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2019/10/25

小泉八雲 普賢菩薩の話  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“A Legend of Fugen-Bosatsu ”(「普賢菩薩の伝説」)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”第二話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 原註は末尾にポイント落ち字下げであるが、当該段落末に移し、同ポイント行頭からで示した。

 最後に原拠となった「十訓抄」を掲げた。]

 

 

   普賢菩薩の物語

 

 昔、播磨の國に、性空上人[やぶちゃん注:「しやうくうしやうにん」。]と云ふ甚だ信心深い博學な僧が住んでゐた。長い間彼は妙法蓮華經の普賢菩薩の章について每日默想した、そして現身[やぶちゃん注:「げんしん」。]の普賢菩薩を、又聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]經文原註に述べてある姿そのままを、拜する事のいつか得られるやうに、每朝每晚いつも祈つてゐた。

原註 この僧の願は多分「妙法蓮華經」の「普賢菩薩勸發品」と云ふ章にある約束によつて起されたのであらう。『その時に、普賢菩薩、佛に白して言さく[やぶちゃん注:「まうしていひさく」。仰せられて言われたことには。]「もしこの人この經を讀誦せば、我その時に六牙の白象王に乘つて、大菩薩衆と共に、その所に到つて、自ら身を現じて、供養し守護してその心を安慰せん、また法華經を供養せんがための故なり、この人もし坐してこの經を思惟せば、その時に我また白象に乘つてその人の前に現ぜん、その人もし法華經に於て一句一偈をも忘失する所あらば、我まさにこれを敎つて[やぶちゃん注:ママ。「へて」の誤植か。]ともに讀誦しかへつて通利せしむべし」……」しかしこの約束に「後の五百歲濁惡世の中に於て」の事である。

[やぶちゃん注:原註の引くそれは「法華経」の下巻の本篇部の掉尾「普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)第二十八」の一節。

「普賢菩薩」はサンスクリット語ラテン文字転写で「samantabhadra」(サマンタバドラ)。大乗仏教に於ける菩薩の一尊であるが、本邦では文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍として祀られることが多く、「法(カルマ)」の守護者とされる。ウィキの「普賢菩薩」によれば、『梵名のサマンタバドラとは「普く賢い者」の意味であり、彼の世界にあまねく現れ仏の慈悲と理智を顕して人々を救う賢者である事を意味する。また、女人成仏を説く法華経に登場することから、特に女性の信仰を集めた。密教では菩提心(真理を究めて悟りを求めようという心)の象徴とされ、同じ性格を持つ金剛薩埵と同一視される。そのため普賢菩薩はしばしば金剛薩埵の別名でもある金剛手菩薩』『と呼ばれる。「遍吉(へんきち)」という異名があり、滅罪の利益がある』。『独尊としては、蓮華座を乗せた六牙』(ろくげ)の白象(びゃくぞう)に『結跏趺坐して合掌する姿で描かれるのが、最も一般的である。密教では、左手に宝剣を立てた蓮茎を持る姿や、金剛薩埵と全く同じ左手に五鈷鈴、右手に五鈷杵を執る姿で表される他、如意や蓮華、経典を手に持つ作例も見られる』。『日本では平安中期以降、女性の救済を説く』「法華経」『の普及によって、主に貴婦人たちからの信仰を集めた。日本では絵画・彫像とも作例が多く、彫像の作例としては、大倉集古館の平安時代後期の木像(国宝)などがある。より密教的な姿として「普賢延命菩薩」という尊格があり』、二十二『手を持つ強力な尊とされ、日本でも作例は少なくない』。『普賢菩薩の眷属は十羅刹女とされ、また時として十羅刹女たちの母鬼子母神も眷属とされる。初期の十羅刹女は唐装束であるが、国風の影響を受けた和装の羅刹女の作例も多い。これは、法華経において普賢菩薩と十羅刹女が共に「法華経を護持する者を守る」と誓っていることによるが、これらの女神がそばにいることも、 女性からの信仰を厚くする一因となった』とある。

