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« 小泉八雲 夢魔觸 (岡田哲蔵訳) | トップページ | 小泉八雲 茶碗の中 (田部隆次訳) »

2019/09/04

小泉八雲 作品集「骨董」 (正字正仮名)全電子化注始動 / 幽靈瀧の傳說 (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Legend of Yurei-Daki”)は一九〇二(明治三五)年十月にニュー・ヨークのマクミラン社(MACMILLAN COMPANY)刊の“KOTTŌ”(来日後の第九作品集)の冒頭に配された“Old Stories”(全九話)の冒頭に配されたものである。作品集“KOTTŌ”原本は、“Internet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。但し、これは翌一九〇三年の再版本)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。この優れたテクスト・サイトを私はずっと以前から知っていて、頻繁に使わせて戴いていたのであるが、実に迂闊なことに、日本のサイトでは総ては公開されていない小泉八雲の邦文の小泉八雲全集(第一書房の元版全集(全十七巻)の三冊分のみが国立国会図書館デジタルコレクションで、グーグルブックスで八冊(但し、前者の三冊とダブる)がダウン・ロード出来るだけである)が、ここで実は容易に「家庭版小泉八雲全集」の方の全画像で手に入ることを数日前に知り、激しく仰天した。滞りなく、入手を終え、さても、これで小泉八雲の電子化注を心ゆくまで行える準備が整ったとしみじみと感じたのである。なお、底本の一部はハレーションによるものと思われる画像の不具合や、誤植による脱字が疑われる部分が散見されるが、そこは英語原文及び前後或いは訳者の癖からまず間違いないと思われる記号や字を注で添えるか、確実な誤りと断じたものは注した上でで特異的に訂した。文中の傍注記号は底本通りではなく、適切と思われる位置に上付きで示した。なお、これ以降、小泉八雲の上記全集の電子化では、本文内の二重鍵括弧はいいとしても、ポイント落ちの註及び訳者註については、それを拡大して見ると、二重に見えるだけで単なる鍵括弧であることが多く、或いは区別が拡大してもつかないケースが多かった。そこで、向後、私の本全集底本では一貫して、本文では二十鍵括弧かただの鍵括弧は厳密に判定して打つものの、ポイント落ちのそれらは、総てただの鍵括弧で有無を言わさず電子化することとした。そうした益の頗る少ない徒労の作業はこれを避けたいからである。悪しからず。

 思えば、私が最初に小泉八雲の子供向けでないそれに本格的に出遇ったのが、十一歳の冬、年上の青年から贈られた角川文庫の田代三千稔(みちとし)氏訳の「怪談・奇談」(小泉八雲の諸作から怪奇談を集めて訳したアンソロジー)でであった(恐らく最初の出会いは小学校二、三年頃で、まさに、この幽霊滝の話と、切り絵の挿絵の入った、しかし、凄絶な「ろくろ首」の子供向けのものであったと記憶する)。さても、まずは作品集「骨董」から、順次、参ろうと存ずる。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本底本にあっては最後まで傍点「ヽ」は太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は原拠も含めて正字化した。「骨董」では挿絵は底本にはないが、原本では各話の前後に同じ絵がサイズを変えて配されてある。“Project Gutenberg”版にある最初に配された大きい方のそれを使用した(使用許諾有り)。挿絵画家は“Genjiro Yeto”と扉表紙(以下の画像参照)にあり、これは佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)である。彼の事蹟はウィキの「江藤源次郎」を見られたい。但し、本底本最後の田部隆次氏の「あとがき」によれば、『マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞と「獏」の繪「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる』とある。 ]

 

Kotto-cover

 

Kotto_tp

 

   骨 董

 

 

   雜多な蜘蛛の巢のかかつ

   た日本の珍奇なものども

 

Kotto_001

 

