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2019/11/23

小泉八雲 生神 (田部隆次訳) / 作品集「仏の畠の落穂」電子化注始動

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“A LIVING GOD)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の巻頭に置かれた作品である(この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う)。但し、諸資料によれば、本篇はそれに先立つ前年の明治二九(一八九六)年六月十五日午後七時に発生し、死者・行方不明者二万千九百五十九人という甚大な被害を齎した明治三陸地震(岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖二百キロメートルの三陸沖が震源とし、マグニチュードは推定7.6から8.6とされる)のニュースを聴き、本作を同年中に書き上げているようである。則ち、本篇は少なくとも、その執筆動機に於いては、企画としての本作品集への所収を、予め、念頭に置いて書いた作品ではない可能性があるということであり、ウィキの「小泉八雲」の「来日後の著作」でも、特異的に本篇のみを独立させて記しているのである(しかし、現行、最新の詳細な小泉八雲年譜と思われる、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の同年の記事には、そうした創作事蹟を見出すことは出来なかった。ただ、書簡中(友人エルウッド・ヘンドリック宛)に恐らく本地震の津波に言及した記載はある)。また、『平成29年度静岡福祉大学附属図書館企画展~教育紙芝居創始者・「いなむらの火」原作者~「2人の開拓者:高橋五山と小泉八雲の世界」』(プレゼンテーション版・PDF)には、はっきりと同一八九六年十二月号の英文雑誌『太西洋評論』(Atlantic Monthly)に初出とあった。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 本篇は嘉永七年十一月五日(グレゴリオ暦一八五四年十二月二十四日。この二十五日後の十一月二十七日(一八五五年一月十五日に「安政」に改元された)午後四時半頃に発生し、死者約三千人とされる安政南海地震(紀伊半島から四国沖を震源とし、マグニチュードは推定8.4とされる)とする巨大地震)の津波災害をもとにした物語で、ウィキの「稲むらの火」によれば(梗概が載り、ネタバレとなるのでリンク先全文は本篇読後に読まれたい)、『地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説』いたもので、小泉八雲は『西洋と日本との「神」の考え方の違いについて触れた文章であり、この中で人並はずれた偉業を行ったことによって「生き神様」として慕われている紀州有田の農村の長「浜口五兵衛」の物語を紹介した』。『小泉八雲は作中にも触れられている明治三陸地震津波の情報を聞き、この作品を記したと推測されている』が、『地震の揺れ方や津波の襲来回数など、史実と異なる部分も多』く、また、『「地震から復興を遂げたのち、五兵衛が存命中にもかかわらず』、『神社が建てられた」とする点は誤りである』とある(太字は私が附した)。則ち、原題の「A LIVING GOD」は事実ではない(実話では梧陵は確かに祀られそうになったらしいが、彼自身がそれを固辞した。現在、彼を顕彰した感恩碑はあるが、これは昭和八(一九三三)年の建立である。但し、村民たちが終生、濱口に深い尊崇の念を持ち続けたことは確かである)のである。さて、この『小泉八雲の英語による作品を、中井常蔵』(明治四〇(一九〇七)年~平成六(一九九四)年:和歌山師範学校専攻科卒業後、小学校訓導を務めていた(後に校長となった))が『翻訳・再話したもの』が、「稲むらの火」という作品で、昭和九(一九三四)年九月に『文部省の教材公募に入選し』、昭和一二(一九三七)年から十年もの『間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された』(以下に示すサイトでそれも読めるが、やはり本篇を読んでからにして戴きたい)。『防災教材として高く評価されている』。『もとになったのは紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)での出来事で、主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)』(はまぐちぎへい(ごりょう))『である』とある。

 濱口梧陵(文政三(一八二〇)年~明治一八(一八八五)年)は、ウィキの「濱口梧陵」によれば(これも同前で読後に読まれたい)、紀伊国有田郡広村(現在の和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。駅逓頭(後の郵政大臣に相当)や、初代和歌山県議会議長を務めた。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとしても知られる』とある。

 彼や「稲むらの火」については、やはり本篇読後に読まれたいが、詳細を記した複数のサイトやページが存在する。中でも、

サイト「稲むらの火」

が勝れ、他に、

「気象庁」公式サイト内の「稲むらの火」のサイト

もあり、また、

「ヤマサ醤油」公式サイト内の『戦前の国定教科書にものった「稲むらの火」』

のページもよい。電子化されたのものでは、

サイト「小さな資料室」の『資料161 「稲むらの火」(『初等科国語 六』所収)』

がある。
特に上の二つのサイトでは、事実と創作の相違点や誤りが細かく検証されている。従って、そうした事実との齟齬部分については、原則、私は注を附さないこととした。但し、素人目で見て奇異な箇所は、數箇所、小泉八雲の創作上の虚構を指摘してはおいた。無論、語注については今まで通りに附した。さらに、三成清香氏の論文『「生神」A Living God とハーン  史実と「稲むらの火」との比較から』(『下関市立大学論集』第六十二巻第三号・二〇一九年一月発行・PDFでダウン・ロード可能)が詳細を極め、とどめを刺すものと思う。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字とし、途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。また、終わりの方のブレイク・マークに二点リーダの縦線があるが、これは底本ではもっと長く、底本の本文一行(字空けとペアで二十個分)みっちり打たれたものである。原文も確かに普通でない感じで打ってある。]

 

  佛の畠の落穗

    極東に於ける手と魂の硏究

 

   第一章 生 神

 

