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« 小泉八雲 富士山 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」 | トップページ | 小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信訳) / 「一」・「二」 »

2019/11/11

小泉八雲 富士山 (落合貞三郎訳) / その「三」・「四」・「五」・「六」(訳者は原作の七章構成を恣意的に六章構成に変えてしまっている) / 富士山~了

 

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 富士山 (落合貞三郎訳) / (その序)」を参照されたい。なお、題名で注した通り、本篇はイントロダクションと「Ⅰ」から「Ⅶ」の章構成になっているにも拘らず、落合氏は恣意的に「Ⅲ」と「Ⅳ」を合わせて以下の「三」に改変、全体を六章構成にしてしまっている。

 

 

       

 綠は全くなくなつた――すべて黑い。道はない――ただ廣い漠々たる黑い砂の傾斜が、きらきらと齒をむきだしたやうな雪の斑紋の方へ、だんだん幅狹く上つて行つてゐる。しかし小徑がある――巡禮のぬぎ捨てた幾千の草鞋によつてつくられた黃色の足跡。この黑い砂礫の上では、藁の草鞋は、直にすりへらされる。巡禮は數足の草鞋を用意してゐる。私が獨り登山するにしても、その破れ草鞋の跡を辿つて行けば、道はわかる……黃色の線が、黑い山を紆餘曲折して、見えなくなる所までのぼつてゐる。

 

 午前六時四十分――十個の休憩所の第一番目なる太郞坊に達した。高さ六千呎[やぶちゃん注:約千八百二十九メートル。]。この休憩所は大きな木造で、二つの室は杖、笠、蓑、草鞋など、一切巡禮者必需品の賣店になつてゐる。そこに巡囘寫眞師がゐて、安價で、立派な、山の寫眞を賣つてゐた……ここで强力は朝食を喫べ、私は休んだ。車はこれからは行けない。三人の車夫を返し、馬はまだ留めておく。溫順な、足のたしかな馬だ。二合五勺までは乘つて上がられる。

[やぶちゃん注:「太郎坊」はウィキの「太郎坊」によれば、現行では、『静岡県御殿場市の富士山中腹の地名。表富士周遊道路(富士山スカイライン)と御殿場口登山道』静岡県道一五二号富士公園太郎坊線の分岐付近の標高千三百メートルから御殿場口登山道の五合目の標高千五百メートル辺りまでが「太郎坊」と呼称される国土地理院図)『ことが多い』。古くは『富士山須走口で祀られていた天狗太郎を、明治時代初期ごろに御殿場口で祀るようになり、そのために建てられた建物が太郎坊と呼ばれた。太郎坊は登山やスキーのための基地になっていたと伝えられる』。『その後、太郎坊が地名化したため、太郎坊の厳密な範囲ははっきりしない』とあるから、標高に違いがあっても一応、問題はないが、小泉八雲はメートル法からの換算を誤っていた可能性や、ドンブリで端数切り上げて誇張している可能性があろう。にしても、前の茶屋の描写と太郎坊の比定地域が広いこと、「第一番目の休憩所」と言っていること、「大きな木造」などと言うからには、今の「大石茶屋」(千五百二十メートル。グーグル・マップ・データ)が至当になろう。しかし、それでは「六千呎」が齟齬する。よく分らぬ。しかし、現在の「大石茶屋」より上にそのような施設があったことはちょっと考えにくいのである。次注も参照。

「二合五勺」これは種々の登攀データを見るに、現在の御殿場ルートのメイン・ルートの、現在は「新五合五勺」で、昔から「次郎坊」(標高千九百二十メートル)と呼ばれている場所である可能性が高いように思われる(以下の段落で、その場所から上は急に「梯子の如く」傾斜がきつくなって遂に小泉八雲は歩き出したと述べるが、ネットの登攀記録を見ても、この次郎坊から上で傾斜が急になるのである)個人サイト「富士さんぽ」のこちらのページ地図の御殿場ルートを見られたい。なお、古くからの登山用語(信仰対象となった富士山など高い山で用いることが多い)の「合」「勺」であるが、ウィキの「登山用語一覧」によれば、合(ごう)・合目(ごうめ)は『登山道の到達の目安を示す単位。原則として麓』の登攀開始地を基点(〇合)として頂上を十合に当て、その間を十区分に分けたもの。但し、『測量で距離や標高などを正確に等分するというよりは』、古来より『長い年月をかけて登山者の感覚で習慣的に付けられたものであり、実際に歩いて登る際に要する時間がおおよその基準になっているため、険しい場所や坂の急な場所などでは』、一『合の長さが短くなる傾向にある』。一合を更に十に分けた「勺(しゃく)」が『用いられることもあるが、勺の付かない位置の場合は「~合目」といい、勺が付く場合は「~合~勺」という』とあり、「勺」は『主に富士山で用いられる』とある。]

