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« 小泉八雲 破約  (田部隆次訳) | トップページ | 小泉八雲 果心居士  (田部隆次訳) »

2019/10/10

小泉八雲 閻魔の庁にて  (田部隆次訳) (原拠を濫觴まで溯ってテツテ的に示した)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Before the Supreme Court”。「最高権威の法廷にて」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(原題“Strange Stories ”)の第三話に置かれたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 

  閻魔の庁にて

 

 名高い佛僧存覺上人の『敎行信證』に云つてある、『人の禮拜する神多く邪神なり、故に三寳に歸依する者は多くこれに仕へず。かかる神を禮拜して恩惠を受けたる者も、後になりて、かかる恩惠は不幸を生ずる事を常に知る』日本靈異記の中に記してある話がこの道理のよい例である。

[やぶちゃん注:「名高い佛僧存覺上人の『敎行信證』に云つてある、」原文は“THE great Buddhist priest, Mongaku Shonin, says in his book Kyō-gyō Shin-shō :”で、まず僧侶の名が「存覺上人」ではなく、正字でなら恐らく「文覺上人」とあり、しかもご存じの通り、「敎行信證」は親鸞の名著大作であって、作者が違うし、同書を読んだことのある私にはこのような記載はないと思う。一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の平川氏の訳の訳者注には、『ハーンが依拠した『通俗仏教百科全書』の第一字』目『が欠字していたため』、小泉八雲にこの話を語った『郞読者が誤って「存覚上人」とハーンに教えた』ために、『英文では』再起のようになったのだとされ、当該書の訳では、『原拠』(最後に掲げる)『に従い、「存覺上人」の『教行信証六要鈔』にあらためた』とある。存覚(そんかく 正応三(一二九〇)年~応安六(一三七三)年)はウィキの「存覚」によれば、『鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧である。父は覚如』(「大谷廟堂」の寺院化(本願寺創成)に尽力して本願寺を中心とする浄土真宗教団の基礎を作り、本願寺の実質的な開祖となった甚物(一般に開祖は、親鸞とされるが、親鸞自身に開宗教団形成の意思は全くなく(そのそも「浄土真宗」とは法然の草創した浄土宗の真(まこと)の謂いであって、元来は宗派名でさえなかった)、本願寺成立後、覚如が事実上、創成した宗派である。私は覚如は親鸞の正統な法嗣ではないとさえ考えているほど、親鸞の教えを踏みにじっていると考える人間である)である。『存覚は、初期浄土真宗における優れた教学者で、父覚如を助けて浄土真宗の教線拡大に尽力したが、本願寺留守職や東国における門徒への対応などをめぐり対立し』、二『度の義絶と和解が繰り返された。和解後も本願寺別当職を継承しなかった』。『存覚は終生に』亙って、『教化活動に力を注ぎ、佛光寺の了源への多数の聖教書写を初め、関東や陸奥国・近江国・備後国などで多くの布教活動を行っ』ている、とある。彼の「教行信証六要鈔」は親鸞の「教行信証」の最初の注釈書で、延文五(一三六〇)年に完成されたものである。「豊後 光西寺 釈円爾会 教行信証六要抄会本 大谷派本願寺蔵版」の全文電子データをダウン・ロードして調べたところ、これに相当すると思われる部分を発見した。恣意的に正字化し、一部の歴史的仮名遣を訂し、以下に原文と訓読文(記号を追加した)を示す。

   *

○先涅槃文。卽出經名是別標也。已下皆同。言終不更歸依等者。問。天神地祗世之所貴何誡之乎。答。歸佛陀者釋敎軌範。崇神明者世俗禮奠。内外別故。法度如此。是則月氏晨旦風敎。所崇之神多邪神。故歸三寶者不得事之。故倶舍云。衆人恐所逼多歸依諸仙園苑及※[やぶちゃん注:「聚」の上に(くさかんむり)。]林孤樹制多等。此歸依非勝。此歸依非尊。不因此歸依能解衆苦。已上。

○まず『涅槃』の文。卽ち經名を出だす、これ別標なり。已下皆同じ。「終不更歸依」等といふは、問ふ、「天神地祗は世の貴ぶ所なり、何ぞこれを誡むるや。」。答ふ、「佛陀に歸するは釋敎の軌範、神明を崇むるは世俗の禮奠、内外別なる故に、法度かくの如し。これ、則ち月氏、晨旦の風敎、崇むる所の神は多く邪神なり。故に三寶に歸する者は、これに事うることを得ず。故に『倶舍』に云わく「衆人は所逼を恐れて多く諸仙の園苑、及び※林、孤樹、制多等に歸依す。この歸依は勝にあらず。この歸依は尊にあらず、この歸依に因りて能く衆苦を解せず。」。已上。

