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2019/11/21

小泉八雲 夕暗の認識 (岡田哲蔵訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“Vespertina Cognitio”。「ヴェスペルティーナ・コグニティオー」。ラテン語で「黄昏(たそがれ)の認識」(語は順列)の意)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第二パート“RETROSPECTIVES”の第九話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 標題は「ゆふやみのにんしき」であろう。傍点「ヽ」は太字に、傍点「○」は太字下線に、傍線「◎」は太字下線斜体に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   夕 暗 の 認 識

 

       

 超自然の恐怖、――猶ほさら特に夢に見る超自然の恐怖、――これに近いとさへ思はれる程の他の恐怖の形式が世にあるかを私は疑ふ。小兒は夜にても晝にても共に此恐怖を知る、然し成人は眠の中または病が生じた最も常ならぬ心の狀態に於ての外、これに惱まされる樣に見えぬ。健康で覺醒して居る時間には、理性が、恐怖の原始的の形が棲んで居る遺傳された情緖のそれ等の深みにある境域よりもずつと上の方に、觀念の働きを保持する。然し成人には夢に於てのみ知らる〻とはいへ、この恐怖に比すべき覺醒時の恐れはない。――これ程深く、これ程漠然として、これ程いふに云はれぬ恐れは無い。この恐怖の不明確なことがそれを言語に現はし難くする、然し苦惱は頗る强烈で、若し數秒時以上に引き延べられると死に至る程である。そしてその理由はかかる恐怖は個人の生命のものでは無いといふことに存す、それは如何なる個人の經驗が說明し得るよりも無限に巨大である、――それは出生前の祖先以來の恐怖である。當然それは漠然として居る、何故なればそれは遺傳された恐怖の無慮幾百萬の朧げなものから成る爲めである。然し同上の理由でその深さは底知れぬ淵の如くである。

 文明の下に人心の訓練は一般に恐怖の征服の方に向けられ、そして――宗敎に屬する感情の倫理的性質を除いては――特に超自然の恐怖を除くこととなつた。この恐怖は我々の多くに潜勢的[やぶちゃん注:「せんせいてき」。表面に現われないが、実際には力を持っているさま。「潜在的」に同じい。]に存在して居るが、然しその根源はよく護られて居て、眠の時の外はそれは何れの强固な心の人をも亂すことは殆ど出來ぬ、但し理性が驚異に抵抗することの出來る前に想像力が捉へられてしまふ程に、それ位凡ての關係的經驗に緣故の無い事實が現存するときは別である。

 小兒の時期以後、唯だ一度、私は强い形式をとつた此情緖を知つた。それは夢の恐れを覺醒中の意識に生き活きと投げ出したことを示すものとして顯著なものであつた、そしてその經驗は特に熱帶的であつた。熱帶の國では、空氣の狀況に基づいて、夢の壓迫が我々の國に於てよりはもつと重大な苦惱である、そして恐らく晝寢(シエスタ)[やぶちゃん注:“siesta”。スペイン語で長い「昼休み」を指し、午後一時から四時くらいまでを目安とする。必ずしも本格的な「昼寝」の意味ではないが、実際に現行では「昼寝」の意味で世界的に使われている。]の時に最も通常である。凡て爲し得る人は夜を田舍で過ごすが、植民の多くは、明白な理由で、都市で晝寢をしてその結果に甘んぜねばならぬ。

 西印度の晝寢は、我々が北の國の夏にする夢の無い日中の眠の樣に心を爽快にしない。それは眠よりは寧ろ感覺の麻痺である、――それは腦の基脚に重量をおかれた樣な憐れな感情からはじまる、そして精神と身體の全存在が光と熱との壓迫に力なく屈伏するのである。それが屢〻醜い幻に取り憑かれる、そして激烈な心臟の鼓動で覺まされる。折々は他の時には毫も氣が附かぬ響で擾される[やぶちゃん注:「みだされる」。]。都市が全く太陽に曝されて橫たはる時、眞晝中に一の影だに無く、道行く人も絕えて、沈默は驚くばかりになる。その沈默の中に椰子の葉が紙の樣に擦れ、または海岸に氣が拔けた樣な小波の音が突然に響く、――渴いた舌の音する如く――、それが非常に大きくなつて耳に來る。そしてこの奇怪にも沈靜した眞晝は黑人にとりては幽靈の時である。生きて居る物は何れも光に醉うて無感覺である、――森さへも攀援葉の植物に纏はれて、日に醉うて、居眠りして下に垂れる……

[やぶちゃん注:小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて、フランス領西インド諸島マルティニーク島を旅している。