 二合五勺へ向つて黑い砂の阪を上る。馬を並足で打たせる。二合五勺の坊は當季閉鎖してあつた……阪が今や梯子の如く急峻になつて、馬では最早危險となつた。馬からおりて、徒步で攀じ上る支度をした。寒風が强いので、私の笠をしつかり結はひ[やぶちゃん注:「ゆはひ」。]附けねばならなかつた。一人の强力は腰から長い强い木綿の帶をほどいて、一端を私に捉へさせ、他端を彼の肩の上からかけて私を曳いた。して、彼は强い步調で、かがんで砂の上を進む。私は彼について行く。今一人の案内者は私がすべるのを防ぐため、すぐ後についてきた。

 

 砂と鐡滓[やぶちゃん注:「てつさい」。ここは単に溶岩の粉砕された屑の謂い。]の中と步くのが疲れるだけで、登りで行くのにさほど困難はない。砂丘の上を步むやうだ……阪が今や嶮しいから、足下を用心し、また絕えず錫杖を使はねばならない……私共は白い霧の中にゐる。雲の中を通つてゐるのだ。振り返つて見ようと思つても、この霧の中から何も見えないだらう。しかし私は願望する氣は更にない。風が急にやんだ。多分山の背に遮られたのだらう。すると、西印度に居つた頃の經驗で思ひ起こした靜かさを感じた。聖地の平和だ譯者註。この靜かさを破るものは、足に踏まれて碎ける灰の音のみだ。私の心臟の鼓動が判然と聽こえた。案内者が私はあまり屈みすぎるといつた。眞直ぐに步いて、いつも足をおろすのに、踵を先きにするやう、彼は私に命じた。さうしてみると、成程樂であつた。しかし倦きるほど、いつまでも灰と砂のまじつた中を上つて行くのは、なかなか苦くなつてきた。私は汗をかき、喘いでゐる。案内者は私に『お口をつむりなさい。お鼻からだけ呼吸をなさい』といつた。

 

譯者註 ヘルン先生は日本へ來る前、西印度に放浪すること二箇年に及んだ。聖地云々は、西印度の山上に、基督や聖母の像などを祀れる祠堂聖域の靜肅を指す。

[やぶちゃん注:読者の中には、小泉八雲が実際の登攀に移ったのが、こんな高いところだったということに意外な感を持つかも知れぬが、小泉八雲四十七歳にして初めての高高度登山である。体力上の問題もあるが、何より高度障害を起こさないためにもこれはよい選択であったと思う。

「西印度に放浪すること二箇年」小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて、フランス領西インド諸島マルティニーク島を旅している。]

 

 霧からまた出た……勿然すこし離れた上方に、山の面に方形の孔の如きものが見えた。戶口であつた。第三の坊の戸口だ。黑い堆積物の中へ、半ば木造の小舍が埋れてゐる……薪の靑い煙の中で、煤けて黑ずんだ垂木の下とは云へ、再び蹲まるのは愉快であつた。時刻は午前八時三十分。高さ七千〇八十五呎[やぶちゃん注:約二千百六十メートル。]。

[やぶちゃん注:サイト「FUJIYAMA NAVI」の「御殿場ルート|標高差・距離ともに長くタフな登山道」のルート地図を見ると、新五合五勺(次郎坊・旧二合五勺・標高千九百二十メートル)とその上の六合目小屋(二千七百八十メートル。その上新六合=旧五合目がある)とがあるが、その二地点の、丁度、中間点が「旧二合八勺」で、ここは西側の同ルートの下山道である「大砂走り」と接触する箇所に当たっていて、ここら辺りが、まさに小泉八雲が示した標高に一致するように思われ、ルート上でも下山道との交点であるから、当時、休憩小屋があってもおかしくないと思う。]

 

 薪の煙はともあれ、小舍の内部は充分心地がよい。淸らかな莚や座布團さへある。無論窓はない。また戶以外、開いた處はない。といふのは。建物は山の側面に半ば埋れてゐるからである。私共は晝食をたべた。小舍の番人の話によると、最近に或る學生が御殿場から山の頂上を窮はめて、步いて下りたさうだ――下駄で! 下駄は木で作つた重い履物で、足の拇指と第二指の間へ緖を挾んだだけで、足へ固着させる。その學生の足は鋼鐡でできてゐるに相違ない!

