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2019/11/03

小泉八雲 占の話 (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題A Story of Divination)は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集IN GHOSTLY JAPAN(「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の第四番目に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”こちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”こちらで全篇が読める。無論、訳標題は「うらなひのはなし」である。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 

   占 の 話

 

 私は以前或占師を知つてゐたが、その人は自分の奉じて居る學問を本當に信じてゐた。彼は古い漢學の學生として、占を實地に行つて行かうなどとは思ひもよらなかつた時から、それを信ずるやうに習つたのであつた。若い時は或富んだ大名に仕へてゐたが、外の數千の侍と同じく明治維新の政治上及び社會上の變化のために絕體絕命の窮境に陷つた。彼が占師――町から町へと徒步(かちある)て、その旅の儲けをもつて家へ歸るのは一年に一度、それ以上は中〻歸られないと云ふ旅の占師――になつたのはその時であつた。占師としては彼は相應に成功した、――私は考へるに、そのわけは重に彼の非常に眞面目な事と、それから人の信用を呼びよせるやうな妙に物柔かな態度とによるのであつた。彼の占のやり方は古い學者風の物であつた、彼は英語の讀者に『易』として知られて居る書物と――支那の卦(け)――をどんな風にでも作れるやうにならべる事のできる黑檀[やぶちゃん注:「こくたん」。]の木片の一組とを使用した、――それから彼はいつでも神々に熱心な祈りをして彼の占を始めた。

[やぶちゃん注:「黑檀」ツツジ目カキノキ科カキノキ属 Diospyros spp. のコクタン類。英語の「Ebony」(エボニー)で知られる。ウィキの「コクタン」に代表種が掲げてある。嘗つて教え子の中にこれが理科の実験に使うエボナイト棒の原木だと思い込んでいた者がいたので言っておくと、エボナイト(ebonite)は生ゴムに多量の硫黄を混ぜて加熱して得られる黒色の角質状物質で人工の硬化ゴムである。化学的に安定しており、特に電気絶縁性に優れている。万年筆の軸・電気器具などに使用する。ちょっと見た感じがエボニーに似ていることによる名である。]

 彼の說によれば、易學その物は、それに通じた大家の手にかかれば決してまちがひのない物であつた。彼はいくつか誤つた占をやつた事があると白狀して居る、しかし彼の云ふところではこんなまちがひは全く或文句や卦の解釋をまちがつたためであつた。彼のために云へば、私自身の場合では(私は彼に四度占つて貰つた)、彼の占はよく當つたので、私はその占が恐ろしくなつた程であつた。讀者は占を信じないでもよい――智力的にはそれを輕蔑してもよい、しかし遺傳的迷信の傾向が大槪の人の心に潜んで居る、そして二三の妙な經驗がその迷信を動かして、占師の約束した幸運或は惡運に對して最も無理な希望や恐怖を抱く事になる。實際、私共の末末を見る事のできるのは不幸である。この二ケ月以内に、讀者の身の上に、どうしてもそれを豫防する事のできないやうな何か不幸が必ず起るときまつて居る事が分つた結果を想像して見るがよい。

 私が出雲で始めて遇つた時は、彼は既に老人であつた――たしかに六十歲以上であつたが、もつとずつと若く見えた。その後私は彼に大阪で、京都で、それから神戶で遇つた。度々私は冬の寒い間、私の家で暮らすやうに勸めて見た――實は、彼は非常に傳說などをよく知つて居るので、私の文筆にこの上もない助けをしてくれる事ができるのであつた。しかし一つは流浪の生活は彼に取つて第二の天性となつて居るのと、又一つはヂブシーの獨立のやうな、そんな野性を帶びた獨立を愛する念が彼にあるので、私はどうしても一度に二日以上彼をとめる事ができなかつた。

[やぶちゃん注:原文“gipsy”“gypsy”とも綴る。但し、「ジプシー」は差別的意味合いが強いので、今は使用すべきではない。小学館「日本国語大辞典」によれば、バルカン諸国を中心に、アジア西部からヨーロッパ各地・アフリカ・南北アメリカ・オーストラリアなどに広く分布する民族。十世紀頃、故郷であるインド北西部から西に向かって移動を開始し、十五世紀にはヨーロッパ全域に達した。皮膚の色は黄褐色かオリーブ色で、目と髪は黒。馬の売買・鋳掛け・占い・音楽などで生計を営んでいたが、近年は定住するものも多い。その固有の音楽や舞踏は、ハンガリーやスペインの民族文化に影響を与えた。自称は「人間」の意の「ロマ」である。]