「攀援葉」(はんゑんば)。「攀援」は「つかまって攀(よ)じ登ること」の意。原文は“their wrapping of lianas”。「liana」(リアナ)は広汎な意味での「蔓性植物」を指す。その蔓に纏われくるみ込まれた樹木の謂い。]

 私は幾度も晝寢から、音では無く、或る思ひの突然の衝突としか云はれぬ或るものに驚き起こされるのを とした[やぶちゃん注:脱字。原文から察するに、「常」「恆」「恒」(つね)か。]。これは肺に及ぼす熱の或る不制規な影響で起こされた一の特別の内部の擾亂から起こるのであると私は思つた。除々として遲い噎せ返る樣な感覺が半意識と實眠との間のほの暗い域に割り込んで、そして其處で奇怪極まる想像を煽る、――それは生き埋めにされる空想と恐怖である。これに伴なつて嘲弄したり叱責したりする聲、または寧ろ聲の觀念がある、――『眞に光は快い日を見るは目に樂い』……外面は晝、――熱帶の晝、――原始の晝。それで人は眠る。「人は多くの年生きてその年々を樂めどされど――」……眠りつづけよ――凡てこの光榮は、人の目が塵になる時も同じであらう……「されど彼に暗の日を覺えさせよ――その日は多くあるべければ

 

譯者註 ここに圈點[やぶちゃん注:三種総て。というより、符号(鍵括弧及び二重鍵括弧とも)により示された箇所総てである。]を附したるところは「舊約聖書傳道の書」第一章七八節、「夫れ光明は快き者なり。目に日か見るは樂し、人多くの年生ながらへてその内凡て幸福なるもなほ幽暗の火を憶ふべきなり。其はその數も多かるべければなり」〔邦譯〕を引いたのである。

[やぶちゃん注:本文の鍵括弧と丸括弧の使い分けはママ。原文後半部を示しておく。

   *

These would be accompanied by a voice, or rather the idea of a voice, mocking and reproaching: —“‘Truly the light is sweet, and a pleasant thing it is for the eyes to behold the sun.’. . . Outside it is day,— tropical day,— primeval day! And you sleep!! . . . ‘Though a man live many years and rejoice in them all, yet —’ . . . Sleep on! — all this splendor will be the same when your eyes are dust! . . . ‘Yet let him remember the days of darkness;FOR THEY SHALL BE MANY!’”

   *

岡田氏の訳のそれは、「明治元譯聖書(めいじもとやくせいしょ)」(旧約聖書部分は明治二〇(一八八七)年完成。「傳道の書」全篇はこちらがよい。総ルビ版もある)のそれをもとにしている。以下に両節総てを示す。私の判断で句読点を補った。

   *

第十一章七節 夫(それ)、光明(ひかり)は快き者なり。目に日(ひ)を見るは樂し。

第十一章八節 人、多くの年、生(いき)ながらへて、その中(うち)、凡て幸福(さひはひ)なるも、なほ、幽暗(くらき)[やぶちゃん注:「いうあん(ゆうあん)」は「奥深く暗いこと」。]の日(ひ)を憶ふべきなり。其(そ)は、その數(かず)も多かるべければなり。凡て來(きた)らんところの事は、皆、空(くう)なり。

   *

「聲、または寧ろ聲の觀念がある」これは、「声そのものが聴こえるというよりも、脳内である種の声が観念となっているように響いてくる」という感じを言おうとしているように思われる。]

 

 私の耳にその幻の末高(クレセンド)[やぶちゃん注:“crescendo”。]の音を聞いて、幾度か私は恐れて暑い床から飛び下りて割り板の鎧戶を通して、沈獸させ催眠させる樣な外面の恐ろしい光を覗いて見た、――それから頭に冷水を注ぎかけて、燒ける樣な褥[やぶちゃん注:「しとね」。]に戾つてまたうつらうつらとすると、またも同じ聲で、或は自分の汗の滴り下るので――百足(むかで)に這はれるのと區別のつかぬ樣な感じで醒まされる。そして如何に私は南天の十字星の出づる夜を冀しことぞ[やぶちゃん注:「こひねがひしことぞ」。]。それは夜はいつも町が涼しくなる爲めではなくて、夜はあの無慈悲な日光の重さからの救をもち來る爲めであつた、何故ならばかかる光の感じは何か重量のある物の洪水の樣な感じであつた、――それは同時に凡てのものを溺らせ、眩惑し、燒き、麻痺する物、そして液體化した電氣の觀念を暗示する或るものの感じであつた。

 

