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2019/10/23

小泉八雲 乙吉の達磨  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Otokichi'S Daruma ”(「橋の上にて」))は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“Strange Stories”(「奇談」・全六話)・第二パート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“Studies Here and There”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第五話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 最後に傍点「◦」の部分があるが、ここはそれしかないが、敢えて太字下線とした。その意味はお判り戴けるであろう。

 なお、本篇には原本で全部で五葉の挿絵が入っている。底本でも珍しくその内の四葉(雪達磨は一葉に二図)を採録している。ここでは原本のPDF画像からトリミングした五葉総てを適切と判断した箇所に挿入した(原本の配置位置や順序を、その叙述と展開に合わせて私の独断で変更してある。この配置が原本よりも正しく効果があると私は勝手に考えている)。なお、底本が採用していないないのは“TOY-DARUMA”(『玩具の「だるま」』)とキャプションする小さな一枚である。因みに、他はトリミングのみであるが、この“TOY-DARUMA”の一枚はやや焼けた感じの原文ページにあるため、補正を加えて下地を白くし、ラインも濃く補正して、見易くしてある。キャプションは一目瞭然なので特に訳していない。

 なお、底本の田部隆次の「あとがき」によれば、『この乙吉は大正十一』(一九二二)『年一月に死去して、今は』『燒津で名高い鰹節問屋となつて居るが、屋號は今も』「山乙」『であると聞いて居る』とし、また、『篇末に出て居る乙吉の娘は、その後長く小泉家に仕へて、今では東京の人に嫁して居る』とあった。]

 

 

   乙吉の達磨


       

 子供等の喜んだのは、昨夜ひどく雪が降つたので、日本の詩人の所謂『銀世界』が私共のためにできたからであつた。――實際これ等の詩人の冬を面白く讃めるところに誇張はない。卽ち日本では冬は美しい、――空想的に美しいからである。冬は『自然の死』について陰氣な想像を起す事はない、――自然は大寒[やぶちゃん注:「だいかん」。原文“the Period of Greatest Cold”であるから、二十四節気のそれを指している。旧暦の概ね十二月後半で太陽暦で一月二十日か二十一日に当たる。]の一時にも、最も明らかに生きて居るからである。今は『骸骨の森』の光景と呈して、審美の眼を惱ます事はない、――卽ち森は多く常磐木[やぶちゃん注:「ときはぎ」。]であるからである。それから雪は、――松の葉に柔かに積つたり、或は竹に暫らくその重さのためにしなやかに撓んだ[やぶちゃん注:「たわんだ」。]姿を表はさせたりして、――決して極東の詩人に、屍衣の物凄い想像を暗示する事はない。全く日本の冬の特別の魅力は、――森と庭園の變らない綠色の上に、想像のできない奇怪な形に積る、――この雪でできる。

 今朝私の二人の書生、光(あき)と新美(にひみ)はなぐさみに雪達磨を造つて子供等を喜ばせてゐた、私もそれを見て面白かつた。雪達磨を造る規則は古い簡單な物である。先づ大きな雪の球、――なるべくは、直徑三尺から四尺の、――を造る、――それが達磨の坐つた體になる。それから、直徑二尺ばかりの少し小さい雪球を造る、それが頭になる、そこでこの小さい方を今一つの上にのせる、――兩方とも落着くやうに、下の方の𢌞りヘ一面に雪をつめ込む。二つのたどんが達磨の眼になる、それから同じ材料のいくつかの不規則な破片で鼻や口を造るに充分である。最後に、その大きな腹に穴をあけて、臍を表はす、そしてその中に蠟燭をともして入れて置く。蠟燭の熱が次第にこの穴を大きくする。……

[やぶちゃん注:「書生、光(あき)と新美(にひみ)」前者は、「小泉八雲 草雲雀 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」に名が登場する書生で、後者は「冊子『無限大』 アーカイブ[ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)特集(88号:1991年発行)]の小泉時氏(小泉八雲の孫)の「写真で見る/ハーンの生涯」の二十八~二十九ページ相当箇所(後者に写真)にセツ夫人の横に立つ学生服姿を見ることが出来る。底本の訳者田部氏の「あとがき」に、『光(あき)は玉木光榮(あきひで)の事』で、彼は『親戚に當るので、光ちやんと呼ばれてゐた。當時早稻田の學生、今は大阪の會社員』とあり、『新美の方は、新美資良(すけよし)と云ふ一高の學生であつたが、後』、『病死した』とあった。]