   *

「三寳」仏教で信仰の対象となる最重要のものである「仏」・「法」・「僧」の三つ。「仏」は釈迦、「法」はその説いた経典・教説、「僧」は教えを守る和合衆(僧集団)をいう。本質は一つと説かれており、末世では仏像・経巻・出家を指す。

「日本靈異記の中に記してある話」最後に掲げる。]

 

 聖武天皇[やぶちゃん注:(在位は神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年。]の御世に、讃岐國山田郡に、布敷臣(ふしきのをみ)と云ふ人の一人子に衣女(きぬめ)と云ふ娘がおつた。衣女は容貌のよい大層强い女でありた、しかし彼女が十九になつて間もなく、その地方に危險な病氣が流行して、彼女もそれに襲はれた。兩親や親戚はその時、彼女のために或疫病神に祈つて、その神のためにさまざまの行をして、――彼女を助ける事を願うた。

[やぶちゃん注:「讃岐國山田郡」現在の高松市の牟礼町各町を除く木太町・林町・上林町・三谷町・西植田町・菅沢町以東に当たる。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。一部のネット記載では木田(きた)郡としその場合は、さぬき市(昭和)も含まれる。ウィキの「山田郡」の旧郡図も示しておく。]

 數日の間、人事不省になつてゐたあとで、病人の娘は或晚我にかへつて、兩親に自分の見た夢の話をした。彼女は疫病神が現れて、彼女にかう告げら夢を見た、――『お前のうちの人々がお前のために熱心に自分に祈つて、信心深く自分を崇めるから、自分はお前を本當に助けてやりたい。しかしさうするには誰か外の人の生命を與へねばならない。お前と同じ名の誰か外の娘を知つてゐないか』『知つてに居ります』衣女は答へた、『鵜足郡に私と同じ名の娘が居ります』『その女を自分に指し示せ』疫病神が云つて、眠れる人に觸(さは)つた、――それから觸(さは)られると共に、彼女は神と一緖に空中に浮んだ、それから忽ちのうちに、二人は鵜足郡の衣女の家の前に行つた。夜であつたが、うちの人々は未だ床についてゐなかつた、そして娘は臺所で何か洗つてゐた。『あれです』と山田郡の衣女が云つた。疫病神が帶にもつてゐた緋袋の中から鑿(のみ)のやうな長い鋭い道具を取出して、家に入つて、鵜足郡の衣女の顏にその鋭い道具をつき込んだ。そこで鵜足部の衣女は非常に苦悶して床の土に倒れた。山田郡の衣女は眼を覺して、その夢の話をした。

[やぶちゃん注:「鵜足郡」(うたり/うた・ぐん(こほり))は現在の丸亀市(土居町・土器町・飯野町各町・飯山町各町・綾歌町各町)及び坂出市(川津町)・綾歌郡宇多津町(吉田地区除く)・仲多度郡まんのう町(川東を除く長尾、炭所東、造田以東)附近。先の山田郡の西方に三郡を隔ててあった郡ある。ウィキの「鵜足郡」の旧郡図を示しておく。]

 しかし、それを物語つたあとで、彼女は再び人事不省になつた。三日間彼女は何事も分らないでゐら、そして兩親は彼女の囘復を望みなく思つてゐた。その時もう一度彼女は眼を開いて、物を云つた。しかし殆んど同時に彼女は床から起き上つで、物狂はしさうに部屋を見𢌞して、部屋から跳び出して、叫んだ、――『これは私のうちぢやない、――私の兩親ぢやない』……

