六十三となることを、實驗によつて敎授は諸君に示し得られる。それから又敎授はもつと小さい或る他の種類の螢は、手で捉へると、其光りの脈搏の數を增して、一分間に二百以上にも上す[やぶちゃん注:「のぼす」。]ことを證明し得られる。敎授は、此光りは、多くの厭はしい毛蟲や蝶の『警戒色』同樣、此蟲にとつて或る保護的價値のあるものか名知れぬ、螢は味はふと非常に苦いもので、鳥はこれを食へぬものと見て居るらしいからと、かう述べられる。(敎授の云つて居られるに、蛙は味のまづいのに頓著はしないもので、蠟燭の炎の光りが瀨戶の壺を透して明るく見えると殆んど同じやうに、光りが腹を通ほして輝くまでに其冷たい腹へ螢を一杯に詰め込む)然し保護的價値があるか無いかは知らぬが、種種な方法に――例へば光線電信として――微小なダイナモが使用されて居るやうに思はれる。他の昆蟲が音響で或は觸感で交話するやうに、螢は其感情を光りの脈搏で發言する。其談話は光りの言語である。……自分は決して純學術的なものでは無い敎授の其講義の性質に就いて二三の暗示を諸君に與へようとして居るだけのことである。そして自分の此非科學的な隨筆の最も好い部分――殊に日本に於ける螢の捕獲竝びに販賣に關した部は、敎授が昨年東京で日本の聽衆に向つてされた面白い講演に負うて居るのである。

原註一 渡瀨敎授はジョンス・ホプキンス大學の卒業生である。この論文が書かれてから、その螢に關する通俗な日本語講演が美くしい單行本で再出版になつて居る。その色刷の口繪――螢が夜、柳の枝に止つて居る處を示したもの――だけでもその書の代價の價値がある。

[やぶちゃん注:渡瀬庄三郎(文久二(一八六二)年~昭和四(一九二九)年)は動物学者。江戸生まれの名前は「荘三郎」とも表記する。東京帝国大学動物学教室第五代教授で日本哺乳類学会初代会頭。東京英語学校・東京大学予備門を経て明治一三(一八八〇)年に札幌農学校に入学、明治一七年に卒業し、東京大学動物学科撰科生となった。明治九(一八八六)年、アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学(Johns Hopkins University:メリーランド州ボルティモアに本校がある私立大学)に留学し、一八九〇年に博士号を取得、以後、クラーク大学講師・シカゴ大学教授として細胞学・比較組織学を研究した。明治三二(一八九九)年に帰国し、東京帝国大学動物学科講師となり、明治三四(一九〇一)年に同教授となって大正一三(一九二四)年まで務め、発光動物(ホタル・ホタルイカ)を研究するとともに、生態学・動物地理学にも関心を示し、「渡瀬線」(屋久島・種子島と奄美大島間の生物分布境界線)を発見した。また、史跡名勝天然記念物調査会委員として固有動物の保護に努める一方、ネズミやハブ(爬虫綱有鱗目クサリヘビ科ハブ属ハブ Protobothrops flavoviridis)駆除のためのマングース(哺乳綱食肉目マングース科エジプトマングース属フイリマングース Herpestes auropunctatus:ミャンマー・中国南部・バングラデシュ・ブータン・ネパール・インド・パキスタン・アフガニスタン・イランを原産地とする)の移入(明治四三(一九一〇)年。但し、失敗(マングースは殆んど鼠や蛇を捕食しなかった)で現在の深刻な生態系攪乱を惹起させた)、食用蛙(両生綱無尾目アカガエル科アメリカアカガエル属ウシガエル Lithobates catesbeiana)の移植(大正七(一九一八)年。ルイジアナ州ニューオリンズから移植し、私の住む大船の岩瀬地区に最初の養殖場を作った。しかし、ここが洪水で決壊したりして、牛蛙とその餌用にやはり移入された甲殻綱十脚(エビ)目ザリガニ下目アメリカザリガニ科アメリカザリガニ属アメリカザリガニ亜属アメリカザリガニ Procambarus(Scapulicambarus) clarkii が流出、孰れも日本全土に広がってしまった)、キツネ養殖の指導、捕鯨法の歴史学的研究など、応用動物学方面でも活躍した(ここは小学館「日本大百科全書」を主文として使用したが、私は、公的許可に基づく外来種移入(以上だけではなく他にも問題のある外来種移入が数種ある)の御用学者として、生体系破壊の元凶的な非常に問題のある人物と考えているので、大幅に私の見解を加えてある)。彼の明治(一九〇二)年(本書と同年。但し、本書刊行の一ヶ月後)開成館刊「學藝叢談 螢の話」は国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める。]



     

 

 今日書かれて居る螢(ホタル)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]といふ日本の名は、表意文字學の方から見ると、蟲といふ記號の上へ、火といふ記號を二つ竝べた字で出來て居る。しかし、この語の眞の起源は疑はしいので、種種な語原說明がこれまで提出されて居る。古代に在つては此稱呼は『火の初兒[やぶちゃん注:「うひご(ういご)」と読んでおく。]』といふ意味であつたと考へて居る學者がある。一方ではまた、もと『星』といふ意味の綴音と『垂れる』といふ意味の綴音と、二つ合して出來たものだと信じて居る學者がある。かく提出されて居る二つの由來のうち、遺憾ながらより詩的な方が一番尤もらしく無いものと思惟されて居る。だが、ホタルといふ語の最初の意味は何であつたにせよ、今なほ此蟲に與へられて居る、或る民間名稱が浪漫的性質を有つて居ることに就いては、何の疑ひも有り得ない。

[やぶちゃん注:「螢」という漢名は「虫」に「熒」(音「ケイ」)を組み合わせたもので、「熒」は「めぐらした篝火」が原義で、転じて「小さな光り」の形容でもある。しかし本来は「篝火・松明(たいまつ)のような光を発する虫」の意である。不審に思われるかも知れぬが、中国産のホタルには巨大で強く大きな光りを発する種がいる。かの芥川龍之介も大正一〇(一九二一)年(三月から七月)の毎日新聞社特派員の肩書で行った中国旅行の際に見ており、『ふとあたりを透かして見ると、何時か道が狹くなつた上に、樹木なぞも左右に茂つてゐる。殊に不思議に思はれたのは、その樹の間に飛んでゐる、大きい螢の光だつた。螢と云へば俳諧でも、夏の季題ときまつてゐる。が、今はまだ四月だから、それだけでも妙としか思はれない。おまけにその光の輪は、ぽつと明るくなる度に、あたりの闇が深いせいか、鬼灯(ほほづき)程もありさうな氣がする。私はこの青い光に、燐火を見たやうな無氣味さを感じた。と同時にもう一度、ロマンテイツクな氣もちに涵(ひた)るやうになつた』と述べている。私の「江南游記  四 杭州の一夜(中)」の本文及び注を是非、参照されたい。注に施したリンクで巨大ホタルの画像も見られる。

「『火の初兒』といふ意味であつたと考へて居る學者がある」これは曲亭馬琴が文化八(一九一一)年に板行した「燕石雑志」の巻之一の「物の名」に『ほたろは火太郎(ほたらう)なり』とあるそれであろう。

「『星』といふ意味の綴音と『垂れる』といふ意味の綴音と、二つ合して出來たものだと信じて居る學者」貝原益軒の「大和本草」(宝永七(一七〇九)年刊)の巻十四の「螢火」に『「ホ」ハ「火」ナリ。「タル」ハ「埀」也。下體光ル故、名トス。』(句読点や記号は私が補った。以下同じ)とある。同書を批判した小野蘭山述の「重訂本草綱目啓蒙」(弘化四(一八四七)年刊)の「螢火」には、それを引用した後に『一説ニ、「星垂ル」ノ意ナリト云リ』と記す。小学館「日本国語大辞典」の「ほたる」の語源説パートを見るに、一番に『ホタリ(火垂)の転』として「和句解」・「日本釈名」・「大言海」を挙げているし、私自身も、身体から火を垂らす「火垂(ほたる)」説でよいと思う。]

 廣く日本に分布して居る螢が二種ある。これは一般にゲンジボタル及びヘイケボタル卽ち『源氏螢』及び『平家螢』と呼ばれ來つて居る。此二種の螢は、古の源氏と平家の武士の幽靈で、蟲の姿形で居ても、かの十二世紀の恐ろしい氏族戰爭を覺えて居て、每年一度四月二十日の晚原註二、宇治川で大合戰をする、かう或る傳說は主張する。だから、その晚にはその合戰に加はり得られるやうに、籠の螢は放してやらねばならぬといふ。

原註二 これは舊曆の四月二十日。新曆に據ると、螢合戰は餘程後になる。昨年(千九百一年[やぶちゃん注:明治三十四年。])は六月の十日であつた。[やぶちゃん注:今年(二〇一九年)では五月二十四日である。本邦の代表種で最も優勢に棲息するホタル科ゲンジボタル属ゲンジボタル Luciola cruciata の場合は成虫は五月から六月にかけて発生するが、その前の蛹の後期(既に皮から上陸して泥の中にいる)、皮膚越しに成虫の黒い体が浮かび上がるようになると、発光も始まるので、何ら不審はない。]