   サー エドウイン アーノルド ヘ

        親切なる言葉の感謝の記念に

[やぶちゃん注:以上は、底本の「骨董」の部の頭、三ページに亙って、分割されて配された標題・副題・献辞である。なお、使用許諾のある“Project Gutenberg”版にある表紙画像・扉表紙の画像・口絵写真も貼った。副題は扉表紙の標題の副題“BEING JAPANESE CURIOS, WITH SUNDRY COBWEBS”(「さまざまな蜘蛛の巣のかかった日本の骨董的対象品」)であるが、いや、実にさすればこそ“COLLECTED BY LAFCADIO HEARN”が文字通りで如何にも洒落ている。“Lecturer on Literature in the Imperial University of Tōkyō, Japan”は「東京帝国大学文学部講師」である(但し、本書発行の翌年一月に一方的に郵便で解雇通知が送られ、学生らの反対運動も起こって、大学側は延長を打診するが、拒絶した。後任は夏目漱石上田敏であったが、漱石は学生から激しく嫌われた)。口絵写真は刻まされいる文字からみて、無縁仏を祀る三界萬霊杜塔(さんがいばんれいとう)と思われる(場所不明)。私は本書に添えるに如何にも相応しいものと思う。

「サー エドウイン アーノルド」エドウィン・アーノルド(Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)はイギリス出身の新聞記者で作家・東洋学者・日本研究家・仏教学者・詩人。ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる人物で、明治二二(一八八九)年十一月五日に来日した。ウィキの「エドウィン・アーノルド」によれば、その時、日本の官吏や学者が開いた来日歓迎晩餐会の席上で、彼は「日本は地上で天国或いは極楽に最も近づいている国である」と賞讃し、滞在中は福澤諭吉が自宅に招いて慶應義塾(当時は旧制専門学校)に彼を住まわせて援助し、慶應義塾の客員講師として化学及び英訳を担当させている。滞在中、三番目の妻となる三十七年下の黒川玉(たま)と結婚し、明治二四(一八九一)年十一月の帰国の際にはイギリスに連れ帰ってともに生きた。この来日と離日のクレジットは『駒澤大學佛教學部論集』(第四十四號平成二五(二〇一三)年十月発行)の金沢篤氏の論文「エドウィン・アーノルドと近代日本(1)―和訳と八巻本詩作品集他について―」によった。なお、その論文によれば、アーノルドは翌年の明治二十五年三月にも再来日して、夏まで四ヶ月ほど滞在している。小泉八雲の来日(明治二三(一八九〇)年四月四日)以降で二人が日本にいたことは事実であるが、実際に逢ったことがあるかどうかは所在地と時期から見てかなり微妙である。しかし、謂わば、アーノルドは日本研究にあって八雲の先駆者的存在であり、八雲が親しかった日本研究家バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)とも交流しているから、八雲とも書簡でのやりとりがあったことは確実である。]

 

 

  古い物語

 

       つぎの物語九篇は不思議な信仰の
       說明として、「新著聞集」「百物語」
       「宇洽拾遺物語抄」その他の古い
       日本の書物から選んだもの。ほん
       の骨董である。

 

 

   幽靈瀧の傳說

 

Kotto_002


 

 伯耆の國、黑坂村の近くに、一條(すぢ)の瀧がある。幽靈瀧と云ふその名の由來を私は知らない。瀧の側に瀧大明神と云ふ氏神の小さい社があつて、社の前に小さい賽錢箱がある。その賽錢箱について物語がある。

 

