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2019/11/30

小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「四」・「五」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」・「三」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 舊日本がどしどし亡くなりつつあるといふのは、事實ではない。少くとも、今後百年以内に、亡くなる譯には行かない。恐らくは、全然滅亡することは、決してないだらう。幾多の珍らしい美しいものが消え失せたけれども、舊日本は依然として藝術の中に、信仰の中に、風俗習慣の中に、國民の心と家庭の中に、今猶ほ生き殘つてゐて、苟も具眼の士は、隨處にそれを見出しうるのである。しかも造船、時計製造、麥酒釀造、紡績などが行はれてゐる、この大都會ほど容易にそれを見出しうる處は、他にあるまい。實を申せば、私が大阪へ行つたのは、主もに寺院を見るためで、特に名高い天王寺を見るためであつた。

[やぶちゃん注:「天王寺」大阪市天王寺区四天王寺にある聖徳太子建立七大寺の一つとされている荒陵山(あらはかさん)四天王寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は救世(ぐぜ)観音。もともと特定の宗派に属さない八宗兼学で(本書刊行当時は天台宗であったと思われる)、現在は単立の「和宗」の総本山。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、造営は推古元(五九三)年と伝えられ、「荒陵寺(あらはかでら)」ともいう。主要伽藍は南北中軸線上に、南から南大門・中門・塔・金堂・講堂の順に配され、塔と金堂を包む回廊がめぐっている。この種の配置を一般に「四天王寺式」と呼んでいる。寺は建立後、幾度か罹災しているが、その都度、ほぼ旧規に則して復興され(現在の伽藍は第二次大戦後に復興されたもの)、国宝の「扇面法華経冊子」を始めとして、長い寺史を物語る多くの寺宝が伝わる、とある。]

 天王寺、もつと正確に云へば、卽ち四天王寺は、日本中で最古の佛寺の一つである。西曆第七世記の昔、用明帝の皇子で、推古女帝(西曆五七二――六二一年)[やぶちゃん注:現在、推古天皇の生没年は欽明天皇一五(五五四)年から推古天皇三六(六二八)年、在位は崇峻天皇五(五九三)年から没年までで、小泉八雲が示す西暦とは孰れも一致しないので注意されたい。]の世の攝政であつて、今は聖德太子と呼ばれる厩戶皇子によつて建立された。太子は日本の佛敎に取つてのコンスタンタイン大帝譯者註と呼ばれるのは尤もな事である。初めは父、用明天皇の世に於け

 

註 四天王は、持國(ドリタラーシトラ)增長(ヴイルードバクシヤ)廣日(ヴイルーバクシヤ)毘沙門(ヴアイシユマナ)である。彼等は世界の四方を防禦する。

譯者註 コンスタンタイン大帝(二七四――三三七年)は、始めて基督數を羅馬の國敎とした初代敎會の恩人。

[やぶちゃん注:原注の原文を示すと、“They defend the four quarters of the world. In Japanese their names are Jikoku, Komoku, Zocho, Bishamon (or Tamon);—in Sanscrit, Dhritarashtra, Virupaksha, Virudhaka, and Vaisravana,—the Kuvera of, Brahmanism.”

「コンスタンタイン大帝」ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語表記:Gaius Flavius Valerius Constantinus 二七〇年代前半~三三七年)はローマ帝国コンスタンティヌス朝第一代皇帝コンスタンティヌスⅠ世(在位:三〇六年~三三七年)。『複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院からマクシムス(Maximus、偉大な/大帝)の称号を与えられた』。『ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上特に重要な人物の』一『人であり、ローマカトリック、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会など、主要な宗派において聖人とされている。また、彼『自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープル(現:イスタンブル)は、その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした』と彼のウィキにある。]

 

る大爭鬪によつて、それから後には律令の制定と佛敎の學問の保護によつて、日本帝國に於ける佛敎の運命を決定したからである。その前の敏達[やぶちゃん注:「びだつ」。]天皇は、朝鮮の僧侶に佛敎を說くことを許し、また二個の寺院を建立したのであつた。しかし用明帝の御代には、物部守屋といふ有力な貴族で、且つ外來宗敎の猛烈なる反對者が、かかる寬容に對して反抗し、寺院を燒き、僧侶を追放し、天皇の軍隊に向つて戰を挑んだ。傳說によれば、皇軍が擊退されつつあつた際に、皇子――當時僅に十六歳――は、もし勝利を得たならば、四天王に對して寺院を建立することを誓つた。すると、立ちどころに、彼の軍勢の方に一個の巨大な姿がぬつと現はれ、守屋の軍勢はこれに睨まられて、散亂遁走した。佛敎の敵は全然ひどい敗北を蒙つた。して、その後聖德太子と呼ばれた若い皇子は、彼の誓願を守つた。天王寺が建てられた。して、叛賊守屋の富は、その維持に利用された。太子は寺の金堂と稱する部分に、日本に渡來した最初の佛像を安置した――如意輪觀音の像――して、その像は或る祭日には、今猶ほ一般へ示される。戰鬪中に出現した巨大の姿は、四天王の一つなる毘沙門であつたと云はれてゐる。今日に至るまで、毘沙門は勝利の授與者として崇拜されてゐる。

[やぶちゃん注:「敏達天皇は、朝鮮の僧侶に佛敎を說くことを許し、また二個の寺院を建立した」不審。ウィキの「敏達天皇」によれば、『敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立するという構図になっていた。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇』十四年(五八五年?)に『物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。その年の』八月十五日、『病が重くなり崩御』(但し、「古事記」では没年は五八四年とされてある)し、『仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された』とある。