       

 その大きさ如何に拘らず、純粹の神道の堂や社は悉く同じ古風な樣式で建ててある。標本的の神社は、極めて急な勾配の、張り出したやうな屋根のある白木造りの窓のない長方形の建築である、前面は破風造り[やぶちゃん注:「はふづくり」。]である。氷久に閉ざしてある戶の上の方は木の格子造りで、――大槪格子の縱橫(たてよこ)が細かに組んであつて、互に直角に交叉して居る。大槪、建物は木の柱で地面から少し高く上つて居る。そして眉庇(まびさし)のやうな孔[やぶちゃん注:「眉庇」は帽子の庇、或いは、窓の上の小さい庇を指すが、原文は“visor-like apertures”とあるから、「庇(バイザー)風になった(その下方の)開口部」の意。]や、破風造りの上の梁(はり)の不思議な凸出物のある妙な尖つた前面は、歐洲の旅客に、屋根窓の或古いゴート式[やぶちゃん注:“old Gothic forms”。実際に古いゴシック様式。]の形を想ひ出させる事もあらう。人工でつけた色はない。飾りのない材木はやがて、雨と日のために自然に灰色になる、それも晒らされる度合によつて、樺木(かばのき)[やぶちゃん注:“birch”。「バーチ」。ブナ目カバノキ科カバノキ属 Betula。タイプ種はヨーロッパダケカンバ Betula pubescens。種が多く、日本の通称のカバノキ類とは欧米の読者が想起するものとは種が異なる。]の皮の銀がかつた調子から、玄武岩の薄暗い灰色まで色々の變化がある。そんな形のそんな色であるから、淋しい田舍の社(やしろ)は大工の造つた物と云ふよりも、むしろ風景の一特徵――岩石や樹木と同じく、自然に密接に關係した田舍の或姿、――大地(おほつち)の神の現れとしてのみ存在するやうになつた或物、――と云つた方がよい。

 或建築の形が、何故見る人に一種物すごい感情を起させるかの問題は、私はいつか解釋しようと思ふ物である、今はただ村社はさう云ふ感情を起させるとだけ敢て云つて置く。慣れるに隨つて、それが薄らぐ事はなく、かへつて增加する、そして一般信仰の事を知つて居る事が、それを强くする傾きがある。私共はこの不思議な形の物を適當に說明する英語の言葉をもたない、――まして、それから受ける特異の印象を傳へる事のできる言葉はさらにない。私共が『テムプル』[やぶちゃん注:“temple”。中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会「テンプル騎士団」(Knights Templar)でも判る通り、広汎な「宗教及び精神的神霊的儀式、また、生贄や祈禱などの諸活動のための祭祀施設としての礼拝堂・聖堂・神殿」を指す。]とか、『シユライン』[やぶちゃん注:“shrine”。英語のそれも決して日本の「神社」を固有に指すものではなく、広汎な宗教的な「人の遺骨・遺物・像などを祭った聖堂・廟」を指す。]とか云ふ言葉で、よい加減に譯して居るそれ等神道の言葉は實は飜譯ができない、――卽ち、それ等の言葉に日本人がつけて居る思想は、飜譯で傳へる事はできない。所謂神の『みや』は古典的の意味で云ふ殿堂よりも、むしろ魂の出入する部屋、精靈の室、心靈の家である、多くの小さい神は事實心靈、數百年或は數千年以前に生きて働いて死んだ偉大なる戰士、英雄、爲政者、敎師の心靈、――である。私は西洋の人には『心靈の家』と云ふ言葉の方が、『神社』や『殿堂』のやうな言葉よりも、神道の宮(みや)や社(やしろ)、――そこにはその永久に薄暗いところに、象徵或はしるし、多分紙でできたしるし[やぶちゃん注:御幣のことであろう。]以外には何等實質的な物のない、その不思議な性質を多少おぼろげなりにも傳へるだらうと想像する。

 その眉庇(まびさし)の正面のうしろの空虛は、如何なる實質的な物よりも、返かに暗示的である、そして諸君が數百萬の人が數千年の間に、こんな社(やしろ)の前で、彼等の偉大なる死者を禮拜した事、――全民族が今尼なほその建築は意識のある人格を有せる見えない神の住むところと信じて居る事を思へば、――諸君は又この信仰の不合理な事を證明する事は如何に困難であるかを考へるやうになる。否、西洋の人が如何に澁つても、――その經驗について、諸君があとで何と云ふ方が或は云はない方が好都合だと思ふにしても、――讀者は多分一時はあり得べき物に對する敬虔の態度を執らざるを得ないであらう。ただ冷たい推論だけでは、反對の方向へ諸君をつれて行く助けにはならない。感覺の證據は餘り役に立たない、見る事も聞く事も觸れる事もできない非常に多くの實在が存して、しかも力、――恐るべき力として存する事を讀者は知る。それから讀者は又、その信念が空氣のやうに讀者の周圍に普く動いて居る間は、――空氣が讀者の肉體をとりまくと丁度同じやうに、その信念が讀者の精神をとりまく間は、――四千萬[やぶちゃん注:本書の刊行された明治三〇(一八九七)年の日本の本籍人口は既に四千三百二十三万人近かった。]の信念を嘲る事はできない。私自身について云へば、いつでも私が獨りで神社の前に出ると、私は何かにとりつかれたやうな感じになる、そしてとりつく物を自覺する事のできる事を考へざるを得ない。それからこれが私を誘惑して、もし私自身が神であつたら、――石の獅子にまもられ、尊い森に圍まれた岡の上のどこか古い出雲の神社にに鎭座するとしたら、――どんな氣がするだらうと考へるやうになる。