「性空上人」性空(しょうくう 延喜一〇(九一〇)年~寛弘四(一〇〇七)年)は平安中期の天台僧。父は従四位下の橘善根(たちんばなのよしもと)。俗名は橘善行。京都生まれ。「書写上人」の称がよく知られる。出家は遅く、三十六歳の時に慈恵大師(元三大師)良源に師事して剃髪し、霧島山や筑前国脊振山で修行した後、康保三(九六六)年に播磨国書写山に入山、国司藤原季孝の帰依を受けて書写山圓教寺(えんぎょうじ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤らの参詣を受けている。天元三(九八〇)年には蔵賀上人とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。播磨国弥勒寺で九十八歳で示寂(以上はウィキの「性空に拠った)。

「現身」現身仏(げんしんぶつ)のこと。仮に父母所生の肉身をとった人間に似た、この世に仮に現われた仏を指す。釈迦はその例。「応身仏(おうじぶつ)」とも呼ぶ。

「通利」よく物事に通じて利益を得ること。

「後の五百歲濁惡世」これは古来、議論のあるところで「正法(しょうぼう)千年・像法(ぞうぼう:「正法」に似て非なる状態の意。教えや修行が行なわれるのみで、悟りを得る者がいなくなること)千年・末法万年」説から言えば、末法の初めの五百年のように見えるが、万年の五百年ではあまり意味を感じさせないからか、これを像法の前半半分とする説が強かったようである。しかし、「後の」が「正法」ではなく、この全体に掛かるものと採るならば、末法の「後の」一万二千年の後の五百年となる。ただ、「濁惡世」は「じよくあくせ」で五濁悪世(ごじょくあくせ)のことで、通常はこれは「五つの汚(けが)れに満ちた悪い世」の意で末法を指すから、やはり末法の初めということか。よく分らぬ。なお、「五濁」は「劫濁(こうじょく:時代の汚れ。以下の四濁の起こる時の穢(けが)れ)・煩悩濁(ぼんのうじょく(:貪りや怒りなど人の浅ましさが蔓延る穢れ)・衆生濁(しゅじょうじょく:心身が弱くなり、苦しみ多く、人性の資質が低下する穢れ)・見濁(けんじょく:誤った悪い思想・考えのみが満ちる穢れ)・命濁(みょうじょく:寿命が短くなる穢れ。最後には人の寿命は十年になるという)を指す。]

 或晚讀經の間に眠氣を催ふした、曲彔(きよくろく)にもたれながら眠つた。そして夢を見た、そして夢のうちに聲があつて、普賢菩薩を見るためには、神崎[やぶちゃん注:「かんざき」。]の町に住む『遊女の長者』として知られた或遊女の家に行くべき事を彼に告げた。さめると直ちに、彼は神崎へ行く決心をした、――そしてできるだけ急いで、彼は翌日の夕方、町に着いた。

[やぶちゃん注:「曲彔」「曲椂」とも書く。法会の際などに僧が用いる椅子。背もたれ部分を半円形に曲げ、脚をX字形に交差させたものが多い。原本では“kyōsoku”とあり、原注でも僧が読経看経(かんきん)の際に経机にする脇息の説明がなされている。凭れていることから、田部氏は現行のそれをイメージされるとまずいと考え、確信犯で意訳されたのであろうが、ここは大仰な「曲彔」よりも脇息の方がよい。実はそもそもが後に示す通り、原拠でも脇息(「けうそく」。歴史的仮名遣は「けふそく」が正しい)なのである。

「神崎」古くより知られた遊女のいた場所。河川交通の要所にいて、身を売って生業(なりわい)としていた。特にこの神崎と、その近くの、西行の逸話で知られる現在の神崎川の淀川からの分岐に当たる江口の遊女が有名である。現在の兵庫県尼崎市神崎町(グーグル・マップ・データ。「遊女塚」にポイントした。以下同じ)。性空が本拠地とした書写山はここであるから、直線でも七十五キロメートルはある。一日で着ける距離ではない。或いは夢を見たのは行脚の途次で、ここに近いところでのことであったという設定なのかも知れない。

「遊女の長者」一種の源氏名或いは世間の通称か。所謂、江戸時代の遊廓の花魁や太夫各を「長者」と呼んでいるようには感じられる。]

 彼が遊女の家に入ると、そこにはすでに大勢の人の集まつて居るのを見た――大槪はこの女の美しいと云ふ評判を聞いて、神崎へ引きよせられた人達であつた。彼等は宴會をしてゐた、そして遊女は小さい鼓を打つてゐたが、彼女にそれを甚だ巧みに使つて、歌を歌つてゐた、その言葉はかうであつた、――

