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2019/10/12

小泉八雲 梅津忠兵衛  (田部隆次訳) 附・原拠「通俗佛敎百科全書」上巻「第百八十二 產神の事」


[やぶちゃん注:本篇(原題“The story of Umétsu Chūbei”。「梅津忠兵衛の話」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(原題“Strange Stories ”)の第五話に置かれたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 最後に原拠を示した。]

 

 

  梅津忠兵衞

 

 梅津忠兵衞は非常な力量と勇氣のある若い武士であつた。彼は戶村十太夫と云ふ地頭に仕へてゐた、その居城は出羽の國橫手の近傍の高い山の上にあつた。家中はその山の下に小さい町をつくつてゐた。

[やぶちゃん注:「梅津忠兵衞」出羽国久保田藩の優れた家老に梅津政景(天正九(一五八一)年~寛永一〇(一六三三)年がいるが、本篇や原拠を見ても事蹟が合わないから違う(この一門の誰かである可能性は排除は出来ない。リンク先は彼のウィキ)。但し、ウィキの「妹尾兼忠」(せおかねただ)に以下のようにある。注意! ネタバレになるので以下(※※※で挟んだ部分)は本篇を読んだ後に読まれる方がよい。】※※※『秋田県横手市に残る伝説に登場する人物である。通称が五郎兵衛であることから、妹尾五郎兵衛兼忠(せおごろべえかねただ)とも呼ばれている。また、怪力であったため』、『「大力妹尾兼忠(だいりきせおかねただ)」とも呼ばれている』。『昔、横手の武士、妹尾五郎兵衛兼忠』『が、用事があってまだ人気のない早朝に家を出た。蛇の崎橋(じゃのさきばし)』『を歩いていると、向こうから赤ん坊を抱いた女性が歩いてきて、兼忠にしばらく赤ん坊を抱いていてほしいと頼んできた。他に誰もいなかったため、兼忠はやむを得ず』、『赤ん坊を預かった』。『女性が去った後、兼忠は次第に赤ん坊が重くなってくるのに気付いた。さらに赤ん坊が成人のような目つきをし、兼忠の喉元をにらむため、危険を感じた兼忠は、小柄(小さな刀)を抜いて口にくわえた。赤ん坊の重みはいよいよ増し、ついに耐えきれなくなり思わず念仏を唱えた。小半時(』一『時間)ほどしてようやく女性が蛇の崎橋に戻ってきて赤ん坊を受け取り、お礼にお金を渡そうとしたため』、『兼忠が固辞すると、女性は「自分は土地の氏神で、いま氏子のひとりが難産で苦しんでいたので助けを求められた。あなたに預けた子はまだ産まれていない子で、だんだん重くなったのは母親が危険なときだった。あなたの念仏のおかげで親子ともども助かりました。子々孫々にわたり、力をあげます」と言って手ぬぐいを差し出した。兼忠は受け取って、用事のために急いで橋を去った』。『翌朝、兼忠は顔を洗おうとして、前日もらった手ぬぐいを思い出し、それで顔を洗った。手ぬぐいを絞ったところ簡単に切れてしまったので、兼忠は「力をあげます」という昨日の女性の言葉の意味を理解した。手ぬぐいが弱いのではなく、兼忠の力が強くなっていたのだった』。『横手城内で兼忠の怪力が評判になったころ、植木に使う大木を運搬中に蛇の崎橋で欄干に引っかかって』、『どちらにも動けなくなる出来事があった。兼忠が』丁度『通りかかり、大木を移動させようと必死に作業する人夫に、通行の邪魔であると声をかけた。人夫はつい、良くない言葉で返事をしたため、武士の兼忠はその無礼に怒り、大木を持ち上げるなり橋の下の横手川』『の川原に投げ落としてしまった。この大木を引き上げるのに』五十『人の人夫が』三『日かかったという』。元和八(一六二二)年の弾圧を受けた宗教系集団による「大眼宗一揆」(だいがんしゅういっき)の際、『兼忠は』二『間余りの角材を手に持って蛇の崎橋の上に立ち、一揆の信者たちをにらみつけ、追いのけて功名をあげた』『とも、また、兼忠の下駄は』、一『斗余り入る味噌桶の台ほどの大きさだったとも伝わる』。『ある雨の日、兼忠が足駄を履いて傘を右手に持ち、左の手の平に大石を乗せて、急な七曲がりの坂を苦もなく登って横手城』『へ登城する姿が、人々を驚かせたという。現在横手公園の一部となっている横手城本丸跡(秋田神社境内)には「大力無双妹尾兼忠」と刻まれた石碑と、彼が片手で運んだとされる大きな石が残っている』。ところが、『ある日、兼忠が横手川の関門の大扉をもってみなぎり落ちてくる水をささえ、押し戻してその力を誇示していた。このありさまを川岸で見ていた』一『人の老翁が笑いながら「上流をささえるより、下流を押し戻してみよ」と言ったので、兼忠「戻すに何の難しいことがあろうか」と扉を開いて下流に押し戻そうとしたが』、『満水に』一『町ほど流され、これではどうかと思ったとき、大水が渦を巻いたので』、『岸へかけ上がった。老翁すでにそこにはおらず、それ以来、兼忠の力は弱まったという』。『与謝蕪村が』、宝暦四(一七五四)年の「妖怪絵巻」の『なかで「蛇の崎』(じゃのさき)『が橋 うぶめの化物」として描いている』(同ウィキの当該画像はこちら。注に『横手城下町の内町(武家町)と大町、四日町などの外町(町人町)とを分ける横手川にかかる橋。送り盆祭りでも有名。菅江真澄の』「雪の出羽路」に『「蛇の崎」の名の由来が掲載されている。それによれば、大蛇と河童がこの渕で争い、なかなか勝負が着かなかったが、河童が別の渕に移ってヨロヨロとなった大蛇が渕の主になったという説話』に基づくという。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ))『それによれば、「出羽の国 横手の城下 蛇の崎が橋 うぶめの化物。関口五郎太夫、雨ふる夜、此のばけものに出合、力をさづけられるとぞ。其の後ゑぞか嶋合戦の時、其てがらあらわしけるとぞ。佐竹の家中にその子孫有」と説明をつけている』。『産女(うぶめ)が大力を授けるこの物語は「うぶめの礼物」型に属している。産女は、上述のように、城の山中の氏神だと名乗っている』。以下、注に彼は『佐竹氏家臣』で『兼貞とも。佐竹氏の久保田転封により須田美濃守(須田盛秀)とともに常陸国より従って来た茂木百騎の一人。秋田領横手城下の本町に居を構えたと伝わる』とあり、また、『妹尾五郎兵衛兼忠が大力を授かった話は、広く知られ、幕末から明治にかけて著名であった講談師桃川如燕は、これを粉飾して寄席の高座で「溝口半之丞」(「幽霊半之丞」とも)の題名で口演した』。※※※小泉八雲も本篇「梅津忠兵衛の話」として、この話を語っている。また、『柳田國男も』「日本の昔話」(初版は昭和五(一九三〇)年アルス「日本児童文庫」十一の「日本昔話集(上)」として刊行)に『「妹尾五郎兵衛」の伝承を記録している』(題名は「力士と産女」。第二段落総てが本話と同じ内容である)とあるから、この妹尾兼忠で間違いない