 今より二十五年前、或冬の寒い晚、黑坂の麻取場に使はれて居る娘や女房達が一日の仕事を終つたあとで爐のまはりに集つて、怪談に興じてゐた。はなしが十餘も出た頃には大槪のものはなんだか薄氣味惡くなつてゐた。その時その氣味惡さの快感を一層高めるつもりで、一人の娘が、『今夜あの幽靈瀧へひとりで行つて見たらどうでせう』と云ひ出した。この思ひつきを聞いて一同は思はずわつと叫んだが、また續いて神經的にどつと笑ひ出した。……そのうちの一人は嘲るやうに、『私は今夜取つた麻をその人に皆上げる』と云つた。『私も上げる』『私も』と云ふ人が續いて出て來た。四番目の人は『皆贊成』と云ひ切つた。……その時安本お勝と云ふ大工の女房が立ち上つた、……この人は二つになる一人息子を暖かさうに包んで、背中に寢かせてゐた。『皆さん、本當に皆さんが今日取つた麻を皆私に下さるなら、私幽靈瀧に行きます』と云つた。その申出は驚きと侮りとを以て迎へられた。しかし、度々くりかへされたので一同本氣になつた。麻取りの人達は、もしお勝が幽靈瀧に行くやうなら其日の分の麻を上げると、銘々くりかへして云つた。『でもお勝さんが本當にそこへ行くかどうか、どうして分ります』と鋭い聲で云つたものがあつた。一人のお婆さんが『さあ、それなら賽錢箱をもつて來て貰ひませう、それが何よりの證據になります』と答へた。お勝は『もつて來ます』と云つた。それから眠つたこどもを背負つたままで戶外へ飛び出した。

 その夜は寒かつたが、晴れてゐた。人通りのない往來をお勝は急いだ。身を切るやうな寒さのために往來の戶はかたく閉ざしてあつた。村を離れて、淋しい道を――ピチヤピチヤ――走つた、左右は靜かな一面に氷つた田、這を照らすものは星ばかり。三十分程その道をたどつてから、崖の下へ曲り下つて行く狹い道へ折れた。進むに隨つて路は益〻惡く益〻暗くなつたが、彼女はよく知つてゐた。やがて瀧の鈍いうなりが聞えて來た。もう少し行くと路は廣い谷になつて、そこで鈍いうなりが急に高い叫びになつて居る、さうして彼女の前の一面の暗黑のうちに、瀧が長く、ぼんやり光つて見える。かすかに社と、それから、賽錢箱が見える。彼女は走り寄つて、――それに手をかけた。……

 『おい、お勝』不意に、とどろく水の上で警戒の聲がした。

 お勝は恐怖のためにしびれて――立ちすくんだ。

 『おい、お勝』再びその聲は響いた、――今度はその音調はもつと威嚇的であつた。

 しかしお勝は元來大膽な女であつた。直ちに我にかへつて、賽錢笛を引つさらつて驅け出した。往來へ出るまでは、彼女を恐がらせるものをそれ以上何も見も聞きもしなかつた、そこまで來て足を止めてほつと一息ついた。それから休まず――ピチヤピチヤ――驅け出して、黑坂村について麻取場の戶をはげしくたたいた。

 息をきらして、賽錢箱をもつてお勝が入つて來た時、女房や娘達はどんなに叫んだらう。彼等は息をとめて話を聞いた。幽靈瀧から二度まで名を呼んだ何者かの聲の話をした時に彼等は同情の叫びをあげた。……何と云ふ女だらう。剛膽なお勝さん。……麻を皆上げるだけの直打[やぶちゃん注:「ねうち」。]は充分にある。……「でもお勝さん、さぞ赤ちやんは寒かつたでせう』お婆さんは云つた、『もつと火の側へつれて來ませう』

 『おなかが空いたらうね』母親は云つた『すぐお乳を上げますよ』……『かはいさうにお勝さん』お婆さんはこどもを包んであるはんてんを解く手傳をしながら云つた――『おや、背中がすつかりぬれてゐますよ』それからこの助手(すけて)はしやがれ聲で叫んだ『アラツ、血が』

 解いたはんてんの中から床[やぶちゃん注:「ゆか」。]に落ちたものは、血にしみたこどもの着物で、そこから出て居るものは、二本の大層小さな足とそれから二本の大層小さな手――ただそれだけ。

 こどもの頭はもぎ取られてゐた。……

[やぶちゃん注:「新著聞集」(しんちよもんじふ(しんちょもんじゅう))原文は“Shin-Chomon-Shū”と現代仮名遣いである。これは、寛延二(一七四九)年に板行された説話集で、日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「続著聞集」という作品を、紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされる(以上はウィキの「新著聞集」に拠った)。私の好む説話集であるが、時に、先行する書物からの無批判な引用も多く(引用元を示さない)、それをオリジナルな自説の如く記している部分もあり、批判的な読みが必要な作品ではある。

