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« 小泉八雲 死者の文學 (大谷定信訳) / 「二」 | トップページ | 小泉八雲 死者の文學 (大谷定信訳) / 「四」 »

2019/11/17

小泉八雲 死者の文學 (大谷定信訳) / 「三」

 

[やぶちゃん注:本篇書誌及び底本・電子化の凡例等については『小泉八雲 死者の文學 (大谷定信訳) / 「一」』を参照されたい。

 なお、実は、底本では「二」の後には――異様な四行空けの後で原本の「」相当の訳文が続いている。「三」と章番号があるべき辺りの右上には殆んどごく小さな点のような汚れはあるが、「三」の痕跡は全くない。しかし、以下を「三」と特異的に打って始めることとした。

 

       

 自分が瘤寺で硏究を始めた時、卒都婆の文言の詩美と哲理とに感心したのに劣らず、その平穩であり喜ばしげであるのに感心した。どれにも、悲哀の影さへ自分は發見しなかつた。その大多數は、自分には西洋の信仰より廣く且つ深く思はれる或る信仰の告白であり、――思想は永遠無窮の性質を有つて居ることを、あらゆる心は一つであることを、普遍の救濟の確實なことを、述べて居る崇高な聲明であつた。そして他の驚くべき事共が、此の奇異な文學の中に、自分を待つて居つた。初めそれを飜譯した時單簡極まつたものに見えた文句や文句の斷片が、深く考へて註解を加へて見ると、實に驚くに餘りある深遠な意義を示すのであつた。句(フレーズ)が――一見何の巧みの無い句が――突然二重の暗示を、――二通りの觀念を――平凡であつて同時に神祕な一種の美を――露はすのである。この最後の一類に屬する銘文については、次記のが好個の例である。

 

「一夜花開世界香」

【原注】註 これは淨土宗の卒都婆にあつたもの。

 

 高等佛敎の言葉では、これは、魂が死の爲めに、恰も花の香が莟が開いて放たれるやうに、迷の暗黑から解放されたといふこと、また神聖なが、卽ち法界が、その新しい靈の爲めに、庭全體が或る貴い植物が花を咲かせて芳しくされると同じに、爽快にされたといふこと、を意味するのである。然し、佛敎の通俗な言葉では、極樂の蓮池で又一つ不思議な花が、此世で愛されて、そして死んだ者が至福の境地に入るやう靈的再生をしたが爲め、開いたのであるといふこと、または更なるが到來したので悅んで居るといふこと、を意味して居る。

 

 が、自分は、この碑銘文學の特殊な美點を指摘するよりは、寧ろ自分の硏究の一般的結果を記したいと思ふ。で、自分の目的は、敎義上の或る順序に從つて銘文を排列し、考察することによつて、最も容易に達せられるであらう。

 卒都婆の文句は種々樣々であるが、直接にまた間接に、阿彌陀の蓮華の極樂に、――卽ち、もつと普通に謂ふ、西方極樂に――關して居る。次に揭げるのは、標型的なものである。――

[やぶちゃん注:以下、底本では四字下げポイント落ち(註はさらにポイント落ち)。なお、私は第一書房家庭版底本では、鍵括弧と二重鍵括弧の判別がつきにくいので、本文よりポイント落ちの部分ではすべて、鍵括弧で統一し、それで一貫して電子化してきた。ところが、ここでは明らかにポイント落ちの引用に両者が区別されて使用されているので、そのように電子化した。或いは、先行する鍵括弧の一部も二重鍵括弧であるかも知れぬが、この仕儀は原則、この篇のみに限るとしたい。少なくとも今までのものでは、両者を区別しなければ誤読すると思われるものは記憶では皆無だからであり、他ではそれらが区別して使用されている事例を殆んど見ないからである。なお、引用とその註の前後を一行空けた。

 

『阿彌陀經曰「皆悉到彼國 白致不退轉」』

【原注】註 淨土宗の卒都卒塔婆から。

【訳者注】譯者註 阿彌陀經とあるは無量壽經とあるべきもの。

 

『金言「作受諸樂 故名極樂」』

註 ゴクラクといふは佛敎の天界(ヘヴン)に對しての日本での普通語でゐる。淨土宗の一卒都婆にあつたのを自分が譯して貰つた前記の銘文は、スクハーヷティ・ヴユーハ(『東洋聖書』プティスト マハヤーナ テキスツ を見よ)にある一句で、マクス・ミュラー氏はそれを原句通り十分に斯う譯して居る。――『舍利弗よ、このスクハーヷティの世界では衆生に身心とも何の苦といふものが無い。其處では幸福の根源は無數である。その故を以てしてその世界にスクハーヷティ、幸福な處、と呼ばれて居る』