[やぶちゃん注:訳に省略があり、よろしくない。最後の部分は原本では“The song which she sang was an old Japanese song about a famous shrine in the town of Murozumi; and the words were these:—”で、「彼女の歌っているその歌は室積(むろづみ)の町にある有名な神社についての古い日本の歌で、その歌詞はこうである。」である。「室積」は山口県光市室積で、ここで古い神社となると、室積の氏神である早長八幡宮(はやおさはちまんぐう)だが、それでも室町時代の文安元(一四四四)年の勧請であるから違う。これは神社に拘るのが誤りかと思い、調べたところ、「港別みなと文化アーカイブス―室積漁港」の宮本雅明氏の『室積(光漁港)の「みなと文化」(PDF)の「第1章 室積港の整備と利用の沿革」の「1.古代・中世の室積港」によれば、『周防五浦の一つ室積は穏やかな室積湾(御手洗湾)に面し、砂嘴をなす象鼻ヶ岬によって周防灘からの風を遮られた天然の良港で、古来、瀬戸内海航路の要衝を占める港町として繁栄した。室積の名が見えるのは、12 世紀半ば成立の『本朝無題詩』に「於室積泊即事」とあるのが最初で、港の南側を限る峨媚山一帯の風光明媚な景色とともに、平安時代から詩歌にも歌われてきた。以来、「海の菩薩」として広く信仰を集めてきた普賢寺への参詣客や、内陸や大陸との交易に従事する商人・海賊の寄港地として大いに賑わってきた』。『古代から中世にかけて、町の発展の礎となったのは寺社であった。寛弘 3 年(1006)開創とされる普賢寺は、漂着した普賢菩薩の像を本尊とし、創建後ほどなく峨媚山麓に伽藍を構え、漁民や航海者の信仰を広く集めた。室積はこの普賢寺の門前町としての性格を併せもっていた』。『後に町並みのもう一つの核をなした早長八幡宮も、文安元年(1444)宇佐八幡宮から勧請の際、普賢寺の近くに奉られた。宮ノ脇の御旅所がその故地ともいう。中世から近世初頭にかけての室積の町並みは、普賢寺一帯を中心として展開したと推定される。この普賢寺領は、近世に入っても安堵されたが、室積は大半が萩藩の蔵人地となった』とあった。しかし、この普賢寺(神仏習合期であるから、神社があったとしておかしくはない)の開創も性空示寂の前年である。ところが、同前資料の『第2章 「みなと文化」の要素別概要』の「(2)信仰」の「普賢寺」の項には、『普賢寺は漂着した普賢菩薩の像を祀った播州書写山の性空上人によって寛弘 3 (1006)年に創建されたと伝えられる。当初は大多和羅山にあったが、暫くして峨嵋山麓の現在地に移され、「海の菩薩」として漁民や航海者の信仰を広く集めた。藩政期には毛利氏の祈願所として、寺領九石五斗、切米五石を給され、藩直営の御手普請寺として遇され』現在は『臨済宗建仁寺派に属す』とあるから、神仏習合期でもあり、この普賢寺のもとの位置にあったであろうかも知れぬ神社(私は地形から見て高い確率で漂着神或いは御崎神ではなかろうかと推理する)のことを指すとまずは考えて誤りがあるとは言えまい。「山口県」公式サイト内の「山口の文化財」の「普賢寺庭園」のページの解説「室積と普賢寺について」にも、『室積半島は、もと島であった峨嵋山が砂州の発達によって陸繋化して形成された。峨嵋山の先に伸びた砂嘴(象鼻ケ岬)に囲まれた半島の内側が御手洗湾で、天然の良港、室積港となり、古代・中世から瀬戸内海の交通の要所としての役割を果たしてきた』。『峨嵋山の麓に普賢寺があり、室積港に臨んでいる。寛弘3年(1006)、播磨国の書写山円教寺(兵庫県姫路市)の性空上人』『の開基という。境内普賢堂の本尊普賢菩薩には、性空が室積の海から引き揚げたという伝承がある。近畿・九州に分布がまたがる性空伝承の一事例である』。『この普賢菩薩像は、はじめ大多和羅山(今の峨嵋山とも、大峰山ともいう)に一宇を営んで安置されたが、「薩州沙門禅宗大林玄宥」』長久二(一〇四一)入寂)『が、現在地へ移転したと伝える(『防長風土注進案』)。現境内の形成時期はよくわかっていないが』、諸古文書資料から、『普賢寺が室町時代に室積の地に存在していたことは確かである』。『山号の峨嵋山は、普賢菩薩出現の地という唐土の峨嵋山になぞらえたもので』、『四川省峨嵋山は中国仏教聖地のひとつであり、名勝の地としても知られる』。『藩政時代には、毛利家の祈願所として寺領9石5斗、切米5石を与えられ、藩直営の普請寺として寺格が高かった』。『なお、普賢堂は、その周囲を堀割で囲まれ、潮の干満によって海水が出入りする。普賢堂の楼門、参道は海に向かって東面しており、堀割造成の排土をつかって築造された「普賢波止」で、海上からの参拝者を迎える。性空入寂にちなむ毎年5月の普賢祭には、盛大な農具市や露天市がたつが、近世には「普賢市」として知られており、今も多くの人手で賑わう。いずれも海上安全の信仰の場としての当寺の性格を示すものである』とある。さらに、尾崎家連氏の「山口の伝説 お宮やお寺にまつわる話シリーズ」の「ふげんさま」を読むと、伝説上では、この現在の普賢寺のある御手洗湾周辺のロケーションで間違いないのである。なお、現在、この半島の御手洗湾にカーブして南から突き出る象鼻ヶ岬には性空上人と、この遊女に関わる歌碑が建つという。]