[やぶちゃん注:前の「!」の後は底本では字空けはないが、特異的に挿入した。以下、同じ仕儀を施した箇所(「?」の後でも)があるが、特に注さない。

 憩んでから[やぶちゃん注:「やすんでから」。]、私は外へ出て、あたりを見𢌞はす。遙か下方に、白雲が大きな、絨毛のやうな渦輪を卷いて轉がつてゐる。小舍の上の方に。また實際その上に垂れかかり乍ら、黑い圓錐形が空へ聳え立つてゐる。しかし驚くべき光景は、左方の怪奇な傾斜線だ――今や少しも曲線を示さないで、雲の下へと、また果てしない上空へ、さながら緊張せる弓の弦の如く直線に、勢よくのびてゐる。右側面は岩が多くて線がとぎれてゐる。しかし左側については――私はかくまで絕對に眞直ぐに、滑らかに、またかやうな驚くべき角度をなして、かやうな大きな距離に互つてのびてゐるといふ事は、たとひ火山に於ても、實際あり得るとは夢にも思はなかつた。そのすばらしい傾斜の角度は私に眩瞑[やぶちゃん注:「げんめい」。眩暈(めまい)に同じい。]の感を與へ、また全然奇異なる感を覺えさせた。かかる整正均勢は不自然で、怖ろしく、人爲的のやうにさへ思はれる――しかし超自然的、惡魔的規模に於ける人爲的だ。私はそこから落ちるのは、數里を落ちて行く事となるだらうと想像する。一切つかまるものはない。が、强力は、その斜面は危險でなく、すべて柔らかな砂だと斷言した。

[やぶちゃん注:所謂、「須走(すばしり)」である(グーグル・マップ・データ航空写真中央部)。

 落合氏は何故か、原本の章分けに従っていない。本来は、以下の部分が「四」にならねばならない原本のここを参照)。甚だ不審である。シークエンスの展開からかく確信犯で行ったものと思われるが、問題がある。私は注記を附してやるならまだしも、それもなしに(実際、底本にはどこにも断りがない(「あとがき」は落合は書いていない))原作の構成を勝手に改変するというのは、本来は絶対に許されることではないと私は考える。

 

 最初、骨折つて攀ぢ上つたので、汗びつしよりになつたが、最早乾いてしまうと、寒くなつた……また上る……阪は前の如く灰や砂の中を通つて行く。やがて砂に大きな石が混じ[やぶちゃん注:ママ。]出した。して、道はたえず嶮しくなつてきた。私はたえず滑る。立ちどまるべき、しつかりしたものは何もない。ゆるやかな石や燒石が一步每にころがり下る……もし上から熔岩の巨塊がはづれて落ちたら! 私は强力に支へられ、また杖にすがりながらも、いつも滑り、また汗だくだくになつた。殆ど私の踏む一つ一つの石が、私の足の下で、ひつくり返る。强力の足で一つもひつくり返らないのは、どうしたものだらう。彼等は決して滑らない――間違つた踏みやうをせぬ――疊の上を步くのと同じく氣樂さうだ。彼等の小さな褐色の足は、いつも小石の上へ、正しく適當な角度で立つ。私よりも重い身體であり乍ら、鳥のやうに輕く動く……今や五六步每に私は憩はねば[やぶちゃん注:「いこはねば」。]ならなかつた。破れた草鞋の線が、私共の紆餘曲折してのぼる道につづいてゐる。遂に山の面に今一つ戶口が見えた。第四の坊へ入つて、蓆[やぶちゃん注:「むしろ」。]の上へ私の身体を擲げた[やぶちゃん注:「なげた」。]。時刻は午前十時半。高さは唯だ七千九百三十七呎[やぶちゃん注:二千四百十九メートル。]。しかし非常な距離の如く思はれた。

[やぶちゃん注:前に示した標高二千七百八十メートルにある現在の六号目小屋(休業中)の下方にあったものか。]

 また出立する……道はますます惡るくなる……空氣稀薄のため新たに一つの苦痛を感じた。心臟は高熱の際のやうに鼓動した……阪は凸凹が甚だしくなつた。もはや石のまじつた軟らかな灰や砂でなく、石ばかりだ――熔岩の斷片、輕石の塊、あらゆる種の鐡滓が、悉く鎚[やぶちゃん注:金属製の「つち」。]で新たに破碎したやうな鋭角を示してゐる。ま勁すべてのものが、踏まれると、ひつくり返るやうにわざわざ出來てゐる如く見える。しかしそれは强力の足の下では決してひつくり返らぬことを、私は告白せねばならぬ。捨てられた草履は、ますます殖えて散らばつてゐる……强力の補助によらねば、私は幾たびもひどい躓き[やぶちゃん注:「つまづき」。]をしたであらう。彼等は私を滑らぬやうにすることは出來ないが、決して私を倒れさせぬ。たしかに私は登山に適してゐない……高さは八千六百五十九呎[やぶちゃん注:二千六百三十九メートル。]――しかし第五の坊舍は閉鎖してあつた! つぎの小舍まで迂曲をつづけねばならぬ。私がそこまで行けるか知らん!……しかも世の中には、實際單に娛樂のために三囘も四囘もここへ登つた人があるのだ……後へ振りかへつて見ようともしない。私の下でいつも轉がる黑い石と、決して滑ることなく、喘ぐことなく、決して汗をかかぬ强力の靑銅色の足の外、私は何も見ない……錫杖のため手が痛み出した。强力は私を後から押し、前から曳く。强力にこんな面倒をかけるのは濟まないと、私は大いに恥ぢ入つてゐる。やれやれ第六の坊だ! 八百萬の神々樣、私の强力を祝福し玉へ! 時刻は午後二時七分。海拔九千三百十七呎[やぶちゃん注:二千八百三十九メートル。]。

