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2019/11/12

小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信訳) / 「一」・「二」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“Insect-Musicians”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“EXOTICS AND RETROSPECTIVES”)の第一パート“EXOTICS”の第二話目である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。大谷氏の癖で、私はかなり違和感があるのであるが、本文の文の途中を、突然、切断して原注を挿入する部分や引用が入るが、そこでは底本ではポイント落ちで全体が三字(引用)・四字下げ(註。ポイントは引用ではさらに落ちたりしている)となっているが、ブラウザの不具合を考えて、行頭に引き上げ、本文と同ポイントとし、前後を一行空けて示した。ただそれらが本篇では異様に混じりあって、本文との区別がつかなくなるので、今回は本文だけを読みたい方のために、特異的に【注】・【引用】という私の配した柱を頭に附すこととした。なお、虫は後で個別に示されるので、そこで注した。

 全六章と長いので分割公開とする。また、底本には挿絵が一切ないが、上記の“Internet Archive”にある原本画像を総て使用し、適切と思われる位置に挿入、その英文キャプションをそこで訳しておいた。]

 

 

   蟲 の 樂 師

 

 

    蟲よ蟲ないて因果が盡きるなら ――日本の歌

 

 

       

 諸君がいつか日本見物をされるなら、少くとも社寺の祭――緣日――を一つ是非見に行くやうにされたい。どんなものもが無數のラムプと提燈との光で、非常に引き立つて見える夜分に、このお祭は見なければならぬ。此の經驗を有たぬうちは、日本はどんなものか諸君に分かりやうが無い――尋常一般の人達の生活に見出さるべき、風變りと可愛らしさとの眞の妙味を、奇怪と美しさとの不思議な融合を、諸君は想像も出來ないのである。

 そんな晚には、筆にも書けぬいろんな玩具――優雅な子供じみた品物、破れ易い驚嘆させる品物、笑を催させる珍妙な品物――が一パイに並べてある小屋掛の目の眩むやうな小徑をば、諸君は多分見物人の流れと共に暫く自己(み)[やぶちゃん注:二字で「み」とルビする。]を漂はしめるであらう――鬼や神や化物の見世物を認めるであらう。――萬燈――怪異な顏が描いてある、非常に大きな透かし繪の提燈――に膽を潰すであらう。――手品師、輕業師、劍舞師、占者を瞥見するであう。――人聲の騷々しさを抽んでて[やぶちゃん注:「ぬきんでて」。]、絕え間無しの笛の音(ね)、太鼓の音(おと)を到る處に耳にするであらう。そんなものはどれも立ち停つて見る價値は無いかも知れぬ。然しやがて諸君は、自分はさうと殆ど確信して居るが、その遊步の間に、何とも喩へやうの無い鋭い声が出で來る小さな木製の籠を澤山備へて居て、幻燈のやうに光り輝いて居る小屋掛を立ち停つて見ることであらう。その小屋掛は歌ふ蟲をあきなふ商人の小屋掛で、聲音のその嵐は蟲が發するのである。それは奇妙な觀物で、外國人は殆どいつも之には惹きつけられる。

 だがその一時的な好奇心を滿足してから、特殊な色々の子供の玩具があつたことは見たが、他には何も大して目に立つものは見なかつたといふ念を抱いて、外國人は大抵は步いて行く。東京だけでの蟲商賣が幾千弗[やぶちゃん注:「ドル」。]の價値のものだと云ひきかせれば、それは容易に了解するであらう。が、蟲が發する音色の特性の爲めに、嶺それ自體が珍重されて居ると證言されると、屹度驚くことであらう。非常に上品なまた藝術的な國民の美的生活に於て、此の蟲なるものが、西洋の文明に於て、鶫、紅雀、ナイティンゲェル及びカナリヤが占めて居る地位に劣らぬ重要な若しくは十分至當な地位を占めて居る、といふことを納得させるのは容易ではあるまい。千年も經つて居る文學が――奇妙なそして微妙な美に充ちた文學が――この短命な寵愛者たる蟲といふ題目の上に存在して居ることを、どんな外國人が創造し得よう?

