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« 小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「六」 | トップページ | 小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「八」 / 京都紀行~了 »

2019/11/26

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「七」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 京都を立つ前に、私は畠山男子譯者註の墓を訪ねようと思つた。彼女の葬られてゐる場所を數人に尋ねても、わからなかつたので、丁度檀家を訪問のため私の宿へ來た僧侶に聞いてみようと思ひついた。彼はすぐに答ヘた。『末慶寺の墓地です』末慶寺といふのは、案内書にはしるしてなく、またどこか市の外づれに建てられた寺であつた。私は直に車を雇つて、約半時間の後、その門へ達した。

 

譯者註 畠山勇子は千葉縣安房國長狹郡鴨川町の女。明治二十四年[やぶちゃん注:一八九一年。]五月近江國大津に於て、露國皇太子が巡査津田三藏のため負傷するや、上下ために震駭す。この報千葉縣下に傳はるや、當時某家に雇はれ居たる勇子は、大に憂ひ、主家に請ひて直ちに京都に赴き、五月二十日夕景、京都府廰の門前に到り、露國大臣と日本政府に宛てたる二通の書面を車夫をして門番所に差出さしめ、やがて懷中より鋭利なる剃刀を取出し、自殺を遂ぐ。遺骸は京都大宮松原なる末慶寺に埋葬せらる。(「大日本人名辭書」)

[やぶちゃん注:憂国の烈女として知られる畠山勇子(慶応元一月二日(一八六五年一月二八日)~明治二四(一八九一)年五月二十日)は、「大津事件」でロシアとの国交が悪化するのを憂慮し、自らの死をもって国の危急を訴えた人物。安房国長狭(ながさ)郡(千葉県)生まれ。父治兵衛の没後、家運が傾き、十七歳で若松吉蔵に嫁いだが、二十三歳で離婚。勤王の侠商として知られた伯父榎本六兵衛を頼って上京した。万里小路家、横浜の実業家原六郎家、日本橋区室町の魚商の奉公人となったが、国政に関心を寄せ、国史や政治小説を愛読、周囲からは変人と目された。明治二四(一八九一)年五月に「大津事件」が勃発すると、悲憤慷慨し、「急用で故郷に帰らねばならない」といって暇をとり、伯父を訪ね、翌朝、新橋発二番列車に乗った。同月二十日、京都に着くと、本願寺などを詣で、同日午後七時過ぎ、京都府庁の門前で国を憂慮する気持ちを認(したた)めた遺書を残して、腹(以下のウィキでは『胸』とある)と喉を切って自殺した。満二十六歳であった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。より詳しい事蹟や写真はウィキの「畠山勇子」を見られたい)。「大津事件」は同年五月十一日、来日したロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(当時二十二歳)が、大津において、警備の巡査津田三蔵に斬られて負傷した事件。その裁判を巡って、政府側と大審院長児島惟謙(いけん)との見解が対立、紛糾した。別名「湖南事件」とも呼ぶ。皇太子一行が人力車で京町筋を通行中、路上の警備にあたっていた津田巡査が,突然、抜剣して皇太子の頭部に切りつけた。その動機は、皇太子の来遊が日本侵略の準備であるという噂を信じたためであった。旧刑法では謀殺未遂は死刑にならなかったが、政府側はロシアの報復を恐れ、不敬罪を適用して死刑にすることを企図し、裁判に強力に干渉した。しかし、大審院の臨時法廷は、大津地方裁判所で同月二十七日に開かれ、犯人は謀殺未遂に立件され、無期徒刑を宣告された(津田は七月二日に北海道標茶町(しべちゃちょう)にあった釧路集治監に移送・収監されたものの、身体衰弱につき、普通の労役ではなく藁工に従事したが、同年九月二十九日に急性肺炎を発症、翌三十日未明に獄死した)。この裁決は司法権の独立を守ったものとして広く知られている(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。なおこのロシア皇太子は後にロマノフ王朝最後の皇帝ニコライⅡ世となったが、ソビエト連邦の成立後、退位して幽閉され、一九一八年七月十七日に妻や子どもとともに処刑された)。小泉八雲(Lafcadio Hearn)は先行する来日後の第二作品集「東の国から」(Out of the EastReveries And Studies In New Japan:副題は「新しい日本に就いての夢想と研究」。明治二八(一八九五)年三月刊。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この時は未だ「Lafcadio Hearn」である)の「XI YUKO: A REMINISCENCE」(「勇子――一つの追想」)を既に書いて居る。同作品集は、近い将来、電子化注に取り掛かる予定である。また、それにもさらに先行する彼の来日後最初の大作である“Glimpses of Unfamiliar Japan”(一八九四年刊)にも、既に『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (二)』(リンク先は私の古い全電子化の一篇)で畠山勇子のことを記しているのである。