 然し熱帶の暑さが日沒の後、重苦しくなるばかりだと思はる〻時もある。山の上では年中槪ね夜は愉快である。質易風に面する海岸では夜が一層樂しい、そしてそこでは我々は暖かい强い風、――それは疾風とか突風とかいふものでなくて、絕え間なく續けて吹く風、――世界囘轉の大きな煽る風の流れ、――に撫でられて、海に面した室で眠れる。然し反對側の町は――殆ど凡てが貿易風を遮斷する森で掩はれた山脈の麓にあるので――濕つた空氣が夜は折々名狀しがたきものとなる、――それは暖め過ぎた溫室の空氣よりも惡るい。かかる仲介物の中で眠る時は最も猛烈な夢魔に魘はれ[やぶちゃん注:「おそはれ」。]勝ちである。

 私の個人の經驗としては次の如くであつた、――

 

       

 私は一人の混血兒の案内で島週り[やぶちゃん注:「しまめぐり」と訓じておく。]をして居た、そして我々は風下の海岸の二の小さな植民地で一夜を過ごさねばならなかつた、其處に我々は一人の老寡婦が所有する宿屋に類する設備を見出した。其家には人は七人のみであつた、――卽ち老婦とその二人の娘、二人の有色の婢、私と私の案内者であつた。我々は窓一つある室を與へられた、それは稍〻小さいが――其他の點では模範的のクリーオール族の寢室で、敷物なき淸い床があり、古風の重い或る家具、それに二三の搖椅子があつた。一方の隅には家内の祠[やぶちゃん注:「ほこら」と訓じておく。「やしろ」でもよいが、私はそのように訓ずる習慣がない。ルビがない以上は私は「ほこら」としか読まない。但し、原文は“household shrine”であるから、寧ろ、「神棚」の方がしっくりくる。事実、平井呈一氏は恒文社版「薄明の認識」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で『神棚とおぼしい棚がつってあった』と訳しておられる。]の樣なもの――卽ちクルーオールが chapelle といふて居るもの――を支へる棚承けがあつた。祠にはマリアの白い像があつて、その前には小さな燈火が油の杯の中に浮いて居た。植民地の習慣で僕[やぶちゃん注:「ぼく」。下僕。ここはガイドの雇い人の混血児の少年。]は我々と共に旅する時は、同室か、又は閾[やぶちゃん注:「しきい」。]の前に寢る。そして私の男は私に與へられた巨きな四本柱のある床の傍の莚の上に橫になつて、直に鼾[やぶちゃん注:「いびき」。]しはじめた。私は床に就く前に戶が確に締めてあるのを見定めて寢た。

譯者註 クリーオールは全集第一卷四七五頁に出づ。

[やぶちゃん注:「クリーオール」“Creole”。「クレオール」「クリオール」。植民地で生まれたネーティブ以外の人々を指す語。本来はスペイン語で「クリオーリョ」(Criollo)といい、当初は「新大陸生まれのスペイン系の人々」を指す呼称であったが、後、「植民地生まれの白人」を指すようになり、やがては混血やアフリカ系をも含むように意味が広がった。フランス語は「Créole」(クレオル)で、「宗主国フランス生まれ」に対する「フランスの植民地及び属国」生まれの白人(辞書では「白人」に限定している)の用法が強い。但し、差別用語ではなく文化人類学でも用語として使われ、「クレオール語」(西インド諸島で現地の土民が交易相手の欧米人に向かって使うフランス語・スペイン語・英語等の崩れた混成言語)の意でも用いられる。

chapelle原本では斜体(左ページの下から三行目)。フランス語(マルティニークは今も昔もフランス領(海外県)で公用語はフランス語である)の「チャペル」で「教会」「礼拝堂」のこと。

 岡田氏の注は、本第一書房版「小泉八雲全集」のそれを指し(家庭版は昭和一四(一九三九)年四月刊)、当該ページ(リンク先は“Internet Archive”の同和訳書の当該ページ画像)は「ユーマ」(Youma, the Story of a West-Indian Slave:「ユーマ、西インドの奴隷の物語」:一八九〇年雑誌分載初出で同年刊。「ユーマ」は主人公の黒人女性の名前である)の冒頭で「クリーオール」の注があるからである。但し、訳者は岡田氏ではなく落合貞三郎氏である。その注を電子化しておく。

   *

譯者註 クリーオール人は、主として西印度に移住した歐洲人(大抵西班牙人[やぶちゃん注:「スペインじん」。]及び佛國人)の子孫を指す。しかしこの語の使用法は漠然としてゐて、往々西印度地方の混血種(白人と黒人との)或は時として黑人を指すこともある。

   *]

 