[やぶちゃん注:「ゲンジボタル及びヘイケボタル」ゲンジボタルウィキの「ゲンジボタル」によれば、『成虫の体長は15mm前後で、日本産ホタル類の中では大型の種類である。複眼が丸くて大きい。体色は黒色だが、前胸部の左右がピンク色で、中央に十字架形の黒い模様があり、学名のcruciataはここに由来する。また、尾部には淡い黄緑色の発光器官がある。オスとメスを比較すると、メスのほうが体が大きい。また、オスは第6腹節と第7腹節が発光するが、メスは第6腹節だけが発光する。日本で「ホタル」といえばこの種類を指すことが多く、もっとも親しまれているホタルである』。『成虫の期間は2-3週間ほどしかない』。『日本固有種で、本州、四国、九州と周囲の島に分布し、水がきれいな川に生息する』。『幼虫は灰褐色のイモムシのような外見で、親とは似つかないが、すでに尾部に発光器官を備えている。幼虫はすぐに川の中へ入り、清流の流れのゆるい所でカワニナ』(腹足綱吸腔目カニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina)『を捕食しながら成長する。カワニナを発見すると軟体部にかみつき、消化液を分泌して肉を溶かしながら食べてしまう。秋、冬を経て翌年の春になる頃には、幼虫は体長2-3cmほどに成長し、成虫よりも大きくなる』。『春になって充分に成長した幼虫は雨の日の夜に川岸に上陸する。川岸のやわらかい土にもぐりこみ、周囲の泥を固めて繭を作り、その中で蛹になる』。和名は『平家打倒の夢破れ、無念の最期を遂げた源頼政の思いが夜空に高く飛び舞う蛍に喩えられた。 平家に敗れた源頼政が亡霊になり』。、蛍となって戦うと言う伝説があり、「源氏蛍」の名前もここに由来している』。『また、腹部が発光する(光る)ことを、「源氏物語」の主役光源氏にかけたことが由来という説もあ』る。『より小型の別種のホタルが、最終的に源平合戦に勝利した清和源氏と対比する意味で「ヘイケボタル」と名づけられたという説もある』とある。一方のヘイケボタル(ゲンジボタル属ヘイケボタル Luciola lateralis)は『ゲンジボタルより小型で、より汚れた水域にも生息する。ゲンジボタルが日本固有種なのに対し、東シベリアや朝鮮半島などにも分布する。また、ゲンジボタル、クメジマボタルと並んで幼虫が水中棲息するホタルであり、日本産水生ホタル3種の中では最も小型である』。『名称は、ゲンジボタルとの対比で、似ているがより小型であることからの名づけられたものと思われる。ゲンジボタルが渓流のような清冽で、流れのはやい水域に生息するのに比べ、ヘイケボタルは水田、湿原といった止水域を主たる繁殖地としている。幼虫の餌になるのは、止水に生息するモノアラガイ』(腹足綱直腹足亜綱異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科モノアラガイ属イグチモノアラガイモノアラガイRadix auricularia japonica)『などである』。『雄の光の点滅の速さはゲンジボタルより明らかに早く、明滅時に星が瞬くような光り方をする。発生期間も長く、2種が同じ水域で発生することも多い。山間部の農村では、水田周辺に本種が、河川付近にゲンジボタルが発生し、実際には両者が一部で入り交じって発光する。ただし、ゲンジボタルのように、短い期間に集中的に発生することが少なく、発生は長期に渡るが密度は高くならないのが普通である』。『かつては水田周辺ではどこでも簡単に見られたものだが、水田への農薬散布や水田周辺の環境変化に伴い、生息環境が狭められている』とウィキの「ヘイケボタル」にある。また、源氏・平家については、柳田國男は「蟷螂考(とうろうこう)」(昭和二(一九二七)年九月『土のいろ』初出)の「八」でこの「源氏」説を一蹴している。そこではカマキリの異名考察から脱線して、トンボの異名を語った中で、『動物のゲンザをもって呼ばれるもので、いちばん著名なのは蜻蛉である』とし、その中で「ゲンザッポウ」というトンボの異名を示し(引用は「ちくま文庫」版全集第十九巻に拠った。踊り字「〱」は正字化した)、

   *

『常陸国誌』にはケンザッポウは蜻蛉の小さきものとある。しかるに近江滋賀郡の鵜川村などでは、最も大なる蜻蛉をゲンジというのである。蛍なども一種大形の光る部分に横筋のあるものを、ゲンジという地方は多い。字にはよく源氏蛍と書いているけれども、それは理由のないことである。児童の蛍捕りの唄は各地一様でないが、多くは、

   ほうたる来い、山ぶし来い

 または山吹(やまぶき)来い山吹来いとも歌っている。その山吹もしくは山臥(やまぶし)が、右にいうゲンジ蛍のことらしくて、しかも誰もまだどうしてそういうかは考えていなかった。沖縄県でも宮古(みやこ)の諸島だけは、蛍をヤンプまたはエンブという語があるから、あるいは別の説明も付くかも知れぬ。しかし自分のみはゲンジ(験師)だからすなわち山伏ともいうので、何かは知らずこの大形の蛍だけに、一種の力を感じていた名残かと思っている。蜻蛉のゲンザに至っては、ことに験者(げんざ)という名称の依り所があったと思う。験者とは修験者、祈禱師または魔術者を意味して、古く俗間にも用いられた語である。一つには眼の畏ろしさ、二つには見かけ以上に軽捷(けいしょう)であって、よくいろいろの生き物を襲い殺す。ゆえに蟷螂にもまた蜻蛉と同じく、験者という名を命じたのが、後に普通の源太等に、なってしまったのではあるまいか。ゲンべという言葉は福井県のどこかで、動物の荒く強いことを意味しているが、それはあるいは関係のないことかも知れぬ。しかし遠州小笠郡の大洲(おおす)村などで、鴉(からす)のことをゲンジ、また東京あたりのゲジゲジという虫の名のごときは、多分同じ趣旨の験者から出た名であろう。ゲンザの問題を起した越中でも常陸でも、ともにそのゲジゲジをカジワラといっているが、やはりこれもいやな奴という意味であろう。すなわち気味が悪いゆえに嫌われたのである。

   *

と述べている。ここで柳田は「げんじぼたる」の「げんじ」は虫のくせに不思議な光を放って飛ぶ(火の玉のような)霊的な力を持った修「験者」の意であると言っているのである。一見、牽強付会の気もしないでもないが、実は荒俣宏氏は「世界大博物図鑑1 蟲類」(平凡社一九九一年刊)の「ホタル」で、これを取り上げられて概説した後(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『これに関して昭和初期に名著《ホタル》を刊行した生物学者神田左京』(明治七(一八七四)年~昭和一四(一九三九)年:長崎生まれ。東京で英語教師をしていたが、三十三歳で渡米し、生物学を勉強して四十一歳で帰国するも、定職に就かず、在野でホタル研究に没頭、「私は螢と心中する」と妻帯もしなかった。英国学会からの会員慫慂や皇室の進講の誘いにも「権威は嫌い」と悉く断ったという。生活は彼を理解する少数の篤志家による援助のみで赤貧洗うが如き生活の中、昭和一〇(一九三五)年に「ホタル」を自費出版した。これは未だにホタル研究家の間では聖典とされる名著だそうである。以上はcamus氏のブログ「オフサイト」の「わたしはホタルと心中する 神田左京」に拠った)『は、あるいは山伏がホタルを燈火がわりに使っていたために、両者を結びつけて考える習慣が生まれたのかもしれない、としている』とあり、さらに『ゲンジボタル、ヘイケボタルというよび名が生れたのは比較的後代のことらしく、虫の各地の方言を集めた小野嵐蘭山の《本草綱目啓蒙》にも、このふたつの名はみあたらない。神田左京《ホタル》によると、昔はゲンジボタルはウシボタル、オオボタル、イッスンボタル、宇治ボタルとよばれ、ヘイケボタルはユウレイボタル、ネンネボタルなどとよばれていた。ここより神田は、ゲンジ・ヘイケの名は明治以降に生まれたもので、その後地方に赴任した小学校教員などの影響で徐々にひろまっていたのではないか、としている』(この近代誕生説は後藤好正氏の論文「ゲンジボタル和名考~江戸文学の視点から~」の「江戸時代にゲンジボタルという呼び名はあったか」の考証を見ても江戸期の成立はまず否定される)。『神田左京はまた、《源氏物語》の主人公光源氏が、〈光る源氏〉すなわちゲンジボタルという名の誕生に少なくとも間接的に関わっているはずだ、としている。そしてゲンジボタルの名ができたあと、ヘイケボタルという名は源平合戦の連想から生まれたのだろう、と結論した(〈ゲンジボタル、ヘイケボタルの和名に就いて〉《動物学雑誌》』。また、『さらにゲンジボタルの名は、《源氏物語》の〈源氏螢の光を借りて玉蔓(たまかずら)の容姿を示す〉という』シークエンス(第二十五帖「螢」)に『由来するという説もある(大場信義《ゲンジボタル》)』ともあり、加えて『〈顕示〉ボタルの意味だと解する人もいる。暗闇で光を放ち、みずから存在を顕示しているからだそうだ(三石暉弥《ゲンジボタル 水辺からのメッセージ》)』と書き添えておられる。こう語られると、「源氏」はその光の如く妖しい感じがしてはくる。ここまで書いて、ある検索を掛けていたところ、後藤好正氏の論文「ゲンジボタル和名考~江戸文学の視点から~」(二〇一七年三月発行『豊田ホタルの里ミュージアム研究報告書』第九号所収・PDF)というのを見つけた。そこでは五説(顕示説・山伏(験師説・源氏物語説・源頼政亡魂説・螢合戦説)についてかなり細かな解説がなされており必見なのだが、「螢合戦説」は小泉八雲の以上の段落の最後の語りと関わるので引用しておく(ピリオド・コンマを句読点に代え、注記号は省略した)。

