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2019/10/08

昭和一二(一九三七)年一月第一書房刊「家庭版 小泉八雲全集」(全十二巻)第八巻の大谷正信氏の「あとがき」 / 同第八巻全電子化終了

 

[やぶちゃん注:以下は、本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」で小泉八雲の後期の作品集「骨董」「怪談」「天の河緣起そのほか」三作の全電子化注の底本とした(英文サイトInternet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落として視認した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻の「あとがき」である。本巻の訳者は田部隆次・大谷正信・戸川明三の三氏であるが、「あとがき」は田部・大谷氏に二名のみである(戸川氏は「耳無芳一の話」「貉」「葬られたる祕密」の三篇のみの担当であったので、恐らく「あとがき」は辞退されたものと考えられる。彼は英文学者を標榜する共訳者たちに対して引け目を感じていた節もあるようである)。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 一部にごく簡単に注を附し、読者の便を考慮し、特異的に本文内に各話その他へのリンクを初出部に設けた。

 

 

 『天の河緣起そのほか』は千九百五年原著者歿後、米國では書肆ハウトン・ミフリン、英國では書肆コンスタブルから出版されたもので、「天の河緣起」[やぶちゃん注:私の電子化は以上から全四回分割である。]外五篇、そして「日本からの手紙」といふ一文が附錄となつて居る。そのうち「化け物の歌」[やぶちゃん注:私の電子化は以上から全十五回分割である。]と「鏡の少女」を除いてあとは全部、以前「大西洋評論」に掲載された。

[やぶちゃん注:「千九百五年原著者歿後」小泉八雲は明治三七(一九〇四)年九月二十六日に狭心症の発作で西大久保の自宅で急逝した。満五十四歳であった。

「書肆コンスタブル」ロンドンの“Archibald Constable & Co.”か。

「大西洋評論」前の田部隆次氏の「あとがき」を参照。]

 書名をそれに採り、また卷頭にそれを置いたほどあつて「天の河緣起」がその主要な文たること言ふまでも無い。これは夫人の談話と、そして天の河の傳說詩歌に關して出來得る限り廣く諸方から蒐めた材料とを、基として書いたものである。文中引用の和歌は原著では歌詞を五行に羅馬字で發音どほりに揭げ、次にその散文譯を載せてあるのであるが、その散文譯をそのまゝ日本語に逐字譯するのは無意義であるから、歌詞だけ、普通に見るやう二行にして書いて置いた。だが原著者が歌に對して加へて居る脚註は、そのまゝ譯してその個處に置いて置いた。殊にその個處に置かずともと思つたもので、書物の體裁上文末へ掲げることにしたのが五六あることを諒知せられたい。

 「化け物の歌」は讀んで知られるとほり「狂歌百物語」に據つたものである。引用の歌詞に對しては前文同樣に取扱つた。

 「鏡の少女」と「伊藤則助」[やぶちゃん注:ママ。正確には「伊藤則助の話」である。]は、前者は都賀庭鐘著「庭上奇觀垣根草」の第一卷にある「伊藤帶刀中將重衡の姬と冥婚の事」に據つたもの、後者はその第五卷にある「松村兵庫古昔の妖鏡を得たる事」に據つたのである。

[やぶちゃん注:大谷は原拠ではなく、原拠の原本を示している。但し、原拠は同書の単なる改題で本文は殆んど同じだから、問題はない。]

 「日本からの手紙」は千九百四年八月一日束京發信となつて居るが、申すまでも無く、手紙に擬した文で、事實さる人に郵送したものでは無い。

 『骨董』のうちの「蠅のはなし」は新著聞集卷五、執心篇第十一のうちにある「亡魂蠅となる」に據つたものである。英文は固よりその逐字譯では無い。

 同じく『骨董』のうちの「螢」の文中引用してある和歌俳句には、原文には作者の名が記るして無いのであるが、讀者の知識に資するところがあらうと思つて、譯文にはそれを附記して置いた。

