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2019/09/17

小泉八雲 姥櫻  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“THE STORY OF O-TEI”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”。来日後の第十作品集)の四話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイトInternet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 最後に原拠を電子化注しておいた。]

 

 

  姥 櫻

 

 三百年前、伊豫國温泉郡[やぶちゃん注:「おんせんごほり」。]朝美村に德兵衞と云ふ人があつた。この德兵衞は郡第一の長者で村では名主であつた。大槪の事には幸運であつたが四十になつても芯未だあとを取らすべき子寶がなかつた。それを歎いて彼は妻と共に朝美村西法寺と云ふ名高い寺の不動明王に願をかけた。

[やぶちゃん注:「三百年前」原拠(後掲)は明治三四(一九〇一)年六月発行なので、慶長六(一六〇一)年、安土桃山時代最末期(江戸開府は慶長三年)に相当する。

「伊豫國温泉郡朝美村」現在の愛媛県松山市朝美(グーグル・マップ・データ)。

「朝美村西法寺」この漢字表記の寺は現在の朝美及び近辺にはない。松山市内の朝美からかなり離れた位置に二つあるが、後掲する原拠でも朝美『村西山の不動明王』とするので違う。「愛媛県生涯学習センター」公式サイト内の「愛媛県史 民俗 下」(昭和五九(一九八四)年刊)の「三 愛媛の伝説①」の、「(2)植物」の「桜」での小泉八雲の本篇の紹介では、『西方寺』とする。しかし、この名の寺も朝美にはない。朝美地区には寺院を三つ現認出来るが、不動明王を持つかどうかが判らないので同定出来ない。

識者の御教授を乞う。【2019年9月17日17:00追記】いつも情報を寄せて下さるT氏からメールを頂戴した。

   《引用開始》

朝美村は明治二二(一八八九)年の町村制施行により、旧温泉郡衣山村・沢村・辻村・味酒村の一部と、南江戸村が合併し、温泉郡朝美村として発足しています。則ち、江戸時代は南江戸村で、大宝寺(松山市南江戸五丁目)がこの「姥櫻」のあるお寺です。

ウィキの「大宝寺(松山市)」にも、姥櫻の記載があります。

但し、「大宝寺」は本尊は阿弥陀如来で、他に釈迦如来・阿弥陀如来(秘仏とされ、永らく薬師如来として信仰された)があります。

「姥桜(うばさくら)に伝わる話」(大宝寺本堂の前にある桜の木に纏わる話)に「西山」(松山城のある勝山の西の山の意)が出てきます。

但し、藪野様の引用されている「「愛媛県生涯学習センター」公式サイト内の「愛媛県史 民俗 下」では

>〔温泉郡〕 印桜…大宝寺、南江戸村に在り 古照山薬王院大宝寺と号す 旧蹟俗談に云 此寺両度の火災にて数株の桜焼亡し漸く一樹残れり

>昔崇徳院讃岐より此地へ御幸の時御車を返し桜を叡覧ありて

>名にしおはばまた来て見ん花の春夕影残す雪の古寺

>と御製ありしは此寺にて足より古寺ともいひ習はせり

と、崇徳院と結びつけられています。

他に、西法寺(松山市下伊台大九六七番地)には、「薄墨櫻」があります。[やぶちゃん注:リンク先は「薄墨桜と西法寺」(薄墨賢衛氏発行の昭和四七(一九七二)年刊の非売品書籍の電子化らしい。]

また、松山市にあるもう一つの桜は、「十六日桜」[やぶちゃん注:リンク先は「松山市」公式サイト内のそれ。]で江戸時代は和気郡山越村龍穏寺にありましたが、戦災で焼失し、株分けされた桜が御幸一丁目の天徳寺境内と桜ヶ谷の吉平屋敷跡といわれていますが、花期も遅く、十六日桜の形質を保ったものではなく、実生による変異品種のようです。

個人ブログ「EEKの紀行 春夏秋冬」の「松山市の6名桜花」が良くまとまったサイトです。

   《引用開始》

大宝寺は現在の朝美地区の接した位置(松山市南江戸)にあり「西山」の麓に大宝寺があるのであった。また、ウィキの「大宝寺(松山市)」には、『うば桜伝説』の項があり、そこに、『角木』(すみき)『長者伝説とも呼ばれる。その昔、この地に角木長者と呼ばれる豪族がいた。彼は子宝に恵まれなかった。薬師如来に祈りを捧げたところ娘が生まれた。娘の名を「露」と名付けた。露には「お袖」という名の乳母を雇い』、『大切に育てた。お袖の乳の出が悪くなり、再び薬師如来に祈ると乳が出るようになった。そこで、お礼にお堂を建立した。これが大宝寺の始まりという』。『露は』十五『歳になった時に重病にかかった。お袖は自分の命と引き替えに露を助けて欲しいと薬師如来に祈った。すると露の病気は平癒した。その祝いの席でお袖は病に倒れた。お薬師様との約束と言って、お袖は薬も飲まず』、『治療を拒み、とうとう亡くなった。亡くなる直前に「お薬師様へのお礼に桜の木を植えて下さい。」と言い残した。長者は約束どおりお堂の前に桜の木を植えた。その桜は枝が伸びないうちから幹に』、二、三『輪の花が咲いた。その花はお袖の乳房のような形で、母乳のような色であったという。その後、母乳の出が悪い女性が参拝に訪れるようになった』。『この話は明治時代、小泉八雲によって英語に訳された。また、『怪談』にも納められている』とあった。いつもながら、T氏に感謝申し上げる。]