   《引用開始》

 小西(1999)は神田の源氏物語説を紹介した後で、「往時はホタルが川の上で集団群飛するのを「螢合戦」と呼び、これを源平の合戦に見立てたということも考えられる」と、螢合戦が語源である可能性についても示唆している。この説は古く、ジャーナリスト・著作者・文化史家等として知られる宮武外骨の著書『面白半分』の「螢合戦は恋の争い」の文中に、「此美観を螢合戦と称し随つて源氏螢、平家螢の名も出來たのであるが(宮武、1923)」とある.また,平凡社刊『世界大百科事典(改訂版)』の〔ホタル・民俗〕の項には「ホタルの大きいものを源氏螢,小さいものを平家螢というのは螢が乱舞する様子を螢合戦とよんで合戦にみたてたところから出たらしく(千葉、2005)」と、東京堂出版刊『民俗辞典』の〔螢狩〕の項でも「戦国時代には,螢が交尾のために入り乱れて飛びかうさまを螢合戦といっているが,源氏螢・平家螢の名はここからでたものであろう(森末、1957)」と,それぞれ螢合戦を名前の由来としている。この説は、螢合戦を源平争乱になぞらえることにより、ゲンジボタルだけでなくヘイケボタルの名の由来を説明できるという利点がある。しかし、螢合戦を戦国時代の合戦で亡くなった武将や兵士の亡魂とする地方も少なくなく、源平の合戦に見立てたとするだけではやや説得力にかけるきらいがある。

   《引用終了》

なお、筆者の後藤氏は以下、江戸文学を根拠として「源氏物語説」と「源頼政亡魂説」を評価しておられ、その考証は緻密で説得力がある。是非、読まれたい。他に、萩原義雄氏の『「螢 Cruciata di Luciola」のこと』PDF)というものも、語源考証や各種の螢を載せる文献の渉猟がなされたもので必見である。]

 

 源氏螢は日本の螢の中で一番大きなもの――琉球諸島を含めないで、少くとも日本本土での一番大きな種である。九州から奥州に至る日本の殆んど到る處に居る。平家螢はもつと北に亘つて居て、殊に蝦夷に普通であるが、中部幷びに南部諸國にも居る。源氏螢より小さくて、あれよりも弱い光りを放つ。束京、大阪、京都その他の都會で蟲商人が普通賣る螢は大きい方の種類である。日本の觀察者は、此兩方ともその光りは『茶色』(チヤイロ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]と記載して居る。葉の性質がいい場合には、普通日本で茶を湯に滲ました色は、澄んだ綠がかつた黃である。然し立派な源氏螢が放つ光りは非常に光輝のあるもので、餘程眼の鋭い人で無ければ、その綠色は見分けられぬ。一寸見ると、その閃きは木を燃やした火の炎のやうに黃色に見える。次記のホツクはその强い光りを讃め過ぎては居ない、

 

   篝火も螢もひかる源氏かな原註三

原註三 カガリビといふ言葉は、よくボンフアイアと譯すが、此處では、或る祭禮の折、田舍町や村の門邊門邊の前で焚く、気を燃やしての小さな火を指す。盆踊りの間には歸つて來る魂を迎へんい田舍の方方で燃やされる。

[やぶちゃん注:冒頭、小泉八雲は慎重を期して書いているが、ゲンジボタルは本邦の最大種である。なお、本邦には約四十種のホタルがいる。

 以上の句は立圃(りゅうほ)の作。野々口立圃(文禄四(一五九五)年~寛文九(一六六九)年)は京生まれの江戸前期の俳人。名は親重。通称、庄右衛門。別号に松翁・松斎など。家業により雛屋(ひなや)と称し、別に紅屋ともいった。貞門の古老的存在であったが、「犬子集(えのこしゅう)」(寛永一〇(一六三三)年板行)の編集で同門の重頼(しげより)と争い、師の下を去り、以後、独自で優雅な俳風を確立。京から江戸・福山・大坂などに移り住み、多くの門人を育てて、晩年はまた、京に戻った。早くより連歌や和歌を学び、古典にも精通して、「源氏物語」の梗概書「十帖源氏」「おさな源氏」の著もある。絵画にも優れ、その軽妙な筆致は俳画の祖と称されている(小学館「日本大百科全書」に拠る)。まさにその松江重頼編・立圃序の「犬子集」所収の句。如何にも「源氏物語」通の立圃らしい仕立てではある。「源氏物語」の帖名「篝火」(第二十七)と「螢」(第二十五)で、孰れも玉蔓絡みの印象的な帖である。但し、それに「螢」「ひかる」と「光源氏」を掛けただけの洒落に堕したもので実景性に乏しい。なお、これはゲンジボタルの「源氏物語説」の有力な傍証とされるものである。]

 

 源氏螢及び平家螢といふ名稱は、今なほ一般に使用されては居るけれども、兩方とも他の俗名で知られて居る。國國で名を異にして、源氏はオホボタル卽ち『大螢』、ウシポル卽ち『牛螢』、クマボタル卽ち『熊螢』、それからウヂボタル卽ち『宇治螢』と呼ばれて居る。普通の西洋人には面白味が分るまいと思ふが、コムソウボタルとか、ヤマブキポタルとかいふやうな、繪のやうな名稱は言ふまで名無い。平家螢はまたヒメボタル、卽ち『姬螢』、ネンネボタル卽ち『ねんね螢』、それからユウレイボタル卽ち『幽靈螢』と呼ばれて居る。だが、上記のは手當たりに遊んだ見本に過ぎぬ。殆んど日本到る處に、この蟲の特別な俗の名があるのである。

 

 

     

 

 螢で有名な處――ただ螢を眺めて樂しむ爲めに夏時、人が行く處――が日本に多い。往古はそんな場處のうち一番有名であつたのは、近江の湖水近くの石山といふ小さい谷であつた。今でもホタルダニ卽ち螢谷と呼ばれて居る。元祿(一六八八――一七〇三)前には、蒸暑の季節のあひだ、此谷での螢の群集は、日本の自然的不思議の一つに數へられて居たものである。螢谷の螢は今でも大きいので有名であるが、古の作者が記述して居るその不思議な群集は最早、そこで見ることは出來ぬ。現今では螢で一番名高い處は、山城の宇治附近である。宇治は、あの有名な茶處の中心にある小綺麗な町で、宇治川に臨んで居て、その茶に名高いのに劣らずその螢で名高い。每夏京都及び大阪から宇治へ特別列車が發せられて、螢の見物人を幾千人と運ぶ。だが、その非常な美觀を――ホタルカツセン卽ち螢合戰を目擊し得るのは、町から數哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは千六百九メートル。この町とは大津のことであろう。直線でも大津市街から五キロ以上ある。]距つた地點の、川の上である。川の流れは其邊は草木に蔽はれた小山の間をうねりくねつて居て、數千萬の螢が、兩岸から矢の如く飛び出して、水上で出會つて絡み合ふ。時には非常に群れ集つて、見る眼には光つた雲か、火花の大きな球かと思ふ程のものに成る。其雲は直ぐに散る。或は其球は落ちて流れの表面で碎けて、其落ちた螢は光りながら流れ去る。だが、直ぐと又別な群集が同じ場處で集まる。見物人は終夜、河上に船を浮べて此稀有の光景を眺める。ホタルカツセンが濟むと、宇治川は漂ひ流れる螢のなほ煌煌(きらきら)と光つて居る軀(むくろ)に滿面蔽はれてミルキイヱイ[やぶちゃん注:原文“the Milky Way”。]のやうな、卽ち日本人がもつと詩的に言うて居る言葉の天の川のやうな、觀を呈するといふことである。

 有名な女詩人加賀の千代が、

 

   川ばかり暗は流れて螢かな

 

といふ句を作つたのは、多分、そんな光景を見た後のことであつたらう。

[やぶちゃん注:「近江の湖水近くの石山といふ小さい谷であつた。今でもホタルダニ卽ち螢谷と呼ばれて居る」現在の滋賀県大津市螢谷(ほたるだに)(グーグル・マップ・データ)。寺島良安の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螢」(リンク先は私の電子化注)に、