「天皇の軍隊に向つて戰を挑んだ」用明天皇二(五八七)年七月に発生した「丁未(ていび)の乱」「物部守屋の変」。仏教の礼拝を巡って大臣蘇我馬子と対立した大連(おおむらじ)物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。これから先、物部氏は衰退した。詳しくはウィキの「丁未の乱」を参照されたい。

「如意輪觀音の像」Japantemple.com ~いにしえの日本を思う寺社巡り~」の『四天王寺の本尊「救世観音」とは?』に本尊変更などの解説とともに画像がある。]

 店肆の並んだ、陽氣な狹い賑やかな町から、天王寺の廢朽せる境内へ移つて行つたときの感は、何とも云ひにくい。日本人に取つてさへも、千二百年前日本に於ける最初の佛敎傳道事業の頃の生活狀態へ、記憶の上では後戾りをすることとなつて、一種超自然的の感じがあるに相違ないだらう。他の場所では、私の眼には紋切形で見慣れきつた信仰の象徵も、ここで見ると、まだよく見慣れない、異國的な、原始的形式のやうに映ずる。それから、私が未だ嘗て見たことのないものは、現實世界を離れた時處の感を與へて私を驚かした。實は元の建築は、あまり殘つてゐない。燒けてしまつた個所もあれば、修繕された個所もある。しかしその印象は矢張り一種特異である。それは改築されたり、修繕されたりしても、どこまでも韓唐[やぶちゃん注:「から・とう」。原文は“some great Korean or Chinese architect”であるから、朝鮮と中国。]の偉大なる建築家の作つた原型が保存もれてゐるからだ。此境内の古色蒼然たる光景、異樣な淋しげな美を筆で述べようとしても駄目である。天王寺がどんなものであるかを知るには、その凄いやうな頽廢を見ねばならない――古い木材の美しい漠然たる色合、消え行く幽靈のやうな灰色や黃色の壁面、風變はりな不順序、檐[やぶちゃん注:「ひさし」。]の下の異常なる彫刻――波や雪や龍や鬼の彫刻の、嘗ては漆と黃金を塗つて華麗であつたのが、今は歲月のため褪せて煙の如き色になつて、煙と共に渦を卷いて消え去らんとするやうである。彫刻で最も目醒ましいのは、奇想を凝らした五重の塔のものである。塔は今荒廢して、屋根の諸層の角から吊るした靑銅の風鐸は、殆ど落ちてしまつてゐる。塔と本堂は、四角形な庭の中に立つてゐて、庭の周圍には、開いた𢌞廊が連つてゐる。更に向うには、他の中庭、佛敎の學校、及び嚴疊な石橋を架せる、數多の龜の住んでゐる大きな池がある。石像や石燈籠や唐獅子や巨大な太鼓がある――玩具や珍奇な物品を賣る小屋もある――休憩のための茶店もある――それから、龜や鹿のために菓子を買ふことのできる菓子賣店もある。飼ひ馴らされた鹿は、餌を求めるため、そのつやつやした頭を屈めて、參詣者に近寄つてくる。二階作りの樓門があつて、大きな仁王の像が鎭護してゐる。仁王の手足は、アツシリヤの彫刻に於ける王の四肢の如き筋肉を有し、胴體には、信心深き人々が唾をつけて投じた白紙の小球が、滿面に點々してゐる。今一つの櫓門は、堂内が空虛である。多分昔は四天王の像があつたのであらう。珍らしいものが、なかなか夥しいのであるが、私はただ二つ三つの、最も異樣な經驗を書いてみよう。

[やぶちゃん注:「アツシリヤの彫刻」“Assyrian sculptures”。ウィキの「アッシリア」によれば、『アッシリア(Assyria)は現在のイラク北部を占める地域、またはそこに興った王国。アッシュール市を中核とし、帝国期にはニネヴェやニムルドが都として機能した。歴史地理的名称としてのアッシリアはチグリス川とユーフラテス川の上流域、つまりメソポタミアの北部を指し、メソポタミア南部は一般にバビロニアと呼ばれる。最終的にメソポタミア・シリア・エジプトを含む世界帝国を築』いたとある。グーグル画像検索「アッシリア 彫刻 王」をリンクさせておく。

「胴體には、信心深き人々が唾をつけて投じた白紙の小球が、滿面に點々してゐる」私は小さな頃に、見かけてよく知っているのだが、最近はまず見かけなくなったから、若い読者には意味が解らぬ方も多かろう。個人ブログ「秘境100選 Ver2」の「仁王像」(北海道札幌市東区にある曹洞宗金龍山大覚寺山門の仁王像と思われる)の写真を見られたい。そこに『仁王の赤い身体に白いものが張り付いていて、最初鳥の糞かと思った。案内役の僧に聞いてみると、これは唾や水で濡らした紙つぶてが乾いたものだそうである。自分の身体の悪いところに対応する仁王の身体に、濡らした紙つぶてを投げて当て、直るように祈願する。こうなると』、『仁王も医者の役目を果たしている』とあるので納得がいかれよう。]

