フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »

2019/11/30

小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「四」・「五」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」・「三」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 舊日本がどしどし亡くなりつつあるといふのは、事實ではない。少くとも、今後百年以内に、亡くなる譯には行かない。恐らくは、全然滅亡することは、決してないだらう。幾多の珍らしい美しいものが消え失せたけれども、舊日本は依然として藝術の中に、信仰の中に、風俗習慣の中に、國民の心と家庭の中に、今猶ほ生き殘つてゐて、苟も具眼の士は、隨處にそれを見出しうるのである。しかも造船、時計製造、麥酒釀造、紡績などが行はれてゐる、この大都會ほど容易にそれを見出しうる處は、他にあるまい。實を申せば、私が大阪へ行つたのは、主もに寺院を見るためで、特に名高い天王寺を見るためであつた。

[やぶちゃん注:「天王寺」大阪市天王寺区四天王寺にある聖徳太子建立七大寺の一つとされている荒陵山(あらはかさん)四天王寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は救世(ぐぜ)観音。もともと特定の宗派に属さない八宗兼学で(本書刊行当時は天台宗であったと思われる)、現在は単立の「和宗」の総本山。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、造営は推古元(五九三)年と伝えられ、「荒陵寺(あらはかでら)」ともいう。主要伽藍は南北中軸線上に、南から南大門・中門・塔・金堂・講堂の順に配され、塔と金堂を包む回廊がめぐっている。この種の配置を一般に「四天王寺式」と呼んでいる。寺は建立後、幾度か罹災しているが、その都度、ほぼ旧規に則して復興され(現在の伽藍は第二次大戦後に復興されたもの)、国宝の「扇面法華経冊子」を始めとして、長い寺史を物語る多くの寺宝が伝わる、とある。]

 天王寺、もつと正確に云へば、卽ち四天王寺は、日本中で最古の佛寺の一つである。西曆第七世記の昔、用明帝の皇子で、推古女帝(西曆五七二――六二一年)[やぶちゃん注:現在、推古天皇の生没年は欽明天皇一五(五五四)年から推古天皇三六(六二八)年、在位は崇峻天皇五(五九三)年から没年までで、小泉八雲が示す西暦とは孰れも一致しないので注意されたい。]の世の攝政であつて、今は聖德太子と呼ばれる厩戶皇子によつて建立された。太子は日本の佛敎に取つてのコンスタンタイン大帝譯者註と呼ばれるのは尤もな事である。初めは父、用明天皇の世に於け

 

註 四天王は、持國(ドリタラーシトラ)增長(ヴイルードバクシヤ)廣日(ヴイルーバクシヤ)毘沙門(ヴアイシユマナ)である。彼等は世界の四方を防禦する。

譯者註 コンスタンタイン大帝(二七四――三三七年)は、始めて基督數を羅馬の國敎とした初代敎會の恩人。

[やぶちゃん注:原注の原文を示すと、“They defend the four quarters of the world. In Japanese their names are Jikoku, Komoku, Zocho, Bishamon (or Tamon);—in Sanscrit, Dhritarashtra, Virupaksha, Virudhaka, and Vaisravana,—the Kuvera of, Brahmanism.”

「コンスタンタイン大帝」ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語表記:Gaius Flavius Valerius Constantinus 二七〇年代前半~三三七年)はローマ帝国コンスタンティヌス朝第一代皇帝コンスタンティヌスⅠ世(在位:三〇六年~三三七年)。『複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院からマクシムス(Maximus、偉大な/大帝)の称号を与えられた』。『ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上特に重要な人物の』一『人であり、ローマカトリック、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会など、主要な宗派において聖人とされている。また、彼『自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープル(現:イスタンブル)は、その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした』と彼のウィキにある。]

 

る大爭鬪によつて、それから後には律令の制定と佛敎の學問の保護によつて、日本帝國に於ける佛敎の運命を決定したからである。その前の敏達[やぶちゃん注:「びだつ」。]天皇は、朝鮮の僧侶に佛敎を說くことを許し、また二個の寺院を建立したのであつた。しかし用明帝の御代には、物部守屋といふ有力な貴族で、且つ外來宗敎の猛烈なる反對者が、かかる寬容に對して反抗し、寺院を燒き、僧侶を追放し、天皇の軍隊に向つて戰を挑んだ。傳說によれば、皇軍が擊退されつつあつた際に、皇子――當時僅に十六歳――は、もし勝利を得たならば、四天王に對して寺院を建立することを誓つた。すると、立ちどころに、彼の軍勢の方に一個の巨大な姿がぬつと現はれ、守屋の軍勢はこれに睨まられて、散亂遁走した。佛敎の敵は全然ひどい敗北を蒙つた。して、その後聖德太子と呼ばれた若い皇子は、彼の誓願を守つた。天王寺が建てられた。して、叛賊守屋の富は、その維持に利用された。太子は寺の金堂と稱する部分に、日本に渡來した最初の佛像を安置した――如意輪觀音の像――して、その像は或る祭日には、今猶ほ一般へ示される。戰鬪中に出現した巨大の姿は、四天王の一つなる毘沙門であつたと云はれてゐる。今日に至るまで、毘沙門は勝利の授與者として崇拜されてゐる。

[やぶちゃん注:「敏達天皇は、朝鮮の僧侶に佛敎を說くことを許し、また二個の寺院を建立した」不審。ウィキの「敏達天皇」によれば、『敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立するという構図になっていた。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇』十四年(五八五年?)に『物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。その年の』八月十五日、『病が重くなり崩御』(但し、「古事記」では没年は五八四年とされてある)し、『仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された』とある。

「天皇の軍隊に向つて戰を挑んだ」用明天皇二(五八七)年七月に発生した「丁未(ていび)の乱」「物部守屋の変」。仏教の礼拝を巡って大臣蘇我馬子と対立した大連(おおむらじ)物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。これから先、物部氏は衰退した。詳しくはウィキの「丁未の乱」を参照されたい。

「如意輪觀音の像」Japantemple.com ~いにしえの日本を思う寺社巡り~」の『四天王寺の本尊「救世観音」とは?』に本尊変更などの解説とともに画像がある。]

 店肆の並んだ、陽氣な狹い賑やかな町から、天王寺の廢朽せる境内へ移つて行つたときの感は、何とも云ひにくい。日本人に取つてさへも、千二百年前日本に於ける最初の佛敎傳道事業の頃の生活狀態へ、記憶の上では後戾りをすることとなつて、一種超自然的の感じがあるに相違ないだらう。他の場所では、私の眼には紋切形で見慣れきつた信仰の象徵も、ここで見ると、まだよく見慣れない、異國的な、原始的形式のやうに映ずる。それから、私が未だ嘗て見たことのないものは、現實世界を離れた時處の感を與へて私を驚かした。實は元の建築は、あまり殘つてゐない。燒けてしまつた個所もあれば、修繕された個所もある。しかしその印象は矢張り一種特異である。それは改築されたり、修繕されたりしても、どこまでも韓唐[やぶちゃん注:「から・とう」。原文は“some great Korean or Chinese architect”であるから、朝鮮と中国。]の偉大なる建築家の作つた原型が保存もれてゐるからだ。此境内の古色蒼然たる光景、異樣な淋しげな美を筆で述べようとしても駄目である。天王寺がどんなものであるかを知るには、その凄いやうな頽廢を見ねばならない――古い木材の美しい漠然たる色合、消え行く幽靈のやうな灰色や黃色の壁面、風變はりな不順序、檐[やぶちゃん注:「ひさし」。]の下の異常なる彫刻――波や雪や龍や鬼の彫刻の、嘗ては漆と黃金を塗つて華麗であつたのが、今は歲月のため褪せて煙の如き色になつて、煙と共に渦を卷いて消え去らんとするやうである。彫刻で最も目醒ましいのは、奇想を凝らした五重の塔のものである。塔は今荒廢して、屋根の諸層の角から吊るした靑銅の風鐸は、殆ど落ちてしまつてゐる。塔と本堂は、四角形な庭の中に立つてゐて、庭の周圍には、開いた𢌞廊が連つてゐる。更に向うには、他の中庭、佛敎の學校、及び嚴疊な石橋を架せる、數多の龜の住んでゐる大きな池がある。石像や石燈籠や唐獅子や巨大な太鼓がある――玩具や珍奇な物品を賣る小屋もある――休憩のための茶店もある――それから、龜や鹿のために菓子を買ふことのできる菓子賣店もある。飼ひ馴らされた鹿は、餌を求めるため、そのつやつやした頭を屈めて、參詣者に近寄つてくる。二階作りの樓門があつて、大きな仁王の像が鎭護してゐる。仁王の手足は、アツシリヤの彫刻に於ける王の四肢の如き筋肉を有し、胴體には、信心深き人々が唾をつけて投じた白紙の小球が、滿面に點々してゐる。今一つの櫓門は、堂内が空虛である。多分昔は四天王の像があつたのであらう。珍らしいものが、なかなか夥しいのであるが、私はただ二つ三つの、最も異樣な經驗を書いてみよう。

[やぶちゃん注:「アツシリヤの彫刻」“Assyrian sculptures”。ウィキの「アッシリア」によれば、『アッシリア(Assyria)は現在のイラク北部を占める地域、またはそこに興った王国。アッシュール市を中核とし、帝国期にはニネヴェやニムルドが都として機能した。歴史地理的名称としてのアッシリアはチグリス川とユーフラテス川の上流域、つまりメソポタミアの北部を指し、メソポタミア南部は一般にバビロニアと呼ばれる。最終的にメソポタミア・シリア・エジプトを含む世界帝国を築』いたとある。グーグル画像検索「アッシリア 彫刻 王」をリンクさせておく。

「胴體には、信心深き人々が唾をつけて投じた白紙の小球が、滿面に點々してゐる」私は小さな頃に、見かけてよく知っているのだが、最近はまず見かけなくなったから、若い読者には意味が解らぬ方も多かろう。個人ブログ「秘境100選 Ver2」の「仁王像」(北海道札幌市東区にある曹洞宗金龍山大覚寺山門の仁王像と思われる)の写真を見られたい。そこに『仁王の赤い身体に白いものが張り付いていて、最初鳥の糞かと思った。案内役の僧に聞いてみると、これは唾や水で濡らした紙つぶてが乾いたものだそうである。自分の身体の悪いところに対応する仁王の身体に、濡らした紙つぶてを投げて当て、直るように祈願する。こうなると』、『仁王も医者の役目を果たしている』とあるので納得がいかれよう。]

 先づ第一に發見したことは、私が境内に入つたとき念頭に浮かんだ一個の臆測が、實際に確められたことである――ここの建築が特異である如く、禮拜の形式もまた特異ではないか知らんと思はれたのであつた。どういふ譯で、こんな感じが起こつたかわからない。ただ外門を入つてから直ぐに、建築に於けると同樣に、宗敎に於ても異常なものを見るやうな豫感を覺えたと云ひうるのみである。すると、私はやがてそれを鐘樓に於て發見した。これは二階作今の支那風建築で、そこに『引導の鐘』と呼ばれる鐘がある。何故といふに、その鐘の昔が、子供の靈魂を冥途に於て案内するからである。鐘樓の階下の室は、禮拜堂の設備がしてある。一見した時、ただ佛敎の禮拜が營まれつつあるのが眼についた。蠟燭が燃えて、厨子は金色に輝き、香煙が騰つて、一人の僧は祈を捧げ、女や子供は跪づいてゐた。しかし厨子の中の像をよく見ようと思つて、一寸入口の前に立ち止まると、私は忽ち見慣れぬ驚くべきものに氣がついた。厨子の兩側の棚の上、臺の上、厨子の上方下方、それから向うの方に、何百といふ數の子供の位牌が並んでゐて、それから、位牌と共に數千の玩具が並んでゐる。小さな犬、馬、牛、武者、太鼓、喇叭、厚紙製の甲冑、木刀、人形、紙鳶[やぶちゃん注:「たこ」。凧。]、假面、猿、船の型、小型の茶器一式、小型の家具、獨樂、滑稽な福神の像――近代の玩具や、いつ頃流行したのか分からぬ玩具――數世紀に亙つて集つたもので、昔から今まで代々の死んだ子供全部の玩具がある。天井から人目の近邊へ、鐘を鳴らす一本の大きな綱が垂れてゐる。直徑約四吋[やぶちゃん注:「インチ」。約十センチメートル。]、種々の色を帶びてゐる。それは引導の鐘の綱である。しかもその綱は死んだ子供の涎掛で作られたもので、黃、靑、赤、紫や種々の中間の色合を帶びてゐる。天井は見えない。それは數百枚の死兒の小さな着物で遮ぎられてゐる。僧侶の側で、盛の上に坐つたり遊んだりしてゐる男女の子供達は、彼等の亡くなつた兄弟とか姉妹とかの位牌の前に納めるため、玩具を持つて來たのである。子を矢つた父とか母が、絕えず戶口ヘ來て、鐘の綱を引き、疊の上へ銅錢を投げては祈をさ〻げる。鐘の鳴る度每に、亡兒の靈魂がそれを聞きつけるのだと信ぜらてゐる――もう一度、好いた玩具や親の顏を見るために、歸つてくるのだとさへ信ぜられてゐる。南無阿彌陀佛といふ哀れげな小聲、鐘の響[やぶちゃん注:底本は「鏡の響」となっているが、相当箇所は“clanging of the bell”であるから、誤植と断じ、特異的に訂した。]、僧の讀經の深い唸り聲、貨幣の落ちる音、心地よい重げな[やぶちゃん注:「おもたげな」。]抹香の薰り[やぶちゃん注:「かほり」。]、厨子の冷靜な黃金色に輝いた美しい佛陀、玩具の華麗な光、子供の着物の暗影、種々の色をした涎掛の驚くべき鐘の綱、座敷の上で遊んでゐる子供の樂げな笑聲――すべてこれは私に取つては、またと忘れられない凄いやうな哀れさの經驗であつた。

[やぶちゃん注:公式サイトの「境内案内」の「北鐘堂」の解説によれば、『正式には、黄鐘楼(おうしょうろう)といい』、『北の引導鐘・鐘つき堂とも呼ばれ』、『春秋の彼岸にはお参りの人でごったがえ』し、『このお堂の鐘の音は遠く極楽までも響くといわれ、先祖供養のための鐘の音が絶え』ないとあり、『当堂の鐘は天井裏にあり、綱を引いてつく形式のため』、『鐘は見ることができ』ないとある。ネット上で複数の堂内の写真を見たが、最早、小泉八雲が激しい感動を覚えたそれは、残念ながら最早、過去のものとなっているようである。

 なお、以下は原本では一行空けで「Ⅳ」に続いている。しかし、原本を見ると、異様に長くこの「Ⅳ」が続き、やっとここで「Ⅴ」になるものの、その後が「Ⅵ」ではなく、「Ⅶ」となって終わっている。これは、原本の誤りであり、落合氏はそれを考慮して、以下を「五」として後を「六」「七」と繋げたものであると読める。

 

       

 鐘樓から遠からぬ所に、貴い泉を蔽へる珍らしい建物がある。床の中央が開いて、長さ十尺幅八尺位で、欄干が繞らしてある[やぶちゃん注:「めぐらしてある」。]。欄干から見おろすと、下の暗い中に大きな石の水盤がある。古くなつて色黑く、唯だ半分しか見えない大きな石の龜の口から、その中へ水が注いでゐる。龜の後部は床の下の暗い所へまで入つてゐる。この水を龜井水(かめのゐすゐ)といふ。この水の注ぐ盤は、半分以上白紙で充ちてゐる――無數の白紙の片に、一つ一つ漢字で戒名、卽ち人が死んでから附ける佛敎的の名が書いてある。堂の一隅の疊を敷いた處に、僅の料金で戒名を書いてくれる僧がゐて、死人の親類とか友人が、戒名を書いた紙片の一端を、長い棹の先きに直角に附けた竹の窩[やぶちゃん注:「あな」。]、と云はんよりは寧ろ竹の接ぎ目の口ヘ挾んで、字を書いた面を上に向けて龜の口へ紙を下げ、始終佛敎の呪文を唱へ乍ら、迸る水の下へやつてゐると、水盤の中へ洗ひ流される。私が泉へ行つて見た折、人が山をなして、五六人が戒名を龜の口の下へ持つて行つて、その間夥多の信心深い人々は、手に紙片を持つたま〻棹を用ひる機會を待つてゐた。南無阿彌陀佛のつぶやきが激流の音のやうであつた。水盤は數日每に一杯になつて、それから中を開けて、紙を燃してしまうのだと、私は告げられた。これを眞實とすれば、この繁忙な商業的都會に於ける佛敎の力の顯著なる證據である。こんな紙片が數千枚もなくては、水盤は一杯にならないからである。この水は死んだ人の名と、生きた人の祈とを齎して、聖德太子の許へ行き、太子は信者のために阿彌陀に向つて執り成しの力を用ひ玉ふのだといふことである。

[やぶちゃん注:公式サイトの「境内案内」の「亀井堂」の解説によれば、『亀井堂は戦火で焼失後、昭和』三〇(一九五五)『年に再建され』『た。亀井堂の霊水は』、『金堂の地下より、湧き』出『ずる白石玉出の水であり、 回向(供養)を済ませた経木を流せば』、『極楽往生が叶うといわれてい』る。堂の『東西桁行は四間』(七メートル二十七センチ)『あり、西側を亀井の間と』呼でおり、『東側は影向』(ようごう)『の間と呼ばれ、左右に馬頭観音と地蔵菩薩があり』、『中央には、その昔』、『聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されてい』るとある。]

 太子堂といふ堂には、聖德太子と侍者どもの像がある。高貴の人の用ひる椅子に坐せる太子の像は、實物大で、且つ彩色を施してあつて、千二百年前の服裝に、華麗なる帽を被つて、その支那式或は朝鮮式の靴は爪先きが反つてゐる。極めて古い陶器や、襖模樣などに、これと同樣の服裝を見ることがある。しかし顏は、その髭が支那風に垂れてゐるにも拘らず、典型的日本人の顏であつて、品位が備はり、親切らしく、冷靜である。私は像の顏から振り返つて、私のぐるりの人々の顏を見た時、矢張り太子と同一の型であつて、同じく落ち着いた半ば好奇心のある、不可思議な凝視の眼に出逢つた。

 

 天王寺の古代建築に對して、强大なる對照を呈するものは、大きな東西兩本願寺である。これは東京の兩本願寺に殆どそつくり似てゐる。大抵日本の大都會には、かやうな一對の本願寺がある――それぞれ十三世紀に創立された、大きな眞宗の東西兩派の一つに屬してゐる。その建築は地方の富及び崇敬的に重きをなす程度如何に從つて、大いさを異にするけれども、大抵同一の形式であつて、それは佛敎建築中、最も近代的且つ最も純日本的な形式を現はしてゐるといふことができる――大きく、莊嚴[やぶちゃん注:これは意味から「さう(そう)ごん」と読む。]で、華麗である。

 

註 この宗旨が、十七世紀に二派に分かれたことは、宗敎上でなく、政治上の原因を有つてゐた。だから、同派は宗敎的には一致してゐる。その法主は皇族の血續を承けてゐる。因つて御門跡といふ稱號がある。この宗旨の寺の境内を繞る塀は、皇居の塀と同樣の裝師的剜形を有することを、旅人は注目するだらう。

[やぶちゃん注:私は二十歳の頃に唯円の「歎異抄」に嵌まった。その際、この二派の後の分立には痛く鼻白んだもんだ。浄土真宗の二大分立についてご存じない方は、ウィキの「本願寺の歴史」を参照されたい。説明する気も起らん。

「剜形」「わんけい」或いは「ふちくりがた」とも読むようだ。“Travelers may observe that the walls inclosing the temple grounds of this sect bear the same decorative mouldings as those of the walls of the Imperial residences.”「抉り取った、削り取ったような装飾様式であること」のようだが、単に門跡寺院だから同じような成形の装飾様式を持つで別にいいんじゃなかろうか?]

 

 しかし兩寺院は、共に象徵、偶像、及び外部の儀式については、殆ど新敎的嚴肅を示してゐる。その質素にして、どつしりした門は、決して巨人の仁王によつて護衞されてゐない――その大きな檐の下には、龍や惡魔の群像はない――佛や菩薩の黃金色の群が、列を重ね、光背を積んで、聖殿の薄明裡に聳えてもゐい――隨喜渇仰のしるしの珍らしい殊勝なものを、高い天井から吊るしたり、佛壇の前へ懸けたり、玄關の格子に結んだりしたのもない――繪馬もなく、祈を書いた紙を結んだものもない。唯だ一つの外、象徵はない――それも大抵小さい。それは阿彌陀の像である。多分讀者は、佛敎に於て本願寺派は、ユニテリアン派譯者註が自由派基督敎に於て代表するのと、敢て異らざる運動を代表するものだといふ事を知つてゐるだらう。その獨身生活とすべて禁欲的修行を排斥する點、その呪符、卜筮、奉納物を禁じ、また救ひのための祈りの外、一切の祈りを禁ずる點、勤勉なる努力を人生の努力として强調する點、結婚の神聖を宗敎的束縛として維持する點、唯一永遠の佛陀を父とし救主として仰ぐ敎義、善い生活の直接の報酬として、死後に於ける樂園の約束、また就中、その敎育に熱心なる點――すべてこれらの諸點に於て、淨土の宗敎は、西洋の基督敎の進步的形式のものと多大の共通せるものを有つと云つても妥當であらう。して、それは滅多に傳道團や布敎隊へ足を向けないやうな、敎養ある人士から、たしかに尊敬を博してゐるその富、その尊嚴、その佛敎的迷信の低級な形式に對する反抗から判斷すれば、すべての佛敎宗派の中で、最も感情的分子の少いものと思はれるだらう。しかし或る點に於ては、多分最も感情的といふべきであらう。いかなる他の佛敎宗派も、

 

譯者註 所謂正統派基督敎の諸派が、三位一體說を信奉してゐるのに對して、ユニテリアンは、ただ一位の天父を信じ、基督をただ至高の人格と認め、その神性を認めないで、最も自由なる信仰を有し、儀式最も簡單である。

[やぶちゃん注:「ユニテリアン派が自由派基督敎に於て代表する」原文“Unitarianism represents in Liberal Christianity”。ユニテリアン(Unitarian)はキリスト教正統派の中心教義である父と子と聖霊の三位一体(トリニティ:Trinity)の信条に反対して「神の単一性(Unity)」を主張し、「イエスは神ではない」とする一派の人々を指す。厳密な意味での、「ユニテリアニズム(Unitarianism)」は宗教改革後、約半世紀経って現れており、十七世紀以後、イギリスに於ける著名なユニテリアンとしては。ビドル John Biddle・クラーク Samuel Clarke・プリーストリー Joseph Priestly・マーティノー James Martineau などが挙げられる。アメリカでは、イギリスから移住したプリーストリーによってフィラデルフィアに初めて「ユニテリアン教会」が建てられ、チャニング William Ellery Channingが一八二五年に「アメリカ・ユニテリアン協会」を設立した。一九六一年には「ユニバーサリスト教会」と合同して「ユニテリアン・ユニバーサリスト協会」が組織された。日本にユニテリアンが初めて紹介されたのは、明治二〇(一八八七)年、矢野文雄によってである(同年七月『郵便報知新聞』紙上)。明治四二(一九〇九)年頃には神田佐一郎・三並良)(みつなみりょう)・岸本能武太(のぶた)・安部磯雄らが機関誌『ゆにてりあん』の編集・執筆を行い、同誌は後に『宗教』に改題し、さらに日本最古のキリスト教雑誌である『六合(りくごう)雑誌』と合併したが、大正一〇(一九二一)年に終刊した。昭和二三(一九四八)年、「日本ユニテリアン協会」の創立総会が開かれ、ユニテリアンに関連する教会として「東京帰一(きいつ)教会」(初代会長今岡信一良(しんいちろう))が作られた。翌年、「日本ユニテリアン協会」は「日本自由宗教協会」と改称し、協会機関誌『創造』を刊行している。機関誌はその後『自由宗教』『まほろば』『創造』と誌名を変えながら発行され続け、昭和二七(一九五二)年には「自由宗教連盟」と改称、国際自由宗教連盟(IARF)に加盟した(IARFは明治三三(一九〇〇)年に創設され、三年に一度、大会を開催しているが、一九九九年には「地球共同体の創造 宗教者の使命」というテーマのもと、カナダのバンクーバーで第三十回大会が開かれた)。しかし、この一九九九年、宗教法人「東京帰一教会」は初代会長今岡氏の没後、後継者に適当な人材がなく、また、会員の老齢化などによって解散している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。「Liberal Christianity」はその英文ウィキの、日本語版相応の「自由主義神学」に「Liberal theology」「Theological liberalism」「リベラル」「リベラリズム」は、『キリスト教のプロテスタントの神学的立場の一つ。その発生以来、プロテスタント教会の主流エキュメニカル派』(Ecumenism:キリスト教の教派を超えた結束を目指す主義、キリスト教の教会一致促進運動のこと。世界教会主義とも呼ぶが、そこから転じて、キリスト教相互のみならず、より幅広くキリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動のことを指す場合もある)『の多くが採用する立場』。『「自由主義」の語は社会学・政治学用語からの仮借であり、神学分野では「歴史的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って再解釈する」の意である。教義・教理の批判的研究である教義史を確立させた』。『かつては新神学(New Theology)とも呼ばれ、日本のキリスト教界にも大きな影響を与えた』とある。詳しくはリンク先を読まれたい。]

 

京都の東本願寺を實現せしめたやうに、强く普通人民の信仰と愛情を動かすことはできない。しかも本願寺派獨得の宗旨宣布法によつて、最も質樸無學な人々に手を伸ばしうると共に、一方またその學問によつて、知的階級をも動かす事ができる。この派の僧侶で、西洋の主もなる大學を卒業したものも少くはない。して、佛敎硏究の種々の方面に於て、聲譽を歐洲に馳せたものもある。古い方の佛敎の宗派が、絕えず隆盛に赴きつつある眞宗の勢力に壓倒されて、衰微に陷るべきか否かは、少くとも興味ある問題である。たしかに後者は一切のものが好都合である――皇室の御思召、富、學殖及び堅固なる敎團組織などが、さうである。これと同時に、眞宗よりも更に幾世紀も古い思想感情の習性を向うへ𢌞はして戰ふ場合、かかる便宜が果たして有効であるか否かは、疑問とならざるを得ない。恐らくは西洋の宗敎界は、此問題に關して預言の根據を置くべき先例を提供するだらう。羅馬舊敎が今日も依然、どんなに强大なまで存在してゐるか、ルーサー[やぶちゃん注:“Luther”。マルティン・ルター。]の時代以來、どんなにあまり變化しないでゐるか、今日の進步的信仰箇條が、どんなに或る具體的崇拜物に對する古い靈的飢渇――何かに觸れ、何かを胸に押しつけようとする欲求――を滿足させる力に缺乏してゐるか、――これらの事實を思ひ浮かべてみると、もつと古い佛敎諸派の偶像崇拜が、今後數百年、矢張り民衆の愛情裡に廣やかな領域を占めて行かぬとは限らない。それから、また眞宗の擴張に對する一つの珍らしい障害は、自己の犧牲といふ問題に關して、頗る深く根ざせる民族感情に存するといふことは、注目に値する。たとひ多くの腐敗が、疑もなく古い諸宗派に存するにせよ――たとひ食物及び獨身生活に關する誓と守らうともしない僧侶が、幾多あるにせよ――古い理想は決して未だ亡びてゐない。して、日本の佛敎徒の多數は、まだ眞宗僧侶の比較的愉快な生活に不賛成を表はしてゐる。僻陬[やぶちゃん注:「へきすう」。「僻地」に同じい。]に於て、眞宗が特に嫌惡の眼を以て見られてゐる處では、子供達がいたづらな歌をうたつてゐのを聞くこともある――

 

    眞宗坊主よいものだ。

    女房持つて、子持つて、

    うまい魚(さかな)をたべてゐる。

 

 これは私をして佛陀在世の時、佛敎徒に關する世間一般の批評を想起せしめた。これは屢〻『毘那耶』[やぶちゃん注:原文“Vinaya”。「律」。サンスクリット語「ヴィナヤ」の漢音訳。仏教に於いて僧集団(僧伽(そうが):サンガ)に属する出家修行者が守らなければならない規則のこと、及びそれを記した仏典の総称。]の經文に記され、殆ど歌尾の疊句の觀を呈してゐる――

 『そこで、民衆は不快を感じた。して、呟いて不平を訴へた。「これらの人々は、依然としてこの世の愉快を樂んでゐるやうな行動をしてゐる!」それから、彼等はこのことを佛尊に告げた』

[やぶちゃん注:以上は「四分律」(Dharmagupta-vinaya:仏教の上座部の一派である法蔵部(曇無徳部)に伝承されてきた律。ウィキの「四分律」によれば、中国及び『日本に伝来した諸律の中では、最も影響力を持ったものであり、中国・日本で律宗の名で総称される律研究の宗派は、ほとんどがこの四分律に依拠している』とある)に繰り返し現われる類似のシークエンスでの語句を繋げたものある。平井呈一氏は恒文社版「大阪」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『‥‥時(とき)に諸(もろもろ)の居士有り、‥‥に詣(いた)りて観看(くわんかん)す。‥‥を見(み)、見已(みをは)りて皆(みな)譏嫌(きげん)』(仏教用語で「世間の人が謗(そし)り嫌うこと」)『して言(い)わく』(ママ)、『「‥‥諸(もろもろ)の比丘(びく)これを聞(き)いて、世尊(せそん)の所(みもと)に往(ゆ)き‥‥此(この)因縁(いんねん)を以(もつ)て具(つぶさ)に世尊(せそん)に白(まを)す。」』と訳しておられる。]

 

註 僧侶の妻帶を禁ずる民法が撤廢されてから、特にさうである。眞宗以外の宗派の梵妻[やぶちゃん注:僧侶の妻を指す語。]は、滑稽で、且つあまり敬意を含まないも稱で呼ばれてゐる。

[やぶちゃん注:「民法」は誤り。明治五(一八七二)年四月二十五日の太政官布告百三十三号の「自今、僧侶肉食妻帶畜髮等可爲勝手事」に拠る。また、諸記事を見るに、本書が刊行された明治三〇(一八九七)年には、仏教界自体が(親鸞が妻帯して教義として許しているので浄土真宗以外。これは江戸時代もそうであった)、戒律に反する妻帯を認める方向へ既に傾いていたらしい。]

 

 天王寺以外、大阪には頗る古い歷史を有つた幾多の神社佛閣がある。高津の宮は、その一つである。そこでは、人々が日本のあらゆる天皇の内で、最も愛慕さる〻仁德天皇の靈に對して祈りを捧げるのである。現今天皇の社祠が立つてゐる場處に、天皇の宮殿があつた。して、市の眺望を恣にし得られる、この場處こそは、『古事記』に保存さる〻樂い傳說の舞台である――

[やぶちゃん注:「高津の宮」現在の大阪市中央区高津(こうづ)にある神社高津宮(こうづぐう)。難波高津宮に遷都した第十六代仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇・祖母の神功皇后・父の応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の履中天皇を右座に祀る。貞観八(八六六)年、第五十六代清和天皇の勅命により、難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて、仁徳天皇を祀ったのに始まる。天正一一(一五八三)年、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽(ひめこそ)神社を当社の地主神として摂社とした(ウィキの「高津宮」に拠った)。

 以下引用は全体が四字下げ同ポイントである。]

 

ヽヽヽ於ㇾ是天皇登高山、見四方之國。詔ㇾ之、於國中煙不ㇾ發、國皆貧窮、故自ㇾ今至三年、悉除人民之課役、是以大殿破壞、悉雖雨漏、都勿修理、以ㇾ※[やぶちゃん注:「※」=「木」+「咸」。]受其漏雨、遷避于不ㇾ漏處、後見國中、於國滿煙、故爲人民富、今科課役、是以三百姓之榮、不ㇾ苦役使、故稱其世、謂聖帝世也。

[やぶちゃん注:「古事記」「下巻(しもつまき)」の仁徳天皇の条の初めの方にある一節(既に「日本書紀」のそれは本篇冒頭の添え辞である伝仁徳天皇の歌の注で示した)。正確には「故稱其世」は「故稱其御世」。訓読しておく。

   *

……是(ここ)於いて、天皇(すめらみこと)、高山(たかやま)に登りまして、四方(よも)の國を見たまひて、之れに詔(の)たまひしく、

「國中(くぬち)に、煙(けぶり)、發(た)たず。國、皆、貧-窮(まづ)し。故(かれ)[やぶちゃん注:されば故に。だから。]、今より三年(みとせ)に、悉(ことごと)に人民(おほみたから)の課役(みつきえだち)[やぶちゃん注:「みつき」は「貢」で奉物、「えだち」は労役。]を除(ゆる)せ。」

と。

 是を以(も)ちて、大殿、破(や)れ壞(こぼ)れて、悉に、雨、漏れども、都(かつ)て修-理(をさ)めたまはず、※[やぶちゃん注:「※」=「木」+「咸」。水を流す「樋(とい/ひ)」か。](ひ)を以ちて其の漏るる雨を受けて、漏らざる處に遷(うつ)り避(さ)りましき。

 後に國中を見たまへば、國に、煙、滿てり。故(かれ)、

「人民、富めり。」

と爲したまひて、今は課役を科(おほ)せたまひき。是れ、百姓(おほみたから)の榮えて、役使(えだち)に苦まざるを以つてす。故(かれ)、其の御世を稱へて、「聖帝(ひじりのみかど)の世」と謂(まを)す。

   *]

 

 それは千五百年前であつた。今もしこの善い天皇が、かの高津の宮から――多くの人々が信ずる如く――現代大阪の煙を見そなはし玉ふならば、天皇は當然『朕の民はあまりに富すぎてきた』と考へ玉ふことであらう。

 市外に、神功皇后の三韓征伐を助けた海神を祀れる、もつと有名な住吉神社がある。住吉には綺麗な巫女、美しい境内、大きな池などがある。池に架せる橋は非常に灣曲してゐるので、靴を脫がずに、そこを渡るには、胸墻[やぶちゃん注:「きやうしやう(きょうしょう)」。胸の高さほどに築き上げた盛り土。原文は“parapet”。これって、「橋の欄干」でいいんじゃないの?]にすがりつかねばならぬ。堺には妙國寺がある。その庭には數株の頗る古い蘇鐡の樹がある。その一本は十六世紀に信長によつて移されてから、泣き悲しんだので、また寺へ戾されたといはれてゐる。これらの蘇鐡の下の土地は、滿面厚い、光つた、亂雜になつたた毛皮の塊のやうなもので蔽はれてゐる――半ば赤味を帶び、半ば銀灰色である。それは毛皮ではない。幾百萬の針の堆積である。これらの樹は鐡を好み、その錆を吸つて强くなるとといふので、巡禮者が『蘇鐡に食はせるため』そこへ投じたのである。

[やぶちゃん注:「住吉神社」大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社。詳しくはウィキの「住吉大社」を見られたい。

「妙國寺」大阪府堺市堺区材木町東にある日蓮宗広普山(こうふさん)妙国寺。ウィキの「妙国寺」によれば、永禄五(一五六二)年、『阿波国より兵を起こして畿内を支配していた三好長慶の弟・三好実休(じっきゅう)が日珖(にっこう)に帰依し、『大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地と寺領』五百『石を寄進し、日珖を開山とする当寺が設立された』。「霊木・大蘇鉄の伝説」に、樹齢千百年余と『云い、次のような伝説が残っている』。『織田信長はその権力を以って』天正七(一五七九)年に『この蘇鉄を安土城に移植させた。あるとき、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は』。『庭先で妙な声を聞き、森成利』(なりとし)『に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し』、『士卒に命じ』、『蘇鉄の切り倒しを命じた。しかし』、『家来が刀や斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな』、『血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ』、『即座に妙國寺に返還した。しかし、もとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。哀れに思った日珖が蘇生のための法華経一千部を読誦したところ、満願の日に蘇鉄から宇賀徳正龍神が現れ、「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。これにより』、『徳正殿を建て、寺の守護神として宇賀徳正龍神を祀ることとした。爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えないという』とある。今も天然記念物としてある蘇鉄の写真はこちら。]

 樹木の話の序に、私は難波屋[やぶちゃん注:「なにはや」。]の傘松のことを舉げねばならぬ。それが巨大な木であるといふことよりも、それが境街道に小さな茶店を開いてゐる大家族を養つて行くことにためである。この木の枝は、柱を組み合はせた枠の上で、外方と下方へ向けて伸びるやう馴らしてあるため、全體は百姓が被る笠といふ種類の、すばらしい綠色の帽子の觀を呈してゐる。松の高さは六尺にも足りないが、恐らくは二十方碼[やぶちゃん注:「ヤード」。十八強平方メートル。]に廣がつてゐる――其幹は、枝を支へてゐる枠の外部からは、無論毫も見えない。多くの人が茶屋へ來て松を見物する。して、一椀の茶を飮む。それから大抵誰れも或る記念品を買ふ――恐らくはその樹の木版畫、その樹を賞めて詠んだ歌を刷つたもの、少女の簪などである。簪はこの松――柱の枠をも含めた――全體の、綠色の立派な小模型で、一羽の小さな鶴が止まつてゐる。茶店難波屋の一家は、この樹を人に見せたり、かかる土產品を賣つたりして、ただ立派に暮らして行けるばかりでなく、その子供達をも敎育することができる。

[やぶちゃん注:「大阪あそ歩(ぼ)マップ集」のこちら(PDF)に、「難波屋の笠松跡」として地図入りで以下の記事がある。『江戸時代には難波屋という茶屋があり、その庭には枝ぶりがすばらしい松があって、紀州街道の名物でした。見物料の代わりに団子を売っていて「笠松は低いが団子は高い」と風刺されたといいます。昭和初期まで団子を売っていましたが、残念なことに戦後の食糧難で土地を開墾して芋などを植えたことから』、『土に栄養がなくなり、笠松は枯死しました。しかし安立小学校にて安立笠松会が松を植樹し、大きく育てて笠松の復活、伝承を試みています』とある。]

 

 私は大阪の他の有名な社寺――非常に古くて、頗る珍異なる傳說の纏はつてゐるのが、幾つもある――のことを述べて、讀者の忍耐を煩はさうと欲するものではない。しかし私は敢て一心寺の墓地について數語を試みよう。そこの墓石は、私が見たものの中では、頗る奇拔なものである。本門の近くに、朝日五郞八郞といふ力士の墓がある。彼の名は、多分重量一噸[やぶちゃん注:「トン」。]もありさうな、圓盤狀の大石の面に彫つてある。して、この圓盤は力士の石像の背上に載せてある――力士は怪奇な形姿を呈し、金泥を施せる眼は、眼窩から飛び出でて、容貌は努力のため、いかにも扭れてゐる[やぶちゃん注:「ねぢれてゐる」。]。それは半ば滑稽的で、半ば猛惡な光景である。その近くに、平山半兵衞といふ者の墓がある。これは瓢簞の恰好をした石碑である。瓢簞は旅人が酒を運ぶために使用するもので、最も普通の形は沙時計に似てゐて、ただ下部が上部よりも、や〻大きなだけである。して、その器は、酒が滿ちてゐるか、または一部分滿ちてゐる場合にのみ眞直ぐに立つことができる――だから日本の或る歌の中に、酒好きの人が、その瓢簞に向つて、『お前と一緖に倒れる』といつてゐる。たしかに酒豪連中が、この墓地の一區を占領してゐる。何故なら、同じ列にこれと頚似せる形の墓が、他に數個もあるからである また、一個の墓は一升德利の形をしてゐて、碑面には經文から取つたものではない句が刻んである。しかしすべての中で最も奇異な碑石は、眞直ぐに坐つて、前肢を以て腹つづみを打つてゐるらしい大きな石の狸である。その腹の面に井上傳之助といふ名と共に、次の句が刻してある――

 

    月夜よし念佛唱へて腹鼓

 

 この墓の花瓶は、酒瓶の形をしてゐる。墓石の臺は、岩を積んだもので、處々岩の間に、狸坊主の像が散見してゐる。私の著書の讀者は、日本の狸が、人間の形に化け、腹を打つて太鼓のやうな音を出す力を有つものと信ぜられてゐることを、多分知つてゐるでせう。それは惡戲とするため、屢〻佛僧の姿に化け、また甚だ酒が好きだといはれてゐる。無論、墓地に於ける、かやうな像は、ただ奇僻[やぶちゃん注:「きへき」。他のものと異なり、変わっていること。ひどく偏っているさま。]を現はすに過ぎないので、且つ惡趣味だと判斷されてゐる。希臘や羅馬の墓にも、死に關して――否、寧ろ人生に關して――現代人の感情に取つて嫌惡不快の感を催させるやうな情操、または情操めいたものを現はせる可笑げな繪畫及び彫刻のあつたことが思ひ出された。

 

註 狸は通常 badger と英譯してあゐが、狸といふ名の獸は、眞正の badger ではなく、一種の食果狐である。それは「浣熊(あらひぐま)の顏をした犬」とも呼ばれてゐゐ。しかし眞正の badger も日本に棲んで居る。

[やぶちゃん注:「一心寺」大阪府大阪市天王寺区逢阪(おうさか)にある浄土宗坂松山(ばんしょうざん)一心寺(いっしんじ)。「骨仏(こつぼとけ)」の寺としてよく知られている(詳しくはウィキの「一心寺」を参照されたい)。

「この圓盤は力士の石像の背上に載せてある」恐らく、一部の読者はこの大きさを誤解していると私は思う。松岡永子氏のブログ「にわたずみ」の「小泉八雲の見た大阪(1) 一心寺」を見られたい。その他の酒豪の墓や発句などを一応、検索してみたが、ネット上に画像は見当たらない。

「badger」(ベージャー)はアナグマ、本邦産種では食肉(ネコ)目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマMeles anakuma を指す。食肉目イヌ型亜目イヌ下目イヌ科タヌキ属ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus であって、混同されることが多いが、全くの別種である。なお、「浣熊(あらひぐま)」はイヌ亜目クマ下目イタチ小目アライグマ科アライグマ亜科アライグマ属アライグマ Procyon lotor で、アメリカ合衆国・カナダ南部・中央アメリカ(メキシコなど)を原産地とする外来種であり、本邦の個体は外来種として定着した問題種である。

「食果狐」不審。原文は確かに“fruit-fox”であるが、これは現在、哺乳綱翼手(コウモリ)目大翼手(オオコウモリ)亜目オオコウモリ上科オオコウモリ科 Pteropodidae の果実食をするコウモリのことを指す(彼らは顔がキツネに似ている)ので、前後から考えても、おかしな謂いとしかとれない。そもそもがホンドタヌキは果実も食すものの、完全な雑食性(肉食もする)であり、通称としても全く相応しくない。

2019/11/28

小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」・「三」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“IN ŌSAKA”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第七話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 なお、この前に配すべき「人形の墓(田部隆次訳)」(原題も“NINGYŌ-NO-HAKA”)は既に電子化注済み(底本が異なるが、同訳者の本底本からの再録であり、有意な異同を認めない)である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郎訳)」の冒頭注を参照されたい。

 冒頭の和歌の添え辞は上に引き上げた。傍点「ヽ」は太字に代えた。注は四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「!」「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。全七章と長いので、分割して示す。]

 

      第七章  大阪にて

 

 たかきやに上りて見れは煙立つ

    民のかまとはにきはひにけり ――仁 德 天 皇

[やぶちゃん注:「新古今和歌集」の「巻第七 賀歌」の巻頭に配された、確かに「仁德天皇御歌」とする以下であるが(七〇七番)、

   みつきもの許されて國富めるを御覽じて

 たかき屋に登りて見れば煙(けぶり)たつ

    民の竈(かまど)はにぎはひにけり

「新古今和歌集」以前の「和漢朗詠集」の「勅史」には作者不明として見え、岩波新日本古典文学大系「新古今和歌集」(田中裕・赤瀬信吾校注。一九九二年刊)の脚注によれば、実際には誤伝で、もとは延喜六(九〇六)年に成された「日本紀竟宴和歌」の一つで、藤原時平が既に聖帝とされていた仁徳天皇を題にして詠じた、

 高殿に登りて見れば天の下よもに煙りて今ぞ富みぬる

が変形されて誤って伝えられたものであるとし、『平安末期には仁徳天皇御歌とされた(古来風身体抄・上ほか』とある(『ほか』とは「水鏡」か)。歌のシチュエーションは『仁徳天皇四年』(西暦機械換算三一六年)『春、天皇が高台(たかどの)に登り烟気(けぶり)が立たないのを見て、課役をとどめ、七年夏四月、烟気の多いのを見て、后に「朕、既に富めり」と述べた故事(日本書紀による)』とし、『四方拝荷通づるか』とある。「日本書紀」の原文は以下。

   *

四年春二月己未朔甲子。詔群臣曰。朕登高臺以遠望之。煙氣不起於域中。以爲百姓既貧。而家無炊者。朕聞。古聖王之世。人人誦詠德之音。家家有康哉之歌。今朕臨億兆。於茲三年。頌音不聆。炊煙轉踈。卽知。五穀不登。百姓窮乏也。封畿之内。尙有不給者。況乎畿外諸國耶。

三月己丑朔己酉。詔曰。自今以後。至于三年。悉除課役。以息百姓之苦。是日始之。[やぶちゃん注:中略。]

七年夏四月辛未朔。天皇居臺上、而遠望之。煙氣多起。是日、語皇后曰。朕既富矣。豈有愁乎。皇后對諮。何謂富焉。天皇曰。煙氣滿國。百姓自富歟。皇后且言。宮垣壤而不得脩。殿屋破之衣・被露。何謂富乎。天皇曰。其天之立君。是爲百姓。然則君以百姓爲本。是以古聖王者。一人飢寒、顧之責身。今百姓貧之。則朕貧也。百姓富之。則朕富也。未之有百姓富之君貧矣。

   *]

 

       

 約三百年前、束印度商會の任務を帶びて日本を訪問した船長ヂヨン・セーリス譯者註は、大阪の都會について書いた――

 

譯者註 ヂョン・セーリスは平戶に於ける英國商館の創立者。三隻より成る商船隊に船長として、リチヤード・コツクスと共に東洋に航し、千六百十三年六月十一日、平戶に着し、領主に歡迎され、更に安針アダムスの斡旋により、江戶及び駿府に赴き、家康より通商の許可を受けた。

[やぶちゃん注:ジョン・セーリス(John Saris 一五七九年或いは一五八〇年~一六四三年)はイギリス船として初めて日本に来航したイギリスの「東インド会社」(East India Company)の貿易船「クローブ号」(Clove)の指揮官。肥前国平戸に到着したのは慶長十八年五月四日(グレゴリオ暦一六一三年六月二十一日(但し、当時のイギリスはユリウス暦を用いており、それでは六月十一日となる。落合氏はユリウス暦に従っている。開幕から十年後で家康は慶長一〇(一六〇五)年四月に将軍職を辞し、秀忠に譲って大御所となって慶長一二(一六〇七)年には駿府城に移っていた)。イギリス商館は同年九月一日に家康によってイギリスとの通商許可が出された後に建設された。これが日英の国交の始まりとなった。

「三隻」セーリスは一六一一年四月十八日(ユリウス暦)にイギリス国王ジェームズⅠ世から将軍徳川家康に宛てた親書と献上品を載せ、イギリスを三隻で出航したが、他の二隻は別地で任務し、先に帰国している。

「リチヤード・コツクス」ステュアート朝イングランドの貿易商人で江戸初期に平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めたリチャード・コックス(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)。ウィキの「リチャード・コックス」によれば、『スタフォードシャー州・ストールブロックの人』で、『在任中に記した詳細な公務日記「イギリス商館長日記」』(Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks:一六一五年(慶長二十年・元和元年)~一六二二年(元和八年))は、『イギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級の史料である』。慶長一八(一六一三)年、『コックスは東インド会社によって日本に派遣され』、『江戸幕府の大御所・徳川家康の外交顧問であったイングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介によって家康に謁見して貿易の許可を得て、平戸に商館を建てて初代の商館長に就任した』。元和元(一六一五)年には、『平戸において、三浦按針が琉球から持ち帰ったサツマイモを九州以北で最初に栽培したといわれている』。一六一五年六月五日(元和元年五月九日)の『日記に、「豊臣秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず。皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。」と書いている』。元和二(一六一六)年には、『征夷大将軍・秀忠に朱印状更新を求めるため江戸に参府し』、翌年には英国王ジェームズⅠ世の『家康宛ての親書を献上するため』、『伏見で秀忠に謁見したが、返書は得られなかった。この頃から』、『オランダによるイギリス船隊への攻撃が激しくなり、その非法を訴えるため』、元和四~五年(一六一八年~一六一九年)の間に、二度目の『江戸参府を行』い、一六一九年にも『伏見滞在中の秀忠を訪問した』。元和六(一六二〇)年の「平山常陳(ひらやまじょうちん)事件」(平山常陳なる人物が船長をつとめる朱印船が二名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリス及びオランダの船隊によって拿捕された事件。江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金となった。ここはウィキの「平山常陳事件」に拠る)では、『その積荷と密航宣教師スーニガ及びフローレスの国際法上の扱いをめぐり』、『幕府に貢献した』。しかし、元和九(一六二三)年の「アンボン虐殺事件」(「アンボイナ事件」とも称する。オランダ領東インド(現在のインドネシア)モルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあったイングランド商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件。これによってイングランドの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。東南アジアから撤退したイングランドはインドへ矛先を向けることとなった。ここはウィキの「アンボイナ事件」に拠った)を『機にイギリス商館の閉鎖が決まったため』、『日本を出国、翌年帰国の船中で病死した』とある。

「安針アダムス」徳川家康に外交顧問として仕え、「三浦按針(あんじん)」(一般には彼の日本名のそれはは「安」ではなく「按」である)の日本名で知られる、イングランド人の元航海士であったウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六年四月二十四日(一六二〇年五月十六日))。日本に最初に来たイギリス人とされる。少年期、造船所に勤め、やがて水先案内人となった。イギリス艦隊に船長として従事した後、オランダに渡り、一五九八年、司令官ヤコブ・マフの率いる東洋遠征船隊に水先案内として乗船、五隻からなる同船隊は途中で四散したが、彼の乗船したリーフデ号は太平洋を横断し、一六〇〇年四月十九日(慶長五年三月十六日)、豊後臼杵湾の佐志生(さしう:現在の大分県臼杵市)と推定される地点に漂着した。彼は船長の代理として大坂に赴き、徳川家康と会い、家康の命令を受け、船を堺より関東の浦賀に回航した。かねてより、関東貿易の開始を熱望する家康はアダムズとの会談を通じ、彼にその期待をかけ、日本橋の近くに屋敷を与え、また、浦賀の近くの三浦半島の逸見(へみ:現在の神奈川県横須賀市)に知行地を給した。「三浦按針」の名はこのようにして生まれた(按針は「パイロット=水先案内」の意味)。アダムズは、同僚のヤン・ヨーステン(ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン Jan Joosten van Lodensteyn(Lodensteijn) 一五五六年~一六二三年:オランダの航海士で朱印船貿易家。「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」。オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに漂着、徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲附近で、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来し、「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子(やようす)」と呼ばれるようになり、これが後に「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる。やがて、東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが、帰国交渉が捗らず、結局、諦めて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した)とともに、まさに家康の外交顧問的存在となり、家康に数学・幾何学の初歩を教授するほか、外交の諸問題に関与し、反カトリックのオランダ・イギリスの対日通商開始を側面より促進したばかりか、朱印状を受けて東南アジアに渡航した。また、伊豆の伊東でイギリス型帆船を建造したことでも知られる。彼はイギリス人ながら、イギリスの対日通商政策とは意見を異にするなど、国際人として家康外交の展開に重要な役割を演じた。日本人を妻としたが、五十五歳で肥前平戸で病死した。妻は馬籠勘解由(まごめかげゆ)の娘といわれ、夫妻の墓は按針塚と名づけられて、逸見に近い塚山公園に現存する(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

 『我々は大阪の頗る大都會たることを見出した。その大いさは郭内の倫敦[やぶちゃん注:「ロンドン」。]に比すべきほどで、幾多の耽腿な、高い、木造の橋を、倫敎に於けるテムズ河ほどの幅を有する河に架けて、交通の便が圖つてある。我々は若干の立派な家屋をそこに見た。しかし、多くではなかつた。それは日本全國の主要港の一つである。驚くばかり大きく、且つ堅固な城がある……』

[やぶちゃん注:「郭内の倫敦」旧ロンドン・ウォール(London Wall:紀元後二世紀頃からローマ人によりロンディニウム(ラテン語:Londinium) の周辺に作られた防御壁であり、その後十八世紀まで維持された。ロンディニウムは現在のロンドンを流れるテムズ川沿岸にあり、ローマ人にとって戦略的に重要な港町であった)、現在の歴史的に古い金融地域に当たるCity of London(グーグル・マップ・データ)があるが、そうだとするとセーリスは目測を誤っている。実際の大阪は二倍は有にあったはずである。]

 西曆十七世紀の大阪について船長セーリスがいつたことは、今日の大阪についても殆ど同樣に眞實である。それは今野猶ほ頗る大都合であつて、また日本全國の主要港の一つである。それは西洋人の見解に從へば、『若干の立派な家屋』を有し、『テムズ河程の幅を有する河』――淀川――に架せる『幾多の壯麗な木造の橋』(並びに鐡材及び石材を用ひたる橋をも)を有してゐる。それから、漢時代の支那に於ける城塞の樣式に基づいて、秀吉によつて、且つ堅固な』城は、散層の高さある櫓が失せ、また(一八六八年に)[やぶちゃん注:]立派な宮殿が破壞されたのにも關らず、依然として工兵技師[やぶちゃん注:“military engineers”。]を鎗嘆せしむるものがある。

[やぶちゃん注:「一八六八年」慶応四年。慶応三年12月九日(一八六八年一月三日)に発せられた「王政復古」の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移って居城していたが、慶応四年一月三日(一八六八年一月二十七日)、旧幕府軍の「鳥羽・伏見の戦い」での敗北によって、慶喜は船で江戸へ退却、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱の中で、大阪城は出火、御殿・外堀の四・五・七番櫓など、城内建造物の殆んどが焼失してしまった(ウィキの「大阪城」に拠った)。]

 

 大阪は二千五百年よりもつと古い。だから日本の最古の都會の一つである――尤も現今の名は、大きな川の高い土地といふ意味の『大江の阪』を略したので、それは僅々十五世紀に始つたものと信ぜられてゐるが、それより以前は浪速(なには)と呼ばれてゐた。歐洲人が日本の存在を知つたよりも數世紀前に、大阪は帝國の經濟と商業の大中心であつた。して、現今に於てもさうである。すべて封建時代を通じて、大阪の商人は日本の諸侯に對する銀行家と債權者であつた。彼等は米穀の租稅を金銀に兩替をした――彼等はその數哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約一・六キロメートル。]に亙る防火の倉庫内に、全國用の穀類、綿、絹を貯藏した――して、彼等は諸大名に軍資金を供給した。秀吉は大阪を彼の軍事上の首府とした――嫉妬的で、且つ慧眼なる家康は、この大都會を恐れた。して、その大資本家輩が有する財政的勢力に鑑みて、彼等の富を殺ぐことを必要と考へた。

 今日の大阪――一八九六年[やぶちゃん注:本書刊行(一八九七(明治三〇)年九月)の前年。]の大阪――は、廣大なる面積を占め、約六十七萬の人口を有つてゐる[やぶちゃん注:大阪府単位では同年で既に倍以上の百三十七万七千六百人に達している。]。廣袤[やぶちゃん注:「くわうぼう(こうぼう)」の「広」は東西の、「袤」は南北の長さを指す。幅と長さで「広さ・面積」のこと。]と人口に關しては、現今ただ帝國第二の都會たるに過ぎないが、大隈伯[やぶちゃん注:大隈重信。]が最近の演說に述べた如く、財政、產業、及び商業の上では、東京に優つてゐる。堺、兵庫、及び神戶は、實際ただその外港である。しかも、後者はめきめきと橫濱を凌駕しつつある。内外人共に、神戶が外國貿易の最要港となるだらうと、確信を以て豫言してゐる。何故なら、大阪が全國で最も優秀なる商業的手腕あるものを牽引しうるからである。現今大阪の外周貿易に於ける輸出入高は、一箇年約一億二千萬弗を示してゐる。して、その内地と沿海の商業は莫大なものである。殆どすべての人のすべての需用品が大阪で製造される。して、帝國のいづれの地方に於ても、苟も愉快に暮らしてゐる家庭の用具調度に對し、大阪の工業が幾分の貢獻をしないものは殆ど無い。これは東京がまだ存在しなかつた餘程以前にも、多分さうであつた。今猶ほ殘つてゐる一つの古謠には、『出船千艘、入船千艘』といふ繰り返しの文句がある。その語の作られた頃には、和船だけであつた。今日は汽船もあれば、種々の裝具を備へた大洋航海の船もある。埠頭に沿つて數哩の間、帆檣や煙筒が一見殆ど限りなく列つてゐる。尤も太平洋航路及び歐洲郵便線路の巨舶は、吃水の深いため入港ができないから、大阪の荷物を神戶で取扱つてゐる。しかしこの元氣旺盛なる都會は、數個の汽船會社を有し、今や千六萬弗の費用を投じて、その港灣改良の工事を企ててゐる。二百萬の人口と、少くとも三億弗の外國貿易額を誇るべき大阪は、次の半世紀に實現し難き夢ではない。大阪は各種の大なる商業組合の中心であり、また紡績會社の本場であるといふことを、私は殆どいふに及ぶまい。その紡績機械は一晝夜の中に、職工の交代がただ一囘に止まり、二十三時間運轉を續け、その製造糸量は、英國の工場に比すれば、一錘[やぶちゃん注:「すい/つむ」。紡錘を数える単位。]に就いて二倍に達し、印度ボンベー市[やぶちゃん注:“Bombay”。インドのボンベイ。]の工場を凌ぐこと三割乃至四割に及んでゐる。

 

註 大阪には四百個以上の商業會社がある。

[やぶちゃん注:「一億二千萬弗」明治二八(一八九五)年の為替レートで一ドルは一・九八円でほぼ二円であるから、二億四千万円に相当し、明治三十年代の一円を現在の二万円相当とする推定に則れば、四百八十兆円に相当する。明治二十八年の日本の通貨流通高は二億六千万円、同年の日本の国家予算は八千五百万円であったから、実にその三倍に当たる。]

 

 世界の各大都市は、その市民に或る特質を與へるものと信ぜられてゐる。して、日本では大阪人は殆ど一見してわかるといはれてゐる。私は東京人の性格は、大阪人の性格ほどに顯著でないといひきると思ふ――丁度米國に於てシカゴの人は、紐育[やぶちゃん注:「ニュー・ヨーク」。]或はボストンの人よりも一層早く認め得られるのと同樣である。大阪人は一種の植故な理解と輕快なる元氣を有し、且つ一般に最新式流行に通曉し、或は更に少々それよりも先だつてゐるやうな風がある。これは工業上及び商業上、相互の競張の烈しい結果を示してゐる。要するに、大阪の商人或は製造業者は、政治上の首府なる東京に於ける、その競爭者よりは商業上、遙かに長い經驗の遺產を有つてゐる。恐らくはこのことが、大阪の旅商人の世間に認められたる優秀なる手腕を幾分說明するだらう。この旅商人は、現代化されたる階級であつて、目醒ましい型の人物を提供してゐる。汽車或は汽船で旅行の際、諸君は一寸談話を交じへた後にも、その何國人であるかを確に決定し難いやうな紳士と、偶然知り合ひになる事があるかも知れない、彼は最新式で、且つ最上型の衣服を着け、服裝に申し分なき趣味を示してゐる。彼は佛獨英のいづれの國語にても、同樣によく諸君と語ることができる。彼はいかにも慇懃である。しかし極めて種々の人物と調子を合はせて行くことができる。彼は歐洲を知つてゐる。して彼は諸君が極東で行つたことのある地方と、また諸君が地名さへ知らぬ場處についても、諸君に非常なる知識を與へることができる。日本に關しては、各地方の特產物とその比較的價値及び沿革に精通してゐる。彼の顏は愉快である――鼻は眞直であるか、またはや〻彎曲してゐる――口は黑い繁つた鬚で蔽はれてゐる。眼瞼だけが、幾分諸君をして、東洋人と會話をしてゐるのだと想像することを得しめるのである。これが今日の大阪の旅商人の一典型である――日本の尋常の小官吏に優さる[やぶちゃん注:「まさる」。]ことは、恰も王公が從僕に於けるが如くである。若し諸君が大阪の都會で逢ふ場合には、諸君は多分彼が日本服を着用してゐるのを見出すであらう――立派な趣味の人ならでは、なかなかできないやうな服裝をしてゐて、且つ日本人よりは寧ろ假裝せる西垣牙人[やぶちゃん注:「スペインじん」。]或は伊太利人のやうに見えるだらう。

 

       

 生產及び分配の中心として大阪が名を馳せてゐるため、日本全國の都會中、最も近代化した、最も純日本的特徵の乏しい都會と、大阪を想像する人があるだらう。しかし大阪は、その反對である。日本の他の大都會に於けるりも大阪に於ては、西洋服を見受けることがもつと稀である。この大市場の群集ほど、華美な服裝をしたものはなく、またこれほど綺麗な町もない。

 大阪は種々の流行を作りだす處だと思はれてゐる。して、目下の流行は色が多樣へ向つて行く、愉快なる趨勢を示してゐる。私が日本に來た時、男子の衣服の主色は黑であつた特に暗靑色であつた。いかなる男子の群集も、この色合の團塊を呈するのが普通であつた。今日はもつと色調が輕快である。して、種々の灰色――濃い灰色、鋼鐡色の灰色、靑がかつた灰色、紫がかつた灰色――が、優勢を占めてゐるやうに見える。しかしまた幾多の心地よい變色もある――例へば、靑銅色、金褐色、『茶色』[やぶちゃん注:原文ではここのみ“"tea-colors,"”とクォーテーション・マークが附いているせいである。英語の「brown」を日本の如何にも日本語らしい色名に英訳したのである。]などである。婦人の衣服は、無論もつと變化に富んでゐる。しかし男女いづれも、成人に對する流行の性質は、嚴格なる良風美趣の法則を放擲するやうな傾向を示してゐない――はでやかな色彩は、ただ子供と藝妓の衣裳にのみ現はれてゐる――藝妓には永遠の若さの特權が與へられてある。最近流行の藝妓の絹羽織は、燃ゆるが如き靑空色であることを、私はここに述べておく――熱帶のやうな色で、それを着てゐる人の職業が、遠方から見てもすぐわかる。しかし高級の藝妓は、服裝の好尙が地味である。私はまた寒氣の節、戶外で男女の着ける長い外套のことを話さねばならぬ。男子のは、西洋のアルスター型長外套[やぶちゃん注:“ulster”。アルスター外套。ゆったりとした長い厚めの男女のコートで、防水処理が施され、ベルトがついていることもある。もともとアイルランドのアルスター地方産の羊毛で作られたのでこの名がつけられた。アルスター・コートはトレンチ・コートの原型で、本来はダブルである。オーダー専門店「BOTTONE公式サイト内のこちらが歴史と変遷をよく教えてくれる。]を適當に修飾したもののやうである。して、小さな肩被[やぶちゃん注:「かたおほひ」と訓じておく。原文は“cape”。肩と背を覆う袖なしのマント状部分。所謂、シャロック・ホームズの着ているあれを想起すればよい。]が附いてゐる。地質は羊毛で、色は淡褐色或は灰色が普通である。婦人のには、肩被がなく、大抵黑無地の大幅羅紗を用ひ、澤山に絹の緣がついて、前の襟が低く裁つてある。それは咽喉から足までボタンでとめてあつて、全く上品に見える。尤も下に結んでゐる、太く重い絹の帶の蝶形を容れるため、背部では餘程廣くゆるやかにしてある。

[やぶちゃん注:最後の部分は“though left very wide and loose at the back to accommodate the bow of the great heavy silk girdle beneath.”で、帯を「蝶」型に結んでその下に「容れる」=「収める」ことになるため、の謂いだろう。平井呈一氏は恒文社版「大阪」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で『ただし、背中は、下へお太鼓をしめた帯がはいるから、背幅を広くゆっくり取ってある』と訳しておられ、私のような無粋な男でも全く躓かずに意味が判る。]

 

 風習の點に劣らず建築に於ても、大阪は依然殆ど理想的に日本風になつてゐる。廣い大通もあるが、大抵町幅は甚だ狹い――京都の町よりも狹い位である。三階の家屋や二階の家屋の町もあるが、平家造りのものが數方哩[やぶちゃん注:“square miles”。平方マイル。]にも及んでゐる。市の全部は、瓦葺屋根を有する低い木造建築の聚團である。しかし東京の町よりも、その看板や看板の繪に於ては、一層面白く、活氣を帶び、珍異である。また市全體が、その多くの水路のために、東京より更に景色がよい。日本のヴエニス[やぶちゃん注:“Venice”。]と呼ばる〻のも過稱ではない。何故なら、淀川の諸支流によつて、數個の大きな部分に分劃[やぶちゃん注:「ぶんかく」。「区画」に同じい。]されてゐる外に、運河が東西南北に通つてゐるからである。淀川に面した町よりも狹い運河の方が、もつと興趣に富んでゐる。

 これらの水路の一筋を見通す眺めは、街路の通景のやうなものとして、これほど珍らしいものが殆ど日本にあるまい。運河は鏡の面の如く靜かに、兩岸の家屋を支へてゐる高い石造の堤壁の間を流れて行く――二階乃至三階の家屋が、すべて丸太を施して石垣の外へのばされ、正面はそつくり水上に張り出してゐる。それは後方からの壓迫を暗示するやうに、ごちやごちやに集つてゐる。して、この押し合ひ、詰め込んでゐる趣は、意匠の整齊[やぶちゃん注:「せいせい」。整い揃えること。整い揃っていること。]が缺けてゐるため、更に增加してゐる――いづれの家も他の家と全然似てゐるといふことはなく、悉皆[やぶちゃん注:「しつかい(しっかい)」。悉(ことごと)く皆(みな)。残るくまなく総て。]或る名狀し難き極東風の奇異さ――一種の民族的特性――を有してゐるので、時も場處も非常に遠いといふ感じが起こる。欄干の附いた可笑げな[やぶちゃん注:「をかしげな」。]小さな緣側が、張り出してゐる。格子のついた、玻璃をはめない出窓の下に、鬼子のやうな小さな露臺があつて、[やぶちゃん注:ここは“glassless windows with elfish balconies under them, and rootlets over them like eyebrows; tiers of tiled and tilted awnings;”という原文を見ても、よく意味も分からぬし、情景も見えて来ない。平井呈一氏は『格子を打った、ガラス戸のない出窓の下には、箱庭みたいな露台があり、』と訳しておられる。]上方には眉毛のやうな小屋根がある。瓦を葺いた彎曲した庇が出でてゐる。また大きな檐[やぶちゃん注:「のき」。]は、或る時刻には、土臺へまで影を投ずる。木材の造作が大抵黑い――星霜を經たためか、または汚れたために――ので、影は實際よりも一層深いやうに見える。影の内部の方に、露臺の柱や、緣側から緣側への竹梯子や、磨いた指物細工の隅角[やぶちゃん注:「すみかど」。]など、いろいろの突出したものが、ちらつと見える。時には莚蓆[やぶちゃん注:二字で「むしろ」と訓んじおく。]や、竹を割いて作つた幕、卽ち簾や、大きな表意文字を書いた木綿の暖簾が吊つてある。して、すべてこれが忠實に水中に倒さに[やぶちゃん注:「さかさ」。]映つてゐる。種々雜多の色彩は、畫家を欣ばすべき筈だ――磨いた古い材木の黃焦茶色、チヨコレート色、栗色の褐色。莚蓆や簾の濃い黃色。漆喰を塗つた面の淺黃白色。瓦の落ちついた灰色など。……私が最近に運河を見た時、かやうな見通しの光景は、春靄の魅惑に鎖ざされてゐた。それは早朝であつた。雙が立つてゐた橋から二百碼[やぶちゃん注:「ヤード」。約百八十三メートル。]先きでは、家々の前面が靑くなり始めた。もつと向うでは、透明な蒸氣のやうであつた。それから更に遠方では、明かるい光の中へ突然溶けて消えるやうに見えた。宛然[やぶちゃん注:「ゑんぜん」まさにその(ここは「夢」)通りと思われるさま。(ここは「夢」に)そっくりであるさま。]夢の行列であつた。私は笠と簑をつけた百姓が棹さしてゐる小舟の進行を注視した――それは昔の繪本にある百姓のやうであつた。小舟と人間が、輝いた靑色に變はり、それから灰色に變はり、それから、私の眼前で――滑るが如くに涅槃裡[やぶちゃん注:「ねはんり」。“glided into Nirvana.”。]に沒入した。その輝いた春靄によつて、かやうに作られたる無形といふ觀念は、音響の無いために更に强められた。何故なら、これらの掘割の町は、商店の町が騷々しいと同じほどに靜かだから。

 

 日本で大阪ほど數多の橋を有する都會は、他にない。市區の名は橋に基づいてつけられ、距離も橋を標點としてある――いつも高麗橋[やぶちゃん注:「こうらいばし」。原文“Koraibashi, the Bridge of the Koreans,”。ここ(グーグル・マップ・データ)。]から計算される。大阪の人は何處へ行くにも、その場處へ最も接近した橋の名を思ひ起こして、すぐに道筋を知るのである。しかし主要なる橋の數が百八十九個もあるから、かかる見當の定め方は、他國の人に取つては、あまり役に立たぬ。若し商人であれば、橋の名を覺えなくても、仕入れをしようと思ふどんな品でも見出すことが出來る。大阪は帝國に於て商賣上、最も整頓せる都會である。また、世界中で最も秩序整然たる都會の一つである。それは昔から同業組合の都會であつて、種種の商業及び製造業は、昔の習慣に基づいて、今猶ほ特別な區や町に集つてゐる。だから、すべての兩替屋は北濱に店を持つてゐる――これは日本のロンバード街譯者註である。反物商は本町を獨占してゐる。材木商はすべて長堀と西橫堀にゐる。玩具製造者は南久寳寺町と北御堂前にゐる。金物商は安藤寺橋通を占有してゐる。藥品商は道修町にゐる。また指物師は八幡筋にゐる。その他多くの商賣も、それから娛樂の場處も、そんな風になつてゐる。劇場は道頓堀にあつて、手品師、歌ひ手、踊りの藝人、輕業師及び賣卜者[やぶちゃん注:「ばいぼくしや」。占い師。]は、すぐその附近の千日前にゐる。

 

譯者註 佛敎の商業區に於ける銀行通。

[やぶちゃん注:私は大阪に今まで三度しか行ったことがない。しかもその内の一度は中学の修学旅行であり、二度目は某高等学校に於ける人権委員会委員長としての全同協全国大会への参加であり、三度目は国立文楽劇場での「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言の全観覧のためであって、凡そ殆んど散策したこともなく、地理的知識も皆無に近い。されば、以上の場所を地図で示すのは私自身にとってはただ部外者としての地図上の各地の関係性以外の属性を示すのみであり、注しても、判る人には無用の長物で、大阪を知らぬ人には「地図を見てもねぇ」という人も多かろうと思い、当初は一切注さないことにして公開したが、一日経って、やはり最低の地図上の相当位置は示すことに考えを変えた。

「北濱」現在の大阪府大阪市中央区北浜(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の一部。現在も「大阪取引所」を中心とした金融街で、ウィキの「北浜」によれば、『東京の金融街である兜町が「シマ」と呼ばれるのに対し、北浜は「ハマ」と呼称される』とある。

「ロンバード街」Lombard Street は先に示した旧ロンドン・ウォールの中のシティ・オブ・ロンドンの、「イングランド銀行」から東に走る三百メートルほどの通りの名称。多くの銀行や保険会社が軒を連ねているため、「ロンドン金融市場」の別名として慣用されている。イギリスでは十三世紀末にエドワードⅠ世がユダヤ系金融業者を追放したが、この前後から北イタリアのロンバルディア(Lombardia)出身の商人たち(ロンバルディア人。これが名の由来)が来住し、貿易と絡めて、両替・為替業を営み、銀行業者の地位を確立した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「本町」中央区本町。江戸時代以来、ここは繊維・衣料関係の町として栄え、北隣の安土町と同様、近江商人の多い町であった。

「長堀と西橫堀」ここの中央東西が前者の名を残す「長堀通り」、Pマークの南北の部分が後者(西横堀川があったが、埋め立てられた)。

「南久寳寺町」「みなみきゅうほうじまち」(原題仮名遣。以下同じ)は大阪府大阪市中央区南久宝寺町

「北御堂前」中央区本町にある北御堂、本願寺津村別院附近。

「安藤寺橋通」中央区南船場にある安藤寺橋を中心とした東西の通り。

「道修町」中央区道修町(どうしゅうまち)

「八幡筋」道頓堀の北側の、三つ目の東西の通りの通称。このレッド・マーク附近

「千日前」中央区千日前。]

 

 大阪の中央部には、幾多の頗る大きな建築がある一一劇場、料理屋、それから全國に有名な旅館など。しかし西洋風の建物の數は、目立つて少い。尤も八百乃至九百本の工場の煙突がある。しかし工場の建築は、槪して西洋式の設計でない。眞正の『外國』式建築は、一軒のホテル、二重勾配屋根を有する府廰、花崗石の柱の古典式玄關を有する市役所、立派な近代風の郵便局、造幣局、造兵廠、數種の製造所及び釀造所である。しかしこれらのものは、非常に散在してゐるので、實際、此都會の極東的性質と反せる、特異な印象を與へない。だが、一つ全然外國風な一小區城がある――これは古い居留地で、まだ神戶が存在しなかつた時代に起こつたものである。その街路は立派に作られ、建物は堅固に出來てゐるが、いろいろの理由で、宣敎師の住居に委ねてある――ただ一軒の古くから殘つてゐる商會と、多分一軒か二軒の代理店が開店してゐる。この荒唐したる居留地は、大なる商業上の荒野に於ける靜けさの沃地(オーエーシス)[やぶちゃん注:“oasis”。オアシス。]である。大阪の商人間に、この建築風を模倣しようとの試みもない。實際、日本の都會で大阪ほど、西洋建築へ對して好意を示さないものはない。これは鑑識が足りないからではなく、經濟上の經驗によるのである。大阪は西洋風に――石材、煉瓦及び鐡を以て――建築するのが、その利益疑ふべからざる時と場處に於てのみさうするであらう。東京に行はれてゐるやうに、かかる建築を投機的に企てるといふことはないだらう。大阪の遣り方は、じりじり進む方であつて、また確實なものに投資する。確實な見込みのある場合には、大阪商人は盛んなる提案をする――二年前、或る鐡道の買收と復興のために五千六萬弗を政府へ提供したのは、その一例である。大阪のすべての家屋の内で、朝日新聞社が最も私を驚かした。朝日新聞は日本の新聞紙中、最大なものである――恐らくはいかなる東洋語で發行せらる〻新聞も、その右に出づるものはあるまい。それは日刊繪入新聞で、その編輯法は頗る巴里の新聞に似てゐる――文藝欄があつて、外國小說の飜譯や、時事に關する輕妙奇警な閑話などが載せてある。人氣の高い作家に多額の金を拂ひ、また通信と電報に莫大の費用を投じてゐる。その插畫――現今或る婦人の手に成る――は、丁度佛敎のポンチ雜誌が、英國の生活に於ける如くに、新舊あらゆる日本の生活を充分に寫し出してゐる。それは兩面印刷機を使用し、特別な列車を契傭[やぶちゃん注:「けいよう」。長期に雇い入れる契約をすることであろう。]し、して、その配布は帝國の大抵の場處へ及んでゐる。だから朝日新聞社は、大阪に於ける最も綺麗な建築の一つであらうと、私は確に期待してゐた。しかしそれは昔の武士屋敷であつた――その邊では、殆ど最も靜かで、また質素な趣のある場處であつた。

[やぶちゃん注:このオチは凄い! 「株式会社 朝日プリンテック」公式サイトのこちらに画像が小さいが、中之島の武家屋敷時代の写真が二枚ある。平井呈一訳一九七五年刊恒文社版「仏の畑の落穂 他」の冒頭に、ここで小泉八雲が訪れた当時とする朝日新聞社本社写真があるが、廂を除いて殆んど変わらない。これはビックリだ!