 私の住所は魑魅(ちみ)の住むやうに小さいだらうが、私は形も姿もないから、決して小さい事はない。私はただ顫動に過ぎない、――ヱーテルや磁氣のやうに見えない運動に過ぎない、しかし私が出現したい時には、私の昔の見える姿に似た影の體を取る事が時々できる。

[やぶちゃん注:「ヱーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次訳)」の私の注を参照されたい。]

 鳥が空氣を、魚が水を通るやうに、私の靈は凡ての物質を通りぬけるだらう。私は私の家の壁を自由に通過して日光の長い黃金浴に游ぐ事も、花の心(しん)で動く事も、蜻蛉の頸に來る事もできる。

 生命に勝る力、死に勝る力、――それから自分を擴げる力、自分を何倍にもする力、そして凡ての場所に同時に遍在する力、――が私にある。一百の家庭に於て同時に私が禮拜されるのを聞く、一百の供物の氣を吸ふ。每晚、一百の家々の神棚にある私の場所から、赤い粘土の燈明[やぶちゃん注:素焼きの燈明台のこと。]、眞鍮の燈明に、私のためにとともしてある聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]光、最も淸淨なる油をついで、最も淸澄なる火をもやしてある聖い光が見られる。

 しかし岡の上の私の社で、私は最大の尊敬を受ける、そこで私は速かに私の無數の分身を集める、そして哀願に答へるために、私の力を統一する。

 私の靈屋[やぶちゃん注:「みたまや」と訓じておく。]のほの暗いところから。私は草履をはいた足の近づくのを待つて居る、そして誓の文句を書いた紙をひねつて、鳶色の柔軟なる指で私の格子に結びつけるのを見て居る、そして私の禮拜者の口が動いて、祈をするのを見て居る、――

 

 『拂ひ給へ、淸め給へ。……私共は太鼓を鳴らし、火をともしましたが、田地が乾いて、稻が育ちません。哀れと思召して雨をふらして下さい、大明神樣』

 

 『拂ひ給へ淸め給へ。……私は野原で働いて、餘り日に當つたので、色が黑くて、餘り黑くて困ります。……どうか、私を白く、精々白く、――町の女の人達のやうに白くして下さい、大明神樣』

 

 『拂ひ給へ淸め給へ。……私共の忰で、二十九になる兵隊の塚本元吉が、早く、――至急、大至急、――凱旋して私共のところへ參りますやう、恐れながらお願いたします、大明神樣』

 

 時々或少女が來て、心の中を悉く私にささやく事がある、『十九になる女でごごいます、私は二十一になる男に慕はれてゐます。善い眞面目な人ですが、貧乏なので私達の前途は眞暗でございます、哀れと思召してお助けを願ひます、――どうか一緖になれるやうにお助け下さい、大明神樣』それから、柔らかな濃い髮の一房、――元結で結んである鳥の翼のやうに光澤のある黑い彼女自身の髮を、私の社の格子に掛ける。そしてその捧げた物の香、――その若い農婦の質素な香にひかれて、――神であり靈である私は、人間であつた頃の感情を再び感ずるやうになる。

 母達は子供等を私の社前に連れて來て、私を尊敬する事を敎へて云ふ、『この有難い尊い神樣の前で頭を下げなさい、大明樣にお辭儀をなさい』それから、私は小さい手の鮮かな柔らかな拍手を聞いて、神であり靈である私も昔、父であつた事を想ひ出すだらう。

 每日、私のために淸い冷い水の注がれる音、ばらばらと降る雨の音のやうに、私の木の箱に米のばらばらと落ちる昔、賽錢のちりんと鳴る音を私は聞く、そして水の精で力がつき、米の精で元氣を囘復するだらう。

 私を尊ぶために、祭禮が行はれよう。黑冠白衣の神官達は、――私の食物に息をかけないやうに、白紙で鼻と口を掩うて、果物、魚、海草、餅、酒の供物を私に捧げるだらう。それから彼等の娘である巫女(みこ)達、眞紅の袴と純白のころもをつけた巫女達は、小さい鈴の音につれて、絹の扇のなびきと共に、踊るために來る、それは私が彼等の若い花やかさを見て喜び、彼等の優美な魅力によつて樂む[やぶちゃん注:「たのしむ」。]ためである。それから、何千年前の音樂、――太鼓と笛の不思議な音樂、――それからもはや使はれない言葉の歌がある、同時に、神々の祕藏娘の巫女達は、私の前で姿美はしく列ぶ、――

 

 ……

 『神の御前に花のやうに立つ巫女等、――誰の子であらう。それは大神の子等である。

 『聖い御神樂[やぶちゃん注:「おかぐら」。]、巫女等の舞、――神は聞いて喜び、見て樂む。

 『大神の御前で乙女等は舞ひ踊る、――新たに開いた花のやうな乙女等』……

 

 色々の種類の奉納の品を私は受ける、私の聖い名を書いた絵提灯、奉納者の年齡をすり込んだ色々の色の手拭や、病氣平癒、船の救助、鎭火、男子出生の祈願がかなつた記念の繪の額を奉納される。

