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2019/11/06

小泉八雲 仏教に縁のある日本の諺 (大谷正信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題Japanese Buddhist Proverbs。「Bit」は「小片・細片・小さな一片」・口語で「風景画の小品」や「劇の一シーン」の意がある)は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集IN GHOSTLY JAPAN(「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の第十話目に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”こちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”こちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。また、引用される諺はブラウザの不具合を考えて、底本通りではなく、引き上げてあり、それぞれのその諺の「註」も更に字下げでポイント落ちとなっているが、同ポイントで引き上げて示した。句は一部で行空けせずに並んでいるが、原則、前後に一行空けを施した。一部で「!」の後に特異的に字空けを施した。底本にはないが、原本には地蔵菩薩と閻魔王の絵図が載る。原本からトリミングし、補正を加えて適切と思われる位置に配しておいた。なお、本底本を用いる以前から、第一書房版元全集を底本にした場合に対しても断っているが、第一書房版のポイント落ちの部分に表れる鍵括弧は二重のように見えても、拡大して見ると、ただの鍵括弧(白抜きになっていない)ケースが多く、私は一貫して、本文ではその区別を明確につけ、ポイント落ちの場合は総てを文句なしで鍵括弧で統一対応している。ここで再度、申し述べておく。これは向後、繰り返さない。

 

 

  佛敎に緣のある日本の諺

 

 道德的經驗の一般的特性といふものは、どんな種類の社會的變化にも殆ど影響を受けずに其儘で居るものであるが、その一般的特性を現はすものとして、或る國民の俚諺的な言葉は、思想家にはいつも一種特別な心理的興味のあるものに相違無い。此種の民間傳說には、口にまた筆に傳へられ來たつた日本文學は、例を示すのに大きな書物一册を要する程に豐富である。ただの一隨筆の範圍内では、全體としての此問題を至當に處理することは出來ぬ。然し或る部類の俚諺及び俚諺的な言葉に對しては、幾らかの事が、三四頁内にでも爲し得られる。そして、その敎を暗に指して居るか、或はその敎に由來して居るか、兎も角佛敎に關した言葉は、自分には特に硏究の價値あるが如く思はれる一部類を成して居る。だから、日本の一友の助を藉りて――選擇が可能の場合には、より普通なより一層人口に膾炙して居るものを擇んで、そして參照に便ならしめん爲め原文をアルフアベット順に置いて――次に記載する一聯の實例を選んで飜譯した。固よりの事、この選擇は十分に代表的とはいへないが、民衆の思想幷びに言葉への、佛敎の或る感化を說明するには足りるであらう。

 

一、惡事身に止まる

註 惡るい行爲或は惡るい思想は如何なるものでもその結果は――因果の續く限りは――それを犯した人の生に必らずいつまでも作用する。

 

二、頭剃るより心を剃れ

註 佛敎の男女の僧侶は頭をすつかり剃つて居る。此の諺は宗敎の人となるよりも心を正しうする方が――徒な[やぶちゃん注:「いたづらな」。]哀惜と欲望とを制する方が――宜いといふ意味である。日常の談話では「頭を剃る」といふ句は僧になることを意味する。

 

三、會ふは別れのはじめ

註 哀惜と欲望とはこの無常の世界にあつては等しく徒爾である。一切の歡喜は、苦痛がそれにあるに決つて居る一經驗の始であるからである。此諺は經語――シヤウジヤ ヒツメツ ヱシヤ ヂヤウリ(「盛者必滅會者定離」)――に直接基づいて居る。

[やぶちゃん注:「徒爾」「とじ」で、「無益であること・無意味なこと・空しいこと」の意。「遺教経」が原拠。日本では四字熟語として知られ、「平家物語」の影響でかく「盛者」などと表記して違和感がないのだが、これは「生者必滅會者定離」でなくてはおかしい。]

 

四、萬事は夢

註 一句は原句の文字通りでは「萬の事」。

 

五、凡夫も悟れば佛なり

註 境涯の相違はただ全く最高なる智慧の相違である。

 

六、煩惱苦惱

註 あらゆる肉體的欲望は悲哀を齎す。

 

七、佛法と藁屋の雨出て聽け

註 これにシユツケ(僧)――文字通りでは「己が家を出た人」――の境遇を指して居る。此諺は佛敎のより高等な眞理は、いつまでも愚痴欲望の世界に住んで居るものにに、得られぬといふことを暗示して居る。

 

八、佛性緣より起こる

註 因果にも惡るいのもあれば善いのもある。我々が享樂するどんな幸福福も、我々に來る如何なる不幸もがさうのやうに、同じく前生[やぶちゃん注:「ぜんしやう」。]の行爲と思想との結果である。善い思想、善い行爲は、悉く我々の心裡の佛性を開展せしむるに貢獻する。も一つの諺〔第十〕――エンナキ シユジヤウハ ドシガタシ――はこの意味を更に進んで說いて居る。

 

