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2019/10/30

小泉八雲 日本の古い歌  (大谷正信訳) ~(その2) / 日本の古い歌~了

 

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 日本の古い歌(大谷正信訳)~(その1)」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 通俗な歌――殊に田舍の踊にうたふ歌――には記億を助ける工夫(くふう)に作られて居る種類のが多い。節(せつ)の數は普通は十で、一節(せつ)々々の第一の綴音がその句の前に置いてある數詞の第一綴音と音(おん)に於て同じなやうにしてあるのである。時には漢語の數詞を用ひ、時には日本語の數詞を埋用ひる。が、その規則は必らずしも完全に守られては居らぬ。次記の例に於て一(いち[やぶちゃん注:これはルビ。])(ヒトツ)[やぶちゃん注:これは本文同ポイント。]といふ日本語の初の二綴音を有つて居る第一句の最初の二綴音の一致はただ意味での一致であることを觀らる〻であらう。イチといふは漢語の數詞であるから。

 

  漁師師の歌譯者註七 (下總國銚子町註一

一(ひと)つとせ、

  一(いち)番船へ積み込んで、

  川口おしこむ大矢聲註二

       この大漁船!

二つとせ、

  二葉の冲から外川(とはが)まで註四

  續いて押し込む大矢聲、

       この大漁船!

三つとせ、

  みな一同に招(まねき)をあげ、

  通はせ船の賑かさ、

       この大漁船!

四つとせ、

  夜晝焚いても焚きあまる、

  三バイ一挺の大鰯、

       この大漁船!

五つとせ、

  何時來て見ても乾鰯場(ほしかば)に、

  あき間(ま)隙間(すきま)は更に無い、

        この大漁船!

六つとせ、

  六時(むつ)から六時(むつ)まで粕割(かすわり)が、

  大割(おほわり)小割手に追はれ、

        この大漁船!

七つとせ、

  名高き利根川一面に、

  粕や油を積み送る、

        この大漁船!

八つとせ、

  八手舟(やてぶね)註五の冲合若衆が、

  萬祝(まんしゆく)揃へて宮まゐり、

        この大漁船!

九つとせ、

  此浦守(まも)る川口の、

  明神利益(りやく)を現はする、

        この大漁船!

 

註一 銚子といふは可なり重要な町で利根川の河口に位して居る。鰯漁で名高い。鰯といふはサアディンの大いさの魚で主としてその油の爲めに漁獲する。此海岸で採れる油の量は大したものである。煮て油を搾るのである。その搾滓は肥料として内地へ送られる。

註二 櫓を漕いでゐゐ水夫全體の合唱を「矢聲」と呼ぶ。

註三 形容詞「大」は「漁」を形容するので、「船」を形容するのでは無い。

註四 恐らくは「外川」は利根川河畔の銚子から遠くは無い、外川といふ川の口の村を指すのでもらう。この兩河は掘割で結合されて居る。川を意味して居るのか、村を意味して居るのか、文句の上では明白で無い。

註五 ヤタイとに宗敎的行列に於て綱で曳く裝飾された車に與へる名である。ここのヤタイブネはそんな車に載せた小舟の雛形か、或は宗敎的行列でのそんな裝飾をした小舟か、を意味するもののやう思はれる。自分は美保關で、或る宗敎的行列の時祭り屋臺の上に載せてあつた、本當の小舟を見たことがある。

譯者註七 第一節「一番船へ積み込んで」は「一番づつで積み立てて」とも歌ふ。第二節「二葉の沖から外川まで、續いて押込む大矢聲」は「二葉の沖側外川まで、續いて押込む大鰯」とも歌ふ。

[やぶちゃん注:「招(まねき)」は底本では「まねぎ」となっているが、原本に従い、特異的に濁音を除去した。但し、サイト「世界の民謡・童謡」の「銚子大漁節」の歌詞及び動画で唄われいるそれは「まね」である。拍子から言っても「まねき」の三音はなかろうと思った。なお、以下、同ページに丁寧な語釈まで載っていた「招(まね)」は漁師の特殊な用語なのだ!)。引用させて戴く。