 何か餘程變な事が起つたのであつた。

 鵜足郡の衣女は疫病神の鑿にさされて死んだ。兩親は歎き悲しんだ、檀那寺の僧侶達は彼女のために讀經して、遺骸は野外で火葬になつた。それから魂は冥途へ行つて閻魔大王の前に出た。しかし大王はこの少女を見るや否や叫んだ、――「この少女は鵜足郡の衣女だ、こんなに早くここへ連れて來ではならぬ。すぐ娑婆世界へかへせ、今一人の衣女――山田都の少女を連れて來い』その時鵜足郡の衣女の魂は閻魔大王の前に哀泣して訴へた、――『大王さま、私死にましてから三日以上になります、今頃は私のからだは灰と煙になつて居りますので、――私のからだはございません』 『心配には及ばぬ』畏ろしい大王は答へた、――『お前には山田郡の衣女のからだを與へる、――その女の魂は今すぐここに來る事になつて居るから。お前はからだが燒けた事は氣にかけなくともよい、お前には別の衣女のからだの方がもつともつと好都合だらう』それからかう云ひ終るや否や鵜足郡の衣女の魂は山田郡の衣女のからだに入つて再生した。

 

 ところで山田郡の衣女の兩親は、病人の娘が『これは私のうちぢやない』と叫びながら、叫びながら、跳び上つて驅け出すのを見た時に、――彼等は娘が發狂したと想像した、そして、そのあとから『衣女、お前はどこへ行く、――ちよつと、お待ち、お前は病氣だから、そんなに走つてはいけない』――と呼びながら、走つた。しかし、娘は止まらないで、走り續けて、たうとう鵜足部に行つて、死んだ衣女の家まで來た。そこへ驅け込んで、老人達を見た、それから、お辭儀をして、叫んだ、――『あ〻、うちへ歸つて嬉しい。……父樣も母樣も、お變りませんか』彼等はその女が何者だか分らなかつたから、狂人だと思つた、しかし母はやさしく彼女に問うて云つた、――『お前はどこから來ましたか』『冥途から來ました』衣女は答へた。『私はあなたの娘の衣女です、冥途から歸つて來たのです。しかし今はからだが違つてゐます、母樣』それから彼女はこれまでの話をした、そこで老人達は非常に驚いたが、どう信じてよいか分らなかつた。やがて山田郡の衣女の兩親は娘をさがしながら、その家に來た、それから二人の父と二人の母は一緖に相談して、娘に話をくりかへさせて、何度も質問した。しかしどんな質問に對しても彼女の答は、正しいので、彼女の話は疑はれなくなつて來た。たうとう、山田郡の衣女の母は、病氣の娘が見た妙な夢を述べてから、鵜足郡の衣女の兩親に云つた、――この娘の魂はあなた方のお子さんの魂だと私達は承知します。しかし、御覽の通りからだは私達の娘のからだです。それでこの娘は兩方の家の者ですね。これからはこの娘を兩方の家の娘とするに御同意ありたい』これには鵜足部の兩親も喜んで一致した、そして、その後衣女は兩家の財產を想続した事が記錄に殘つて居る。

 

 佛敎百科全書の著者は云ふ、『この話は日本靈異記第一卷の十二枚目の左のとこに見えて居る』

[やぶちゃん注:「日本靈異記第一卷の十二枚目の左」とあるが、何を間違ったものか、これは「日本靈異記」の「中卷」の「二十五 閻羅王の使の鬼召さるる人の饗を受けて恩を報ずる緣」の誤りである。それも後掲する。

 

[やぶちゃん注:まず、小泉八雲が原拠としたのは、「通俗仏敎科全書」の中巻の第九十五の「邪神の事」であるとされる。それをまず、示す。但し、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村(ぬのむら)弘氏の「解説」によれば、その種本は後に示す「日本霊異記」であり、それは「今昔物語集」の巻二十の十八にも採録されてあって(実際には類話はもっと沢山ある)、さらにその濫觴は唐代の「冥報記」下に載るものが基であるとするので、さればこそ、その総てを以下で電子化して示すこととする。

 まずは、「通俗仏敎科全書」の中巻の第九十五の「邪神の事」。本書は大分出身の真宗大谷派の僧長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗仏教百科全書」(開導書院・明治二三(一八九〇)年刊)。但し、これは江戸前期の真宗僧明伝(みょうでん 寛永九(一六三二)年~宝永六(一七〇九)年)の編になる「百通切紙」(全四巻。「浄土顕要鈔」とも称する。延宝九(一六八一)年成立、天和三(一六八三)年板行された。浄土真宗本願寺派の安心と行事について問答形式を以って百箇条で記述したもので、真宗の立場から浄土宗の教義と行事を対比していることから、その当時の浄土宗の法式と習俗などを知る重要な資料とされる)と、江戸後期の真宗僧で京の大行寺(だいぎょうじ)の、教団に二人しか存在しない学頭の一人であった博覧強記の学僧信暁僧都(安永二(一七七三年?~安政五(一八五八)年:「御勧章」や仏光版「教行信証」の開版もした)の没年板行の「山海里(さんかいり)」(全三十六巻)との二書を合わせて翻刻したものである。以下はその後者「山海里」の部である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここから視認した。読みは振れるものに留め、句読点や記号を補い、段落を成形した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママである。