 先づ第一に發見したことは、私が境内に入つたとき念頭に浮かんだ一個の臆測が、實際に確められたことである――ここの建築が特異である如く、禮拜の形式もまた特異ではないか知らんと思はれたのであつた。どういふ譯で、こんな感じが起こつたかわからない。ただ外門を入つてから直ぐに、建築に於けると同樣に、宗敎に於ても異常なものを見るやうな豫感を覺えたと云ひうるのみである。すると、私はやがてそれを鐘樓に於て發見した。これは二階作今の支那風建築で、そこに『引導の鐘』と呼ばれる鐘がある。何故といふに、その鐘の昔が、子供の靈魂を冥途に於て案内するからである。鐘樓の階下の室は、禮拜堂の設備がしてある。一見した時、ただ佛敎の禮拜が營まれつつあるのが眼についた。蠟燭が燃えて、厨子は金色に輝き、香煙が騰つて、一人の僧は祈を捧げ、女や子供は跪づいてゐた。しかし厨子の中の像をよく見ようと思つて、一寸入口の前に立ち止まると、私は忽ち見慣れぬ驚くべきものに氣がついた。厨子の兩側の棚の上、臺の上、厨子の上方下方、それから向うの方に、何百といふ數の子供の位牌が並んでゐて、それから、位牌と共に數千の玩具が並んでゐる。小さな犬、馬、牛、武者、太鼓、喇叭、厚紙製の甲冑、木刀、人形、紙鳶[やぶちゃん注:「たこ」。凧。]、假面、猿、船の型、小型の茶器一式、小型の家具、獨樂、滑稽な福神の像――近代の玩具や、いつ頃流行したのか分からぬ玩具――數世紀に亙つて集つたもので、昔から今まで代々の死んだ子供全部の玩具がある。天井から人目の近邊へ、鐘を鳴らす一本の大きな綱が垂れてゐる。直徑約四吋[やぶちゃん注:「インチ」。約十センチメートル。]、種々の色を帶びてゐる。それは引導の鐘の綱である。しかもその綱は死んだ子供の涎掛で作られたもので、黃、靑、赤、紫や種々の中間の色合を帶びてゐる。天井は見えない。それは數百枚の死兒の小さな着物で遮ぎられてゐる。僧侶の側で、盛の上に坐つたり遊んだりしてゐる男女の子供達は、彼等の亡くなつた兄弟とか姉妹とかの位牌の前に納めるため、玩具を持つて來たのである。子を矢つた父とか母が、絕えず戶口ヘ來て、鐘の綱を引き、疊の上へ銅錢を投げては祈をさ〻げる。鐘の鳴る度每に、亡兒の靈魂がそれを聞きつけるのだと信ぜらてゐる――もう一度、好いた玩具や親の顏を見るために、歸つてくるのだとさへ信ぜられてゐる。南無阿彌陀佛といふ哀れげな小聲、鐘の響[やぶちゃん注:底本は「鏡の響」となっているが、相当箇所は“clanging of the bell”であるから、誤植と断じ、特異的に訂した。]、僧の讀經の深い唸り聲、貨幣の落ちる音、心地よい重げな[やぶちゃん注:「おもたげな」。]抹香の薰り[やぶちゃん注:「かほり」。]、厨子の冷靜な黃金色に輝いた美しい佛陀、玩具の華麗な光、子供の着物の暗影、種々の色をした涎掛の驚くべき鐘の綱、座敷の上で遊んでゐる子供の樂げな笑聲――すべてこれは私に取つては、またと忘れられない凄いやうな哀れさの經驗であつた。

[やぶちゃん注:公式サイトの「境内案内」の「北鐘堂」の解説によれば、『正式には、黄鐘楼(おうしょうろう)といい』、『北の引導鐘・鐘つき堂とも呼ばれ』、『春秋の彼岸にはお参りの人でごったがえ』し、『このお堂の鐘の音は遠く極楽までも響くといわれ、先祖供養のための鐘の音が絶え』ないとあり、『当堂の鐘は天井裏にあり、綱を引いてつく形式のため』、『鐘は見ることができ』ないとある。ネット上で複数の堂内の写真を見たが、最早、小泉八雲が激しい感動を覚えたそれは、残念ながら最早、過去のものとなっているようである。

 なお、以下は原本では一行空けで「Ⅳ」に続いている。しかし、原本を見ると、異様に長くこの「Ⅳ」が続き、やっとここで「Ⅴ」になるものの、その後が「Ⅵ」ではなく、「Ⅶ」となって終わっている。これは、原本の誤りであり、落合氏はそれを考慮して、以下を「五」として後を「六」「七」と繋げたものであると読める。

 

       

 鐘樓から遠からぬ所に、貴い泉を蔽へる珍らしい建物がある。床の中央が開いて、長さ十尺幅八尺位で、欄干が繞らしてある[やぶちゃん注:「めぐらしてある」。]。欄干から見おろすと、下の暗い中に大きな石の水盤がある。古くなつて色黑く、唯だ半分しか見えない大きな石の龜の口から、その中へ水が注いでゐる。龜の後部は床の下の暗い所へまで入つてゐる。この水を龜井水(かめのゐすゐ)といふ。この水の注ぐ盤は、半分以上白紙で充ちてゐる――無數の白紙の片に、一つ一つ漢字で戒名、卽ち人が死んでから附ける佛敎的の名が書いてある。堂の一隅の疊を敷いた處に、僅の料金で戒名を書いてくれる僧がゐて、死人の親類とか友人が、戒名を書いた紙片の一端を、長い棹の先きに直角に附けた竹の窩[やぶちゃん注:「あな」。]、と云はんよりは寧ろ竹の接ぎ目の口ヘ挾んで、字を書いた面を上に向けて龜の口へ紙を下げ、始終佛敎の呪文を唱へ乍ら、迸る水の下へやつてゐると、水盤の中へ洗ひ流される。私が泉へ行つて見た折、人が山をなして、五六人が戒名を龜の口の下へ持つて行つて、その間夥多の信心深い人々は、手に紙片を持つたま〻棹を用ひる機會を待つてゐた。南無阿彌陀佛のつぶやきが激流の音のやうであつた。水盤は數日每に一杯になつて、それから中を開けて、紙を燃してしまうのだと、私は告げられた。これを眞實とすれば、この繁忙な商業的都會に於ける佛敎の力の顯著なる證據である。こんな紙片が數千枚もなくては、水盤は一杯にならないからである。この水は死んだ人の名と、生きた人の祈とを齎して、聖德太子の許へ行き、太子は信者のために阿彌陀に向つて執り成しの力を用ひ玉ふのだといふことである。