「戶村十太夫」江戸前期の武将で出羽国久保田藩(秋田藩)士の重臣に、通称を戸村家代々の当主の通称である十太夫を名乗る戸村義国(天正一九(一五九一)年~寛文一〇(一六七一)年)がいる。ウィキの「戸村義国」によれば、『戸村家は藤原秀郷の末裔とされる戸村能通(よしみち)により創始された家系であるが、南北朝時代に入って、南朝方に属した』六『代目の戸村又五郎(実名不詳』『)が宗家の那珂通辰』(なかみちとき)『と共に北朝方の佐竹貞義と戦って自刃し』、『一時』、『断絶した。その後、佐竹義人の三男・大掾満幹』(だいじょうみつとも:水戸城主)『との養子縁組を解消した佐竹義倭(よしやす/よしまさ)が前戸村氏の居城であった常陸国戸村城を再建したことにより、その姓を称して佐竹氏の一族とな』った。父の『義和は文禄の役の際に朝鮮高麗熊川にて病死した(一書には船中とも)。義国は父の顔を知らずに成長する。常陸戸村城より』、慶長七(一六〇二)年に『宗家・佐竹義宣が出羽久保田藩への国替えとなり、これに従い出羽に入』った。慶長10年から慶長十二年に『かけて用水路を完成させた(戸村堰)。主君・義宣と大坂冬の陣に従軍する。今福の戦いにおいて、佐竹軍は苦戦に陥り、刀鍔に銃弾を受けるが』、『怯まずに奮戦し、大坂方の将矢野正倫を討ち取った。その功で』第二『代将軍・徳川秀忠より』、『感状と刀「青江次直」を拝領する。その後、第二代『藩主・佐竹義隆の執政を務め』、寛永八(一六三一)年に『角館の代官として赴く』。寛文九(一六六九)年に『久保田藩が松前藩からの』「シャクシャインの乱」の『鎮圧応援要請を受けて派遣軍が編成されるが、義国は派遣軍の軍将となる。ただし、派遣前に乱が平定されたので派遣は中止となっ』ている。『長男の義宗に先立たれたため、その嫡男(義国の孫)義連が跡を継ぎ』、寛文一二(一六七三)年に横手城代となっている、とある。従って、彼以前の戸村義倭(よしやす/よしまさ)佐竹義人の三男)・義易(義倭の兄・佐竹義俊の五男)・義廣・義知・義和・忠義・義国と、それ以後の久保田藩士の宗家戸村十太夫家で横手城代を務めた、戸村義宗・義連・義輔(義寛)・義見・義孚・義敬・義道(義通)・義效もその候補となる。いや、寧ろ、最後に掲げる原拠では『仙北郡(ごほり)橫手宿の地頭』とある(「地頭」は江戸期にあっては、旗本や御家人といった大名に至らない小領主(概ね一万石未満)のことを意味する語としてあった)から、寧ろ、この義国よりも後の義連以降(義宗は父より早世したので彼ではない可能性が高い)の人物であると考えた方が事蹟には合うように思われるのだが(嘉連は寛文一二(一六七二)年に橫手城に入城しており、それ以降、代々「十太夫」を称した戸村氏の宗家(戸村十太夫家)が明治まで務めてもいる。しかし乍ら、前の注のモデルである伝説上の人物妹尾兼忠の記載には、彼が元和八(一六二二)年の「大眼宗一揆」で活躍したとあるからには、やはり、これは戸村義国と考えるべきかと思う(元和八年当時の義国は満三十一歳。但し、彼自身は横手城主ではない。ただ、この話の主人公は伝説上の人物だから、その辺を問題にしても実際には意味はないと思われる)。橫手城はここなお、元和六(一六二〇)年の「一国一城令」によって久保田藩領でも支城が破却されたが、横手城を重要な拠点と考えた初代藩主佐竹義宣が幕府に働きかけたため、破却を免れている。

