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« 小泉八雲 若さの香 (岡田哲蔵訳) | トップページ | 小泉八雲 晩歌 (岡田哲蔵訳) »

2019/11/20

小泉八雲 蒼の心理 (岡田哲蔵訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“Azure Psychology”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第二パート“RETROSPECTIVES”の第五話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 なお、本文内の原注にも示されているように、本篇は非常に珍しいことに、初出が本作品集ではなく、同じ年の明治三一(一八九八)年一月発行の雑誌『帝國文學』(第四巻第一号)に発表された、その再録である。但し、以下に見る通り、『數年前に書いた』と小泉八雲は言っており、そこで『一八九七年の間に』という年を示しているから、執筆はその頃か。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   蒼 の 心 理

 

       

 自然が鳥と蟲と花とに與へた最も稀な色は、輝く純な靑である。靑い花の咲く植物は他の何れの原色の花が暗示するよりも停滯しなかつた發達のより長い歷史を保有するものと信ぜられる、此色の高價なことは園藝家が靑い薔薇または靑い菊を造ることが不能であつたことで凡そ暗示されて居る。生き活きした靑は或る驚くべき鳥の羽や、或る珍らしい蝶――特に熱帶地の蝶の翼に現はれる、――然しそれは通常進化的分化の莫大な時代を思はせる條件の下に於てである。要するに靑は花と鱗と羽の進化に於て發達した最後の純な色であつたと思はれる。そして靑を認識する力は赤と綠と黃とを辨別する力が既に得られた後に漸く得られたと信ずべき理由がある。

 この假說の眞僞はさてきき、諸原色のうちで靑のみが現代までも高等文明の人種の視覺にも、その最純な强さに於て、快い色として殘されたことはたしかに注意に價する。輝く赤、輝く綠、輝く橙黃色、黃、または紫色[やぶちゃん注:底本は「黃色」であるが、原文は“or violet”であるので、誤植と断じて特異的に訂した。]は我々の第十九世紀の衣服や裝飾に稀に用ゐらる〻のみである。此等の色はそれが與ふる感覺の激烈な爲めにその分光的の純粹性に於て嫌はしいものとなつた、――此等は小兒や、全く未敎化の者や、蠻人の原始的美感にのみ受納されて殘つて居る。現代の美人で緋の衣を着たり、また華美な綠の衣を纒ふたりするものが何處にあらう。我々は我々の室を黃色や蕃紅花(サフラン)の色に塗ることは出來ぬ――その樣な考ばかりでも我々の神經は攪される[やぶちゃん注:「かきみだされる」と訓じておく。]。然し天の色は今も我々を喜ばすことを止めぬ。空の靑はなほ我々の最も美しい人が衣の色としてもよい、そして蒼の天井と蒼の壁の表の光彩ある魅力は――光明と面積の或る條件の下に――今猶ほ認められて居る。

[やぶちゃん注:「蕃紅花(サフラン)」“saffron”。ここは上質の単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科クロッカス属サフラン Crocus sativus の雌蕊を乾燥させた生薬・香辛料であるそれの紅い色を指していよう。但し、当該のサフランは水に溶かすと、鮮やかな黄色になる。

「蒼い天井」ここで小泉八雲は始めて“azure”という単語を用いており、岡田氏が前で「靑」と訳しているのは総て“blue”である。英語の「azure」(アジュア)(アズール(ポルトガル語「azul」・スペイン語(azur)など)やフランス語の「azur」(アジュール)の語源はペルシャ語の「ラジュワード」が語源で、この語はもとは現在のトルキスタンにある地名であったが、その地で産出する青色の宝石「ラピスラズリ」(lapis lazuli)を意味するようになり、さらに色名となったもので、「ラピスラズリ」はラテン語で「lazhwardの石(lapis)」の意である。「azure」はブルー(青)の中でも特に「明るく鮮やかな青」を表わし、「海の色」「空の色」と表現されることも多い(以上はウィキの「アジュールに拠った)。サイト「原色大事典」のこれが「アジュール」で、これが「ブルー」である。]

 或る人は云ふであらう、『それでも我々は建物の外面を空の靑色に塗りはせぬ、そして空の靑色の家の正面(フアサアド)は橙黃色や紅の正面よりももつと不快であらう』と。それはさうだ、然しその色の大きな表面に及ぼす効果が必らずしも不快である爲めでは無い。唯だ生き活きした靑は、外の輝く色と異つて、我々の自然の經驗に於て決して大きな不透明な立體と連想せられぬ爲めにのみそれは眞である。山々が我々に靑く見ゆる時、それはまた精靈の如くなりそして半透明になる。その色を家の正面にすれば、それは怪異に思はれる、何となれば不自然の觀念、――巨大な靑い死せる立體が手の觸れられる程近くにあるといふ觀念を與へるからである。然し靑い天井、靑い穹窿、靑い廊下の壁はその色と深さ及び透明性との關係を暗示して、空間と夏の光との爽快な幻覺を我々に生ぜしめる。之に反して黃は家の正面にふさはしい色である、何故なればそれは蒼白い廣き表面の上に暮れ行く日の美しい効果と記憶に於て連想されるからである。