   *

 第九十五  ○邪神の事

 一存覺(ぞんかく)上人の「敎行信證六要妙」に曰(いはく)、『月氏(げつし)、晨旦(しんたん)の風敎(ふうけふ)、崇(あがめ)る所の神、多く、邪神なり。故(かるがゆゑ)に三寶に歸する者は、之に事(つかへ)ず。邪神に事る者は損ありて、益なし』と、眞正(しんしやう)邪僞の決判あり。

 延喜(ゑんぎ)年中[やぶちゃん注:九〇一年~九二三年。]に、源の順(したがふ)が著せる「和名類衆(わみやうるいじゆ)」[やぶちゃん注:源順の漢和辞書「和名類聚鈔」。但し、延喜の後の承平四(九三四)年頃の成立である。但し、ここに記されているような内容は調べ得なかった。]に引證の、舊錄たる「日本靈異記」の中に、聖武天皇の御宇(みよ)の時、讚岐國山田郡(やまだおほり)の布敷臣(ふしきのしん)といふ人の女子(むすめ)に衣女(きぬめ)といふあり。その女子、急病のおこりたる時、疫病神(やくびやうがみ)にいのりて、命(いのち)をたすからんがために、さまざまとおこなひ、まつりければ、疫神(やくじん)、夢に告(つげ)て云く、

「汝、われをまつりあがむるがゆゑに、人の命をとりかへて、汝が命をたすくべし。此國に其方(そのはう)と同じ名の者、ある事をしらざるや。」

と、いへり。

 今の病人なる衣女、夢ごゝろにて、こたへけるに、

「同國にては、鵜足郡(うたりこをり)に、われと名の同じき女子(むすめ)ある事をしれり。」

と、いふ。

「さあらば。」

とて、疫神(やくじん)、その女子をつれて、鵜足郡の衣女が家に入(いり)て、緋囊(あかきふくろ)より、一尺ばかりの鑿(のみ)を出して、其家の女子(むすめ)なる衣女(きぬめ)が額(ひたひ)に打(うち)たつるとおもへば、にわかに、女子(むすめ)はうちたをれて、なやみ苦(くるし)むありさまなり。

 其時、山田郡の衣女が病氣はたちどころに平癒(へいゆう[やぶちゃん注:ママ。])して、歸(かへる)と覺(おもへ)て、夢、さめければ、急病人は本覆(ほんぷく)して、常のごとし。

 さて、その鑿をうたれたる鵜足郡の女子の衣女は、あへなく、命(いのち)終(をはり)にけり。

 其親屬らは、あつまりて、なげきけれども、人の命にかへられし事は、ゆめゆめしらぬことなれば、

「定まれる定業(ぢやうがう)のせんかたなし。」

と、野外におくりて、火葬のけむり、あとかたなくぞなりける。

 しかるに、その魂は冥土にゆき、爓魔(ゑんま)の前にいたるに、爓魔王、この女子を御覽ありて、[やぶちゃん注:歴史的仮名遣は「えんま」でよい。]

「これは、鵜足郡の衣女なり。今、來(きたる)べき者にあらず。山田の衣女を連來(つれきた)れ。今、來(きた)る鵜足の衣女は、いそぎて、娑婆へかへすべし。」

とのたまへば、衣女が申(まうし)のぶるには、

「われ事(こと)、死たるは三日以前のことなれば、死骸は火葬となりたるならん。かへしたまはりても、やどるべき體なし。いかゞはせんと。」

なげきければ、爓魔大王、のたまはく、

「汝、悲しむことなかれ。山田の衣女が死骸(しかばね)に、汝が魂をやどらせて蘇生(よみがへら)せん。」[やぶちゃん注:「山田の衣女」は実際には死んでいることになっているので「死骸」と呼称しているのであろう。但し、以下のシチュエーションは上手く繋がっておらず齟齬がある。後に示す「日本霊異記」の方が、理に適った形となっている。]