[やぶちゃん注:「第五の坊舍」不詳。現在はそれらしいものはない。

「第六の坊」標高から見ると、現在の新六合目、旧本五合目か。やはり現在はそれらしいものはない。]

 休憩をして、戶口から下の深い谷を凝視する。茫々たる白雲の裂け目からやつと微かに土地が見える。して、その裂け目の中の一切のものが殆ど黑く見える……水平線がおそろしく高く上つて、擴大したことは驚くばかりだ……まだ頂上は數哩も遠い。私はあまりに遲かつた。私共は上の方へ急がねばならぬと、强力は私に警告した。

[やぶちゃん注:叙述から見ると、小泉八雲は軽い高度障害を起こしている可能性が窺える。]

 羊腸たる道はたしかに、前よりも更に急になつた……石に角の多い岩がまじつた。して、私共は時としては玄武岩の如き、奇異な黑い塊に沿つて行かねばならぬ……右の方には、ぎざぎざに裂け目のついた、猛威凄い、黑い背が、目も屆かない上へと昇つてゐる……昔の熔岩の流れだ。左方の傾斜線は依然として弓の弦の如く、眞直ぐに上を射てゐる……もつと道が嶮しくなるか知らん――これよりも一層、道が荒々しくなるだらうか? 私の足のために外づれた石は音をたてずにころげ落ちる――私はその石の方へ、後をふりかへつて見るのが怖はい。石が音なくして沒し去るのは、さながら夢の中で落下して行くやうな感じをさせる。

 

 上の方に白いものがぴかぴかする――大きく擴がつた積雪の最下端だ……今や私共は雪でみたされた溝に沿うて進んでゐる――今朝絕頂を初めて見たとき、一吋[やぶちゃん注:「インチ」。二・五センチメートル。]の長さとしか思はれなかつた、あの白い斑點の最下端を通るのに、一時間はかかるだらう……一人の案内者は、私が杖によつて休んでゐるうちに、走つて行つて、大きな雪の球を持つて歸つた。何と珍らしい雪! 片々たる柔らかな白雪でなく、透明な小球の塊――まさしくガラス玉だ。すこしばかり食べると、快爽云ひやうがなかつた……第七の坊は閉ぢてゐた。どうして私は第八の坊へ達するだらう?……幸と、呼吸はや〻苦さ[やぶちゃん注:「くるしさ」。]が減じた……風がまた私共に吹きつけて、黑砂も加つてゐる。强力は極めて私に接近して、警戒して進む……私は道の曲り目每に步をとどめて休まねばならぬ――疲れて話しも出來ぬ……どんな風にやつてきたりか知らないが、兎に角私は第八の坊へ漕ぎつけた。十億弗[やぶちゃん注:「ドル」。明治三〇(一八九七)年年(本書は明治三十一年刊)の為替レートでアメリカドルは一ドルが二円であるから、二十億円、当時の貨幣価値(信頼出来るサイトでの一円を二万円相当として)から換算すると四十兆円!]を吳れても、もう今日はこの先一步も御免だ。午後四時四十分。高さ一萬○六頁九十三呎[やぶちゃん注:三千二百五十九メートル。]。

[やぶちゃん注:現行では、前掲のルート地図を見ると、六合目・七合目(標高三千五十メートル附近)・七号五勺(同三千三百メートル)の間には三つの小屋があるから、それらかそれらの前身が「第七」及び「第八の坊」ととれる。

 先に述べた通り、以下の「四」は本来は「五」である。原本のここを参照されたい。

 

 

       

 冬の着物がなくては、ここでは寢るのにあまりに寒い。成程、案内者が用意した重い衣類の價値がわかつた。それは紺地に、大きな白い漢字を背に染め拔いて、蒲團のやうに厚く綿が入れてある。しかしそれでも輕い感じがする。實際二月の霜に冴えたやうな空氣だから……炊事をしてゐる最中だ――こんな高い所では、炭火はなかなか我が儘强情で燃え上がらぬから、絕えず注意を要する……空氣と疲勞が食欲を刺激する。私共は驚くほど多量の雜炊――御飯の中へ卵と少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の肉を煮込んだもの――を食べつくす。私の疲勞と時刻の理由で、今夜はここで泊まることになつた。

[やぶちゃん注:食欲があるので、小泉八雲の高度障害は幸い収まっている。私は二十代後半、友人と十一月の北・奥・前穂高を登攀したが、北穂への最初の登りで一時的に高度障害を発症した経験がある。実際、北穂直下でたった二メートル登攀するのに何分もかかった。日没ぎりぎりに北穂の小屋に着いた。しかしその落日は確かに美しく神々しいものであった。だが、その晩はお茶だけしか口に入らず、食事が喉を通らなかった。]

 

