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« 小泉八雲 死者の文學 (大谷定信訳) / 「五」 / 死者の文學~了 | トップページ | 小泉八雲 月の願 (田部隆次訳) »

2019/11/18

小泉八雲 蛙 (大谷定信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“Frogs”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第一パート“EXOTICS”の五番目に配された一篇である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 標題の添え句はポイント落ちであるが、同ポイントとし、字空けも無視した。傍点「ヽ」は太字に、傍点「○」は太字下線に代えた。本文中の箇条表記や引用は底本ではポイント落ち四字下げ、註は五字下げで更にポイント落ちであるが、総て行頭に引き上げて同ポイントとした。字間等も再現していない。それらのソリッドな一群の前後は一行空けた。

 なお、発句の作者は原本にはなく、執筆当時、小泉八雲の資料の提供を行った訳者で俳人でもあった大谷氏のサーヴィスで記されてあるものである。また、冒頭の添え句は本文に後で再度、出て大谷によって作者が示されるが、整序すると、

 手をついて歌申し上ぐるかはづかな

で、この句は室町-戦国時代の連歌師で俳人の山崎宗鑑(生没年未詳:山城の山崎にすんだことからこの名で呼ばれる。初めは宗祇らと連歌を詠み、後に滑稽・機知の句風へと向かい、俳諧撰集「犬筑波集」を編集、宗長・荒木田守武らと交わって俳諧創始者の一人とされる。宗鑑流の書でも知られる。出自・経歴には諸説あり、一説に天文八(一五三九)年又は翌年に七十七~八十六歳で没したともいう)の作とされるものである。ずっと後の、芭蕉の俳諧七部集の一つで山本荷兮(かけい)の編になる「阿羅野(あらの)」(元禄二(一六八九)年板行)の「巻之二」の「仲春」に、

 手をついて哥申あぐる蛙かな   山崎宗鑑

と引かれていることで宗鑑の有名な句として知られる。これは小泉八雲が後で本文で引く「古今和歌集」の「仮名序」を踏まえた句で、諧謔のそれはなかなかに面白い趣向で新しい着想であるとは言えよう。昭和四一(一九六六)年岩波文庫刊の中村俊定校注「芭蕉七部集」の脚注には幕末の「標柱七部集」(惺庵西馬述・元治元(一八六四)年板行)に『女院ノ御車ノ前ニテノ吟ナリ云ヘリ』とある。但し、それに続いて中村氏の注があり、「耳無草」という書には作者名を道寸(貞門俳人の夕陽庵弘永のこと)となっているという、ともあるので、宗鑑の句と断定は出来ぬものかも知れぬ。]

 

 

   

 

    手をついて歌申上るかはつかな――古句

 

        一

 旅行の感覺印象の、より單純なものの中で、音響ほど――野天の音響ほど――或る異國の記憶と關聯して密接に且つ鮮明に殘るものはない[やぶちゃん注:底本は「ものは鮮ない」であるが、衍字か誤植と断じて除去した。]。自然の聲が――森や川や野の聲が――帶(ゾーン)に從つて異つて居ることを知つて居るものは旅行者だけである。そして感情に訴へ記憶に徹して、此處は外國である、遠く離れた處であるといふ感じを我々に與へるものは、殆どいつも、その聲の調子或は性質の或る地方的特性である。日本ではこの感じを特に昆蟲の音樂が――その西洋の同族の音聲語(サウンド・ランゲジ)とは驚く許りに異つた音聲語を發する半翅類(ヘミプテラ)の音樂が――起こす。それとは程度は劣るが、日本の蛙の歌聲(うたごゑ)にきも――尤もその音(ね)は寧ろそれが遍在な爲めに記憶に印するものであるけれども――またこの異國的な語調(アクセント)を認めることが出來る。稻が國中到る處に――啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]山の斜面や丘の嶺にだけでは無く、都市の境域内にすら――耕作されるのであるから、到る處に水の溢れて居る雅趣があり、從つて到る處に蛙が居る。日本を旅行した者で稻田の喧しさを忘れる者は一人もあるまい。

[やぶちゃん注:「半翅類(ヘミプテラ)」“hemiptera”。節足動物門昆虫綱有翅亜綱 Pterygota新翅下綱準新翅上目半翅(カメムシ)目 Hemiptera に属する昆虫類を指すが、ここはその中の鳴くところの半翅目頸吻亜目セミ型下目セミ上科 Cicadoidea のセミ類を小泉八雲は指している。因みに半翅目にはセミの他に、代表種群たるカメムシに始まってタガメ・アメンボ・ウンカ・アブラムシ(アリマキ)などが含まれる。]