九、猿猴(ゑんこう)が月を取らんとするが如し

註 佛陀が語られたいふ譬話を指して居る。幾匹かの猿が一樹の下に井戶を見出して、その水に映つて居る月影を本當の月だと思つた。その輝くいて居る幻を捉へようと決心した。一匹の猿がその井戶に垂れて居る木の枝に尾で吊り下がり、今一匹が最初のにつながり、今一匹が、第二のに、今一匹が第三のへと、順次つながつて、この長い體の鎖が殆ど水面に達した。突然その枝が餘りの重さに折れて、猿は皆溺死したといふ。

 

一〇、緣無き衆生は度しがたし

註 緣無し卽ち因果關係無し、といふのは、功過ともに全く無いこと。

[やぶちゃん注:「度す」は「悟りを開かせる」の意。

「功過」「こうくわ(こうか)」。 手柄と過(あやま)ち。功績と過失。功罪。しか]

 

一一、不淨說法する法師は平茸(ひらたけ)に生まる

[やぶちゃん注:鎌倉前期に成立した「宇治拾遺物語」の「巻第一」の二話目に出る「丹波國篠村に平茸生ふる事」に既に、『故仲胤僧都とて説法並びなき人』が、『不淨說法する法師、ひらたけにむまるといふことある物を』と言っているので、古くからある諺であることが判る。元は北宋の道原によって編纂された禅宗を代表する僧の伝記を収めた「景徳伝燈録」(一〇〇四年成立)の「二」で、迦那提婆(かないだいば)尊者が毗羅(びら)国の長者に説いて、「汝家昔曾供養一比丘。然此比丘道眼未明、以虛霑信施、故報爲木菌」(汝が家、昔、曾つて一比丘を供養す。然れども、此の比丘、道眼(だうがん)、未だ明らかならざるに、虛(むな)しく信施を霑(うるほ)すを以つて、故に報ひて木菌(きのこ)と爲す)とあるのが原拠か。菌界担子菌門ハラタケ綱ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus は「今昔物語集」にも盛んに登場し、非常に古くから食用茸として知られていた。ここで転生がそれなのは、恐らくは、その形が編み笠を被った坊主に似ており、容易く手に入って安い(ところが売僧(まいす)っぽい)からであろうか。]

 

一二、餓鬼も人數(にんず)

註 文字邊りでは「餓鬼でも一群衆(卽ち一人口)である』この通俗な諺はいろいろに使ふ。普通には、一群を爲して居る個人個人はどんなに貧しく或は賤しくとも集つては相當の力を現はす、といふ意味に用ひる。戲談にはこの諺は時には一群の大儀さうな顏したみじめな人達に用ひ――時には示威をやらうとして居る弱い男兒の一と集りに用ひ――時には憫れさうな[やぶちゃん注:「あはれさうな」。]一隊の兵士に用ひる。下等階級の人達の間では不具な人間又に貪欲な人間を『ガキ』と呼ぶは珍らしからぬ。

 

一三、餓鬼の眼に水見えず

註 前世に犯した罪の報として殊に渴に苦しむ餓鬼は水を見ることが出來ぬと典據のある或る人々に述べて居る。此諺は愚鈍で又は性が惡るくて道德上の眞理を悟ることが出來ぬ人のことを說べるのに用ひる。

 

一四、後生(ごしやう)は大事

註 普通の人は『ゴシヤウダイジ』といふ妙な言ひ現はしを「非常に緊要な」といふのと同意義に用ひる。

 

一五、群盲(ぐんぼう)の大象を撫(さ)するが如し

註 無智無學でゐて佛敎の敎理を批評する人達のことをいふ。象の軀を擦つて[やぶちゃん注:「さすつて」。]その大いさを判斷しようとした一群の盲人についての、「六度經」のうちにある有名な喩話に基づく。脚を擦つた者は象は木のやうだと言ひ、鼻を擦つた者に象は蛇のやうだと言ひ、腹を擦つた者は象は壁のやうだと言ひ、尾を擦つた者は象は綱のやうだと言つたといふ。

[やぶちゃん注:「六度經」「六度集経(ろくどじっきょう)」。古代インドの説話にして聖典の一種となった説話集で、釈迦の前生の生涯とその善行・功徳を述べた物語「ジャータカ」(パーリ語本では五百四十七話が現存)の漢訳本の一つ。]

 

一六、外面如菩薩 内心如夜叉

註 ヤシヤ(梵語「ヤクジヤ」)は人を食ふ鬼。

[やぶちゃん注:「夜叉」は古代インド神話に登場する鬼神。後に仏教に取り入れられると、護法善神の一尊となったが、ここで語られているのは原義の鬼神である。ウィキの「夜叉」によれば、『一般にインド神話における鬼神の総称であるとも言われるが、鬼神の総称としては他にアスラという言葉も使用されている(仏教においては、アスラ=阿修羅は総称ではなく固有の鬼神として登場)』。『夜叉には男と女があり、男はヤクシャ(Yaksa)、女はヤクシーもしくはヤクシニー と呼ばれる。財宝の神クベーラ(毘沙門天)の眷属と言われ、その性格は仏教に取り入れられてからも変わらなかったが、一方で人を食らう鬼神の性格も併せ持った。ヤクシャは鬼神である反面、人間に恩恵をもたらす存在と考えられていた。森林に棲む神霊であり、樹木に関係するため、聖樹と共に絵図化されることも多い。また水との関係もあり、「水を崇拝する(yasy-)」といわれたので、yaksya と名づけられたという語源説もある。バラモン教の精舎の前門には一対の夜叉像を置き、これを守護させていたといい、現在の金剛力士像はその名残であるともいう』とある。]