   *

江州石山寺〔(いしやまでら)〕の溪谷(たに)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]【「試(こゝろみ)の谷」と名づく。】、螢、多くして、長さ、常の倍なり。因りて其處を呼びて「螢谷」と名づく。北は勢多橋に至る【二町許り。】。南は供江瀬〔(くがうのせ)〕に至る【二十五町。】其の間、群(むらが)り飛ぶこと、高さ十丈許り、火〔の〕熖(ほのを)のごとく、或いは、數百、塊(かたまり)を爲し、毎(まい)芒種の後(のち)五日より、夏至の後五日に至るまで【凡そ十五日。】、盛りと爲す。風雨無くして甚だ晴れざる夜、愈々多し。但し、北は橋を限り、東は川を限りて、甞て、之れ、有らず。又、時節を過ぐるときは、則ち、全く、之れ、無し。其の螢、下〔りて〕山州宇治川に到りて【約三里許り。】、夏至・小暑の間、盛りと爲〔す〕。然れども、石山の多〔き〕には如〔(し)〕かず。此れも西は宇治橋を限りて、下(さが)らざるなり。俱に一異と爲すなり。茅根〔(かやのね)〕・腐草の化する所は常なり[やぶちゃん注:ここは植物が螢となるという化生説である。医師で博物学者であった良安だが、彼は結構、トンデモ化生説の信望者である。]。此の地は特に茅草〔(かやぐさ)〕の多からず、俗に以つて、源の頼政の亡魂と爲〔(す)〕るも亦、笑ふべし。此の時や、螢見の遊興、群集〔(ぐんじゆ)〕にして、天下の知る所なり。

   *

とある(〔 〕は私が添えたもの。歴史的仮名遣の誤りや漢字表記は原典のママである)。

「加賀の千代」加賀千代女(元禄一六(一七〇三)年~安永四(一七七五)年)は加賀の松任(まっとう)の表具屋福増屋六左衛門(一説に六兵衛)の娘。美人の誉れが高かった。五十一歳頃に剃髪して千代尼と呼ばれた。半睡・支考・廬元坊らの教えを受けた。通説では十八歳の頃に金沢藩の足軽福岡弥八に嫁し、一子をもうけたが、夫や子に死別して松任に帰ったとも、結婚しなかったという説もある。

「川ばかり暗は流れて螢かな」「暗」は「やみ」。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」で同句集の写本を見たが(ここ)、

 川ばかり闇は流れて螢かな

が表記としては正しいようである。「千代尼句集」所収。ロケーションは不明だが、非常に優れた句である。]



     

 

 夏の幾月の間、螢を捕りそれを賣つて、生計を營む人が日本には多い。この商賣は範圍が廣いから當然、一種特別な生業[やぶちゃん注:「なりはひ(なりわい)」。]と思つていい程である。この生業の重もな[やぶちゃん注:「おもな」。]中心點は、江州の琵琶湖吽の、石山附近一帶の地で、そこの數多[やぶちゃん注:「あまた」。]の家が、日本の方方[やぶちゃん注:「はうばう(ほうぼう)」。]へ、殊に大阪と京都との大都市へ、螢を供給する、その重もなる家では、この忙しい季節中、一軒で六十人から七十人の螢捕りを傭ふ[やぶちゃん注:「やとふ」。]。この職業には訓練が要る。未熟者は一と晚のうちに、百匹捕へるのは容易ならぬ事と思ふかも知れぬが、熟練家は三千匹は捕るといふ。捕獲の法は單純極はまつたものだが、見では甚だ興味あるものである。

 日が暮れると直ぐ、螢捕りは、長い竹竿を肩にかつぎ、鳶色の蚊帳布の長い袋を、帶のやうに、腰のあたりに纏うて出かける。螢がよく往來する木立のところ――普通は川か湖水かの土手の、柳の木の植わつて居るところ――へ行き著くと、立ち止つて、その樹を見守つて居る。もう十分と思ふ程、その樹に光りがちらつき出すと、其網を用意して、一番よく光る木へ近寄つて行つて、その長い竿で枝を打つ。螢はその打擊で打ち拂はれると、もつと活潑な蟲が同じ事情の下でするやうに、直ぐに飛ぶことはしないで、甲蟲同樣、意氣地無くも地面へ落ちる。そしてその光りが――恐ろしい或は苦しいと感じた瞬間はいつも常よりか鮮かなその光りが――蟲を目だたせる。四五秒も地面にじつと居らして置けば飛び去る。然し螢捕りは、驚くぱかりに迅速に、一度に兩手を使用して、拾ひ上げて、手際よく口の中へ投げ込む――一つ一つ袋へ入れるに要(かか)る時間が惜しいからである。口にもう入らぬやうになつてからやつと、何の怪我も螢に與へずに、袋の中へ吐き落とす。

 かくして螢捕りは螢が樹木を去つて露に濡つた地面をさがす朝の二時頃――昔の日本で幽靈の出る時別まで働く。螢は人目に見えずに居るやうに、地面へその尻を埋めるといふことである。だが、今度は螢捕りはその兵略を變更する。竹の箒で、輕くそして速く、芝生の表面を掃く。箒が觸れるかそれに驚くかすると、螢はいつもその提燈を出して見せて、早速、撮み[やぶちゃん注:「つまみ」。]取られて袋へ入れられる。夜明け少し前に螢捕りは町へ歸る。

 螢商店では、捕つた螢を――光りの强い程値が高いから――其光りの强弱によつて出來るだけ早く擇(よ)り分ける。それから紗張りの箱か籠かへ、其一つ一つに濡らした草を少し入れて、入れる。等級に應じて二つの籠へ百から二百入れる。この籠へ、購客の名――旅館の持主、料理屋の主人、卸賣りまた小賣りの螢商人、それから特殊の饗宴用に多數の螢を注文する私人、などの名――を書いた小さな木札を附ける。其箱をば――此種の荷物は通運會社へ依賴しては不安心だから――敏速な使者でそれぞれ宛名先へ急送する。

 夏期、夜の宴會に、人に見せる爲めに、非常に澤山の螢が注文される。日本の客間の大きなのは通例庭園を見晴らして居る。そして蒸暑い季節に行ふ宴會とか、他の夜の饗應(もてなし)とかの間、お客がそのきらきら光るのを見て樂しむやうにと、日沒後、庭園へ螢を放すことが慣習になつて居る。料理屋の主人が澤山に買ふ。大阪の有名な道頓堀には、蚊帳布で取り卷いた廣い場處に幾百萬といふ螢を飼うて居る家が一軒あつて、其處の顧客はその圍ひの中へ入つて、一定の數だけ捕つて持ち歸つてもいいことにされて居る。

 

 生きで居る螢の卸し値は、季節と品質に應じて、百について三錢から十三錢を往來する。小賣り商人は籠に入れて賣る。東京では螢入りの籠一つの値が、三錢から幾弗[やぶちゃん注:「ドル」。本書刊行は明治三五(一九〇二)年であるが、この頃の為替レートは一ドルは約二円で、これは現代に換算すると四万円ほどである。]までもある、一番廉い[やぶちゃん注:「やすい」。]籠で、螢が三匹か四匹しか入つて居ないのは、二吋[やぶちゃん注:「インチ」。約五センチ。]四方を出ぬ位の大いさだが、高價な籠――竹細工の眞に不思議な品物で、美しい飾りのあるの――は鳴禽の籠ほどの大いさである。形面白い或は風變な――家屋の模型だとか、帆船だとか、お寺の提燈とかの――螢籠は三十錢乃至一弗の價で買へる。

 死んで居ても、生きて居ても、螢は金になる。螢は一體弱い蟲で、閉ぢ籠めて置くと暫時しか生きて居らぬ。蟲店で死ぬる數は大したもので、或る有名な蟲屋は一と季節に五升を下らぬ――卽ち一ペツク[やぶちゃん注:“peck”。ぺック。穀物などの乾量単位で約九リットル。例えば、米だと七・五キログラム弱。]許りの――螢を始末するのださうなが[やぶちゃん注:「だが」の誤植と思われる。]、それは大阪の製造會社へ賣るのである。以前は煉藥[やぶちゃん注:「ねりぐすり」。]や丸藥の製造に、それから又漢方に特有な藥品の調製に、現今よりも、もつと餘計に螢を使用したものである。今日でも螢から成る妙な越幾斯[やぶちゃん注:原文“extracts”(「イクストラクト」)。「抽出物・エキス・エッセンス・エキス剤」のこと。]を取る。その一種のホタルノアブラ卽ち螢脂といふのは、竹を曲げて造つた品物を硬ばらせる[やぶちゃん注:「こは(わ)ばらせる」。]目的に、指物屋が今でも使用して居る。

[やぶちゃん注:幾つかのフレーズで検索してみたが、現行の漢方薬には使用されていない模様である。螢の発光は「ルシフェリン(luciferin)―ルシフェラーゼ(luciferase)反応」(後者の酵素によって酸化されて発光。因みに、この名は「堕天使・悪魔」である「ルシファー」(Lucifer:原義は「光りをもたらす者」である)に由来する)によるが、ルシフェリンに特殊な薬学的に効用があるとは聴いたことはないが、先に紹介した萩原義雄氏の『「螢 Cruciata di Luciola」のこと』(PDF)に、『醫藥としては、『廣益本草大成』に、「螢火明ㇾ目療清盲、辟鬼惡邪毒蟲、治小兒火瘡」とし、『本草綱目』には、「螢火能辟邪明ㇾ目、蓋取其炤幽夜明之義耳」とし』、『「神仙感應篇」を引用し』て、『「務成子が螢火を以て丸と爲した螢火丸は、主辟疾病惡氣百鬼虎狼蛇蚖蜂蠆諸毒五兵白刃盗賊兇害」とし、「螢火丸」の故事が描かれている』とある。これは次の段落で小泉八雲が述べる怪しい薬剤、蠱毒のホワイト・マジックのようなものであろうかと思われる。次の「武威丸」の注を参照されたい。]