「百物語」これは単行書ではなく、近世怪談物の内の百物語系怪談集を指示しているものと私には思われる。私は『「諸國百物語」 附やぶちゃん注』正味百話をしっかり持つ近世「百物語」は、実は現存、ただこれ一書のみである)や、カテゴリ「怪奇談集」で「御伽百物語」・「古今百物語評判」・「太平百物語」(全電子化注済み)他、類型の百物語系的怪談集のオリジナル電子化注を、多数、手掛けている。但し、以下の九篇の内、原拠が判っているものでは、「おかめのはなし」のみが、「新撰百物語」(明和三(一七六六)年(推定)に上方の版元吉文字(きちもんじ)屋が板行した新作怪談本)に基づくものでしかないので、今のところはこれは同書を指すと読んでおくべきではあろう。

「宇洽拾遺物語抄」原文は“Uji-Jūi-Monogatari-Shō”。「拾遺」を「じゅうい」と読んでいる。日常生活では小泉八雲は「十」の替え字としてその読みの方が一般的であったろう。「富山大学附属図書館所蔵 ヘルン(小泉八雲)文庫目録」を調べたところ、「2115」・「2116」番に「宇治拾遺物語抄」上巻・下巻(東宮鉄呂校訂・東京・椀屋書店・明治二九(一八九五)年刊)があった。実際の刊行書で「宇治拾遺物語」の抄録書であったことが判然とする。

「伯耆の國、黑坂村」「幽靈瀧」鳥取県日野郡日野町黒坂の北約三キロメートル位置にある日野郡日野町(ちょう)中菅(なかすげ)に現存する龍王滝(グーグル・マップ・データ。本話の「幽霊滝」として現在も伝承されている)

「瀧大明神」小泉八雲が種本としたものの原作者が後に「瀧神社」の誤りとしている。最後の注を見よ。現在は上記地図に滝山(たきさん)神社というのがあり、まず、それに当たると考えてよかろう。

「今より二十五年前」本書は明治三五(一九〇二)年刊であるから、単純引き算なら明治五(一八七二)年前。以下の原話の『明治の』『初』め『頃』に一致する。

おい、お勝」は二度とも原文では、"Oi!  O-Katsu-San!”と敬称附きである。因みに、素材とした原話のそれは固有の女名ではなしに、他人の女房を呼ぶ際に用いるという「おかっさん」(「おかっさん」の転訛)である。しかし、ここは「言(こと)挙げ」でなくてはならぬ。小泉八雲の通り、「お勝」がよい。

 最後に、講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」では、本作の原拠を明治三四(一九〇一)年八月一日発行の『文藝倶樂部』(第七巻第十一号)の「諸國奇談」十九篇中の一つで、松江在の平垣霜月の書いた「幽靈瀧」であるとする。以下に漢字を概ね正字化して示す。総ルビであるが、パラルビとした。一部に読点を〔、〕で追加し(句点は最後のそれを除いて一切ない)、シークエンスを考えて恣意的に改行して段落を施した。

   *

      幽靈瀧   松江  平垣霜月

 出雲の隣國の伯耆に黑坂と云ふ町がある、

 此黑坂町は我が住むで居る松江から恰度廿里程有つて〔、〕餘り賑やかな町ではない、

 此町はづれに一條の瀧が有る、此瀧は昔から幽靈が出ると言傳へて有る、此瀧の側に瀧大明神と云ふ社(やしろ)が有る、此瀧大明神には二歲に成る幼兒は連れて參る事が出來ないのである、

