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« 小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「二」 | トップページ | 小泉八雲 夢魔觸 (岡田哲蔵訳) »

2019/09/02

小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「三」・「四」 / 蟬~全電子化注 完遂

 

       

 

 蟬に關する日本の詩歌は極めて短いのが普通である。そして自分の蒐集は主として――十七綴音の作品たる――ホツクから成つて居る。此の發句の多數は、蟬の聲に――否、寧ろその聲が詩人の心裏に產出した感じに――關して居る。次記の例に附けてある人名は、殆ど皆昔の詩人の名で――言ふ迄も無く實名では無くて、號卽ち通例それで美術家文學者が世人に知られて居る文學上の名で――ある。

 

 發句の作者として著名な、十八世紀の日本の詩人橫井也有は、蟬を聽いた夏秋の感情の、こんな天眞な記錄を我々へ殘して居る。――

『三伏の日ざかりの暑さにたへがたくて

  蟬あつし松きらばやと思ふまで 

と口ずさびし日數も程なく立ちかはりてやゝ秋風に其聲のへり行く程さすが哀におもひかへりて

  死にのこれ一つばかりは秋の蟬』

[やぶちゃん注:以上は「二」で既注の横井也有の「鶉衣」の「続編 下」にある「蟬引(せみのいん)」(「引」は漢文の書式格の一つで「序」の短いものを言う)である。以下に示す。底本には国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年光風館刊の「鶉衣」を用いた。当該項はここである。底本はルビなしであるが、一部で先の堀切実氏の岩波文庫校注本で読みを添えた。なお、句の後に有意に大きな句点があるが、除去した。

   *

三伏(さんぷく)の日ざかりの暑さに堪えがたくて、

   蟬あつし松きらばやとおもふまで

と口すさびし日數(ひかず)も、程なく立ちかはりて、やや秋風に其聲のへり行く程、流石(さすが)にあはれに思ひかへして、

   死(しに)のこれ一つばかりは秋の蟬

   *

「三伏」夏の最も暑い時期。夏至後に訪れる第三の庚(かのえ)の日を「初伏(しょふく)」、第四の庚の日を「中伏(ちゅふく)」、その後の立秋後の最初の庚の日を「末伏(まっぷく)」と称し、これら三つを合わせて夏の極暑の期間を指す語である。「伏」は「火気を恐れて金気が伏蔵する日」の意で、「庚」の日は特にその状態が著しいとして「三伏日」とし、農事の暦では、この日は種まきに悪いとされた。最初の句は、「猛暑の中、蟬の鳴き声が五月蠅く、いや増しに暑さが感ぜられるので、いまいましい蟬の飛び来たって鳴きおる庭の松の木を伐り倒してまいたいと思うことよ」の意。しかし対する後者は、すっかり衰えた蟬の声に手前勝手に哀れを催し、「せめても一匹ぐらいは死に残って鳴き続けよ、秋の蟬よ」と呼びかけているのである。]

 

 ピエエル・ロティ譯者註一八(世界最大の散文家)の愛讀者は、その「お菊夫人」の中で、或る日本家屋に就いて、百夏の鋭い聲の蟋蟀の爲めその古い乾いた木細工が妙音を孕んで居ると述べて居る面白い文句を記憶して居らるるであらう。それと全然相違しても居ない意匠を有つた

註 ロティは家屋の内部の描寫をしようとする
己が企に就いて斯う言うて居る。「自分が描寫
した此家には、そのか弱い風(ふう)とその鋭い
ヷイオリン的な好い響とが缺けて居る。木細工
を寫して居る鉛筆のタツチに、その細工の極め

て微細な精緻さが無く、またその非常な古雅な
ところが無く、またその申し分無しの淸潔さが
無く、その乾上がつた纎維に百夏の間孕ま
され
て居るらしく思へる蟋蟀の響も無い

譯者註一八 本名ルイ・マリイ・ユリアン・ギオウ(一八五〇年生まれ)。一八八二年「ス・マリアジュ・ド・ロティ」と稱する。一英人とタイチ女との結婚物語に文名一時に舉がり、つぎつぎに小説旅行記を物して名聲を博し、一八九一年學士會員に選ばる。「ヤポリヌイ・ドオトンヌ」「フアントム・ドリアン」等名著多き中に小泉先生は「ランド・サン・ザングレ」を殊に賞讃し居られたり。