 然し靑の次には黃が諸原色中の最も快い色として殘るが、それは靑の如くその凡ての光彩ある力に於て藝術的目的の爲めに度々用ゐられぬ。黃の蒼白な調、――特にクリーム色の調は、――藝術的使用の百般の變種を可能にする、然し輝きて燃ゆる黃にさうはならぬ。唯だ靑のみがその最も生き活きした純粹さに於て何時も快い――但しそれは靑の堅さ及び靑の不透明の如き變則を暗示する樣な塊狀の表現に用ゐられぬことを條件とする。

 

註 靑い寶石、靑い目、靑い花は我々を娛ます[やぶちゃん注:「たのします」。]。然しこれ等に於てその色は透明若しくは柔らかく見ゆることを伴なふ。空の靑色の表裝をした書籍が見るに耐へられぬのは堅い不透明と靑との不釣合な爲めであるらしい。私はそれより非道いものを想像し得ぬ。

 

 西洋の影響に基づく不調和が一時出現して居るに係らず、――今も尙ほ色彩學の完全な良趣味の國といふべき日本に於ては、殆ど何れの通例の街路の通景(ヴイスタ)[やぶちゃん注:原文は“street-vista”。両側に並木や丘陵・山などのある細長い長く延びた見通しの利いた街路風景。]も色に對する種族の經驗を談る。その通景の一般調子は上の方は靑みがかつた灰色で、下は暗い靑で、それが白や冷たい黃の多くの小さな物件で鋭く浮き上がらせてある。この透明に於て靑みがかつた灰色は屋根の瓦と幕張りを示し、暗い靑は店の暖簾で、輝く白は漆喰を塗つた表面の狹い切れ[やぶちゃん注:原文は“the bright whites, narrow strips of plastered surface;”。この「strip」には「商業地」の意があるから、「輝く白は表面を漆喰で塗った商家の長く続く壁」の謂いではあるまいか?]、蒼白い黃は主として滑らかな木地と疊表の微かに見ゆるのである。諸〻の色の廣い幅が更に暖簾や看板に書いた白地に黑(時には赤)、靑地に白又は金色の無數の文字の點點で浮き上がらせられまた柔らげられる。强い黃、綠、橙黃、紫は見られない。衣服にもまた灰色と冷たい色が多い、若し小兒または若い娘が着けて居る、すべて輝く色の衣裳または袴を見ることあらば、その色は空の靑か、または黃色で、それに蒼を燃え立たすに足るだけの赤が混じて居て、精妙な光彩の虹の菫色と見ゆるのである。

 

註 此論文は數年前に書いたのであつた。一八九七年の間に私は日本到着以來初めて、季節の流行に暗い綠と薄い黃の散らしてあるのを注目した、然し衣服の一般調子にそんな古趣味にとりての例外の爲めに殆ど影響されない。薄い黃は唯だ小兒の或る帶にのみ見られた。

 

       

 然し私は美術や工藝に關しての靑の美的價値を談り、または光のエーテルの一秒に六千五百億囘振動の產としての靑の視覺的意義を語らうと欲するのでは無い。私は唯だ其色の心理に就いて、――その主我的進化の歷史に就いて何か云はうと思ふ。

[やぶちゃん注:「エーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次訳)」の私の注を参照されたい。]

 慥に同じ靑の現はれで、異る人々の心に感情の異れる程度を生じ、そして不同の經驗の記憶再現から全く異れる空想を活動させることがある。然しかかる主として個人的で且つ皮相的なる心理的變化は別として、此色が一般の人の心に快感の共通性を喚び起こすことは疑が無い、――それは活潑な身震ひ、――感受性と想像の一層高い地帶と誤無く關係しある情的活動の調である。

 

 私自らの場合には生き活きした靑を見るといつも漠然とした喜びの情が伴なつた、――その强さは其色の光の度で多くもなり少くもなつた。そして旅行中の一の經驗、――アメリカの熱帶地への航行、――の時に此旅情は歡喜となつた。それは私がはじめて此世界に於ける靑の最も壯大な光景――メキシコ灣流の光榮――を見た時であつた、その魔術的莊嚴が私の感覺を疑はしめた、――百萬の夏の空がそれを作る爲めに純粹な流動の色に凝結したかと思はるばかりの燃ゆる蒼であつた。その船の船長が私と共に欄干に倚りかかり、我々は共に默して長い間驚くべき海を眺めて居た。それから彼は云ふた、

 『十五年前に私は此旅路に妻を連れて居ました――私達が結婚したすぐ後、さうでした――そして妻はこの水に驚きました。妻は此水と同じ樣な色の絹の衣を買つてくれといひました。私は隨分方々で探しましたが、とても見附かりませんでした。或る時偶然に廣東に行きましたが、日々支那人の絹店を周つて、其色を探しましても中々見附からず、それで、たうとう手に入れました。家に持つて歸りましたとき、妻の喜びは一方で無かつたのです……妻はまだそれを有つて居ます……』