 遂に願がかなつて、德兵衞の妻は娘を生んだ。綺麗な子であつた。それから名を露とつけた。母の乳が足りないため、お袖と云ふ乳母を雇つた。

 

 お露は生長して大層綺麗になつたが、十五の歲に病氣になつて、醫者の力も及ばなくなつた。その時、實の母同樣に、お露を愛してゐた乳母のお袖は西法寺に詣でて、熱心に娘の病氣平癒を不動に祈願した。三七日[やぶちゃん注:「さんしちにち」。二十一日。]の間每日參詣して祈つた。その滿願の日にお露は急に全快した。

 

 德兵衞の家では上から下まで大喜ぴ、そのお祝に親戚友人を招いて宴をはつた。しかしその宴會の夜、お袖は突然病氣になつた。それから看護してゐた醫者は、翌朝臨終が迫つて居る事を通知した。

 そこで悲歎にくれた家族は訣別のために床の周圍に集まつた。しかし乳母は云つた。

 『皆樣が御存じのない事を申上げる時が參りました。私の願が屆きました。私は不動樣に御祈りして、お孃樣の身代りになるやうに願ひました。それが有難くも許されました。それ故皆樣、私の死ぬ事を悲しんで下されてはいけません。……しかし私に一つ御願がございます。私はお孃樣の病氣平癒の際、西法寺の境内に、御禮と記念のために櫻を二株奉納する事を、不動樣にかたく誓ひました。今私は自分でその樹をそこへ植ゑる事ができません。それで私に代つてその誓ひをはたして下さるやう、御賴みいたします。……さやうなら、皆樣どうか覺えてゐて下さい。私はお孃樣のために死ぬ事が嬉しうございます』

 

 お袖の葬式のあとで、この上もなく立派な櫻の若木を、お露の兩親が西法寺の庭に植ゑた。樹は生長して繁茂した、翌年の二月十六日――お袖の命日には、見事に花が咲いた。それから二百五十四年間――每年二月二十六日に――續いて花が咲いた、――その花は紅色と白とで、丁度乳で濕つた女の乳房のやうであつた。それで人はそれを乳母櫻と呼んだ。

 

[やぶちゃん注:講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」では、本作の原拠を明治三四(一九〇一)年六月一日発行の『文藝倶樂部』(第七巻第八号)の「諸國奇談」十三篇中の一つで、愛媛の淡水の書いた「姥櫻」であるとして本文を載せる。以下に漢字を概ね正字化して示す。総ルビであるが、読みの振れそうな一部のみとした。一部に読点を〔、〕で追加し(句点は三箇所を除いて、ない)、記号も添え、シークエンスを考えて恣意的に改行して段落を施した。踊り字「〱」は正字化した。

   *

      姥 櫻  愛媛  淡水生

 今を去る凡三百年の頃ならん、伊豫國溫泉郡朝美村の名主に德兵衞と言ふ者あり、慈悲の心深く〔、〕己が名の如く德高き人なれば、一村〔、〕皆〔、〕能く命(めい)に從ひ〔、〕敬ひ尊びける、

 自然と國主に聞へて〔、〕御覺も目出度〔、〕益々〔、〕家〔、〕富榮(とみさか)へ〔、〕何の不自由なく暮しけり、

 月に叢雲(むらくも)〔、〕花に風、儘に成らぬは浮世の習ひ、德兵衞は〔、〕早(はや)四十の年を越ゆれども〔、〕未だ家名をつがすべき子とても無ければ、其妻と共に〔、〕血筋の絕えんことを恐れて常に嘆きしが、遂に相談の上、同村西山の不動明王へ三七日の心願をこめ〔、〕一心に祈りしに、不動も其願の哀れを不便(ふびん)と思ひけん〔、〕不思議にも其月より姙娠し、やがて月滿ちて玉を欺(あざむ)く如き女子(ぢよし)を生み落しければ〔、〕夫婦の喜びは筆や言葉に盡されず、名をばお露と名付け、一人の乳母をつけ、蝶よ花よと愛(いつく)しみ〔、〕「匍匐(はへ)ば起(た)て、起てば步め」と親心、我身の年の老(よ)るも忘れ〔、〕其子の成長を樂みしが、月日には關守なく〔、〕隙(ひま)行く駒の追(おひ)がたく、年(とし)の步みの近づきて〔、〕早くもお露は十五の春を迎へければ、いよいよ容貌美くしく〔、〕起居振舞の溫和なれば〔、〕村中の評判も高く、父母の寵愛も增々深かりしに、滿れば缺(か)くる世の習ひ、如何なる惡しき月日(つきひ)の下(もと)に生れしや〔、〕或日〔、〕お露は風の心地と打臥けるに、日を經(ふ)るにしたがひて〔、〕追々〔、〕病(やまひ)の激敷(はげしく)なりしかば、醫師よ〔、〕祈躊とて〔、〕種々)しゆじゆ)に手を盡すと雖も、次第次第に名に呼ぶ露の〔、〕いとはかなげに瘦せ衰へて〔、〕今は消えなん計りなり、