 晚秋と短い冬との間だけ靜まるばかりで、春が初めて目醒めると共に、沼地の音總てが――生きかへりつつある土壤そのものの言葉かと思ひ誤るほどの、湧き立つ無限の合唱が――眼醒める。そして彼(か)の普遍的な生の神祕がその偉大な發言に――忘れられた幾千年の間、忘れられた幾代(だい)の勞役者が耳にしたものではあるが、疑も無く人類よりも幾萬世(せい)古いその偉大な發言に――存する一種特有な憂愁にをののくやうに思はれる、

 さてこの幽寂の歌は、日本の詩人に取つて、幾世紀の間、氣に入りの題目となり來たつて居る。が、日本詩人には、それが一個の自然表現としでよりも、寧ろ愉快な一つの音(ね)として訴へ來たつて居る、ことを知つて西洋の讀者は驚かれるかも知れぬ。

 

 蛙の歌ひ聲に就いては無數の詩が書かれて居る。が、普通の蛙を詠んだものと合點して居れば、その大部分は不可解なものとなるであらう。稻田の全體の合唱が日本の詩歌に於て頌讃を享けて居る場合は、幾百萬の小さなガアガア聲の混淆が――降雨の人を眠らせる音(ね)に好くも例へられて居る、實際に愉快な感銘を與へる混淆が――惹き起こすあの偉大な音量にのみ詩人はその快感を言ひ表はして居るのである。が、詩人が一個の蛙の聲を好い音(ね)だと述べる時は、稻田の普通の蛙について語つて居るのでは無いのである。日本の蛙はその多くの種類はガアガア聲のものではあるけれども(木の蛙は言ふまでも無く)著しい例外が一つある。日本での眞の歌ふ蛙卽ちカジカである。これがガアガアいふと言ふのは、その音調に對して不正な言(げん)で、實はそれは鳴禽の囀りの如くにうるはしいのである。それは『カハヅ』と呼ばれて居た。が、この古名が後世に至つて俗間で、尋常普通な蛙の總稱たる『カヘル』と混同さる〻やうになつたので、今はただ『カジカ』とばかり呼ばれて居る。この河鹿は家内の愛物として飼養さる〻ので、東京では數多の蟲商人が賣つて居る。その下の處に砂と小石、新しい水と小さな植木、の入つて居る水鉢が置いてあつて、上の處は細い針金(はりがね)を紗張りにした枠細工になつて居る、或る特殊な籠に棲まはせるのである。時にはその水鉢がトコニハ即ち雛形の風景園のやうにしつらへてある。現今は河鹿を春夏の歌ひ手の一つと考へて居るが、前には秋の音曲家のうちに部類分けされて居たもので、その歌ふのを聽くといふだけの樂みに、世人は田舍へ秋の遠足をしたものである。そして丁度種々な場處が特別な種々な夜の蟋蟀[やぶちゃん注:「こほろぎ」。]の音樂に有名であつたやうに、ただ河鹿が多く棲して居る所として著名な場所があつた。次にしるすのは殊に世に知れ渡つて居つた。

[やぶちゃん注:「木の蛙」樹上性の雨蛙(脊索動物門脊椎動物亜門両生綱無尾目カエル亜目アマガエル科アマガエル亜科アマガエル属ニホンアマガエル Hyla japonica)を指していよう。YouTube のkiokuima氏のこちらで鳴き声が聴ける。

「カジカ」「河鹿」。「清流の歌姫」とも称される、とても綺麗な鳴き声で鳴く無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeriウィキの「カジカガエル」で聴ける。

「それは『カハヅ』と呼ばれて居た。が、この古名が後世に至つて俗間で、尋常普通な蛙の總稱たる『カヘル』と混同さる〻やうになつたので、今はただ『カジカ』とばかり呼ばれて居る」荒俣宏氏の「世界大博物図鑑3 両生。爬虫類」(一九九〇年平凡社刊)の「カエル」の項の「カエルとカワズの区別」の項に、水戸出身の国学者林国雄の博物学的考証書「河蝦(かわず)考」(文政九(一八二六)頃成立)での「カワズ」「カエル」「カジカ」の名称の区別についての論考を基にした解説が出るので、それを引用させて戴く(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。

   《引用開始》

 万葉の時代にカワズとよばれたものは、江戸時代のそれとはちがっていた。江戸時代には、春、田沼で鳴き騒ぐものをカワズと称しているが、《万葉集》では、山川にすみ、とりわけ夏から秋に鳴くものをカワズとよんでいた。この習慣は、平安時代にも受け継がれて、紀貫之が《古今集》の序に、〈花に鳴くうぐひす、水にすむかはづの声きけば〉と記したのも、春のウグイス、秋のカワズという対照をふまえていたものだった。春のウグイスと対になるほどのものだから、カワズの声というのは,ふつうには今にいうカジカガエルの声を指していたと思われる。カエルという語ももちろん古く、《本草和名》[やぶちゃん注:深野輔仁(ふかねのすけひと)著。延喜一八(九一八)年成立。本邦初の本草辞典。]にはすでに見えるが、こちらは春に鳴く田沼のものを指していた。つまり、春のカエル、秋のカワズ、とその区別ははっきりしていたのだが、いつのまにかその差が愛昧にな