と、爓魔の聲のおはらぬに、山田の衣女、よみがへる。

 其父母も親屬もよろこぶこと、かぎりなし。

 しかるに、よみがへりたる女子の衣女、家の内を見まはして、

「是は吾家にあらず。我(わが)家は鵜足にあり。」

とて、かけ出(いで)んとするを、父母、おどろき、いだきとめ、

「汝は、これ、我子(わがこ)なり。何とて、かくはいひけるぞ。」

と、なだめてもなだめても、女子なかなか、きゝいれず。

 家をかけ出(いで)、鵜足の家にゆきいたり、

「是こそ、吾家なりけり。」

といひけるを、又、其家の父母は尙更におどろきて、

「我子は三日のさきに、はや、けむりとなり、灰となり、火葬したれば體は、なし。しかるに、體(からだ)入來(いりきた)り、『我家なり我子なり』といひけるは、不審(いぶかしき)ことなり。」

といひけるゆゑ、衣女、ことばをあらためて、冥土へゆきし物がたり、爓魔王の下知として魂(たましい)を入れかへられし、はじめをわりをいひければ、父母(ちゝはゝ)も聞(きゝ)わけ

ていよいよ落淚にぞ、およびけり。

 山田郡の父母も、あとよりたづね來りて、鵜足郡の父母にむかひて、

「其魂(たましい)は、その兩親の子息なり。其身が我等の產育(うみそだて)、足手(あして)のばせし吾子なれば、兩家の子として、たまはれ。」

と、女子(むすめ)一人に父母(ふぼ)四人、兩家のあとを讓(ゆずり)しと、「日本靈異記」上卷の十二紙(し)の左のところに見えたり。

○爓魔法王は眞(しん)也(なり)、正(しやう)也。疫病神は邪(じや)也、僞(ぎ)也。

○善導大師[やぶちゃん注:六一三年生まれで六八一年示寂。唐代の僧で、臨淄(りんし:山東省)の人とされる。中国の浄土教を大成し、称名念仏三昧を唱導した。主著「観無量寿経疏」。浄土教の濫觴として尊崇される。]の、『臨終正念(しやうねん)、決(けつ)に人命の長短、生(うまれ)てより下已(このかたすで)に定まれり。何ぞ鬼神を假(かり)て延之耶(これをのべん)や』とあるも、「倶舍論(くしやろん)」[やぶちゃん注:「阿毘達磨(あびだつま)倶舎論」のこと。五世紀頃、インドの世親(せしん)の著作。玄奘訳は全三十巻。小乗仏教の教理の集大成である「大毘婆沙論(だいびばしゃろん)」の綱要を記したもので、法相(ほっそう)宗の基本的教学書。]に、『※[やぶちゃん注:「聚」の上に(くさかんむり)。]林、孤樹等(とう)に歸依するは、勝(しやう)にあらず、尊にあらず』とあるも、みな、「六要鈔」の、『損ありて益なき』の義なり。いづれや、釋敎の軌範、ありがたき論釋なり。「現世利益和讚」[やぶちゃん注:親鸞聖の「浄土和讃」にある「現世利益和讃」十五首。]に、『南無阿彌陀佛をとなふれば、爓魔法王、尊敬(そんきやう)す』[やぶちゃん注:同前の第九首に「南無阿彌陀佛をとなふれば 炎魔法王尊敬す 五道の冥官みなともに よるひるつねにまもるなり」とある。]とありて、まことに爓魔は法王にて、善鬼神(ぜんきじん)なり。今の邪神なるものどもは、願力(がんりき)不思議の信心(しんじむ)は大菩提心なりければ、天地にみてる惡鬼神、みな、ことごとくおそるなり、とある邪惡の鬼神は、天地間(かん)にみちみちて、疫(やまひ)の神などゝいはるゝものどもなり。

   *

 次に、「日本霊異記」(正式名称は「日本國現報善惡靈異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)」。平安初期に書かれ、伝承された最古の説話集。著者は薬師寺の僧景戒)上の下巻の「閻羅王(えんらわう)の使(つかひ)の鬼、召さるる人の饗(あへ)を受けて、恩を報ずる緣第二十五」を示す。底本は昭和五二(一九七七)年角川文庫刊の板橋倫行校註本を用いたが、恣意的に概ね漢字を正字化し、読点も増やし、段落を成形した。読みは一部で推定で歴史的仮名遣で附した。