 それから又、私の番をする獅子唐獅子も崇められる。巡禮が來て、頸や足に草履を結びつけて、强い足を授かるやう、唐獅子に祈るのを私は見るだらう。

 私は、碧玉色の毛皮のやうな綺麗な苔がその獅子の背中に徐ろに、徐ろに生えて來るのを見るだらう、――私は、その脇腹と肩の上に、光のない銀色の斑[やぶちゃん注:「まだら」。]となつて、光のない金色の點となつて、地衣(こけ)の發生するのを見るだらう、――私は數代を經るうちに、その土臺が霜と雨に掘られて行つて、最後に私の獅子が釣合を失つて、倒れて、その苔蒸した首が取れるのを見るやうになるだらう。そのあとで人々は又別の形の新しい獅子、――金の齒と金の眼と、苛責の火のやうな尾をもつた花崗石か唐金[やぶちゃん注:「からかね」。青銅。]の獅子を私に與へるだらう。

 杉と松の幹の間から、竹藪の間から、私は季節每に、谷の色の變化するのを見るであらう、冬の雪の降る事、櫻の花の雪のやうに降る事、都花の廣い藤色、菜の花の燃ゆるやうな黃色、水の漲ぎつて居る低地に映ゆる靑空、――私を愛してくれる働く人達の月の形の笠の斑點のある低地、それから最後に生長する稻の淸い柔かな綠色。

[やぶちゃん注:「都花の廣い藤色」これはちょっと困った。原文は“the lilac spread of the miyakobana”であるが、まず「都花」という和名はマメ目マメ科マメ亜科ミヤコグサ連ミヤコグサ属ミヤコグサ Lotus japonicus で春に花が咲くが、その色は黄色である(黄色から赤くニシキミヤコグサLotus japonicus forma versicolor もある)。「the lilac spread」とは私は「ライラックのような紫色をむらなく広げた薄い色」の謂いだと思う。しかも順列から見て、ここには春の花が入らねばなるまい(「ライラック」は花の名を出さずともその色名として明るい紫を指す「ライラック」(因みに同色の近似色は藤色・葡萄色・マゼンタ・紅色である)でよいのだが、因みにライラックの花は春咲くのだ)。小学館「日本国語大辞典」で「みやこぐさ」を引くと、本文はミヤコグサのこととするのだが、後の「方言」の欄に興味深い記載を見つけた。「れんげそう」(蓮華草)として採取地を鳥取県の一部及び出雲とあるのだ。これをミヤコグサをそこで「れんげそう」と呼んでいるの意味ではなしに、レンゲソウのことをそこでは「みやこぐさ」と呼んでいるという意味に採れないだろうか? 私の言うレンゲソウは私の好きなマメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus のことだ。ゲンゲの花色は紅紫色だ。遠くから野や田に群れ咲くゲンゲの花の色を「薄く延ばした明るい紫色」と言って私は少しも違和感がないのだ。私はこの「都花」とは「ゲンゲ」の花のことだと思う。大方の御叱正を俟つ。

 椋鳥と鶯は、樣々の好いさへづりで私の暗い森を滿たすであらう、――鈴蟲、きりぎりす、それから夏の七種の驚くべき蟬は、その嵐のやうな音樂をもつて私の靈屋の悉くの森を震はせるであらう。速かに、私は大恐悅のやうに、彼等の極めて小さい生命のうちに入つて、彼の叫びの喜びを勵まし、彼等の歌の好音[やぶちゃん注:「よきおと」と訓じておく。]を大きくするであらう。

[やぶちゃん注:「七種の驚くべき蟬」私の労作注の一つである『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「二」』を見られたいが、夏の六種は即座に挙げられる(各学名や生態はリンク先を見られたい)。小泉八雲がそこで挙げている順に現在の標準和名で示すと、クマゼミ・アブラゼミ・ニイニイゼミ・ヒグラシ・ミンミンゼミ・ツツツクボウシである。七種目? そりゃもう、最後の八番目(一番目のハルゼミは夏という条件に合わないので外した)に挙げておられる「ツリガネゼミ」なんでしょうねぇ、八雲先生?]

 

 しかし私は決して神にはなれない、――今は十九世紀であるからである、そして――肉體をもつた神でなければ――何人も神の感覺の性質を本當に知る事はできない。そんな神はあるだらうか。事によれば――非常に邊鄙な地方に――一人二人はある。生神は昔からあつた。

 昔は、どんなにその境遇は賤しくても、特別に大きな或は善良な或は賢い或は勇敢な事を何かした人は、その死後、神と宣言される事があつた。大きな殘忍不正に苦しんだ善人も亦神に祀られる事もある、それから今でも、特別な境遇の下に進んで死を選ぶ人の魂、――たとへぱ、不幸な愛人の魂に、死後の名譽を與へて、祈をするやうな一般の傾向が存して居る。(多分、こんな傾向を作つた古い習慣は、惱んだ魂を慰めたいと云ふ願から起つて居る、しかし今日では大きな惱みの經驗があれば、その人は聖い境遇に入る資格があると考へられるらしい、――そしてこんな考のうちには何等馬鹿らしいところはない)しかしもつと著しい神化もあつた。未だ存命中の或人々は、その人々の魂を祀る神社を建てて貰つて、神として取扱はれた、實際國家の神としてではないが、もつと低い程度の神として、――事によれば守護の神として、或は村の神として。たとへげ、紀州有田郡の農夫、濱口五兵衞は、生前神にされた。私はそれだけの價値があると思ふ。