り、どちらもカエル類の総称となったのである。カエル、カワズの2語に対して、カジカという言葉はひじょうに新しい。江戸初期の俳諧師が、カジカガエルの鳴き声を聴いて、河の鹿になぞらえ、命名したもののようである。しかし、その鳴き声を出す実体がよく知られていなかったので、ハゼ科の魚[やぶちゃん注:条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux。]の名称にもなった[やぶちゃん注:中略。]。なお《重修本草綱目啓蒙》によれば、カエルのうち,体が小さくやせていて、あしの細長いものをカワズとよぶという。

   《引用終了》

また、荒俣氏は「博物誌」最後で本邦のそれを掲げられており、非常に参考になるので、やはり同仕儀で引用させて戴く。

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]日本でもカエルのイメージはまず鳴き声から生じてくるかのようである。風流の象徴であるカジカがその典型である。カジカの正体については古くから論争があり、[やぶちゃん注:中略。「あるが、」に詠み換えられたい。]文献をさぐるかぎり、古代における〈カジカ〉はカエルを指していたことが特定できる。

 平安時代、カジカの名所とされた京都南方の井堤(井手)の場合がその事情を示している。《新古今和歌集》2巻春歌に〈あし曳の山吹の花散にけり井手のかはづは今やなくらむ〉と、藤原興風の歌が載るとおり、そこは当時カジカでなくカワズの名所だったのである。この井堤のカワズを考証したのが、鴨長明であった。彼の《無名抄》によると、井堤のカワズはほかのカエルとちがって躍り歩くことがなく、色が黒く、あまり大きくない。その鳴き声は〈いみじく心、すみ、ものあはれなる声〉だという。これは間違いなく、カジカガエルを指している。《無名抄》より半世紀ほど前に出た歌学書《袋草紙》にも、能因法師が錦(にしき)の小袋に入れた井堤のカワズを、数寄(すき)者の歌詠みなかまに贈る話が載っている。

 風流人としても知られた戦国大名の細川幽斎も、丹後在城のとき、井堤のカワズをとりよせて池に放ち。その声を楽しんだ。以来、丹後国にもこのカエルがすむようになったという。また。かずかずの動植物を領内に移植した徳川光圀は。井堤のカワズもとりよせるように命じた。役人たちが夏季に3たび運んだが、いずれも三河、遠江、駿河のあたりで死なせてしまった。光圀はこれを聞き、秋の末か冬の初めに土にもぐったカエルを捕り、土をかけたまま運ぶように指示した。そのとおりに運ぶと、1匹も殺さずに領内へ無事に運びこめたという。

 また《河蝦考》には、著者林国雄がカジカを求めて、玉川を下流の六合(むつあい)から二子を経て青梅までえんえんとさかのぼる場面がある。2月の初め、青梅の河原で、著者はついにカジカの声を聞くことができた。ヒウヒウと小鳥の雛の声のように、せせらぎの音に相混じって、ほのかに聞こえたという。林国雄は、カジカが鳴くのは秋だと信じきっていたので、春に聞けたのも奥地まで来たからだと感想を残している。その鳴き声の主はすぐに判別できなかったが、目をこらしていると、流れより突き出た石の上に黒い小さなカエルがいるのが見えた、としている。

 次に日本人の目にうつったカエルは、跳びはねるもの、というイメージだった。小野道風(おののとうふう)の伝説はその代表的なものである。奈良県吉野町の蔵王堂では、77日に〈蛙とび神事〉が行なわれる。その縁起は、白河天皇の延久年間(106974)のできごとによる。蔵王権現をののしった男が、行者たちによってこらしめのために法力でカエルに変身させられてしまった。以来、このカエルは吉野山の下の池から蔵王堂まで跳ねていき、毎日行者を送り迎えした。そして案内役の苦行を数年間続け改心の情を認められたので、ついに人間にもどることができた。その故事にちなみ、蛙とびの行事がはじまったといわれている。

   《引用終了》

これらの話を小泉八雲が聞いたら、さぞ喜んだであろうことが確かに想像される。]

 

玉川と大澤の池(山城の國の川と湖水)

三輪川、飛鳥川、布留の山田、吉野川(何れも大和の國)

昆陽(こや)の池(攝津)

浮沼(うきぬ)の池(石見)

いかほの沼(上野)

[やぶちゃん注:「玉川」現在の京都府綴喜郡井手町を流れる淀川水系の木津川の支流(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古来よりの霊魂の川である「六玉川」の一つで、桜の名所。その上流が「かわづ」(河鹿蛙)の名所でもあった。