「一軒のホテル」不詳。それが判りそうな出版物はあるようだ。旧位置とホテル名をお教え願えれば幸いである。

「二重勾配屋根を有する府廰」これは西大組江之子島上之町(現在の西区江之子島二丁目)にあった二代目庁舎のこと。修飾の原文は“mansard roof”(マンサード・ルーフ)で「腰折れ屋根」のこと。切妻屋根の変形で、屋根の勾配が上部がゆるく、下部が急な二段構造になっているもの。十六世紀の中頃にイギリス・イタリアで用いられルーブル宮殿にも採用された。十九世紀中頃、特にフランスやアメリカで一般的となり、アメリカでは「ギャンブレル屋根」(gambrel roof)とも称する。屋根裏部屋の天井を高くし、広い空間を確保出来る利点がある。北海道地方で家畜飼料用倉庫(サイロ)に採用されているのも、この利点からである。名称はフランスの建築家 F.マンサールに因むとされる。ウィキの「大阪府庁舎」のこの画像が当時のそれ。マンサード・ルーフだと言われれば、そうも見えなくはないが、この写真ではよく判らぬ。

「花崗石の柱の古典式玄關を有する市役所」当時は上記の大阪府旧庁舎の北側に建っていた。画像は見当たらない。

「二年前、或る鐡道の買收と復興のために五千六萬弗を政府へ提供した」不詳。識者の御教授を乞う。]

 すべてこの地味で、且つ賢い保守主義は、私を欣ばせたといふことを、私は告白せねばならぬ。日本の競爭力は、今後永く昔の質朴な生活を維持して行く力に存するに相違ない。

 

註 外國領事館は、一八六八年の内亂に際して、大阪を去つて神戶に避難した。それは大阪では本國の軍艦を以て、よく領事館を保護することができたかつたからである。一たび神戶へ移つてから後、その深い灣が與へる便宜は、大阪居留地の運命を終はらしめた。

 

       

 大阪は帝國の大商業學校である。日本のあらゆる地方から、靑年が工業或は商業の特殊な部門を學ぶために、ここへ送られる。いかなる缺員の地位へ對しても、澤山の志望者がある。だから商人はその丁稚を選擇するのに、頗る用心深いといふことである。志望者に關して、當人の人物と、身許をよく注意して調べる。丁稚の親、または親戚は、一文も金を拂はない。奉公の期限は、商工業の性質によつて異る。しかし普通歐洲に於ける徒弟奉公期間と全く同じほどに長い。して、或る種の商業では、十二年乃至十四年に及ぶのもある。かやうなのは反物商の場合に、普通要求せらる〻奉公期限であると私は聞いてゐる。しかも反物商の丁稚は、一箇月にただ一日の休みしかなくて、一日に十五時間も働かねばならない。徒弟の全期間を通じて、彼は何等の賃銀を受けない――ただ寢食と絕對に必要な被服を受けるだけである。主人は彼に一箇年に二枚の衣服を與へ、下駄を給することになつてゐる。恐らくは盛大な祝祭などの日に、少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の小遣錢を惠まれることがある――しかしこれは契約には規定してない。しかし彼の奉公年限が終はると、主人は彼が獨立して、小規模な商賣を始めるに足るだけの資本を與へるか、若しくは何か他の方法によつて、實際有力なる援助を與へる――例へば、商品或は金員について、信用貸の便宜を計つてやる。多くの丁稚は、その主人の娘を娶る。その場合には、若夫婦が世の中へ乘り出すに當つて、大抵必らず好都合である。

 これらの長い徒弟勤務の訓練は、品性の嚴格な試驗であると考へることができる。假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]丁稚は決して荒々しい挨拶を受けないけれども、彼はいかなる歐洲の事務員も堪へないやうなことを堪へねばならぬ。彼は毫も閑暇を有たない――睡眠に必要な時間を除いては、自分の時間と稱すべきものを有たない。彼は昧爽[やぶちゃん注:「まいさう(まいそう)」。「昧」は「ほの暗い」、「爽」は「明らか」の意で、「夜の明け方・暁・未明」。]から夜遲くまで、おとなしく、また着實に働かねばならぬ。最も質素な食物で滿足せねばならぬ。さつぱりした身嗜み[やぶちゃん注:「みだしなみ」。]をせねばならぬ。して、決して不機嫌を見せてはならぬ。放蕩な性質を有つてゐるものとは思はれてゐない。またかかる過失に陷る機會も與へられてゐない。數箇月も引き續いて、晝夜その店を離れないやうな丁稚もある――營業時間に坐つてゐるのと、同一の疊の上で寢に就く。絹布類の大商店の店員は、特に室内にばかり居るので、彼等の不健康らしい蒼白色は、世間に知れ互つた事實である。年々歲々、彼等は每日十二時間乃至十五時間も同一の場所に坐つてゐる。だから、どうして彼等の脚が、達磨のやうに落ちてしまはないかと不思議に思はれる。

 

註 日本の通俗的傳說によれぱ、佛敎の偉大なる長老で、且つ修道者なる達磨は、九年間の絕えざる冥想のため、兩脚を失つたと云はれてゐる。達磨の可笑げな[やぶちゃん注:「をかしげな」。]人形が、普通の子供の玩具となつてゐる。それは脚がなくて、また内部に重量[やぶちゃん注:「おもり」。]を入れて、いくら投げても、いつも眞直ぐな態度を保つやうに仕組んである。

 

 時としては道德上の失敗者もある。恐らくは丁稚が店の金員を幾らか濫用して、放蕩に費消してしまうこともあるだらう。恐らくはもつと惡るいことを行ふ場合もあるだらう。しかしどんな事件であらうとも、彼は滅多に逃亡しようとは考へない。もし彼が饗宴に浮かれたならば、それから一兩日身を隱してゐても、やがて自分から戾つてきて白狀し、詫びを入れる。彼は二三囘、或は多分四囘位までも、その放縱の過失を宥される[やぶちゃん注:「ゆるされる」。]だらう――もし眞に内心が姦惡であるといふ證據がない限りは――して、彼の前途、彼の家族の感情、彼の祖先の名譽、それから一般商人の資格などの諸點に照らして、彼の缺點について、懇懇と說諭されるだらう。彼の境遇の困難は、親切な思ひやりを以て考へられ、決して小過失のために解傭[やぶちゃん注:「かいよう」。契約雇用解除。]されることはない。解傭は多分彼の一生を破滅させることになるだらうから、その明白な危險に對して彼の蒙を啓くため、あらゆる注意が加へられる。大阪は實際馬鹿な行爲を演ずるのには、日本中で最も不安な場處である――大阪の危險で、且つ邪惡な階級は、東京のそれよりも更に怖ろしい。して、この大きな都會の日々の新聞は、正しく丁稚が學ばねばならぬ義務の一部である、行政上の法則に背いたために、或は貧窮に陷つたり、或は餘儀なく自殺をしたりする人々の恐るべき實例を與へてゐる。

 丁稚が極めて幼年の頃、奉公に入つて、その商店に於て殆ど養子のやうに育て上げられた場合には、主人と丁稚の間に頗る强い愛情關係が生じてくる。主人へ對し、或は主家の人々へ對して、非常な獻身的な美談が、屢〻傳へられる。時としては、破產した商人が、昔の番頭によつて、その高貴を復興されることもある。また、丁稚の愛情が奇異なる極端となつて現はれることもある。昨年一つの珍事があつた。或る商人の一人息子――十二歲の少年――が、惡疫流行の際、虎列剌[やぶちゃん注:「コレラ」。]病で殪れた[やぶちゃん注:「たふれた」(音は「エイ」)。死んだ。]。亡くなつた子供と非常に親密であつた十四歲の丁稚は、葬式の後、間もなく汽車の前へ身を投げて自殺した。彼は一通の手紙を殘した――

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本でも本文と同ポイントで全体が二字下げである。引き上げ、前後を一行空けた。少年の署名は底本では下インデント三字上げ。]

   

 長い間、御世話樣に相成り、御高恩は言葉に申し述べ難く候。只今これ限り相果て候こと、不義理の至りに存じ侯へ共、再び生まれ變はつて御恩を報じ可申上候。ただ妹おのと[やぶちゃん注:“O-Noto”。彼の妹の名前。]のことのみ心配に候。何卒同人へ宜しく御目をかけ下され度願上候。

              間 野 由 松

    御 主 人 樣

 

[やぶちゃん注:小泉八雲は遺作となってしまった「神國日本」の「家族の宗教」にも、この話を紹介している。『「恐らく尤も異樣なのは、十四歳の少年が、その主人の小さい子息なる子供の靈に侍するために、自殺したといふ事である』(私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(4) 家族の宗教(Ⅰ)」を見られたい。また、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二八(一八九五)年の十月の記事に、『この頃、主人の幼い子供の死のあとを追って鉄道自殺した少年のことを知る』とある。]

小泉八雲 日本美術に於ける顔について (落合貞三郎訳) / その「五」・「六」 / 日本美術に於ける顔について~了

 

 [やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本美術に於ける顔について (落合貞三郎訳) / その「一」』を参照されたい。]

 

       

 私は今頃外國の繪入新聞或は雜誌を眺める時、その彫刻畫にあまり愉快を見出さないといつた。大抵それは私に嫌惡を催させる事が多い。その畫は私に取つて粗末で醜く、またその寫實的な觀念は、淺薄と思はれる。かやうな作品は何ものをも想像力に委ねるといふ事がない。して、いつも折角の骨折りを無駄に歸せしめる。普通の日本畫は多くのものを想像力に殘しておく――否、强く想像力を刺激せずには止まぬ――して、決して努力を裏切らない。歐洲の普通の彫刻畫に於ては、一切のものが細密で、且つ個性化されてゐる。日本畫に於ては、一切のものが非人格的で、且つ暗示的である。前者は何等の法則を示さない。それは特殊性の硏究である。後者は常に法則について幾らか敎へる處がある。して、法則と關係のない限りは、特殊性を抑制して現はさない。

 西洋美術は餘りに寫實的だと日本人がいふのを耳にすることが屢〻ある。して、その判斷は眞理を含んでゐる。しかしその日本人の趣味に反する寫實主義、特に顏面表情の點に於ける寫實主義は、單に細部の緻密のために咎むべきではない。細部そのものはいかなる美術に於ても非難されてゐない。また最高の美術は、細部が最も精巧に描寫されたものなのである。神性を發見し、自然の粹を超越し、動物及び花卉に對する出世間的理想を發見した美術は、細部のできうる限り鋭い完全を特徵としてゐた。して、希臘美術に於ける如く、日本美術に於ても、細部を用ひて、憧憬の目的に反するよりは、寧ろ輔助[やぶちゃん注:「ほじよ(ほじょ)」。「補助」に同じい。]となしてゐる。西洋現代の插畫の寫實主義に於て、最も多く不愉快を與へるのは、細部の夥多[やぶちゃん注:「くわた(かた)」。物事が多過ぎるほどにあること。夥(おびただ)しいさま。]でなく、私共がやがて悟るであらう如くに、細部が表徵となることである。

 日本美術に於て、人相上の細部を抑制したことに關して、最も奇異なる事實は、私共がこの抑制を見ようとは、最も期待しない方面、卽ち浮世繪と稱する作品に、最も明らかに現はれてゐる事である。何故なら、たとひ[やぶちゃん注:この「たとひ」という訳語は呼応もなく、原文を見ても、明らかに不要で判り難くさせているだけである。]この派の畫家は、實際甚だ美しく幸福な世界の畫を描いたのであるが、彼等は眞實を反映すると公言してゐたからである。或る形式の眞理を彼等はたしかに示したのであつた。しかしその趣は私共の普通の寫實觀念とは異つたものであつた。浮世繪畫家は現實を描いたけれども、嫌惡すべき或は無意味の現實を描いたのではなかつた。題材の選擇によつてよりは、寧ろ彼の拒斥[やぶちゃん注:「きよせき(きょせき)」。原文“refusal”。拒絶。]の點によつて、一層彼の地位を證明した。彼は對照と色のことを支配する法則、自然の聯結の一般性、昔の美と今の美に對する秩序を探求した。その他の點に於ては、彼の美術は決して憧憬的ではなかつた。それはありのま〻の事物を廣く網羅した美術であつた。だからたとひ彼の寫實主義はただ不易性、一般性、及び類型の硏究にのみ現はれてゐるにも關はらず、彼は正しく寫實主義者であつた。して、普遍的事實の綜合を示し、自然を法則の體系化したるものとして、この日本畫はその手法上、眞正の意味に於て科學的である。これに反して、一層高尙な美術、憧憬的な美術(日本美術にまれ、また古代希臘美術にまれ)は、その手法上主もに宗敎的である。

  美術の科學的と憧憬的の兩極端が相觸れる處に、兩者によつて認めらる〻或る普遍的な審美上の眞理が見出されるだらう。兩者はその沒人格的に於て一致する。兩者は個性化することを拒否する。して、これまで存在したうちで最も高尙な美術が與へる敎訓には、この兩者共通の拒否に對する眞正の理由が暗示されてゐる。

 大理石、寳玉、或は壁畫を問はず、古代の頭の美は、何を表現してゐるか?――例へば、ウィンケルマンの著書の卷頭を飾れる、かのリューコセーアの驚嘆すべき頭の美は何を示すか? 單なる美術批評家の著作から答を求めるのは無用である。科學のみがそれを與へ得るのだ。讀者はそれをハーバート・スペンサーの人物美に關する論文のうちに見出すであらう。かかる頭の美は知的材能の超人的完全なる發達と均衡を意味してゐる。私共が『表情』と稱するものを構成する、一切容貌の變差は、それが所謂『性格』なるものを現はすに比例して、ますます完全なる類型からの分離を現はす――して、かかる完全型からの分離は多少不愉快、若しくは苦痛なものである。或はさうあるべきである。何故なら、『吾人を欣ばす容貌は、内部的完全の外面に於ける相關であつて、吾人をして嫌惡を催さしむる容貌は、内部的不完全の外面に於ける相關である』からである。スペンサー氏は更に進んでいつてゐる。たとひ平凡な顏面の背後に偉大な人格があつたり、また、立派な容貌が、貧弱な精神を隱してゐることが往々あるにしても、『これらの例外は、惑星の攝動か、その軌道の一般的楕圓形を破壞しないのと同じく、この法則の一般的眞理を破壞することはない』

[やぶちゃん注:「ウィンケルマン」は「二」で既出既注。但し、彼「の著書の卷頭を飾れる」「リューコセーアのの驚嘆すべき頭」とある書は不明。処女作の「ギリシア美術模倣論」(Gedanken über die Nachahmung der griechischen Werke in der Malerei und Bildhauerkunst:一七五五年)かと思い調べたが、私はそれらしい絵を見出すことが出来なかった(「これかなぁ」と思うものもキャプションが読めないので諦めた。新しい英訳本ではこの表紙っぽい気もした(グーグルブックスの“Winckelmann's Images from the Ancient World: Greek, Roman, Etruscan and Egyptian”))。私が調べたのは“Internet Archive”の彼の著作画像である。何方か、お調べ戴き、これだと指定願えると、恩幸、これに過ぎたるはない。【2019年11月30日:追記】いつも全テクスト作業に貴重な情報を頂戴するT氏が発見して下さった!

   《引用開始》

 「ウィンケルマンの著書の卷頭を飾れる、かのリューコセーアの驚嘆すべき頭」は”Internet Archive”の、

"The history of ancient art among the Greeks 1850”のこの口絵

と思われます。この口絵の説明がありません。しかし、藪野様の引用された google book の図版説明を見ると[やぶちゃん注:ずっと下げて行くと、画像が見える。]、Fig54, 55, 56が”Leucotha”と書かれ、特にFig55が”Head of statue of Laucothea in the Museo Capitolino”と書かれています[やぶちゃん注:画像の前の方の数字を打った画像解説リスト内。]。google bookの最初には、

This Dover edition, first in 2010, contains all copperplateengrave illustrations from Monumenti antichi inesiti, by Johan Joachim Winckelmann, originally published by the author in Rome in 1767.

とあるので、元本は”Monumenti antichi inesiti”であることがわかります。これも”Internet Archive”の(但し、イタリア語)、

 ”Monumenti antichi inesiti”(挿絵のあるp178)

で、Fig55と全く同一のものを見ることができます。この図(google Bookの表紙)が ”Head of statue of Laucothea”であるとすると(イタリア語はチンプンカンプンですので)、同じ図が卷頭に現れる本は、最初に書いた”The history of ancient art among the Greeks 1850”になります。 "The history of ancient art among the Greeks”は複数の版が archive には有りますが、卷頭 (その近くも含め)に在るのは、上記版のようです。

   《引用終了》

T氏に感謝申し上げるとともに、「リューコセーア」(イーノー。次注参照)の美しさに打たれた。“The history of ancient art among the Greeks 1850”の全部をPDFで落とし、当該画像をソフトでトリミング、周囲の黄変部や絵内部の汚損を可能な限り、除去し、ここに掲げることとした。

 

Leucothea

 

「リューコセーア」“Leucothea”。ギリシア神話に登場する女性(死後に女神)イーノー(ラテン文字転写:Īnō)。テーバイの王女として生まれ、後にボイオーティアの王妃となった。死後、ゼウスによって女神とされ、海の女神レウコテアー(Leukothea)或いはレウコトエー(Leukothoe)として信仰された。レウコテアーとは「白い女神」の意。詳しくは参照したウィキの「イーノー」を見られたい。]

 希臘美術も日本美術も、スペンサー氏が『表情は形成中の容貌である』譯者註と、簡單な形式に云ひ現はした人相上の眞理を認めた。最高の美術、卽ち神聖界に到達するため現實を超越した希臘美術は、完成された容貌の夢を私共に與へる。今猶ほ誤解を受けるほど、西洋美術よりも廣大なる日本の寫實主義は、ただ『形成中の容貌』、或は寧ろ形成中の容貌の一般法則を私共に與へるのである。

 

譯者註 これは「完成された容貌」に對していつたものである。希臘美術は理想的完成の容貌に對すゐ憧憬の夢を示してゐる。日本の寫實主義も亦殆ど理想主義と稱すべきほど、廣く一般的な趣を見せてゐるといふ趣意が、この一段に述べてある。

[やぶちゃん注:「スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。小泉八雲の引用元は捜し得なかった。【2019年11月40日:追記】先のT氏より、Essays Scientific, Political, and Speculative II”の“Personal Beauty(リンク先は“Internet Archive”の同書画像の当該ページ。左ページの中央)の以下の一節である旨、お教え戴いた。

In brief, may we not say that expression is feature in the making ; and that if expression means something, the form of feature produced by it means something?

これも感謝申し上げるものである。

 

       

 かやうにして私共は希臘美術と日本美術が、兩者同樣に認識した共通の眞理に到達した。卽ち個人的表情の無道德的意義である。して、私共が人格を反映する美術に對する歎賞は、無論無道德である。何故なら、個人的不完全の描寫は、倫理的意義に於ては、歎賞に値する題材でないから。

 眞に私共を惹きつける顏容は、内部の完全或は完全に近いものの外形に於ける相關と考へられるけれども、私共は槪して内部の道德的完全を少しも現はさないで、寧ろその反對の種類の完全を暗示するやうな人相に興味を認めてゐる。この事實は日常生活にさへも明白である。私共が秀でた蓬々[やぶちゃん注:「ほうほう」。伸びて乱れているさま。]たる眉、鋭い鼻、深く据わつた[やぶちゃん注:「すわつた」。]眼、どつしりした顎を備ヘた顏を見て、『何といふ力!』と叫ぶ場合、私共は實際に力の認識を表白してゐるのである。しかしそれはただ進擊と殘忍の本能の基をなすやうな種類の力である。私共が鷲の嘴の如く彎曲した强い顏、所謂羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]人風の橫顏を有する人物を賞賛する時、私共は實際掠奪人種の特徵を賞讚してゐるのである[やぶちゃん注:「賛」と「讚」の混在はママ。]。實際私共は單に獸性、殘酷、或は狡猾の特徵のみ存する顏を歎賞するのではない。しかしまた私共は、或る聰明の徵候と結合せる場合には、頑固、進擊性、及び苛酷の徴候を歎賞するのも事實である。私共は男らしい人格といふ觀念を、いかなる他の力の觀念よりも優さつて、進擊的の力と共に聯想するとさへ云へるだらう。この力が肉體的であらうと、或は知力的であらうとも、少くとも普通の選擇では、私共はそれを心の眞に優等なる諸能力よりも以上に評價してゐる。して、聰明なる狡猾を呼ぶのに、『明敏』といふ誇飾語[やぶちゃん注:「こしよくご」。原文は“euphemism”(ユーフォメィズム)で「婉曲法・婉曲語句」の意。但し、漢語の「誇飾」は「華麗な美文体」を意味する。]を以てしてゐる。恐らくは希臘の男性美の理想が、或る現代人に發揮された時、それは寧ろ崇高とは正反對の特徵の烈しい發達を示せる顏よりも、普通の看者[やぶちゃん注:「みるもの」と訓じておく。]に興味を與へることが少いだらう――何故なら、完全なる美の知的意義は、人間の最高なる諸能力の完全なる均衡といふ奇蹟を、鑑賞しうる人にして、始めて悟られうるからである。近代美術に於ては、私共は性の感情に訴へる婦人美を求めたり、っまたはかの父母の本能に訴へる兒童美を求めたりしてゐる。して、私共は男性の描寫に於ける眞正の美を目して、只單に不自然と呼ぶのみでなく、猶ほまた柔弱だと評するに相違ない。戰爭と戀愛は、近代生活を反映する嚴肅なる美術に於ては、依然として二つの基調をなしてゐる。しかし美術家が美或は德の理想を示さうと欲する時は、矢張り古代の知識から借用せざるを得ないといふことが認められるだらう。借用者として、彼は決して全然立派な成功を舉げることはできない。何故なら、彼は幾多の點に於て、古代希職人の程度よりも遙かに劣等人種に屬してゐるからである。或る獨逸の哲學者は、旨くいつた。『希臘人がもし現代に蘇生したならば、彼等は現代の藝術品を評して――それは全く眞を穿つた評言である――一切の部門に亙つて皆全く野蠻的であると公言するだらう』創造したり保存したりするたのためよりも、泉ろその撲滅したり、破壞したりするたのために、正々堂々と聰明と崇拜するやうな時代では、何うして藝術品が、さうならないで居られよう?

[やぶちゃん注:「或る獨逸の哲學者」不詳。識者の御教授を乞う。]

 私共自身に對しては、たしかに發揮されたくないやうな能力を、何故このやうに崇拜するのか?疑ひもなく、その主もな理由は、私共は自身に所有したいと望むものを崇拜し、また現今文明の競爭的大戰鬪に於ては、進擊力、特に知的進擊力の大價値を知つてゐるからである。

 西洋生活の瑣々たる現實と個人的感情主義の兩者を反映するものとして、西洋美術は倫理的には只單に希臘美術の下位に列するのみでなく、また日本美術にさへも劣つてゐることが見出されるだらう。希臘美術は神聖に美しいものと神聖に賢いものに對する、民族の憧憬を表はした。日本美術は人生の簡素淳朴なる快樂、形と色に於ける自然律の認識、變化に於ける自然律の認識、それから社會的秩序と自己抑制によつて調和を得たる生活といふ感じを反映してゐる。近代西洋美術は快樂の飢渴、享樂の權利に對する戰場としての人生といふ觀念、それから競爭的奮鬪に於ける成功に缺くべからざる無愛想な諸性質を反映してゐる。

 西洋文明の歷史は、西洋人の人相に書かれてゐると、いはれてゐる。東洋人の眼によつて西洋人の顏面表情を硏究するのは、少くとも興味がある。私は屢〻日本の子供に歐米の挿畫を見せて、そこに描いてある顏に關する彼等の無邪氣な批評を聞いて、自分で面白がつたことがある。これらの批評の完全な記錄は、興味と共に價値をも有するだらう。しかし今囘の目的のために、私はただ二囘の實驗の結果を提供するにとどめよう。

 第一囘は九歲の兒童に對する實驗であつた。或る夜、私はこの兒童の前へ數册の繪入雜誌を並べた。數頁をめくつてから後、彼は叫んだ。『何故外國の畫家は怖はいものを描くのが好きですか?』

 『どんな怖はいもの?』と、私は尋ねた。

 『これです』といつて、彼は投票場に於ける選舉人の一團を指した。

 『これは何も怖はくない』と、私は答へた。『これは西洋では、皆立派な繪なのだから』

 『でも、この顏! こんな顏は世界にある筈はありません』

 『西洋では當たり前の人物なのだよ。實際怖はい顏は、滅多に描かないから』

 彼は私が眞面目でゐないと思つたらしく、愕きの眼を圓くした。

 

 十一歲の少女に、私は有名な歐洲美人を現はせる彫刻畫を見せた。

 『惡るくはありませんね』といふのが、彼女の批評であつた。『でも、大層男のやうですわ。それから、眼の大きいこと!……口は綺麗ですね』

 口は日本人の人相に於ては、餘程大切である。して、この少女はその點について鑑賞の語を吐いた。私はそれから紐育[やぶちゃん注:「ニュー・ヨーク」。]の一雜誌所載の或る實景描寫の畫を彼女に示した。彼女は質問を發した。『この繪にあるやうな人達が、ほんたうにゐますか?』

 『澤山ゐる』と、私はいつた。『これは善い普通の顏で――大抵田舍者で百姓なのだ』

 『お百姓ですつて! 地獄から出た鬼のやうです』

 『何もこんな顏が惡るいことはない。西洋にはもつと非常にわるい顏があるから』と、私は答へた。

 『こんな人なら、實際見るだけでも、わたしなど死んでしまひますでせうよ』と、彼女は叫んだ。『わたしこの御本は嫌ひです』

 私は彼女の前へ日本の繪本――東海道の風景畫――を置いた。彼女は嬉しさうに手を拍いて[やぶちゃん注:「たたいて」。]、半ば見かけた私の外國雜誌を押しのけた。

 

2019/11/27

小泉八雲 日本美術に於ける顔について (落合貞三郎訳) / その「二」・「三」・「四」

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本美術に於ける顔について (落合貞三郎訳) / その「一」』を参照されたい。]

 

      

 ストレーヂ氏の論文によつで挑發された批評は、日本美術に對して正鵠を失つてゐたけれども、それは當然であつて、またその美術に對する無知とその目的の誤解を示せるものに外ならない。それは一見してその意義が讀まれるやうな美術ではない。それを正當に理解するためには多年の硏究が必要なのである。私は敢て恰も文典に於ける法及び時制のやうな該美術に於ける詳細に通曉し得たと揚言する事はできないが、しかし古い繪雙紙や、今日の安い版畫、特に繪入新聞にある顏は、私に取つて毫も非現實なものと思はれないし、況して[やぶちゃん注:「まして」。]『絕對に狂氣』じみてゐるとは思はれないと、私は附言し得るのである。それが實際私に取つて奇怪に思はれた時代もあつた。今ではいつもそれが面白く、また折々は美麗だと思ふことがある。もし他のいかなる歐洲人も、かかることを云ふものはないと、私に告げられるならば、その時、私はすべての他の歐洲人が過つてゐるのだと公言せざるを得ない。もしこれらの顏が、大部分の西洋人に取つて荒唐不稽[やぶちゃん注:「荒唐無稽」に同じい。]なものと思はれたり、或は精神のないものと見えたりするならば、それは大部分の西洋人がそれを理解しないからである。して、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]英國駐剳[やぶちゃん注:「ちゆうさつ」。外交官などが任務のために暫く外国に滞在すること。「駐在」に同じい。]日本公使閣下が、いかなる日本婦人も未だ嘗て日本の繪雙紙と安い版畫の婦人に似たことはないといふ說を欣んで承認するにしても、私は依然として承認を拒まざるな得ない。私は主張するが、それらの畫は眞實であつて、聰明、優雅、美麗を示してゐる。私は日本の繪雙紙の婦人を、あらゆる日本の街頭に見る。私は日本の繪雙紙に見出さる〻殆どあらゆる普通型の顏――子供と娘、花嫁と母、刀自[やぶちゃん注:「とじ」。もとは「戸主(とぬし)」の意で、「刀自」は当て字。年輩の女性を敬愛の気持ちを込めて呼ぶ古称。原文“matron”は「品位ある年長の既婚婦人・夫人」を指す。]と祖父、貧民と富者、美しいのや、平凡なのや、賤しげなのや――を、實地に見てゐる。もし日本に住んだことのある熟練なる美術批評家輩が、この附言を嘲笑するといふことを私に告げられるならば、彼等は最も普通の日本畫さへも理解し得るだけに、充分長く日本に住まなかつたか、または充分日本人の生活に親炙[やぶちゃん注:「しんしや(しんしゃ)」。親しく接してその感化を受けること。]しなかつたか、または充分公平にその美術を硏究しなかつたに相違ないと、私は答へる。

 

註 日本美術が理想的顏面表情に於て偉大なる成績を舉げうることは、その佛畫によつて充分に證明される。普通の版畫に於て、畫が小規模の場合には、顏の故意らしい紋切形が滅多に目につかない。して、こんな場合には、美の暗示が一層容易に認識される。しかし畫が稍〻大きくて、例へば、畫の卵形が直徑一寸以上の場合などには、緻密な細部に馴れた眼には、同一の畫法も不可解に映ずることもあるだらう。

 

 日本へまだ來ない前には、私は或る日本畫に於ける顏面表情の缺乏に對して困惑を感ずるのが常であつた。私は告白するが、その顏は當時に於てさヘ一種の不思議な魅力を有たない[やぶちゃん注:「もたない」。]ことはなかつたけれども、私から見ると、ありさうもないやうに思はれた。その後、極東に於ける經驗の最初の二年間――丁度その時期に於ては、いかなる西洋人も決して眞に悟ることのできぬ人民に關して、自分は一切のことを知りつ〻あるのだと外人は想像し易い――私は或る形狀の優雅と眞實を認め、且つ日本の版畫に於ける强烈なる色彩美を幾分感ずることができた。しかし私はその美術の一層深い意義については、何等悟得する處がなかつた。その色彩の充分なる意義さへも、私は知らなかつた。全然眞實であつた多くのことも、私は當時珍奇異風と考へてゐた。幾多の美しさを意識しつ〻も、私はその美の理由を揣摩[やぶちゃん注:「しま」。「揣」も「摩」もともに「おしはかる」意で、「他人の気持ちなどを推量すること」。忖度揣摩。]することさへもできなかつた。顏面が外見上因襲主義である場合には、さもなかつたならば驚くべき藝術的材能[やぶちゃん注:「才能」の別表記。]も、可惜[やぶちゃん注:「あたら」。古い形容詞「可惜(あたら)し」の語幹から出来た副詞。「惜しくも・残念なことに」。]發達を抑へられてゐることを示すものと私は想像した。その因襲主義は、一たび意味を闡明[やぶちゃん注:「せんめい」。明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。]すれば、普通の西洋畫が現はす以上のものを示す象徴の意味たるに過ぎないといふことが、私の念頭に決して浮かばなかつた。しかし、それは私がまだ古い野蠻的な影誓の下に留つてやたからであつた。その影響が私をして日本畫の意義に盲目ならしめたのであつた。して、今や遂に少々わかつてきてからは、私に取つて因襲的で、未だ發達を遂げざる、半野蠻なものと見えるのは、西洋の挿畫術である。英國の週報や米國の雜誌に於ける人氣の多い繪畫は、今では無味、下品、拙劣なものとして私に印象を與へる。けれども、この問題に於ける私の意見は、普通の日本の版畫と普通の西洋の挿畫とを比較した場合に限る。

 恐らくは次の如くいふ人もあるだらう。假令一步を讓つて、私の主張を承認するとしても、苟も眞正の美術は何等の解釋を要すべきでない。また、日本の作品の性質が劣つてゐるのは、その意味が一般的に認識され得ないことを是認してゐるのでも證明される。誰れでも上のやうな批評をする人は、西洋美術は何れの處に於ても同樣に理解され得るものと想像せねばならぬ。西洋美術の或るもの――その精粹のもの――は、多分さうであらう。して、日本美術の或るものも亦さうであらう。しかし私は讀者に附言し得るのであるが、普通の西洋の書籍の挿畫或は雜誌の彫刻畫は、丁度日本畫が日本を見たことのない歐洲人に於けると同樣、日本人に對してわかりにくい。日本人が普通の西洋彫刻畫を理解するには、西洋に住んでゐたことがなくてはいけない。西洋人が日本畫の眞と美と面白い氣分を悟るには、その畫の反映する生活を知らねばならぬ。

 日本協會の席上、一人の批評家は日本畫に顏面表情の缺けてあるのを因襲主義だといつて非難した。彼はこの理由に基づいて、日本美術を古代埃及人[やぶちゃん注:「エジプトじん」。]の美術と比較し、して、因襲主義の手法によつて制限を蒙つてゐるから、兩者共に劣等なものであると見倣した。しかしラオコロン譯者註を模範的美術として崇拜する現代は、希臘[やぶちゃん注:「ギリシヤ」。]美術さへ因襲主義の手法を脫してゐなかつたことを正しく認めねばならない。それは私共が殆ど企及[やぶちゃん注:「ききふ(ききゅう)」。「計画を立てて努力して到達すること」。また、「肩を並べること・匹敵すること」。ここは後者。]し得べくもない美術であつた。しかしもそれは如何なる形式の現存美術よりも更に因襲的であつた。して、その神々しい美術さへ、藝術的因襲手法の制限内に發展をそげ得たことが證明さる〻からには、形式主義といふ非難は日本美術に蒙らせるのに適はしき[やぶちゃん注:「ふさはしき」。]非難ではない。或る人は希臘の因襲手法は、美のそれであつたが、日本畫のそれには、美もなければ、意義もないと答へるかも知れない。しかしかかる說が出るのは、希臘美術は幾多近代の批評家と敎師の努力によつて、私共に取つては、私共の野蠻的先祖達に取つてよりも、稍〻一層わかり易いものとされてゐるに反し、日本美術はまだそのウンケルマン譯者註一をも、レツシング譯者註二をも見出してゐないからに過ぎない。希臘の因襲的顏面は實際生活に於ては見られない。いかなる生きた人の頭も、かほどに廣い顏面角を呈するものはない。しかし日本の因襲的顏面は、一たび美樹上に於けるその象徵の眞價値が適當に了解された曉には、到る處に見受けられる。希臘美術の顏は不可能なる完全、超人的進化を示してゐる。日本畫家の描ける一見無表情な顏は、生けるもの、實在せるもの、日常のものを現はしてゐる。前者は夢である。後者は普通の事實である。

 

譯者註 ラオコオンはトロイの神官であつたが、海神の祭式を営んでゐゐ際、二匹の蛇が海から現はれ、始めに彼の二子に捲きつき、更にそれを助けんとした彼をも捲いて、父子三人を殺した。この苦悶を表はせる有名なる群像の彫刻は、十六世紀の初、羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]に於て發見され、今は法皇宮殿に藏してある。

譯者註一 ウンケルマン(一七一七――一七六八年)は獨逸の美術批評家。希臘美術の理想的特性を闡明した彼の大著「古代美術史」は、偉大なる影響を及ぼした。

譯者註二 レツシング(一七二九――一七八一年)は獨逸の評論家且つ戲曲家。希臘藝術に關する立派な著書及び論文がある。

[やぶちゃん注:「ラオコオン」原本“Laocoön ”。ギリシア伝説に出る、トロイアのアポロンの神官。トロイア戦争の十年目に、撤退を装うギリシア軍が勇士たちをその腹中に潜ませた巨大な木馬を残して戦場を去った際、それが女神アテナへの奉納品どころか、敵の姦計に他ならないと見抜いた彼は、木馬を城内に引き入れることに反対したが、その時、海から現れた二匹の大蛇に二人の息子ともども、締め殺された。この大蛇は、彼が神官の身にも拘わらず、結婚し、子どもをもうけた罰として、アポロンが送ったとも、アテナが木馬の城内引入れに反対した彼を罰するために送ったとも言われる(平凡社「世界大百科事典」に拠る。以下は同じ平凡社の「百科事典マイペディア」から)。その三人が襲われる姿を表わした大理石彫刻「ラオコオンと息子たち」は、一五〇六年、ローマのティトゥス帝浴場跡で発見され、現在、バチカン美術館が蔵している(これ。リンク先はウィキの「ラオコオン論争」にある現物写真)。この彫刻は紀元前一世紀のロードス島の彫刻家たちによって製作されたもので、そのローマ的に過剰な悲劇性は後代に影響を与え、以下に述べるレッシングらの「ラオコオン論争」を起こした。

「ウンケルマン」ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(Johann Joachim Winckelmann 一七一七年~一七六八年)はドイツの考古学者・美術史家。貧しい靴屋の家に生れた。高等学校時代よりギリシア・ラテン語に惹かれ、一七三八年、ハレ大学に入学して神学を、一七四一年よりイエナ大学で医学を学んだ。一七四八年から一七五四年までビュナウ伯爵家の司書を務める。画家エーゼルとの交遊によってギリシア美術・文学への興味を深める。カトリックに改宗した彼は、一七五五年、国王奨学金を得、ローマへ留学、一七六三年からはバチカン図書館の古代遺物・文書の責任者となった。古代美術を讃えた処女作「ギリシア美術模倣論」(Gedanken über die Nachahmung der griechischen Werke in der Malerei und Bildhauerkunst:一七五五年)を始め、優れた研究書を発表し、古代美術史研究の創始者となったばかりでなく、古典美術を規範とするその姿勢は、同時代に於ける新古典主義の潮流を導いた。ほかに「古代美術史」(Geschichte der Kunst des Altertums:一七六四年)がある(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ウィキの「ラオコオン論争」によれば、『ヴィンケルマンは自著を通して、当時の美術の主流に対して異を唱えた。ヴィンケルマンは精密な観察に基づいた記述を重視し、そこから得た知覚的印象から実質的及び帰納的に美の法則を打ち立てようとした』。『その際彼が基準としたのは古典、特に古代ギリシア美術の模倣であった』とある。

「レツシング」ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing 一七二九年~一七八一年)はドイツの劇作家・批評家。彼のウィキによれば、『ドイツ啓蒙思想の代表的な人物であり、フランス古典主義からの解放を目指し、ドイツ文学のその後のあり方を決めた人物である。その活動は、ゲーテ』・シラー・カント・ヤコービ・メンデルスゾーンなどの当時のドイツ文学者・思想家に『多大な影響を及ぼした。西洋近代の転生説を最初に明記した人物と言われており、この転生思想は現代日本への影響も大きい』とある。彼にはまさに「ラオコオン」(Laokoon)と題した芸術論があり(一七六六年発表)、これは先のヴィンケルマンの一七五五年の「ギリシャ美術模倣論」でのラオコーン像賛美に挑んだものであった。トロイアの神官ラオコオンの非業の死を表わした例の大理石群像と、この出来事を歌ったウェルギリウスの詩句との比較を手がかりとして、〈絵画(美術一般)と文学との限界〉に就いて説いたもので、両者は、古来、謂い慣わされてきた近親関係にも拘わらず、模倣の対象・媒体材料・技法を異にし、「絵画」は〈空間に並存する物体を形と色に依って〉、「文学」は〈時間とともに継起する「行為」を分節音(言語)に依って〉描くものだと規定した。それ故に、「絵画」が〈行為〉を、「文学」が〈物体〉を描いて美的効果をあげるためには、それぞれに特殊な工夫を必要とするとするもであった(以上は平凡社「世界大百科事典」その他に拠った)。]

 

       

 日本畫に、一見した處、人相上の因襲主義があるのは、個性を類型に、個人の人格を一般的人道に、細部を全體の感情に從屬せしめるといふ法則で、一部分を說明する事ができる。エドワード・スレーンヂ氏は、この法則について幾分日本協會に敎へようと試みたが、誤解されて無效に歸したのであつた。日本畫家は、例へば一匹の昆蟲を描くとして、そのやうにはいかなる歐洲畫家も描き得ない。彼はそれを生かしてみせる。彼はその獨得の運動、その性質、すべてそれによつて一目類型として識別さる〻ものを見せる――しかも筆を揮ふこと僅に數囘にして一切これを成就する。けれども彼は、その一枚一枚の翅面に、一本一本の翅脈を現はしたり、その觸角の各關節を示したりすることはない。彼は細密に硏究したやうにではなく、實際一目で見たま〻のやうに描き出す。私共は蟋蟀や蝶や蜂が何處かに止まつてゐるのを見る瞬間に、一切その身體の細部を決して見るものではない。私共はただいかなる種類の動物であるかを、決定するに足りるだけのことを觀察する。私共は類型的のものを見て、決して各個的特異の點を見ない。だから日本の畫家はただ類型だけを描く。一々の細部を再現するのは、典型的の性質を各個的特異に從屬させることになるであらう。極めて綿密な細部は、細部の認識によつて、類型を卽時に認識することが助けられる場合の外は、滅多に現はされてゐない。例へば、一本の光線がたまたま蟋蟀

 

註 彫刻の場合に、これに異つてゐる、骨や角や象牙に刻まれ、また適當に賦彩されたる昆蟲の作品は、これを手に取つて見るとき、重量以外の點では、眞正の昆蟲と殆ど區別のできぬことも往々ある。しかし絕對的寫實主義はただ骨董的で、美術的ではない。

 

の脚の關節に當つたり、或は蜻蛉の甲から複色の金屬的閃光を反射したりする場合である。これと同樣に、花を描くに際して、畫家は一個特殊の花でなく、類型的の花を描く。彼は種族の形態學的法則、卽ち象徵的に云へば、形狀の裏面に潜める自然の思想を示すのである。此手法の結果は、科學者をも驚嘆せしめることがある。アルフレツド・ラツスル・ウオラス氏は日本畫家の描いた植物寫生集を、氏が從來見た、もののうちで、『最も優秀だ』といつてゐる。『一莖、一枝、一葉、悉く一氣呵成に一と筆でできてゐる。極めて複雜なる拉物の性質と配景が、天晴れ巧みに描かれ、また莖と葉の關節は最も科學的に示されてゐる』(圈點は私が施したものである)ここに注意すべきことは、その作品は『一と筆でできて』ゐて、簡單そのものであり乍ら、しかも現存最大博物學者譯者註の一人の意見によれば、『最も科學的だ』といふことである。して、その故は如何? それは類型の性質と類型の法則を示すからである。それから、また岩石と絕壁、丘陵と原野を描くに當つて、日本畫家は一般的性質を示すのみで、人に倦怠を與ふるやうな塊團の細部を寫さない。しかも細部は大要の法則の完全なる硏究によつて、うまく暗示されてゐる。更に日本畫家の日沒及び日出の描寫に於ける色彩硏究を見るがよい。彼は決して視界内のあらゆる緻密なる事實を現はさうと試みないで、私共に與へるのに、ただかの偉大な明かるい色調と彩色の混和を以てする。それは他の幾多の些々たることどもが忘れられた後にも、依然として記憶裡に徘徊し、して、見たものの感じをその裡に再び作るのである。

 

譯者註 ウオラス氏を指す。ダーウヰンとは全然獨立に、しかも暗合的に、自然淘汰說を發見した人(一八二二――一九一三年)

[やぶちゃん注:「アルフレツド・ラツスル・ウオラス」アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)は、『イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を行った。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした』十九世紀の『主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる』。『心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人ねつ造事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともなった』。『イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は』「マレー諸島」(The Malay Archipelago)として一八六九年に出版され、十九世紀の『科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった』(ウィキの「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」の冒頭概要のみ)。彼に就いては、「ナショナルジオグラフィック」(二〇〇八年十二月号)の「特集:ダーウィンになれなかった男」が詳細にして核心を突いており、お薦めである。ダーゥインとの関係については、私の「進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(5) 五 ダーウィン(種の起源)」を参照されたいが、私の注はかなり長い。なお、小泉八雲の引用は、彼の「マレー諸島」の二十章「アンボイナ」(ⅩⅩ:AMBOYNA)の一節である。

 

 さて、美術のこの一般的法則は、日本の人身描寫と、また(この場合には他の諸法則も亦働くのであるが)人面描寫にも適合する。一般的の型が描かれ、しかも最も巧妙な佛國の[やぶちゃん注:「フランスの」の意。]寫生家でさへ、往々殆ど競爭し難きほど力强く描かれてゐる。個人的特異は示されてゐない。諷刺畫の滑稽氣分や演劇の描寫に於て、顏面的表情が强烈に現はれてゐる場合にさへ、それは個人的特徵によつてでなく、一般的類型性によつて現はされてゐる。恰も古代の舞臺上で希臘の俳優によつて、形式的假面を用ひて現はされたやうに。

 

       

 普通の日本畫に於ける顏の描寫法について、二三の槪說を試みたなら、その描寫法の敎へることを理解するに助けとなるだらう。

 人物の若さは主要な筆觸[やぶちゃん注:「ひつしよく(ひっしょく)」。「絵画などに於いて筆捌きによって生じた色調やリズム感などの効果」だが、これはもう英語原単語の方がよい。“touches”。「タッチ」である。]數本だけで濟まして、顏と頸のさつぱりした滑らかな曲線を以て現はしてある。眼と鼻と口を暗示する筆觸の外には、何等の線もない。曲線が充分に肉のたつぷりした豐富さと滑らかさと圓熟を語つてゐる。物語の挿繪としては、年齡または境遇は、髮の結び方と衣服の樣式で示されてゐるから、容貌を細密に現はすに及ばない。女の姿に於ては、眉毛のないことが、妻または寡婦たることを示し、亂れ髮は悲みを見せ、惱める思ひは、まがふ方なき姿勢と手振りに現はれてゐる。實際髮と衣裳と態度が殆ど一切のことを說明するに足つてゐる[やぶちゃん注:「たつてゐる」。足りている。]。しかし日本畫家は容貌を示す五六本の筆觸の方向と、位置に於ける極めて微妙なる變化によつて、性格の同情的皮は非同情的なるかをほのめかす方法を知つてゐる。して、この暗示は日本人の眼では決して看過されることはない。また、これらの筆觸を殆ど目につかぬほど堅くしたり、柔らかくしたりすることは、精神的意味を有してゐる。それでも、これは決して個人的でなく、ただ人相上の法則の暗示に過ぎない。未成年の場合(男兒や女兒の顏)には、單に柔らかさと溫和さの一般的表示がある――幼兒の具體的愛嬌よりは、寧ろ抽象的魅力が現はれてゐる。

 

註 日本の現今の新聞祇の挿繪に於ては(私は特に「大阪朝日新聞」の小說欄に挿める[やぶちゃん注:「はさめる」。]立派な木版畫を指すのである)、これらの暗示は馴れた西洋人の眼にさへも全然よくわかる。[やぶちゃん注:改行はママ。]

私はここに一つの珍らしい事實を想起する。私にそれが日本に關する如何なる書物にも書いてあつたのを讀んだ記憶を有たない。新來の西洋人は往々日本人について、その甲乙を區別し難いことをこぼしてゐる。して、この困難を日本人種に於ける人相の强き特徵の缺乏に歸してゐる。彼は私共西洋人の一層鋭い特徵ある人相が日本人に取つては全然同樣な結果を呈することを想像してゐない。幾多の日本人が私に云つた。「長い間、私は西洋の甲乙を區別するのが、非常に困難でした。いづれの西洋人も皆私には一樣に見えました」

 

 今一層成人となつた型の描寫に於ては、線が一層數多く、また一層强められてゐる――これは性格が中年に於ては、顏面筋肉の現はれ始まるに從つて、必然更に顯著になつてくるといふ事實を證してゐる。しかしここには單にこの變化の暗示があるだけで、何等個性の硏究は現はれてゐない。

 老人を現はす場合には、日本畫家はすべての皺、窪み、組織の萎縮、目尻の皺、白髮、齒が拔けた後に生ずる顏の輪線の變化を描く。男女老人に性格が現はれてゐる。一種のやつれた美はしさを有する表情、情深い諦めの顏つきによつて私共を欣ばすやうなのもあれば、また殘忍な狡猾、貪欲或は嫉妬の面色によつて私共に嫌惡の感を起こさせるのもある。老年の型は澤山ある。しかしそれは人生の狀態の諸型であつて、個人のそれではない。その畫は或る標本から描かれたのでなく、個人存在の反映ではない。その價値は、その畫が一般的人相上或は生物學上の法則について示せる認識から生ずるのである。

 顏面表情の點に於て、日本美術が遠慮勝ちであるのは、東洋社會の倫理と一致するといふことを、この場合注意する價値がある。出來得る限りあらゆる個人的感情を隱し、外面には微笑を含んだ愛嬌や平然たる諦めの風を見せつつ、苦痛と激情をかくすのが、長い年代の間、行爲の法則であつた。日本美術の謎に對する一つの關鍵[やぶちゃん注:「くわんけん(かんけん)」。もと「閂(かんぬき)と鍵」で「戸締り」の意、更に転じて「物事の最も重要なところ・要点」。]は、佛敎である。

 

小泉八雲 日本美術に於ける顔について (落合貞三郎訳) / その「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ABOUT FACES IN JAPANESE ART”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第五話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郎訳)」の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。注は四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「!」「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。全六章あり、冒頭から底本の誤りが多く、注が増えたので、分割して示す。]

 

     第五章 日本美術に於ける顏について

 

       

 國民文庫(ナシヨナル・ライブラリー)に於ける日本美術蒐集品に關する頗る興味ある論文が、昨年倫敦[やぶちゃん注:「ロンドン」。]に催されたる日本協會(ジヤパン・ソサイテイー)の席上で、エドワード・ストレーンヂ氏によつて朗讀された。ストレーンヂ氏は日本美術に對する同氏の鑑賞を證明するのに、日本美術の諸原理――細部の描寫を或る一つの感覺、または觀念の表現に隷屬せしむること、特殊を全般に隷屬せしむること――の解說を以てした。氏は特に、日本美術に於ける裝飾的要素及び彩色印刷の浮世繪派について述べた。一部僅に數錢を値する小册子に示さる〻日本の紋章學さへも、『普通の形式的裝飾の意匠に於ける敎育』を含んでゐると、氏は說いた。氏は日本の形板(かたいた)版意匠の非常なる工業的價値に論及した。氏は日本の手法の周到なる硏究によつて、書物の挿畫法の上に得らるべき利益の性質を說明しようと試みた。して、氏はオーブリ・ビアズリー譯者註一、エドガア・ヰルスン、スタインレン・イベルス、ホツスラー譯者註二、グラッセット・シユレー、及びラントレックのやうな諸美術家の作品に於ける、これらの手法の影響を舉げた。最後に、氏は或る日本の原理と印象主義の現代西洋に於ける一派の主張の一致を指摘した。

 

譯者註一 ビアズリー(一八七四――一八九八年)は、千九百年代に於ける、英國の世紀末文藝潮流の一つなる、耽美主義頽廢派の作家と提携し、書籍雜誌の挿繪に鬼才を發揮した人。

譯者註二 ホツスラー(一八三四――一九〇三年)は、米國に生まれ、巴里[やぶちゃん注:「パリ」。]に學び、英國に定住した色彩畫家。銅版印刷術に最も妙を得た。

[やぶちゃん注:「國民文庫(ナシヨナル・ライブラリー)」“the National Library”。これは複数あるイギリスの国立の美術館「the National Art Library」や博物館・図書館のことを指すのではなかろうか。大英博物館以来、近現代、複数の箇所のイギリスの国立の美術館に日本美術コレクションがあり、例えば、「日文研」の「外像」データベースのこちらに、ここに出る絵画研究者ストレンジ氏の一八九七年の論文「日本の挿絵:日本における木版画と色摺り版画(浮世絵版画)の歴史」の「勝川春章『おだまき』を演じる女形の役者」の画像に、「サウス・ケンジントン博物館国立美術図書館所蔵の版画より」(Katsugawa Shunsho. Actor in the principal female part of the play "Udamaki." From a print in the National Art Library. South Kensington Museum.)とあることなどから、そう推測した。平井呈一氏も恒文社版「日本美術における顔について」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)でただ『国立美術館』と訳されており、特定の単立の美術館を指していないように読めるからでもある。

「昨年」本書刊行の前年であるなら、一八九六年。

「日本協會(ジヤパン・ソサイテイー)」“The Japan Society”。イギリス・ロンドンに本部を置く日英の交流促進に携わる非営利組織「ロンドン日本協会」。一八九一年(明治二十四年)に創設された、ヨーロッパと日本とを結ぶ協会としては、最も古い組織である。

「エドワード・ストレーンヂ」エドワード・フェアブラザー・ストレンジ(Edward Fairbrother Strange 一八六二年~一九二九年)。英文のこちらの彼の論文リストを見ると、多岐に亙る美術品批評研究を行っている人物であることが判る。

「オーブリ・ビアズリー」イギリスのイラストレーターで、詩人・小説家であったオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley 一八七二年~一八九八年)。『ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する存在。悪魔的な鋭さを持つ白黒のペン画で鬼才とうたわれたが、病弱』で二十五歳の若さで亡くなった(ウィキの「オーブリー・ビアズリー」に拠る)。

「エドガア・ヰルスン」今は忘れられているイギリスのイラストレーターであるエドガー・ウィルソン(Edgar Wilson 一八六一年~一九一八年)。英文ブログ「WormwoodianaLost Artists - Edgar Wilsonを参照されたい。小泉八雲の本篇についても触れられてある

「スタインレン・イベルス」「スタインレン・イベルス」なる画家はいない。これは原本から見て(単語の字空けが他の作家の姓名のそれと異なって有意に空いている)、“Steinlen,  Ibels”のコンマの脱落で、二人の画家名である。前者は、フランス出身のイラストレーターであるセオフィル・アレクサンドル・スティンレンThéophile-Alexandre Steinlen 一八五九年~一九二三年)であろう。フランス語サイトのこちらに年譜がある。一方、後者は、フランスの画家・イラストレーターで、十九世紀末のパリで活動した前衛的芸術家集団「ナビ派」(Les Nabis:ヘブライ語で「預言者」の意)の画家の一人であるアンリ=ガブリエル・イベルスHenri-Gabriel Ibels 一八六七年~一九一四年)である。平井呈一氏も恒文社版では無批判に『スタンレン・イベルス』とフルネームでとってしまわれておられる。

「ホヰツスラー」アメリカの画家・版画家ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler  一八三四年~一九〇三年)である。彼は主にロンドンで活動し、彼のウィキによれば、『印象派の画家たちと同世代であるが、その色調や画面構成などには浮世絵をはじめとする日本美術の影響が濃く、印象派とも伝統的アカデミズムとも一線を画した独自の絵画世界を展開した』とある。

「グラッセット・シユレー」ここは原文がちゃんとGrasset,  Cheret,となっているのを、落合氏が見落として誤訳したか、誤植でこうなってしまった誤りである。前者は、スイスの装飾芸術家ウジェーヌ・グラッセEugène Grasset 一八四五年~一九一七年)で、「ベル・エポック」Belle Époque:フランス語で「良き時代」。概ね十九世紀末から第一次世界大戦勃発(一九一四年)までのパリが繁栄した華やかな時代及びその文化を回顧して用いられる後代の呼称)の期間、パリで様々なデザイン分野に於いて活躍し、「アール・ヌーヴォー」Art nouveau:十九世紀末から二十世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に活発化した国際的美術運動。フランス語で「新しい芸術」の意)の先駆者とされる芸術家である。一方、後者は、フランスの画家でリトグラフ作家・イラストレーターであったジュール・シェレJules Chéret 一八三六年~一九三二年)で、特にポスター分野では大変な人気作家となった。彼も「アール・ヌーヴォー」の先駆者の一人とされる。平井呈一氏は恒文社版で『グラッセ、シュレ』とちゃんと別人として示しておられる。

「ラントレック」言わずと知れたフランスの画家アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ―ロートレック―モンファ(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa 一八六四年~一九〇一年)。]

 

 かかる講演は英國に於ては、大抵反對の批評を挑發しないでは止まないだらう。何故なら、それは一種の新しい思想を暗示したからである。英國の輿論は思想の輸入を禁じはしない。もし新鮮なる思想が始終提供されないならば、一般社會は不平を訴へることさへもある。しかしその新思想の要求は攻勢的である。社會はそれらの思想に向つて知的戰鬪を試みようと欲する。新しい信仰或は思想を、鵜呑みに受け容れしめようと勸說したり、一躍直に結論に達するやう賺かす[やぶちゃん注:「すかす」。]のは、山岳をして牡羊の如く跳躍せしめようとするに異らない。もし『道德的に危險』と思はれない思想ならば、社會は欣んで說得さる〻ことを欲するが、しかし劈頭第一に、その斬新なる結論に到達せる心的徑路の一步一步が、絕對的に正確なることを認めねば承知しないのである。日本美術に對するストレーンヂ氏の正當ではあるが、しかし殆ど熱情橫溢の槪[やぶちゃん注:「おほむね」。]ある賞讃が、論諍なくして通過するといふことは、固より有りうきべくもなかつた。それにしても、日本協會の連中から異議が起こらうとは、誰れ大も豫期しなかつたであらう。しかし協會の報告によつて見れば、ストレーンヂ氏の意見は、該協會によつてさへも、いつもの英國流の態度を以て迎へられたことがわかる。英國の美術家が日本人の手法を硏究して、或る重要なことを學びうるだらうといふ考は、實際に嘲笑を浴びせられた。それから、會員諸氏が加へた批評は、その論文の哲學的部分が誤解されたか、或は注意を惹かなかつたかといふことを示した。或る一紳士は、無邪氣に不平を洩らして、彼は『何故に日本美術は、全然顏面の表情を缺いてゐるか』を想像し得ないといつた。また他の一紳士は、日本の浮世繪にあるやうな婦人が、決してこの世にありうべくもないと附言し、して、彼はそれに描かれた顏は、『絕對に狂氣』であると說いた。

 それから當夜の最も奇々怪々な事件がつづいて起こつた――それは日本の公使閣下が、それらの反對說に確證を與へ、且つこれらの版畫は『日本に於てはただ通常なものと見倣されてゐる』と、辨解的言說を添へた事であつた。通常なもの! 昔の人々の判斷では、恐らく通常であつたらうが、今日に於ては審美的贅澤品なのだ。論文に舉げられた美術家は、北齋、豐國、廣重、國芳、國貞などの珍重すべき人々であつた。しかし公使閣下は、この問題を瑣末なものと考へたらしい。その證據には、彼は機に乘じて愛國的ではあるが、突然にも話頭を轉じて會員の注意を戰爭の方に向かはしめた。此點に於て彼は日本の時代精神を忠實に反映してゐる。現今日本の時代精神は、外國人が日本の美術を賞めるのを殆ど我慢が出來ないのである。不幸にも、目下のいかにも正當にして且つ自然なる軍事的自負心に支配されてゐる人々は、大軍備の擴張と維持は――最大の經濟的用心を以て行はれない限り――早晚國家的破產を促すと共に、國家將來の產業的繁榮は、同民的美術感の保存と養成によること尠からぬといふことを反省してゐない。否、日本が用ひてその最近の戰勝を得た手段材料は、公使閣下が何等の價値をも附することなかつたらしい美術感そのものの通商的結果によつで、主もに購はれたのであつた。日本はいつまでも續いて、その美術觀念にたよらねばならぬ。かの花莚の製造の如き、平凡な產業方面に於てさへもさうである。何故なら、單なる低廉製品の默に於ては、日本は支那よりも安く賣ることは決してできないだらうから。

[やぶちゃん注:「日本の公使」明治二九(一八九六)年当時のイギリス公使は青木周蔵(天保一五(一八四四)年~大正三(一九一四)年)で、ドイツ公使兼任であった。ウィキの「青木周蔵」によれば、『外交官としての青木の半生は条約改正交渉に長く深く関わり、外交政略としては早くから強硬な討露主義と朝鮮半島進出を主張し、日露戦争後は大陸への進出を推進した』とある。

「彼は機に乘じて愛國的ではあるが、突然にも話頭を轉じて會員の注意を戰爭の方に向かはしめた。此點に於て彼は日本の時代精神を忠實に反映してゐる。現今日本の時代精神は、外國人が日本の美術を賞めるのを殆ど我慢が出來ないのである。不幸にも、目下のいかにも正當にして且つ自然なる軍事的自負心に支配されてゐる人々は、大軍備の擴張と維持は――最大の經濟的用心を以て行はれない限り――早晚國家的破產を促すと共に、國家將來の產業的繁榮は、同民的美術感の保存と養成によること尠からぬといふことを反省してゐない」」一八九六年直近の「戰爭」は日清戦争で、明治二八(一八九五)年四月十七日に終わったが、台湾割譲を受けてその平定を終えた一八九五年十一月三十日を広義の終結と見るならば、話しとしておかしくない。この頃、日本はアジアの近代国家として認められ、国際的地位が向上し、巨額の賠償金は国内産業の発展に活用されて、日本はまさに本格的な工業化の第一歩を踏み出した頃であったからである。

「花莚」(はなむしろ)。麻糸又は綿糸の撚(よ)り合せ糸を経(たて)糸とし、緯(よこ)糸には畳表に用いるイグサを各種の色に染めて模様を織り込んだ織り物。製品の殆んどは敷物用で、花茣蓙(はなござ)とも呼ぶ。岡山・広島・福岡県を名産地とする。]

 

小泉八雲 塵 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“DUST”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第四話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郎訳)」の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。標題の添え辞は三字下げポイント落ちであるが、ブラウザの不具合を考えて行頭まで引き上げてポイントを落とした。一部の「!」「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。また、途中に漢字の書き方が画像で入るが、上記の“Project Gutenberg”版にある画像を使用して、当該部に挿入した。]

 

      第四章 塵

 

『菩薩は、一切のものを空間の性質を有すると見做すべきである――永遠に空間に等しきものとして。本質なく、實體なく』――『サッダアールマ・ブンダリーカ』經句

[やぶちゃん注:「サッダアールマ・ブンダリーカ」原文“SADDHARMA-PUNDARÎKA.”。「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」(現行のサンスクリット語ラテン文字転写は「Saddharma Puṇḍarīka Sūtra」)は「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意味の漢訳での総称で、サンスクリット語原題の『意味は、「サッ」(sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」だけが省略されて、例えば鳩摩羅什』(くらまじゅう)『訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である』と、ウィキの「法華経」にある。引用の漢訳原文は「序品第一」の一節で、「或見菩薩 觀諸法性 無有二相 猶如虚空」(或いは、菩薩の諸法の性は、二相有ること無し。猶ほ虛空のごとしと觀ずるを見る。)である。]

 

 私は町はづれまでぶらぶら散步した。私の通つて行つた町は、でこぼこになつて田舍街道となつた。それから、山の麓の小部落の方へ向つて、田圃の中を經て曲つてゐた。町と田圃の間に、建物のない廣漠たる地面があつて、子供の好きな遊び場所となつてゐる。そこには樹木があり、ごろごろ轉がり遊ぶによい草地があり、小石も澤山ある。私は立ち止つて子供達を眺めた。

 路傍で、濕つた粘土を弄つて[やぶちゃん注:「いぢつて」。]面白がつてゐるのがある。小規模の山や川や田の形、小さな村落、百姓の小屋、小さな寺、池や彎曲した橋や石燈籠のある庭、それから、石の破片を碑石とした小さな墓地――こんなまで粘土で作つてゐる。彼等はまた葬式の眞似をする――蝶や蟬の死骸を土に埋めて、塚の上で經文を讀む風をする。彼等も明日はこんなことを敢てしないだらう。何故なら、明日は死人の祭の初日だからである。盆の祭の間は、昆蟲類をいぢめることは嚴禁されてゐる。特に蟬を苦しめてはいけない。或る蟬の頭上には、小さな赤い文字があつて、亡靈のもだといはれてゐる。

[やぶちゃん注:後の『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「一」』でもこれを小泉八雲は註で述べているのであるが、私はそれがどの種を指し、どのような模様をそのように見、その文字は何を意味するのか、不学にして知らない(平井呈一氏は恒文社版「塵」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『戒名』と訳しておられる。これは想像だが、しかし多様な模様とは思われないから、私は梵字の種子(しゅじ)を指すのではないかと秘かに思ってはいる)。識者の御教授を乞うものである。「赤い」と言うならヒグラシであるが……。]

 どこの國の子供も、死の眞似ごとをして遊ぶ。人格的個性の念が起こつてこないうちは、死といふことを眞面目に考へることはできない。して、この點に於ては、子供の考へ方が、自意識を有する成人よりも、恐らくは一層正鵠を得てゐるだらう。無論、もし或る晴天の日、これらの子供達が、遊び仲間の一人は永久に去つてしまつた――他の場所で再生するために去つて行つたと告げられるならば、漠然ながらも眞實に損失の念を感じ、はでやかな袖を以て、幾たびも目を拭ふこととなるだらう。しかし間もなく、損失は忘れられ、遊戲は復た開始されるだらう。物の存在がなくなるといふ觀念は、子供心にはなかなかわかりかねる。蝶や鳥や花や葉や樂しい夏そのものも、ただ死ぬる事の眞似をやつてゐるのだ――彼等は去つてしまつたやうでも、雪が消えてから、すべてまた皆歸つてくる。死に對する眞の悲哀と恐怖は、疑惑及び苦痛に對する經驗を徐々に積んだ後、始めて私共の心中に起こつてくるのである。して、これらの男兒や女子は日本人であり、また佛敎徒であるから、死について、讀者諸君や私が感ずるやうには、將來決して感ずることはないだらう。彼等は誰れか他人のためには、それを恐怖すべき理由を見出すだらうが、彼等自身のためには決して見出さないだらう。何故なら、彼等は既に幾百萬遍も死んできてゐるので、丁度誰れでも引き續いた齒痛の苦を忘れる通り、その苦痛を忘れてゐるだらうからである。花崗岩にまれ、蛛網[やぶちゃん注:「くものす」と当て訓しておく。]の絲にまれ、すべての物質は、幽靈のやうなものだと敎へる彼等の信條のあやしくも透徹せる先に照らしてみれば――恰も最近發見されたエックス光線が、筋肉組織の不思議界を照明する如くに――この現在の世界は、彼等が子供時代に作つた粘土の風景に於けるよりは、一層大きな山や川や田はあつても、彼等に取つて更に一層現實なものと思はれることはないだらう。して、恐らくは更に一層現實なものではあるまい。

[やぶちゃん注:「最近發見されたエックス光線」X線はドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲン(Wilhelm Conrad Röntgen 一八四五年~一九二三年)が本書刊行の二年前の、一八九五年十一月八日に発見した特定の波長域(0.01~数百Å)を持つ電磁波。彼はこの功績によって一九〇一年の第1回ノーベル物理学賞を受賞している。「X」という呼称の由来は数学の「未知数」を表わす「X」で、レントゲンの命名に由る。]

 この考が浮かぶと共に、私は不意に輕い打擊を覺えた。これは私のよく馴れてゐる打擊である。して、私は物質非實在の思想に襲はれたのだと知つた。

 

 この萬物空虛の念は、ただ大氣の溫度が、生命の溫度と頗る均等なる關係狀態を呈して、私が肉體を有してゐることを忘れるやうな場合にのみ起こつてくる。寒氣は堅强といふ苦しい觀念を促す。寒氣は個人性といふ迷想を鋭くする。寒氣は主我慾を盛んならしめる。寒氣は思想を麻痺させる。して、夢の小さな翼を縮めてしまう。

 今日は溫かい、靜かな天氣で、一切のものをありのま〻に考へることのできるやうな日だ――海も山も野も、その上を蔽へる靑い空虛の穹窿に劣らず現實らしくない。すべてのものが蜃氣樓だ――私の肉體的自我も、日光にてらされた道路も、眠さうな風のもとにゆるく漣波[やぶちゃん注:「さざなみ」。]をうつてゐる穀物も。稻田の靄氣[やぶちゃん注:「あいき」だが「もや」と当て訓しておく。]の向うにある草葺の屋根も、それから遠く一切のものの後にある、山骨[やぶちゃん注:「さんこつ」。山の土砂が崩れ落ちて岩石の露出した部分。ガレ場。]の露はれた丘陵の靑い皺も。私は私自身が幽靈であるといふ感じと、また幽靈に襲はれてゐるといふ感じの、二重の感じを有つてゐる――世界といふすばらしく明かるい幽靈に襲はれて。

 

 その野原には男や女が働いてゐる。彼等は色彩を帶びたる動く影だ。して、彼等の足の下の土――それから彼等は出でたのだ、して、またそれへ歸つて行くだらう――も同樣に影だ。ただ彼等の背後に潜める、生殺の力こそ眞實なのだ――隨つで見えないのだ。

 夜がすべての更に小さな影を呑み込んでしまう如く、この幻像的な上は畢竟私共を呑み込んで、それからそのま〻消滅してしまうであらう。しかし小さな影も、その影を喰べたものも、その消えたのと同樣確實に、また現はれるにきまつてゐる――何處かで、何とかして、復た物質化するに相違ない。私の足の下のこの土地は、天(あま)の河と同じほどに古い。それを何と呼ばうとも――粘土といひ、土壤といひ、塵土といつても――その名は單に何等それとは共通性なき人間の感覺の象徵に過ぎない。實際それは名がなく、また名を附することもできない。ただ勢力、傾向、無限の可能性の團塊である。何故なら、それはかの際涯なき生死の海が打ちよせて作つたものだからである――生死の海の巨濤は、永遠の夜から密かに波を打ち乍ら、碎けて星の泡沫[やぶちゃん注:「しぶき」。]と散つてゐるのだ。それは無生命ではない。それは生命によつて自らを養ひ、また有形の生命がそれから生ずる。それは業報の塵土であつて、新しい結合に入らうと待ちかまへてゐる――佛者が中有[やぶちゃん注:「ちゆうう」。]と稱する、生と生の中間狀態に於ける、祖先の塵土である。それは全く活力から作られてゐる。して、活力以外の如何なるものからも作られてゐない。しかもそれらの活力は、單にこの地球だけのものでなく、數へきれぬほどの既に消滅し去つた世界の活力を含んでゐる。

[やぶちゃん注:「中有」は「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「陰(いん)」・「有(う)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

 苟も目に見えるもの、手に觸れうるもの、量りうべきもので、嘗て感性の混じたことのないものがあるか――快樂或は苦痛につれて振動したことのない原子、叫び或は聲でなかつた空氣、淚でなかつた點滴があるか。たしかにこの塵土は感じたことがある。それは私共が知つてゐる一切のものであつた。また幾多私共が知り得ないものでもあつた。それは星雲や恒星であつたり、惑星や月であつたことが、幾たびであつたか云ひつくせない。それはまた神でもあつた――太陽の神であつて、邈乎[やぶちゃん注:「ばくこ(ばっこ)」。① 遙かに遠いさま。年代の遠く隔たるさま。]たる昔の時代に於て、多くの世界がそれをめぐつて拜んだのであつた。『人よ、汝はただ塵に過ぎざることを記憶せよ』――この語はただ物質主義說としては深遠であるが、その見解未だ皮相の域を脫してゐない。何故といふに、塵はどんなものか。『塵よ、汝は太陽たりしことを記憶せよ。また再び太陽となるべきことをも記憶せよ……汝は光明、生命、愛たりしなり。而して今後また、永劫不斷の宇宙的魔法により、必らず幾たびも斯く變化せん』

 

 何故なら、この宇宙といふ大幻像は、單に發展と滅亡の交替以上のものであるからである。それは無限の輪𢌞である。それは果てしなき轉生である。かの古昔の肉體復活の預言は、虛僞ではなかつた。それは寧ろあらゆる神話よりも大きく、あらゆる宗敎よりも深い眞理の豫表であつた。

 幾多の太陽は、彼等の炎の生命を失つてしまう。しかし火の消えた彼等の墓から、また新しい幾多の太陽が元氣よく現はれてくる。幾多の滅んだ世界の死骸は、すべて或る太陽の作用による火葬檀へ移つてゆく。しかし彼等自身の灰燼から、彼等はまた生まれる。この地球の世界も滅びるにきまつてゐる。その海洋は悉く幾多サハラの沙漠を現出することとなるだらう。しかしそれらの海洋は、嘗ては太陽のうちに存してゐたのである。して、その枯死した潮流は、火によつて生き返されて、また別世界の海岸に轟々たる波を打ち寄せるであらう。轉生と變形――これらは寓話ではないのだ! どんなことが不可能だらう? 鍊金術者と詩人の夢は、決して不可能ではない――實際鐡渣[やぶちゃん注:鉄の滓(おり)・沈殿物。]を黃金に、寶玉を生ける眼に、花を肉に變化することができる。どんなことが不可能だらうか? もし海洋が世界から太陽へ、太陽からまた世界へと移つて行くことができるならば、死滅した個性の塵土――記憶と思想の塵土は、どうなるだらうか? 復活は存在する――しかし西洋の信仰で夢想されてゐるいかなるものよりも、一層偉大なる復活だ。死んだ感情は、消滅した太陽や月と同じく確實に復活するであらう。ただ私共が現今認知しうる限りでは、全然同一個性の復歸といふものはないだらう。再現はいつも以前存在してゐたのを再び結合したもの、類緣のものを整理したもの、前世の經驗の滲みこんだ生命が更に完成されたものであるだらう。宇宙は業報である。

 

 自身は無常だといふ觀念から私共が畏縮するのは、單に迷妄と痴愚のためである。何故なら、元來私共の個性とは何であるか。極めて明白に、それは毫も個性ではない。それは數へ盡くされぬほどの複雜性である。人間の身體はどんなものか。幾萬億の生ける實體から作られた形態、細胞と呼ばる〻個體の一時的の聚團である。それから、人間の靈魂はどんなものか。幾億兆の靈魂の複合物である。私共は一人殘らず悉くみな、以前に生きてゐた生命の斷片の、限りなき複合物である。して、絕えず人格を分解させては、また構成する宇宙的作用は、私共一人一人の上に恆久に行はれ、また現在の瞬間にも行はれてゐる。いかなる人でも、嘗て全然新しい感情、絕對に新しい思想を有したことがあるか。私共の一切の感情と思想と希望は、いかに人生の移り行く季節を通して變化し生長するにしても、ただ他の人々――大部分は死滅した人々、幾億兆の過去の人々――の感覺と觀念と欲望の集合と再度の集合に過ぎない。細胞と靈魂はそれら自身、再度の集合であつて、過去に於てさまざまの力の編まれたのが、更に現在に於て聚結せるものである――それらの力に就いては、それは宇宙間一切の幻影を作る造物主のものだといふことを除いては、何事もわかつてゐない。

 諸君が(私が諸君といふのは、靈魂の他の聚團――私のよりも外の聚團を意味する)果たして眞に一個の聚團として不滅を願ふか否か、私は附言する事ができない。しかし私は告白するが、『わが心はわれに取つて一王國なり』ではない。寧ろそれは奇怪なる共和國である。それは南米諸共和國に頻發する革命騷動によるよりも、一層多く日々惱まされてゐる。して、合理的と想像せられてゐる名目上の政府は、かかる紊亂の永續は望ましくないと宣言してゐる。私の心には、空高く翔らうと欲する靈魂もあれば、水の中(海水だと私は思ふ)を游泳しようと欲する靈魂もある。また、森林の中或は山の絕頂に住まうと欲する靈魂もある。それから、大都會の喧囂雜沓をあこがれる靈魂や、熱帶地方の孤獨な場所に住まうと願ふ靈魂もある。更にまた、裸體的野蠻のいろいろな程度にあるもの――租税を納める必要なき遊牧的自由を要求するもの――保守的且つ根膽纎麗優雅で、帝國と封建的傳統に對して忠良なるもの――虛無主義で、サイベリヤ[やぶちゃん注:“Siberia”。シベリア。]の流刑に値するやうなもの――袖手[やぶちゃん注:「しうしゆ(しゅうしゅ)」。懐手(ふところで)。労を惜しんで、自分からは手を下さないこと。]、無爲を嫌つてぢつと落ち著いて居られぬもの――非常な默想的孤立に安住してゐて、ただ多年を隔てて折々そのうごめくのを私が感じうるやうな仙人じみたもの――呪物崇拜の信仰を有するもの――多神敎的なるもの――囘々敎[やぶちゃん注:イスラム教。]を主張するもの――僧院の蔭と抹香の薰り、蠟燭の幽かな光とゴシック建築の暗影と崇高を愛する中世的なもの――さまざまの靈魂が私の中に入つてゐる。これらの一切の間に於ける協同一致は思ひもよらぬことである。いつも惱みがある――反抗、紛擾、内亂が起こる。大多數のものは、かかる狀態を嫌つてゐる。欣んで他へ移住しようとするものも多くある。して、少數の賢明なものは現存組織の全滅後でなくては、一層よい狀態を望んでも結局駄目だと感じてゐる。

 

 私が一個人――一個の靈魂! 否、私は一つの群衆である――幾萬兆といふ、考も及ばないほど夥しい群衆なのだ。私は時代に時代を重ね、劫億に劫億を積んだものだ。今私を作つてゐる集合は、數へきれぬほどたびたび解散しては、また他の散らばつたものとまじり合つたのである。だから、次囘の消散分解を何の懸念すべきことがあらうか? 恐らくは、太陽のさまざまの時代、燃燒の幾億萬年を經た後に、私を組織する最上の要素が、再び集合することがあるかも知れない。

 

 『何故』といふ理由の說明を想像しさへも得らる〻ならば! 『何處から』と『何處へ』の問題に、それよりも遙かに困難が少い。その譯は、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]漠然ながらも、現在が未來と過去を私共に確保するからである。しかし『何故』は!