 

一七、花は根に還る

註 此諺は最も屢〻死に關して用ひられるが、一切の形態はそが發生した無有に歸還するといふ意。がまた因果律に關しても用ひられる。

 

一八、響の聲に應ずるが如し

註 因果の敎を指す。この譬喩の美は、反響の音色すら聲の音色を繰り返すことを心に思うて初めて翫味が出來よう。

 

一九、人を助けるが出家の役

 

二〇、火は消ゆれども燈心は消えず

註 情欲は一時征服することが出來てもその根源はその儘で居る。同じ意味の諺がある。卽ち、ボンナウノイヌハ オヘドモ サラズ「煩惱の犬は逐うてもまた歸り來ずには居らぬ」

 

二一、佛も元は凡夫

 

二二、佛になるも沙彌を經る

 

二三、佛の顏も三度

註 これは「佛の顏も三度撫でれば腹を立つ」といふ長い諺を短くしたのである。

 

二四、佛たのんで地獄へ行く

註 「鬼の念佛」といふ通俗な諺も似よつた意味のもの。

 

二五、佛造つて魂入れず

註 言ひ換ふれば、佛像を造つてそれに精神を入れぬこと。此諺は或る事業を企ててその事業の最も本質的緊要な部分を仕終へずに殘す人の行爲に關して用ひる。これには「カイゲン」卽ち「開眼」といふ妙な式への暗示も含まれて居る。このカイゲンといふは一種の聖化で、その聖化の式の爲めに新たに造つた佛像が、その佛性を眞に現はして活きて來る、と想像されて居るのである。

 

二六、一樹(いちじゆ)の蔭 一河(いちが)の流 多少の緣

註 一樹の蔭に或る人と共に休むとか、或る人と同じ流の水を飮むとか、いふやうな些細な出來事でも、或る前生の因果關係で起こるのである。

 

二七、一盲 衆盲を引く

註 「大智度論」といふ佛書からのもの、讀者はリス・デヸツドの「佛書」(東洋聖典)一七三頁にこれに似寄つた話があり、――脚註に記載されて居て、それに或る印度の註釋者が說明を與へて居る頗る珍らしい譬話もある、ことを發見されるであらう。

[やぶちゃん注:「無門關 四十六 竿頭進歩」にも出る(リンク先は私の原文・訓読・野狐禪訳)。愚かな者が他の多くの愚かな者を導いて結局、皆を誤らす結果となること。

「大智度論」インドの大乗仏教の論書。「摩訶般若波羅蜜経」(「大品(だいぼん)般若」)の注釈書。著者は竜樹。漢訳は全百巻で、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳。原本は伝わらない。大乗仏教の百科全書的著作で中国・日本では「大論」と呼ばれて重視された。

『リス・デヸツドの「佛書」(東洋聖典)』原文“Rhys-David's "Buddhist Suttas" (Sacred Books of the East)”。 トーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズ(Thomas William Rhys Davids 一八四三年~一九二二年)はイギリスの東洋学者で、パーリ語と上座部仏教の研究で知られ、同書は一八八一年刊で、“Internet Archive”のこちらで原本の当該ページ(当該箇所は右の下部の「15」)が見られる。但し、私の乏しい英語力ではそこでは三人の目の見えない視覚障碍者たちが前・中・後部で触れている対象物は具体的に示されていないように思われる。小泉八雲が謂っているのは、下の注2の、三人のそうした人々が数珠つなぎになって騙されて荒野に捨てられたという逸話を指していよう。

 

二八、因果な子

註 不幸な或は不具な子に關して下等社會で用ひる普通な言葉。此の場合「イングワ」といふ語は殊に應報の意に用ひてある。通例惡るい方の因果に用ひる。善い方の因果とその結果との事を言ふ時にはクワハウといふ言葉を用ひる。不幸な子供を「因果な子」だといふ一方に、甚だ幸運な人をば「クワハウモノ」――言ひ換へれば、クワハウの一例――だと呼ぶ。

[やぶちゃん注:「クワハウモノ」果報者。]

 

二九、因果は車の輪

註 因果を車の輪に喩へることは佛敎を學ぶ人の能く知つて居ることである。此諺の意味は「法句經」の詩句の「中心念惡、卽言卽行、罪苦自追、車轢于轍」と全然同じである。

[やぶちゃん注:「法句經」「ほつくぎやう(ほっくぎょう)」と濁るのが普通らしい。パーリ語経典「ダンマパダ」の漢訳名。仏陀の言葉を生(なま)の形で伝える文献の一つで、古来、広く愛読され、仏教徒の思想と実践の指針とされてきた。全篇二十六章の四百二十三から成る詩句集で、パーリ上座部系統に属するもののほかに、大衆部が伝えたガンダーラ語のものや、説一切有部系統の「ウダーナバルガ」の題名で伝えられたもの、その系統のチベット訳・漢訳の「法句経」二巻、「法句譬喩経」 四巻、「出曜経」三十巻、「法集要頌経」四巻などもある(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「中心念惡、卽言卽行、罪苦自追、車轢于轍」「法句経」の頌偈(じゅげ:仏の徳を頌(たた)える一種の詩形式のもの)にあり、