[やぶちゃん注:公式サイトの「境内案内」の「亀井堂」の解説によれば、『亀井堂は戦火で焼失後、昭和』三〇(一九五五)『年に再建され』『た。亀井堂の霊水は』、『金堂の地下より、湧き』出『ずる白石玉出の水であり、 回向(供養)を済ませた経木を流せば』、『極楽往生が叶うといわれてい』る。堂の『東西桁行は四間』(七メートル二十七センチ)『あり、西側を亀井の間と』呼でおり、『東側は影向』(ようごう)『の間と呼ばれ、左右に馬頭観音と地蔵菩薩があり』、『中央には、その昔』、『聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されてい』るとある。]

 太子堂といふ堂には、聖德太子と侍者どもの像がある。高貴の人の用ひる椅子に坐せる太子の像は、實物大で、且つ彩色を施してあつて、千二百年前の服裝に、華麗なる帽を被つて、その支那式或は朝鮮式の靴は爪先きが反つてゐる。極めて古い陶器や、襖模樣などに、これと同樣の服裝を見ることがある。しかし顏は、その髭が支那風に垂れてゐるにも拘らず、典型的日本人の顏であつて、品位が備はり、親切らしく、冷靜である。私は像の顏から振り返つて、私のぐるりの人々の顏を見た時、矢張り太子と同一の型であつて、同じく落ち着いた半ば好奇心のある、不可思議な凝視の眼に出逢つた。

 

 天王寺の古代建築に對して、强大なる對照を呈するものは、大きな東西兩本願寺である。これは東京の兩本願寺に殆どそつくり似てゐる。大抵日本の大都會には、かやうな一對の本願寺がある――それぞれ十三世紀に創立された、大きな眞宗の東西兩派の一つに屬してゐる。その建築は地方の富及び崇敬的に重きをなす程度如何に從つて、大いさを異にするけれども、大抵同一の形式であつて、それは佛敎建築中、最も近代的且つ最も純日本的な形式を現はしてゐるといふことができる――大きく、莊嚴[やぶちゃん注:これは意味から「さう(そう)ごん」と読む。]で、華麗である。

 

註 この宗旨が、十七世紀に二派に分かれたことは、宗敎上でなく、政治上の原因を有つてゐた。だから、同派は宗敎的には一致してゐる。その法主は皇族の血續を承けてゐる。因つて御門跡といふ稱號がある。この宗旨の寺の境内を繞る塀は、皇居の塀と同樣の裝師的剜形を有することを、旅人は注目するだらう。

[やぶちゃん注:私は二十歳の頃に唯円の「歎異抄」に嵌まった。その際、この二派の後の分立には痛く鼻白んだもんだ。浄土真宗の二大分立についてご存じない方は、ウィキの「本願寺の歴史」を参照されたい。説明する気も起らん。

「剜形」「わんけい」或いは「ふちくりがた」とも読むようだ。“Travelers may observe that the walls inclosing the temple grounds of this sect bear the same decorative mouldings as those of the walls of the Imperial residences.”「抉り取った、削り取ったような装飾様式であること」のようだが、単に門跡寺院だから同じような成形の装飾様式を持つで別にいいんじゃなかろうか?]

 

 しかし兩寺院は、共に象徵、偶像、及び外部の儀式については、殆ど新敎的嚴肅を示してゐる。その質素にして、どつしりした門は、決して巨人の仁王によつて護衞されてゐない――その大きな檐の下には、龍や惡魔の群像はない――佛や菩薩の黃金色の群が、列を重ね、光背を積んで、聖殿の薄明裡に聳えてもゐい――隨喜渇仰のしるしの珍らしい殊勝なものを、高い天井から吊るしたり、佛壇の前へ懸けたり、玄關の格子に結んだりしたのもない――繪馬もなく、祈を書いた紙を結んだものもない。唯だ一つの外、象徵はない――それも大抵小さい。それは阿彌陀の像である。多分讀者は、佛敎に於て本願寺派は、ユニテリアン派譯者註が自由派基督敎に於て代表するのと、敢て異らざる運動を代表するものだといふ事を知つてゐるだらう。その獨身生活とすべて禁欲的修行を排斥する點、その呪符、卜筮、奉納物を禁じ、また救ひのための祈りの外、一切の祈りを禁ずる點、勤勉なる努力を人生の努力として强調する點、結婚の神聖を宗敎的束縛として維持する點、唯一永遠の佛陀を父とし救主として仰ぐ敎義、善い生活の直接の報酬として、死後に於ける樂園の約束、また就中、その敎育に熱心なる點――すべてこれらの諸點に於て、淨土の宗敎は、西洋の基督敎の進步的形式のものと多大の共通せるものを有つと云つても妥當であらう。して、それは滅多に傳道團や布敎隊へ足を向けないやうな、敎養ある人士から、たしかに尊敬を博してゐるその富、その尊嚴、その佛敎的迷信の低級な形式に對する反抗から判斷すれば、すべての佛敎宗派の中で、最も感情的分子の少いものと思はれるだらう。しかし或る點に於ては、多分最も感情的といふべきであらう。いかなる他の佛敎宗派も、