 しかし私は雪達磨と云ふ言葉を說明する事を忘れてゐた。『達磨』は――梵語の『ボドヒドハルマ』の日本譯――菩提達磨の略語である。

[やぶちゃん注:菩提達磨の注は、以下の小泉八雲の解説の後に回す。

 

Yukidaruma

 

 達磨は大迦葉から續いた佛敎の第二十八代の祖師であつた。梁の朝の第一年〔西暦五二〇年[やぶちゃん注:小泉八雲の誤りか誤植。梁建国の初年は五〇二年。後注参照。]〕佛敎の宣敎師として支那へ行つた、それから支那であの禪の宗門を開いた、――この宗門の敎は『以心傳心』の敎と云はれて居る、卽ち書いたり、話したりする言葉によらないで傳へられるのである。南條文雄[やぶちゃん注:原文“Bunyiu Nanjio”。歴史的仮名遣なら「なんぜうぶんゆう」。]博士は、その『佛敎の十二宗の歷史』に云つて居る、――『大乘佛敎の凡ての敎の外に、如何な言語にもよらないで續いて來た一條の明らかな祕密の敎がある。この敎によれば、人は自分の心によつて直ちに佛心、或は佛性に達する所謂鍵を見なければならない』禪の敎の傳說は不思議である。佛が靈鷲山[やぶちゃん注:「りやうじゆせん」。]で說敎をして居る頃、その前に突然大梵天王が現れて佛に黃金色の花を捧げて、同時に法を說く事を願つた。佛はその聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]花を受けて、それを手にしたが、一言も語らなかつた。そこで大衆は佛の沈默を不思議に思つた。獨り尊い迦葉のみ破顏微笑した。そこで佛は尊い迦葉に云つた、――『吾に正法眼藏涅槃妙心[やぶちゃん注:「しやうばふげんざうねはんみやうしん」。]あり、今汝に附屬す』……そこでただ心だけで、その敎は迦葉に傳はつた、それから心だけで迦葉は阿難陀に傳へた、それからあと、心だけで祖師から祖師へと傳はつて達磨に及んだ、達磨はその相續者である第二の支那のその宗門の祖師に傳へた。達磨は日本にも來たと云ふ人がある、しかしこれは殆んど根據がないやうである。とにかく禪宗は第八世紀前には、日本に來なかつた。

