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2019/10/15

小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」  (大谷正信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇については、「蜻蛉」のその「一」の私の冒頭注を参照されたい。以下、本「蜻蛉」終りまでの引用される発句その他の引用は、底本では四字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、上に引き上げた。字配も再現していないことをお断りしておく。]

 

 

       

 

 蜻蛉は異つた種類のが時期を異にして出る。そして殆ど例外無しに、一層美しい種類のが一番後れて出現する。日本の蜻蛉全部を古昔の作家は一々の主要な色に從つて四種類に、――黃、綠(或は靑)、黑(或は濃い色)及び赤に――部類分けをして居る。黃な色合のが一番早く現はれ、綠色の、靑いの、それから黑いのは極暑になつて初めて出で、赤いのが一番後れて出て、去るのも一番後で、秋の末になつてやつと無くなるといふことである。漠然一般的に、如上の叙述は觀察の結果として承認し得らる〻ものである。が然し、蜻蛉は一般には秋の蟲となつて居る。蜻蛉の異名のうちに『秋の蟲』といふ意味の、アキツムシといふ名がある程である。そしてこの稱呼は實際適切である。といふ譯は、人の注意を惹く程に蜻蛉が群を爲して現はれるのは、秋になつてからのことであるからである。が、詩人には、秋の眞の蜻蛉は赤蜻蛉である。

 

 秋の季の赤蜻蛉に定まりぬ   白雄

 

 己が身に秋を染めぬく蜻蛉かな 麥醉

 

 秋の日の染めた色なり赤蜻蛉  桂秋

 

[やぶちゃん注:原本では作者名は載らない。俳人でもあった訳者大谷氏のサーヴィスである(以下、同じ)。

「白雄」加舎白雄(かやしらお 元文三(一七三八)年~寛政三(一七九一)年)は信濃国上田藩江戸詰藩士の次男として江戸深川に生まれた。諱を吉春或いは競、通称を五郎吉、別号に昨鳥・春秋庵・白尾坊・露柱庵など。父の祖母方の姓をとって「平田忠次郎」と名乗ったこともある。 与謝蕪村・大島蓼太などとともに「中興五傑」及び「天明の六俳客」の一人とされる。かの第五代「鴫立庵」庵主。明和二(一七六五)年に松露庵烏明及びその師白井鳥酔に師事した。安永四(一七七五)年、鳥酔の七回忌に松露門を破門されると、江戸を去って自身の門人を引き連れ、諸国を行脚した。安永九年、江戸日本橋鉄砲町に「春秋庵」を開いて自立し、関東に一大勢力を築き、建部巣兆・倉田葛三らの門人を育成した(ここはウィキの「加舎白雄」に拠った)。句は諸データを見ると、

 秋の季の赤とんぼうに定りぬ

の表記が正しいようである。

「麥醉」岡田麦酔。詳細事蹟不詳。

「桂秋」不詳。]

 

 或る日本詩人が『春は眼の季節で、秋は耳の季節である』と言うて居る。いふ心は、春は樹々の花や朝霞の魔力が眼を樂ましめ[やぶちゃん注:「たのしましめ」。]、秋は耳が無數の蟲の音樂に魅せられる、といふのである。が、此処詩人は進んで、秋の此快樂は憂愁を帶びて居ると言ふ。その哀れ氣な聲は消えし幾年の、また消えし幾多の顏の、記憶を喚起し、斯くて佛敎思想に無常の敎理を思はせる。春は約束と希望との時期であり、秋は懷舊と哀惜との時である。そしてまた、秋の特殊な蟲が卽ち音を立てぬ蜻蛉が出て來る事は――聲の季節に聲無きものが出て來ることは――變化の姿を一層無氣味にするばかりである。到る處に微小な稻妻の聲無きひらめきが――地面の上を、はてし無き妖術を織り編むが如くに、絕えず交錯する色のきらめきが――見られる、斯く古の一詩人は述べて居る。

 

 くれなゐのかげろふ走る蜻蛉かな 吳莚

 