[やぶちゃん注:ここのみ、本文の一文の途中に註を挟むという変則的なことを大谷がしているため、やむを得ず以上のように改行し、底本通り、ポイント落ちで挟んだ。

「ロティ」の「ィ」はママ。以下の註でも同じ。

「ピエエル・ロティ」ピエール・ロティ(Pierre Loti 一八五〇年~一九二三年)はフランスの海軍士官で作家。これはペン・ネームで本名はルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie-Julien Viaud)。職務で世界各地を回り、その航海中に訪れた土地を題材にした小説・紀行文を多く書き残した。

「お菊夫人」ロティが一八八七年に出版した恋愛長篇小説“Madame Chrysanthème”。「クリサンテーム」はフランス語で「菊」の意。明治一八(一八八五)年に海軍士官(フランス海軍「トリファント号」艦長)として長崎に寄港したロティは、一夏を日本娘お兼という十八歳と同棲した事実に基づくもので、長崎入港の光景から、当時の庶民の風貌・生活様式など、多少、グロテスクな光景に好奇心を燃やしながら描いている(但し、以下の小泉八雲が引くものにも感じられる通り、総じて批判的侮蔑的な感懐を含んでいる)。しかし、こうした生活にもやがて倦怠を覚えて別れに至る悲恋の物語。小泉八雲の本書刊行の四年後にプッチーニによりオペラ化(一九〇四年ミラノ・スカラ座初演で)されて有名になったアメリカの小説家ジョン・ルーサー・ロング(John Luther Long 一八六一年~一九二七年)ロングの短編小説“Madame Butterfly”(一八九八年発表)はこの作品の影響を受けて書かれたものである。

「一英人とタイチ女との結婚物語」一八八〇 年に発表した“Le Mariage de Loti”(当初のオリジナルの原題は“Rarahu”(ララフ:少女の名)。「タイチ」は南太平洋フランス領ポリネシアに属するソシエテ諸島にある島タヒチ(Tahiti)島のこと。

「ヤポリヌイ・ドオトンヌ」一八八九年発表の“Japoneries d'Automne”(「秋の日本」)。明治十八年の日本滞在記(滞日は同年七月から十二月中旬まで)、この時、彼は明治政府によって破格の待遇を受け、鹿鳴館の舞踏会に招待されたり、各地を見てまわる際にも普通は見られない風物を特別に見せて貰ったりしている。

「フアントム・ドリアン」一八九二年発表の恋愛小説“Fantôme d'Orient”(「東洋の幻影」)。

「ランド・サン・ザングレ」一九〇三年発表の“L'Inde sans les Anglais”(「イギリス人のいないインド」)。]

 

 日本の詩が一つある。――

 

  松の木に沁みこむ如し蟬の聲  ( ? )

 

 蟬を詠んだ日本詩歌の大多數は此蟲の音聲を苦痛だと述べて居る。そんな詩人の不平に充分同情を感ずるには、二三種の日本蟬の眞夏に於ける合奏を聞いてからでなければならぬ。然しその喧躁の經驗の無い讀者にも、次記の句は多分暗示的だと思はれることであらう。

[やぶちゃん注1:「松の木の……」の作者は不明。芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蟬の聲」の亜流であるが、或いは芭蕉以前の誰彼の作である可能性も十分にある駄句である。]

[やぶちゃん注2:以下の発句の内、一部がカタカナ表記(中には小泉八雲が「其角」を“GYUKAKU”とするなどの誤読箇所もある)になっているもの、或いは『( )』と訳者によって附されてあるものがあるが、この一部は、所持する平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「日本雑記 他」所収の「明暗」(作品集“SHADOWINGS”の訳)の「蟬」)で漢字表記されてあるので、特異的にそれを上記当該部分の下に《 》で示した。]

 