中心に惡を念じ、卽ち、言ひ、卽ち行ひ、罪苦、自から追ふこと、車の轍(てつ)を轢(ふ)むがごとし。

と訓読出来る。]

 

三〇、因緣(いんねん)が深い

註 戀人同志の愛著、若しくは二人の間に親密な關係の不幸な結果のことを言ふ時普通に用ひる言葉。

 

三一、生命(いのち)は風前(ふうぜん)のともしび

註 或は「風に曝露(さら)されたる灯の炎の如く」佛敎文學で能く用ひる言葉は「死の風」。

 

三二、一寸(すん)の蟲にも五分の魂

註 文字通りでは「五分の魂を有つ」五分は日本の一寸の半分[やぶちゃん注:十五・一五ミリメートル。]。佛敎では殺生を禁じて居て、感覺のあるもの悉くを生命ある物(ウジヤウ)の部類に入れる。が此諺は――「魂」(タマシヒ)といふ語を用ひて居るので知れるやうに――佛教哲理よりも聊か民衆信仰を反映して居る。どんな生物も、小さく或は賤しくとも、慈悲を受くべきであるといいふことを意味して居る。

[やぶちゃん注:「ウジヤウ」有情。]

 

三三、鰯の頭(あたま)も信心から

註 イワシはサアデインに餘程能く似た甚だ小さな魚。此諺は、完全な信仰と純潔な意志とを以て祈禱を爲すならば、崇拜の對象が何であらうと、そは重きを爲さぬといふ意味である。

[やぶちゃん注:「イワシはサアデインに餘程能く似た甚だ小さな魚」いやいや! 八雲先生! ここでは意義を唱えます! それでは、ろくに海産生物の一般名詞も知らない有象無象の欧米人(嘗てのあなた)の半可通と同じになってしまいます! 「鰯(いわし)」、則ち、条鰭綱ニシン目ニシン亜目 Clupeoidei の複数種の小型魚類の総称である「鰯」は、イコール、英語の「サーデイン」(sardine)ですよ!

「重きを爲さぬ」というのはちょっと誤解を惹起させる訳である。原文は“The iwashi is a very small fish, much resembling a sardine. The proverb implies that the object of worship signifies little, so long as the prayer is made with perfect faith and pure intention.”であるが、ここは「祈りが心からの信仰と純粋な意志に基づいてなされている限り、礼拝の対象が何であるかということは殆んど全く意味を持たないことを示唆している」で、「正直な信仰者の礼拝対象はその如何を問わぬ」という意味でなくてはならぬ。

 

三四、自業自得(じごふじとく)

註 通俗な佛敎の文句でこれほど屢〻用ひる文句は少い。「ジゴフ」は自己の行爲或は思想の意味、「トク」は――佛敎的にこの語を使用する時は殆ど何時も不幸の意味で――自己に齎すといふ意味。「うん、そりや自業自得だ」といふ風に、人が牢屋へ連れて行かれるのを見て世間の人は言ふ、「自己の罪の結果を刈り入れて居ゐのである」といふ意味で。

 

三五、地獄でほとけ

註 不幸の折に善い友に會ふ喜を指して。上記のは省略で、この諺は全部は「ヂゴクデホトケニアフタヤウダ」。

 

三六、地獄極樂は心にあり

註 高等な佛敎と全く一致する諺。

 

三七、地獄も住家(すみか)

註 地獄に住まざるを得ぬ者共でもその境地に適應するやうになるに相違無いとの意味。人はいつもその境遇に出來るだけ善處しなければならぬ。これと似寄つた意義の諺に、「スメバミヤコ」卽ち「何處であらうと自分の家のある處が卽ち首府〔卽ち、帝都〕である」といふのがある。

 

三八、地獄にも知る人

 

三九、影の形(かたち)に隨ふが如し

註 因果の敎を指す。「法句經」第二十有二章參照。

[やぶちゃん注:既に注した「法句経」は仏陀の諸言の採録集で、複数のテクストがある。二二四年に支謙・竺将焔によって訳された漢訳経典には、

   *

心為法本 心尊心使 中心念善 卽言卽行 福樂自追 如影隨形

(心を法本(ほふほん)と爲す。心、尊(たつと)く、心、使ふ。中心、善を念じ、卽ち言ひ、卽ち行はば、福樂、自(おのづか)ら追ふこと、影の形に隨ふがごとし。)

   *

とあり、また、立花俊道の大正七(一九一八)年刊の「國譯法句經」の「雙雙品(さうさうほん)第一」の二には、

   *

諸法は心に導かれ、心に統(す)べられ、心に作らる、〔人(ひと)、〕若(も)し淨(きよ)き心を以て、言(ものい)ひ且つ行はば、其よりして、樂の彼(かれ)に隨ふこと、猶ほ影の〔形を〕離はなれざるが如し。