   《引用開始》

「大矢声」とは、弓矢を射るときに出るうなりのようなかけ声。

「二間の沖」[やぶちゃん注:動画のテロップでは『二葉』と出ており、それも同義であるらしい。]とは、夫婦ケ鼻(めどがはな)[やぶちゃん注:千葉県銚子市川口町。]から黒生(くろはい)[やぶちゃん注:千葉県銚子市黒生町。]までの海の総称。

「招(まね)」とは、鰯の大漁を知らせる目印、「通わせ船」は、運搬船のこと。

「干鰯場(ほしかば)」とは、生イワシをそのまま海岸等の砂地に干して肥料を作る場所。

「粕割」とは、生イワシを大釜で煮て、それを圧搾機で締めると〆粕ができる。それを割って天日に干したもの。

「万祝」とは、網主から漁夫たちに贈られる大漁祝いの衣装のこと。

「八手」とは、八手網(やつであみ/はちだあみ)のこと。2艘以上の漁船により操業される大型の張網。

   《引用終了》

「外川」これは黒生を南に犬吠崎を廻り込んだところにある、現在の千葉県銚子市外川町(とかはまち)の外川港のことであろう。残念ながら、小泉八雲の「註」の四・五は見当違いの誤りである。

 

 少くとも百年前に作られた或る子供歌に此の歌詞的排列の一層奇異な一例がある。江戶の小娘共は手毬を弄びながらその歌をうたつたものである。今日と雖も、東京の靜かな街路でならどんな街路でも、それと同じ手毬遊戲を女の子がして居るのを見ることが出來る。歌の拍子に合はせて巧みに手で打つて、殆ど垂直な線にいつも手毬が彈き上がるやうにし續ける。上手な者は一突(ひとつき)も仕損ぜずに、その歌をうたひ終はることが出來なければならぬ。仕損ずるとその手毬を今一人の者に讓らなければならぬ。面白い『手毬歌』が澤山にあるが、次記の古風な、永く忘られて居る歌は道德的な一珍品である。

[やぶちゃん注:以下は「註」表記がないが、小泉八雲の挿入注であって(底本ポイント落ち四字下げ)、本文ではない。]

 

上記のがより普通な遊び法(かた9であるが、他の形式が澤山にあゐ。昨には二人で一緖に同じ手毬を――彈(はず)む毬をかたみがはりに[やぶちゃん注:「互(かたみ)替(がは)り」で所謂「かわりばんこ」、代わる代わるにすることの意。]突いて――もてあそぶ。

 

一つとや、

  人は孝なを人といふ、

  恩を知らねば孝ならじ。

二つとや、

  富士よち高き父の恩、

  常に思うて忘れまじ。

三つとや、

  水うみ卻て淺しとは、

  母の恩ぞや思ふべし。

四つとや、

  よしや貧しく暮らすとも、

  直ぐなる道を曲ぐるまじ。

五つとや、

  いつも心の變はらぬを、

  誠の人と思ふべし。

六つとや、

  空しく月日(つきひ)を暮らしなば、

  後(のち)の嘆(なげき)と知りぬべし。

七つとや、

  慈悲(なさけ)は人の爲めならで、

  我が身の爲めと思ふべし。

八つとや、

  厄難無量の禍(わざはひ)も、

  心(こころ)善(ぜん)なら逃るべし。

九つとや、

  心(こころ)詞(ことば)の直ぐならば、

  神や佛も守るべし。

十とや、

  貴(たふと)い人と成るならば、

  孝行者(かうかうもの)といはるべし。

 

註 ヒト(パアスン)は男にも女にも用ひ、屢〻「人々」(ピイプル)「人類」(マンカインド)の意にも用ふる。「人といふ」の「人」は「人間」(ヒユウマン・ビイング)の意。

 

 讀者は『「手毬歌」にさへ道德敎訓の反復を要求し得る訓練はどんなにか恐ろしくやかましいものだらう』と思はれるかも知れぬ。いかにも七(しち)やかましい、――が然し此の世界がこれまで見たことの無い程の非常にうるはしい型の女をそれが造り出したのである。

 

 或る踊歌ではその復唱句は各節(せつ)の最後の一行又は最後の一行の一部分の反復だけで出來て居る。次記の珍奇な物語歌はそれを實行して居る一例で、且つまた吟詠文の或る句の處へ插入されて居る妙な擬音的合唱があるが爲め、一層特色のあるものである。