 その夜は蒸し暑かつた、――空氣が凝結してゐるかと思はれた。庭を見下す唯一の大窓は明け放してあつた、――然しその空氣に微動だも無い。蝙蝠――隨分大きな蝙蝠――が音無く飛び入りまた飛び出して居た、――一匹は床の上を旋囘しながら、實にその翼で私の顏を煽いだ。熟果の重い香――胸惡るくなる程甘さうな――が庭から上つて來た、其處には椰子とプランテイン樹[やぶちゃん注:「晩歌」で既出既注。]が金屬製であるかの如く旅かに立つて居た。町の上の方の森から雨蛙、蟲、夜の鳥の例の夜の合唱がわめいて、――それは何の譬[やぶちゃん注:「たとへ」。]を以てしても精細に記述し難い擾ぎ[やぶちゃん注:「さはぎ」。]であるが、然し無數の鋭い鈴の樣な音で、碎けた玻璃が廣い遲い瀧にでもなつて居るかとの想像を暗示する。私は暑い堅い床で幾度か寢返りした、どこかにいくらか冷たい一箇所でもあるかと空しく求めながら。それから私は起きて搖椅子を窓のところに引きずつて行き、葉卷を燻らした。煙は動かずに居据わるので、一吸ひ每に吹き拂はねばならなかつた。私の男は鼾を止めた。彼の裸の胸の銅色――祠のラムプの微かな光の下に混じつて輝く――が呼吸の運動を示して居らぬ。彼は屍であつたかも知れぬ。重苦しい暑さが益〻暑くなる樣に思はれた。終に、全く疲れて、私は床の上に戾つて、眠つた。

 

 眞夜中もずつと過ぎた頃と思ふ、私は初の漠とした不安、――疑念――夢魔に先だち來るそれを感じた。私は半意識、現實の夢の意識、――その室に居ることを知つて居る、――で起き上がりたいと思つた。直に不安は恐怖になつた、それは自分は動かうとしても動かれぬことを知つたから。空氣中の名狀し難い或る物が意志を抑へ附けて居た。私は叫ばうと試みた、そして私の最上の努力も誰れにも聞こえぬ樣な囁きになつたばかり、同時に階を上り來る跫音がわかつた、――包んだ樣な重さ、そしてまぎれもない夢魔がはじまつた、――聲も手足も抑へ附ける奇怪な磁氣の恐怖、――啞と無力に逆らふ無望の意志の苦鬪。忍びの跫音は近づいた、――然し惡意ありげに、測られた遲さで、――遲く、遲く階[やぶちゃん注:「きざはし」と訓じておく。]一哩[やぶちゃん注:「マイル」。約千六百九メートル。]も深さがあると思ふばかり。遂に閾に到る、――待つ。それから除々と、しかも音無く、錠を卸した戶が開いた、そしてが入つて來た、身を屈めながら來る、――衣を纒うた物、――女性、屋根に屆くばかり、――面を向けられぬ。それが床に近寄ると床板はキイキイ音がする、――そしてそれから――狂氣の樣な努力で――私は覺めた、全身の汗、私の心臟は破裂しさうに鼓動して居る。祠の燈は消えて居た、暗中何も見えぬ、然しが退いて行くのが聞こえると私は思つた。たしかに床板がまた鳴るのを聞いた。まだ恐慌に捉はれて居て、私は實に身動きが出來なかつた。マツチを擦つて見る智慧もついたが、まだ起きようとは思へぬ。直ぐに、私が聽かうとしで息を凝らすと、黑い恐怖の新たな波が私の身に滲みた、それは呻く聲を聞いたから、――夢魔の長い呻き、――下の二の別室で互に答ふるかと思はる〻呻き。それから、私の近くで、私の案内者が呻きはじめた――嗄れ[やぶちゃん注:「しやがれ」。]聲で、嫌はしい[やぶちゃん注:「いとはしい」。]。私は彼を呼んだ、――

 『ルイス、ルイス』

 我々二人は直ぐに起きて坐つた。私は彼が喘いで[やぶちゃん注:「あへいで」。]居るのを聞いた、そして彼が暗中で彼の曲り刀[やぶちゃん注:「そりがたな」と読んでおく。原文は“cutlass”。海賊がよく持っているところの、あの湾曲した刃を持った比較的短い反りの入った剣で、「舶刀」とも称するように、船などの狭い場所での使用に適しており、船乗りが好んで使った。参照したウィキの「カットラス」によれば、これはまた、『武器であるとともに、農業用の道具でもあり』、まさにこのシークエンスに相応しいことに『カリブ海や』、『中米の熱帯雨林や』、『サトウキビ畑の収穫時にも使用される。同じ用途で、中南米の原住民が使うマチェーテ』(machete)『という鉈もある』とある。]を探つて居るのがわかつた。それから恐怖で嗄れた聲で彼は尋ねた、

