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2019/09/27

小泉八雲 蟲の硏究 蟻 四・五・六・七 (大谷正信訳) / 蟲の硏究 蟻~了 / 作品集「怪談」~了

小泉八雲 蟲の硏究 蟻 四・五・六・七 (大谷正信訳) / 蟲の硏究 蟻~了 / 作品集「怪談」~了

[やぶちゃん注:本篇についての詳細は「小泉八雲 蟲の硏究 蟻 一 (大谷正信訳)」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 

       

 

 さて、もつと不思議な事實がある。

 この間斷無き勞苦の世界は、處女世界以上の世界である。尤も時に、雄が其世界に見出されはするけれども、それは特別な時機にだけ現れ、又、勞働者或は勞働と、全然何等の交涉を有つて居らぬのである。そのうちの一匹も敢て勞働者に言葉を掛けようとは――恐らくは、共同の危險の異常な場合を除いて――しない。また勞働者の方で雄に話をしようなどと思ふものは一匹も居らぬ。といふのは、雄は此不思議な世界では、鬪ふことも働くことも等しく出來ない劣等な物で、單に必要な厄介者として、我慢して置いて貰つて居る物だから。雌のうちの或る特殊の階級が――此種族の母體に選拔されたものが――特別な季節の間、極はめて短かい時機の間、配偶者になつて吳れるのである。だが、母體に選拔されたものは働かぬ。そしてそれは夫(をつと)を受納せざるを得ぬのである。勞働者は雄と交はるなどいふことは夢想だにし得ぬことであらう――それは、そんな交際は最も無駄な時間浪費を意味するからといふ爲め計りで無く、また勞働者は必然的にあらゆる雄を云ふべからざる輕侮の念を以て見て居るからといふ爲め計りで無く、勞働者はしやうにも結婚が出來ぬ軀(からだ)だからである。尤も、勞働者のうちには、單性生殖をすることが出來て、父無し子を生むことが出來る者が居る。だが、一般の規則として、勞働者はその道德的本能だけが眞に女性である。非常な慈悲心と忍耐力と、我我が呼んで『母性的』と云ふ先見とを有つて居るのである。その性は、佛敎の傳說に見る龍女同樣、無くなつて居るのである。

[やぶちゃん注:「處女世界」原文は“Vestal world”。“Vestal”はローマにあった「ウェスタの祭壇」(本邦の「竈神(かまどがみ)」相当)に燃える聖火を守った四人(後に六人)の処女のこと。]

 肉食動物卽ち国家の敵を防ぐが爲めに、勞働者は武器を具へて居る。そしてその上また强大な武力に保護せられて居る。その軍人は、始め一寸見た時には同一種族のものとは信ぜられぬほどに(少くとも或る社會では)勞働者よりは遙か身體が大きい。それが守護して居る勞働者よりも百倍も大きな軍人は珍らしく無い。ところがその軍人が凡て女丈夫である、――否、もつと正確に云へば、半女性である。みな頑强に仕事をやつて行くことは出來る。が、主として戰鬪をするやう、重い物が曳けるやうにと出來上つて居るからして、その用は塾練よりも、力の要求せられる方面に限られて居る。