[やぶちゃん注:小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて、フランス領西インド諸島マルティニーク島を旅している。]

 

 今も猶ほ、時々、眠の中に、私は再度あの目眩く波立つ蒼の驚異の上を南に航行する――そのうちに夢は急に世界を橫斷して變じ、私は船長と、灣流の靑の絹を尋ねあぐんで、狹い暗い奇妙な支那街を共に行く。そして靑色が喚び起こす悅びの理由を先づ私に考へさせたのは此の熱帶の日の記憶であつた。

 

       

 思ふに靑の光輝ある視覺に刺激された快き情緖の波は、何れか他の純粹な色の巨きな現はれによつて起こされた感情に比して、一層複雜なものではあるまい、――然しその複雜の質に於てそれが高等である。何故なれば、その容積の中に混じた觀念的元素は、最も尊いものを少からず含有して居る、――宇宙的情緖の作成にも入り來るものを少からず有つ。

 我々の地球の精靈の色、――世界の生の息の色、――と思はれて、――靑はまた日の巨大と夜の深淵とを現はす色である、故にその感覺は高度洪大深遠の諸觀念に訴ふ。

 なほまた時間に於ける空間の觀念にも。何となれば靑は距離と漠然との色なる故に。

 運動の觀念にもまた。何となれば靑は消滅出現の色なる故に。峯と谷、灣と岬は我々が遠ざかるに從つて靑くなる、我々が家路に還れば靑の中から此等のものは現はれ出でで再び定かな姿になる。

 それ故に靑の感覺が我々に起こす感情の容積の中に變化の經驗、――卽ち數へがたき祖先の別離の悲、――と連合する情緖の或る者が有るべきである。然し何か、かかる朧げなるものが殘るとしても、それはかの暖かさとに關係せる、――また雲なき日の光の中なる過去の人類の喜悅に關係せる、――凡て照り亘る情緖的遺傳のうちに全く陷沒して失はれて居る。

 なほ一層有意義なるは、靑は神聖の色ではあるが、それが起こす感情の主調は喜びとやさしさであることである。靑は我々に死者と神々のことを語る、然し決して彼等の畏ろしさを語らぬ。

 

 また我々が、靑は神明の觀念の色、汎神觀の色、倫理の色であつて、――我々の敬畏と正義、義務と渴仰の情操が附屬する思想の組織にまで最も深く浸徹する色であることを思へば、我々は何故にそれが喚び起こす情緖が至上の喜悅であるかを不思議に感ずることもあらう。それは靑空の感覺的人種經驗、――有機的記憶に於て我々各自に傳へられた、光明と溫暖とに對する死者の無限の喜び――は宗敎觀念よりも遙かに古く、それ故に、その色彩感覺に間接に關係せる何れの倫理感情をも溺らすに足る程に、容積がある爲めではあるまいか。一面は疑も無くさうである、――然し私はも一つ別の、甚だ單純な說明を試みよう、――

 

 靑の印象に應ずる遺傳感情の波に於ける一切の道徳的脈搏は唯だ信仰の美はしきやさしき光景にのみ屬す

 

 ここまで試みられたので、私はも少し先きまで進んで見よう。

 我々の多くのものにとつりて、靑の視覺で喚び起こされる快感の此波に於ける最有力なる要素の一は、其語の十分倫理的な意義に於ての靈的であると私は想像する、――卽ち其色と經驗的に連合する個人的情緖の移り去る表面の叢の下に、敎へられぬ諸〻の時代を傳へたる宗敎的情緖が波の如く脈搏して居ると思ふ、――そして美としての靑の遺傳感覺を勵まし生かしつつ、神祕的光榮として、――永久の平和の色として、――の靑の遺傳されたる光輝の歡喜があると思ふ。これまで想像された一切のパラダイスに對する凡ての人間の渴望の或る者、――死後再會の約束に對する凡ての前存したる信賴の或る者、――終わりなき若さと祝福の凡て消えたる夢の或る者――が、いくらか微かにこの蒼の悅びの身震ひのうちに我々の爲めに復活せられやう。熱帶地の潮流の寳玉の輝きの下に、更に大なる海よりの波動が、――その鳴咽と囁語[やぶちゃん注:「ささやき」と訓じておく。]と、その逃ぐる如き漂流と泡沫[やぶちゃん注:「しぶき」或いは「うたかた」。]を以て、――通ずる如く、その如く、輝く靑の視覺によりて喚起された情緖を通じて、無限のうちより、――(一瞬の靑の感覺を作る億萬のエーテルの振動の如く多樣なる)――昔の信仰の一切の渴仰と、消滅した神々の力と、人間の口に唱へられた一切の祈禱の情熱と美とが、如何にかして我我に搖れ還るのであらう。

 

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