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2019/11/26

ブログ・アクセス1290000突破記念 梅崎春生 行路

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二二(一九四七)年十月号『不同調』に初出で、昭和二三(一九四八)年八月講談社刊の第三作品集「飢ゑの季節」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 途中に二箇所だけ、その昔のシークエンス時制と梅崎春生の事蹟を確認・比較するため、私のオリジナルな注を挟んでおいとた。

 文中終わりで出る「碌々(ろくろく)と」とは「平々凡々と」の意である。若い読者のために言い添えておく。

 梅崎春生の絶妙な仕掛けが――最後に――ある。お味わいあれ。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが本日、午前中、1290000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年11月26日 藪野直史】]

 

   行  路

 

 針金ほどの細い鰻(うなぎ)である。それをブツ切りに切って皿に盛り、板台に幾皿も並べてあるのだが、切断された部分部分がまだ生きていて、ピンピン皿の外に飛び出そうとするのを指でつまんで皿に戻しながら、

「さあ、一皿十円。さあ十円ですよ」

 一間[やぶちゃん注:約一メートル八十二センチメートル。]ほどのよしず張の店で、店先にむらがったお客達の肩越しに聞えて来るのは、そんな甲(かん)高い女の声で、あった。梅雨の合間のぬかるみ道を歩き悩みながら、その張りのある女声にふと耳をとめた私は、何だかそれに聞き覚えがあるような気がしたから、洋傘を支えにして何気なく客の肩越しに斜にのぞきこむと、丁度(ちょうど)顔をこちらにむけた声の女の視線が偶然私の姿をとらえたらしく、日を輝かせながら、まあ、と驚いた時の眼をパチパチさせるその癖でも、まぎれもない栄子の姿であった。

「お栄さんじゃないか」

 私も少からず驚いて口走った。暫(しばら)く見ないうちに少し肥った色白の頰に栄子は驚きの色をかくせない陰影のある笑みを浮べて、裏の方へ、と手振りで私に示しながら、

「ケイちゃん。店の方たのんだわよ」

 へい、と答えて奥から出て来た若者は、復員服を着て二十四五らしいが、眉の形の良い端正な横顔を、よしずにそって裏に廻りながらちらと眺めた印象が、

 ――似てるじゃないか。――

 私は栄子と相知って此の十年余の歳月を、その感じだけで胸苦しくよみがえらせていた。

「暫くだったわね」

 裏の木戸から出て来て、何か感慨深そうに栄子はしげしげと私を眺めながら、

「でも貴方はかわらないわね。私はとても変ったでしょう」

「いや。綺麗(きれい)になったよ」

「へえ。口が旨くなったわね。これでもあたし、此の間までは上野の地下道に寝泊りしてたんだから」

 こんな事で私に嘘を言う女ではないから、その事も本当に違いない。私が黙っていると、

「驚いた。驚いたでしょう」

「驚きもしないが、大変だったろう」

 うふん、と含み笑いをしながら、私の手の弁当箱に眼を走らせ、

「相変らず腰弁というところね。それは空なの」

 一寸待ちなさいと、ためらう私から弁当箱を取上げて木戸へ入って行ったが、暫くして出て来て、

「お土産。商売物だけど」

 こだわりのない明るい調子であつた。受取ると弁当箱の中に、先刻見た切れ切れの鰻(うなぎ)が詰っているらしく、アルミの蓋にはねあたる幽(かす)かな感じと妙な重量感が手に伝わって来た。

「此処じゃお話も出来ないから、一寸そこまで出ましょう」

「店の方はいいのかい」

「いいの。任せてあるから」

 よしずの向うで先刻の若者の声らしく、ええ一皿十円、たったの十円と呼ぶのが聞えて来た。

 此の前逢った時から三年程も経つが、その歳月を一足飛びに越えて隔りを感じさせないのも、栄子という女の持つ性格ゆえには違いなかったが、また私と栄子の交情が特殊のものであるせいでもあった。栄子に言われるまま歩き出し、露地を廻るとそこらはやくざなマアケット地帯で、両側の屋台屋台に栄子はあるきながら挨拶を交したり交されたりするところからみれば、栄子は既にここでも相当な顔らしく、私は恰幅(かっぷく)の好い栄子の後姿を追いながら、此の女のこんな強さはどんな処から来るのかといぶかる思いでもあった。泥のはねを気にして立ち悩む私に、栄子はふと振返ってまぶしそうな眼を向けたが、身体を反(そ)らして飛込んだのがやはり屋台の一軒で、