  われ獨り暑いやうなり蟬の聲  文素

  うしろから摑むやうなり蟬の聲  除風

  山の神の耳の病かせみの聲  貞德

  底の無い暑さや雲に蟬の聲   左簾

  水涸れて蟬を不斷の瀧の聲   ゲンウ《幻吁》

  かげろひし雲また去つて蟬の聲 几菫

  抱いた木は葉も動かさず蟬の聲 可風

  隣から此木にくむやせみの聲  ギウカク《其角》

[やぶちゃん注:「文素」宝暦一三(一七六三)年の芭蕉七十回忌に義仲寺で行われた発句の法要興行『しぐれ会』(彼は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)に亡くなっており、それが時雨の多い季節であること、また、芭蕉が時雨を好んで句作に用いたことに因んで「時雨忌」とも呼ばれる)を始めた文素であろう。

「除風」(寛文六(一六六六)年或いは七年~延享三(一七四六)年)備中生れの真言僧。服部嵐雪に学び、各地を吟遊、備中倉敷に南瓜庵を結び、芭蕉を慕って千句塚を築いた。後、讃岐の観音寺の山崎宗鑑の旧跡である一夜庵を再興した。別号に南瓜庵・百花坊など。編著に「青莚」「千句塚」「夢の枯野」がある。

「貞德」松永貞徳(元亀二(一五七一)年~承応二(一六五三)年)京出身の近世前期の俳人・歌人・連歌師・歌学者。幼名は勝熊(かつくま)、別号は延陀丸(えんだまる)・長頭丸(ちょうずまる)・逍遊軒など。摂津国高槻の豪族入江氏の出(父永種の時に曾祖母妙精の縁戚松永弾正久秀の姓をとって松永と改めた)、父永種は当代随一の学者・文化人で、豊臣秀吉のお伽衆大村由己(ゆうこ)や、歌壇・歌学界の第一人者であった細川幽斎、連歌界の大立者里村紹巴(じょうは)などと親交を結んでおり、母も朱子学者藤原惺窩(せいか)の姉であったことから、後年、文人として立つ貞徳には極めて有利な環境が整っていた。幽斎・紹巴に和歌・連歌を学び、林羅山・木下長嘯子とも交わった。また、俳諧の方式を定め、門下として芭蕉の師となる北村季吟らを育て、「貞門」派を形成した。この句については坪内稔典氏がこちらで、『うるさいばかりの蝉の声を、山の神の耳が悪くなっているので、それで蝉たちが大声を出している、と滑稽化した。たとえば季語「蝉しぐれ」は蝉の声を風流、優雅にとらえているが、そのようなとらえ方を、現実的見方によって貞徳は転倒したのだ』と評釈しておられる。

「左簾」笠家左簾(かさやされん 正徳四(一七一四)年~安永八(一七七九)年)は初代ならば、江戸新吉原の娼家の主人。本姓は三浦、名は古道、通称は四郎左衛門。別号に鴨之・素湯庵。談林派の笠家逸志に学び、江戸宗因座の点者を務めた。著作に「花実相対」など。二世と三世がいる。

「ゲンウ《幻吁》」原本(左ページ中央)は“GEN-U”であるが、これは「げんく」の誤り。鎌倉円覚寺第百六十三世住職大顚(だいてん)和尚(寛永六(一六二九)年~貞亨二(一六八五)年)。蕉門の俳人で、幻吁は俳号。芭蕉と親しく、最後に出る句の作者で、芭蕉の高弟で江戸蕉門の重鎮であった宝井其角(たからいきかく 寛文元(一六六一)年~宝永四(一七〇七)年:初姓は榎本)の参禅の師でもあった。「野ざらし紀行」に旅中(貞享元年八月から同二年四月までの旅)、大顚が同年一月三日に遷化したことを知り、

 梅戀ひて卯の花拜む淚かな

という追悼の句を添えている。

「几菫」高井几董(きとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は与謝蕪村の高弟。京都生まれ。別号に塩山亭・高子舎・春夜楼・晋明など。父几圭に学び、明和七(一七七〇)年、蕪村に入門、師風に忠実で、蕪村派の殆んどの撰集を編集し、蕉門の榎本其角に私淑し、大島蓼太・久村暁台らと親交を結んだ。蕪村没後、三代目夜半亭を継いだ。

「可風」江戸中期の蕉門(没後)の俳人と思われる。紀行文「くらま紀行」が、時宗の僧で俳人(蕉門)の蝶夢(享保一七(一七三二)年~寛政七(一七九六)年)の全集の参考文献に載る。]