 

  鐘卷踊歌 (伊賀國名賀郡)

京山伏(きやうやまぶし)は熊野へ參る。

白(しろ)たか濱が長者屋(ちやうじや)へ腰掛けて、

三つになる姬抱きそめて、

妻(つま)にしよというて戲(じや)れられた、

     (合唱)戲(じや)れられた。

それから山伏や諸國を𢌞(めぐ)る。

その姬が十三といふ年又まゐり來て、

姬よ姬よ約束の姬よ。

連れておいきやれお山伏。

     (合唱)お山伏。

いままたまゐる、また參る。

こんど下向にや連れていこ、

     (合唱)連れていこ。

それから山伏逃げられて。

早よ早よ急げば早よ。

田なべみなべを早打越して、

小松原まで逃げられた、

     (合唱)逃げられた。

  カツカラ、カツカラ、カツカラ、カッカ!

[やぶちゃん注:「伊賀國名賀郡」旧三重県名賀郡(ながぐん)。位置はウィキの「名賀郡」の地図で確認されたい。道成寺伝説が、紀伊半島を東に回り込んだ山間部に伝承しているのはなかなか面白い。因みに私は道成寺伝承のフリークで、サイトに「道成寺鐘中 Doujyou-ji Chroniclというページも作っている。

「みなべ」旧南部(みなべ)町、現在の和歌山県日高郡みなべ町(ちょう)。田部市に北西で接する。

「小松原」地名ではなく、道成寺近辺の一般名詞としての謂いととっておく。

 以下も底本ではポイント落ちの挿入注。]

 

特殊の合唱といつたやうなものになつて居る此の綴音は、全く擬聲に他ならぬもので、非常に早く走つて居る下駄穿きの跫の音を現はすつもりのものでゐる。

 

それから姬が追ひかけて、

早よ早よ急げば早よ。

田なべみなべを早打越して、

小松原まで追ひかけたさ。

     (合唱)追ひかけたさ。

それから山ぶしや逃げられて、

あもだの川まで逃げられて、

あもだの川の船頭を賴む。

後から姬が追ひかけ來(く)るに、

渡して給(たも)るな船頭殿や、

     (合唱)船頭殿や。

  デボク、デボク、デボク、デン、デン!

[やぶちゃん注:「あもだの川」不詳。日高川の異名としても見当らない。識者の御教授を乞う。

 以下、同前。本文ではなく注。]

 

此の擬聲は、適當な身振をして、踊手が皆、合唱するのであるが、渡守か漕ぐ櫓の音を現したものである。綴音そのものには何の意味も無い。

 

それから姬が追ひけて、

あもだの川で追ひかけて。

あの船(ふね)出しやれ、この船出しやれ。

あの船出さぬ、この船出さぬ、

女人(によにん)禁じの船でそろ、

     (合唱)船でそろ。

渡さにや渡る、渡さにや渡る。

あおもだの川にや渡りよが御座る。

はいたる草履を手に持ちて、

はいろと思(おも)たら蛇(じや)になりて、

十二の角(つの)が生(は)えそろた、

     (合唱)生えそろた。

それから山ぶしや逃げられて、

道成寺でらまで逃げられて、

道成寺でらの同職衆(どうじゆくしゆ)を賴む。

後(あと)から姬が追ひかけ來るに、

隱してたもれよどじゆくしゆ。

     (合唱)どじゆくしゆ。

それから同職衆が御相談なさる。

釣鐘下(お)ろしてかくされた。

     (合唱)かくされた。

それから姬が追ひかけて、

道成寺でらまで追ひかけて、

御門(ごもん)のけあげにしばらく立ちて、

庭なる鐘を不思議と思(おも)て、

一卷(ひとまき)まこよ、二卷まこよ。

三卷と卷いたら湯になりたさ。

     (合唱)湯になりたさ。

鐘卷寺の緣起をきけば、

日本の浦にや姬多(お)いけれど、

長老が娘が蛇(じや)になりたてさ、

     (合唱)蛇になりたてさ。

鐘卷踊はこれまでさ、

     (合唱)これまでさ。

 