[やぶちゃん注:「小スクハーヷティ・ヴユーハ(『東洋聖書』ブティスト マハヤーナ テキスツ を見よ)」“the Smaller Sukhâvatî-Vyûha (see Buddhist Mahâyâna Texts: “Sacred Books of the East”)”「東洋聖書」というのは「東方聖典叢書」(Sacred Books of the East)で、ここに出る「マクス・ミュラー」(“Max Müller”)、則ち、ドイツ生まれで、イギリスに帰化したインド学者(サンスクリット文献学者)・東洋学者・比較言語学者・比較宗教学者・仏教学者であったフリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Müller 一八二三年~一九〇〇年)によって編集され、オックスフォード大学出版局によって一八七九年から一九一〇年にかけて刊行された、アジアの諸宗教の聖典の英語翻訳を集成した全五十巻からなる壮大な叢書。ヒンドゥー教・仏教・道教・儒教・ゾロアスター教・ジャイナ教・イスラム教の主要な聖典を収録している(ウィキの「東方聖典叢書」に拠る)。さてもこの「スクハーヷティ・ヴユーハ」(Sukhâvatî-Vyûha)とは「阿弥陀経」の「スカーヴァティー・ヴィユーハ・スートラ」(サンスクリット語ラテン文字転写:Sukhavati vyuha sutra)のことで「スカーヴァティー」はサンスクリット語で「幸あるところ・極楽」、「ヴューハ」は「素晴らしき姿・美しき景色・荘厳(そうごん)」であり、「スートラ」は既に出た通り、広義の「経典」の意である。サンスクリットでは同じタイトルである「無量寿経」を「大経」と呼び、区別するためには「小スカーヴァティー・ヴィユーハ」則ち「小経」とも呼ぶのである。

 

『南無阿彌陀佛 金口曰「念佛衆生 攝取不捨」』

【原注】註 淨土宗の卒都婆から。

 

 が、上記のやうな文句は、通俗な信仰には貴いものであるけれども、天界は一時の境涯に過ぎぬもので、智者は之を望むべきでは無いとする高等佛敎には、何等訴ふる所無いものである。實際、大乘の、極樂を述べて居る文句を見ると、それは本質的に迷妄な性質のものであることを――寶池があり、香風があり、異鳥が棲んで居る世界ではあるが、其處での風の聲、水の聲、歌ふ者の聲は、悉く皆、自我の非現實性を說き、萬物の非恆久性を述べて居る世界である。ことを暗示して居る。そしてこの西方極樂の存在すら、より深遠な意義を有つた他の卒都婆文句では、否定されて居るやうに思はれる。――次記のがさうである。

[やぶちゃん注:「が、其處での風の聲、水の聲、歌ふ者の聲は、悉く皆、自我の非現實性を說き、萬物の非恆久性を述べて居る世界である。ことを暗示して居る」この段落は原文自体が、

But texts like these, though dear to popular faith, make no appeal to the higher Buddhism, which admits heaven as a temporary condition only, not to be desired by the wise. Indeed, the Mahâyâna texts, describing Sukhâvatî, themselves suggest its essentially illusive character,—a world of jewel-lakes and perfumed airs and magical birds,but a world also in which the voices of winds and waters and singers perpetually preach the unreality of self and the impermanency of all things. And even the existence of this Western Paradise might seem to be denied in other sotoba-texts of deeper significance,—such as this:—

三つの文からしか成っておらず、問題の太字部分は名詞節がだらだらと続いて浮いていて、日本語にかなり訳しづらい感じがする。にしても、「世界である。ことを暗示して居る」の句点はどう考えてもおかしい。

實際、大乘の、極樂を述べて居る文句を見ると、それは本質的に迷妄な性質のものであることを――寶池があり、香風があり、異鳥が棲んで居る世界ではあるが、其處での風の聲、水の聲、歌ふ者の聲は、悉く皆、自我の非現實性をき、萬物の非恆久性を述べて居る世界である――ことを暗示して居る。

として、前のダッシュで挟んだ形にすべきところであろう。]

 

本來無東西 何處有南北

【原注】註 淨土宗の卒都婆。

 

 『本來』といふは、『無限』に關係してである。制約されて居る者の關係や觀念は、制約無き者に對して存在しなくなる。だが、此の眞理は、他の關係の世界を――强い者がそれへ昇つて行く至福の境涯と、弱い者がそれへ降つて行く苦痛の境涯とを――否定して居ることを實際含んで居るのでは無い。ただ憶ひ出を爲させるものに過ぎぬ。あらゆる境涯は非恆久である、だから、より深遠な意味では非實在である。唯一の實在である――無上の佛陀である。この敎義は多くの卒都婆文句に見えて居る。――

 

靑山元不動 白雲自去來

【原注】註 淨土宗の卒都婆。

 

 『靑山』といふのは『心の唯一の實在』を意味し、『白雲』といふはこの現象的宇宙を意味して居る。だが、この宇宙はの一つの夢としてのみ存在して居るのである。――

 

