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2019/11/28

小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」・「三」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“IN ŌSAKA”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第七話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 なお、この前に配すべき「人形の墓(田部隆次訳)」(原題も“NINGYŌ-NO-HAKA”)は既に電子化注済み(底本が異なるが、同訳者の本底本からの再録であり、有意な異同を認めない)である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郎訳)」の冒頭注を参照されたい。

 冒頭の和歌の添え辞は上に引き上げた。傍点「ヽ」は太字に代えた。注は四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「!」「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。全七章と長いので、分割して示す。]

 

      第七章  大阪にて

 

 たかきやに上りて見れは煙立つ

    民のかまとはにきはひにけり ――仁 德 天 皇

[やぶちゃん注:「新古今和歌集」の「巻第七 賀歌」の巻頭に配された、確かに「仁德天皇御歌」とする以下であるが(七〇七番)、

   みつきもの許されて國富めるを御覽じて

 たかき屋に登りて見れば煙(けぶり)たつ

    民の竈(かまど)はにぎはひにけり

「新古今和歌集」以前の「和漢朗詠集」の「勅史」には作者不明として見え、岩波新日本古典文学大系「新古今和歌集」(田中裕・赤瀬信吾校注。一九九二年刊)の脚注によれば、実際には誤伝で、もとは延喜六(九〇六)年に成された「日本紀竟宴和歌」の一つで、藤原時平が既に聖帝とされていた仁徳天皇を題にして詠じた、

 高殿に登りて見れば天の下よもに煙りて今ぞ富みぬる

が変形されて誤って伝えられたものであるとし、『平安末期には仁徳天皇御歌とされた(古来風身体抄・上ほか』とある(『ほか』とは「水鏡」か)。歌のシチュエーションは『仁徳天皇四年』(西暦機械換算三一六年)『春、天皇が高台(たかどの)に登り烟気(けぶり)が立たないのを見て、課役をとどめ、七年夏四月、烟気の多いのを見て、后に「朕、既に富めり」と述べた故事(日本書紀による)』とし、『四方拝荷通づるか』とある。「日本書紀」の原文は以下。

   *

四年春二月己未朔甲子。詔群臣曰。朕登高臺以遠望之。煙氣不起於域中。以爲百姓既貧。而家無炊者。朕聞。古聖王之世。人人誦詠德之音。家家有康哉之歌。今朕臨億兆。於茲三年。頌音不聆。炊煙轉踈。卽知。五穀不登。百姓窮乏也。封畿之内。尙有不給者。況乎畿外諸國耶。

三月己丑朔己酉。詔曰。自今以後。至于三年。悉除課役。以息百姓之苦。是日始之。[やぶちゃん注:中略。]

七年夏四月辛未朔。天皇居臺上、而遠望之。煙氣多起。是日、語皇后曰。朕既富矣。豈有愁乎。皇后對諮。何謂富焉。天皇曰。煙氣滿國。百姓自富歟。皇后且言。宮垣壤而不得脩。殿屋破之衣・被露。何謂富乎。天皇曰。其天之立君。是爲百姓。然則君以百姓爲本。是以古聖王者。一人飢寒、顧之責身。今百姓貧之。則朕貧也。百姓富之。則朕富也。未之有百姓富之君貧矣。

   *]

 

       

 約三百年前、束印度商會の任務を帶びて日本を訪問した船長ヂヨン・セーリス譯者註は、大阪の都會について書いた――

 

譯者註 ヂョン・セーリスは平戶に於ける英國商館の創立者。三隻より成る商船隊に船長として、リチヤード・コツクスと共に東洋に航し、千六百十三年六月十一日、平戶に着し、領主に歡迎され、更に安針アダムスの斡旋により、江戶及び駿府に赴き、家康より通商の許可を受けた。

[やぶちゃん注:ジョン・セーリス(John Saris 一五七九年或いは一五八〇年~一六四三年)はイギリス船として初めて日本に来航したイギリスの「東インド会社」(East India Company)の貿易船「クローブ号」(Clove)の指揮官。肥前国平戸に到着したのは慶長十八年五月四日(グレゴリオ暦一六一三年六月二十一日(但し、当時のイギリスはユリウス暦を用いており、それでは六月十一日となる。落合氏はユリウス暦に従っている。開幕から十年後で家康は慶長一〇(一六〇五)年四月に将軍職を辞し、秀忠に譲って大御所となって慶長一二(一六〇七)年には駿府城に移っていた)。イギリス商館は同年九月一日に家康によってイギリスとの通商許可が出された後に建設された。これが日英の国交の始まりとなった。

「三隻」セーリスは一六一一年四月十八日(ユリウス暦)にイギリス国王ジェームズⅠ世から将軍徳川家康に宛てた親書と献上品を載せ、イギリスを三隻で出航したが、他の二隻は別地で任務し、先に帰国している。