 忠兵衞は城門の夜番[やぶちゃん注:「やばん」。宿直(とのい)。]に選ばれた一人であつた。夜番には二通りあつた、――第一のは夕方に始まつて夜中に終り、第二のは夜中に始まつてあけ方に終るのであつた。

 或時、忠兵衞が第二の夜番に當つて居る時、不思議な事件に遇つた。眞夜中に夜番の務めにつかうとして山を上つて居る間に、彼は城の方へ行く曲つた道の最後の曲り角に一人の女が立つて居るのを見た。彼女は一人の子供を抱いてゐて、誰か人を待ち合せて居るやうであつた。そんな時刻に、そんな淋しい場所に女の居る事は、最も特別な事情でもなければ、說明のできない事であつた、そして忠兵衞は化け物は暮れてから人をだまして殺すために女の姿になる事を思ひ合せた。それで彼は目の前の女と見える物も本當に女であるかどうかを疑つた、それで彼女が彼の方へ話しかけるやうに急いで來たのを見て、彼は一言も云はないでやりすごしとした。しかし、女が彼の名を呼んで、甚だやさしい聲で、つぎのやうに云つた時に、彼は餘り驚いてさうはできなかつた、――『梅津殿、私は今夜大層困つてゐます、そしてせねばならぬ難儀な務めがあります、どうかほんの暫らくこの子供をもつてゐて下さいませんか』そして女は子供を彼にさし出した。