若人欲了知 三世一切佛 應觀法界性 一切唯心造

【原注】註 禪宗の卒都婆。

[やぶちゃん注:禅宗の衆僧が独特の節回しで唱和する経文「施餓鬼 甘露門」の冒頭。通常は総て音で読むが、文として訓読するなら、

若(も)し、人、三世(さんぜ)一切の佛(ぶつ)を了知(りやうち)せんと欲しなば、應(まさ)に「法界(ほつかい)の性(しやう)は、一切、唯だ心造なり」と觀(くはん)ずべし。

であろう。意味も勝手流でやらかすなら、

もし、過去世・現在世・未来世総ての仏の知識(時空間に於ける全現象と全存在)を完全に認知したいと欲するならば、まさに、ただ、「正法(しょうぼう)の真の実在だと思っているものは、総て、ただ私の『心』が働いて造り出したものに過ぎない」ということに気づけばよいだけのことである。

であろう。小泉八雲の原本の自由英訳は、

If any one desire to obtain full knowledge of all the Buddhas of the past, the present, and the future, let him learn to comprehend the true nature of the World of Law. Then will he perceive that all things are but the production of Mind.

もし、過去・現在・未来の総ての仏についての完全な知識を得たいと思うのなら、その人は、正法(しょうぼう)の世界の本質を理解することを学ぶがよかろう。 それによってしかし乍ら、彼は、総てのものが、その心の働きによって生み出されたものでしかないことに気づく。

であるから、小泉八雲は正確に意味を捉えていることが判る。]

 

修習善法 證諸實相譯者註

【訳注】譚者註 原英文は之を譯したもののやうに思ふが明らかでない。

[やぶちゃん注:「法華経」の「安楽行品」の一部。

又見自身 在山林中 修習善法 證諸實相

(又、自身、山林の中に在りて、善法を修習し、諸々の實相を證す。)

さても、訳者が指摘するのは、省略した小泉八雲の自由英訳で、

By the learning and the practice of the True Doctrine, the Non-Apparent becomes [for us] the only Reality.

のことである。暴虎馮河で訳してみると、

正法(しょうぼう)を、修め、それを、怠らず繰り返して実践することによって、「(実在は)明白ではないのだという事実」が(私たちにとっての)実は「唯一の現実」であるということになってくる。

であろうか。大谷氏は言わんと内容に半可通なところがあると疑問を呈しておられるのであろうが、私は私の原典訓と英文の勝手訳が正しいのなら、すこぶる腑に落ちる。そしてまた、次の段落の冒頭が取りも直さず、それを受けているではないか。]

 

 宇宙は一つの幻であり、人間の身體もまた、其肉感的自我といふ複雜な物を構成して居る一切の感情、一切の思想、一切の記憶と共に、一つの幻である。が、此[やぶちゃん注:「この」。]消え行く果敢ない[やぶちゃん注:「はかない」。]自我が、人間の内在の全部であるか? さうでは無いと、次の卒都婆は宣べて居る。

 

一切衆生悉有佛性 如來常住無有變易

【原注】 禪宗の卒都婆。

【訳注】 譯者註 これは『大般涅槃經』にある句。

[やぶちゃん注:も「大般涅槃経」の「獅子吼菩薩品」の知られた一節。]

 

華嚴經曰『本來本法性 天然自性身』

 

 變はること無き者の性質を分有して居るから、我々は永遠の實在性を分有して居るのである。最高の意義では、人間も亦佛性なのである。――

 

是心作佛 是心是佛

 

なのである。

[やぶちゃん注:これは訳者が操作して以上のようになっている。「人間も亦佛性なのである。」で終わって「是心作佛 是心是佛」と次の自由英訳引用となっている。まあ、特に読解上の誤読は起させはしない確信犯の仕儀ではあるものの、実は「一切衆生悉有佛性 如來常住無有變易」の意味は道元の読み以降、微妙に意味が別れており、この仕儀が必ずしも上手くは説明しないのである。しかも悪いことに、大谷はスルーして省略してしまっているのだが、この「是心作佛 是心是佛」の方には、原注があり、

From a tombstone of the Jōdo sect. The text is evidently from the Chinese version of the Amitâyur-Dhyâna-Sûtra (see Buddhist Mahâyâna Texts: “Sacred Books of the East”). It reads in the English version thus:—“In fine, it is your mind that becomes Buddha;—nay, it is your mind that is indeed Buddha.”