[やぶちゃん注:「或る日本詩人が……」私は不学にしてこれが誰の如何なる書に出るか知らない。識者の御教授を乞う。

「秋の此快樂は憂愁を帶びて居る」これは「淮南子」に「春女悲、秋士哀而知物化」(春、女(ぢよ)は悲しみ、秋、士は哀(かな)しみ、而して「物化」を知る)に淵源の一つを求められる古い東洋の精神感懐である。「物化」道家思想に於いては「万物の変化など実際には本質の絶対的な変化などは存在せず、見かけ上の下らない物の変化現象があるだけのことであること」を示す。

「吳莚」不詳。この句は赤蜻蛉の目眩めく群飛を陽炎(かげろう)に譬えたものであろう。]

 

 

       

 

 十世紀以上の間、日本人は蜻蛉の詩を作つて居る。そして此題目は今日の靑年詩人にも依然好かれて居るものである。蜻蛉を詠んだもので現存して居る一番古い歌は、千四百四十年前、雄略天皇がお作りになつたものだと言はれて居る。或る日天皇が狩獵をされて居た時、と舊記にあるが、一匹の虻が來て御腕を咋つた[やぶちゃん注:「くつた」。咬んだ。]。すると其處へ蜻蛉が一匹其虻へ飛びかかつて來て、それを咋つてしまつた。そこで天皇は大臣達にその蜻蛉を讚めた歌を作れと命じ給うた。だが皆がどうやつていいか躊躇して居るので、自ら其蜻蛉を稱へた[やぶちゃん注:「たたへた」。]歌をお作りになつた。其御歌の結末は斯うである。

 

 波賦武志謀(はふむしも)、飫裒枳瀰儞(おほきみに)、磨都羅符(まつらふ)

 儺我柯陀播於柯武(ながかたはおかな)、婀岐豆斯麻野麻登(あきつしまやまと)

 

 そして、その忠義な蜻蛉の爲めに、此事のおりた處は、アキツノ卽ち「蜻蛉の野」と名づけられて居る。

[やぶちゃん注:以上は、「日本書紀」の雄略天皇四年(機械換算四六〇年)の以下、

   *

秋八月辛卯朔戊申、行幸吉野宮。庚戌、幸于河上小野。命虞人駈獸、欲躬射而待、虻疾飛來、噆天皇臂、於是、蜻蛉忽然飛來、囓虻將去。天皇嘉厥有心、詔群臣曰「爲朕、讚蜻蛉歌賦之。」群臣莫能敢賦者、天皇乃口號曰、

野麼等能 嗚武羅能陀該儞 之々符須登 拕例柯 舉能居登 飫裒磨陛儞麻嗚須【一本、以飫裒磨陛儞麼鳴須、易飫裒枳彌儞麻嗚須。】 飫裒枳瀰簸 賊據嗚枳舸斯題 柁磨々枳能 阿娯羅儞陀々伺【一本、以陀々伺、易伊麻伺也。】 施都魔枳能 阿娯羅儞陀々伺 斯々魔都登 倭我伊麻西麼 佐謂麻都登 倭我陀々西麼 陀倶符羅爾 阿武柯枳都枳 曾能阿武嗚 婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀 飫裒枳瀰儞磨都羅符 儺我柯陀播 於柯武 婀岐豆斯麻野麻登【一本、以婆賦武志謀以下、易「舸矩能御等 儺儞於婆武登 蘇羅瀰豆 野磨等能矩儞嗚 婀岐豆斯麻登以符」。】

因讚蜻蛉、名此地爲蜻蛉野。

   *

歌の訓読部をサイト「J-TEXTS 日本文学電子図書館」の国史大系版から引く。

   *

やまとの をむらのたけに ししふすと たれかこのこと おほまへにまをす【あるふみに、「おほまへにまをす」をもちて「おほきみにまをす」にかふ。】 おほきみは そこをきかして たままきの あぐらにたたし【あるふみに、「たたし」をもちて「いまし」にかふ。】 しつまきの あぐらにたたし ししまつと わがいませば さゐまつと わがたたせば たくぶらに あむかきつき そのあむを あきづはやくひ はふむしも おほきみにまつらふ ながかたはおかむ あきづしまやまと【あるふみに、「はふむしも」よりしもをもちて「かくのごと なにおはむと そらみつ やまとのくにを あきづしまといふ」にかふ。】