[やぶちゃん注:私はこの「一」の小泉八雲が自ら神霊となったとしたら――という空想のシークエンスがすこぶる好きだ。これから語られる濱口氏のそれとは関係はないけれども、私は小泉八雲がその空想に耽るのが目に見えるのだ。その空想が描く映像も見えるのだ。因みに、都合が悪いから小泉八雲が敢えて言わなかった、ブラック・マジック、怨霊を祀ることでそれを守護神とする本邦の非常に大きな神霊潮流の一つである御霊信仰もあることは忘れてはならない。]

 

      

 濱口五兵衞の話をする前に、私は明治以前の時代に、多くの村々を支配してゐた或法律――或はもつと正しく云へば、法律の力を悉く有する習慣――について少し云はねばならない。この習慣は數代の社會的經驗に基づいてゐた、そして國や郡によつて小さい點は違つてゐたが、その重なる意味は殆んど到るところ同じであつた。倫理的な物も、產業的な物も、宗敎的な物もあつた、そして一切の事は、――個人の行儀までも、――それに支配されてゐた。それによつて平和が保たれ、相互の助力、相互の親切が行はれた。時々他村との間に、重大な爭鬪――水爭や境界爭に關する小さい百姓の戰――の起る事があらう、しかし同じ村同志の間の爭は復讐の時代には許容されなかつた、そして村全體は徒らに内部の平和を破る事を嫌つた。或程度までこの狀態はどこか古風な地方では今もなほ存在して居る、人々は戰は勿論爭もしないで暮らす事を知つて居る。一般の規則として、どこででも日本人の戰ふ場合は命のやりとりである、それで自分から進んで本氣に手出しをするやうな人は、その團體の保護を事實上受けない事になる、そして自分の生命は自分の手だけで守る事になるから、どうしてもそれを失ひさうである。

 女性の行爲は全然不文律を離れた或著しい制裁によつて支配されてゐた。結婚前の農夫の娘は、都會の娘よりも遙かに多くの自由を許されてゐた。彼女に愛人のある事が知られても差支はない、それから兩親が甚だしく反對しない以上、彼女に對してそれ程非難は加へられない、それは――少くともその意志については、――正直なる結合と見なされてゐた。しかし一旦選擇をした以上、彼女はその選擇によつて束縛されてゐた。もし彼女は祕密に別の愛人に會つた事が發見されたら、人々は彼女を裸にして、棕櫚の葉を一枚前に當てる事を許すだけで、村の往來や小路を步かせて嘲弄する事にした。娘の兩親は、娘がこの通り公然侮辱を加へられて居る間、外へ顏を出す事もできない、娘の恥を共に受けて、雨戶をしめて家の中に蟄居すべききまりになつてゐた。そのあとで娘は五年間追放のを受けた。しかしそれだけの期限が終れば、彼女はその過失を償つた事と考へられて、それ以上の非難を受ける心配は少しもなく、家へ歸る事ができた。

[やぶちゃん注:私は以前から、ここで小泉八雲が記している村落共同体の中での不倫を成した女性の懲罰と村八分の五年追放とその赦しについて、若き日より、その原資料を探して求めているのだが、未だ嘗つて発見することが出来ない。識者の御教授を是非とも乞うものである。]

 

 災難や危險の時に、相互に助力すべき義務は、凡ての國體の義務のうちの、最も重大な物であつた。殊に火事の場合には、誰でも、男でも女でもできるだけの事をして直ちに助力せねばならなかつた。子供でもこの義務は免れなかつた。勿論都市では違つた制度になつてゐた、しかし小さい田舍の村ではどこでも、一般の義務は甚だ明白で簡單であつた、それでその義務を怠る事は許し難い事と考へられた。

 この相互の助力の義務は宗敎上の事にまで及んでゐた事は珍らしい事實である、誰でも賴まれた時には、病人や不幸な人のために神佛に祈る事になつてゐた。たとへば、非常に重い病人のために、千度參り原註をするやうにとその村の人が命ぜられる事がある。そんな場合には、組長(銘々の組長は五六軒の家の行爲について責任があつた)は、家から家へと走り𢌞つて、『かうかうした人が病氣でひどく惡い、どうか皆で急いで千度參りをして貰ひたい』と叫ぶ。そこでその時どんなに忙しくても、その村の人々は殘らず寺なり神社なりへ急ぐ事になつてゐた、――途中で躓いたり、轉んだりしないやうに注意せねばならない、千度參りを行ふ間に少しでも間違があれば、それは病人に取つて不幸になると信ぜられてゐたからである。……

 

註 千度參りと云ふのは、寺なり神社なりへ千度參詣して神佛へ千度の祈禱をする事である。しかし門なり鳥居なりから、祈禱の場所までその度每に祈をくりかへして往復すればよい事になつて居る、そしてこの仕事に數人で分配しても宜しい、――たとへば、百人で十度づつ參詣する事に、ただ一人で千度參詣するのと全く同じ効果がある。

 

       