   *

 とある。しかし、より簡潔で判り易いそれは「涅槃經」の「憍陳如品第二十五」(「きょうちんにょぼん」と読むか。「憍」は「驕(きょう)」の正字。サンスクリット語で「マダ」。煩悩の一つ)の、

   *

善惡之報 如影隨形 三世因果 循環不失

(善悪の報、影の形に隨ふがごとし。三世の因果、循環し、失はず。)

   *

であろうか。]

 

四〇、金(かね)は阿彌陀より光る

註 阿彌陀は梵語のアミタバ卽ち無量光佛。寺院にあるその像は頭から足まで通例金で鍍金されて居る。富の力について他にも多くの皮肉な諺がある。例へば、ヂゴクノサタモカネシダイ卽ち「地獄での審判すら金に左右せられる」といふがある。

 

四一、借る時の地藏顏 濟(な)す時の閻魔顏

註 エンマはヤマ――佛敎では地獄の主で死者の審判者――の支那及び日本での名。この諺は附圖を見れば一番能く判かる、この二つの神が普通にはどういふ顏に現はされて居るかが解らうから。

[やぶちゃん注:閻魔はサンスクリット語及びパーリ語のヤマの漢訳。なお、日本の仏教に於いては、中世になって、仏教内の本地垂迹的な説の中で地蔵菩薩は閻魔王と同一の存在と解され、閻魔王の本地は地蔵菩薩であるとされるウィキの「閻魔」によれば、『後に閻魔の本地とされる地蔵菩薩は奈良時代には』、「地蔵十輪経」に『よって伝来していた』ものの、『現世利益優先の当時の世相のもとでは普及しなかった。平安時代になって』、『末法思想が蔓延するにしたがい』、『源信らによって平安初期には貴族、平安後期には一般民衆と広く布教されるようになり、鎌倉初期には』「預修十王生七経」から、更なる偽経である「地蔵菩薩発心因縁十王経」(「地蔵十王経」)が『生み出され』、『これにより』、『閻魔の本地が地蔵菩薩であるといわれ(ここから、一部で言われている閻魔と地蔵とを同一の尊格と考える説が派生した)、閻魔王のみならず』、『十王信仰も普及するようになった。本地である地蔵菩薩は地獄と浄土を往来出来るとされる』とある。]

Jizou

[やぶちゃん注:底本キャプション「地藏」。]

 

Enma

[やぶちゃん注:底本キャプション「閻魔大王」。]

 

四二、聞いて極樂 見て地獄

註 噂は當てにはならぬ。

 

四三、好事(かうじ)門を出でず 惡事千里を走る

 

四四、心の駒に手綱ゆるすな

 

四五、心の鬼が身を責める

註 情或は『心』これは我々はただ己れ自らの罪の結果に苦しむだけのことであるといふのである。佛敎の地獄での人間を拷問する鬼は被拷問者に向つて言ふ、「己を責めるな! 己にただお前自らの行爲と思想とが創造したものだ。お前が斯うさせる己を造つたのだ!』(三六番の諺參照)

 

四六、心の師とはなれ、心を師とはせざれ

 

四七、この世は假の宿

註 「此世界はただ旅人の宿屋である」と譯しても殆ど同樣に正しい譯でゐらう。「ヤド」は文字通りでは宿所、隱れ場、宿屋といふ意味である。そしてその語は日本の旅人が旅行中に立ち止まる路傍の休み茶屋にも屢〻適用する。「カリ」は一時の、暫時の、すぐ經つて行く、といふ意味で、あの普通な佛敎的な言葉「コノヨハ カリノヨ」卽ち「此世好は直ぐに經つて行く世である」に用ひてゐると同樣、佛敎信者には地獄極樂も亦、涅槃への旅の途中の止り場にしか思はれぬのである。

 

四八、氷を鏤め[やぶちゃん注:「ちりばめ」。] 水に描く

註 ただの一時の目的の爲めに利己的な努力を爲すは無駄であるといふこゝろ。

 

四九、ころころと啼くは山田のほととぎす父にてやあらん母にてやあらん

註 歌になつて居る諺は「往生要集」に記載されて居るもので、次記の註解が添へてある。「野なる獸、山林なる鳥、前生に於て己が父もしくは母たりしものなるやも圖られず」と。ホトトギスは一種のククウ。

[やぶちゃん注:「往生要集」浄土教の淵源である恵心僧都源信の著で全三巻。寛和元(九八五)年成立。しかし、このような説教歌は見当たらない。小泉八雲の謂うような注釈も私は知らない。不審。識者の御教授を乞う。

「ホトトギスは一種のククウ」原文“The hototogisu is a kind of cuckoo”。「ククウ」は「郭公」で歴史的仮名遣なら「クワクコウ」とするべきところ。カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus。]

 