 達磨に關する多くの俗說のうちで、最も名高いのは、九年間引續き默想してゐたので、足が脫落したと云ふ話である。そのために達磨の形は足のないやうに造られる。

[やぶちゃん注:「ボドヒドハルマ」(原本表記“Boddhidharma”)「菩提達磨」(生没年不詳)は中国の禅宗の開祖とされる、インドから中国へ来たインド人僧。名のカタカナ音写は現行「ボーディダルマ」(サンスクリット語ラテン文字転写:Boddhi-dharma)。「達摩」とも書く。小学館「日本大百科全書」より引く。『六世紀の初め、西域』『より華北に渡来し、洛陽』『を中心に活動した。唐代中期、円覚大師と諡(おくりな)される。従来』十一『世紀にまとめられる伝承説話以外に、伝記も思想も不明であったが』、二十『世紀に入って』、『敦煌』『で発見された語録によって、壁観(へきかん)とよばれる独自の禅法と、弟子たちとの問答が確認され、その実像が明らかとなる。同時代の仏教が煩瑣』『な哲学体系に傾くなかで、壁が何ものも寄せ付けぬように、本来清浄な自性に目覚め、ずばり成仏せよと説く、平易な口語の宗教運動家であった。あたかも』八『世紀より』九『世紀にかけて、急激な社会変革の時代に、人々は新仏教の理想を達磨に求め、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)』、『直指人心(じきしにんしん』:心の奥底にある本心や仏心を直ちに正しく指し示すこと『)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ』:『ずばりと、自己の心をつかむことによって、自己が本来は仏であると気づくこと)の四句に、その教義と歴史をまとめる。達磨は仏陀』『より』二十八『代の祖師で、正法』(しょうぼう)『を伝えるために中国に渡来する。南海を経て南朝の梁』(五〇二年~五五七年:江南にあった王朝)『に至り、仏教学の最高峰武帝(蕭衍(しょうえん))と問答するが、正法を伝えるに足らずとし、ひそかに北魏』『の嵩山(すうざん)の少林寺で、のちに第二祖となる慧可(えか)に会ったともいう。慧可が達磨に入門を求めて顧みられず、一臂(いっぴ)を断って誠を示した説話や、「私は心が落ち着きません、どうか私の心を落ち着かせてください。君の落ち着かぬ心を、ひとつ俺』『にみせてくれ、そうすれば落ち着かせてやる。それはどこを探しても、みつけることができません。俺はいま、君の心を落ち着かせ終わった」という、慧可との安心問答は有名である。達磨の禅の特色は、そうした対話の語気にあり、やがて人々は、祖師西来意(達磨は中国に何をもたらしたか)を問うようになる。この問いに答えることが禅宗のすべてである』。『達磨はさらに日本にきて、聖徳太子と問答したとされ、平安末期に達磨宗がおこって、鎌倉新仏教の先駆けとなる。禅宗史の発展が達磨の人と思想を理想化し、新しい祖師像を生むのである。近世日本で、頭から全身に紅衣をかぶり』、『坐禅』『する起きあがり小法師(こぼし)の人形で知られる福(ふく)達磨の民俗信仰がおこり、宗派を超えて広く日常化』した。『祖師達磨の新しい理想化の一つである』とある。

「大迦葉」原文“Kâsyapa”。「迦葉」に同じ。摩訶迦葉。サンスクリット語ラテン文字転写で Mahākāśyapa(マハーカーシャパ)。釈迦の十大弟子の一人。仏教教団に於ける釈迦の後継(仏教第二祖)とされ、釈迦の死後、初めての結集(第一結集。経典の編纂事業を行った)の座長を務めた。「頭陀第一」と称され、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行ったとされる。

「南條文雄」(なんじょう ぶんゆう 嘉永二(一八四九)年~昭和似(一九二七)年)は仏教学者・宗教家。ウィキの「南条文雄」によれば、『近代以前からの伝統的な仏教研究の上に、西洋近代の実証的・客観的な学問体系と方法論を初めて導入した。早い時期から仏典の原典であるサンスクリット(梵語)テキストの存在に注目。主要な漢訳経典との対校を行なうとともに、それらの成果をヨーロッパの学界に広く紹介するなど、近代的な仏教研究の基礎形成に大きな役割を果たした』。『美濃国大垣船町(現・岐阜県大垣市)の誓運寺(真宗大谷派)に生まれ』、『幼時より漢学・仏典の才に優れ』た。彼が一年学んだ『京都東本願寺の高倉学寮』『で教鞭を取っていた福井県憶念寺南条神興の養子となり』、『南条姓に改姓、再び学寮に赴き』、『護法場でキリスト教など仏教以外の諸学を修めた』。明治九(一八七六)年、『同僚の笠原研寿とともにサンスクリット(梵語)研究のため』、『渡英、オックスフォード大学のマックス・ミューラーのもとでヨーロッパにおける近代的な仏教研究の手法を学び、漢訳仏典の英訳、梵語仏典と漢訳仏典の対校等に従事した。特に』一八八三年に『イギリスで出版された英訳『大明三蔵聖教目録』(Chinese Translation of Buddhist Tripitaka, the sacred canon of the Buddhist in China)は「Nanjo-Catalog」と称され、現在なお』、『仏教学者・サンスクリット学者・東洋学者に珍重される。翌年、オックスフォード大学よりマスター・オブ・アーツの称号を授与され、帰国』した。明治一八(一八八五)年より、『東京帝国大学文科大学で梵語学の嘱託講師とな』った。二年後には『インド・中国の仏教遺跡を探訪』し、明治二二(一八八九)年には『文部省より日本第』一『号の文学博士の称号を授与され』ている。明治三四(一九〇一)年に『東本願寺が真宗大学(現、大谷大学)を京都から東京巣鴨に移転開設すると、同大学の教授に就任。初代学監清沢満之と協力して、関連諸学との緊密な連繋の上に立つ近代的な仏教研究・教育機関の創設に力を注』ぎ、二年後には『真宗大学第』二『代学監に就任』、『その後も京都に戻った同大学(のちに真宗大谷大学、大谷大学と改称)の学長を』『務め、学長在任は通算』十八『年近くに及んだ。この間、所属する真宗大谷派において学事体制の整備に』尽力し、『仏教学・東洋学の学界において近代的な仏教研究の必要性を説き、その教育・普及に勉めた。また』、『各地・各方面において行なった活発な講話や執筆活動は、いずれも深い学識と信仰に裏打ちされ、多くの人を惹きつけた』とある。「佛敎の十二宗の歷史」は明治一九(一八八六)に東京で刊行された“A short history of the twelve Japanese Buddhist sects”である。Internet archive”のこちらで英文原本が読める