 疲れてゐても、戶口まで跛[やぶちゃん注:「びつこ」。]を曳いて行つて、驚くべき景色を眺めずには居られなかつた。敷居を距つる數呎[やぶちゃん注:一フィート(フート)は三十・四八センチメートル。六掛けで僅か一メートル八十三センチメートル。]内の所から、岩や鐡滓の凄い傾斜面が、數哩の下で、澤山の雲が大きな圓盤狀になつた中へ垂下してゐる。雲はそれぞれ種々の形狀をしてゐるが、多くは捲いたり、絨毛の如く積み重つてゐて、ごちやごちや集つて、全團塊が殆ど眼界の高さに達して、日光を受け眩しいやうに白い。(此大きな雲が擴がつたのを、日本人はうまく『綿の海』と名づけてゐる)非常に高く昇つて、幻の如くにひろがつた地平線は、地球から半分上へのぽつゐるやうだ。廣い、輝いた帶が、空虛な幻影を取り捲いてゐる。空虛と私がそれを呼ぶのは、輪郭線下の遠いはては、天空の色を帶び、茫漠としでゐるからだ――だから、私は穹窿の下の一地點に立つて居るといはんよりは、寧ろ此巨大な地平線が赤道帶を代表してゐるやうな、すばらしい靑い球體の一地點に立つて居るといふ印象を受ける。かやうな光景に對しては、去るに忍びない。私は落日の先に、光景の色彩が變はり、『綿の海』が『黃金色の羊毛』になるまで、注視に耽つてゐる。眼界の半ばを取り捲いて、黃色の華やかさが增加して、燃えてくる。其下あちこちに雲のとぎれた處から、ぼんやり色を帶びた所々が見えてくる。金色の海が見え、紫色の長い岬が延び出でて、靑紫色の群巒[やぶちゃん注:「ぐんらん」。連なった山並み。]が其背後に連つてゐるのが、妙に着色地形圖の場面に似てゐる。しかし大體の光景は全然幻影であつて、長い經驗と鷲の如き視力を持てる案内者さへも、殆ど虛實を辨じ得ない――何故なら、『黃金色の羊毛』の下に動く靑と紫と靑紫の雲は、遠い峯や岬の輪郭と色合にそつくり似てゐるからだ。ただ徐々に移動して行く形狀のため、蒸氣を識別し得るのみだ……黃金はだんだん輝いてくる。影は西から射してくる――それは積雪の上へ積雪が投ずる影だ。それは雲の上に暮影の映る如く、菫菜色[やぶちゃん注:既出既注。「すみれいろ」。]の靑だ……次に、眼界へ橙黃色が現はれる。それから潜んだやうな深紅色。すると、今度は『黃金色の羊毛』の大部分は、また綿に変はつた――石竹色[やぶちゃん注:「せきちくいろ」。ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis の花のような淡い赤色のこと。]のまじつた白い綿……星が竦動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。「竦」は「つつしむ」・「身が竦(すく)む」の意で、本来は「動きを慎むこと。謹み畏(かしこ)まるこ」・「恐怖のために身が縮こまること」であるが、ここは静かに微かに明滅することを指している。]し始める。雲の廣野は滿面一樣に白くなる――地平線へまで厚く、積み重なり乍ら、西が暗くなる。夜がのぼつてくる。して、あの不思議な、白い、連綿として世界を卷いてゐる『綿の海』の外、一切の物が暗くなる。

 

 

 坊の主人が燈火を點じ、樹枝を焚き、寢所を備へてくれた。外氣は刺すやうに寒いが、日が暮れたので猶ほ寒い。それでも私はこの驚くべき眺望を振り棄つるに忍び無い……無數の星がちらちらして、靑黑い空で戰いて[やぶちゃん注:「をののいて」。]ゐる。私の足先きの黑い傾斜面の外、物質界のものは何も目に見えなくなつた。下方の大きな雲の圓盤は白く續いてゐるが、いかにも水の如く平らかで、無形の白いもの――白い洪水――のやうに見えた。もはや『綿の海』ではない。それは『牛乳の海』だ。古代印度傳說の『宇宙の海』だ――して、いつも幽靈の生動によるかの如く、みづから光を發してゐる。

[やぶちゃん注:既に述べた通り、以下は原本では「Ⅵ」(六)である。]

 

       

 焚火の傍にしやがみ乍ら、强力と坊の主人が山の不思議な出來事を語るのに、私は耳を傾けた。彼等が話し合つてゐる一つの事件を、私は東京の新聞で少しばかり讀んだ覺えがある。今や私はその事件の中に活躍した人物の一人の口からそれを聞くのだ。

 日本の氣象學者、野中といふ人が、昨年科學的硏究のため富士の絕頂で冬を過ごすといふ、向う見ずの企[やぶちゃん注:「くはだて」。]をした。立派な煖爐と生活を快適ならしむるに必要な一切の物を備へた堅牢なる測候所で、山頂に於て越年するのは困難でないかも知れぬ。しかし野中氏はただ木造の一小舍しか作り得なかつた。しかもぞの小舍の中で火なしに嚴冬を送らねばならなかつた! 彼の若い細君は彼と勞苦を共にすることを主張した。九月の末、二人は絕頂の滯在を始めた。冬の眞最中になつて、二人は死に瀕してゐるといふ報道が御殿場に傳つた。