 古風な文學を學んだ人が書いたなら、螢藥に就いて頗る奇妙な一章が出來るかも知れぬ。此題目での最も奇妙な部分は支那のもので、醫治よりも寧ろ、鬼神學に屬するものである。家へ盜賊が入らぬやうにする、或はどんな毒でもそれを消す、或は『百魔』を追ひ拂ふ力がある、と主張されて居る軟膏を昔は螢で造つたものである。それから、切られても傷を受けないやうにして吳れると信じられて居た丸藥を、螢から取つた物質で昔は造つた。そんな丸藥のうちの一種に、カンシヨウグワン卽ちといふのがあり、またブヰグワン『武威丸』といふがある。

[やぶちゃん注:「監將丸」不詳。但し、次注参照。

「武威丸」不詳。但し、「抱朴子」内篇に、

或以月蝕時刻、三千歲蟾蜍喉下有八字者血、以書所持之刀劍、或帶武威符熒火丸、或交鋒刃之際,乘魁履剛、呼四方之長、亦有明效

と出るのを発見した。これは

或いは月蝕の時刻を以つて、三千歲の蟾蜍(せんそ)[やぶちゃん注:ヒキガエル。]の喉の下に「八」の字有る者の血をば、以つて持つ所の刀劍に書し、或いは武威符・熒火丸を帶び、或いは鋒刃を交ふる際、魁[やぶちゃん注:北斗七星。]に乘り、剛[やぶちゃん注:「陽」の気か。]を履(ふ)みて、四方の長[やぶちゃん注:方位の四神(しじん)のこと。青龍(東)・朱雀(南)・白虎(西)・玄武(北)の四聖獣。]を呼ぶも、亦、有明なる效有り」どうも、「監將丸」も「武威丸」も、これを塗ったり、ただ帯びたりしていれば、敵や害獣や魑魅魍魎から危害を受けることがなく、それらを退却させることが出来るという魔法の薬であると捉えてよいように思う。並んでいる「熒火丸」なんてモロ螢っぽいぞ?!]

 

 

     

 

 螢捕りは職業として、比較的近代のものである。が、螢狩りは娛樂として、餘程古くからの習慣である。往古はこれは貴族的な慰みであつて、大貴族は螢を狩る會合を――ホタルガリを――したものである。この多忙な明治の世にあつては、ホタルガリは大人の慰みでは無くて寧ろ子供の慰みである。が、大人も時に餘暇を見出しで其遊戲に加はる。日本中何處でも子供は每夏螢狩りをする。そんな遠出には普通月の無い夜を選ぶ。女の子は紙製の團扇を携へてその狩りに隨行し、男の子は尖端(さき)に新しい笹の把[やぶちゃん注:「たば」。束に同じい。]を結びつけた長い輕い竿を持つて行く。螢は、團扇や笹把で打たれると、實地飛んでるのを一度邪魔されてからは翅(はね)を立てるのが遲いから、容易に捉へられる。この光る獲物の心を惹くと想像されて居る短かい歌を子供は狩りながら歌ふ。此歌は地方によつて異ふ。そして、その數は驚く許りに多い。が、此處へ引用して然るべき程の興味のあるものは甚だ少い。例を二つだけ出せば十分であらう。

 

    (長門の國)

   ホウタル、來い! 來い! コイ點もせ!

   日本一の孃さんが

   提燈ともして、來いといな!

 

    (下ノ關方言)

   ホオチン來い! ホオチン來い!

   關の町の坊んさんが

   提燈ともして、來い! 來い!

[やぶちゃん注:丸括弧部分は底本ではポイント落ち。

「螢は、團扇や笹把で打たれると、實地飛んでるのを一度邪魔されてからは翅(はね)を立てるのが遲いから、容易に捉へられる。」「實地飛んでるのを」は日本語としてこなれていない。原文は、

When struck down by a fan or a wisp, the insects are easily secured, as they are slow to take wing after having once been checked in actual flight.

で、これは、

この虫たちは、実際に飛んでいるところを、一度、邪魔されてしまうと、再度、羽を立てることが鈍(のろ)いために、団扇(うちわ)や笹葉叩(ささっぱはた)きに打たれるや、容易に捕まってしまうのである。

といった意味であろう。

「點もせ!」は「ともせ!」。]

 

 固よりのこと、首尾よく螢を狩る爲めには、螢の習慣を幾分知つて居る要がある。そして此題目に就いては日本の子供は多分、我が讀者の大多數よりも餘計に知つて居る。次記の記事は、その我が讀者には珍らしい興味を有つて居るかも知れぬ。

 

 螢は水の附近を往來し、又、其上を飛び𢌞はることを好む。が、或る種類のものは不潔な水、或は停滯した水を嫌がつて、綺麗な流川か湖水の附近だけに居る。源氏螢は沼や濠や不潔な掘割を避ける。が、平家螢はどんな水にも滿足して居る樣である。總じて螢は木陰の草の生えて居る土手を好んで求めるが、或る木は嫌つて、或る木には惹きつけられる。例へば松の木は避けるし、薔薇へは下りぬ。然し柳の木――殊に枝垂れ柳には群を爲して集まる。時たま夏の夜、枝垂れ柳が螢で一杯に蔽はれて光つて居て、其枝が『火の芽を吹いて居る』やうに見えるのを見ることがあらう。煌煌たる月の夜には、螢は出來るだけ影へ身を置いて居る。が、追はれるといふと、自分の微かな光りが前よりも見つかりにくい樣に、月光の中へすぐと飛び出る。ラソプの光’タや人工の强い光りはどんな光りでも、螢はそれを見ると逃げる。が、小さな光りには引寄せられる。例へば小さな炭火の光りや、暗がりで點(つ)けて居る小さな煙管火[やぶちゃん注:「きせるび」。]にはおびき寄せられる。然しおびき寄せの一番いいのは、綺麗な硝子の罎かコツプの中へ、勢のいい螢をたつた一匹入れて置いて光らせた燈である。

 

 子供は大抵、明白な理由の爲め、仲間を組んででなければ螢狩りはせぬ。螢に關して氣味の惡るい成る信仰があつたが爲め、古昔は單身で螢狩りをするのは、向う見ずだと思はれて居たのである。そして、日本の或る地方ではその信仰が今なほ行はれて居るのである。螢火と見えるものが、道行く人を欺く爲めにともして居る、惡意のある幽靈か或は化け物の火か或は狐火かも知れぬ。本當の螢火でも、いつも當てになるものとは限らぬ。螢の一族の氣味惡るさは柳の木を好くのでも察することが出來よう。柳ならぬ他の木には、その特別な、(いいのもあり惡るいのもあるが、)魂があり、木の精か化け物が棲んで居るが、柳は特に死人の木であり、人間の幽靈が好く木である。どんな螢でも、それは或は幽靈かも知れぬ。それは誰れにも分らぬ。その上にまた、まだ生きて居る人間の魂が時に螢の姿になるといふ古くからの信仰がある。つぎに記すのは自分が出雲で聞いた短かい譚[やぶちゃん注:「はなし」と訓じておく。]である。

 

 或る寒い冬の夜、松江の若い士族が、成る婚禮の宴會から歸宅の途中、自分の住宅の前の堀割の上を螢が一匹飛んで居るのを見て驚いた。雪の季節に外(そと)を飛んで居るのは、と怪しみながら立ち停つてそれを眺めて居ると、其光りが不意に士族の方へすいと飛んで來た。杖でそれを打つた。が、其螢はついと外れて、自分の家の鄰りの屋敷の庭へ飛んで行つた。

 明けの朝、鄰人や朋友へ夜前の不思議な出來事を物語らうと思つて、其鄰家を訪問した。處がまだ、そのことを口にする折を見つけないうちに、其家の姉娘が、この靑年が訪ねて來て居ることを知らずに偶ま[やぶちゃん注:「たまたま」。]客間へ入つて來で、驚いて叫んでかう言つた。『まあ! 驚しました! あなたがお出になつて居ると誰れも言ひませんでしたから。それに丁度、此部屋へ入る時にあなたのことを考へてゐましたから。昨夜私は實に妙な夢を見ました! 私は夢に飛び步いてゐました――私の家の前の堀割の上を。水の上を偏びあるくのは大變気持ちが好いやうに思へました。すると、其處を飛んで居るうちに、あなたが土手沿ひに步いておいでになるのが見えました。そこで、私はあなたの方へ飛んで行つて、私は飛ぶことを覺えましたよと申し上げようとしましカた。處が、あなたが私をおぶちになつたものですから、怖ろしくて怖ろしくて、今でもそのことを考へると恐はい気がします……』これを聽いてから此客は、この暗合を話せば、自分が許嫁になつて居る此娘の心を驚かすであらうと思つて、暫時、自分が見た事の話はせぬがよからうと思つた。

[やぶちゃん注:螢ではなく、それを「火の玉」とする類話は多数ある。私のブログ・カテゴリ「怪奇談集」他に複数ある(面倒なので各話へのリンクはしない。悪しからず)。この原話を探し出した際には追記する。]

 

 

     

 

