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2019/11/15

小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信訳) / 「六」 / 「蟲の樂師」~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信訳) / 「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 特殊の蟲の吟誦に關する詩歌のほかに、一般に夜の蟲の聲に就いて――主として秋の季節に關係して――詠まれた古代近代の日本の詩歌は無數にある。非常に澤山な中から、幾百首の感情或は空想の典型的な、より有名なもの三四だけを自分は選擇して飜譯した。自分の反鐸は言語の方から言ふと、逐字譯を去ること遠いのがあるが、原歌の思想と感情とは可なり忠實に表明して居ると信じて居る。

 

 我かために來る秋にしもあらなくに

    蟲のねきけはまつそかなしき (「古今集」)

[やぶちゃん注:「古今和歌集」の「巻第四 秋歌上」の秋の悲愁を詠った七首「詠み人知らず」の冒頭四首(但し、その前書は「題しらず」)の三首目(一八六番)、

 我がために來る秋にしもあらなくに

    蟲の音きけばまづぞかなしき

である。]

 

 夕つくよほのかにむしのなく聲を

    秋の哀の初めとそきく    (土滿、「草野集」)

[やぶちゃん注:「草野集」(さうやしふ(そうやしゅう))は江戸後期の木村定良編の類題和歌集「類題草野集」。作者「土滿」は不詳。整序すると、

 夕づく夜ほのかに蟲の鳴く聲を

    秋の哀れの初めとぞ聽く

か。]

 

 秋の夜はねられさりけりあはれとも

    うしとも蟲の聲をききつつ  (筑波子、「草野集」)

[やぶちゃん注:「筑波子」不詳。整序すると、

 秋の夜は寢られざりけり哀れとも

    憂しとも蟲の聲を聽きつつ

か。]

 

 露しけき野やいかならん終夜

    枕に寒き蟲の聲かな     (「新英集」)

[やぶちゃん注:「新英集」は明治一九(一八八六)年から翌年にかけて刊行された井上喜文編になる類題和歌集「類題新英集」。整序すると、

 露繁き野や如何ならん終夜(よもすがら)

    枕に寒き蟲の聲かな

か。]

 

 秋の野は分け入る方もなかりけり

    蟲の聲ふむ心地せられて   (「新竹集」)

[やぶちゃん注:「新竹集」幕末から明治初期に編せられた猿渡容盛編になる類題和歌集「類題新竹集」。整序すると、

 秋の野は分け入る方もなかりけり

    蟲の聲踏む心地せられて

か。]

 

 鳴く蟲の一つこゑにもきこえぬは

    こゝろこゝろに物や悲しき  (和泉式部)

[やぶちゃん注:「日文研」の「和歌データベース」の「和泉式部集 第一」で校合確認、問題なし。]

 

 故鄕にかへりて蟲の聲きけは

    昔をかたる心地こそすれ   (「秋草集」)

[やぶちゃん注:「秋草集」明治一四(一八八一)年刊の弾琴緒の編になる類題和歌集「類題秋草集」。整序すると、

 故鄕(ふるさと)に歸りて蟲の聲きけば

    昔をかたる心地こそすれ

か。]

 

 秋の野の草の袂に置く露は

    音になく蟲の淚なるらん   (土滿、「秋草集」)

[やぶちゃん注:整序すると、

 秋の野の草の袂(たもと)に置く露は

    音(ね)になく蟲の淚なるらん

か。]

 