註 この傳說は古今幾多の日本劇の材題となつて居る。元の話は斯うである。安珍といふ僧が無謀にも淸姬といふ乙女に戀情を起こさせ、僧たる身の故に結婚することが出來ないが爲めに、娘が言ひ寄れぬやう逃げて身の安全を求めた。淸姬は挫かれた熱情の激しさに、火のやうな龍蛇に姿を變じた。そしてその姿でその僧を追跡して、(今の紀州の)熊野の道成寺といふ寺へ行く。僧は其處の大鐘の下へ身を隱して居るのである。がその龍蛇はその鐘を卷くと、その鐘は直ぐに赤熱して、中なる僧の身體は全く燒けてしまつた。

此の粗笨[やぶちゃん注:「そほん」。大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。粗雑。]な物語歌では淸姬は――長者、卽ちその村の金持たる――一旅宿主人の娘となつて居る。そして僧の安珍は山伏に變はつて居る。山伏といふのは眞言宗と呼ぶ妙な宗派の一處不在の僧で――神道佛敎兩方を奉じて居る、諸國巡禮歷の、惡魔拂兼賣卜者である、否、少くともあつた。近年その職を行ふことを法律で禁じられたから、本當の山伏は今に滅多に眼にすることは出來ぬ。

道成寺は巡禮者が參詣する有名な寺で、紀州の西岸の御坊(ごぼう)から遠くは無い。安珍と龍蛇との出來事は十世紀の初にあつたとの事である。

[やぶちゃん注:「御門(ごもん)のけあげ」「けあげ」は「階段の一段の高さ」を謂うから、ここは登る階(きざはし)の一段目のことを指すと読む。但し、一段目からは、寺内の鐘は見えない。とすれば、これは門を一気に駆け上がった最後の一段でとすべきであろうか。

「山伏といふのは眞言宗と呼ぶ妙な宗派の一處不在の僧で――神道佛敎兩方を奉じて居る、諸國巡禮歷の、惡魔拂兼賣卜者である、否、少くともあつた。」原文は“The Yamabushi are, or at least were, wandering priests of the strange sect called Shugendo,—itinerant exorcists and diviners, professing both Shinto and Buddhism.”でおかしい。真言宗からクレームが附きますぜ、大谷先生! 「修験道」でっせ! 原文は!

 

 自分は街路(とほり)を歌ひあるく本當の物語歌(バラツド)の――方々ぶらつきあるく三味線彈(ひき)が普通に歌ふやうな物語歌の――たつた一つの見本を與へよう。これは音格が不規則に出來て居て、一行の長さ十二綴音から十六綴音に至つて居るが、多くは十三綴音である。その作の年代は分からぬ。が、その子供時分にその歌はれるのを聞いたことを覺えて居る老人の話では、天保(一八三〇――四三)時代に流行つたといふ。節には分かれて居ないけれども、不規則な間を置いて休止があつて、其處でヤンレイといふ復唱句がある。

 

  お吉(きち)淸三(せいざ)くどき

今度サアエヽ哀れな情死(しんぢゆう)ばなし、

國は京都にその名も高き、

糸屋與右衞門有德(うとく)な暮らし、

店も賑か 暮らしも繁昌(はんじやう)、

一人娘にお吉(きち)というて、

年は十六 今吠く花よ、

見世の番頭に淸三(せいざ)というて、

年は二十二で男の盛り、

        ヤンレイ!

 

器量(きりやう)よければお吉が見染め、

通(かよ)ふ通ふが度(たび)重なれば、

親の耳へもそろそろはいり、

これを聞いては儘にはならぬ、

        ヤンレイ!

 

そこでお吉を一間(ま)へ呼んで、

店(みせ)の淸三と譯(わけ)あるさうな、

思ひ切る氣か切らぬかお吉、

        ヤンレイ!

 

これさ母(かか)さ何付言はさんす

俺(わし)と淸三とその仲仲(なかなか)は、

墨と紙とのしみたが仲よ、

何が何でも離れはしない、

        ヤンレイ!

 

奧の一間(ま)へ淸三を呼んで、

其方(そち)を呼ぶのは別儀ぢや無いが、

内の娘のよいきをはらし、

夫を聞いては置かれはしない、

仕舞うて行かんせ今日かぎり、

        ヤンレイ!