 

    周防むろづみの中なるみたら井に

    風は吠かねど

    さ〻ら波立つ

[やぶちゃん注:「みたら井」この唄の原文は、

 Within the sacred water-tank of Murozumi in Suwō,

 Even though no wind be blowing,

 The surface of the water is always  rippling.

で、小泉八雲はこの“the sacred water-tank”(「神聖なる水槽(みずおけ)」)に注して、

  Mitarai.  Mitarai (or mitarashi) is the name especially given to the water-tanks, or water-fonts—of stone or bronze—placed before Shintō shrines in order that the worshipper may purify his lips and hands before making prayer. Buddhist tanks are not so named.

訳してみると、

 みたらい。 みたらい(みたらし)は、神社の前に置かれた水を溜める装置、又は石や青銅でできた聖水盤に特に与えられた名で、これは参拝者がお参りをする前に唇と手をその水で清めるためのものである。仏寺のそれはそうは呼ばれていない。

ここで小泉八雲が言うのは「御手洗」(神社)と「手水鉢(ちょうずばち)」(寺)との区別であろうか。但し、「手水鉢(ちょうずばち)」は神社のものをも指す。しかし、原文に則すなら「みたらい」であり、歴史的仮名遣に拘るなら「御手洗」であるから、「みたらひ」で、孰れにしても田部の表記「みたら井」(みたらゐ)というのは私は全く以っていただけないのである。

 

 その聲の美しいので、驚いて喜ばない者はなかつた。離れて席を取つてゐた僧がそれを聽いて感心して居ると、女は突然彼女の眼を彼の方へ向けて彼を見まもつた。同時に彼は彼女の姿が六牙の白象[やぶちゃん注:「びやくざう」。]に乘つた普賢菩薩の姿に變つて、眉間から光明を放つて宇宙のはてまでも貫くやうに思はれた。そしてやはり彼女は歌つた――しかしその歌は今變つてゐた、そしてその文句は僧の耳にはこんな風に響いた、

 

    實相無漏の大海に

    五塵六欲の風は吹かねど

    隨緣眞如の浪の立たぬ時なし

[やぶちゃん注:「實相無漏」万物の真実の姿は、迷いを離れた清浄の境界(きょうがい)にあるということ。また、その境界。宇宙万物の真の実在は一切の煩悩・穢れを離れて清浄であることを示す。

「五塵六欲」五塵(色(しき)・声(しょう)・香・味・触(そく)の「五境」のこと。塵(ちり)のように人の心を汚すことからいう)と、色欲(見かけ上の色や形をもつものに執着すること及び性欲に執着すること)・形貌(ぎょうみょう)欲(見かけ上の美しい容姿や物の格好・形に執着すること)・威儀姿態欲(過度に礼則に拘ってそれを他人に強要することに執着すること)・言語音声(げんごおんじょう)欲(美辞麗句を好んで耳触りのいい言葉にばかり執着すること)・細滑欲(人の些細な失敗を喜んだり、些細な事物に執着すること)・人想欲(恋慕に執着すること)の、貪欲のもととなる六欲のこと。