 

 少女のやさしい聲が、私の空想を醒ました。彼女は『人』といふ漢字の書き方を幼弟に敎へようとしてゐる。初め彼女は砂の中へ、右から左へ向けで、下方へ傾斜する一畫[やぶちゃん注:「いつかく」。]を引く――

 

Img_001

 

 それから、彼女は左から右へ向けて、下方へ曲線をなす一畫を引く――

 

Img_002

 

 この二つを結合して、完全な一字を成すやうに書いたのが『人』である。男女の性如何を問はず人を意味する。または人類を意味する――

 

Img_003

 

 次に彼女は、この字形の意義を實際的說明によつて、幼兒の記憶に印しようと試みた――この說明法は多分學校で學んだのだらう。彼女は一つの木片を二つに割つて、それから、文字の二畫が成すと殆ど同じ角度に、木の二小片を互に釣り合はせるやうにした。『さあ、御覽なさい』と、彼女はいつた。『一方は片一方の助けがあればこそこんなに立つてゐるのよ。一方だけでは立てませんわね。だから、この字は「人」です。人は助けがなくては、この世に生きて行かれません。助けられたり助けたりして、誰れも生きてゆけるのですよ。もしみんながほかの人を助けなければ、みんな悉く倒れて、死んでしまうのです』

 この說明は言語學的には正確ではない。左右の兩畫は、進化論によれば、一對の足を現はしてゐる――原始時代の畫文字[やぶちゃん注:「ゑもじ」。]に現はれた人間の身體全部の形が、現代の表意文字には兩肢だけ遺存して表はれてゐるのだ。しかし美はしい敎訓的空想の方が、科學的事實よりも一層多く重要である。それはまたあらゆる形狀、あらゆる出來事に賦與するに倫理的意義を以てする、古風な敎授法の一つの面白い實例である。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]、單に道德的知識の一條項としても、それはすべての世俗的宗敎の心髓と、すべての世俗的哲學の最良部分を含んでゐる。この鳩のやうなやさしい聲を有し、ただ一つの文字の無邪氣な福音を說く可愛らしい乙女は、實に世界的尼僧である! 眞にその福音のうちにこそ、究竟の問題に對する唯一の可能なる現在の答が存してゐる。もしその完全なる意義が世界一般に感ぜられ――愛と助けの精神的並びに物質的法則の完全なる暗示が、普く[やぶちゃん注:「あまねく」。]遵奉さる〻に至らば、理想主義者の說に從へぱ、忽然此一見堅牢な具象世界は煙と消えてしまうであらう! 何故なら、いかなる時にも、苟も一切人間の心が、思惟と意志に於て大敎主の心に一致する場合は、『一塊土一粒塵と雖も佛道を成就せざるものは莫からむ』と、書いてあるから。

[やぶちゃん注:「人」の解字は小泉八雲が語る如く、ヒトを横から見た象形で、一画目は「頭から手まで」を表わし、二画目は「胴体から足まで」を表わしたものである。サイト「JapanKnowledge」の「第10 人の形から生まれた文字〔1〕」が甲骨文も表示されていて、よい。しかし、小泉八雲の少女への讃辞には心から完全に同意するものである。

 なお、意味は腑に落ちるものの、最後の引用仏典は私には不明である。識者の御教授を乞う。]

 

2019/11/26

大和本草卷之十三 魚之下 龍涎 (龍涎香)

 

龍涎 本草綱目龍條下有之曰是羣龍所吐涎沫

浮出畨人採得貨之亦有大魚腹中剖得者能收

腦麝不散入諸香亦詳于潛確類書九十四巻○

典籍便覧云龍涎嶼在大食國春間群龍交戯於

上而遺涎沫於洋水國人駕舟採之其涎初若脂

膠黃黑色頗作魚腥氣久則成大塊或魚腹中取

出如斗大焚之亦淸香倭俗クシラノ糞ト云如

蠟而游者也眞僞ヲ知ントセハ燒テ烟ノ直ナルハ眞ナ

リ斜ナルハ偽也浦ニテ拾得ル事マレ也其價貴キナルハ黃

金ニ倍レリ或云是馬ノ鮓答ノ類海鰌ノ腹ヨリ生ス

ル者歟但其中ニ烏章魚ノ骨交ハレハ若ハ海鰌ノ

吐カ或海鰌潮ヲノム時偶龍涎アツテ浮ヘル

ヲノミテ糞中ニマシハリ出ルカ今案ニ典籍

便覧ノ說可用畨人諸香ニ和ス其香久シテ散セス

又ニホヒノ玉トス此物蠻語ニアンペラト云長崎ニ蕃客持來

○やぶちゃんの書き下し文

龍涎〔(りゆうぜん)〕 「本草綱目」、「龍」の條下、之れ、有り。曰はく、『是れ、羣龍の吐く所〔の〕涎〔(よだれ)の〕沫〔(しぶき)〕、浮〔き〕出〔づ〕。畨人〔(ばんじん)〕、採り得て、之れを貨〔(くわ)〕にす。亦、大魚の腹中、剖〔(き)り〕得る者、有り。能く腦〔(なう)〕・麝〔(じや)〕を收めて、散ぜず。諸香に入る。亦、「潛確類書」九十四巻に詳かなり』〔と〕。

○「典籍便覧」に云はく、『「龍涎嶼〔りゆうぜんしよ)〕」は大食國に在り。春の間、群龍、上に交はり戯れて、涎〔の〕沫を洋水に遺〔(のこ)〕す。國人、舟に駕〔(が)〕して、之れを採る。其の涎、初め、脂膠〔(あぶらにかは)〕のごとく黃黑色、頗る魚腥〔(ぎよせい)〕の氣を作〔(な)〕す。久しければ、則ち、大塊と成る。或いは、魚の腹の中〔より〕取り出〔だす〕。斗〔(ます)〕の大〔なるが〕ごとし。之れを焚〔(た)〕けば、亦、淸香〔あり〕』〔と〕』云云。倭俗、『「くじら」の糞』と云ふ。『蠟のごとくして、游(うか)ぶ者なり。眞僞を知らんとせば、燒きて烟の直〔(すぐ)〕なるは、眞なり。斜めなるは偽なり。浦にて拾ひ得る事、まれなり。其の價、貴きなるは、黃金に倍れり[やぶちゃん注:「倍せり」の誤記か。]』〔と〕。或いは云はく、『是れ、馬の鮓答〔(さとう)〕の類。海鰌〔(くじら)〕の腹より生ずる者か。但し、其の中に、烏〔(いか)〕・章魚〔(たこ)〕の骨、交はれば、若(も)し〔く〕は、海鰌の吐くか。或いは、海鰌、潮をのむ時、偶〔(たまたま)〕、龍涎あつて、浮べるをのみて、糞中にまじはり出づるか。今、案ずるに、「典籍便覧」の說、用ふべし。畨人、諸香に和す。其の香、久しくして散ぜず。又、「にほひの玉」とす。此の物、蠻語に「アンペラ」と云ふ。長崎に蕃客、持ち來たる。

[やぶちゃん注:生物ではない特異点の記載。所謂、マッコウクジラ(ハクジラ小目マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter microcephalus)の腸内に発生する結石で、香料の一種として珍重される「龍涎香(りゅうぜんこう)」「アンバーグリス」(英語:Ambergrisである。ウィキの「龍涎香」によれば、『灰色、琥珀色、黒色などの様々な色をした大理石状の模様を持つ蝋状の固体であり芳香がある。龍涎香にはマッコウクジラの主な食料である、タコやイカの硬い嘴(顎板:いわゆるカラストンビ)が含まれていることが多い。そのため、龍涎香は消化できなかったエサを消化分泌物により結石化させ、排泄したものとも考えられているが、その生理的機構や意義に関しては不明な点が多い。イカなどの嘴は龍涎香の塊の表層にあるものは原形を保っているが、中心部の古いものは基質と溶け合ったようになっている。マッコウクジラから排泄された龍涎香は、水より比重が軽いため』、『海面に浮き上がり海岸まで流れ着く。商業捕鯨が行われる以前はこのような偶然によってしか入手ができなかったため』、『非常に貴重な天然香料であった。商業捕鯨が行われている間は鯨の解体時に入手することができ、高価ではあったが』、『商業的な供給がなされていた。1986年以降、商業捕鯨が禁止されたため、現在は商業捕鯨開始以前と同様に』、『偶然によってしか入手できなくなっている』。英語のそれは『「灰色の琥珀」を意味するフランス語』ambre gris(アンブル・グリ)に由来する。『龍涎香がはじめて香料として使用されたのは7世紀ごろのアラビアにおいてと考えられている』。『また、龍涎香という呼び名は』、『良い香りと』、『他の自然物には無い色と形から』、『『龍のよだれが固まったもの』であると中国で考えられたためである。日本では、室町時代の文書にこの語の記述が残っているため』、本『香料が伝来したのはこの頃ではないかと推測されている』。『香料として使用する場合にはエタノールに溶解させたチンキとして使用され、香水などの香りを持続させる効果がある保留剤として高級香水に広く使用されていた』。『また、神経や心臓に効果のある漢方薬としても使用されていた』。『龍涎香の構成成分の大部分はステロイドの一種であるコプロスタノールとトリテルペンの一種であるアンブレイン』(Ambrein)『である。このうち』、『アンブレインの含量が高いものほど品質が高いとされる。このアンブレインが』、『龍涎香が海上を浮遊する間に日光と酸素によって酸化分解をうけ、各種の香りを持つ化合物を生成すると考えられて』おり、『これらの化合物は合成香料として製造されており、龍涎香の代替品として使用されている』。『また』、『龍涎香には含まれていないが』、『龍涎香と類似した香りを持つ化合物も多く知られており、それらも龍涎香の代替品として使用されている』とある。かのアメリカの作家ハーマン・メルヴィル(Herman Melville 一八一九年~一八九一年)の名作「白鯨」(Moby-Dick; or, The Whale)の第九十二章は、『章題がAmbergrisとあり、その内容もマッコウクジラの解体時に龍涎香を入手する様子を詳しく描写している』。『中国、明代の趣味人向け道具』の『解説には、「スマトラ国にある竜涎嶼(小島)では、たくさんの龍がざこねしていて、その垂らしたよだれが採集された香』とし、『海面に浮かんでいたものが最上品、岸に漂着し』て『埋まっていたものが次、魚がよだれを食べ糞となり、腹から取り出したものが次の品」という説明がある』(引用書名を「長物志」と注する)という。

『「本草綱目」、「龍」の條下……』巻四十三の「鱗之一」の「龍」の条の最後に、

   *

龍涎 機曰、「龍吐涎沫、可制香。」。時珍曰、「龍涎、方藥鮮用、惟入諸香、云能收腦・麝數十年不散。又言焚之則翠烟浮空。出西南海洋中。云是春間羣龍所吐涎沫浮出。畨人採得貨之、毎兩千錢。亦大有魚腹中剖得者。其狀初若脂膠、黃白色、乾則成塊、黃黑色、如百藥煎而膩理。久則紫黑、如五靈脂而光澤。其體輕飄、似浮石而腥臊。

   *

とある。

「畨人」これは「畨」の音通で「蕃」で、中国人が異民族を誹って言う「野蛮人」の意の「蕃人(ばんじん)」の謂いであろうと踏んでおく。

「貨」非常な価値を持つ財宝の意。

「腦・麝」龍脳と麝香。前者は「ボルネオール」(borneol:C10H18O:「ボルネオショウノウ」とも呼ばれる二環式モノテルペン(Monoterpene:C10H16:テルペンの分類の一つで、二つのイソプレン単位からなり、環を持つタイプ。テルペン(terpene)とはイソプレン(isoprene:二重結合を二つ持つ炭化水素を構成単位とする炭化水素)を構成単位とする炭化水素で、植物・昆虫・菌類などによって作り出される生体物質の一つ)。ウィキの「ボルネオール」によれば、『歴史的には紀元前後にインド人が』、六~七『世紀には中国人が』、マレーや『スマトラとの交易で、天然カンフォルの取引を行っていたという。竜脳樹はスマトラ島北西部のバルス(ファンスル)とマレー半島南東のチューマ島に産した。香気は樟脳に勝り』、『価格も高く、樟脳は竜脳の代用品的な地位だったという。その後』、『イスラム商人も加わって、大航海時代前から香料貿易の重要な商品であった。アラビア人は香りのほか』、『冷気を楽しみ、葡萄・桑の実・ザクロなどの果物に混ぜ、水で冷やして食したようである』とある。後者は鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus に属するジャコウジカ類の♂の麝香腺から得られる香料と薬の原料とされた「ムスク」(musk)。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」に詳しい述べてあるので参照されたい。

「を收めて、散ぜず」これは急速な香りの減衰を抑えて、永くそれらの香りを保持する持続薬としての効用を言っているようである。

「潛確類書」「潜確居類書」とも。明代の学者陳仁錫(一五八一年~一六三六年)が編纂した事典。

「典籍便覧」明代の范泓(はのう)撰になる本草物産名の類纂書。

「龍涎嶼〔りゆうぜんしよ)〕」先の引用によればスマトラにある島(「嶼」は小島の意)の名前とするが、伝説上の架空の島であろう。

「大食國」不審。これはイスラム帝国の旧称である。

「魚腥の氣を作す」魚の生臭い匂いを発する。

『「くじら」の糞』寺島良安も「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」(リンク先は私の古い電子化注)の「鯨」の項でそう書いている。

「眞僞を知らんとせば、燒きて烟の直〔(すぐ)〕なるは、眞なり。斜めなるは偽なり」之と全く同じことを、どこかで電子化したのだが、思い出せない。発見し次第、追記する。

「馬の鮓答の類」「鮓答」(さとう)とは、馬に限らず、各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するものと私は認識している。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」で詳しく論じているので参照されたい。

「アンペラ」上記リンク先で考証したが、「鮓答」なるものは、もともと日本語ではなく、ポルトガル語の「pedra」(「石」の意。ネイティヴの発音をカタカナ音写すると「ペェードラ」)+「bezoar」(「結石」ブラジルの方の発音では「ベッゾア」)の転であろう。また、古い時代から、一種の解毒剤として用いられており、ペルシア語で「pādzahr」、「pad (expelling) + zahr (poison) 」(「毒を駆逐する」の意)を語源とする、という記載も見られる。牛馬類から出る赤黒色を呈した塊状の結石で、古くは解毒剤として用いたともある。別名を当該の獣類の名に繋げて「~のたま」と呼び、「鮓答(さとう)」とも書いた。但し、例えば大修館書店「廣漢和辭典」の「鮓」を引いても、この物質に関わる意味も熟語示されていない。現代中国音では「鮓荅」は「zhǎ dā」(ヂァー・ダァー)で、やや「ペェードラ」に近い発音のように思われるから、それを漢音写したものかも知れない。益軒のは「アンバーグリス」と「ペェードラ」を組み合わせたキマイラのように感ずる。 しかし、「アンペラ」(莚)はないだろ!? 一説にポルトガル 「amparo」(日覆い)からとする例のやつ、烏賊の「エンペラ」で連関するってかあッツ!?! 

ブログ・アクセス1290000突破記念 梅崎春生 行路

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二二(一九四七)年十月号『不同調』に初出で、昭和二三(一九四八)年八月講談社刊の第三作品集「飢ゑの季節」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 途中に二箇所だけ、その昔のシークエンス時制と梅崎春生の事蹟を確認・比較するため、私のオリジナルな注を挟んでおいとた。

 文中終わりで出る「碌々(ろくろく)と」とは「平々凡々と」の意である。若い読者のために言い添えておく。

 梅崎春生の絶妙な仕掛けが――最後に――ある。お味わいあれ。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが本日、午前中、1290000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年11月26日 藪野直史】]

 

   行  路

 

 針金ほどの細い鰻(うなぎ)である。それをブツ切りに切って皿に盛り、板台に幾皿も並べてあるのだが、切断された部分部分がまだ生きていて、ピンピン皿の外に飛び出そうとするのを指でつまんで皿に戻しながら、

「さあ、一皿十円。さあ十円ですよ」

 一間[やぶちゃん注:約一メートル八十二センチメートル。]ほどのよしず張の店で、店先にむらがったお客達の肩越しに聞えて来るのは、そんな甲(かん)高い女の声で、あった。梅雨の合間のぬかるみ道を歩き悩みながら、その張りのある女声にふと耳をとめた私は、何だかそれに聞き覚えがあるような気がしたから、洋傘を支えにして何気なく客の肩越しに斜にのぞきこむと、丁度(ちょうど)顔をこちらにむけた声の女の視線が偶然私の姿をとらえたらしく、日を輝かせながら、まあ、と驚いた時の眼をパチパチさせるその癖でも、まぎれもない栄子の姿であった。

「お栄さんじゃないか」

 私も少からず驚いて口走った。暫(しばら)く見ないうちに少し肥った色白の頰に栄子は驚きの色をかくせない陰影のある笑みを浮べて、裏の方へ、と手振りで私に示しながら、

「ケイちゃん。店の方たのんだわよ」

 へい、と答えて奥から出て来た若者は、復員服を着て二十四五らしいが、眉の形の良い端正な横顔を、よしずにそって裏に廻りながらちらと眺めた印象が、

 ――似てるじゃないか。――

 私は栄子と相知って此の十年余の歳月を、その感じだけで胸苦しくよみがえらせていた。

「暫くだったわね」

 裏の木戸から出て来て、何か感慨深そうに栄子はしげしげと私を眺めながら、

「でも貴方はかわらないわね。私はとても変ったでしょう」

「いや。綺麗(きれい)になったよ」

「へえ。口が旨くなったわね。これでもあたし、此の間までは上野の地下道に寝泊りしてたんだから」

 こんな事で私に嘘を言う女ではないから、その事も本当に違いない。私が黙っていると、

「驚いた。驚いたでしょう」

「驚きもしないが、大変だったろう」

 うふん、と含み笑いをしながら、私の手の弁当箱に眼を走らせ、

「相変らず腰弁というところね。それは空なの」

 一寸待ちなさいと、ためらう私から弁当箱を取上げて木戸へ入って行ったが、暫くして出て来て、

「お土産。商売物だけど」

 こだわりのない明るい調子であつた。受取ると弁当箱の中に、先刻見た切れ切れの鰻(うなぎ)が詰っているらしく、アルミの蓋にはねあたる幽(かす)かな感じと妙な重量感が手に伝わって来た。

「此処じゃお話も出来ないから、一寸そこまで出ましょう」

「店の方はいいのかい」

「いいの。任せてあるから」

 よしずの向うで先刻の若者の声らしく、ええ一皿十円、たったの十円と呼ぶのが聞えて来た。

 此の前逢った時から三年程も経つが、その歳月を一足飛びに越えて隔りを感じさせないのも、栄子という女の持つ性格ゆえには違いなかったが、また私と栄子の交情が特殊のものであるせいでもあった。栄子に言われるまま歩き出し、露地を廻るとそこらはやくざなマアケット地帯で、両側の屋台屋台に栄子はあるきながら挨拶を交したり交されたりするところからみれば、栄子は既にここでも相当な顔らしく、私は恰幅(かっぷく)の好い栄子の後姿を追いながら、此の女のこんな強さはどんな処から来るのかといぶかる思いでもあった。泥のはねを気にして立ち悩む私に、栄子はふと振返ってまぶしそうな眼を向けたが、身体を反(そ)らして飛込んだのがやはり屋台の一軒で、

「おばさん。つけてくれない」

 棚に並んだ瓶を見るまでもなく飲屋と知れるが、昼酒でもあるまいとためらう私に栄子ほはげしく手まねきした。

 すわりの悪い腰掛けで、曇天の光が青ぐらく落ちて来て、私は盃に注がれた変に黄色い洒に口をつけた。酒を口に入れるのも久し振りで、そのせいか薬品じみた抵抗がふと舌にさからうのだが、栄子は鮮やかな飲みぶりで、盃を持つ手ももの慣れた風情であった。此の女も何時からこんなに酒に慣れたのかと、記憶の空白を確め廻していると、

「あれからどの位経ったかしら」

「そう。あれが十九年の三月だったから」

「もう三年あまりね」

 その時は栄子は着のみ着のままで、険しく暗い顔をして私を訪ねて来たのであった。しかしどんなに暗く栄子が絶望していても、今までの例ではまた不死鳥のように此の女は立ち上って来た。その事を私は言いたくて、

「でもお栄さんはどうにかして生き抜けるたちらしいね」

「どうにかなる。どうにかなるものよ」

 栄子は盃を乾しながら、かわいた笑い声を立てた。私と始めて相知った頃の栄子は、こんな笑い方はしなかった。淋しそうな笑いを片頰に一寸浮べるような女であつた。今のように肥ってはいなくて、すらりとした形の良い少女であった。

 それは確か私が大学に入った年のことで、同じ高等学校から来た古田という私の友達がいて、それから栄子を紹介されたのだ。古田の話では従妹だということであったが、その頃栄子は何処か私立の音楽学校に通っているとの話で、一寸しゃれたスウツなど着てその癖髪はおさげのままであった。不調和がそのまま此の少女には調和となっていて、それが変な魅力となっていた。手を膝にあてて丁寧にお辞儀するような少女であった。全体の感じが稚ない様子だったから少女と書いたが、歳はもう十八九になっていたと思う。

 古田という男はきりっとした顔立ちの男であったし、それに仲々の漁色家だという評判だったから、勿論(もちろん)従妹だなどという彼の口舌を私は信じていなかった。また信ずるにしても信じないにしても、それは私にかかわりあることではなかった。しかしこんな稚なさを不幸におとし入れることは、何か無惨な気もしなくはなかった。私の知る限りでは古田の今までの相手は、女給とかダンサアとかそんな種類の女に限られていたから、そんな女たちと同列に栄子を置くことがふと傷ましく思われたのだ。

 古田とはもとから私は知っているが、漁色家といっても悪どいやり方ではなく、ただ責任のない愛情を楽しもうとする、言わば単純なエピキュリアンに過ぎなかったから、あるいはなおのこと栄子は愛情の方途に迷ったのかも知れない。とにかく若い栄子が古田に愛情を打ち込んでいることは、他処目(よそめ)の私にも判る位であった。そんな無計算な愛情の吐露が、遊びのつもりでいた古田には重苦しくなって来たのであろう。私の下宿にある時やって来て、あの女にもかなわん、と私に洩(mら)したことがある。

「だってあれは君の従妹だろう」

 古田はそれを聞いて首をちぢめて苦笑しながら、しつこい従妹だよ、とはき出すように言った。

 その言葉を聞いた時、私はふと古田に微かな憎悪を感じていた。

 その頃既に古田は栄子と肉体的関係があったのだと思う。ただの精神的な恋情なら、古田ほどの男が身をかわせない筈がないからだ。私がその時古田を憎む気持が起ったというのも、彼の無責任な生活態度に対してではなく、純な女に不幸を植えつけたという点であったに相違ない。三人でいる時、栄子がときどき古田を眺めるあの熱っぽい眼を私は思い出していたのだ。古田はその頃栄子と二人になることを嫌ってか、よく私を誘いこんで同座させていた。

 ある夜日比谷公会堂で音楽会があって、待ち合せて行く約束になっていたのだが、約束の場所でいくら待っても古田が来ず、やむなく私は栄子と二人で聴きに行ったことがある。もともと私は音楽に趣味があるわけではなく、ほんのつきあいに過ぎなかったが、栄子は音楽学校に通っていただけあってその夜も譜本をたずさえて来ているほどであった。約束の時間が過ぎた時私はすぐ、古田がすっぽかしたと思ったが、栄子は、も少し、も少し、と少しずつ時間を伸ばして、背伸びなどして遠くを眺め、仲々あきらめ切れぬ風情であった。そこを離れて公会堂に行くときも、栄子は何度も振返って探し求める眼付になったりした。

 その夜の演奏曲目は何であったか覚えていない。終って外に出ると空は一面の星で、私達はぶらぶらと公園の中を日比谷停車所の方に歩いた。音楽の後感がまだ身体に残っていて、風爽かな初夏の夜であった。

 演奏中からも栄子は何か沈んだ風(ふう)であったが、歩いている時も言葉少く顔色が冴えない模様で、話しかける私の言葉にもはっきりしない受け答えぶりであった。丁度(ちょうど)噴水のところまで来た時栄子は何か思い詰めたように身体ごと私を押して来た。

「ねえ田代さん。何故今日古田さんは来なかったの。何故来なかったんでしょう」

 突然のことなのでふと私が気押されて黙ると、栄子は急に甲(かん)高い声になって独語のように叫んだ。

「でも私はあの人を信じてるわ。あの人は人を偽るような人じゃないわ」

 声音が乱れたので私が驚いて栄子を見ると、月の光の加減か栄子の顔は真蒼であった。陶器のような冷たい頰に、ふと涙のいろを見たような気もしたが、栄子は両掌で顔をおおって、つと私に背を向けた。お下髪(さげ)が大きく揺れて、その間から細い頸(くび)筋が見えた。月の光はそこにも落ちていた。堪え難い程の哀憐の情がその時私の胸を衝き上げて来たのである。私はしかし何故かはげしい狼狽を感じながら身体を硬くして、花々の香しるい夜の径を急ぎ足に歩き出していた。

 しかし栄子と古田の交情も、間もなくあっけなく終った。古田が召集されて支那に渡ったかと思うと、すぐ戦死してしまったのである。戦死の場所は上海戦線であった。

 古田の母親からそんな報(しら)せがあって一遇間ほど経った夜、私の下宿に栄子が訪ねて来た。玄関に出て見ると暗い土間に栄子は影のように立っていて、私の姿を見るとキラキラ光る眼で私をじっと見た。憔悴(しょうすい)の色が濃くかぶさり、何か別人にも見えた。とりあえず部屋に通しながら、古田の戦死を何時知ったのかという私の問いにも答えず、部屋のすみに斜にすわり、私の視線を避けるような物ごしで、

「田代さん酒を飲みたいわ。飲まして」

 激しい口調であった。

 栄子が心に受けた打撃は私にも良く判るのだから、こんな場合、場あたりの慰めも無意味だと思い、女中を呼んで私は酒を注文した。この頃(昭和十二三年頃)は酒が飲みたければ下宿の帳場に注文して、つけでいくらでも飲むことが出来たのだ。

 その夜栄子はかなり酒を飲んだ。

 その話によると、栄子は古田と結婚する約束をしていたそうで、古田の戦死を知って彼女が古田の実家を訪ねてみると、母親が出て来て、古田には内縁だけれども既に妻があるということを、冷たい顔で栄子に話したという事であった。古田が自分と約束をしておきながら、家に内縁の妻を持っていたことが栄子に惑乱する程の打撃を与えたのだ。

「古田が東京を立つ時、何故駅まで来なかったんだね」

「そんな感傷的なことは厭だとあの人は言うんですもの」

 駅には古田の母親とその内縁の妻らしい女が来ていた。その女は人目もはばからず手巾(ハンカチ)を眼にあてていたが、古田は明るい顔で見送人と挨拶を交していた。私は栄子が来てはいないかと時々気になって四辺を見廻したりしたが、汽車が出るまで栄子は見当らなかった。やがて万歳の声と共に、窓から古田が振る帽子がだんだん小さく消えて行った。

「死んじやったもの仕方が無いさ」

 私も少し酔って栄子にそんな事を言った。

「死んじやったからいけないのよ」

 栄子は濁った眼で私を見っめたが、

「他に女の人がいるなんて、男ってそんなものかしら、そんなものなの」

「ああ、そんなものだよ」

 そのうちに夜が更けて電車も無くなったようだから、私は下宿に頼んで寝床をとってもらった。栄子は酔っていて、少からず乱れていたから、独り戻すのは危険な気もした。それにまた別の気持もあった。

 いよいよ寝る段になって酔った栄子が着換えしようとする時、手が乱れて裸の胸が見えた。乳首がちらりとのぞかれたが、それは桑の実のような黒さであった。栄子はばたんばたんと乱暴にふるまいながら、床に入った。

「あなたは良い人ね。ほんとに良い人ね」

 良い訳がないさと、私は胸の中で呟いたが、栄子はその時眼を閉じて幽かな寝息を立てていた。電燈の光線が栄子の顔に隈(くま)をっくって、いつもの稚ない表情から急に大人びた暗さであった。

 その夜挑んだのが私であったということを私は書いておかねばならぬ。不幸に陥ちた女をそんな風(ふう)に取扱うことは、何か弱みにつけこむようで後ろめたくないこともなかったが、境遇から来る不幸というものは、私には本質的なものでなく、人間にとっては意匠にすぎないと思われた。不幸という点からすれは、栄子よりその夜の私の方が遙か不幸であるのかも知れなかった。

 しかし私の挑みに対して、栄子はもっと激しい情熱で応じて来た。それはほとんど自棄じみた烈しさで、それは私を愛しているためでは絶対になく、ただただ自分を満たすためであることを、私はその瞬間に本能的に感じ取っていた。悦楽の頂上にあって栄子は唇を私の耳に寄せ、

「――憎い。憎いわ」

 歯ぎしりするような調子でそう呻いた。

 翌朝私達はぼんやり起き上っていた。昨夜のことを悔ゆる気特は勿論(もちろん)私にはなかった。私は貧しい朝膳に向いながら、昨夜栄子が憎いと叫んだ言葉は、誰にむけられていたのだろうと考えた。古田に対してか、それとも私に対してか。或いは栄子は自分自身にその瞬間そんな憎悪を感じているのかも知れなかった。私が探り得た身体の感触では、栄子は明かにみごもっていた。

 しかしその朝、栄子は意外なほど明るくなっていて、朝食を食べながら声を立てて笑ったりした。昨夜までの苦しみをすっかり置き忘れた風(ふう)であった。

「で、これからどうするんだね。故郷に帰るのか」

 栄子の故郷は九州で、小地主の父親だけがいるということを私は聞き知っていた。

「帰らないわ」

「学校に戻るのか」

「学校はもう止めよ」栄子はそう言って笑った。「私は看護婦になるの。そして従軍するの」

 その日一緒に外に出て、銀座で映画を見て別れた。それは喜劇映画だったが、栄子は笑う処になると人一倍笑ったりした。そんな栄子の心理を私はふと解しかねていた。

 それから栄子は長い間私を訪ねて来なかった。

 看護婦になると言っていたがどうしたのか、腹の子供はどうしたのか、そんな事を私は時折気にかけていたが、やがて私も卒業期が迫って論文作製などに忙しくなったから、そんな心配も次第に心からうすれ始めていた。ある初冬の日私が図書館の大階段を降りて来ると、その下に黒っぽい看護婦の服を着た女がいて、それが栄子であった。驚く私に栄子はにこやかに笑いかけながら、淡々とした口調で言った。

「明日出発して支那に行くのよ」

 へええ、と思わず私は声に出しながら栄子の容姿を上から下まで眺めた。

「今下宿にお訪ねしたんだけれど、図書館にいらっしゃると聞いたから、先刻から待っていたのよ」

 看護服は良く栄子に似合った。以前より少し肉付きが良くなって、顔の辺も成熟した表情であった。それと私の関心をひいたのは、態度に何か自信が出来ていて、それが一層栄子を美しく見せた。

 立話も出来ないので私達は建物を廻って歩き出した。

「何故今まで連絡しなかったの」

「何故って、私にも判らないのよ」と栄子は一寸顔を染めた。「貴方のことをあまり思い出さなかったのよ。ところがいよいよ遠くに行く段になって、とっても貴方に会いたくなったのよ。もう御卒業ですってね」

 葉の枯れ落ちた銀杏(いちょう)並木の彼方、青色の冬空を背景にして安田講堂が茶褐色にそそり立っていた。そこを歩きながら栄子が言った。

「あの建物は何。厭な形ね。お墓の形をしてるじゃないの」

 まことそれは墓石の形であった。朝夕それを眺めていて、その時始めて私は気が付いていた。

 子供はどうしたのかとうとう聞かなかったが、栄子の話では看護婦の教習所のような処に暫く通って、そして従軍を志願したという話であった。それを話す口調があまり淡淡としていたから、子供を産んだにしても流したにしても、そんな一身上の大事が表情に陰影を落さない筈はないと私は思った。しかし栄子はそんなこだわりをいささかも見せていなかったのだ。不幸をてんで受付けないような強い資質を此の女は始めから持っていたのではないか。思い立っていきなり従軍看護婦になるというのも、思えば私には理解出来ないことであった。私はその頃召集が来はしないかと毎日ビクビクしていたのだ。

 別れ際に私が、

「もう古田のことなど忘れてしまっただろうね」と冗談めかして言うと、栄子は急に淋しそうな顔をした。

「ええ、近頃は忘れちゃったけどね、あの時はほんとに辛かったわ。あんなに深く絶望したことって無いわ。あんな気持は男には判らないでしょうね」

「判らないことはないさ。しかしその傷のなおり方は男よりは早いようだね」

「そんな事を言う」栄子は口辺にふしぎな笑みをちょっと浮べたが、直ぐしみじみした調子になって、「貴方にも又そのうち、御厄介になることがあるかも知れないわ。住所が変ってももとの処に言い残しといてね」

 そして私達は別れた。

 その夜私は遅くまで眠れなかった。栄子と今日出逢い、そしてみすみす遠くへ手離したということ、それが実感として私に来た。私は長い間栄子のことを思いつづけていたような気分におちていた。実際としては近頃私は栄子の事を忘却し勝ちであったが、逆に言えは苦しいから私は私の意識を眠らせようと努力しているのかも知れなかった。何だかそんな感じを突きつめて行けば、私は栄子と最初出会った時から、栄子に切ない気持を抱いて来たようであった。あの一夜のことが今なお私に罪業感を残さぬのは、私のエゴイズムではなくて、そんな気持の責任を私が持っているからに違いなかった。しかし現実には私は栄子と距離をへだてている。それは何の故だろうと私は思うのであった。

 二箇月程経って栄子から手紙が来た。上海の陸軍病院からであった。私は古田が上海で戦死した事を咄嗟(とっさ)に思い起していた。現実のありかたからすればそれは偶然というものかも知れないが、私には何だか栄子の成意が働いているように思えた。その手紙には、近く奥地へ出発するという意味のことが、検閲を考慮してか廻りくどく書かれてあった。

 その翌年の春、私は学校を卒業した。学校の教師にもなりたくなかったし、それと言ってもどんな仕事にも情熱を感じなかった。すすめる人があって、私はある役所に入った。仕事は面白い筈もなかったが、月給を貰えないとなるとすぐ生活に困る身上であった。新体制ということが叫ばれ、誠に住みにくい世であった。栄子の消息はそれ切りなかった。

 私は長年住み慣れた本郷の下宿を引払って郊外のアパアトに移った。結婚をすすめる人もあったが、大てい私は笑って断った。しかしその時栄子の事を考えていたわけではない。なるほど栄子は私の心の中に住んでいたけれども、現実的な像としてではなく、小さな額縁に入った絵のような具合に残っているだけであった。それが私の生活を乱すということはあり得なかった。ただ何となく私はすべての女に興味をなくしていた。結婚生活というものに対しても、私はいささかも魅力を感じていなかった。気持がはっきり踏切りっかぬまま私はその役所に一年余通っていた。

 大陸から戻って来た栄子が私のアパアトを探して訪ねて来たのも、そんな沈滞したひと日のことであった。私が夕食の菜をぶら下げてアパアトに戻って来ると、管理人のお内儀が玄関で私を呼び止めて、

「女の方が部屋にいらっしゃいますよ」

 と言った。誰だろうと私はいぶかしく思ったが、次の瞬間に栄子ではないかということを直ぐ考えた。その外(ほか)に私の部屋に訪ねて来る女人など居る訳は無かったからである。

 扉をあけると栄子は私の机の前にすわって私のアルバムを拡げていたが、私の姿を見るとバタンとそれを閉じて居ずまいを正した。

「今夜泊めてね。お願い」

 栄子は看護婦の服装ではなくて、草臥(くたび)れたスウツを着ていた。部屋のすみに小さなトランクが置いてあったが、その金具も脱(はず)れかかっていた。身体全体に疲労のいろが深く、眉目のあたりがきわ立って荒れた感じであった。

「もう看護婦は止めたのかい」

 私のその言葉に答えず、背広を脱ぐ私をしげしげと眺めながら、

「田代さんも背広を着るようになったのね」

 そんなことをポツンと言ったりした。

 近所の知合いの酒屋に少しばかり都合してもらって、その夜は飲んだ。栄子は大変酒が強くなった感じで、小気味良く盃をあけていたが、それでもそのうちに好い色になった。何か大陸での生活を話したがらない風なので、私も強いてそこに触れなかったが、酔うにつれて栄子の険しい眉も少しずつ晴れて行くようだった。そんな時に、ふと音楽学校時代の栄子の清純な俤(おもかげ)がよみがえって来たりした。そして私も少し酔った。

 日米関係が険悪になりかけていて野村大使が渡米している時のことだったから、私達の話も自然に其処に落ちて、私も何時かは戦いに引っぱり出されるだろうというようなことを私が言ったら、栄子は眉を寄せいやな顔をして言った。

[やぶちゃん注:「野村大使」海軍軍人で外交官であった野村吉三郎(明治一〇(一八七七)年~昭和三九(一九六四)年)は第二次近衛内閣の時、昭和一六(一九四一)年一月に駐米大使に任命され、ぎりぎりまで日米交渉に努めた.同年十二月七日(日本時間十二月八日)のマレー作戦と真珠湾作戦で米・英・蘭と開戦したが、針の莚に座るような思いで、その後の半年をワシントンD.C.で過ごし、抑留者交換船で日本に戻ったのは翌年八月中頃であた(以上はウィキの「野村吉三郎」に拠った)。則ち、このシークエンスの時制は昭和十六年一月以降、開戦前夜までということになる(実は、後で昭和十六年十月末か、十一月であろうことが判る)。なお、この頃、梅崎春生は昭和十五年三月に東京帝国大学文学部国文科を卒業、東京都教育局に勤務していたから、この主人公田代の経歴とそれは一致していると言ってよい。]

「戦争。戦争って厭なものよ。あんな厭なものはない。兵隊ってけものよ。おお厭だ」

 嚙んではき出すような口調だった。そして最後の一句と共に、栄子は肩をすくめて身ぶるいした。

「だって君は進んで志願したのだろ」

「言わないで。そんな事言わないで」

 栄子は掌を上げて私をさえぎる風な手付をしたが、急に身体をくずし、声を忍ばせて突然泣き出した。掌で顔をおおい首を深く垂れているので、頚筋が斜に見えた。あの昔の細く脆(もろ)そうな頸とはちがって、何か筋肉質のものを思わせる妙な逞しさがそこにはあった。

 栄子は直ぐに泣き止んだ。そしてキラキラ濡れた眼で、また何杯も盃をほした。

 その夜眠っている私に、栄子は荒い呼吸使いで抱きついて来た。酒の匂いが鼻に来て、私は眠りからはっきり覚めていた。栄子は着ているものを全部脱ぎすてていた。暗闇の底でそれは感じですぐ判った。

 それは娼婦よりももっと荒くれた仕草だった。私は数年間禁欲を続けていたので、失敗するかも知れない予感が胸をかすめたが、そんなものを圧倒するような激しい情熱であった。そしてその情熱は盲目的なものでなく、私を誘導しようとする巧みなものを秘めていた。私は意識的にそれに呼応して行った。私はその時自分がかなり努力していることを感じていた。そして何故だかは判らないが、その瞬間でも栄子との距離をはっきり感知していた。栄子があえいでいるのも、自分の空白を満たすためなので、私とは全然関係ないような気がした。そして営みは終った。

 疲れ果てて私達は横たわっていた。部屋の床から秋の虫が低く鳴き出していた。

「私は故郷に帰りたいわ」と栄子が暫(しばら)く経って言った。郷愁めいたものが、やはりその時私の胸にも湧いていたのである。

「私戦場にいる時、ほんとに一度でも良いから内地に戻って、音楽を聞きたいと、そればかり考えてたわ。それはほんとに辛かったわ。貴方には判らない事よ」

 暫くして私が、君はいくつになる、と聞いたら低い声で、二十五よ、と答えた。

 翌朝起きて見たら栄子は既に起きていて、驚いたことにはちやんと朝食も拵(こしら)えてあった。卓をはさんで食事をとりながら、栄子がこんな事を言った。

「今まで私は何をやっても失敗してばかりいるんだけれど、此度はしっかりやるわ。私東京で何処か職を探そうと思うの」

「故郷へ帰った方が良いんじゃないか」

「何故よ。何故いいの」

 一晩休んだせいか栄子はすっかり生気を取戻していて、私の言葉をあざわらうような表情をした。

「職探すって大変だぜ」

「どうにかなるわよ」自信に満ちた声であった。

 役所に出るために私は出かけ、栄子とは駅で別れた。別れる時栄子は私に、アルバムから写真を一枚貰ったわよ、と私にささやいた。

 それから一箇月位して手紙が来た。それによると栄子は或る芸能社に入り、その専属になって芸の道にいそしんでいるということであった。芸の道とは何か。私には判断がつかなかった。しかし文面の感じから言えば、栄子は非常に現状に満足しているらしく思えた。しかしそんな栄子を私はもはや想像出来なくなっていた。私が漠然と慕っている栄子は、もはや現実の栄子ではなかった。その食い違いは何かいらいらと私の心に触れて来た。私がもっと積極的な立場を執れば、栄子は今と違った方向をたどったかもしれない。しかしそんな事を考えることは、無意味と言えば無意味極まる事であった。

 ついに私が触知し得なかった部分が栄子の心にひそんでいて、それが栄子の方向を決定したのではないか。栄子は絶望するたびに新しい脱皮を敢行するらしかった。ふしぎな事には、古田を通じて男というものに絶望した時も、戦争の実体にふれて絶望した時も、栄子は私の処にやって来た。そして肉体的に私と結合を敢てした。

 脱皮のためのカタルシスのような役割を、私は栄子の為に引き受けているのかも知れなかった。そう考えると、私は言いようもない荒涼たるものが胸の中に吹き荒れて来るような気がした。戦争の傷痕を重ねることによって栄子は成長して行くが、私はその間にむなしく青春を終えるらしい。私はカタルシスの座を持ち得ないまま、老い朽ちて行くらしかった。私は栄子との二度の結合も、肉体的な問題は別として、精神的にはますます空白を深めて行っただけであった。

 あるいは栄子は私を通じて、古田への思慕を郷愁の如くよみがえらしているのかも知れなかった。栄子がアルバムから剝いで行った写真は、学生の私と古田が肩を組んで写った写真である。

 一箇月程経って日本はあの無謀な太平洋戦争に突入した。

 ある日私の役所で演芸慰問会があって、私も何となくそれを見に行った時、番組に音楽漫才というのがあって、その名に栄子という字が書かれてあった。もともとそんな演芸方面にうとい私ではあったけれども、ふとそれはあの栄子ではないかと思った。何とか芸能社というのもそんな芸人の団体らしかったし、此の前の手紙も何だかそんな意味のことが書かれていたような気がする。しかし音楽漫才とはどんな事をするのか知れないけれども、音楽会に本譜をたずさえて来たような栄子が、そんな処に落ちるということは想像だけでも私の堪えられないことであった。私は厭な胸騒ぎを暫く味った末、まだ演技が始まらないうちにと、楽屋の方に廻ってみた。

 そしてそれは、あの栄子であった。

 強い化粧をほどこして仮面じみた風貌の栄子と、私は楽屋口で暫く話をした。ごく短い会話であったけれども、私はなじる気持が自然に口に出たにちがいない。栄子は弁解するような口調で言った。

「こんなことやっていて、本当に惨めだと思うわ。しかし仕方がないのよ。生きて行かなくちゃならないもの」

「それにしても本名で出なくっても――」

「いえ、それが本名で出るのよ。私はもう身体をはって生きて行こうと思うの。生きて行くにはそれ以外に道はないわ」

 出番だというので栄子は一寸私を振返って奥の方に入って行った。観客席の方に私は戻ったが、席の方にはどうしても入る気がしなかった。私は廊下に立ちすくみ、観客席から流れて来る笑声を聞きながら、ふとあふれて来る涙を押えかねていた。その束の間の感傷の中で、栄子がどこまでも堕ちるのなら私も一緒におちてやろうかという兇暴な思念にとらわれていた。――

 それから私は栄子の消息を聞かなかった。戦争の状態は段々悪くなって、島々を次々に取戻されて行った。重苦しい日々がっづいた。そして昭和二十年に入った。

 三月、ついに私がおそれていた召集令状が来た。

 三月十五日の入隊だというので、私がその用意をしている時であった。三月十日に本所深川が炎上し、その煙は私のアパアトからも見えた。私は別段感慨なくそれを眺めていた。

[やぶちゃん注:梅崎春生の本格的招集(実際には昭和十七年一月に一度召集されて対馬重兵隊に入隊したが、肺疾患のために即日帰郷している)は昭和十九年の六月である(佐世保相ノ裏海兵団配属)。従って、ここは時制的には梅崎春生の事蹟からは虚構である。なお、終戦時、梅崎春生は満三十歳であった。]

 翌日私のアパアトに栄子が訪ねて来た時、私は始めて栄子が本所に住んでいたことを思い出していた。栄子は着のみ着のままという姿で、肩の所の着物が裂けていたが、どこにも怪我はしていなかった。剝き出した肩の肉が少しよごれて、変に動物的な感じをそそった。栄子の顔は表情がすっかり無い感じでその癖眼ばかりぎらぎらと光っていた。何か気持がうわずっているらしく、部屋に入るなり両手を拡げて、

「死骸がこんなよ。ぞろぞろよ」

 そして両掌で顔をおおうと、暫くじっとしていた。頰がげっそりこけて髪はばらばらに乱れていた。

 しかし暫くしているうちに、少し落着いて来たらしく、私の外套をまとって火鉢にかぶさっていた。眼を上げてあたりを見廻した。

「何故荷物をまとめてるの。疎開するの」

「召集が来たのだよ」

 栄子は私を見て蒼い顔をしたが、何とも言わなかった。

 その夜私は栄子と同じ床に寝た、燈を消してからも栄子は身ぶるいしている感じで、しきりに顔を私の胸にすりよせて来た。うわごとのように何かしゃべっていた。

「皆死んじやったのよ。皆、一人残らず」

「死んだって良いよ」と慰める心算(つもり)で私も答えた。「お栄さんだけ生き残ればそれで沢山だよ」

「皆死んじゃった。あの子も死んじゃったよ」

 栄子は私の言う事も聞えぬ風(ふう)でうたうような調子でそう言った。あの子って誰だい、と笑いながら私が問い返そうとしたとたん、私の胸をかすめたのは、あの最初の夜身ごもっていた栄子の身体のことであった。私は口をつぐんだ。あるいは栄子は子供を産んだのかも知れなかった。栄子のその後のがむしゃらな生き方も、そんな事実を支えとしていたのかも知れないと思い当った時、私は錐(きり)を胸に刺されたようで、思わず栄子を抱く手に力をこめていた。栄子はじっとしていた。暫くして、

「貴方も戦争に行くのね。可笑(おか)しいわ」

 ぽつんとそう言った。

 翌朝早く私は起きた。出発の時間であった。栄子はやや元気を取戻していて、昨日のような錯乱の徴(しるし)はなかった。もし行く処がなければ私の部屋を使えるように管理人に話しても良いと思ったが、栄子はそれを断った。ただ写真を焼いたから、もう一枚呉れと言うだけであった。私は荷物をほぐして、アルバムをそっくりやった。生きて再び栄子と会える事もないと思うと、私の青春に栄子がどんな重大な意味を持っていたかが、悔恨に似た情と共に判然して来るのであった。

 駅まで送ろうかと栄子は言ったが、私は断った。そんなの感傷的だと思っているんでしょう、と栄子はその時始めて声を出して笑ったが、その眼は何か遥かなものを見つめているような具合であった。――

 その日から三年経つ。

 もはや栄子とも逢えぬと思いこんでいたのが、今この青ぐらい屋台店で一緒に酒を汲み交しているということが妙に可笑しくて、私はその気持を栄子に伝えたく、

「お互に此の十年間、何だかバラバラの生き方をして来て、そしてこんな処で又会ったりして本当におかしいな」

 酔いが少し廻って来たらしい。復員後私も又平凡な役人として碌々(ろくろく)とつとめているが、此の十年間自分の青春について考えて来たことが、何かことごとく虚しい妄想にすぎない気がするのも、ようやく私の気持が老い始めて来たせいに違いない。もはや現在の栄子に対しては、気持の食違いもなく淡々と面接出来るようであった。

「お栄さんが鰻(うなぎ)屋などとは思いもつかないね。もう音楽は止めたの」

「ああ。忘れてしまったわよ」

 栄子も盃をほしながら

「あたしも燈取虫みたいに、あっちへぶっつかりこっちへぶっつかりして生きて来たけれど、結局悲しかっただけで、何にも残っていなかった」

「そうかも知れないな」

 栄子の言葉はしみじみと私の胸にも落ちた。身体がばらばらになるような眼にあっても、此の女は強く生きて来た。

「終戦後は地下道に寝泊りさ。身寄りも皆消息がなくなってね。それからどうにかしなくちゃいけないと思って茨城に行ってさ、漫才をやってた頃の相棒がいてね、鰻が沢山とれるのよ、あそこらは」

「でケイちゃんというのは?」

「ああ、あの子は地下道で知合いになったのさ。一寸良い子でしょう」

 私はよしず越しに見たその若者の横顔を思い出していた。肩のきりっとした良い顔であった。そしてその顔は、あの古田の顔の感じにそっくりだった。一目見た時、それは私の胸に来ていたのである。肉付きがよくなって年増らしい落着きの出来た今の栄子の顔を私はふとぬすみ見ながら、その事が妙にかなしく心に沈みこんで来た。古田を嫉妬する気持から、今は私は遠く隔たっていたが、何か気持の感傷に私は落ちていた。

 台に置いた弁当箱が幽(かす)かに鳴った。手を伸ばして押えると、鈍く動きが手につたわって来た。箱の中で鰻はまだ生きて、はねかえっているらしかった。

 酔いが掌の尖まで届くのを覚えながら、私はその感触を暫く確めつづけていた。

 

 

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「八」 / 京都紀行~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 私はこれまで見たことのない方面を經て、別の道を辿つて歸つた。そこは寺ばかりであつた。非常に大きな美しい宅地の多い場所で、また魔法のために鎭められたやうに靜かであつた。住宅も店もない。ただ兩側に道路から後へ傾斜した淡黃色の塀があるのみであつた。塀は城壁のやうであるが、笠石や靑瓦の小さな屋根で蔽つてある。して、この黃色の傾斜せる塀(長い間隔を置いて一寸法師のやうな小門が穿つてある)の上に、杉と松と竹の柔らかな大きな茂林があつて、その中を貫いて天晴れ立派な彎曲を見せた屋根が聳えてゐる。これらの靜かな寺院の町が、秋の午後の光線で黃金を浴びた見返しの光景は、多年吐露しようと試みても駄目であつた思想のいかにも完全なる表現を、たまたま或る詩中に見出したやうな愉快の竦動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。「三」に出た「悚動」に同じ。ここは「慎み畏まること」の意か。というより、原文は“a thrill of pleasure”で、所謂、「衝動」「スリル」「ぞうぞくする感じ」の方が正しいだろう。]を私に與へた。

 しかもその魅力は何を以てできてゐたか。立派な塀はただ泥土を塗つたもの、山門や寺院は木材を組み合はせて瓦を載せたもの、叢林、石細工、蓮池は單なる造園に過ぎない。何等の堅牢なもの、何等の永續的なものはない。しかし線と色と影の、いかにも美麗なる聯結であつて、どんな言葉を用ひても、それを描寫する事はできない程である。否、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]その土塀は檸檬色の大理石に、その瓦は紫水晶に、寺院の材料は大光明王の經文に說いてある宮殿のそれの如き貴重なものに變はつたにしても、それでも此光明の美的暗示、夢のやうな安靜、渾然圓熟せる愛らしさと柔らかさを秋毫も[やぶちゃん注:「しうがう(しゅうごう)も」。熟語原義は「秋に抜け替わった獣の極めて細い毛」の意から「極めて小さいこと・微細なこと・わずかなこと」で、「聊(いささ)かも」の意。]も增す事はないだらう。恐らくはこの藝述がかくまでに驚嘆すべき所以は、まさしくその作り上げたものの材料が、かくまでに脆弱だからである。最も驚くべき建築、卽ちかの最も人を恍惚たらしむる風景は、最も輕い材料で作られてゐる――雲の材料で。

 しかし美をただ高價とか、堅固とか、『しつかりし實在』と聯結させてのみ考へる人人は、決してそれをこの國に求めてはいけない――この國を稱して日出の國といふのは、まことに當を得てゐる。何故なら、日出は幻迷の時だからである。山間や海邊にある日本の村落を――春曙秋晨[やぶちゃん注:「しゆんしよしうしん」。原文“a spring or autumn morning”。そっちの方が今の日本人には遙かに判る。]、恰も徐々ともちあかつて行く霧や霞を通して――日出後に眺めた光景ほど美はしいものはない――しかし實際的な觀察者に取つては、魅惑は霧や霞と共に消えてしまう。生硬な白光の下に、彼は紫水晶の宮殿も、黃金の帆も見出すことができぬ。ただ脆い木造草葺の小舍と、素木[やぶちゃん注:せめても「しらき」と訓じておく。]のま〻の奇異なる日本型船を見るのみだ。

 恐らくはいづれの國に於ても人生を美化する一切のものは、この通りであらう。人間界や自然界を面白く眺めるためには、私共は主我的或は客觀的の幻影を通してそれを見ねばならない。どんな風にそれが私共に映ずるかは、私共の内部に存する精神的狀態如何による。それにも關はらず眞なるものも眞ならざるものも、ひとしく其本體に於ては幻影的である。俗惡なもの、珍貴なもの、一見はかなく思はれるもの、永久的に見ゆるもの、すべて一樣に幽靈のやうなものに過ぎない。生まれてから死ぬるまで、いつも心の美麗なる靄を通して眺めてゐる人こそ最も幸福なのである――就中、愛の靄を通して眺めるにまさつたものはない。それはこの東洋の輝ける日光の如く、平凡なものを黃金に化するのである。

 

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「七」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 京都を立つ前に、私は畠山男子譯者註の墓を訪ねようと思つた。彼女の葬られてゐる場所を數人に尋ねても、わからなかつたので、丁度檀家を訪問のため私の宿へ來た僧侶に聞いてみようと思ひついた。彼はすぐに答ヘた。『末慶寺の墓地です』末慶寺といふのは、案内書にはしるしてなく、またどこか市の外づれに建てられた寺であつた。私は直に車を雇つて、約半時間の後、その門へ達した。

 

譯者註 畠山勇子は千葉縣安房國長狹郡鴨川町の女。明治二十四年[やぶちゃん注:一八九一年。]五月近江國大津に於て、露國皇太子が巡査津田三藏のため負傷するや、上下ために震駭す。この報千葉縣下に傳はるや、當時某家に雇はれ居たる勇子は、大に憂ひ、主家に請ひて直ちに京都に赴き、五月二十日夕景、京都府廰の門前に到り、露國大臣と日本政府に宛てたる二通の書面を車夫をして門番所に差出さしめ、やがて懷中より鋭利なる剃刀を取出し、自殺を遂ぐ。遺骸は京都大宮松原なる末慶寺に埋葬せらる。(「大日本人名辭書」)

[やぶちゃん注:憂国の烈女として知られる畠山勇子(慶応元一月二日(一八六五年一月二八日)~明治二四(一八九一)年五月二十日)は、「大津事件」でロシアとの国交が悪化するのを憂慮し、自らの死をもって国の危急を訴えた人物。安房国長狭(ながさ)郡(千葉県)生まれ。父治兵衛の没後、家運が傾き、十七歳で若松吉蔵に嫁いだが、二十三歳で離婚。勤王の侠商として知られた伯父榎本六兵衛を頼って上京した。万里小路家、横浜の実業家原六郎家、日本橋区室町の魚商の奉公人となったが、国政に関心を寄せ、国史や政治小説を愛読、周囲からは変人と目された。明治二四(一八九一)年五月に「大津事件」が勃発すると、悲憤慷慨し、「急用で故郷に帰らねばならない」といって暇をとり、伯父を訪ね、翌朝、新橋発二番列車に乗った。同月二十日、京都に着くと、本願寺などを詣で、同日午後七時過ぎ、京都府庁の門前で国を憂慮する気持ちを認(したた)めた遺書を残して、腹(以下のウィキでは『胸』とある)と喉を切って自殺した。満二十六歳であった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。より詳しい事蹟や写真はウィキの「畠山勇子」を見られたい)。「大津事件」は同年五月十一日、来日したロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(当時二十二歳)が、大津において、警備の巡査津田三蔵に斬られて負傷した事件。その裁判を巡って、政府側と大審院長児島惟謙(いけん)との見解が対立、紛糾した。別名「湖南事件」とも呼ぶ。皇太子一行が人力車で京町筋を通行中、路上の警備にあたっていた津田巡査が,突然、抜剣して皇太子の頭部に切りつけた。その動機は、皇太子の来遊が日本侵略の準備であるという噂を信じたためであった。旧刑法では謀殺未遂は死刑にならなかったが、政府側はロシアの報復を恐れ、不敬罪を適用して死刑にすることを企図し、裁判に強力に干渉した。しかし、大審院の臨時法廷は、大津地方裁判所で同月二十七日に開かれ、犯人は謀殺未遂に立件され、無期徒刑を宣告された(津田は七月二日に北海道標茶町(しべちゃちょう)にあった釧路集治監に移送・収監されたものの、身体衰弱につき、普通の労役ではなく藁工に従事したが、同年九月二十九日に急性肺炎を発症、翌三十日未明に獄死した)。この裁決は司法権の独立を守ったものとして広く知られている(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。なおこのロシア皇太子は後にロマノフ王朝最後の皇帝ニコライⅡ世となったが、ソビエト連邦の成立後、退位して幽閉され、一九一八年七月十七日に妻や子どもとともに処刑された)。小泉八雲(Lafcadio Hearn)は先行する来日後の第二作品集「東の国から」(Out of the EastReveries And Studies In New Japan:副題は「新しい日本に就いての夢想と研究」。明治二八(一八九五)年三月刊。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この時は未だ「Lafcadio Hearn」である)の「XI YUKO: A REMINISCENCE」(「勇子――一つの追想」)を既に書いて居る。同作品集は、近い将来、電子化注に取り掛かる予定である。また、それにもさらに先行する彼の来日後最初の大作である“Glimpses of Unfamiliar Japan”(一八九四年刊)にも、既に『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (二)』(リンク先は私の古い全電子化の一篇)で畠山勇子のことを記しているのである。

「末慶寺」(まつけいじ)は下京区中堂寺西寺町(ちゅうどうじにしでらちょう)にある浄土宗の寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 私が來意を告げた僧は、墓地――頗る大きい――に私を案内し、墓を示してくれた。からりと晴れた秋の日は、一切のものに光を浴びせ、墓面に幽靈のやうな黃金色を加味してゐた。そこに立派な大きな文字を深く彫つて、『烈女』といふ佛敎の尊稱接頭語を加へて、少女の名がしるしてあつた――

 

    烈女畠山勇子墓

 

 墓は手入れがよく行う屆いて、草は最近きちんと刈つてあつた。碑前に建てられた小さな木造の庇が、供へられた花、樒[やぶちゃん注:「しきみ」。]の枝、及び一個の淸水を入れた茶椀を蔽うてゐた。私は勇壯で犧牲的な靈魂に向つて心から敬意を表し、慣例の文句を唱へた[やぶちゃん注:本寺は浄土宗であるから「南無阿弥陀仏」であろう。]。他の參詣者の中には、神道の式によつて拜禮をするのも見受けられた。その邊には澤山の墓石が輻輳[やぶちゃん注:「ふくそう」。車の「輻(や)が轂(こしき)に集まる」意で、対象物が一ヶ所に集まること。込み合うこと。]してゐたので、碑背を見るために、私は塚域を踏む無禮を冒さねばならないことを知つた。しかし私は彼女が宥恕[やぶちゃん注:「いうじよ(ゆうじょ)」。寛大な心で許すこと。見逃してやること。]してくれるだらうと確信したから、恭しく踏み乍ら、背後へ𢌞つて行つて、碑文を寫した。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が四字下げでしかも碑本文は字間が半角空けてあるが、行頭へ引き上げ、字間は再現していない。]

 

勇子安房長狹郡鴨川町人天性好義明治二十四年五月二十日

有憂國事來訴京都府廰自斷喉死年二十七

            谷   鐡 臣 誌

            府 下 有 志 建 石

 

戒名は『義勇院頓室妙敬大姉』と讀れた。

[やぶちゃん注:訓読を要しないと思うが、一応、示しておく。

勇子、安房長狹郡鴨川町の人。天性、義を好む。明治二十四年五月二十日、憂國の事、有り、京都府廰に來り訴へ、自(みづか)ら喉(のど)を斷ちて死す。年、二十七。

碑文を書いた谷鉄臣(たに てつおみ 文政五(一八二二)年~明治三八(一九〇五)年)は元武士で官吏。近江彦根の町医者の長男として生まれ、江戸・長崎で経学、蘭方医学を学び、家業を継いだ。文久三(一八六三)年、彦根藩士にとりたてられ、藩の外交を担当。維新後は新政府の左院一等議官を務めた。

 なお、ここに示された戒名は墓の裏の墓誌に書かれているように見えるが、ネット上で複数の写真を確認しても、碑の表裏にはこの戒名は見当たらない。不審。或いは、位牌が寺内にあり、それを記したものか。識者の御教授を乞うものである。後で小泉八雲が彼女の葬儀が『神官によつて營まれた』以下の事実と関係があるものかも知れない。また、畠山勇子辞世の歌とされるものを見つけたので、以下に電子化しておく。

 

 今日來る

   ちなみも深き

      知恩寺の

  景色のよさに

     憂ひも忘るる

 

サイト「京都観光文化を考える会・都草」のこちらの画像にあるものをもとに、一部に手を加えて示した。]

 

 寺で僧は私に悲劇の遺物と紀念品を見せてくれた。小さな日本の剃刀は血が皮となつて、嘗て白く柔らかな紙を厚く其柄にまきつけたのが、固まつて一個の堅い赤色の塊となつてゐるもの――安價な財布――血で硬くなつた帶と衣類(着物の外は、すべて寺へ寄進するに先だち、警察の命令により洗濯された)――手紙及び控へ帳――勇子及びその墓の寫眞(私はこれを買ひ求めた)――墓地に於て葬式が神官によつて營まれた折の集會の寫眞などであつた。此神葬祭の事實は私に興味を與へた。何故なら、自殺は佛敎によつては宥されても、神佛兩信仰が同一の見地から考へる事は出來なかつたであらうから。衣類は粗末で安價のものであつた。彼女は旅費と埋葬の費用に當てるため、最上の所持品を質に入れたのであつた。私は彼女の傳記、死の物語、最後の手紙數通、種々の人が彼女のことを詠んだ歌――頗る高位の人の作歌もあつた――及び拙い肖像畫を載せた小册子を買つた。勇子とその親戚達の寫眞には、何も目立つたことはなかつた。かかる型の人々は、日常日本のいづこに於ても見ることができる。その册子の興味は、ただ著者とその主題の人物に關する心理的方面のみであつた。勇子の手紙は、日本人のかの奇異なる興奮歌態を示してゐた。恐ろしい目的は一刻の油斷なく緊張しながらも、しかも心は最も些々たる事實問題にも、あらゆる注意を與へ得るやうになつてゐる。控へ帳もまた同樣の證據を示した――

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が四字下げであるが、行頭へ引き上げた。字空けも再現していない。]

 

   明治二十四年五月十八日

金五錢    日本橋より上野へ車代

 

   同    十九日

金五錢    淺草馬町へ車代

金一錢五厘  下谷の髮結さんへ磨ぎ代として

金十圓    馬場の質屋佐野よち受け取る

金二十錢   新町へ汽車代

金一圓二錢  橫濱より靜岡へ汽車代

 

   同    二十日

金二圓九錢  靜岡より橫濱へ汽車代

金六錢    手紙二通の切手代

金十四錢   淸水にて

金十二錢五厘 傘のため車屋へ

[やぶちゃん注:ここで彼女が自死に際して静岡の清水へ向かったのか、私には不明である(親族がそこにいたのであろうか)。識者の御教授を乞うものだが、……私はそこで――静岡――義憤――自死――で……ふと、思い出すことがあるのだ……私のミクシィの古い友人で、私にその未明に遺書をメールし、静岡空港建設に抗議して静岡県庁前で焼身自殺(二〇〇七年六日午前三時五十分頃)した静岡の――井上英作氏――のことである。こちらの私の記事(遺書も電子化してある)を見られたい…………

 

 しかしここに現はれた整然たる規律的才能に對して、珍らしい對照を呈するのは、暇乞ひの手紙の詩趣であつた。それは次のやうな感想を含んでゐた――

 

 『八十八夜も夢の如く過ぎて、氷は淸けき滴りと變はり、雪は雨となりぬ。やがて櫻の花咲きいでて人の心をよろこばす。されど未だ風さへ觸れぬほどに、早くも散り始めるこそ哀れなれ。しばらくして、風は落花を吹き上げて、晴れ渡りたる春の空に舞はしむ。しかも妾[やぶちゃん注:「わらは」。]を愛し玉ふ方々の心は晴れやらで、春の愉快をも感じ玉はざるならん。續いて梅雨の季節となれば、皆樣の御心の中には一つの樂みもなからん………[やぶちゃん注:九点リーダはママ。以下同じ。]あはれ如何にかせまし。一刻として皆樣を思ひ奉らぬ時はなし………されどすべて氷も雪も遂には、とけて水となり、菊の香ばしき蕾は霜の中に咲く。何卒後日このことを御考へ下されたし………今は妾に取つて霜の時、菊の蕾の時と申すべきならむ。いよいよ花を開きさへせば、いとも皆樣をよろこばし奉ることならん。浮世にながらへ得ざるは、すべての人の運命、詮方なし。吳々も[やぶちゃん注:「くれぐれも」。]妾を不孝者と思召し玉はざるやう願ひ奉る。また妾を陰府へ失ひ玉ひしものと御考へ下さることなく、ただ將來の幸福を待ち玉はんことを』

 

 この小册子の編者は、この典型的婦人に豐かなる讃辭を浴びせ乍らも、しかもあまりに東洋流の婦人批評法に墮してゐた。官廰へ宛てた勇子の手紙に於て、彼女は家族的要求を述べてゐる。して、れを編者は婦人の弱點として批評を加へ、彼女は實際肉體的利己心の絕滅を成就したもの〻、彼女の家族について述べるのは『甚だ愚か心であつたと書いてゐる。もつと他の點に於ても、その册子はつまらぬものであつた。その平凡なる事實の曝露といふ、生硬强烈なる光の下に照らしてみると、一八九四年に書いた私の『勇子』と題する小品文譯者註は[やぶちゃん注:既注の第二作品集「東の国から」(Out of the EastReveries And Studies In New Japan)の「勇子――一つの追想」(XI YUKO: A REMINISCENCE)のこと。刊行は明治二八(一八九五)年三月刊であるが、「書いた」のは前年であるからおかしくない。]、あまりにも空想的に思はれた。しかし、それにも關はらず其事實の眞の詩味――單に國民の忠愛の情を表明せんがために、若い婦人をして自ら生命を捨つるに至らしめた純なる理想――は、依然として減ずることはない。取るに足らざる些細な乾燥なる事實を取り上げて、その大事實にけちをつけることは決して出來ない。

 

譯者註 本全集第四卷「東の國から」の最後の一篇である。

[やぶちゃん注:「第四卷」は「第五卷」の誤り。私の電子化が待ちきれない方は、 Internet Archive”のこちらから画像でどうぞ(戸澤正保氏の訳になる「勇子――追憶談」)。]

 

 この犧牲の行爲は、私を感動せしめたよりも、更に多く國民の感情を激勵した。勇子の寫眞と彼女に關する小册子は幾千となく賣れた。幾多の人が彼女の墓に詣つて[やぶちゃん注:「まゐつて」。]、供物を獻げ、また末慶寺にある遺物を眺めて敬慕の情に打たれた。して、凡てこれは誠に尤もなことと私は思つた。もし平凡な事實が、西洋で人々が好んで『上品な感情』と稱するものに取つて、不快の感を催さしめるとすれば、その上品は不自然で、その感情は淺薄であることの證據である。其の美は内的生命に存することを認めてゐる日本人に取つては、平凡些細な俗柄は、貴重なものである。それらは勇壯義烈の感を更に强め、且つ眞實ならしめる功能がある。あの血に汚れた、貧弱な物品類――粗末で地味な着物と帶、安價な小財布、質屋へ行つたことの覺え書き、手紙や寫眞や緻密な警察記錄に現はれたる赤裸々の尋常一樣な人間味の面影――すべてこれらは、恰もそれだけ眼に訴へる證據となつて、この事實を作つた感情に對する理解を充分完全ならしめる助けとなる。もし男子が日本一の美人であつて、彼女の家族は最も高い地位の人々であつたならば、彼女の犧牲の意義が身に浸みて感ぜられることは、遙かに少かつたであらう。實際の場合に於て、高尙なことを行ふものは、槪して普通の人であつて、非凡の人ではない。して、一般人民はこの尋常な事實のお蔭で、自分達の仲間の一人に於ける勇壯な特質を最もよく見ることを得て、自分達の光榮を感じてくる。西洋の多數の人は、普通人民から彼等の倫理學を今一度改めて習はねばならないだらう。西洋の敎養ある階級は、あまりに長く似て非なる理想主義、單なる因襲的肩書の雰同氣のうちに生活してきたので、純眞正直な溫かい感情は、彼等の眼には卑劣俗惡に映ずるのである。して、その當然避け難き罰として、彼等は見ること、聞くこと、感ずること、考へることができなくなつてくる。哀れなる勇子が、彼女の鏡の裏に書いた小さな歌詞の中には、西洋の月並的理想主義の大部分に於けるよりも、一層多くの眞理が含まれてゐる――

[やぶちゃん注:以下の短歌は底本では四字下げ。]

 

くもりなくこころの鏡みがきてぞよしあしともにあきらかにみむ

 

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「六」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 翌朝私が大行列を見るため外出すると、街上は群集充滿、誰れも動けないやうに見えた。けれど尼、すべての人々が動いてゐた。或は寧ろ𢌞流してゐた。丁度魚が群れをなしてゐるやうに、一般的にいつか知らぬ間にじりじりと滑るやうに進んでゐた。一見すると、人の頭と肩が堅固に押し合つえゐるやうな雜沓の中を通つて、私は苦もなく、約半哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは千六百九・三四メートルであるから、約八百五メートル。]ほどの距離にある親切な商人の家へ達した。どうしてこんなに人がぎつしり集つて、しかもそれがこのやうに安易に進み得るかといふ疑問は、日本人の性格のみが解釋を與へうるのである。私は一度も亂暴に推しのけられなかつた。しかし日本の群集は必らずしもすべて一樣ではない。その中を通過しようとすると、不快な結果を蒙るやうな場合もある。無論群集の靡くやうな流動性は、その性質の溫和に比例する。しかし日本に於けるその溫和の背景は、地方に隨つて大いに差異がある。中央部及び東國地方では、群集の親切さはその新文明に對する未經驗に比例するやうに見える。この多分百萬人にも及ぶ莫大の群集は、驚くほど優しく、また上機嫌であつた、その譯は、大部分の人々は、質樸な田舍者であつたからである。巡査がいよいよ行列のために通路を開くやうにしたとき、群集は我が儘勝手をいひ張らないで直に最も從順に列を作つた――小さな子供は前面に並び、大人は後方に控へて。

 九時といふ豫告であつたが、行列は殆ど十一時までも現はれなかつた。して、そのぎつしり詰まつた町の中で長く待つことは、辛抱づよい佛敎信者に取つてさへ窮屈であつたに相違ない。私は商人の家の表座敷で親切にも座布團を與へられた。しかし座布團は頗る柔らかで、待遇は慇懃を極めたものであつたけれども、私は遂にぢつとしてゐる姿勢に倦いてきたから外の群集の中へ出て行つて、初めは一方の足で立ち、それから他の片足で立つてゐて、待つ事の經驗に變化を與へた。けれども、かやうに私の場所を去るに先だち、幸にも私は商人の家に於ける客の中で、數名の頗る美しい京都の貴婦人を見ることができた。そのうちには一人の公爵夫人[やぶちゃん注:原文は“a princess”。「とある未婚の皇女」、昔風に言えば「ある宮家のお姫さま」か。但し、英語のプリンセスは「英国以外の公爵夫人」の意もある。但し、「公爵」のその「夫人」となると、皇族に限定されず、元公家及び勲功を認められた旧武家などを中心とした広汎な人物のその夫人となる。因みに、平井呈一氏も恒文社版「京都旅行」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では『さる宮家の姫君』と訳しておられる。これが誰なのか判らぬので、二様の訳を示しておく。]もあつた。京都はその婦人の美で有名である。して、私がこれまで見たうちで最も美しい日本婦人がそこにゐた――それは公爵夫人ではなく、商人の長男の内氣な若い花嫁であつた。美はただ皮相にとどまるといふ諺は、『皮相の見解に過ぎない』といふことは、ハーバート・スペンサーが生理學の法則によつて充分に證明してゐる。して、同一の法則は、舉止品位の優美は容色の美よりも更に一層深長なる意義を有することを示してゐる。花嫁の美は、まさしくかの體骼全部に亙つて力の最も有效に現はれてゐる種類の、世にも稀なる優美な形姿であつた――初めて見たとき人をびつくりさせ、更に見るたび每にますます驚嘆止まざらしむる優美であつた。日本の綺麗な女が、固有の美麗なる衣服でなく、他國の服裝をした場合にも、同樣綺麗に見えるのは頗る稀である。私共が普通日本婦人に於て優美と稱するものは、希臘人が優美と呼んだと思はれるものよりは、寧ろ形狀と姿勢の上品さである。この場合に於ては、その長い、輕い、細い、恰好のよい、申し分のないやうに緊まつた姿は、いかなる服裝をも品よく見せるであらう。そこには風の吹くときに若竹が示すやうな、たをやかな優美さが偲ばれた。

[やぶちゃん注:「ハーバート・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。「皮相の見解に過ぎない」という引用は、一八九一年刊の「科学的・政治的・思索的エッセイ集』(Essays: Scientific, Political, and Speculative)の第二巻十四章「個人的美」(Vol. 2, Ch. XIV, Personal Beauty)にある以下である。

   *

The saying that beauty is but skin deep is but a skin-deep saying.