[やぶちゃん注:「幾千弗」明治三〇(一八九七)年年(本書は明治三十一年刊)の為替レートでアメリカドルは一ドルが二円であるから、過少に見積もって例えば四掛けで八千円としても、当時の貨幣価値(信頼出来るサイトでの一円を二万円相当として)から換算すると、八千万円。東京全域の虫屋の取引総額なら、高額の虫は驚くべき値段で取引されたらしいから、決して大袈裟な金額ではなかろうと思う。

「鶫」は印字の(へん)部分が潰れていてちょっと判別しにくい。当初は「鵯」にしか見えなかったが、欧米人にヒヨドリは美声でないしなぁと思い、原文を見ると、“thrushes”とあった。これはスズメ目ツグミ科ツグミ属 Turdus のツグミ類を指し、特にヨーロッパでは同属のクロウタドリ Turdus merula が囀りの美声で知られるので、これで確定した。

「紅雀」原文“linnets”。スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ属ムネアカヒワ Carduelis cannabina を指す。

「ナイティンゲェル」スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ(小夜啼鳥)Luscinia megarhynchos。「西洋の鴬(うぐいす)」とも称されるほどに鳴き声の美しい鳥とされる。

「カナリヤ」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria。]

 

 此の一文の目的とするところは、さる事實を解說して、日本人生活の最も興味ある委細な點に對して、我が西洋の旅客が無意識に如何に皮相な判斷を下すことがあるかを示すにあるのである。が、そんな誤つた判斷は避け難いものであると共に、また當然なものである。どんな親切な意向を以てしても、日本人の慣習中の異常なものに就いては――異常なものといふものは外國人はそれに就いて少しも知る得ない感情や信仰や或は思想に殆どいつも關係を有つて居るものだからして――そのどんなことをも、ただ一寸見ただけで、正確に、評價することは不可能である。

 

 話を進める前に、自分が語らうとして居る、家に飼ふ蟲は、大抵は夜の歌ひ手で、前に自分が書いた隨筆の中に記載した蟬と混同してはならぬと述べさせて貰はう。自分は蟬は――音樂的な蟲に日本ほど斯くも格別に豐富な國に於てすら――それ獨得な不思議な樂手であると思ふ。が、日本人は夜の蟲と蟬との聲音に、我々が告天子[やぶちゃん注:ヒバリ。]と雀との聲音に見出すと同じ差別を見出して、蟬をば饒舌家といふ下等な位置へ黜けて居る[やぶちゃん注:「しりぞけてゐる」。]。だから決して蟬を籠へ入れぬ。籠の蟲に對する國民的愛好は、ただの騒音を好んで居るといふことを意味して居るのでは無い。――一般に好かれて居る一々の蟲の聲音に、何か呂律[やぶちゃん注:「ろれつ」(「りょりつ」の音変化)で、ここはその動物が鳴く際の調子・響き具合・音色の意。]の上の妙味があるか、或はまた、詩歌に若しくは傳說にもてはやされて居る何か類似の性質があるか、しなければならぬ。蛙の歌を日本人が好むのに就いても同一の事實が認められる。どんな種類の蛙でも音樂的だと思うて居るのだと想像するのは誤解で、好い音を出す、特別な種類の非常に小さな蛙が居るので、籠に入れて飼つて愛玩するのはその蛙である。

 言ふまでも無く、その語の本當の意味で、蟲は歌ひはせぬ。が、これからの頁の中に、自分は時折『歌ひ手』とか『歌ふ蟲』とかいふ語を使用するかも知れぬ、――それは一つは、さういふ語が便宜な爲めと、一つは、こんな動物の『聲』を述べる折の、日本の蟲賣や詩人が使ふ言語と一致して居るからである。

 

 

       

 舊日本の古典文學の中に、好い音を出す蟲を飼ふ習慣を示した珍らしい文句が澤山にある。一例を學げると、十世紀の後半に、紫式部が害いた『源氏物語』といふ有名な小說のうちの『野分(のわき)』といふ章に『わらはべおろさせ給ひてむしの籠(こ)どもに露かはせ給ふかなりけ

 

【注】「ノワキ」といふは普通秋の末ころ起こる或る破壞的な暴風に與へて居る名である。「ゲンジモノガタリ」の各章は悉く非常に詩的な、そして感銘的な題名を有りて居る。末松謙澄氏がされた、初めの十七章の英語譯がある。