 忠兵衞はこの大層若さうに見える女を知らなかつた、彼はその魅力のある知らない聲を怪しんだ、超自然的誘惑を怪しんだ、何でも怪しんで見た、――しかし彼は元來深切であつた、そして化け物を恐れて、深切なる行爲を控えるのは卑怯だと思つた。返事もしないで子供を受取つた。『歸つて來るまでもつてゐて下さい』女が云つた、『すぐ歸ります』『もつてゐませう』彼は答へた、それから直ちに女は彼からふり向いて、彼が殆ど自分の眼を疑つた程、輕く、早く音もさせずにその道を離れて、飛ぶやうに山を下つて行つた。忽ちのうちに彼女は見えなくなつた。

[やぶちゃん注:「直ちに女は彼からふり向いて、」原文は“immediately the woman turned from him,”で、「直ぐに彼女は彼から離れ」或いは「直ちに彼女は彼に背を向けて」が至当である。]

 忠兵衞はその時始めて子供を見た。餘り小さくて、生れたばかりのやうに見えた。抱かれらまま甚だ靜かにしてゐた、少しも泣かなかつた。

 不意にそれが大きくなるやうに思はれた。彼は再びそれを見た。……否、それはやはり小さい物であつた。そして動きもしなかつた。何故大きくなつたと思つたのであらう。

 そのつぎにその理由が分つた、――そして彼は全身ぞつとするのを覺えた。子供は大きくなるのではなかつた、それは重くなるのであつた[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は前の「、」から「のであつ」まで打たれているが、誤植と断じ、かく補正した。]。……始めのうちそれはただ七八百目のやうであつたが、つぎにその重さが次第に二倍になり――三倍になり――四倍になつた。もう五貫目より輕い事はないと思はれて來た、――そしてやはりそれが重さを加へて行つた。……十貫[やぶちゃん注:一貫は三・七五キログラムであるから、五十六・二五キログラム。以下の経過部は注しない。]、――十五貫、――二十貫。……忠兵衞はだまされた事を知つた、――彼は人間と話したのではない事、――その子供は人間でない事を知つた。しかし約束は約束だ、武士たる者は約束は守らねばならない。そこで彼は子供を抱いてゐた、子供は刻々重くなつた、……三十貫――四十貫――五十貫。……どうなつて行くのか見當がつかなかつた、しかし彼は恐れない事、力の續く限り子供ははなさない事を決心した。……六十貫、――七十貫、――八十貫[やぶちゃん注:ぴったり三百キログラム。]。彼の筋肉は緊張の餘り震へ始めた、それでも重さが增して行つた。……『南無阿彌陀佛』彼は呻いた――「南無阿彌陀佛、――南無阿彌陀佛』彼がこの唱名を三度目に唱へた時、その重さは一時に消えた、そして彼は空手でぼんやり立つてゐた、――卽ち子供は不思議にも消えたのであつた。しかし殆ど同時に、その不可思議な女が、行つた時のやうに、又早く歸つて來るのを見た。やはり息をきらしながら、彼女は彼のところへ來た、その時始めて彼は彼女が甚だ美しい事を見た、――しかし彼女の額に汗が流れてゐた、そして彼女の袖には、今まで働いてゐたやうに、たすきがかかつてゐた。

 『梅津殿』彼女は云つた、『甚だ大きなお蔭に預かつた。私はここの氏神だが、今夜氏子の一人がお產をするので、私に助けを祈つた。しかしその骨折は中々であつた、私一人の力では、その氏子を助ける事ができない事が分つた、――それでお前の力量と勇氣を見込んで賴んだわけだ。そしてお前の手に置いたのは未だ生れ出ない子供であつた、それから始めて子供が段々重くなつて行くのを覺えた時分は、產門が閉ぢてゐたので大層危い時であつた。子供が餘り重くなつて、もうこれ以上その重さにたえられないと絕望した時、――丁度その時、母が死んだやうで、一族の者皆泣いたのであつた。その一時「南無阿彌陀佛」の唱名を三度お前が唱へてくれた、――そして三度目に、佛の力が助けとなつたので、產門が開いた。……それでお前のしてくれた恩は、適當に應じたい。勇氣のある武士に取つては力量より有用な物はあるまい、それ故お前ばかりでなく、お前の子供にも、子供の子供にも、大力量を授ける事にする』