 親戚と友人は救助隊を組織しようとした。しかし天候はひどく惡るかつた。頂上は雪と氷に蔽はれてゐた。死の危險は多大であつた。して、强力輩[やぶちゃん注:「はい」。複数の接尾字。]も生命を賭する事を欲しなかつた。數百圓[やぶちゃん注:先に示した換算で百円は二百万円、六掛けで千二百万円相当。]を提供しても彼等を誘ふことができなかつた。遂に日本人の勇氣と忍耐の代表者として彼等に必死の懇願がなされた。一たびも勇敢なる努力を試みずして、科學者を見殺しにするのは國の恥辱だと告げられ、國の名譽は彼等の掌握にありと斷言された。この哀訴は二名の勇俠者を出した。一人は『鬼熊』の綽名ある大力且つ剛勇の男、今一人は私の强力の年長の方の男であつた。彼等は屹度死ぬるものと信じてゐた。親類綠故に訣別し、家族と水盃をくみ交はした。それから綿毛を厚く身體に卷いて、氷を攀ぢのぼる一切の準備をして立つた――一人の勇敢な軍醫が、無報酬で、救助のため、進んで參加した。非常な國難を冒して、一行は小舍に達した。

 しかし舍内の人は、戶を開けることを拒んだ! 野中氏は企圖失敗の恥辱に面せん[やぶちゃん注:「めんせん」。]よりは寧ろ死すると抗言し、細君は夫と共に死する決心だといつた。强いたり、すかしたりしてから、夫婦をおとなしい精斜狀態に致すことができた。軍醫は藥と興奮劑を與へた。患者によく衣を卷きつけ、案内者の背に縛つて、下山を始めた。細君を運んだ私の强力は、氷の阪路で神々の御助けがあつたものと信じてゐる。一度ならず彼等は死んだことと思つたが、一囘も大災難に至らないで、麓に達した。行き屆いた看護數週の後、無謀なる若夫婦は危險圏内を脫したことを告げられた。細君は夫よりも病輕く、また早く恢復した。

 强力は夜間彼等を呼ばないで、坊舍の外へ敢て出ないやうにと、私と戒めた。何故か、その理由を云はない。して、その警告は一種氣味がわるい。日本の旅行に於ける經驗上、私はその暗示さる〻危險は超自然のものと推測する。しかしその理由を尋ねても駄目だと思ふ。

 坊の戶は鎖ざされた。私は案内者二人の中間へ橫になつた。二人が直ぐに眠つたのは、その重い呼吸でわかる。私はすぐ眠れない。恐らくは一日の疲勞と驚異のために少々神經が興奮したのであらう……私は黑い屋根の垂木を見上げる――草鞋の包み、木の束、判別し難き種々のものの束が、そこに藏つてあつたり[やぶちゃん注:「をさまつてあつたり」。]、吊るされたりして、洋燈[やぶちゃん注:「ランプ」。]の先で妙な陰影を作つてゐる……三枚の蒲團を被つても、非常に寒い。して、戶外の風の音は不思議にも巨濤が響くやうだ。絕えずどつと轟いた後に、一しきり叱罵の聲がつづく。

 小舍は重い岩と吹き寄せた砂の下に埋もれて動かない。しかし砂が動く。垂木の間から滴つてくる。また小石も、引く波にさらはれる礫[やぶちゃん注:「つぶて」。]の如く、がらがら音を立てて、烈しい一陣の嵐每に動く。