「靈鷲山」(りょうじゅせん)サンスクリット語ラテン文字転写Gṛdhrakūṭa-parvataの漢訳。古代インドのマガダ国の首都であった王舎城の北東にあり、釈迦が「法華経」などを説いた山。山頂の形が鷲に似るとも、また、山中に鷲がいたことから、この名があるとされる。現在のビハール州中部のラジギールにある。

「大梵天王」大梵天(色界四禅天の中の初禅天にあって梵輔天・梵衆天を従える天。もとはヒンドゥー教の神概念)の王。淫欲を離れて清浄潔白な神王とされる。

「正法眼藏涅槃妙心」原文“the wonderful thought of Nirvâna, the Eye of the True Law,”。「真理を見通す知恵の眼によって悟られた秘蔵の法(「正法眼藏」)と、煩悩・妄想の束縛から脱した心の寂けさ・悟りの境地(「涅槃妙心」)の意。

「阿難陀」阿難に同じ。Ānanda(アーナンダ)。釈迦の十大弟子の一人で、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから、「多聞(たもん)第一」と称せられた。禅宗では迦葉の跡を継いで、仏法付法蔵の第三祖とされる。「阿難陀」は漢語意訳では「歓喜」「慶喜」とも記される。

「禪宗は第八世紀前には、日本に來なかつた」古くは飛鳥時代に道照(白雉四(六五三)年に遣唐使の一員として入唐、玄奘三蔵に師事した)が、法相宗(玄奘の弟子の慈恩大師が開いた宗派)や成実宗(じょうじつしゅう:中国十三宗・日本の南都六宗の一つ)とともに禅を学び、帰朝後(斉明天皇六(六六〇)年)頃)、南都七大寺の一つである奈良の元興寺に禅院を設けている。小泉八雲が言っているのは、最澄が延暦二三(八〇四)年に入唐し、翌年帰朝して本邦に円・密・禅・戒の四宗を伝えたことを指していよう。但し、一般には鎌倉時代に日本臨済宗の開祖明菴栄西(みんなんえいさい)が臨済宗黄龍派の嗣法(しほう)の印可を受け、建久二(一一九一)年に帰朝した時に始まるとされる。

「九年間引續き默想してゐたので、足が脫落したと云ふ話である」達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったというのは民間の伝説に過ぎない。また、私は遙かに、雪舟の絵「慧可断臂図」で知られる、慧可の方の「雪中断臂」(慧可は嵩山の少林寺で面壁していた達磨に面会し、弟子入りを請うたが、達磨は断った。そこで慧可は自らの左腕を切り落として捧げ、弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない覚悟を示して入門を許されたとする伝説)の方が凄絶であると思っている。

 

Toydaruma

 