 それから、この約束をして氏神は消えた。

[やぶちゃん注:「母が死んだやうで、」思うに、後掲する原拠では妊婦は死んだようには読めない。この原文を見ると、“the mother seemed to be dead,”で、これは寧ろ、「その母(妊婦)は死んだように見受けられて」或いは「死に瀕しているように見え」であって、実は妊婦である母も助かったと私には読める。恒文社版の平井呈一氏の訳も、『産婦の一命あわや絶えなんとして、』であり、講談社学術文庫の池田美代子氏の訳でも、『母親は死に瀕し、』である。田部氏も実は「母が死んだやうに見えて、」の謂いで訳したものではないか。小泉八雲の母ローザの喪失の心傷体験から考えても、敢えてここで彼が、原拠を変えて、その母を死んだとする可能性は、私は百%ないと考えている。

 

 梅津忠兵衞は非常に不思議に思ひながら、城の方へ進んだ。勤務を終つて、朝の祈りをする前に、いつものやうに顏と手を洗ひにかかつた。使つてゐた手拭をしぽらうとすると、その强い物が二つにきれたので驚いた。そのきれたのを重ねて、しぼつて見た、丁度ぬれ紙のやうに――又それがきれた。彼は四枚重ねてしぼつて見たが、結果は同じであつた。やがて、唐金[やぶちゃん注:「からかね」。青銅。]や鐡の色々の物を扱つて見ると、粘土のやうに彼の思ふ通りになる事を見て、彼は約束の通り大力を充分に授けられた事、それから物に觸れる時注意しないと手の中でつぶれる事をさとつた。

 うちに歸つてから、その夜その土地で出產があつたかどうか尋ねて見た。そして彼は丁度その事件のあつた時刻に出產のあつた事、それからその事情は氏神から聞いた通りであつた事を知つた。

 

 梅津忠兵衞の子供等は父の大力を相續した。彼の子孫の多くは――皆著しく强い人々だが――今この話の書かれた時、出羽の國に未だ住してゐた。

 

[やぶちゃん注:原拠は長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗佛敎百科全書」(明治二四(一八九一)年仏教書院編刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で読める)の上巻の「第百八十二 神(うぶがみ)の事」である。以下の電子化では同国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。本文はここからである。原拠は読みは総ルビであるが、必要と思われる箇所のみに附した。ベタ文なので、句読点や記号を施し、段落も成形して読み易くした。踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママである。なお、一部、画像が擦れて見えない部分があったが、それは一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の同原拠を参考に補った。なお、同書は大分出身の真宗大谷派の僧長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗仏教百科全書」(開導書院・明治二三(一八九〇)年刊)。但し、これは江戸前期の真宗僧明伝(みょうでん 寛永九(一六三二)年~宝永六(一七〇九)年)の編になる「百通切紙」(全四巻。「浄土顕要鈔」とも称する。延宝九(一六八一)年成立、天和三(一六八三)年板行された。浄土真宗本願寺派の安心と行事について問答形式を以って百箇条で記述したもので、真宗の立場から浄土宗の教義と行事を対比していることから、その当時の浄土宗の法式と習俗などを知る重要な資料とされる)と、江戸後期の真宗僧で京の大行寺(だいぎょうじ)の、教団に二人しか存在しない学頭の一人であった博覧強記の学僧信暁僧都(安永二(一七七三年?~安政五(一八五八)年:「御勧章」や仏光版「教行信証」の開版もした)の没年板行の「山海里(さんかいり)」(全三十六巻)との二書を合わせて翻刻したものであり、本篇は「山海里」が原拠である。

   *

第百八十二  ○產紳の事

 出羽の國仙北郡(せんほくごほり)橫手宿(よこてしゆく)の地頭戶村十太夫といへるは、佐竹侯の一門なり。其居住は山の上にて、家中は山の下にあり。

 その家敷に、梅津忠兵衞とて、武勇の人、あり。

 馬まわりの役用にて半夜替(はにゃがは)りに出勤せらるゝに山をのぼり、道すじ「七曲」といふところにて、あやしげなる女にゆきあひける。夜九ツ[やぶちゃん注:定時法・不定時法ともに午前零時。]のかねもなりて、丑みつころともなる折から、女一人(いちにん)、山中(さんちう)をすぐること、つねの人間にはあらず、身をかまえて行(ゆき)ちがはんとするとき、女より梅津氏にいひけるは、