訳すと、

「浄土宗の墓石から写したもの。この字句は明らかに「観無量寿経」の中国語版に由来するものである(「仏教のマハヤナのテキスト類(「東方聖典叢書」)を参照[やぶちゃん注:既出既注。])。 その英語版では次のように読んでいる。――「結局のところ、それはあなたの心がまさに仏になるのですよ、――いや、本当の仏であるのは、まさにあなたの心なのです。」。

であろう。まさに、曹洞宗の道元のそれと、それ以前の浄土宗の「一切衆生悉有佛性」の解釈は異なるはずである。普通は「一切の衆生は悉(ことごと)く佛性(ぶつしやう)有り」(一切の生きとし生けるものは総て仏性を持っている)と返って読むのだが、道元は「一切の衆生は悉有(しついう)の仏性なり」(総ての衆生の存在と彼らがいる存在世総てが、これ、仏性なのである)と採ったのである、これは根本的な思想の転換、一種の止揚(アウフヘーベン)であると言えると私は考えている。そして、これが浄土宗の卒塔婆のものだと示したら、この恣意的な操作は実は無効になる(と私は思う)ことを大谷は気づいていて、わざと外したのかも知れない。因みに、平井呈一氏は恒文社版「死者の文学」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)でこの出典を「仏説阿弥陀経」としているが、誤まりであろう。

 

圓覺經曰 『始知衆生本來成佛 生死涅槃猶如昨夢』

【原注】註 プラチエカ・ブダ サストラ? 禪宗の卒都婆から。

[やぶちゃん注:“Pratyeka-Buddha sastra?—From a sotoba of the Zen sect.”。この小泉八雲の注の前は「(この「円覚経」とは)縁覚に関する論か?」の意か。「円覚経」は正しくは「大方広円覚修多羅了義経」(だいほうこうえんがくしゅたらりょうぎぎょう)で唐の仏陀多羅訳とされる、中国で撰述された疑経或いは偽経の一つであり、道元が「楞厳経」(りょうごんきょう)とともに完全否定した経として知られる。]

 

 が然し、逐次涅槃に融入して、融入しながら『その境地へ還り來る』佛達はどうなるのであるか。彼等も亦幻であるのか――その個性も亦非現實なものであるのか。多分この疑問には――佛敎の觀念論があると共に、佛敎の實在論があることだから――多くの異つた解答が爲し得られるであらう。が、現在の目的には、次記の有名な文句が、充分な解答である。――

 

南無一心三世諸佛

【原注】註 これは禪宗の卒都婆から得たのであるが、天台及び眞言の祕密宗派でも用ひるといふことである。

 

 に關しては、佛と人との間にすら、何等の相違も存在して居ない。――

 

成所作智 金言曰 『是法平等 無有高下』

【原注】註 これは眞言宗の卒都婆から。

[やぶちゃん注:「成所作智」(じやうしよさち(じょうしょさち))は、「成すべき総ての事を成し遂げて衆生を救済する智」で「唯識の理りに入るため」の真の智である「四智」の一つ(後の三つは「大円鏡智」・「平等性智」(びょうどうしょうち)・「妙観察智」(みょうかんざつち))。]

 

 否、なほ一層著名な或る文句に據ると、人格の相違すら無いのである。

 

自他法界平等利益

【原注】註 これは禪宗の卒都婆から寫したもの。『自他』は『自我と非自我』。『己れ』『おまへ』[やぶちゃん注:ここは原文““I” and “Thou.””から見ても「『「己れ」と「おまへ」』」とセットにしないとおかしい。]の意。佛の境地では『己れ』と『おまへ』のといふことは無い[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、区別は「無い」のである。]。

 それから、禪宗の卒都婆から得た、なほ一層驚嘆すべき文句は(自分の考では、佛敎のあらゆる文句のうちで、一番著しいものと思ふが)、世界そのものも、幻であるにしても、なほと異つたものでは無い、と宣べて居る。――

 

草木國土悉皆成佛

 

 文字通りでは『佛となるであらう』卽ち、いづれも佛の境涯に入る、卽ち涅槃に入る、であらうといふ意である。我々が物質と名づけて居る物が、だからして、性質を變へてに――無限の感性無限の視力無限の知識といふ屬性のあるに――なるのである。現象としては、物質は非實在である。が、超絕的に、それはその究極の性質に依つて、唯一實在に屬するものである。

 斯んな哲學的命題は、尋常な讀者の心を惑はしさうに思はれる、物質と心とを、究極の實在の二相に過ぎぬと呼ぶことは、ハーバート・スペンサーの學生[やぶちゃん注:小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年:私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい)の教え子たち・彼の社会進化論を奉ずる人々の意。]には不合理とは思はれぬであらう。が、物質は一つの現象である、一つの迷妄である、一つの夢である、と言ふことは、何の說明にもならぬ。――現象としてそれは存在して居るので、それに附與されて居る或る宿命を有つて居るから、之を客觀的に考察しなければならぬのである。同じく不滿足に感ぜられるのは、現象は因果(カルマ)の聚合[やぶちゃん注:「しゆうがふ(しゅうごう)」。「集合(しふがふ)」に同じい。]であるといふ陳述である。その聚合を形づくる分子の本性は何であるか。卽ち、極く平明な言葉で云へば、その迷妄は何から成つて居るのか。