「リチヤード・コツクス」ステュアート朝イングランドの貿易商人で江戸初期に平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めたリチャード・コックス(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)。ウィキの「リチャード・コックス」によれば、『スタフォードシャー州・ストールブロックの人』で、『在任中に記した詳細な公務日記「イギリス商館長日記」』(Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks:一六一五年(慶長二十年・元和元年)~一六二二年(元和八年))は、『イギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級の史料である』。慶長一八(一六一三)年、『コックスは東インド会社によって日本に派遣され』、『江戸幕府の大御所・徳川家康の外交顧問であったイングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介によって家康に謁見して貿易の許可を得て、平戸に商館を建てて初代の商館長に就任した』。元和元(一六一五)年には、『平戸において、三浦按針が琉球から持ち帰ったサツマイモを九州以北で最初に栽培したといわれている』。一六一五年六月五日(元和元年五月九日)の『日記に、「豊臣秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず。皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。」と書いている』。元和二(一六一六)年には、『征夷大将軍・秀忠に朱印状更新を求めるため江戸に参府し』、翌年には英国王ジェームズⅠ世の『家康宛ての親書を献上するため』、『伏見で秀忠に謁見したが、返書は得られなかった。この頃から』、『オランダによるイギリス船隊への攻撃が激しくなり、その非法を訴えるため』、元和四~五年(一六一八年~一六一九年)の間に、二度目の『江戸参府を行』い、一六一九年にも『伏見滞在中の秀忠を訪問した』。元和六(一六二〇)年の「平山常陳(ひらやまじょうちん)事件」(平山常陳なる人物が船長をつとめる朱印船が二名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリス及びオランダの船隊によって拿捕された事件。江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金となった。ここはウィキの「平山常陳事件」に拠る)では、『その積荷と密航宣教師スーニガ及びフローレスの国際法上の扱いをめぐり』、『幕府に貢献した』。しかし、元和九(一六二三)年の「アンボン虐殺事件」(「アンボイナ事件」とも称する。オランダ領東インド(現在のインドネシア)モルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあったイングランド商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件。これによってイングランドの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。東南アジアから撤退したイングランドはインドへ矛先を向けることとなった。ここはウィキの「アンボイナ事件」に拠った)を『機にイギリス商館の閉鎖が決まったため』、『日本を出国、翌年帰国の船中で病死した』とある。

「安針アダムス」徳川家康に外交顧問として仕え、「三浦按針(あんじん)」(一般には彼の日本名のそれはは「安」ではなく「按」である)の日本名で知られる、イングランド人の元航海士であったウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六年四月二十四日(一六二〇年五月十六日))。日本に最初に来たイギリス人とされる。少年期、造船所に勤め、やがて水先案内人となった。イギリス艦隊に船長として従事した後、オランダに渡り、一五九八年、司令官ヤコブ・マフの率いる東洋遠征船隊に水先案内として乗船、五隻からなる同船隊は途中で四散したが、彼の乗船したリーフデ号は太平洋を横断し、一六〇〇年四月十九日(慶長五年三月十六日)、豊後臼杵湾の佐志生(さしう:現在の大分県臼杵市)と推定される地点に漂着した。彼は船長の代理として大坂に赴き、徳川家康と会い、家康の命令を受け、船を堺より関東の浦賀に回航した。かねてより、関東貿易の開始を熱望する家康はアダムズとの会談を通じ、彼にその期待をかけ、日本橋の近くに屋敷を与え、また、浦賀の近くの三浦半島の逸見(へみ:現在の神奈川県横須賀市)に知行地を給した。「三浦按針」の名はこのようにして生まれた(按針は「パイロット=水先案内」の意味)。アダムズは、同僚のヤン・ヨーステン(ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン Jan Joosten van Lodensteyn(Lodensteijn) 一五五六年~一六二三年:オランダの航海士で朱印船貿易家。「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」。オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに漂着、徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲附近で、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来し、「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子(やようす)」と呼ばれるようになり、これが後に「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる。やがて、東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが、帰国交渉が捗らず、結局、諦めて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した)とともに、まさに家康の外交顧問的存在となり、家康に数学・幾何学の初歩を教授するほか、外交の諸問題に関与し、反カトリックのオランダ・イギリスの対日通商開始を側面より促進したばかりか、朱印状を受けて東南アジアに渡航した。また、伊豆の伊東でイギリス型帆船を建造したことでも知られる。彼はイギリス人ながら、イギリスの対日通商政策とは意見を異にするなど、国際人として家康外交の展開に重要な役割を演じた。日本人を妻としたが、五十五歳で肥前平戸で病死した。妻は馬籠勘解由(まごめかげゆ)の娘といわれ、夫妻の墓は按針塚と名づけられて、逸見に近い塚山公園に現存する(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

 『我々は大阪の頗る大都會たることを見出した。その大いさは郭内の倫敦[やぶちゃん注:「ロンドン」。]に比すべきほどで、幾多の耽腿な、高い、木造の橋を、倫敎に於けるテムズ河ほどの幅を有する河に架けて、交通の便が圖つてある。我々は若干の立派な家屋をそこに見た。しかし、多くではなかつた。それは日本全國の主要港の一つである。驚くばかり大きく、且つ堅固な城がある……』

[やぶちゃん注:「郭内の倫敦」旧ロンドン・ウォール(London Wall:紀元後二世紀頃からローマ人によりロンディニウム(ラテン語:Londinium) の周辺に作られた防御壁であり、その後十八世紀まで維持された。ロンディニウムは現在のロンドンを流れるテムズ川沿岸にあり、ローマ人にとって戦略的に重要な港町であった)、現在の歴史的に古い金融地域に当たるCity of London(グーグル・マップ・データ)があるが、そうだとするとセーリスは目測を誤っている。実際の大阪は二倍は有にあったはずである。]