 『旦那、聞きなすつたか』

 下では呻く者共は呻きつづけて居た、――聲はいつも末高(クレセンド)になる、『マダム』、『孃や』――それから裸足で走る、ラムプの灯さる〻[やぶちゃん注:「ともさるる」。]音、そして、終に、脅嚇された聲の一般の叫び。私は起きてマツチを探つた。呻きと叫びは息んだ[やぶちゃん注:「やんだ」。]。

 私の男がまた尋ねた、『旦那、御覽だつたか』

 私は惑ひながら、指にマツチ箱を摑んで答へた、『御前何を云ふのかえ』

 彼は答へた、『あの女のことですか』

 この問は私を驚かして全動けなくした。それから私は自分は了解したのかどうかと思ひ惑うた。然し彼は彼の土言[やぶちゃん注:「どげん」。土地の言葉。クレオール語。]で獨り語りする樣に云ひ續けた、――

『脊の高い、高い、此部屋位高い、あのゾムビ[やぶちゃん注:“Zombi”。]。あの女が來たとき、床がキイキイいつた。わしは聞いた――わしは見た』

 

譚者註 ゾムビは全集第一卷五〇三頁に出づ。

[やぶちゃん注:この会話は原文ではクレオール語(フランス語訛り)が示され、後に正しいフランス語が示されるという、なかなかに戦慄の臨場感のある、しかも素敵に面白い筆致となっている。是非、見られたい。

 訳者注のそれは、前と同じく本第一書房版「小泉八雲全集」のそれを指し(家庭版は昭和一四(一九三九)年四月刊)、当該ページ(リンク先は“Internet Archive”の同和訳書の当該ページ画像)はやはり「ユーマ」(Youma, the Story of a West-Indian Slave)の一節で「ゾムビ」についての本文での解説が載るところを指している。訳者は先に述べた通り、落合貞三郎氏。その本文箇所を電子化しておく。

   *

――羽毛に幽冥界の色彩を帶び、食べた人の胃のなかで歌をうたひ、それからまた完全な鳥に化すゾンビといふ鳥の話――

   *

但し、ここで言っている「ゾンビ」は今の世間で認識されている生ける死体のそれとは異なるし、ここで作者とガイドと一家を襲った怪異現象の説明としても全く無効であって、参考にならない注である。ウィキの「ゾンビ」によれば、『「生ける死体」として知られており、ブードゥー教のルーツであるヴォドゥンを信仰するアフリカ人は霊魂の存在を信じている。こちらについては「目に見えないもの」として捉えている。 「ゾンビ」は、元はコンゴで信仰されている神「ンザンビ(Nzambi)」に由来する。「不思議な力を持つもの」はンザンビと呼ばれており、その対象は人や動物、物などにも及ぶ。これがコンゴ出身の奴隷達によって中米・西インド諸島に伝わる過程で「ゾンビ」へ変わっていった』。『この術はブードゥーの司祭の一つであるボコにより行われる。ボコの生業は依頼を受けて人をおとしめることである。ボコは死体が腐り始める前に墓から掘り出し、幾度も死体の名前を呼び続ける。やがて死体が墓から起き上がったところを、両手を縛り、使用人として農園に売り出す。死体の魂は壷の中に封じ込まれ、以後ゾンビは永久に奴隷として働き続ける。死人の家族は死人をゾンビにさせまいと、埋葬後』三十六『時間見張る、死体に毒薬を施す、死体を切り裂くなどの方策を採る。死体に刃物を握らせ、死体が起き出したら』、『ボコを一刺しできるようにする場合もあるという』。『もちろん、名前を呼ばれて死体が蘇るはずもなく、農民達による言い伝えに過ぎない。現在でも、ブードゥーを信仰しているハイチなどでは、未だに「マーケットでゾンビを見た」などの話が多い。また、知的・精神的障害者の様子がたまたま死者に似ていたケースを取り上げ、「死亡した人がゾンビ化される事例がある」などとされることもある』。『イギリス人の人類学者、ローランド・リトルウッド』『はハイチに渡って詳細なるデータを取り、ゾンビの存在を全否定している』。一九九七『年に、「マーケットに死んだはずの息子がゾンビとなって歩いていた」と言ってふらふら歩いている人物を自宅に連れ帰った父親の報告があり、その息子とされた人物を医学的に検査したところ、死んだ形跡が全くなかった。また、その人物には知的障害があり、DNA検査によって父親と親子関係のない他人の空似だったことが判明した。その他も同様に、他人の空似のケースばかりであったことが報告されている』とある。引用では省略したが、ゾンビを作り出す「ゾンビ・パウダー」なる薬物をブードゥーの呪術者は実際に持っており、それを分析してテトロドトキシンを検出した日本人科学者の著作も読んだことがある。また、ブードゥーの呪法も非常に興味深いもので、若き日にかなり入れ込んで調べた経験もある。ある種の薬物を用いて心拍数を極度に落させ、仮死状態で性急に埋葬させ、葬儀が終わった直後に掘り返して、奥地の農園に連行して無償で働かせるという労働力収集のための犯罪が横行していて、それをドキュメンタリーにした外国作品を見たこともある。言っておくが、私はゾンビ映画は如何なる作品も馬鹿馬鹿しくて一律大嫌いだが、ブードゥーの呪法は、今もすこぶる興味深く感じている人間である。