 これから濱口に關して。

 有史以前から日本の海岸は、數世紀の不規則なる間を隔てて非常に大きな海嘯[やぶちゃん注:「かいしやう(かいしょう)」。津波。]――地震、或は海底の火山の働きのために起る海嘯のために掃き去られて居る。この恐ろしい海の不意の膨脹を日本人は津浪と云つて居る。最後の津浪は一八九六年(明治二十九年)六月十七日の夕方に起つた、その時には殆んど二百哩[やぶちゃん注:「マイル」。三百二十二キロメートル。長さはしかとは判らない。機械的に宮城県南端から青森県尻屋崎まで概測すると四百五十キロメートルあるから、誇張な数値ではない。因みに津波の高さは当時の観測最高値である海抜三十八・二を記録している。かの東日本大震災の津波の遡上高は岩手県大船渡市の綾里湾の四十・一メートルが最大とされる。]程の長さの津浪は宮城、岩手及び靑森の東北の諸縣を襲うて歎百の都市と村落とを破壞し、いくつかの地方を全滅させ、そして殆んど三萬の人命を亡ぼした。濱口五兵衞の話は日本の他の地方の海岸に於て明治時代より遙か以前に起つた同じやうな災害の話である。

 彼を有名にした事件の起つた時、彼は老人であつた。彼はその村の最も有力なる住民であつた、長い間村長であつた、そして尊敬され又愛されてゐた。人々はいつも彼をおぢいさんと呼んだ、しかし、その土地の最も富んだ人であつたので、時に公けに長者と呼ぱれてゐた彼は小さい農夫に爲めになるやうな事を云つてきかせ、喧嘩の仲裁をし、必要な時には金をたて替へ、そして最もよい條件で彼等のために米を賣捌いてやるやうな事をいつもしてゐた。

[やぶちゃん注:小泉八雲は老人と言っているが、冒頭注で生没年を示したから言っておくと、事件当時、濱口五兵衛は未だ数えで三十五歳であった。小泉八雲の確信犯の創作部分である。]

 濱口の大きな草葺きの母屋(おもや)は、灣を見下す小さい高臺の端に建つてゐた。重に米をつくつてあるこの高臺は、森のしげつた山に三方圍まれてゐた。この土地は外に向いた端の方から、水際までゑぐれ取つたやうに大きな綠の凹面になつて傾斜してゐら。そしえ二哩の四分の三程のこの傾斜の全部は、海面から見ると狹い白いうねりくねつた道、一條の山道によつて中央を分けられた綠の大きな階段のやうに見えた。本當の村になつて居る九十の草葺きの家と一つの神社が屈曲した灣に洽うて立つてゐた、そして外の家は長者の家へ通ずるその狹い坂路の兩側にしばらく續いて散在してゐた。

[やぶちゃん注:流石にこの舞台となったところは示さねばなるまい。紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町(ひろがわちょう))である。ここ(グーグル・マップ・データ。顕彰資料館「稲むらの火の館」をドットした)。]

 

 秋の或夕方、濱口五兵衞は下の村でお祭の用意をして居るのを、自分の家の緣側から眺めてゐた。稻の收穫は大層好かつた、そこで村人は氏神の社の境内で踊を催して豐作を祝しよう[やぶちゃん注:「しゆくしよう」。]としてゐた。老人は淋しい町の屋根の上にひるがへつて居る幟[やぶちゃん注:「のぼり」。]や、竹の竿の間に飾つてある提灯の列や、神社の裝飾や、派手な色のなりをした若い人々のむれを見る事ができた。その夕方老人と一緖にゐたのは小さい十歲の孫だけであつた、その他の人々は早くから村の方へ行つてゐた。いつもより少しからだの加減が惡くなかつたら、老人も一緖に出かけるところであつた。

 その日はむしあつかつた、そして微風が起つて來たが、未だ何だか重苦しい暑さが殘つてゐた、それが日本の農夫の經驗によると、ある季節には地震の前兆である。そして間もなく地震が來た、人を驚かす程の强さではなかつた、しかしこれまで數百囘の地震を感じて來た濱口は變に思つた、――長い、のろい、ふわふわとしたゆれ樣であつた。多分極めて遠方の或大きな地震のほんの餘波であつたらう。家はめきめきと云つて幾度かおだやかにゆれた、それから又靜かになつた。

 その地震が終ると、濱口の鋭い思慮深い眼は、氣遣はしさうに村の方へ向いた。或一定の場所や物を見つめて居る人の注意が、全く自覺して見てゐない方へ――明かな視野以外にある無意識な知覺の朦朧たる範圍に於てただ少し變な感じのする方へ、不意に氣を取られる事がよくある。そんな風に濱口は沖の方に何かつねならぬ事のあるのに氣がついた。立ち上つて海を見た。海は全く不意に暗くなつてそして變であつた。風と逆行して居るやうであつた。陸から向うへ退いて走つてゐた

 忽ちのうちに全村がその稀有の出來事に氣がついた。明らかに先程の地震を感じた人はなかつた。しかし潮の運動にはたしかに驚いた。一同が浪際へ、そして浪際のもつとさきへ、それを見に走つて行つた。人の記憶ではこんなに潮の引いた事はこの海岸であつたためしはない。見た事のないものが現れ出した、これまで知られなかつた肋骨のやうな畦(うね)のある砂の廣場や、海草のからんで居る岩の區域が、濱口の見て居る間に現れて來た。そして下の方の人はその巨大なる引潮は何を意味するかを考へる者はないやうであつた。

 濱口五兵衞彼自身もこんな物を見た事はかつてなかつた、しかし彼は父の父から幼少の折に聞いた事を覺えてゐた、そして彼は海岸の凡ての傳說を知つてゐた。彼には海がどうなるか分つてゐた。多分彼は村へ使をやるのに要る時間、山のお寺の僧に大きな釣鐘を鳴らして貰ふために要る時間を考へてゐたのであらう。……しかし濱口の考へたらしい事を話す方が、濱口の考へた時間よりもはるかに長くかかるであらう。彼は只孫に向つて云つた。