 『怪談』のうち、「蝶」[やぶちゃん注:私の電子化は以上から全三回分割である。]の文中に引用してある俳句は、英文では三行に羅馬字で發音どほりに揭げ、次に散文譯を載せ、脚註も加へてあるのであるが、日本の讀者には原句だけで足りると考へたから、譯文では原句だけ、普通するやうに一行にして、揭げることにした。また原文では作者の名が揭げて無いが、自分の調査の屈くかぎり原作家の名を添へて記るすことにした。そして譯文の終に原文に對して譯者としての註解を三四序でに添へて置いた。

[やぶちゃん注:既に述べているが、大谷正信氏は英文学者であると同時に、曉石の俳号で俳句もものした俳人であった。]

 

 尙ほ斷わつて置きたい事は、本書『天の河緣起そのほか』が限行本として初めて、世に現はれた時には、フエリス・グリインスレツト氏の序文が添へてあつたのであるが、それは言ふまても無く、この全集の本文中に加ふべきものでは無いから、省いたことである。だが讀者の參考に資する處もあらうと思ふから左に逐字譯して揭げて置く。

[やぶちゃん注:「フエリス・グリインスレツト」前の田部氏の「あとがき」を参照。その原本の序文はInternet Archive”のこちらで視認でき、活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらの目次の後の“INTRODUCTION”で読める。

 以下は底本では全体が二字下げポイント落ちである。]

 

 日本では小泉八雲として知られて居るラフカデイオ・ヘルンは、千八百五十年六月二十七日にアイオニア郡島の一つのリウカディヤで生れた[やぶちゃん注:原文は“Leucadia in the Ionian Islands”。既に注した通り、現在のギリシャのイオニア諸島の一つであるサンタ・モウラ島(現在のレフカダ島)の町リュカデイア(現在のレフカダ)のこと。]。父は英國陸軍に勤めて居た愛蘭土[やぶちゃん注:「アイルランド」。]生れの軍醫で、母は希臘人であつた。兩親ともヘルンがまだ子供の時分に死んだので[やぶちゃん注:大変な誤りである。或いは小泉八雲はそのように彼に書信で語っていたのかも知れない。母にも父にも捨てられたような形になった小泉八雲には、そう思うことが僅かな慰めででもあったのかも知れない。実際には父チャールズ・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearn 一八一八年生まれ)は一八六六年に亡くなり(ハーン十六歳)、母ローザ・アントニオ・カシマチ(Rosa Antoniou Kassimatis 一八二九年生まれ)は一八八二年十二月十二日にギリシャのコルフ島の精神病院で亡くなった(ハーン三十二歳)。ローザの墓は小泉八雲の玄孫であられる方のごく最近の探索(その方のブログ記事。是非一読をお薦めする)の結果でも確かな所在は不明のようである。因みに彼女(小泉八雲の玄孫さん。ツイッターで相互フォローしている。若い。結婚間近)によれば、ハーンが母と最後に生き別れたのは僅か四歳、父とのそれは七歳であった。哀し過ぎる。]、ヘルンは大叔母に養はれて、僧侶[やぶちゃん注:原文“priesthood”。司祭職。]にするつもりの敎育を受けた。氏の羅典の學識と、そして疑も無く氏の微妙な理解力の或物とは、その訓練に負うて居るのである。が然し、僧侶として一生を送るといふ前途は、その穿鑿的な心と熱烈な氣質とは全く背馳したものであることを直ちに發見して、十九の歲に己が運命を開拓すべく亞米利加へ行つた。一時校正係として働いた後、シンシナティで新聞通信員として職を得た。聞もなく立身して主筆となり、四五年して『タイムス・デモクラツト』の編輯局員に加はるべくニユウオルレアンス[やぶちゃん注:ニューオリンズ。]に赴いた。此處で千八百八十七年まで暮して、その新聞に奇妙な空想的な文や亞刺比亞[やぶちゃん注:「アラビア」。]風の怪異な文を揭げ、種々な雜誌へ論文やスケツチを寄稿し、小さな珍らしい書物を幾つも出版した、そのうちに『異文學遺聞』[やぶちゃん注:前の田部氏の「あとがき」を参照。]とゴオチエの飜譯も含まれてゐる。千八百八十七年の冬、一友に書き送つたやうに、『靈感の蜂蜜を探す小さな文學蜂』なのだから、異國情趣に富んだ國への巡遊を始めた。二ケ年を主として佛領西印度で送り、紐育[やぶちゃん注:「ニュー・ヨーク」。]で或る時期を文學著作に費してから、千八百九十年に或る雜誌ヘ一聯の文章を送るが爲めに日本に赴いた。その國のその驚くべき人民と、自分の氣分が非常に似て居る爲めに、竟に鄕里に在るが如き氣安い氣持を突然感じたらしく思はれる。氏は日本婦人と結婚し、その財產を確實にその家族に讓與し得らる〻やうにと、日木市民權を得、東京帝國大學の敎師となつた。そして引續き顯著な書物を幾册も世に出して、西洋世界への、日本の生活と藝術との眞精神の紹介者となつた。そして千九百四年九月の二十六日に心臟麻痺で死んだ。