[やぶちゃん注:最後の段落は所謂、「兵隊アリ」の記載であるが、総てのアリに兵隊アリが居るわけではなく、兵隊アリと呼ばれても、働きアリと区別できない形態のもの、寧ろ働きアリよりも臆病な印象を受けるもの、担当業務が「兵隊」でないもの等、多種多様である。サイト「アントルーム」の「■コロニー(家族)」によれば(改行を省略した)、『アリの種類によっては、同じ働きアリでも、大きさや形が違う個体が現れることがあります。特にオオズアリ』(大頭蟻。膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科アリ科フタフシアリ亜科オオズアリ属オオズアリ Pheidole noda)『やオオアリ』(ヤマアリ亜科オオアリ属 Camponotus)『には、頭部も体も大きな兵隊アリが現れる種類があります。兵隊アリと名前だけ聞くと、敵と戦うためのアリといったイメージがありますが、オオズアリの場合は、兵隊アリは働きアリよりも臆病な感じがします。実は兵隊アリの本当の役割は、働きアリが集めてきた大きなエサを解体したり、運んだりするなどの力仕事が専門なのです。中にはコツノアリ』(フタフシアリ亜科カレバラアリ属 Carebara yamatonis)『のように、兵隊アリは一切外へは出ずに、巣に運ばれてきたエサを、そ嚢に貯蔵するだけのアリもいるのです。このように兵隊アリが現れるアリであっても、兵隊アリが現れるのはコロニーが数十から百匹を超えないと現れることはありません。これは、働きアリが幼虫に与える量を制限しているためだと言われています。コロニーの数が少ない時期は、外敵に襲われやすく、最も危険な時期なのです。このような大変な時期に、成長するのに多くのエサと時間が必要な兵隊アリを育てている余裕などないため、幼虫に与えるエサを少なくして、体の小さな働きアリをたくさん増やす事に専念するのです。そして、コロニーの数が多くなり、安定してエサが集まるようになると、体の大きな兵隊アリを育て始めるのです。クロオオアリ』(ヤマアリ亜科オオアリ属オオアリ亜属クロオオアリ Camponotus japonicus)『を飼育した場合、働きアリが100匹以上になったころから兵隊アリが現れます。また、大きなコロニーであっても兵隊アリの割合は決まっていて、種類にもよりますが、全体の5~10%ほどが兵隊アリになるようです。生まれた卵が、働きアリか兵隊アリのどちらになるのかは、子育てをする働きアリによって決められてしまうのです。そして、コロニーがさらに成長して、ようやく新女王が育てられるのです』とある。]

 

 〔何が故に、雄で無くて、雌が進化の上に於て軍人及び勞働者に分化したのだらうかといふことは、思ふほど簡單な問題では無いかも知れぬ。これに答へることは確かに自分は出來ない。だが、自然的經濟が此事件を決定したのかも知れぬ。多くの生物體を見るに、雌の方が圖體に於ても精力に於ても、大いに雄に優つて居る。思ふに、此蟻の場合に於て、完全な雌が元もと所有して居た生活力のより大なる貯藏が、或る特殊の戰鬪階級を發達進化せしむるのに、より迅速に且つ有利に利用され得るからであらう。生產力に富んで居る雌に於て、子を產むに費やさるるあらゆる精力が、この蟻の場合、攻擊力或は勞働能力の進化の方へ向けられてあつたやうに察せられる〕

 

 正眞の――母體に選拔されたもの――は實際甚だ少い。そしてそれ等は女王のやうな待遇を受けて居る。彼等は何んの願望も滅多に云ひ出し得ない程までに絕え間無しに且つ恭しくかしづかれて居る。生存のあらゆる心配を後裔を生むといふ義務を除いて――除かれて居る。日も夜もあらんかぎりの世話を受けて居る。彼等だけがあり餘る程に美の供給を受ける。後裔の爲めに彼等は全く王樣のやうに飮食し、また休息せねばならぬのである。そしてその生理的分化は、それに心任せに耽り得られるやうにして居る。滅多に外出をしない。有力な護衞が隨行しなければ決して外出しない。不必要な疲勞や危險を招くことを許容されぬからである。多分、外出したい希望も大して無からう。彼等の周圍には種族全體の大活動が目まぐるしい程行はれて居る。そしてその慧智も勞苦も儉約も悉く皆、この母とその子供の安寧に向けられて居るのである。

 ところが、その母の夫が――必要な厄介物が――雄が、これが全種族の最後の最小の地位を有つて居る。前に道べた通り、或る特別な季節だけに現れ、且つ其生涯は甚だ短かい。或るものは、高貴な方に結婚する運命を有つては居るが、尊い家に生れた身だと誇ることさへ出來ない。彼等は高貴な家に生れたものでは無くて――處女から生れ出たもので――單性生殖が造つた子供で、そして殊にその理由で、或る不可思議な隔世遺傳の偶然の所產に過ぎない――劣等なものであるからである。だが、此社會は、どんな種類の雄でも、極く僅少しか――全く母體に選拔されたものの役に立つだけしか――存在を許容せぬ。そしてその少數者は任務を果すと殆んど同時に死滅する。自然の大法の意義は、此異常な世界に在つては、努力無き生活は罪惡なりといふラスキンの敎へと符合して居る。そして雄は勞働者として、或は戰鬪者として役に立たぬのであるから、その生存はただ一時的に肝要なだけのことである。尤も、テストリポカのお祭りの爲め選ばれて、その心臟を裂かれる前二十日の間の新婚旅行を許もれるアズテクの犧牲のやうに――犧牲にされるのでは無い。だが、その幸運の不幸さは殆んどそれに劣らぬ。自分共はただの一と晚、王の花婿になるのだ――婚禮後も生きて行く道德上の權利は有たぬのだ――自分共いづれもにとつて、結婚は必然の死を意味するのだ――數代の間自分よりも生き延ぴる若い寡婦に歎いて貰ふ希望さへ有てぬのだ、――かういふことを知つて居ながら、育てられる靑年を想つても見給へ……!