   *

このパラドキシャルな明言は実に素敵だ。]

 

 行列のことを詳しく述べるのは、無暗に讀者を倦怠せしめるに過ぎないから、私はただ二三の槪說を試みるだけにしよう。行列の趣旨は、第八世紀に於ける京都の奠都の時から明治の今日に至るまで、京都の歷史上、諸時代に行はれたさまざまの文武の服裝を示し、また該歷史の中に活躍した主もなる武將の人物を現はすといふことであつた。少くとも二千名の人が大名、公卿、旗本、武士、家來、雲助[やぶちゃん注:原文は“carriers”であるから判らぬではないが、せめても「中間」(ちゅうげん)の方がいいように思う。]、樂師、白拍子に扮して、行列をなして進んで行つた。白拍子の役は藝者が勤めた。その中には大きな華でな[やぶちゃん注:「はでな」。]翼ある蝶々のやうな服裝をしたのもあつた。甲冑武器、古い頭飾りや衣裳は、實際過去の遺物であつて、舊家や職業的骨董家や私人の蒐集家からこの催のため出品されたのであつた。優秀れた武將――織田信長、加藤淸正、家康、秀吉――は、傳說に基づいて表現されてゐた。實際に猿のやうな顏の人が、有名な秀吉の役を演じてゐるのを見受けた。

 これらの過去の時代の光景が、人々の側を通つて行くとき、彼等はぢつと沈默を守つてゐた――西洋の讀者に取つては、不思議に思はれるかも知れないが、實はこの無言靜肅といふ事實は、非常な愉快を示してゐるのだ。實際、騷々しい表現によつて賞讃を示すとふこと一一例へば拍手喝采の如き――は、國民的情操と一致してゐない。軍隊の歡呼さへも、輸入されたものである。して、東京に於ける示威運動じみた喧囂[やぶちゃん注:「けんがう(けんごう)」。喧(やかま)しく騒がしいさま。]も、多分近頃から始つたもので、且つまた不自然の性質を帶びてゐる。私は千八百九十五年[やぶちゃん注:明治二十八年。本篇時制と同年。]に、その年のうちに神戶で二囘までも人を感動させるやうな、鎭まりかへつた光景を記憶してゐる。第一囘は行幸の場合であつた[やぶちゃん注:当時の神戸には御用邸があった。明治一九(一八八六)年に宇治川河口弁天町西側の海岸沿いにあり、三千九百七十坪の広大な敷地を擁した。明治四〇(一九〇七)年、東京倉庫が買い取っている。明治天皇の神戸への行幸は全二十四回で、この御用邸への行幸は九回という。思うにこれは、この「平安遷都千百年紀念祭」は開催が遅れたことは既に述べたが、同年五月二十三日に明治天皇が二条城本丸に行幸していることが確認出来たので、或いはこの時に神戸御用邸に立ち寄ったものかも知れない。]。非常な群集で、前方の數列は車駕通過の折跪坐したが、一つの囁き聲さへも聞こえなかつた。第二囘の目ざましい鎭靜は、出征軍が支那から凱旋の折であつた。その軍隊が歡迎のために建てられたる凱旋門の下を進行するに當つて、人民は一言の聲をも發しなかつた。私がその譯をきくと、『我々日本人は無言の方が一層よく政情を表はしうると考へる』といふ返事を受けた[やぶちゃん注:銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、日清戦争が終わり、日清講和条約が調印(四月十七日)され、同年『五月五日(日)、凱旋する兵士』の『出迎えの行列』『をセツ、一雄とともに『加わ』って見たことが記されてあり、また、凡そその一ヶ月後の六月九日(日)の条にも『帰還する兵士が神戸駅から「楠公さん」まで行進するのを、万右衛門と見に行く』(セツの養祖父稲垣万右衛門)とある。]。私はまたここに述べてもよいと思ふが、最近の日淸戰爭中、日本軍の戰鬪前に於ける氣味わるい靜肅は、いよいよ砲門を開くのよりも一層多く喧騷な支那人を恐怖せしめたのであつた。例外はあるけれども、一般的事實として次の如く述べ得ると思ふ。日本では感情がその苦樂いづれを問はず、深ければ深いほど、また場合が莊嚴或は悲壯であればあるほど、感じたり、行動したりする人々は、自然と呼ますます多く無言になつてくる。

 或る外國の見物人はこの時代行列を評して活氣がないといつた。して、燒きつけるやうな日光の下で着馴れぬ甲胃の重さのため壓迫された勇將の勇ましくない態度や、部下の隱しきれぬ疲勞についで、兎角の批判を加へた。しかし日本人に取つては、すべてかやうな點は阻つて一層その行列を現實化したのであつた。して、私は全くそれに同意であつた。事實、軍國史上の英雄豪傑は、ただ特異の場合に於てのみ天晴れ凛々しく見えたのだ。百戰鍛鍊の剛の[やぶちゃん注:「かうの(こうの)」。]者さへも、疲憊[やぶちゃん注:「ひはい」。疲れ果てて弱ること。疲労困憊(ひろうこんぱい)。]の經驗を嘗めてゐる。して、たしかに信長や秀吉や加藤淸正も、この京都の時代行列に於ける彼等の代表人物のやうに、幾たびか塵埃にまみれたり、疲れ果てた足を曳きずつたり、力なげに馬に乘つたりしてゐたことがあるに相違ない。苟も敎育ある日本人に對しては、いかに芝居じみた理想主義も、日本の豪傑輩の人間味といふ感を沒却させることはできない。これに反して、その人並な人間味の史的證據こそ、最も民衆の心に彼等を懷かしく感ぜしめ、その人並でなかつた一切精神的方面を、對照のためにいよいよ立派な、卓越なものとするのである。

 

 行列を見た扱、私は大極殿へ行つた。これは政府によつて建てられた壯麗なる紀念の神殿で、私の前囘の著書譯者註に述べてある。私は記念章を示してから、桓武天皇の宮を拜することを許された。して、可愛らしい巫女が差し出した淸淨潔白な粘土製の新しい杯から、天皇の紀念を祝する少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の酒をいただいた。神酒を飮んでから、小さな巫女はさつぱりした木箱にその白い杯を收め、紀念品として私に持つて歸らせた。このやきに、紀念章を買つてゐた人には、一個づつ新しい杯が與へられたのである。

 

譯者註 本全集第四卷「心」の第四章『旅日記から』參照。

[やぶちゃん注:小泉八雲が明治二九(一八九六)年三月に刊行した(この前月二月十日に帰化手続きが終わり、Lafcadio Hearnは小泉八雲に改名している)、来日後の第三作品集「心」(Kokoro:小説や随想など十五編から成る短編集)の「IV. FROM A TRAVELING DIARY」を指す。同作品集は、本作品集が終わった後、近日、電子化注に取り掛かる予定である。]

 

 かかる小さな財物や紀念品が、日本旅行の獨得な愉快の大部分をつくる。殆どいかなる町や村でも、ただその一個所に於てのみ作られ、他の場所では見出されない美しいものや、珍らしいものを土產として買ふことができる。それから、内地の諸地方では少しばかり寬濶[やぶちゃん注:「くわんくわつ(かんかつ)」この場合は、派手で贅沢なさま。平井呈一氏は恒文社版「京都旅行」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『すこし祝儀をはずむと』と美事に訳しておられる。]に振る舞ふ場合、屹度進物の謝禮を受ける。その品物は幾ら安價であつても、殆ど必らず驚異且つ愉快でないことはない。日本各地漫遊の際、私があちらこちらで手に入れた種種の品のうちで、最も綺麗なもの、また最も私が愛するものは、かやうにして得た奇異な小さな進物である。

 

2019/11/25

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「三」・「四」・「五」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 すべての繪畫を見てから、私は最近公開されたばかりの御所の大きな庭園を訪ねた。それは仙洞御所の庭と呼ばれてゐる(仙人といふ語に眞に適當する英語がないから、少くとも genii といふ語が、飜譯に當つて、用ひ得らる〻唯一の語である[やぶちゃん注:“genii”(ジンライ)は「童話で人間の姿になって願い事を叶えて呉れる精霊」を指す「genie」(ジンニィ)の複数形。]。仙人は不滅の生命を有し、森林洞窟に住むものと思はれてゐる。印度の Rishi が日本に於て、或は寧ろ支那に於て神話的變化を經たのである[やぶちゃん注:“Rishi”。「リシ」(元はサンスクリット語)。ウィキの「リシ」によれば、本来、古代インドに於いて『ヴェーダ聖典を感得したという神話・伝説上の聖者』或いは『賢者達のこと。漢訳仏典などでは「仙人」などとも訳され、インド学では「聖賢」などと訳され』、『インド神話に於いては、ヨーガの修行を積んだ苦行者であり、その結果として神々さえも服さざるをえない超能力(「苦行力」と呼ばれる)を体得した超人として描かれることが多い。また、神秘的霊感を以て宗教詩を感得し詠むという。俗界を離れた山林などに住み、樹木の皮などでできた粗末な衣をまとい、長髪であるという』。『一般には温厚であるが、一度』、『怒りを発すると手がつけられなくなり、その超能力で、条件付きの死の宣告(「〜をしたら死ぬ」など)をしたり、雨を降らせないなどの災いを引き起こしたりするという』とある。])。その庭園は名にふさはしいものであつた。私は實際神仙の幽境へ入つたやうに感じた。

 それは山水の景を模した庭園である。――佛敎のために創造されたものである。昔は世俗的虛榮に倦いた帝王や、皇子達のために宗敎的隱遁所として建てられたる僧院が、今は單に御所となつてゐるのである。この庭園はそれに附屬してゐる。門と入つてから受ける印象は、大きな古い英國の公園といふ印象である。巨大なる樹木、短く刈られた芝生、廣い步道、靑々たる草木の新鮮で心地よい香りは、すべて英國の思ひ出を與へる。しかし、もつと進んで行くにつれて、これらの思ひ出は次第に消されて、眞正の東洋風な印象が判然としてくる。それらの巍然たる[やぶちゃん注:「ぎぜんたる」。高くそびえたっているさま。また、抜きん出て偉大なさま。]喬木は、歐洲のものでないことが認められ、さまざまの驚くべき異國的な細部が現はれてくる。すると、一面の池が眼下にひらけて、高い岩と小さな島がその中に浮かんで、頗る奇異な形の橋で連結されてゐる。徐々と――ただ徐々とこの境地の無限なる魅力、怪奇なる佛敎的魅力が身に迫つてくる。して、その非常に古いといふ感じは、遂にかの畏怖の悚動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。「竦動」とも書く。「悚」は「恐れる」、「竦」は「慎む・身が竦(すく)む」の意で、「動きを慎むこと」・「慎み畏まること」・「恐怖のために身が縮まること」を謂う。]を齎す審美感の琴線に觸れた。

 單に人間の仕事として考へただけでも、この庭は驚異であスこその設計に於ける巨岩の骨骼だけを結合するのにも、數千人の熟練なる勞働を俟つて、始めて成つたのであらう。この庭は一たび形が作られ、土を盛られ、樹木を栽培されてから、その後は自然がその奇蹟を完成するま〻に委せてあつた。千年の間を通じて、働いた自然は、藝術家の夢想を超越した――否、言語を絕するほどに、その夢想を擴大したのであつた。日本の造園術の法則と趣意に通じてゐない外國人は、正確に敎へられない限りは、すべてこれが數千年前、人間の設計者によつたものだと想像することはできないだらう。初めから人の手に觸る〻ことなく自然のま〻で保護されて、しかも舊都の中心に世間から隔絕してゐる原始林の一部といふ趣を呈してゐる。岩石の表面、大きな怪異な樹根、林間の幽徑、幾つかの古い一本石の碑など、すべて長い年代の苔を帶びてゐる。して、攀蔓[やぶちゃん注:「はんまん」と音読みしておく。蔓性植物類のこと。]植物は一尺も厚さのある莖となつて、巨蛇の如く梢隙[やぶちゃん注:「しやうげき(しょうげき)」梢(こずえ)の隙間。]に懸かつてゐる。此庭の或る部分は、鮮かにアングティルズ群島に於ける熱帶的性質の光景を想起させる――尤もここには棕櫚や、驚くべき蛛網[やぶちゃん注:「くものす」と訓じておく。]狀を成せる攀援莖[やぶちゃん注:「はんゑんけい」と音読みしておく。茎でつかまって攀じ登る性質の植物。蔓性植物だけではなく、もっと広義である。]植物や、爬行動物[やぶちゃん注:「爬行」(はかう(はこう))は這って歩くこと。ここは爬虫類に同じい。]や、西印度森林の凄い日中の靜けさはない。空に賑はしく鳥が騷いでゐるのには驚かされる。それはこの僧院の極樂に棲む野生動物は、未だ嘗て人間によつて危害や脅威を加へられたことがないといふことを、嬉しがつて聲明してゐるのだ。私は戀々[やぶちゃん注:「れんれん」。「思い切れずに執着すること」・「恋い慕って思い切れないさま」・「執着して未練がましいさま」。]去るに忍び難くも、遂に出口に達したとき、この庭の番人を羨望するの念に堪へなかつた。かやうな庭の奉公人となるだけでも、充分に羨ましい特權といふべきであらう。

譯者註 墨其古灣[やぶちゃん注:「メキシコ湾」。現行では「墨西哥」が一般的。]の東南に羅列せる西印度諸島の一群。そこで二箇年間滯在せられたヘルン先生の眼底には、熱帶風物の驚異が浸染してゐたので、先生の文章の中には、よく比較の材料になつてゐる。

[やぶちゃん注:「アングティルズ群島」“Antilles”。アンティル諸島は、中央アメリカに位置し、西インド諸島の主要部を構成する諸島。フロリダ南方から南米大陸近海まで三千二百キロメートルに亙って伸び、カリブ海を大西洋・メキシコ湾から分けている。位置は参照したウィキの「アンティル諸島」を参照されたいが、その中の、南東の小アンティル諸島に属するウィンドワード諸島にあるフランス領アンティルのマルティニーク島に、小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて旅している。]

 

       

 空腹を感じたので、私の宿は甚だ遠かつたから、私は車夫に料理屋へ行くことを命じた。すると、車夫は私を裏町へ運んで行つて、入口の上に綴りの違つた英語をペンキで書いた、あぶなさうな建物の前でとまつた。私はただ Forign [やぶちゃん注:「外国の・外国人の」の意の「foreign」をスペル・ミスした看板字。]といふ文字だけを覺えてゐる。靴を股いでから私は勾配の急な階段、或は寧ろ梯子を登つて行くと、三階には西洋風に裝飾された室がつづいてゐた。窓には玻璃を用ひてあつた。リンネル類も申し分がなかつた。唯一の日本風のものは疊と煙草盆であつた。米同型の着色石版畫が壁を飾つてゐた。しかし私はここへ入つた西洋人は殆ど無いだらうと思つた。此家は洋食を辨當箱に入れて、宿屋へ仕出しをするのであつた。して、室は日本人の客のために設備したものに相違なかつた。

 私はここの皿、コツプ其他の器具は、開港場の一つに存在してゐたが、今では疾くの昔になくなつた英國ホテルの名の組み合はせ文字を帶びてゐる事に目が留つた。食事は綺麗な娘達によつて運ばれた。彼等はたしかに西洋式給仕法に通じた人から仕込まれたのである。しかし彼等の無邪氣な好奇心と非常な内氣は、彼等が未だ嘗て眞の西洋客に接したことのないのを私に信ぜしめた。突然私は室の一方の卓上に自動奏樂機のやうなものを一枚の釣針編み[やぶちゃん注:レース。]で覆つたのを發見した! 私はそこへ行つて、癈物の奏樂機[やぶちゃん注:箱型の手回しオルガン。]を發見した。そこには澤山の穿孔式樂譜があつた。私は曲柄[やぶちゃん注:「きよくへい」と音読みしておく。原文を見ると、この部分は“I fixed the crank in place”とあるから、手回しオルガンのクランク(ハンドル)であることが判る。]をその場所にはめて、『五十萬の惡魔』と題する獨逸の歌を出さうと試みた。その機械はごろごろと鳴つて、呻つて、しばらく怒號し、嗚咽し、また怒號し、それから默つてしまつた。私は『コタヌヴィエの時計』など、他の數曲を試みたが、その發音の喧騷囂々[やぶちゃん注:「けんさうがうがう(けんそうごうごう)」。喧(やか)しく騒がしいさま。]は皆同一であつた。明らかにこの機械は開港場の外國人居留地に於ける競賣で、頭字入り和蘭燒[やぶちゃん注:原文は“monogram-bearing delft”で、これは「特定の製作者・窯元名が明記されたオランダの陶器のデルフト焼」の謂いであろう。デルフト陶器(Delfts blauw)はオランダのデルフト及びその近辺で十六世紀から生産されている陶器で、白色の釉薬を下地にして、スズ釉薬を用いて彩色・絵付けされるものを指す。]及び英國燒の陶器と共に買はれたものである。これらのものを見るとき、何とも云ひやうのない一種の奇異なる憂鬱を感ずる。何故それがかやうに遠謫[やぶちゃん注:「えんたく」。遠く流されてくること。]された光景を呈し、かくまで哀れにも場所外づれて見え、かくも全然誤解されたさまに映ずるかを理解することは、自身日本に住んだ人でなくては不可能である。西洋の和絃的音樂[やぶちゃん注:“harmonized Western music”。西洋音階で和声化された西洋音楽。]は、普通日本人の耳には、單にそれだけの騷音となつて聞こえる。して、私はたしかにこの機械の内部構造は、その東洋の所有者には不明となつてゐるだらうと感じた。

[やぶちゃん注:「!」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。

「奏樂機」原文は“herophone”とあるが、この単語、辞書に載っておらず、調べるのに手こずった。サイト「小さなオルゴールの博物館」のこちらでやっと判明した。これはドイツ製の手回しオルガン(オルゴール)である「オルガネット」「アモレット」と呼ばれたものの前身型のようである。そこに(数字は半角にした、『アモレットは1897年から発売。当初は44から72リードの大きなサイズのものが発表され、後に16リードから108リードまでのモデルが製造された。16ノートのフリー・リードを使用したこの機種は様々なケースに入れられ製造された家庭用オルガンのひとつ。直径22.5』センチメートルの『金属のディスクに音符を記憶させ、ディスクの突起がリードのレバーの上にくると、レバーがもちあがりバルブが開く、そこに空気が通り奏鳴する。ハンドルを回転させるとフイゴに空気が送られ、ディスクが回転する。また同時に、ケースの正面にセットされた二人の踊り子も曲にあわせて回転する。1905年当時、30マルクで販売されていた』とあり、さらに、『ユーフォニカ(ドイツ ライプチッヒ)』の項に、『ユーフォニカ(Euphonika Musikwerke)はドイツ、ライプチッヒのオルガネットのメーカー。1890年頃から表れ、19世紀後半から20世紀にかけて、その他のヨーロッパのメーカー達とオルガネットを販売した。ユーフォニカブランドの中には以下のものがある』として、ブランド名が以下のように載る。

   《引用開始》

Amorette,Atlas,Dolcine,Favorite,Hamonicon,Herophone,Iris,Libelle,Lucca,Lux,Mandolinata,Manopan

   《引用終了》

『様々なブランドがあるが、ケースが異なるだけでメカニズムは簡単なもの、共通のものも多かった』とあるのだが、そのブランド名の六番目に、まさにこの「Herophone」が載っているのである。小泉八雲の以下の説明からも以上と同型のものと考えられる。但し、小泉八雲がこれ(しかも明治初年の舶来で古物とする)を見たのは明治二八(一八九五)年で、「アモレット」の製造はその二年後であることから、前身型と言い添えておいた。なお、リンク先では動画で実物の演奏も視聴出来る

「五十萬の惡魔」原文“Five Hundred Thousand Devils”。歌曲の一つらしいが、詳細不祥。識者の御教授を乞う。

「コタヌヴィエの時計」原文“Les Cloches de Corneville”。「コルヌヴィルの鐘」。フランスの作曲家ロベール・プランケット(Robert Planquette 一八四八年~一九〇三年)作曲他で創られた全三幕のオペラ。一八七二年パリ初演。]

 

 同じやうに珍らしいが、しかしもつと愉快な經驗が、宿へ歸る道中に私を待ち受けてゐた。私は少し許り骨董品を眺めるために古道具屋へ立ち寄つた。して、夥しい古本の内に、非常に汚れた金文字で、『大西洋月刊雜誌(アトランチツク・マンスリー)』と題せる大册を認めた。更に近寄つて見ると、私は『第五卷、ボストン市ティクナー・エンド・フールズ書店發行、一八六〇年』とあるのを讀んだ。一八六〇年の『大西洋月刊雜誌』は何處にもあまり普通あるものではない。私は値段を尋ねた。すると、日本人の店主は、それは『非常な大册ですから』といつて、五十錢と答へた。私は頗る嬉しかつたので、彼と値段の懸け合ひをしようとは考へないで、直に其掘り出し物を手に入れた。私は其汚れたペーヂを通覽して昔馴染の作家を探してみると、それを發見した――一八六五年にはすべて無名であつたのが、一八九五年の今日に於ては世界的に有名なのが多い。そのうちには『敎授の話』といふ題の下に『エルジー・ヴェナー』譯者註一の續稿が載つてゐた。『ロバ・デイ・ロマ』の數章もあつた。『ピサゴラス』と題する詩があつた。これは後に『輪𢌞』と改題されたことは、トマス・ベーリー・オールドリッチ譯者註二の愛讀者が屹度知つてゐる通りである。ニカラグアに於てウオーカー譯者註三と共に劫

 

譯者註一 オリヴァア・ウエンデル・ホームズ(一八〇九――一二八九四年)の著はせる小說。

譯者註二 オールドリッチ(一八三六――一九〇七年)は「アトランチツク・マンスリー」の主筆をした人。

譯者註三 ヰリヤム・ウオーカー(一八二四――一八六〇年)は米國の冒險家で、ニカラグアに於て自ら大統領と稱したが追放された。

 

掠[やぶちゃん注:「ごふりやく(ごうりゃく)」。脅して奪い取ること。]を行つた兵士の追放談、ヂヤマイカ及びサリナム[やぶちゃん注:南アメリカの北東部に位置するスリナム。旧「オランダ領ギアナ」。現在のスリナム共和国(オランダ語::Republiek Suriname)。]の脫走黑人に關する立派な論文、それから猶ほ他の貴重な諸資料の一つに、日本に關する論文があつた。その劈頭の文句は、次の如き意義の深いものであつた。『日本から使節がこの國に到着したこと、かの寡默にして嫉妬深き國民によつて、外國へ送られたる初めての政治的派遣員の渡來は、今や世間一般に取つて興味ある問題となつてゐる』少し進んでから、當時の通俗的誤解が、次の如く矯正してある。『今では全然別個のものとわかつてゐるが、支那人と日本人は久しく同種族と考へられ、且つ一樣に尊敬されてゐた………[やぶちゃん注:九点リーダはママ。]詳細に調べてみると、支那について想像されたる魅惑的性質が消えると共に、日本については、それが一層明白になつてくることを我々は見出す』この自我主張的な明治二十八年譯者註のいかなる日本人も、三十五年前に於ける『大西洋月刊雜誌』の日本に對する、次の如き評論に向つては、非難を加へることができないだらう。『その優れたる位置、その富、その通商的資源、及びその國民の敏捷なる智力――智力は當然その發展に於ては局限せらる〻處があつても、毫も西洋人に劣つてゐない――これらの諸要素は、日本に與ふるに、いかなる他の東洋諸國よりも遙かに超越的重要を以てする』この寬大な評論の唯一の誤謬は、數世紀の昔からの古い誤謬、卽ち日本の富といふ迷妄であつた。私をして少々昔風に感ぜしめたのは、現今一般に知れ渡つてゐる將軍、大君[やぶちゃん注:「たいくん」。原文“Taikun”。]、神道、九州、秀吉及び信長といふ名に對して、昔の和蘭及びゼズイット學者の奇妙なる綴字―― Ziogoon, Tycoon, Sintoo, Kiusiu, Fide-yosi, Nobanunga ――を見出したことであつた。

 

譯者註 日淸戰爭に連戦連勝のため、日本人の國民的自覺の勃興した時期である。

[やぶちゃん注:「大西洋月刊雜誌(アトランチツク・マンスリー)」原文“ATLANTIC MONTHLY”。この月刊雑誌は一八五七年にアメリカのボストンでジェームス・ラッセル・ローエル(James Russell Lowell  一八一九年 ~一八九一年)編集で創刊された月刊誌で、誌名をつけた定期寄稿者であったオリヴァー・ウェンデル・ホームズ・シニア(Oliver Wendell Holmes Sr 一八〇九年~一八九四年:アメリカの作家で医学者。しばしば十九世紀の最も優れた作家の一人と称され、著名な医学改革者ともされている)のエッセー・シリーズ『朝食のテーブルの独裁者』(The Autocrat of the Breakfast-Table:一八五八年)その他が好評を博した。当初はニューイングランドを中心とした文芸雑誌の性格が強かったが,南北戦争の頃から政治・時事問題を扱い始め、戦後はオハイオ生れのW.D.ハウエルズが主筆(一八七一年~一八八一年在任)となり、文化的広がりを与えた。二十世紀に入ってからは文学的個性は少なくなり、時局ものに重きを置いている。現在も総合月刊誌“The Atlantic”として発行されている(ここは平凡社「世界大百科事典」及び英文ウィキの「The Atlantic及びそのリンク先の英文ウィキに拠った)。新潮文庫上田和夫訳「小泉八雲集」年譜の明治二四(一八九〇)年の条に、『秋、「アトランティック・マンスリー」誌に日本印象記を連載、好評を博する』とある。

「第五卷、ボストン市ティクナー・エンド・フヰールズ書店發行、一八六〇年」“Vol. V. Boston: Ticknor & Fields.  1860”。日本は万延元年相当。

「『敎授の話』といふ題の下に『エルジー・ヴェナー』の續稿が載つてゐた」“There were installments of "Elsie Venner," under the title of "The Professor's Story;"”。作者「オリヴァア・ウエンデル・ホームズ」は前注参照。「エルジー・ヴェナー」は彼の最初の小説で、そのオリジナルは一八五九年十二月に「教授の物語」(The Professor's Story)として『アトランティック・マンスリー』で連載された。英文ウィキに独立解説ページがある。

『ロバ・デイ・ロマ』“Roba di Roma”はアメリカの彫刻家・詩人で美術評論家・編集者でもあったウィリアム・ウェットモア・ストーリー(William Wetmore Story 一八一九年~一八九五年) の現代のローマの美術研究や詩・随想からなるものらしく、刊本は一八六二年にロンドンで出版され、多くの文化人に読まれたという。書名はイタリア語で「ローマというもの」の謂いか。

「『ピサゴラス』と題する詩があつた。これは後に『輪𢌞』と改題されたことは、トマス・ベーリー・オールドリッチの愛讀者が屹度知つてゐる通りである」原文は“a poem called "Pythagoras," but since renamed "Metempsychosis," as lovers of Thomas Bailey Aldrich are doubtless aware;”。トーマス・ベイリー・オールドリッチ(Thomas Bailey Aldrich 一八三六 年~一九〇七年)はアメリカの作家・詩人・評論家及び編集者で、『アトランティック・マンスリー』の編集者を一八八一年から一八九〇年まで務めている。「ピサゴラス」はピタゴラスのこと。ネィテイヴの発音は「ピィサィゴラス」に近いから誤字・誤植ではあるまい。「Metempsychosis」(メテンプサィキィシィス)は「霊魂の再生・転生」「輪廻」と訳される。この奇妙に改題された詩篇の内容は私は不明だが、オールドリッチの詩の中でも最も野心的な作品であることが彼についての英文の評伝中に確認出来た。

「ゼズイット學者」“Jesuit writers”。「Jesuit」はジェスイット(ジェズイット)教団で、カトリック教会の男子修道会「イエズス会」(ラテン語: Societatis Iesu)のこと。一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、世界各地への宣教に務め、日本に初めてキリスト教を齎したことで本邦ではよく知られる。イエス(・キリスト)を表わす「Jesus」が形容詞した「Jesuitic」 が語源。カトリック教学の学者。

「Ziogoon, Tycoon, Sintoo, Kiusiu, Fide-yosi, Nobanunga」面白いので漢字(新字)とひらがなに直しておく。「将軍(ずぃおぐぅーん)」・「大君(ちぃこーん)」・「神道(しんとぅー)」・「九州(きうしう)」・「秀吉(ふぃで よし)」・「信長(のばんぬんが)」。]

 

 私は照明された街頭をぶらついて夜を過ごし、また澤山の見世物のきも、二三を觀覽した。私は一靑年が佛敎の經文を書き、また足で馬を描くのを見た[やぶちゃん注:「足で」は「靑年が」の後に引き上げて訳すべきところ。]。この技倆について特異な事は、經文の文字が逆さまに後方へと書かれ――丁度普通の書家が行の上から下へ書いて行くのと同じく、行の下から上へ向つて書かれ……また、馬の畫はいつも尾から描き始められたことであつた。私は一種の圓戲場[やぶちゃん注:原文“amphitheatre”。「円形劇場」を意味するラテン語アンフィテアトルム(amphitheatrum)の英語化。古代ローマに於ける剣闘士競技などが行われたあれ。]を見た。そこでは鬪場[やぶちゃん注:闘技場。]の代はりに水族館があつて、人魚が泳いで日本の歌を歌つてゐた。私は日本の菊花栽培者によつて、『花から魔法で作られた乙女』[やぶちゃん注:菊人形のこと。]を見た。それから、折々私は玩具店を覗いてみると、珍奇なものが充滿してゐた。そこで特に私を感服させたのは、日本の發明家が非常に僅少な費用を以て、西洋の高價な機械仕掛の玩具に於けるのと同一の結果に達しうる、驚くべき巧妙の發揮であつた。一群の紙製の鷄が、竹の彈機[やぶちゃん注:「バネ」と当て訓しておく。]の壓力によつて籃の中から假想的の穀粒を啄き[やぶちゃん注:「つつき」。]出すやうにしたのがあつた。代價は僅に五厘であつた。人工品の鼠が走り𢌞つて、疊の下や孔隙の中へにげ込まうとするかの如く、後戾りしたり、疾走したりした。その代價はただ一錢で、一片の色紙、粘土燒の糸卷枠、及び一本の長い糸で作られ、ただ糸を引きさへすれば、鼠は走りだすのであつた。紙製の蝶が同じやうに簡單な工夫で動いて、空中へ投げると、飛び始めた。模造の烏賊の頭の下へ附けてある藺[やぶちゃん注:「ゐ」。[やぶちゃん注:「ゐ」。原文“rush”。単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ属イグサ Juncus effusus var. decipens。]の小管を吹くと、それはすべてその觸手をうごめかし始めた。

 

 私が歸らうと決心した時には、燈火は消え、店は閉鎖され始めてゐた。して、私が宿に達しない内に、既に私の通路の町は暗くなつた。照明の非常な輝き、妖術のやうな見世物、賑やかな雜沓、下駄の海の如き輝き、この急に變はつた空漠と沈默――これらのものは私をして恰も以前の經驗は眞實でなかつたかのやうに、妖狐の物語に於ける如く、まさしく人を騙すために作られた光と色と昔の迷妄であつたやうに感ぜしめた。しかし日本の祭りの夕を成す一切のものが、急速に消滅するのは、實際記憶の快感を一層痛切ならしめる。この變幻極まりなき光景は、徐々と消えてゆくといふことはない。かくて、その記憶は毫も憂鬱の色を帶びないやうになる。

 

       

 私が日本の娛樂について、その妙趣が散り易いことを考へてゐた時、すべての快樂の痛切さは、その消散し易さに比例するではないかといふ疑問が私の心に起こつた。これを肯定する證據は、快樂の性質に關する佛敎の說に對して、有力なる援助を與へることとなるだらう。もともと精神的の娛樂は、それを作る思想感情の複雜さに比例して力を增すものである。隨つて最も複雜なる感情は、必然最も時間の短いものであらねばならぬと思はれる。要するに、日本の通俗的娛樂は、消散し易いことと、複雜なことの二重の特徵を有つてゐる。その譯は、單にそれが纎麗[やぶちゃん注:「せんれい」。ほっそりとして美しいこと。しなやかで美しいさま。]優美で且つ細部が夥多[やぶちゃん注:「くわた(かた)」。物事が多過ぎるほどにあること。夥(おびただ)しいさま。]だからばかりではなく、この纎麗と夥多は、一時的狀況と結合に基づいて、偶發的だからである。かかる狀況といふのは、開花と衰萎の季節、日光の時や、滿月の折、場所の變化、明暗の移動などである。また結合といふのは、民族的天才の祝祭に於ける刹那的發露、幻影を作るために利用されたる脆弱な諸材料、夢を具體化したもの、象徵、肖像、表意文字、彩色の筆觸及び旋律の斷片などの中に復活せられたる記憶、個人の經驗並びに國民的情操に訴へる無數の微妙なる方法を指すのである。して、その情緖的結果は、西洋人の心へは通じないで終つてしまう。何故といふに、その結果を生ずる數限りなき細部と暗示は、多年親灸熟達の効を積んだ後でなくては到底不可解なる別世界――西洋人が一般にすこしも知らない傳統、信仰、迷信、感情、思想の世界――のものだからである。その世界を知つてゐる少數の人々によつてさへ、日本人の享樂の光景によつて惹き起こされる、名狀し難く、優雅な感じの、茫漠たる浪は、ただ『日本の感じ』として述べられうるに過ぎない。

 

 これらの娛樂の驚くばかり安價なことによつて、一つの興味ある社會學的事實が暗示される。日本人の生活の妙味は、貧乏が美的情操の發達に於ける一勢力である――或は少くともその發達の方向と擴張を決定する一要素である――といふすばらしい現象を私共に見せてゐる。もし貧乏でなかつたら、この國民が夙に快樂を最も高價贅澤な經驗としないで、極めて普通容易なものとする祕訣を發見するといふことはなかつたであらう――それは實に無から美を創造する天工神技なのだ。

 この安價低廉の一つの理由は、國民が一切の自然物に――山水、雲霧、日沒の光景に――鳥や昆蟲や花卉の風姿に――西洋人よりも遙かに多くの愉快を發見する能力を有することである。それは彼等が視覺上の經驗を藝術に表現したものの鮮明によつてわかる。今一つの理由は、國民的宗敎と古風な敎育が想像力を養成して、その結果、苟も昔の物語や傳說を暗示しうるものならば、いかに些々たるものでも、想像力を鼓舞して、愉快に活動せしめることである。

 恐らくは日本の安價な娛樂は、自然によつて與へられた季節と場所に人力を加へたものと、自然の暗示によつて人間の作れる季節と場所のものとに、大別することができるだら。前者の種類は、あらゆる國々に見出され、また年々增加してゆく。山上、海岸、湖畔、河邊の或る地方を選定し、庭園を作り、樹木を植ゑ、最も見晴らしのよい地點に茶亭を設ける。すると、荒涼たる土地が間もなく娛樂を趁ふ[やぶちゃん注:「おふ」。追い求める。]人のため行樂の境と變はつてくる。或る場所は櫻のも所、他の場所は紅葉の勝地、更に他の場所は藤の名所である。して、四季ははそれぞれ――雪降る冬さへも――或る土地に特別の美觀を與へる。だから、最も有名な社寺或は少くともその大部分は、いつも自然の美が宗敎的建築家に感激を起こさせ、幾多の人をして今猶ほ佛僧又は神官たることを願はせるやうな路地を選んで建てられてゐる。實際日本に於ては到る處宗敎が有名な風景と相伴なつてゐて、山水、瀑布、峯、岩、島とか、或は花の咲いたのや、秋の月が水を照らしたのや、夏の夕べ螢の群れが燦めくのを眺めるによい絕勝佳景と聯結されてゐる。

 裝飾、飾燈、あらゆる種類の街頭の盛觀、特に祝祭日の壯景は、すべての人が樂み得る都會生活の娛樂の大部分を成してゐる。かやうにして祭日祝節に於て審美的趣向に訴へることは、多分數千人の手と頭腦の働きを示すものであるが、公共的努力に對する各個の貢獻者は、昔からの規則を遵守しながら、しかも自己獨得の考案と趣味に隨つて働く。だから、その綜合の結果は驚くばかりに案外不思議なる多種多樣を現はす。かかる場合に當つては、誰れでも助力することができるし、また誰れも助力を惜まない。それは最も低廉な材料が用ひられるからである。紙でも、藁でも、または石でも何等實際の差異を呈する事はない。藝術感は天晴れ材料の如何を超越してゐる。その材料に形を與へるものは。自然物、または實物に對する完全なる理解力である。鷄の羽毛で作つた花であらうと、粘土の龜や家鴨や雀であらうと、または厚紙製の蟋蟀、蟷螂、或は蛙であらうと、その原物に對する觀念は充分よく考へられ、正確に實現されてゐる。泥土の蜘蛛が糸を吐き、網を作りつつあるやうに見え、紙の蝶は人の目を欺く。何等の原型は要らない一――或は寧ろ、いづれの場合に於ける原型も、原物または生きたる事實の精密なる記憶に外ならない。私は人形屋に二十個の小さな紙製人形を依賴した――それぞれ異つた髮の結び方をして、全部で京都の女の髮の主もなる形を示すやうにと求めた。一人の娘が白紙、繪具、糊、松材の薄片を用ひて仕事を始めた。すると、それらの人形は畫家が同數のかやうな姿を描くに要するだらうのと殆ど同じ時間にでき上がつた。實際にかかつた時間は、ただ手指の動作に要つただけで[やぶちゃん注:「かかつただけで」。]、直したり、比較したり、改良したりするためではなかつた――腦中の幻像は、彼女の纎手の動くのと同速力を以て實現したのであつた。緣日の夜の珍奇な品は大抵そんな風にして作られたものである――指頭で扭つて[やぶちゃん注:「ねぢつて」或は「ひねつて」。]すぐ出來あがつた玩具、古い布片に數囘毛筆を揮つて綾模樣の反物に變へたもの、砂で描いた畫。このやうな妖魔的伎倆は、また

人間の姿態をも利用する。平常目立たない子供に、繪具と白粉[やぶちゃん注:「おしろひ」。]を巧みに塗抹すること二三囘、それから、飾光に對して工夫せられたる衣裳を着せると、忽然それが化して小妖精となる。線と色に對する豐富な藝術感は、いかなる變幻の術をも行ふことができる。裝飾の調子は決して出鱈目に委せないで、知識に基づいてゐる。飾燈はこの事實を證明してゐる。ただ或る種類の色合のみ取り合はせてある。しかし全體の光景は、驚異であると共に、また果敢ないものである。それはあまりにも早く消え失せて、缺點を見つける遑[やぶちゃん注:「いとま」。]もない。それを見た後一箇月の間も、不思議に思はせ、夢に見させるやうな蜃氣樓である。

 

 恐らくは日本人の日常生活に伴なふ滿足と質素なる幸福の無盡藏なる源泉の一つは、此快樂の一般的安價の中に見出さるべきであらう。眼の慰みは、誰れ人も恣ま〻にする事ができる。ただ季節や祝祭が娛樂を與へるばかりではなく、殆どいかなる奇異な町でも、いかなる眞の日本内地でも、賃銀なくして働くやうな極貧の僕婢にさへ、眞正の快樂を供しうるのである。美人或は美を暗示するものは空氣の如く無代價である。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]、いかなる男女もあまりに貧乏のため、何か綺麗なものを所有し得ないといふことがない。どんな子供も面白い玩具が持てないといふことはない。西洋ではこれと狀態を異にしてゐる。西洋の大都會では、美は富有階級のために存在してゐる。飾りのない障壁や、汚い步道や、煤煙に曇つた空や、怖ろしい機械の喧騷――不幸であつたり、弱かつたり、愚鈍であつたり、または同胞の道德を信任し過ぎたりするといふ、ひどい罪惡を罰せんがために、西洋文明によつて發明せられたる永遠的醜惡と不快の地獄――は、貧民のためのものである。

 

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“NOTES OF A TRIP TO KYŌTO”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第三話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郎訳)」の冒頭注を参照されたい。

 途中に挟まれる注(全く突然に文が切断されて入るのはママである。あまりよい挿入法とは思われない)はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示し前後を一行空けた。一部の引用は底本では四字下げであるが、同前の理由から一字下げに改めた。本篇は全「八」章節から成る少し長いものなので、分割して示す。]

 

      第三章  京都紀行

 

       

 京都の奠都紀念千百年祭は、この春舉行される筈であつたが、惡疫勃發のため、秋季に延ばされることとなつた。そこで、その祝祭は十月十五日から始つた。軍隊の勳章のやうな、胸に挿すやうにできたニツケル製の小さな記念祭徽章が一個五十錢づつで發賣された。その徽章を帶びたものは、すべて日本の汽車汽船に對する特別賃金や、宮殿庭園神社佛閣の拜觀自由の如き望ましき特權に浴することができた。十月二十三日譯者註、私は一個の徽章を求め、朝の一番汽車で、京都へ旅立つた。二十四日及び二十五日に舉行豫定の、盛大なる時代行列を見ようと熱中せる人々で、汽車は溢れてゐた。立つたま〻の乘客も澤山であつ

 

譯者註 これは明治二十八年のこと。先生は神戶から京都見物に上られたのである。

 

たが、群集はやさしくて、快活であつた。私と同じ車中には、大阪藝妓の祭典に出かけて行くのが幾名かゐた。彼等は退屈まぎらしのため、歌をうたつたり、また彼等の知り合ひの男達と拳を打つたりした。して、彼等のお轉婆の惡戲とをかしげな叫び聲は、一同を面白がらせた。一人の女は非常に珍らしい聲を有つてゐて、雀のやうに囀ることができた。

[やぶちゃん注:「京都の奠都紀念千百年祭」落合氏の示す通り、明治二八(一八九五)年は平安京に都が移って、桓武天皇が大極殿(だいごくでん)で初めて正月の拝賀を受けた延暦一五(七九六)年から千百年目に当っていた。参照した京都市の作成になる『情報提供システム「フィールド・ミュージアム京都」』の「平安遷都千百年紀念祭」によれば、これを記念して企画されたのが、桓武天皇を顕彰する祭典「平安遷都千百年紀念祭」であった。先立つ三年前の明治二十五年五月頃から、京都実業協会が立案し、京都市は参事会から三人、市会から四人の紀念祭委員を選出して、紀念祭開催と「第四回内国勧業博覧会」の誘致に向けて、国に協力を求めた。その結果、有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王(後に小松宮彰仁親王に交代)を総裁に迎え、会長に近衛篤麿、副会長に佐野常民が就任し、「平安遷都千百年紀念祭協賛会」を設立。国務大臣も関与する国家的な行事となった。まず、平安宮朝堂院正殿である大極殿を模した神殿などが岡崎(現在の左京区)の地に造営され、桓武天皇を奉祀する平安神宮が明治二十八年三月に完成、官幣大社に列せられた。紀念祭は勧業博覧会開催中の四月三十日に明治天皇を迎えて催される予定であったが、諸事情で延期され、十月二十二日から三日間、挙行された。十月二十二日は、延暦一三(七九四)年に桓武天皇が新京平安京に入った日であった、とある。この「諸事情」の内容を調べたが、小泉八雲が言うような「惡疫」流行のためとする記載は見当たらなかった。しかし、気になって調べてみたところ、この明治二十八年にコレラが大流行し、全国で患者五万人、死亡者四万人を超えたという記事を「横浜検疫所」公式サイト内の「横浜検疫所の出来事変遷表」に見出せた。なお、「奠都」(てんと)とは「新たに都をある地に定めること」を言い、「都を遷すこと」を意味する「遷都」とは実際には違う語である。則ち、「奠都」とは古い都とは別に「新たに都につくる」、則ち、元の都も残っていることを含意する語である。例えば、そのため、京都では現在でも、『天皇が東京へ行ったのは「奠都」であって「遷都」ではない』とする見方があるようだ。

「五十錢」明治二十八年の東京での米の小売価格は十キログラム八十銭、大卒初任給は二十円であった。

「十月二十三日」「朝の一番汽車で、京都へ旅立つた」銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば(★以下は本篇の内容に基づくものなので、ネタバレの箇所があるから、本篇を読まれた後に改めて見た方がよい★)

   《引用開始》

 十月二十三日(水)、京都遷都千百年祭の見物に行く。御室御所[やぶちゃん注:「おむろごしょ」。仁和寺の別称。]で掛物の展覧会を見、金の許す限り買う。また幼い子供の書を見て感嘆し、遺伝的記憶のことを思う。帰りにレストランで古い手まわし風琴[やぶちゃん注:手回しの箱型オルガン。]を見、古本屋で「アトランティック・マンスリー」一八六〇年版を買って夜店をまわった。そして常宿の日光屋旅館に帰る。[やぶちゃん注:この旅館、どこに所在していたのか不詳。識者の御教授を乞うものである。]

 十月二十四日(木)、時代行列を見て、大極殿にまわる。

 十月二十五日(金)、午前中末慶寺を訪ね、畠山勇子[やぶちゃん注:本篇で後述されるので、そこで注する。]の墓に詣で、神戸に帰る[やぶちゃん注:下略。]。

   《引用終了》

「拳を打つたりした」拳遊(けんあそ)び。二人で手の開閉又は指の屈伸などによって勝負を争う遊戯の一つ。後に、三人以上であったり、手だけでなく体全体を用いたりするものも現れたが、基本的に形によって勝敗を決める遊びで、本来は大人の男が酒宴で同輩や芸妓らと行う遊びであった。詳しくは参照したウィキの「拳遊び」を見られたい。後の「二つ」とか「三つ」というのはその時の合いの手の掛け声であろう。]

 

 何處でも――例へば宿屋で――女達が話し合つてゐるうちに、藝者がまじつてゐる時は、いつでもそれがわかる。何故なら、職業的練習によつて帶びた特殊の音色は、すぐに認めることができるからである。しかしその訓練の驚くべき特質は、眞に職業的の音調が用ひらる〻場合にのみ明白である――それは假聲の音調で、決して人に感動を與へるものではないが、往々不思議にうるはしい。さて、ただ自然の聲で小唄をうたふ街頭の歌ひ手は、淚を催すやうな音調を用ひる。その聲は通常强い中音部である。して、その深い音調は人に感動を與へるものである。藝妓の假聲[やぶちゃん注:「かせい」。「意図的に地声を変えた作り声」或いは「裏声」のこと。]の音調は、大人の聲の自然の高さを越えて、鳥の聲の如く鋭い甲聲(かんごゑ)に昇つて行く。客の一杯に滿ちた宴會場で、太鼓や三味線の音、喋々嬉嬉の聲を凌いで、明白に――

 

    二つ、二つ、二つ

 

と、藝妓が拳を打つときの細いうるはしい聲を聞くことができる。一方――

 

    三つ、三つ、三つ

 

と、その相手の男が絕叫する答は、全く聞こえないことがある。

 

       

 京都へ着いてから最初に旅客の眼を驚かしたのは、祝典裝飾の美麗なことであつた。すべての町には飾光の準備がしてあつた。一軒一軒の家の前には、白木の新しい提燈柱が立てられて、或る適當な意匠を現はせる提燈が吊るしてあつた。またいづれの戶口の上にも、國旗と松の枝があつた。しかし提燈が裝飾の美をなしてゐた。町の區分每に、それが同一の形で、また正しく同一の高さに置いてあつて、萬一の天候を慮つて同一種類の覆ひ物を以て保護してあつた。しかし町を異にするに從つて、提燈は異つてゐた。或る廣い大通では、非常に大きなものであつた。して、小さな木造の天幕で蔽つた町もあつたが、或る町では紙製の日本傘をひろげて、その上方に結びつけてあつた。

 私が到着した日の朝には、行列がなかつたので、私は御室御所といふ帝室の夏の宮殿に於ける掛物の展覽を見て、愉快に二時間を費やした。此春、私が見た專門家の藝術展覽會と異つて、これは主もに學生の作品を陳列したものであつた。して、私はこれが遙かに一層獨創的で、且つ興味多い物と思つた。幾千點の繪畫が大抵三圓乃至五十圓の價格で賣品となつてゐて、財布の許す限り買はずには居られなかつた。明らかに實際その境地で描かれたらしい風景畫があつた。例へば、靄を帶びた秋の田の、垂れた穗の上を蜻蛉が飛んでゐる有樣、深い峽谷の上に眞赤になつてゐる紅葉、朝霧に罩められた[やぶちゃん注:「こめられた」。]巡禮、それから山間の目も眩まんばかりの崖端に立つ百姓の小屋などの光景であつた。また鼠が佛壇の供物を盜まうとするのを、猫が捉へる圖の如き、立派な寫實主義の小品もあつた。

 しかし私は繪畫の說明を以て讀者の忍耐を惱さうといふ考では決してない。私が展覽會見物のことを述べたのは、全く如何なる繪畫よりももつと興味あるものを、そこで見たからである。大玄關に近い處に、和歌をかいた一枚の書幅があつた。これは後に表裝を施して掛物にするので、今は假りに長三尺幅一尺八寸程の板に張つてあつた。これは臨池[やぶちゃん注:「りんち」。書法・書道の意。「墨池」ともいう。後漢の草聖(草書の名人でその書体を一新したことに拠る尊称)張芝(ちょうし)が池に臨んで書を学んでいると、池の水が真っ黒になったという話が、西晋の衛恒の「四体書勢」その他に見え,これから転じたもの。]の技に於ける驚異であつた。普通日本の書家が作品の落款に用ひる朱印の代はりに、私は細い手の赤い痕跡を見た――實際の手に捺印用の朱肉塗つて、巧妙に紙面へ押したのであつた。私はガートン氏が特殊の意義を說いてゐる、あの小さな指紋を識別することができた。

 

譯者註 サー・フランシス・ガートン(一八二二――一九一一年)は、英國の人類學者、且つ氣象學者。また優生學の開拓者で、それから指紋法の創案者である。進化論の發見者ダーウヰンの從弟に當たる。

[やぶちゃん注:イギリスの人類学者で統計学者・探検家にして初期の遺伝学者でもあったフランシス・ゴルトンの事蹟と指紋研究については「小泉八雲 身震ひ (岡田哲蔵訳)」の私の注を参照されたい。]

 

 その書は六歲――西洋風に誕生日から年齡を起算すれば五歲――の子供が、天皇陛下の御前に於て揮毫したものであつた。總理大臣伊藤伯がその奇蹟を見て、その子供を養子にした。だから彼は今では伊藤明瑞といふ名である。

[やぶちゃん注:伊藤明瑞(めいずい 明治二二(一八八九)年~昭和二三(一九四八)年)は日本の書家。本名は宮本正雄門(まさおと)。ウィキの「伊藤明瑞」によれば、『和歌山県和歌山市に生まれる』。明治二四(一八九一)年、二歳で漢学者南海鐵山に入門し、翌年には『元堺県知事に揮毫を披露する。早くから神童・天才書家と呼ばれ、幼くして古典を暗記するなど博覧強記な人物であったという』。五『歳で王羲之の書法を体得し、免許皆伝書を授与され』、明治二八(一八九五)年二月十三日(満六歳になる直前)、未だ五『歳の時明治天皇の御前で腕前を披露し、「日本明瑞」(明治の明と瑞祥の瑞)の名を賜る。後に伊藤博文の書生となり、「伊藤明瑞」を名乗るようになった』。『青年期から没するまで』、『明石市に居住する傍ら、皇族・華族や全国の官公庁・寺院・学校などを回って、実演を披露した』とある。]

 日本人の觀覽者達でさへ、殆ど彼等の肉眼の證據を信ずることができなかつた。大人の書家でもその書に及び得るものは少いだらう。たしかにいかなる西洋の藝術家も、たとひ多年の硏究を以てしても、その兒童が陛下の御前で揮つたのと同じ腕前を見せることは不可能であらう。無論かやうな子供は、ただ千年に一たび生まれることができる――神の靈感を蒙つた書家といふ、支那の古い傳說を實現し、或は殆ど實現したのである。

[やぶちゃん注:書聖と称される王羲之(三〇三年~三六一年)のことか。]

 

 それにしても、私を感動させたのは、作品の美そのものでなくて、その作品が、殆ど前世の思ひ出にひとしいほど鮮明な遺傳的記憶について、怪奇異常、且つ爭ふべからざる證據を與へる點であつた。代々の死んだ書家が、その纎細な手の指のうちに復活してゐた。それは決して眇たる[やぶちゃん注:「べうたる(びょうたる)」。ここは単に「小さな」(幼い)の意。]五歲の兒童一個人の作品ではなく、疑もなく複合的祖先の靈魂となつてゐる無數の亡靈の作品なのだ。それは神道の祖先崇拜の敎義と、佛敎の前世の敎義を二つともに肯定する、心理的並びに生理的不思議の明々白々、實在的な證據であつた。

 

2019/11/24

小泉八雲 街頭より (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“OUT OF THE STREET”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第二話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で、郷里島根県の松江中学及び後に進学した東京帝国大学に於いて、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)/小泉八雲(帰化と改名は明治二九(一八九六)年二月十日。但し、著作では一貫して Lafcadio Hearn と署名している)に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は第六高等学校、学習院教授を勤めた。謂わば、小泉八雲の直弟子の一人である。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。歌詞の引用部分は底本では四字下げであるが、同前の理由から一字下げに改めた。]

 

      第二章 街 頭 よ り

 

       

 萬右衞門譯者注は、立派に筆寫せる日本字の卷物を私の机上に置きながらいつた。『これは俗謠で御座います。もし御本にお書きになる場合は、西洋人が誤解しないやうに、俗謠だとお斷りになつた方がよろしいでせう』

 

譯者註 これば、實は小泉夫人を指したのである。

 

 私の家の隣りに空地があつて、洗濯屋がそこで舊式な方法で仕事をしてゐる――働きながら歌をうたつて、大きな平らな石の上で、濕れた[やぶちゃん注:「ぬれた」と訓じておく。]衣類を打つのである。每朝昧爽[やぶちゃん注:「まいさう(まいそう)」明け方のほの暗い時刻を指す。]、彼等

 

譯者註 本書は先生の神戶時代の著作である。神戶では、三回轉居せられたが、いつも下山手通、または中山手通であつた。

[やぶちゃん注:小泉八雲は熊本五高を明治二七(一八九四)年十月に辞め、神戸のクロニクル社に転職している(神戸着は十月十日前後。始めは下山手通り四丁目に居住した)。しかし、僅か三ヶ月後の翌明治二十八年一月には過労から眼を患い、同月三十日に同社を退社した。この間、七月に日本国籍を得る決心をしている(銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)には実際の『具体的な手続き』に入ったの『は、八月に入ってからと推測される』とある)。同年七月、山手通り六丁目に移転した。同年十二月に東京帝国大学文科大学の外山正一学長から英文学講師としての招聘を伝えられ(この十二月下旬に中山手通り七丁目に移転している)、翌明治二十九年九月七日に当該職に就くために東京に着いており、本書刊行時も現職であった。従って、神戸には一年六ヶ月ほど住んだことになる。なお、正確には本篇執筆時は「Lafcadio Hearn」であり、本刊行時は「小泉八雲」となる。彼の帰化手続が完了して「小泉八雲」と改名したのは、本書刊行の前年である明治二九(一八九六)年二月十日のことであった(但し、実際には生前に刊行された英文著作は改名以降も総て「Lafcadio Hearn」名義ではある)。]

 

の歌が私の眼を醒ます。して、私は往々文句を聽き取ることは出來ないが、それを聽くのは好きだ。それは長い、奇異な、哀れな抑揚に滿ちてゐる。昨日その洗濯屋の十五歲の小僧と主人が、互に答へ合つてゐるかのやうに、代はり番こに歌つてゐた。貝殼を透して響き渡るやうな朗かな大人の聲と、少年の嚠喨たる[やぶちゃん注:「りうりやう(りゅうりょう)」。楽器や音声が冴えてよく響くさま。]中音部(アルト)の聲の對照は、頗る聽き心地がよかつた。そこで私は萬右衞門を呼んで、何のことを歌つてゐるのか、尋ねてみた。

 彼はいつた。『少年の歌は、

 

 神代(かみよ)このかた、變はらぬものは、水の流と戀の道。

 

といふ古い歌で御座います。私の小さな時代に每度聞いたことがあみます』

 『それから今一つの歌は?』

 『今一つのは、多分新しいもので御座いませう。

 

 三年思つて、五年焦がれて、たつたひと晚だきしめた。

 

極[やぶちゃん注:「ごく」。]馬鹿らしい歌でございますよ』

 『それはどうか分からない』と、私はいつた。『西洋で有名な物語といつた處で、別段これよりえらいことを含んではゐない。それから、其歌のあとの部分は何の事だらう?』

 『もうあとはありませぬ。それがあの歌の全部でございます。もし御所望なら、私は洗濯屋の歌や、それからこの町内で、鍛冶屋や、大工や、竹細工師や、米搗きなどが歌つてゐますのを寫してあげませう。尤も大抵似よつたものでございます』

 さういふ鐸で、萬右衞門は私のために俗謠集を作つてくれたのであつた。

 

 俗といふことは、萬右衞門の考では、一般民衆の言葉で書いたものといふ意味であつた。彼自身古典的の歌に巧みで、當世の流行歌を輕蔑してゐるから、餘程高尙優雅なものでなくては、彼の氣に入らない。して、彼の氣に入るものに關しては、私は書く資格がない。何故なら、日本の詩歌の優れた種類について喙を容れるためには、頗る立派な日本語の學者でなくてはならぬからである。もし讀者が、この問題のいかに困難なるかを知らうと思ふならば、アストン氏著『日本文語文典』“Grammar of the Japanese Written Language”の作詩學の章と、チエンバレン敎授著『日本古典詩』“Classical Poetry of the Japanese”の序論を一寸硏究するがよい。和歌は、日本がたしかに支那からも、またいかなる他の國からも藉りなかつた唯一の獨創的藝術である。して、その絕妙絕美は取りも直さず國語の花そのものの粹香[やぶちゃん注:“the very flower of the language itself”。精華。]なので、模造し得られないものである。だから、いかなる西洋語に於ても、よしや一部分でさへ、その情緖、暗示、色彩の幽趣微韵[やぶちゃん注:「びゐん」。微かな響き。]を表現することは困難である。しかし民衆の作品を理解するためには、何等博學の必要はない。それはあらん限りの單純、直截、及び誠實といふ特徵を帶びてゐる。結局、その眞の妙處は、絕對に巧妙を弄しない點に存してゐる。だから私は民衆の歌を要求したのであつた。國民の永遠に若々しい心から直に湧きいでたる、これらの小さな歌の迸りは、あらゆる四民の原始的無飾不文の詩と同じく、局限されたる一階級、または一時代の生活に屬せずして、寧ろ一切の人生經驗に屬するものを吐露してゐる。して、その曲調のうちにさへ、矢張りその源泉たる、民衆の胸裡から發する新鮮潑剌として力强い鼓動が響いてゐる。

[やぶちゃん注:「アストン氏著『日本文語文典』“Grammar of the Japanese Written Language”」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年:十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい)が一八七二年に初版を、一八七七年に二版を出したそれ。

「チエンバレン敎授著『日本古典詩』“Classical Poetry of the Japanese”」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年:ハーンとは同い年であった。彼については私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 序/(一)』の私の注を参照されたい)が、一八八〇年に刊行したもの。]

 萬右衞門は四十七首を寫してゐた。して、彼の助力によつて、私はその中に就いて、秀逸なものの自由譯を試みた。それは甚だ短いもので、十七文字乃至三十一文字であつた。大槪日本の歌の韻律は、五字句と七字句の簡單なる交互から成つてゐる。俗曲で折々この規則に外れてゐる部分は、單に歌ひ手が、或る母音を滑唱したり、または延ばしたりして[やぶちゃん注:“by slurring or by prolonging certain vowel sounds”。特定の母音を滑らかに切らずに総て繋げて歌ったり(文字通り、音楽用語の「スラー」である)、或いは意図的に伸ばして歌うこと、であろう。]、繕つて行くことのできるやうな不齊[やぶちゃん注:「ふせい」。定格にそろわないこと。破格表現。]に過ぎない。萬右衞門が蒐集した歌の大部分は、ただ二十六文字であつた。七字句が三句連續して、それから五字句が一句附いてゐた。次の例の如くに――

[やぶちゃん注:この歌型自体は都々逸(どどいつ:江戸末期に初代都々逸坊扇歌(文化元(一八〇四)年(寛政八(一七九六)年とも)~嘉永五(一八五二)年)によって大成された当時の口語による定型歌。七・七・七・五)である。]

 

 かみよこのかた     七

 かはらぬものは     七

 みづのながれと     七

 こひのみち       五

 

 この構造から外れたものに、七一七―七―七―五、五一七一七一七―五、七―五一七―五、また五一七―五などの諸種があつた。しかし五―七―五―七―七で示さる!古典的五句の短歌形式は全く見られなかつた。

[やぶちゃん注:都々逸の場合、「五字冠り」と呼ばれる「五・七・七・七・五」形式もある。]

 性を指示する言葉が歌詞の上に現はれてゐなかつた。『私』及び『汝』に對する語句は、滅多に用ひてない。また『愛人』といふ意味の言葉は、男に向つても、女に向つても、一樣に適用されてゐる。ただ或る比喩の慣習的意義によつたり、特別な感情的調子の使用によつたり、または服裝の或る細目が舉げてあるのによつて詠み人の性が暗示されてゐる。たとへば次の歌で――

 

 わたしや水萍(みづくさ)、根もない身の上、どこのいづくで、いつ花が咲く。

 

 詠み人は明らかに戀人を求めてゐる娘である。もし日本人がこのやうな比喩を男性の口から聞いた日には、丁度男が自らを董や薔薇に喩へたのが、英人の耳に響くのと同じであらう。同一の理由で、次の歌に於ては詠み人は女でないといふことがわかる――

 

 梅と櫻を兩手に持つて、どれが實のなる花だやら。

 

 女の美は樓の花にも、また梅の花にも譬へられる。しかし梅の花の象徵する性質は、いつも有形的よりは察ろ精神的である。此歌では、或る男が、二人の娘に强い執着を感じてゐる・一人の娘は、容色が非常に綺麗である。多分藝者であらう。今一人の方は、性質が美はしい。いづれを一生の伴侶として、彼は選擇すべきであらうか。

 

註 「知られぬ日本の面影」下卷四四二頁參照。

[やぶちゃん注:落合のページ数は第一書房版全集の第三巻の当該ページを指している(原注は三百五十七ページとなっている)。私の電子化注では『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (五)』の以下であろう(原文に即した表記・配置に一部を戻し、漢字の一部を正字化に直して示す(リンク先を作成した当時のユニコードでは正字を示せなかったものがあるからである)。注・引用は前後を一行空け、引き上げて同ポイントとした。なお、そちらの注で述べているが、「ケシユリ」は底本では「キシユリ」となっているものの、誤字か誤植であるので特異的に訂してある)。

   *

 梅の花は美に於て、確かに櫻の花の敵手であるのに、日本人は婦人の美をば――肉體美をば――櫻の花に較(たと)へて、決して梅の花には較へぬ。然しまた、之に反して、婦人の貞節と深切とは梅の花に例へて、決して櫻の花には例(たと)へぬ。或る著者が斷言したやうに、日本人は女を木や花に例へることを考へぬと斷言するのは大なる誤である。優しさには、少女はほつそりした柳に註一、若盛りの色香には、花の盛りの櫻に、心の麗はしさには、花の咲い

 

註一。『ヤナギゴシ』」といふ言葉は、ほつそりした美しさを柳の木に例へる、普通使用されて居る多くの言葉の一つである。

 

て居る梅の木に例へられて居る。それどころか、日本の昔の詩人は女をあらゆる美しい物に例へて居る。次記の歌に見るが如くに、その種々な姿勢に對し、その動作に對して、彼等は花から比喩を求めさへしてゐるのである。

 

 タテバ  シヤクヤク註二

 スワレバ  ボタン

 アルク  スガタハ

 ヒメユリ  ノ  ハナ

[やぶちゃん注:「スワレバ」はママ。]

 

註二。學名ピオニア・アルビフロラ。此名は優美なといふ意味を含んで居る。ボタン(英語のツリイ・ピオニイ)への比喩は、この日本の花を知つて居る人だけが、充分に鑑賞が出來る。

註三。ヒメユリと言はずにケシユリ(英語のポピイ)と言ふ人もある。前者は優美な一種の百合で、學名リリウム・カロスムである。

 

 實際、身分の非常に賤しい田舍娘の名でさへ、往々敬語の『お』を前に附けた美しい木又は花の名のことがある。舞子やヂヨラウの職業的な華名は、言ふまでも無いとして、オマツ(松)、オタケ(竹)、オムメ(梅)、オハナ(花)、オイネ(稻)の如きそれである。ところが、娘が有つて居る木の名のうち、その或る者の起原は、木そのものの美しさについての、どんな民衆觀念にも求むべきでは無くして、寧ろ長命とか幸福とか幸運とかの徽號としての、その木の民間思想に求めなければならぬ、と可なり有力に議論され來つて居る。が、それはどうあらうとも、日本人が女を木や花にたとへる、その比喩が美的感念に於て少しも、我々西洋人の比喩に劣つて居ないことを、今日の諺、詩、歌、並びに日常の言葉が充分に證明して居るのである。

 

註。今は日本の社會のより高等な階級では、『お』を、概して言つて、娘の名の前に用ひず、また派手な稱呼は息女の名には附けぬ。貧しい可なりな階級のうちに在つてすら、藝者なんかの名に似た名は嫌はれて居る。上に記載した名は立派な正しい、日常の名である。

   *]

 

 もう一つの例――

 

 筆を手に持ち、思案にくれて、銀の簪(かんざし)、疊算(たたみざん)。

 

 こ〻に簪を舉げてあるので、詠み人は女だといふことがわかる。またその女は藝者だといふことも想像される。疊算と稱する一種の占ひは、特に藝者仲間に流行するからである。細い絲の枠の上に編んだ疊表の面には、一吋の約四分の三位[やぶちゃん注:「吋」は「インチ」。一インチは二・五四センチメートルだから、約二センチ弱。]づつ間隔を置いて、規則正しく筋が並んでゐる。女は疊の上へ簪を投げて、その觸れた筋の數をかぞへる。その數によつて吉凶を判斷する。時としては、小さな煙管――藝者の煙管は普通銀製である――が、管の代はりに使はれる。

[やぶちゃん注:「畳算」小学館「大辞泉」に、占いの一種で、簪 や煙管(キセル)を畳の上に投げ、その向いたところ又は落ちた所から、畳の端までの編み目の数をかぞえ、その丁・半によって吉凶を占うもので、主に遊里で行われた、とある。]

 

 すべて集められた歌の題材は、戀愛であつた。實際日本の俗謠の大多數はさうである。名所を詠める歌でさへ、大抵或る戀愛的暗示を含んでゐる。戀愛の最初の蕾から最後の成熟に到るまで、あらゆる單純な情趣が、その蒐集に現はれてゐた。そこで、私はそれらの歌を發情的自然の順序に從つて配列してみた。その結果は、幾らか劇的暗示を有するものとなつた。

 

      

 これらの歌は、實際三つの異れる集團を成して、それぞれこれら一切の歌の主題である戀愛の情的經驗の特殊な時期に對應してゐる。第一團の七首に於ては、情熱の不意打ちの驚愕や、苦さや、弱さが現はれて、咎め立てをする悲しげな泣聲に始つて、信賴の囁きに終はつてゐる。

[やぶちゃん注:以下の唄の前の数字はポイント落ちだが、同ポイントで示した。]

     一

 世間誰れもが嫌うたあなた、なぜにこのやうに好きだやら。

     二

 人には云はれぬこの苦勞、たれが作つたと思召す。

     三

 いつも闇(やみ)夜と戀てふ路は、踏んで迷はぬ人はない。

     四

 あかるい洋燈(らんぷ)や、電燈さへも、戀路の暗(やみ)は照らしやせぬ。

     五

 惚れりや惚れるほどいひにくい、最初にききたい主(ぬし)の聲。

     六

 惚れたわいなとすこしのことが、何故にこのやうにいひにくい。

  註 これは眞似の出來ないほど簡潔な句である。

     七

 ぴんと心に錠前むろし、鍵はたがひの胸にある。

 

 このやうに相互に信じ合つた後で、迷妄は自然に深くなつてくる。苦勞は隱しきれない歡喜に移つて行つて、心の鍵は棄てられてしまう。これが第二の階段である。

 

     一

 逢うた昔は嫌つた生命(いのち)、添うた今では長命(ながいき)祈る。

     二

 主とわたしは谷間の百合よ、今が花時誰れもしらぬ。

     三

 思ふ人から杯差され、飮まぬうちにも顏赧らめる。

     四

 胸につ〻めぬ嬉しいことは、口どめしながらふれあるく。

     五

 どこの烏もみな黑い、ひとの好(す)く人なぜわしや好かぬ。

     六

 逢ヒに行くときや千里も一里、逢はで歸るときや一里も千里。

     七

 惚れて通へば泥田(どろた)の水も、飮めば甘露の味がする。

     八

 お前百までわしや九十九まで、ともに白髮が生えるまで。

     九

 云ひたい愚痴さへ顏みりや消えて、兎角淚がさきに出る。

 註 『兎角』といふ文句か使つてあるのが、この歌に一種の哀れを與へる。

     十

 嬉し淚にわが袖ぬらし、袖は乾いても乾かぬ心。

[やぶちゃん注:底本には「十」の前の行空けがあるが、これは「註」があるためと思われるので(原本に行空けはない)、省略した。]

     十一

 歸さぬやうにと祈願をこめりや、うれしや降り出す足止めの雨。

 

 かやうにして迷妄の時期は過ぎてしまう。そのあとは疑ひと苦み[やぶちゃん注:「くるしみ」。]である。ただ戀のみは永遠に殘つて、死を何とも思はない。

 

     一

 君と別れて松原ゆけば、松の露やら淚やら。

     二

 空とぶ氣樂な鳥見さへも、わたしや悲しくなるばかり。

     三

 來るか來ぬかと川下(しも)ながめ、川には蓬(よもぎ)の影ばかり。

     四

 文(ふみ)は郵便、姿は寫眞、とても得られぬもの二つ。

     五

 顏は見ないでただ文ながめ、夢でみる方が猶ほましだ。

     六

 身はくだくだに、骨を磯邊にさらさうとま〻よ、拾ひ集めて添うてみせう。

 

[やぶちゃん注:後半のものは、「四」の「郵便」と「寫眞」から明治になってからの作品であることが判る。]

 

       

 そこで日本に於ける種々の時代に、また種々の地方で、さまざまの人によつて作られたこれらの小さな歌は、私に取つては一つの物語のやうなのであつた。――すべての時代、すべての場所に於て永遠に同一だから、時代とか、場所とか、人物の名の要らぬ、物語のやうな形を帶びてきたのであつた。

 

 『どの歌が一番お氣に入りですか』と。萬右衞門が質ねた[やぶちゃん注:「たづねた」。]。そこで、私は取捨選擇ができるかと思つて、彼の寫したものをめくつて見た。戶外では、輝いだ[やぶちゃん注:ママ。]春の日和に、洗濯屋が働いてゐる。すると、心臟の鼓動の如く規則正しく、濡れた衣類をぽんぽんとた〻く重げな[やぶちゃん注:「おもたげな」。]音が聞こえる。私が思案してゐると、不意に少年の聲が一本のすばらしい狼煙[やぶちゃん注:「のろし」。]を打上げたやうな、長い、朗かな、良い調子で、翔け上がつた――それから、跡切れて――またきれぎれの音が、ぴかつぴかつと閃光を發するやうに顫へ乍ら、靜かに消えた――萬右衞門が若い頃に聞いたことのある歌を、少年はうたつてゐるのであつた――

 

 神代このかた、變はらぬものは、水の流と戀の道。

 

 『あれが最上だと思ふ』と、私はいつた。『あれがすべての歌の心髓なのだ』

 『貧の盜人(ぬすびと)、戀の歌』と、萬右衞門は解釋をするやうな風に囁いた。『貧乏故に、盜人が出來て參ります通り、戀愛から歌が湧き出る譯で御座います』

 

2019/11/23

小泉八雲 生神 (田部隆次訳) / 作品集「仏の畠の落穂」電子化注始動

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“A LIVING GOD)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の巻頭に置かれた作品である(この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う)。但し、諸資料によれば、本篇はそれに先立つ前年の明治二九(一八九六)年六月十五日午後七時に発生し、死者・行方不明者二万千九百五十九人という甚大な被害を齎した明治三陸地震(岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖二百キロメートルの三陸沖が震源とし、マグニチュードは推定7.6から8.6とされる)のニュースを聴き、本作を同年中に書き上げているようである。則ち、本篇は少なくとも、その執筆動機に於いては、企画としての本作品集への所収を、予め、念頭に置いて書いた作品ではない可能性があるということであり、ウィキの「小泉八雲」の「来日後の著作」でも、特異的に本篇のみを独立させて記しているのである(しかし、現行、最新の詳細な小泉八雲年譜と思われる、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の同年の記事には、そうした創作事蹟を見出すことは出来なかった。ただ、書簡中(友人エルウッド・ヘンドリック宛)に恐らく本地震の津波に言及した記載はある)。また、『平成29年度静岡福祉大学附属図書館企画展~教育紙芝居創始者・「いなむらの火」原作者~「2人の開拓者:高橋五山と小泉八雲の世界」』(プレゼンテーション版・PDF)には、はっきりと同一八九六年十二月号の英文雑誌『太西洋評論』(Atlantic Monthly)に初出とあった。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 本篇は嘉永七年十一月五日(グレゴリオ暦一八五四年十二月二十四日。この二十五日後の十一月二十七日(一八五五年一月十五日に「安政」に改元された)午後四時半頃に発生し、死者約三千人とされる安政南海地震(紀伊半島から四国沖を震源とし、マグニチュードは推定8.4とされる)とする巨大地震)の津波災害をもとにした物語で、ウィキの「稲むらの火」によれば(梗概が載り、ネタバレとなるのでリンク先全文は本篇読後に読まれたい)、『地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説』いたもので、小泉八雲は『西洋と日本との「神」の考え方の違いについて触れた文章であり、この中で人並はずれた偉業を行ったことによって「生き神様」として慕われている紀州有田の農村の長「浜口五兵衛」の物語を紹介した』。『小泉八雲は作中にも触れられている明治三陸地震津波の情報を聞き、この作品を記したと推測されている』が、『地震の揺れ方や津波の襲来回数など、史実と異なる部分も多』く、また、『「地震から復興を遂げたのち、五兵衛が存命中にもかかわらず』、『神社が建てられた」とする点は誤りである』とある(太字は私が附した)。則ち、原題の「A LIVING GOD」は事実ではない(実話では梧陵は確かに祀られそうになったらしいが、彼自身がそれを固辞した。現在、彼を顕彰した感恩碑はあるが、これは昭和八(一九三三)年の建立である。但し、村民たちが終生、濱口に深い尊崇の念を持ち続けたことは確かである)のである。さて、この『小泉八雲の英語による作品を、中井常蔵』(明治四〇(一九〇七)年~平成六(一九九四)年:和歌山師範学校専攻科卒業後、小学校訓導を務めていた(後に校長となった))が『翻訳・再話したもの』が、「稲むらの火」という作品で、昭和九(一九三四)年九月に『文部省の教材公募に入選し』、昭和一二(一九三七)年から十年もの『間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された』(以下に示すサイトでそれも読めるが、やはり本篇を読んでからにして戴きたい)。『防災教材として高く評価されている』。『もとになったのは紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)での出来事で、主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)』(はまぐちぎへい(ごりょう))『である』とある。

 濱口梧陵(文政三(一八二〇)年~明治一八(一八八五)年)は、ウィキの「濱口梧陵」によれば(これも同前で読後に読まれたい)、紀伊国有田郡広村(現在の和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。駅逓頭(後の郵政大臣に相当)や、初代和歌山県議会議長を務めた。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとしても知られる』とある。

 彼や「稲むらの火」については、やはり本篇読後に読まれたいが、詳細を記した複数のサイトやページが存在する。中でも、

サイト「稲むらの火」

が勝れ、他に、

「気象庁」公式サイト内の「稲むらの火」のサイト

もあり、また、

「ヤマサ醤油」公式サイト内の『戦前の国定教科書にものった「稲むらの火」』

のページもよい。電子化されたのものでは、

サイト「小さな資料室」の『資料161 「稲むらの火」(『初等科国語 六』所収)』

がある。
特に上の二つのサイトでは、事実と創作の相違点や誤りが細かく検証されている。従って、そうした事実との齟齬部分については、原則、私は注を附さないこととした。但し、素人目で見て奇異な箇所は、數箇所、小泉八雲の創作上の虚構を指摘してはおいた。無論、語注については今まで通りに附した。さらに、三成清香氏の論文『「生神」A Living God とハーン  史実と「稲むらの火」との比較から』(『下関市立大学論集』第六十二巻第三号・二〇一九年一月発行・PDFでダウン・ロード可能)が詳細を極め、とどめを刺すものと思う。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字とし、途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。また、終わりの方のブレイク・マークに二点リーダの縦線があるが、これは底本ではもっと長く、底本の本文一行(字空けとペアで二十個分)みっちり打たれたものである。原文も確かに普通でない感じで打ってある。]

 

  佛の畠の落穗

    極東に於ける手と魂の硏究

 

   第一章 生 神

 

       

 その大きさ如何に拘らず、純粹の神道の堂や社は悉く同じ古風な樣式で建ててある。標本的の神社は、極めて急な勾配の、張り出したやうな屋根のある白木造りの窓のない長方形の建築である、前面は破風造り[やぶちゃん注:「はふづくり」。]である。氷久に閉ざしてある戶の上の方は木の格子造りで、――大槪格子の縱橫(たてよこ)が細かに組んであつて、互に直角に交叉して居る。大槪、建物は木の柱で地面から少し高く上つて居る。そして眉庇(まびさし)のやうな孔[やぶちゃん注:「眉庇」は帽子の庇、或いは、窓の上の小さい庇を指すが、原文は“visor-like apertures”とあるから、「庇(バイザー)風になった(その下方の)開口部」の意。]や、破風造りの上の梁(はり)の不思議な凸出物のある妙な尖つた前面は、歐洲の旅客に、屋根窓の或古いゴート式[やぶちゃん注:“old Gothic forms”。実際に古いゴシック様式。]の形を想ひ出させる事もあらう。人工でつけた色はない。飾りのない材木はやがて、雨と日のために自然に灰色になる、それも晒らされる度合によつて、樺木(かばのき)[やぶちゃん注:“birch”。「バーチ」。ブナ目カバノキ科カバノキ属 Betula。タイプ種はヨーロッパダケカンバ Betula pubescens。種が多く、日本の通称のカバノキ類とは欧米の読者が想起するものとは種が異なる。]の皮の銀がかつた調子から、玄武岩の薄暗い灰色まで色々の變化がある。そんな形のそんな色であるから、淋しい田舍の社(やしろ)は大工の造つた物と云ふよりも、むしろ風景の一特徵――岩石や樹木と同じく、自然に密接に關係した田舍の或姿、――大地(おほつち)の神の現れとしてのみ存在するやうになつた或物、――と云つた方がよい。

 或建築の形が、何故見る人に一種物すごい感情を起させるかの問題は、私はいつか解釋しようと思ふ物である、今はただ村社はさう云ふ感情を起させるとだけ敢て云つて置く。慣れるに隨つて、それが薄らぐ事はなく、かへつて增加する、そして一般信仰の事を知つて居る事が、それを强くする傾きがある。私共はこの不思議な形の物を適當に說明する英語の言葉をもたない、――まして、それから受ける特異の印象を傳へる事のできる言葉はさらにない。私共が『テムプル』[やぶちゃん注:“temple”。中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会「テンプル騎士団」(Knights Templar)でも判る通り、広汎な「宗教及び精神的神霊的儀式、また、生贄や祈禱などの諸活動のための祭祀施設としての礼拝堂・聖堂・神殿」を指す。]とか、『シユライン』[やぶちゃん注:“shrine”。英語のそれも決して日本の「神社」を固有に指すものではなく、広汎な宗教的な「人の遺骨・遺物・像などを祭った聖堂・廟」を指す。]とか云ふ言葉で、よい加減に譯して居るそれ等神道の言葉は實は飜譯ができない、――卽ち、それ等の言葉に日本人がつけて居る思想は、飜譯で傳へる事はできない。所謂神の『みや』は古典的の意味で云ふ殿堂よりも、むしろ魂の出入する部屋、精靈の室、心靈の家である、多くの小さい神は事實心靈、數百年或は數千年以前に生きて働いて死んだ偉大なる戰士、英雄、爲政者、敎師の心靈、――である。私は西洋の人には『心靈の家』と云ふ言葉の方が、『神社』や『殿堂』のやうな言葉よりも、神道の宮(みや)や社(やしろ)、――そこにはその永久に薄暗いところに、象徵或はしるし、多分紙でできたしるし[やぶちゃん注:御幣のことであろう。]以外には何等實質的な物のない、その不思議な性質を多少おぼろげなりにも傳へるだらうと想像する。

 その眉庇(まびさし)の正面のうしろの空虛は、如何なる實質的な物よりも、返かに暗示的である、そして諸君が數百萬の人が數千年の間に、こんな社(やしろ)の前で、彼等の偉大なる死者を禮拜した事、――全民族が今尼なほその建築は意識のある人格を有せる見えない神の住むところと信じて居る事を思へば、――諸君は又この信仰の不合理な事を證明する事は如何に困難であるかを考へるやうになる。否、西洋の人が如何に澁つても、――その經驗について、諸君があとで何と云ふ方が或は云はない方が好都合だと思ふにしても、――讀者は多分一時はあり得べき物に對する敬虔の態度を執らざるを得ないであらう。ただ冷たい推論だけでは、反對の方向へ諸君をつれて行く助けにはならない。感覺の證據は餘り役に立たない、見る事も聞く事も觸れる事もできない非常に多くの實在が存して、しかも力、――恐るべき力として存する事を讀者は知る。それから讀者は又、その信念が空氣のやうに讀者の周圍に普く動いて居る間は、――空氣が讀者の肉體をとりまくと丁度同じやうに、その信念が讀者の精神をとりまく間は、――四千萬[やぶちゃん注:本書の刊行された明治三〇(一八九七)年の日本の本籍人口は既に四千三百二十三万人近かった。]の信念を嘲る事はできない。私自身について云へば、いつでも私が獨りで神社の前に出ると、私は何かにとりつかれたやうな感じになる、そしてとりつく物を自覺する事のできる事を考へざるを得ない。それからこれが私を誘惑して、もし私自身が神であつたら、――石の獅子にまもられ、尊い森に圍まれた岡の上のどこか古い出雲の神社にに鎭座するとしたら、――どんな氣がするだらうと考へるやうになる。

 私の住所は魑魅(ちみ)の住むやうに小さいだらうが、私は形も姿もないから、決して小さい事はない。私はただ顫動に過ぎない、――ヱーテルや磁氣のやうに見えない運動に過ぎない、しかし私が出現したい時には、私の昔の見える姿に似た影の體を取る事が時々できる。

[やぶちゃん注:「ヱーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次訳)」の私の注を参照されたい。]

 鳥が空氣を、魚が水を通るやうに、私の靈は凡ての物質を通りぬけるだらう。私は私の家の壁を自由に通過して日光の長い黃金浴に游ぐ事も、花の心(しん)で動く事も、蜻蛉の頸に來る事もできる。

 生命に勝る力、死に勝る力、――それから自分を擴げる力、自分を何倍にもする力、そして凡ての場所に同時に遍在する力、――が私にある。一百の家庭に於て同時に私が禮拜されるのを聞く、一百の供物の氣を吸ふ。每晚、一百の家々の神棚にある私の場所から、赤い粘土の燈明[やぶちゃん注:素焼きの燈明台のこと。]、眞鍮の燈明に、私のためにとともしてある聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]光、最も淸淨なる油をついで、最も淸澄なる火をもやしてある聖い光が見られる。

 しかし岡の上の私の社で、私は最大の尊敬を受ける、そこで私は速かに私の無數の分身を集める、そして哀願に答へるために、私の力を統一する。

 私の靈屋[やぶちゃん注:「みたまや」と訓じておく。]のほの暗いところから。私は草履をはいた足の近づくのを待つて居る、そして誓の文句を書いた紙をひねつて、鳶色の柔軟なる指で私の格子に結びつけるのを見て居る、そして私の禮拜者の口が動いて、祈をするのを見て居る、――

 

 『拂ひ給へ、淸め給へ。……私共は太鼓を鳴らし、火をともしましたが、田地が乾いて、稻が育ちません。哀れと思召して雨をふらして下さい、大明神樣』

 

 『拂ひ給へ淸め給へ。……私は野原で働いて、餘り日に當つたので、色が黑くて、餘り黑くて困ります。……どうか、私を白く、精々白く、――町の女の人達のやうに白くして下さい、大明神樣』

 

 『拂ひ給へ淸め給へ。……私共の忰で、二十九になる兵隊の塚本元吉が、早く、――至急、大至急、――凱旋して私共のところへ參りますやう、恐れながらお願いたします、大明神樣』

 

 時々或少女が來て、心の中を悉く私にささやく事がある、『十九になる女でごごいます、私は二十一になる男に慕はれてゐます。善い眞面目な人ですが、貧乏なので私達の前途は眞暗でございます、哀れと思召してお助けを願ひます、――どうか一緖になれるやうにお助け下さい、大明神樣』それから、柔らかな濃い髮の一房、――元結で結んである鳥の翼のやうに光澤のある黑い彼女自身の髮を、私の社の格子に掛ける。そしてその捧げた物の香、――その若い農婦の質素な香にひかれて、――神であり靈である私は、人間であつた頃の感情を再び感ずるやうになる。

 母達は子供等を私の社前に連れて來て、私を尊敬する事を敎へて云ふ、『この有難い尊い神樣の前で頭を下げなさい、大明樣にお辭儀をなさい』それから、私は小さい手の鮮かな柔らかな拍手を聞いて、神であり靈である私も昔、父であつた事を想ひ出すだらう。

 每日、私のために淸い冷い水の注がれる音、ばらばらと降る雨の音のやうに、私の木の箱に米のばらばらと落ちる昔、賽錢のちりんと鳴る音を私は聞く、そして水の精で力がつき、米の精で元氣を囘復するだらう。

 私を尊ぶために、祭禮が行はれよう。黑冠白衣の神官達は、――私の食物に息をかけないやうに、白紙で鼻と口を掩うて、果物、魚、海草、餅、酒の供物を私に捧げるだらう。それから彼等の娘である巫女(みこ)達、眞紅の袴と純白のころもをつけた巫女達は、小さい鈴の音につれて、絹の扇のなびきと共に、踊るために來る、それは私が彼等の若い花やかさを見て喜び、彼等の優美な魅力によつて樂む[やぶちゃん注:「たのしむ」。]ためである。それから、何千年前の音樂、――太鼓と笛の不思議な音樂、――それからもはや使はれない言葉の歌がある、同時に、神々の祕藏娘の巫女達は、私の前で姿美はしく列ぶ、――

 

 ……

 『神の御前に花のやうに立つ巫女等、――誰の子であらう。それは大神の子等である。

 『聖い御神樂[やぶちゃん注:「おかぐら」。]、巫女等の舞、――神は聞いて喜び、見て樂む。

 『大神の御前で乙女等は舞ひ踊る、――新たに開いた花のやうな乙女等』……

 

 色々の種類の奉納の品を私は受ける、私の聖い名を書いた絵提灯、奉納者の年齡をすり込んだ色々の色の手拭や、病氣平癒、船の救助、鎭火、男子出生の祈願がかなつた記念の繪の額を奉納される。

 それから又、私の番をする獅子唐獅子も崇められる。巡禮が來て、頸や足に草履を結びつけて、强い足を授かるやう、唐獅子に祈るのを私は見るだらう。

 私は、碧玉色の毛皮のやうな綺麗な苔がその獅子の背中に徐ろに、徐ろに生えて來るのを見るだらう、――私は、その脇腹と肩の上に、光のない銀色の斑[やぶちゃん注:「まだら」。]となつて、光のない金色の點となつて、地衣(こけ)の發生するのを見るだらう、――私は數代を經るうちに、その土臺が霜と雨に掘られて行つて、最後に私の獅子が釣合を失つて、倒れて、その苔蒸した首が取れるのを見るやうになるだらう。そのあとで人々は又別の形の新しい獅子、――金の齒と金の眼と、苛責の火のやうな尾をもつた花崗石か唐金[やぶちゃん注:「からかね」。青銅。]の獅子を私に與へるだらう。

 杉と松の幹の間から、竹藪の間から、私は季節每に、谷の色の變化するのを見るであらう、冬の雪の降る事、櫻の花の雪のやうに降る事、都花の廣い藤色、菜の花の燃ゆるやうな黃色、水の漲ぎつて居る低地に映ゆる靑空、――私を愛してくれる働く人達の月の形の笠の斑點のある低地、それから最後に生長する稻の淸い柔かな綠色。

[やぶちゃん注:「都花の廣い藤色」これはちょっと困った。原文は“the lilac spread of the miyakobana”であるが、まず「都花」という和名はマメ目マメ科マメ亜科ミヤコグサ連ミヤコグサ属ミヤコグサ Lotus japonicus で春に花が咲くが、その色は黄色である(黄色から赤くニシキミヤコグサLotus japonicus forma versicolor もある)。「the lilac spread」とは私は「ライラックのような紫色をむらなく広げた薄い色」の謂いだと思う。しかも順列から見て、ここには春の花が入らねばなるまい(「ライラック」は花の名を出さずともその色名として明るい紫を指す「ライラック」(因みに同色の近似色は藤色・葡萄色・マゼンタ・紅色である)でよいのだが、因みにライラックの花は春咲くのだ)。小学館「日本国語大辞典」で「みやこぐさ」を引くと、本文はミヤコグサのこととするのだが、後の「方言」の欄に興味深い記載を見つけた。「れんげそう」(蓮華草)として採取地を鳥取県の一部及び出雲とあるのだ。これをミヤコグサをそこで「れんげそう」と呼んでいるの意味ではなしに、レンゲソウのことをそこでは「みやこぐさ」と呼んでいるという意味に採れないだろうか? 私の言うレンゲソウは私の好きなマメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus のことだ。ゲンゲの花色は紅紫色だ。遠くから野や田に群れ咲くゲンゲの花の色を「薄く延ばした明るい紫色」と言って私は少しも違和感がないのだ。私はこの「都花」とは「ゲンゲ」の花のことだと思う。大方の御叱正を俟つ。

 椋鳥と鶯は、樣々の好いさへづりで私の暗い森を滿たすであらう、――鈴蟲、きりぎりす、それから夏の七種の驚くべき蟬は、その嵐のやうな音樂をもつて私の靈屋の悉くの森を震はせるであらう。速かに、私は大恐悅のやうに、彼等の極めて小さい生命のうちに入つて、彼の叫びの喜びを勵まし、彼等の歌の好音[やぶちゃん注:「よきおと」と訓じておく。]を大きくするであらう。

[やぶちゃん注:「七種の驚くべき蟬」私の労作注の一つである『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「二」』を見られたいが、夏の六種は即座に挙げられる(各学名や生態はリンク先を見られたい)。小泉八雲がそこで挙げている順に現在の標準和名で示すと、クマゼミ・アブラゼミ・ニイニイゼミ・ヒグラシ・ミンミンゼミ・ツツツクボウシである。七種目? そりゃもう、最後の八番目(一番目のハルゼミは夏という条件に合わないので外した)に挙げておられる「ツリガネゼミ」なんでしょうねぇ、八雲先生?]