「末慶寺」(まつけいじ)は下京区中堂寺西寺町(ちゅうどうじにしでらちょう)にある浄土宗の寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 私が來意を告げた僧は、墓地――頗る大きい――に私を案内し、墓を示してくれた。からりと晴れた秋の日は、一切のものに光を浴びせ、墓面に幽靈のやうな黃金色を加味してゐた。そこに立派な大きな文字を深く彫つて、『烈女』といふ佛敎の尊稱接頭語を加へて、少女の名がしるしてあつた――

 

    烈女畠山勇子墓

 

 墓は手入れがよく行う屆いて、草は最近きちんと刈つてあつた。碑前に建てられた小さな木造の庇が、供へられた花、樒[やぶちゃん注:「しきみ」。]の枝、及び一個の淸水を入れた茶椀を蔽うてゐた。私は勇壯で犧牲的な靈魂に向つて心から敬意を表し、慣例の文句を唱へた[やぶちゃん注:本寺は浄土宗であるから「南無阿弥陀仏」であろう。]。他の參詣者の中には、神道の式によつて拜禮をするのも見受けられた。その邊には澤山の墓石が輻輳[やぶちゃん注:「ふくそう」。車の「輻(や)が轂(こしき)に集まる」意で、対象物が一ヶ所に集まること。込み合うこと。]してゐたので、碑背を見るために、私は塚域を踏む無禮を冒さねばならないことを知つた。しかし私は彼女が宥恕[やぶちゃん注:「いうじよ(ゆうじょ)」。寛大な心で許すこと。見逃してやること。]してくれるだらうと確信したから、恭しく踏み乍ら、背後へ𢌞つて行つて、碑文を寫した。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が四字下げでしかも碑本文は字間が半角空けてあるが、行頭へ引き上げ、字間は再現していない。]

 

勇子安房長狹郡鴨川町人天性好義明治二十四年五月二十日

有憂國事來訴京都府廰自斷喉死年二十七

            谷   鐡 臣 誌

            府 下 有 志 建 石

 

戒名は『義勇院頓室妙敬大姉』と讀れた。

[やぶちゃん注:訓読を要しないと思うが、一応、示しておく。

勇子、安房長狹郡鴨川町の人。天性、義を好む。明治二十四年五月二十日、憂國の事、有り、京都府廰に來り訴へ、自(みづか)ら喉(のど)を斷ちて死す。年、二十七。

碑文を書いた谷鉄臣(たに てつおみ 文政五(一八二二)年~明治三八(一九〇五)年)は元武士で官吏。近江彦根の町医者の長男として生まれ、江戸・長崎で経学、蘭方医学を学び、家業を継いだ。文久三(一八六三)年、彦根藩士にとりたてられ、藩の外交を担当。維新後は新政府の左院一等議官を務めた。

 なお、ここに示された戒名は墓の裏の墓誌に書かれているように見えるが、ネット上で複数の写真を確認しても、碑の表裏にはこの戒名は見当たらない。不審。或いは、位牌が寺内にあり、それを記したものか。識者の御教授を乞うものである。後で小泉八雲が彼女の葬儀が『神官によつて營まれた』以下の事実と関係があるものかも知れない。また、畠山勇子辞世の歌とされるものを見つけたので、以下に電子化しておく。

 

 今日來る

   ちなみも深き

      知恩寺の

  景色のよさに

     憂ひも忘るる

 

サイト「京都観光文化を考える会・都草」のこちらの画像にあるものをもとに、一部に手を加えて示した。]

 