[やぶちゃん注:「ゴオチエ」ピエール・ジュール・テオフィル・ゴティエ(Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年)はフランスの詩人・小説家・劇作家・批評家。ハーンは母が亡くなる一八八二年(当時は『タイムズ・デモクラット』社文芸部長であった)にゴティエの“Une nuit de Cleopatre”(或る夜のクレオパトラ」。一八三八年作)をメインとした英訳本“One of Cleopatra's Nights and Other Fantastic Romances”(『「クレオパトラの一夜」とその他のファンタジックな物語集』)を刊行している。]

 

 目今蒐集中の多數の私信を除いては、この書は、雜誌のうちに、もしくは出版しても宜い程に圓熱して居る原稿のうちに、まだ自分で集めずに置いたヘルンの書き物の全部を含んで居る、が然し、 『究極の問題』と題した文章は、無瑕[やぶちゃん注:「むきず」。]なものであり、隨筆として完全なものではあるけれども、原著者は之を未完成だと思つて居た。だから原著者が生きて居たなら、その或る部分は訂正もし敷衍もしたことであらう。

 がこの一卷がその排列と修正に於て、他に比類を見ざる事、著者の精妙なタツチを缺いて居るにしても。それにも拘はらず、その最も特徵的な氣質の全部を見せて居り、また、文體にしても實質に關しても、恐らくはその諸著作のうち最も完成したまた最も有意義なものであらう。

 作者としての初年には、ヘルンはその藝術の理想をば非望的なものであるが如くに、特殊なものと思つて居たのであつた。八十年代の始に早や、氏はニユウオルレアンスからワシントンの僧ヱイランド・ボオル[やぶちゃん注:原文“the Rev. Wayland D. Ball”。一八五八年生まれで一八九三年没の牧師。]に送つた手紙(未發表の)に『古代の愛らしさを愛する者共が、長く胸に抱いて居た夢の――外國の大家を模範とし、北歐語の特徵たるあの力の要素を加へて一層力强くして、或る羅典の文體を英語で實現するといふ多年の夢の――未來の可能を自分に證明して居る。それは如何なる人と雖も完成する希望は抱けないが、一飜譯者と雖も言語の一新建築の大石工へ、自己の石を運ぶことは出來る』と述べて居る。この理想を實現するのにヘルンは間斷なしの骨折をした。氏はフロオベルとかゴオチエとかいふやうな、文體の妙手の著作に對して微細な解剖的な硏究を與へ、またその雜多な讀書にも一種特別の注意を佛つて選擇した。前述の友に更に再び書いて居る、『想像力に對して强い印象を與ふることをしない書物は決して一册も讀まぬ。が、斬新な、奇妙な、有力な譬喩を含んで居るものならば、題目の如何に拘はらず、どんな書物でも讀む。空想の土壤が無數の落葉に依つて實際に豐饒にさる〻時は、言語の花は自づと咲き出る』斯う言つて居る。最後にテクニツクの困難にまた、絕大な然し分別のある讀書に加ふるに、創作の長い思惟思案の時間を以てした。その日本の友人の雨森信成に、啻に文學的作文についてだけでは無く、廣く一般の藝術についての深い說が、それに含まれて居る文句を書き送つた。斯う言つて居る、――

[やぶちゃん注:「雨森信成」(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバー。ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きでW・E・グリフィスが化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師S・R・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『M・N・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のT・A・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある。]