 

譯者註 所謂正統派基督敎の諸派が、三位一體說を信奉してゐるのに對して、ユニテリアンは、ただ一位の天父を信じ、基督をただ至高の人格と認め、その神性を認めないで、最も自由なる信仰を有し、儀式最も簡單である。

[やぶちゃん注:「ユニテリアン派が自由派基督敎に於て代表する」原文“Unitarianism represents in Liberal Christianity”。ユニテリアン(Unitarian)はキリスト教正統派の中心教義である父と子と聖霊の三位一体(トリニティ:Trinity)の信条に反対して「神の単一性(Unity)」を主張し、「イエスは神ではない」とする一派の人々を指す。厳密な意味での、「ユニテリアニズム(Unitarianism)」は宗教改革後、約半世紀経って現れており、十七世紀以後、イギリスに於ける著名なユニテリアンとしては。ビドル John Biddle・クラーク Samuel Clarke・プリーストリー Joseph Priestly・マーティノー James Martineau などが挙げられる。アメリカでは、イギリスから移住したプリーストリーによってフィラデルフィアに初めて「ユニテリアン教会」が建てられ、チャニング William Ellery Channingが一八二五年に「アメリカ・ユニテリアン協会」を設立した。一九六一年には「ユニバーサリスト教会」と合同して「ユニテリアン・ユニバーサリスト協会」が組織された。日本にユニテリアンが初めて紹介されたのは、明治二〇(一八八七)年、矢野文雄によってである(同年七月『郵便報知新聞』紙上)。明治四二(一九〇九)年頃には神田佐一郎・三並良)(みつなみりょう)・岸本能武太(のぶた)・安部磯雄らが機関誌『ゆにてりあん』の編集・執筆を行い、同誌は後に『宗教』に改題し、さらに日本最古のキリスト教雑誌である『六合(りくごう)雑誌』と合併したが、大正一〇(一九二一)年に終刊した。昭和二三(一九四八)年、「日本ユニテリアン協会」の創立総会が開かれ、ユニテリアンに関連する教会として「東京帰一(きいつ)教会」(初代会長今岡信一良(しんいちろう))が作られた。翌年、「日本ユニテリアン協会」は「日本自由宗教協会」と改称し、協会機関誌『創造』を刊行している。機関誌はその後『自由宗教』『まほろば』『創造』と誌名を変えながら発行され続け、昭和二七(一九五二)年には「自由宗教連盟」と改称、国際自由宗教連盟(IARF)に加盟した(IARFは明治三三(一九〇〇)年に創設され、三年に一度、大会を開催しているが、一九九九年には「地球共同体の創造 宗教者の使命」というテーマのもと、カナダのバンクーバーで第三十回大会が開かれた)。しかし、この一九九九年、宗教法人「東京帰一教会」は初代会長今岡氏の没後、後継者に適当な人材がなく、また、会員の老齢化などによって解散している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。「Liberal Christianity」はその英文ウィキの、日本語版相応の「自由主義神学」に「Liberal theology」「Theological liberalism」「リベラル」「リベラリズム」は、『キリスト教のプロテスタントの神学的立場の一つ。その発生以来、プロテスタント教会の主流エキュメニカル派』(Ecumenism:キリスト教の教派を超えた結束を目指す主義、キリスト教の教会一致促進運動のこと。世界教会主義とも呼ぶが、そこから転じて、キリスト教相互のみならず、より幅広くキリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動のことを指す場合もある)『の多くが採用する立場』。『「自由主義」の語は社会学・政治学用語からの仮借であり、神学分野では「歴史的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って再解釈する」の意である。教義・教理の批判的研究である教義史を確立させた』。『かつては新神学(New Theology)とも呼ばれ、日本のキリスト教界にも大きな影響を与えた』とある。詳しくはリンク先を読まれたい。]

 

京都の東本願寺を實現せしめたやうに、强く普通人民の信仰と愛情を動かすことはできない。しかも本願寺派獨得の宗旨宣布法によつて、最も質樸無學な人々に手を伸ばしうると共に、一方またその學問によつて、知的階級をも動かす事ができる。この派の僧侶で、西洋の主もなる大學を卒業したものも少くはない。して、佛敎硏究の種々の方面に於て、聲譽を歐洲に馳せたものもある。古い方の佛敎の宗派が、絕えず隆盛に赴きつつある眞宗の勢力に壓倒されて、衰微に陷るべきか否かは、少くとも興味ある問題である。たしかに後者は一切のものが好都合である――皇室の御思召、富、學殖及び堅固なる敎團組織などが、さうである。これと同時に、眞宗よりも更に幾世紀も古い思想感情の習性を向うへ𢌞はして戰ふ場合、かかる便宜が果たして有効であるか否かは、疑問とならざるを得ない。恐らくは西洋の宗敎界は、此問題に關して預言の根據を置くべき先例を提供するだらう。羅馬舊敎が今日も依然、どんなに强大なまで存在してゐるか、ルーサー[やぶちゃん注:“Luther”。マルティン・ルター。]の時代以來、どんなにあまり變化しないでゐるか、今日の進步的信仰箇條が、どんなに或る具體的崇拜物に對する古い靈的飢渇――何かに觸れ、何かを胸に押しつけようとする欲求――を滿足させる力に缺乏してゐるか、――これらの事實を思ひ浮かべてみると、もつと古い佛敎諸派の偶像崇拜が、今後數百年、矢張り民衆の愛情裡に廣やかな領域を占めて行かぬとは限らない。それから、また眞宗の擴張に對する一つの珍らしい障害は、自己の犧牲といふ問題に關して、頗る深く根ざせる民族感情に存するといふことは、注目に値する。たとひ多くの腐敗が、疑もなく古い諸宗派に存するにせよ――たとひ食物及び獨身生活に關する誓と守らうともしない僧侶が、幾多あるにせよ――古い理想は決して未だ亡びてゐない。して、日本の佛敎徒の多數は、まだ眞宗僧侶の比較的愉快な生活に不賛成を表はしてゐる。僻陬[やぶちゃん注:「へきすう」。「僻地」に同じい。]に於て、眞宗が特に嫌惡の眼を以て見られてゐる處では、子供達がいたづらな歌をうたつてゐのを聞くこともある――