五〇、子は三界の首枷

註 いふこゝろは、兩親のその子に對する愛は――啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]此世に於てのみで無く、そのあらゆる來世を通じて――恰もクビカセ卽ち日本の首枷がそを置かれて居る人の舉動を妨げるが如くに、その霊の發達を妨げるかも知れぬ。親の愛情は、この世の愛著のうち最も强烈なものであるから、之に捉へられる人をして子孫に利益を與へんとの希望によつて殊に惡事を犯さしめがちである。サンガイといふ言葉は此處では――涅槃の下に位する生の境涯たる――欲界色界無色界を意味して居る。然し此の語は時に過去現在未來を意味するに用ひられる。

 

五一、口は禍の門(かど)

註 これは、惱の主因は不謹愼な言葉であるとの意味。カドといふ語はいつも住宅への主な入口を意味する。

 

五二、果報は寢て待て

註 クワハウといふ語は、全くの佛語で、前生に於ける善行の結果としての幸運を意味するのであるが、日常の會話におつては、如何なる種類でもの幸運を意味するやうになつて來て居る。此諺は「待つて居る茶釜は煮たたぬ」といふ英國の諺の意味に似た意味に屢〻用ひられて居る。嚴密な佛敎的な意味では「善行の報を餘り渴望するな」であらう。

[やぶちゃん注:「待つて居る茶釜は煮たたぬ」原文“Watched pot never boils”。「水を沸かしている鍋は見つめているとなかなか沸かない」から転じた「待つ身は長い・焦ってはいけない」の意の英語の諺(proverb:小泉八雲は“saying”と言っているが、厳密には一般には誰が言った判らない名言を「saying」、その名言の主が判っているものを「quote」、よく使用される短いフレーズで人生訓を含んでいるものを「proverb」と区別するようである)。]

 

五三、蒔かぬ種は生えぬ

註 種を蒔くに非らずば收穫を期待するな。熱心な努力が無くては如何なる報酬も得られぬ。

 

五四、待てば甘露の日和

註 カンロとは天界の甘き露。一切の善事は待つて居る人に來る。

 

五五、冥土の道に王は無し

註 文字通りでは「メイドヘの道には」メイドとは地獄を意味する日本語で、一切の死者が旅して行かねばならぬ冥い下界である。

 

五六、盲(めくら)蛇(へび)に怖(お)ぢず

註 無智なる者及び不穩なる者は、因果の法を悟らぬことだから、其惡行が必らず招來する結果を恐れぬ。

 

五七、盈(み)つれば缺ける

註 月が大きくなつて滿月となるや否や缺け始める。丁度そのやうに繁榮の絕頂は運の衰微の始めである。

 

五八、門前の小僧習はぬ經を讀む

註 コゾウは「店の小僧」「使ひ小僧」「年季奉公人」を意味するやうに、また「寺の小僧」を意味する。然し此處では寺の門の近くか前かに在る商店に使はれて居る子供を指して居る。寺で讀む經を絕えず耳にするので、その小僧がその經語を自づと諳んずる[やぶちゃん注:「そらんづる」。]。これと似寄つた諺に、「クワンガクイン ノ スズメハ モウギウ ヲ サヘヅル」卽ち「勸學院〔昔の學問所〕の雀は蒙求を囀る」といふがある。「蒙求」といふは古昔若い學生が敎はつた支那の書物である。此どちらもの諺の敎は、今一つの諺で立派に言ひ表はされて居る。それは「ナラフ ヨリハ ナレロ」卽ち「〔或ふ技(わざ)を〕習ふよりか寧ろそれに慣れよ」言ひ換へれば「絕えずそれに接觸して居れよ」である。觀察と學習は硏究よりも好いぐらゐである。

[やぶちゃん注:「勸學院」は平安時代に藤原氏の子弟の教育のために創られた学校。

「蒙求」唐の李瀚(りかん)が年少者のために著した歴史上の教訓を記した啓蒙書。七四六年以前の成立。五百六十九の事項を、歌いやすく覚えやすいように四字句の韻文にし、八句ごとに韻を変え、子どもが暗誦し易くしてある。宋の劉班の「両漢蒙求」以下、多くの類書が作られたが、中国では十七世紀以後は姿を消してしまった。日本には平安時代に移入され、江戸時代には注解書のほか、木下公定の「桑華蒙求」、菅享「本朝蒙求」などの翻案的類書が多くが作られ、近年に至るまで使われたことから、寧ろ、日本に伝存している。]

 

笠九、無常の風は時を擇ばず

註 死と變化とは人の期待にその道を一致させはせぬ。

 

六〇、猫も佛性あり

註 猫とマムシ(毒蛇)だけが佛が死んだのに泣かなかつたといふ傳說あるに拘らず。

 

六一、寢た間(ま)が極樂

註 ただ睡眠の間だけ時に我々ぱ此世の悲苦を知らずに居ることが出來る。

 

六二、二十五菩薩もそれそれの役

[やぶちゃん注:「それそれ」は原文がママ。]

 

六三、人見て法說け

註 佛數の敎理を敎へるには敎はる人の智慧にいつも適合せしめてでなくてはならぬ。これと同種類の今一つの諺がある。「キニヨリテホフヲトケ」卽ち「〔敎はる人の〕機根に應じて法を說け」である。

 