「さて君が書いたスケツチ、若しくは物語について、君がそれに全く不滿足を感ずるのなら、それ は恐らくは君が想うて居るものに――表現の不完全に――基くのでは無くて滯在して居る或る思想或ひは情緖なりが君の心の中で、充分にきつかりと、まだ形を成して居らぬといふ事實に基くのであらうと自分は思ふ。君は或るものを感じて居て、その感情を表現することが出來ないのである――その出來ないといふのは、それが何であるかをまだ十分に君が知つて居ないからのことで、他の原因は無いのである。我々は感じて居るとは知らずに物を感ずるもので、また我々の最も力强い情緖は最も漠とした言ひ述べ難いものである。それはさうしなければならぬ理由(わけ)のもので、さういふ情諸は感情の祖先傳來の集積であり、その多種多樣は、――一つの上へまた他の一つが重なつてそれをぼやかし、その力は異常に增大させながらも、それを朧にするからである。……無意識な頭腦作業がそんな潛在的感情或ひは思想を開展するに一番好い作業である。ゆつくり構へて幾度も幾度もその文を書いて居ると、その感情或ひは思想がその過程中に自づと――無意識に――開展することを自分は見て居る。それから又、漠然たるまゝで居るその感情を解剖しようと力める[やぶちゃん注:「つとめる」。]ことが時に屢々價値ある事業である。我々の心を動かすものは何であるか、それを正(まさ)しく理解しようとする努力は吽に成功を齎らす。……君が若し何かの感情を――何んでも構はぬ――心の中に强く潛んで居る(一寸入つて來た或る悲しみでも、理由(わけ)の分らぬ喜びでもいゝ)何かの感情を有つて居るなら、それは表現が出來るものだと確信して宜い。固より、或る種の感情はそれを開展するのは困難である。近日、君と相會ふの日、その思想が明白に頭へ來るまでに數月間自分がそれを書いた一頁を君に見せよう。……最上の結果が出て來ると、君はそれに驚くに相違無い。我々の最上の作品は無意識から出來て來るからである』

 こんな硏究と讀書と長時の思索とに依つて、ラフカディオ・ヘルンの散文は、終焉の日まで着々と圓熟して行つた。手際だけを言つても、この一卷はその最も歎賞すべき作品の一であつて、『天の河緣起』の最後の一節の如き、調の高まつた文句の處では、その豐麗な陰欝な音樂、その深甚な暗示は、最も偉大な英圖散文のほか、容易に之に匹敵するものを見出し得ぬものである。

 實質に於てもこの一卷は同じく意義に富んだものである。千八百八十四年、氏はその親友の一人へ手紙を書いて、ハアバフト・スペンサアのものを讀んだが爲めに、一切のイズムが心から消え去り、偉大なる疑の漠たる然し萬能な慰藉を得て、理智的に自分の地步を遂に發見し得たと、言つて居る。だから本書中の『究極の問題』――これは言はゞ、本書の屬和絃を打つて居るものであるが――の一文に於て我々は、スペンサアの哲學と心理學との氏への意味の殆んど抒情詩的な表現を有つて居るのである。それには、英國と佛國との心理學と、佛敎と神道との思想との氏獨自の混和があり、氏の著作では、氏自らその書翰の一つに言うて居るやうに、『單に旨く混合して居るのではなくして、化學元素の如くに絕對的に結合して、或る衝動を以て突進し合うて居る』音調がある。そしてこれに於て氏はその最も深い音を出して居るのである。途方も無く大きな科學界を包んで居る恐怖についての氏の堅實な熟視に於て、古い神話と迷信とを喚び起し復活し、その魔力に依つてあの底知れずの暗黑の上へ、消え失せた幾多の太陽の一點の靈光を投ずる氏の力に於て、氏は近代作家のうちでもリユウクレシヤ風な作家であつた。

[やぶちゃん注:「本書の屬和絃を打つて居るもの」原文は“the dominant chord of this volume”で、「本篇の持つ支配的なコード(比喩的な音楽的主調主題を支配する感情表現)」の謂いのようである。