 

    眞宗坊主よいものだ。

    女房持つて、子持つて、

    うまい魚(さかな)をたべてゐる。

 

 これは私をして佛陀在世の時、佛敎徒に關する世間一般の批評を想起せしめた。これは屢〻『毘那耶』[やぶちゃん注:原文“Vinaya”。「律」。サンスクリット語「ヴィナヤ」の漢音訳。仏教に於いて僧集団(僧伽(そうが):サンガ)に属する出家修行者が守らなければならない規則のこと、及びそれを記した仏典の総称。]の經文に記され、殆ど歌尾の疊句の觀を呈してゐる――

 『そこで、民衆は不快を感じた。して、呟いて不平を訴へた。「これらの人々は、依然としてこの世の愉快を樂んでゐるやうな行動をしてゐる!」それから、彼等はこのことを佛尊に告げた』

[やぶちゃん注:以上は「四分律」(Dharmagupta-vinaya:仏教の上座部の一派である法蔵部(曇無徳部)に伝承されてきた律。ウィキの「四分律」によれば、中国及び『日本に伝来した諸律の中では、最も影響力を持ったものであり、中国・日本で律宗の名で総称される律研究の宗派は、ほとんどがこの四分律に依拠している』とある)に繰り返し現われる類似のシークエンスでの語句を繋げたものある。平井呈一氏は恒文社版「大阪」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『‥‥時(とき)に諸(もろもろ)の居士有り、‥‥に詣(いた)りて観看(くわんかん)す。‥‥を見(み)、見已(みをは)りて皆(みな)譏嫌(きげん)』(仏教用語で「世間の人が謗(そし)り嫌うこと」)『して言(い)わく』(ママ)、『「‥‥諸(もろもろ)の比丘(びく)これを聞(き)いて、世尊(せそん)の所(みもと)に往(ゆ)き‥‥此(この)因縁(いんねん)を以(もつ)て具(つぶさ)に世尊(せそん)に白(まを)す。」』と訳しておられる。]

 

註 僧侶の妻帶を禁ずる民法が撤廢されてから、特にさうである。眞宗以外の宗派の梵妻[やぶちゃん注:僧侶の妻を指す語。]は、滑稽で、且つあまり敬意を含まないも稱で呼ばれてゐる。

[やぶちゃん注:「民法」は誤り。明治五(一八七二)年四月二十五日の太政官布告百三十三号の「自今、僧侶肉食妻帶畜髮等可爲勝手事」に拠る。また、諸記事を見るに、本書が刊行された明治三〇(一八九七)年には、仏教界自体が(親鸞が妻帯して教義として許しているので浄土真宗以外。これは江戸時代もそうであった)、戒律に反する妻帯を認める方向へ既に傾いていたらしい。]

 

 天王寺以外、大阪には頗る古い歷史を有つた幾多の神社佛閣がある。高津の宮は、その一つである。そこでは、人々が日本のあらゆる天皇の内で、最も愛慕さる〻仁德天皇の靈に對して祈りを捧げるのである。現今天皇の社祠が立つてゐる場處に、天皇の宮殿があつた。して、市の眺望を恣にし得られる、この場處こそは、『古事記』に保存さる〻樂い傳說の舞台である――

[やぶちゃん注:「高津の宮」現在の大阪市中央区高津(こうづ)にある神社高津宮(こうづぐう)。難波高津宮に遷都した第十六代仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇・祖母の神功皇后・父の応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の履中天皇を右座に祀る。貞観八(八六六)年、第五十六代清和天皇の勅命により、難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて、仁徳天皇を祀ったのに始まる。天正一一(一五八三)年、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽(ひめこそ)神社を当社の地主神として摂社とした(ウィキの「高津宮」に拠った)。

 以下引用は全体が四字下げ同ポイントである。]

 

ヽヽヽ於ㇾ是天皇登高山、見四方之國。詔ㇾ之、於國中煙不ㇾ發、國皆貧窮、故自ㇾ今至三年、悉除人民之課役、是以大殿破壞、悉雖雨漏、都勿修理、以ㇾ※[やぶちゃん注:「※」=「木」+「咸」。]受其漏雨、遷避于不ㇾ漏處、後見國中、於國滿煙、故爲人民富、今科課役、是以三百姓之榮、不ㇾ苦役使、故稱其世、謂聖帝世也。

[やぶちゃん注:「古事記」「下巻(しもつまき)」の仁徳天皇の条の初めの方にある一節(既に「日本書紀」のそれは本篇冒頭の添え辞である伝仁徳天皇の歌の注で示した)。正確には「故稱其世」は「故稱其御世」。訓読しておく。