 

 しかし私は決して神にはなれない、――今は十九世紀であるからである、そして――肉體をもつた神でなければ――何人も神の感覺の性質を本當に知る事はできない。そんな神はあるだらうか。事によれば――非常に邊鄙な地方に――一人二人はある。生神は昔からあつた。

 昔は、どんなにその境遇は賤しくても、特別に大きな或は善良な或は賢い或は勇敢な事を何かした人は、その死後、神と宣言される事があつた。大きな殘忍不正に苦しんだ善人も亦神に祀られる事もある、それから今でも、特別な境遇の下に進んで死を選ぶ人の魂、――たとへぱ、不幸な愛人の魂に、死後の名譽を與へて、祈をするやうな一般の傾向が存して居る。(多分、こんな傾向を作つた古い習慣は、惱んだ魂を慰めたいと云ふ願から起つて居る、しかし今日では大きな惱みの經驗があれば、その人は聖い境遇に入る資格があると考へられるらしい、――そしてこんな考のうちには何等馬鹿らしいところはない)しかしもつと著しい神化もあつた。未だ存命中の或人々は、その人々の魂を祀る神社を建てて貰つて、神として取扱はれた、實際國家の神としてではないが、もつと低い程度の神として、――事によれば守護の神として、或は村の神として。たとへげ、紀州有田郡の農夫、濱口五兵衞は、生前神にされた。私はそれだけの價値があると思ふ。

[やぶちゃん注:私はこの「一」の小泉八雲が自ら神霊となったとしたら――という空想のシークエンスがすこぶる好きだ。これから語られる濱口氏のそれとは関係はないけれども、私は小泉八雲がその空想に耽るのが目に見えるのだ。その空想が描く映像も見えるのだ。因みに、都合が悪いから小泉八雲が敢えて言わなかった、ブラック・マジック、怨霊を祀ることでそれを守護神とする本邦の非常に大きな神霊潮流の一つである御霊信仰もあることは忘れてはならない。]

 

      

 濱口五兵衞の話をする前に、私は明治以前の時代に、多くの村々を支配してゐた或法律――或はもつと正しく云へば、法律の力を悉く有する習慣――について少し云はねばならない。この習慣は數代の社會的經驗に基づいてゐた、そして國や郡によつて小さい點は違つてゐたが、その重なる意味は殆んど到るところ同じであつた。倫理的な物も、產業的な物も、宗敎的な物もあつた、そして一切の事は、――個人の行儀までも、――それに支配されてゐた。それによつて平和が保たれ、相互の助力、相互の親切が行はれた。時々他村との間に、重大な爭鬪――水爭や境界爭に關する小さい百姓の戰――の起る事があらう、しかし同じ村同志の間の爭は復讐の時代には許容されなかつた、そして村全體は徒らに内部の平和を破る事を嫌つた。或程度までこの狀態はどこか古風な地方では今もなほ存在して居る、人々は戰は勿論爭もしないで暮らす事を知つて居る。一般の規則として、どこででも日本人の戰ふ場合は命のやりとりである、それで自分から進んで本氣に手出しをするやうな人は、その團體の保護を事實上受けない事になる、そして自分の生命は自分の手だけで守る事になるから、どうしてもそれを失ひさうである。

 女性の行爲は全然不文律を離れた或著しい制裁によつて支配されてゐた。結婚前の農夫の娘は、都會の娘よりも遙かに多くの自由を許されてゐた。彼女に愛人のある事が知られても差支はない、それから兩親が甚だしく反對しない以上、彼女に對してそれ程非難は加へられない、それは――少くともその意志については、――正直なる結合と見なされてゐた。しかし一旦選擇をした以上、彼女はその選擇によつて束縛されてゐた。もし彼女は祕密に別の愛人に會つた事が發見されたら、人々は彼女を裸にして、棕櫚の葉を一枚前に當てる事を許すだけで、村の往來や小路を步かせて嘲弄する事にした。娘の兩親は、娘がこの通り公然侮辱を加へられて居る間、外へ顏を出す事もできない、娘の恥を共に受けて、雨戶をしめて家の中に蟄居すべききまりになつてゐた。そのあとで娘は五年間追放のを受けた。しかしそれだけの期限が終れば、彼女はその過失を償つた事と考へられて、それ以上の非難を受ける心配は少しもなく、家へ歸る事ができた。

[やぶちゃん注:私は以前から、ここで小泉八雲が記している村落共同体の中での不倫を成した女性の懲罰と村八分の五年追放とその赦しについて、若き日より、その原資料を探して求めているのだが、未だ嘗つて発見することが出来ない。識者の御教授を是非とも乞うものである。]

 

 災難や危險の時に、相互に助力すべき義務は、凡ての國體の義務のうちの、最も重大な物であつた。殊に火事の場合には、誰でも、男でも女でもできるだけの事をして直ちに助力せねばならなかつた。子供でもこの義務は免れなかつた。勿論都市では違つた制度になつてゐた、しかし小さい田舍の村ではどこでも、一般の義務は甚だ明白で簡單であつた、それでその義務を怠る事は許し難い事と考へられた。

 この相互の助力の義務は宗敎上の事にまで及んでゐた事は珍らしい事實である、誰でも賴まれた時には、病人や不幸な人のために神佛に祈る事になつてゐた。たとへば、非常に重い病人のために、千度參り原註をするやうにとその村の人が命ぜられる事がある。そんな場合には、組長(銘々の組長は五六軒の家の行爲について責任があつた)は、家から家へと走り𢌞つて、『かうかうした人が病氣でひどく惡い、どうか皆で急いで千度參りをして貰ひたい』と叫ぶ。そこでその時どんなに忙しくても、その村の人々は殘らず寺なり神社なりへ急ぐ事になつてゐた、――途中で躓いたり、轉んだりしないやうに注意せねばならない、千度參りを行ふ間に少しでも間違があれば、それは病人に取つて不幸になると信ぜられてゐたからである。……

 

註 千度參りと云ふのは、寺なり神社なりへ千度參詣して神佛へ千度の祈禱をする事である。しかし門なり鳥居なりから、祈禱の場所までその度每に祈をくりかへして往復すればよい事になつて居る、そしてこの仕事に數人で分配しても宜しい、――たとへば、百人で十度づつ參詣する事に、ただ一人で千度參詣するのと全く同じ効果がある。

 

       

 これから濱口に關して。

 有史以前から日本の海岸は、數世紀の不規則なる間を隔てて非常に大きな海嘯[やぶちゃん注:「かいしやう(かいしょう)」。津波。]――地震、或は海底の火山の働きのために起る海嘯のために掃き去られて居る。この恐ろしい海の不意の膨脹を日本人は津浪と云つて居る。最後の津浪は一八九六年(明治二十九年)六月十七日の夕方に起つた、その時には殆んど二百哩[やぶちゃん注:「マイル」。三百二十二キロメートル。長さはしかとは判らない。機械的に宮城県南端から青森県尻屋崎まで概測すると四百五十キロメートルあるから、誇張な数値ではない。因みに津波の高さは当時の観測最高値である海抜三十八・二を記録している。かの東日本大震災の津波の遡上高は岩手県大船渡市の綾里湾の四十・一メートルが最大とされる。]程の長さの津浪は宮城、岩手及び靑森の東北の諸縣を襲うて歎百の都市と村落とを破壞し、いくつかの地方を全滅させ、そして殆んど三萬の人命を亡ぼした。濱口五兵衞の話は日本の他の地方の海岸に於て明治時代より遙か以前に起つた同じやうな災害の話である。

 彼を有名にした事件の起つた時、彼は老人であつた。彼はその村の最も有力なる住民であつた、長い間村長であつた、そして尊敬され又愛されてゐた。人々はいつも彼をおぢいさんと呼んだ、しかし、その土地の最も富んだ人であつたので、時に公けに長者と呼ぱれてゐた彼は小さい農夫に爲めになるやうな事を云つてきかせ、喧嘩の仲裁をし、必要な時には金をたて替へ、そして最もよい條件で彼等のために米を賣捌いてやるやうな事をいつもしてゐた。

[やぶちゃん注:小泉八雲は老人と言っているが、冒頭注で生没年を示したから言っておくと、事件当時、濱口五兵衛は未だ数えで三十五歳であった。小泉八雲の確信犯の創作部分である。]

 濱口の大きな草葺きの母屋(おもや)は、灣を見下す小さい高臺の端に建つてゐた。重に米をつくつてあるこの高臺は、森のしげつた山に三方圍まれてゐた。この土地は外に向いた端の方から、水際までゑぐれ取つたやうに大きな綠の凹面になつて傾斜してゐら。そしえ二哩の四分の三程のこの傾斜の全部は、海面から見ると狹い白いうねりくねつた道、一條の山道によつて中央を分けられた綠の大きな階段のやうに見えた。本當の村になつて居る九十の草葺きの家と一つの神社が屈曲した灣に洽うて立つてゐた、そして外の家は長者の家へ通ずるその狹い坂路の兩側にしばらく續いて散在してゐた。

[やぶちゃん注:流石にこの舞台となったところは示さねばなるまい。紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町(ひろがわちょう))である。ここ(グーグル・マップ・データ。顕彰資料館「稲むらの火の館」をドットした)。]

 

 秋の或夕方、濱口五兵衞は下の村でお祭の用意をして居るのを、自分の家の緣側から眺めてゐた。稻の收穫は大層好かつた、そこで村人は氏神の社の境内で踊を催して豐作を祝しよう[やぶちゃん注:「しゆくしよう」。]としてゐた。老人は淋しい町の屋根の上にひるがへつて居る幟[やぶちゃん注:「のぼり」。]や、竹の竿の間に飾つてある提灯の列や、神社の裝飾や、派手な色のなりをした若い人々のむれを見る事ができた。その夕方老人と一緖にゐたのは小さい十歲の孫だけであつた、その他の人々は早くから村の方へ行つてゐた。いつもより少しからだの加減が惡くなかつたら、老人も一緖に出かけるところであつた。

 その日はむしあつかつた、そして微風が起つて來たが、未だ何だか重苦しい暑さが殘つてゐた、それが日本の農夫の經驗によると、ある季節には地震の前兆である。そして間もなく地震が來た、人を驚かす程の强さではなかつた、しかしこれまで數百囘の地震を感じて來た濱口は變に思つた、――長い、のろい、ふわふわとしたゆれ樣であつた。多分極めて遠方の或大きな地震のほんの餘波であつたらう。家はめきめきと云つて幾度かおだやかにゆれた、それから又靜かになつた。

 その地震が終ると、濱口の鋭い思慮深い眼は、氣遣はしさうに村の方へ向いた。或一定の場所や物を見つめて居る人の注意が、全く自覺して見てゐない方へ――明かな視野以外にある無意識な知覺の朦朧たる範圍に於てただ少し變な感じのする方へ、不意に氣を取られる事がよくある。そんな風に濱口は沖の方に何かつねならぬ事のあるのに氣がついた。立ち上つて海を見た。海は全く不意に暗くなつてそして變であつた。風と逆行して居るやうであつた。陸から向うへ退いて走つてゐた

 忽ちのうちに全村がその稀有の出來事に氣がついた。明らかに先程の地震を感じた人はなかつた。しかし潮の運動にはたしかに驚いた。一同が浪際へ、そして浪際のもつとさきへ、それを見に走つて行つた。人の記憶ではこんなに潮の引いた事はこの海岸であつたためしはない。見た事のないものが現れ出した、これまで知られなかつた肋骨のやうな畦(うね)のある砂の廣場や、海草のからんで居る岩の區域が、濱口の見て居る間に現れて來た。そして下の方の人はその巨大なる引潮は何を意味するかを考へる者はないやうであつた。

 濱口五兵衞彼自身もこんな物を見た事はかつてなかつた、しかし彼は父の父から幼少の折に聞いた事を覺えてゐた、そして彼は海岸の凡ての傳說を知つてゐた。彼には海がどうなるか分つてゐた。多分彼は村へ使をやるのに要る時間、山のお寺の僧に大きな釣鐘を鳴らして貰ふために要る時間を考へてゐたのであらう。……しかし濱口の考へたらしい事を話す方が、濱口の考へた時間よりもはるかに長くかかるであらう。彼は只孫に向つて云つた。

 『忠(ただ)、すぐ大急ぎだ……たいまつをつけて來い』

 たいまつは嵐の夜に使ふために、そして又或神事の祭禮に使ふために多くの海邊の家にしまつてある。子供はすぐにたいまつをつけた、そして老人はそれをもつて野原に急いだ、そこには彼の大部分の投資とも云ふべき數百の稻叢[やぶちゃん注:「いなむら」。]があつて運ばれるばかりになつてゐた。坂の端に一番近い稻叢に近づいて老いた足で急げるだけ急いで交る交るたいまつをつけ始

めた。日に乾いた藁はほくちのやうに燃えた、火勢をあほる海風はその熖を岡の方へ吹き上げた、そしてまもなく一叢又一叢、藁は炎になつて天に冲する烟の幾條かを上げたが、それが相集り交つて一つの大きな雲の渦となつた。忠は驚きかつ恐れて祖父のあとから叫びながら走つた。

[やぶちゃん注:ウィキの「稲むらの火」によれば(前に言った通り、ネタバレになるのでここでは写真以外はリンクはしない)、『「稲むら」(稲叢)とは積み重ねられた稲の束のこと。稲は刈り取りのあと天日で干してから脱穀するが、上のように稲架(はさ)に架けられた状態を「稲むら」と呼ぶ』。但し、『脱穀後の藁の山も「稲むら」と言うことがあり、史実で燃やされたのは脱穀後の藁である』と言うキャプションで前者の稲叢の写真が添えられてある。]

 『お祖父さん、どうして、お祖父さん。どうして、――どうして』

 しかし濱口は答へなかつた、說明して居る暇がなかつた、ただ危難に瀕して居る四百人の生命の事ばかり考へてゐた。子供はしばらく稻の燃えて居るのを興奮して見てゐたが、突然泣き出した、そして祖父さんは氣が狂つたと信じてうちへ驅け込んだ。濱口は稻叢の一つ一つに火をつけて遂に自分の田地のはてまで來た、それからたいまつをなげ出して、待つてゐた。その熖を見て山寺の小僧は大きな鐘をゴーンとならした、そこで村人はこの二重の訴へに答へた。濱口は村人の、砂から渚をこえて、村の方から蟻のむれのやうに急いで登つて來るのを見たが、彼の待遠い眼から見れば蟻よりも早いとは思はれなかつた。それ程時刻は彼に取つては非常に長く見えたのであつた。日は沈みかかつてゐた、灣の皺のある底、それから遙か向うの斑のある土色の大きな廣がりが最後の橙色のあかきに露出してゐた、そして續いて海が地平線の方へ走つてゐた。

 しかし、實際は濱口がそれ程甚だ長く待たないうちに、第一の救助隊が到着したのであつた、それは二十人程の敏速なる若い農夫達で、直ちに消火に赴かうとした。しかし長者は兩手を以てそれを止めた。

 『もやして置け』彼は命じた、『うつちやつて置け、村中の人に、ここへ來て貰うんだ、――大變だ』

 村中の人が追々來た、そこで濱口が敎へた。若い男や男の子供はすぐにそこへ來た、そして元氣な女や娘も大分來た、それから老人の大方は來た、それから赤ん坊を脊負つた母親、それから子供までも來た、――子供でも水を渡す手傳[やぶちゃん注:「てつだひ」。言わずもがな、消火のためのである。]ができるからである、そして眞先きにかけつけた人々と一緖について來られなかつた年長の人々が急な坂を上つて來るのがよく見えて來た。次第に集つて來た人々は、やはり何(なん)にも知らないで悲しげに不思議相に、燃えて居る野原と長者の自若たる顏とを交る交る眺めてゐた。そして日は沈んだ。

 『お祖父さんは氣ちがひだ、僕は恐い』と澤山の質問に答へて忠(ただ)はすすり泣いた、『お祖父さんは氣ちがいだ、わざと稻に火をつけたんだ、僕はそれを見たんだ』

 『稻の事は子供の云ふ通りだ』濱口は叫んだ、『わしは稻に火をつけたんだ。……皆ここへ來たか』

 組長と家々のあるじ達はあたりを見𢌞し、坂を見下して答へた、『皆居ります、でなくともすぐに參ります。……私共にはこの事が分りません』

 『來た』老人は沖の方を指さし、力一杯の聲で叫んだ、『わしは氣ちがいか今云つて見ろ』

 たそがれの薄明りをすかして東の方を一同は見た、そして薄暗い地平線の端の海岸のなかつたところに、海岸の影のやうな長い細い薄い線が見えた、その線は見て居るうちにふとくなつた、海岸に近づく人の眼に海岸線が廣くなるやうに、その線は廣くなつた、しかし比べ物にもならぬ程ずつと早く廣くなつた。卽ちその長い暗がりは、絕壁のやうに聳えて、鳶の飛ぶよりももつと早く進んで來る、押しかへしの海であつた。

 『津浪』と人々は叫んだ、そしてその巨大なる海の膨脹が山々をとどろかす程の重さを以て、又赫々たる幕電[やぶちゃん注:「まくでん」。電光(雷(かみなり))の一種。遠雷によって夜空の一部が明るく見える現象。また、雲内放電により、電光は雲に隠れて雲全体が光って見える現象。]のやうな泡沫[やぶちゃん注:「しぶき」。]の破裂を以て海岸にぶつかつた時、どんな雷より重い、名狀し難い衝動によつて、凡ての叫び聲と凡ての音をきく力とはなくなつた。それから一時は雲のやきに坂の上を突進して來た水烟[やぶちゃん注:「みづけむり」。]のあらしの外何物も見えなかつた、そして人々は、ただそれにおびえて狽狽してうしろへ散つた。再び見直した時彼等は彼等の居宅の上を荒れて通つた白い恐ろしい海を見た。うなりながら退く時、土地の五臟六腑をひきちぎりながら退いた。再び、三たび、五たび、海は進み又退いた、しかしその度每に波は小さくなつた、それからもとの床にかへつて靜止した、大風のあとのやうに荒れながら。

 高臺の上には暫らく何の話聲もなかつた。一同は下の方の荒廢を無言で見つめてゐた、投げ出された岩や裂けて骨の出た絕壁の物すごさ、住宅や社寺の空しいあとへ海底からゑぐり取つて來て放り出してある藻や砂利の狼藉さ。村落はなくなつた、田畠の大部分はなくなつた、高段[やぶちゃん注:丘や山の傾斜面に作った段々畑様のものであろう。]さへも存在しなくなつた、そして灣に沿うてゐた家のうち殘つて居るものは一つもない、ただ沖の方に物狂はしく浮沈して居る二つの藁屋根だけであつた。死を逃れたあとの恐ろしさ、凡ての人の損害のための茫然たる自失は凡ての口を啞にした、そのあげく濱口の聲で再び穩に[やぶちゃん注:「おだやかに」。]云ふのが聞えた。

 『あれが稻に火をつけたわけだ

 彼等の長者なる彼は今最も貧しき人と殆んど同じ程の貧しさになつて立つてゐた、彼の財產はなくなつたからであつた、しかし彼はその犧牲によつて四百の生命を救つたのであつた。小さい忠(ただ)は走つて來て手にすがつて愚かな事を云つた事の赦しを願うた。そこで人々は彼等の生存して居る理由に氣がついた。そして彼等を救うたその單純なる、おのれを忘れた先見の明に感服し始めた、そして頭立つた[やぶちゃん注:「かしらだつた」。相応の纏め役に当たるような有力者。]人々は濱口五兵術の前に土下座をした、それから人々はそれにならつた。

 それから老人は少し泣いた、一つは嬉しかつたから、一つは自分が老年で衰弱してゐて、ひどく苦しんだからであつた。

 『家が殘つて居る』物が云へるやうになると直ぐに忠の頰を機械的になでながら、彼は云つた、『そして大勢の入る場所はある。それから山の上のお寺もある、外の人はそこにもはひれる』

 それから彼は案内してうちに入つた、人々は叫んだり、ときの聲を上げたりした。

 

 困難の時期は長かつた、その當時一地方と他の地方との間に敏速な交通の方法はなく、そして必要な助けは遠くから送らねばならなかつたからである。しかしもつと時節がよくなるに隨つて人々は濱口五兵衞に對する彼等の負債を忘れなかつた。彼等は彼を富有にする事はできなかつた。たとへできても濱口は彼等にさうする事を許さなかつたであらう。その上物品を贈る事は彼に對する彼等の崇敬の念を表はすには不足であつたらう、彼の心中の靈魂は神のやうであると信じたからであつた。そこで彼等は彼を神と宣言してその後彼を濱口大明神と呼んだ、それよりも偉大なる名譽は與へられないと考へたからである、――又事實如何なる國にあつてももつと偉大なる名譽を人間に與へる事はできないのである。そして彼等が村を再び建てた時、彼等の彼の靈魂のために神社を建てた、そしてその前面の上部に金の漢字で彼の名を書いた札をかかげた、そして祈と供物を以てそこに彼を禮拜した。それについて彼はどんな感じがしたか私には分らない、私の只知つて居る事は下の方で彼の靈魂は神社に祭られてゐたが、彼は子供及び子供の子供と共に、以前の通り人間らしく又質素に山の上の古い草葺きの家に引續き住した事である。彼が死んでから百年以上にもなる[やぶちゃん注:創作上の虚構。実際の濱口五兵衛は明治一八(一八八五)年没で、本作品集刊行時は明治三〇(一八九七)年であるから、亡くなって未だ十二年しか経っていない。]、しかし彼の神社はやはり存在して居る、そして人々は恐怖又は困厄の時に彼等を助けてくれるやうに、善い老農夫の靈魂に今も祈を捧げると云ふ事である。

‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥

 私は濱口の肉體が一方にあつて魂が又別の方にある事をどうして農夫達が合理的に想像するのであらうか、それを私に說明してくれるやうに、友人の或日本の哲學者に賴んだ。それから私は、濱口の生前に農夫達が禮拜したのは、彼の靈魂の一つであつたか、それとも彼等は禮拜を受けるために或特別の魂がそれ以外の塊と離れて出ると想像したのであらうかと尋ねた。

 『農夫達は』私の友人は答ヘた、『人の心や塊は、生前でも、同時に澤山の場所に居られる物と考へて居る。……勿論こんな考は、魂に關する西洋の考と全く違つて居る』

 『その方がもつと合理的でせうか』私はいたづらに尋ねて見た。

 『さうですね』彼は佛敎徒らしい微笑を以て答へた、『もし私共が凡ての心の統一と云ふ說を正しいとして見れば、日本の農夫の考には、少くとも或かすかな眞理を含んで居るらしい。あなたの西洋風の魂に關する考については、さうは云へませんね』

 

小泉八雲 ちん・ちん・こばかま (稲垣巌訳) / 底本「日本お伽噺」~了

 

[やぶちゃん注:本篇(原題はChin Chin Kobakama。「小(ち)ん小(ち)ん小袴(こばかま)」で「小(ち)い小(ちい)い小袴」の音変化であろう)は日本で長谷川武次郎によって刊行された「ちりめん本」の欧文和装の日本の御伽話の叢書Japanese fairy tale seriesの中の一篇である。同シリーズの第一期(英語で言うなら「First (Original) Series」)の№25(明治三六(一九〇三)年三月十五日刊)で(但し、同シリーズは第一期を完結せずに続けつつ、別に第二期を開始しているために、第二期の一部よりも後の刊行になる作品が出てきており、本編もその一つである)、編集・発行者は長谷川武次郎。小泉八雲は当該シリーズに五作品が寄せている。以下、同シリーズや長谷川武次郎氏及び訳者稲垣巌氏については『小泉八雲 化け蜘蛛 (稲垣巌訳)/「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動』の私の冒頭注を参照されたいが、そこで書いたように。今一篇の、同シリーズに載った“The Fountain of Youth”(「若返りの泉」)は以下の底本には載らない。何故これが除かれているかは不明である(一部のネット記載を見ると、これは小泉八雲の創作とされているとあり、それと関係するものか? にしも解せない)サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらで“The Fountain of Youth”の「ちりめん本」の画像と活字化されたそれを読むことが出来る。なお、これは後日、私自身が和訳を試みたいと考えている。従って、以上で底本の「日本お伽噺」は終了している。

 本篇は、サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが画像と活字化した本文を併置していて、接続も容易で、使い勝手もよい。““Internet Archive”のこちらでも、全篇を視認出来る。また、アメリカのアラモゴードの蒐集家George C. Baxley氏のサイト内のこちら(長谷川武次郎の「ちりめん本」の強力な書誌を附した現物リスト)の、Chin Chin Kobakama Japanese Fairy Tale No. 25 1903も必見である。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 本篇冒頭にはかなり長い小泉八雲自身による読者への解説がある。底本(原本でもポイント落ち)ではポイント落ちで全体が四字下げで示されているが、ブラウザの不具合が生じるので字下げをやめ、本文と同ポイントで示した。本文前にはアスタリクスが入るので、誤読することはない。傍点「ヽ」は太字に代えた。また、最後の展開部で、繋がっている文章を恣意的に切断して、行を変えた箇所がある。たまたま前行がしっかり詰っていたのが幸いしているのであるが、これは底本自体がそのような効果を狙うように、字配から印刷元に支持した可能性が極めて高いと判断したからである。最後の方に入る区切り用の長いリーダはもう少し長いが、ブラウザの不具合を考えて下をカットした。

 本篇は「ちいちい袴(ばかま)」又は「ちいちい小袴(こばかま)」として新潟県佐渡島に伝わる民話(岡山県・大分県にも同様の民話があるという)が原拠と思われる。展開の一部が異なること、民俗学的な分析が示されていることなどから、本篇の読後にウィキの「ちいちい袴」を見られんことをお勧めする。恐らく、小泉八雲のこの「ちりめん本」の御伽話五篇の中では、これが最もよく複数、邦訳され、知られているのではないかと私は思う。]

 

  ちん・ちん・こばかま

 

 日本の部屋の床(ゆか)には藺[やぶちゃん注:「ゐ」。単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ属イグサ Juncus effusus var. decipens原本では畳を作る職人の絵と藺の莚の絵が添えられてあって(“Internet Archive”の当該ページ)、藺草の香りがしてくるようだ。必見!]を織り疊んだ美しくて厚くて柔かい筵が幾枚も敷き詰めてあります。疊と疊とは非常にキチンと合はしてあるので、其の間にはやつと小刀の刄(は)が押し込める位の事です。疊は每年一度取り替へられ、いつも隨分綺麗にしてあります。日本人は家の中で決して靴を穿きませんし、英國人のやうに椅子や家具を使つたりしません。彼等は坐るのも、眠るのも、食事するのも、時としては書き物まで床の上でするのです。それですから成程疊は隨分綺麗にして置かなくてはならない譯で、日本の子供達はやつと口が利けるやうになるが早いか、疊を傷(いた)めたり汚したりしないやうにと敎へ込まれるのです。

 さて日本の子供はといふと本當のところ極めて善良です。旅に來た人で、日本に關する面白い本を著した人は誰でも皆かう述べてゐます、日本の子供は英國の子供よりはるかに素直で惡戲氣(いたづらぎ)ははるかに尠いと。彼等は物を傷めたり汚したりしません、自分の玩具でさへ毀さないのです。小さい日本の女の子も自分の人形を毀しはしません。いいえそれどころか、大層大切にして、自分が一人前の女になりお嫁入りした後までそれを持つてゐるのです。お母さんになつて、出來たのが女の子の時は、其の人形を其の小さい娘にやるのです。すると其の子はお母さんがした通りに其の人形を大切にして、自分が大きくなるまで保存(もつ)て置いて、やがては自分の子供達にやります、子供達は丁度自分のお祖母さんがしたやうに行儀よく其の人形を相手に遊ぶのです。さういふ譯ですから私は――此の短いお話を皆さんの爲めに書いてゐる者ですが――日本で幾つも人形を見ましたが、百年以上も經つてゐるのに見た所はまるで新らしかつた時のやうに綺麗なのです。日本の子供達がどんなに善良であるかといふ事はこれで說明がつくでせう。又日本の部屋の床がどうしていつも大方綺綺麗になつてゐるか――惡戲(わるさ)の爲めに裂けたり汚れたりしないかといふ事もお解りになるでせう。

 みんなさうなのか。日本の子供はみんながみんなそんなに善良なのかとあなた方はお尋ねになるかも知れませんね。いいえ――みんながみんなといふ譯ではありません、少しばかり、ほんの少しばかり碌で無しがゐるのです。それではかういふ碌で無しの子供のゐる家の疊はどんな事になるのか。別に大してひどい事にはなりません――何故かといふと疊を大切にする小さい妖精(おばけ))がゐるからです。かういふ妖精共は疊を汚したり傷めたりする子供達をからかつたりおどかしたりするのです。少くとも――こんな惡戲兒(いたづらつこ)をからかつたりおどかしたりする事に大體きめてゐるのです。私はかうした小さい妖精共が今でもまだ日本に住んでゐるかどうか確かな事は解りません――新らしい知識や電信柱が非常に澤山の妖精共をおどかして追ひ拂つて仕舞つたのですから。

 それは兎も角として茲に[やぶちゃん注:「ここに」。]一つ彼等に就いての短いお話を致しませう――

 

       *         *

            *

 昔或る所に一人の小さい女の子がありました。隨分綺麗でしたが、無精な事も隨分無精でした。兩親は金持で大層多勢の召使を雇つてゐましたが、其の召使達が大變小娘を可愛がつて、其の子が自分でしなければならない事を何でもかでもしてやつたのです。多分かういふ事が娘をそんな無精者にしたのでせう。やがて娘は成長して一人前の美しい女になりましカが、相變らず無精でした。けれども召使達がいつも着物を着せたり脫がせたり、髮を結つてやつたりするので、人目には全く惚れぼれするやうに見え、誰一人として娘に缺點があらうなどとは考へなかつたのです。

 たうとう其の女は或る立派な武士(さむらひ)と結婚しました、そして彼に連れられてよその家に行き其處で暮す事になりましたが其の家にはほんの僅かしか召使がゐませんでした。嫁さんは自分の家で使つてゐた程多勢の召使がゐないのを心許なく思ひました。お里の人達がいつもしてくれた事を、一切自分でしなければならなくなつたからです。自分で着付けをしたり、自分の着物に氣を配つたりして、旦那さんの氣に入るやうに小綺麗に美しく見えるやうにするのは、嫁さんに取つて中々むづかしい事でした。然し旦那さんは武士の事ですし度々家を後にして遠く軍(いくさ)に出かけなければならなかつたものですから、嫁さんもたまには思ふ存分懶ける[やぶちゃん注:「なまける」。]事が出來たのです。旦那さんの兩親は大分年も取つてゐるしそれにお人好しで、ちつとも嫁を叱る事はありませんでした。

 所が、或る晚の事旦那さんは軍に出かけて留守の時、部屋の中で怪しげな小さな物音がしたので嫁さんは眼を覺ましました。大きな行燈の明りで嫁さんははつきり見る事が出來ました、不思議なものを見たのです。何でせう。

 日本の武士(さむらひ)そつくりの身なりをした、其のくせ脊の高さは僅かに一寸そこそこの小男共が何百も、嫁さんの枕をすつかり圍んで踊つてゐるのです。彼等は嫁さんの旦那さんが祭日に着るのと同じやうな着物を着て、――裃(かみしも)と言つて、肩先の四角になつてゐる長い上着です、――髮は束ねて結ひ上げ、銘々二本づつちつぽけな刀を差してゐました。彼等は踊りながらみんなして嫁さんを見て笑ふのです、そしてみんなで同じ歌を何遍も何遍も繰り返して歌ひました――

 

    『ちん・ちん こばかま、

        よも ふけ さふらふ、――

       おしづまれ、ひめ・ぎみ、――

             や とん とん』

 

 それはかういふ意味です――

 『私等はちん・ちん こばかまです――時も晚う[やぶちゃん注:「おそう」。]御座います――お眠(やす)みなさい 御立派な氣高いお孃樣』

 其の言葉は大層丁寧なものに思はれましたが、嫁さんは小男共が自分をいぢめるつもりでいたづらしてゐるのだといふ事をぢきに悟りました。彼等は嫁さんに向つて意地の惡い顏付もしたのです。

 姉さんは幾つか捕まへようとしました、けれども彼等は隨分すばしこく其處(そこ)らを飛び𢌞るので捉まへる事は出來ませんでした。そこで今度は追ひ拂はうとしました、けれども彼等は逃げようとしません、そして『ちん・ちん こばかま……』を歌つたり、あざ笑つたりするのをどうしてもやめませんでした。そこで嫁さんは彼等が小さい妖精(おばけ)だといふ事が解りました。さあ恐くなつたのならないのつてもう聲を立てる事も出來ない程でした。彼等は朝まで嫁さんの周りを踊りました――朝になると不意にみんな消えて失くなりました。

 嫁さんは恥かしくてどんな出來事があつたかを誰にも話しませんでした――何故かといふと、自分は武士の妻ですから、恐い目に會つた事など誰にも知らせたくなかつたのです。

 翌晚、再び小男共はやつて來て踊りました、其の次の晚にも又來ました、それから每晚です――來るのはいつも同じ時刻でした、それは日本の年寄がよくいふ『丑の時』つまり吾々の時間でいふと朝の二時頃なのです。たうとう嫁さんは重い病氣に罹ました、碌に眠らないからでもあり恐いからでもあります。けれども小男共は嫁さんを獨でだけにしてかまはずに置かうとはしませんでした。

 旦那さんが家に歸つて來て見ると。妻が病氣で床に就いて居るので大層心配しました。始めの内嫁さんは病氣になつた始末を旦那さんに話すのを恐がりました、彼が自分をあざ笑ふだらうと思つたからです。けれども旦那さんは隨分親切でしたし、隨分優しくいたはつてくれたので、やがて嫁さんは每晚の出來事を彼に話したのです。

 旦那さんはちつともあざ笑つたりなどしませんでした、それどころか暫くの間極くまじめな顏付をしました。それからかう尋ねました――

 『何時頃其奴共はやつて參るのぢや』

 嫁さんは答へました――『いつも同じ刻限――「丑の時」で御座います』

 『左樣か』と旦那さんは言ひました――『今宵拙者は身を潜めて其奴共を見屆けると致さう。恐る〻事無用ぢや』

 そこで其の晚武士は寢間の押入に隱れて、襖の隙間からぢつと窺つてゐました。

 彼が待ち構へて見張つてゐる内たうとう『丑の時』になりました。すると、忽ち、小男共が疊の中から飛び上つて、例の踊りを始め例の歌を始めたのです、

 

   『ちん・ちん こばかま

       よも ふけ さふらふ……』

 

其の樣子といつたら奇妙奇的烈で、踊るのが又隨分とをかしな恰好だつたものですから、武士は危なく笑ふところでした。けれども彼は自分の若い妻の脅えた顏を見ました、そして其の時、日本の幽靈や化物は殆どみえな刀を恐がるものだといふ事を思ひ出したので、彼は刀の身を引き拔き、パッと押入から飛び出して、小さな踊子共に斬り付けたのです。

忽ち彼等は――に成つて仕舞ひました。何μと皆さんは思ひますか

      爪楊枝

 

 もう其處には小さい武士共はゐませんでした――只一摑みの古い爪楊枝が疊の上に散らばつてゐたばかりです。

 若い妻は大變に無精だつたので自分の爪楊枝を當り前には捨てなかつたのです。每日、新らしい爪楊枝を使ひ果たすと、それを片付けて仕舞ふ爲めに、いつも疊と疊の間に突つ込んで置くのでした。それだものだから疊を大切にする小さい妖精共が腹を立てて、嫁さんを苦しめたのです。

 旦那さんは嫁さんを叱りました、嫁さんは大層恥ぢ入つてどうしたらい〻のか解らない程でした。一人の召使が呼ばれました、そして爪楊枝は向うへ持つて行つて燒かれたのです。それから後といふもの例の小男共は決して二度と戾つて來ませんでした。

        …………………………………

 無精な小娘の事を述べた話がもう一つあります、其の娘はいつも梅干を食べては、後で種子を疊の間に隱してゐたのです。長い間こんな眞似をして人に見つけられずにすんでゐました。けれどもたうとう妖精(おばけ)共が腹を立て〻娘を懲らしました。

 每晚のやうに、ちつぽけな、ちつぽけな女が――みんな大層長い振袖の附いた眞赤な着物を着て――同じ時刻に疊から出て來て、踊つたり、娘をヂロヂロ見詰めたりして娘を眠らせませんでした。

 或る晚娘のお母さんが寢ず番をしました、そして彼等を見て、叩きました、――するとみんなすつかり梅の種子になつて仕舞つたのです。そこで其の小娘の不しだらが解つて仕舞ひました。それからは其の子は本當に大層善い娘になりました。

 

[やぶちゃん注:冒頭で述べた恣意的操作とは文章としては前に続いている「忽ち彼等は――に成つて仕舞ひました。何μと皆さんは思ひますか」を恣意的に改行したこと、そのダッシュ部分が次の四字も下げた「爪楊枝!」と底本では一致しているからである。「ちりめん本」原本では中央だが、底本では明らかに確信犯の配置となっているからなのである。

 さても、私はこの話が好んで邦訳されてきたことに、やや奇異の感を持ってきた。そもそもが小泉八雲はちゃんと説明することをせずに前のメインの話を終わっているのであるが、まず、今の若者でも、この若いお嫁さんが「爪楊枝」は何に使うのか判らない者が大半なのではないかと思うからである。これは日常の既婚女性が行う鉄漿(おはぐろ:お歯黒:かねつけ)をする必需品だったからである。歯や歯間が汚れていると、鉄漿(かねつ)けが上手くいかないことから、爪楊枝を用いて綺麗にしなくてはならなかったのであるそれを知らずに読めば、生意気に爪楊枝で「シー! ハー!」するいけ好かない女をイメージしてしまうし、欧米の読者もそう捉えたのではないかという疑問が一つ。

 さらに、既に日本でもその辺りを説明しないと判らなくなっている本話が、何故、一番、邦訳されているか(少なくとも私はこれを小学生(一九六〇年代)の時に邦訳で読み、はっきり記憶しているのである)という疑問である。それは明らかに、ちょっと昔の大人たちがこれが躾(しつけ)の大事さを子どもらに感じさせるに、ウッテツケのお伽話だと安易に考えたからに他ならない。しかも見たこともない鉄漿の説明を抜きにしてという杜撰な仕儀でだ。そうした中途半端ないい加減なやり方こそが、まさに大人の、道義に悖る(ちゃんと状況を説明することをせずに道徳を子どもにかますのは私は頗る道義的でないと思う)愚劣さなのではないか? と私は思うのである。

小泉八雲 團子を失くしたお婆さん (稲垣巌訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題はThe old woman who lost her dumpling。「dumpling」(ダンプリング)はウィキの「ダンプリング」によれば、『小麦粉をねってゆでただんご、果物入り焼き団子のこと』、『ないしは卵・牛乳で練り、団子状にしてゆでたものでシチューやスープに浮かす』『もの。あるいはゆでたじゃがいも、小麦粉、米、または両方に塩と水を加えて練り上げ、丸型に整えてから茹でたり、蒸したりしたもの。また、小麦粉などの生地で肉、野菜、果物などを包んだ料理もダンプリングと呼ばれる。したがって日本のすいとんや蕎麦がき、中国の餃子・粽子、イタリアのニョッキなども英語ではダンプリングに分類される。世界各地で多様なダンプリング料理が作られている』。『小麦粉のダンプリングを薄く伸ばして細く切れば』、それは『麺となるため、麺料理とも関連がある。dumpは動詞「ぐちゃぐちゃに(混ぜる・捨てる)」「どさっと(投げる・捨てる)」、dump-yは形容詞「ずんぐりした」dump-ingは(動)名詞「投げ捨てること、ダンピング」』であるとある)は、日本で長谷川武次郎によって刊行された「ちりめん本」の欧文和装の日本の御伽話の叢書Japanese fairy tale seriesの中の一篇である。同シリーズの第一期(英語で言うなら「First (Original) Series」)の№24(明治三五(一九〇二)年六月一日刊)で(但し、同シリーズは第一期を完結せずに続けつつ、別に第二期を開始しているために、第二期の一部よりも後の刊行になる作品が出てきており、本編もその一つである)、編集・発行者は長谷川武次郎。小泉八雲は当該シリーズに五作品が寄せている。以下、同シリーズや長谷川武次郎氏及び訳者稲垣巌氏については『小泉八雲 化け蜘蛛 (稲垣巌訳)/「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動』の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は、サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが画像と活字化した本文を併置していて、接続も容易で、使い勝手もよい。““Internet Archive”のこちらでも、全篇を視認出来る。また、アメリカのアラモゴードの蒐集家George C. Baxley氏のサイト内のこちら(長谷川武次郎の「ちりめん本」の強力な書誌を附した現物リスト)の、The Old Woman Who Lost Her Dumpling Japanese Fairy Tale No. 24 ca 1902も必見である。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 なお、一読、本篇は所謂、「おむすびころりん」(「鼠の餅つき」「鼠浄土」「団子浄土」などとも標題される)で知られる話譚の類型の一ヴァージョンであることが判る。その濫觴はやはり室町時代の「御伽草子」に溯ると考えられる。詳しくは本篇読後に(別に知られたものであるし、小泉八雲のそれはかなり展開が異なるので今読まれても問題ない)ウィキの「おむすびころりん」を読まれたい。]

 

  團子を失くしたお婆さん

 

 昔々或る所に一人の面白いお婆さんがありました、笑ふのと米の粉(こ)團子を拵へるのが好きだつたのです。

 或る日、お婆さんはお晝ごはんにしようとお團子を拵へに掛つてゐましたが、一つ取り落して仕舞ひました、其の團子は小さい臺所の土間にあつた穴の中に轉がり込んで見えなくなつたのです。お婆さんは穴に手を突つ込んで拾はうとしました、すると忽ち土が崩れて、お婆さんは落ち込んで仕舞ひました。

 隨分深い所まで落ちたのですが、ちつとも怪我はしませんでした。再び起き上つた時、お婆さんは自分が道路(みち)に立つてゐるのに氣が付きました、自分の家の前のと同じやうな路なのです。其處は大層明るくて、お婆さんの眼には稻田が一面に見えました、でも何(ど)の田にも人つ子一人居ないのです。こんな事になつたのは全體どうした譯か、私には解りません[やぶちゃん注:この「私」は筆者小泉八雲を指す。]、然しどうもお婆さんは他所(よそ)の國に落ち込んで仕舞つたらしいのです。

 お婆さんの落ちた路は大分急な坂でした。それで、團子を探しても見付からなかつたものですから、お婆さんはきつと團子が坂の下の方へ轉がつて行つたに違ひないと思ひました。

 お婆さんは、

 ――『團子や團子。私の團子は何處行つた』

と言ひながら、路を駈け下りて探しに行きました。

 間もなくお婆さんは石地藏が一つ路端に立つてゐるのを見て、聲を掛けました――

 ――『これはこれはお地藏樣、私の團子をお見掛けになりましたか』

 地藏は答へました――

 ――うむ、團子が私の側(そば)を通つて下の方へ轉がつて行くのを見たよ。だがお前はもう先へ行かない方がい〻、其處を下りた所には、人を食べる惡い鬼が住んでゐるのだから』

 然しお婆さんは唯笑つたばかり、――『團子や團子。私の團子は何處行つた』と言ひながら先へ馳け下りて行きました。やがてお婆さんは別の地藏が立つてゐる所にやつて來て、尋ねました――

 ――『これはこれはお優しいお地藏樣。私の團子をお見掛けになりましたか』

 すると地藏さんは言ひました――

 『うむ、團子がほんの今さつき轉がつて行くのを見たよ。だがお前はもう先へ行つてはいけない、其處を下りた所には、人を食べる惡い鬼が住んでゐるのだから』

 然しお婆さんは唯笑つたばかり、相變らず――『團子や團子。私の團子は何處行つた』と言ひながら駈け下りて行きました。やがてお婆さんは三つ目の地藏の所に來て尋ねました――

 『これはこれはおなつかしいお地藏樣。私の團子をお見掛けになりましたか』

 所が地藏は言ひました――

 『團子の事など言つてゐる場合ではない。今鬼が來る所だ。さあ此處へ來て私の袖の蔭に蹲(しやが)んでおいで、少しも音を立て〻はいけないよ』

 間もなく鬼が直ぐ近く迄やつて來ましたが、立ち止つて地藏にお辭儀をして、かう言ひました――

 『今日は、地藏さん』

 地藏も『今日は』を大層丁寧に言ひました。

 さうすると鬼は俄に空氣を二三遍不思議さうな樣子をして嗅ぎましたが、大きな聲で言

ひました――

 ――『地藏さん、地藏さん。何處かに人間の臭ひがしますね』

 ――『いや』と地藏は言ひました――『それは多分お前の思ひ違ひだよ』

 ――『いえ、いえ』と鬼は又も空氣を嗅いでから言ひました、『人間の臭ひがしますよ』

 其の時お婆さんはもう堪へ切れなくなつて――

 『テ、ヘ、ヘ』とと笑ひました――さうすると鬼は直ぐに大きな毛むくじやらの手を地藏の袖の後ろに伸ばして、尚も『て へ、へ』と笑ひ續けてゐるお婆さんを、引つ張り出しました。

 ――『あー、はー』と鬼は大聲を出しました。

 其の時地藏はかう言ひました――

 ――『お前は其のよいお婆さんをどうしようとするのだ。いぢめてはならんぞ』

 ――『いぢめやしません』と鬼は言ひました。『唯家へ連れて行つて私等のおさんどんをし貰はうと思ふのです』

 ――『テ、へ、へ』とお婆さんは笑ひました。

 ――『それならよろしい』と地藏は言ひました――『だが本當にお婆さんに優しくしなくてはならんぞ。もししなかつたら、私はひどく腹を立てるよ』

 ――『決していぢめは致しません』と鬼は約束しました、『お婆さんは每日ちよつと許り私等の爲めに働いてくれさへすればよいのです。さよなら、地藏さん』

 それから鬼はお婆さんを連れてはるばる路を下つて行きましたが、やがて二人は廣い深い川の所まで來ました、其處には一艘の小舟があつたのです。鬼はお婆さんを其の小舟に乘せて、川を漕ぎ渡つて自分の家に連れて行きました。大層大きな家でした。鬼は直ぐお婆さんを臺所に案内して、自分や自分と一緖に住んでゐる他の鬼共に食べさせる御飯の拵へ方を敎へたのです。それから小さな木で出來た杓文子(しやもじ)を渡してかう言ひました――

 『お前はいつでもお米を一粒だけ鍋に入れるんだよ、其の一粒の米を水に浸(つ)けて此の杓文子で搔き𢌞せば、粒はどんどん殖えて終ひには鍋一杯になるからね』

 そこでお婆さんは鬼の言つた通りに、たつた一つの米粒を鍋に入れて、其の杓文子で搔き𢌞し始めましたが、搔き𢌞すにつれて、一粒は二つになり――それから四つ――それから八つ――それから十六、三十二、六十四といつた調子でどんどん出來上つて行きました。いつでもお婆さんが杓文子を動かす度每に米の分量は殖えるのです、それで僅かの間に大きな鍋は一杯になりました。

 それからといふもの、其の面白いお婆さんは長い間鬼の家に留つて、每日鬼や其の仲間達みんなに御飯拵へをしてやりました。鬼は決してお婆さんをひどい目に會はしりおどかしたりしませんし、お婆さんの仕事は例の摩訶不思議な杓文子のお蔭で大層樂に捗取りました[やぶちゃん注:「はかどりました」。]――尤もお婆さんはそれはそれは隨分澤山のお米を炊かなければなりませんでした、何しろ鬼の食べる事といつたらどんな人間の食べるのよりずつと澤山なのですから。

 けれどもお婆さんは淋しかつたのです、そしていつも自分の小さい家に歸りたくて、團子が拵へたくてたまりませんでした。それで或る日、鬼共が殘らず何處かへ出掛けた時、お婆さんは逃げて見ようと考へました。

 お婆さんは先づあの魔法の杓文子を取つて、それを帶の下に挾みました、それから川まで下りて行きました。誰も見てゐません、小舟も其處にりました。お婆さんはそれに乘つてせつせと漕ぎ出しましたが、漕ぐのは中々上手でしたから、直きに岸から遠く離れて行つたのです。

 けれども川は大變廣くて、未だ四分の一も漕ぎ渡らない頃、鬼は、みんな揃つて、家に歸つて來ました。さあおさんどんがゐなくなつた、魔法の杓文子も無くなつたといふ始末です。みんなは直ぐ川まで駈け下りました、見るとお婆さんが大急ぎで向うへ漕いで行くところです。

 多分鬼共は泳げなかつたのでせう。何しろ舟はありません。だからあの面白いお婆さんが向う岸に着かない内に捕まへるには川の水をすつか呑み乾すより外に方法はないだらうと考へたのです。そこで鬼共は膝を突いて、大急ぎで呑み始めたのでお婆さんが未だ半分も渡り越さない内に、水嵩はずつと減つて仕舞ひました。

 然しお婆さんはどんどん漕ぎ續けてゐたのです、其の内水が大變に淺くなつたので鬼は呑むのをやめて、踏込んで渡り始めました。するとお婆さんは橈[やぶちゃん注:「かひ」。]を下ろし、帶から魔法の杓文子を取つて、鬼共に向つて打ち振りながら、それはそれはをかしな顏付をしたので鬼共はみんな吹き出しました。

 所が鬼共は、笑つた拍子に、こらへ切れなくて呑み込んだ水をすつかり吐き出して仕舞つたのです、そこで川はもとの通り充滿(いつぱい)になりました。鬼共はもう渡れません、それでお婆さんは無事に向う岸に着き、それから出來るだけ路を急いて逃げて行きました。お婆さんは息もつかずに走り續けてたうとう又自分の家に戾つて來ました。

 それから後、お婆さんは大層仕合せになりました、自分の思ふま〻にいつでも、團子が拵へられたからです。おまけに、お米の出來る魔法の杓文子を持つてゐたのです。お婆さんは近所の人達や通り掛りの人達にお團子を賣つて、ほんの僅かの間にお金持になりました。

 

2019/11/22

小泉八雲 猫を画いた子供 (稲垣巌訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題はThe boy who drew cats。但し、英文ウィキの「The boy who drew cats」によれば、小泉八雲の原タイトルは“The Artist of Cats”((猫の芸術家」)であったとある)は日本で長谷川武次郎によって刊行された「ちりめん本」の欧文和装の日本の御伽話の叢書Japanese fairy tale seriesの中の一篇である。同シリーズの第一期(英語で言うなら「First (Original) Series」)の№23(明治三一(一八九八)年八月一日刊)で、編集・発行者は長谷川武次郎。小泉八雲は当該シリーズに五作品が寄せている。以下、同シリーズや長谷川武次郎氏及び訳者稲垣巌氏については『小泉八雲 化け蜘蛛 (稲垣巌訳)/「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動』の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は、サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが画像と活字化した本文を併置していて、接続も容易で、使い勝手もよい。また、アメリカのアラモゴードの蒐集家George C. Baxley氏のサイト内のこちら(長谷川武次郎の「ちりめん本」の強力な書誌を附した現物リスト)の、The Boy Who Drew Cats Japanese Fairy Tale Rendered into English by Lafcadio Hearnも必見である。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 なお、「京都外国語大学創立60周年記念稀覯書展示会 文明開化期のちりめん本と浮世絵」の本篇についての解説によれば、『「絵猫と鼠」として東北から中国・四国地方に知られる昔話を、ハーンが生き生きとした妖怪描写で訳述したものである。昔話では小僧がその後、その寺の住職になったとされるが、ハーンは小僧は高名な絵描きになったとしている。屏風』(猫を描いている小僧の絵の手前左にある大輪の花を描いた衝立屏風の右下であろう)『の絵に』「華邨(かそん)」『と書かれているため、絵師は鈴木華邨だとわかる』とある。「まんが日本昔ばなし~データベース~」に青森県採取として「絵ねことねずみ」が載る。これと類似した話は「猫寺」伝説として各地にあるらしい。鈴木華邨(安政七(一八六〇)年~大正八(一九一九)年)は日本画家。江戸生まれで名は惣太郎、別号に忍青。初め、円山派を中島享斎に師事し、菊池容斎の画風を学んだ。内国勧業博覧会で花紋賞牌を受賞するなど、各種博覧会・共進会で受賞を重ね、「日本画会」設立にも参加した。花鳥山水画で一家を成し、図案や挿絵にも画才を発揮した、と思文閣「美術人名辞典」にある。]

 

  猫を畫いた子供

 

 昔々、日本の小さい田舍村に、一人の貧乏な百姓と其の女房が住んでゐました、夫婦共極く良い人達でした。二人の間には子供が大勢あつて、それを皆育てて行くのは隨分骨の折れる事でした。年上の息子は中々丈夫な子で僅か十四の時立派にお父さんの手助けが出來ました、それから小さい女の子達はやつと步けるやうになるが早いかもうお母さんに手傳する事を覺えたのです。

 所が一番の年下の子供は、小さい男の子でしたが、どうも力仕事が適ひさうには思はれませんでした。大層賢い子で兄さん達や姉さん達誰よりも賢かつたのですが、至つて身體が弱くて小さかつたので、大して大きな男には迚も[やぶちゃん注:「とても」。]なれまいと言ふ評判でした。そこで兩親は、百姓になるより坊主になつた方があの子の爲めに良いだらうと考へたのです。或る日兩親は其の子を村の寺に連れて行つて、其處に住んでゐる親切な年取つた和尙に、もしお願ひが出來たら此の小伜をお弟子として置いて下さるやうに、そして坊さんの心得をすつかり敎へてやつて下さるやうに、と賴みました。

 年寄は此の小童にやさしく言葉を掛けて、それから二つ三つむづかしい事を訊き質しました。其の答へが中々巧者だつたものですから和尙は小さい小僧を弟子として寺に引取り、坊さんになるやうに敎へ込んでやるといふ事を承知したのです。

 子供は老和尙の言ふ事は直ぐに覺えましたし、大槪の事はよく言付を守りました。けれども一つ惡い事がありました。勉强の時間中に好んで猫の畫を畫くのです、それに猫なぞ決して畫いてはならない所にまで好んで猫を畫くのです。

 どんな時であらうと自分獨りぎりになつたが最後、猫を畫きます。お經の本の緣にも畫くし、寺の屛風衝立殘らずに畫く、さては壁といはず柱といはず幾つも幾つも猫を畫くのです。和尙は何遍となく良くない事だと言ひ聞かせましたが、どうしても畫くのを止めません。彼が猫を畫くのは本當のところ畫かずにはゐられないからでした。彼は『畫工(ゑかき)の天才』と言はれるものを持つてゐたので、全く其の爲めに寺の小坊主にはあまり向かなかつたのです、――良い小坊主といふものはお經本を習はなければならないものですから。

 或る日彼が唐紙の上にまことに上手な畫を畫いて仕舞つた後で、老和尙は嚴しく言ひ渡しました。『小僧よ、お前は直ぐに此の寺を出て行かねばならぬぞ。お前は決して良い和尙になるまいが、大方立派な畫工にはなる事ぢやらう。さて俺(わし)は最後に一言忠告をして進ぜる、堅く心に留めて忘るまいぞ。「夜は廣き所を避けよ、――狹きに留(とど)まれ」』

 其の子供は和尙が『廣き所を避けよ、――狹きに留まれ』と言つたのはどういう意味だか解りませんでした。彼は自分の着物を入れた小さい包を、出て行く爲めに括り[やぶちゃん注:「くくり」。]ながら、考へて考へ拔いたのですが、さう言つた言葉に合點が行きませんでした、けれども和尙にもうかれこれ口を利くのは恐いので、只左樣ならとだけ言つたのです。

 子供はしみじみ悲しく思ひながら寺を後にしましたが、さて自分はどうしたらいいのかと迷ひ始めました。もし其の儘家に歸れば察する所お父さんは和尙さんの言ふ事を聞かなかつたからと言つて自分を叱るにきまつてゐる、だから家に行くのは恐いと思つたのです。其の時不圖思ひ出したのは、十二哩[やぶちゃん注:「マイル」。十九・三一二キロメートル。]離れた隣村に、大層大きな寺があるといふ事でした。其の寺には大勢坊さんがゐると前から聞いてゐたのです、そこで其の坊さん達の所へ行つてお弟子入りを賴まうと彼は心を決めたのでした。

 さて其の大きな寺はもう閉め切つてあつたのですが、子供は其の事を知らなかつたのです。寺が閉された譯は、化物が坊さん達やおどかして追ひ出して仕舞ひ、自分が其處に住み込んで仕舞つたからです。幾人か氣の强い侍達が其後化物を退治に夜其の寺に出かけた事もありました、けれども其の人達の生きた姿は二度と見られませんでした。さういふ事を誰も其の子供に話した者は無かつたのです。――そこで彼は村を指して遠い路を步いて行きました、坊さん達にやさしく扱はれればいいがと思ひながら。

 村に着いた頃はもう暗くなつて、人は皆寢てゐましたが、目貫の通りを外れた場末の丘にある大きな寺が彼の眼に止りました、それに寺の中に一つ明りが點いて[やぶちゃん注:「ついて」。]ゐるのも見たのです。かういふ話をする人達の言ふ事ですが、化物はよく明りをとぼして、賴り少い旅人共が泊りに來るやうに誘(をび)き寄せるのださうです。子供は直ぐに寺に行つて、戶を叩きました。中には何の音もしません。それから何遍もトントン叩きましたが、矢張り誰も出て來ないのです。しまひにそーつと戶を押して見ました、すると其處は締まつてはゐない事が解つたので彼は大喜びしました。そこで中に入つて行きました、見ると明りがとぼつてゐるのです、――でも坊さんは居りません。

 彼は坊さんが直ぐ今にもやつて來るだらうと思つて、坐つて待つてゐました。其の時氣を付けて見るとどこもかしこも寺の中は埃で薄黑くなつてゐて、而も蜘蛛網[やぶちゃん注:「くものす」。]が一杯懸つてゐました。そこで彼はかう考へました、坊さん達は部屋を綺麗にして置かうと思つて、きつと喜んで小坊主の一人は置くに違ひないと。何故坊さん達が何でもかでも埃だらけの儘にして置くのか彼には不思議に思へました。けれども、何より氣に入つたのは、猫を畫くのに手頃の白い大屛風が幾つかあつた事です。疲れてはゐたのですが、彼は早速硯箱を探して、一つ見つけ出し、墨を磨つて、猫を畫き始めました。

 彼は屛風の上にそれはそれは隨分澤山の猫を畫きました、畫いて仕舞ふと眠くて眠くてたまらなくなつて來ました、眠らうと思つて屛風の傍に橫になりかけた丁度其時です、不圖彼は『廣き所を避けよ、――狹きに留まれ』といふあの言葉を思ひ出しました。

 寺は大變廣かつたのです、彼は全く獨りぼつちです、それで今此の言葉を思ひ出した時――言葉の意味はよく解らなかつたけれど――始めて少し恐くなつて來たのです。そこで『狹い所』を探して眠らうといふ事に決めました。彼は滑戶[やぶちゃん注:原文“sliding door”。板戸か襖であろうが、小泉八雲は襖(唐紙)は“sliding screen”と英訳することが多いように思う。また、板戸では狭くはあろうが、シチュエーションとして真っ暗ら過ぎるし、展開に強い閉塞感が出てしまう(小泉八雲が想起したのはそれなのかも知れぬが)。挿絵では障子である。私もここは障子としたい。それなら、点いていた妖しい灯火も効果を出すからである。]の附いてゐる小さい部屋を見つけ、其處へ行つて、自分を閉め込んで仕舞つたのです。それから橫になつてグツスリ寢込みました。

 夜も大分更けた頃太變な凄じい音――鬪つたり叫んだりする音――がして彼の眼を覺ましました。其の音は隨分激しかつたので彼は小部屋の隙間から覗く事さへ恐がつたのです。恐ろしさに息を殺したまま、ぢつと寢てゐました。

 寺に點いてゐた明りは消えました、けれども物凄い音は續いて、而も段々物凄くなつて、寺中が搖れたのです。長い事經つてからひつそりしました、けれども子供は未だ動くのが恐かつたのです。彼は朝日の光が小さい戶の隙間から射し込んで來るまで身動きしませんでした。

 それから彼は隱れてゐた所からそつと拔け出して、あたりを見𢌞しました。眞先に眼に付いたのは寺の床がどこもかしこも血で一杯になつてゐる事でした。次に彼の見たのは、其の眞中に死んで橫たはつてゐる、途方もなく大きな、恐ろしい鼠――牛よりも大きな、化け鼠だつたのです。

 然し何人(だれ)が、それとも何物がそれを退治する事が出來たのでせう。其處には人も居らねば他の動物もゐませんでした。不圖子供は眼を留めました、自分が前の晚に畫いた猫といふ猫は皆其の口が血で赤く濡れてゐるのです。さては自分の畫いた猫共が此の化物を殺したのだなと彼は其の時悟りました。又、あの智惠のある老和尙が何故自分に、『夜は廣き所を避けよ、――狹きに留まれ』と言つて聞かせたかといふ事も、其の時始めて解つたのです。

 其の後其の子供は大層名高い畫工(ゑかき)になりました。日本に來る旅人達は今でも彼の畫いた猫がいくつか見られます。

 

小泉八雲 化け蜘蛛 (稲垣巌訳) / 「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“The Goblin Spider”)は日本で長谷川武次郎によって刊行された「ちりめん本」の欧文和装の日本の御伽話の叢書“Japanese fairy tale series”の中の一篇である。同シリーズの「second series №1」(明治三二(一八九九)年四月十日刊)で、編集・発行者は長谷川武次郎。小泉八雲は当該シリーズに五作品が寄せている(以下の底本では“The Fountain of Youth”(「若返りの泉」)を除く四作が邦訳されている。“The Fountain of Youth”が何故、底本では除かれているかは不明である(一部のネット記載を見ると、これは小泉八雲の創作とされているとあり、それと関係するものか? よく判らない)サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらで“The Fountain of Youth”の「ちりめん本」の画像と活字化されたそれを読むことが出来る。なお、これは後日、私自身が和訳を試みたいと考えている)

 当該叢書の出版者で長谷川弘文社社主であった長谷川武次郎(嘉永六(一八五三)年~昭和一三(一九三八)年)は、「関西大学図書館 電子展示室」の「ちりめん本」の解説によれば、江戸日本橋の西宮家に生まれたが、二十五歳から母方の長谷川姓を名乗るようになった。『クリストファー・カロザースのミッションスクール(後の明治学院)やウィリアム・ホイットニー校長時代の銀座の商法講習所(後の一橋高商)に通ったことから、在日宣教師、知識人、外交官等との交友を広げ、国際的感覚を養った』。明治一七(一八八四)年に『長谷川弘文社として出版活動を始め』、翌明治十八年から、『ちりめん本の中でも最も有名なJapanese fairytale seriesの刊行を始める。これがちりめん本の流通の始まりである。当初』、『ちりめん本は、「童蒙に洋語を習熟せしむるため」という絵入自由新聞での広告文にもあるように、日本国内の人々、特に子どもの語学教育のため、というのが』、『その販売の第一義であったようだが、その意図からは外れて、外国人の日本滞在の土産物として重宝された』。『このJapanese fairy tale seriesはちりめん本の代名詞といってもよい存在で、内容は日本の昔噺が外国語訳されたものである』。『訳者には』小泉八雲が親しかった(但し、晩年は小泉八雲の方が距離をおいたようである)バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)の『名もあり、シリーズのほとんどの挿絵を担当した小林永濯』(えいたく 天保一四(一八四三)年~明治二三(一八九〇)年:浮世絵師・日本画家。但し、没年から小泉八雲の英訳の挿絵画家ではない)『の挿絵の美しさもあってか、今やJapanese fairy tale seriesイコールちりめん本と捉えられているというのが実際である』とある。

 また、「放送大学図書館」公式サイト内の「ちりめん本」には、以下のような説明がある。『明治時代に新しい絵本が生まれました。それは江戸赤本の伝統を汲むものでしたが、和紙を使用し、木版多色刷りで挿絵を入れ、文章を活版で印刷し、縮緬布のような風合を持った絵入り本で、ちりめん本と呼ばれる欧文和装本でした』。『ちりめん本の生みの親、長谷川武次郎は』『当時の日本では英語を取得することが学問や商売にとって必須と考え』、明治二(一八六九)年十六歳で早くも『英語を学び始めました。彼は近代商業についても学び、貿易や出版に関する知識も習得していきました。商人としてばかりでなく、彼はちりめん本を作る職人達を取りまとめる才にも長け、英語を駆使して翻訳者と交渉し、国際出版の礎を築いていったのです』。『こうして』、明治一八(一八八五)年『初秋、武次郎の努力によって「桃太郎」や「舌切雀」等を筆頭に、英文による「昔噺集」が生まれ、日本の出版業界が新しい時代への一歩を踏み出したのです』。『ちりめん本「日本昔噺集」では英語版の他にフランス語版、スペイン語版、ポルトガル語版及びドイツ語版などが出版されました。表紙を比べると、各版とも同じ絵柄に見えますが、細部や刷り色などは微妙に違っています』とある。

 なお、この「ちりめん本」というのは「縮緬本」で、和紙に多色摺りしたものを縮緬状にしたもの(英語「クレープ・ペーパー」(crepe paper))で、手触りも実際の絹の縮緬の風合いに近い、ふっくらとした暖かみのある本である。

 本篇は画像としては複数の箇所で視認出来る。個人的には原本の感じを味わうなら、

「ヘルン文庫」のこちらの「単頁」のPDFファイルのダウン・ロードがお勧め

である。他に、

サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちら

が画像活字化した本文を併置していて、接続も容易で使い勝手もよかろう。また、今までもお世話になってきている、

“Internet Archive”のこちら

でも全篇視認できる(ただ気になることがある。この奥付では上記のクレジットと同じであるにも拘わらず『再版第一號』とあることである。何らかの理由があって、その日のうちに初版分を打ち切り、再版をまた印刷したということらしい)。また、

アメリカのアラモゴードの蒐集家George C. Baxley氏のサイト内のこちら(長谷川武次郎の「ちりめん本」の強力な書誌を附した現物リスト)の、

The Goblin Spider Japanese Fairy Tales Second Series, No. 1, c1910 Reprint

も必見である。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。但し、同「あとがき」の田部隆次のそれには、『『日本お伽噺』一九〇二年東京、長谷川の出版にかかる繪入りの日本お伽噺叢書の第二十二册から第二十五册までになつて居る物である』とあって、初版のクレジットと異なるのが不審である。

 訳者稻垣巖(いながきいわお 明治三〇(一八九七)年二月十五日~昭和一二(一九三七)年:パブリック・ドメイン)は小泉八雲の次男で、もと、京都府立桃山中学校英語科教員。明治三四(一九〇一)年九月に母セツの養家であった稲垣家へ養子縁組されて稲垣姓となった。大正九(一九二〇)年六月、岡山第六高等学校第二部甲類卒業後、翌七月に京都帝国大学工学部電気工学科入学、その後、転部したか、昭和二(一九二七)年三月に京都帝国大学文学部英文科選科を修了し、昭和三(一九二八)年四月、京都府立桃山中学校(現在の京都府立桃山高等学校)へ英語教師として赴任している。「青空文庫」で「父八雲を語る」(新字正仮名。初出はラジオ放送「父八雲を語る」で昭和九(一九三四)年十一月十五日とする)が読める。