 燒野(やけの)の雉子(きぎす)〔、〕夜(よる)の鶴〔、〕子故(ゆゑ)の闇に迷ふは親心〔、〕まして掛替(かけがへ)なき唯一人(ひとり)の愛娘(まなむすめ)のことなれば、夫婦の嘆きは言ふも更なり、傍(そば)に付添ふ乳母(うば)の袖、たとへ潮腹(しほばら)を痛めずとも〔、〕十五ケ年の其間、手鹽に掛けて御養育申せし御方なれば〔、〕

「己(おの)が命(いのち)を縮めても〔、〕二度は御命を助けんもの」

と〔、〕不動に參詣し、寢食を忘れ、三七日の間〔、〕一心にお露の病氣平癒を祈りしに、不動も乳母の忠節を感ぜしか、今にも知れぬ大病も、恰(あたか)も薄紙をはぐ如く〔、〕次第次第に平癒に向ひ、今は起居(たちゐ)にも自由と成りければ、名主夫婦の喜びは言ふ迄もなく、乳母の喜びは譬ふるに物なく、手の舞(まひ)〔、〕足の踏む處も知らざりしが、心ひそかに〔、〕不動の靈驗著しきに感じ、難有淚(ありがたなみだ)にむせびけり。

 話し替りて〔、〕爰に名主夫婦は醫者さへ匙を地げる程の娘の大病も〔、〕僅かの間に平癒せしを不審に思ひ居たりしが、遂ひに[やぶちゃん注:ママ。]袖が忠節を盡せしことを知り〔、〕大に嬉し淚をこぼしけり、間もなく〔、〕又〔、〕乳母袖は熱病に罹りければ〔、〕名主夫婦は大に驚き〔、〕種々〔、〕手を盡し〔、〕別けて〔、〕お露は〔、〕命の親の病氣なれば、片時も傍を去らず〔、〕介抱に怠りなけれども〔、〕病は日々に募る計りにて、今は賴(たのみ)少なくなりにけり、

 或時〔、〕夫婦は〔、〕袖が枕元に來り〔、〕

「とても〔、〕汝の病氣は〔、〕今の所にては〔、〕本復(ほんぷく)六ケ敷(むつか)し〔、〕此世に言ひ殘すことあらば〔、〕遠慮なく申すべし、如何なる事にてもかなへ待させん」

と〔、〕淚を流して申されければ、袖は重き頭を上げ〔、〕苦しき息をつき〔、〕名主夫婦の顏を眺め〔、〕

「何一つとて不足なき御恩を蒙りながら〔、〕最後(いまは)の際(きは)に言殘すことのなけれども〔、〕唯〔、〕一言〔、〕云ひ殘し置(おく)は〔、〕孃樣御病氣の際〔、〕妾(わらは)は不動に心願込め、

『孃樣の御病氣平癒の曉(あかつき)には〔、〕櫻樹(あうじゆ)一株〔、〕寺の境内に植(うゑ)奉らん』

と堅く誓ひしに、今は御病氣も御全快遊ばされ候はゞ〔、〕何卒〔、〕妾死去の其後(そののち)には彼(か)の西法寺へ〔、〕一株の櫻樹を植ゑ、妾と思召(おぼしめ)し〔、〕御寵愛被下(くださ)らば〔、〕草葉の影から嬉しく成佛仕らん」

と〔、〕言了りて〔、〕終に歸らぬ旅に赴きぬ。

 名主夫婦は更なり〔、〕お露は悲しさやるせなく〔、〕空しき骸(むくろ)に取(とり)つき〔、〕聲を限りに泣き伏しが、何(い)つ迄嘆けど〔、〕歸らぬことなれば〔、〕泣くなく野邊(のべ)の送(おくり)も濟(すま)し、翌日〔、〕遺言の如く西法寺の境内に櫻樹を植しに〔、〕不思議にも〔、〕每年二月十六日には花を開き〔、〕其花〔、〕恰(あたか)も〔、〕乳(ちゝ)の形を成せりと言ふ、

 惜哉(をしいかな)、今を去る〔、〕五〔、〕六十年前〔、〕其頃〔、〕植し櫻は枯れ〔、〕今日(こんにち)ある櫻は〔、〕其後〔、〕植たるものなりと聞く、

 花の形〔、〕今は乳の狀を示さゞれども〔、〕必ず〔、〕二月十六日には花を開くと言ふ、

 蓋(けだし)〔、〕二月十六日は〔、〕乳母の死せし日なりとぞ、

 世人〔、〕是を呼(よん)で「乳母櫻」と稱す。

   *]

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