「おばさん。つけてくれない」

 棚に並んだ瓶を見るまでもなく飲屋と知れるが、昼酒でもあるまいとためらう私に栄子ほはげしく手まねきした。

 すわりの悪い腰掛けで、曇天の光が青ぐらく落ちて来て、私は盃に注がれた変に黄色い洒に口をつけた。酒を口に入れるのも久し振りで、そのせいか薬品じみた抵抗がふと舌にさからうのだが、栄子は鮮やかな飲みぶりで、盃を持つ手ももの慣れた風情であった。此の女も何時からこんなに酒に慣れたのかと、記憶の空白を確め廻していると、

「あれからどの位経ったかしら」

「そう。あれが十九年の三月だったから」

「もう三年あまりね」

 その時は栄子は着のみ着のままで、険しく暗い顔をして私を訪ねて来たのであった。しかしどんなに暗く栄子が絶望していても、今までの例ではまた不死鳥のように此の女は立ち上って来た。その事を私は言いたくて、

「でもお栄さんはどうにかして生き抜けるたちらしいね」

「どうにかなる。どうにかなるものよ」

 栄子は盃を乾しながら、かわいた笑い声を立てた。私と始めて相知った頃の栄子は、こんな笑い方はしなかった。淋しそうな笑いを片頰に一寸浮べるような女であつた。今のように肥ってはいなくて、すらりとした形の良い少女であった。

 それは確か私が大学に入った年のことで、同じ高等学校から来た古田という私の友達がいて、それから栄子を紹介されたのだ。古田の話では従妹だということであったが、その頃栄子は何処か私立の音楽学校に通っているとの話で、一寸しゃれたスウツなど着てその癖髪はおさげのままであった。不調和がそのまま此の少女には調和となっていて、それが変な魅力となっていた。手を膝にあてて丁寧にお辞儀するような少女であった。全体の感じが稚ない様子だったから少女と書いたが、歳はもう十八九になっていたと思う。

 古田という男はきりっとした顔立ちの男であったし、それに仲々の漁色家だという評判だったから、勿論(もちろん)従妹だなどという彼の口舌を私は信じていなかった。また信ずるにしても信じないにしても、それは私にかかわりあることではなかった。しかしこんな稚なさを不幸におとし入れることは、何か無惨な気もしなくはなかった。私の知る限りでは古田の今までの相手は、女給とかダンサアとかそんな種類の女に限られていたから、そんな女たちと同列に栄子を置くことがふと傷ましく思われたのだ。

 古田とはもとから私は知っているが、漁色家といっても悪どいやり方ではなく、ただ責任のない愛情を楽しもうとする、言わば単純なエピキュリアンに過ぎなかったから、あるいはなおのこと栄子は愛情の方途に迷ったのかも知れない。とにかく若い栄子が古田に愛情を打ち込んでいることは、他処目(よそめ)の私にも判る位であった。そんな無計算な愛情の吐露が、遊びのつもりでいた古田には重苦しくなって来たのであろう。私の下宿にある時やって来て、あの女にもかなわん、と私に洩(mら)したことがある。

「だってあれは君の従妹だろう」

 古田はそれを聞いて首をちぢめて苦笑しながら、しつこい従妹だよ、とはき出すように言った。

 その言葉を聞いた時、私はふと古田に微かな憎悪を感じていた。

 その頃既に古田は栄子と肉体的関係があったのだと思う。ただの精神的な恋情なら、古田ほどの男が身をかわせない筈がないからだ。私がその時古田を憎む気持が起ったというのも、彼の無責任な生活態度に対してではなく、純な女に不幸を植えつけたという点であったに相違ない。三人でいる時、栄子がときどき古田を眺めるあの熱っぽい眼を私は思い出していたのだ。古田はその頃栄子と二人になることを嫌ってか、よく私を誘いこんで同座させていた。

 ある夜日比谷公会堂で音楽会があって、待ち合せて行く約束になっていたのだが、約束の場所でいくら待っても古田が来ず、やむなく私は栄子と二人で聴きに行ったことがある。もともと私は音楽に趣味があるわけではなく、ほんのつきあいに過ぎなかったが、栄子は音楽学校に通っていただけあってその夜も譜本をたずさえて来ているほどであった。約束の時間が過ぎた時私はすぐ、古田がすっぽかしたと思ったが、栄子は、も少し、も少し、と少しずつ時間を伸ばして、背伸びなどして遠くを眺め、仲々あきらめ切れぬ風情であった。そこを離れて公会堂に行くときも、栄子は何度も振返って探し求める眼付になったりした。