 年経た蜘蛛が化け物と化する話は枚挙に暇がない。私の「怪奇談集」にもそうした話は幾つもある。また、本篇も紹介してある私の『柴田宵曲 妖異博物館 「蜘蛛の網」』も参照されたいが、実は本篇の原拠となるものと思われる、展開の酷似した江戸期の怪談を、私は確かに読んだ記憶があるのだが、思い出せない(怪奇談に博覧強記であった柴田氏も原拠を挙げていない)。見出したら、追記する。]

 

 

   日本お伽噺

 

 

  化け蜘蛛

 

 舊い舊い本に書いてありますが日本には澤山化け蜘蛛がゐたものだといふ事です。

 人によつては化け蜘蛛が今でもいくらか居ると言ひきる者もあります。晝間は見たところ普通の蜘蛛そつくりですが、然し夜も大分更けて、人々は寢靜まり、何の音もしなくなると、それはそれは隨分大きくなり、色々恐ろしい事を爲(し)でかすのです。化け蜘蛛は又、人間の姿になるといふ――人を魅(ばか)す爲めにですが――不思議な力を具へてゐるとも考へられてゐます。さてかういふ蜘蛛に就いて一つ名高い日本の話があるのです。

 昔、或る田舍の淋しい所に一軒の化物寺がありました。其處を巢にしてゐる化物の爲めに誰一人として其の家に住む事は出來ませんでした。氣の强い侍達が大勢化物を退治するつもりで何遍も何遍も其處へ出かけました。けれども寺に足を踏み入れたら最後二度と音沙汰はなかつたのです。

 たうとう一人、度胸があつて拔目がないといふので人に知られてゐた侍が、寺に出かけて夜の間窺つて見ようといふ事になりました。侍は其處へ自分を連れて來た人達に向つて言ひました。『萬一拙者が明朝に至るも猶ほ生存致すに於ては、寺の太鼓を打鳴らして告げ參らすで御座らう』それから持は一人後に殘つて、手燭の光をたよりに見張りをしてゐました。

 夜が更けて來ると侍は、埃だらけの佛像の置いてある須彌檀の下にぢつと蹲りました。何も變つたものも見えず何の物音も聞えぬままやがて眞夜中は過ぎたのです。すると其處へ化物がやつて來ました、身體は半分で眼は一つしかありません、それが『人臭い』と言ふのです。けれども侍は身動きしませんでした。化物は行つて仕舞ひました。

 すると今度は一人の坊主がやつて來て三味線を彈きましたが其の手際は全く驚くばかりなのでこれは人間の業ではないと侍は確かに見て取つたのです。そこで侍は刀を拔いて飛び起きました。坊主は、侍を見ながら、カラカラと笑つて、かう言ひました。『さては愚僧を妖怪と思召されたか。いやいや。愚僧は此の寺の和尙に過ぎんのぢや。妖怪共を近づけぬ爲め彈かねばならぬが喃。どうぢやな此の三味線は美事な音が致すであらうが。どれ所望ぢやほんの一彈いて御覽ぢやれ』

[やぶちゃん注:「須彌檀」(しゆみだん(しゅみだん))は仏像を安置する台座のこと。須弥山(サンスクリット語ラテン文字転写「Sumeru」の漢音写。妙高山(みょうこうせん)と意漢訳したりもする。古代インドの世界観が仏教に取り入れられたもので、世界の中心に聳えるという高山。この山を中心に七重に山が取り巻き、山と山との間に七つの海があり、一番外側の海を鉄囲山(てっちせん)が囲む。この外海の四方に四大州が広がり、その南の州に人間が住むとする。頂上は帝釈天の地で、四天王や諸天が階層を異にして住み、日月が周囲を回転するという)を象ったものとされる。一般には四角形で重層式。

「喃」は「のう」。感動詞で呼びかけの語。「もし」。但し、訳文としては「……ならぬが、のう、どうじやな……」とする方がよかろうか。]

 

 さう言つて坊主は其の鳴物を差し出しましたが、侍は極く用心深く左の手でそれを摑んだのです。所が忽ち三味線は恐ろしく大きな蜘蛛網(くものす)に變り、坊主は化け蜘蛛に變りました。そして侍は自分の力の手が緊く[やぶちゃん注:「きつく」。]蜘蛛網に絡まれたのに氣が付きました。彼は雄々しく立ち向つて、蜘蛛を刀で切り付け、手傷を負はしたのです、けれども直きに網の中に後から後からと卷き付けられて仕舞つて、身動きも出來なくなりました。

 然し、手傷を負つた蜘蛛は這ひ去りました、そして日は昇つたのです。間もなく人々がやつて來て恐ろしい網に卷かれてゐる侍を見つけ、無事に助け出しました。皆は床の上に幾つも落ちてゐる血の滴りが眼に付いたので、其の跡を隨(つ)けて寺から出て行き荒れ果てた庭に在る穴の所まで來ました。其の穴からは身の毛のよだつやうな呻き聲が聞えて來るのです。皆はたの中に手傷を負つた蜘蛛を見付けて、それを退治しました。

 

小泉八雲 永遠の執着者 (岡田哲蔵訳) / 作品集「異國情趣と囘顧」~電子化注完遂

小泉八雲 永遠の執着者 (岡田哲蔵訳)

[やぶちゃん注:本篇(原題は“The Eternal Haunter”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第二パート“RETROSPECTIVES”の最終の第十話(作品集の掉尾)である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「ヽ」は太字に、傍点「○」は太字下線に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   永遠の執着者

 

 今年の東京の彩色版畫――錦繪――は異常の興味あるものと私に思はれる。それ等の畫は初期の大膽刷の色彩の魅力を再現する、または殆ど再現する、そして線描に於ては著しい進步を示す。たしかに今の季節の最も良い版畫より綺麗な何物も望み難い。

[やぶちゃん注:「錦繪」浮世絵版画の版様式の一つ。明和二(一七六五)年に江戸で大流行した絵暦(えごよみ)交換会を機に、飛躍的に進歩した多色摺り木版画を指し、初期の三色程度の多色摺りは「紅摺り絵」とよんで区別する。「錦のように美麗な絵」の意であるが、当時おもに上方で「押し絵」(布細工による貼り絵の一種。下絵を描いた厚紙(主に板目紙を用いる)を細かい部分に分けて切り抜き、それぞれの部位に適した色質の布片で包(くる)み(ときに綿を入れて膨らみを持たせる)、それらを元の図柄に合わせて再編成して製作する。布や綿の質感によって薄肉のレリーフのような立体感が生まれる)を「錦絵」と呼んでいたことから、それと区別して対抗する意図から「東(あずま:吾妻)錦絵」と命名されたらしい。まもなく単に「錦絵」とも呼ばれるようになった。錦絵は、下絵を描く絵師と、彫師・摺師・版元・さらに好事家の協力による世界でも稀に見る紙製の総合芸術であるが、絵師では鈴木春信が最も深く関与し、貢献したため、彼を創始者とすることもある。以後、その優れた色彩美と表現力によって急速に発展普及し、安永九(一七八〇)年頃以降は錦絵以外の浮世絵版画は殆んど制作されなくなり、江戸後期から明治期に於いては、浮世絵版画と錦絵はほぼ同意語となった。技法上も種々の改良や工夫が加えられて、十九世紀に入ると数十色もの色版を使ったものも現れて、幕末にはその極限に達した(ここまでは小学館「日本大百科全書」に拠る。ここより以下近世末から近代部分はウィキの「錦絵」を使用した)。春信は明和七(一七七〇)年)に『急死するが、その後、美人画では北尾重政のよりリアルな表現が後の浮世絵師たちに多くの影響を与え、役者絵では、勝川春章や一筆斎文調らが、従来の鳥居派のものとは異なる独自の作品を描いていった。安永後期から天明の頃には役者絵は勝川派が独占、春章を始め、彼の門人の勝川春英や勝川春好らが活躍している。また、寛政期になると、美人画においては喜多川歌麿を輩出、世間は歌麿風美人画の全盛期となるが』、寛政二(一七九〇)年に『浮世絵の表現内容を検閲する改印制度ができ』、『その出版に様々な禁令が出た。同じ時期、旗本出身の鳥文斎栄之は高雅で気品の溢れる清楚な美人画をえがいて歌麿に拮抗、門人の栄昌、栄里、栄水、栄深らは歌麿の影響を受けた美人画で、また栄松斎長喜も独自の個性によって時代を謳歌した。役者絵においては東洲斎写楽らを輩出、大首絵が流行している。この写楽の真に迫る役者絵は歌川豊国、歌川国政らに影響を及ぼしている』。文化三(一八〇六)年、『歌麿が急死したが、大衆は未だ歌麿の美人画を求めており、そこに菊川英山が歌麿晩年風の美人画で登場、若干弱くはかなげな女性を描いて人気を得たが、文政になると、大衆は歌川国貞、渓斎英泉の描く粋で婀娜っぽい美人画を好むようになっていった。一方、文政末期には歌川国芳が『水滸伝』の登場人物をシリーズで描き、空前の水滸伝ブームを巻き起こしたほか、武者絵、美人画、戯画など多方面に活躍したほか、葛飾北斎や歌川広重らによって従来の浮絵とは異なる風景画が描かれるようになった。また』、安政六(一八五九)年に『横浜が開港されると、歌川貞秀らは横浜絵を制作、明治初期にかけて一大ブームとなった』。『明治期になると、文明開化に応じて楊洲周延、落合芳幾』(よしいく)、三『代目歌川広重』、二『代目歌川国輝らが赤を強調した開化絵を描いたほか、具足屋を版元とし、芳幾が絵を描いた』明治七(一八七四)年『発刊の『東京日々新聞』や』、明治八(一八七五)年に『月岡芳年が絵を描いた錦昇堂による『郵便報知新聞』などにおいて新聞錦絵に筆をとったが、この流行は長続きせず、数年で衰退していった。また』、明治九(一八七六)年に『小林清親がモノトーンで叙情性のある光線画を発表すると、井上安治や小倉柳村、大阪の野村芳圀に影響を与えたが、折からの国粋主義台頭により、その流行も』明治一三(一八八〇)年には『消滅した。そのほか』、明治二七(一八九四)年に『勃発した日清戦争や』、明治三七(一九〇四)年に『起こった日露戦争に応じて清親のほか、水野年方、右田年英らが報道画としての戦争絵を残しているが、この日露戦争のころが錦絵最後のブームであった』(小泉八雲は明治三七(一九〇四)年九月二十六日没である)。一方、明治三三(一九〇〇)年十月に『私製の絵葉書の発行が許可されると』、『まずは雑誌の付録として石版の絵葉書が制作されるようになり、日露戦争の頃には彩色木版による絵葉書も多数発行されるようになり、木版画の一枚物を代表する商品となっていった。木版画による絵葉書では山本昇雲、小原古邨の花鳥画、坂巻耕漁の風景画などが制作された。当時、流行の石版画家として知られていた山本昇雲が』明治三九(一九〇六)年から明治四二(一九〇九)年に『かけて歌川派のものと異なる美人画「今すがた」シリーズを発表しても、時勢の流れに逆らえず、錦絵は衰退していった。このような中、職を失いつつあった彫師や摺師ら職人の生活維持のために新しい仕事の開拓が急務となっており、そこで活路を見出したのが文芸書の雑誌、単行本出版との提携であり、即ち、活字文化との提携であった。具体的には口絵や挿絵、表紙絵に伝統木版画を使用することが特に活発化していった』。『大正初期の主要な絵師には前述の山本昇雲、小原古邨、坂巻耕漁らが挙げられるが、錦絵全体の出版点数は大幅に減っており、相撲絵や能楽絵以外の出版物では絵葉書などが一枚物を代表するようになっていった。ほかには歌川国松らが千社札を描いたり、笠井鳳斎が大正大礼の錦絵を描いている。また』、大正一〇(一九二一)年には『右田年英』(みぎたとしひで)『が年英随筆刊行会を結成し、『年英随筆』という画集を出版している』しかし、大正一二(一九二三)年九月一日に『起こった関東大震災によって大半の版元が全滅となり、それと同時に錦絵は終焉を迎えた』とある。]

 最近に私が買ひ求めたのは怪異の硏究の一組であつて、――極東で知られた各種の怪を含み、西洋にまだ知られぬ變種もあつた。或るものは極度に不快であるが、少數のものは眞に人を魅する。例へばここに、いま出たばかりで僅か三錢といふ特價で賣られる『ちかのぶ』作のうまいのが一つある。

 

譯者註 『ちかのぶ』は明治時代の浮世繪師揚州周延ならむ。

[やぶちゃん注:浮世絵師楊洲周延(ようしゅうちかのぶ 天保九(一八三八)年~大正元(一九一二)年)はウィキの「楊洲周延」によれば、『作画期は幕末動乱期の混乱を挟みつつも』文久頃(一八六一年~一八六四年)から明治四〇(一九〇七)年頃までの約四十五年に及び、美人画に優れ、三枚続きの風俗画を得意とした。『歌川国芳、三代歌川豊国及び豊原国周の門人。姓は橋本、通称は作太郎、諱は直義。楊洲、楊洲斎、一鶴斎と号す』。『越後国高田藩(現新潟県上越市)江戸詰の下級藩士橋本弥八郎直恕(なおひろ』『)の長男として生まれる。ただし、出身地が高田と江戸のどちらかは不明』。『弥八郎は中間頭を務め、徒目付を兼任した』。文久二(一八六二)年の『記録によれば』、二十五『歳の周延も「帳付」』『という役職についている』。『周延は、幼い頃に天然痘にかかり』、『あばた顔だったため写真嫌いで、亡くなった時も写真は』一『枚も無かったという』。『幼少時は狩野派を学んだようだが、その後浮世絵に転じて渓斎英泉の門人(誰かは不明)につき』、嘉永五(一八五二)年十五歳で『国芳に絵を学んで、芳鶴(』二『代目)を名乗る』『(有署名作品は未確認)』。文久元(一八六一)年に『国芳が没すると』、『三代目豊国につき』、『二代目歌川芳鶴、一鶴斎芳鶴と称して』『浮世絵師となった。さらに豊国が』元治元(一八六四)年十二月に『亡くなると、豊国門下の豊原国周』(くにちか)門『に転じて』、『周延と号した』。慶応元(一八六五)年、『幕府の第二次長州征討に従軍し、行軍する藩士らの様子を「長州征討行軍図」で色彩豊かに描いている』。慶応三年、『橋本家の家督を相続した』。同年五月六日、『国周が日本橋音羽町に建てた新宅開きの日に、酔った河鍋暁斎が国周の顔に墨を塗りたくって大騒ぎとなった。この時、怒った周延が刀を抜いて暁斎に切ってしまうぞと飛びかかり、暁斎は垣根を破って逃げ、中橋の紅葉川の跡に落ちてドブネズミのようになったという』。『錦絵では慶応』三『年正月刊の豊原国周の「肩入人気くらべ」(大判』三『枚続)中に人物を補筆したのが早いものであろう』。『幕末の動乱期には高田藩江戸詰藩士が結成した神木隊』(しんぼくたい)『に属し、慶応四(一八六八)年五月、『上野彰義隊に加わる』も、八月、『朝日丸で品川沖を脱走、すぐに長鯨丸』(ちょうげいまる)『に乗り換え』、十一月、『北海道の福島に上陸、陸路で箱館を目指し』、翌一月五日、『亀田村に到着。榎本武揚麾下の滝川具綏』(たきがわともやす)『指揮第一大隊四番小隊のもとで官軍と戦ったが』、三『月の宮古湾海戦において回天丸に乗り込んで戦い』、『重傷を負う。戊辰戦争終結後に降服、未だ傷が癒えていなかったため』、『鳳凰丸で』明治二(一八六九)年八月に『東京へ送られ、高田藩預かりとなった。故郷の高田で兵部省よりの禁錮』五十『日、高田藩から家禄半知または降格、あるいは隠居廃人の処分を受けた。この時、高田の絵師・青木昆山らと交流を深めている』。『その後、いつ頃かは不明だが東京に戻』り、明治一〇(一八七七)年から明治一三(一八八〇)年には『上野北大門町におり』、『以降は作画に精励した。当初は武者絵や「征韓論之図」、「鹿児島城激戦之図」などといった西南戦争の絵を描いて評判を取る。明治』十『年代からは宮廷画を多く描いており、晩年にかけて大判』三『枚続の「皇后宮還幸宮御渡海図」、「皇子御降誕之図」、「今様振園の遊」などを残』している。明治一五(一八八二)年には『橋本周延として第』一『回内国絵画共進会に出品した作品が褒状を受けている。なお、』同年には、『明治天皇及びその家族を錦絵化することは禁止された。また』、明治十七年に催された第二回『内国絵画共進会では「人物」、「景色」が銅章を受けている。同年から明治』二十四『年には湯島天神町』『に住んでいた』。明治二八(一八九五)年から明治三〇(一八九七)年に『かけて、江戸っ子が知らない江戸城の「御表」と「大奥」を』三『枚続の豪華版の錦絵で発行、江戸城大奥の風俗画や明治開化期の婦人風俗画などを描き、江戸浮世絵の再来と大変な人気を博した。代表作として「真美人」大判』三十六『図、「時代かがみ」、「大川渡し舟」などの他、「千代田の大奥」』百七『枚、「千代田の御表」』百十五枚(三枚続き、五枚続き、六枚続きもある)、「温故東之花(おんこあずまのはな)」などの、『江戸時代には描くことができなかった徳川大奥や幕府の行事を記録したシリーズ物は貴重な作品として挙げられ、特に「千代田の大奥」は当時ベストセラーとなった。なお「千代田の大奥」には種本が存在する。永島今四郎・太田義雄』作に成る「朝屋叢書 千代田城大奥 上下」(朝野新聞社・明治二五(一八九二)年)が『それで、「千代田の大奥」の個々の錦絵に付けられた画題と、『千代田城大奥』の項目が一致する』。明治三十年に開催された『第一回日本絵画協会共進会に出品し、三等褒状を受けている』。『また明治維新後は、「外国と対等に付き合うには女性も洋服を着なければならない」と公の場では華族や新政府の高官の夫人、令嬢は華やかなロングドレスを身に纏うようになった』が、『周延は、女性の注目を集めたこのニューファッションを取上げて錦絵に描いた。例として「チャリネ大曲馬御遊覧ノ図」や「倭錦春乃寿」、「女官洋服裁縫之図」などといった宮廷貴顕の図があげられ、周延はこれらも多く描いている。これにより、周延は明治期で人気一番の美人画絵師となっている。ただし』、『この文明開化の新時代に浮世絵に描かれた女性たちは、その髪型や着るものは新しいデザインであっても、その容貌は未だ江戸美人のままであった。美人画以外にも子供絵、歴史画、国周の流れをくむ役者絵、挿絵などの作品があり、周延の錦絵の作品数は錦絵』八百二十『点、版本』三十種と『と多数に上り、数少ない優れた明治浮世絵師の中においても屈指の人であった。周延が生涯を通して最も力を注いだのは宮廷官女、大奥風俗を含む美人風俗であり、時代を反映した優れた作品群があった』。なお、逝去から二ヶ月後、『池袋の本立寺に「神木隊戊辰戦争之碑」が建立された。その建設者名の冒頭に』は、『本名である橋本直義』の名が『刻まれており、周延が最後に成そうとしたのは』、『先に亡くなった神木隊同士たちの慰霊だった事がわかる』とある。彼の作品は「山田書店」公式サイト内のこちらで三百三十七点に及ぶ多くのそれを視認することが出来る。但し、以下に示す幽霊画は残念ながら見当たらない。他にも画像で検索して見たが、発見出来なかった。題名を御存じの方は御教授願いたい。]

 諸君はそれは何を描いて居るのか推察されるか……左樣、一人の娘、――然し何等の娘。[やぶちゃん注:原文“but what kind of a girl?”。「しかし、如何なる娘であるか?」。]少しそれを硏究せられよ。……下を向いた眼元に内氣の愛嬌がこぼれ、――羽をやすめて居る蝶の樣な、あの輕さうなそして好ましい優美を具へた彼女はほんとに愛らしいではないか。……否、彼女は、諸君がいふ樣な意味での、最も東のはてのサイケ[やぶちゃん注:原文“Psyche”。ギリシア神話に登場する人間の娘プシューケー(ラテン文字転写:Psȳchē:古代ギリシア語では「気息・心・魂・蝶」を意味する。愛の神エロス(キューピッド)の妻。女神アフロディテによってさまざまの苦難に遇わされたが、ゼウスの力で幸福を得た。後世、画題として好まれた美女である英語の「psychology」(心理学)などはこれに由来する。英語では「サイキ」とも発音する。]の樣なものでは無くて――彼女は一の魂である。上の枝から落ち散る櫻花は、彼女の姿の中を通り過ぎて居るのを見よ。又下の方の彼女の衣裳の襞は、靑い微かな霞に消えて居るのを見よ。全體が如何に微妙で煙霧の樣である事ぞ。それが人に春の感じを起こさせる、そして凡てそれ等の仙境の樣な色は日本の春の曙の色である……否、彼女は何れの季節の人格化でも無い。寧ろ彼女は夢である――極東の若人の眠につき纏ふ樣な夢である、然し畫家は彼女に夢を現はさせ樣としたのではない……諸君は推察されぬか。さあ、彼女は樹の精である、――櫻木の精。曙または、夕暮の薄光のうちにのみ、彼女は木を脫け出でて現はれる、――そして彼女を見た人は誰れでも彼女を愛せずには居られぬ。然し近く寄ると、彼女は吸はれた霧の樣に幹のうちに消ゆる。樹の精が或る男を慕つて、彼の爲めに一人の男の子を生んだ談があるが、かかる行ひは彼女の種族の内氣な習ひに頗る外づれたものであつた……

[やぶちゃん注:最も知られた芸能物では、私も大好きな浄瑠璃「卅三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」であろう(文政八(一八二五)年・大坂御霊境内初演。若竹笛躬(ふえみ)・中邑阿契(なかむらあけい)の合作。但し、宝暦一〇(一七六〇)年月豊竹座初演の「祇園女御九重錦(ぎおんにょうごここのえにしき)」(全五段)の内、三段目「平太郎住家」「木遣音頭(きやりおんど)」を独立させて改題したもの。通称「柳(やなぎ)」)。横曽根(よこそね)平太郎と契り、一子緑丸(みどりまる)をもうけた妻お柳(りゅう)は、実は柳の古木の精であったが、白河法皇の病気の原因を除くため、その柳を切って三十三間堂の棟木にすることになったことから、夫と子に別れを告げて去る。切り倒された柳の大木は運ばれる途中で、お柳の思いが残って動かなくなるが、平太郎父子の木遣音頭によって、静かに引かれてゆくという話である。小泉八雲には同じく柳の精と契る「青柳の話」(私の『小泉八雲 靑柳のはなし (田部隆次訳) 附・「多満寸太礼」の「柳情靈妖」』を参照)があるが、そこでは子はもうけていないので違う。]

 諸君は不可能を描く要は何處にあると問はる〻か。さる問を發するのは諸君が若さのこの幻、――春のこの夢の能力を感ぜぬことを證する。私は不可能は[やぶちゃん注:底本の傍点「ヽ」はママ。「不可能は」に打ったものが誤植された可能性が疑われる。]我々が現實及び平凡と呼ぶものの多數よりも、もつと事實に密接な關係を有つと主張する。不可能は赤裸の眞理で無いかも知れぬ、然し私はそれは通常、假面や面被を冠つて居るとしても[やぶちゃん注:「面被」は「めんぴ」と読んでおくが、ここは“masked and veiled”であるから、「ヴェール」と読みたいのが本心である。]、永遠の眞理であると思ふ。さて私にはこの日本の夢は眞である、――少くとも人間愛が眞である如く眞である。精靈として考へてすらそれは眞である。何等の精靈を信ぜぬと稱する人は己が心に僞をいうて居る。誰れでも精靈に憑かれる。そしてこの彩色版畫は、我々が皆知つて居る精靈を我々に思はせる、――たとひ我々の多數(詩人を除く)はその知己[やぶちゃん注:原文“acquaintance”。「知り合い」(がいること)。]を告白することを欲せぬけれども。

 

 恐らくは――それが我々の多數にさうなるのであるから――諸君はこの執着者と、小兒の時なりと、夜の夢に見たかも知れぬ。勿論、その時、諸君の息んで[やぶちゃん注:「やすんで」。]居る上に、身を屈める美しい姿を諸君は知り得なかつた、恐らく諸君は彼女を天使であるか、または死せる姉妹の魂であると思つたであらう。然し生の目覺めの時に、我々は初めて彼女の存在を注意する樣になる。それは小兒が靑年に成熟し始める頃である。

 この初めての彼女の出現は歡喜の衝動、息もとまる悅樂である、然し驚異と快樂との後には直に名狀し難い悲哀、――以前に感じた何れの悲哀とも全く異る――が迫り來る、たとひ彼女の目にはただ愛撫があり、彼女の脣には最も微妙の笑があるけれども。そして諸君は彼女の誰れなるかを知るまでは、――それを知るは容易では無いが――その感情の理由を想位し得ぬ。

 彼女は唯だ一瞬時止まる、然しその光彩の瞬時の間に、我々の存在の一切の潮が立つて、何の言にも云はれぬ憧憬を以て彼女の方に流れかかる。そしてその時――突如――彼女は居なくなる、そして我々は日が影になり、世界の色は灰色になつたのを知る。

 それから後、魅力は我々と我々が以前に愛したもの、――人間又は物又は場所、――との間に殘る。それ等の何物もまたそのかみの如くもう近くさう親しくは見えぬであらう。

  度々彼女は還つて來よう。我々が一度彼女を見た上は、彼女は決して尋ねて來る事を止めぬであらう。そして此執着、――言にいひ難い程甘美で、現はされぬ程悲哀なる――が我々に彼女に似たる誰れかを求めて世界を遍歷したいといふ輕忽[やぶちゃん注:「けいこつ/きやうこつ(きょうこつ)。「軽率」に同じい。]な願を抱かすかも知れぬ。然し如何に長く如何に遠く我々は徨うても、その誰れかを決して見出きさぬであらう。

 後には彼女の訪ひ來るのが恐ろしくなるかもしれ敍、それは苦痛、――了解の出來ぬ不思議な苦痛、――を伴なふからである。然し地帶を距て[やぶちゃん注:「へだて」。]、海を越えても我々は彼女から離れ得ぬ、絕壁も彼女を阻まぬ[やぶちゃん注:「はばまぬ」。]。彼女の動作はエーテルの振動の如く音無く且つ微妙である。

[やぶちゃん注:「エーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次訳)」の私の注を参照されたい。]

 彼女の美は人の心の如く昔のもの、――されどいつも美しく成り勝さり、永遠に若さを保つ。人間は秋の霜に草の枯る〻如くのうちに凋む、然しのみが彼女の無終の若さの輝きと花とを照らす。

 凡ての男は彼女を愛した、――凡てが彼女を愛し續けねばならぬ。然し何人もその脣を彼女の衣の裾にだに觸れぬであらう。

 凡ての男が彼女を崇む、然し凡てを彼女は欺き、そして彼女の誑かし方は多端[やぶちゃん注:「たたん」。複雑で多方面に亙っていること。]である。最も屢〻彼女は己を慕ふものを或る地上の少女の前に誘ひ、そして判からぬ樣に彼女自らをその少女の體に混じ、そして全然人間の目視が神聖になり、――人の四肢がその衣を徹つて[やぶちゃん注:「とほつて」。]輝く樣な光彩を生ぜしめる。然し直ぐとまた光輝ある執着者は人間から彼女自らを離し、彼女に瞞された[やぶちゃん注:「だまされた」。]男をして感覺の嘲笑に驚かしむる。

 殆ど凡ての男が試みたけれども、何人も彼女を描き得ぬ。彼女は繪にならぬ、――彼女の美その物は不斷の變移、無限の多種で、光の流に押さる〻如く、永久の生氣で振動して居る爲めに。

 實は、數千年前に或る驚くべき彫刻家があつて、彼女の單一の似姿を石に刻み得たといふ談がある。然しこの業は多くの人の爲めに至上の悲哀の因となつた、そして神は、慈悲心から、他の如何なる人にも同じ驚異を成就する力を決して與ヘぬと宣告せられた。近頃我々は唯だ崇拜し得る、――我々は描くことは出來ぬ。

[やぶちゃん注:ギリシア神話の人物。キュプロス島の王ピュグマリオン(ラテン文字転写:Pygmaliōn)は自分の手で彫刻した象牙の女人像に恋し、アフロディテに、この像とそっくりの妻を与えたまえと祈ったところ、日に日に思慕のために衰弱してゆく彼を見かねたアフロディテが、命を吹き込み、生きた女性にガラテアに変っていた。彼は彼女結婚し、パフォスという娘をもうけたとされ、また、彼は生涯をかけて神殿に祀るアフロディテ像を彫り続けたとされるが、小泉八雲が言っている話はちょっと違う。こういう伝承があるか、或いは、本篇のために創作したものか。識者の御教授を乞う。]

 然し彼女は誰れ、彼女は何。……あ〻、私はそれを諸君に尋ねようと思つた。彼女は名を有たなかつた、然し私は彼女を樹の精と呼ばう。

 日本人は我々が彼女を攘ひ[やぶちゃん注:「はらひ」。]除け得るといふ、――若し我々が殘酷なれば――唯だ彼女の樹を切り倒しさへすれば。

 然し私が云ふ[やぶちゃん注:底本は傍点「○」。]は攘ひ除けられぬ、――また彼女の樹を切り倒すことも出來ぬ。

 何故なれば彼女の樹は量も無く、時も無く、億萬の枝ある生命の樹、――正に世界の樹、イグドラシル、その根は夜と死のうちにあり、その頭は神々の上にある。

 

譯者註 イグドラシル(Yggdrasil)は北歐神話にある大木。その根は地獄にあり、梢は天に達し、枝は全地を掩ふ、ノルナと名附くる運命の三神その下に坐し人世の事件を編むといふ。

[やぶちゃん注:ユグドラシル(古ノルド語:Yggdrasill)は北欧神話に登場する一本の架空の木。「ユッグドラシル」「イグドラシル」とも表記する。ウィキの「ユグドラシル」によれば、『世界を体現する巨大な木であり、アースガルズ、ミズガルズ、ヨトゥンヘイム、ヘルヘイムなどの九つの世界を内包する存在とされる。そのような本質を捉えて英語では “World tree”、日本語では』「世界樹」「宇宙樹」等『と呼ばれる』。『ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」の「神々の黄昏(楽劇)」の冒頭「ワルキューレの岩」で第一のノルン(運命の女神)が「一人の大胆な神が水を飲みに泉にやって来て 永遠の叡智を得た代償に片方の目を差し出しました そして世界樹のトネリコの木から枝を一本折り その枝から槍の柄(つか)を作りました 長い年月とともに その枝の傷は 森のような大樹を弱らせました 葉が黄ばんで落ち 木はついに枯れてしまいました」と歌う』(シソ目モクセイ科トネリコ属 Fraxinus の実在する樹種で、しばしばユグドラシルはトネリコであるとされる。但し本邦のトネリコ Fraxinus japonica は本邦固有種であり、モデルではない)。『Yggdrasill という名前の由来には諸説あるが、最も有力な説ではその原義を“Ygg's horse”(恐るべき者の馬)とする。“Yggr”および“Ygg”は主神オーディンの数ある異名の一つで』、『三つの根が幹を支えている』。「グリームニルの言葉」(古ノルド語:Grímnismál:十七世紀に発見された北欧神話について語られた写本の中の「詩のエッダ」にある神話詩の一編)。の第三十一『節によると、それぞれの下にヘルヘイム、霜の巨人、人間が住んでいる』。また、別な記載の『説明では、根はアースガルズ、霜の巨人の住む世界、ニヴルヘイムの上へと通じている』とし、『アースガルズに向かう根のすぐ下には神聖なウルズの泉があり』、『霜の巨人の元へ向かう根のすぐ下にはミーミルの泉がある』とする。『この木に棲む栗鼠のラタトスクが各々の世界間に情報を伝えるメッセンジャーとなっている。木の頂きには一羽の鷲(フレースヴェルグとされる)が留まっており、その眼の間にヴェズルフェルニルと呼ばれる鷹が止まっているという』。『ユグドラシルの根は、蛇のニーズヘッグによって齧られている。また、ダーインとドヴァリン、ドゥネイルとドゥラスロール』『という四頭の牡鹿がユグドラシルの樹皮を食料としている』などとある。]

 

 彼女を慕はんとすれば――彼女は反響[やぶちゃん注:原文は“Echo”。岡田先生、最後の最後に、また、文句を言わさせて戴きます。ここは「木靈(こだま)」と訳すべきところですよ。]。彼女を抱かんとすれば――彼女は影。されど彼女の笑は我々が分散して彼の世に行く時までも、――來るべき無數の生命を通じて執着するであらう。

 そして我々は決して彼女の笑に笑み交はすことはあるまい、――決してあるまい。何故ならば、その笑は我々のうちに、我々が了解し得ぬ苦痛を覺まし來る故に。

 そして決して、決して我々は彼女に克ち得まい、――何となれば、彼女は久しき以前に消えた太陽の幻の光である故に、――何となれば彼女は塵に還れる無慮幾百萬の心の鼓動によりて作られたるが故に、――何となれば、彼女の魔術は、我等自らの數へ切れぬ過去の無數の忘られし循環を通じて、若きものの幻と望との無終の滿干によりて、作られたるが故に。

 

2019/11/21

小泉八雲 夕暗の認識 (岡田哲蔵訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“Vespertina Cognitio”。「ヴェスペルティーナ・コグニティオー」。ラテン語で「黄昏(たそがれ)の認識」(語は順列)の意)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第二パート“RETROSPECTIVES”の第九話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 標題は「ゆふやみのにんしき」であろう。傍点「ヽ」は太字に、傍点「○」は太字下線に、傍線「◎」は太字下線斜体に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   夕 暗 の 認 識

 

       

 超自然の恐怖、――猶ほさら特に夢に見る超自然の恐怖、――これに近いとさへ思はれる程の他の恐怖の形式が世にあるかを私は疑ふ。小兒は夜にても晝にても共に此恐怖を知る、然し成人は眠の中または病が生じた最も常ならぬ心の狀態に於ての外、これに惱まされる樣に見えぬ。健康で覺醒して居る時間には、理性が、恐怖の原始的の形が棲んで居る遺傳された情緖のそれ等の深みにある境域よりもずつと上の方に、觀念の働きを保持する。然し成人には夢に於てのみ知らる〻とはいへ、この恐怖に比すべき覺醒時の恐れはない。――これ程深く、これ程漠然として、これ程いふに云はれぬ恐れは無い。この恐怖の不明確なことがそれを言語に現はし難くする、然し苦惱は頗る强烈で、若し數秒時以上に引き延べられると死に至る程である。そしてその理由はかかる恐怖は個人の生命のものでは無いといふことに存す、それは如何なる個人の經驗が說明し得るよりも無限に巨大である、――それは出生前の祖先以來の恐怖である。當然それは漠然として居る、何故なればそれは遺傳された恐怖の無慮幾百萬の朧げなものから成る爲めである。然し同上の理由でその深さは底知れぬ淵の如くである。

 文明の下に人心の訓練は一般に恐怖の征服の方に向けられ、そして――宗敎に屬する感情の倫理的性質を除いては――特に超自然の恐怖を除くこととなつた。この恐怖は我々の多くに潜勢的[やぶちゃん注:「せんせいてき」。表面に現われないが、実際には力を持っているさま。「潜在的」に同じい。]に存在して居るが、然しその根源はよく護られて居て、眠の時の外はそれは何れの强固な心の人をも亂すことは殆ど出來ぬ、但し理性が驚異に抵抗することの出來る前に想像力が捉へられてしまふ程に、それ位凡ての關係的經驗に緣故の無い事實が現存するときは別である。

 小兒の時期以後、唯だ一度、私は强い形式をとつた此情緖を知つた。それは夢の恐れを覺醒中の意識に生き活きと投げ出したことを示すものとして顯著なものであつた、そしてその經驗は特に熱帶的であつた。熱帶の國では、空氣の狀況に基づいて、夢の壓迫が我々の國に於てよりはもつと重大な苦惱である、そして恐らく晝寢(シエスタ)[やぶちゃん注:“siesta”。スペイン語で長い「昼休み」を指し、午後一時から四時くらいまでを目安とする。必ずしも本格的な「昼寝」の意味ではないが、実際に現行では「昼寝」の意味で世界的に使われている。]の時に最も通常である。凡て爲し得る人は夜を田舍で過ごすが、植民の多くは、明白な理由で、都市で晝寢をしてその結果に甘んぜねばならぬ。

 西印度の晝寢は、我々が北の國の夏にする夢の無い日中の眠の樣に心を爽快にしない。それは眠よりは寧ろ感覺の麻痺である、――それは腦の基脚に重量をおかれた樣な憐れな感情からはじまる、そして精神と身體の全存在が光と熱との壓迫に力なく屈伏するのである。それが屢〻醜い幻に取り憑かれる、そして激烈な心臟の鼓動で覺まされる。折々は他の時には毫も氣が附かぬ響で擾される[やぶちゃん注:「みだされる」。]。都市が全く太陽に曝されて橫たはる時、眞晝中に一の影だに無く、道行く人も絕えて、沈默は驚くばかりになる。その沈默の中に椰子の葉が紙の樣に擦れ、または海岸に氣が拔けた樣な小波の音が突然に響く、――渴いた舌の音する如く――、それが非常に大きくなつて耳に來る。そしてこの奇怪にも沈靜した眞晝は黑人にとりては幽靈の時である。生きて居る物は何れも光に醉うて無感覺である、――森さへも攀援葉の植物に纏はれて、日に醉うて、居眠りして下に垂れる……

[やぶちゃん注:小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて、フランス領西インド諸島マルティニーク島を旅している。

「攀援葉」(はんゑんば)。「攀援」は「つかまって攀(よ)じ登ること」の意。原文は“their wrapping of lianas”。「liana」(リアナ)は広汎な意味での「蔓性植物」を指す。その蔓に纏われくるみ込まれた樹木の謂い。]

 私は幾度も晝寢から、音では無く、或る思ひの突然の衝突としか云はれぬ或るものに驚き起こされるのを とした[やぶちゃん注:脱字。原文から察するに、「常」「恆」「恒」(つね)か。]。これは肺に及ぼす熱の或る不制規な影響で起こされた一の特別の内部の擾亂から起こるのであると私は思つた。除々として遲い噎せ返る樣な感覺が半意識と實眠との間のほの暗い域に割り込んで、そして其處で奇怪極まる想像を煽る、――それは生き埋めにされる空想と恐怖である。これに伴なつて嘲弄したり叱責したりする聲、または寧ろ聲の觀念がある、――『眞に光は快い日を見るは目に樂い』……外面は晝、――熱帶の晝、――原始の晝。それで人は眠る。「人は多くの年生きてその年々を樂めどされど――」……眠りつづけよ――凡てこの光榮は、人の目が塵になる時も同じであらう……「されど彼に暗の日を覺えさせよ――その日は多くあるべければ

 

譯者註 ここに圈點[やぶちゃん注:三種総て。というより、符号(鍵括弧及び二重鍵括弧とも)により示された箇所総てである。]を附したるところは「舊約聖書傳道の書」第一章七八節、「夫れ光明は快き者なり。目に日か見るは樂し、人多くの年生ながらへてその内凡て幸福なるもなほ幽暗の火を憶ふべきなり。其はその數も多かるべければなり」〔邦譯〕を引いたのである。

[やぶちゃん注:本文の鍵括弧と丸括弧の使い分けはママ。原文後半部を示しておく。

   *

These would be accompanied by a voice, or rather the idea of a voice, mocking and reproaching: —“‘Truly the light is sweet, and a pleasant thing it is for the eyes to behold the sun.’. . . Outside it is day,— tropical day,— primeval day! And you sleep!! . . . ‘Though a man live many years and rejoice in them all, yet —’ . . . Sleep on! — all this splendor will be the same when your eyes are dust! . . . ‘Yet let him remember the days of darkness;FOR THEY SHALL BE MANY!’”

   *

岡田氏の訳のそれは、「明治元譯聖書(めいじもとやくせいしょ)」(旧約聖書部分は明治二〇(一八八七)年完成。「傳道の書」全篇はこちらがよい。総ルビ版もある)のそれをもとにしている。以下に両節総てを示す。私の判断で句読点を補った。

   *

第十一章七節 夫(それ)、光明(ひかり)は快き者なり。目に日(ひ)を見るは樂し。

第十一章八節 人、多くの年、生(いき)ながらへて、その中(うち)、凡て幸福(さひはひ)なるも、なほ、幽暗(くらき)[やぶちゃん注:「いうあん(ゆうあん)」は「奥深く暗いこと」。]の日(ひ)を憶ふべきなり。其(そ)は、その數(かず)も多かるべければなり。凡て來(きた)らんところの事は、皆、空(くう)なり。

   *

「聲、または寧ろ聲の觀念がある」これは、「声そのものが聴こえるというよりも、脳内である種の声が観念となっているように響いてくる」という感じを言おうとしているように思われる。]

 

 私の耳にその幻の末高(クレセンド)[やぶちゃん注:“crescendo”。]の音を聞いて、幾度か私は恐れて暑い床から飛び下りて割り板の鎧戶を通して、沈獸させ催眠させる樣な外面の恐ろしい光を覗いて見た、――それから頭に冷水を注ぎかけて、燒ける樣な褥[やぶちゃん注:「しとね」。]に戾つてまたうつらうつらとすると、またも同じ聲で、或は自分の汗の滴り下るので――百足(むかで)に這はれるのと區別のつかぬ樣な感じで醒まされる。そして如何に私は南天の十字星の出づる夜を冀しことぞ[やぶちゃん注:「こひねがひしことぞ」。]。それは夜はいつも町が涼しくなる爲めではなくて、夜はあの無慈悲な日光の重さからの救をもち來る爲めであつた、何故ならばかかる光の感じは何か重量のある物の洪水の樣な感じであつた、――それは同時に凡てのものを溺らせ、眩惑し、燒き、麻痺する物、そして液體化した電氣の觀念を暗示する或るものの感じであつた。

 

 然し熱帶の暑さが日沒の後、重苦しくなるばかりだと思はる〻時もある。山の上では年中槪ね夜は愉快である。質易風に面する海岸では夜が一層樂しい、そしてそこでは我々は暖かい强い風、――それは疾風とか突風とかいふものでなくて、絕え間なく續けて吹く風、――世界囘轉の大きな煽る風の流れ、――に撫でられて、海に面した室で眠れる。然し反對側の町は――殆ど凡てが貿易風を遮斷する森で掩はれた山脈の麓にあるので――濕つた空氣が夜は折々名狀しがたきものとなる、――それは暖め過ぎた溫室の空氣よりも惡るい。かかる仲介物の中で眠る時は最も猛烈な夢魔に魘はれ[やぶちゃん注:「おそはれ」。]勝ちである。

 私の個人の經驗としては次の如くであつた、――

 

       

 私は一人の混血兒の案内で島週り[やぶちゃん注:「しまめぐり」と訓じておく。]をして居た、そして我々は風下の海岸の二の小さな植民地で一夜を過ごさねばならなかつた、其處に我々は一人の老寡婦が所有する宿屋に類する設備を見出した。其家には人は七人のみであつた、――卽ち老婦とその二人の娘、二人の有色の婢、私と私の案内者であつた。我々は窓一つある室を與へられた、それは稍〻小さいが――其他の點では模範的のクリーオール族の寢室で、敷物なき淸い床があり、古風の重い或る家具、それに二三の搖椅子があつた。一方の隅には家内の祠[やぶちゃん注:「ほこら」と訓じておく。「やしろ」でもよいが、私はそのように訓ずる習慣がない。ルビがない以上は私は「ほこら」としか読まない。但し、原文は“household shrine”であるから、寧ろ、「神棚」の方がしっくりくる。事実、平井呈一氏は恒文社版「薄明の認識」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で『神棚とおぼしい棚がつってあった』と訳しておられる。]の樣なもの――卽ちクルーオールが chapelle といふて居るもの――を支へる棚承けがあつた。祠にはマリアの白い像があつて、その前には小さな燈火が油の杯の中に浮いて居た。植民地の習慣で僕[やぶちゃん注:「ぼく」。下僕。ここはガイドの雇い人の混血児の少年。]は我々と共に旅する時は、同室か、又は閾[やぶちゃん注:「しきい」。]の前に寢る。そして私の男は私に與へられた巨きな四本柱のある床の傍の莚の上に橫になつて、直に鼾[やぶちゃん注:「いびき」。]しはじめた。私は床に就く前に戶が確に締めてあるのを見定めて寢た。

譯者註 クリーオールは全集第一卷四七五頁に出づ。

[やぶちゃん注:「クリーオール」“Creole”。「クレオール」「クリオール」。植民地で生まれたネーティブ以外の人々を指す語。本来はスペイン語で「クリオーリョ」(Criollo)といい、当初は「新大陸生まれのスペイン系の人々」を指す呼称であったが、後、「植民地生まれの白人」を指すようになり、やがては混血やアフリカ系をも含むように意味が広がった。フランス語は「Créole」(クレオル)で、「宗主国フランス生まれ」に対する「フランスの植民地及び属国」生まれの白人(辞書では「白人」に限定している)の用法が強い。但し、差別用語ではなく文化人類学でも用語として使われ、「クレオール語」(西インド諸島で現地の土民が交易相手の欧米人に向かって使うフランス語・スペイン語・英語等の崩れた混成言語)の意でも用いられる。

chapelle原本では斜体(左ページの下から三行目)。フランス語(マルティニークは今も昔もフランス領(海外県)で公用語はフランス語である)の「チャペル」で「教会」「礼拝堂」のこと。

 岡田氏の注は、本第一書房版「小泉八雲全集」のそれを指し(家庭版は昭和一四(一九三九)年四月刊)、当該ページ(リンク先は“Internet Archive”の同和訳書の当該ページ画像)は「ユーマ」(Youma, the Story of a West-Indian Slave:「ユーマ、西インドの奴隷の物語」:一八九〇年雑誌分載初出で同年刊。「ユーマ」は主人公の黒人女性の名前である)の冒頭で「クリーオール」の注があるからである。但し、訳者は岡田氏ではなく落合貞三郎氏である。その注を電子化しておく。

   *

譯者註 クリーオール人は、主として西印度に移住した歐洲人(大抵西班牙人[やぶちゃん注:「スペインじん」。]及び佛國人)の子孫を指す。しかしこの語の使用法は漠然としてゐて、往々西印度地方の混血種(白人と黒人との)或は時として黑人を指すこともある。

   *]

 

 その夜は蒸し暑かつた、――空氣が凝結してゐるかと思はれた。庭を見下す唯一の大窓は明け放してあつた、――然しその空氣に微動だも無い。蝙蝠――隨分大きな蝙蝠――が音無く飛び入りまた飛び出して居た、――一匹は床の上を旋囘しながら、實にその翼で私の顏を煽いだ。熟果の重い香――胸惡るくなる程甘さうな――が庭から上つて來た、其處には椰子とプランテイン樹[やぶちゃん注:「晩歌」で既出既注。]が金屬製であるかの如く旅かに立つて居た。町の上の方の森から雨蛙、蟲、夜の鳥の例の夜の合唱がわめいて、――それは何の譬[やぶちゃん注:「たとへ」。]を以てしても精細に記述し難い擾ぎ[やぶちゃん注:「さはぎ」。]であるが、然し無數の鋭い鈴の樣な音で、碎けた玻璃が廣い遲い瀧にでもなつて居るかとの想像を暗示する。私は暑い堅い床で幾度か寢返りした、どこかにいくらか冷たい一箇所でもあるかと空しく求めながら。それから私は起きて搖椅子を窓のところに引きずつて行き、葉卷を燻らした。煙は動かずに居据わるので、一吸ひ每に吹き拂はねばならなかつた。私の男は鼾を止めた。彼の裸の胸の銅色――祠のラムプの微かな光の下に混じつて輝く――が呼吸の運動を示して居らぬ。彼は屍であつたかも知れぬ。重苦しい暑さが益〻暑くなる樣に思はれた。終に、全く疲れて、私は床の上に戾つて、眠つた。

 

 眞夜中もずつと過ぎた頃と思ふ、私は初の漠とした不安、――疑念――夢魔に先だち來るそれを感じた。私は半意識、現實の夢の意識、――その室に居ることを知つて居る、――で起き上がりたいと思つた。直に不安は恐怖になつた、それは自分は動かうとしても動かれぬことを知つたから。空氣中の名狀し難い或る物が意志を抑へ附けて居た。私は叫ばうと試みた、そして私の最上の努力も誰れにも聞こえぬ樣な囁きになつたばかり、同時に階を上り來る跫音がわかつた、――包んだ樣な重さ、そしてまぎれもない夢魔がはじまつた、――聲も手足も抑へ附ける奇怪な磁氣の恐怖、――啞と無力に逆らふ無望の意志の苦鬪。忍びの跫音は近づいた、――然し惡意ありげに、測られた遲さで、――遲く、遲く階[やぶちゃん注:「きざはし」と訓じておく。]一哩[やぶちゃん注:「マイル」。約千六百九メートル。]も深さがあると思ふばかり。遂に閾に到る、――待つ。それから除々と、しかも音無く、錠を卸した戶が開いた、そしてが入つて來た、身を屈めながら來る、――衣を纒うた物、――女性、屋根に屆くばかり、――面を向けられぬ。それが床に近寄ると床板はキイキイ音がする、――そしてそれから――狂氣の樣な努力で――私は覺めた、全身の汗、私の心臟は破裂しさうに鼓動して居る。祠の燈は消えて居た、暗中何も見えぬ、然しが退いて行くのが聞こえると私は思つた。たしかに床板がまた鳴るのを聞いた。まだ恐慌に捉はれて居て、私は實に身動きが出來なかつた。マツチを擦つて見る智慧もついたが、まだ起きようとは思へぬ。直ぐに、私が聽かうとしで息を凝らすと、黑い恐怖の新たな波が私の身に滲みた、それは呻く聲を聞いたから、――夢魔の長い呻き、――下の二の別室で互に答ふるかと思はる〻呻き。それから、私の近くで、私の案内者が呻きはじめた――嗄れ[やぶちゃん注:「しやがれ」。]聲で、嫌はしい[やぶちゃん注:「いとはしい」。]。私は彼を呼んだ、――

 『ルイス、ルイス』

 我々二人は直ぐに起きて坐つた。私は彼が喘いで[やぶちゃん注:「あへいで」。]居るのを聞いた、そして彼が暗中で彼の曲り刀[やぶちゃん注:「そりがたな」と読んでおく。原文は“cutlass”。海賊がよく持っているところの、あの湾曲した刃を持った比較的短い反りの入った剣で、「舶刀」とも称するように、船などの狭い場所での使用に適しており、船乗りが好んで使った。参照したウィキの「カットラス」によれば、これはまた、『武器であるとともに、農業用の道具でもあり』、まさにこのシークエンスに相応しいことに『カリブ海や』、『中米の熱帯雨林や』、『サトウキビ畑の収穫時にも使用される。同じ用途で、中南米の原住民が使うマチェーテ』(machete)『という鉈もある』とある。]を探つて居るのがわかつた。それから恐怖で嗄れた聲で彼は尋ねた、

 『旦那、聞きなすつたか』

 下では呻く者共は呻きつづけて居た、――聲はいつも末高(クレセンド)になる、『マダム』、『孃や』――それから裸足で走る、ラムプの灯さる〻[やぶちゃん注:「ともさるる」。]音、そして、終に、脅嚇された聲の一般の叫び。私は起きてマツチを探つた。呻きと叫びは息んだ[やぶちゃん注:「やんだ」。]。

 私の男がまた尋ねた、『旦那、御覽だつたか』

 私は惑ひながら、指にマツチ箱を摑んで答へた、『御前何を云ふのかえ』

 彼は答へた、『あの女のことですか』

 この問は私を驚かして全動けなくした。それから私は自分は了解したのかどうかと思ひ惑うた。然し彼は彼の土言[やぶちゃん注:「どげん」。土地の言葉。クレオール語。]で獨り語りする樣に云ひ續けた、――

『脊の高い、高い、此部屋位高い、あのゾムビ[やぶちゃん注:“Zombi”。]。あの女が來たとき、床がキイキイいつた。わしは聞いた――わしは見た』

 

譚者註 ゾムビは全集第一卷五〇三頁に出づ。

[やぶちゃん注:この会話は原文ではクレオール語(フランス語訛り)が示され、後に正しいフランス語が示されるという、なかなかに戦慄の臨場感のある、しかも素敵に面白い筆致となっている。是非、見られたい。

 訳者注のそれは、前と同じく本第一書房版「小泉八雲全集」のそれを指し(家庭版は昭和一四(一九三九)年四月刊)、当該ページ(リンク先は“Internet Archive”の同和訳書の当該ページ画像)はやはり「ユーマ」(Youma, the Story of a West-Indian Slave)の一節で「ゾムビ」についての本文での解説が載るところを指している。訳者は先に述べた通り、落合貞三郎氏。その本文箇所を電子化しておく。

   *

――羽毛に幽冥界の色彩を帶び、食べた人の胃のなかで歌をうたひ、それからまた完全な鳥に化すゾンビといふ鳥の話――

   *

但し、ここで言っている「ゾンビ」は今の世間で認識されている生ける死体のそれとは異なるし、ここで作者とガイドと一家を襲った怪異現象の説明としても全く無効であって、参考にならない注である。ウィキの「ゾンビ」によれば、『「生ける死体」として知られており、ブードゥー教のルーツであるヴォドゥンを信仰するアフリカ人は霊魂の存在を信じている。こちらについては「目に見えないもの」として捉えている。 「ゾンビ」は、元はコンゴで信仰されている神「ンザンビ(Nzambi)」に由来する。「不思議な力を持つもの」はンザンビと呼ばれており、その対象は人や動物、物などにも及ぶ。これがコンゴ出身の奴隷達によって中米・西インド諸島に伝わる過程で「ゾンビ」へ変わっていった』。『この術はブードゥーの司祭の一つであるボコにより行われる。ボコの生業は依頼を受けて人をおとしめることである。ボコは死体が腐り始める前に墓から掘り出し、幾度も死体の名前を呼び続ける。やがて死体が墓から起き上がったところを、両手を縛り、使用人として農園に売り出す。死体の魂は壷の中に封じ込まれ、以後ゾンビは永久に奴隷として働き続ける。死人の家族は死人をゾンビにさせまいと、埋葬後』三十六『時間見張る、死体に毒薬を施す、死体を切り裂くなどの方策を採る。死体に刃物を握らせ、死体が起き出したら』、『ボコを一刺しできるようにする場合もあるという』。『もちろん、名前を呼ばれて死体が蘇るはずもなく、農民達による言い伝えに過ぎない。現在でも、ブードゥーを信仰しているハイチなどでは、未だに「マーケットでゾンビを見た」などの話が多い。また、知的・精神的障害者の様子がたまたま死者に似ていたケースを取り上げ、「死亡した人がゾンビ化される事例がある」などとされることもある』。『イギリス人の人類学者、ローランド・リトルウッド』『はハイチに渡って詳細なるデータを取り、ゾンビの存在を全否定している』。一九九七『年に、「マーケットに死んだはずの息子がゾンビとなって歩いていた」と言ってふらふら歩いている人物を自宅に連れ帰った父親の報告があり、その息子とされた人物を医学的に検査したところ、死んだ形跡が全くなかった。また、その人物には知的障害があり、DNA検査によって父親と親子関係のない他人の空似だったことが判明した。その他も同様に、他人の空似のケースばかりであったことが報告されている』とある。引用では省略したが、ゾンビを作り出す「ゾンビ・パウダー」なる薬物をブードゥーの呪術者は実際に持っており、それを分析してテトロドトキシンを検出した日本人科学者の著作も読んだことがある。また、ブードゥーの呪法も非常に興味深いもので、若き日にかなり入れ込んで調べた経験もある。ある種の薬物を用いて心拍数を極度に落させ、仮死状態で性急に埋葬させ、葬儀が終わった直後に掘り返して、奥地の農園に連行して無償で働かせるという労働力収集のための犯罪が横行していて、それをドキュメンタリーにした外国作品を見たこともある。言っておくが、私はゾンビ映画は如何なる作品も馬鹿馬鹿しくて一律大嫌いだが、ブードゥーの呪法は、今もすこぶる興味深く感じている人間である。

 

 暫くして、私はやつと蠟燭を灯した、そして戶のところに行つた。戶は依然締つて居る、二重に錠が下りて居る。高窓からは人が入れる筈は無い。

 自ら云ふことを信ぜずに、私はいうた、

 『ルイス、御前は夢を見て居たんだらう』

 彼は答へた、『旦那、夢じやないんでさ、あの女はどの部屋へも入つて來て、皆に觸はつたのでさ』

 私は云うた、『そりや馬鹿らしい、御覽、――戶は二重に錠が下りてるから』

 ルイスは戶の方へ見向きもしなかつた、然し答へた、『戶が締つてたつて開いてたつて、ゾムビは出入りしまさ……わしは此家は嫌ひだ……旦那……その蠟燭をつけておきなさい』

 彼は終の句を命令的に云つて、『どうぞ』といふ敬語を加へなかつた、――殆ど案内者が共通の危險の場合に語るが如くに、そして彼の調子は彼の恐怖を私にた傳染させた。蠟燭はついて居ても、私は一時は眠らずに居て夢魔の感覺を知つた。暗合が理性を壓伏した、そして厭はしい原始的の空想が、確實なるものの如く、因果の說明に當て篏つた[やぶちゃん注:「あてはまつた」。]。私の幻覺とルイスの幻覺の同じきこと、二人共聞いた床の鳴る音、夢魔が室から室へと巡囘したこと、――此等は證據の不快な連合以上のものを形成した。私は或る姿を見たと思つた邊りで私の足で床の板張を履んで[やぶちゃん注:「ふんで」。]見た、それが私が前に聞いたと同じキイキイといふ高い音を出した。ルイスは『夢じや無い』と云つた。ほんとにそれは夢でないらしい。私は蠟燭をつけておいた。そして床に戾つた――眠る爲めではない、考へる爲めに。ルイスもまた橫になつた、彼の手を曲り刀の柄にかけて。

 

 私は長い時考へた。下の方も今は全く靜かである。暑さもつひに薄らいで、庭から吹き入る冷かな空氣の折々の息は、陸風が目覺めたことを知らせた。ルイスはたつた今の恐怖に關らず間もなくまた鼾しはじめた。すると私は板張が――隨分音高く――鳴るのを聞いて驚かされた、――それは私が足で履んで試みた同じ板張であつた。今度はルイスはそれを聞いたらしくない。そこに何も無かつた。音がもう二度鳴つた、――それで私はわかつた。はじめにきびしい暑さ、後に溫度の變化が木材を連續して、歪めたり戾したりして、その音を出したのであつた。眠の不完全な、夢の中にそれを聞くと、昔は想像に强く影響する程に聞こえて、――歪んだ空想の長い行列を動かし來ることがある。同時に別々の室に於ける夢魔の殆ど同時に來る經驗は、その時刻の病を催す樣な空氣の壓迫で十分に說明が出來ると私は思つた。

 まだ二の夢のいやな類似が說朋をまつて殘つて居た、そしてまた此謎の自然の解釋を私はも少し反省した後に見出し得た。暗合はたしかに驚くべきものであつた、然し同じ點は部分的のみであつた。私の案内者がその夢魔に見たものは、西印度人の迷信の通常の創造であつた――恐らくアフリカの起原であらう。然るに私が夢に見た形は、小兒の時に、私の眼を惱ましたもので、――或る恐ろしいケルト族の談[やぶちゃん注:「はなし」。]の印象で、私に造られたものである、かかる談は想像を以て惠まれて居る、或は詛れて居る[やぶちゃん注:「のろはれてゐる」。]、何れの小兒にも語られてはならぬものであつた。

[やぶちゃん注:私は以上を読むと同時に、幾つかの可能性を想起していた(私は小学校五年の時にフロイトの「夢判断」を完読してハマった、本当は心理学を専攻したかった輩なのである)。

 一つは、暑苦しい上に、全くの初回の現地人の宿屋風の家で、しかも階下に寝ているのは老女将と二人の娘に二人の下女の総て女性の五人である。明らかに筆者(当時は三十七から三十九歳の間である)には精神的に過剰なバイアスがかかっていることは容易に気づく。寝つけない中では、所謂、「入眠時幻覚」(hypnagogic hallucinations:やや興奮状態で床に入って暫くすると自覚的には「目が覚めている」と認識しているにも拘わらず、生々しい現実感を伴った鮮明な夢を見る現象を指し、「睡眠開始時レム(Rapid eye movement:REM)睡眠期」に一致して起こる。怪しい人間や動物、得体の知れない怪物などが今寝ようとしている部屋の中に入り込んできて、襲いかかってきたりする幻視・幻触・身体運動感覚などを主とするもので、強い現実感と恐怖感を伴う)が起こり易く、彼もそれに嵌まった状態にあることが叙述から明白であることが第一。

 次に、その「入眠時幻覚」の怪異体験開始の直前(直後というべきか)に、彼が典型的な「金縛り」状態となって身動き出来なくなっているのは、通常、「入眠時幻覚」による不安・幻覚体験に極めてよく附帯する状態である「睡眠麻痺」(sleep paralysis:入眠時に全身の脱力状態が起こること)によって完全に説明し得るのが第二。

 ガイドのルイス少年及び宿の階下の女性たち総ては、ブードゥーのゾンビを完全に信じている現地の民俗社会世界の人間なのであり、ここはまさにその霊的なフィールドなのであるからして、その空気は、異邦人で、キリスト教はおろか、ブードゥーの忌まわしい呪法をまるで信じない筆者であっても――肉体的精神的に安定感情がなく、心が落ち着かないその瞬間の若い彼にして――甚だ簡単に、その呪的空気はたとえそれが非論理的であっても容易に――無意識的に否応なく――感染するに違いないという確信的推論が第三。

 その三つに加えて、床板の軋み(本邦の心霊現象で言うところの「ラップ音」だ)や、階下でも女たちが何か感じて騒擾を起こしているような感じが描写されていることが、私には非常に興味深いのである。

 筆者は「ラップ音」については合理的な仮説を立て、実際に試してみて、それが「怪異」ではあり得ないことを証明し、また、温度変化による家屋の素材の軋み音であるという、美事に科学的な解明しているから全く問題にせずしてよいのだが、しかし、階下の女たちの異変らしきものの原因については、筆者は結局、何も後に説明を添えずに誤魔化しているのである。

 さても――筆者は三十代後半だ。――左目の色はちょっと変わっているけれど――スマートなかっこいい白人――なんである。ガイドの混血の少年だって――若くてカットラスをシャッと抜きそうな、果敢な――かなりいい感じ、じゃないかい?……

 二人の娘は幾つぐらいだろうね?……二人の下女だって、これ、かなり若いんじゃないかな?……

 そこに、二人のちょっと気になる男たちが、泊まってるんだぜ?!……気にならない方が、おかしいんじゃないかね?!……

 所謂、思春期の女性が霊感を持っていると主張したり、そうした女のいるところの周囲でだけ、強力な不可思議な怪異現象が起こるというのは、古今東西を問わず、ごくごく当たり前のかなり古くから現在まで続くところの古くて新しい現象なのである(私の中学時代の同級生に「毎日、家に帰ると狐の子の霊と遊んでいる」と言っていた風変わりな妖艶な女子がいた(但し、後に二十を過ぎた彼女に再度、確かめたところが、「あんなの嘘に決まってるじゃない」と軽くいなされたが)。処女はシャーマンであり、神憑りや憑代になるのはえらく昔からの常識だ。そこまで溯らずとも、江戸から明治に長く生き続けた都市伝説に「池尻の女」「池袋の女」などと称した怪異譚がある。屋敷内に異様な怪異現象が頻発する(化け物が出るというのもあるが、概ね、物が動いたり、投げられたり、激しい音がするボルタ―ガイスト現象(ドイツ語:Poltergeist:騒霊。本邦では「天狗の石礫」等とも呼ぶものがそれに該当するであろう)であることが多い)。しかもだ、調べて見ると、そこには必ず奉公人の中に若い女がいるのだ。それが池尻村などの特定の村の出身であったことから、そこの氏神が嫉妬して「村に返せ」と怪奇現象を起こすという解釈なのだ。私の「耳囊 卷之二 池尻村の女召使ふ間敷事」や、「北越奇談 巻之四 怪談 其三(少女絡みのポルターガイスト二例)」、また、「反古のうらがき 卷之一 狐狸字を知る」を見られよ。西洋でも、男の霊の声を腹部から発するとされた姉妹や、コナン・ドイルが、まんまと騙され続けた「コティングリー妖精事件」(イギリスのブラッドフォード近くのコティングリー(Cottingley)村に住む二人の従姉妹フランシス・グリフィス(七歳)とエルシー・ライト(十五歳)の二人の少女が一九一六年七月に撮ったと主張した妖精写真の真偽をめぐって起きた論争や騒動。詳しくはウィキの「コティングリー妖精事件」グーグル画像検索「TheCase of the Cottingley Fairiesをどうぞ)と、枚挙に暇がない(孰れも後に少女たちが意識的に成した詐欺であったことを告白している)。当初、私は筆者が科学的説明をつける以前の部分では、「キイキイ」という音は階下の女性たちのうちの誰かが、意識的或いは半ば無意識的に立てた擬似的詐欺による人工の怪奇音なのではないかと疑っていたぐらいである。それは彼女たちの名誉のためにまずは撤回するとしても、仮に、この階下の女性たちの中に若い娘がいれば、不思議な白人と少年の滞在に秘かに昂奮してしまって、階上の二人と全く同様に、「入眠時幻覚」を起こしてしまって叫んだのだとしても、何の不思議があろうかと思うのである。

 

       

 此經驗を思ひめぐらして其後私は、我々が『暗の恐れ』と呼んで居るが、實は暗の恐れでは無い其の恐れの意味を考へることになつた。單なる條件としての暗はこの感情、――幽靈の何等かの定まれる觀念より幾千代も先きにあつた感情――を起こし得なかつた。小兒が示す如き遺傳せる、本能的の恐怖は暗そのものの恐れでなくて、暗と聯想される[やぶちゃん注:「闇というものに関連して連想されるところの」の意。どうして岡田氏はこんな短縮した無理な日本語を使うのだろう? 正直、ほんに、気が知れないのである。]定義し難い危險の恐れである。進化論的に說明すれば、この漠然たる、然し容量のある恐怖は、その原始的要素として實際的經驗――暗に働く或る者の經驗――によつて造られた印象を有つのであらう、そして超自然の恐れはそれよりずつと後の情緖的發達としてのみ、其うちに加はるのであらう。夜に光る目に照らされた洞窟の原始的暗[やぶちゃん注:原文を見ると、“The primeval cavern-gloom lighted by nocturnal eyes”であるが、これは「夜行性の肉食獣の眼によって照らされた太古の洞窟の中の闇」じゃあないかなぁ? この洞窟の中に原始人がいたんだよ、彼らが外を見て、その光る眼に戦いていると読んだ方が判りがいいんだけどなぁ。でも……平井呈一氏も『夜の目に照らし出された大古[やぶちゃん注:ママ。]の洞窟のなかの闇』と訳してはおられるなぁ。]、――川邊の森の切れ目の黑さ、其處には渴いて水を求めにくるものを捉へんとして破滅の待てる、――畏怖を隱す錯綜した岸の陰影――蟒蛇[やぶちゃん注:「うはばみ」。]の巢穴の暗、――餓ゑたる野獸と絕望の人間の激情を反響する急場の隱れ所、――埋葬の場、及び洞窟に出入するものと埋められたものとの恐ろしい同類感の想像、――凡て此等、及び暗と死との關係の無數の外の印象は、小兒の想像を累はし[やぶちゃん注:「かさねあはし」?]、今猶ほ文明の保障の下に眠る成人をも捉へる祖先以來の暗の恐怖を造つたに相違ない。

 夢の凡ての恐怖が記憶されぬものの恐れではあり得ぬ。然し遠距離からかけた見えぬ力に捉へらる〻その不思議の夢魔の感覺は――睡眠間に單に意志が停止することのみで十分に說明されやうか。またはそれは捉へられたことの無數の記憶の複成的遺傳であり得ようか。恐らく其の說明は奇怪な催眠術やまたは奇怪な網[やぶちゃん注:“webs”。これは、岡田先生、「罠」と訳しましょうよ!]の生前の經驗を暗示するのではあるまい、――人間は彼の發達の進路に於て、彼の背後に現に存在する何れのものより比較にならぬ程に惡しき恐怖の條件を殘したといふ進化的確實よりもつと驚くべき何物も暗示はしまい。然し夢魔の心理的謎の多くが、人間の有機的記憶は苦痛――かつて或る忌まはしき消滅した生命によつて行はれた不思議な力に關係ある苦痛――消滅したる形の何かの記錄を保つや否やの問題を誘ふに足るだけ殘つて居る。

 

小泉八雲 身震ひ (岡田哲蔵訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“Frisson”。「フリィッソン」。「恐怖・歓喜・興奮などに伴う身震い」・「戦慄」・「スリル」の意。綴りと発音から判る通り、もともとフランス語である)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第二パート“RETROSPECTIVES”の第八話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   身震ひ

 人間に鯛れられていまだ嘗て身震ぴむ成じたことの無い人々もあるかもしれぬが、たしかに少數である。我々の多くはずつと幼い頃に身體の接觸に不思議な差別のあることを覺えて居る、――或る人が撫でさするのは柔らかで、他の人のは苛立たせる、その結果として我々は種々の不道理な好き嫌ひを定める。靑年の成熟と共に我々はこれ等の區別を層一層と鋭く感ずると思はれる、――つひに運命の日が來て、そのとき我々は或る女性の接觸は悅びのいふに云はれぬ身震ひを通はせ、――それを我々は玄妙や超自然の理論で說明せんと試みる程の魔術をかけることを覺るのである。老年はこれ等の靑年の魔法的空想を笑ふこともあらう、然し多くの科學あるに係らず、戀人の想像は幻滅を見た人の智慧よりも、恐らく眞理に近からう。

[やぶちゃん注:最後の一文、

Age may smile at these magical fancies of youth; and nevertheless, in spite of much science, the imagination of the lover is probably nearer to truth than is the wisdom of the disillusioned.