 

 暫くして、私はやつと蠟燭を灯した、そして戶のところに行つた。戶は依然締つて居る、二重に錠が下りて居る。高窓からは人が入れる筈は無い。

 自ら云ふことを信ぜずに、私はいうた、

 『ルイス、御前は夢を見て居たんだらう』

 彼は答へた、『旦那、夢じやないんでさ、あの女はどの部屋へも入つて來て、皆に觸はつたのでさ』

 私は云うた、『そりや馬鹿らしい、御覽、――戶は二重に錠が下りてるから』

 ルイスは戶の方へ見向きもしなかつた、然し答へた、『戶が締つてたつて開いてたつて、ゾムビは出入りしまさ……わしは此家は嫌ひだ……旦那……その蠟燭をつけておきなさい』

 彼は終の句を命令的に云つて、『どうぞ』といふ敬語を加へなかつた、――殆ど案内者が共通の危險の場合に語るが如くに、そして彼の調子は彼の恐怖を私にた傳染させた。蠟燭はついて居ても、私は一時は眠らずに居て夢魔の感覺を知つた。暗合が理性を壓伏した、そして厭はしい原始的の空想が、確實なるものの如く、因果の說明に當て篏つた[やぶちゃん注:「あてはまつた」。]。私の幻覺とルイスの幻覺の同じきこと、二人共聞いた床の鳴る音、夢魔が室から室へと巡囘したこと、――此等は證據の不快な連合以上のものを形成した。私は或る姿を見たと思つた邊りで私の足で床の板張を履んで[やぶちゃん注:「ふんで」。]見た、それが私が前に聞いたと同じキイキイといふ高い音を出した。ルイスは『夢じや無い』と云つた。ほんとにそれは夢でないらしい。私は蠟燭をつけておいた。そして床に戾つた――眠る爲めではない、考へる爲めに。ルイスもまた橫になつた、彼の手を曲り刀の柄にかけて。

 

 私は長い時考へた。下の方も今は全く靜かである。暑さもつひに薄らいで、庭から吹き入る冷かな空氣の折々の息は、陸風が目覺めたことを知らせた。ルイスはたつた今の恐怖に關らず間もなくまた鼾しはじめた。すると私は板張が――隨分音高く――鳴るのを聞いて驚かされた、――それは私が足で履んで試みた同じ板張であつた。今度はルイスはそれを聞いたらしくない。そこに何も無かつた。音がもう二度鳴つた、――それで私はわかつた。はじめにきびしい暑さ、後に溫度の變化が木材を連續して、歪めたり戾したりして、その音を出したのであつた。眠の不完全な、夢の中にそれを聞くと、昔は想像に强く影響する程に聞こえて、――歪んだ空想の長い行列を動かし來ることがある。同時に別々の室に於ける夢魔の殆ど同時に來る經驗は、その時刻の病を催す樣な空氣の壓迫で十分に說明が出來ると私は思つた。

 まだ二の夢のいやな類似が說朋をまつて殘つて居た、そしてまた此謎の自然の解釋を私はも少し反省した後に見出し得た。暗合はたしかに驚くべきものであつた、然し同じ點は部分的のみであつた。私の案内者がその夢魔に見たものは、西印度人の迷信の通常の創造であつた――恐らくアフリカの起原であらう。然るに私が夢に見た形は、小兒の時に、私の眼を惱ましたもので、――或る恐ろしいケルト族の談[やぶちゃん注:「はなし」。]の印象で、私に造られたものである、かかる談は想像を以て惠まれて居る、或は詛れて居る[やぶちゃん注:「のろはれてゐる」。]、何れの小兒にも語られてはならぬものであつた。

[やぶちゃん注:私は以上を読むと同時に、幾つかの可能性を想起していた(私は小学校五年の時にフロイトの「夢判断」を完読してハマった、本当は心理学を専攻したかった輩なのである)。