 寺で僧は私に悲劇の遺物と紀念品を見せてくれた。小さな日本の剃刀は血が皮となつて、嘗て白く柔らかな紙を厚く其柄にまきつけたのが、固まつて一個の堅い赤色の塊となつてゐるもの――安價な財布――血で硬くなつた帶と衣類(着物の外は、すべて寺へ寄進するに先だち、警察の命令により洗濯された)――手紙及び控へ帳――勇子及びその墓の寫眞(私はこれを買ひ求めた)――墓地に於て葬式が神官によつて營まれた折の集會の寫眞などであつた。此神葬祭の事實は私に興味を與へた。何故なら、自殺は佛敎によつては宥されても、神佛兩信仰が同一の見地から考へる事は出來なかつたであらうから。衣類は粗末で安價のものであつた。彼女は旅費と埋葬の費用に當てるため、最上の所持品を質に入れたのであつた。私は彼女の傳記、死の物語、最後の手紙數通、種々の人が彼女のことを詠んだ歌――頗る高位の人の作歌もあつた――及び拙い肖像畫を載せた小册子を買つた。勇子とその親戚達の寫眞には、何も目立つたことはなかつた。かかる型の人々は、日常日本のいづこに於ても見ることができる。その册子の興味は、ただ著者とその主題の人物に關する心理的方面のみであつた。勇子の手紙は、日本人のかの奇異なる興奮歌態を示してゐた。恐ろしい目的は一刻の油斷なく緊張しながらも、しかも心は最も些々たる事實問題にも、あらゆる注意を與へ得るやうになつてゐる。控へ帳もまた同樣の證據を示した――

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が四字下げであるが、行頭へ引き上げた。字空けも再現していない。]

 

   明治二十四年五月十八日

金五錢    日本橋より上野へ車代

 

   同    十九日

金五錢    淺草馬町へ車代

金一錢五厘  下谷の髮結さんへ磨ぎ代として

金十圓    馬場の質屋佐野よち受け取る

金二十錢   新町へ汽車代

金一圓二錢  橫濱より靜岡へ汽車代

 

   同    二十日

金二圓九錢  靜岡より橫濱へ汽車代

金六錢    手紙二通の切手代

金十四錢   淸水にて

金十二錢五厘 傘のため車屋へ

[やぶちゃん注:ここで彼女が自死に際して静岡の清水へ向かったのか、私には不明である(親族がそこにいたのであろうか)。識者の御教授を乞うものだが、……私はそこで――静岡――義憤――自死――で……ふと、思い出すことがあるのだ……私のミクシィの古い友人で、私にその未明に遺書をメールし、静岡空港建設に抗議して静岡県庁前で焼身自殺(二〇〇七年六日午前三時五十分頃)した静岡の――井上英作氏――のことである。こちらの私の記事(遺書も電子化してある)を見られたい…………

 

 しかしここに現はれた整然たる規律的才能に對して、珍らしい對照を呈するのは、暇乞ひの手紙の詩趣であつた。それは次のやうな感想を含んでゐた――

 

 『八十八夜も夢の如く過ぎて、氷は淸けき滴りと變はり、雪は雨となりぬ。やがて櫻の花咲きいでて人の心をよろこばす。されど未だ風さへ觸れぬほどに、早くも散り始めるこそ哀れなれ。しばらくして、風は落花を吹き上げて、晴れ渡りたる春の空に舞はしむ。しかも妾[やぶちゃん注:「わらは」。]を愛し玉ふ方々の心は晴れやらで、春の愉快をも感じ玉はざるならん。續いて梅雨の季節となれば、皆樣の御心の中には一つの樂みもなからん………[やぶちゃん注:九点リーダはママ。以下同じ。]あはれ如何にかせまし。一刻として皆樣を思ひ奉らぬ時はなし………されどすべて氷も雪も遂には、とけて水となり、菊の香ばしき蕾は霜の中に咲く。何卒後日このことを御考へ下されたし………今は妾に取つて霜の時、菊の蕾の時と申すべきならむ。いよいよ花を開きさへせば、いとも皆樣をよろこばし奉ることならん。浮世にながらへ得ざるは、すべての人の運命、詮方なし。吳々も[やぶちゃん注:「くれぐれも」。]妾を不孝者と思召し玉はざるやう願ひ奉る。また妾を陰府へ失ひ玉ひしものと御考へ下さることなく、ただ將來の幸福を待ち玉はんことを』