 その夜の演奏曲目は何であったか覚えていない。終って外に出ると空は一面の星で、私達はぶらぶらと公園の中を日比谷停車所の方に歩いた。音楽の後感がまだ身体に残っていて、風爽かな初夏の夜であった。

 演奏中からも栄子は何か沈んだ風(ふう)であったが、歩いている時も言葉少く顔色が冴えない模様で、話しかける私の言葉にもはっきりしない受け答えぶりであった。丁度(ちょうど)噴水のところまで来た時栄子は何か思い詰めたように身体ごと私を押して来た。

「ねえ田代さん。何故今日古田さんは来なかったの。何故来なかったんでしょう」

 突然のことなのでふと私が気押されて黙ると、栄子は急に甲(かん)高い声になって独語のように叫んだ。

「でも私はあの人を信じてるわ。あの人は人を偽るような人じゃないわ」

 声音が乱れたので私が驚いて栄子を見ると、月の光の加減か栄子の顔は真蒼であった。陶器のような冷たい頰に、ふと涙のいろを見たような気もしたが、栄子は両掌で顔をおおって、つと私に背を向けた。お下髪(さげ)が大きく揺れて、その間から細い頸(くび)筋が見えた。月の光はそこにも落ちていた。堪え難い程の哀憐の情がその時私の胸を衝き上げて来たのである。私はしかし何故かはげしい狼狽を感じながら身体を硬くして、花々の香しるい夜の径を急ぎ足に歩き出していた。

 しかし栄子と古田の交情も、間もなくあっけなく終った。古田が召集されて支那に渡ったかと思うと、すぐ戦死してしまったのである。戦死の場所は上海戦線であった。

 古田の母親からそんな報(しら)せがあって一遇間ほど経った夜、私の下宿に栄子が訪ねて来た。玄関に出て見ると暗い土間に栄子は影のように立っていて、私の姿を見るとキラキラ光る眼で私をじっと見た。憔悴(しょうすい)の色が濃くかぶさり、何か別人にも見えた。とりあえず部屋に通しながら、古田の戦死を何時知ったのかという私の問いにも答えず、部屋のすみに斜にすわり、私の視線を避けるような物ごしで、

「田代さん酒を飲みたいわ。飲まして」

 激しい口調であった。

 栄子が心に受けた打撃は私にも良く判るのだから、こんな場合、場あたりの慰めも無意味だと思い、女中を呼んで私は酒を注文した。この頃(昭和十二三年頃)は酒が飲みたければ下宿の帳場に注文して、つけでいくらでも飲むことが出来たのだ。

 その夜栄子はかなり酒を飲んだ。

 その話によると、栄子は古田と結婚する約束をしていたそうで、古田の戦死を知って彼女が古田の実家を訪ねてみると、母親が出て来て、古田には内縁だけれども既に妻があるということを、冷たい顔で栄子に話したという事であった。古田が自分と約束をしておきながら、家に内縁の妻を持っていたことが栄子に惑乱する程の打撃を与えたのだ。

「古田が東京を立つ時、何故駅まで来なかったんだね」

「そんな感傷的なことは厭だとあの人は言うんですもの」

 駅には古田の母親とその内縁の妻らしい女が来ていた。その女は人目もはばからず手巾(ハンカチ)を眼にあてていたが、古田は明るい顔で見送人と挨拶を交していた。私は栄子が来てはいないかと時々気になって四辺を見廻したりしたが、汽車が出るまで栄子は見当らなかった。やがて万歳の声と共に、窓から古田が振る帽子がだんだん小さく消えて行った。

「死んじやったもの仕方が無いさ」

 私も少し酔って栄子にそんな事を言った。

「死んじやったからいけないのよ」

 栄子は濁った眼で私を見っめたが、

「他に女の人がいるなんて、男ってそんなものかしら、そんなものなの」

「ああ、そんなものだよ」

 そのうちに夜が更けて電車も無くなったようだから、私は下宿に頼んで寝床をとってもらった。栄子は酔っていて、少からず乱れていたから、独り戻すのは危険な気もした。それにまた別の気持もあった。

 いよいよ寝る段になって酔った栄子が着換えしようとする時、手が乱れて裸の胸が見えた。乳首がちらりとのぞかれたが、それは桑の実のような黒さであった。栄子はばたんばたんと乱暴にふるまいながら、床に入った。

「あなたは良い人ね。ほんとに良い人ね」

 良い訳がないさと、私は胸の中で呟いたが、栄子はその時眼を閉じて幽かな寝息を立てていた。電燈の光線が栄子の顔に隈(くま)をっくって、いつもの稚ない表情から急に大人びた暗さであった。