「三輪川」奈良県桜井市を流れる。狭井さい)神社境内の鎮女池(しずめいけ)に発し、大和川に注ぐ小さな川である。この附近

「飛鳥川」奈良県中西部を流れる大和川水系の川。ここ。明日香川とも表記する。

「布留」奈良県天理市の地名。石上(いそのかみ)神宮がある。ここ

「昆陽(こや)の池」兵庫県伊丹市昆陽池(こやいけ)。現在は往時の一部が「昆陽池」(こやいけ)としてその周辺地域と合わせて「昆陽池公園」として整備されている。

「浮沼(うきぬ)の池」「万葉集」にそれと詠まれている池は、現在の島根県大田市の三瓶山(さんべやま)の西にある湖である浮布池(うきぬのいけ)に比定されているが、固有名ではなく、ただの「沼」の意ともされる。

「いかほの沼」榛名湖の古称。]

 

 さて、極東の詩にあんなに屢〻賞讃されて居るのは、この河鹿、卽ちカハヅの調子の好い啼き聲であつた。で、昆蟲の音樂と同樣に、現存して居る最古の日本歌集にそれが記載されて居る。延喜の五年(紀元九百〇五年)に、敕命に依つて編簒された『古今集』といふ有名な佳句類集の緖言に、その編輯長であつた紀貫之といふ詩人が、こんな興味深い意見を述べて居る。

 

『やまとうたは、人の心をたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしけきものなれば、こゝろに思ふ事を、見るもの、きくものにつけて、言ひ出せるなり。花に啼くうぐひす、水に棲むかはづの聲をきけば、いきとしいけるもの、いづれか歌をよまざりける』

註 セティア・カンタンス――日本のナイティンゲール。

[やぶちゃん注:「ことわざしけきものなれば」「さまざまな日常の出来事や、そこでの行為を成すこと、これ、はなはだ多いものであるからして」。以下、貫之の素晴らしさは鶯や蛙のそれを聴くにつけても、一切の衆生、生き物は孰れも歌を歌うのだと述べていることである。

「セティア・カンタンス――日本のナイティンゲール」“Cettia cantans,—the Japanese nightingale.”スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone である。「Cettia cantans」は亜種扱いの同種のシノニム「Cettia diphone cantans」である。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶯(うぐひす)(ウグイス)」を見られたいが、「ナイティンゲール」は日本では「小夜啼鳥(さよなきどり)」と呼び(本邦には棲息しない)、スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos で全くの別種である。]

 

 貫之の言うて居るカハヅは勿論近代のカジカと同じ動物である。普通の蛙が、かの驚くべき鳥のウグヒスと同時に歌ひ手として記載された譯(わけ)は無い。それに、普通な蛙では、どんな古典的詩人にも、

 

手をついて歌申上るかはつかな   宗鑑

 

のやうな面白い想像を鼓吹することは出來なかつたらう。

 この小さな詩の妙味は、長上に對つて物を言ふ折に極東人がする禮式の姿勢を――身體(からだ)を恭しく屈め、指を外側に向けて兩手を床(ゆか)の上へ置いて跪く姿勢を――能く知つて居る人には一番能く了解が出來る。

 

註 少くとも男子に對して古い禮式で定められて居る姿勢はさうである。が、規則は頗る複雜で、性に依つて異ると共に位階に依つても幾分か差異があつた。女子はこの姿勢を執る時、指は外側に向けずに内側に向ける。

 

 蛙に就いて歌を詠むといふ慣習が、どれほど古いか、之を決定することは殆ど不可能である。が、遠く八世紀の中頃に出來た『萬葉集』に、其の時代にさへ飛鳥川は久しく蛙の歌ひ聲に名高かつたことを思はせる歌がある。

 

今もかも飛鳥の川のゆふさらす

   蛙なく瀨のきよくあるらん

[やぶちゃん注:原文のローマ字表記がそうなっているのだが、これは現行では読みが異なる。「万葉集」の「巻第三」の上古麻呂(かみのこまろ)の一首(三五六番)、

   上古麻呂の歌一首

今日(けふ)もかも明日香(あすか)の川の夕さらず

   かはづ鳴く瀨の淸(さや)けかるらむ

或いは一本に、初句は、

明日香川今もかもとな

とする歌である(一本のそれは「或いは今ももしかして」の意)。]

 

 この佳句類集中にまた、蛙の歌ひ聲に珍らしくも言ひ及んで居る次のやうなのがある。

 

おもほえす來ませる君を佐保川の

   かはつきかせすかへしつるかも

[やぶちゃん注:表記がおかしい。但し、そもそもが小泉八雲自身がローマ字では初句を“Omoboyezu”とやらかしているのを考えれば、まだ救われる。「万葉集」の「巻第六」の按作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)の一首(一〇〇四番。後書は行頭へ引き上げた)、

