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2019/11/26

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「八」 / 京都紀行~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 私はこれまで見たことのない方面を經て、別の道を辿つて歸つた。そこは寺ばかりであつた。非常に大きな美しい宅地の多い場所で、また魔法のために鎭められたやうに靜かであつた。住宅も店もない。ただ兩側に道路から後へ傾斜した淡黃色の塀があるのみであつた。塀は城壁のやうであるが、笠石や靑瓦の小さな屋根で蔽つてある。して、この黃色の傾斜せる塀(長い間隔を置いて一寸法師のやうな小門が穿つてある)の上に、杉と松と竹の柔らかな大きな茂林があつて、その中を貫いて天晴れ立派な彎曲を見せた屋根が聳えてゐる。これらの靜かな寺院の町が、秋の午後の光線で黃金を浴びた見返しの光景は、多年吐露しようと試みても駄目であつた思想のいかにも完全なる表現を、たまたま或る詩中に見出したやうな愉快の竦動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。「三」に出た「悚動」に同じ。ここは「慎み畏まること」の意か。というより、原文は“a thrill of pleasure”で、所謂、「衝動」「スリル」「ぞうぞくする感じ」の方が正しいだろう。]を私に與へた。

 しかもその魅力は何を以てできてゐたか。立派な塀はただ泥土を塗つたもの、山門や寺院は木材を組み合はせて瓦を載せたもの、叢林、石細工、蓮池は單なる造園に過ぎない。何等の堅牢なもの、何等の永續的なものはない。しかし線と色と影の、いかにも美麗なる聯結であつて、どんな言葉を用ひても、それを描寫する事はできない程である。否、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]その土塀は檸檬色の大理石に、その瓦は紫水晶に、寺院の材料は大光明王の經文に說いてある宮殿のそれの如き貴重なものに變はつたにしても、それでも此光明の美的暗示、夢のやうな安靜、渾然圓熟せる愛らしさと柔らかさを秋毫も[やぶちゃん注:「しうがう(しゅうごう)も」。熟語原義は「秋に抜け替わった獣の極めて細い毛」の意から「極めて小さいこと・微細なこと・わずかなこと」で、「聊(いささ)かも」の意。]も增す事はないだらう。恐らくはこの藝述がかくまでに驚嘆すべき所以は、まさしくその作り上げたものの材料が、かくまでに脆弱だからである。最も驚くべき建築、卽ちかの最も人を恍惚たらしむる風景は、最も輕い材料で作られてゐる――雲の材料で。

 しかし美をただ高價とか、堅固とか、『しつかりし實在』と聯結させてのみ考へる人人は、決してそれをこの國に求めてはいけない――この國を稱して日出の國といふのは、まことに當を得てゐる。何故なら、日出は幻迷の時だからである。山間や海邊にある日本の村落を――春曙秋晨[やぶちゃん注:「しゆんしよしうしん」。原文“a spring or autumn morning”。そっちの方が今の日本人には遙かに判る。]、恰も徐々ともちあかつて行く霧や霞を通して――日出後に眺めた光景ほど美はしいものはない――しかし實際的な觀察者に取つては、魅惑は霧や霞と共に消えてしまう。生硬な白光の下に、彼は紫水晶の宮殿も、黃金の帆も見出すことができぬ。ただ脆い木造草葺の小舍と、素木[やぶちゃん注:せめても「しらき」と訓じておく。]のま〻の奇異なる日本型船を見るのみだ。

 恐らくはいづれの國に於ても人生を美化する一切のものは、この通りであらう。人間界や自然界を面白く眺めるためには、私共は主我的或は客觀的の幻影を通してそれを見ねばならない。どんな風にそれが私共に映ずるかは、私共の内部に存する精神的狀態如何による。それにも關はらず眞なるものも眞ならざるものも、ひとしく其本體に於ては幻影的である。俗惡なもの、珍貴なもの、一見はかなく思はれるもの、永久的に見ゆるもの、すべて一樣に幽靈のやうなものに過ぎない。生まれてから死ぬるまで、いつも心の美麗なる靄を通して眺めてゐる人こそ最も幸福なのである――就中、愛の靄を通して眺めるにまさつたものはない。それはこの東洋の輝ける日光の如く、平凡なものを黃金に化するのである。

 

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