 その夜挑んだのが私であったということを私は書いておかねばならぬ。不幸に陥ちた女をそんな風(ふう)に取扱うことは、何か弱みにつけこむようで後ろめたくないこともなかったが、境遇から来る不幸というものは、私には本質的なものでなく、人間にとっては意匠にすぎないと思われた。不幸という点からすれは、栄子よりその夜の私の方が遙か不幸であるのかも知れなかった。

 しかし私の挑みに対して、栄子はもっと激しい情熱で応じて来た。それはほとんど自棄じみた烈しさで、それは私を愛しているためでは絶対になく、ただただ自分を満たすためであることを、私はその瞬間に本能的に感じ取っていた。悦楽の頂上にあって栄子は唇を私の耳に寄せ、

「――憎い。憎いわ」

 歯ぎしりするような調子でそう呻いた。

 翌朝私達はぼんやり起き上っていた。昨夜のことを悔ゆる気特は勿論(もちろん)私にはなかった。私は貧しい朝膳に向いながら、昨夜栄子が憎いと叫んだ言葉は、誰にむけられていたのだろうと考えた。古田に対してか、それとも私に対してか。或いは栄子は自分自身にその瞬間そんな憎悪を感じているのかも知れなかった。私が探り得た身体の感触では、栄子は明かにみごもっていた。

 しかしその朝、栄子は意外なほど明るくなっていて、朝食を食べながら声を立てて笑ったりした。昨夜までの苦しみをすっかり置き忘れた風(ふう)であった。

「で、これからどうするんだね。故郷に帰るのか」

 栄子の故郷は九州で、小地主の父親だけがいるということを私は聞き知っていた。

「帰らないわ」

「学校に戻るのか」

「学校はもう止めよ」栄子はそう言って笑った。「私は看護婦になるの。そして従軍するの」

 その日一緒に外に出て、銀座で映画を見て別れた。それは喜劇映画だったが、栄子は笑う処になると人一倍笑ったりした。そんな栄子の心理を私はふと解しかねていた。

 それから栄子は長い間私を訪ねて来なかった。

 看護婦になると言っていたがどうしたのか、腹の子供はどうしたのか、そんな事を私は時折気にかけていたが、やがて私も卒業期が迫って論文作製などに忙しくなったから、そんな心配も次第に心からうすれ始めていた。ある初冬の日私が図書館の大階段を降りて来ると、その下に黒っぽい看護婦の服を着た女がいて、それが栄子であった。驚く私に栄子はにこやかに笑いかけながら、淡々とした口調で言った。

「明日出発して支那に行くのよ」

 へええ、と思わず私は声に出しながら栄子の容姿を上から下まで眺めた。

「今下宿にお訪ねしたんだけれど、図書館にいらっしゃると聞いたから、先刻から待っていたのよ」

 看護服は良く栄子に似合った。以前より少し肉付きが良くなって、顔の辺も成熟した表情であった。それと私の関心をひいたのは、態度に何か自信が出来ていて、それが一層栄子を美しく見せた。

 立話も出来ないので私達は建物を廻って歩き出した。

「何故今まで連絡しなかったの」

「何故って、私にも判らないのよ」と栄子は一寸顔を染めた。「貴方のことをあまり思い出さなかったのよ。ところがいよいよ遠くに行く段になって、とっても貴方に会いたくなったのよ。もう御卒業ですってね」

 葉の枯れ落ちた銀杏(いちょう)並木の彼方、青色の冬空を背景にして安田講堂が茶褐色にそそり立っていた。そこを歩きながら栄子が言った。

「あの建物は何。厭な形ね。お墓の形をしてるじゃないの」

 まことそれは墓石の形であった。朝夕それを眺めていて、その時始めて私は気が付いていた。

 子供はどうしたのかとうとう聞かなかったが、栄子の話では看護婦の教習所のような処に暫く通って、そして従軍を志願したという話であった。それを話す口調があまり淡淡としていたから、子供を産んだにしても流したにしても、そんな一身上の大事が表情に陰影を落さない筈はないと私は思った。しかし栄子はそんなこだわりをいささかも見せていなかったのだ。不幸をてんで受付けないような強い資質を此の女は始めから持っていたのではないか。思い立っていきなり従軍看護婦になるというのも、思えば私には理解出来ないことであった。私はその頃召集が来はしないかと毎日ビクビクしていたのだ。