 螢は古昔から日本の詩歌に詠まれて居たもので、初期の古典的な散文にも屢〻記載されて居る。例を舉げると、――十世紀の末近くか、十一世紀の初めかに書かれた、――あの有名な小説、源氏物語五十四帖の一つは『螢』といふ題で、それには螢を澤山に捕へて、それを不意に放すといふ策略を用ひて、或る貴族が暗がりで或る貴女の顏を一瞥し得たといふ話を作者が書いて居る。螢に關しての最初の文學趣味は、支那の詩を研究して起こつたのでは無いにしても、その爲めに促されたものであらう。今日でも貧乏の爲めに苦しんで居る折、螢を一杯に入れた紙袋の明かりで勉强したといふ、あの有名な支那の學者を歌つた短かい歌を知らぬ日本の兒童は一人も無い。が、詩人の感激の本源は何であらうとも、日本の詩人はこれまで一千年以上の間、螢の詩を作り來たつて居る。此題での作物は日本の詩歌のあらゆる形式に見出し得ることである。しかし螢の詩の大多數はホツク――あらゆる詩形のうちの一番短かい僅か十七の綴音から成つて居るもの、――である。螢に關した近代の戀歌は無數にある。が、それ等はドドイツといふ二十六綴音の近俗な形式で書いてあるものでその大多數は、此蟲が光りを無言で燃やして居るのを、口には一度も出さぬ身を燒くやうな情熱にたぐへた、古典的な一つの詩想の變體變形に過ぎないやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「あの有名な支那の學者を歌つた短かい歌」「小学唱歌集初編」(明治一四(一八八一)年刊)に載った「螢の光」(原曲はスコットランド民謡 「オールド・ラング・サイン」(Auld Lang Syne:「久遠の昔」。スコットランド民謡でイギリスの非公式準国歌)。作詞は稲垣千頴(ちかい)である。「支那の學者を歌つた」というのは苦労して勉学に励むことを意味する「螢雪の功」の諺のもととなった話のこと。これは晋(二六五年~四二〇年)の時代の歴史を記した史書「晋書」の「車胤伝」にある故事による。「車胤(しゃいん)」と「孫康(そんこう)」という二人の青年がおり、二人は当然、官吏を志望していたが、夜に本を読むための灯火の油を買うこともできぬほどにともに家が貧しかった。そこで、車胤は夏の夜に螢を数十匹つかまえて絹の袋に入れ、蛍の光で本を読んで勉強し、孫康は冬の夜に窓辺に雪を積み上げ、雪明かりで勉強し続けた。二人の努力は報われ、の後に高級官吏に出世したとする話に基づく。中国の高級官吏は同時に優れた文人でなくてはならいから、「學者」というのも、まあ、違和感はない。]

 

 多分、我が讀者はつぎに掲ぐる螢詩の拔萃に興味を感じられることであらう。

[やぶちゃん注:以下、前書は底本ではポイント落ちで、全体が本文三字分下げであるが、ブラウザでの不具合を考え引き上げ、字間も縮めてある。また、原本には和歌を含めて作者の名は掲げていない(例えば最初の部分はこちら。例によってローマ字表記の原句の後に小泉八雲の英訳はつく形)。「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の大谷の解説で示した通り、彼は英文学者であると同時に俳号を「繞石(ぎょうせき)」と称した俳人でもあった。小泉八雲が最も信頼した教え子の一人でもあり、小泉八雲にここに出るような俳句資料を提供しており、恐らくはその意味を英語で伝えた主たる人物も、彼であると考えられる。『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「三」・「四」』 の最後には小泉八雲は彼の蟬の句をわざわざ引いて秘かに謝意を示しているほどである。則ち、そうした発句提供者の彼なればこそ、訳文に原文にはない作者名を記すことが出来たのである。

 

   螢 取 り

 迷ひ子の泣く泣くつかむ螢かな    流水

 暗きより暗き人呼ぶ螢かな     (讀人不知)

 言ふ事のきこえてや高く飛ぶほたる  曉臺

 追はれては月にかくるゝ螢かな    蓼太

 奪ひ合うて踏み潰したる螢かな    巳百

 

   螢の光

 螢火やまだ暮れやらぬ橋のうら    柳居

 水草原註四の暮るゝと見えて飛ぶほたる 探志

原註四 「クルルトミエテ」の句はイエエツ氏の「空の人」の第二節の一句を想ひ出させる。

 夜の間へ放して見たる螢かな     可麿

 夜の更くる程大きなる螢かな     汶村

 草刈の袖よりいづる螢かな      卜枝

 此處かしこ螢に靑し夜の草      鳳朗

 提燈の消えて尊き螢かな       正秀

 窓暗き障子をのぼる螢かな      不交

 燃えやすきまた消えやすき螢かな   去來妹千子

 一つ來て庭の露けき螢かな      其禮

 手のひらを這ふ足見ゆる螢かな    萬乎

 恐ろしの原註五手に辺き近る螢かな   吐月

原註五 赤く半透明になることを思はしめることから考えると作者は婦人である。

 さびしさや一尺消えて行くほたる   北枝

 行く先のさはるものなき螢かな    月菓

 はゝき木にありとは見えて螢かな   貢雨

 袖へ來て夜半のほたるさびしいか   山幸

 柳葉の暗吹かへす螢かな       好秋

 水底の影をこはがる螢かな      眞久妻

 過ぎたるは眼にものすごし飛ぶほたる 雪武

 螢火や草におさまる夜明がた     怒風

 

   戀の句

 群れよほたる物言ふ顏の見ゆるほど  花讚女

 音もせで思にもゆる螢こそ

      暗く蟲よりも哀れなりけれ 源重之

 夕されば螢よりきにもゆれども

      光見ねばや人のつれなき  紀友則

 

 

 すいと行く水際すゞし飛ぶ螢     牧童

 水へ來て低うなりたる螢かな     東籬

 葛の葉の裏打つ雨や飛ぶ螢      普成

 雨の夜は下ばかり行く螢かな    (讀人不知)

 ゆらゆらと小雨降る夜の螢かな    楚流

 明けぬれば草の葉のみぞ螢籠     應澄

 夜が明けて蟲になりたる螢かな    阿音

 晝見れば首筋赤き螢かな       芭蕉

 螢かうて芝四五枚に風情かな     蝶羅

 

  螢賣りの句

 二つ三つ放して見せぬ螢賣      吳竺

 三つ四つはあかりに殘せ螢賣     古聲

 己が身は闇に歸るや螢賣       千士

[やぶちゃん注:以下の人名(俳号)注は、信頼出来ると判断した記事・辞書・学術論文等を参考に附した。不安の残るデータしか見れなかったものは「不詳」とした。ご存じの方は御教授願いたい。

「流水」不詳。

「暗きより暗き人呼ぶ螢かな」「(讀人不知)」一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」)では作者を『風笛』(「ふうてき」か)とする。人物は不詳であるが、この句は「曠野」の巻之三の「仲夏」に、

 闇きよりくらき人呼(よぶ)螢かな

の表記で載る。

「曉臺」加藤暁台(きょうたい 享保元(一七三二)年~寛政四(一七九二)年)は尾張生まれ。本姓は岸上、名は周挙、通称は平兵衛、別号に他朗・買夜・暮雨巷(ぼうこう)など。武藤巴雀・白尼(はくに)父子に入門し、のち暮雨巷一門を起こした。蕉風復興を目指して天明中興俳諧の中心となり,「去来抄」などを翻刻した。

「蓼太」大島蓼太(りょうた 享保三(一七一八)年~天明七(一七八七)年)は信濃生まれ。本姓は吉川、名は陽喬、通称は平助、別号に宜来・老鳥・豊来など。雪中庵第二代桜井吏登(りとう)に入門し、延享四(一七四七)年、雪中庵第三代を継いだ。松尾芭蕉所縁の地を吟行した。俳書を多く編集し、門人も三千人を超えた。

「巳百」不詳。読みは「しはく」か。

「柳居」佐久間柳居(りゅうきょ 貞享三(一六八六)年~延享五(一七四八)年)は幕臣で俳人。名は長利、通称は三郎左衛門、別号に松籟庵・長水・眠柳など。貴志沾洲(せんしゅう)の門に入ったが、江戸座の俳風に飽き足らず、中川宗瑞(そうずい)らと「五色墨」を出す。後、中川乙由(おつゆう)の門下となり、蕉風の復古を志し、芭蕉の五十回忌に俳諧集「同光忌」を撰している。

「探志」(たんし 生没年未詳)江戸前期の俳人。元禄(一六八八年~一七〇四年)頃の近江膳所(ぜぜ)の鞘師(さやし)で近江蕉門の一人。通称は小兵衛、別号に探芝・探子・探旨など。作品は「ひさご」「千句づか」などにのせられている。

『イエエツ氏の「空の人」の第二節の一句』原註はちゃんとその詩句を引用している(原本ではここの左ページ下部の「1」)。原註全文を示す。

More literally: "The water-grasses having appeared to grow dark, the fireflies begin to fly." The phrase kururu to miété reminds one of the second stanza in that most remarkable of modern fairy-ballads, Mr. Yeats' "Folk of the Air":—

     "And he saw how the weeds grew dark

       At the coming of night-tide;

     And he dreamed of the long dim hair

       Of Bridget his bride."