[やぶちゃん注:末松謙澄(けんちょう 安政二(一八五五)年~大正九(一九二〇)年)はジャーナリスト・政治家・歴史家。文学博士号と法学博士号を持ち、帝国学士院会員。福岡県生まれ。伊藤博文は義父。伊藤内閣の逓信や内務大臣を歴任する一方、明治一四(一八八一)年十月からケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジへ入学し、法学部を専攻した。英語力その他の学才を生かして「源氏物語」の最初の英訳(明治一五(一八八二)年)やローマ法に関する論文等、著書は多数多岐に及ぶ。]

 

り』といふ文句がある。だが歌ふ蟲を入れる籠のことを初めて判然と記載してあるのは、『著聞集』といふ書物のうちにある次記の文であるやうに思はれる。――

 

【引用】『嘉保二年(西曆紀元一〇九五年)八月十二日殿上のをのこども嵯峨野に向て蟲を取て奉るべきよしみことのりありて、むらごの絲にてかけたる蟲の籠を下されたりければ。貫首已下みな左右馬寮の御馬にて向ひける 藏人辨時範馬のうへにて題を奉りけむ。野徑尋蟲とぞ侍ける。野中に至りて僮僕をちらして蟲をばとらせけり。十餘町ばかりはおのおの馬よりおり步行せられけり。ゆふべにをよんで蟲をとりて籠に入て内裏へかへり參り、萩女郞花などをぞ籠にかざりたりけり。中宮の御方へまゐらせて後殿上にて盃酌朗詠など有けり』

[やぶちゃん注:前の「源氏物語」のそれは第二十八帖「野分(のわき)」の終りの方で、舞台は六条院内。激しい野分の翌日、夕霧が光の名代として光の「秋好む中宮」を見舞うシークエンスの初めで、彼が垣間見する冒頭部に出る。

   *

 中將、下(お)りて、中の廊の戶より通りて、參りたまふ。朝ぼらけの容貌、いとめでたくをかしげなり。東(ひむがし)の對(たい)の南の側に立ちて、御前(おほんまへ)の方を見やりたまへば、御格子(みかうし)、まだ二間(ふたま)ばかり上げて、ほのかなる朝ぼらけのほどに、御簾(みす)卷き上げて人びとゐたり。高欄に押しかかりつつ、若やかなる限り、あまた見ゆ。うちとけたるはいかがあらむ[やぶちゃん注:誰も見ていないと思ってのラフな姿を言う。]、さやかならぬ明けぼののほど、色々なる姿は、いづれともなく、をかし。

 童女(わらはべ)、下ろさせたまひて、蟲の籠(こ)どもに、露飼(つゆか)はせ[やぶちゃん注:露を与えてやって。]たまふなりけり。紫苑[やぶちゃん注:襲(かさね)の色目(いろめ)。表・薄紫、裏・青。]、撫子[やぶちゃん注:同前で表・紅梅、裏・青・]、濃き薄き衵(あこめ)[やぶちゃん注:童女の上着。]どもに、女郞花(をむなへし)[やぶちゃん注:同前。表・経(たて)青に緯(よこ)黄の織物、裏・黄。]の汗衫(かざみ)[やぶちゃん注:宮仕えの正装として童女が上につける女児用の薄手の上着。]などやうの、時にあひたるさまにて、四、五人連れて、ここかしこの草むらに寄りて、色々の籠ども[やぶちゃん注:彩色を施してある虫籠。]を持てさまよひ、撫子などの、いとあはれげなる枝ども[やぶちゃん注:前日の野分にひどく痛めつけられた草々。]、取り持(も)て參る、霧のまよひ[やぶちゃん注:霧に見え隠れすること。]は、いと艷(えん)にぞ見えける。

   *

 以上の後半のそれは、鎌倉中期に成立した世俗説話集「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう:伊賀守橘成季が編纂したもので、「今昔物語集」に次ぐ大部の説話集。建長六(一二五四)年頃に初期形が成立、後年、増補されたものと考えられる)の最終の「巻第二十 魚虫禽獣」の中の「嘉保(かほう)二年八月、殿上人、嵯峨野に蟲を尋ぬる事」である。最後に省略があるので、以下に注(「新潮日本古典文学集成」(西尾・小林校注/昭和六一(一九八六)年刊)の頭注を参照した)入れつつ示す。詔(みことのり)は当代の堀河天皇のそれとなる。