[やぶちゃん注:雄アリの中には交尾終了後に生殖器ごと内臓が引き抜かれて即死する場合もあると読んだことがある。

「ラスキン」イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家・社会思想家であったジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)。同時代の芸術家のパトロンであり、自身も設計製図や水彩画をこなし、篤志家であった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、名著「近代画家論」(Modern painters:一八四三年~一八六〇年)を著したことで知られる。

「テストリポカ」原文“Tezcatlipoca”。現行音写は「テスカトリポカ」。アステカ(Aztec:訳の「アズテク」)神話の主要な神の一人で、神々の中で最も大きな力を持つとされる。ウィキの「テスカトリポカ」によれば、『その名は「煙を吐く鏡」を意味』し、『その神性は、夜の空、夜の風、北の方角、大地、黒耀石、敵意、不和、支配、予言、誘惑、魔術、美、戦争や争いといった幅広い概念と関連付けられている』。『通常』、『身体は黒く、顔に黒と黄色の縞模様を塗った姿として描かれ、しばしば右足が黒耀石の鏡か蛇に置き換わった姿で表現される』。『生贄を要求する神であった』。『アステカ創造神話の一つ』では、『テスカトリポカとケツァルコアトルが力をあわせて世界を創造したという伝説がある。創世が行われる前には』、二『神の前には海しかなく、Cipactli (シパクトリ、ワニの女神)と呼ばれる大地の怪物がいた。怪物をひきつけるためにテスカトリポカは自らの足を餌にし、怪物はその足を食らった』。二『神は怪物を捕らえ、その身体から大地を作った。その後、人間が創造され、人々はシパクトリの苦痛を慰めるため』、『生贄を捧げることになった。この伝説によって、テスカトリポカは片足がない姿で表される』。『一方で他の創世神話において』は、『テスカトリポカが太陽として世界を支配することになったが、ケツァルコアトルは宇宙を敵に支配されることに我慢ができず、テスカトリポカを打ちのめし』、『空から追いやった。怒ったテスカトリポカはジャガーに姿を変え、世界を滅ぼした。ケツァルコアトルは太陽の座をテスカトリポカと替わり、世界の』二『番目の時代を開始』して、『テスカトリポカはケツァルコアトルを打ち倒し、テスカトリポカの送った強風は世界を荒廃させ、生き残った人間は猿に変身させられた』(以下、続くが略す)。『テスカトリポカの祭祀は、アステカ太陽暦の』五『番目の月である Toxcatl (トシュカトル、乾燥)の期間に行われた。祭りの準備は』一『年前から行われ、神官によってテスカトリポカによく似た若い男性が選ばれた。祭りまでの一年間、男性は宝石を身につけ』八『人の従者をつけられ、神のような生活を送った。最後の』一『週間に歌い踊り』、『大いに食べ』、四『人の若い女性と結婚した』。『祭り当日、男性は神本人の如く崇められ、自ら神殿の階段を昇り、神官はその胸を切り裂き』、『心臓を取り出し』、『太陽への生贄とした。生贄の死の直後、翌年の祭りのために新しい犠牲者が選ばれた』。『大英博物館に、テスカトリポカを表したと考えられる人間の頭蓋骨を基材にした黒曜石と翡翠のモザイクのマスクが所蔵されている。マスクは1400年から1521年の間に製作されたと見られる。メキシコで発見され、1860年代にヘンリー・クリスティによって大英博物館に寄付された。モザイクの』嵌め『石はターコイズと亜炭で作られ、その目は貝のリングと黄鉄鉱でできている。それらは30歳代と見られる人間の頭蓋骨の上に直接配置された。歯は頭蓋骨そのままのものだが、上前歯4本が無くなっている。頭蓋骨の後ろの部分は切断され、革が張られていた。頭蓋骨と顎の部分は革でつながれており、動かすことができる。大きさは高さ19.5センチメートル、幅12.5センチメートルである。おそらく着用者の腰の部分につけられたと思われる。マスクの発見場所は知られていないが、高位の神官か皇帝自身が使用したと考えられている』とある(マスクの写真有り。太字下線は私が附した)。]