「我、今夜(こよひ)は此(この)ことにつきては、はなはだ辛勞(しんらう)することあり。君の助(たすけ)をたのまんと、今この處にきたりしなり。これを、しばらく、あづかりてたまはれ。」

と、いふ。

 差(さし)いだす物を見れば、いまだ產髮(うぶがみ)もそらざる、生れしまゝの赤子なり。梅津は、まことにあやしみながら、『おくれをとらじ』と、承知して、その子をいだきとりければ、女はよろこび、きゆるがごとく飛行(とびゆ)ける。

 梅津忠兵衞は、子をいだきての出勤もなりがたければ、暫時、たゝずむその間に、今の赤子の重き事、五貫、十貫、十五貫、貳拾貫目、三拾貫、金(かね)とも、石とも、たとへがたくなりけるゆゑ、武勇にたけき忠兵衞も、いふべくもなき奇怪なれば、われをわすれて、おもはずも、

「南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。」

と、念佛稱(となふ)るそのこゑの、いまだおわるやおわらぬに、重き赤子の、かたちもなく、夢(ゆめ)ごゝろなりける時、かの女、汗をながし、たすきをかけて、はたらきしと見えけるほどの顏色にて、梅津に對して、いひけるは、

「我は、これ、この山中の氏神なり。今夜(こよひ)、この山中の氏子の内に產をするものありけるに、難產としれたるゆゑ、『我(わが)ちからにはかなはじ』と思ふ子細のありけるゆゑ、君をたのみてあづけしは、まだ、うまれざる胎内の一子なり。次第次第に重(おもり)しは、產門、とじて、生(うまれ)かね、親子、ともに、今こそは命(いのち)のかぎり、家内中(かないぢう)、聲をあげたる其時なり、君、はからずも、念佛を稱へたまひし、その聲を、わが神力(じんりき)の助(たすけ)として、難なく、やすやす產しめたり。思ふ子細のありしとは、君は武門のことなれども、念佛申す人なれば、今夜(こよひ)の助力(じよりき)をたのみしなり。この恩、報じかへさんため、武勇の用の第一は力こそ爲(ため)なるべき力をあたへ、子孫、まづ、そのしるしを、のこさん。」

と、いひつゝ、神女は、うせにけり。

 それより、梅津、出勤して、遲刻ながらも半夜を替(かはり)、翌朝(よくてう)は面(かほ)を洗(あらひ)口そゝぎ、手拭をしぼるに、はからずも、手拭、きれて、二つとなる。又、折(をり)かさねてしぼりけるに、同(おなじ)くきれて、四つとなる。その時、昨夜の「七曲」の山中にて力をもらひしことをしり、神託、まさにあらたなることを、おそれみ、おそれみ、かの山中の民家にいたり、

「昨夜、產せしものやある。」

と、家々をたづぬるに、難產せしものありて、始末をかたる事、すこしも、たがはず。次第次第におもりしも、あやうかりし、その時に、たちまち、安產せしことも符合しける。

 それより、代々、力量の人にすぐるゝこと、奇談といふべし。

 勢州三重郡(みうゑごほり)川北村の醫師吉田玄格老は、若年の時、醫學修行のために諸國をめぐり、佛神(ぶちじん)の靈驗あることを、ことさらにたづねきゝて、道の記をのこされたり。しかも、この梅津の事は、その神女にあひし忠兵衞より、三代目の梅津氏と、ことさらに入魂(じゆこん)[やぶちゃん注:「昵懇」(じっこん)に同じい。]にて、まのあたり、書(かき)つけて、大坂高庵(かうあん)へ來りての物語なり。

[やぶちゃん注:「吉田玄格」不詳。よく似た名前では、林羅山の知人で、豪商角倉了以(すみのくらりょうい)の長男で、江戸初期の土木事業家・儒者・書家・貿易商でもあった角倉素庵(元亀二(一五七一)年~寛永九(一六三二)年)がいる。本姓は吉田、彼の名は与一で、諱は玄之(後に貞順と改めた。素庵は号)。本阿弥光悦に書を学び、角倉流を創始して近世の能書家五人の一人に挙げられる人物であるが、事蹟から彼ではない

「大坂高庵」不詳。地名? 宿? 人名?]