 西曆十七世紀の大阪について船長セーリスがいつたことは、今日の大阪についても殆ど同樣に眞實である。それは今野猶ほ頗る大都合であつて、また日本全國の主要港の一つである。それは西洋人の見解に從へば、『若干の立派な家屋』を有し、『テムズ河程の幅を有する河』――淀川――に架せる『幾多の壯麗な木造の橋』(並びに鐡材及び石材を用ひたる橋をも)を有してゐる。それから、漢時代の支那に於ける城塞の樣式に基づいて、秀吉によつて、且つ堅固な』城は、散層の高さある櫓が失せ、また(一八六八年に)[やぶちゃん注:]立派な宮殿が破壞されたのにも關らず、依然として工兵技師[やぶちゃん注:“military engineers”。]を鎗嘆せしむるものがある。

[やぶちゃん注:「一八六八年」慶応四年。慶応三年12月九日(一八六八年一月三日)に発せられた「王政復古」の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移って居城していたが、慶応四年一月三日(一八六八年一月二十七日)、旧幕府軍の「鳥羽・伏見の戦い」での敗北によって、慶喜は船で江戸へ退却、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱の中で、大阪城は出火、御殿・外堀の四・五・七番櫓など、城内建造物の殆んどが焼失してしまった(ウィキの「大阪城」に拠った)。]

 

 大阪は二千五百年よりもつと古い。だから日本の最古の都會の一つである――尤も現今の名は、大きな川の高い土地といふ意味の『大江の阪』を略したので、それは僅々十五世紀に始つたものと信ぜられてゐるが、それより以前は浪速(なには)と呼ばれてゐた。歐洲人が日本の存在を知つたよりも數世紀前に、大阪は帝國の經濟と商業の大中心であつた。して、現今に於てもさうである。すべて封建時代を通じて、大阪の商人は日本の諸侯に對する銀行家と債權者であつた。彼等は米穀の租稅を金銀に兩替をした――彼等はその數哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約一・六キロメートル。]に亙る防火の倉庫内に、全國用の穀類、綿、絹を貯藏した――して、彼等は諸大名に軍資金を供給した。秀吉は大阪を彼の軍事上の首府とした――嫉妬的で、且つ慧眼なる家康は、この大都會を恐れた。して、その大資本家輩が有する財政的勢力に鑑みて、彼等の富を殺ぐことを必要と考へた。

 今日の大阪――一八九六年[やぶちゃん注:本書刊行(一八九七(明治三〇)年九月)の前年。]の大阪――は、廣大なる面積を占め、約六十七萬の人口を有つてゐる[やぶちゃん注:大阪府単位では同年で既に倍以上の百三十七万七千六百人に達している。]。廣袤[やぶちゃん注:「くわうぼう(こうぼう)」の「広」は東西の、「袤」は南北の長さを指す。幅と長さで「広さ・面積」のこと。]と人口に關しては、現今ただ帝國第二の都會たるに過ぎないが、大隈伯[やぶちゃん注:大隈重信。]が最近の演說に述べた如く、財政、產業、及び商業の上では、東京に優つてゐる。堺、兵庫、及び神戶は、實際ただその外港である。しかも、後者はめきめきと橫濱を凌駕しつつある。内外人共に、神戶が外國貿易の最要港となるだらうと、確信を以て豫言してゐる。何故なら、大阪が全國で最も優秀なる商業的手腕あるものを牽引しうるからである。現今大阪の外周貿易に於ける輸出入高は、一箇年約一億二千萬弗を示してゐる。して、その内地と沿海の商業は莫大なものである。殆どすべての人のすべての需用品が大阪で製造される。して、帝國のいづれの地方に於ても、苟も愉快に暮らしてゐる家庭の用具調度に對し、大阪の工業が幾分の貢獻をしないものは殆ど無い。これは東京がまだ存在しなかつた餘程以前にも、多分さうであつた。今猶ほ殘つてゐる一つの古謠には、『出船千艘、入船千艘』といふ繰り返しの文句がある。その語の作られた頃には、和船だけであつた。今日は汽船もあれば、種々の裝具を備へた大洋航海の船もある。埠頭に沿つて數哩の間、帆檣や煙筒が一見殆ど限りなく列つてゐる。尤も太平洋航路及び歐洲郵便線路の巨舶は、吃水の深いため入港ができないから、大阪の荷物を神戶で取扱つてゐる。しかしこの元氣旺盛なる都會は、數個の汽船會社を有し、今や千六萬弗の費用を投じて、その港灣改良の工事を企ててゐる。二百萬の人口と、少くとも三億弗の外國貿易額を誇るべき大阪は、次の半世紀に實現し難き夢ではない。大阪は各種の大なる商業組合の中心であり、また紡績會社の本場であるといふことを、私は殆どいふに及ぶまい。その紡績機械は一晝夜の中に、職工の交代がただ一囘に止まり、二十三時間運轉を續け、その製造糸量は、英國の工場に比すれば、一錘[やぶちゃん注:「すい/つむ」。紡錘を数える単位。]に就いて二倍に達し、印度ボンベー市[やぶちゃん注:“Bombay”。インドのボンベイ。]の工場を凌ぐこと三割乃至四割に及んでゐる。

 

註 大阪には四百個以上の商業會社がある。

[やぶちゃん注:「一億二千萬弗」明治二八(一八九五)年の為替レートで一ドルは一・九八円でほぼ二円であるから、二億四千万円に相当し、明治三十年代の一円を現在の二万円相当とする推定に則れば、四百八十兆円に相当する。明治二十八年の日本の通貨流通高は二億六千万円、同年の日本の国家予算は八千五百万円であったから、実にその三倍に当たる。]

 