「隨緣眞如」本来は絶対不変である真如(不変真如)が、対象との縁に応じて、種々の現われ方をすること。]

 

 聖い光明のために眩まされて、僧は眼を閉ぢてゐた、しかし目蓋を通して彼はやはり明らかに菩薩の姿を見る事ができた。再び彼が眼を開くと、その姿が見えなかつた、彼はただ鼓をもつた少女を見て、むろづみの水に關する歌を聞くだけであつた。しかし彼が眼を閉ぢる每に六牙[やぶちゃん注:「ろくげ」。]の象に乘つた普賢菩薩を見て、實相無漏の大海の神祕な歌を聞く事ができた。そこに居る外の人々は、遊女を見るだけであつた、彼等はその幻は見なかつた。

 それから歌ひ妓[やぶちゃん注:「うたひめ」。]は突然その宴席から消えた、――誰もいつ、どうしてか知らなかつた。その時から酒宴は止んだ、そして哀愁が歡樂に代つた。その少女をさがして待つたが無駄であつたので、人々は悲しんで解散した。最後に、僧はその夜の情緖に惑亂されて歸途についた。しかし彼が一步門を出ると、遊女が彼の前に現れて云つた、――『今夜御覽になつた事は、未だ誰にも口外してはなりません』これだけ云つてから、彼女は消え去つた、――芳しい香が空中に殘つた。

          *

       *

          *

 以上の物語を書いた僧は、それにつぎのやうな註釋を加へて居る。――遊女の境遇は男の慾を滿足させるやうな賤しい哀れな物である。それだから、どうしてこんな女が菩薩の化身と思ふ事ができよう。しかし私共は佛菩薩はこの世に於て無數の違つた形となつて現れる事を忘れてはならない、人を正しい道へ導いて迷の危險から救ふためには、如何に下等な賤しむべき形をもその聖い慈悲の目的のために選ぶ事を忘れてはならない。

[やぶちゃん注:「以上の物語を書いた僧」以下に示す原拠「十訓抄」(じっきんしょう)は鎌倉中期に成立した説話集で、全三巻。建長四(一二五二)年の序文がある。約二百八十の説話を「心操振舞を定むべき事」以下、十条の教訓の下(もと)に分類配列し、説話ごとに著者の見解を加えてある。儒教的立場が表に立つが、王朝文化を憧憬する個条や、反対に極めて実際的な乱世の処世術などを説く個条も目立つ。所収の説話は先行する「今昔物語集」・「江談抄」・「袋草紙」以下の平安期の文献によるものが多い(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。作者は、写本の一つである「妙覚寺本」奥書によって六波羅二﨟(ろくはらにろう)左衛門入道とするのが通説で、この名は幕府御家人湯浅宗業(ゆあさむねなり 建久六 (一一九五)年~)紀伊国保田荘(現在の和歌山県有田市)を本拠とし、保田次郎左衛門尉と呼ばれ、在京して六波羅探題に仕えた。弘長二(一二六二)年に出家し、明恵に帰依して智眼と号した。荘内に星尾寺を草創し、その開基の経緯をしるした「智眼置文」が高山寺に残っている)の通称ともされるが、一方で、公卿・儒学者であった菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年:父は大学頭菅原長守。その家は菅原氏より出、是綱を家祖とする高辻家。一時は九条家に仕えた。兵部少輔・式部少輔・大内記などを経て元久元(一二〇四)年、文章博士(もんじょうはかせ)となった。同年、土御門天皇の侍読となり、以後、五代の天皇の侍読を勤め、建暦元(一二一一)年、従三位に叙し、公卿に列した。菅原氏が公卿となったのは、まさに道真以来のことであった。備後権守・大蔵卿を経て、承久三(一二二一)年には正三位・式部大輔となった。この頃、北条政子の求めに応じて「貞観政要」を和訳して献じている。後鳥羽・順徳院に近侍した為長が「承久の乱」後に咎めを受けなかったのは、こうした幕府の求めに応じる才覚を備えていたからと思われる。また、九条道家の政権が成立すると、平経高・吉田為経らとともに長きに亙ってこれを補佐した。官は参議、位は正二位にまで昇り、「国之元老」として重んじられた(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠る))とする説もある。但し、菅原為長だとすると、彼は「僧」ではない。