   按作村主益人の歌一首

思(おぼ)ほえず來(き)ませる君を佐保川(さほがは)の

   河蝦(かはづ)聞かせず歸しつるかも

右は、内匠大屬(たくみのだいさくわん)按作村主益人、聊(いささ)か飮饌(いんせん)を設け、以ちて長官(かみ)佐爲王(さゐのおほきみ)を饗(あへ)す。未だ、日、斜(くた)つに及ばずして、王、既(はや)く還-歸(かへ)れり。時に益人、厭(あ)かずして歸ることを怜-惜(を)しみて、此の歌を作れり。

が正しい。後書の「厭(あ)かずして」「充分に楽しまれることなくして早々と」の謂いであろう。]

 

 それから今一つの古代編纂の『古今和歌六帖』に、同じ題目のこんな面白い歌が保存されて居る。

 

玉川の人をもよきす啼くかはつ

   このゆふきけは惜しくやはあらぬ

[やぶちゃん注:平安時代の天禄元(九七〇)年頃から永観二(九八四)年頃の間に成立したとされる私撰和歌集「古今和歌六帖」(撰者不詳であるが、紀貫之説・兼明(かねあきら)親王説・具平(ともひら)親王説・源順(したごう)説がある)を「日文研」の「和歌データベース」でしらべると、「第三 水」に、

たまかはの ひとをもよきす なくかはつ このゆふかけは をしくやはあらぬ

の形で載る。小泉八雲の示したものは、

玉川の人をも過(よ)ぎず啼くかはづ

   この夕聞けば惜しくやはあらぬ

であろう。「よぎず」は「避けずに」の意。しかし、「和歌データベース」に従うなら、

玉川の人をも過ぎず啼くかはづ

   この夕景(ゆふかげ)は惜しくやはあらぬ

(或いは「夕影」でもよい)となろうか。]

 

 

       

 だからして千百年以上の間も日本人は蛙の詩を作り來たつて居るやうに思はれる。そしてこの題目での歌で、『萬葉集』に保存されて居るものは、第八世紀よりもつと前にすら作られたものといふことは少くとも考へ得られることである。この題目は最古の古典時代からして今日に至るまで、いつもあらゆる階級の詩人に愛好されて居る。この關係に於て注目すべき事實は、ホツクといふ音格で作つた、かの有名な芭蕉の最初の詩は蛙に就いてであつたといふ事實である。この極端に短い詩形(五、七、五綴音の三行)の成功は、感情を描いた一個の完全な繪を創造するにあるので、芭蕉の原作

 

古池や蛙とびこむ水の音

[やぶちゃん注:蕉風開眼の「古池や蛙(かはづ)飛(とび)こむ水のをと」は山本荷兮編の俳諧七部集の一つ「春の日」所収の貞享三(一六八六)年の作(この句形での初出は遷化編「蛙合(かわずあわせ)」で同年閏三月板行)。但し、同年のそれ以前の西吟(さいぎん)編「庵桜(いおりざくら)」同年三月下旬奥書)に、

古池や蛙飛んだる水のをと

の初期形があることが判っている。しかし、この初期形は如何にも軽口の諧謔に過ぎず、音韻上の面白さを狙っただけの駄作である。伝説の生きを出ないが、各務支考の「葛の松原」によれば、宝井(榎本)其角は詠んだその場で上五を「山吹や」とすることを勧めたともされるが、常套風趣のテンコ盛りで、そうしていたら、本句は永遠に芭蕉の名句とは成り得なかったであろう。]

 

は――之を英語になほすのは、不可能では無くとも――困難であるが――その業(わざ)を完成して居るのである。その後この音格で書かれた蛙の詩はその數は實に莫大なものである。今日でもへ文學本業の人が蛙に就いての短い詩を作つて樂しんで居る。そのうち著しいのは、日本の文學社會に『露石』といふ雅號で知られて居る靑年詩人で、この人は大阪に往んでゐて、その庭の池に幾百といふ蛙を飼うて居る。間を置いて一定の日に、銘々、饗應中に、その池の住者について句を一つ作らねばならぬといふ條件で、その詩人友達を馳走に招く。斯くして得た句を蒐めたものが千八百九十七年の春、表紙を飾り本文を說明する面白い蛙の繪を添へて、私かに[やぶちゃん注:「ひそかに」。]出版された。

[やぶちゃん注:小泉八雲は実際にはローマ字で句を掲げた後の本文の冒頭に

(“Old pond — frogs jumping in — sound of water.”)