   *

嘉保二年八月十二日、殿上のをのこども、嵯峨野に向ひて、蟲をとりて奉るべきよし、みことのりありて、むらごの絲にてかけたる[やぶちゃん注:同じ色であるが、意識的に部分部分に斑(むら)が出るように染めた糸で制したもののこと。]蟲の籠をくだされたりければ、貫首(くわんじゆ)[やぶちゃん注:蔵人頭(くろうどのとう)。この時は源師頼。当時二十六歳。]以下、みな左右の馬寮(めれう)の御馬に乘りてむかひけり。藏人の辨時範[やぶちゃん注:蔵人でありながら太政官内の要職である「弁」を兼務した者。平時範。当時四十二歳。]、馬のうへにて題を奉りけり。「野徑(のみち)に蟲を尋(たづ)ぬ」とぞ侍りける。野中にいたりて、僮僕(どうぼく)[やぶちゃん注:召使いの少年。]をちらして、蟲をば、とらせけり。十餘町[やぶちゃん注:十町は一キロ九十一メートル。]ばかりは、各馬よりおり、歩行せられけり。夕(ゆふべ)に及んて、蟲をとりて、籠に入れて、内裏へかへりまゐる。萩・女郎花(をみなへし)などをぞ、籠には、かざりたりける。中宮[やぶちゃん注:堀河天皇中宮で御三条天皇第四皇女篤子内親王。]御方(おんかた)へまいらせて後(のち)、殿上にて盃酌・朗詠などありけり。歌は、宮の御方にてぞ講ぜられける。簾中よりもいだされたりける、やさしかりける事なり。

   *]

 

【注】ハギは英國のプッシュ・クローヴに普通與へて居る名。ヲミナメシは學名ヷレリアナ・オフイシナリスの通俗な名。

[やぶちゃん注:原文注は“Hagi is the name commonly given to the bush-clover. Ominameshi is the common term for the valeriana officinalis.”。「bush-clover」はマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza のハギ類の英語の総称。ハギ類には各種あるが、本邦で代表的なのはヤマハギ Lespedeza bicolor であろう。「オミナメシ」女郎花(歴史的仮名遣「をみなへし」)。本邦のそれはマツムシソウ目オミナエシ科オミナエシ属オミナエシ Patrinia scabiosifolia「オミナメシ」(歴史的仮名遣では「ヲミナメシ」)は誤りではなく、立派な汎用通称の一つで、小学館「日本国語大辞典」によれば、これは室町以降に多用されたもので、方言として今も「おみなめし」は大和・岡山・福岡にあるとする。小泉八雲が学名で示したのは、同じオミナエシ科 Valerianaceae ではあるが、別属のカノコソウ属セイヨウカノコソウ(西洋鹿の子草)Valeriana officinalis であって、別種であるウィキの「セイヨウカノコソウ」によれば、英名を「ヴァレリアン」(Valerian)と呼び、ヨーロッパ原産で、根や茎は不眠症や精神高揚等に効果がある薬草として用い、ドイツでは不眠症改善や精神安定剤としての使用が承認されており、『古くから薬草として利用され、中世では修道院の薬草園で盛んに栽培され』ていた、とある。]

 

 これが蟲取りの最も古い日本の記錄のやうに思はれる、尤もその娛み[やぶちゃん注:「たのしみ」。]は嘉保年代より前に發明されて居たかも知れないが。これは十七世紀までに一般の娛樂となつたらしく、そして夜間取ることは晝間取ることと同樣好んで誰れもが行つた。承應二年(一六五三年)に死んだ貞德といふ詩人の全集の『貞德文集』といふ書物に、此詩人の一通の手紙の、此題目に關した頗る興味ある文句の含まれて居るのが、保存されて居る。其友人へ詩人は斯う書いて居るのである。『晚景蟲吹可罷出候黑月闇無用心候へ共盆前は墓參仕る者繁候而路次賑敷候行燈挑灯聚置候へ者促織松蟲蛬幾等も寄聚候』