 一つは、暑苦しい上に、全くの初回の現地人の宿屋風の家で、しかも階下に寝ているのは老女将と二人の娘に二人の下女の総て女性の五人である。明らかに筆者(当時は三十七から三十九歳の間である)には精神的に過剰なバイアスがかかっていることは容易に気づく。寝つけない中では、所謂、「入眠時幻覚」(hypnagogic hallucinations:やや興奮状態で床に入って暫くすると自覚的には「目が覚めている」と認識しているにも拘わらず、生々しい現実感を伴った鮮明な夢を見る現象を指し、「睡眠開始時レム(Rapid eye movement:REM)睡眠期」に一致して起こる。怪しい人間や動物、得体の知れない怪物などが今寝ようとしている部屋の中に入り込んできて、襲いかかってきたりする幻視・幻触・身体運動感覚などを主とするもので、強い現実感と恐怖感を伴う)が起こり易く、彼もそれに嵌まった状態にあることが叙述から明白であることが第一。

 次に、その「入眠時幻覚」の怪異体験開始の直前(直後というべきか)に、彼が典型的な「金縛り」状態となって身動き出来なくなっているのは、通常、「入眠時幻覚」による不安・幻覚体験に極めてよく附帯する状態である「睡眠麻痺」(sleep paralysis:入眠時に全身の脱力状態が起こること)によって完全に説明し得るのが第二。

 ガイドのルイス少年及び宿の階下の女性たち総ては、ブードゥーのゾンビを完全に信じている現地の民俗社会世界の人間なのであり、ここはまさにその霊的なフィールドなのであるからして、その空気は、異邦人で、キリスト教はおろか、ブードゥーの忌まわしい呪法をまるで信じない筆者であっても――肉体的精神的に安定感情がなく、心が落ち着かないその瞬間の若い彼にして――甚だ簡単に、その呪的空気はたとえそれが非論理的であっても容易に――無意識的に否応なく――感染するに違いないという確信的推論が第三。

 その三つに加えて、床板の軋み(本邦の心霊現象で言うところの「ラップ音」だ)や、階下でも女たちが何か感じて騒擾を起こしているような感じが描写されていることが、私には非常に興味深いのである。

 筆者は「ラップ音」については合理的な仮説を立て、実際に試してみて、それが「怪異」ではあり得ないことを証明し、また、温度変化による家屋の素材の軋み音であるという、美事に科学的な解明しているから全く問題にせずしてよいのだが、しかし、階下の女たちの異変らしきものの原因については、筆者は結局、何も後に説明を添えずに誤魔化しているのである。

 さても――筆者は三十代後半だ。――左目の色はちょっと変わっているけれど――スマートなかっこいい白人――なんである。ガイドの混血の少年だって――若くてカットラスをシャッと抜きそうな、果敢な――かなりいい感じ、じゃないかい?……

 二人の娘は幾つぐらいだろうね?……二人の下女だって、これ、かなり若いんじゃないかな?……

 そこに、二人のちょっと気になる男たちが、泊まってるんだぜ?!……気にならない方が、おかしいんじゃないかね?!……

 所謂、思春期の女性が霊感を持っていると主張したり、そうした女のいるところの周囲でだけ、強力な不可思議な怪異現象が起こるというのは、古今東西を問わず、ごくごく当たり前のかなり古くから現在まで続くところの古くて新しい現象なのである(私の中学時代の同級生に「毎日、家に帰ると狐の子の霊と遊んでいる」と言っていた風変わりな妖艶な女子がいた(但し、後に二十を過ぎた彼女に再度、確かめたところが、「あんなの嘘に決まってるじゃない」と軽くいなされたが)。処女はシャーマンであり、神憑りや憑代になるのはえらく昔からの常識だ。そこまで溯らずとも、江戸から明治に長く生き続けた都市伝説に「池尻の女」「池袋の女」などと称した怪異譚がある。屋敷内に異様な怪異現象が頻発する(化け物が出るというのもあるが、概ね、物が動いたり、投げられたり、激しい音がするボルタ―ガイスト現象(ドイツ語:Poltergeist:騒霊。本邦では「天狗の石礫」等とも呼ぶものがそれに該当するであろう)であることが多い)。しかもだ、調べて見ると、そこには必ず奉公人の中に若い女がいるのだ。それが池尻村などの特定の村の出身であったことから、そこの氏神が嫉妬して「村に返せ」と怪奇現象を起こすという解釈なのだ。私の「耳囊 卷之二 池尻村の女召使ふ間敷事」や、「北越奇談 巻之四 怪談 其三(少女絡みのポルターガイスト二例)」、また、「反古のうらがき 卷之一 狐狸字を知る」を見られよ。西洋でも、男の霊の声を腹部から発するとされた姉妹や、コナン・ドイルが、まんまと騙され続けた「コティングリー妖精事件」(イギリスのブラッドフォード近くのコティングリー(Cottingley)村に住む二人の従姉妹フランシス・グリフィス(七歳)とエルシー・ライト(十五歳)の二人の少女が一九一六年七月に撮ったと主張した妖精写真の真偽をめぐって起きた論争や騒動。詳しくはウィキの「コティングリー妖精事件」グーグル画像検索「TheCase of the Cottingley Fairiesをどうぞ)と、枚挙に暇がない(孰れも後に少女たちが意識的に成した詐欺であったことを告白している)。当初、私は筆者が科学的説明をつける以前の部分では、「キイキイ」という音は階下の女性たちのうちの誰かが、意識的或いは半ば無意識的に立てた擬似的詐欺による人工の怪奇音なのではないかと疑っていたぐらいである。それは彼女たちの名誉のためにまずは撤回するとしても、仮に、この階下の女性たちの中に若い娘がいれば、不思議な白人と少年の滞在に秘かに昂奮してしまって、階上の二人と全く同様に、「入眠時幻覚」を起こしてしまって叫んだのだとしても、何の不思議があろうかと思うのである。