 

 

      

 

 だが、これまで述べたことは凡て眞の『昆蟲世界のロオマンス』の序言に過ぎぬ。

 この驚歎すべき文明に關して、取りわけ最も驚くべきは、性の禁止の發見である。蟻生活の或る進步した種類のものに於ては、その大多數の個個のものに性といふものが全然無くなつて居る。殆んど凡での、より高等な蟻生活には、性生活はその種の繼續に絕對に必要な範圍だけに存在して居るやうに思へる。然しその生物學的事實そのものは、その事實が提供する倫理的暗示ほどに驚くべきものでは無い。何んとなれば性槻能の此實際的禁止或は調節は自發的のものであるやうに思へるからである。少くともその種(しゆ)だけのことを云へば自發的である。この不思議な動物は――或る特別な榮養方法で――その幼年者の性を發展せしめる方法、或はその發展を制止する方法を知つて居るといふことを、今は信ぜられて居る。彼等は、本能のうちで最も有力な、そして最も制御し難いものだと普通想像されて居る性的本能を完全に左右することに成功して居るのである。そして種(しゆ)が絕滅しないやうに取り計らふのに必要なだけの範圍内に、性生活をかく嚴正に檢束することは、此種族が成し遂げた多くの生命的經濟の(實に驚くに足るものではあるが)ただ一つに過ぎないのである。利己的な――『利己的』といふ語の普通の意味での――快樂を味ひ得る能力はどの能力も、同樣に生理的變更によつて抑壓されて居る。如何なる自然的食慾に耽ることも、それが直接或は間接に、その種の利益となり得る程度までのことで、それ以外は可能で無いのである。食物及び睡眠といふ必要缺くべからざる要求すらも、健全な活動を維持するに必要な限界にだけ滿足を與へられて居るのである。個個のものは社會共同の利益の爲めにのみ存在し行動し思考し得るのである。そしてその社會は、宇宙の大法の許す限り、にも飢餓にも支配されることをば得得として[やぶちゃん注:得意そうに。自慢げに。]拒絕して居る。

 

 我我人間の多くは、或る種の宗敎的信條――未來の褒美を望み、未來の處罰を恐るる念――無くしては如何なる文明も存在し得ないといふ信仰で育て上げられ來たつて居る。道德觀念に基づける法律が無いならば、又、かかる法律を斷行する有效な警察が無いならば、誰れも彼もが、自己のみの利益を求めて、他の誰れもの不利益を來たすであらうと、かう考へるやうに我我は敎はり來たつて居る。それでは强者は弱者を滅ぼすであらう、憐憫や同情は無くなるであらう、社會の全組域は粉な微塵になるであらうと。……こんな敎へは、人間の性質の現在の不完全さを自白して居るのである。そしてそれは明白なる眞理を含んで居るのである。が、然し幾千幾萬年の往古、其眞理を聲明した者共は、利己といふことが自然的に不可能な社會的生活の一種が在ることを想像しなかつたのである。能動的の善を爲すの愉快が義務の觀念を不必要とする一社會が存在し得るものだ――本能的な道德性があらゆる種類の道德法典を要らぬものにし得る一社會が存在し得るものだ――其處の者は一人殘らず生れながら絕對的に利己心が無く、根氣强く善良で、道德訓練はどんな幼年の者にでも全く貴重な時間の浪費としかなり得ない樣な一社會が存在し得るものだ、といふ積極的な證據を、非宗敎的な自然をして我我に提供せしめることが殘つて居たのである。

 