   *

歌は、擅恣企画(センシキカク)運営・上田恣氏管理のサイト「日本神話・神社まとめ」の「トンボが虻を食べて飛び去る歌」にある漢字かな混じり文を参考にし(別本異形の割注は五月蠅いので除去した)、前後の文は平井呈一氏の恒文社版訳(「トンボ」)の訳注等を参考にして自然流で訓読した。

   *

秋八月辛卯(かのとう))朔(つひたち)戊申(つちのえさる)[やぶちゃん注:十八日。]、吉野宮に行幸(みゆきまし)す。庚戌(かのえいぬ)[やぶちゃん注:二十日。]、河上小野(かはかみのをぬ)に幸(いでま)す。虞人(かりうど)に命(おほ)せて獸(しし)を駈(か)らしめ、躬(みづか)ら射むと欲して待ちたまふに、虻(あむ)、疾(と)く飛び來たりて、天皇(すめらみこと)の臂(ただむき)を噆(く)ふ。是(ここ)に於いて、蜻蛉(あきづ)、忽然(たちまち)に飛び來たりて、虻を囓(く)ひて將(も)て去(い)ぬ。天皇、厥(そ)の心有るをことを嘉(よろこ)びたまひて、群臣(まへつぎみたち)に詔(みことの)りして曰(のたま)はく、

「朕(あ)が爲めに、蜻蛉(あきつ)の讚(ほ)め歌、賦(よ)みせよ。」

群臣、能く敢へて賦(よ)む者莫し。天皇、乃(すなは)ち、口づから號(うた)はれて曰はく、

倭(やまと)の 峰群(おむら)の嶽(たけ)に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)か このこと 大前に奏(まを)す 大君は そこを聞かして 玉纏(たままき)の 胡床(あぐら)に立たし 倭文纏(しづまき)の 胡床に立たし 猪鹿待つと 我がいませば さ猪(ゐ)待つと 我が立たたせば 手腓(たくふら)に 虻(あむ)かきつき その虻を 蜻蛉(あきづ)早(はや)咋(く)ひ 這ふ蟲も 大君(おほきみ)に順(まつら)ふ 汝(な)が形(かた)は 置かむ 蜻蛉嶋倭(あきづしまやまと)

因りて蜻蛉(あきづ)を讚(ほ)めて、此の地(ところ)を名づけて「蜻蛉野(あきづの)」と爲さしむ。

   *

同サイトには全現代語訳が載るが、その内、以上の歌部分の訳のみを引用させて戴く(同じく合成した)。

   *

大和の峰が連なった嶽に猪や鹿がいる。誰がこのことを大前に申し上げたのか? 大君はそれを聞いて、綺麗な玉で飾った胡床(アゴラ=椅子)に立ち……日本に昔からある「シツ」という綺麗な布を貼った胡床(アゴラ=椅子)に立って、猪や鹿を待っている。私が座って猪を待っている。私が立っていると、手に虻が噛み付いて、その虻を蜻蛉がサっと食べてしまう。昆虫までもが大君に従う。お前の形を名前に置こうではないか。蜻蛉嶋倭(アキヅシマヤマト)と名付けよう。

   *

また、ウィキの「トンボ」の「呼称」によれば、「古事記」には、『雄略天皇の腕にたかったアブを食い殺したトンボのエピソードがあり、やはり「倭の国を蜻蛉島(あきつしま)と」呼んだとしている』として以下の歌を載せる(連続させ、漢字の一部を正字化し、読みも独自に歴史的仮名遣で振った)。

   *

み吉野の 袁牟漏(をむろ)が岳に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)ぞ 大前(おほまへ)に奏(まを)す やすみしし 我が大君の 猪鹿(しし)待つと 吳座(あぐら)にいまし 白栲(しろたへ)の 衣手(そて)着そなふ 手腓(たこむら)に 虻(あむ)かきつき その虻を 蜻蛉(あきづ)早(はや)咋(く)ひ かくの如(ごと) 名に負はむと そらみつ 倭(やまと)の國を 蜻蛉島(あきづしま)とふ