 元の佛敎經典にも、況してや[やぶちゃん注:「ましてや」。]佛敎墓地の文學にも、その答を探すことは出來ぬ。そんな疑問は、經(スートラ)よりも、論(サストラ))に、取扱つてある。――またその兩者への種々雜多な日本の註釋書に取扱つてある。この謎への答を含んで居る、頗る奇妙なそして餘り人の知らぬ眞言の文句を、或る友人が自分に提供して吳れた。

 眞言宗といふは、自分は述べて宜からうと思ふが、一種神祕な宗派で、殊に心と物質との同一不二たる事を述べ、なほ大膽にもその敎義を進めて、その最も遠い論理的斷案へ持つて行つて居るものである。その開祖であり父である所の、弘法大師としてよりよく知られて居る、空海は、物質は本體に於て靈と異つたものでは無い、とその『祕藏記』といふ書物で述べた。かう書いて居る、『草木非情成佛義。法身微細ニシテ五大所成ナリ。虛空モ【註】亦五大所成ナリ。草木亦五大所成ナリ。法身微細。虛空乃至草木マデ。一切處ㇾ不ルコトㇾ遍。是虛空是草木卽法身ナリ。於肉眼雖ㇾ見ルト麤色草木。於佛眼微細之色ナリ。是シテㇾ動本體スルニㇾ佛妨碍

[やぶちゃん注:底本では「虛空」の「虛」の右上に「註」を附したような痕跡が見えるが、全く認識は出来ない。原本と対照して特異的に「【註】」の字で以上に補った。

「祕藏記」密教の要義約百条を解説した書で、真言宗で重んじる。但し、著者については、「恵果(七四六年~八〇五年:唐代の密教僧。密教を中国に定着させた不空三蔵(七〇五年~七七四年)に学び、代宗・徳宗・順宗に信任され、「三朝の国師」と称された。空海の師として灌頂を授けている)の口説を空海が記述した」とする説、「不空三蔵の口説を恵果」が記述したとする説、「恵果の高弟義操の弟子文秘の述とする」など諸説がある。本来は全二巻であるが、広略二本あり。略本は一巻。以下、訓点に従って訓読する。一部で読みと送り仮名を添え、「動せす」は濁音化した。

   *

草木非情成佛の義。法身は微細の身にして五大所成なり。虛空(こくう)も亦、五大所成なり。草木も亦、五大所成なり。法身の微細の身は、虛空、乃至(ないし)草木まで、一切處(いつさいしよ)に遍せざること、無し。是(こ)の虛空、是の草木、卽ち、法身なり。肉眼に於ては麤色(ししき[やぶちゃん注:「粗い色」の意か。])の草木を見ると雖も、佛眼に於ては微細の色(しき)なり。是の故に、本體を動ぜずして佛と稱するに、妨碍(ばうがい)無し。

   *]

 

【原注】註 漢字では文字通りでは英語の『ヺイド』であるが、涅槃の境涯を意味する『無上のヺイド』のヺイドである。が、此處では、究極の物質、卽ち本源の物質を意味して居る。之を『エーテル』(固より近代の意味で飢無く、希臘語の意味で)と譯することは、南條文雄その他知名な梵漢兩學者の是認するところである。

[やぶちゃん注:「ヺイド」“void”。「宇宙の空間・虚空・無限」の意。前の「秘蔵記」の小泉八雲の英訳では「虛空」は“Ether”(エーテル)となっている。それを知らないとこの原注に吃驚する。「エーテル」は所謂、古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、実に永く想定され続けた、全世界・全宇宙を満たす一種の不可視の元素或いは物質の仮称である。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地水火風に加えて、「エーテル」(「輝く空気の上層」を表わす言葉)を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では、全宇宙を満たす希薄な物質とされ、ニュートン力学では「エーテル」に対し、「静止する絶対空間」の存在が前提とされた。また、光や電磁波の媒質とも考えられた。しかし、十九世紀末に「マイケルソン=モーリーの実験」で、「エーテル」に対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経、遂に一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱し、「エーテル」の存在は否定された(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」に拠った)。但し、現在でも擬似科学や一部の新興宗教の中に「エーテルの亡霊」が巣食って蠢いている。

「南條文雄」既出既注。]

 

 前文に『非情』といふ語が用ひてあるのは、矛盾を含んで居るやうに思はれるであらうが、『四曼義』といふ書物の中にある問答で合點の行くやうに說明されて居る。――

 問 非情草木等若シ謂フベシヤ有情トモ

 答 應

 問 已ス二非情有情

 答 此三昧本來已スルカ如來智印ンニ有情トモ無ㇾ過(トカ)