 世界の各大都市は、その市民に或る特質を與へるものと信ぜられてゐる。して、日本では大阪人は殆ど一見してわかるといはれてゐる。私は東京人の性格は、大阪人の性格ほどに顯著でないといひきると思ふ――丁度米國に於てシカゴの人は、紐育[やぶちゃん注:「ニュー・ヨーク」。]或はボストンの人よりも一層早く認め得られるのと同樣である。大阪人は一種の植故な理解と輕快なる元氣を有し、且つ一般に最新式流行に通曉し、或は更に少々それよりも先だつてゐるやうな風がある。これは工業上及び商業上、相互の競張の烈しい結果を示してゐる。要するに、大阪の商人或は製造業者は、政治上の首府なる東京に於ける、その競爭者よりは商業上、遙かに長い經驗の遺產を有つてゐる。恐らくはこのことが、大阪の旅商人の世間に認められたる優秀なる手腕を幾分說明するだらう。この旅商人は、現代化されたる階級であつて、目醒ましい型の人物を提供してゐる。汽車或は汽船で旅行の際、諸君は一寸談話を交じへた後にも、その何國人であるかを確に決定し難いやうな紳士と、偶然知り合ひになる事があるかも知れない、彼は最新式で、且つ最上型の衣服を着け、服裝に申し分なき趣味を示してゐる。彼は佛獨英のいづれの國語にても、同樣によく諸君と語ることができる。彼はいかにも慇懃である。しかし極めて種々の人物と調子を合はせて行くことができる。彼は歐洲を知つてゐる。して彼は諸君が極東で行つたことのある地方と、また諸君が地名さへ知らぬ場處についても、諸君に非常なる知識を與へることができる。日本に關しては、各地方の特產物とその比較的價値及び沿革に精通してゐる。彼の顏は愉快である――鼻は眞直であるか、またはや〻彎曲してゐる――口は黑い繁つた鬚で蔽はれてゐる。眼瞼だけが、幾分諸君をして、東洋人と會話をしてゐるのだと想像することを得しめるのである。これが今日の大阪の旅商人の一典型である――日本の尋常の小官吏に優さる[やぶちゃん注:「まさる」。]ことは、恰も王公が從僕に於けるが如くである。若し諸君が大阪の都會で逢ふ場合には、諸君は多分彼が日本服を着用してゐるのを見出すであらう――立派な趣味の人ならでは、なかなかできないやうな服裝をしてゐて、且つ日本人よりは寧ろ假裝せる西垣牙人[やぶちゃん注:「スペインじん」。]或は伊太利人のやうに見えるだらう。

 

       

 生產及び分配の中心として大阪が名を馳せてゐるため、日本全國の都會中、最も近代化した、最も純日本的特徵の乏しい都會と、大阪を想像する人があるだらう。しかし大阪は、その反對である。日本の他の大都會に於けるりも大阪に於ては、西洋服を見受けることがもつと稀である。この大市場の群集ほど、華美な服裝をしたものはなく、またこれほど綺麗な町もない。

 大阪は種々の流行を作りだす處だと思はれてゐる。して、目下の流行は色が多樣へ向つて行く、愉快なる趨勢を示してゐる。私が日本に來た時、男子の衣服の主色は黑であつた特に暗靑色であつた。いかなる男子の群集も、この色合の團塊を呈するのが普通であつた。今日はもつと色調が輕快である。して、種々の灰色――濃い灰色、鋼鐡色の灰色、靑がかつた灰色、紫がかつた灰色――が、優勢を占めてゐるやうに見える。しかしまた幾多の心地よい變色もある――例へば、靑銅色、金褐色、『茶色』[やぶちゃん注:原文ではここのみ“"tea-colors,"”とクォーテーション・マークが附いているせいである。英語の「brown」を日本の如何にも日本語らしい色名に英訳したのである。]などである。婦人の衣服は、無論もつと變化に富んでゐる。しかし男女いづれも、成人に對する流行の性質は、嚴格なる良風美趣の法則を放擲するやうな傾向を示してゐない――はでやかな色彩は、ただ子供と藝妓の衣裳にのみ現はれてゐる――藝妓には永遠の若さの特權が與へられてある。最近流行の藝妓の絹羽織は、燃ゆるが如き靑空色であることを、私はここに述べておく――熱帶のやうな色で、それを着てゐる人の職業が、遠方から見てもすぐわかる。しかし高級の藝妓は、服裝の好尙が地味である。私はまた寒氣の節、戶外で男女の着ける長い外套のことを話さねばならぬ。男子のは、西洋のアルスター型長外套[やぶちゃん注:“ulster”。アルスター外套。ゆったりとした長い厚めの男女のコートで、防水処理が施され、ベルトがついていることもある。もともとアイルランドのアルスター地方産の羊毛で作られたのでこの名がつけられた。アルスター・コートはトレンチ・コートの原型で、本来はダブルである。オーダー専門店「BOTTONE公式サイト内のこちらが歴史と変遷をよく教えてくれる。]を適當に修飾したもののやうである。して、小さな肩被[やぶちゃん注:「かたおほひ」と訓じておく。原文は“cape”。肩と背を覆う袖なしのマント状部分。所謂、シャロック・ホームズの着ているあれを想起すればよい。]が附いてゐる。地質は羊毛で、色は淡褐色或は灰色が普通である。婦人のには、肩被がなく、大抵黑無地の大幅羅紗を用ひ、澤山に絹の緣がついて、前の襟が低く裁つてある。それは咽喉から足までボタンでとめてあつて、全く上品に見える。尤も下に結んでゐる、太く重い絹の帶の蝶形を容れるため、背部では餘程廣くゆるやかにしてある。