   *

「手腓」は腕の内側の肉の脹れている部分のこと。]

 

 雄略天皇が物せられたといふ歌は、ナガウタ卽ち長歌[やぶちゃん注:「ちやうか」。]といふ形式で書かれて居る。が、近時の蜻蛉の歌は大半もつと短い形式で書かれて居る。短い形式には三通りあつて、三十一綴昔から或る古來の短歌、二十六綴昔の通俗な都々逸[やぶちゃん注:「どどいつ」。]、それからたつた十七綴音の發句である。蜻蛉の詩の大多數は發句である。此題目を都々逸で詠んだ詩は殆ど無い。そして――言ふも不思議であるが!――古典的な短歌で詠んだものは實際頗る尠い[やぶちゃん注:「すくない」。]。此の一文に引用して居る詩歌全體並びになほ幾百首の詩歌を自分の爲めに蒐めた友人は、蜻蛉の短歌一首を見つけ了ほせる[やぶちゃん注:「おほせる」。]までに、帝國國書館で三十一字詩の書を五十二卷讀んだと言うて居る。そして、なほ一僧讀んで穿鑿をした後、到頭その友人は短歌でのそんな詩をやつと十二ばかり發見し得たのであつた。

[やぶちゃん注:「都々逸」は俗曲の一種。最も代表的な座敷歌で,典型的な近世歌謡調で七・七・七・五の型を持つ。十八世紀末に名古屋の熱田で流行した「潮来(いたこ)節」に由来する。天保年間(一八三一年~一八四五年)に都々逸坊扇歌が江戸の寄席で新しい曲風で歌って以来、普及した。言わずもがな、発句の成立よりずっと後である。]

 此の理由は、詩の上の古來の囚襲に求めねばならぬのである。日本の三十一字詩は幾百年間決定されて居る法則に從つて作られる。詩に取扱ふ殆どあらゆる題目は、四季のどれか一つに幾分の關係を持して考察すべき事を、此の法則が要求して居る。そして是は或る一定の分類法に――繪畫にも詩歌にも認許されて居る、長い間確定されて居る取り合はせの因襲に――從つて爲されなければならぬ。例へば、黃鳥[やぶちゃん注:「うぐひす」と当て訓しておく。]は梅と一緖にして述べるか描くかする。雀は竹と一緖に、時鳥は月と一緖に、蛙は雨と、蝶は花と、蝙蝠は柳と、といつた譯(わけ)である。日本の子供はどんな子供でも、こんな規則に就いて少しは心得て居る。さて、蜻蛉に就いては、どうしたもりか、そんな規則が短歌では明白に決定されて居らぬ。尤も繪では、或は手桶の緣に止まつて居たり、或は熟した稻の穗に止まつて居り、して居るのを屢〻見るが。その上また、詩歌の題目の分類の上に於て、蜻蛉はムシ(蟲――蟲としいへば[やぶちゃん注:「し」は強意の間投助詞(副助詞)。]、詩人は何か啼く蟲を意味することに殆どいつもなつて居るのである)の中に入れては無くて、雜の中に入れてある。雜といふのは非常に廣い意義の語で――馬、猫、犬、猿、鳥、雀、龜、蛇、蛙等、要するに殆どあらゆる動物を包含して居るのである。

 蜻蛉の短歌の稀なことは斯く說明され得るのである。然し何が故に都々逸では蜻蛉が殆ど無視されて居るのであらうか。この詩形は通例戀の題目にのみ用ひられて居る、といふ理由からなのであらう。聲を立てぬ蜻蛉は、戀愛詩人には啼く聲が――殊にその啼き聲が或る夜の逢引の記憶に殘つて居る所の夜の蟋蟀が――鼓吹するやうな、あんな空想を思ひ浮かばしめ得ないからであらう。自分が蒐めて貰つた幾百の蜻蛉の時のうちで、直接或は間接に、戀の題に關係して居るのは七つしか無い。しかもその七つのうちに二十六字詩のものは唯だの一つも無いのである。