[やぶちゃん注:訓読を示す。「應」は通常のように再読した。一部で読みと送り仮名を挿入し、「具するか」とルビ「とか」の「か」は濁音化した。

   *

問ふ、「非情草木等を、若(も)し、有情(うじやう)とも謂ふべしや。」

答ふ、「應(まさ)に爾(し)か云ふべし。」

問ふ、「已に非情と稱す。何ぞ有情と謂ふや。」

答ふ、「此の三昧耶(さんまや)の處に、本來、已(すで)に如來の智印を具するが故に、有情とも曰(いは)んに、過(とが)無し。」

   *

この「三昧耶」はサンスクリット語「サマヤ」の漢音写で原義は「約束」・「契約」などを意味するが、通常は広義に「時間」或いは「衆会」・「教理」などの意で用いるが、真言宗では、平等・誓願・驚覚・除垢障の四義を説いているものの、それは、衆生は仏と等しく差異がないと知る「平等」の義を根底として他の「三」義を引き出したもので、衆生と平等である仏は一切の衆生を差異なく悟りの世界に入らせると誓い、そのように成すことが既にして決定(けつじょう)しており、必ず遍く利益(りやく)を与えるとする時空間を超えたそれを「三昧耶」と呼ぶと考えてよかろう。]

 

 『可能的に有情なのだ(ポテンシヤリー・センシエント)[やぶちゃん注:以上は「可能的に有情なのだ」総てへのルビ。]』と識者は推斷されるかも知れぬが、その推斷は誤つて居る。眞言思想では、可能的有情では無くて、我々には不可見であり不可想像であるけれども、眞實でもあり實際でもある所の潜在的有情(レーテント・センシエンシー)なのである。上記の弘法大師の語に註譯を加へて、宥快といふ巨僧は、啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]その師の意見を反覆して居る計りで無く、草木並びに我々が無生物と呼んで居るものが、德を修めること! が出來ることを、否定するのは理に悖つて[やぶちゃん注:「もとつて」。]居ると斷言して居る。彼は曰ふ、『法界一切に遍きもの[やぶちゃん注:「あまねきもの」。]なれば、心それに遍き草木國土は悉く心を有せざる可からず。またその心を佛に向けて德を修めざる可からず。遍く流入するもの遍く流入さる〻ものとは同一不二なることに就いて、單(ただ)に普通の言葉の上に於てとを差別するが故を以てして、我が宗派の說く敎を疑ふことあるべからず』と。どういふ風にして草木や石が德を修めることが出來るのか、經は實際何にも言うて居らぬ。が、それは、經は人間の爲めに書いたもので、人間が知り且つ行ふべきことだけ敎へて居るからである。

[やぶちゃん注:「遍く流入するもの遍く流入さる〻ものと」は実は底本では「遍く流入するものと」と「く流入さる〻もの」に傍点「ヽ」は附されてある。それでは対称性がおかしいと私は判断し、特異的にかく変えた。

 以上の段落は英文原文を示しておく。

 “Potentially sentient,” the reader might conclude; but this conclusion would be wrong. The Shingon thought is not of a potential sentiency, but of a latent sentiency which although to us non-apparent and non-imaginable, is nevertheless both real and actual. Commenting upon the words of Kōbōdaishi above cited, the great priest Yū-kai not only reiterates the opinion of his master, but asserts that it is absurd to deny that plants, trees, and what we call inanimate objects, can practise virtue! “Since Mind,” he declares,“pervades the whole World of Law, the grasses, plants, trees, and earth pervaded by it must all have mind, and must turn their mind to Buddhahood and practise virtue. Do not doubt the doctrine of our sect, regarding the Non-Duality of the Pervading and the Pervaded, merely because of the distinction made in common parlance between Matter and Mind.” As for how plants or stones can practise virtue, the sûtras indeed have nothing to say. But that is because the sûtras, being intended for man, teach only what man should know and do.

「可能的に有情なのだ」「Potentially sentient」の「Potentially」は「潜在的に」或いは「将来的実現可能性を秘めて」の意、「sentient」は「意識する・敏感な・~を意識して」の意の形容詞。平井呈一氏は恒文社版で『仮定的有情』と訳しておられる。

「潜在的有情」「latent sentiency」の「latent」は「隠れている・見えない・潜在的な」のそれ、「sentiency」は先の形容詞の名詞形で「外界を理解するために使用される認識・感覚機能」であるから、前の「latent」によって「我々には不可見であり不可想像である」(見ることも思惟することも出来ない存在である)と否定され、しかもそれが「眞實でもあり實際でもある」(唯一無二の実在)という逆説的(パラドキシャル)結論が示されているのである。

「宥快」(ゆうかい 貞和元/興国六(一三四五)年~応永二三(一四一六)年)南北朝から室町初期の真言僧。京都生まれ。左少将藤原実光の子とされる。高野山宝性(ほうしょう)院の信弘から両部の秘法を受け、また、京都山科の安祥寺興雅に受法し、真言宗の教義を明確に位置づけた。彼の学統を「宝門」という。著書に「大疏鈔(だいしょしょう)」「釈論鈔」など多数がある。]

 