   *

……是(ここ)於いて、天皇(すめらみこと)、高山(たかやま)に登りまして、四方(よも)の國を見たまひて、之れに詔(の)たまひしく、

「國中(くぬち)に、煙(けぶり)、發(た)たず。國、皆、貧-窮(まづ)し。故(かれ)[やぶちゃん注:されば故に。だから。]、今より三年(みとせ)に、悉(ことごと)に人民(おほみたから)の課役(みつきえだち)[やぶちゃん注:「みつき」は「貢」で奉物、「えだち」は労役。]を除(ゆる)せ。」

と。

 是を以(も)ちて、大殿、破(や)れ壞(こぼ)れて、悉に、雨、漏れども、都(かつ)て修-理(をさ)めたまはず、※[やぶちゃん注:「※」=「木」+「咸」。水を流す「樋(とい/ひ)」か。](ひ)を以ちて其の漏るる雨を受けて、漏らざる處に遷(うつ)り避(さ)りましき。

 後に國中を見たまへば、國に、煙、滿てり。故(かれ)、

「人民、富めり。」

と爲したまひて、今は課役を科(おほ)せたまひき。是れ、百姓(おほみたから)の榮えて、役使(えだち)に苦まざるを以つてす。故(かれ)、其の御世を稱へて、「聖帝(ひじりのみかど)の世」と謂(まを)す。

   *]

 

 それは千五百年前であつた。今もしこの善い天皇が、かの高津の宮から――多くの人々が信ずる如く――現代大阪の煙を見そなはし玉ふならば、天皇は當然『朕の民はあまりに富すぎてきた』と考へ玉ふことであらう。

 市外に、神功皇后の三韓征伐を助けた海神を祀れる、もつと有名な住吉神社がある。住吉には綺麗な巫女、美しい境内、大きな池などがある。池に架せる橋は非常に灣曲してゐるので、靴を脫がずに、そこを渡るには、胸墻[やぶちゃん注:「きやうしやう(きょうしょう)」。胸の高さほどに築き上げた盛り土。原文は“parapet”。これって、「橋の欄干」でいいんじゃないの?]にすがりつかねばならぬ。堺には妙國寺がある。その庭には數株の頗る古い蘇鐡の樹がある。その一本は十六世紀に信長によつて移されてから、泣き悲しんだので、また寺へ戾されたといはれてゐる。これらの蘇鐡の下の土地は、滿面厚い、光つた、亂雜になつたた毛皮の塊のやうなもので蔽はれてゐる――半ば赤味を帶び、半ば銀灰色である。それは毛皮ではない。幾百萬の針の堆積である。これらの樹は鐡を好み、その錆を吸つて强くなるとといふので、巡禮者が『蘇鐡に食はせるため』そこへ投じたのである。

[やぶちゃん注:「住吉神社」大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社。詳しくはウィキの「住吉大社」を見られたい。

「妙國寺」大阪府堺市堺区材木町東にある日蓮宗広普山(こうふさん)妙国寺。ウィキの「妙国寺」によれば、永禄五(一五六二)年、『阿波国より兵を起こして畿内を支配していた三好長慶の弟・三好実休(じっきゅう)が日珖(にっこう)に帰依し、『大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地と寺領』五百『石を寄進し、日珖を開山とする当寺が設立された』。「霊木・大蘇鉄の伝説」に、樹齢千百年余と『云い、次のような伝説が残っている』。『織田信長はその権力を以って』天正七(一五七九)年に『この蘇鉄を安土城に移植させた。あるとき、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は』。『庭先で妙な声を聞き、森成利』(なりとし)『に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し』、『士卒に命じ』、『蘇鉄の切り倒しを命じた。しかし』、『家来が刀や斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな』、『血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ』、『即座に妙國寺に返還した。しかし、もとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。哀れに思った日珖が蘇生のための法華経一千部を読誦したところ、満願の日に蘇鉄から宇賀徳正龍神が現れ、「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。これにより』、『徳正殿を建て、寺の守護神として宇賀徳正龍神を祀ることとした。爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えないという』とある。今も天然記念物としてある蘇鉄の写真はこちら。]

 樹木の話の序に、私は難波屋[やぶちゃん注:「なにはや」。]の傘松のことを舉げねばならぬ。それが巨大な木であるといふことよりも、それが境街道に小さな茶店を開いてゐる大家族を養つて行くことにためである。この木の枝は、柱を組み合はせた枠の上で、外方と下方へ向けて伸びるやう馴らしてあるため、全體は百姓が被る笠といふ種類の、すばらしい綠色の帽子の觀を呈してゐる。松の高さは六尺にも足りないが、恐らくは二十方碼[やぶちゃん注:「ヤード」。十八強平方メートル。]に廣がつてゐる――其幹は、枝を支へてゐる枠の外部からは、無論毫も見えない。多くの人が茶屋へ來て松を見物する。して、一椀の茶を飮む。それから大抵誰れも或る記念品を買ふ――恐らくはその樹の木版畫、その樹を賞めて詠んだ歌を刷つたもの、少女の簪などである。簪はこの松――柱の枠をも含めた――全體の、綠色の立派な小模型で、一羽の小さな鶴が止まつてゐる。茶店難波屋の一家は、この樹を人に見せたり、かかる土產品を賣つたりして、ただ立派に暮らして行けるばかりでなく、その子供達をも敎育することができる。