 別れ際に私が、

「もう古田のことなど忘れてしまっただろうね」と冗談めかして言うと、栄子は急に淋しそうな顔をした。

「ええ、近頃は忘れちゃったけどね、あの時はほんとに辛かったわ。あんなに深く絶望したことって無いわ。あんな気持は男には判らないでしょうね」

「判らないことはないさ。しかしその傷のなおり方は男よりは早いようだね」

「そんな事を言う」栄子は口辺にふしぎな笑みをちょっと浮べたが、直ぐしみじみした調子になって、「貴方にも又そのうち、御厄介になることがあるかも知れないわ。住所が変ってももとの処に言い残しといてね」

 そして私達は別れた。

 その夜私は遅くまで眠れなかった。栄子と今日出逢い、そしてみすみす遠くへ手離したということ、それが実感として私に来た。私は長い間栄子のことを思いつづけていたような気分におちていた。実際としては近頃私は栄子の事を忘却し勝ちであったが、逆に言えは苦しいから私は私の意識を眠らせようと努力しているのかも知れなかった。何だかそんな感じを突きつめて行けば、私は栄子と最初出会った時から、栄子に切ない気持を抱いて来たようであった。あの一夜のことが今なお私に罪業感を残さぬのは、私のエゴイズムではなくて、そんな気持の責任を私が持っているからに違いなかった。しかし現実には私は栄子と距離をへだてている。それは何の故だろうと私は思うのであった。

 二箇月程経って栄子から手紙が来た。上海の陸軍病院からであった。私は古田が上海で戦死した事を咄嗟(とっさ)に思い起していた。現実のありかたからすればそれは偶然というものかも知れないが、私には何だか栄子の成意が働いているように思えた。その手紙には、近く奥地へ出発するという意味のことが、検閲を考慮してか廻りくどく書かれてあった。

 その翌年の春、私は学校を卒業した。学校の教師にもなりたくなかったし、それと言ってもどんな仕事にも情熱を感じなかった。すすめる人があって、私はある役所に入った。仕事は面白い筈もなかったが、月給を貰えないとなるとすぐ生活に困る身上であった。新体制ということが叫ばれ、誠に住みにくい世であった。栄子の消息はそれ切りなかった。

 私は長年住み慣れた本郷の下宿を引払って郊外のアパアトに移った。結婚をすすめる人もあったが、大てい私は笑って断った。しかしその時栄子の事を考えていたわけではない。なるほど栄子は私の心の中に住んでいたけれども、現実的な像としてではなく、小さな額縁に入った絵のような具合に残っているだけであった。それが私の生活を乱すということはあり得なかった。ただ何となく私はすべての女に興味をなくしていた。結婚生活というものに対しても、私はいささかも魅力を感じていなかった。気持がはっきり踏切りっかぬまま私はその役所に一年余通っていた。

 大陸から戻って来た栄子が私のアパアトを探して訪ねて来たのも、そんな沈滞したひと日のことであった。私が夕食の菜をぶら下げてアパアトに戻って来ると、管理人のお内儀が玄関で私を呼び止めて、

「女の方が部屋にいらっしゃいますよ」

 と言った。誰だろうと私はいぶかしく思ったが、次の瞬間に栄子ではないかということを直ぐ考えた。その外(ほか)に私の部屋に訪ねて来る女人など居る訳は無かったからである。

 扉をあけると栄子は私の机の前にすわって私のアルバムを拡げていたが、私の姿を見るとバタンとそれを閉じて居ずまいを正した。

「今夜泊めてね。お願い」

 栄子は看護婦の服装ではなくて、草臥(くたび)れたスウツを着ていた。部屋のすみに小さなトランクが置いてあったが、その金具も脱(はず)れかかっていた。身体全体に疲労のいろが深く、眉目のあたりがきわ立って荒れた感じであった。

「もう看護婦は止めたのかい」

 私のその言葉に答えず、背広を脱ぐ私をしげしげと眺めながら、

「田代さんも背広を着るようになったのね」

 そんなことをポツンと言ったりした。

 近所の知合いの酒屋に少しばかり都合してもらって、その夜は飲んだ。栄子は大変酒が強くなった感じで、小気味良く盃をあけていたが、それでもそのうちに好い色になった。何か大陸での生活を話したがらない風なので、私も強いてそこに触れなかったが、酔うにつれて栄子の険しい眉も少しずつ晴れて行くようだった。そんな時に、ふと音楽学校時代の栄子の清純な俤(おもかげ)がよみがえって来たりした。そして私も少し酔った。

 日米関係が険悪になりかけていて野村大使が渡米している時のことだったから、私達の話も自然に其処に落ちて、私も何時かは戦いに引っぱり出されるだろうというようなことを私が言ったら、栄子は眉を寄せいやな顔をして言った。