 

 この句は、也有をおもひ出させる。蟬が頻繁に訪れる木を憫れんで居る別な詩人が居る。

 

  風はみな蟬に吸はれて一木かな  鳥醉

[やぶちゃん注:「鳥醉」白井鳥酔(しらいちょうすい 元禄一四(一七〇一)年~明和六(一七六九)年)は元は上総地引村の代官。名は信興、通称は喜右衛門、別号に百明台・松原庵など。江戸で佐久間柳居に学び、松尾芭蕉の旧跡を遊歴、晩年は相模大磯の鴫立庵で過ごした。編著に「夏山伏」「冬扇一路」など。

「一木」原文の発音に従えば、「ひとき」。]

 

 時には蟬の音聲を或る動力だと叙べて居る。――

 

  蟬の聲木々に動いて風も無し  ソーヨー《宗養》

  竹に來て雪より重し蟬の聲  桃月

註 日本の藝術家は、その頂に附いて居る雪の重みに曲つて居る竹の景色によつて幾多の面白い感想を得來たつて居る。

  諸聲に山や動かす木々の蟬  楚江

  楠も動くやうなり蟬の聲    梅雀

[やぶちゃん注:「ソーヨー《宗養》」宗養(大永六(一五二六)年~永禄六(一五六三)年)は戦国時代の連歌師。ウィキの「宗養」によれば、『宗牧の子で、姓は谷氏。号は無為・半松斎。早くから父・宗牧から連歌を学んだが』、天文一四(一五四五)年、『二十歳で父を失い、その連歌師としての地盤や伝書を引き継いで』、『連歌界の第一人者となる。摂関家である近衛家や公家の三条西公条、武将の尼子晴久・三好長慶などとも交流があった。父と同様に工夫は繊細であり、「石山四吟千句」「宗養句集」などがある。また、宗牧から伝えられた連歌論書に「宗養三巻集」がある』とある。

「桃月」不詳。

「楚江」晩年の小林一茶の俳友に夜間瀬(よませ:現在の長野県下高井郡山ノ内町(まち)大字夜間瀬。グーグル・マップ・データ)の坂口楚江の名が見えるが、彼かどうかは不明。

「梅雀」不詳。]

 

 時にその音を湯のたぎる音にたぐへて居る。――

 

  日盛は煮えたつ蟬の林かな   ( ? )《露英》

  煮えて居る水ばかりなり蟬の聲  大無

[やぶちゃん注:「露英」不詳。原本(左ページ)には名前はなく、『( ? )』は訳者の附加。

「大無」不詳。原文表記に従えば「たいむ」。]

 

 此喧躁家の大勢なのと其喧噪の遍在なのとに殊に愚痴をこぼして居る詩人がある。――

 

  ありたけの木に響きけり蟬の聲  稻起

  松原を一里は來たり蟬の聲   沾荷

[やぶちゃん注:「稻起」不詳。原本には名がないので、これは句を小泉八雲に紹介した可能性がすこぶる高い訳者が附加したものと思われる。

「沾荷」「せんが」。芭蕉存命時の歌仙その他に名がしばしば見られ、それらは概ね芭蕉の俳友であった内藤露沾(明暦元(一六五五)年~享保一八(一七三三)年:磐城平藩主内藤義泰の次男。義英、後に政栄。嗣として藩主となるはずであったが、讒言により天和二 (一六八二)年に廃嫡となり、以後は風流を専らとした)とのものに出、一字を受けているところからも彼の門人であることは間違いない。]

 

 たまたま此題目を滑稽な誇張を以て取り扱つて居る。

 

  ないて居る木よりも太し蟬の聲  ( ? )

  杉高しされども蟬のあまる聲   ( ? )

  聲長き蟬は短きいのちかな    ( ? )

[やぶちゃん注:三句とも作者不詳。原本(右ページから次のページ。下の「▹」でもいいが、ページ自体をクリックしてもめくれる)には名前はなく、『( ? )』は訳者の附加。]

 

 その聲音の休止に次いで來る消極的な快感を讃へて居る詩人もある。――

 

  蟬に出て螢に戾る納凉かな    也有

  蟬の立つあと凉しさよ松の聲   梅雀

[やぶちゃん注:「納凉」は「すずみ」と読む。]

 

 〔序に此處で『松の聲』についての短い日本の歌のあることを言つてもよからう。この歌にある『ザザンザ』といふ擬音は、松葉を吹拂ふ風の深い唸聲を實にうまく現はして居る。――

 

    ザザンザ!