「リユウクレシヤ風な」原文“Lucretian”で「ルクレティウス風の」の意。ティトゥス・ルクレティウス・カルス(ラテン語:Titus Lucretius Carus 紀元前九九年頃~紀元前五五年)は共和政ローマ期の詩人で哲学者。エピクロスの思想を詩「事物の本性について」に著した。ウィキの「ルクレティウス」によれば、『エピクロスの宇宙論を詩の形式で解説』し、『説明の付かない自然現象を見て恐怖を感じ、そこに神々の干渉を見ることから』、『人間の不幸が始まったと論じ、死によってすべては消滅するとの立場から、死後の罰への恐怖から人間を解き放とうとした』。全六巻七千四百行から『なる六歩格詩』「事物の本性について」(ラテン語::De rerum natura)を『著して』、『唯物論的自然哲学と無神論を説いた』とある。]

 外貌では、人としてのヘルンは何等人好きのする男では無かつた。氏の日本人友達の一人が千九百五年十月のアトランティツク誌に描いた、輪廓のきつかりした氏の肖像では、『晚年には稍や肥滿してゐて、丈が低く、せいぜい五呎[やぶちゃん注:「フィート」。一メートル五十二・四センチメートル。]、步く時少し屈み氣味。顏色は少し褐色を帶び、どちらかと云へば毛深い皮膚、細い、尖つた鷲鼻、大きな飛び出た眼、それもその左は盲目で、右は非常な近眼』であつた。

 さう書き送つた雨森信成は、人としてのヘルンで無く、天才としのヘルンの憶ひ出を書いて居る。氏の最後の著作への此の序言を、それで結ぶのは當を得て居るかと思ふ。『初めて氏の宅で一と晚泊つた時に見た生き生きとした憶ひ出は、自分は永久に失はぬであらう。自分も亦遲くまで起きて居る習慣なので、その晚床へ入つて本を讀んだ。時計は朝の一時を打つた。が、ヘルンの書齋に明(あかり)がして居る。低い、嗄れた咳聲がきこえる。自分は我が友が病氣ではないかと氣遣つた。そこで自分は部屋から出て、友の書齋へ行つた。が然し、若し仕事をして居るなら、邪魔をしたくなかつたから、用心してほんの一寸戶を開けて、覗いて見た。友はその高い机に向つて、鼻を紙に觸れぬ許りにして、切りと[やぶちゃん注:「しきりと」。]書いて居るのが見えた。一枚一枚と書いて行く。暫くして友は頭を上げた。その時自分は何を眼にしたか! それは自分が能う[やぶちゃん注:「よう」。]知つて居たヘルンでは無く、別なヘルンであつた。その顏は不思議なほど白く、その大きな眼は光つて居つた。まるで何か此世ならぬものに接して居る者の如くであつた。

 その平凡らしい顏した男の裡に、魔神の火の娼き純潔な或る物が燃えて居たのであり、そしてその炎の中に、塵土の裡から生と詩とを呼び出し、人間の思想の最高な題目を捉へる心が住まつて居たのである』

 

      大正十五年六月   大谷正信

 

[やぶちゃん注:雨森のそれは鬼気迫るものを感じさせる貴重な引用である。なお、ブラウザの不具合を考えて最後の署名は底本の字配を再現してはいない。

 以下、底本では「第八卷要目索引」とあって、英文標題と献辞と邦訳が並んであり(ページ数は無表記)、その後に「小泉八雲全集第八卷飜譯分擔」の表(各篇和名標題のみ)があって、奥附となるが、総て略す。因みに、底本本文前の目次以前の扉標題なども略した。それらを除いて、底本「家庭版 小泉八雲全集」第八巻は、その総てをこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で電子化したこととなる。底本の本文冒頭「骨董」の「幽靈瀧の傳說」に手を染めたのが、一月余り前の九月四日であった。他の一切の電子テクストをほぼ完全に停止して一ヶ月、「骨董」「怪談」「天の河緣起そのほか」の三作品集のオリジナル電子化注を完成し得たのは、私のブログやサイト史の中でも特異点の速さであったと言ってよい。この一ヶ月、台風で家の斜面の五メートルの枝垂桜が根っこからなぎ倒され、斜面が赤裸になり、屋根が飛ばされ、つらいことばかりであったので(四十年振りの友との再会の一時だけが幸せだった)、私は私だけに私独りで褒めてやりたい気がしている。小泉八雲の電子化注は向後も孤独に続ける覚悟である。

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