[やぶちゃん注:「大阪あそ歩(ぼ)マップ集」のこちら(PDF)に、「難波屋の笠松跡」として地図入りで以下の記事がある。『江戸時代には難波屋という茶屋があり、その庭には枝ぶりがすばらしい松があって、紀州街道の名物でした。見物料の代わりに団子を売っていて「笠松は低いが団子は高い」と風刺されたといいます。昭和初期まで団子を売っていましたが、残念なことに戦後の食糧難で土地を開墾して芋などを植えたことから』、『土に栄養がなくなり、笠松は枯死しました。しかし安立小学校にて安立笠松会が松を植樹し、大きく育てて笠松の復活、伝承を試みています』とある。]

 

 私は大阪の他の有名な社寺――非常に古くて、頗る珍異なる傳說の纏はつてゐるのが、幾つもある――のことを述べて、讀者の忍耐を煩はさうと欲するものではない。しかし私は敢て一心寺の墓地について數語を試みよう。そこの墓石は、私が見たものの中では、頗る奇拔なものである。本門の近くに、朝日五郞八郞といふ力士の墓がある。彼の名は、多分重量一噸[やぶちゃん注:「トン」。]もありさうな、圓盤狀の大石の面に彫つてある。して、この圓盤は力士の石像の背上に載せてある――力士は怪奇な形姿を呈し、金泥を施せる眼は、眼窩から飛び出でて、容貌は努力のため、いかにも扭れてゐる[やぶちゃん注:「ねぢれてゐる」。]。それは半ば滑稽的で、半ば猛惡な光景である。その近くに、平山半兵衞といふ者の墓がある。これは瓢簞の恰好をした石碑である。瓢簞は旅人が酒を運ぶために使用するもので、最も普通の形は沙時計に似てゐて、ただ下部が上部よりも、や〻大きなだけである。して、その器は、酒が滿ちてゐるか、または一部分滿ちてゐる場合にのみ眞直ぐに立つことができる――だから日本の或る歌の中に、酒好きの人が、その瓢簞に向つて、『お前と一緖に倒れる』といつてゐる。たしかに酒豪連中が、この墓地の一區を占領してゐる。何故なら、同じ列にこれと頚似せる形の墓が、他に數個もあるからである また、一個の墓は一升德利の形をしてゐて、碑面には經文から取つたものではない句が刻んである。しかしすべての中で最も奇異な碑石は、眞直ぐに坐つて、前肢を以て腹つづみを打つてゐるらしい大きな石の狸である。その腹の面に井上傳之助といふ名と共に、次の句が刻してある――

 

    月夜よし念佛唱へて腹鼓

 

 この墓の花瓶は、酒瓶の形をしてゐる。墓石の臺は、岩を積んだもので、處々岩の間に、狸坊主の像が散見してゐる。私の著書の讀者は、日本の狸が、人間の形に化け、腹を打つて太鼓のやうな音を出す力を有つものと信ぜられてゐることを、多分知つてゐるでせう。それは惡戲とするため、屢〻佛僧の姿に化け、また甚だ酒が好きだといはれてゐる。無論、墓地に於ける、かやうな像は、ただ奇僻[やぶちゃん注:「きへき」。他のものと異なり、変わっていること。ひどく偏っているさま。]を現はすに過ぎないので、且つ惡趣味だと判斷されてゐる。希臘や羅馬の墓にも、死に關して――否、寧ろ人生に關して――現代人の感情に取つて嫌惡不快の感を催させるやうな情操、または情操めいたものを現はせる可笑げな繪畫及び彫刻のあつたことが思ひ出された。

 

註 狸は通常 badger と英譯してあゐが、狸といふ名の獸は、眞正の badger ではなく、一種の食果狐である。それは「浣熊(あらひぐま)の顏をした犬」とも呼ばれてゐゐ。しかし眞正の badger も日本に棲んで居る。

[やぶちゃん注:「一心寺」大阪府大阪市天王寺区逢阪(おうさか)にある浄土宗坂松山(ばんしょうざん)一心寺(いっしんじ)。「骨仏(こつぼとけ)」の寺としてよく知られている(詳しくはウィキの「一心寺」を参照されたい)。

「この圓盤は力士の石像の背上に載せてある」恐らく、一部の読者はこの大きさを誤解していると私は思う。松岡永子氏のブログ「にわたずみ」の「小泉八雲の見た大阪(1) 一心寺」を見られたい。その他の酒豪の墓や発句などを一応、検索してみたが、ネット上に画像は見当たらない。

「badger」(ベージャー)はアナグマ、本邦産種では食肉(ネコ)目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマMeles anakuma を指す。食肉目イヌ型亜目イヌ下目イヌ科タヌキ属ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus であって、混同されることが多いが、全くの別種である。なお、「浣熊(あらひぐま)」はイヌ亜目クマ下目イタチ小目アライグマ科アライグマ亜科アライグマ属アライグマ Procyon lotor で、アメリカ合衆国・カナダ南部・中央アメリカ(メキシコなど)を原産地とする外来種であり、本邦の個体は外来種として定着した問題種である。

「食果狐」不審。原文は確かに“fruit-fox”であるが、これは現在、哺乳綱翼手(コウモリ)目大翼手(オオコウモリ)亜目オオコウモリ上科オオコウモリ科 Pteropodidae の果実食をするコウモリのことを指す(彼らは顔がキツネに似ている)ので、前後から考えても、おかしな謂いとしかとれない。そもそもがホンドタヌキは果実も食すものの、完全な雑食性(肉食もする)であり、通称としても全く相応しくない。

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