六四、人身(にんしん)受け難し 佛法遇ひ難し

註 通俗の佛敎では、人界に生まれること、殊に佛敎を信奉する國人のうちに生まれるといふことは、非每に大いなる特典であると敎へる。人間の生涯はどんなに慘めでも、少くとも尊い眞理を少しく知ることが出來る境涯である。然るに生の他の低い狀態にある者は、比較的に靈の進步は出來得ないのである。

 

六五、鬼も十八

註 オニ卽ち佛敎の鬼については幾多の妙な言葉や諺がある。例へば、「オニノメニモナミダ」卽ち「鬼の眼にすら淚」とか、「オニノカクワクラン」卽ち「鬼の霍亂〔非常に强壯な人の意外の病氣の事をいふ〕」とかいふやうな。オニといふ惡鬼の一類は固と[やぶちゃん注:「もと」。]佛敎の地獄のもので、拷問者や獄吏の役を勤めて居るものである。これは魔、夜叉、鬼神併びに他の部類の惡靈と混同してはならぬ。佛敎藝術では牛や馬の頭をした、異常な力を具へて居るものと現はしてある。牛頭の鬼を「ゴヅ」と呼び、馬頭の鬼を「メヅ」と呼んで居る。

 

六六、鬼も見慣れたるがよし

 

六七、鬼に金棒

註 大いなる力を强きもののみに與ふべしとの意。

 

六八、鬼の女房に鬼神(きじん)

註 邪慳な男は邪慳な女を妻にするといふ意。

 

六九、女の毛には大象も繫がる

 

七〇、女は三界に家無し

[やぶちゃん注:「三界」は「欲界」・「色界」・「無色界」で、ここは仏教上の極楽・地獄を含まない「全世界」の謂い。仏教では古くから女は「三従」と称し、幼い時は親に従い、嫁に行っては夫に従い、老いては子に従わなければならないとされたことから、「女性には、一生の間、広い世界のどこにも安住の場所はない」とされた。如何なる布施や修行を行っても女性は一度、男性に生まれ変わってからでなければ極楽往生は出来ないとする「変生男子(へんじょうなんし)」説のは、釈迦以来の仏教の男尊女卑の悪しき属性である。]

 

七一、親の因果が子に報ふ

註 跛[やぶちゃん注:「びつこ」。足の不自由な障碍者。]や不具な子供を有つた親に云ふ。然しこの諺に現はされて居る通俗の觀念は、全然高等な佛敎の敎に一致して居るものでは無い。

 

七二、落花枝に還らず

註 してしまつたことはしかへすことが出來ぬ。過去を立ち返らせることは出來ぬ。この諺はもつと長い經語『ラツクワ エダニカヘラズ、ハキヤウ フタタビテラサズ」卽ち「落花枝に還らず、破鏡再び照らさず」の省略である。

 

七三、樂(らく)は苦の種(たね)苦は樂の種

 

七四、六道は眼の前

註 言ふこゝろは、來世は此世での行爲如何に因つて定まる。だから此次に生まれ出る場處を自分で勝手に選ぶことが出來るのである。

 

七五、三界無安

 

七六、三界に垣無し 六道にほとり無し

註 三界ち卽欲界、色界、無色界と、六道卽ち、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道とのうちに一切の生が包含せられて居る。このさきにはただ涅槃あるのみである。「垣無し」「隣[やぶちゃん注:「ほとり」。]無し」とは、その界を越えて逃れ行くべき界は無い、或る二つの境涯の間の中道は無いといふこと。我々は因果次第でこのどれかのうちへ再生するのである。(七四參照)

 

七七、懺悔には三年の罪も減ぶ

[やぶちゃん注:近世以前は「懺悔」は「ざんげ」ではなく、「さんげ」と読む。小泉八雲は正しく“Sange”と原文する。寧ろ、現代人の殆んどは「ざんげ」としか読めない。]

 

七八、三人寄れば苦界(くがい)

註 クガイ(文字通りでは「苦い世界」)は屢〻醜業歸の生涯に對して用ふる語。

[やぶちゃん注:「醜業歸」娼妓・女郎・売春婦。]

 

七九、三人寄れば文殊の智慧

註 文殊菩薩〔梵語ではマンジュスリ、ボディサツトヷ〕は日本佛敎では特に智慧の神になつて居る。この諺は三人の頭に一人の頭より善いといふことを意味して居る。同じ意味の諺に『ヒザトモダンガフ』卽ち「自分の膝とでも談合せよ」言ひ換ふれば「如何なる忠言も、その原(もと)はどんなに賤しくとも、輕んずるな」といふがある。

 

八○、釋迦に說法

 

八一、沙彌から長老

[やぶちゃん注:「沙彌」は修行僧で、「長老」は深い学徳を具えた高僧。「一足(いそく)跳びに出世すること」の譬え。]

 

八二 死んだればこそ生きたれ

註 自分は此の珍らしい諺を聞く每にハクスリの有名な論文「生の物質的根柢に就いて」のうちの一文を想ひ出す。かう言つて居る、「生きて居る原形質は終には死んでその鑛質の無生の成分に還元せられるばかりでは無く、いつも死につゝあるので、この逆說は奇妙に聞こえるかも知れぬが、死ななければ生きられなかつたのである