は確かに逐語訳なら、そうだ。しかし、これ、朗読されたものを一聴し、即座にすんなり日本語として受け入れられる一般的日本人はそう多くあるまい。平井呈一氏は恒文社版(「「仏の畑の落穂 他」(一九七五年刊)所収の「身震い」)で、

   《引用開始》

老人は、とかくこうした若人たちの神秘的な空想を笑うかもしれないが、しかしいくら科学が氾濫しても、恋人の想像力というものは、幻滅をした老人の知恵よりも、おそらく真理に近いものだろう。

   《引用終了》

と、総ての日本語に音楽記号の「スラー」を附したように躓かずに素敵に訳しておられる。私が、『小泉八雲 初の諸印象 (岡田哲蔵訳)』の注で掟破りに岡田氏の訳を批判した通り、「一部は学術論文のように訳されてあり、決して文学として訳されていない嫌いがある」と言った意味がお分かりいただけるものと存ずる。本作のパート標題は「回顧・回想・追懐」という、天馬空を翔くるが如き自由自在な、生死や霊魂やを含めた、博物学的な小泉八雲自身の体験に基づく観想のエッセイの謂いなのであって、その十篇の一篇たりとも、心理学や哲学のインク臭い論文なんぞでは、ないのである。]

 我々は成人の生活に於てかかる經驗に就いて頗る眞面目に考へることは稀である。我々はそれ等の經驗を否定はせぬ、然し我々は神經の特異質と、それ等を認めることに傾く。我々は男子または女子と、日常握手する行爲に於てすら、心理學が說明の出來ぬ感覺を受けることのあることを殆ど注意せぬ。

 私は多くの手の接觸、――それぞれの握手の質、起こされら身體的同感又は反感の感覺を覺えて居る。いかにも私は幾千の握手を忘れて居る、――それは多分、それ等の接觸が特に何物をも私に語らなかつた爲めであらう、然し强い經驗は十分に思ひ出せる。それ等の快い、または不快な性質は全く道德的關係から離れて居たことは度々であることを私は知つた、然し私の思ひ出し得る最も法外の場合――(詩人、軍人、避難民の如き最も不思議の經歷を有つた不思議に魅惑的な人格)――に道德的及び身體的の魅力は等しく有力で且つ等しく稀有である。或る人の力に魅せられた多くの人々の一人が私に云うた、『何時でも私が彼の人と握手する時に、夏の光の樣に、暖かい衝動が私の全身に傳はるを覺える』と。現在の瞬間に於てすら、私は彼の死せる手を思へば、その手が二十年の間と數千里の距たりを越えて私に差し出される樣に感ずる。それでそれはヽヽヽを殺した手であつた。

[やぶちゃん注:末文の原文は“Yet it was a hand that had killed....”で「しかも、それは、人を殺したことのある手なのであった……」である。]

 

 これ等は、外の記憶と反省と共に私に來た、それはベイン氏[やぶちゃん注:後に訳者注有り。]が嘗て人間の皮膚の接觸によつて與へられた快樂の身震ひを進化的に說明したものの批評を私が讀んだ後であつた。この批評家は何故に約九十八度の溫度にせられた繻子[やぶちゃん注:「しゆす(しゅす)」。繻子織(しゅすおり)。経(たて)糸・緯(よこ)糸それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方。密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。]のクツシヨンは同じ身震ひを與へぬかと問うた、そして此質問は穩當で無いと私は思つた、何故なれば批評されたその文句のうちに、ベイン氏は十分に理由を暗示したからである。彼はその身震ひは暖かさと柔らかさの何れの種類に因つてでも與へらる〻のではなく、唯だ特殊[やぶちゃん注:底本では二字に傍点「ヽ」があるものの「特 」で下の字が脱字してしまっている。原文は“peculiar”(ピキュリァ)で、辞書では「不快な感じに妙な・変な・異常な」・「気の狂った」・「特定の対象にのみ属する意味での特有の・固有の」であるから、岡田氏は「特別」としたのかも知れぬが、平井呈一氏の恒文社版の訳に従った。]の暖かさと柔らかさによりてのみ與へらると云ふつもりであつたと思へば、――彼はそのつもりであつたに相違ない樣に、――彼の解釋は嘲笑を以て爭はるべきものでは無い。約九十八度[やぶちゃん注:原文は“98°”であるが、これは華氏。摂氏で約三十六・七度弱。ヒトの体温。]の溫度にされた繻子のクツシヨンはベイン氏が意味したより餘程單純な理由で人間の皮膚の接觸によつて與へらる〻と同樣の感覺を與ふる事は出來ぬ、――それは實質に於て、組織に於て、またそれが生きて居らず、死して居るといふ全く重要な事實に於て、人間の皮膚と全然異つて居る爲めである。勿論暖かさと柔らかさだけでは、ベイン氏が考へた快樂の身震ひを起こすに足らぬ、容易に想像し得る狀況に於て、此二つが反對の或るものを生ずる事もある。滑らかさは柔らかさ又は暖かさが有つと殆ど同じ程に接觸の快感との關係を有つ、然し濕つたろ又は餘り乾いて居る滑らかさは不快であり得る。また人間の皮膚でも冷たい滑らかさは暖かい滑らかさより一層快いものであらう。然しもつと劣等の生命の形に共通な冷たい滑らかさで戰慄を起こさせるものもある。例として手の接觸を快くするそれ等の性質は何であらうとも、それ等は恐らく多くのものの結合から成り、それ等はたしかに生きて居る接觸に特有のものである。暖かさと滑らかさと柔らかさを如何に人工的に結合しても、人間の接觸が與へる樣な快樂と同じ性質のものを起こすことは出來まい、――たとへ、ベイン氏以外の心理學者が云へる如く、快樂のもつと微かな一種を起こす事ありとしても。

 

譯者註 ベイン氏はスコツトランドの心理學者 Alcxander Bain18181903

[やぶちゃん注:イギリスの心理学者で哲学者・言語学者でもあったアレクサンダー・ベイン(Alexander Bain 一八一八年~一九〇三年)。アバディーン大学卒業後、J. S.ミルらと交友関係を結んだ。一八六〇年から一八八〇年まで同大学教授。心理学的には連想心理学の立場に立ち、倫理学的にはミルの功利主義に近い立場に立った。一八七六年に哲学誌“Mind”(「心」)を弟子のロバートソンとともに発刊した。また、スコットランドの教育制度の改革にも貢献した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。本書刊行時(明治三一(一八九八)年十二月)は存命している。]

 

 特別の感覺は特別の條件によりてのみ說明される。或る哲學者はこの快い身震ひを生ずる條件を主として主觀的と說明せんとし、他の哲學者は主として客觀的と見る。何れの說も眞理を有つことは眞實でありさうでは無いか、――身體的の原因は特別の接觸に附隨する、定義し得る又は定義し得ぬ、或る性質に求めねばならぬこと、及びそれと同時に起こる情的現象の原因は、個人ので無くて、種族の經驗に求めらるべきこともまたさうではあるまいか。

 

 二つの觸れ得べきもの、――草の葉二枚、水二滴、砂二粒、――にして全く同じものの無きを思へば、一人の接觸が或る他の人の接觸によりて生ずる何れの感覺とも異る感覺を與ふる力を有つことは信じ難いとは思はれぬ筈である。かかる差別が測定し難く、また性質を明らかにし難いといふ理由で、それを不必要また薄弱なものとすら必らずしも考へ難い。此世界に於ける人類の幾億人の聲のうちに全然同じ二つの聲は無い、――然し妻または母、子または戀人たるものの耳と心とにとりて、億萬の聲の間に存する、云ふに云はれぬ精妙な差別が如何に多く意義あることぞ。思想に於てかかる差別は特徵を示しがたく、況んや言語に於ては尙ほ現はし難い、然しこの事實と、その莫大な關係的重要性とをよく知らぬものが何處にあらう。

 何れか二人の皮膚が全然同じことは可能で無い。肉眼にすら知覺し得る個々の差異がある、――ゴールトン氏[やぶちゃん注:後に訳者注有り。]は何れの二人の指紋も、同じに見えぬことを我々に敎へたではないか。然し肉眼なり、また顯微鏡下に於てのみなり、それに見ゆる差別に加ふるに、身體の强さ、神經及び腺の活動、生體組織の化學的成分に因る他の性質上の差別があるに相違無い。觸覺が果たしてかかる差別を識別するに足るほど精妙な或覺であるや否やは、精神物理學が決定すべき問題、――單に感覺の量のみならず質の問題である。我々が耳によりて百萬の聲の質的差別を區別し得る如く、觸覺によりても殆ど同じく、精妙な表面の質的差別を區別し得ると想像することは、未だ恐らくは正當ではあるまい。然し聲の或る質によりて我我に起こさる〻快感の刺激は、時には手の接觸によりて與へらる〻身震ひとよく似たることはここに注意するの價がある。生きた皮膚の特性に我々が人を魅する聲と呼ぶところのものの名狀し難い魅力と殆ど同じく、獨得的に人を惹きつける或る者が認めらる〻ことは可能ではあるまいか。

 

譯者註 ゴールトンは英國の人類學者 Sir Francis Galton 18221911)にて遺傳硏究の名著あり、優生學の創始者となる。

[やぶちゃん注:イギリスの人類学者で統計学者・探検家にして初期の遺伝学者でもあったフランシス・ゴルトン(Sir Francis Galton 一八二二年~一九一一年)。母方の祖父は医者・博物学者のエラズマス・ダーウィンで、進化論で知られるチャールズ・ダーウィンは従兄に当たる。ウィキの「フランシス・ゴルトン」によれば、『ダーウィンの進化論の影響を受け、心的遺伝への興味から出発し、人間能力の研究、優生学(eugenics)、相関研究を含む統計的研究法を発達させ、今日の個人』『心理学の基礎をつくった』。彼は、一八八三年に「優生学」という『言葉を初めて用いたことで知られている』。一八六九年の著書「遺伝的天才」(Hereditary Genius)の中で『彼は人の才能がほぼ遺伝によって受け継がれるものであると主張した。そして家畜の品種改良と同じように、人間にも人為選択を適用すればより良い社会ができると論じた。当時のイギリスでは産業革命からしばらく過ぎ、社会主義思想の広まりとともに労働者の環境も改善されつつあったが、ゴルトンは社会の発展のためには』、『環境の改善よりも生物学的な改良が有意義だと信じていた』。『統計学における貢献としては、平均への回帰と呼ばれる現象についての記述を初めて行ったことや、相関係数の概念の提唱などが挙げられる』。『ゴルトンは』ヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt 一八三二年~一九二〇年:ドイツの生理学者・哲学者・心理学者。「実験心理学の父」と称される)『同様』、『内観に優れた人物で、心像(image)の研究は有名である』。一八七五年には、『ダーウィンのパンゲン説をウサギの輸血実験から確かめようとし、パンゲン説を否定してスタープ説を提唱した。これは獲得形質が遺伝しないことを主張した初期の研究である。指紋についての論文の発表や本の出版も行っており、指紋を利用して犯罪者の特定を行う捜査方法の確立にも貢献している』(下線太字は私が附した)。『「祈り」の効果を科学的に検証しようと試み、毎週国民から健康を祈願されている英国王族も、ほかの裕福な貴族と平均寿命は変わらないことを発見した。他にも気象の研究など、幅広い分野で研究を残している』とある。]

 

 恐らくそれは不可能であるまい。然し身震ひそのものの性質に於てそれを起こす接觸の魅力は、滑らかさ、暖かさ、柔らかさの如き身體的結合よりももつと深く生命的な或る物、――ベイン氏が示した如く、電氣的又は磁氣的の或る物に基づくならんとの暗示がある。人間電氣といふものは窓想では無い、すべて生ける體は――、植物でも、――或る度まで電氣的である、そしていかなる二つの有機體の電氣的條件も全然同一ではあるまい。身震ひは一面にそれ等の條件の或る個々の特性によりて說明されやうか。精妙な神經系統によつて認めらるべき接觸の電氣的差別、――百萬の聲の各〻が凡ての他の聲と區別さる〻音色の無限小の差異と同じ程に精妙なる差別、があるのではあるまいか。

 例へば或る特別の婦人、が極めて少しく觸れても、それが他のもつと美しい婦人の愛撫に毫しも[やぶちゃん注:「すこしも」。]動かされぬ男に、快感の衝動を起こす事實の說明の爲めにかかる理論が呈出され得る。然しそれは何故に同一の接觸が或る人には歡喜を生じ、他の人には何の影響も無いかの理由を說明し得ぬ。いかなる純然身體的の理論も身震ひの神祕の全體を說明し得ぬ。もつと深い說明の要がある、――そして私は『初見の戀』の現象で、その一の說明が暗示されると想像する。

[やぶちゃん注:「初見の戀」“love at first sight”。言わずもがなだが、「一目惚れ」だ。正直、「解体新書」の初訳を読んでいるのかなという錯覚にさえ私は陥る。]

 初見の戀を起こさせる女の力は、通常の目に見ゆる或る牽引力に因らぬ。それは一部は唯だ或る目のみが見得る客觀的の或る物に因る、そしてまた一部は何れの人間も見得ぬもの、――情熱の主格の心理的組織に因る。何人も初戀の謎の全體を細かく說明すると稱し難い。然し一般的說明は進化論哲學によつて暗示さる〻、――卽ち、牽引力は女の力の特別の性質に對する遺傳せられたる個人の感受性に基因し、そしてそれは主觀的には超個人的なる認識の一種を表示する、――通例に『感情的類同』といはる〻遺傳せられたる複合記憶が急に目覺めるのである。たしかに初戀は進化的に說明し得べしとすれば、それは愛する人は凡ての外の女と異る或る物を愛せらる人に認めることの意である、――卽ち彼のうちにある遺傳的理想に應ずる或る物が、以前には潜在したるが、急にその視覺印象の結果によつて照らされて明らかになつたのを認めたのである。

 我々の外の感覺も、それほど深くはあるまいが、視覺と同じ樣に埋もれた過去に達するメロディの單調子、一の聲の快さ――その何れもが祖先以來の記憶の測り知られぬ眠のうちに何といふ測り知られぬ身震ひを起こすのであらう。また、魅力ある、然し定義しがたい――空氣中の或る香が、或る稀な輝きの日に我々にあの云ふにいはれぬ樂みを起こすのを誰れが知らぬものがあらう。春のはじめの息、吹き渡る山風、海からくる南風がこの情緖を來たらし得る、――それは壓倒的な、然しその原因としての名の無い情緖、――空氣の樣に形無く且つ透明の歡喜。精靈となるまでに稀薄にされて、この樂みを起こす、その香は何であるとしても、樂みそのものは奇怪に容積があつて唯だ一個人の經驗の何等かの記憶復活を以て說明しきれぬ。恐らくそれは人間の生命よりも古くて、――死せる快苦の無限盲目の底に深く達するであらう。

 我々のうちにあつて生きた接觸に答ふる身震ひは、それも精靈の深淵から來るに相違ない、――それは心に尋ぬる、男の電氣的接觸、――久しき前に塵に朽ちた無數の纎弱な愛の手で與へられた愛撫の記憶を喚び返す、女の魔術的接觸。それを疑ふな。――我々のうちに身震ひを起こす接觸は我々が以前に感じた接觸である、――多くの覺えられぬ生命に於ける忘られたる親密の感覺の反響である。

 

2019/11/20

小泉八雲 赤い夕日 (岡田哲蔵訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“A Red Sunset”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第二パート“RETROSPECTIVES”の第七話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「○」は太字下線に、傍点「ヽ」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   赤 い 夕 日

 

       

 いままで私が見たうち最も驚倒的な赤色の出現は、或る熱帶地の雲無き空の夕照であつた、それは空氣の異例の狀態に於てのみ見ゆる夕照。それが地平線から頂天まで先づ橙黃色の焰と燃え、忽ちそれが熱烈な朱染めの色濃くなり、其中に眞紅の圓盤が燃え切つた星の餘燼の樣に閃いた。海や峯や椰子樹が冥界の輝きに染まり、私は我がうちに漠然たる不思儀の恐怖を覺ゆる樣になつた、――それは夢魔に魘はれる[やぶちゃん注:「おそはれる」。]前の銷魂[やぶちゃん注:「せうこん(しょうこん)」。驚きや悲しみのために気力が失せること。]の感じであつた。其時私は其感じを說明し得なかつた、――私はただ色が其感じを起こしたことを知つて居た。

[やぶちゃん注:小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて、フランス領西インド諸島マルティニーク(Martinique)島(現在もフランスの海外県で公用語はフランス語。小泉八雲はフランス語が得意であった)を旅しており、ここはその折りの体験に基づくもの。]

 然し如何してそれを起こしたのか、――その後私は自らに尋ねた。輝く赤は不快な感じを起こすといふ一般說では、その經驗の怪異を私の爲めに說明するに足らなかつた。其色と血との聯想は殆ど私のこの場合の說明にならぬ、何故ならばこれまで血を見ても私の神經は毫も影響を感じなかつた。心理的遺傳の說は或る說明を與へるかと私は思つた。――が、大人が耐へられぬと思ふ色が、小兒にはいつも娛く[やぶちゃん注:「たのしく」。]思はれる事實を如何にその說で解き得ようか。

 然し凡ての赤い色調が精練された感性に不快であるのでは無い、或るものは全く反對である、例へば石竹色[やぶちゃん注:「せきちくいろ」。ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis の花のような淡い赤色のこと。色見本サイトのこれ。]、または薔薇色などいふ種々のやさしい色がそれである。それ等は頗る快い感覺經驗に訴へ、優雅と柔らかさを暗示し、朱や緋に刺激されたとは全く異つた性質の感覺を生ずる。石竹色は咲ける花、若さの咲き出でた色、――萬物の成熟と、肉の成熟の色で、芳香と甘美との印象及び美しい脣と頰との記憶といつも聯想される。

 いな、氣味惡るい感じを起こすのは、唯だ純粹に輝いた赤、熱烈な赤色である。此色の經驗は我々西洋の歷史の條件と全く異る條件の下に潑展しカ社會にても同樣であつたらしく見ゆる、――日本はその顯著な一例である。文明が益〻精練され、人間らしくなるに連れ、赤色を見ることは修養ある社會に容さる〻[やぶちゃん注:「ゆるさるる」。]ことが愈〻少くなる。然るにその色を嫌ふ人民の小兒が、尙ほその輝く赤色を好む理由は如何に說明さるべきであるか。

 

       

 小兒の時に我々を樂ませた多くの感覺が成人になると無味になり又は厭はしくなる、それは何故か。その理由は、我々が生長すると共に、今はそれに關係を有つて居るが、小兒の時は眠つて居た感じ、今はそれ等と聯想されるが小兒の時は發達しなかつた觀念、それ等と連結して居るが、小兒の時は想像されなかつた經驗が成長した爲めである。

 我々の生れた時は、心は體より更に發育が足らず、その十分な成熟は身體が完全に成長するに要するよりは餘程多くの時間を要す。小兒はその過失に於ても蠻人に似て居る、それは原始人の本能と情緖とが先づ小兒のうちに熟しはじめる爲めである、――然してそれ等の本能と情緖は自己保存に最も必要なので、種族の歷史に於て先づ發展する故に、個人に於ても先づそれ等が成熟する。後に成人となれば此等の本能や情緖は頗る劣等の位地に下る、それはもつと尊い心理的及び道德的の性質それは比較的に近時に社會上の規律と文明の習慣から生じたのである――が漸く重みがついて正規の狀態にあつては本能や情緖を壓倒する、――それが有たな新たな感覺の樣になつて、原始的情緖的性質はその指導を仰がねばならなくなつた爲めである。

 凡て情緖は遺傳である、然し高等の情緖は進化の順序に於て最後のものであるので、頭腦が完全に發展してはじめて成長する。倫理的に考へて甚だ崇高な情緖は老年に於てのみ發達すると云はる、それで老年は特に魅力を賦與される。高等なる外の能力、主として美的能力は、平均を取ると中年に熟すと見られやう。然して個人發達の中年頃に色彩美の一層立派な感覺は屬して居る、――それはよく知られぬ方法でそれに關係しては居るらしき倫理的感覺よりは餘程單純な能力である。

 生き活きした色は蠻人の美感に訴ふるごとく、我々の小兒の根本的美感に訴へる、然し文明の成人は生き活きした色は大槪好まぬ、それ等の色は廉價な管絃樂演奏の金鼓[やぶちゃん注:これは「きんこ」で鉦(かね)と太鼓のことである。しかし、原文は“an excessive crash of brass and drums”“brass”は「管絃樂演奏」(原文“orchestral performance”)なら、間違いなく「金管楽器」のことであるから、この訳はおかし過ぎる。なお、「brass」には真鍮で出来た楽器の意味もあるから、例えばこれを「シンバル」とし、後を「ドラム」或いは「ティンパニ」などに意訳した方が遙かに日本人読者に親切である。どうも岡田氏の翻訳のセンスには私には今一つ素直に受け容れられない部分がある。]の過度の響の如く彼の神經を苛立たせる。修養ある視覺は强く燃ゆる赤色には特に畏縮する。小兒のみが朱や緋を喜ぶ。成長すれば漸次に我々が所謂『高音の赤(ラウド・レツド)』[やぶちゃん注:“loud red”。「loud」には「音が高い」以外に「騒々しい」「五月蠅い」「派手な」「けばけばしい」の意がある。]と呼ぶ色を俗惡と思ひ、それほど優雅でなかつた前世紀先人達が好まなかつた以上にそれを好まなくなる。敎育は何故に彼がそれを俗惡と思ふかの說明を助けるが、それが彼の眼を疲らすや否やの問題から離れて――何故に彼がそれを不快に感ずるかの說明は助けない。

 

       

 それで今私はあの熱帶地の夕日の問題に歸る。

 何れかの美はしい夕日の光景に刺激された通常の美的情緖に於てすら、人類とひとしく昔なる感情の要素がある、――卽ち日沒がいつも悲哀と豫覺を以て見守らる〻時、幾代をかけて遺傳した暗い幽鬱[やぶちゃん注:ママ。]。暗い恐怖がそれである。あの偉大な光明の後に、原始的恐怖の幾時間、――暗黑の恐れ、夜の敵の恐れ、幽靈の恐れ。此等及び其他の氣味惡るい感情は、日光が退去した後に續く身體の銷沈[やぶちゃん注:「しやうちん(しょうちん)」。「消沈」に同じい。]から離れて、――遺傳によつて情緖的に日沒の光景に關係する樣になつたのであらう、而して原始的恐怖は遂に近代の壯美の感の元素的調子に進化的に變質するのであらう。而し巨大な緋の色の日沒の光景は壯美の感よりも、もつと漠然で無い感情卽ち明白に凶兆の感情の一種を目覺ますであらう。その色自らが、單にそれと恐ろしい光景との關係の爲めに遺傳せる感情の特殊の種類に訴へるであらう、――卽ち、噴火山の頂の輝き、熔岩の激しい朱の色、森の火の暴(あら)び、戰亂の途に當たりて燒くる都市を掩ふ照明、壞敗の燻り、葬送の薪の燃ゆるなど。そして北人の想像せる『掠奪の精靈(レーヴエング・ゴスト)』の如き破壞者としての火に關する物凄き種族の記憶に、そこに苦痛との關係に於ける緋色の熱についての祖先以來の經驗を通じて發展した漠然たる悲痛、――卽ち有機的な恐怖が混ずるであらう。然して天の現象に於ける、それに似たる洪大な色は、古來凶兆と神怒の觀念に關係ある遺傳的恐怖をまた復活させるのであらう。

[やぶちゃん注:「北人の想像せる『掠奪の精靈(レーヴエング・ゴスト)』」原文は“the “ravening ghost” of Northern fancy”。「ravening ghost」はよく判らない。北欧神話のトロール(妖精とされるが、古くは幽霊とも考えられたようである)の内の、性質(たち)の悪い連中(人を略奪したり、捕えて食ったりする輩もいる)とを指すか。それにしても意味は分かるが、殆んど造語に近い「北人」の訳は漢文じゃあるまいし、もう、げんなり、不快だ。「北方(の)民族」なり「欧州北方の人々」と訳そうと何故、岡田氏は考えなかったのだろう? 不思議でならない。

 

 蓋しこの憤怒の色が人間に起こさせる不快感の最大元素は火に對する種族の經驗から成つたのである。然し最も生き活きした赤に於てすら、いつも情熱の暗示、血の色の或る暗示がある。死の光景に關係ある遺傳的情緖は色によつて刺激さる〻記味惡るい感情の要素のうちに敎へられねばならぬ。疑もなく人に取りても、牛に於ける如く激しい赤色の現はれによつて喚起さる〻情緖の波は、主として種族の莫大な全生命を通じて集められた諸〻の印象と傾向の創造である、そして歌人トマスの昔話の如く、我々は我々の唯一眞實の仙境、卽ち精靈的の過去に就いて、

 

    ヽヽヽ大地の上に流れた血汐

    それなる國の泉を洗ふ

 

と云ひ得よう。

譯者註 歌人トマス Thomas the Rhymer は第十三世紀のスコツトランドの歌人、また魔術者にて今尙ほ死せず、或る仙境に住むと思はれて居る。

[やぶちゃん注:「歌人」はママ。トーマス・ザ・ライマーについて、平井呈一氏は恒文社版「赤い夕日」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で割注され、『Thomas the Rhymer1200――97?)は、文学史上十三世紀のスコットランドの詩人ということになっているが、伝え残っている「トリストレム」』(Tristrem:トリスタン伝説を扱った中世語で書かれた現存唯一の詩篇とされっる)『の詩だけが有名だが、果たしてその作者であるかどうかも不明だといわれている。予言をする魔法家で、その霊は、今日なお仙境に生きていると言われている』とある。英文ウィキ「Thomas the Rhymer」はあるが、邦語で書かれたものは、サイト「バルバロイ!」のこれぐらいしか見当たらない。引用はこの詩篇ロシア人の方のサイトであるが、恐らくは元の中世語に近い英語で書かれたものが全篇示されてある。英語サイトを調べたところ、単語の一部が現代の英語に書き変えられているものがあったが、小泉八雲の引用と一致するこのサイトを採った)で、「Part First」の第十六連の後半二行である。]

 

 然し燃ゆる赤色を近代人の神經に耐へられぬものとする、それ等の聯想そのものは、それがはじめて華奢の色となつた時に既に非常に古いものであつたに相違ない。さらば如何にしてかかる聯想が今我々に不快な影響を及ぼすのであらうか。

 私はこの色の情緖的暗示が、それが現今よりも、もつと漠然で且つ容積がずつと少かつた時に於てのみ、今尙ほ小兒に取りて然る如く、成人に取りて快感たるを失はなかつたと答へ樣と思ふ。近代人の頭腦の中で、それが强くなると次第に快感たるを失つたので、――それは暖かさが熱の度に昂まつて快感を失ふと略ぼ同じであらう。更に後になると、それが苦痛となり、そしてその實際の苦痛は、その色が嘗て起こさせた光景と力の感覺の本來野蠻なる性質を暴露する。そして赤色によつて起こされた感情の强くなるのは感情的印象の其後の集積に因るのみならず、本質的に强暴と苦痛の觀念と反對で、しかもそれと離れられぬ情緖の成長發達にも因るのである。我々の祖先の幾多の娛樂を、昔の野蠻の影の世界へ追放した時代の道德的感性、――文字通りの火の地獄を信じなくなり、一切の殘酷な競技を禁じ、動物の愛護を强ゆる時代の人道、それが赤色の殘酷な暗示を嫌ふのである。然し成長徐々たる小兒の頭腦にあつては、この近代的感性はまだ發展しきらず、――それが經驗と敎育の助によつて發展するまでは、生き活きした緋色によつて起こさる〻感情は自然に苦痛よりは快感として繼續するであらう。

 

       

 かくの如く他の世紀に於ては帝王らしき威嚴のあつた色が、現世紀に於ては厭はしくなつた理由を說明せんと試みるうちに、私は我々の今の品位あるものの多くも、將來の時代に同じ樣に俗化しはせぬかと思ふ樣になつた。我々の趣味の標準、我々の美の理想は恆に變化しつつある條件に關係してのみ價値を有ち得る。現實と理想とは共に變遷する、――それ等は永遠の轉生の波動に於ける表面上の動搖に過ぎぬ。蓋し今日の最も倫理的または美的なる感情は他の時代には或る例外なる心理的隔世遺傳(アタヴイズム)[やぶちゃん注:“atavism”。私は「先祖返り」の訳の方がいいと思う。]、――野蠻の過去の狀態への或る個人的復歸に過ぎぬと見らる〻であらう。

 其間に今、現に耐へられなくなりつつある感覺の運命は、何となるのであらうか。如何なる精神上または身體上の能力でも、それが以前に進化的必要によつて發達したとしても、それが有用でも快樂でもなくなつた瞬間から、縮少し消滅する傾向を有つのであらう。赤を認める力の繼續はその力が種族にとりて、將來有用であり得るや否やによつて定まるであらう。なほそれが色を生ずるエーテル[やぶちゃん注:「エーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次訳)」の私の注を参照されたい。]の振動の最低程度を代表する事實も、これに聯關して暗示することが無いことはなからう。蓋し我々が益〻それを好まなくなれば、その色を辨別する力が結局は消滅し――色の階段の低い端に於てのダルトニズム[やぶちゃん注:“Daltonism”。後に訳者注有り。]の一種になつて消滅するのであらう。蓋しかかる視覺的消滅は網膜の感性がそれと共に優等なる分化を行ふによりて償つて餘りあるのであらう。更に高等に組織せられた時世の人々は、今日想像されぬ色彩の驚異を樂むことが出來て、しかも決して赤色を認め得られぬかも知れぬ、――少くとも我々の進化上の過去の苦悶と激怒との幽靈のやうな餘燻の感覺を生ずる赤色、――名づく可からず、測る可からざる畏怖の執着的出現、――死滅せる人間苦の巨大なる幻の威嚇たる赤色は認められぬかも知れぬ。

譯者註 ダルトニズムは色盲のこと、英國化学者John Dalton17661844)の說による名。

[やぶちゃん注:イギリスの化学者・物理学者・気象学者ジョン・ドルトン(John Dalton 一七六六年~一八四四年)。「原子説」の提唱者として、また、理想気体の混合物の圧力が各成分の分圧の和に等しいことを示す「ドルトンの法則」(「分圧の法則」とも呼び、一八〇一年に発見)で知られる、幽霊染みた肖像画にみんな落書きをしたであろう、あのドルトンである。彼は自分自身と親族の色覚を研究し、自らが先天色覚異常であることを発見し、所謂、「色覚異常」を意味する英語「ドルトニズム(Daltonism)」の語源となったのである。]

小泉八雲 晩歌 (岡田哲蔵訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“A Serenade”。「一つの小夜曲」)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第二パート“RETROSPECTIVES”の第六話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   晚 歌

 

       

 『破られた』といふと餘りに唐突な語であつた。私の眠は破られたのでは無い、が急に外の夜からの昔樂の流で溶かされて一掃された、――その優雅な最初の音で私に歡喜の豫期を充たした音樂、晚歌、――笛とマンドリンの演奏。

 笛は鳩の鳴く調子で、それがククと褐色、悲しさうに鳴き、また水の渦卷く樣に鳴いた、――そしてマンドリンは心臟の鼓動する如くに、笛の流る〻音の中で震るへて居た。奏樂者は見えぬ、彼等は熱帶の月が街路に投げた重い影のうちに立つて居た、――それはプランティン樹とタマリンド樹の影。

[やぶちゃん注:「プランティン樹」“plantain”。単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属交雑種プランティン(通称。表記は英語のネイティヴの聴き取りに最も近いと判断したもので示した。和名通称はリョウリバショウ・クッキングバナナなど)Musa× paradisiaca (具体的にはゲノム分析によってマレーヤマバショウ Musa acuminata とリュウキュウバショウ Musa balbisiana の交雑種であることが判明している)交配種 Musa acuminata × Musa balbisiana。実はバナナと異なり、一般的には料理に用いられる果物で、バナナよりも固く、糖分が少ない。熱帯地方の主食であり、主食としては世界第十位に位置する。バショウ属は全てマレー諸島(インドネシア・フィリピン・マレーシア)を含む東南アジアと北オーストラリアを含むオセアニアの熱帯地方に由来するが、本種は広く熱帯域に移植されており、中央アメリカやカリブ海の諸国にも植生している(以上はウィキの「プランテン」に拠った。リンク先に果実の写真有り)。小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて、フランス領西インド諸島マルティニーク(Martinique)島(現在もフランスの海外県で公用語はフランス語。小泉八雲はフランス語が得意であった)を旅しており、ここはその折りの体験に基づくものか。

「タマリンド樹」“tamarind”。マメ目マメ科ジャケツイバラ(蛇結茨)亜科タマリンド属タマリンド Tamarindus indica。アフリカの熱帯が原産で、インド・東南アジア・南北アメリカ大陸などの亜熱帯・熱帯地方で栽培されている。樹高二十メートル以上になる常緑高木。葉は長さ十五~二十センチメートルの羽状複葉で、小葉は十~二十片で長楕円形を呈する。花は総状花序をなし、五弁で直径三センチメートルで、黄色に橙色又は赤色の筋が入る。果実は長さ七~十五センチメートル、幅二センチメートルどのやや湾曲した肉厚な円筒形の莢(さや)で、黄褐色の最外皮は薄く脆い。一個乃至十個の黒褐色の扁平な卵円形種子で、その間隙にペースト状の黒褐色の果肉が満たされてある。この果肉は柔らかく、酸味があり、食用とされる(以上はウィキの「タマリンド」に拠った。リンク先に写真有り)。]

 すべて菫色のほの暗さの中に動いて居たのはその音樂と螢ばかり、――螢は橙黃と鮮綠の大きな輝いた遲い火花であつた。暖かな空氣が呼吸を止めて居た、椰子の葉は靜かであつた、そして海のいつも目につく輪は、月下に於てすら靑く、音も無く煙霧の輪の如く橫たはつて居た。

[やぶちゃん注:「海の輪」確かに“the haunting circle of the sea”である。この場合、「haunting」は恐らく「いつもそこに姿を見せている」という常在感覚の表現であろうが、問題は「circle」で、「輪」では意味がとりにくい。平井呈一氏は恒文社版「小夜曲」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では、『いつもと変わらぬ紺碧の海は、大きな夜霧の輪となって、音一つたてずにひろがっていた。』と訳しておられるが、そこでは後の“a circle of vapor”「輪」を訳しながら、前のこちらの「輪」をカットしてしまっている。思うにこの「circle」は「圏」「気圏」の意ではあるまいか? 敢えて訳そうなら、さしずめ、「海圏」(かいけん)であろうか。]

 笛とマンドリン――西班牙[やぶちゃん注:「スペイン」。マルティニーク島の周辺島嶼国は孰れもスペイン人が定住し、スペイン文化の影響力が強いから、奇異ではない。]のメロディ――外に何も無い。それでも夜自らが語つて居るかと思はれた、または、久しき以前に自然の神祕のうちに溶け去つたが、猶ほも日の照るうちは眠り、星にのみ目を覺ます、その不思議な世界の生溫い、芳しい、燦めく暗を徨ひ續けて居る或る感情的な生命が、その夜のうちから語つて居るかと思はれた。そしてその言は、嘗て有りて今は再び有り得ぬ歡喜と、精靈の如く反覆して居るのであつた、――それは無限のやさしさと不測の悔恨を語るのであつた。

 いとも單純な音樂が他の藝術のとても暗示し得むものを表現し得ることは私はいまだ嘗て感じなかつた、――飾も無く、技巧も無いが、それで希臘人[やぶちゃん注:「ギリシヤじん」。]の最上の優美の認識の樣に、それほど蠱惑的で不可解な感興を有つて居るメロディの驚く可き可能性を嘗て知らなかつた。

 さて完全な藝術に於ては何物もただ逸樂的ではあり得ぬ、そしてこの音樂はその愛撫的なるに關らず、測られぬ程に、拭ひ難い程に悲しかつた。そしてそれ程單純な動機に於て幽鬱[やぶちゃん注:ママ。]と流動との精妙な混合、――鳩の叫ぶ如くククと鳴く一の低い長い音の再三の反覆、――それが消滅した時間の音樂的なる思[やぶちゃん注:「おもひ」。]の如き美の不思議を有つて居た、――我々自らの時代よりも、もつと溫かい人間的な時代からの生存、――或る失はれたるメロディの術からの一の稀有なる生存を有つて居た。

 

       

 音樂が靜まつた、そして私は夢みながら殘された、そしてその樂が起こした情緖を說明せんと試みても効がなかつた。ただ一の事は慥であると思つた、――卽ちその神祕は自分の存在以外の諸〻の存在のものであるといふこと。

 私は反省した、生きて居る現在の爲めに死せる過去の全體があることを。我々の快樂と我々の苦痛と共にただ進化の所產である、――巨萬の海の砂よりももつと數へ難い失せたる存在者の經驗によつて創造された感性の巨大な複雜である、凡ての人格は結合を重ねたものである、そして凡ての情緖は死者のものである。それでも或る者は他の者よりもつと精靈らしく我々に見ゆる、――それは一つには、それ等の一層大なる關係的神祕の爲めで、一つにはそれ等を組成する幻の波の無限の力の爲めである。快い形のうちで、最も精靈らしいのは初戀の情緖、自然に於ける壯美――恐ろしい美の知覺に續いて起こる情緖、――そして音樂の情緖である。それ等は何故に然るか。思ふにそれ等を起こす勢力は我々の忘れられた過去に最も遠く振動を及ぼす爲めである。一の思考する生命の深さは空間の深淵の深さの如く恐ろしく――何百萬の時代を以てしても測り難い、――そして或る人格に於ては如何に深くその神祕が動かされ得るかを誰れか明らめ得よう。我々は唯だ振動が深い程、反應する波は重く、そして結果はいよいよ怪異で、――遂には單一の波動が卽死を來たし、または思想の纎弱な構成を永久に零落させる樣な、それ等の深遠なるところに達するに到ることを知るのみである。

 

 さて如何なる音樂にても、我々のうちなる過去の隱れたる感情を醒まして、愛の情緖に强く訴ふるものは、是非とも死せる快樂と等しく死せる苦痛を呼び起こさざるを得ぬ。抵抗し難いそして無慈悲な神祕によつて意志を征服された苦痛、疑惑の苦悶、競爭の苦艱、非永久性の恐怖、――此等及び多くの他の悲哀の影は、同時に愛の喜びと愛の苦を生じ、永久に誕生より誕生に成長する、その心理的遺傳の調べを作るにも參與したのである。

 かくして小兒が情熱や其の苦痛を知らざるに、なほよくその何れかを談る音樂によつて淚を催すまでに感動もせらる〻ことが起こり得る。知らずして彼はその音樂が無數の消えたる生命の悲哀の影を談ることを感ずる。

 

       

 然しあの熱帶地のメロディによつて醒まされた非常な情緖は以上試みた說明よりも一層性質的の說明を認する樣に私は思つた。慥に音樂が訴へた死せる過去は或る特別の過去であつたに相違ないと私は感じた、或る情緖的記憶の特別の階級または集團に觸れたのだと感じた。然し何の階級か、――何の集團か。暫くの間は私は想像を試みることも出來なかつた。

 然るに久しき後、或る偶然の事が驚くべく明らかに晚歌の記憶を復活した、――そして同時に、默示の如く、そのメロディの全魅力――その一切の悲しさとその一切の快さとは――最上にまた獨得に女性的のものであつたことが確實であるとの思が現はれた。

 新しい悟りが私に現はれると共に私は反省した。『慥に一切の人間のやさしさの原始的根元は永遠の女性であつた……然し如何にして唯だ女性の魂を談るメロディが男性に作曲され、そして男性のうちに此の名狀し難い情緖的記憶の生命を起こすのであらうか』

 その答は直に形を成した、――

 『あらゆる男は幾百萬度も女であつたのだ

 

 疑もなく兩性の何れにも、兩性の感情と記憶の全量が存して居る。然し或る稀なる經驗は時には人格の女性的要素、――卽ち自我の幻の世界の一半にのみ訴へて、他の半分を眠りで光無きに任すことがある。そしてかかる經驗は、私が聽いた晚歌の驚くべきメロディのうちに具體的に存したのであつた。

 あの打震ふ快さは決して男性的で無かつた、あの感情的悲哀は決して男のもので無かつた、――何れも單性的で調べの美の單一の奇蹟のうちに混和して離れぬものであつた、私自らの過去の神祕のうちに遠く反響しつつ、その調の魅力は幾代の眠から無數の埋れた愛を呼び出して、纎弱な群を殘らず或る薄膜の樣な復活の苦痛のうちに羽搏きさせ、――時の夜を通じて流動させ、――ダンテの見た幻の薄明りの中を永久に渦卷きゆく巨萬のものの如くにしたのであつた。

[やぶちゃん注:イタリアの詩人で政治家でもあったダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri 一二六五年~一三二一年)の代表作である「神曲」(La Divina Commedia)で、ダンテが古代ローマの詩人ウェルギリウスとともに地獄と煉獄へ下降してゆくさまを指している。]

 

 彼等は音樂と月と共に消えた、――然し全くもうでは無い。何時でも夢にあのメロディの記憶が還るとき、私は再度死者の長い柔らかい振動を感ずる、――再度私はあの幽靈の樣な笛のククと鳴る音に答へ、あの影の樣なマンドリンの振動に答へつつ、微かな翼が張られて震るふのを感ずる。そして彼等の群居の魔の樣な歡喜が私を目覺ます、然し、何時も私の目覺めると共に快樂は去つて、暗の中に悲哀のみが彷徨する、――名狀し難い――無限なる……!

 

小泉八雲 蒼の心理 (岡田哲蔵訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“Azure Psychology”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第二パート“RETROSPECTIVES”の第五話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 なお、本文内の原注にも示されているように、本篇は非常に珍しいことに、初出が本作品集ではなく、同じ年の明治三一(一八九八)年一月発行の雑誌『帝國文學』(第四巻第一号)に発表された、その再録である。但し、以下に見る通り、『數年前に書いた』と小泉八雲は言っており、そこで『一八九七年の間に』という年を示しているから、執筆はその頃か。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   蒼 の 心 理

 

       

 自然が鳥と蟲と花とに與へた最も稀な色は、輝く純な靑である。靑い花の咲く植物は他の何れの原色の花が暗示するよりも停滯しなかつた發達のより長い歷史を保有するものと信ぜられる、此色の高價なことは園藝家が靑い薔薇または靑い菊を造ることが不能であつたことで凡そ暗示されて居る。生き活きした靑は或る驚くべき鳥の羽や、或る珍らしい蝶――特に熱帶地の蝶の翼に現はれる、――然しそれは通常進化的分化の莫大な時代を思はせる條件の下に於てである。要するに靑は花と鱗と羽の進化に於て發達した最後の純な色であつたと思はれる。そして靑を認識する力は赤と綠と黃とを辨別する力が既に得られた後に漸く得られたと信ずべき理由がある。

 この假說の眞僞はさてきき、諸原色のうちで靑のみが現代までも高等文明の人種の視覺にも、その最純な强さに於て、快い色として殘されたことはたしかに注意に價する。輝く赤、輝く綠、輝く橙黃色、黃、または紫色[やぶちゃん注:底本は「黃色」であるが、原文は“or violet”であるので、誤植と断じて特異的に訂した。]は我々の第十九世紀の衣服や裝飾に稀に用ゐらる〻のみである。此等の色はそれが與ふる感覺の激烈な爲めにその分光的の純粹性に於て嫌はしいものとなつた、――此等は小兒や、全く未敎化の者や、蠻人の原始的美感にのみ受納されて殘つて居る。現代の美人で緋の衣を着たり、また華美な綠の衣を纒ふたりするものが何處にあらう。我々は我々の室を黃色や蕃紅花(サフラン)の色に塗ることは出來ぬ――その樣な考ばかりでも我々の神經は攪される[やぶちゃん注:「かきみだされる」と訓じておく。]。然し天の色は今も我々を喜ばすことを止めぬ。空の靑はなほ我々の最も美しい人が衣の色としてもよい、そして蒼の天井と蒼の壁の表の光彩ある魅力は――光明と面積の或る條件の下に――今猶ほ認められて居る。

[やぶちゃん注:「蕃紅花(サフラン)」“saffron”。ここは上質の単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科クロッカス属サフラン Crocus sativus の雌蕊を乾燥させた生薬・香辛料であるそれの紅い色を指していよう。但し、当該のサフランは水に溶かすと、鮮やかな黄色になる。

「蒼い天井」ここで小泉八雲は始めて“azure”という単語を用いており、岡田氏が前で「靑」と訳しているのは総て“blue”である。英語の「azure」(アジュア)(アズール(ポルトガル語「azul」・スペイン語(azur)など)やフランス語の「azur」(アジュール)の語源はペルシャ語の「ラジュワード」が語源で、この語はもとは現在のトルキスタンにある地名であったが、その地で産出する青色の宝石「ラピスラズリ」(lapis lazuli)を意味するようになり、さらに色名となったもので、「ラピスラズリ」はラテン語で「lazhwardの石(lapis)」の意である。「azure」はブルー(青)の中でも特に「明るく鮮やかな青」を表わし、「海の色」「空の色」と表現されることも多い(以上はウィキの「アジュールに拠った)。サイト「原色大事典」のこれが「アジュール」で、これが「ブルー」である。]

 或る人は云ふであらう、『それでも我々は建物の外面を空の靑色に塗りはせぬ、そして空の靑色の家の正面(フアサアド)は橙黃色や紅の正面よりももつと不快であらう』と。それはさうだ、然しその色の大きな表面に及ぼす効果が必らずしも不快である爲めでは無い。唯だ生き活きした靑は、外の輝く色と異つて、我々の自然の經驗に於て決して大きな不透明な立體と連想せられぬ爲めにのみそれは眞である。山々が我々に靑く見ゆる時、それはまた精靈の如くなりそして半透明になる。その色を家の正面にすれば、それは怪異に思はれる、何となれば不自然の觀念、――巨大な靑い死せる立體が手の觸れられる程近くにあるといふ觀念を與へるからである。然し靑い天井、靑い穹窿、靑い廊下の壁はその色と深さ及び透明性との關係を暗示して、空間と夏の光との爽快な幻覺を我々に生ぜしめる。之に反して黃は家の正面にふさはしい色である、何故なればそれは蒼白い廣き表面の上に暮れ行く日の美しい効果と記憶に於て連想されるからである。

 然し靑の次には黃が諸原色中の最も快い色として殘るが、それは靑の如くその凡ての光彩ある力に於て藝術的目的の爲めに度々用ゐられぬ。黃の蒼白な調、――特にクリーム色の調は、――藝術的使用の百般の變種を可能にする、然し輝きて燃ゆる黃にさうはならぬ。唯だ靑のみがその最も生き活きした純粹さに於て何時も快い――但しそれは靑の堅さ及び靑の不透明の如き變則を暗示する樣な塊狀の表現に用ゐられぬことを條件とする。

 

註 靑い寶石、靑い目、靑い花は我々を娛ます[やぶちゃん注:「たのします」。]。然しこれ等に於てその色は透明若しくは柔らかく見ゆることを伴なふ。空の靑色の表裝をした書籍が見るに耐へられぬのは堅い不透明と靑との不釣合な爲めであるらしい。私はそれより非道いものを想像し得ぬ。

 

 西洋の影響に基づく不調和が一時出現して居るに係らず、――今も尙ほ色彩學の完全な良趣味の國といふべき日本に於ては、殆ど何れの通例の街路の通景(ヴイスタ)[やぶちゃん注:原文は“street-vista”。両側に並木や丘陵・山などのある細長い長く延びた見通しの利いた街路風景。]も色に對する種族の經驗を談る。その通景の一般調子は上の方は靑みがかつた灰色で、下は暗い靑で、それが白や冷たい黃の多くの小さな物件で鋭く浮き上がらせてある。この透明に於て靑みがかつた灰色は屋根の瓦と幕張りを示し、暗い靑は店の暖簾で、輝く白は漆喰を塗つた表面の狹い切れ[やぶちゃん注:原文は“the bright whites, narrow strips of plastered surface;”。この「strip」には「商業地」の意があるから、「輝く白は表面を漆喰で塗った商家の長く続く壁」の謂いではあるまいか?]、蒼白い黃は主として滑らかな木地と疊表の微かに見ゆるのである。諸〻の色の廣い幅が更に暖簾や看板に書いた白地に黑(時には赤)、靑地に白又は金色の無數の文字の點點で浮き上がらせられまた柔らげられる。强い黃、綠、橙黃、紫は見られない。衣服にもまた灰色と冷たい色が多い、若し小兒または若い娘が着けて居る、すべて輝く色の衣裳または袴を見ることあらば、その色は空の靑か、または黃色で、それに蒼を燃え立たすに足るだけの赤が混じて居て、精妙な光彩の虹の菫色と見ゆるのである。

 

註 此論文は數年前に書いたのであつた。一八九七年の間に私は日本到着以來初めて、季節の流行に暗い綠と薄い黃の散らしてあるのを注目した、然し衣服の一般調子にそんな古趣味にとりての例外の爲めに殆ど影響されない。薄い黃は唯だ小兒の或る帶にのみ見られた。

 

       

 然し私は美術や工藝に關しての靑の美的價値を談り、または光のエーテルの一秒に六千五百億囘振動の產としての靑の視覺的意義を語らうと欲するのでは無い。私は唯だ其色の心理に就いて、――その主我的進化の歷史に就いて何か云はうと思ふ。

[やぶちゃん注:「エーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次訳)」の私の注を参照されたい。]

 慥に同じ靑の現はれで、異る人々の心に感情の異れる程度を生じ、そして不同の經驗の記憶再現から全く異れる空想を活動させることがある。然しかかる主として個人的で且つ皮相的なる心理的變化は別として、此色が一般の人の心に快感の共通性を喚び起こすことは疑が無い、――それは活潑な身震ひ、――感受性と想像の一層高い地帶と誤無く關係しある情的活動の調である。

 

 私自らの場合には生き活きした靑を見るといつも漠然とした喜びの情が伴なつた、――その强さは其色の光の度で多くもなり少くもなつた。そして旅行中の一の經驗、――アメリカの熱帶地への航行、――の時に此旅情は歡喜となつた。それは私がはじめて此世界に於ける靑の最も壯大な光景――メキシコ灣流の光榮――を見た時であつた、その魔術的莊嚴が私の感覺を疑はしめた、――百萬の夏の空がそれを作る爲めに純粹な流動の色に凝結したかと思はるばかりの燃ゆる蒼であつた。その船の船長が私と共に欄干に倚りかかり、我々は共に默して長い間驚くべき海を眺めて居た。それから彼は云ふた、

 『十五年前に私は此旅路に妻を連れて居ました――私達が結婚したすぐ後、さうでした――そして妻はこの水に驚きました。妻は此水と同じ樣な色の絹の衣を買つてくれといひました。私は隨分方々で探しましたが、とても見附かりませんでした。或る時偶然に廣東に行きましたが、日々支那人の絹店を周つて、其色を探しましても中々見附からず、それで、たうとう手に入れました。家に持つて歸りましたとき、妻の喜びは一方で無かつたのです……妻はまだそれを有つて居ます……』

[やぶちゃん注:小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて、フランス領西インド諸島マルティニーク島を旅している。]

 

 今も猶ほ、時々、眠の中に、私は再度あの目眩く波立つ蒼の驚異の上を南に航行する――そのうちに夢は急に世界を橫斷して變じ、私は船長と、灣流の靑の絹を尋ねあぐんで、狹い暗い奇妙な支那街を共に行く。そして靑色が喚び起こす悅びの理由を先づ私に考へさせたのは此の熱帶の日の記憶であつた。

 

       

 思ふに靑の光輝ある視覺に刺激された快き情緖の波は、何れか他の純粹な色の巨きな現はれによつて起こされた感情に比して、一層複雜なものではあるまい、――然しその複雜の質に於てそれが高等である。何故なれば、その容積の中に混じた觀念的元素は、最も尊いものを少からず含有して居る、――宇宙的情緖の作成にも入り來るものを少からず有つ。

 我々の地球の精靈の色、――世界の生の息の色、――と思はれて、――靑はまた日の巨大と夜の深淵とを現はす色である、故にその感覺は高度洪大深遠の諸觀念に訴ふ。

 なほまた時間に於ける空間の觀念にも。何となれば靑は距離と漠然との色なる故に。

 運動の觀念にもまた。何となれば靑は消滅出現の色なる故に。峯と谷、灣と岬は我々が遠ざかるに從つて靑くなる、我々が家路に還れば靑の中から此等のものは現はれ出でで再び定かな姿になる。

 それ故に靑の感覺が我々に起こす感情の容積の中に變化の經驗、――卽ち數へがたき祖先の別離の悲、――と連合する情緖の或る者が有るべきである。然し何か、かかる朧げなるものが殘るとしても、それはかの暖かさとに關係せる、――また雲なき日の光の中なる過去の人類の喜悅に關係せる、――凡て照り亘る情緖的遺傳のうちに全く陷沒して失はれて居る。

 なほ一層有意義なるは、靑は神聖の色ではあるが、それが起こす感情の主調は喜びとやさしさであることである。靑は我々に死者と神々のことを語る、然し決して彼等の畏ろしさを語らぬ。

 

 また我々が、靑は神明の觀念の色、汎神觀の色、倫理の色であつて、――我々の敬畏と正義、義務と渴仰の情操が附屬する思想の組織にまで最も深く浸徹する色であることを思へば、我々は何故にそれが喚び起こす情緖が至上の喜悅であるかを不思議に感ずることもあらう。それは靑空の感覺的人種經驗、――有機的記憶に於て我々各自に傳へられた、光明と溫暖とに對する死者の無限の喜び――は宗敎觀念よりも遙かに古く、それ故に、その色彩感覺に間接に關係せる何れの倫理感情をも溺らすに足る程に、容積がある爲めではあるまいか。一面は疑も無くさうである、――然し私はも一つ別の、甚だ單純な說明を試みよう、――

 

 靑の印象に應ずる遺傳感情の波に於ける一切の道徳的脈搏は唯だ信仰の美はしきやさしき光景にのみ屬す

 

 ここまで試みられたので、私はも少し先きまで進んで見よう。

 我々の多くのものにとつりて、靑の視覺で喚び起こされる快感の此波に於ける最有力なる要素の一は、其語の十分倫理的な意義に於ての靈的であると私は想像する、――卽ち其色と經驗的に連合する個人的情緖の移り去る表面の叢の下に、敎へられぬ諸〻の時代を傳へたる宗敎的情緖が波の如く脈搏して居ると思ふ、――そして美としての靑の遺傳感覺を勵まし生かしつつ、神祕的光榮として、――永久の平和の色として、――の靑の遺傳されたる光輝の歡喜があると思ふ。これまで想像された一切のパラダイスに對する凡ての人間の渴望の或る者、――死後再會の約束に對する凡ての前存したる信賴の或る者、――終わりなき若さと祝福の凡て消えたる夢の或る者――が、いくらか微かにこの蒼の悅びの身震ひのうちに我々の爲めに復活せられやう。熱帶地の潮流の寳玉の輝きの下に、更に大なる海よりの波動が、――その鳴咽と囁語[やぶちゃん注:「ささやき」と訓じておく。]と、その逃ぐる如き漂流と泡沫[やぶちゃん注:「しぶき」と訓じておく。]を以て、――通ずる如く、その如く、輝く靑の視覺によりて喚起された情緖を通じて、無限のうちより、――(一瞬の靑の感覺を作る億萬のエーテルの振動の如く多樣なる)――昔の信仰の一切の渴仰と、消滅した神々の力と、人間の口に唱へられた一切の祈禱の情熱と美とが、如何にかして我我に搖れ還るのであらう。

 

小泉八雲 若さの香 (岡田哲蔵訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“Parfum de Jeunesse”。「パルファン・ドゥ・ジュネッス」はフランス語。小泉八雲はフランス語が得意だった)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第二パート“RETROSPECTIVES”の第四話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   若 さ の 香

 

 一人の舊友が彼の若き日のロマンスを私に談りていふ[やぶちゃん注:「かたりていふ」。]、『彼女が家に歸るときになれば、私は燈無き外套の室(クロオク・ルウム)でも彼女の外套をいつも採ることが出來た。私は暗でもそれが判かつた、それには甘い新しい乳の香があつたから……』と。

 このことが何としてか私に英國の曉、乾草の野の香、ホオソオンの咲く日の香を思ひ起こさせた、――すると我が友の終の語が私の耳に尙ほ殘るうちに、私の半生の上に閃いた記憶の大きな弧線を通じて思ひ出の房また房が連續して輝き出でた。そして追想が燻つて夢想になつた、――若さの香の謎に就いての夢想に。

[やぶちゃん注:「ホオソオン」“hawthorn”。バラ目バラ科ナシ亜科サンザシ属セイヨウサンザシCrataegus oxyacantha。但し、実際に特定種に比定できていないため、現在はこの学名は除去されているとも言う。同旧種についてのネット上の記載によれば、落葉低木で、ヨーロッパ中部・イギリス・北アフリカから中央アジアに分布する。高さは凡そ四~九メートル。五月に白色又は淡い紅色の五弁花を咲かせ、実は鮮やかな紅を呈する。花は、干し葡萄・アニス(西洋茴香(ういきょう))・フェンネルなどの香りを合わせ持った独特の香りがする。一六二〇年にイギリスから清教徒を乗せてアメリカに渡った「メイフラワー号」(Mayflower)にはこの花が描かれていたことから、「メイフラワー」とも呼ばれる。花・葉・果実は血管を刺激して血行を良くにする作用があるとされ、また心不全に狭心症などの冠動脈疾患にも用いられる、とある。]

 私の友が述べた若さの香(パアフム・ドウ・ジユネツス)のその性質は稀なものでは無い、――但し私はこれが南方よりは寧ろ北方の種族に屬すると思ふ。それは完全な健康と立派な强壯とを意味す。然しそれには人を牽く力のもつと纖弱な變種がある。時にはそれが人をして赤道直下の地より來たれる貴重な護謨[やぶちゃん注:「ゴム」。]または香料を思はせ、時には薄い快さで、――麝香の精靈の如くである。それは個人的では無い(身體的人格はたしかに香があるが)、それは季節の香である、――人生の春の香である。然し春の香は、何處でも移ろひゆく悅びであるが、それさへ國土や氣候によつて異る如く、若さの香にも變化がある。

 それが一の性のものたる以上に他の性のものであるかは言ひ難い。[やぶちゃん注:原文“Whether it be of one sex more than of another were difficult to say.”。どうも岡田の訳はこれに限らず、全体に生硬に過ぎ、意味が難解になっている憾みがある。これは平井呈一氏の恒文社版「青春のかおり」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)での、『それが、ほかの異性のものにもまして、ひとりの異性のものであるかどうかは、言いがたい。』という訳が躓かずに華麗にすっきりと読める。]我々は主としてそれを女子及び長髮の小兒に於て認めるのは、思ふに香は特に髮の中にある爲めであらう。然しそれは白百合の快さが然あるが如く、何時も技巧から離れてある。それは文明人の靑年に戀人の靑年にも等しくあり、王子の成年期にも農民のそれにも同じくある。ただし病弱者には無くて、完全に快活な健康にのみある。思ふに美と同じく、それは倫理的の條件と或る漠たる一般關係を有して居るものかも知れぬ。個人の香はたしかにこり條件を有つ、――犬の識別が證據を示す如くに。

 我々が花の香にて受ける快感は、永劫の遠き昔よりの情緖的反射であらうといふことを進化論者等は暗示して居る、卽ちその昔にはかかる香は人間より遙かに低き祖先的生命のものには美味の食物の存在を知らせたといふのである。同一の假說によれば我々の若さの香の快感は連想の何等の有機的記憶に基するのであらうか。

 思ふに其香が現今我々がそれに附帶せしめ得る何れの意義よりも一層明確でまた特殊なる意義を有つた時代があつたのであらう。花の香にて生ずる快感の如く、若き身體の健全なる香によつて與へらる〻快感は、少くとも一部分は、香の印象が生命保存の最單純なる衝動に直接訴ふるものありし或る時代から存續せるものであらう。かかるあり得べき原始的關係より久しき以前に分離したれば、花の香と若さの香は今は共に我々にとりては高等なる感情生活の刺激者、――漠然たる、されど容積廣きそして極めて精妙なる美感の刺激者となつた。

 美によりて起こさる〻感情の如く、香の快感は追憶の快感である、――無數の生命の數の記憶への感情の魔術的の訴である。そして花の香が記錄されぬ春の億萬に於て經驗されたる感情の精靈を呼び起こす如く、――若さの香も亦我等の中に我等の背後に消滅したる一切の人間存在の各〻の春の環と連想さる〻感覺の靈の如き存續を搔き起こすのである。

 そして新たなる存在者の此の香もまた、理想的感情を喚起す、――それは愛のやさしさと殆ど同じく親たるもののやさしさを喚起するのである、其故はそれが測られぬ時を通じて子供の愛嬌と美とを連合させた爲めである。夜と死とのうちより、その死者との交感により、喚び起さる〻ものは、滅びたる感情の歡喜より出る影の如き身震ひ以上のもの、――無數の生命の婚儀の喜びから來る幻影の反射以上のもの、――初生兒の絹の如き頭髮へ愛撫の唇を押す歡喜の或るもの、埋められし母達の億萬の忘られし喜びからの微かなる反流。

 

小泉八雲 美のうちの悲哀 (岡田哲蔵訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“Sadness in Beauty”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第二パート“RETROSPECTIVES”の第三話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   美のうちの悲哀

 

 美しき物は悲哀を生ずと歌ひし詩人が、美しき物としで舉げたのは音樂、日沒、夜、晴れた空、および透明の水。それ等の悲哀を彼は樂園(パラダイス)の漠たる魂の記憶にて說明せんとした。この說明は甚だ奮式、されどそれは眞理の影を有つ[やぶちゃん注:「もつ」。]。何となれば美感と連想さる〻神祕感はたしかに此世の存在のものならで、多數前生の存在のもの、――故に追憶の悲哀であるから。

[やぶちゃん注:「美しき物は悲哀を生ずと歌ひし詩人が、美しき物としで舉げたのは音樂、日沒、夜 晴れた空、および透明の水」アイルランドのダブリン生まれで、英国国教会大司教・ダブリン大主教となった詩人で言語研究家でもあったリチャード・チェネヴィックス・トレンチ (Richard Chenevix Trench 一八〇七年~一八八六年)の「ソネット」(Sonnet)である。作品集「ソネット集とエレジー集」(“Sonnets and Elegiacs”。死後の一九一〇年刊)所収で、英文サイト「All Poetry」のこちらで読める。冒頭“All beautiful things bring sadness, nor alone”(改行)“Music,……”で始まり、小泉八雲が挙げたアイテムが総て語られてある。]

 別のところで私は何故に音樂の或る性質や日沒の或る光景が悲哀を生ずるか、悲哀以上のものさへも生ずるかを說明せんと試むる。然し夜の印象に就いては、この第十九世紀に於て夜が呼び起こす感情は、美がもち來る悲哀と同列におかるべきかを私は疑ふ。一の驚くべき夜、――例へば熱帶の一夜、――輝き且つ生溫く、熟せるバナナの如く曲りて黃なる新月空に懸かる夜、――それが他の小さき諸〻の感情のうちに、やさしさの感じを吹き込む事がある、然し光景の莊嚴に喚び起こさる〻主もなる情緖は悲哀では無い。天を最高度まで打割りて、晝は面を掩ふ無限が見ゆるために、生死の限りを思ふ現代の想を夜が濶くする[やぶちゃん注:「ひろくする」。]。夜はまた我々の紲[やぶちゃん注:「きづな」或いは「つなぎ」。]の神祕、――卽ちこの小なる憐れな世界へ我等を縛る見られぬ力の記憶を强ゆる[やぶちゃん注:「しゆる」。強いる。]。而してその結果は宇宙感情である、――それは崇高の何れの感覺よりも大で、――一切の他の情緖を溺れしむる、――が、美が起こし來る悲哀とは決して同類でない。昔は夜の情緖は比較し難き程、容量が少かつたに相違無い。天窓をば固定せる穹窿と信ぜし人々は、とても我々が感ずる如く暗の[やぶちゃん注:「やみの」。]洪大なる盛觀を感じ得なかつた。而して我々が『ヨブ記』にある畏懼[やぶちゃん注:「いく」。]すべき星の大疑問譯者註を益〻感嘆するに至るは、科學の進步と共に、かかる疑問が、とてもヨブの心に入ることのなかつた思想と感情の形式に益〻大なる訴へを爲しつづける爲めである。

譚者註 「舊約聖書」ヨブ記第三十八章第三十一、二節「なんぢ昴宿の鏈索を結びうるや、參宿の繋繩を解うるや、なんぢ十二宮をその時にしたがひて引出しうるや。また北斗とその子星を導き得るや」(邦譯)

[やぶちゃん注:「紲」原文は“our tether”。「我々をこの世に縛り付けているもの」の謂いであろう。“tether”には「限界・範囲」の意があり、平井呈一氏は恒文社版「美の中の悲哀」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では、ここの前後を、『夜はまた、この世の限界の謎をおもいださせ、――この微小な球形の穢土にわれわれを縛りつけている、目に見えない力を思いださせる。』と訳しておられる。しかし、「限界」では半可通と思われ、そもそもそれでは「our」が妙だ。岡田氏の訳の方がしっくりくる。但し、こんな「紲」なんて漢字は今時、誰も使わんだろうなあ。

 岡田氏が引用しているのは「文語訳舊約聖書」(「大英国聖書会社」・「米国聖書会社」・「北英国聖書会社」の各日本支社の共同事業。明治二二(一八八七)年完成)のそれ。私が偏愛する「ヨブ記」の殆んど終わりの部分(「ヨブ記」は全四十二章)である。こちらで正字正仮名の全篇が読める。整序して読みを振っておく。

   *

なんぢ、昴宿(はうしゆく)の鏈索(くさり)を結びうるや。參宿(しんしゆく)の繋繩(つなぎ)を解(とき)うるや。

なんぢ十二宮(きう)をその時にしたがひて引出(ひきいだ)しうるや。また北斗(ほくと)とその子星(こぼし)を導き得るや。

   *

「ウィキソース」の日本聖書協会(一九五五年)「ヨブ記(口語訳)」の当該節を以下に示す。

   *

あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。

あなたは十二宮をその時にしたがって引き出すことができるか。北斗とその子星を導くことができるか。

   *

誠実であり続けたヨブの神への挑戦に対して、万能のヤハゥエがおぞましくも(私が特異的に「ヨブ記」を愛する理由はヨブが既にしてその神を超えている存在だと大真面目に感じているからである)挑戦して弁論を挑む(?)一節なのである!!!]

 

 然し完全なる日の美より、または自然の最も光榮ある樣式の感興により刺戟さる〻悲哀は別種の事實であつて、別種の說明を要する。其感情は遺傳せるに相違なけれど、――それは祖先以來の苦痛の何等の集積によるのか。曇らぬ空のやさしさ、夏の日の谷の柔らかき綠の眠[やぶちゃん注:「ねむり」。]、日の班點の影の囁く平和、それ等は何故に悲哀の感を催させるか。美的知覺に續く何れかの遺傳せる情緖が何故、喜悅よりは掌ろ幽鬱[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]なのであるか、……私は勿論海を見て、または海に似たる空間を見て、または巨大なる山脈の莊嚴によりて起こさる〻洪大、永續、また力量の感覺には言及せぬ。それは崇高の感情で、――いつも恐怖と關係あるものである。美的悲哀は寧ろ欲望と關係がある。

 

 『凡て美しきものは悲哀を來たらす』とは、多くの一般的提言の如く眞理に近き提言である、然し悲哀とその進化の歷史とは場合に應じて變ぜざるを得ぬ。美しき顏を見て起こる幽鬱は、風景を眺め、音樂を聞き、または詩を讀みて起こるそれと同じきを得ぬ。然し美的悲哀に共通なる或る一の感情要素、――卽ち自然美を見て感ずる幽鬱の謎を解くの助となる感情の一般的の種類が無ければならぬ。かかる共通要素は遺傳せる憧憬、――物を喪ひたりとの漠たる遺傳の感覺、それが相關の諸感情によりて種々に掩影[やぶちゃん注:「えんえい」。はっきりしないこと。形象上に示唆されること。]せられ、また賦性[やぶちゃん注:「ふせい」。生まれつきの性質。アプリオリなそれ。]せられたのであると、私は信ず。此遺傳の異れる諸形式は、異れる美の諸印象によりて覺まされるであらう。人間美の場合に、美的認識は、極めて古き苦痛の遺傳により調節されまた掩影さる〻ことがある、――この苦痛は憧憬の苦痛、無數の忘られたる愛人との別離の苦痛である。色彩、メロデイ、日光または月明の効果の場合には、美感に訴ふる感覺印象は、同樣に種々の祖先以來の苦痛の記憶に訴ふることがあらう。美しき風景を見て感ずる幽欝はたしかに憧憬の幽欝である、――卽ち我々の死者の幾百萬の經驗によりて或るが故に、漠然たると共に容積の大なる悲哀である。

 サリイ曰く、『自然に對する美感の純粹なるものは近代に發達したるものにて――自然の荒涼たる寂漠に對する感情は殆どルソオより古くはあらず』と。蓋し多くの人々は西洋の諸人種に關してこの言は寧ろ强きに過ぐと思ふであらう。――それは極東の諸人種にとりては眞で無い、彼等の藝術と詩とが反對に古き證據を示して居る。然し自然美の愛が文明を通じて發達したること、及び現にその中に含まる〻多くの抽象的感情は頗る近代に起これるものなることを否む進化論者はあるまい。故に美はしき風景を見て我々が覺ゆる悲哀の多くは比較的近代に生長したるものである、但しそれはその情緖に伴なふ美的快樂の高等なる性質の或るものより新しくは無い。私は思ふにそれは主として園壁ある都市の建設と共に人間が自然と離別の苦を忍び之を遺傳したるものであらう。或はそれと共に比較し難き程古き悲哀の或るもの、――例へば夏の過ぎ去るを悲む極めて古き哀感の如きが混

 

譯者註 英國心理学者 James Sully(1842―1923)。ルソオは J.J.Rousseau.

[やぶちゃん注:訳注最後に句点がないのはママ。ジェームス・サリーは児童画の研究で知られる。引用元は捜し得なかった。]

 

じて居るであらう、然しこれと其他流浪の時代より傳へたる感情は、我々が尙ほ我々の魂と呼ぶところのものが秋の大なる漠然たる幽欝を感ずるとき特に甦るのであらう。

 

 智慧を增す世界はまたその悲哀を增すと正に同じく、天高く築ける都市に住む我等は人類の幼稚時代の喜悅、――森、峯、原の昔の自由、山の水の輝[やぶちゃん注:「かがやき」。]、海の息の冷かなる鋭さ、及びその永遠の叙事詩の雷の如き轟、などの喪失を悔ゆ。而して凡てこの忘られて歸らぬ自然に對する文明の悔恨は、風景の美が我々に感ぜしむる大なる柔らかき漠たる、哀のうちに何としてか甦ることがある。

 光景の愛らしさが眼に淚をさそふといへば、一の意味にてはそれは慥に誤である。それは光景の愛らしさではあり得ぬ、――それは我々の心に湧き起こる過去幾代の憧憬である。我々の語る其美は眞の存在を有せず、死者の情緖のみがそれを在るが如く思はせる、――卽ち何れの美感よりも頗る單純でまた古き理由の爲めに自然を愛した男女の既に久しく埋もれる幾百萬人の情緖がさう思はせる。生命の家の窓に彼等死者の幻影は群り來ること、恰も囚人が彼等の鐡窓の外なる輝く空、飛ぶ鳥、自由なる丘、閃く流を見んとして集まる如くである。彼等は舊時の彼等の望を見る、――世界の廣き光と空間、蒼穹の風に吹かる淸美、曠野の百態の綠、遙かに見る山頂の精靈の約束を見る。彼等は幸なる羽翼あるものの空を切る音、蟬や鳥の合唱、水の波打ち笑ふ聲、風そよぐ木葉の低調を聞く。彼等は季節の香を知る、――すべての樹液の鋭き甘き香、花と果との香も。彼等は生ける空氣の刺激を感ず、――大なる靑き精靈の身震ひも。

 されど凡てこれは彼等の再生の隔障と被幕とを通じ、望無き追放者には家鄕の夢として、――荒廢の老齡には幼時の幸福の夢として、盲者には記憶に殘る視覺の夢としてのみ、彼等に來る。

 

2019/11/19

小泉八雲 美は記憶 (岡田哲蔵訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“Beauty is Memory”。「美は記憶である」)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第二パート“RETROSPECTIVES”の第二話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「ヽ」は太字に、「○」は太字下線に代えた。一部の「?」の後に字空けを特異的に入れた。]

 

   美 は 記 憶

 

       

 あなたがはじめて彼女を見たとき、あなたの心は躍り、血管中に電氣が突然傳つた樣な刺戟を覺え、同時に一切の感覺は變化し、その後も久しく變つたま〻でしたらう。

 その突然の鼓動はあなたのうちにある死者の覺醒であつた、――そしてその身顫ひはその死者達の群集するので覺えたのであつた、――そして其感覺の變化は彼等の多數の願によつてのみ行はれたのであつた、――その理由の爲めにそれが一のなものとなつたと思はれた。彼等死者は、彼女にや〻似たる多くの若き人々を愛した事を覺えて居た。然し何處で、また何時といふ事はもう知らぬ。彼等――(この彼等は勿論あなたである)――はそのときより以來幾度か物忘れの川の水を飮んで居る。

 物忘れの川の異名は死の川である――但しそのことは古典辭書には典據が見えまいが。然しその川の水が疲れた魂に過去の事を忘れさすといふ希臘[やぶちゃん注:「ギリシヤ」。]の談は全く眞實であるとはいはれぬ。いかにも一掬[やぶちゃん注:「いちきく」。一掬(すく)い。]の水は記憶の或る形を麻痺し、又曇らす事もあらう――時日や名や其他細事の記憶を拭ひ消す事もあらう、――然し百萬掬の水を以てしても全く忘却させる事は出來ぬ。世界を破壞してもその樣な結果を生ぜぬ。不要のの外何物も全然忘却されぬ。要點は、最上限に於て、物忘れの川水を飮んで唯だ朧にされるのみである。

[やぶちゃん注:「その川の水が疲れた魂に過去の事を忘れさすといふ希臘の談」ギリシャ神話の冥界「ハデス」には複数の川があるが、その中の「レーテー」(英語:Lethe)がここで言うそれ。古代ギリシア語では「忘却」あるいは「隠匿」を意味し、古代ギリシア人の一部は、魂は転生の前にこの「レーテー」の川の水を飲まされるために前世の記憶をなくすのだと信じていたという。]

 或る一人が日よりも美はしく思はる〻のは、幾億萬の生命を通じて集められ、我が内に混じて或る一の漠たる優美な姿となれる幾億萬の記憶が存する爲めであつた。迷想が彼女はこの複合に偶然似て居ると思はせた――この複合、それは我が數へがたき過去の生の愛に關りしすべての死せる女の記憶の影であつた。そして我々が了解し得なかつた時、――我々は愛するものが魔女であると思ひ、そしてその魔術が精靈の業であり得る事を夢にも想はなかつた時、――その時の我々の經驗のこの初の部分は、それは驚異の時代であつた。

 

       

 何に對する驚異? 美の力と神祕とに對して。(何となれば我々の内に於てのみなりと、又は一部は我々の内、一部は外に於てなりと、我々が見て、驚かされたのは美であつた)。然し愛されたるものは人間の女が實に愛らしくあり得るよりも、愛らしく見えた事を我々は覺えて居る、――さう見えたのは如何にして、また何故、それが興味ある問題である。

 

 我々は美を見るたをもつて生れる――それは全然では無いが幾分か、色を識別する力をもつて生れると似て居る。大槪の人間は美の或るものを辨ずる、または少くも美に近いものを辨ずる――但し能力の容積が異る人によつて異ることは、山の容積が沙粒のそれと異るより以上である。生れながらの盲人もあるが、通常の人は何かの美の理想を相續して居る。それは生き活きとしたのも、漠然としたのもあるが、何れの場合にも、それは種族が受けた無數の印象の集積、――卽ち出生以前の記念の無數の斷片が有機的記憶のうちに入り結晶して一の重複せる映像となれるものを代表する、そこにその有機的記憶はいまだ現像されぬ寫眞の乾板上の見えざる映像の如く、しばらく全然暗黑のうちに止まるのである。そしてそれは個人牽引の無數の人種記憶の複合であるが故に、此理想は必然に、卓越せる人の心に於ては、現存する何物より以上の或るもの――決して人類の現狀に於て實現されず、況んや超越されぬ或るものを代表する。

 そしてこの人間の可能より美はしき、此複合と愛の幻覺との關係は如何。若し想像し難きものの想像を語ることを容さるべくば、私はここに敢て一の理論を立てて見たい。靑年成熟の時に方つて[やぶちゃん注:「あたつて」。]、遺傳せる理想の姿の或る輪郭と略ぼ似たる、或る客觀的の美しきものが認めらる〻時は、直に祖先以來の感情の波が久しく暗くされてあつた姿を濡ほし[やぶちゃん注:「うるほし」。]、之を明らかにし、之を輝かし、――そして感覺を迷はすのである。――何となれば生きた對象の感覺反射は一時的に主觀の幻影と混じ、――記憶の億兆より成る美はしき光明の精靈と混ずるのである。かくて戀人には平凡も忽ちにして不可能者となる、何となれば彼は實に超個人及び超人間のものが之に混ずるを見る故に。彼は何等の理解によりても、その幻覺を覺らせらる〻には[やぶちゃん注:「さまらせらるるには」。]、餘りに深くその超自然に迷はされて居る。彼の意志に勝つものは何等の生けるもの又は觸れ得べきものの魔術で無くて、火の如く迂曲し、逃げ𢌞はり、且つ明かるき魅力である、――それは考へられぬ程夥しき代々の死者によつて彼の爲めに備へられたる精靈的の罠である。

 

 謎の如何にしてに關して私が試みる理論はこれだけを限りとする。然し何故に就いては如何、――測られねぬ過去のうちより甦れる此精靈的の美によりて成れる情緖の理由は如何。美は一切の美的感情よりも古き超個人の歡喜と何の關係があるか。美の魅惑の進化的祕密は何であるか。

 一の答が與へられ得ると私は思ふ。然しそれは此眞理を十分に承諾せねばならぬ、曰く、美それ自らなるものは存せず

 我々の美學の諸系統の一切の謎と矛盾とは、美が絕對なる或るもの、先驗的實在、永遠の事實であるとする迷想の自然の結果である。我々が美と呼ぶ現象は一の事實の象徵であること、――それは平凡を超えた一の發展の目に見ゆる表現であること、――存在する平均のものより以上に進步せる具體的進化であること、それは確實である。これと似たる樣にて優雅(グレース)といふものも勢力の經濟の眞實なる表現である。然し進化的可能性には何の宇宙的限界もなき理[やぶちゃん注:「ことはり」。]なる故に、關係的にして且つ本來變遷的ならぬ優雅又は美の何等かの標準はあり得ぬ、また身體上の理想も――希臘の理想すらも――人間の進化または超人間進化の過程に於て實現の度を過ぎて俗化せざるべきものは無い。美の究竟は不可考、また不可能である、美學の如何なる辭も永久變遷の一階段てふ觀念、卽ち比較的進化に於ける一時的關係より以上を代表することは出來ぬ。美それ自らは客觀性と誤られたる唯だの感覺又は感覺の複合の名に過ぎぬ、――それは恰も音、光、色がかつて實在と思はれたるに同じである。

 然し心を牽くところのものは何か、――我々が美感と呼ぶ抑制しがたき感情の意味如何。

 光り、色、または、香を感覺すると同じく、美の認識は事實の認識である。然しその事實は呼び起こされたる感情に對して、一秒間に五百萬億囘のエーテルの振動の實在が橙黃色の感覺に對して有するより以上の類似を持たぬ。それでも何れの場合にも事實は力の表現である。高等の進化を代表する美と呼ばる〻現象はまた生命に對し比較的に優等なる適合、卽ち存在の諸條件を充たすべき高等の能力を示す、そしてそれは魅惑を生ずる此の表現の無意識的知覺である。起こされたる願望は何等の單なる抽象の爲めで無くして、自然の目的への手段としての能力のより大なる完成の爲である。各人のうちに存する死者にとりては、美は彼等の最も必要とするもの、卽ちの現在を意味す。物忘れの川あるに關らず、彼等は、彼等が風采良き身體に住みし時は、生命が槪して彼等にとりて安易且つ幸福なりし事、及び虛弱または醜惡なる身體に籠りし時は、彼等の生命は賤劣又は困難なりし事を知つて居る。彼等は幾度も健全なる若き身體にまた住まんことを願ふ、――卽ち勢力と健康と喜悅と、生命の爭鬪の最良の賞與を獲得する速さと、それを保持する勢力を保證する形態を希望する。彼等は爲し得れば、過去の何れよりも良き條件を要し、如何なることあるも、より晝惡るき條件を要せぬ。

[やぶちゃん注:「エーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次訳)」の私の注を参照されたい。]

 

       

 かくて記憶として見れば謎は解かれる、――それは生の目的の爲めの一切の身體的適合の測り難き記憶である。疑もなくこれまでかかる適應と連合したことのある、一切の消滅したる喜悅の、同じくり難き遺傳せる感覺により、光榮あるものと爲されたる複合である。

 この複合――これを無限とは云はれまいか。さう云うてよからう、但し之を作る死せる記憶の多數が語り難き爲めのみで無い。時間の無邊を通じてのかかる記憶の範圍の廣さまた深さもまた同じく語り難い……お〻戀人よ、汝の精靈中の精靈たる、美はしき魔女は如何に纎弱なることぞ。然もその精靈の深さはを橫斷する星雲帶の深さである、――埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]が昔時太陽及び諸神の母として見られ、世界の上に彼女の長き白き體を橫たへしときの輝きの影である。燐の煙霧の如く、または夜に於ける船の過ぎし跡の如く、唯だその如く我我は肉眼を以てそれを見得る。然れども望遠的視覺に貫かれて、それは宇宙の環の先方側として表現さる、――卽ち或る生體の細胞の如く集合して見ゆる、然しその恐るべく遠き爲めにのみ然か[やぶちゃん注:「しか」。]見ゆる、幾千萬の太陽の暗き帶として表現さる。時の夜の恐ろしさの中に、――幾世紀の無言の深奧により、年の幾千幾萬の距て[やぶちゃん注:「へだて」。]により、――若きものの爲めに美の光輝ある夢を作る此等の千萬の群る[やぶちゃん注:「むらがる」。]記憶は各自相離れて存し、ただ愛の望の爲めに唯一の暗き柔らかき甘き幻影として集合的の形を取る。

 

小泉八雲 初の諸印象 (岡田哲蔵訳) / 作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“First Impressions”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第二パート“RETROSPECTIVES”の第一話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(パート標題(添え辞有り)はここ本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 本「囘顧」パートは総てが岡田哲藏氏の訳である。岡田哲藏(明治二(一八六九)年~昭和二〇(一九四五)年)は英文学者。千葉県佐倉市生まれで、東京帝国大学文科大学哲学科選科卒。通訳官として明治三七(一九〇四)年の日露戦争に従軍し、その後、陸軍大学校教官や青山学院・早稲田大学講師などを務めた。英詩文をよくし、昭和一〇(一九三五)年に出版された最初の「万葉集」の英訳として有名な「Three Handred Manyo Poems」などの著書がある。

 標題の「初の」は「はじめの」であろう。傍点「○」は太字下線、「ヽ」は太字に代えた。]

 

 

   囘  顧

     『無限の海の囁きと香ひと』

           マシウ・アァノルドの「未來」より

 

[やぶちゃん注:「マシウ・アァノルド」マシュー・アーノルド(Matthew Arnold 一八二二年~一八八八年)はイギリスの耽美派詩人の代表にして文明批評家。本引用元(但し、引用元は原本には記されていない。岡田氏のサーヴィスである)である詩篇“The Future”は英文サイト「POETRY FOUNDATION」のこちらで全篇が読める。引用は同詩篇の最終行である。但し、最後の「無限の海」の二単語が、標題ページでは、以下のように大文字になって固有名詞化されている。小泉八雲の宇宙観からの確信犯であろうか。“Murmurs and scents of the Infinite Sea.”。なお、この詩篇は二年後に刊行される作品集「影」“SHADOWINGS”の最終第三パート「幻想」(“FANTASIES”)の巻頭の添え辞にも一部が引用されてある。私の『小泉八雲 夜光蟲 (岡田哲蔵訳) / これより作品集「影」の最終パート標題「幻想」に入る』を参照されたい。]