   *

   閻羅王の使の鬼、召さるる人の饗(あへ)を受けて、恩を報ずる緣第二十五

 讚岐の國山田の郡に、布敷(ぬのし)の臣(おみ)衣女(きぬめ)有り。

 聖武天皇の代に、衣女、たちまちに病を得たり。時に偉(たたは)しく百味を備けて[やぶちゃん注:たっぷりとした供物としての食物を用意し。]、門の左右に祭り、疫神(やくじん)に賂(まひ)して饗(あへ)す。

 閻羅王の使の鬼、來りて衣女を召す。

 其の鬼、走り疲れて、祭の食(じき)を見て、※(おもね)[やぶちゃん注:「貝」+「面」。]り就きて、受く。

 鬼、衣女に語りて言はく、

「我、汝の饗を受くるが故に、汝に恩を報いむ。若し、同じ姓、同じ名の人、ありや。」

といふ。

 衣女、答へて言はく、

「同じ國の鵜垂(うたり)の郡に同じ姓の『衣女』あり。」

といふ。

 鬼、衣女を率(ゐ)て、鵜垂の郡の衣女の家に往きて對面す。すなはち、緋(あけ)の囊より一尺の鑿(のみ)を出して、額(ぬか)に打ち立て、すなはち、召し將(ゐ)て去る。

 彼の山田の郡の衣女は、かくれて、家に歸りぬ。

 時に閻羅王、待ち校(かむが)へて言はく[やぶちゃん注:待ち受けて取り調べをして言うことには。]、

「こは召せる衣女に非ず。誤りて召せるなり。然れども、暫(しばらく)ここに留まれ。すみやか往きて山田の郡の衣女を召せ。」

といふ。

 鬼、かくすこと得ず、しきりに[やぶちゃん注:重ねて。再度。]山田の郡の衣女を召して、將(ゐ)て來たる。

 閻羅王、待ち見て言はく、

「まさに是れ召せる衣女なり。」

といふ。

 往(さき)の、かの鵜垂の郡の衣女は、家に歸れば、三日の頃を經て、鵜垂の郡の衣女の身を燒き失せり。

 更に還りて、閻羅王に愁へて白(まう)さく、

「體を失ひて依りどころなし。」

と、まをす。

 時に、王、問ひて言はく、

「山田の郡の衣女が體ありや。」

といふ。答へて言はく

「有り。」

といふ。

 王、言はく、

「其を得て汝が身となせ。」

といふ。

 因りて鵜垂の郡の衣女の身となりて、甦(い)く。

 すなはち、言はく、

「こは我が家に非ず。我が家は鵜垂の郡に有り。」

といふ。

 父母の言はく、

「汝は我が子なり。何の故にか然(しか)言ふ。」

といふ。衣女、なほ聽かず、鵜垂の郡の衣女が家に往きて言はく、

「まさにこは我が家なり。」

といふ。

 其の父母、言はく、

「汝は我が子にあらず。我が子は燒き滅(う)せり。」

といふ。

 ここに衣女、具(つぶさ)に閻羅王の詔(みことのり)の狀を陳(の)ぶ。

 時にかれこれ二つの郡の父母、聞きて、諾(うべな)ひ信(う)け、二つの家の財(たから)を許可(ゆる)し、付屬(さず)く。故に、現在の衣女、四(よたり)の父母を得、二つの家の寶を得たり。饗(あへ)を備へ、鬼に賂(まひ)す。こは功、虛(むな)しきに非ず。およそ、物有らば、なほ賂し饗すべし。これもまた、奇異の事なり。

   *

 次に「今昔物語集」巻第二十の「岐國女行冥途其魂還付他身語第十八」(讚岐國(さぬきのくに)の女(をむな)、冥途に行きて、其の魂(たましひ)、還へりて他(ほか)の身に付く語(こと)第十八)を示す。小学館「日本古典全集」版を参考に、漢字を概ね正字化し、読みを外に出したりし、段落も成形した。□は欠字。

   *

 今は昔、讚岐の國山田の郡(こほり)に一人の女、有けり。姓(しやう)は布敷(ぬのしき)の氏(うぢ)。

 此の女、忽ちに身に重き病を受けたり。然かれば、直(うるは)しく□[やぶちゃん注:「百」か。]味を備へて、門の左右に祭りて、疫神(やくじん)を賂(まかな)ひて、此れを饗(あるじ)す。