[やぶちゃん注:最後の部分は“though left very wide and loose at the back to accommodate the bow of the great heavy silk girdle beneath.”で、帯を「蝶」型に結んでその下に「容れる」=「収める」ことになるため、の謂いだろう。平井呈一氏は恒文社版「大阪」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で『ただし、背中は、下へお太鼓をしめた帯がはいるから、背幅を広くゆっくり取ってある』と訳しておられ、私のような無粋な男でも全く躓かずに意味が判る。]

 

 風習の點に劣らず建築に於ても、大阪は依然殆ど理想的に日本風になつてゐる。廣い大通もあるが、大抵町幅は甚だ狹い――京都の町よりも狹い位である。三階の家屋や二階の家屋の町もあるが、平家造りのものが數方哩[やぶちゃん注:“square miles”。平方マイル。]にも及んでゐる。市の全部は、瓦葺屋根を有する低い木造建築の聚團である。しかし東京の町よりも、その看板や看板の繪に於ては、一層面白く、活氣を帶び、珍異である。また市全體が、その多くの水路のために、東京より更に景色がよい。日本のヴエニス[やぶちゃん注:“Venice”。]と呼ばる〻のも過稱ではない。何故なら、淀川の諸支流によつて、數個の大きな部分に分劃[やぶちゃん注:「ぶんかく」。「区画」に同じい。]されてゐる外に、運河が東西南北に通つてゐるからである。淀川に面した町よりも狹い運河の方が、もつと興趣に富んでゐる。

 これらの水路の一筋を見通す眺めは、街路の通景のやうなものとして、これほど珍らしいものが殆ど日本にあるまい。運河は鏡の面の如く靜かに、兩岸の家屋を支へてゐる高い石造の堤壁の間を流れて行く――二階乃至三階の家屋が、すべて丸太を施して石垣の外へのばされ、正面はそつくり水上に張り出してゐる。それは後方からの壓迫を暗示するやうに、ごちやごちやに集つてゐる。して、この押し合ひ、詰め込んでゐる趣は、意匠の整齊[やぶちゃん注:「せいせい」。整い揃えること。整い揃っていること。]が缺けてゐるため、更に增加してゐる――いづれの家も他の家と全然似てゐるといふことはなく、悉皆[やぶちゃん注:「しつかい(しっかい)」。悉(ことごと)く皆(みな)。残るくまなく総て。]或る名狀し難き極東風の奇異さ――一種の民族的特性――を有してゐるので、時も場處も非常に遠いといふ感じが起こる。欄干の附いた可笑げな[やぶちゃん注:「をかしげな」。]小さな緣側が、張り出してゐる。格子のついた、玻璃をはめない出窓の下に、鬼子のやうな小さな露臺があつて、[やぶちゃん注:ここは“glassless windows with elfish balconies under them, and rootlets over them like eyebrows; tiers of tiled and tilted awnings;”という原文を見ても、よく意味も分からぬし、情景も見えて来ない。平井呈一氏は『格子を打った、ガラス戸のない出窓の下には、箱庭みたいな露台があり、』と訳しておられる。]上方には眉毛のやうな小屋根がある。瓦を葺いた彎曲した庇が出でてゐる。また大きな檐[やぶちゃん注:「のき」。]は、或る時刻には、土臺へまで影を投ずる。木材の造作が大抵黑い――星霜を經たためか、または汚れたために――ので、影は實際よりも一層深いやうに見える。影の内部の方に、露臺の柱や、緣側から緣側への竹梯子や、磨いた指物細工の隅角[やぶちゃん注:「すみかど」。]など、いろいろの突出したものが、ちらつと見える。時には莚蓆[やぶちゃん注:二字で「むしろ」と訓んじおく。]や、竹を割いて作つた幕、卽ち簾や、大きな表意文字を書いた木綿の暖簾が吊つてある。して、すべてこれが忠實に水中に倒さに[やぶちゃん注:「さかさ」。]映つてゐる。種々雜多の色彩は、畫家を欣ばすべき筈だ――磨いた古い材木の黃焦茶色、チヨコレート色、栗色の褐色。莚蓆や簾の濃い黃色。漆喰を塗つた面の淺黃白色。瓦の落ちついた灰色など。……私が最近に運河を見た時、かやうな見通しの光景は、春靄の魅惑に鎖ざされてゐた。それは早朝であつた。雙が立つてゐた橋から二百碼[やぶちゃん注:「ヤード」。約百八十三メートル。]先きでは、家々の前面が靑くなり始めた。もつと向うでは、透明な蒸氣のやうであつた。それから更に遠方では、明かるい光の中へ突然溶けて消えるやうに見えた。宛然[やぶちゃん注:「ゑんぜん」まさにその(ここは「夢」)通りと思われるさま。(ここは「夢」に)そっくりであるさま。]夢の行列であつた。私は笠と簑をつけた百姓が棹さしてゐる小舟の進行を注視した――それは昔の繪本にある百姓のやうであつた。小舟と人間が、輝いた靑色に變はり、それから灰色に變はり、それから、私の眼前で――滑るが如くに涅槃裡[やぶちゃん注:「ねはんり」。“glided into Nirvana.”。]に沒入した。その輝いた春靄によつて、かやうに作られたる無形といふ觀念は、音響の無いために更に强められた。何故なら、これらの掘割の町は、商店の町が騷々しいと同じほどに靜かだから。

 