 進化論者には、かかる事實は、我我人間の道德的理想主義の價値は、ほんの一時的のものであるといふこと、又、その語の現今の人間界での意味の、德といふものよりも善い、深切といふものよりも善い、克己といふものよりも善い或る物が、或る境遇の下(もと)に竟にはそれ等に取つて替りはせぬだらうかといふこと、を必然的に暗示するのである。進化論者は道德觀念無き世界が、そんな觀念に行爲を制限せられる世界よりも道德的により善い世界ではなからうかといふ問題に面と向かはざるを得ないことを見て居るのである。進化論者は、我我人間界に存する宗敎的訓誡や道德的法則や倫理的標準は、我我がまだ社會進化の極はめで初步の階段に居ることを證明しては居ないかとさへ自問せざるを得ぬのである。そしてかかる疑問は當然更なる疑問へと導く。卽ち、人間は、此惑星の上に在つて、そのあらゆる理想を越えて居る或る倫理的情態に――今、我我が惡と呼んで居るもの悉くが萎縮し盡くして存在しなくなつてしまひ、我我が德と呼んで居るもの悉くが變じて本能となつてしまつて居るやうな情態に、――倫理的な槪念や法則が、今でもより高等な蟻の社會に於てさうであらうと同じく、不用になつてしまうやうな利他の有樣に、――いつか到達することが出來るであらうかと。

 

 近代思想の巨人達は此問題に幾分の注意を拂つて居る。そしてそのうちの最も巨大なる者が  ――一部肯定的に――これに答へて居る。ハアバアト・スペンサア氏は、人類には倫理的に蟻の文明と比較し得べき或る文明情態に到達するであらうといふ、その信心を告白して居られる。――かう言つて居られる。

 『若し下級な生物のうちに、その本性が素質の上に於て變化を來たして、利他的活動が利己的活動と一つになつてしまつて居る實例があるならば、それと同じな事が、同じ事情の下に、人類間に出來するであらうといふことは、否應無しにそれに含まれて居ることである。ところが社會的な昆蟲は、全く此點に剴切な[やぶちゃん注:「がいせつ」。非常によく当て嵌まる。]實例を――他の多くの個人の生活に役立つ上に於て、驚くばかりの程度まで、個人の生命を奪つても宜しいといふことを我我に示す實例を――供給して吳れて居る。……蟻も蜂も、我我がその語に與へる意義での義務といふ念を有つて居るとは想像が出來ぬ。又、その語の尋常普通な意味での犧牲に絕えず逢うて居るとも想像することは出來ぬ。……〔これ等の事實は〕利他的目的を追求するのに、他の場合に利己的目的を追求する際に示すのと全く同樣に根氣强く、且つ同樣以上にすら根氣强く、あるやうな本能を造り出すことは、有機組織の可能性のうちに存して居ることを示すのである。――また、かかる場合には、その他の半面から見て利己的な目的を追求して以て、その利他的目的が追求されることを示すのである。その有機組織の必要を滿足せしめる爲めには、他人の安泰を來たすやうな、そんな行動を爲さなければならぬのである。……

         ………………………………

 あらゆる未來を通じて、自己を思ふ念が、他を思ふ念の爲めに絕えず服從さるべき情態が續かなければならぬといふことは眞理どころか、反對に、他を思ふ念が竟には愉快の大源泉となつで、直接な利己的な滿足よりして生ずる愉快より大きくなるやうなことが出來して來るであらう。……かくして、しまひには、利己と利他とが折衷されて、彼此融合して、一つになる情態がまた出來するであらう。

[やぶちゃん注:引用符の「閉じる」(』)がないのはママ。最終段落前の点罫線の下部はもっと長い。また、最終段落全体も原文では“ ”で括られているから、ハーバート・スペンサーの著作の別な部分からの引用であって、小泉八雲の文ではないので注意が必要である。創作性作品(小説・随筆)傾向が強い本書では、他の論説作品のようには小泉八雲は引用元を明示していないが、以上は調べて見たところ、孰れもスペンサーの一八九七年の「倫理の法則」第一巻(Herbert SpencerThe Principles of Ethics, vol. 1”の「第十四章 調停」(APPENDIX TO PART I. The Conciliation”)の引用であることが判ったこちらの英文サイト“Online Library of Liberty”の同書(全文)で検索を掛けた)。]

 

 

       

 