 

       

 此經驗を思ひめぐらして其後私は、我々が『暗の恐れ』と呼んで居るが、實は暗の恐れでは無い其の恐れの意味を考へることになつた。單なる條件としての暗はこの感情、――幽靈の何等かの定まれる觀念より幾千代も先きにあつた感情――を起こし得なかつた。小兒が示す如き遺傳せる、本能的の恐怖は暗そのものの恐れでなくて、暗と聯想される[やぶちゃん注:「闇というものに関連して連想されるところの」の意。どうして岡田氏はこんな短縮した無理な日本語を使うのだろう? 正直、ほんに、気が知れないのである。]定義し難い危險の恐れである。進化論的に說明すれば、この漠然たる、然し容量のある恐怖は、その原始的要素として實際的經驗――暗に働く或る者の經驗――によつて造られた印象を有つのであらう、そして超自然の恐れはそれよりずつと後の情緖的發達としてのみ、其うちに加はるのであらう。夜に光る目に照らされた洞窟の原始的暗[やぶちゃん注:原文を見ると、“The primeval cavern-gloom lighted by nocturnal eyes”であるが、これは「夜行性の肉食獣の眼によって照らされた太古の洞窟の中の闇」じゃあないかなぁ? この洞窟の中に原始人がいたんだよ、彼らが外を見て、その光る眼に戦いていると読んだ方が判りがいいんだけどなぁ。でも……平井呈一氏も『夜の目に照らし出された大古[やぶちゃん注:ママ。]の洞窟のなかの闇』と訳してはおられるなぁ。]、――川邊の森の切れ目の黑さ、其處には渴いて水を求めにくるものを捉へんとして破滅の待てる、――畏怖を隱す錯綜した岸の陰影――蟒蛇[やぶちゃん注:「うはばみ」。]の巢穴の暗、――餓ゑたる野獸と絕望の人間の激情を反響する急場の隱れ所、――埋葬の場、及び洞窟に出入するものと埋められたものとの恐ろしい同類感の想像、――凡て此等、及び暗と死との關係の無數の外の印象は、小兒の想像を累はし[やぶちゃん注:「かさねあはし」?]、今猶ほ文明の保障の下に眠る成人をも捉へる祖先以來の暗の恐怖を造つたに相違ない。

 夢の凡ての恐怖が記憶されぬものの恐れではあり得ぬ。然し遠距離からかけた見えぬ力に捉へらる〻その不思議の夢魔の感覺は――睡眠間に單に意志が停止することのみで十分に說明されやうか。またはそれは捉へられたことの無數の記憶の複成的遺傳であり得ようか。恐らく其の說明は奇怪な催眠術やまたは奇怪な網[やぶちゃん注:“webs”。これは、岡田先生、「罠」と訳しましょうよ!]の生前の經驗を暗示するのではあるまい、――人間は彼の發達の進路に於て、彼の背後に現に存在する何れのものより比較にならぬ程に惡しき恐怖の條件を殘したといふ進化的確實よりもつと驚くべき何物も暗示はしまい。然し夢魔の心理的謎の多くが、人間の有機的記憶は苦痛――かつて或る忌まはしき消滅した生命によつて行はれた不思議な力に關係ある苦痛――消滅したる形の何かの記錄を保つや否やの問題を誘ふに足るだけ殘つて居る。

 

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