   濱松のおとは

    ザザンザ!

    ザザンザ!〕

[やぶちゃん注:例えば、大蔵虎明本(おおくらとらあきらぼん:寛永一九(一六四二)年の大蔵流のみでなく、現存する狂言最古の台本集)狂言の「空殻」の一節に出る。同狂言は、使いの途中で道で酔いつぶれた太郎冠者が、後をつけていた主人に鬼の面を被せられ、目を覚まして水に映った自分の姿に悲観して死のうとするが、その弾みに面が取れて、太郎冠者は主人に「是に鬼の拔殻が御ざる」と告げるという筋。酔いが回ったシーンにこれが出るようだ(所持する一九四三年岩波文庫刊「能狂言 中」(大蔵虎寛本)で確認した。但し、そこでは『ざざんざ。【諷ふて、】』とのみあるのであるが、小学館「日本国語大辞典」の「ざざんざ」を引くと、副詞で『松の梢に吹く風の音を表す語。江戸初期の歌謡で囃子詞のように用いられた。ざんざ。さんざ。さんさ。さざんざ』とあって、本狂言本を挙げ、『ざざんざ、浜松の音はざざんざ』の例文を掲げている『諷ふて』とある割注は、現代のシナリオで脚本家が「以下、歌って、よろしく」と記して、役者や演出家に後を任せるのと同じ謂いであろうとみた)。もとは一種の囃し唄のようである。個人サイト「ヨイヨイ! 囃しことば」の「狂言の旅」の「第八十九信」「狂言のセリフ・ことば」「いろんな演目」狂言に出る『リズム満点の囃子言葉はオノマトペも取り込んでしまいます』。特に『狂言には酒盛りの場面がしばしば出ますが』、『その時や酔っぱらいの鼻歌にもよく歌われるのが』この「ざざんざ」『です』。『これは』「浜松の風はざざんざ」『となる時もあるように』、『風の音のオノマトペなのです』とある。また、浜松には昭和初期に生まれた「ざざんざ織」という織物があるが、それについて解説したサイト「さんち 〜工芸と探訪〜」の「浜松の音はざざんざ 民藝運動から生まれた紬の物語」に、この『ちょっと変わった名前の「ざざんざ」とは「颯々」とも書きます。 古くより浜松の地にあった有名な松の木の下で、将軍足利義教が宴を催した折に「浜松の音はざざんざ‥‥」と詠ったことから、この松を「ざざんざの松」と呼ぶようになり、広重の五十三次にも描かれています。 潮風に冴え、人々に美しさと安らぎを与える松風の音を表現した「ざざんざ」にあやかって、その名が付いたそうです』とあった。]

 

 ところがまた、蟬の音聲が起こす感情は、全く聽く者の神經狀態に依るのだ、と宣言する詩人がある。――

 

  森の蟬凉しき聲やあつき聲    乙州

  凉しさも暑さも蟬の心かな    不白

  凉しいと思へば凉し蟬の聲    ギンコー《吟江》

[やぶちゃん注:「乙州」河合乙州(おとくに 明暦三(一六五七)年~享保五(一七二〇)年)は近江蕉門。通称は又七、次郎助。別号に※(「※」=「木」+「代」)々庵(だいだいあん)・設楽堂(しだらどう)。姓は「川井」とも書く。俳人河合智月(智月尼)の弟で姉の養子となった。金沢滞在中の松尾芭蕉と出逢って入門。「猿蓑」などに入集している。蕉門では若手の内であるが、芭蕉の信頼厚く、元禄七(一六九四)年大坂での師の死を看取っている。宝永六(一七〇九)年には芭蕉の遺稿「笈の小文」を板行している。