 日本で大阪ほど數多の橋を有する都會は、他にない。市區の名は橋に基づいてつけられ、距離も橋を標點としてある――いつも高麗橋[やぶちゃん注:「こうらいばし」。原文“Koraibashi, the Bridge of the Koreans,”。ここ(グーグル・マップ・データ)。]から計算される。大阪の人は何處へ行くにも、その場處へ最も接近した橋の名を思ひ起こして、すぐに道筋を知るのである。しかし主要なる橋の數が百八十九個もあるから、かかる見當の定め方は、他國の人に取つては、あまり役に立たぬ。若し商人であれば、橋の名を覺えなくても、仕入れをしようと思ふどんな品でも見出すことが出來る。大阪は帝國に於て商賣上、最も整頓せる都會である。また、世界中で最も秩序整然たる都會の一つである。それは昔から同業組合の都會であつて、種種の商業及び製造業は、昔の習慣に基づいて、今猶ほ特別な區や町に集つてゐる。だから、すべての兩替屋は北濱に店を持つてゐる――これは日本のロンバード街譯者註である。反物商は本町を獨占してゐる。材木商はすべて長堀と西橫堀にゐる。玩具製造者は南久寳寺町と北御堂前にゐる。金物商は安藤寺橋通を占有してゐる。藥品商は道修町にゐる。また指物師は八幡筋にゐる。その他多くの商賣も、それから娛樂の場處も、そんな風になつてゐる。劇場は道頓堀にあつて、手品師、歌ひ手、踊りの藝人、輕業師及び賣卜者[やぶちゃん注:「ばいぼくしや」。占い師。]は、すぐその附近の千日前にゐる。

 

譯者註 佛敎の商業區に於ける銀行通。

[やぶちゃん注:私は大阪に今まで三度しか行ったことがない。しかもその内の一度は中学の修学旅行であり、二度目は某高等学校に於ける人権委員会委員長としての全同協全国大会への参加であり、三度目は国立文楽劇場での「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言の全観覧のためであって、凡そ殆んど散策したこともなく、地理的知識も皆無に近い。されば、以上の場所を地図で示すのは私自身にとってはただ部外者としての地図上の各地の関係性以外の属性を示すのみであり、注しても、判る人には無用の長物で、大阪を知らぬ人には「地図を見てもねぇ」という人も多かろうと思い、当初は一切注さないことにして公開したが、一日経って、やはり最低の地図上の相当位置は示すことに考えを変えた。

「北濱」現在の大阪府大阪市中央区北浜(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の一部。現在も「大阪取引所」を中心とした金融街で、ウィキの「北浜」によれば、『東京の金融街である兜町が「シマ」と呼ばれるのに対し、北浜は「ハマ」と呼称される』とある。

「ロンバード街」Lombard Street は先に示した旧ロンドン・ウォールの中のシティ・オブ・ロンドンの、「イングランド銀行」から東に走る三百メートルほどの通りの名称。多くの銀行や保険会社が軒を連ねているため、「ロンドン金融市場」の別名として慣用されている。イギリスでは十三世紀末にエドワードⅠ世がユダヤ系金融業者を追放したが、この前後から北イタリアのロンバルディア(Lombardia)出身の商人たち(ロンバルディア人。これが名の由来)が来住し、貿易と絡めて、両替・為替業を営み、銀行業者の地位を確立した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「本町」中央区本町。江戸時代以来、ここは繊維・衣料関係の町として栄え、北隣の安土町と同様、近江商人の多い町であった。

「長堀と西橫堀」ここの中央東西が前者の名を残す「長堀通り」、Pマークの南北の部分が後者(西横堀川があったが、埋め立てられた)。

「南久寳寺町」「みなみきゅうほうじまち」(原題仮名遣。以下同じ)は大阪府大阪市中央区南久宝寺町

「北御堂前」中央区本町にある北御堂、本願寺津村別院附近。

「安藤寺橋通」中央区南船場にある安藤寺橋を中心とした東西の通り。

「道修町」中央区道修町(どうしゅうまち)

「八幡筋」道頓堀の北側の、三つ目の東西の通りの通称。このレッド・マーク附近

「千日前」中央区千日前。]

 