 たしかに達磨は尊敬の資格を多く有する。しかし極東の美術家やおもちや屋は、彼等が滑稽感に耽る時に、この孫家の資格が干涉して來る事を許さなかつた、――疑もなく、この滑稽感は足がないと云ふ話からもとは起つたのであつた。數百年間、この達磨の傳統的不幸はをかしい繪やをかしい彫刻の主題となつて居る、そして代々の日本の子供は、達磨のおもちゃをもつて面白がつて來た、そのおもちやはどんなに投げ出されてもいつも坐るやうに再び起き上るやうに工夫してある。今も一般のおもちやであるこの『起き上り小法師』は、もとは同じ道理でできた『不倒翁』と云ふ支那のおもちゃから造られた、或は改造されたのであらう。十四世紀に作られたと知られて居る『饅頭食』[やぶちゃん注:原文“Manjū-Kui”。]と云ふ日本の狂言に、『起き上り小法師』の事が記して居る[やぶちゃん注:ママ。]。しかしこのおもちやの昔の形は達磨を表はした物とは思はれない。しかし十七世紀からの子供の歌があつて、それは達磨のおもちやは二百年以上も一般に知られて居る事を證明して居る、――

 

    一(ひ)に二(ふ)に

    ふんだん達磨が

    ひるも夜も

    赤い頭巾かぶりすんまいた

 

 この小さい歌から、おもちやの形が十七世紀以來餘り變つてゐない事が分るやうだ、達磨はやはり頭巾を冠つて、――一面に、顏だけ除いて――やはり赤く塗つてある。

[やぶちゃん注:「起き上り小法師」や「不倒翁」については、先行する『小泉八雲 日本の子供の歌  (大谷正信訳) 六(「子守歌」)及び後書き部』の私の「おきあがりこぼし」の注を参照されたい。

「『饅頭食』と云ふ日本の狂言に、『起き上り小法師』の事が記して居る」小学館「日本国語大辞典」に「饅頭」で『狂言。大蔵流。都で饅頭売りに饅頭をすすめられた田舎者は、うまいかどうか食ってみせたら買おうという。饅頭売りはふるまってもらえると思い』、『全部食べ、代金を田舎者に請求する。田舎者は自分が食べたのではないから知らぬと言い、さらには刀に手をかけて饅頭売りをおどし立ち去る。「狂言記」で「饅頭食い」』とある。台本を見ることが出来ないので、どのように書かれているかは不明。]

 すでに述べた雪達磨と、おもちやの達磨(大槪は張子でできて居る)の外に、無數のをかしい色々の達磨がある、殆んど凡ての種類の材料で、型に造られたり、彫刻になつたりして居る、それから大きさも、袋物の金具になる五分程の長さの金屬の達磨から、日本の煙草屋が、店の看板に使ふ二三尺もある大きな木製の達磨まである。……このやうに、面壁九年の聖い傳說を、民間藝術が、不都合にも、嘲つて居る。

       


 私の庭の雪達磨は、何年か前に、私が東海岸の或漁村で、樂しい一夏を送つた時に發見した甚だ妙な達磨の事を私に想ひ出させる。そこには宿屋がなかつた、しかし或魚屋の主人の乙吉と云ふ男が、私に二階を貸して、不思議な程色々に料理した魚の御馳走をしてくれた。

[やぶちゃん注:ここは「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」の私の冒頭注をまず参照されたい。瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、これは明治三三(一九〇〇)年八月の体験に基づくとある。]

 或朝、乙吉は私を店に呼んで大層見事な魴鮄を見せた。……讀者は何か魴鮄に類した物を見た事があろだらうか。それは餘り大きな蝶か蛾に似て居るので、よくよく見なければ、それは魚、――かながしらの一種の魚で、蟲ではない事が本當には分らない。翼(つばさ)のやうに對になつて並んで居る四つの鰭がある、――上の一對は黑くて、それに空色の鮮やかな斑點がある、下の一對は濃紅[やぶちゃん注:「こいくれなゐ」と訓じておく。]である。それから又、蝶のやうに脚があるやうだ、――その細い脚で、早く走り𢌞る。……