「不白」川上不白(ふはく 享保元(一七一六)年~文化四(一八〇七)年)は江戸中期の茶匠で江戸千家不白流の祖。紀伊新宮藩水野家の家臣川上五郎作の次男。十八歳で茶道に志し、表千家第七世如心斎宗左の下に参じ、その高弟となった。大徳寺の大龍宗丈(だいりゅうそうじょう)に参禅し、初め宗雪、後に不白と号した。不羨斎孤峰不白の称が知られるほか、別号を黙雷庵・蓮花庵とした。また俳諧もよくし、不羨庵の俳号で発句を多く残している。二十五歳の時には千家七事式の制定に参画。水野侯の茶頭(ちやどう)として寛延三(一七五〇)年三十二歳で江戸に下向し、千家の茶の普及に努め、一流を許されて江戸千家(江戸千家流)を称した。

「ギンコー《吟江》」夏目吟江(?~天明三(一七八三)年)であろう。俳人夏目成美(せいび)の弟である。]

 

 蟬の騷々しさに對する日本詩人のこの多數の不平を見て居て、そしてその蟬の殼から日本でも支那でも――多分、類は類を治す主義で――耳病譯者註一九の藥劑! を昔時製した、と聞き給ふ讀者は定めし驚かる〻ことであらう。

譯者註一九 「和漢三才圖會」に「蟬脫は皮膚瘡瘍風熱を治す。驚癇眼目の翳膜及び啞病夜啼皆馬蟬之蛻を用ゆべし」とあり。田中市水の「百蟲譜」に「脫捨の古着も故敝買の手に落入ず藥屋の手に渡り醫者にもてなされ不意の效をあらはして人を救ふめり」とあり。

[やぶちゃん注:「藥劑!」の後の字空けは底本にはない。特異的に補った。

『「和漢三才圖會」に「蟬脫は……』私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟬蛻(せんぜい)」を見られたい。ここでは大谷引いた部分だけ私の訓読文を示しておく。

   *

蟬蛻は【鹹甘、寒。】皮膚瘡瘍(そうちやう)・風熱を治す。驚癇〔(きやうかん)〕・眼目の翳膜〔(かすみ)〕及び啞病〔(おし)〕・夜啼き、皆、宜しく馬蟬(むませみ)の蛻〔(ぬけがら)〕を用ふべし。

   *

大谷の「蟬脫」は誤読か誤植である。

『田中市水の「百蟲譜」』「一」に既出既注で、大谷の引く部分も私が注で電子化してある。やや表記に異同があるが、問題ない。]

 

 が然し或る詩は蟬の音樂に賞讃者のあることを證明して居る。――

 

  面白いぞや我が子の聲は

           高い森木の蟬の聲

 

  この歌に能く似た歌がある。
  「面白いぞや、我が兒の泣くは、
 
 千部施餓鬼の、經よりも」

[やぶちゃん注:以上の一行は原本ではページ下部の原註(左ページ)。ここは底本通りに特異的にポイントを落とし、開始位置を同じにして改行を施した。

 ここに示された二つの「歌」原文では孰れも“poem”とする。しかし後の原註の頭の部分は“There is another version of this poem:―”となっており、これは音数律から見ても、短歌の類いではないことは明白で、寧ろ、近世の民謡、特に別ヴァージョンの「千部施餓鬼」から盆踊りのそれではないかと私は思っている。

「千部施餓鬼」「千部」は「千部会」(せんぶえ)の略。追善や祈願などのために同じ経を千人の僧で一部ずつ読誦する法会。一僧が千部読誦することもある。「施餓鬼」(せがき)は盂蘭盆に寺や死者の出た場所に於いて、餓鬼道に落ちて飢餓に苦しむ無縁仏や生類(しょうるい)のために催す読経供養を言う。]

 

 が斯んな賞讃は稀だ。蟬はその夜每の露の馳走に與らう[やぶちゃん注:「あづからう」。]とて叫んで居るのだ、と說く方が餘計である。――

 