という訳を添えている。

「露石」水落露石(みずおちろせき 明治五(一八七二)年~大正八(一九一九)年)。ウィキの「水落露石」によれば、『大阪府出身の日本の俳人。本名は義一、のちに庄兵衛。別号に聴蛙亭』。『大阪府安土町(現在の大阪市中央区、いわゆる船場にあたる)の裕福な商家に生まれる。府立大阪商業学校(のちの大阪商科大学、現在の大阪市立大学)を経て、泊園書院で藤沢南岳に漢学を学ぶ。その頃から俳句を始め、日本派の正岡子規に師事。東京の子規庵句会、松山の松風会に継いで』三『番目となる日本派の拠点、京阪満月会を興』した。『京阪満月会は寒川鼠骨、中川四明ら京都や大阪の日本派俳人を中心に拠った。しかしわずか』一『年で露石は地元の大阪で京阪満月会とは別に大阪満月会を興し、それに大阪の俳人たち、松瀬青々、野田別天楼、青木月斗らも続いた。以降は大阪俳壇の重鎮として子規を助け』た。『与謝蕪村の研究家としても』知られ、『蒐集した膨大な蕪村の原稿を』「蕪村遺稿」(表紙は富岡鉄斎)として出版している。『豊富な資金力から、子規亡き後を引き継いだ高浜虚子』の雑誌『ホトトギス』発行に『金銭的援助をし続けた。また』、『新傾向俳句にも傾倒し、同じ子規門の河東碧梧桐が主宰した『海紅』の同人となった』とある。本書刊行時(明治三一(一八九八)年十二月)は満二十六歳であった。小泉八雲が言っている蛙の句集は明治三〇(一八九七)年刊行の「圭虫句集」(序文は正岡子規)である。]

 が不幸にも、蛙文學の範圍と特質に就いて、明亮な觀念を英語譯で與へることは不可能である。その理由は、蛙に關しての作品の大多數は、その文學的價値が主として不可飜譯的な處に――例へば、日本の外(そと)では理解不可能な地方的な引き事[やぶちゃん注:“allusions”示唆・比喩。]に、言葉のしやれに、それれから二重にも三重にも意味を有つた語の使用に存して居るからである。飜譯が出來るのは百句每に二三句も無いぐらゐである。だから自分が企て得ることは少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の一般的觀察に過ぎぬ。

 

 戀の詩がこの奇妙な文學の餘程の部分を占めて居ることは、戀人の會合の時刻がまた蛙の合奏の最中であること、少くとも日本ではこの昔の記憶が殆どどんな淋しい場所でもの祕密な會合の記憶と一緖に聯想されること、を想ひ起こせば、讀者は奇怪に感じはされぬであらう。そんな詩に詠んである蛙は通例カジカでは無い。蛙の方が無限の巧妙な手段を用ゐて戀歌の中へ取り入れてある。此種の近頃の通俗な作のうち自分は例證を二つ與へることが出來る。初のは、有名な諺ノナカ ノ カノ カハヅ タイカイ ヲ ジラズ[やぶちゃん注:最初の「」は漢字の「井」をカタカナの「ヰ」のように用いた(江戸時代のルビなどにはしばしば見られる表記)もので明らかにポイント落ちで右手に寄っているので、ポイントを変えておいた。](『井の中の蛙大海を知らず』)の暗示を含んで居る。世間の事を全く知らずに居る人のことを、井の中の蛙に喩へるから、次記の句を詠んだ者は、可憐な頓智を以てつれない言葉に應答して居る、情(こころ)のうるはしい田舍娘であると想つてもよからう。

 

井の蛙花も散るなり月もさす   ( ? )

[やぶちゃん注:試みに調べてみたところ、「禅林世語集(ぜんりんせごしゅう)」(巷間で使われている言葉で禅意を表わそうとするもので、和歌や俳句、時にはその時代の落首までもが含まれるという)の中に、頼山陽の都々逸として、

井戶の蛙と譏(そし)らばそしれ花も散り込む月もさす

というのを見つけた。]

 

 二番目のは嫉妬するのも無理からぬ或る女が詠んだものと想像される。

 

水濁る池も蛙の高音かな     ( ? )

[やぶちゃん注:小泉八雲はこの句(作者不詳)を以下の英訳で示している。

Dull as a stagnant pond you deemed the mind of your mistress;

But the stagnant pond can speak: you shall hear the cry of the frog!

平井呈一氏の恒文社版「カエル」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『あなたはわたしの心を、濁った池のように見ばえがしないとお考えですが、濁った池にだって、蛙の声がきかれましてよ』と美事にさらりと訳しておられる。]

 

 戀歌のほかに池や田の普通の蛙を詠んだのが幾百もある。或るものは主として蛙が出す音の量に關したものである。

 

田の蛙水が嗚くかと思ひけり   一笠庵

[やぶちゃん注:「一笠庵」不詳。以下、出典不詳・作者不詳のものには注は附さない。]

 

苗代の水增せば增す鳴く蛙    ( ? )

 

田から田へ聲の續くや鳴く蛙   ( ? )

 

更けるほど池の蛙の高音かな   ( ? )

 

夜は池の廣しと思ふ蛙かな    はる子

 