[やぶちゃん注:この言葉、後の「葉隠」(江戸中期(一七一六年頃)に書かれた。肥前国佐賀鍋島藩士山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録して纏めたもの。全十一巻)の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という軍国主義にいいように用いられてしまった一句を思い出させる。

「ハクスリ」ダーウィンの進化論を支持して「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名でもって知られたイギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。但し、自然科学者としての彼は、事実はダーゥインの自然選択説よりも、寧ろ、唯物論的科学を志向しており、参照したウィキの「トマス・ヘンリー・ハクスリー」によれば、『ダーウィンのアイディアの多くに反対であった(たとえば漸進的な進化)』とある。

「生の物質的根柢に就いて」一八六九年刊のエッセイ“On The Physical Basis of Life”(「生命の物理的基礎に就いて」)。もとは前年一八六八年の十一月八日にエジンバラで行われた講義で、そのテーマは「生命活動はそれを作る原形質の分子力の結果に過ぎない」というものであった。]

 

八三、知らぬが佛 見ぬが極樂

 

八四、正法(しやうほふ)に奇特無し

註 何物も永久な取り返しのつかぬ大法の結果としてのほか生じ得ぬものである。

 

八五、小智慧は菩提のさまたげ

註 ボダイといふは梵語のボディと同語で、無上の開悟――佛の身になれる知識――を意味するが、日本の佛敎では無上の祝福卽ち佛の境涯そのものの意味に屢〻用ひる。

 

八六、生死(しやうじ)の苦界ほとり無し

 

八七、袖の振り合はせも他生の縁

 

八八、寸善尺魔

註 マ(梵語ではマアラカアヰカス)は人間を誘うて惡事を行はしめる一種特別な一類の靈に與へて居る名である。然し日本の民間傳說では、マの演ずる役は西洋の民衆迷信でゴブリンやフエアリが占めて居る役に能く似て居る。

 

八九、纒ふは悲みのちと

 

九〇、飛んで火に入る夏の蟲

註 殊に肉體的放逸の結果について云ふ。

 

九一、土佛(つちぼとけ)の水あそび

註 すなはち、「土でつくつた佛が水あそびをするやうに危險な」子供は土で佛像をつくつて遊ぶことが能くあるが、固よりのこと水に入れゝば形なしに崩れる。

 

九二、月に叢雲[やぶちゃん注:「むらくも」。] 花に風

註 月の美は叢雲の爲め暗くされ、水は花を咲かすと、その花は直ぐ風に散らされる。美はしきものは總て果敢ない[やぶちゃん注:「はかない」。]。

 

九三、露のいのち

 

九四、憂(う)きは心にあり

 

九五、瓜の蔓に茄子は生(な)らぬ

 

九六、噓も方便

註 方便といふのは改信せしめる上の殊勝な方便である。「法華經」第三卷に有るあの有名な譬言を見ればかゝる方便は殊に是認される。

[やぶちゃん注:「法華経」の「譬喩品第三」であろう。個人サイトのこちらの現代語訳がよい。]

 

九七、我が家(や)の佛尊し

註 人は誰れしも自分の家の佛壇にあるホトケを――佛として視られて居る死者の靈を――崇め尊む、といふ意味。ホトケといふ語に皮肉な戲れがあるので、この語は單に死んだ人といふ意味にもなり、一箇の佛といふ意味にもなるのである。恐らく此諺の精神は今一つの諺を藉りるともつと能く說明が出來よう。「ニゲタサカナニ チイサイハナイ、シソダコニ ワルイコハナイ」卽ち「逃げた魚に小さいのは無く、死んだ子に惡るい子は無い』を合はせ考へるがよい。

 

九八、雲の果(はて)は涅槃

註 この珍らしい諺は自分の蒐集中ネハン(涅槃)といふ語を含んで居る唯一のもので、主としてその爲めこゝへ挿入したのである。普通の人は涅槃といふ言葉は減多用ひず、この言葉が關係して居る甚深な敎理については殆ど少しも知つて居ないのである。上記の諺は、推察される如くに、通俗な言葉では無い。地平線までずつと雪が覆うて居て、その雪圏の向うは唯々空漠たる天空あるのみの風景を藝術的に詩的に述べたものである。

 

九九、善には善の報い 惡には惡の報い

註 一寸見には平凡な諺のやうに見えるがそれほどでも無い。此世に於て我身が受ける親切は悉く前生に於て他人に與ヘた親切の報であり、我々が蒙る禍は悉く前生に於て我々が犯した不正事の反映でゐるといふ、佛敎の信仰を特に指して居るからである。

 

一〇〇、前世の約束ごと

註 これは頗る普通な諺で、別離の不幸に對し、突然の不運に對し、突然の死去に對したりして、能く述べるものである。殊にシソヂユウ卽ち戀人同志の自殺に關して用ひる。そんな自殺は或る前生に於て殘忍であつた結果か、或はまた前生に於て夫婦にならうと相互の約束を破つた結果か、だと普通考へられて居る。

 

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