これはより文字通り、「水草が暗くなってゆき、ホタルが飛び始める。」 という「暮るる」から「見えて」詩句が、現代妖精バラードの中で最も注目すべきイェイツ氏の「空(そら)の者たち」の第二スタンザ(連)の部分を想起させる。

『そして彼は雑草がどのように暗くなったかを見た

 夜の到来の時、

 そして彼は長くほの暗い夢を見ていた

 ブリジットの、彼の花嫁の。』

と言った感じか。全詩は英文サイトのこちらで読める。アイルランドの詩人で劇作家のウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)は、『幼少のころから親しんだアイルランドの妖精譚などを題材とする抒情詩で注目されたのち、民族演劇運動を通じてアイルランド文芸復興の担い手となった』。『モダニズム詩の世界に新境地を切り』拓き、二十『世紀の英語文学において最も重要な詩人の一人とも評される』(ウィキの「ウィリアム・バトラー・イェイツ」より)。小泉八雲とは(イェイツは十五歳下)書簡のやり取りが残されている。

「可麿」幕末から明治の江戸生まれの医師で俳人であった松本顧言(こげん 文化一四(一八一七)年~明治一四(一八八一)年)がおり(名は順亭)、彼の別号に可磨斎があるが、

「汶村」(ぶんそん ?~正徳二(一七一二)年)。近江彦根藩士で、姓は松井或いは松居。別号に九華亭・野蓼斎。蕉門の森川許六(きょりく)に俳諧・画を学んだ。

「卜枝」(生没年未詳)近江の人であったが、後に尾張津島の蓮花寺に寓居していたという。貞門に入門した後、蕉門に移った。俳号は他に遠方とも。「曠野」(既に号の上に「津島」と小さく振る)となどに入句しており、この句も「曠野」の巻之三の「仲夏」に、

 くさかりの袖よる出るほたる哉

の表記で出る。

「鳳朗」田川鳳朗(たがわほうろう 宝暦一二(一七六二)年~弘化二(一八四五)年)は肥後生まれ。名は東源・義長、別号に対竹・自然堂・芭蕉楼など。もとは肥後熊本藩士であったが、寛政一〇(一八九八)年に藩士を辞して諸国を遊歴した後、江戸で俳諧師となり、「真正芭蕉風」を称した。成田蒼虬(そうきゅう)・桜井梅室とともに「天保三大家」と称された。

「正秀」水田正秀(みずたまさひで 明暦三(一六五七)年~享保八(一七二三)年)は近江膳所の生まれ。通称は孫右衛門、別号に竹青堂。藩士又は町人であったとされるが、後年は医業に就いた。江左尚白(こうさしょうはく)に学び、後に芭蕉に入門した。「ひさご」連衆の一人で、義仲寺の無名庵(むみょうあん:この名は義仲寺の元の名でもある)建設に尽力した。

「不交」(生没年未詳)美濃生まれの蕉門。「曠野」に入集しており、この句も「曠野」の巻之三の「仲夏」に、

 窓くらき障子をのぼる螢かな

の表記で載る。

「去來妹千子」(?~貞享五(一六八八)年(この年元禄に改元。以下のリンク先の記載によれば享年は二七、八歳か))長崎出身の蕉門十哲の一人向井去来の妹で「ちね」と読む。個人ブログ「Pilgrim 東西南北巡礼記」の「千子(ちね) 向井去来の妹」の兄との伊勢参りを詳しく綴った記事がなかなか読ませる。

「其禮」「きれい」と読んでおくが、不詳。但し、平井呈一氏は『其孔』とする。こちらでも不詳。

「萬乎」(まんこ ?~享保九(一七二四)年)は伊賀蕉門の一人。伊賀上野の豪商大坂屋次郎大夫。 米と金銀の交換を業とした金融業者で倉庫業も営んだ。「猿蓑」・「有磯海」・「笈日記」に入集している。元禄四(一九九一)年三月二十三日に自邸に芭蕉を招待した折りに入門した。

「吐月」飯島吐月(享保一二(一七二七)年~安永九(一七八〇)年)は上総生まれ。名は友七、通称は四郎左衛門、別号に吏中・子規亭。桜井吏登・大島蓼太に学び、江戸で判者となり、山村月巣(げっそう)とともに蓼太門の両輪と謳われた。小泉八雲の推理は残念ながらはずれである。

「北枝」蕉門十哲の一人立花北枝(?~享保三(一七一八)年)金沢生まれ。刀研ぎを生業とした。通称は研屋源四郎、別号に鳥(趙)翠台・寿妖軒・趙子など。一時は土井姓を名乗った。俳諧は初め貞門であったが、のち「奥のほそ道」の旅で金沢に来訪した芭蕉に逢って、その場で入門した。芭蕉の教えを書き留めた「山中問答」を著している。

「月菓」平井呈一訳では『月巣』でそれが正しいと思われる。山村月巣(げっそう 享保一五(一七三〇)年~天明五(一七八五)年)出羽寒河江の生まれ。名は春安、別号に雪屋人・未来坊・盤古など。江戸で雪門(服部嵐雪に始まる俳諧流派)三代の大島蓼太に学び、宝暦一四(一七六四:この年に明和に改元)年、駿河の時雨窓初代となり、東海地方の雪門を指導した。飯島吐月とともに蓼太門の両輪と謳われた。

「はゝき木」ナデシコ目ヒユ科バッシア属ホウキギ Bassia scoparia。成熟した果実が秋田県の「とんぶり」として知られる。但し、この句は今一つの幻しの木「ははきぎ」をも匂わせていよう。信濃の園原にあって、遠くからはあるように見えるが、近づくと消えてしまうという、箒(ほうき)に似た伝説上の木で、転じて、「情があるように見えて実のないこと」・「姿は見えるのに会えないこと」などの喩えとされる。明滅する蛍にそれを掛けていると私は読む。

「貢雨」不詳。

「山幸」大島蓼太の連衆に見える雪穿居山幸であろう。

「好秋」不詳。

「水底の」原文“Mizu soko no”。

「眞久妻」平井呈一訳では『呉久妻』。孰れも不詳。

「雪武」不詳。

「怒風」高宮怒風(寛文三(一六六三)年~寛保三(一七四三)年)。美濃大垣藩士。「笈の小文」の旅の途中の芭蕉に逢い、蕉門に入る。「続猿蓑」・「笈日記」・「有磯海」・「炭俵」などにかなりの数が入句している。

「花讚女」(かさめ 文化五(一八〇八)年~文政一三(一八三〇)年)は江戸の人。名は「まつ」。横山万旧と結婚して三児を生む。夫とは採荼庵(さいたあん)万里の同門。享年二十三歳。没年に夫が花讃女の遺吟を整理し、万里や古友尼らの手向けの句及び和歌を収め、「萩陀羅尼(はぎだらに)」を刊行している(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。小学館「日本国語大辞典」では「くわさんぢよ(かさんじょ)」と読んでいる。

「源重之」(?~長保二(一〇〇〇)年頃)、清和天皇の曾孫で三河守源兼信の子であったが、父兼信は陸奥国安達郡に土着したため、伯父の参議源兼忠の養子となった。最終官位は従五位下・相模権守か。三十六歌仙の一人。兼信の子。後半生は不遇で、九州や奥州を渡り歩き,陸奥で没した。旅の歌人で,地方の名所を詠んだ歌が目立つ。東宮時代の冷泉天皇に奉った百首歌は現存最古のものの一つ。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」のものだが、水垣久氏の「やまとうた」の「源重之」によれば、『父兼信は陸奥国安達郡に土着したため、伯父の参議兼忠の養子となった』。『康保四』(九六七)年『十月、右近将監(のち左近将監)となり、同年十一月、従五位下に叙せられる。これ以前、皇太子憲平親王(のちの冷泉天皇)の帯刀先生(たちはきせんじょう)を勤め、皇太子に百首歌を献上している。これは後世盛んに行なわれる百首和歌の祖とされる。その後』、『相模権介を経て、天延三』(九七五)年『正月、左馬助となり、貞元元』『(九七六)『年、相模権守に任ぜられる。以後、肥後や筑前の国司を歴任し、正暦二』(九九一)年『以後、大宰大弐として九州に赴任していた藤原佐理のもとに身を寄せた。長徳元』(九九五)年『以後、陸奥守藤原実方に随行して陸奥に下り、同地で没した』。享年は『六十余歳かという』とある。本歌は、「後拾遺和歌集」の「巻第三 夏」に(二一六番)、

   螢をよみ侍りける

 音もせで思ひに燃ゆる螢こそ

    鳴く蟲よりもあはれなりけれ

と出る。

「夕されば螢よりきにもゆれども」「光見ねばや人のつれなき」三十六歌仙の一人である紀友則(生没年未詳:紀貫之の従兄弟。延喜四(九〇四)年、大内記。寛平(八八九年~八九八年)の頃から宮廷の歌合に出詠し、醍醐天皇の命を受けて「古今和歌集」の撰者の一人となったものの、完成前年死去した。「古今和歌集」には四十六首が載る)の「古今和歌集」の「巻第十二 恋歌二」の一首(五六二番)。但し、原文は二句目も“Hotaru yori ki ni”となっているものの、正しくは、「き」ではなく、「け」である。

 夕されば螢より異(け)にもゆれどもひかり見ねばや人のつれなき

「異(け)に」は形容動詞で「いっそう強く。格別に」の意。

「牧童」立花牧童(?~享保初年(一七一六)頃か)先に出た北枝の兄。弟とともに研師で、加賀藩の御用を勤めた。当初、談林俳諧に親しんだが、芭蕉の加賀来遊の際に弟と一緒にその門に入った。北枝とともに加賀蕉門の中心をなした。