  蟬をきけ一日ないて夜の露    其角

  夕露の口に入るまでなく蟬か   梅室

[やぶちゃん注:「梅室」桜井梅室(ばいしつ 明和六(一七六九)年~嘉永五(一八五二)年)江戸後期の俳人。名は能充(よしあつ)。別号は素蕊(信)・方円斎・陸々など。金沢生まれで、刀研師として加賀藩に仕えた。父について幼時より俳諧に親しみ、十六歳の頃、高桑闌更の門に入り、後、師から槐庵(かいあん)の号を与えられている。致仕後、京に出て、俳諧に励み、天保五(一八三四)年頃までの十余年間は招きを受けて江戸に住んだが、再び京に戻って定住、風交を広め、貴顕と交わって、嘉永四(一八五一)年には二条家から「花の下(もと)宗匠」の称号を贈られている。]

 

 蟬は時折戀の歌に讀み込んである。次記のはその立派な標本である。これは普通藝者共が歌ふ小唄の部類に屬するものである。その拵へたやうな感傷的な處は好ましからぬけれども、ただ意匠としては旨いと自分は思ふ。が日本人の趣味には確に野卑である。た〻くといふは嫉妬の爲めにである。――

 

  ぬしにた〻かれわしや松の蟬

         すがりつきつきなくばかり

 

 實際次に示す小きな繪の方が、日本人の美術主義に從へば、一層眞實な作品である(自分はこの作者の名を知つて居らぬ)

 

  蟬一つ松の夕日を抱へけり   繞石

 

[やぶちゃん注:最後の句の作者「繞石」(「ぎやうせき(ぎょうせき)」(「じょうせき」とも)と読む)は底本ではポイントが小さい。前に書かれている通り、原本ではご覧の通り、作者名は附されていない。奇妙だ。訳者の大谷が調べたのか? いやいや、そうじゃないんだ。では、「繞石」とは何者か? 実はこれは訳者である英文学者で俳人でもあった大谷正信の俳号なのである(大谷は京都の第三高等学校へ入学後、学制改革を受けて仙台の第二高等学校へ転校したが、そこで同級生に俳人高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃、俳句への傾倒が始まっている。明治二九(一八九六)年に東京帝国大学英文学科に入学、同年、島根県尋常中学時代に教えを受けた小泉八雲が同大学に赴任、再会を果たしたのであった。また、東京大学在学中には正岡子規に出会い、本格的に俳句の道に踏み出してもいる。また、明治三〇(一八九七)年に、松江に帰省し、出雲俳壇の中心的な俳人であった奈倉梧月に勧め、全国で五番目の俳句会である『碧雲会』を発足させている(ここはウィキの「大谷繞石」に拠った)。こうした経歴からも彼の俳句は余技ではないのである。因みに彼は明治八(一八七五)年生まれであるから、本作品集が刊行された当時は満二十五歳で、前年に東京帝国大学を卒業し、東京の私立中学郁文館で英語教師を勤めていたはずである。まさに本篇に限らず、俳句関連の日本語資料提供とその解釈(原本では英訳が添えられてある(訳では総て省略されている)。但し、中にはちょっと首を傾げるものもなくはない)・解説については恐らく大谷が中心になって行っていたものと推察されるのである)。「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注で示した通り、彼は謂わば、小泉八雲の教え子の中でも秘蔵っ子であったのであり、この最後の部分は彼への日頃の感謝と秘かなオードを籠めた確信犯の書き添えであったのである。それに対して、訳者・作者本人が訳文で敢えて正体を明かして――しかも慎ましくポイント落ちで――訳に添えたのであった。

 

       

 

 哲學的な詩歌は蟬を詠んだ日本詩篇には多數には無い。が全く異國風な情趣を具へて居る。恰も蝶の變形變態が靈魂の昇天の表號を古昔の希臘思想に供給した如くに、蟬の一生はその敎理を說く比喩や寓言を佛敎に與へて居る。

 人間がその體軀を脫離するのは丁度蟬がその皮を脫ぐと同じである、だが肉身を得る度每に前生の記憶が暗くなる。我々が前生を記憶して居ないのは、蟬が自分が出て來た殼を記憶して居ないと同じである。蟬の中には自分が脫ぎ捨てた皮膚の橫で歌つて居るのも屢々見らる〻ことであらう。だから或る詩人は

 

  われとわが殼やとむらふ蟬の聲  也有

 