 大阪の中央部には、幾多の頗る大きな建築がある一一劇場、料理屋、それから全國に有名な旅館など。しかし西洋風の建物の數は、目立つて少い。尤も八百乃至九百本の工場の煙突がある。しかし工場の建築は、槪して西洋式の設計でない。眞正の『外國』式建築は、一軒のホテル、二重勾配屋根を有する府廰、花崗石の柱の古典式玄關を有する市役所、立派な近代風の郵便局、造幣局、造兵廠、數種の製造所及び釀造所である。しかしこれらのものは、非常に散在してゐるので、實際、此都會の極東的性質と反せる、特異な印象を與へない。だが、一つ全然外國風な一小區城がある――これは古い居留地で、まだ神戶が存在しなかつた時代に起こつたものである。その街路は立派に作られ、建物は堅固に出來てゐるが、いろいろの理由で、宣敎師の住居に委ねてある――ただ一軒の古くから殘つてゐる商會と、多分一軒か二軒の代理店が開店してゐる。この荒唐したる居留地は、大なる商業上の荒野に於ける靜けさの沃地(オーエーシス)[やぶちゃん注:“oasis”。オアシス。]である。大阪の商人間に、この建築風を模倣しようとの試みもない。實際、日本の都會で大阪ほど、西洋建築へ對して好意を示さないものはない。これは鑑識が足りないからではなく、經濟上の經驗によるのである。大阪は西洋風に――石材、煉瓦及び鐡を以て――建築するのが、その利益疑ふべからざる時と場處に於てのみさうするであらう。東京に行はれてゐるやうに、かかる建築を投機的に企てるといふことはないだらう。大阪の遣り方は、じりじり進む方であつて、また確實なものに投資する。確實な見込みのある場合には、大阪商人は盛んなる提案をする――二年前、或る鐡道の買收と復興のために五千六萬弗を政府へ提供したのは、その一例である。大阪のすべての家屋の内で、朝日新聞社が最も私を驚かした。朝日新聞は日本の新聞紙中、最大なものである――恐らくはいかなる東洋語で發行せらる〻新聞も、その右に出づるものはあるまい。それは日刊繪入新聞で、その編輯法は頗る巴里の新聞に似てゐる――文藝欄があつて、外國小說の飜譯や、時事に關する輕妙奇警な閑話などが載せてある。人氣の高い作家に多額の金を拂ひ、また通信と電報に莫大の費用を投じてゐる。その插畫――現今或る婦人の手に成る――は、丁度佛敎のポンチ雜誌が、英國の生活に於ける如くに、新舊あらゆる日本の生活を充分に寫し出してゐる。それは兩面印刷機を使用し、特別な列車を契傭[やぶちゃん注:「けいよう」。長期に雇い入れる契約をすることであろう。]し、して、その配布は帝國の大抵の場處へ及んでゐる。だから朝日新聞社は、大阪に於ける最も綺麗な建築の一つであらうと、私は確に期待してゐた。しかしそれは昔の武士屋敷であつた――その邊では、殆ど最も靜かで、また質素な趣のある場處であつた。

[やぶちゃん注:このオチは凄い! 「株式会社 朝日プリンテック」公式サイトのこちらに画像が小さいが、中之島の武家屋敷時代の写真が二枚ある。平井呈一訳一九七五年刊恒文社版「仏の畑の落穂 他」の冒頭に、ここで小泉八雲が訪れた当時とする朝日新聞社本社写真があるが、廂を除いて殆んど変わらない。これはビックリだ!

「一軒のホテル」不詳。それが判りそうな出版物はあるようだ。旧位置とホテル名をお教え願えれば幸いである。

「二重勾配屋根を有する府廰」これは西大組江之子島上之町(現在の西区江之子島二丁目)にあった二代目庁舎のこと。修飾の原文は“mansard roof”(マンサード・ルーフ)で「腰折れ屋根」のこと。切妻屋根の変形で、屋根の勾配が上部がゆるく、下部が急な二段構造になっているもの。十六世紀の中頃にイギリス・イタリアで用いられルーブル宮殿にも採用された。十九世紀中頃、特にフランスやアメリカで一般的となり、アメリカでは「ギャンブレル屋根」(gambrel roof)とも称する。屋根裏部屋の天井を高くし、広い空間を確保出来る利点がある。北海道地方で家畜飼料用倉庫(サイロ)に採用されているのも、この利点からである。名称はフランスの建築家 F.マンサールに因むとされる。ウィキの「大阪府庁舎」のこの画像が当時のそれ。マンサード・ルーフだと言われれば、そうも見えなくはないが、この写真ではよく判らぬ。

「花崗石の柱の古典式玄關を有する市役所」当時は上記の大阪府旧庁舎の北側に建っていた。画像は見当たらない。

「二年前、或る鐡道の買收と復興のために五千六萬弗を政府へ提供した」不詳。識者の御教授を乞う。]

 すべてこの地味で、且つ賢い保守主義は、私を欣ばせたといふことを、私は告白せねばならぬ。日本の競爭力は、今後永く昔の質朴な生活を維持して行く力に存するに相違ない。

 

註 外國領事館は、一八六八年の内亂に際して、大阪を去つて神戶に避難した。それは大阪では本國の軍艦を以て、よく領事館を保護することができたかつたからである。一たび神戶へ移つてから後、その深い灣が與へる便宜は、大阪居留地の運命を終はらしめた。

 

       

 大阪は帝國の大商業學校である。日本のあらゆる地方から、靑年が工業或は商業の特殊な部門を學ぶために、ここへ送られる。いかなる缺員の地位へ對しても、澤山の志望者がある。だから商人はその丁稚を選擇するのに、頗る用心深いといふことである。志望者に關して、當人の人物と、身許をよく注意して調べる。丁稚の親、または親戚は、一文も金を拂はない。奉公の期限は、商工業の性質によつて異る。しかし普通歐洲に於ける徒弟奉公期間と全く同じほどに長い。して、或る種の商業では、十二年乃至十四年に及ぶのもある。かやうなのは反物商の場合に、普通要求せらる〻奉公期限であると私は聞いてゐる。しかも反物商の丁稚は、一箇月にただ一日の休みしかなくて、一日に十五時間も働かねばならない。徒弟の全期間を通じて、彼は何等の賃銀を受けない――ただ寢食と絕對に必要な被服を受けるだけである。主人は彼に一箇年に二枚の衣服を與へ、下駄を給することになつてゐる。恐らくは盛大な祝祭などの日に、少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の小遣錢を惠まれることがある――しかしこれは契約には規定してない。しかし彼の奉公年限が終はると、主人は彼が獨立して、小規模な商賣を始めるに足るだけの資本を與へるか、若しくは何か他の方法によつて、實際有力なる援助を與へる――例へば、商品或は金員について、信用貸の便宜を計つてやる。多くの丁稚は、その主人の娘を娶る。その場合には、若夫婦が世の中へ乘り出すに當つて、大抵必らず好都合である。