 而る間、閻魔王の使ひの鬼、其の家に來たりて、此の病ひの女を召す。其の鬼、走り疲れて、此の祭の膳(そなへもの)を見るに、此れに※(おもね)[やぶちゃん注:「※」=「靦」の左右を入れ替えた字体。]りて、此の膳を食ひつ。

 鬼、既に女を捕て將(ゐ)て行く間、鬼、女に語らひて云く、

「我れ、汝が膳(そなへもの)を受けつ。此恩を報ぜむと思ふ。若(も)し、同名同姓なる人、有りや。」

と。

 女、答へて云く、

「同じ國の鵜足の郡に、同じ名、同じ姓(しやう)の女、有り。」

と。

 鬼、此れを聞きて、此の女を引きて、彼(か)の鵜足の郡の女の家に行きて、親(まのあた)り、其の女に向ひて、緋(あけ)の囊より、一尺許りの鑿を取り出だして、此の家(いへ)の女の額(ひたひ)に打と立てて、召して將(ゐ)て去ちぬ。彼(か)の山田の郡の女をば免(ゆる)しつれば、恐々(おづおづ)家に返る、と思ふ程に、活(よみがへ)りぬ。

 其の時に、閻魔王(えむまわう)、此の鵜足の郡の女を召して來たれるを見て宣はく、

「此れ、召す所の女に非ず。汝ぢ、錯(あやま)りて此れを召せり。然(さ)れば、暫く此の女を留(とど)めて、彼(か)の山田の郡の女を召すべし。」

と。

 鬼、隱す事能はずして、遂に山田の郡の女を召して、將て來たれり。

 閻魔王、此れを見て宣はく、

「當(まさ)に此れ召す女也(なり)。彼(か)の鵜足の郡の女をば返すべし。」

と。

 然(しか)れば、三日を經て、鵜足の郡の女の身を燒き失ひつ。然(しか)れば、女の魂(たましひ)、身無くして、返り入る事能はずして、返りて閻魔王に申さく、

「我れ、返されたりと云へども、體(むくろ)失せて、寄り付く所、無し。」

と。

 其の時に、王、使ひに問ひて宣はく、

「彼の山田の郡の女の體(むくろ)は未だ有りや。」

と。使ひ、答へて云く、

「未だ有り。」

 王の宣はく、

「然(さ)らば、其の山田の郡の女の身を得て、汝が身と爲すべし。」

と。

 此れに依りて、鵜足の郡の女の魂、山田の郡の女(をむな)の身に入りぬ。

 活(よみがへ)りて云はく、

「此れ、我が家には非ず。我が家は鵜足の郡に有り。」

と。

 父母(ぶも)、活(よみがへ)れる事を喜び悲ぶ間に[やぶちゃん注:嬉し涙を成して喜んだのだが。]、此れを聞きて云はく、

「汝は我が子也(なり)。何の故に此(か)くは云ふぞ。思ひ忘れたるや。」

と。

 女、更に此れを用ゐずして、獨り、家を出でて、鵜足の郡の家に行きぬ。

 其の家の父母(ぶも)、知らぬ女の來たれるを見て、驚き怪しむ間、女の云はく、

「此れ、我が家也。」

と。父母の云はく、

「汝は我が子に非ず。我が子は早(はや)う燒き失ひてき。」

と。

 其の時に、女、具(つぶさ)に、冥途にして、閻魔王の宣ひし所の言(こと)を語るに、父母、此れを聞きて、泣き悲むで、生きたりし時の事共(ども)を問ひ聞くに、答ふる所、一事(いちじ)として違(たが)ふ事、無し。

 然かれば、體むくろ)には非ずと云へども、魂、現(あらは)に其れなれば、父母、喜びて、此れを哀(あはれ)び養ふ事、限無し。

 又、彼の山田の郡の父母、此れを聞きて、來たりて見るに、正(まさ)しく我が子の體(むくろ)なれば、魂(たましひ)非ずと云へども、形を見て、悲び愛する事、限無し。

 然かれば、共に此れを信じて、同じく養ひ、二家(ふたついへ)の財(たから)を領(れう)じてぞ有りける。此れを以つての、此の女獨りに付囑(ふぞく)して、現(うつつ)に四人の父母を持ちて、遂に二家の財を領じてぞ有りける。