 玄格は篤實なる儒醫にて、浮說(ふせつ)はかたらざる人なるがゆゑに、この事緣(じゑん)を筆(ひつ)せしなり。

 同じく此人のいへるに、奧州八崎(やつさき)のあたりは、人の家に死人あれば、早速に御禮參とて、氏神へゆきて、その神職をたのみ、『今日何の誰何十何歲にて何の時に死去仕候』とて、出產の時より、一生、氏子となし給ひて、あはれみましましたる御禮(おんれい)をのべけるとぞ。これも玄格の道の記にしるして、もちかへられたることなり。もつともなることなり。八ツ崎は三春といふところより、八里程、東にて、佛法も繁昌にて、津島の牛頭天王(ごづてんわう)をも尊敬して、札配(ふだくばり)も、多く、くだれるよし。此地は、いかなるゆゑにや、產婦は多(おほく)、墮胎して、子の育(そだち)かねるところなるゆゑ、秋田城の用達(ようだつ)坪井幸右衞門方(かた)には、子息七人、育(そだち)たるとて、城主より褒美したまへりとぞ。

[やぶちゃん注:「奧州八崎」以下、「三春」の「東」方約三十一キロメートルとあるが、「八崎」は福島県の統計資料編(PDF)を見るに、福島県いわき市小名浜市泉町内に存在することになっている(地図では「八崎」は確認出来ないが、沿岸地区である)。但し、ここは三春からは東南に倍の六十キロメートルほど離れている。違うか。

「津島の牛頭天王(ごづてんわう)」牛頭天王は本邦の神仏習合神の一つ。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、蘇民将来説話の武塔天神と同一視され、薬師如来の垂迹であるとともに、素戔嗚命の本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山、愛知県津島市の津島神社(総本社とされる)に祀られ、祇園信仰の神(祇園神)ともされて全国の祇園社・天王社で祀られた。また、陰陽道では天道神と同一視された(以上はウィキの「牛頭天王」に拠った)。こちらのサイトの牛頭天王ページの一番下で、その紙札が見られる。

「秋田城」これは三春城の別称ではないかと思われる。江戸前期の大名秋田家第三代当主秋田俊季は、始め、常陸宍戸藩主であったが正保二(一六四五)年に陸奥三春に移封されているからである。

「用達」御用商人。

「坪井幸右衞門」不詳。]

 京の祇園町(ぎおんまち)にある疫伏社(やくぶせやしろ)といふは、淨藏貴所(じやうざうきしよ)の神靈(しんれい)にて、諸人、これをまつりて、「有卦(うけ)の宮」と稱し、その淨藏は八坂の塔の戌亥(いぬゐ)[やぶちゃん注:北西。]の方へかたぶきよるを、行德(ぎやうとく)にていのり、をこしたる、智人なり。

[やぶちゃん注:「疫伏社」「拾遺都名所図会」の巻之二の「左青龍首」に、「疫伏社(やくふせのやしろ)」として、『祇園西門の外、北の町にあり』。『疫神(やくじん)、諺(ことわざ)に曰はく「淨藏貴所を祭るなり」とぞ。又、云ふ所は、「文覺法師、行齋(ぎやうさい)して平家を咒咀(じゆそ)せい地なり」といふ』とある。また、「花洛名勝」の「東山之部  二」には、『祇園西楼門の外、北の町西側にあり。傳云(つたへていふ)、「祈願する時は、疫(えき)の病(やまい)を免(まぬか)るといふ。ゆゑに、疫鬼(えきき)降伏(かうふく)の神なりとぞ。一名「うけの宮」と号し、有卦(うけ)』(占い)『に入る人、多く參詣す。其故をしらず』とある(以上は「日文研」のデータベースのこちらの画像データを視認した。句読点と濁点を補ってある)。現在の八坂神社西楼門はここだが、それらしいものは見当たらぬ。