[やぶちゃん注:三行目の小泉八雲の英訳は“You have turned the mind of our daughter away from what is right;”で「お前は儂(わし)娘を心をまっとうなものから遠ざけおった」の意。富山県滑川市の「新川古代神」(にいかわこだじん)踊りの唄の歌詞がこちらで読めるが、その途中に出る「お吉清三口説」の当該部では、「家の娘のよい気を晴らし」と漢字表記されている。これではこの一行、意味が繋がらないが、或いは不吉な禍々しいことを口に出すことを言上げとして嫌ったことから、「内の娘にちょっかいを出してそのまっとうな気(心)を曇らした」の謂いであろうか? 或いは「よいき」を「醉(よ)ひ氣」と採って、「内の娘を恋に酔はせてはらした(=まんまとその目的を遂げた)」の意か?]

 

じたい淸三は大阪生(うま)れ、

物も言はずに唯だハイハイと、

家(いへ)へ歸りて七日五日經つて、

お吉思うて病氣となりて、

是非も叶はぬ相果てました。

        ヤンレイ!

 

お吉とろとろ眠りし處(とこ)へ、

夢か現(うつつ)か 淸三が姿、

枕元へと顯はれました、

そこでお吉は不圖眼をさまし、

見れば淸三が姿は見えず、

        ヤンレイ!

 

さらばそれから淸三が方(かた)へ、

親の手許を忍んで行きやる、

        ヤンレイ!

 

在(ざい)ヘサアエヽはいれば船場(ふなば)が御座る、

船にや乘らんで陸路(りくぢ)を行きやる、

急ぐ程なく大阪町よ、

淸三やかたは何處かと聞けば、

橋のもとより二軒目で御座る、

        ヤンレイ!

 

淸三やかたの前にとなれば、

笠を片手に腰をぱ屈め、

御免なされと腰打かけて、

淸三やかたは此處かと聞けば、

        ヤンレイ!

 

物の哀れや淸三が母は、

數珠を片手に唯だ泣きながら、

若い女中(ぢよちゆう)は何處から御座る、

        ヤンレイ!

 

わたしや京都の糸屋の娘、

淸三さんには譯(わけ)ある故に、

遠い處を尋ねて來たよ、

どりぞ淸三さんに逢はせてお吳れ、

        ヤンレイ!

 

そちが尋ねる淸三は果てて、

今日は淸三が七日で御座る、

關いてお吉はただ泣くばかり、

        ヤンレイ!

 

さらばこれから墓所(はかしよ)へ參り、

立てた塔婆にすがりて泣けぱ、

        ヤンレイ!

 

人の思(おもひ)は恐ろし物よ、

淸三墓所(はかしよ)は二つに割れて、

其處へ淸三が顯はれ出でて。

        ヤンレイ!

[やぶちゃん注:以下、同前。原注。]

 

「ヰリアムとマアジヨリイ」(チヤイルド編第二卷一五一頁參照)といふ古い英吉利の物語歌に、墓が開いたり閉ぢむりすることに就いての珍らしい想像が詠まれて居る。

   後をしたひて 路たかくひくく

       墓綠なる    墓場に着きぬ。

   深き墓石   打ち聞かれぬ、

       見れぼヰリアム 寢てぞありし。

とある。

[やぶちゃん注:ここは原注全文(訳では前がカットされている)を引いて見る。

   *

  In the original:—Hito no omoi wa osoroshi mono yo! — ("how fearful a thing is the thinking of a person!").  The word omoi, used here in the sense of "longing," refers to the weird power of Seiza's dying wish to see his sweetheart. Even after his burial, this longing has the strength to burst open the tomb.

 ― In the old English ballad of "William and Marjorie" (see Child: vol. ii. p. 151) there is also a remarkable fancy about the opening and closing of a grave:

    She followed him high, she followed him low,

     Till she came to yon churchyard green;

    And there the deep grave opened up,

     And young William he lay down.

