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2019/09/24

小泉八雲 力ばか (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“RIKI-BAKA”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”。来日後の第十作品集)の十五話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集は“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落とし、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 本書の序で小泉八雲は『「力ばか」の事件は實際の經驗である。私は話した人が云つた』姓『だけを變へて、あとはそれを殆んどそのまま書いた』と述べている。しかし、以下に見る通り、「力ばか」には名字は出ないから、名前とするところを小泉八雲が取り違えたものか、もとは「○○ばか」のそれが姓であったのを名のように変えたことを意味しているものと思われる。

 作中の「善導寺」は不詳。]

 

  力 ば か

 

 彼の名は力(りき)であつた。しかし、人々は彼を呼んで「力ばか」と云つた――永久の子供に生れついてゐたからであつた。同じ理由で人々は、彼に對して親切であつた、――マツチをもやして蚊帳につけ、家を一軒燒き、その火熖を見て拍手した時にでも。十六になつて脊の高い强い少年になつたが、精神は幸福な二歲の年齡にいつも相當してゐた。それで極めて小さい子供と遊び續けた。四つから七つまでの近所の大きい子供は、彼が自分等の歌や遊戲を覺えないから一緖に遊ぶ事を好まなかつた。彼の好きなおもちやは箒であつた。それを木馬にして遊んだ。そして引續き何時間でも、この箒に乘つて私の家の前の坂を、驚くべく高い笑聲を上げて、いつも上つたり下つたりしてゐた。しかし遂にこの騷々しい聲がうるもくなつて來た、それで私はどこか外(ほか)へ行つて遊ぶやうにと、云はずに居られなくなつた。彼は素直にお辭儀をして、それから――悲しさうに箒を引きずりながら――外(ほか)へ行つた。いつでも柔和で、火をおもちやにする機會さへ與へなければ、全く無害なので誰にも小言を云はれるわけは殆んどなかつた。私共の町の日常生活と彼との關係は犬や鷄のそれと殆んど同じであつた。それで、彼が最後に消えてしまつた時も、私は別に不足を感じなかつた。幾月も幾月も經つてから、何かの事で力の事を思ひ出した。

 『力はどうなつたらう』私はこの邊へ薪を持つてくる老人の薪屋に尋ねた。力はこの男の薪を運ぶ手傳をよくしたものであつた。

 『力ばかですか』老人は答へた。『あゝ、力ばかはかはいさうに死にました。……はい、一年程前に、全く急に死にましたんで、お醫者樣達は何か頭の病氣だと云ひました。ところで、今そのかはいさうな力について妙な話があります。

 『力が死んだ時、おふくろが、力の左の手に、その名前の力ばかを書きました、「力」を漢字で「ばか」をかなで書いたのです。それからおふくろは度々、祈願をしたさうで――もつと幸な[やぶちゃん注:「しあはせ」。]身分に生れ扁つて來るやうにと云ふお祈なんです。

 『ところが、三ケ月程前に麹町の何某樣のお屋敷に、左の手のひらに、文字のある男の兒が生れました。その文字は「力ばか」と全くはつきり讀めました。

 『そこでそのお屋敷の人達は、これは誰かの祈願の結果に相違ないと思ひましたので、方々を詮詮議しました。たうとう八百屋が、牛込に力ばかと云ふ子供がゐたこと、それから昨年の夏に死んだ事を知らせて來ました。そこで二人の下男をやつて、力のおふくろを尋ねました。

 『下男達は力のおふくろを見つけて、事の次第を話しますと、おふくろは非常に喜びました、――その何某樣の家は大層富んだ名高い家でしたから。しかし下男達は、その御屋敷では赤ちやんの手の「ぱか」と云ふ字で大層立腹しておいでになると云ひました。「一體お前さん處の力さんの墓はどこですか」と下男達は尋ねました。「善導寺の墓地でございます」とおふくろは答へました。下男たちは「どうか墓石のかけを少し下さい」と賴みました。

 『そこで母親は一緖に善導寺に行つて力の墓を見せました。それから下男達は、墓石のかけを少し風呂敷に包んで持つて行きました。……力の母親には金をいくらか――十圓だか、やりました』……

 『しかしそんな石のかけをどうするのだらう』私は辱ねた。

 『左樣』老人は答へた、『そんな名を手のひらに持つたままで生長するわけには參せんから。ところでそんな風に子供のからだについて來た文字を除くには、どうも外に仕方もありません。その前生のからだを葬つてある墓石から取つた土で皮膚をこすらねばなりません』……

 

[やぶちゃん注:「十圓」本書の刊行は明治三七(一九〇四)年四月である。明治三十三年の東京での白米の小売価格は一円十銭、大卒初任給が二十三円で、明治三十年頃まで溯れば、十円は現在の二十万円ほどの価値ともなる。]

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