 恐らくは讀者は、物質の本性に就いての此の實に驚く可き佛敎假說を辿つて、その驚くに餘りある結論に至ることが、今や前よりか能く出來ることであらう。(五大といふ考が奇矯だといふのでそれを侮つてはならぬ。これは一つの究極なものの樣式に過ぎぬと述べて居るからである)我々が物質と呼ぶ所のものの形式は、悉く皆實は靈的な單位の聚合に他ならぬので、實體が呈する眼に見ての相違は悉くその單位の間で行はれる結合の相違に他ならぬのである。結合の相違は、その單位の特殊な傾向と親和力とが惹起するのである。――その單位各〻が有つて居る傾向は、その單位の特別な進化的(『進化』といふ語を、純粹の倫理的意味に用ひての)經歷が齎す必然の結果なのである。眼に見ゆる實體の――宇宙の幾百萬の太陽や惑星の――結合は、總て、そんな靈的な究極物の親和たを示して居るのである。そして人間の行爲或は思想は、悉く、善い方へ或は惡るい方へ働く諸〻の力が、或は結んだり解けたりして、絕大な時間を通して、痕をしるして居るのである。

 

 草木や土地や一切の物體は、肉眼は盲だからして、實際にはさうで無い物に、我々には見えて居る。生そのものが――日の絕大な面紗が空間の無數の星を隱して我々に見せないのと梢〻似て――實在を隱す幕になつて居る。が然し、墓地の文句は、純化された心は、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]肉體の裡に囚はれてゐても、忘我の幾瞬間、と一致することが出來る、といふことを述べて居る。

 

一輪明月照禪心

【原注】註 禪は禪定(梵語の禪那(ヂヤーナ))眞の禪那に在つては、心はと交通が出来る、と信ぜられて居る。これは禪宗の卒都婆から。

 

 『一輪の明月』は無上の彌陀である。情(こころ)の純潔な者には彼を見ることすら出來るのである。

 

南無妙法 一心觀佛

【原注】註 天台宗の卒都婆から。

 

 それよりも偉大な歡喜は何一つ無いと云ふ。――

 

如來慈顏 超世無倫

【原注】註 淨土宗の卒都婆から。

 

 が然し、一佛の顏を見るのは卽ち一切の諸佛を見ることである。――

 

大圓鏡智 經曰『深入禪定 見十方佛』

【原注】註 禪宗の卒都婆から。

 

金口曰『一佛二佛 三四五佛』

【原注】註 禪宗の卒都婆。

 

 といふその神祕は次の如く說明せられて居る。

 

妙觀察智 經曰『遠離一切 心爲佛心』

【原注】註 禪宗の卒都婆。

 

 日本の佛寺の古いのに參詣する人は、或る種の佛像に附いて居る鍍金[やぶちゃん注:「めつき」。]の後光が、その性質異常なのに氣附かぬことは殆ど無い。光明の圓環や圓盤や楕圓を見せて居るこの後光のうちに、迫持構(せりもちがまへ)のやうな或は炎の渦卷のやうな恰好をした、無數の龕[やぶちゃん注:「がん」。佛像を収めるための凹み。]が入つゐて、その一一に佛か菩薩かが安置されて居る。『觀無量壽經』にある一句が、この象徵主義を日本の彫刻師に、思ひ附かせたのかも知れぬ。――

 

於圓光中 有百萬億那由他恒河沙化佛

【原注】註 『東洋聖書』第四十九卷百八十頁。

[やぶちゃん注:以上(注は下部)は原本では改行なしで総て本文に繰り込まれてある(右ページ中央)。

「那由他」(なゆた)はサンスクリット語の「極めて大きな数量」を漢音訳した仏教上の数単位。一般的には1060を指すが、1072とする説もある。

「恒河沙」(ごうがしや(ごうがしゃ))はもと「ガンジス川の砂」の意。同前で、1052とも、1056乗ともされる。

「『東洋聖書』第四十九卷百八十頁」同書は本章で既出既注。ここの「18」で電子化されたその英訳が読める。]

 

 像も句も共に、前揭の卒都婆の文句が暗示する、多の中に一があるといふ彼(あ)の敎義を現はして居る。そして、一佛を見る者は一切の諸佛を見ることが出來るといふ保證は、進んで、一つの大眞理を充分に理解する者は無數の眞理を理解することが出來よう、といふ意味を有つて居るものと受け取つてもよからう。

 が然し、靈的に盲な者にすら、光明が竟には來るに相違ないのである。墓場の文句の非常に多くのものが、無限の愛が一切の者を監視して居ること、究極の普通の救濟が必らず到ること、を述べて居る。――

 

具一切功德 慈眼視衆生

【原注】註 禪宗の卒都婆から。

 

金剛寶塔 銘曰『六道衆生 厭離愛着 心身解脫 入無上道』

【原注】註 六道に天上、人間、阿修羅、地獄、餓鬼、畜生。これは禪宗の卒都婆。

 

經曰『敎化衆生 令入佛道』

【原注】註 日蓮宗の卒都婆。

 

 が然し最高の征服は唯々自己の努力に依つて成し遂げられるものである。

 