   *

暴虎馮河で訳してみると、

   *

 オリジナルは、「ひとの思いは恐ろしものよ!」(「人の思いはどれほど恐ろしいことか!」)。ここで「思慕」という意味で使われている「思い」という言葉は、死にゆく折りの清三の、恋人に会いたいという一心の、既にこの世のものでない異様な力を指している。彼の埋葬後も、この切なる願いは墓を破り裂く力を持っているのである。

 ――「ウィリアムとマージョリー」という古いイギリスのバラード(チャイルド編、第二巻百五十一ページを参照)にも、墓が開いたり、閉じたりすることについての、驚くべき着想がある。――

 彼女は彼を、高く跳ぶように追い、また、低く屈むように追いかける、

   彼女が向うの教会の緑なす庭を越えて来たれば、

 かしこの奥津城(おくつき)は瞬く間に開かれた、

   そうして若きウィリアムがそこに横になっている。

   *

小泉八雲の引用元の編者は恐らく、アメリカの文献学者フランシス・ジェームズ・チャイルド(Francis James Child 一八二五年~一八九六年)であろう。ウィキの「フランシス・ジェームズ・チャイルド」によれば、バラッド(ballad:イギリスなどで伝承されてきた物語や寓意のある歌。通常、詩の語りや語るような曲調を持つ。過去の出来事についての韻文による叙事詩であり、武勇伝・ロマンス・社会諷刺・政治が主題とされているが、その内容は殆んど必然的に破局が訪れるようになっている。ここはウィキの「バラッド」に拠った)『研究の権威で、整理番号チャイルド番号はブリテン諸島・アメリカの系統の民謡を分類するときの重要な指標とな』っているとある。而して引用原本は彼が一八五七年から翌年にかけて大成した“English and Scottish Ballads”であろうと思われる。]

 

其處へ來たのはお吉ぢやないか、

逍い處を能く來で吳れた、

お吉泣くなよ 泣いたるとても、

どうで此世で添はれはすまい、

わしを思はば香花(かうばな)立てて、

來る命日に囘向を賴む、

        ヤンレイ!

 

と言うて淸三が姿は消える、

これさ待たしやれこれ待らさんせ、

そなたばかりは一人(ひとり)はやぬ、

わしも一緖に行かねばならぬ、

        ヤンレイ!

[やぶちゃん注:以下、同前。原注。]

 

この挿話と「うるはしのヰリアムの魂」(チャイルド編。第二卷二四八頁)の結末とを比較されたい。

 

   「此處に居たまへ 立ち去りますな」

        操正しき   マゲリト呌ぶ

    頰靑ざめぬ、  眼(まなこ)をとぢぬ

 

とある。

[やぶちゃん注:ここも原注全文を引いて見る。

   *

  With this episode compare the close of the English ballad "Sweet William's Ghost" (Child: vol. ii., page 148): —

    "O stay, my only true love, stay!"

     The constant Margaret cried:

    Wan grew her cheeks; she closed her een,

     Stretched her soft limbs, and died.

   *

訳してみる。

   *

 このエピソードを、イギリスのバラッド「華麗なるウィリアムの幽霊」の終章と比較して見よう(チャイルド編。㐧二巻百四十八ページ)。

 「おお、とどまれよ! 我の唯一人のまことに愛する人よ、とどまれ!」

   絶え間なくマーガレットは哭き叫んだ、

 蒼ざめた彼女の両頰、彼女は両の目を閉じ、

   しなやかなその彼女のみ手を伸ばして、そして、身罷った。

   *

先の訳ともに、一部の詩の訳語については、平井呈一氏の恒文社版(一九七五年刊)の訳(「日本の古い歌謡」)にある氏の意訳のそれを参考にさせて戴いた。]

 

寺の大門(おほもん)四五丁離れ、

小石拾うて袂へ入れて、

前のお濠(ほり)へ身を捨てまする、

        ヤンレイ!