 これらの長い徒弟勤務の訓練は、品性の嚴格な試驗であると考へることができる。假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]丁稚は決して荒々しい挨拶を受けないけれども、彼はいかなる歐洲の事務員も堪へないやうなことを堪へねばならぬ。彼は毫も閑暇を有たない――睡眠に必要な時間を除いては、自分の時間と稱すべきものを有たない。彼は昧爽[やぶちゃん注:「まいさう(まいそう)」。「昧」は「ほの暗い」、「爽」は「明らか」の意で、「夜の明け方・暁・未明」。]から夜遲くまで、おとなしく、また着實に働かねばならぬ。最も質素な食物で滿足せねばならぬ。さつぱりした身嗜み[やぶちゃん注:「みだしなみ」。]をせねばならぬ。して、決して不機嫌を見せてはならぬ。放蕩な性質を有つてゐるものとは思はれてゐない。またかかる過失に陷る機會も與へられてゐない。數箇月も引き續いて、晝夜その店を離れないやうな丁稚もある――營業時間に坐つてゐるのと、同一の疊の上で寢に就く。絹布類の大商店の店員は、特に室内にばかり居るので、彼等の不健康らしい蒼白色は、世間に知れ互つた事實である。年々歲々、彼等は每日十二時間乃至十五時間も同一の場所に坐つてゐる。だから、どうして彼等の脚が、達磨のやうに落ちてしまはないかと不思議に思はれる。

 

註 日本の通俗的傳說によれぱ、佛敎の偉大なる長老で、且つ修道者なる達磨は、九年間の絕えざる冥想のため、兩脚を失つたと云はれてゐる。達磨の可笑げな[やぶちゃん注:「をかしげな」。]人形が、普通の子供の玩具となつてゐる。それは脚がなくて、また内部に重量[やぶちゃん注:「おもり」。]を入れて、いくら投げても、いつも眞直ぐな態度を保つやうに仕組んである。

 

 時としては道德上の失敗者もある。恐らくは丁稚が店の金員を幾らか濫用して、放蕩に費消してしまうこともあるだらう。恐らくはもつと惡るいことを行ふ場合もあるだらう。しかしどんな事件であらうとも、彼は滅多に逃亡しようとは考へない。もし彼が饗宴に浮かれたならば、それから一兩日身を隱してゐても、やがて自分から戾つてきて白狀し、詫びを入れる。彼は二三囘、或は多分四囘位までも、その放縱の過失を宥される[やぶちゃん注:「ゆるされる」。]だらう――もし眞に内心が姦惡であるといふ證據がない限りは――して、彼の前途、彼の家族の感情、彼の祖先の名譽、それから一般商人の資格などの諸點に照らして、彼の缺點について、懇懇と說諭されるだらう。彼の境遇の困難は、親切な思ひやりを以て考へられ、決して小過失のために解傭[やぶちゃん注:「かいよう」。契約雇用解除。]されることはない。解傭は多分彼の一生を破滅させることになるだらうから、その明白な危險に對して彼の蒙を啓くため、あらゆる注意が加へられる。大阪は實際馬鹿な行爲を演ずるのには、日本中で最も不安な場處である――大阪の危險で、且つ邪惡な階級は、東京のそれよりも更に怖ろしい。して、この大きな都會の日々の新聞は、正しく丁稚が學ばねばならぬ義務の一部である、行政上の法則に背いたために、或は貧窮に陷つたり、或は餘儀なく自殺をしたりする人々の恐るべき實例を與へてゐる。

 丁稚が極めて幼年の頃、奉公に入つて、その商店に於て殆ど養子のやうに育て上げられた場合には、主人と丁稚の間に頗る强い愛情關係が生じてくる。主人へ對し、或は主家の人々へ對して、非常な獻身的な美談が、屢〻傳へられる。時としては、破產した商人が、昔の番頭によつて、その高貴を復興されることもある。また、丁稚の愛情が奇異なる極端となつて現はれることもある。昨年一つの珍事があつた。或る商人の一人息子――十二歲の少年――が、惡疫流行の際、虎列剌[やぶちゃん注:「コレラ」。]病で殪れた[やぶちゃん注:「たふれた」(音は「エイ」)。死んだ。]。亡くなつた子供と非常に親密であつた十四歲の丁稚は、葬式の後、間もなく汽車の前へ身を投げて自殺した。彼は一通の手紙を殘した――

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本でも本文と同ポイントで全体が二字下げである。引き上げ、前後を一行空けた。少年の署名は底本では下インデント三字上げ。]

   

 長い間、御世話樣に相成り、御高恩は言葉に申し述べ難く候。只今これ限り相果て候こと、不義理の至りに存じ侯へ共、再び生まれ變はつて御恩を報じ可申上候。ただ妹おのと[やぶちゃん注:“O-Noto”。彼の妹の名前。]のことのみ心配に候。何卒同人へ宜しく御目をかけ下され度願上候。

              間 野 由 松

    御 主 人 樣

 

[やぶちゃん注:小泉八雲は遺作となってしまった「神國日本」の「家族の宗教」にも、この話を紹介している。『「恐らく尤も異樣なのは、十四歳の少年が、その主人の小さい子息なる子供の靈に侍するために、自殺したといふ事である』(私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(4) 家族の宗教(Ⅰ)」を見られたい。また、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二八(一八九五)年の十月の記事に、『この頃、主人の幼い子供の死のあとを追って鉄道自殺した少年のことを知る』とある。]

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