[やぶちゃん注:「都々逸」「は通例戀の題目にのみ用ひられて居る」都々逸は別名を「情歌(じょうか)」とも呼び、この属性は成立の初期に於いて特に遊廓で流行したことが関係している。]

 然しホックといふ――十七字音に限られた――形式では、蜻蛉の詩は初秋の蜻蛉そのものの如くに殆ど無數である。といふのは、此の詩格では、旨意[やぶちゃん注:「しい」。主旨。意図。考え。趣き。]にも方法にも、作者に殆ど何等の拘束が置かれて居らぬ。發句に就いての殆ど唯一の規則は――それも決して嚴格なものでは無いが――句は一つの小さな言葉での繪でなければならぬといふこと、――見たり感じたりしたものの記憶を復活すべきものでなければならぬこと――感覺の或る經驗に訴へるものでなければならぬこと、である。自分がこれから引用する發句の大多數は、確に此要求を充たして居る。讀者は、それが眞の繪である――浮世繪派の手法の小さな色彩畫である――事を知らる〻であらう。實際次記の俳句の殆どいづれもが、日本の畫伯が二た筆[やぶちゃん注:「ふたふで」。]三筆使へば面白い繪になり得るものである。

[やぶちゃん注:以下の前書は底本ではポイント落ち。]

 

   蜻蛉に關した繪畫詩

 

 稻の穗の蜻蛉とまり垂れにけり  繞石

[やぶちゃん注:「繞石」は「ぎやうせき(ぎょうせき)」(或いは「じょうせき」とも読んだ。孰れも現代仮名遣で示した)で、これは実は英文学者の訳者大谷正信の俳人としての俳号である。「蜻蛉」は原文“Tombō”で「とんぼう」である。以下、音数律に合わせて適宜「とんぼう」「とんぼ」に読み換えられたい。]

 

 蜻蛉の枝についたり忘れ鍬    素麿

[やぶちゃん注:下野の烏山藩第五代藩主大久保忠成(ただしげ 明和三(一七六六)年~嘉永四(一八五一)年)は文人大名で書画をよくし、発句もものし、「素麿(丸)」と号したが、彼か。三点対象を配した、なかなかの佳句と私は思う。]

 

 蜻蛉の嗅いで行きけりすて草鞋  許白

[やぶちゃん注:「許白」不詳。]

 

 袖につく墨か尾花にかねとんぼ (『懷子』所載)

[やぶちゃん注:「懷子」(ふところご)は江戸初期の、京の裕福な撰糸商人で俳人であった松江重頼(しげより 慶長七(一六〇二)年~延宝八(一六八〇)年)が万治三(一六六〇)年に板行した俳諧撰集で、古歌の一部を取り入れて詠んだ句などを集めてある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認したところ、巻十の「秌」(あき:秋)の「蜻蛉」の部立てのこちら(右端)に、作者を「法元」(「法」は判読の自信がない)として、

 袖につく墨か尾花にかね蜻蛉

と出るのを探し当てた。「かね蜻蛉」は恐らく「一」の「十八」の「カネツケトンボ」で、そこで私はハグロトンボ Calopteryx atrata の異名で採った。同種の色といい、本句柄にもよく合う。

 

 日は斜め關屋の槍に蜻蛉かな   蕪村

[やぶちゃん注:岩波文庫刊の尾形仂(つとむ)校注「蕪村句集」に、

 日は斜(ななめ)關屋の鎗(やり)にとんぼかな

の表記で載り、創作年月を安永六(一七七七)年七~八月とする。]

 

 蜻蛉の草に倦んでや牛の角    太無

[やぶちゃん注:古川太無(たいむ ?~安永三(一七七四)年)。常陸水戸の人。佐久間柳居の門人で、芭蕉資料を模刻した「鹿島詣」や撰集「星なゝくさ」などを著わした。別号に秋瓜・吐花・義斎・松籟庵(二代目)などがあり、ネット上のある資料では彼を「太蕪」と記している。]