 小泉八雲が原拠としたのは、同書の巻上の「第三不ㇾ可ㇾ侮人倫叓」(第三 人倫を侮(あなど)るべからざる叓(こと))の前三分の二の部分である(最後の部分は性空についての別エピソードである。但し、やはり普賢菩薩に絡みはある)。以下、富山大学「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本を視認して(ここからダウン・ロード出来る)示す。読みは(朱で振られてあり、後人のものである)振れると判断したもののみとした。句読点や記号(濁点を含む。但し、唄は清音のままで示した)を附し、段落も成形した。歴史的仮名遣の誤りはママである。踊り字「〱」は正字化した。小泉八雲がカットした最後のパートも電子化した。そこ出る右手の小さな添書(黒字であるから、原本割注)は【 】で示した。

   *

 書寫の性空上人、生身(しやふしん)の普賢をのみ見たてまつらむと、寢(いね)てもさめても祈請(きせひ)し給ひけるに、或夜、轉讀につかれて、經を拳(にぎり)ながら、けうそくにかゝりて、しばし、まどろみたまへる夢に、生身(せふしん)の普賢を見奉らむとおもはゞ、

「神﨑(かんざき)遊女の長者をみるべき。」

よし、しめすとみて、夢、さめぬ。

 奇異の思(おもひ)をなして、かしこへ行(ゆき)、とひて、長者が家におはしつきたれば、只今、京より上日(のぼるひ)の[やぶちゃん注:日の昇るような「勢い」の形容であろう。]輩(ともがら)、下(くだり)て、遊宴・亂舞の程なり。

 長者、よこしき[やぶちゃん注:横隣りの控えの座敷であろう。]に居て、鼓をうち、亂拍子の次第をとる。其詞に云、

  周防むろつみの中なみゝぬに風はふかねとさゝら波立

上人、閑所(かんじよ)に居て、掌(たなごゝろ)を合(あはせ)て、信仰恭敬(しんこふくけふ)して、目をふさぎて居たまへり。

 此時、長者、忽(たちまち)に普賢菩薩の形に現(げん)じて、六牙(ろくげ)の白象(びやくぞう)にのりて眉間(みけん)より光を放(はなち)て、道俗男女(どふぞくなんいよ)をてらす。

 則、みめう音聲(おんじやう)を出して、[やぶちゃん注:以下は改行や字下げがないが、前に合わせた。]

  實相無漏の大海に五塵六欲の風はふかねとも隨緣眞如の波たゝぬ時なし

と仰らる。

 感淚をさへがたくて、眼(まなこ)を開(ひらい)てみれば、又、もとのごとく、女人のすがたとなりて、周防むろすみの詞を出す。

 眼をとづる時は、又、菩薩の形を現げん)じて、法文(ほふもん)のべたまふ。

 かくのごとく、度々、敬礼をなして、泣々[やぶちゃん注:ここの一字目には朱で「くらひ」と振るが、「位」と誤読した甚だ一昨日来たようなトンデモ読みである。]、かへりたまふとき、長者、俄に座をたちて、閑道(かんどふ)より、上人のもとへ來て、

「口外に及からず。」

と、いひて、則、死(し)しぬ。

 異香、空にみちて、はなはだ、かうばし。

 長者、頓滅(とんめつ)の間、遊宴、興さめて、悲淚におぼれて、歸路に、まどひたまひけりとなん。

 長者女人(によにん)、好色のたぐひなれば、誰(など)かは、これを、權者(ごんしや)の化儀(くわぎ)と、しらむ。

 形を、まちまちに、わかちて、生(しやう)を利する、これ、佛菩薩の化導(けどふ)なり。

 されば、いやしきには、よらぬ事なり。かやうのためにして心得つべし。

[やぶちゃん注:以下が小泉八雲がカットした別話である。]