 固よりのこと前揭の豫言は、昆蟲社會の種種な階級が、それに因つて分化されて居る組織的分化に匹敵する組織的分化が現すであらうやうな、そんな生理的變化を人間の本性がいつか蒙るであらうといふことを含んでは居ない。活動的な大多數者は、不活動な少數者たる選拔された母の爲めに勞苦する半女性の勞働者と女士軍から成る、といふやうな人類の將來は想像の出來ない事である。スペンサア氏はその『將來の人口』の章に於てさへ、――完全に發達した神經系統について、また人間の出產の大減少についての氏の一般的叙述には、かかる道德的進化は頗る多大な生理的變化を意味するものだといふことが暗示されては居るが――道德的に一層高等な種類の產出に避くべからざる生理的變化に就いては何等細目に涉つての叙述を試みて居られぬ。若しも、相互の利益を圖るの愉快が人生の喜びの全部となるやうな、將來の人類の可能を信ずることが合理ならば、昆蟲生物學の事實が證明して進化的可能の範圍内にあると云うて居るやうな、生理的な又道德的な、他の變態を想像することもまた合理ではなからうか。……自分には分らぬ。自分はハアバアト・スペンサア氏を、これまで此世界に出現したうちの最も偉大な哲學者として最も崇拜的に尊敬して居る。だから、氏の敎へに反對した事を何か書きつけて、それは綜合哲學が鼓吹した意見だと讀者が想像されるやうなことになるのは、自分の甚だ遺憾とするところである。以下記す考察には、自分だけに責任があるので、若し自分が誤つて居るならば、その罪は自分だけの頭上に下らんことを希ふ。

[やぶちゃん注:英文ウィキの「Herbert Spencerに、“The Principles of Biology, Vol. II (1867), Part VI: Laws of Multiplication, ch. 8: Human Population in the Future”(「生物学の基本原則」第二巻・第六部「「乗法(掛け算)の法則」・第八章「将来の人類の人口」:一八六七年刊)とあるのを指すようである。]

 

 スペンサア氏が豫言された道德的變態は、生理的變化の助けによつて始めて、しかも非常な犧牲を拂つて始めて、成し遂げ得るものであると自分は想ふ。昆蟲社會が表明して居るあの倫理的情態は、非常に猛烈な慾求に反抗して幾百萬年の間、死に物狂ひに支持し來たつた努力によつて始めて達し得られた譯のものである。人類も亦それと同樣に無殘な欲求に遭遇して、そして竟にそれを支配しなければならぬかも知れない。精一杯最大な人間の苦しみの時代がまだ、これから來るのだといふこと、又、それは精一杯最大な人口增加の壓迫に伴うであらうといふことを、スペンサア氏は示して居られる。その長期の壓迫よりして生ずる數ある結果のうちに、人類の慧智と同情との異常な增加があるであらう。そしてこの慧智の增加は人間の多產を犧牲に供して成し遂げられるものである、と自分は思ふ。然し生殖力のこの衰退は、聞くところに據れば、最高無上の社會情態を保證するに足るものでは無くて、ただ、人間の困苦の大原因たる人口の壓迫を救ふだけのものである。社會が完全に平均を得て居るといふ情態は、

 社會的昆蟲が既に解決して居るやうに性生活を禁止することによつて經濟問題を解決する何等かの手段が發見されない限り

 人類はそれへ近寄ることは出來ようが、十分にそれへ到達することは決して出來ないことであらう。

[やぶちゃん注:以上の太字(原文は傍点「ヽ」)部の改行による独立はママである。原本でもこの部分は斜体で前後が一行空けで載る(左ページ)。]

 

 かかる發見が爲されると假定し、又――今、性生活が要求して居る諸力をば、一層高等な活動力の發展へ移すことを仕果すやうに――自己が產んだ子供の大多數に性の發達することを差し止めることを人類が決心すると假定すると、其結果は蟻の情態同樣に結局は同質異形の情態となるのではなからうか。そして、さうなるといふと、未來の人種は、男性の進化によるよりも寧ろ、女性の進化を經て、そのより高等な部類の者は、大多數の男女何れでも無い者がこれを占めるのではなからうか。

[やぶちゃん注:私は基本、生物学的な意味での、生物種としてのヒトの女性の単為生殖的進化という点で、この小泉八雲の説に組する。但し、その場合でも、人類は早晩、滅亡するであろうという結末を添えて、であるが。]

 

 現今でさへ、全く非利己な(宗教的な動機のがあるのは云ふに及ばぬが)動機からして、獨身生活を決心する人の多いことを考へるといふと、今よはもつと高等な進化を來たした人類が、共同の幸福の爲め、殊に其爲め獲得さるる或る利益を思うて、その性生活の大部分を喜んで犧牲に供するであらう事は、ありさうに無いことには思へぬであらう。その或る利益といふ中で――蟻のやうな自然的方法で性生活を人類が支配し得るものといつも假定して――驚く許りに壽命が延びるといふ事が、その一番小さなものではなからう。性を超越した人類の一層高等な種類のものは、一千年の壽命といふ夢想を實現し得るかも知れぬのである。