滅三毒 出三界

【原注】註 禪宗の卒都婆 三毒とは瞋、痴、貪。

[やぶちゃん注:「三毒とは瞋、痴、貪」順に「しん」・「と」・「とん/どん」と読み、人の善心を害する三種の煩悩を指す「貪」は愛欲を含めた対象を追い求める心、「瞋」は瞋恚(しんい)で自分の心に逆らうものを怒り恨むこと、「痴」は無明(むみょう)であることで、邪見・俗念に妨げられて真理を悟ることが出来ないことを指す。]

 

 三界とは過去現在未來時である。三界の上に昇る(もつと文字通りに言へば、『から出る』)といふは、だから、時空間を越えること――無限と一つになること、を意味する。時間を征服することは、尤も、佛陀にのみ可能なことである。が、一切の物は佛陀に成れるのである。或る少女の墓の上に書いてあつた次記の日蓮宗の經句が證明して居るやうに、女でも、まだ女で居るうちにも、佛果に達することが出來るのである。――

[やぶちゃん注:これは布教上の方便である。既に何度も述べた通り、原始仏教のブッダの時代から、変成男子(へんじょうなんし)、以下に布施や功徳や修行を積んでも女性は、一度、男性に転生しない限り、極楽往生は出来ないとされてきた強力な女性差別の法理上の事実を仏教界はこうしたいい加減な方便や拡大解釈で隠蔽と誤魔化しを続けてきたのである。以下の小泉八雲が引く女人往生それは人間ではなく、選ばれた天部の超越的存在の龍女なのである。……さればこそ……ああ、そうか?……最後に清姫が安珍と極楽へ行けるのは「龍蛇」に変じたからなんだなぁ……

 

皆遙見彼 龍女成佛

 

 これは、『妙法蓮華經』に載つて居る、龍王の娘の娑竭羅に就いての彼(あ)の美しい伝說を指して言うて居るのである。

【原注】註 この傳說に就いては『東洋聖書』に收められて居るケルン譯の第十一章を見られたい。

[やぶちゃん注:「娑竭羅」誤認がある。古代インド神話で「龍王」とされるのが「娑伽羅」(サーガラ:大海・龍宮王・大海龍王。「娑竭羅」「沙掲羅」「沙羯羅」などと漢音訳された。「法華経」mの「提婆達多品」に登場する八歳の龍女は、この龍王の第三王女とされ、「善女(如)龍王」と呼ばれた。空海が新しく名付けることとなった「清瀧権現」も唐からついて来たこの「娑伽羅龍王の同じ娘」の事である。白景皓氏の論文「竺法護訳『正法華経』の〈龍女伝説〉」PDF)から「妙法蓮華経」(法意訳)の当該部と新国訳「妙法蓮華経」の同部分を引用させて戴く(一部の漢字をさらに正字化させて貰い、後者は現代仮名遣を歴史的仮名遣に訂した)。

   *

文殊師利言。我於海中唯常宣說妙法華經。智積問文殊師利言。此經甚深微妙。諸經中寶世所希有。頗有衆生勤加精進修行此經速得佛不。文殊師利言。有裟竭羅龍王女。年始八歲。智慧利根善知衆生諸根行業。得陀羅尼。諸佛所說甚深祕藏悉能受持。深入禪定了達諸法。於刹那頃發菩提心。得不退轉辯才無礙。慈念衆生猶如赤子。功德具足心念口演。微妙廣大慈悲仁讓。志意和雅能至菩提。

   *

文殊師利の言はく、「我れ海中に於いて、唯だ常に妙法華經を宣說す。」智積、文殊師利に問ひて言はく、「此の經は甚深微妙にして諸經の中の寶、世に希有なる所なり。頗(も)し衆生の勤加(ごんか)精進し、此の經を修行して、速やかに佛を得るもの有りや不(いな)や。」文殊師利の言はく、「有り。裟竭羅龍王の女(むすめ)。年始めて八歲なり。智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼(だらに)を得、諸佛の所說の甚深の祕藏、悉く能く受持し、深く禪定に入りて諸法を了達し、刹那の頃(あひだ)に於いて、菩提心を發こし、不退轉を得たり。辯才無礙(べんざいむげ)にして、衆生を慈念すること、猶ほ赤子(しやくし)の如し。功德具足し、心に念ひ口に演ぶること、微妙廣大なり。慈悲仁讓、志意和雅(わげ)、能く菩提に至れり。

   *

「ケルン」ジョン・ヘンドリック・カスパー・カーン(Johan Hendrik Caspar Kern 一八三三年~一九一七年)はオランダの言語学者・東洋学者。既に述べたマックス・ミュラー編の「東方聖典叢書」(Sacred Books of the East:オックスフォード大学出版局・一八七九年から一九一〇年にかけて刊行)では一八八四年に「妙法蓮華経」を“The Saddharma-Pundarîka or The Lotus of the True Law”として英訳している。こちらの「48」で電子化された英訳が読める。]

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