 夫れには少々由來があることで〔、〕其(それ)を探ねると〔、〕

 明治の初頃(はじめ)⦅年は確(しか)と分らず、⦆此黑坂町に麻取場があつて〔、〕其處へは下賤の娘や女房達が麻取りに行くので有る〔、〕

 或冬の夜〔、〕寒いものだから皆〔、〕休息しようと云ふので〔、〕爐の周(まはり)に集(よ)つて浮世話をして居つたところが〔、〕中の一人の女が云ふには〔、〕

『今夜〔、〕あの幽靈瀧へ行つて〔、〕大明神樣の賽錢箱を取つて來た者には〔、〕私等が取つた麻を皆與(やら)うじやないか』

と退屈まぎれに言ふと〔、〕皆の者が贊成した。

 他の者が取つた麻を皆もらふのだから誰も欲しいが〔、〕さて〔、〕幽靈瀧へ行く事が恐ろしいから〔、〕行く者がない〔、〕

 中(なか)から〔、〕大工の女房が〔、〕

『それじや〔、〕私(わた)しが行こう』

と云つて〔、〕其年に二歲(ふたつ)になる男の子を背負つて出掛けた〔、〕

 後に殘つた者は彼の女の欲よりは〔、〕むしろ〔、〕其剛膽に驚いた、

 やがて〔、〕かの大工の女房は〔、〕町はづれの幽靈瀧の上にある瀧大明神さんへ參つて〔、〕さい錢箱も取つて歸らうとした時に〔、〕其幽靈瀧の中から〔、〕

『ヲイ〔、〕おかッさん(他人の女房の方言)おかッサン』

と呼んだ〔、〕

 何程(いくら)剛膽(がうたん)な女と雖も〔、〕少しは恐れた樣子にて〔、〕一生懸命にサイ錢箱をかゝへて〔、〕麻取場を向けて走り歸つた處が〔、〕誰もが〔、〕其(その)安全なのに驚いた、

 爐に松葉をくべて居つた一人の老婆(おばあさん)が〔、〕

『おかつさん〔、〕小供が泣きやせなんだかへ〔、〕ちと下(をろ[やぶちゃん注:ママ。])してやらつしやい』

と言ふてくれるので〔、〕其背負つて居ッた子を下して見ると、大變、大變、此子供の首は失(なく)なつて居ッた、首の無い體(からだ)だから〔、〕其恐しさと云ふものは一通りではない、翌朝になつて〔、〕瀧へ若者等が行つて見たけれど〔、〕何にもなかつた〔、〕と云ふ話。

   *

なお、同「怪談・奇談」の解説で布村(ぬのむら)弘氏は後に、二ヶ月後の同誌に、「『余が投稿せし幽霊滝の中』、『黒坂の里程二十里とあるが』、『十二里の誤り』、『又、大滝明神と有るは滝神社の誤りなり」と訂正している』とある。「十二里」は四十八・六キロメートル、松江からここまで直線でも四十三・四八キロメートルある。地方の神社名は時に呼称に変化が起こるので問題ない。

 因みに、私は別に、延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、著者・編者ともに不詳の「諸國百物語卷之三 二十 賭づくをして我が子の首を切られし事」(リンク先は私の電子化注)こそが、本話のルーツであると考えてい人間である。

 最後に、一九七八年恒文社刊「小泉八雲」の八雲の妻小泉セツ(明治二四(一八九一)年~明治三七(一九〇四)年:小泉八雲より十八歳下)さんの「思い出の記」から引用する。

   *

 話が面白いとなると、いつも非常に真面目にあらたまるのでございます。顔の色が変りまして眼が鋭く恐ろしくなります。その様子の変り方が中々ひどいのです。たとえばあの『骨董』の初めにある幽霊滝のお勝さんの話の時なども、私はいつものように話して参りますうちに顔の色が青くなって眼をすえて居るのでございます。いつもこんなですけれども、私はこの時にふと恐ろしくなりました。私の話がすみますと、始めてほっと息をつきまして、大変面白いと申します。「アラッ、血が」あれを何度も何度もくりかえさせました。どんな風をしていってたでしょう。その声はどんなでしょう。履物の音は何とあなたに響きますか。その夜はどんなでしたろう。私はこう思います、あなたはどうです、などと本に全くない事まで、色々と相談致します。二人の様子を外から見ましたら、全く発狂者のようでしたろうと思われます。

   *]

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