 此上人は、無智の人なり。法文、いひきかせんとて、惠心僧都【大和國葛木郡人】・檀那僧都おはして、

「住果(ぢふくわ)の緣覺(ゑんがく)は佛所へいたる歟。」

と、とはれければ、

「いたりも、いたらずも、いかでも候なん。無益(むやく)なり。」

と、いはれければ、

「法文をさたしてこそ、惠眼(ゑがん)をば、ひらく事にて侍れ。かやうの中には候はじ、とて、まいりはべるなり。」

といひければ、上人、

「かやうの法文は、普賢のおはしまして解脫したまふなり。」

とこたふ時に、惠心、歸敬(きけふ)のおもひにたへず、礼拜(らいはい)したまふ。

 檀那、

「此聖、ほめ申させたまふ。」

と申されければ、

   身色如金山 端嚴甚微妙

   如淨瑠璃中 内現眞金像

[やぶちゃん注:読みに従うと、

 身色(しんしき)如(によ)金山(きんざん)

 端嚴(たんごん)甚(じん)微妙(みめふ)

 如(によ)淨瑠璃(ぜふるり)中(ちふ)

 内現(ないげん)眞金像(しんきんざふ)

であるが、所持する一九四二年岩波文庫刊の永積安明校訂「十訓抄」に従って訓読すると(一部でに〔 〕で送り仮名を補った。三・四句目で跨って返読しているため、文章式で示した)、

 身色、金山のごとく、端嚴、甚だ微妙なり。淨瑠璃中〔の〕内に眞金像を現ずるがごとし。

となる。]

といふ伽陀を頌(じゆ)しておがまれけるとぞ。

   *

 原話と小泉八雲の本篇の違いは、性空が「遊女の長者」に普賢菩薩を見る(感得する)シークエンスで、原話では、少し離れた静かなところにいる性空が、彼女の乱拍子の舞いをするのを目をつぶって見ない中で出現するという特殊感覚で処理しているのに対し、八雲は、彼女が歌を歌っていると、ふと気づけば、彼女が性空を凝っと見つめていることに気づいた、その瞬間に出現するという、非常にビジュアルな印象的処理を施している点であり、また、「遊女の長者」が原話では「死(し)しぬ」とショッキングに出るのに対して、小泉八雲は、そのコーダで、彼女を幻しのように消して、如何にも美しい点である。これは孰れも、原話よりも優れた演出であると言える。以下、小泉八雲のカットした部分の注を附しておく。

・「惠心僧都」「往生要集」の著者で本邦の浄土教の祖とされる天台僧源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)。

・「檀那僧都」覚連(天暦七(九五三)年~寛弘四(一〇〇七)年)。後述の竹村牧男氏の論文に拠った。

・「住果の緣覺」の「緣覺」は、仏の教えに依ることなく独力で十二因縁を悟り、しかもそれを他人に説かない修行者を指し、菩薩の下に位置する存在とされるもので、恐らくは以下、そうした「正しく縁覚にある者の存在は遂には真の仏の正法(しょうぼう)の境地に至ることが出来るか?」と問うたのであろう。いっしゅの公案、禅問答である。

・「伽陀」は「かだ」でサンスクリット語「gāthā」の漢音写。「偈(げ)」・「諷頌(ふじゅ)」とも漢訳する。ここは、法会などで唱えられる仏徳を賛嘆して教理を述べる韻文で、旋律をつけたものを指す。

 なお、竹村牧男氏の講演筆記「書写山の一遍上人」(PDF。東洋大学の学術雑誌『東洋学論叢』第三十八号・二〇一三年三月発行)に、この後の部分について、『源信らが教理の議論をしてこそ悟りの眼も開けてくるというのに対し、性空は普賢菩薩が問題を解決してくれるというのでしょう。普賢菩薩に出会えば、議論も何も要らないということだと思います。このような言葉は、実際に普賢菩薩に出会っていたからいえる言葉だという感じがします』とあり、ここのエピソードの意味が私にはやっと判然とした。また、『ちなみに、性空は晩年のことですが、源信を書写山に呼んで、自分の持っていた書物を供養させています。性空は源信に書物を供養させて、源信が帰っていく途中、亡くなるのでした』とあり、何かしみじみとしたものをも感じた。竹村氏の講演筆記は性空の伝記パートがあり、講演であるため、非常に判り易く、この普賢菩薩との邂逅談も無論、語られてある。是非、読まれたい。

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