[やぶちゃん注: 条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目コチ亜目ホウボウ科ホウボウ属ホウボウ Chelidonichthys spinosus。小泉八雲は胸鰭が二対四枚あるように錯覚している(無理もないとは思う)が、無論、胸鰭は一対しかない、その大きな前部は半円形を成しており、翼のように水平方向に広がり、色も鮮やかな青緑色を呈し、青の縁取りと斑点に彩られている(私は二十センチ大のそれ釣ったことがあるが、釣り上げて弱ると、この目眩めく美しいこれらの鮮やかな色は儚く消えてしまうのである)。胸鰭の一番下の軟条三対は鮮やかな紅色を呈し、前部からほぼ完全に遊離し、太く発達しており、これを脚のように動かして海底を「歩く」ことが出来る。これを小泉八雲は誤認したのである。私はホウボウの刺身は大好物である。

「かながしら」カサゴ目ホウボウ科カナガシラ属 Lepidotrigla にはカナド Lepidotrigla guentheri・トゲカナガシラ Lepidotrigla japonica・オニカナガシラ Lepidotrigla kishinouyei等の多くの種(十一種)が含まれるが、代表種としてのカナガシラLepidotrigla micropteraを挙げておけば問題ないであろう。確かに両社はよく似ているが、ホウボウ科 Triglidae の魚は概して鱗が細かいが、ホウボウのそれはカナガシラのそれよりも遙かに細かい。また、カナガシラの胸鰭はホウボウほど色が鮮やかでなく、単に赤いので生魚ならば識別は容易い。]

 『喰べられますか』私は尋ねた。

 『へい』乙吉は答へた、――『これを御馳走にさし上げます』

 〔どんな質問を受けても、――否定の答を要する質問にでも、――乙吉は『へい』と云ふ感嘆詞を以てその答を始める、――それが同情と好意の調子を以て云はれるので、聞く者に直ちに凡て人の世の辛酸を忘れさせる程である〕

 それから私は店へ歸つて、うろうろしながら色々の物を眺めた。一方には棚が何段もあつて、干物の箱、食用の海藻の包み、草鞋草履の束、酒德利、ラムネの壜などのせてある。その反對の側のずつと上に、神棚があつた、その神棚の下に、達磨の赤い像のある少し小さい棚のある事に氣がついた。たしかにその像はおもちやではなかつた、その前に供物もあつた。私は達磨が家の神となつて居るのを見ても驚かなかつた、――私は日本の各地で、疱瘡にかかつて居る子供のために、達磨に祈る事を知つてゐたからであつた。しかし、私は乙吉の達磨の特別の樣子に餘程驚いた、それは眼が一つしかなかつたからである、――大きな恐ろしい眼で、その店の薄暗がりの中で、大きな梟の眼のやうに、にらんで居るやうであつた。それは右の眼であつた、そして光澤のある紙で造つてあつた。左の眼の窩(あな)は白い空洞であつた。

[やぶちゃん注:「疱瘡にかかつて居る子供のために、達磨に祈る」中国で疱瘡除けには赤い色のものが効果があるとされていたため、伝来とともに、「赤く」塗られた並外れた善知識の達磨が天然痘に効験があると考えられたのである。実際には他の一部の縁起物と同じく、一種の悪疫悪霊退散の魔除けの装置として機能していたものであり、本来のその呪力から言えば、両目を入れてこそその呪力を発揮出来るはずである。目を入れないというの根本的には不合理であり、運不運を左右させるアイテムとして零落した神仏の一形態とは言えるであろう。不審に思う方のために謂い添えておくと、実際に達磨を製造している職人や会社の複数の記載にも、両目をしっかりと入れて飾るのがよい、と書かれてあるのである。

 

Daruma22

 

 それで私は乙吉に呼びかけた、

 『乙吉さん、――子供等は達磨樣の左の眼をたたき潰したのですか』

 『へい、へい』乙吉は眞魚板(まないた)へ上等の鰹を取り上げながら、氣の毒相に[やぶちゃん注:「さうに」。]笑[やぶちゃん注:「ゑみ」。]を含んだ『初めから、左の眼はございません』

 『こんな風に造つてあつたのですか』私は尋ねた。

 『へい』乙吉は答へた――その時、彼の長い庖丁は、銀白の魚の胴を音もさせないで、すーつと通りぬけた、――『こちらでは、盲目の達磨しか造りません。私もあの達磨を買ひました時には、眼はありませんでした。昨年大漁のあとで、――右の眼を造つて上げました』