 此れを思ふに、饗(あるじ)を備へて鬼を賂(まひな)ふ、此れ空しき功(くう)[やぶちゃん注:無駄な甲斐のない手立て。]に非ず。其れに依りて、此(か)く有る事也。又、人死にたりと云ふとも、葬する事、忩(いそ)ぐべからず。萬が一にも、自然(おのづか)ら此(かか)る事の有る也、となむ語り傳へたるとや。

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最後に、初唐に書かれた「冥報記」(作者は唐臨。六五〇年から六五九年の間、唐の高宗に御史大夫・吏部尚書として仕えた人物。内容は唐・隋の説話を中心に蒐集されたもので、因果応報の理を解く。現在、中国では散逸し、本邦の承和年間(八三四年~八四八年)に入唐した円行が持ち帰った唐写本(髙山寺蔵本)が日本にのみ残る現存最古写本とされる。先の「日本霊異記」に書名が出、上記以外にも「今昔物語集」の典拠ともなった)の原拠らしいものを示す。

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魏郡馬嘉運。以武德六年正月。居家。日晚出大門。忽見兩人。各捉馬一匹。先在門外樹下立。嘉運問。是何人。答云。是東海公使。來迎馬生取。嘉運素有學識。知州里。每有臺使。及四方貴客。多請見之。及是聞召。弗之怪也。

謂使者曰。吾無馬。使者進馬曰。以此迎馬生。嘉運卽樹下。上馬而去。其實倒臥於樹下也。俄至一官曹。將入大門。有男女數十人。在門外。如訟者。有婦人。先與嘉運相識。同郡張公謹妻。姓崔氏。手執文書。謂嘉運曰。馬生尚相識不。昔與張總管交遊。每數相見。總管無狀。非理殺我。我訴天曹。於今三年。

爲王天主救護公謹。故常見抑。今及得申官已追之。不久當至。疑我獨見枉害。

馬生那亦來耶。嘉運知崔氏被殺。及見方知死。使者引入門。門者曰公眠。未可謁。宜引就霍司刑處坐。嘉運見司刑。乃益州行臺郎中霍璋。見嘉運。延坐曰。

此府記室闕。東海公。聞君才學。欲屈爲此官耳。嘉運曰。家貧妻子不立。願君為言。得免爲幸。璋曰。若爾。使可自陳無學。吾當有以相明。俄有人來云。公眠已起。引嘉運入。見一人在廳事坐。肥短黑色。呼嘉運。前謂曰。聞君才學。

欲相屈爲記室耳。能爲之乎。運拜謝曰。幸甚。但鄙人野。頗以經業。教授後生。不足以尚管記之任。公曰。識霍璋不。答曰識之。因使召璋。問以嘉運才術。璋曰。平生知其經學。不見作文章。公曰。放馬生歸。卽命追陳子良。嘉運辭出。璋與之別曰。倩君語我家三狗。臨終語汝。賣我所乘馬。作烏浮圖。汝那賣馬自費也。速如我教。造浮圖所三狗。謂其長子也。嘉運因問。向見張公謹妻所云。天主者。爲誰。璋曰。公謹鄕人王五戒者。死為天主常救公謹。故得至今。今似不免矣。言畢而別。遣使者送嘉運。至一小澀徑。指令由此路歸。嘉運入徑便活。良久能起。時向夜半。妻子皆坐哭。嘉運具言之。其年七月。綿州人。姓陳名子良。暴死。經宿而蘇。自言。見東海公欲用爲記室。辭不識文字。

別有吳人陳子良。善章者。於是命彼捨此。後年吳人陳子良卒死。張公謹亦殂。

二人亡後。嘉運嘗與數人同行。於路忽見官府者。嘉運神色憂怖。唯諾趨走。須之。乃定。同侶問之。答曰。向見者。東海公使人。云欲往益州追人。仍說。子良極訴君。霍司刑爲君被誦讀。君幾不免。賴君贖生之福。故得免也。初嘉運在蜀。蜀人將決池取魚。嘉運時爲人講書。得絹數十匹。因買池魚放之。贖生謂此也。貞觀中。車駕在九城宮。聞之。使中書侍郎岑文本。就問其事。文本具錄。

以奏乞爾。嘉運。後爲國子博士卒官。

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私は読みこなせるわけではないが、これ、あまり似ているとは思われない。寧ろ、唐代の他の伝奇や後の志怪小説の方に本篇に酷似したものはあるように思われる。]

 

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