[やぶちゃん注:「四五丁」四百三十四~五百四十五・五メートル。

 なお、悲しい情話唄は、他にも例えば、サイト「雑学の世界」のここに「お吉清三口説」(おきちせいざくどき)として二種が見出せる。この話は越後瞽女の口説として広まったことが知られ、飴売などによってさらに「越後節」として諸国に流行ったものであることが、板垣俊一氏の論文「幕末江戸の唄本屋 ―吉田屋小吉が発行した唄本について―」PDF)に載る。なお、底本の大谷氏の「あとがき」には、『なほ文末の『繪卷踊歌』と『お吉淸三くどき』とは、原文には散文譯だけ揭げてあるのであるが、これはそれを逐字譯とはせずに――殊にその後者の原歌を知つて居る者は多分譯者だけで、今後原歌を知らうにも知れまいから、原歌を揭げることにした』と書かれてあるのである。まさにこの訳者を得てこそ、この唄は原型が残ったのだと言えるのである。

                                                                                                     

 自分は佛敎的なのを二つ引用して、人の餘り知らぬ歌の野原へのこの短時の遠出(とほで)を終はることとしよう。初のは多分十二世紀の末か十三世紀の初かに作られ『源平盛衰記』といふ有名な書物のうちにあるものである。『今樣』といふ音格で――卽ち、七綴音と五綴音とのかはろがはるの短い句(七、五。七、五。七、五。と無制限)で書かれて居る。今一つの哲理的な作品は十六世の『隆達節』といふ歌集から採つたものである。

 

  一 (今やう詞)

樣(さま)も心も 變はるかな!

落つる淚は    瀧の水、

妙法巡華の    池となり、

弘誓の船に    棹さして、

沈む我が身を   乘せ給へ!

 

  二 (文祿年間――一五九二―九六――のもの)

誰れか再び花咲かん

   あただ夢の間の

        露の身に。

 

[やぶちゃん注:「『源平盛衰記』といふ有名な書物のうちにあるもの」これは「平家物語」の特異な異本である「源平盛衰記」の「巻第九 康頼熊野詣」の中にある。平康頼(生没年不詳)は平安末から鎌倉前期の歌人で官人。中原頼季の息子か。正治二(一二〇〇)年には生存している。仏教説話集「宝物集」の編者に目される。衛門府官人・検非違使を経て、後白河院近習として活躍し、「今様」を後白河法皇に習い、「猿楽狂い」と綽名されるほどに芸能に熱中した。治承元(一一七七)年、平家打倒を企てた「鹿ケ谷の謀議」に連座し、藤原成経・俊寛とともに鬼界ケ島に流され、配流の途中で出家している。法名は性照。後に赦されて治承三(一一七九)年に帰洛した。「平家物語」では、以後、東山双林寺辺りに住んだとする。文治二(一一八六)年には源頼朝から阿波国麻殖保(おえのほう:「保」は中世期の国衙領の一種。元来は天領をで、私領を「庄」と呼んだのに対して用いられた行政名)の保司に任ぜられている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。以下、所持する三弥井書店版を参考に、カタカナをひらがなにし、漢字を恣意的に正字化して前後を示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

近津井、湯河、音無の瀧、飛瀧權現に至まで、和光の誓を憑つゝ、いはのはざま、苔の筵、杉の村立(むらだち)、常葉の松、神の惠の靑榊、八千代を契る濱椿、心にかゝり目に及(および)、さもと覺る處をば、窪津王子より、八十餘所に御座(おはします)王子々々と拜つゝ、榊幣挾れたる心の内こそ哀れなれ。奉幣御神樂なんどこそ、力無れば不ㇾ叶と、王子王子の御前にて、馴子舞(なれこまひ)[やぶちゃん注:旅人が社寺の前を通る際に手向けとして踊る舞いのこと。]計(ばかり)をばつかまつらる。康賴は洛中無雙の舞也けり。魍魎鬼神もとらけ、善神護法もめで給計(ばかり)なりければ、昔今の事思出で、

  さまも心も替かな、

  落る淚は瀧の水、

  妙法蓮華の池と成、

  弘誓の舟に竿指て、

  沈(しづむ)我等をのせ給へ

と、舞澄して泣ければ、少將も諸共に、淚をぞ流しける。

   *

「今樣」(いまやう)平安末期に流行した声楽。その当時として「今様(いまよう)」、つまり「現代風」という意味で名づけられたもの。七五調四句の詞型を特徴とし、鼓などの伴奏で歌うこともある。白拍子などによって歌われ、貴族にも広まり、後白河法皇はその歌詞を「梁塵秘抄」に採録している。

「文祿年間――一五九二―九六――」開始年は一五九三年の誤り。]

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