「東籬」不詳。文化(一八〇四年~一八一八年)年間に「東籬」「東籬園」「東籬庵」(同一人物かどうかは不明。陶淵明の「飲酒」のそれで如何にも号につけたがる者は多かろうから)と称した俳人はいる。但し、平井呈一訳では『車籬』とする。不詳。

「普成」大島蓼太門(則ち「雪門」)の夜雪庵普成かと思われる。

「雨の夜は下ばかり行く螢かな」「(讀人不知)」平井呈一訳では『含呫』とする。含呫は(生没年不詳)蕉門。「曠野」に多数入句し、これもその巻之三の「仲夏」に、

 あめの夜は下ばかり行(ゆく)螢かな

とあるもの。

「楚流」享保(一七一六年~一七三六年)年頃の俳人にこの号の者がいる。

「應澄」不詳。

「阿音」不詳。

「蝶羅」下郷蝶羅(しもさとちょうら 享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)は尾張鳴海の人。名は玄雄、別号に春麗園・鈴波。下郷蝶羽の十四男で、酒造業「千代倉」の江戸北新川支店を営んだ。俳諧を大島蓼太・岡田米仲・横井也有に学んだ。

「吳竺」平井呈一訳では『呉笠』。「呉竺」なら寛政五(一七九三)年板行版の蝶夢編「新類題発句集」に載る。

「古聲」(延享三(一七四六)年~文政八(一八二五)年)は越智吉左衛門。屋号は麦屋。備後国田房上市の人。庄原の板倉氏の出で、越智家に入家し、これを継いだ。俳諧を京の五升庵蝶夢に学び、初め風路、後ちに古声・桃甫・眠亭と号した(ここは銀漢(天の川)氏のブログ「銀漢(天の川)のブログ」の「芸備の俳人……篤老・古声・玄蛙」に拠った)。

「千士」平井呈一訳では『千工』。孰れも不詳。]

 

 然し螢の眞のロオマンスは、日本の民間傳說の不思議な野原にも、また日本詩歌の古雅な庭園にも見出さるべきものでは無くて、科學の洪大な深淵に見出さるべきものである。科學に就いては自分は殆んど或は全く知らぬ。それが天使も踏み込むことを恐れる處へ自分が盲進することを憚らぬ所以である。若し自分が、渡瀨敎授が螢に就いて知つて居られることを知つて居るならば、相對的經驗の境域を気儘に跨ぐ氣にはならぬであらう。が、無遠慮だから自分は敢て學說を立て得るのである。

 

 生理的及び精神的進化の素敵な假說は最早自分には假說とは思へぬ。自分はこれに疑ひを挾むことを夢想だにしない。自分は生きて居ないと云はれて居るものから[やぶちゃん注:ここの傍点は「◦」なので、今までのそれと区別して下線を施した。]が發達して來ること――無機物から有機物が發展し來たること――を怪しまなくなつた。自分の想像力がどうもそれに慣れることの出來ない有機的進化の一つの驚くべき事實は、生の物質が系統的構造の不可解な複雜なものへ出來上つて行く潛在的能力或は傾向を所持して居るといふ事實である。其物質が射光を或は電気を進化さして行く力は、それが色を變化さして行く力より、より以上に不思議なものでは實際無い。夜光蟲或は光る百足蟲或は螢が光りを造り出すことは、植物が靑い花や紫色の花を造り出すよりか餘計に不思議だと思ふべき譯は無いのである。だが、此光りが出來て來る機械作用の此特殊な奇蹟をば、此現象の生物學的說明は、依然としてこれまで同様に、自分を驚歎したなりに殘して居る。『發電装置』といふ専門的名稱の下(もと)に包含せらるる一切の物の顯微鏡的微細な運轉模型が此蟲の體内に納められて居るのを見ることは、實地實際に存在して居るものを發見するほどに驚くべき發見では無いであらう。今現に此處に、その無限小的なるダイナモ[やぶちゃん注:原文“dynamo”。発電機。]を以てして、『蠟燭の炎に費やさるる勢力の消費の四百分の一で』鈍粹な冷たい光りを造り出し得る螢が一匹居るのである!……さて、我我の最も偉大な生理學者及び化學者すらまだ其作用を理解し得ない、又、我我の最善の電気學者すらそれを模倣するの可能なるを思ひ得ないほど、それほどに精緻な有效な發光機械が、何が故にこの小さな動物の尻に開展進化されたものであらうか。蜉蝣[やぶちゃん注:「かげろふ(かげろう)」。]の視覺器だとか、電氣鰻の電氣器官だとか、或は螢の發光器官だとかいふやうな、實に人を啞然たらしめるほどに錯雜した、そして美しいものを構成するやうに、生きた組織が何が故にそんな構造に固まつたり出來上つて來たりするのであらうか。……この事の不可思議を思ふと、神さまが働かれるのだなんかとは、到底、自分には想像されぬ。蜉蝣の眼だとか、螢の尻だとかいふこんな奇怪な物は、ただの神さまなんかがいつまで經つても工夫の出來かねるものである。

[やぶちゃん注:ホタルの発光メカニズムについては、二〇〇六年三月十六日附の独立行政法人「理化学研究所」のプレスリリースの「ゲンジボタルの発光現象の仕組みをとらえる―世界最大の放射光施設 SPring-8 の光が解き明かす小さな光の謎―」(PDF)がよい。その冒頭に『ゲンジボタルで黄緑色に光るのは、「ルシフェラーゼ」という名前の発光酵素の働きであることはわかっていました。理研播磨研究所メンブレンダイナミクス研究グループは、この「ルシフェラーゼ」が独特の立体構造を持ち、その構造から、発光するメカニズムを明らかにしました』。『さらに、天然の状態での黄緑色とは異なり、赤く発色する「ルシフェラーゼ」を人工的に合成。その構造を天然型の酵素と比較し、色が調節される仕組みを解明することにも成功しました』。『ホタル発光は、「この世に存在する、もっとも効率の高いエネルギー変換装置」といわれています。90%という高い効率で、化学エネルギーを光エネルギーに変換できるからです。そのため、今回の発見は、単にホタルの神秘が科学的に解明されたということにとどまらず、より効率的なエネルギー変換装置の設計という技術開発に貢献できる点でも、有意義なものと評価できるでしょう』とある。なお、日本産の発光生物については、naturalist2008氏のブログ「むしのみち」の「日本産陸上発光動物一覧」がよい。

「夜光蟲」アルベオラータ上門 Alveolata 渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans。単細胞で、太く長い一本の触手をもち、中央部が陥入して口となる。直径一~二ミリメートル(原生動物としては非常に巨大である)。暖海にプランクトンとして生活する。刺激を受けると、青白く発光する。夏に異常増殖して赤潮を引き起こし、魚介類に被害を与えることがある。発光はホタルと同じルシフェリン―ルシフェラーゼ反応による。

「光る百足蟲」本邦産では唇脚綱ジムカデ目オリジムカデ科 Oryidaeヒラタヒゲジムカデ属ヒラタヒゲジムカデ Orphnaeus brevilabiatus。体長は二~三センチメートル(最長五センチメートル)で熱帯・亜熱帯に棲息し、沖縄本島に分布する。但し、彼の発光は体内バクテリアによるものらしい。

「蜉蝣」我々が一般に言っている昆虫の「かげろう」は複数の全くの別種(中には縁の遠い種もいる)を含む。容易には説明出来ないので、私の「生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 一 群集」の私の「かげろふ」の注を読まれたいが、取り敢えず、真正の「カゲロウ」=節足動物門昆虫綱カゲロウ(蜉蝣)目 Ephemeropteraに属するカゲロウ類の眼は、頭には三個の単眼と、よく発達した一対の複眼が頭のかなりの部分を占めている。特に♂の複眼は大きく、上下二段に分かれた複眼のうち、上の複眼が巨大な円柱型になる種もいる。これはその形から「ターバン眼」(turban eyes)と呼ばれ、カゲロウ目に特有のものであるとウィキの「カゲロウ」等にある。

「電氣鰻」条鰭綱新鰭亜綱骨鰾上目デンキウナギ目デンキウナギ亜目ギュムノートゥス科 Gymnotidae(或いはデンキウナギ科 Electrophoridae)デンキウナギ属デンキウナギ Electrophorus electricus。その発電器官の機序については、私の「生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 四 嚇かすこと~(4)」の「しびれうなぎ」の私の注を見られたい。]

 生物學はつぎの如く答へるであらう。『こんな構造は、機能が構造に及ぼす效果の累積によつて成つたものと考へられないにしても、好都合な變形の逐次の選擇がこんな者を造り出したものかも知れぬといふことは考へ得られる』と。そしてハアバアト・スペンサアの學說を奉ずる者は誰れもこれ以上遠くへさ迷ひ出ることを實際是認されて居ないのである。が、然し自分は、物質[やぶちゃん注:同前で、傍点は「◦」。]といふものは、盲目的に誤り無しに、記憶するものであるといふ意見、それからまた、あらゆる終局的な分子には悉く、幾億幾十億の消えた宇宙の、破滅することの出來ぬ無窮な經驗が入つて居るといふ、ただ、それだけの理由によつて、生きて居る物質の一一の單位には、無窮の潛勢力が眠つて居るのであるといふ意見、――これを自分は頭から離すことが出來ないのである。

[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサア」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。]

« 小泉八雲 平家蟹 (田部隆次訳) | トップページ | 小泉八雲 露の一滴 (田部隆次訳) »