 我我が今、爲さなければならない仕事をするのに、今の我我の壽命は短か過ぎることを既に我我は知つて居る。それに、發見は絕えず加速度を以て進行するし、休む問無しに知識は增大して行くことであるから、時の進むに連れて、壽命の短かさを悔むべき理由は確かに層一層强うなつて來ることであらう。科學が鍊金術士の希望たりし不老藥をいつか發見するといふことは到底も見込みの無いことである。宇宙の諸力は我我に騙されはせぬ。彼等諸力が我我に讓つて吳れる一一の便益[やぶちゃん注:「べんえき」。便宜と利益。都合よく利益のあること。]に對して、我我は十分な代價を拂はなければならぬ。無代(ただ)では何んにも、は永久の大法である[やぶちゃん注:原文は“For every advantage which they yield us the full price must be paid: nothing for nothing is the everlasting law.”で、「彼ら(宇宙のあらゆるエネルギ)が我々に齎す総ての便宜と利益のためには、その代価たる全額を支払わねばならない――無対価(ただ)の「永遠の法則」はどこにもありはしないのだ」の謂いである。]。恐らくは長壽といふ代價が、蟻がそれに對して拂うた代價なのであらう。恐らくは、地球よりも年長な或る惑星では、その代價が既に早、拂はれて居て、子孫を產出する力は、我我の想像の出來ない方法で、その種(しゆ)の他の者とは形態學的に分化して居る一階級のものに限られて居るのではなからうか。……

[やぶちゃん注:この最後の部分は多分に霊的な存在を念頭に置いている感じがする。

「不老藥」原文は“Elixir”。音写は「エリクシール」「エリクサー」等。中世ヨーロッパの錬金術(英語:alchemy)で、飲めば不老不死になれると伝えられる霊薬の名。ウィキの「エリクサー」によれば、かのアイザック・アイザック・アシモフ(Isaac Asimov 一九二〇年~一九九二年)の「化学の小歴史」(A Short History of Chemistry:一九六五年刊)の「第二章 錬金術 アラビア人達」に『よれば、語源は、乾いた粉と考えられていたことからギリシア語の』「xerion」(「乾いた」の意)『がアラビア語に翻訳されて』「al iksir」となったとし、一方、ドイツの作家ハンス・J・シュテーリヒ(Hans Joachim Storig 一九一五年~二〇一二年)の「西洋科学史」に『よれば、イスラム錬金術の祖ジャビル・イブン・ハイヤン、ラテン名ジーベル(他にゲベル、ジャビル)が、金属の四元素四性質(温・乾・湿・冷)を変性し、作り出した一性質のみの元素を』「al iksir」としたが、この「al iksir」を十三世紀に翻訳した名が「elixir」で『あるとする』などの説がある。『錬金術の至高の創作物である賢者の石』(ラテン語:lapis philosophorum(ラピス・フィロソフィウム):但し、これが文献上に現れるのはエリクサーよりもかなり後とされる)『と同一、あるいはそれを用いて作成される液体であると考えられている』とある。]

 

 

      

 

 然し昆蟲生物學の事實が人類進化の未來の進路に關して、かくも多く暗示を與へると同時に、倫理と宇宙律との關係に就いて、最も重大な或る物をもまた暗示しはせねか。確かに、人間の道德經驗があらゆる時代に於て非難して居る事柄を爲し得る動物には、最高の變化は許しはされぬのであらう。確かに、あらゆる力の中で、最高の力は無私無慾の力である。殘忍に對し或は淫慾に對して無上の力が與へられるといふことは決して無い事であらう。神といふものは無いものかも知れぬ。然し生物のあらゆる形態を構成したり分解したりする諸力は、神よりも、もつと酷烈無假借なものに思へる。星の振舞ひに『戲曲的傾向』のあることを證明する事は出來さうに無い。が、然しそれにも拘らず、宇宙の過程に、人間の利己といふことに根本的に反對して居る人間の倫理制度悉くの價値を肯定して居るやうに思へるのである。

 

[やぶちゃん注:これを以って作品集作品集「怪談」(原題“KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”。来日後の第十作品集)は終わっている。]

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