[やぶちゃん注:「貞德」松永貞徳(元亀二(一五七一)年~承応二(一六五三)年)江戸前期の俳人・歌人・歌学者。名は勝熊。別号に逍遊軒・長頭丸・延陀丸など。連歌師の子として生れ、九条稙通(たねみち)や細川幽斎らから和歌・歌学などを、里村紹巴から連歌を学び、一時は豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として、俳諧を全国的に普及させた功績は大きく。松江重頼・野々口立圃(りゅうほ)・安原貞室・山本西武(さいむ)・北村季吟といった多数の有力門人を全国に擁した。歌人としては木下長嘯子とともに地下(じげ)歌壇の双璧をなし、狂歌作家としても一流であった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。小泉八雲が掲げたものを一応、勝手流で訓読しておく

   *

晚景、「蟲吹(ふ)き」[やぶちゃん注:虫採取。竹筒の一方に紗の布を張り、反対側を虫に被せると、虫が筒を這い上がって来る。それを布袋や虫籠に向けて吹いて捕える法。]に罷(まか)り出づべく候ふ。黑月(こくげつ)の闇、無用心に候へども、盆前は、墓參り仕(つかまつ)る者、繁(しげ)く候ふ。而して、路次(ろし)[やぶちゃん注:墓地に行く野中の道筋。]、賑(にぎ)は敷(しく)候ふ。行燈・挑灯聚(あつ)め置き候へ者(ば)、促織(はたおり)・松蟲・蛬(こほろぎ)、幾等(いくら)も寄せ聚められ候ふ。

   *]

 

【注】死者の大祭の前に墓を飾りに、墓地へ每晚行く人が澤山にあるから、との意。

 

 それからまた、蟲賣(ムシヤ)の商賣が十七世紀にはあつたものらしい。といふは、『其角日記』といふ、當時の或る日記に、作者は江戶で蟲賣を一人も見つけなかつたので失望したと述べて居る。他處でそんな者に會つたことがあるといふ可なり立派な證據である。『貞享四年(一六八七年)六月十三日、きりぎりす商賣致し候者相尋候町々覺、四谷、麹町、本鄕、湯島、神田すだ町二丁分相尋候處一人も見え不申』と書いて居るのである。

 

【注】この町名の多くは現今の東京の誰れも知つて居る區の名に殘つて居る。

[やぶちゃん注:「其角」無論、蕉門の十哲の第一の高弟とされ、芭蕉没後は日本橋茅場町に「江戸座」を開き、江戸俳諧で一番の勢力を持った御大宝井其角(たからいきかく 寛文元(一六六一)年~宝永四(一七〇七)年)。

「町々覺」は「町々の覚書き」の意か。しかし、なかなか意外である。逆に江戸ではこの頃は未だ虫売り(「きりぎりす」と限定はしている)はいなかったことを証拠立てる一つとなるからである。所持する三谷一馬著「江戸商売絵図」(一九九五年中高文庫刊)を見ると、寛政一〇(一七九八)年板行の北尾重政画の「絵本 四季交加」には多様な虫籠を店に揃えた虫売りが描かれており、呉陵軒可有編の知られた川柳風狂句集「誹風柳多留」初篇は明和二(一七六五)年板行)には行商の蛍売り(ホタルのみを売った)も詠まれているので、恐らくは一七〇〇年代に入ってから、虫売りが江戸でも普通に見られるようになったものであろう。]

 