 『しかし、何故兩方の眼を造つてあげなかつたのかね』私は尋ねた、――『たつた一つぢや氣の毒のやうだ』

 『へい、へい』手際よく桃色と銀色の肉の一枚一枚をガラスの簾にならべながら、乙吉は答へた、『大層運のよい日が又ございましたら、その時左の眼を入れて上げます』

 それから私は村の通りを步いて、人の家や店をのぞき𢌞つた、そして私は進步發達の色々の階段にある外の色々の達磨を發見した、――眼のないのもあり、一つしかないのもあり、二つあるのもあつた。出雲では實際恩惠を施して、その代り御禮を受ける事になつて居るのは布袋、――大きな腹の安樂の神、――である事を私は思ひ出した。禮拜者の方で感謝すべき理由があると思ふとすぐに、布袋の安樂にもたれた像は柔らかな座蒲團の上に置かれる、そして授かる恩惠の加はる每に、神は一つづつの座蒲團を與へられるのである。しかし達磨には二つ以上の眼が與へられない事を私は思ひついた、三つでは三目小僧と云ふ一種のお化けになる。……達磨に二つの眼と色々の小さな供物が供へられると、その達磨は又眼のない後繼者に店を讓るために片づけられる事が尋ねて見て分つた。眼無し達磨は、眼が欲しさに稼がねばならないから、不思議な事をしてくれると期待されて居る。

 

Daruma11

 

 日本にはこんな面白い小さい神が澤山ある、――餘り澤山だからそれを說明するには甚だ大きな書物が必要にならう、そして私はこんな不思議な小さい神々を禮拜する程の人々は大槪は感心すべき程正直である事をこれまで發見して居る。實際私自身の經驗では、神が質朴な神である程、人は益々正直であると云ふ信仰をいつも殆ど正しいとするのである、――しかし私は讀者に輕卒な歸納をして貰ふ事を欲しない。たとへば正直の最上點は、神の消逃點譯者註[やぶちゃん注:「せうたうてん」。]に始まるやうだなどと云ふつもりはない。ただこれだけは敢て云ひたい、卽ち甚だ小さい神、おもちやの神を信仰する事は、素朴なる心の人のする事である、心の質朴なる事はこの險惡なる世界に於て、純粹の善に最も接近して居る。

譯者註。畫では消逃點、或いは合點とも云ふ。並行の二線を正面より見れば、最後は一點となつて消える、それが合點である。信ずる神が段々簡單になつて殆んど神でないやうなのを信ずゐ人間が一番正直だと歸納されては困ると云ふ意味。

[やぶちゃん注:以上の「譯者註」は本篇末に字下げポイント落ちであるのであるが、ここに移動し、引き上げてポイントも本文と同じにした。

「消逃點」謂わずもがなであるが、透視図法に於ける消失点のこと。]

 

 私がこの村を去る前晚に、乙吉は二ケ月分の御馳走代の勘定書をもつて來た、そしてその勘定は途方もなく安い事が分つた。勿論日本の親切な習慣に隨つて、茶代は期待されてゐた、しかしその事實を考慮のうちに入れて見ても、その勘定書は馬庖馬鹿しく正直な物であつた。私は色々の事を有難く思つて居る心もちを表はすために、私のすべき最少限度は、要求額を倍にする事であつた、そして乙吉の滿足は全く自然で、又同時に相應にしかつべらしかつたから、それは美しい見ものであつた。

[やぶちゃん注:「しかつべらし」近世以降の語で「然りつべくあらし」の転か。「鹿爪らしい」は当て字。ここは「まじめ過ぎて堅苦しい感じがする」の意。]

 私は早い急行列車に乘るために翌朝三時半に起きて着物を着物へた、しかしその夢の時刻にも、暖い朝食が階下で私を待つてゐて、乙吉の小さい色の黑い娘が給仕の用意をして居るのを見た。……私が熱い茶の最後の一杯を飮んだ時に、私の眼は思はず神棚の方へ動いた、そこに小さい燈明が未だ燃えてゐた。その時私は達磨の前にも燈明の燃えて居る事に氣がついた、殆ど同時に達磨が私の方を眞直に見て居る事を認めた――二つの眼で。……

 

Daruma33

 

 

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