[やぶちゃん注:「野村大使」海軍軍人で外交官であった野村吉三郎(明治一〇(一八七七)年~昭和三九(一九六四)年)は第二次近衛内閣の時、昭和一六(一九四一)年一月に駐米大使に任命され、ぎりぎりまで日米交渉に努めた.同年十二月七日(日本時間十二月八日)のマレー作戦と真珠湾作戦で米・英・蘭と開戦したが、針の莚に座るような思いで、その後の半年をワシントンD.C.で過ごし、抑留者交換船で日本に戻ったのは翌年八月中頃であた(以上はウィキの「野村吉三郎」に拠った)。則ち、このシークエンスの時制は昭和十六年一月以降、開戦前夜までということになる(実は、後で昭和十六年十月末か、十一月であろうことが判る)。なお、この頃、梅崎春生は昭和十五年三月に東京帝国大学文学部国文科を卒業、東京都教育局に勤務していたから、この主人公田代の経歴とそれは一致していると言ってよい。]

「戦争。戦争って厭なものよ。あんな厭なものはない。兵隊ってけものよ。おお厭だ」

 嚙んではき出すような口調だった。そして最後の一句と共に、栄子は肩をすくめて身ぶるいした。

「だって君は進んで志願したのだろ」

「言わないで。そんな事言わないで」

 栄子は掌を上げて私をさえぎる風な手付をしたが、急に身体をくずし、声を忍ばせて突然泣き出した。掌で顔をおおい首を深く垂れているので、頚筋が斜に見えた。あの昔の細く脆(もろ)そうな頸とはちがって、何か筋肉質のものを思わせる妙な逞しさがそこにはあった。

 栄子は直ぐに泣き止んだ。そしてキラキラ濡れた眼で、また何杯も盃をほした。

 その夜眠っている私に、栄子は荒い呼吸使いで抱きついて来た。酒の匂いが鼻に来て、私は眠りからはっきり覚めていた。栄子は着ているものを全部脱ぎすてていた。暗闇の底でそれは感じですぐ判った。

 それは娼婦よりももっと荒くれた仕草だった。私は数年間禁欲を続けていたので、失敗するかも知れない予感が胸をかすめたが、そんなものを圧倒するような激しい情熱であった。そしてその情熱は盲目的なものでなく、私を誘導しようとする巧みなものを秘めていた。私は意識的にそれに呼応して行った。私はその時自分がかなり努力していることを感じていた。そして何故だかは判らないが、その瞬間でも栄子との距離をはっきり感知していた。栄子があえいでいるのも、自分の空白を満たすためなので、私とは全然関係ないような気がした。そして営みは終った。

 疲れ果てて私達は横たわっていた。部屋の床から秋の虫が低く鳴き出していた。

「私は故郷に帰りたいわ」と栄子が暫(しばら)く経って言った。郷愁めいたものが、やはりその時私の胸にも湧いていたのである。

「私戦場にいる時、ほんとに一度でも良いから内地に戻って、音楽を聞きたいと、そればかり考えてたわ。それはほんとに辛かったわ。貴方には判らない事よ」

 暫くして私が、君はいくつになる、と聞いたら低い声で、二十五よ、と答えた。

 翌朝起きて見たら栄子は既に起きていて、驚いたことにはちやんと朝食も拵(こしら)えてあった。卓をはさんで食事をとりながら、栄子がこんな事を言った。

「今まで私は何をやっても失敗してばかりいるんだけれど、此度はしっかりやるわ。私東京で何処か職を探そうと思うの」

「故郷へ帰った方が良いんじゃないか」

「何故よ。何故いいの」

 一晩休んだせいか栄子はすっかり生気を取戻していて、私の言葉をあざわらうような表情をした。

「職探すって大変だぜ」

「どうにかなるわよ」自信に満ちた声であった。

 役所に出るために私は出かけ、栄子とは駅で別れた。別れる時栄子は私に、アルバムから写真を一枚貰ったわよ、と私にささやいた。

 それから一箇月位して手紙が来た。それによると栄子は或る芸能社に入り、その専属になって芸の道にいそしんでいるということであった。芸の道とは何か。私には判断がつかなかった。しかし文面の感じから言えば、栄子は非常に現状に満足しているらしく思えた。しかしそんな栄子を私はもはや想像出来なくなっていた。私が漠然と慕っている栄子は、もはや現実の栄子ではなかった。その食い違いは何かいらいらと私の心に触れて来た。私がもっと積極的な立場を執れば、栄子は今と違った方向をたどったかもしれない。しかしそんな事を考えることは、無意味と言えば無意味極まる事であった。