 『忠(ただ)、すぐ大急ぎだ……たいまつをつけて來い』

 たいまつは嵐の夜に使ふために、そして又或神事の祭禮に使ふために多くの海邊の家にしまつてある。子供はすぐにたいまつをつけた、そして老人はそれをもつて野原に急いだ、そこには彼の大部分の投資とも云ふべき數百の稻叢[やぶちゃん注:「いなむら」。]があつて運ばれるばかりになつてゐた。坂の端に一番近い稻叢に近づいて老いた足で急げるだけ急いで交る交るたいまつをつけ始

めた。日に乾いた藁はほくちのやうに燃えた、火勢をあほる海風はその熖を岡の方へ吹き上げた、そしてまもなく一叢又一叢、藁は炎になつて天に冲する烟の幾條かを上げたが、それが相集り交つて一つの大きな雲の渦となつた。忠は驚きかつ恐れて祖父のあとから叫びながら走つた。

[やぶちゃん注:ウィキの「稲むらの火」によれば(前に言った通り、ネタバレになるのでここでは写真以外はリンクはしない)、『「稲むら」(稲叢)とは積み重ねられた稲の束のこと。稲は刈り取りのあと天日で干してから脱穀するが、上のように稲架(はさ)に架けられた状態を「稲むら」と呼ぶ』。但し、『脱穀後の藁の山も「稲むら」と言うことがあり、史実で燃やされたのは脱穀後の藁である』と言うキャプションで前者の稲叢の写真が添えられてある。]

 『お祖父さん、どうして、お祖父さん。どうして、――どうして』

 しかし濱口は答へなかつた、說明して居る暇がなかつた、ただ危難に瀕して居る四百人の生命の事ばかり考へてゐた。子供はしばらく稻の燃えて居るのを興奮して見てゐたが、突然泣き出した、そして祖父さんは氣が狂つたと信じてうちへ驅け込んだ。濱口は稻叢の一つ一つに火をつけて遂に自分の田地のはてまで來た、それからたいまつをなげ出して、待つてゐた。その熖を見て山寺の小僧は大きな鐘をゴーンとならした、そこで村人はこの二重の訴へに答へた。濱口は村人の、砂から渚をこえて、村の方から蟻のむれのやうに急いで登つて來るのを見たが、彼の待遠い眼から見れば蟻よりも早いとは思はれなかつた。それ程時刻は彼に取つては非常に長く見えたのであつた。日は沈みかかつてゐた、灣の皺のある底、それから遙か向うの斑のある土色の大きな廣がりが最後の橙色のあかきに露出してゐた、そして續いて海が地平線の方へ走つてゐた。

 しかし、實際は濱口がそれ程甚だ長く待たないうちに、第一の救助隊が到着したのであつた、それは二十人程の敏速なる若い農夫達で、直ちに消火に赴かうとした。しかし長者は兩手を以てそれを止めた。

 『もやして置け』彼は命じた、『うつちやつて置け、村中の人に、ここへ來て貰うんだ、――大變だ』

 村中の人が追々來た、そこで濱口が敎へた。若い男や男の子供はすぐにそこへ來た、そして元氣な女や娘も大分來た、それから老人の大方は來た、それから赤ん坊を脊負つた母親、それから子供までも來た、――子供でも水を渡す手傳[やぶちゃん注:「てつだひ」。言わずもがな、消火のためのである。]ができるからである、そして眞先きにかけつけた人々と一緖について來られなかつた年長の人々が急な坂を上つて來るのがよく見えて來た。次第に集つて來た人々は、やはり何(なん)にも知らないで悲しげに不思議相に、燃えて居る野原と長者の自若たる顏とを交る交る眺めてゐた。そして日は沈んだ。

 『お祖父さんは氣ちがひだ、僕は恐い』と澤山の質問に答へて忠(ただ)はすすり泣いた、『お祖父さんは氣ちがいだ、わざと稻に火をつけたんだ、僕はそれを見たんだ』

 『稻の事は子供の云ふ通りだ』濱口は叫んだ、『わしは稻に火をつけたんだ。……皆ここへ來たか』

 組長と家々のあるじ達はあたりを見𢌞し、坂を見下して答へた、『皆居ります、でなくともすぐに參ります。……私共にはこの事が分りません』

 『來た』老人は沖の方を指さし、力一杯の聲で叫んだ、『わしは氣ちがいか今云つて見ろ』

 たそがれの薄明りをすかして東の方を一同は見た、そして薄暗い地平線の端の海岸のなかつたところに、海岸の影のやうな長い細い薄い線が見えた、その線は見て居るうちにふとくなつた、海岸に近づく人の眼に海岸線が廣くなるやうに、その線は廣くなつた、しかし比べ物にもならぬ程ずつと早く廣くなつた。卽ちその長い暗がりは、絕壁のやうに聳えて、鳶の飛ぶよりももつと早く進んで來る、押しかへしの海であつた。