 

 垣竹の一本長き蜻蛉哉      芦雀

[やぶちゃん注:「芦雀」不詳。]

 

 垣竹と蜻蛉と映る障子かな   (碧雲會廣募句中のもの)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は底本では二行ポイント落ち割注。

「碧雲會」正岡子規の直弟子であった訳者大谷正信(繞石)は、東京帝国大学英文学科卒業後の二十二歳の明治三〇(一八九七)年に松江に帰省するや、出雲俳壇の中心的な俳人であった奈倉梧月に勧めて、全国で五番目の俳句会である「碧雲会」を発足させている。]

 

 釣鐘に一時休む蜻蛉かな     梅路

[やぶちゃん注:「梅路」中森梅路(?~延享四(一七四七) 年)。思文閣「美術人名辞典」に、『俳人。神風館五世。乙由に学び』、『会北に次いで神風館五世を継ぐ。魚商を営んでいたが』、『文雅の才あり、伊勢音頭の作者として知られる。延享』三(一七四六)年に、『凉袋』(りょうたい:江戸中期の国学者・読本作者・俳人・絵師として有名な建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年)の俳号。本姓は喜多村、名は久域、通称は金五。江戸で生まれて弘前で育ったが、二十四歳以後は江戸を本拠地として諸国を遊歴、国学では賀茂真淵に師事した。また、読本の先駆的作品「本朝水滸伝」「西山物語」を著わし、絵は長崎で学び、初期の南画の鼓吹者の一人となった。多くの紀行文を著すなど、多方面に活躍した)『は伊勢に梅路を尋ねて入門して以来、伊勢風に傾倒し、又崇敬した事は「俳仙窟」でうかがわれる。著書に』「南仙録」があるとある。]

 

 尾を以て鐘に向へる蜻蛉かな   來川

[やぶちゃん注:「來川」不詳。撞木を擬えたが、ちょっと態とらしい作為を感ずる。]

 

 なき人のしるしの竹に蜻蛉かな  几董

[やぶちゃん注:高井几董(きとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は与謝蕪村の高弟。京都生まれ。別号に塩山亭・高子舎・春夜楼・晋明など。父几圭に学び、明和七(一七七〇)年、蕪村に入門、師風に忠実で、蕪村派の殆んどの撰集を編集し、蕉門の榎本其角に私淑し、大島蓼太・久村暁台らと親交を結んだ。蕪村没後、三代目夜半亭を継いだ。切れがないが、蜻蛉に霊を感じた古来の日本人や小泉八雲らには、しみじみとくるであろう一句である。]

 

 往つては來て蜻蛉絕えず船の網  太巢

[やぶちゃん注:「太巢」不詳。個人的には好ましい一句である。]

 

 蜻蛉や舟は流れて止まらず    靑扇

[やぶちゃん注:「止まらず」「とどまらず」。「靑扇」は不詳。]

 

 蜻蛉や帆柱當てに遠く行く    梅室

[やぶちゃん注:桜井梅室(ばいしつ 明和六(一七六九)年~嘉永五(一八五二)年)江戸後期の俳人。名は能充(よしあつ)。別号は素蕊(信)・方円斎・陸々など。金沢生まれで、刀研師として加賀藩に仕えた。父について幼時より俳諧に親しみ、十六歳の頃、高桑闌更の門に入り、後、師から槐庵(かいあん)の号を与えられている。致仕後、京に出て、俳諧に励み、天保五(一八三四)年頃までの十余年間は招きを受けて江戸に住んだが、再び京に戻って定住、風交を広め、貴顕と交わって、嘉永四(一八五一)年には二条家から「花の下(もと)宗匠」の称号を贈られている。]

 

 蜻蛉や日の影出來て波の上   (『今人名家發句九百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧同前。「今人(きんじん)名家(めいか)發句九百題」は明治一六(一八八三)年に東京の万笈閣(ばんきゅうかく)刊の過日庵祖郷(そきょう)編・小簑庵碓嶺補校になる類題発句集。但し、先立つ嘉永二(一八四九)年に出版願いが既に出されているから(サイト「ADEACアデック)」の「西尾市岩瀬文庫」の「古典籍書誌データベース」のこちらに拠る)、内容は幕末期のものである。]