 每年きまつて東京へ來た。――いつも秋の末であつた。その時は數週間、彼は區から區へと市中を飛び𢌞つて、それから再び消えて行くのであつた。しかしこの飛び𢌞る旅行中に、彼は必ず私を訪問して、出雲の人々や場所の有難い消息と、――それから又どこか名高い巡禮の場所から、大槪宗敎上の意味のある、何か珍らしい小さいおみやげをもつて來てくれた。こんな場合には、私は彼と數時間談笑する事ができた。時にはその話題は彼の最近の旅行中に見聞した珍らしい事物であつた、時にはそれは古い傳說や信仰の方面に向いた、時にはそれは占に關する事であつた。私共が最後に遇つた時に、彼は正確な支那の易學を習ふ事ができなかつた事を後悔して、その易學の事を私に話した。彼は云つた。

『その學間に通じた人は誰でも、たとへばこの家のどの柱でもどの貫(ぬき)[やぶちゃん注:和風建築で柱の列を横に通して、柱を安定させる用材。]でも何時倒れるかその正確な時間を云ふ事ができるばかりでなく、なほ又その倒れる方角からその結果まで云ふ事ができます。私がお話を一つしたら、私の意味がよく分りませう。

[やぶちゃん注:最初の二重鍵括弧開始位置はママ。]

 『その話は名高い支那の占師で、日本では卲康節[やぶちゃん注:「しやうこうせつ」。]と云つて居る人の話だが、「梅花心易」と云ふ占の本に出て居る。未だ餘程若い時に卲康節は彼の學德のすぐれてゐたために高い地位を得た、しかし彼は學問硏究に全力をつくすために、その地位を辭して、淋しいところへ行つた。數年の間、彼は山中の小屋に、冬になつても少しの火もなく、夏になつても一本の扇子もなく、獨居して、部屋の壁に――紙がないので――彼の思想を書いてゐた、――それから枕の代りに一枚の瓦を用ひてゐた。

[やぶちゃん注:「卲康節」北宋の儒学者邵雍(しょうよう 一〇一二年~一〇七七年)。百源先生・安楽先生と称された。康節は諡(おくりな)。ウィキの「邵雍」によれば、『幼いときに父に従い』、『共城県蘇門山の百源(現在の河南省新郷市輝県市)に移住』したが、『若い頃から自負心が強く己の才能をもってすれば先王の事業も実現できるとし、郷里に近い百源のほとりに庵をたてて刻苦勉励した。この間、宋初の隠者の陳摶』(ちん たん 八七二年~九八九年:五代十国から北宋にかけての道士で、しばしば仙人と見做される人物)『の系統をひく李之才(字は挺之)から』「易経」の『河図洛書と先天象数の学を伝授された。やがて自分の学問の狭さを自覚し、各地を遊歴して土地の学者に教えを請い』、『見聞を広めたが、道は外に求めて得られないと悟り、帰郷して易学について思索を深めた』。三十九『歳頃に洛陽に移住し、以後』、『亡くなるまでこの地で儒学を教えた』。『邵雍は貧しかったが』、『富弼・司馬光・程氏兄弟(程顥・程頤)・張載などの政学界の大物を知己とし、ものにこだわらない豪放洒脱な人柄から「風流の人豪」ともいわれ、洛陽の老若男女に慈父のように慕われた。晩年に天津橋上で杜鵑(ホトトギス)の声を聞き、王安石の出現と政界の混乱を予言した逸話は、邵雍の易学の一端をうかがわせる』。著書には「皇極経世書」と詩集「伊川撃壌集」がある。易学としては「1248163264」と進展する「加一倍の法」や、四季の4、十干の10、十二支の12、一世三十年の30など、中国人になじみの深い数を適宜に掛けあわせる数理計算によって、万物生成の過程や宇宙変遷の周期などを算出しようとした』。『数を通して理を考えようとした点は、朱熹の易学に影響を与えたと考えられる』とある。