 ついに私が触知し得なかった部分が栄子の心にひそんでいて、それが栄子の方向を決定したのではないか。栄子は絶望するたびに新しい脱皮を敢行するらしかった。ふしぎな事には、古田を通じて男というものに絶望した時も、戦争の実体にふれて絶望した時も、栄子は私の処にやって来た。そして肉体的に私と結合を敢てした。

 脱皮のためのカタルシスのような役割を、私は栄子の為に引き受けているのかも知れなかった。そう考えると、私は言いようもない荒涼たるものが胸の中に吹き荒れて来るような気がした。戦争の傷痕を重ねることによって栄子は成長して行くが、私はその間にむなしく青春を終えるらしい。私はカタルシスの座を持ち得ないまま、老い朽ちて行くらしかった。私は栄子との二度の結合も、肉体的な問題は別として、精神的にはますます空白を深めて行っただけであった。

 あるいは栄子は私を通じて、古田への思慕を郷愁の如くよみがえらしているのかも知れなかった。栄子がアルバムから剝いで行った写真は、学生の私と古田が肩を組んで写った写真である。

 一箇月程経って日本はあの無謀な太平洋戦争に突入した。

 ある日私の役所で演芸慰問会があって、私も何となくそれを見に行った時、番組に音楽漫才というのがあって、その名に栄子という字が書かれてあった。もともとそんな演芸方面にうとい私ではあったけれども、ふとそれはあの栄子ではないかと思った。何とか芸能社というのもそんな芸人の団体らしかったし、此の前の手紙も何だかそんな意味のことが書かれていたような気がする。しかし音楽漫才とはどんな事をするのか知れないけれども、音楽会に本譜をたずさえて来たような栄子が、そんな処に落ちるということは想像だけでも私の堪えられないことであった。私は厭な胸騒ぎを暫く味った末、まだ演技が始まらないうちにと、楽屋の方に廻ってみた。

 そしてそれは、あの栄子であった。

 強い化粧をほどこして仮面じみた風貌の栄子と、私は楽屋口で暫く話をした。ごく短い会話であったけれども、私はなじる気持が自然に口に出たにちがいない。栄子は弁解するような口調で言った。

「こんなことやっていて、本当に惨めだと思うわ。しかし仕方がないのよ。生きて行かなくちゃならないもの」

「それにしても本名で出なくっても――」

「いえ、それが本名で出るのよ。私はもう身体をはって生きて行こうと思うの。生きて行くにはそれ以外に道はないわ」

 出番だというので栄子は一寸私を振返って奥の方に入って行った。観客席の方に私は戻ったが、席の方にはどうしても入る気がしなかった。私は廊下に立ちすくみ、観客席から流れて来る笑声を聞きながら、ふとあふれて来る涙を押えかねていた。その束の間の感傷の中で、栄子がどこまでも堕ちるのなら私も一緒におちてやろうかという兇暴な思念にとらわれていた。――

 それから私は栄子の消息を聞かなかった。戦争の状態は段々悪くなって、島々を次々に取戻されて行った。重苦しい日々がっづいた。そして昭和二十年に入った。

 三月、ついに私がおそれていた召集令状が来た。

 三月十五日の入隊だというので、私がその用意をしている時であった。三月十日に本所深川が炎上し、その煙は私のアパアトからも見えた。私は別段感慨なくそれを眺めていた。

[やぶちゃん注:梅崎春生の本格的招集(実際には昭和十七年一月に一度召集されて対馬重兵隊に入隊したが、肺疾患のために即日帰郷している)は昭和十九年の六月である(佐世保相ノ裏海兵団配属)。従って、ここは時制的には梅崎春生の事蹟からは虚構である。なお、終戦時、梅崎春生は満三十歳であった。]

 翌日私のアパアトに栄子が訪ねて来た時、私は始めて栄子が本所に住んでいたことを思い出していた。栄子は着のみ着のままという姿で、肩の所の着物が裂けていたが、どこにも怪我はしていなかった。剝き出した肩の肉が少しよごれて、変に動物的な感じをそそった。栄子の顔は表情がすっかり無い感じでその癖眼ばかりぎらぎらと光っていた。何か気持がうわずっているらしく、部屋に入るなり両手を拡げて、