と詠んだ。

 生きて居るやうに木の幹や枝にしがみついて居て、ギラギラした大きな眼で今猶ほ何か凝視して居るやうに思へる、この脫殼卽ち類像は、不信心な詩人にも宗敎的な詩人にも、橦々な事柄を暗示し來たつて居る。戀の歌では屢〻之を熱烈な戀慕に瘠せ枯れた身體に比して居る。佛致的な詩歌では、浮世の華箸の表象に――人間の偉大と稱するものも實は空虛なものだといふ表象に――なつて居る。

 

  世の中よ蛙の裸蟬の衣  ( ? )《可言》

[やぶちゃん注:「類像」原文は“simulacrum”。シミュラクラ。「似姿・幻影・面影・見せかけの偽せ物」等の意。

「蛙」原文の表記従えば、「かえる」である。

「衣」は原本を見て戴くと判る通り、“kinu”で「きぬ」と訓じている。

「可言」不詳。]

 

 だが詩人は時々、啼いて居る翅のある蟬を人間の露に譬へ、破れた脫殼を後に殘した屍體に喩へて居る。――

 

  たましひは浮世にないて蟬の殼  ( ? )

[やぶちゃん注:作者不詳。]

 

 それから蟬類の日光に活氣づく大擾音――あの如く早く過ぎ去る運命を有つた夏時の陸暴風――は、說敎師や詩人に、人間の欲望の擾亂にたぐへられて居る。蟬が地中から現はれ出て、暖氣と光線を受けに這ひ上り、囂々騷ぎ、間も無く再び塵土と沈默とへ歸ると同じく――代々の人間は、出て、騷いで、去つてしまふのである。――

[やぶちゃん注:「陸暴風」原文は“landstorm”。平井呈一氏の訳ではこの冒頭部、『さらにまた、太陽にせきたてられて無性に鳴き騒ぐ蟬の聲――あんなにも早く死んで行く運命をもった夏の命のはやてを、法を説く人や詩人は、人間の煩悩欲心の乱(ろう)がわしさにたとえる』(太字は傍点「ヽ」)と訳されておられる。平井氏の方が誰も躓くことなく、すっきりと読める。]

 

  やがて死ぬ景色は見えず蟬の聲  芭蕉

 

 此小詩中の思想は、虫の聲の悲調と共に自然の寂寞が我々へもたらす彼(か)の夏の憂愁を幾分か說明して居はせぬかと自分は思ふ。斯んな幾萬幾億の小生物どもは、東洋の古代の知識を――永久の眞理たる諸行無常の經典を――無意識に說いて居るのである。

 だが、我々西洋の近代詩人て、蟲の聲に注意を拂つた者は如何に僅少なことであるか!

 昔時自然がソロモン譯者註二〇に語つたやうに、自然が今日、斯んな微かな可愛い震音で語り得るのは、生の謎に刻薄にも煩はされて居る者だけへであらう。

 東洋の智慧は萬物の語を解する。そしてこの知識を身に得る人ばかりが――ジイガルド譯者註二一龍の膽を甞めて突然鳥の談話を解したやうに――そんな人ばかりが、蟲の言葉を解することであらう。

譯者註二〇 イスラエルの有名な王(紀元前九九三――九五三)。禽獸の語を解したりと傳へらる。

譯者註二一 エダに詠まれて居る、北歐神話に見ゆる王。

[やぶちゃん注:「ソロモン」(紀元前一〇一一年頃~紀元前九三一年頃)原文“Solomon”。旧約聖書の「列王記」に記されている古代イスラエル王国の第三代の王(在位:紀元前九七一年~紀元前九三一年頃)で同国を最盛期に導いた。優れた政治家であるともに、人並み外れた知恵者でもあり、エジプトに臣下の礼をとって、ファラオの娘を降嫁されることにより、安全保障を確立した。

「ジイガルド」原文“Sigurd”。ゲルマンの伝説に登場する英雄ジークフリート(ドイツ語:Siegfried)のこと。ドラゴン殺しの英雄として知られ、魔力の籠ったその龍の血を浴び、全身が甲羅のように硬くなり、いかなる武器も受け付けない不死身の体となったという。以下は、参照したウィキの「ジークフリート」を読まれたい。

「エダ」エッダ(Edda)。北欧神話の初期(ヴァイキング時代)の形態を伝える文書群の総称。]

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