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2019/11/08

作品集「異国情趣と回顧」(「異國情趣と囘顧」)始動 / 献辞・序

 

[やぶちゃん注:本作品集(原題“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 冒頭に原書の表紙絵を掲げた。これについては、上記の“Project Gutenberg”記載に、「この表紙のイラストは作品集に内容に基づいて出版編集者が作成したもので」、「この表紙はパブリック・ドメインである」旨の英文の注がある。小泉八雲が本作品集を「糸瓜(へちま)の本」と呼んだ所以である。

 この献辞と序の訳は、恐らくは巻頭作品「富士山」(原題は“Fuji-no-Yama”)の訳者である落合貞一郞氏かと思われる。落合貞三郎(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で、郷里島根県の松江中学及び後に進学した東京帝国大学に於いて、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)/小泉八雲(帰化と改名は明治二九(一八九六)年二月十日。但し、著作では一貫して Lafcadio Hearn と署名している)に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は第六高等学校、学習院教授を勤めた。謂わば、小泉八雲の直弟子の一人である。]

 

Hetimanohon

 

  異國情趣と囘顧

 

 

       橫濱の(前米國海軍)

  ドクトル・シー・エッチ・エッチ・ハウルへ

       かはらざる友情の記念として

 

[やぶちゃん注:献ぜられている“DR.C.H.H.HALL”なる人物は、いろいろ調べてみたが、判らない。但し、サイト「横浜居留地外国人データベース」のこちらに、山手九十九番に所在したアメリカ海軍病院のデータに、明治二〇(一八八七)年から翌年にかけてと、一八八九年の条のそこに赴任・在住したアメリカ海軍のドクターとして同名の人物を見出せた。底本の田部隆次氏の「あとがき」には『橫濱の醫師ハウル氏に捧呈してある』とあるから、この医師は海軍をやめて横浜で医師として勤務或いは開業していたものかとも思われなくはない。小泉八雲との関係は私は不詳。]

 

 

 此卷を成す諸篇はその一を除く外すべて初めて世に現はれる。此書の第二部を形つくる小論文、むしろ幻想は東西兩半球に於ける經驗を叙述する。されどこれに共通の表題を附けたるは、これ等の文が何故にその事實を離れて編せられたるかの說明となる。何等かの眞に科學的なる想像には、進化的心埋學の或る敎訓と東洋の信仰の或る敎訓、――特に一切の有情は羯摩(カルマ)にて一切の所有は唯だ行と想との所現に過ぎずとする佛敎の敎義、――との間に存する不思議なる類同は、私の『囘顧』の集錄よりも層一層有意義なるものを暗示するやも知れぬ。これ等の諸篇は認識するよりも、定義することの比較し難き程困難なる眞理を、單に暗示するものとしてのみ提示せられたのである。

 

   一八九八年二月十五日 日本東京にて

           ラフカディオ・ヘルン

 

[やぶちゃん注:クレジットや署名は引き上げてある。

「その一を除く」底本の田部隆次氏の「あとがき」に、『ただ一篇『帝國文學』』(おお! 芥川龍之介が大正四(一九一五)年十一月に発表した「羅生門」の初出誌だぞ!)『に出た「靑色の心理」』(原題“Azure Psychology”。「回顧」パートの第五話)『を除いて全部新しい物である』とある。

「一切の有情は羯摩(カルマ)にて一切の所有は唯だ行と想との所現に過ぎず」当該原文部は“all sense-life is Karma, and all substance only the phenomenal result of acts and thoughts”。
・「有情」(うじやう(うじょう)はサンスクリット語「サットバ」の漢訳。感情・意識などの心の動きを有する生物の総称。人間のみでなく、動物も含むのが初期的な認識である。「衆生」に同じい。
・「羯摩(カルマ)」は「羯磨(かつま)」とも称し、一般に我々が「業(ごう)」として認識している概念のことである。サンスクリット語の「カルマン」の漢訳語。元来は「為(な)す・行為する」のサンスクリット語「クル」という動詞から造語された名詞であり、本来は「行為」を示す。しかし、一つの行為は原「因」がなければ起こらず、また、一旦発生した行為は、必ず、何らかの結「果」を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響する。その原因・行為・結果・影響(この連続系は通常世界では永続する)を総称して「業」と呼んだものである。それはまずは素朴な形で、所謂、「輪廻」思想とともに、インド哲学の初期ウパニシャッド思想に生じ、後、仏教に取り入れられ、人間の行為を律し、また生あるものの輪廻の軸となる重要な語となった。則ち、善因善果・悪因悪果・善因楽果・悪因苦果の系は「業」によって支えられ、人格の向上は勿論、「悟り」も「業」が導くとされ、さらに「業」の届く範囲は、一層、拡大され、前世から来世にまで延長されたのでる。しかし、現世に生きる我々は、取り敢えず、狭義に「現在の行為の責任を輪廻する限りは将来(死後を含む)のそれによって惹起されたところのあらゆるものをも自ら引き受けねばならない」という意として捉えてよいであろう。確かに「行為」そのものは「無常」であり、その個としての現象は永続することはあり得ないが、一旦、成した行為は消去することは不可能であり、ここに一種の「非連続にして連続する現象」が発生し、それを「業」が輪廻の中で担い続けることになるのである。仏教では身(しん)・口(く)・意(い)を「三業(さんごう)」と称し、身体と言葉と心とは、常に一致して行為にそのままに現れるとする。また、初期仏教では、「業」を専ら個人の行為に直結して考えたものだが、後には、社会的に拡大し、多くの個人が共有する「業」を考えるようになり、これを「共業(ぐうごう)」と呼び、個人一人のものは「不共業」と名づけたりもした(以上は、小学館「日本大百科全書」の「業」の記載を参考に、小泉八雲の謂いに合わせて私が言い換えを行った)。謂わば、「業」は「輪廻」に於ける絶対不可避の原理であるということになろう。
・「所有」「本質」・「実体」の意であるが、ここは私は仏教の教義に則すならば、単なる見かけ上の実体」の意で採りたい。
・「行」訳者は「ぎやう(ぎょう)」と読んでいよう。悟達を得ない存在の行うあらゆる「行為」と思う。
・「想」訳者は「さう(そう)」と読んでいよう。同じく凡夫の限界性を持った浅はかにして愚劣な「思い・情感・意識・想念」であろう。
・「所現」ここは逐語的に「ただの現象上の結果」と訳したいところである。平井呈一氏も恒文社版(「異国風物と回想」一九七四年刊)で「現象上の結果」と訳しておられる。]

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