「死骸がこんなよ。ぞろぞろよ」

 そして両掌で顔をおおうと、暫くじっとしていた。頰がげっそりこけて髪はばらばらに乱れていた。

 しかし暫くしているうちに、少し落着いて来たらしく、私の外套をまとって火鉢にかぶさっていた。眼を上げてあたりを見廻した。

「何故荷物をまとめてるの。疎開するの」

「召集が来たのだよ」

 栄子は私を見て蒼い顔をしたが、何とも言わなかった。

 その夜私は栄子と同じ床に寝た、燈を消してからも栄子は身ぶるいしている感じで、しきりに顔を私の胸にすりよせて来た。うわごとのように何かしゃべっていた。

「皆死んじやったのよ。皆、一人残らず」

「死んだって良いよ」と慰める心算(つもり)で私も答えた。「お栄さんだけ生き残ればそれで沢山だよ」

「皆死んじゃった。あの子も死んじゃったよ」

 栄子は私の言う事も聞えぬ風(ふう)でうたうような調子でそう言った。あの子って誰だい、と笑いながら私が問い返そうとしたとたん、私の胸をかすめたのは、あの最初の夜身ごもっていた栄子の身体のことであった。私は口をつぐんだ。あるいは栄子は子供を産んだのかも知れなかった。栄子のその後のがむしゃらな生き方も、そんな事実を支えとしていたのかも知れないと思い当った時、私は錐(きり)を胸に刺されたようで、思わず栄子を抱く手に力をこめていた。栄子はじっとしていた。暫くして、

「貴方も戦争に行くのね。可笑(おか)しいわ」

 ぽつんとそう言った。

 翌朝早く私は起きた。出発の時間であった。栄子はやや元気を取戻していて、昨日のような錯乱の徴(しるし)はなかった。もし行く処がなければ私の部屋を使えるように管理人に話しても良いと思ったが、栄子はそれを断った。ただ写真を焼いたから、もう一枚呉れと言うだけであった。私は荷物をほぐして、アルバムをそっくりやった。生きて再び栄子と会える事もないと思うと、私の青春に栄子がどんな重大な意味を持っていたかが、悔恨に似た情と共に判然して来るのであった。

 駅まで送ろうかと栄子は言ったが、私は断った。そんなの感傷的だと思っているんでしょう、と栄子はその時始めて声を出して笑ったが、その眼は何か遥かなものを見つめているような具合であった。――

 その日から三年経つ。

 もはや栄子とも逢えぬと思いこんでいたのが、今この青ぐらい屋台店で一緒に酒を汲み交しているということが妙に可笑しくて、私はその気持を栄子に伝えたく、

「お互に此の十年間、何だかバラバラの生き方をして来て、そしてこんな処で又会ったりして本当におかしいな」

 酔いが少し廻って来たらしい。復員後私も又平凡な役人として碌々(ろくろく)とつとめているが、此の十年間自分の青春について考えて来たことが、何かことごとく虚しい妄想にすぎない気がするのも、ようやく私の気持が老い始めて来たせいに違いない。もはや現在の栄子に対しては、気持の食違いもなく淡々と面接出来るようであった。

「お栄さんが鰻(うなぎ)屋などとは思いもつかないね。もう音楽は止めたの」

「ああ。忘れてしまったわよ」

 栄子も盃をほしながら

「あたしも燈取虫みたいに、あっちへぶっつかりこっちへぶっつかりして生きて来たけれど、結局悲しかっただけで、何にも残っていなかった」

「そうかも知れないな」

 栄子の言葉はしみじみと私の胸にも落ちた。身体がばらばらになるような眼にあっても、此の女は強く生きて来た。

「終戦後は地下道に寝泊りさ。身寄りも皆消息がなくなってね。それからどうにかしなくちゃいけないと思って茨城に行ってさ、漫才をやってた頃の相棒がいてね、鰻が沢山とれるのよ、あそこらは」

「でケイちゃんというのは?」

「ああ、あの子は地下道で知合いになったのさ。一寸良い子でしょう」

 私はよしず越しに見たその若者の横顔を思い出していた。肩のきりっとした良い顔であった。そしてその顔は、あの古田の顔の感じにそっくりだった。一目見た時、それは私の胸に来ていたのである。肉付きがよくなって年増らしい落着きの出来た今の栄子の顔を私はふとぬすみ見ながら、その事が妙にかなしく心に沈みこんで来た。古田を嫉妬する気持から、今は私は遠く隔たっていたが、何か気持の感傷に私は落ちていた。

 台に置いた弁当箱が幽(かす)かに鳴った。手を伸ばして押えると、鈍く動きが手につたわって来た。箱の中で鰻はまだ生きて、はねかえっているらしかった。

 酔いが掌の尖まで届くのを覚えながら、私はその感触を暫く確めつづけていた。

 

 

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