船さへも留める堀江の蛙かな   ( ? )

[やぶちゃん注:「堀江」大阪市内を流れる今の大川の一部に当たる昔の人工運河。江戸幕府が天和三(一六八三)年に淀川水系の河川改修を河村瑞賢に命じて作らせたもので、江戸時代の「難波(なにわ)の堀江」は、現在の上町台地北端から吹田市江坂辺りまで長く伸びていた砂州を切り開いて、当時の淀川水系・大和川水系を西流させたもので、現在の大川天満橋付近に当たる(以上はウィキの「堀江 (大阪市)」の「堀江新地の開発」の項に拠った)。]

 

 この最後の句の誇張は固より故意のもので、原作では感銘に乏しい句でも無いのである。世界の或る地方では――例へぱフロリダや南部ルイジアナの沼では――蛙の喧噪は荒海の怒濤に似て居る。で、それを聞いたことのある人なら、音を障害だとする想像を鑑賞することが出來る。

[やぶちゃん注:「南部ルイジアナ」ぱっと見の地図でも湿地や沼が多い。しかし、現状のそれは深刻で、ウィキの「ルイジアナ州」によれば、『州南部の海岸は、世界でも最大級の速度で消失を続けている地帯である』とあり、『その原因として、人間が管理を誤ったことが大きなものになっている。昔は毎年春にミシシッピ川の水が溢れて堆積物を増やし、湿地を増やしていたので、土地は成長していたが、その土地が現在は減少している。これには幾つかの原因がある』。『人工の堤防が、沼地に新鮮な水と堆積物を運ぶはずの春の増水による氾濫を止めている。湿地では広い範囲で樹木が伐採され、運河や溝を通じて塩水が内陸まで運ばれるようになっている。石油・ガス産業のために掘られた運河も、嵐によって海水を内陸に運ぶようになっており、沼地や湿地に被害を与えている。さらに海面の上昇が問題を悪化させている。毎日球技場』三十『面に相当する陸地が失われているという推計もある。ミシシッピ川からの自然の溢水を復活させるなど、人間による被害を減らして海岸地域を保護するための提案も多い。それらの救済策が打たれなければ、海岸の地域社会は消失し続けることになる』。『地域社会の消失とともに、より多くの人々が地域を離れるようになっている』。『海岸の湿地は経済的に重要な漁業も支えているので、湿地が失われることは漁業にも打撃となる。湿地を生息域とする魚以外の野生生物種にも悪影響があるが、ミシシッピ川の河口は広大な湿地や沼地の森林を支え続けることに疑いは無い。これらの問題がありながら、ルイジアナ州の海岸部には生態系を探索するための多くの美しい湿地や沼地が現在もあり』、『野生のアメリカアリゲーターを見たり、カッショクペリカンやダイサギの群れを見るための遊覧船がルイジアナ観光の目玉になっている』とある。ここ。]

 他の句では蛙の音を雨の音に比較したり結び合はせたりして居る。

 

降る雨の音より低し初蛙    祥平

 

雨音と聞いて居たれば蛙かな  京魚

 

雨の音と蛙の歌に寢ねんかな  ( ? )

 

 また、次のホツクのやうに、小さな繪――爪先きのスケツチ――をただ描く積りの句もある。

 

畦道やかはづ飛びこむ右左   鳴雲

 

 また、次のもさうである。これは千年前のものである。

 

山吹のうつる沼水なくかはづ  ( ? )

[やぶちゃん注:出典不詳だが、小泉八雲の「千年前」というのはおかしい。本作品集は明治三一(一八九八)年刊で、八九八年は寛平十・昌泰元年の平安時代で発句の影も形もない。和歌の上句としても見出せない。但し、「山吹」と、「沼・池」の景、及び「蛙」は和歌の素材の取り合わせとして非常に古くからある常套のものである。]

 

 また、次の面白い趣向もさうである。

 

花散るや蛙のこゑの香に匂ふ  ( ? )

 

 この最後の二句は、言ふまでも無く、本當の歌ふ方の蛙[やぶちゃん注:カジカガエル。]を詠んだものである。

 蛙そのものへ――カヘルであらうがカジカであらうが――直接に物を言ひかけて居る短詩が多い。憂欝なものもあり、愛情のあるものもあり、諧謔なものもあり、宗敎的なものもあり、哲學的なものすらある。時には蛙を蓮の葉の上に休んで居る精靈になぞらへ、時にはしほれかかる花の爲めに經を讀んで居る僧にたぐへ、時にはこがれて居る戀人に、時には旅人を迎へ入れる宿主に、時には神々にいつも何か『言ひそめ』はするが、いつも言ひ終へるのを恐はがる瀆神家に見たてて居る。次の例句の多くは、露石が出版した最近の『圭蟲句集』から採つたものである。自分の散文譯の―一くさり一くさりが箇々別々な句であることを記憶して居なければならぬ。