 『津浪』と人々は叫んだ、そしてその巨大なる海の膨脹が山々をとどろかす程の重さを以て、又赫々たる幕電[やぶちゃん注:「まくでん」。電光(雷(かみなり))の一種。遠雷によって夜空の一部が明るく見える現象。また、雲内放電により、電光は雲に隠れて雲全体が光って見える現象。]のやうな泡沫[やぶちゃん注:「しぶき」。]の破裂を以て海岸にぶつかつた時、どんな雷より重い、名狀し難い衝動によつて、凡ての叫び聲と凡ての音をきく力とはなくなつた。それから一時は雲のやきに坂の上を突進して來た水烟[やぶちゃん注:「みづけむり」。]のあらしの外何物も見えなかつた、そして人々は、ただそれにおびえて狽狽してうしろへ散つた。再び見直した時彼等は彼等の居宅の上を荒れて通つた白い恐ろしい海を見た。うなりながら退く時、土地の五臟六腑をひきちぎりながら退いた。再び、三たび、五たび、海は進み又退いた、しかしその度每に波は小さくなつた、それからもとの床にかへつて靜止した、大風のあとのやうに荒れながら。

 高臺の上には暫らく何の話聲もなかつた。一同は下の方の荒廢を無言で見つめてゐた、投げ出された岩や裂けて骨の出た絕壁の物すごさ、住宅や社寺の空しいあとへ海底からゑぐり取つて來て放り出してある藻や砂利の狼藉さ。村落はなくなつた、田畠の大部分はなくなつた、高段[やぶちゃん注:丘や山の傾斜面に作った段々畑様のものであろう。]さへも存在しなくなつた、そして灣に沿うてゐた家のうち殘つて居るものは一つもない、ただ沖の方に物狂はしく浮沈して居る二つの藁屋根だけであつた。死を逃れたあとの恐ろしさ、凡ての人の損害のための茫然たる自失は凡ての口を啞にした、そのあげく濱口の聲で再び穩に[やぶちゃん注:「おだやかに」。]云ふのが聞えた。

 『あれが稻に火をつけたわけだ

 彼等の長者なる彼は今最も貧しき人と殆んど同じ程の貧しさになつて立つてゐた、彼の財產はなくなつたからであつた、しかし彼はその犧牲によつて四百の生命を救つたのであつた。小さい忠(ただ)は走つて來て手にすがつて愚かな事を云つた事の赦しを願うた。そこで人々は彼等の生存して居る理由に氣がついた。そして彼等を救うたその單純なる、おのれを忘れた先見の明に感服し始めた、そして頭立つた[やぶちゃん注:「かしらだつた」。相応の纏め役に当たるような有力者。]人々は濱口五兵術の前に土下座をした、それから人々はそれにならつた。

 それから老人は少し泣いた、一つは嬉しかつたから、一つは自分が老年で衰弱してゐて、ひどく苦しんだからであつた。

 『家が殘つて居る』物が云へるやうになると直ぐに忠の頰を機械的になでながら、彼は云つた、『そして大勢の入る場所はある。それから山の上のお寺もある、外の人はそこにもはひれる』

 それから彼は案内してうちに入つた、人々は叫んだり、ときの聲を上げたりした。

 

 困難の時期は長かつた、その當時一地方と他の地方との間に敏速な交通の方法はなく、そして必要な助けは遠くから送らねばならなかつたからである。しかしもつと時節がよくなるに隨つて人々は濱口五兵衞に對する彼等の負債を忘れなかつた。彼等は彼を富有にする事はできなかつた。たとへできても濱口は彼等にさうする事を許さなかつたであらう。その上物品を贈る事は彼に對する彼等の崇敬の念を表はすには不足であつたらう、彼の心中の靈魂は神のやうであると信じたからであつた。そこで彼等は彼を神と宣言してその後彼を濱口大明神と呼んだ、それよりも偉大なる名譽は與へられないと考へたからである、――又事實如何なる國にあつてももつと偉大なる名譽を人間に與へる事はできないのである。そして彼等が村を再び建てた時、彼等の彼の靈魂のために神社を建てた、そしてその前面の上部に金の漢字で彼の名を書いた札をかかげた、そして祈と供物を以てそこに彼を禮拜した。それについて彼はどんな感じがしたか私には分らない、私の只知つて居る事は下の方で彼の靈魂は神社に祭られてゐたが、彼は子供及び子供の子供と共に、以前の通り人間らしく又質素に山の上の古い草葺きの家に引續き住した事である。彼が死んでから百年以上にもなる[やぶちゃん注:創作上の虚構。実際の濱口五兵衛は明治一八(一八八五)年没で、本作品集刊行時は明治三〇(一八九七)年であるから、亡くなって未だ十二年しか経っていない。]、しかし彼の神社はやはり存在して居る、そして人々は恐怖又は困厄の時に彼等を助けてくれるやうに、善い老農夫の靈魂に今も祈を捧げると云ふ事である。

‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥

 私は濱口の肉體が一方にあつて魂が又別の方にある事をどうして農夫達が合理的に想像するのであらうか、それを私に說明してくれるやうに、友人の或日本の哲學者に賴んだ。それから私は、濱口の生前に農夫達が禮拜したのは、彼の靈魂の一つであつたか、それとも彼等は禮拜を受けるために或特別の魂がそれ以外の塊と離れて出ると想像したのであらうかと尋ねた。

 『農夫達は』私の友人は答ヘた、『人の心や塊は、生前でも、同時に澤山の場所に居られる物と考へて居る。……勿論こんな考は、魂に關する西洋の考と全く違つて居る』

 『その方がもつと合理的でせうか』私はいたづらに尋ねて見た。

 『さうですね』彼は佛敎徒らしい微笑を以て答へた、『もし私共が凡ての心の統一と云ふ說を正しいとして見れば、日本の農夫の考には、少くとも或かすかな眞理を含んで居るらしい。あなたの西洋風の魂に關する考については、さうは云へませんね』

 

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