[やぶちゃん注:「氣象學者」「野中」気象学者野中到(いたる 慶応三(一八六七)年~昭和三〇(一九五五)年)。以上の事件は事実であるが、小泉八雲は「昨年」と言っているが、実際には明治二八(一八九五)年末の出来事である(小泉八雲のこの富士登頂は明治三十年八月である)。ウィキの「野中到」によれば、妻千代子とともに富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られる人物である(リンク先に夫妻の写真有り)。『多くの場合、野中至と表記されるが、本名は「到」であり、「至」はペンネームである』。『筑前福岡藩士・野中勝良の息子として筑前国(現・福岡県)に生まれる』。『富士山観測所の設立を思い立ち』、明治二二(一八八九)年、『大学予備門(現・東京大学)を中退』した。なお、『この年、富士山頂久須志岳の石室で中村精男ほか』二『名が、山中湖畔では近藤久治朗が』三十八『日間、初めて正式な気象観測を開始している』。『当時はまだ高地測候所は信州にしかなく』、『高山での観測は年に数回に限られていたが、野中は富士山での年中観測を目指した』。一八九五年二月十六日、『富士山冬季初登頂を果たし』、『富士山頂での越冬が可能であることを確信、同年夏に再び登頂し』、『私財を投じて測候用の小屋(約』六『坪)を剣ヶ峰(富士山)に新設、中央気象台の技師らも合流した』。『剣ヶ峰にした理由を「風が弱いところは積雪が多いため、積雪の少ない風の強いところを選んだ」と語っている』。九月末、『食料など備蓄財の調達のため一旦下山し、閉山後の』十『月に再び登頂』、その後、妻千代子も十月『半ばに合流』したが、『高山病と栄養失調で歩行不能にな』ってしまう。十二月、『慰問に訪れた弟の野中清らによって夫妻の体調不良がわかり』、『中央気象台の和田雄治技師らの救援で』、『月末に両者とも下山し、山麓の滝河原に逗留、村人の手厚い保護を受けたのち』、『小石川原町の自邸に戻』った。『野中夫妻のこの決死の冒険は評判をよび、小説や劇になった』。『越冬断念により』、『十分な結果が得られなかったことから』、四年後の明治三二(一八九九)年、『本格的な観測所の建設を目指し、富士観象会を設立』、『富士山気象観測への理解と資金援助を呼びかけた』。『その後も絶えず登山し』、『観測を続け、野中の事業はのちに中央気象台に引き継がれた』。『妻の千代子は、福岡藩黒田家のお抱え能楽師、喜多流シテ方梅津只円』(しえん)『の娘である』とある。]

 

 午前四時――昨夜の誓告にもか〻はらず獨りで外へ出る。尤も戶の附近を離れない。强い氷の如き風が吠く。『牛乳の海』は變はらぬ。それは遙かにこの風の下方に橫はつてゐる。上の方に月が消えかかつてゐる……案内者は私が居ないのを見て、はね起きて、私のそばへきた。私は彼等を呼び醒まさなかつたことを責められた。彼等は私を獨りでは戶外に置かないから、彼等と共に私はまた内へ入つた。

 

 黎明。一帶の眞珠色が取り捲いて、星は消え、空が輝いた。綿が搔きみだされて、破れんとしてゐる。黃色の光が風に吹かれた火の光の如く東方を走つた。遺憾ながら、旭日の初めて昇るのを富士から見たことを誇る幸運者の一人と、私はなることが出來ないだらう。重い雲が旭日の昇るべき邊に漂つて行つたのだ……最早太陽は水平線上に現はれたものとわかつた。あの紫雲の裂片の上端は、炭火の如く燃えてゐるからである。だが、私の失望はこの上なかつた!

 

 空虛な世界はますます明かるい。數哩に互つて堆積せる綿雲は、ころがつて分裂する。非常な遠方に當つて、水の上に金の光がある、太陽はここからは見えないが、海からは見えてゐるのだ。その光はちらつとした光でなく、磨いたやうな輝きである――かかる遠距離では、漣[やぶちゃん注:「さざなみ」。]は見えない……更に一層、雲は散亂開展して大きな灰靑色の風景を現はす――數百哩が忽然視界に集る。右に東京灣と鐮倉、それから神聖な江ノ島( i といふ文字の上にある點ほどの大いさ)を私は認める――左にはもつと荒い海の駿河灣と靑い鋸齒の伊豆の岬を認める。それから私がこの夏を暮らしてゐた漁村[やぶちゃん注:焼津。]の邊は、山や海岸がぼんやりした夢の色に浮かんだ中に、針頭大になつて見える。川は蛛網[やぶちゃん注:「くもあみ」と訓じておく。]の糸に太陽の光がひらめいたやうだ。漁舟の帆は海の灰色な玻璃にくつついた白い塵だ。して、この畫面は雲がその上をただよひ移るま〻に、隱見出沒して、すべて極樂淨土の亡靈の如き島や山や谷の形に變はる。

[やぶちゃん注:何故、ちっぽけな江ノ島に目が行くのか、不審に思った方もあろうが、小泉八雲は来日直後に、江ノ島に詣でており、彼にとっては懐かしい日本の原風景の一つだからである。私の最初期の小泉八雲電子化注(リンク先はブログ・カテゴリ「小泉八雲」。ここからでないと、続けて読むのは面倒なので注意されたい)の仕事である『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一)』以下、実に「二四」まであるそれを読まれれば、お分かり頂けるものと思う。

 既に注した通り、以下の最終章「六」は原本では「Ⅶ」(「七」)である。

 

 

       

 午前六時四十分――頂上へ向つて出發した。熔岩の塊の累々たる間を經て、ここは登山阪路中の最難所だ。黑い齒の如く突出した醜い岩塊の間を曲折する。脱ぎ棄てられた草鞋の痕は、更に幅が廣い。數分每に憩はねばならぬ。

 雪の今一つの長い斑點に達する。ガラス玉のやうな、その雲を少し食べる。次の坊――半途の坊――は閉ぢてある。して、第九の坊はなくなつた……不意の恐怖が起こつた。それは登ることでなく、心地よく坐わることさへ出來ぬ急峻な道を、また降つて行くことについてである。しかし案内者は危險がないと斷言し、また歸途の大部分は他の道によるのだと私に告げた――昨日私が驚嘆した、あの果てしなき、殆どすべて柔らかな砂で、石の少い、『走(はし)り』といふ表面を越えて、一ト走りでおりるのだ!