「梅花心易」易は通常五十本の筮竹(ぜいちく)を使って占うが、梅花心易は、一切、道具を使わず、占おうとした時の周辺の様子から、手がかりを得て占う法で、邵康節が完成させたと言われてる。詳しくは、以下の段落を読まれた後に、サイト「飛不動尊 龍光山正宝院」のこちらを読まれるのがよかろうと存ずる。但し、ここは書名とあり、これについては底本の田部氏の「あとがき」に、『「占の話」は出雲の易者の事實談。そこに出て居る支那の話は『梅花心易掌中指南』と題する易の書物の始めにある話によつた』とあり、調べて見ると、国立国会図書館デジタルコレクションに中根松伯 著で中根松伯著で明治二六(一八九三)年文魁堂刊の「初卷」の巻頭に「家伝邵康節先生心易卦數序」以下の話を見出せた。

 『或日、夏の最も暑い季節に、彼は睡氣に襲はれて、瓦を枕にして橫になつた。眠につくと共に、鼠が一匹彼の顏を橫ぎつて走つたので、彼はびつくりして起きた。怒りの餘り瓦を取つて、鼠に向つて投げた、しかし鼠には當らないで、瓦は碎けた。卲康節は枕の破片を悲しさうに見て、自分の輕卒を自ら責めてゐた。その時突然碎けた瓦の新しい斷面に――表と裏の兩面の間に――何か漢字を認めた。甚だ變に思つて、彼はその破片を取つて丁寧に調べた。その割れ目に沿うた粘土の上に、未だ瓦の燒かれない時分に十七の文字が書いてあつた事を發見した、その文字はかう讀まれた、「卯の年の四月十七日、巳の刻[やぶちゃん注:午前十時前後。]に、この瓦は、枕になつたあとで、鼠に投げられて碎ける」ところで、この豫言は卯の年の四月十七日巳の刻に正しく的中したのであつた。非常に驚いて、卲康節は、もう一度その破片を見て、その瓦師の名と判を發見した。直ちに彼はその小屋を出で、その瓦の破片をもつて、その瓦師をさがしにその近所の町へ急いだ。彼はその日のうちに瓦師を發見して、その破片を示し、その瓦について彼に尋ねた。瓦師は破片を丁寧に調べたあとで云つた、「この瓦は私の家で製造した物ですが、粘土にある文字は或老人――占師――がその瓦を燒く前に書かせて貰ひたいと云つて書いたのです」「どこにその人が居るか知つてゐますか」卲康節は尋ねた。瓦師は答へた、「以前はここから餘り遠くないところにゐました、その家へ御案内致しませう。しかし私はその人の名は存じません」

 『その家に案内されて卲康節は、玄關に行つて、老人に面會を願つた。一人の靑年學僕は丁寧に彼に入るやうに誘つた、そして大勢の靑年の勉强して居る部屋へ案内した。卲康節が席につくと、靑年達は皆彼に挨拶した。それから始めに彼に物を云つた靑年はお辭儀をして云つた、「申上げるのも殘念ですが、先生は數日前に亡くなられました。しかし私達はあなたを待つてゐました。實は先生は、あなたが今日この家へ、丁度この時間にお出でになる事を豫言なさいました。お名前は卲康節とおつしやいませう。それで先生はあなたの役に立つ本を一册お上げするやうに申されました。ここにありますから、――どうぞお受け下さい」

 『卲康節は驚いた、と同時に喜んだ、實はその書物は最も珍らしい、そして最も貴い種類の寫本で、――占の學問の凡ての祕密を藏して居る物であつた。靑年達に御禮を云つてから、そして彼等の先生に對する適當なる弔辭を述べてから、彼は自分の小屋に歸つて、直ちに、自分の運を占ふために、その中を調べてその書物の價値をためして見た。その書物は彼に、その住宅の南側、家のかどに近い或ところに、大きな幸運の潜んで居る事を暗示した。彼は指示された場所を掘つて、壺を一つ發見した、それには彼を甚だ富んだ人とする程の黃金が滿ちてゐた』

        *        *

             *

 私の友人のこの老人は、淋しく世の中を送つたが、又淋しく世の中を去つた。この冬、山を越す時、吹雪に遇つて路を失つた。幾日か後に彼は小さい荷物を肩にかけたまま[やぶちゃん注:「か」は底本では脱字。推定で補った。]、松の木の根に眞直に立つてゐた、冥想して居るやうに、腕を組んで眼を閉ぢて――氷の像になつてゐた。多分嵐の通り過ぎるのを待つて居る間に、寒さのねむけに襲はれたのであらう、そして彼が眠つて居る間に雪の吹きよせが彼を蔽うたのであらう。この不思議な死を聞いて、私は『占師身の上知らず』と云ふ古い日本の諺を憶ひ出した。

 

 

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