 

 

   初の諸印象

 

 

       

 重複寫眞(コムポジツト・フオトグラフ)の表號的意義が進化論の哲學者達に考へらるる事のかく少きは何故ぞと私は不思議に思ふ。それを作成する幾個の影の混化合體するは、無數の生の混合によりて人格の組織を結成するかの原生質化學(バイオプラズミツク・ケミストリ)を暗示するでは無いか。感光板の上に形影を重複するのは遺傳の限り無き重複から各個體の形を成すと似ては居らぬか。……たしかにこの重複寫眞は頗る不思議なもの、――更に不思議なる諸物の暗示。

[やぶちゃん注:「重複寫眞(コムポジツト・フオトグラフ)」“Composite Photograph”。人工的に造られた合成写真・モンタージュ写真のこと。

「原生質化學(バイオプラズミツク・ケミストリ)」“bioplasmic chemistry”。生物学上の形質に関わる生化学のことであろう。所謂、現在の遺伝的形質、現在の「遺伝子」によって受け継がれる形質の謂いと言い換えてよかろう。本作品集の刊行は明治三一(1898)年であるが、ウィキの「遺伝子」の「歴史」の項を参考に記しておく。何より、この時は未だ「遺伝子」という概念も言葉も生まれてはいなかったことを留意しなくてはならない。

   *

1865年 グレゴール・ヨハン・メンデルが豌豆の交雑実験の結果を発表(所謂、後の「メンデルの法則」に相当する研究)。

1869年 フリードリッヒ・ミーシェルが膿(うみ)の細胞抽出液からDNAを発見。

【本篇が書かれたのはこの間。】

1900年 メンデルの投稿した論文が、ユーゴー・ド・フリース(オランダ)、カール・エーリヒ・コレンス(ドイツ)、エーリヒ・フォン・チェルマク(オーストリア)によって再発見される。この再発見者の一人フリースは「パンゲン説」を推し、細胞内で形質を伝達する物質を「パンゲン」(Pangen)と仮定した。

1903年 ウォルター・S・サットンが遺伝子が染色体上にあることを提唱した(所謂、「染色体説」の始まり)。

1909年 ウィルヘルム・ヨハンセンはメンデルの指摘した因子をフリースの名づけた「パンゲン」 から「ジーン」(gene:遺伝子)と呼び変えることを提案。

1910年 トーマス・ハント・モーガンがショウジョウバエの交雑実験を開始。

1921年 DNAのテトラヌクレオチド・モデルを解説した論文が発表される。この当時は遺伝物質は多様性に富んだポリペプチド(タンパク質)であり、テトラヌクレオチドはその保護の役割を果たしていると考えられていた。

1922年 モーガンらのグループによってショウジョウバエの四つの染色体上に座している五十個の遺伝子の相対位置が決定されて発表される。

1934年 カスパーソンがDNAは生体高分子であることを示し、テトラヌクレオチド・モデルが誤りであることが証明される。

1935年 マックス・デルブリュックらは、遺伝子は物質的単位であることを提案した。

1944年 フレデリック・グリフィスの肺炎双球菌の形質転換実験(「グリフィスの実験」)を元にした、オズワルド・アベリーらの「DNAが遺伝物質であることの実験的証明」を収めた論文が掲載される(この論文はDNA=遺伝物質であることが確実な今、矛盾のないものだが、当時は評価を全く受けなかった)。

1950年 エルヴィン・シャルガフがペーパー・クロマトグラフィーを用いて塩基存在比に数学的関連があることを明らかにした。則ち、A(アデニン)とT(チミン)、G(グアニン)とC(シトシン)はそれぞれ数が等しいことを示したのである。

1952年 アルフレッド・ハーシーとマーサ・チェイスによる『ハーシーとチェイスの実験』結果が論文に掲載され、この論文によって、「ファージの遺伝物質がDNAである」ことが確実視されたとされる。同年、ロザリンド・フランクリンが、DNAが二重螺旋構造であることを証明するX線回折像写真を撮影する。

1953年 ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによってDNAB型二重螺旋構造のモデルが示され、DNAは生体内で『二重螺旋構造』をとっていることを示す論文が発表される。

   *]

 

 各人の顏は無數の顏の生ける重複である、――それは大宇宙發展の過程の爲め、[やぶちゃん注:太字下線。則ち、底本では傍点「○」である。老婆心乍ら、判読し難いかも知れぬと思い、注しておいた。]の感光フィルムの上に重ねられし幾代また幾代の顏を含む。而して如何なる生ける人の顏も、或は愛し或は憎みて、よくそれを見守ればこの事實を表現する。友人又は戀人の顏は異れる百の面相を有つ[やぶちゃん注:「もつ」。]、そして我々は彼又は彼女の『似姿』が寫されるとき、此等諸相のうち最もなつかしい相が反影してあらねばならぬと要請することを知る。我々の敵の顏は、――如何なる敵意をそれが刺戟するとしても、――それ自ら不變に憎らしいのでは無い、我我は少くとも我々自らにとりて、その顏が價なきにあらざりし表現をなせし瞬間を見たことあると承認せざるを得まい。

 思ふに祖先以來の諸〻の模型のうちで顏面表現の變調のうちに現はれんと試むるものは槪していつも比較的に近代のものである、――極めて古いのは重複の下に壓されて、漠然たる下層に變形し了はり、ほんの原形質的(プロトプラズミツク)[やぶちゃん注:“protoplasmic”。]背景に過ぎぬものとなり、それからは稀なる奇怪なる場合に於ての外は、輪郭が分離して出て來る事が無くなつたのである。然しすべて規範的の顏には種々の模型の諸時代が盡く[やぶちゃん注:「ことごとく」。]、氣分の變化に應じて、臨機の出現をするのである。母たる人は誰れでもこの事を知る。彼女は己が子の姿を日々注目し居りて單に生長によつて說明されぬ變化をそこに見る。時には親の一方に又は祖父母の一人に似ると見え、時には他の、また更に遠い親類に似て、また稀には家族の何人にも似てもつかぬ特徴を見ることがある。(かくして、今よりも暗かりし昔の代には、魔の取換兒(チエンジリング)[やぶちゃん注:“changeling”。後注参照。]といふ畏ろしい迷信もあり得たのみならず、或る意味ではそれが當然であつた)。靑年と大人の時を通じて遙か老年に至るまでも此等の變遷が繼續する、――但しいつも、もつと徐々として、且つ微かに[やぶちゃん注:「かすか」。]――その間、一般的特徵は確實に增して來る、而して死そのものが生の中に嘗て認められなかつた或る不思議な表情を容貌に現はすことがある。

[やぶちゃん注:「魔の取換兒(チエンジリング)」ウィキの「取り替え子」によれば、『取り替え子 (とりかえこ、英語:Changeling)とは、ヨーロッパの伝承で、人間の子どもが』、『ひそかに連れ去られたとき、その子のかわりに置き去りにされる』ところの、妖精(フェアリー)、エルフ(ゲルマン神話に起源を持つ北ヨーロッパの民間伝承に登場する妖精族。本来の神話では自然と豊かさを司る小神族で、しばしばとても美しく若々しい外見を持ち、森・泉・井戸や地下などに住むとされ、また、彼らは不死或いは長命で魔法の力を持っているとされる)、トロール(北欧、特にノルウェーの伝承に登場する妖精の一種)『などの子のことを指す。時には連れ去られた子どものことも指す。また』、『ストック(stock)あるいはフェッチ(fetch「そっくりさん」)と呼ばれる、魔法をかけられた木のかけらが残され、それは』、『たちまち弱って死んでしまうこともあったと言う。このようなことをする動機は、人間の子を召使いにしたい、人間の子を可愛がりたいという望み、また悪意であるとされた』。『取り替え子は、彼らのしなびた外観、旺盛な食欲、手のつけられないかんしゃく、歩行できないこと、不愉快な性格によって識別された』。『中世の年代記は、フェアリーについての民俗伝承の断片として知られる最古のものの一つを、この例として記載している』。『一部の伝承によると、取り替え子は人間の子供より知能がはるかに優れていたことから、見破ることは可能であった。ある時』、『取り替え子であることが見破られると、その子の両親が子供を連れ戻しにやってきた。グリム兄弟の民話の一つでは、我が子が取り替え子にすり替えられたのでは』、『と疑った女が、木の実の殻の中でビールを醸し始めた。取り替え子はうなった。『おいらは森の中のオークの木と同じくらいの年だけれど、木の実の殻の中でビールを醸すなんて見たことがない。』そういうと、彼はたちまち消え失せた』とある。『一部の人々は、トロールは洗礼前の幼い子供をさらうと信じていた。また、人間の中でも美しい子供と若い女性、特に金髪の持ち主は、フェアリーに好まれるとされた』。『スコットランドの民俗伝承では、子供は地獄へ十分の一税として献上される妖精の子の身代わりに取り替えられたという』。これは、『タム・リン』というバラッドによって『よく知られている』。『一部の民俗学者はフェアリーが多神教時代のヨーロッパの住人で、侵略を受けて地下へ隠れたと信じている。それによると、実際に取り替え子を引き起こした人々は、自分たちのひ弱な子供の代わりに、侵略者である人間の健康な子と取り替えたと』考えるのである。『スカンディナヴィア民俗伝承によると』。『妖精は鋼』(はがね)『を恐れるので、スカンディナヴィア諸国の親たちは』、『しばしば洗礼前の子供の揺りかごの上に』、『一対のハサミやナイフをそっとしのばせていた。もしそのような手だてにもかかわらず』、『子供がさらわれてしまった場合、両親が取り替え子を冷酷に扱うことで』、『子供を取り返すことが出来ると信じられており、そのために、鞭で打ったり』、『熱いオーブンの中に入れたりするような方法が取られた。少なくとも一つの例では、ある女がオーヴンの中で実子を焼死させてしまい裁判沙汰になっ』ている、とある。以下、リンク先には各地方の伝承や実際の不幸な事件が記されてあるので、参照されたいが、「現代の取り替え子」の項には、『多くの取り替え子の伝説の陰には、現実にはしばしば奇形児や知的障害児の誕生があった。多種多様な取り替え子の記述は、多くの病の症状、二分脊椎症、嚢胞性線維症、フェニルケトン尿症、プロジェリア症候群、ウィリアムズ症候群、ハーラー症候群、ハンター症候群、脳性麻痺と合致する。男児の出生欠陥の大半の傾向は、男の赤ん坊の方がより連れ去られそうに思われていたという迷信と関連づけられる』。『記載があるように、取り替え子伝承は正常に成長しない子供たちの特異性を説明するために、発展し、少なくとも用いられてきたと仮説されてきた。おそらく、成長の遅れや異常のある症状も多種に含まれていただろう。特に、自閉症児は取り替え子や、その不可思議さや時に説明しがたい振る舞いから、エルフの子というレッテルを貼られがちであった。これは自閉症文化で見受けられる。一部の高い知能を持つ自閉症の大人は、取り替え子と同一視されてきた(またはエイリアンのような交換者)。この理由からと、自分の世界の中で彼ら自身の感情が、周りの普通の生き物には自分たちは属せず、実質的に同じようになれないのだ、と感じるようになった』のだ、ともある。]

 

       

 槪ね我々が顏を認識するのは、何か確實な線[やぶちゃん注:“lines”。ここは輪郭のこと。]の記憶によるよりは、寧ろ居常[やぶちゃん注:「きよじやう(きょじょう)」。常日頃。普段。平生。]その帶ぶる表情の樣式により、それが通常示す性質の調子によるのである。然し如何なる顏も凡ての時、全然一樣では無い、而して例外の變化の場合には表情は認識の爲めに十分ならず、我我は或る定まれる特徵を求め、容貌から獨立せる或る細密なる表面上の特徴を捉へねばならぬ。一切の表情は唯だ關係的永久性を有するのみ、最も强き印ある顏に於てすら、其變化は測定を難からしむることがある。思ふに、移動性は、或る制限内に於て、容貌の不規則なることと直接に比例しありて、――理想の美への接近はまた關係的不動性への接近である。何れにしても、我々が何れかの普通の顏と親熟するに從ひ、我々がそれに見る變形の多樣なる事が益〻驚くべく、――其表情の定まりなき精微は益〻記述を難くし且つ人を迷はすに至る。そして此等は祖先以來の生命の滿干に外ならず、――魂の流れたる人格の測るべからざる泉に立てる底波に過ぎぬ。肉の流動組織の下には絕えず死者達が型に入り來りては動いて居る――それは單一にてでは無い(如何なる現象のうちにも何等の單一なるものは無い)、諸〻の潮流のうちに、また諸〻の波動によりてである。時には愛の精靈の渦卷くことあり、そして旭がそれを輝かせる如くに顏に夜が明ける。時には憎の精靈の波立ち擾ぐ[やぶちゃん注:「さはぐ」。]ことあり、そして顏は惡夢の如く暗くなり且つ歪む、――そして我々はその顏その裏にある心に對していふ、『汝は今汝のより良き自我で無い』と。然し我々が自我と呼ぶところのものは、それがより良きにもより惡るきにもせよ、その諸〻の連合の順序を永久に變化しつつある複雜性のものである。希望又は恐怖、喜悅又は苦痛の刺戟に應じて、各人のうちに、異れるリズムに於て、變化ある遷移をなしつつ、祖先以來の生命の數ふべからざる振動があらねばならぬ。最も靜穩なる制規の存在に於て、過去一切の心理の調子は眠つて居る、――原始的感覺衝動の鮮かなる赤色から精神的渴仰の紫に至るまで――恰も白光のうちに凡ての知られたる色の眠るが如くに。而して感受的なる生ける假面の上に、心的潮流の强き交代每に、死せる表情の影の如き復活が閃く。

[やぶちゃん注:「思ふに、移動性は、或る制限内に於て、容貌の不規則なることと直接に比例しありて、――理想の美への接近はまた關係的不動性への接近である。」ここは、何だか、日本語として、異様に意味が取りづらい。原文は、

Perhaps the mobility is, within certain limits, in direct ratio to irregularity of feature;—any approach to ideal beauty being also an approach to relative fixity. 

で、原文自体が何だか訳しにくい感じがするのであるが、因みに、平井呈一氏は恒文社版「第一印象」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では、

『おそらく、顔の移り気は、ある程度、目鼻立ちの不揃いなことに正比例するものらしい。理想的な美しさに近づくということは、釣合のとれた各固不動なものに近づくことなのだから。』

と訳しておられる。かなりこなれた訳である。しかし、それでも何か、ちょっと、喉につっかえるような箇所があるのだ。

 これ、英語の苦手な私が言うのもなんだが、「mobility」の訳の問題と、小泉八雲がやや差別的な内容であるのを遠慮してか、或いは、話が判り易くはなるにしても通俗に堕することを警戒してか、ひどく迂遠な言い方しているところに起因するものなのではなかろうか? この「mobility」というのは、

《顔の持っている、他者から見た際の認識の時間上の、或いは感覚・感性上の、或いは感情印象上の――流動性――流動的な変化・傾向を示す印象認識の感じ》のこと

を示唆しているのではあるまいか? 私はそのような意味で採って初めて腑に落ちるのである。平井氏の訳を一部参考にして判り易く解説し直すと、ここは、

《我々は時に、ある人の顔を――経年的変化ではなくして――ちょっと前よりも――いや、ついさっきよりも――ひどく変わって別人のように見えて感じたり、或いは、『異様なまでに顔の感じが変化する人だなあ』と、内心、呆れながら感ずることがよくあるものだが、そうした現象は――ある程度まで――失礼ながら――その対象たる人物の――〈目鼻立ちがあまり良くない〉点――と正比例する現象であるように感じられるのである。「圧倒的多数の人にとっての理想的な美しさへのアプローチ」とは、取りも直さず、「最大多数が支持するところの親和性に富んだ固定的でゆるぎないものへのアプローチ」であるからである。》

というような意味なのではあるまいか? 大方の御叱正を俟つものである。ただ、この岡田氏の訳語を見つめていると、小泉八雲が「日本人には難語崇拝癖がある」(但し、これは小泉八雲が、英語を学ぶ日本人が、知られた既習の平易な単語の熟語で組み合わせて幾らも表現出来ることを、滅多にネイティヴが使わない小難しい英単語を覚えて使うことを好む、そうした難解な語を多く覚えていることが英語力だと勘違いしていることを戒めた言葉であったと思う)と警鐘を鳴らしたのを図らずも思い出してしまうのである。

 序でに、正直、はっきり言ってしまうと、本パートを縦覧するに、岡田氏には異様なまでに「造語か」と思わせるような難解な漢字熟語表現を殊更に好んで使用される傾向がある。言い換えると――【ぐだぐだ言葉を添えて判り易く訳すことを英文和訳としては拒否されており、そうすることを恐らくは軽蔑されておられ、漢語熟語こそ品位を保つ絶対性を持っていると考えておられる】――ように感ずるのである。さらに言えば――【日本語の助詞の用法や助動詞の接続法やそれに接続する動詞の活用形に適切でない用法や誤りが認められ、修辞法にも甚だ佶屈聱牙な部分が多い】――のである。いや、歯に物着せずに言うなら――【一部は明らかに「甚だ読み難い」し、なによりも「凡そ音読には耐え得ない訳」「聴いて判る訳」では決してない】――と私は思う。ズバり言うなら、失礼乍ら、その一部は――【「一部は学術論文のように訳されてあり、決して文学として訳されていない嫌いがある」】――と言ってよい、と私は強く感じていることをここに表明しておくものである。

「汝は今汝のより良き自我で無い」原文は“You are not now your better self.”で、傍点は岡田氏によるものである。因みに、平井氏は『「おまえもこの頃芽が出ないな」』と訳しておられる。平井氏のそれは一見、判りは良いのだが、逆に過剰に口語的・直接話法的で、心内印象の倫理的道徳的な批評を含んだ謂いとしてのそれが、殺がれてしまっている憾みがある。]

 諸〻の顏とその變化とを見て、我々は直覺的に、我々に對抗する諸我と我々の自我との關係を知る。極めて少數の場合に、如何にして此知識が來るか、――如何にして普通の談に於て『第一印象』と呼ぱる〻結論に達するかを、我々は說明せんと試みることさへある。顏はまれぬ。顏の與ふる印象は唯だぜらる〻のみ、そして音の印象と等しく漠然たる性質の多くを有し、――我々の内に快き又は不快なる、又は兩者の幾分宛[やぶちゃん注:「づつ」。]を與ふる精神狀態を作り、――忽ち危險の感覺を呼び起こすかと思へば、また溶くる如き同情を生じ、折折はやさしき悲哀を招く。そしてかかる印象は、誤りに陷ることは稀なれど、よく言語を以て說明されぬ。それが正確なる理由は同時にそれが神祕の理由であり、――それは我々個人の經驗の狹隘[やぶちゃん注:「きやうあい」。]なる範圍に求めがたき理由、――我々よりもずつとずつと古き理由である。我々が我々の前生を記憶し得れば、我々の好みと惡み[やぶちゃん注:「にくみ」。]の意味をもつと正確に知る筈である。何となればかかる好惡は超個人的のものであるから。一の顏に認めらる〻あらゆるものを認むるのは個人の眼では無い。死者こを眞の見者である。然るに死者等は心の快苦の絃に觸る〻以外に我々を指導し得ざる故に、諸〻の顏の關係的意味を力あれども漠たる方法に於てのみ感じ得るのである。

 少くとも直覺的に、超個人性は普通に認識せらる〻。故に『性格の力』、『道德力』、『個人的魅力』、『個人的磁氣』などの成句があり、其他個人が個人に及ぼす影響は單なる身體的條件から獨立せるものと知らる〻ことを示す句がある。極めて云ふに足らぬ體が、恐るべき體を制し導く力を内に蓄ふることがある。血肉の人間は無限の過去より現在の瞬間に達する力の見えざる柱の見ゆる端末たるに過ぎぬ、――卽ち非物質的なる大群の物質的象徴たるのみである。二つの意志の爭鬪すらも幻影たる兩軍の爭鬪である。唯だ一人の意志によりて多くの人格の征服せらる〻ことは、――强制者の背後にある優等なる見えざる力を被强制者が認むることを暗示するのであつて――それは魂を平等と見る舊說を以てしては決して解すべくも無い。科學的心理學によりてのみ或る恐るべき性格の神祕を一部なりと說明し得る。然し何らかの說明は、或る形式又は他の形式に於て、心理的遺傳の莫大なる進化的事實を承認する上に存す。而して心理的遺傳は超個人的を意味す、――卽ち前生の存在が重複せる人格に甦るの意である。

 然るに、我々の倫理的見地より見れば、その超個人性なるものは我々がその用ゆる言語に於て、無意識的に心理的征服を現はすと思ひ居れど、實はそれは低級なる表現である。善の爲めに働くことも屢〻あれど、力それ自らは惡のものである。而して被征服者がそれを承認するのは高等の道德力を承認するのでなくて、惡のより大なる進化的經驗、侵略的巧妙のより深き蓄積、苦痛を與ふる爲めのより重き能力を意味する、高等なる力を承認するのである。如何なる美名を以て之を呼ぶとも、かかる力はその起原は動物的であつて、人間と、より下等の食肉の動物とに、共通なる惡意と獰猛とに猶ほ連絡あるものである。然し起個人の美は、死者が信用を得ん爲めに、理想を鼓吹せん爲めに、愛を創造せん爲めに、光と音樂の言語に於ての外は決して記述されぬ人格の愛嬌と驚異を以て存在の全圓を輝かす爲めに、生者に貸與するその稀なる力のうちに表現さる〻。

 

       

 若し重複寫眞を分解し順序を飜して[やぶちゃん注:「かへして」。]そのうちに混合しありし凡ての印象を分離することを得れば、かかる過程は、見知らぬ顏の姿が生者の網膜から遺傳せる記憶の神祕なる局處へ――警察寫眞(ポリス・フオトグラフ)[やぶちゃん注:“police-photograph”。この場合、現行の警察が作成する狭義の犯人の顔をパーツで合成した「モンタージュ写真」をつい想起しがちだが、そもそも本書が刊行された明治三一(一八九一)年に狭義の「モンタージュ写真」はなかったと私は思う。ではこれは何かと言えば、逮捕された犯人或いは被疑者が警察署で強制撮影(前面と横顔)される例の、如何にも根っからの悪党(小泉八雲風に謂うならば「前生からの悪党」)だと言わんばかりの冷たい無表情な顔で写されるところの、通常、「マグショット」(mug shotmugshot)のことであろう。ウィキの「マグショット」によれば、『犯罪者の写真の撮影は写真の発明から数年後の』一八四〇『年代に始まったが、一八八八『年になってからフランスの警察官アルフォンス・ベルティヨンによってこの手順が標準化された』とあり、しかもそこの最初の注に、『非公式には police photograph booking photograph とも呼ばれるよう』であるとあるのである。その意味でこそ、ここの話はちゃんと通るのである]の如く――遠方より寫し還さる〻時に起こることを、粗笨[やぶちゃん注:「そほん」。「麁笨」とも書く。大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。「粗雑」に同じい。]ながら代表し得よう。そこに電光の閃く如く速かに、影の顏はそのうちに結合されたる一切の祖先的模型に分解され、その結果たる死者の判決は、ただ明言しがたき感覺によりて爲さるとも、なほいかなる性格の筆記證文が信ずべきよりも一層信ずべきものである。然しその信賴性は、見る個人の見らる〻個人に對する可能性關係に限らる。人格の纎細なる平均に應じ、觀察者の心理的作成に於ける遺傳せる經驗の質的の量に應じ――異れる人心の上に同一の姿は差別の大なる印象を殘すであらう。一人には强く反撥的なる顏も、他の人には同じ位に强く愛着的なることあり、感情的に同類の性質の人々の群に於てのみ、略ぼ[やぶちゃん注:「ほぼ」。]同じき印象を生ずるのであらう、此の能力が顏の成分のうちに、或は歡迎し、或は警戒する明言し難き或る物を認むるの事實はたしかに、倫理的觀相學の或る法則を決するの可能なることを暗示する、然しかかる法則は必然に極めて一般的にして單純なるものたるべく、その關係的價値は敎育されざる個人の直覺と決して同じきを得ざるものである。

 實に、如何にしてかくあらぬことを得よう。何の科學がよく心理的結合の無限の可能性を測定することを企て得るものぞ。而して各人の容貌に於ける現在は過去の複合である、――生者はいつも死者の復活である。顏を見て起こす同情と恐怖、希望と反撥とはすべて再生と反覆である、――不可測の時を通じて働ける不可測の經驗によつて幾百萬の心のうちに創造せられたる感受性の反響である。現時の我が一友は、彼の祖先達と異ること、恰も一の流[やぶちゃん注:「ながれ」。]の單一なる漣波[やぶちゃん注:「さざなみ」。]がそれより先きに存せし一切の漣波と同じからぬと一樣であるが、それに關らず彼は魂の複合によつて、他鄕に在りて、他の生命のうちに、――記錄されし時間に、また忘られし時間に、――今尙ほ殘る都市に、また存在せざる都市に、――我が失せたる幾千の自我によつて、知られ且つ愛されたる巨萬のものと一である。

 

[やぶちゃん注:――「顔」と「写真」――である。言わずもがなであるが――小泉八雲は一八六六年(慶応二年相当)十六歳の時、イギリスの聖職教育を目的とした寄宿学校聖カスバート校(St. Cuthbert's College)に在学していたが(なお、この年に彼は同校の三年生への進級に失敗しており、翌年には大叔母ブレナンの破産により中退している)、「ジャイアント・ストライド」(giant stride:「回転塔」「回転ブランコ」のこと。英文サイト“Heroes, Heroines, and History”のここに写真がある)で遊んでいる最中、ロープの結び目が左眼に当たって予後悪く失明し(一説には友達の拳が当たったともされる)、以後、他者からは左目の光彩の色が右目とは異なって見えるようになってコンプレクスを抱くようになり、その後は終生、写真を撮る際には左を向くか(これはまさに「三」に出る「マグショット」に実は似ているではないか)、瞼を殆んど閉じるように下を見下ろしたポーズでしか撮らなかったことを思い出すのである。]

小泉八雲 月の願 (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“Of Moon-Desire”。「月が欲しいということ」)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第一パート“EXOTICS”の第六番目、最終話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 訳標題は本文から見て「つきのねがひ」のようである(ちょっと擬人的に誤認するが)。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。]

 

 

   月 の 願

 

       

 三歲になつた時――永遠のくりかへしの法則で定められた通り――月が欲しいと私に云つた。

 愚かにも私はさからつた、――

 『お月樣は餘り高いから上げられない。どうしても屆かない』

彼は答へた、――

 『長い長い竹竿なら屆くでせう、そしてそれでたたき落せばいゝ』

 私は云つた、――

 『そんな長い竹竿はありません』

 彼は思ひついた、――

 『屋根へ上つたら、竹竿が大槪屆くでせう』

 ――そこで私は月の性質と位置についてなるべく本當の話をしなければならなくなつて來た。

[やぶちゃん注:ここで私である小泉八雲との問答をしているのは長男の小泉一雄(明治二六(一八九三)年十一月十七日(熊本)~昭和四〇(一九六五)年:早稲田大学卒。拓殖大教務部や横浜グランドホテルに勤務。後に父小泉八雲の遺稿の整理・書簡集の編集などに携わった)である。この年齢(満年齢)通りならば、明治二十九年となる。本書は明治三一(一八九一)年十二月刊行でその時には五歳になっている。因みに次男の巌(明治三〇(一八九七)年二月十五日~昭和一二(一九三七)年:後に京都府立桃山中学校英語科教員)は生れて数ヶ月であった。]

 それが私を考へさせた。私はあかるさが一般の生類――昆蟲類と魚類と哺乳類――に及ぼす不思議な魅力について考へた、――そしてあかるさと食物、水、及び自由と關係した何か道德的の記憶によつて、それを說明しようと試みた。私は月を取つてくれとせがむ數へきれぬ代々の子供とその願を嘲笑する代々の親の事を考へた。それから私はつぎのやうな冥想に耽つた、――

 

 私共は子供の月の願を嘲笑する資格があらうか。これ程自然の願はあるまい、それからその不合理な點について云へば、大きな子供である私共は、全く同じ程度の無邪氣な願、たとへば月をおもちやにして遊びたいと云ふやうな迷を昔起したり、それからはもつと無邪氣でない迷を色々起したりしたその感覺生活、個性を死後も續けたいと云ふ願のやうな、――もし實現されたら私共の不幸になるばかりの願を大槪抱いて居るではないか。

 ただ經驗的推理から見て、子供の月の願が愚かに見えるかも知れないが、私は思ふに、最高の智慧は私共に月よりも遙かに多くを、――太陽と明けの明星と凡て天の星の群よりもさらにもつと多くを顧ふ事を命じて居る。 

 

       

 私は子供の時分に草の上に寢轉んで、夏の靑い空を見つめながら、その中に融けて行きたい、――空の一部分になりたいと思つた事を覺えて居る。そんな空想に對しては、私の信ずるところでは、私の宗敎の先生が無意識に責任がある、私が何か夢のやうな質問をしたので、先生は先生の所謂『汎神論の愚と惡』を私に說明しようとした、――その結果私は未だ十六の未熟な年に直ちに汎神論者になつた。そして私の想像はやがて私に遊び場所として空をほしがらせたばかりでなく、空になりたいと願はせるやうにした。

 今私は考へるに、その當時私は大きな眞理に全く近づいて、――實はその存在を少しも知らないてそれに觸れてゐたのであつた。卽ちなりたいと云ふ願はその願の大きさに正比例して合理的である、――云ひ換へれば、願が大きければ大きい程願ふ人が賢いのである、しかるに所有したいと云ふ願はその大きさの割合に愚である事が多いと云ふ眞理を私は意味する。宇宙の法則は、私共の所有したいと思ふ無數の物のうち極めて少數をしか私共に與へないが、私共が或はなれるかも知れない物になる助けはしてくれる。有限で、又それ程弱いのは所有の願であるが、その力に於て無限なのはなりたい願である、そして人間のなりたい願の方は結局滿足を見出すに相違ない。ありたい願から、單元が象になり鷲になり或は人間になつた。恐らくただ第十等の黃色の太陽に照されるこの小さな地球では、神になるだけの時間をもたない、しかしその願がもつと巨大な太陽に照される系統へ投入して、彼に神の形と力を與へる事にならないとも限らないてはないか。その願が形體の限度以外に彼をひろげて全能と一になるとも云へるではないか。そして全能は、賴まないで、月よーももつと輝いたそしてもつと大きなおもちやをもつ事ができる。

[やぶちゃん注:「第十等の黃色の太陽」これは実際の科学的な謂いではない。現在、最新の科学技術による測定では太陽より明るい恒星はない(観測出来ない)ことになっているようである(ごく最近その存在可能性があることを論じた記事を見たことはある)。小泉八雲の言っているそれは、或いはここで彼が述べているところの宇宙的天文学的な意味での時空間(ビック・バンから収縮して点に戻るまでのそれ。しかも小泉八雲はそこに小泉八雲と言う個体を構成していたものが小泉八雲の死後も塵のような原子体となって永遠にあるのだと考えているのである)の中にあっては、寧ろ当然、太陽より数等或いは数百倍明るい星は存在するという、科学的な確率上確度の極めて高い推理事実を踏まえて、漠然と「そうした全史的時空間としての宇宙にあっては、あんな黄色いしょぼくれた太陽などというのは、その輝き(明度)は最上級のそれから十位ぐらい下なもんだろう」と踏んだものであろう。後文にそうした小泉八雲の死生・宇宙観が語られる中にも『我が生死の大海に於て數十億の太陽の燃燒』という表現も出てくるから。]

 私共が所有したいでなく、ありたいと願ふとすれば、――多分一切の事はただ願の問題である。人生の悲哀の大槪は、たしかに誤つた種類の願のため、及び賤しむべくつまらない願のために存在するやうになる。全地球を所有して絕對君主となると云ふ願でも、或は憐むべく小さい賤しい願であらう。私共はそれより遙かに大きい願を抱くやうにしなければならない。私共は數十億の世界のある全宇宙、――そして宇宙或は無數の宇宙以上、――そして時間空間以上になる事を願はねばならないと云ふのが私の信仰である。

 

       

 こんな願の力は必ずや本體の精靈を會得する事によらねばならない。昔は人は石と金に、草と木に、雲と風に、――天の光、葉と水のささやき、山の反響、海の騷がしき言葉に、――凡て自然の形と運動と發言とに、心靈を與へた。それから段々賢くなつたと自慢して、同時に信仰が少くなつた、そして彼等は『無生物』だの『不活動物』だのと云ふ、――實はそれは存在しない、――そして物質勢力とを區別し、心意をその兩方と區別するやうになつた。私共は今日原始的想像の方が結局眞理らしい物に近かつた事を發見する。實際私共は今日私共の祖先が考へた通りに自然を考へない、しかし私共は遙かにもつと不思議な風に[やぶちゃん注:「ふうに」。]自然を考へるやうに餘議なくなつて居る、その後の私共の科學の啓示は原始的思想を少からず復興して、それに新しいそしていかめしい美を注入して居る。そしてその間に、――いつでも私共の生長と共に生長し、私共の力と共に强くなり、私共の高尙な感受性の進化とともに段々發展して行く――私共の存在の最も深い源から生ずる野蠻な自然に對する古い野蠻な同情は、最後に無窮まで開展し反應して行く宇宙的情緖の形に高まつて行く運命をもつて居るやうである。

 

 讀者はそれ等のいつからとも分らない古い感情について考へた事はないだらうか。……どこか大きな火事を眺めて居る時、その火の勝利と壯觀とを見て何等良心の呵責を感じないで歡喜して居る事に氣がついた事はないだらうか、――その非常に輕い接觸の、粉碎する分裂する鐡を扭(ねぢ)る花崗岩を割る力を、無意識に羨んだ事はないだらうか、その大幻燈の怒つた恐ろしい光彩、――その龍の如き貪食と咆吼、――その弓狀の畸形、――その尖端の物すごい冲天と動搖を喜んだ事はないだらうか。讀者は山の風が讀者の耳に鳴つた時、幽靈のやうにその風に乘つて、――それと一緖に方々の峯を吹𢌞つて、――それと一緖に世界の面を掃いて見る事を願つた事はないか。或は大波の高く上り、押し寄せる、つぶやく突進と雷の如き破裂を熟視して、その巨大な運動と似たやうな衝動、――その烈しい白い跳躍と共に眺び、その强大なる叫號に加はらうと云ふ願を抱いた事はないか。……凡てこんな自然のありふれた力に對するこんな昔からの情緖的同情――これが現代の美學的發達と共に、非常に微妙な力に對する珍らしい同情、及び私共の知る力によつてのみ限られる願の將來の發達を豫想して居るのではないか。星から星へと戰慄するヱーテルを知れ、――その感受性を會得せよ、――さうすれば精氣のやうな同情が進化して來るであらう。數多の太陽を𢌞轉させる力を知れ、――さうすればその太陽と一緖になる道はすでに達せられたのである。

[やぶちゃん注:「ヱーテル」古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、実に永く想定され続けた、全世界・全宇宙を満たす一種の不可視の元素或いは物質の仮称。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地・水・火・風に加えて「エーテル」(「輝く空気の上層」を表わす言葉)を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では「全宇宙を満たす希薄な物質」とされ、ニュートン力学では「エーテル」に対して「静止する絶対空間」の存在が前提とされた。また、「光や電磁波の媒質」とも考えられた。しかし、十九世紀末に「マイケルソン=モーリーの実験」で、「エーテル」に対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経、遂に一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱するに至って、漸く「エーテル」の存在は否定された(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」に拠った)。但し、現在でも擬似科学や一部の新興宗教の中に「エーテルの亡霊」が巣食って蠢いている。]

 それからさらに、數世紀に渡る世界大の僧侶や詩人の思想の堅固な擴がりのうちに、――昔の子供らしい個體的生命の意義を併呑する或は變形する統一としての生命と云ふもつと後の意義に、――人間美の古い禮拜よりも優勢になつた世界美の新しい歡喜の調子に、――曙の紅くなる事、星の輝く事、――凡て色の震ひ、光の戰(をのの)きによつて起されるもつと大きな近代の喜びに、こんな進化の暗示がないだらうか。物其自身[やぶちゃん注:「もの、それじしん」。]、詳說、外見はただ人を魅するたのために硏究される事益々少くなつて、凡ての現象はただその象形文字に過ぎない無限のに於ける單なる一文字として硏究される事益々多くなるではないか。

 

 否、――私共が凡てある物、これまであつたと知られて居る物、――過去現在未來を一にして、――凡ての感じ、努め[やぶちゃん注:「つとめ」。名詞。努力。]、考へ、喜び、悲み、――そしてどこででも部分、――そしてどこででも全體――でありたいと願ふ時は必ず來るに相違ない。そして私共の前に、その願の增大と共に、永久に無限性は擴がる。

 そして私は――私でも――その願のお蔭で、凡ての形、凡ての力、凡ての狀態になるであらう、ヱーテル、――凡ての見える或は見えない運動、光、色、音、乾[やぶちゃん注:原文“torrefaction”。科学(化学)用語としては「焙焼(ばいしょう)」で「空気の存在下で硫化鉱等を高温に加熱する工程」を指すが、ここは「干からび乾燥すること」によって生ずる振動を謂いたいものか。ちょっと小泉八雲がこの単語をここに用いた本意は私には判らない。平井呈一氏は恒文社版(「「仏の畑の落穂 他」(一九七五年刊)所収の「月がほしい」)では『乾燥』と訳しておられる。]から名づけられた振動、――實體を貫く凡ての戰慄、――X光線の恐ろしい視力のやうに黑く描く凡ての搖動、――になるであらう。その願のお蔭で、私は凡ての轉成及び凡ての終止の、――形成の、解體のとなるであらう、――私の眠りの影をもつて、私のめざめと共に消散する生命を創造するであらう。そして眞夜中の海の潮流に於ける燐火のやうに我が生死の大海に於て數十億の太陽の燃燒、數萬億の世界の旋轉が閃いて動いて通過するであらう。……

 

       

 ――『さうだね』私がこの空想を讀むのを聞いた友人は云つた、『君の想像には佛敎思想がある――尤も君はわざと說の肝要な點をいくつか避けたやうです。たとへば君は涅槃は願つては達せられないが、願はないで達せられる事を知つて居る筈です。君の云ふ『なりたい願』は提灯のやうに、暗い方のだけと照らす事ができよう。月が欲しいと云ふ事については――君は猿が水に映つて居る月をつかまうとして居る色々の古い日本の繪を見た筈です。これは佛敎の比喩です、水は感覺と觀念のまぼろしの流れで、歪んだ影でない本當の月は唯一の眞如です。そこで君の西洋の哲學者は人間は一段高い種類の猿だと云ふのは實は佛敎の比喩を敎へて居るのです。卽ちこの煩惱の世界では、人間はやはり水に映ずる月の影を捉へようとして居る猿に過ぎないのです』

 ――『なる程猿です』私は答へた、――『神々の猿、――しかし太陽をつかむ事のできる『ラマヤナ』の聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]猿ででもあるでせう』

 

譯者註 「ラマヤナ」は「マハラバーラタ」と共に印度の古い二大敍事詩。

[やぶちゃん注:以上の注は底本では四字下げポイント落ち。

「ラーマーヤナ」(サンスクリット語ラテン文字転写:Rāmāyana/英語:Ramayana)は古代インドの大長編叙事詩。ヒンドゥー教の聖典の一つであり、「マハーバーラタ」(サンスクリット語ラテン文字転写:Mahābhārata:古代インドの宗教的哲学的神話的叙事詩。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの一つで、グプタ朝(三二〇年~五五〇年)の頃に成立したと見なされている。「マハーバーラタ」は「バラタ族の物語」という意味であるが、もとは単に「バーラタ」であった。「マハー(偉大な)」がついたのは、神が四つのヴェーダとバーラタを秤にかけたところが秤はバーラタの方に傾いたためであるとする。これは世界三大叙事詩の一つともされる(他の二つは「イーリアス」と「オデュッセイア」))と並ぶインド二大叙事詩の一つ。ウィキの「ラーマーヤナ」によれば、サンスクリットで書かれ、全七巻。総行数は聖書にも並ぶ四万八千行に及ぶ。成立は紀元三世紀頃で、『詩人ヴァールミーキがヒンドゥー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされる』。『この叙事詩は、ラーマ王子が、誘拐された妻シーターを奪還すべく大軍を率いて、ラークシャサの王ラーヴァナに挑む姿を描いている。ラーマーヤナの意味は「ラーマ王行状記」』である。第一巻「バーラ・カーンダ」(「少年」の巻)――『子供のいないダシャラタ』『王は盛大な馬祀祭を催し、王子誕生を祈願した。おりしも世界はラークシャサ(仏教では羅刹とされる)の王ラーヴァナの脅威に苦しめられていたため、ヴィシュヌはラーヴァナ討伐のためダシャラタ王の王子として生まれることとなった。こうしてカウサリヤー妃からラーマ王子、カイケーイー妃からバラタ王子、スミトラー妃からラクシュマナとシャトルグナの』二『王子がそれぞれ生まれた。成長したラーマはリシ(聖賢)ヴィシュヴァーミトラのお供をしてミティラーのジャナカ王を訪問したが、ラーマはそこで王の娘シーターと出会い、結婚した』。第二巻「アヨーディヤ・カーンダ」(「アヨーディヤ」の巻)――『ダシャラタ王の妃カイケーイーにはマンタラーという侍女がいた。ラーマの即位を知ったマンタラーは妃にラーマ王子への猜疑心を起こさせ、ダシャラタ王にラーマをダンダカの森に追放し、バラタ王子の即位を願うように説得した(ダシャラタ王はカイケーイー妃にどんな願いでも』二『つまで叶えることを約束したことがあった)。ラーマはこの願いを快く受け入れ、シーター、ラクシュマナを伴って王宮を出た。しかしダシャラタ王は悲しみのあまり絶命してしまった』。第三巻「アラニヤ・カーンダ」(「森林」の巻)――『ダンダカの森にやってきたラーマは鳥王ジャターユと親交を結んだ。またラーマは森を徘徊していたラークシャサを追い払った。ところがシュールパナカー』(ラークシャサ(羅刹女)の一人の名)『はこれをうらみ、兄であるラークシャサ王ラーヴァナにシーターを奪うようにそそのかした。そこでラーヴァナは魔術師マーリーチャに美しい黄金色の鹿に化けさせ、シーターの周りで戯れさせた。シーターはこれを見て驚き、ラーマとラクシュマナに捕らえるようせがんだ。そしてラーヴァナは』二『人がシーターのそばを離れた隙にシーターをさらって逃げた。このとき』、『鳥王ジャターユが止めに入ったが、ラーヴァナに倒された』。第四巻「キシュキンダー・カーンダ」(「キシュキンダー」の巻)――『ラーマはリシュヤムーカ山を訪れて、ヴァナラ族のスグリーヴァと親交を結んだ。ラーマは王国を追われたスグリーヴァのために猿王ヴァーリンを倒した。スグリーヴァはラーマの恩に報いるため、各地の猿を召集し、全世界にシーターの捜索隊を派遣した。その中で、南に向かったアンガダ、ハヌマーンの』一『隊はサムパーティからシーターの居場所が南海中のランカー(島のこと。セイロン島とされる)であることを教わる』。第五巻「スンダラ・カーンダ」(「美」の巻)――『風神ヴァーユの子であるハヌマーンは、海岸から跳躍してランカーに渡り、シーターを発見する。ハヌマーンは自分がラーマの使者である証を見せ、やがてラーマが猿の軍勢を率いて救出にやってくるであろうと告げた。ハヌマーンはラークシャサらに発見され、インドラジット』(羅刹王ラーヴァナの子の名)『に捕らえられたが、自ら束縛を解き、ランカーの都市を炎上させて帰還した』。第六巻「ユッダ・カーンダ」(「戦争」の巻)――『ランカーではヴィビーシャナ』(羅刹王ラーヴァナと兄弟であるが心優しく正しい人物である)『がシーターを返還するよう主張したが』、『聞き入られなかったため、ラーマ軍に投降した。ここにラーマとラーヴァナとの間に大戦争が起きた。猿軍はインドラジットによって大きな被害を受けながらも』、『次第にラークシャサ軍を圧倒していき、インドラジットが倒された後、ラーヴァナもラーマによって討たれた。ラーマはヴィビーシャナをランカーの王とし、シーターとともにアヨーディヤに帰還した』(平井呈一氏は恒文社版の最後に本叙事詩に就いての長い注を附されており、ここの下りでは『ラーマは』ラーヴァナ『討伐を決心したが、海を越えることに困難を感じた。海の神がナラという猿に命じて橋を架けさせたので、全軍を進めることができ』、遂に彼らを退治した、とされておられる)。第七巻「ウッタラ・カーンダ」(「後」の巻)――『ラーマの即位後、人々の間ではラーヴァナに捕らわれていたシーターの貞潔についての疑いが噂された。それを知ったラーマは苦しんで、シーターを王宮より追放した。シーターは聖者ヴァールミーキのもとで暮すこととなり、そこでラーマの』二『子クシャとラヴァを生んだ。後にラーマは、シーターに対して、シーター自身の貞潔の証明を申し入れた。シーターは大地に向かって訴え、貞潔ならば大地が自分を受け入れるよう願った。すると大地が割れて女神グラニーが現れ、 シーターの貞潔を認め、シーターは大地の中に消えていった。ラーマは嘆き悲しんだが、その後、妃を迎えることなく世を去った』(猿が活躍する部分を私が太字で示した)。なお、ここで小泉八雲が「太陽をつかむ事のできる『ラマヤナ』の聖い猿」と呼んでいるのは、以上の前哨戦を含む対ラーヴァナ戦で八面六臂の活躍をする神猿ハヌマーン(Hanumān)のことを指している。以上と重複する箇所もあるが、ウィキの「ハヌマーン」を引いておく(総て太字で示した)。『風神ヴァーユが天女アンジャナーとの間にもうけた子とされる』。『ハヌマット(』『Hanumat)、ハヌマン、アンジャネーヤ(アンジャナーの息子)とも。名前は「顎骨を持つ者」の意。変幻自在の体はその大きさや姿を自在に変えられ、空も飛ぶ事ができる。大柄で顔は赤く、長い尻尾を持ち雷鳴のような咆哮を放つとされる。像などでは四つの猿の顔と一つの人間の顔を持つ五面十臂の姿で表されることもある』。『顎が変形した顔で描かれる事が多いが、一説には果物と間違えて太陽を持ってこようとして天へ上ったが、インドラのヴァジュラで顎を砕かれ、そのまま転落死した。ヴァーユは激怒して風を吹かせるのを止め、多くの人間・動物が死んだが、最終的に他の神々がヴァーユに許しを乞うた為、ヴァーユはハヌマーンに不死と決して打ち破られない強さ、叡智を与えることを要求した。神々はそれを拒むことができず、それによりハヌマーンが以前以上の力を持って復活した為にヴァーユも機嫌を良くし、再び世界に風を吹かせた』。『ヒンドゥー教の聖典ともなっている叙事詩『ラーマーヤナ』では、ハヌマーンは猿王スグリーヴァが兄ヴァーリンによって王都キシュキンダーを追われた際、スグリーヴァに付き従い、後にヴィシュヌ神の化身であるラーマ王子とラクシュマナに助けを請う。ラーマが約束通りにヴァーリンを倒してスグリーヴァの王位を回復した後、今度はラーマ王子の願いでその妃シータの捜索に参加する。そしてラークシャサ(仏教での羅刹)王ラーヴァナの居城、海を越えたランカー(島の意味。セイロン島とされる)にシータを見出し、ラーマに知らせる。それ以外にも単身あるいは猿族を率いて幾度もラーマを助けたとされており、その中でも最も優れた戦士、弁舌家とされている』。『今でも民間信仰の対象として人気が高く、インドの人里に広く見られるサルの一種、ハヌマンラングールはこのハヌマーン神の眷属とされてヒンドゥー教寺院において手厚く保護されている。中国に伝わり、『西遊記』の登場人物である斉天大聖孫悟空のモデルになったとの説もある』とある。]

2019/11/18

小泉八雲 蛙 (大谷定信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“Frogs”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第一パート“EXOTICS”の五番目に配された一篇である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 標題の添え句はポイント落ちであるが、同ポイントとし、字空けも無視した。傍点「ヽ」は太字に、傍点「○」は太字下線に代えた。本文中の箇条表記や引用は底本ではポイント落ち四字下げ、註は五字下げで更にポイント落ちであるが、総て行頭に引き上げて同ポイントとした。字間等も再現していない。それらのソリッドな一群の前後は一行空けた。

 なお、発句の作者は原本にはなく、執筆当時、小泉八雲の資料の提供を行った訳者で俳人でもあった大谷氏のサーヴィスで記されてあるものである。また、冒頭の添え句は本文に後で再度、出て大谷によって作者が示されるが、整序すると、

 手をついて歌申し上ぐるかはづかな

で、この句は室町-戦国時代の連歌師で俳人の山崎宗鑑(生没年未詳:山城の山崎にすんだことからこの名で呼ばれる。初めは宗祇らと連歌を詠み、後に滑稽・機知の句風へと向かい、俳諧撰集「犬筑波集」を編集、宗長・荒木田守武らと交わって俳諧創始者の一人とされる。宗鑑流の書でも知られる。出自・経歴には諸説あり、一説に天文八(一五三九)年又は翌年に七十七~八十六歳で没したともいう)の作とされるものである。ずっと後の、芭蕉の俳諧七部集の一つで山本荷兮(かけい)の編になる「阿羅野(あらの)」(元禄二(一六八九)年板行)の「巻之二」の「仲春」に、

 手をついて哥申あぐる蛙かな   山崎宗鑑

と引かれていることで宗鑑の有名な句として知られる。これは小泉八雲が後で本文で引く「古今和歌集」の「仮名序」を踏まえた句で、諧謔のそれはなかなかに面白い趣向で新しい着想であるとは言えよう。昭和四一(一九六六)年岩波文庫刊の中村俊定校注「芭蕉七部集」の脚注には幕末の「標柱七部集」(惺庵西馬述・元治元(一八六四)年板行)に『女院ノ御車ノ前ニテノ吟ナリ云ヘリ』とある。但し、それに続いて中村氏の注があり、「耳無草」という書には作者名を道寸(貞門俳人の夕陽庵弘永のこと)となっているという、ともあるので、宗鑑の句と断定は出来ぬものかも知れぬ。]

 

 

   

 

    手をついて歌申上るかはつかな――古句

 

        一

 旅行の感覺印象の、より單純なものの中で、音響ほど――野天の音響ほど――或る異國の記憶と關聯して密接に且つ鮮明に殘るものはない[やぶちゃん注:底本は「ものは鮮ない」であるが、衍字か誤植と断じて除去した。]。自然の聲が――森や川や野の聲が――帶(ゾーン)に從つて異つて居ることを知つて居るものは旅行者だけである。そして感情に訴へ記憶に徹して、此處は外國である、遠く離れた處であるといふ感じを我々に與へるものは、殆どいつも、その聲の調子或は性質の或る地方的特性である。日本ではこの感じを特に昆蟲の音樂が――その西洋の同族の音聲語(サウンド・ランゲジ)とは驚く許りに異つた音聲語を發する半翅類(ヘミプテラ)の音樂が――起こす。それとは程度は劣るが、日本の蛙の歌聲(うたごゑ)にきも――尤もその音(ね)は寧ろそれが遍在な爲めに記憶に印するものであるけれども――またこの異國的な語調(アクセント)を認めることが出來る。稻が國中到る處に――啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]山の斜面や丘の嶺にだけでは無く、都市の境域内にすら――耕作されるのであるから、到る處に水の溢れて居る雅趣があり、從つて到る處に蛙が居る。日本を旅行した者で稻田の喧しさを忘れる者は一人もあるまい。

[やぶちゃん注:「半翅類(ヘミプテラ)」“hemiptera”。節足動物門昆虫綱有翅亜綱 Pterygota新翅下綱準新翅上目半翅(カメムシ)目 Hemiptera に属する昆虫類を指すが、ここはその中の鳴くところの半翅目頸吻亜目セミ型下目セミ上科 Cicadoidea のセミ類を小泉八雲は指している。因みに半翅目にはセミの他に、代表種群たるカメムシに始まってタガメ・アメンボ・ウンカ・アブラムシ(アリマキ)などが含まれる。]

 晚秋と短い冬との間だけ靜まるばかりで、春が初めて目醒めると共に、沼地の音總てが――生きかへりつつある土壤そのものの言葉かと思ひ誤るほどの、湧き立つ無限の合唱が――眼醒める。そして彼(か)の普遍的な生の神祕がその偉大な發言に――忘れられた幾千年の間、忘れられた幾代(だい)の勞役者が耳にしたものではあるが、疑も無く人類よりも幾萬世(せい)古いその偉大な發言に――存する一種特有な憂愁にをののくやうに思はれる、

 さてこの幽寂の歌は、日本の詩人に取つて、幾世紀の間、氣に入りの題目となり來たつて居る。が、日本詩人には、それが一個の自然表現としでよりも、寧ろ愉快な一つの音(ね)として訴へ來たつて居る、ことを知つて西洋の讀者は驚かれるかも知れぬ。

 

 蛙の歌ひ聲に就いては無數の詩が書かれて居る。が、普通の蛙を詠んだものと合點して居れば、その大部分は不可解なものとなるであらう。稻田の全體の合唱が日本の詩歌に於て頌讃を享けて居る場合は、幾百萬の小さなガアガア聲の混淆が――降雨の人を眠らせる音(ね)に好くも例へられて居る、實際に愉快な感銘を與へる混淆が――惹き起こすあの偉大な音量にのみ詩人はその快感を言ひ表はして居るのである。が、詩人が一個の蛙の聲を好い音(ね)だと述べる時は、稻田の普通の蛙について語つて居るのでは無いのである。日本の蛙はその多くの種類はガアガア聲のものではあるけれども(木の蛙は言ふまでも無く)著しい例外が一つある。日本での眞の歌ふ蛙卽ちカジカである。これがガアガアいふと言ふのは、その音調に對して不正な言(げん)で、實はそれは鳴禽の囀りの如くにうるはしいのである。それは『カハヅ』と呼ばれて居た。が、この古名が後世に至つて俗間で、尋常普通な蛙の總稱たる『カヘル』と混同さる〻やうになつたので、今はただ『カジカ』とばかり呼ばれて居る。この河鹿は家内の愛物として飼養さる〻ので、東京では數多の蟲商人が賣つて居る。その下の處に砂と小石、新しい水と小さな植木、の入つて居る水鉢が置いてあつて、上の處は細い針金(はりがね)を紗張りにした枠細工になつて居る、或る特殊な籠に棲まはせるのである。時にはその水鉢がトコニハ即ち雛形の風景園のやうにしつらへてある。現今は河鹿を春夏の歌ひ手の一つと考へて居るが、前には秋の音曲家のうちに部類分けされて居たもので、その歌ふのを聽くといふだけの樂みに、世人は田舍へ秋の遠足をしたものである。そして丁度種々な場處が特別な種々な夜の蟋蟀[やぶちゃん注:「こほろぎ」。]の音樂に有名であつたやうに、ただ河鹿が多く棲して居る所として著名な場所があつた。次にしるすのは殊に世に知れ渡つて居つた。

[やぶちゃん注:「木の蛙」樹上性の雨蛙(脊索動物門脊椎動物亜門両生綱無尾目カエル亜目アマガエル科アマガエル亜科アマガエル属ニホンアマガエル Hyla japonica)を指していよう。YouTube のkiokuima氏のこちらで鳴き声が聴ける。

「カジカ」「河鹿」。「清流の歌姫」とも称される、とても綺麗な鳴き声で鳴く無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeriウィキの「カジカガエル」で聴ける。

「それは『カハヅ』と呼ばれて居た。が、この古名が後世に至つて俗間で、尋常普通な蛙の總稱たる『カヘル』と混同さる〻やうになつたので、今はただ『カジカ』とばかり呼ばれて居る」荒俣宏氏の「世界大博物図鑑3 両生。爬虫類」(一九九〇年平凡社刊)の「カエル」の項の「カエルとカワズの区別」の項に、水戸出身の国学者林国雄の博物学的考証書「河蝦(かわず)考」(文政九(一八二六)頃成立)での「カワズ」「カエル」「カジカ」の名称の区別についての論考を基にした解説が出るので、それを引用させて戴く(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。

   《引用開始》

 万葉の時代にカワズとよばれたものは、江戸時代のそれとはちがっていた。江戸時代には、春、田沼で鳴き騒ぐものをカワズと称しているが、《万葉集》では、山川にすみ、とりわけ夏から秋に鳴くものをカワズとよんでいた。この習慣は、平安時代にも受け継がれて、紀貫之が《古今集》の序に、〈花に鳴くうぐひす、水にすむかはづの声きけば〉と記したのも、春のウグイス、秋のカワズという対照をふまえていたものだった。春のウグイスと対になるほどのものだから、カワズの声というのは,ふつうには今にいうカジカガエルの声を指していたと思われる。カエルという語ももちろん古く、《本草和名》[やぶちゃん注:深野輔仁(ふかねのすけひと)著。延喜一八(九一八)年成立。本邦初の本草辞典。]にはすでに見えるが、こちらは春に鳴く田沼のものを指していた。つまり、春のカエル、秋のカワズ、とその区別ははっきりしていたのだが、いつのまにかその差が愛昧にな

り、どちらもカエル類の総称となったのである。カエル、カワズの2語に対して、カジカという言葉はひじょうに新しい。江戸初期の俳諧師が、カジカガエルの鳴き声を聴いて、河の鹿になぞらえ、命名したもののようである。しかし、その鳴き声を出す実体がよく知られていなかったので、ハゼ科の魚[やぶちゃん注:条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux。]の名称にもなった[やぶちゃん注:中略。]。なお《重修本草綱目啓蒙》によれば、カエルのうち,体が小さくやせていて、あしの細長いものをカワズとよぶという。

   《引用終了》

また、荒俣氏は「博物誌」最後で本邦のそれを掲げられており、非常に参考になるので、やはり同仕儀で引用させて戴く。

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]日本でもカエルのイメージはまず鳴き声から生じてくるかのようである。風流の象徴であるカジカがその典型である。カジカの正体については古くから論争があり、[やぶちゃん注:中略。「あるが、」に詠み換えられたい。]文献をさぐるかぎり、古代における〈カジカ〉はカエルを指していたことが特定できる。

 平安時代、カジカの名所とされた京都南方の井堤(井手)の場合がその事情を示している。《新古今和歌集》2巻春歌に〈あし曳の山吹の花散にけり井手のかはづは今やなくらむ〉と、藤原興風の歌が載るとおり、そこは当時カジカでなくカワズの名所だったのである。この井堤のカワズを考証したのが、鴨長明であった。彼の《無名抄》によると、井堤のカワズはほかのカエルとちがって躍り歩くことがなく、色が黒く、あまり大きくない。その鳴き声は〈いみじく心、すみ、ものあはれなる声〉だという。これは間違いなく、カジカガエルを指している。《無名抄》より半世紀ほど前に出た歌学書《袋草紙》にも、能因法師が錦(にしき)の小袋に入れた井堤のカワズを、数寄(すき)者の歌詠みなかまに贈る話が載っている。

 風流人としても知られた戦国大名の細川幽斎も、丹後在城のとき、井堤のカワズをとりよせて池に放ち。その声を楽しんだ。以来、丹後国にもこのカエルがすむようになったという。また。かずかずの動植物を領内に移植した徳川光圀は。井堤のカワズもとりよせるように命じた。役人たちが夏季に3たび運んだが、いずれも三河、遠江、駿河のあたりで死なせてしまった。光圀はこれを聞き、秋の末か冬の初めに土にもぐったカエルを捕り、土をかけたまま運ぶように指示した。そのとおりに運ぶと、1匹も殺さずに領内へ無事に運びこめたという。

 また《河蝦考》には、著者林国雄がカジカを求めて、玉川を下流の六合(むつあい)から二子を経て青梅までえんえんとさかのぼる場面がある。2月の初め、青梅の河原で、著者はついにカジカの声を聞くことができた。ヒウヒウと小鳥の雛の声のように、せせらぎの音に相混じって、ほのかに聞こえたという。林国雄は、カジカが鳴くのは秋だと信じきっていたので、春に聞けたのも奥地まで来たからだと感想を残している。その鳴き声の主はすぐに判別できなかったが、目をこらしていると、流れより突き出た石の上に黒い小さなカエルがいるのが見えた、としている。

 次に日本人の目にうつったカエルは、跳びはねるもの、というイメージだった。小野道風(おののとうふう)の伝説はその代表的なものである。奈良県吉野町の蔵王堂では、77日に〈蛙とび神事〉が行なわれる。その縁起は、白河天皇の延久年間(106974)のできごとによる。蔵王権現をののしった男が、行者たちによってこらしめのために法力でカエルに変身させられてしまった。以来、このカエルは吉野山の下の池から蔵王堂まで跳ねていき、毎日行者を送り迎えした。そして案内役の苦行を数年間続け改心の情を認められたので、ついに人間にもどることができた。その故事にちなみ、蛙とびの行事がはじまったといわれている。

   《引用終了》

これらの話を小泉八雲が聞いたら、さぞ喜んだであろうことが確かに想像される。]

 

玉川と大澤の池(山城の國の川と湖水)

三輪川、飛鳥川、布留の山田、吉野川(何れも大和の國)

昆陽(こや)の池(攝津)

浮沼(うきぬ)の池(石見)

いかほの沼(上野)

[やぶちゃん注:「玉川」現在の京都府綴喜郡井手町を流れる淀川水系の木津川の支流(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古来よりの霊魂の川である「六玉川」の一つで、桜の名所。その上流が「かわづ」(河鹿蛙)の名所でもあった。

「三輪川」奈良県桜井市を流れる。狭井さい)神社境内の鎮女池(しずめいけ)に発し、大和川に注ぐ小さな川である。この附近

「飛鳥川」奈良県中西部を流れる大和川水系の川。ここ。明日香川とも表記する。

「布留」奈良県天理市の地名。石上(いそのかみ)神宮がある。ここ

「昆陽(こや)の池」兵庫県伊丹市昆陽池(こやいけ)。現在は往時の一部が「昆陽池」(こやいけ)としてその周辺地域と合わせて「昆陽池公園」として整備されている。

「浮沼(うきぬ)の池」「万葉集」にそれと詠まれている池は、現在の島根県大田市の三瓶山(さんべやま)の西にある湖である浮布池(うきぬのいけ)に比定されているが、固有名ではなく、ただの「沼」の意ともされる。

「いかほの沼」榛名湖の古称。]

 

 さて、極東の詩にあんなに屢〻賞讃されて居るのは、この河鹿、卽ちカハヅの調子の好い啼き聲であつた。で、昆蟲の音樂と同樣に、現存して居る最古の日本歌集にそれが記載されて居る。延喜の五年(紀元九百〇五年)に、敕命に依つて編簒された『古今集』といふ有名な佳句類集の緖言に、その編輯長であつた紀貫之といふ詩人が、こんな興味深い意見を述べて居る。

 

『やまとうたは、人の心をたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしけきものなれば、こゝろに思ふ事を、見るもの、きくものにつけて、言ひ出せるなり。花に啼くうぐひす、水に棲むかはづの聲をきけば、いきとしいけるもの、いづれか歌をよまざりける』

註 セティア・カンタンス――日本のナイティンゲール。

[やぶちゃん注:「ことわざしけきものなれば」「さまざまな日常の出来事や、そこでの行為を成すこと、これ、はなはだ多いものであるからして」。以下、貫之の素晴らしさは鶯や蛙のそれを聴くにつけても、一切の衆生、生き物は孰れも歌を歌うのだと述べていることである。

「セティア・カンタンス――日本のナイティンゲール」“Cettia cantans,—the Japanese nightingale.”スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone である。「Cettia cantans」は亜種扱いの同種のシノニム「Cettia diphone cantans」である。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶯(うぐひす)(ウグイス)」を見られたいが、「ナイティンゲール」は日本では「小夜啼鳥(さよなきどり)」と呼び(本邦には棲息しない)、スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos で全くの別種である。]

 

 貫之の言うて居るカハヅは勿論近代のカジカと同じ動物である。普通の蛙が、かの驚くべき鳥のウグヒスと同時に歌ひ手として記載された譯(わけ)は無い。それに、普通な蛙では、どんな古典的詩人にも、

 

手をついて歌申上るかはつかな   宗鑑

 

のやうな面白い想像を鼓吹することは出來なかつたらう。

 この小さな詩の妙味は、長上に對つて物を言ふ折に極東人がする禮式の姿勢を――身體(からだ)を恭しく屈め、指を外側に向けて兩手を床(ゆか)の上へ置いて跪く姿勢を――能く知つて居る人には一番能く了解が出來る。

 

註 少くとも男子に對して古い禮式で定められて居る姿勢はさうである。が、規則は頗る複雜で、性に依つて異ると共に位階に依つても幾分か差異があつた。女子はこの姿勢を執る時、指は外側に向けずに内側に向ける。

 

 蛙に就いて歌を詠むといふ慣習が、どれほど古いか、之を決定することは殆ど不可能である。が、遠く八世紀の中頃に出來た『萬葉集』に、其の時代にさへ飛鳥川は久しく蛙の歌ひ聲に名高かつたことを思はせる歌がある。

 

今もかも飛鳥の川のゆふさらす

   蛙なく瀨のきよくあるらん

[やぶちゃん注:原文のローマ字表記がそうなっているのだが、これは現行では読みが異なる。「万葉集」の「巻第三」の上古麻呂(かみのこまろ)の一首(三五六番)、

   上古麻呂の歌一首

今日(けふ)もかも明日香(あすか)の川の夕さらず

   かはづ鳴く瀨の淸(さや)けかるらむ

或いは一本に、初句は、

明日香川今もかもとな

とする歌である(一本のそれは「或いは今ももしかして」の意)。]

 

 この佳句類集中にまた、蛙の歌ひ聲に珍らしくも言ひ及んで居る次のやうなのがある。

 

おもほえす來ませる君を佐保川の

   かはつきかせすかへしつるかも

[やぶちゃん注:表記がおかしい。但し、そもそもが小泉八雲自身がローマ字では初句を“Omoboyezu”とやらかしているのを考えれば、まだ救われる。「万葉集」の「巻第六」の按作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)の一首(一〇〇四番。後書は行頭へ引き上げた)、

   按作村主益人の歌一首

思(おぼ)ほえず來(き)ませる君を佐保川(さほがは)の

   河蝦(かはづ)聞かせず歸しつるかも

右は、内匠大屬(たくみのだいさくわん)按作村主益人、聊(いささ)か飮饌(いんせん)を設け、以ちて長官(かみ)佐爲王(さゐのおほきみ)を饗(あへ)す。未だ、日、斜(くた)つに及ばずして、王、既(はや)く還-歸(かへ)れり。時に益人、厭(あ)かずして歸ることを怜-惜(を)しみて、此の歌を作れり。

が正しい。後書の「厭(あ)かずして」「充分に楽しまれることなくして早々と」の謂いであろう。]

 

 それから今一つの古代編纂の『古今和歌六帖』に、同じ題目のこんな面白い歌が保存されて居る。

 

玉川の人をもよきす啼くかはつ

   このゆふきけは惜しくやはあらぬ

[やぶちゃん注:平安時代の天禄元(九七〇)年頃から永観二(九八四)年頃の間に成立したとされる私撰和歌集「古今和歌六帖」(撰者不詳であるが、紀貫之説・兼明(かねあきら)親王説・具平(ともひら)親王説・源順(したごう)説がある)を「日文研」の「和歌データベース」でしらべると、「第三 水」に、

たまかはの ひとをもよきす なくかはつ このゆふかけは をしくやはあらぬ

の形で載る。小泉八雲の示したものは、

玉川の人をも過(よ)ぎず啼くかはづ

   この夕聞けば惜しくやはあらぬ

であろう。「よぎず」は「避けずに」の意。しかし、「和歌データベース」に従うなら、

玉川の人をも過ぎず啼くかはづ

   この夕景(ゆふかげ)は惜しくやはあらぬ

(或いは「夕影」でもよい)となろうか。]

 

 

       

 だからして千百年以上の間も日本人は蛙の詩を作り來たつて居るやうに思はれる。そしてこの題目での歌で、『萬葉集』に保存されて居るものは、第八世紀よりもつと前にすら作られたものといふことは少くとも考へ得られることである。この題目は最古の古典時代からして今日に至るまで、いつもあらゆる階級の詩人に愛好されて居る。この關係に於て注目すべき事實は、ホツクといふ音格で作つた、かの有名な芭蕉の最初の詩は蛙に就いてであつたといふ事實である。この極端に短い詩形(五、七、五綴音の三行)の成功は、感情を描いた一個の完全な繪を創造するにあるので、芭蕉の原作

 

古池や蛙とびこむ水の音

[やぶちゃん注:蕉風開眼の「古池や蛙(かはづ)飛(とび)こむ水のをと」は山本荷兮編の俳諧七部集の一つ「春の日」所収の貞享三(一六八六)年の作(この句形での初出は遷化編「蛙合(かわずあわせ)」で同年閏三月板行)。但し、同年のそれ以前の西吟(さいぎん)編「庵桜(いおりざくら)」同年三月下旬奥書)に、

古池や蛙飛んだる水のをと

の初期形があることが判っている。しかし、この初期形は如何にも軽口の諧謔に過ぎず、音韻上の面白さを狙っただけの駄作である。伝説の生きを出ないが、各務支考の「葛の松原」によれば、宝井(榎本)其角は詠んだその場で上五を「山吹や」とすることを勧めたともされるが、常套風趣のテンコ盛りで、そうしていたら、本句は永遠に芭蕉の名句とは成り得なかったであろう。]

 

は――之を英語になほすのは、不可能では無くとも――困難であるが――その業(わざ)を完成して居るのである。その後この音格で書かれた蛙の詩はその數は實に莫大なものである。今日でもへ文學本業の人が蛙に就いての短い詩を作つて樂しんで居る。そのうち著しいのは、日本の文學社會に『露石』といふ雅號で知られて居る靑年詩人で、この人は大阪に往んでゐて、その庭の池に幾百といふ蛙を飼うて居る。間を置いて一定の日に、銘々、饗應中に、その池の住者について句を一つ作らねばならぬといふ條件で、その詩人友達を馳走に招く。斯くして得た句を蒐めたものが千八百九十七年の春、表紙を飾り本文を說明する面白い蛙の繪を添へて、私かに[やぶちゃん注:「ひそかに」。]出版された。

[やぶちゃん注:小泉八雲は実際にはローマ字で句を掲げた後の本文の冒頭に

(“Old pond — frogs jumping in — sound of water.”)

という訳を添えている。

「露石」水落露石(みずおちろせき 明治五(一八七二)年~大正八(一九一九)年)。ウィキの「水落露石」によれば、『大阪府出身の日本の俳人。本名は義一、のちに庄兵衛。別号に聴蛙亭』。『大阪府安土町(現在の大阪市中央区、いわゆる船場にあたる)の裕福な商家に生まれる。府立大阪商業学校(のちの大阪商科大学、現在の大阪市立大学)を経て、泊園書院で藤沢南岳に漢学を学ぶ。その頃から俳句を始め、日本派の正岡子規に師事。東京の子規庵句会、松山の松風会に継いで』三『番目となる日本派の拠点、京阪満月会を興』した。『京阪満月会は寒川鼠骨、中川四明ら京都や大阪の日本派俳人を中心に拠った。しかしわずか』一『年で露石は地元の大阪で京阪満月会とは別に大阪満月会を興し、それに大阪の俳人たち、松瀬青々、野田別天楼、青木月斗らも続いた。以降は大阪俳壇の重鎮として子規を助け』た。『与謝蕪村の研究家としても』知られ、『蒐集した膨大な蕪村の原稿を』「蕪村遺稿」(表紙は富岡鉄斎)として出版している。『豊富な資金力から、子規亡き後を引き継いだ高浜虚子』の雑誌『ホトトギス』発行に『金銭的援助をし続けた。また』、『新傾向俳句にも傾倒し、同じ子規門の河東碧梧桐が主宰した『海紅』の同人となった』とある。本書刊行時(明治三一(一八九八)年十二月)は満二十六歳であった。小泉八雲が言っている蛙の句集は明治三〇(一八九七)年刊行の「圭虫句集」(序文は正岡子規)である。]

 が不幸にも、蛙文學の範圍と特質に就いて、明亮な觀念を英語譯で與へることは不可能である。その理由は、蛙に關しての作品の大多數は、その文學的價値が主として不可飜譯的な處に――例へば、日本の外(そと)では理解不可能な地方的な引き事[やぶちゃん注:“allusions”示唆・比喩。]に、言葉のしやれに、それれから二重にも三重にも意味を有つた語の使用に存して居るからである。飜譯が出來るのは百句每に二三句も無いぐらゐである。だから自分が企て得ることは少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の一般的觀察に過ぎぬ。

 

 戀の詩がこの奇妙な文學の餘程の部分を占めて居ることは、戀人の會合の時刻がまた蛙の合奏の最中であること、少くとも日本ではこの昔の記憶が殆どどんな淋しい場所でもの祕密な會合の記憶と一緖に聯想されること、を想ひ起こせば、讀者は奇怪に感じはされぬであらう。そんな詩に詠んである蛙は通例カジカでは無い。蛙の方が無限の巧妙な手段を用ゐて戀歌の中へ取り入れてある。此種の近頃の通俗な作のうち自分は例證を二つ與へることが出來る。初のは、有名な諺ノナカ ノ カノ カハヅ タイカイ ヲ ジラズ[やぶちゃん注:最初の「」は漢字の「井」をカタカナの「ヰ」のように用いた(江戸時代のルビなどにはしばしば見られる表記)もので明らかにポイント落ちで右手に寄っているので、ポイントを変えておいた。](『井の中の蛙大海を知らず』)の暗示を含んで居る。世間の事を全く知らずに居る人のことを、井の中の蛙に喩へるから、次記の句を詠んだ者は、可憐な頓智を以てつれない言葉に應答して居る、情(こころ)のうるはしい田舍娘であると想つてもよからう。

 

井の蛙花も散るなり月もさす   ( ? )

[やぶちゃん注:試みに調べてみたところ、「禅林世語集(ぜんりんせごしゅう)」(巷間で使われている言葉で禅意を表わそうとするもので、和歌や俳句、時にはその時代の落首までもが含まれるという)の中に、頼山陽の都々逸として、

井戶の蛙と譏(そし)らばそしれ花も散り込む月もさす

というのを見つけた。]

 

 二番目のは嫉妬するのも無理からぬ或る女が詠んだものと想像される。

 

水濁る池も蛙の高音かな     ( ? )

[やぶちゃん注:小泉八雲はこの句(作者不詳)を以下の英訳で示している。

Dull as a stagnant pond you deemed the mind of your mistress;

But the stagnant pond can speak: you shall hear the cry of the frog!

平井呈一氏の恒文社版「カエル」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『あなたはわたしの心を、濁った池のように見ばえがしないとお考えですが、濁った池にだって、蛙の声がきかれましてよ』と美事にさらりと訳しておられる。]

 

 戀歌のほかに池や田の普通の蛙を詠んだのが幾百もある。或るものは主として蛙が出す音の量に關したものである。

 

田の蛙水が嗚くかと思ひけり   一笠庵

[やぶちゃん注:「一笠庵」不詳。以下、出典不詳・作者不詳のものには注は附さない。]

 

苗代の水增せば增す鳴く蛙    ( ? )

 

田から田へ聲の續くや鳴く蛙   ( ? )

 

更けるほど池の蛙の高音かな   ( ? )

 

夜は池の廣しと思ふ蛙かな    はる子

 

船さへも留める堀江の蛙かな   ( ? )

[やぶちゃん注:「堀江」大阪市内を流れる今の大川の一部に当たる昔の人工運河。江戸幕府が天和三(一六八三)年に淀川水系の河川改修を河村瑞賢に命じて作らせたもので、江戸時代の「難波(なにわ)の堀江」は、現在の上町台地北端から吹田市江坂辺りまで長く伸びていた砂州を切り開いて、当時の淀川水系・大和川水系を西流させたもので、現在の大川天満橋付近に当たる(以上はウィキの「堀江 (大阪市)」の「堀江新地の開発」の項に拠った)。]

 

 この最後の句の誇張は固より故意のもので、原作では感銘に乏しい句でも無いのである。世界の或る地方では――例へぱフロリダや南部ルイジアナの沼では――蛙の喧噪は荒海の怒濤に似て居る。で、それを聞いたことのある人なら、音を障害だとする想像を鑑賞することが出來る。

[やぶちゃん注:「南部ルイジアナ」ぱっと見の地図でも湿地や沼が多い。しかし、現状のそれは深刻で、ウィキの「ルイジアナ州」によれば、『州南部の海岸は、世界でも最大級の速度で消失を続けている地帯である』とあり、『その原因として、人間が管理を誤ったことが大きなものになっている。昔は毎年春にミシシッピ川の水が溢れて堆積物を増やし、湿地を増やしていたので、土地は成長していたが、その土地が現在は減少している。これに