 上に揭げた歌のうちに、作者がさうと想像した蟲の心の苦みに對する、眞の同情或は佯つた[やぶちゃん注:「いつはつた」。偽った。]同情を表明するつもりのものが數々ある、と思ふ諸君があるかも知れぬ。然しそれは解拜を誤つたものである。此種の多數の作にあつて、その藝術的な目的は、間接な手段に依つて、戀の情緖の種々な相を殊に、それ自らの熱烈な調子をば自然の狀貌と聲とへ與へる彼(か)の憂愁を――暗示せんとするにあるのである。露は蟲の淚かも知れぬといふ奇怪な空想は、其誇張な言ひ方の爲めに、人間の淚が新たに灑がれたのであるといふ事を暗示すると同時に、悲みが非常なものである事を示さうとする考である。非道い村雨が降る間鈴蟲に同情せざるを得なくなつて、戀しさ餘りに募つて來たと一婦人が陳述して居る歌は、大雨の時分に旅をして居る或る戀しい人に對してのやさしい心配を實は語つて居るのである[やぶちゃん注:「露しけき野やいかならん……」の一首を解したものだが、「村雨」「大雨」というのは読者向けに翻案した鑑賞文で原歌のイメージとはちょっと違う。]。また、『蟲の聲踏む』といふ句では、さういふ優雅な躊躇は、戀が起こす、あの女のやさしみの强まりを思はせやうが爲めに述べて居る躊躇である。そして此間接的な二重暗示のなほ遙かに著しい例は、此一文[やぶちゃん注:本篇「蟲の樂師」の冒頭。]の冒頭の小さな詩によつて與へられて居る。卽ち、

 

 蟲よ蟲ないて因果が盡きるなら

 

 西洋の讀者は、此詩の蟲の境遇を或は蟲の生(せい)を述べて居るのだと或は想像するであらう。が、恐らくは婦人であらうと察せられる此作者の其の思想は、自分自らの悲みは前生に犯した罪の報である、だからして輕くすることは不可能なのだ、といふに在るのである。

 これまで揭げた歌の大多數は秋に關した物で、また秋の感じに關した物である、ことを讀者は觀察されたであらう。日本の詩人の或る者は秋が鼓吹する其の憂愁に――祖先の苦痛のあの漠とした不思議な年々の復活に、幾百萬年の間夏が死ぬるのに伴なふ幾百萬たびの記憶の祖先傳來の朧氣な悲哀に――無感じで[やぶちゃん注:やや変だがママ。]はなかつた。然し此憂愁を述べた言葉の殆ど總てに於て、實際に指示して居る物は別離の哀愁である。秋には色の變化があり、木の葉の旋轉があり、蟲の聲の靈的な哀哭があつて、秋は佛敎的に無常を――別離の必然を――あらゆる欲望に絡まる苦痛を、――そして孤獨の淋しさを、――表徵して居るのである。

 

 然しながら、よしや虫を詠んだこんな詩歌が本來は戀の情をほのめかす積りであつたにしても、それはまた自然が――在りの儘の純な自然が――人間の想像力と記憶力とに及ぼす最も微妙な力を我々に反影しはしないか。日本の文學に於てもまた日本の家庭生活に於ても、蟲がかなでる音樂に對して與へられて居る地位は、我々西洋人はまだ殆ど發(あば)かずに居る方面に、或る美的感受性が發達して居るといふ證左となりはしないか。夜の祭禮に出て居る蟲賣の鋭い聲を立てる小屋掛は、西洋では最も稀有な詩人だけが先見して居る事柄を――秋の美の愉快な心苦しさ、夜の聲音の不可思議なうるはしさ、森林田野の反響によつての魔術的な囘想速進を――人民一般が普遍的に了解して居ることをすら公言して居るのではないか。確に我々西洋人は、蟋蟀一匹の單純な歌をきいて其心へ群れなす優美纎細な空想を起こすことの出來る國民からして、或る物を學ばなければならぬのである。機械的なことには彼等の師匠であることを――あらゆる醜惡の變化を盡くした人工的なことには彼等の敎師であることを――我々は誇つても好い。然し自然的なことに關する知識に於ては――大地の歡喜と美とを感ずる點に於ては、――大智の歡喜と美を感ずる點に於ては――彼等は、古昔の希臘人同樣に、我々よりも優つて居るのである。だが、到る處美に代ふるに實利なもの、因襲的なもの、野卑なもの、醜陋極まり無きものを以てして、我々西洋の盲目的進擊的な殖產主義が彼等の樂園を荒廢せしめ、不毛ならしめてしまつてから始めて、我々が破壞したその、ものの妙味を悔み驚いて我々は了解しそめることであらう。

 

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