 

 この小册子の編者は、この典型的婦人に豐かなる讃辭を浴びせ乍らも、しかもあまりに東洋流の婦人批評法に墮してゐた。官廰へ宛てた勇子の手紙に於て、彼女は家族的要求を述べてゐる。して、れを編者は婦人の弱點として批評を加へ、彼女は實際肉體的利己心の絕滅を成就したもの〻、彼女の家族について述べるのは『甚だ愚か心であつたと書いてゐる。もつと他の點に於ても、その册子はつまらぬものであつた。その平凡なる事實の曝露といふ、生硬强烈なる光の下に照らしてみると、一八九四年に書いた私の『勇子』と題する小品文譯者註は[やぶちゃん注:既注の第二作品集「東の国から」(Out of the EastReveries And Studies In New Japan)の「勇子――一つの追想」(XI YUKO: A REMINISCENCE)のこと。刊行は明治二八(一八九五)年三月刊であるが、「書いた」のは前年であるからおかしくない。]、あまりにも空想的に思はれた。しかし、それにも關はらず其事實の眞の詩味――單に國民の忠愛の情を表明せんがために、若い婦人をして自ら生命を捨つるに至らしめた純なる理想――は、依然として減ずることはない。取るに足らざる些細な乾燥なる事實を取り上げて、その大事實にけちをつけることは決して出來ない。

 

譯者註 本全集第四卷「東の國から」の最後の一篇である。

[やぶちゃん注:「第四卷」は「第五卷」の誤り。私の電子化が待ちきれない方は、 Internet Archive”のこちらから画像でどうぞ(戸澤正保氏の訳になる「勇子――追憶談」)。]

 

 この犧牲の行爲は、私を感動せしめたよりも、更に多く國民の感情を激勵した。勇子の寫眞と彼女に關する小册子は幾千となく賣れた。幾多の人が彼女の墓に詣つて[やぶちゃん注:「まゐつて」。]、供物を獻げ、また末慶寺にある遺物を眺めて敬慕の情に打たれた。して、凡てこれは誠に尤もなことと私は思つた。もし平凡な事實が、西洋で人々が好んで『上品な感情』と稱するものに取つて、不快の感を催さしめるとすれば、その上品は不自然で、その感情は淺薄であることの證據である。其の美は内的生命に存することを認めてゐる日本人に取つては、平凡些細な俗柄は、貴重なものである。それらは勇壯義烈の感を更に强め、且つ眞實ならしめる功能がある。あの血に汚れた、貧弱な物品類――粗末で地味な着物と帶、安價な小財布、質屋へ行つたことの覺え書き、手紙や寫眞や緻密な警察記錄に現はれたる赤裸々の尋常一樣な人間味の面影――すべてこれらは、恰もそれだけ眼に訴へる證據となつて、この事實を作つた感情に對する理解を充分完全ならしめる助けとなる。もし男子が日本一の美人であつて、彼女の家族は最も高い地位の人々であつたならば、彼女の犧牲の意義が身に浸みて感ぜられることは、遙かに少かつたであらう。實際の場合に於て、高尙なことを行ふものは、槪して普通の人であつて、非凡の人ではない。して、一般人民はこの尋常な事實のお蔭で、自分達の仲間の一人に於ける勇壯な特質を最もよく見ることを得て、自分達の光榮を感じてくる。西洋の多數の人は、普通人民から彼等の倫理學を今一度改めて習はねばならないだらう。西洋の敎養ある階級は、あまりに長く似て非なる理想主義、單なる因襲的肩書の雰同氣のうちに生活してきたので、純眞正直な溫かい感情は、彼等の眼には卑劣俗惡に映ずるのである。して、その當然避け難き罰として、彼等は見ること、聞くこと、感ずること、考へることができなくなつてくる。哀れなる勇子が、彼女の鏡の裏に書いた小さな歌詞の中には、西洋の月並的理想主義の大部分に於けるよりも、一層多くの眞理が含まれてゐる――

[やぶちゃん注:以下の短歌は底本では四字下げ。]

 

くもりなくこころの鏡みがきてぞよしあしともにあきらかにみむ

 

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