 忽然一族[やぶちゃん注:「ひとむら」或いは「ひとむれ」。私は前者で読みたい。]の野鼠が慌てて私の足もとから散亂した。後の方にゐた强力が一匹を捉へて私にくれた。私はしばらくその震へてゐる小動物を手に取つて見てから、放してやつた。これらの鼠は頗る長い靑白い鼻をもつてゐる。この水のない荒野――にまたこんな高い處に――特に雪の季節には、どうして生きてゐるだらう? 私共は最早一萬一千呎[やぶちゃん注:約三千三百五十三メートル。]以上の高さにゐる! 鼠は石の下に生ずる草根を見出すのだと强力は云つた。

[やぶちゃん注:富士山にはネズミ目ネズミ科アカネズミ属ヒメネズミ Apodemus argenteus が多く棲息するらしいが、小泉八雲は「頗る長い靑白い鼻をもつてゐる」と言っているところからは、ネズミ科アカネズミ属アカネズミ Apodemus speciosus も候補となるか。孰れも日本固有種である。]

 

 道はますます凸凹で、ますます嶮しい。私だけは折々匍匐せねば攀ぢ上れなかつた。關門のやうな場所では、梯子の助けを藉つて[やぶちゃん注:「かつて」。]登つた。賽の河原などといふ佛敎の名の附いた恐ろしい場所があつた――佛敎の來世の繪にある、子供の亡靈が積みあげる石のやうに、積み重つた岩が散らばつて、一面黃色を呈して、荒涼たる光景。

[やぶちゃん注:「国立国会図書館サーチ」のこちらで少し後の絵葉書(モノクローム)が見られる。]

 

 一萬二千呎[やぶちゃん注:三千六百五十七・六メートル。]と少しばかり。ここが絕頂なのだ。時刻は午前八時二十分……石造の小舍が數個。鳥居があつて、社祠がある。金明水[やぶちゃん注:「きんめいすい」。グーグル・マップ・データの「金明水」の画像をリンクさせておく。]と稱する氷のやうな井。漢詩と虎を刻んだ石碑[やぶちゃん注:同前でその岩の方を示した。]。以上のものを取り卷いた熔岩塊の荒塀。この塀は防風のためと思はれる。それから巨大な死火口がある。恐らくは一哩[やぶちゃん注:一マイルは千六百九・三四メートル。]の四分の一乃至半哩の幅である[やぶちゃん注:富士山の火口の直径は久須志神社から富士山特別地域気象観測所(富士山測候所)までで七百八十メートルである。因みに火口の深さは二百メートル以上ある。「お鉢」の歩行実働距離は約三キロメートルで、平均的脚力で一時間半ほどかかるそうである。]が、火山の岩屑によつて、緣端の三四百呎[やぶちゃん注:約九十一メートル半から百二十二メートル。]以内まで淺くなつてゐる――その凹んだ處は、黃色の、崩れかかつた壁の色合さへ恐ろしげに見える。焦げたあらゆる色の條が立つて、汚れてゐる。私は草鞋の列が火口で終つてゐる事を認めた。怖ろしげに張り出た黑い熔岩の尖角が、奇怪な瘢痕の破れた端の如く、火口の兩側で數百呎[やぶちゃん注:百フィートは約三十メートル半。]の高さに突兀[やぶちゃん注:「とつごつ」。]としてゐる。しかし、私は敢てそれへ上ることはしない。しかも是等の尖角を百哩[やぶちゃん注:約百六十一キロメートル。]の霞を隔てて、春の蒼空の柔らかな幻覺を通して眺めると、淸淨なる蓮華の蕾のまさに開かんとする雪白の花瓣と見えるのである……蓮華が燃え殼になつた末端と見倣すべき此所に立つて見ると、これほど恐ろしく、これほど兇猛陰凄な地點が、またと此世にあるべしとも思はれない。

 しかしこの景色、百哩も見渡すこの眺め、遠い微かな夢のやうな世界の光、仙界の如き朝煙、捲き去り捲き來たる雲の不思議な形狀――すべてこの光景は、またこの光景だけが、私の骨折りと苦痛を慰めてくれる……もつと早く登つた他の巡禮達が、一番高い岩に乘つて顏を東天に向け、壯大な太陽を拜んで、神道の祈を捧げ手を拍つてゐる……この刹那の偉大なる詩境は、私の心魂に徹した。眼前のこの大きな光景は最早消すべからざる記憶となつたのである。私の智力は消滅し眼は土に化して仕舞つてから、私の生まれなかつた遠い昔、矢張り富士の絕頂から旭日を眺めた億兆の人々の眼の土化したのと、相混ずる時まで、この記憶の一々明細な點は消滅することはない。

 

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