「淨藏貴所」(寛平三(八九一)年~康保元(九六四)年)は平安中期の天台僧。単に浄蔵ともいう。公卿で優れた漢学者であった三善清行の子。一説に、母は嵯峨天皇の孫で、天人が懐中に入る夢を見て身ごもったという。四歳で「千字文」を読み、七歳で父を説得させ、仏門に帰し、熊野・金峯山などの霊山を遍歴して苦行を積んだ。延喜二(九〇二)年、十二歳の時、宇多法皇に謁見し、弟子となった。清涼房玄昭のもとで受戒し、三部大宝などを受け、大恵大法師に就いて、悉曇(しったん)の音韻を習得した。十九歳で比叡山横川(よかわ)に籠り、毎日、法華六部誦経、毎夜、六千反礼拝を行ったという。加持の名手として国家的祈禱から、貴人の病気治療まで、かなりの験徳を発揮したようで、入京した平将門を調伏したとか、死んだ父清行を蘇生させたとかいう、霊験譚が多い。その他、天文・医学・卜筮・管弦・文章などにも才能を発揮したという。また、阿弥陀仏の引接を期して念仏三昧を修し、七十四歳で東山の雲居寺に入滅したと際には、西向きに正念していたとして「往生伝」にも載せられてある(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「八坂の塔」八坂神社と清水寺の中間に位置する霊応山法観禅寺(現在は臨済宗)の五重塔の通称。伝承ではこの塔は崇峻天皇五(五九二)年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされる。]

「塔のかたぶきたるは、疫厲(ゑきれい)流行の兆(きざし)なり。」

とて、延喜(ゑんぎ)の帝より勅命ありて、淨藏、これをうけたまわりて、牛頭天王に禱誓(きせい)[やぶちゃん注:漢字はママ。]ありしこと、諸傳に見えたり。

[やぶちゃん注:「延喜(ゑんぎ)の帝」醍醐天皇(在位:寛平九(八九七)年~延長八(九三〇)年)。「延喜」はその間の九〇一年から九二三年まで。]

 その淨歲の若かりし時、囘國して出雲の國にいたり、社頭にこもりたまへるに、十月のはじめ、神あつまりの折からにて、日本國中の男女(なんによ)に夫婦(ふうふ)の緣を結びたまへるを、耳かたぶけて聞(きあ)るゝに、氏子、氏子の名をよびて、

「誰(たれ)がむすこには、誰がむすめのさだまる。」

など、みな、神のこゝろなりけるに、

「平(たいら)の中興(なかおき)が娘は、淨藏が妻よ。」

と、むすびたまへるより、淨藏貴所は、あさましく、けがらはしくおもひて、

「我、出家の大願ありて修行の本意(ほんゐ)を達せんと欲するに、何とて、妻のあらんや。」

と、つぶやきながら、下向して都にかへり、宮中にて修法(しゆほふ)の時、八歲ばかりの小女(せうぢよ)、茶をはこびて、淨藏にしたしみ、茶の、のみさしをのみけること、こゝろありげに見えけるより、出雲のことをおもひいだし、

『これこそ、かの中興が娘ならん。修行のさまたげ、魔事(まじ)なり。』

とおもひ、小女(せうぢよ)をとらへて、懷中の細刀(こがたな)にて、さしころし、内裏をにげいで、二十餘年、都にかへらず。

 しかれども、いまだ父母のましますゆゑに、恩愛にひかれて、都に入(いり)、つゐに妻帶の身となれるに、子息二人、出生(しゆつしやう)せり。しかるに、その妻なる人の、乳(ちゝ)の下に疵(きづ)あるを、

「何の跡ぞ。」

と、たづぬれば、

「われ、をさなき時、修行者のさしころしたる、あとなりけり。その修行者は、にげさりて、ゆきがたしれず。われは、ふしぎに、いきかへり、今に、ながらへ居るなり。」

と、いへるをきゝて、

「さては。そのとき、さしころせしは我なるに、今は夫婦となることの、神のむすびし緣は、これ、はじめて來(きた)ること、ならず。」

と、八坂の塔をいのるにも、二人の子息を膝へのせ、行力(ぎやうりき)の、をとろへざるを、ためされしとぞ。しかれば、しぬるも、いきるをも、神わざならぬことぞなき。

   *

 八雲は後半の浄蔵の話をカットしている。この後半の話は、ただ話者が前者とお同じで、最後の「しぬるも、いきるをも、神わざならぬことぞなき」という説経(神仏習合時代であるから「神わざ」でよい)という点で共通するだけの奇譚であるから、当然のことである。]

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