 

 綿とりの笠や蜻蛉の一つづつ   也有

[やぶちゃん注:横井也有(よこいやゆう(歴史的仮名遣「よこゐやいう」) 元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年)は江戸中期の俳人。私の『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「二」』の注を参照されたい。也有らしい動きのある一幅の絵である。]

 

 流れ行く泡に夢見る蜻蛉かな   仙溪

[やぶちゃん注:「仙溪」不詳。]

 

 浮草の花にあそぶや赤とんぼ   雨柳

 

 蜻蛉の一としほ赤し淵の上   (『俳諧古今六百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧同前。「俳諧古今六百題」は大津で明一六(一八八三)年に出版された渓斎阿嚢(けいさいあのう)編の恐らくは類題発句集。]

 

 釣り下手の竿に來て寢る蜻蛉かな 也有

[やぶちゃん注:悪くない諧謔句である。やはり動きがあるのがいい。]

 

 蜻蛉の葉裏に淋し秋時雨     白圖

[やぶちゃん注:「白圖」「はくと」であろうが、不詳。]

 

 蜻蛉の十ばかりつく枯枝かな   士朗

[やぶちゃん注:加藤暁台門下で名古屋の俳壇を主導した井上士朗(寛保二(一七四二)年~文化九(一八一二)年)。]

 

 よそごとの鳴子に逃げる蜻蛉かな 民花

[やぶちゃん注:「民花」不詳。]

 

 靑空や蚊ほど群れとぶ赤蜻蛉   繞石

 

 古墓や赤とんぼ飛ぶ枯樒    (碧雲會廣募句中ノモノ)

[やぶちゃん注:丸括弧同前。「枯樒」は「かれしきみ」。常緑木本のマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum。仏前に供えることで知られる。ウィキの「シキミ」によれば、その由来は、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』というが、『なにより』、『年中』、『継続して美しく、手に入れやすい』ことから、『日本では』民俗社会で『古来より』、『この枝葉を仏前墓前に供えている』とある。なお、本種はその全部が危険な有毒植物でもあることはあまり知られていない。リンク先を見られたい。]

 

 淋しさをとんぼ飛ぶなり墓の上  繞石

 

 蜻蛉飛んで事無き村の日午なり  虛子

 

 タづく日薄きとんぼの羽影かな  花朗

[やぶちゃん注:「花朗」不詳。]

 

 蜻蛉の壁をか〻ゆる西日かな   沾荷

[やぶちゃん注:「沾荷」(せんか)。「続猿蓑」や芭蕉との歌仙などに見られ、恐らくは宗因門下で傑出し、芭蕉とも親しかった内藤露沾の弟子であろう。]

 

 蜻蛉とる入日に鷄の眼付かな   成美

[やぶちゃん注:夏目成美(寛延二(一七四九)年~文化一三(一八一七)は江戸中・後期の俳人。名は包嘉、通称は井筒屋八郎右衛門(第五代)。別号に随斎・不随斎など。江戸蔵前の札差井筒屋に生まれ、十六歳で家督を継いだ。父に学び、俳諧独行の旅人と称し、特定の派に属さなかった。加舎白雄・加藤暁台らと親交を結び、小林一茶を援助したことでも知られる。]

 

 蜻蛉の舞ふや入日の一世界    倚菊

[やぶちゃん注:「倚菊」不詳。]

 

 生壁に夕日射すなら赤とんぼ  芦帆

 

註 これは小さな色彩習作である。塗りたての壁の色は暖かい灰色と想はれて居る。

[やぶちゃん注:註は底本ではポイント落ち。「芦帆」不詳。]

 

 出る月と入る日の間や赤とんぼ  二丘

[やぶちゃん注:出羽最上漆山の大地主であった半沢久次郎二丘(?~安政三(一八五六)年)か。]

 

 タ影や流れにひたすとんぼの尾  如泊

[やぶちゃん注:「如泊」不詳。]

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