 

客去つて何の蛙のかしこまる   翠竹

 

手をついて雨を迎ふか鳴く蛙   昇

 

古井戶の星かき亂す蛙かな    鳴雪

[やぶちゃん注:内藤鳴雪(弘化四(一八四七)年~昭和元(一九二六)年)は俳人。本名は素行(もとゆき)。伊予松山藩士内藤房之進の長男として江戸に生まれた。漢学を修めた後、京都へ遊学、長州征討の従軍などを経て、文部省に勤務、東京に学ぶ松山の子弟の寮である「常盤会」寄宿舎監督をも引き受けた。ここの寄宿生には後の正岡子規・河東碧梧桐らがいた。明治二四(一八九一)年の退官後も寄宿舎監督を続け、翌明治二五(一八九二)年には二十歳も年下の正岡子規の俳句の弟子となり、南塘・破焦の号で句作を始めた。和漢の学識と明治の情調に溢れ、飄々乎として円満洒脱な人柄は万人から敬慕された。その死は明治俳句の終焉を象徴するものであったともいえるであろう、と「朝日日本歴史人物事典」にあった。]

 

さらぬだに雨はねむきを蛙かな  金泉

 

大空へ何か言ひ出す蛙かな    ( ? )

 

世は空と悟りし貌や浮く蛙    靜江

 

山川に聲のよどまぬ蛙かな    ( ? )

 

 この最後の着想はカジカの優れた聲の力が珍重されて居ることと示して居る。

 

 

       

 自分は自分が蒐めて貰つた幾百といふ蛙の詩歌のうちに、蛙の冷たさや濕り氣を述べたものを唯だの一つも發見し得ぬのを不思議に思つた。この動物が時折執る奇妙な姿勢に就いての戲談めいた少數の句を除いては、その厭(いや)らしい性質に言ひ及んで居るもので自分が見出し得た唯一の句は、

 

晝見れば見にくき顏の蛙かな   曉石

 

といふ溫和しい評言であつた。

[やぶちゃん注:「曉石」は本篇の執筆時の資料提供者にして、本篇訳者の大谷正信の俳号である。]

 蛙の冷たい、しつとりと濕つた、緊り[やぶちゃん注:「しまり」。]の無い天性に關して斯く詩人が無言で居るのを怪しんで居る間に、突然自分の胸に浮かんだことは、自分が讀んだ他の幾千といふ日本の詩歌に、觸覺に關して詠んだものが全く無いといふ事であつた。色、音、匂ひの感じは、精緻驚くばかりにまた巧妙に表はされて居る。が、味感は滅多に述べて無い、そして觸感は絕對に無視されて居る。この無言若しくは冷淡の理由は、之をこの人種の特殊な氣質又は心的慣習に求むべきかどうかと胸に問うて見た。が、まだ自分はその疑問を決定することが出來ずに居る。この人種は、西洋人の舌には無味に思へる食物で幾代も生活し來たつて居ることを憶ひ起こし、また、握手とか抱擁とか接吻とか或は愛情の他の肉體的表明とかいふ動作を爲せる衝動は、極東人の性質が實際全く知らずに居るものといふことを憶ひ起こすと、愉快なものにせよ、不愉快なものにせよ、兎に角味感と觸感とは、その發達が日本人は我々よりも遲れて居るといふ說を抱きたくなる。然しそんな說の反證となるものが多い。日本人の手業(てわざ)の成功は、幾多特殊の方向に發達して居る觸覺の、殆ど比較にならぬほど精緻なことを確證して居る。この現象の生理學的意義は何であらうとも、その道德的意義は極めて重要である。自分が判斷し得ただけの處では、日本の詩歌は、我々が美的と呼んで居る高等な感性に微妙極まる訴へを爲しながら、劣等な感性は普通之を無視して居るのである。この事實は、他の事は何一つ表示して居らぬにしても、自然に對する最も健全な最も幸福な態度を表示して居るのである。我々西洋人は、純然自然的な多くの印象をば、或る病的な觸官感受性によつて發達した嫌厭の爲めに、之を嫌がりはせぬか。この問題は少くとも考察の價値がある。そんな嫌厭は無視して或は制御して――了解すればいつも愛らしい赤裸々の自然をばそのあるが儘に受け入れて――我々が官目的に醜陋とか不恰好とか嫌惡とか想像する處に美を――蟲に美を、石に美を、蛙に美を――日本人は發見するのである。日本人だけが百足蟲の形態を美術的に使用し來たつて居るといふ事實は意義の無い事であらうか。……模樣のある革の上をば炎の小波[やぶちゃん注:「さざなみ」。]の如く走つて居る金の百足蟲! が附いて居る京都製の自分の煙草入を讀者諸君に見せたいものである。

 

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