 諸君にやがて分かるであらうやうに、その後百二十年許り經つまで、東京ではキリギリスを賣らなかつたのである。

[やぶちゃん注:先の三谷氏の「江戸商売絵図」によれば、『江戸の虫売りとは別に、江戸近在の人がきりぎりすや轡虫などを捕えて粗末な籠に入れて売りに来たものもあり、江戸のものより安いのでよく売れた』とあり、少なくとも江戸後期の寛政(一七八九年~一八〇一年)以後)にはキリギリスは既に江戸市中で売られるようになったことを指す(後段で小泉八雲はそれを驚くべき詳細さで語る)ウィキの「虫売り」の「歴史」を見ると、『寛政の時代、神田でおでん屋を営んでいた忠蔵という男が、本業の片手間に根岸で捕まえたスズムシを販売していた。売れ行きが思いの他好調であったことから』、『忠蔵はおでん屋を畳み、虫売りへと転業し、本格的に取組み始めたのが、虫売りの起源とされる。忠蔵は瓶に入れた土に産ませた卵を室内で温め、孵化させ、野生のスズムシよりも早く成虫に育て(いわゆる養殖)、高値で売り出すことで莫大な利益を得た』(これを小泉八雲は後文でより詳細に述べているのである)。『その後、増加する虫売り業者に規制が加えられる』『など、江戸時代を代表するひとつの大衆文化として捉えられるようになり、小泉八雲によって江戸の文化として紹介がなされている』と八雲先生の名さえ挙げられてあるのだ。恥ずべし! 根っからの日本人! 日本人でなくなった日本人よ!]

 

 だが歌ふ蟲を飼ふことが流行にならぬずつと以前に、蟲の奏する音樂は秋の美的快樂の一つとして詩人に賞讃されて居たのである。十世紀に出來た、從つて確にそれよりも前の時代の作品を多く含んで居る歌集に、歌ふ蟲に關した面白い記述がある。そして、櫻だとか梅だとか或は他の花吹く木とかで有名な場所へ、その季節の花を見るといふ愉快を買ふだけのことに、今なほ定(きま)つで每年幾千幾萬といふ人が見物に行くと丁度同じで、――古代にあつて、都會に住居つて[やぶちゃん注:「すまつて」。]居た人達は、單に蟋蟀[やぶちゃん注:「こほろぎ」。]や螽斯[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]の――殊に夜歌ふ蟲の――啼き合はす合奏を聽くといふ快樂を得んが爲めに、田舍へ秋の遠足を試みたものである。この音樂的な人寄せ物があるといふだけのことで遊樂地として著名な場處が數世紀前に在つた。――それは武藏野(今の東京)、越前の國のやた野、それから近江の國の眞野であつた。多分、それから少し後れて、歌ふ蟲の主もなものはどれもこれも、或る特別な地方を特に好んで棲んで居るので、其處へ行けばその特殊の歌唱を最も好く聽くことが出來るといふことを發見した。で、しまひには、異つた種類の蟲音樂に、日本中で、十一箇處も有名なところが出來た。

[やぶちゃん注:「越前の國のやた野」現在の石川県小松市矢田野町(やたのまち)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。

「近江の國の眞野」滋賀県大津市真野

 以下、私が位置を想起出来ない場所のみ注する。悪しからず。]

 

【注】松蟲を聽くのに一番好い處は――

 (一)山城の國の 京都に近い 嵐山、

 (二)攝津の國の 住吉、

 (三)陸奧の國の 宮城野。

 

【注】鈴蟲を聽くのに一番好い處は――

 (四) 山城の 神樂が岡、

 (五) 山城の 小倉山、

 (六) 伊勢の 鈴鹿山、

 (七) 尾張の 鳴海。

[やぶちゃん注:「神樂が岡」現在の京都市左京区南部の吉田神楽岡町(かぐらおかちょう)にある吉田山の異称。

「鳴海」愛知県名古屋市緑区鳴海町。]

 

【注】蟋蟀を聽くのに一番好い處は――

 (八) 山城の 嵯峨野、

 (九) 山城の 竹田の里、

 (十) 大和の 龍田山、

 (十一) 近江の 小野の篠原。

[やぶちゃん注:「蟋蟀」ここは原文は“kirigirisu”である。これは実は、日本では古く(平安時代)は現在の種(群)としての「コオロギ」のことを「きりぎりす」と呼び、現在の種としてのキリギリスのことを「機織(はたお)り」と呼んでいた。ところが、鎌倉時代から室町時代にかけてであったと推定されるのであるが、この「きりぎりす」を「こほろぎ」、「こほろぎ」を「きりぎりす」と呼ぶように逆転変化したらしい(この推移についてはサイト「コオロギは昔キリギリスだった? 虫の呼び名の謎」がよい。ご存じの「鈴虫」と「松虫」等の他の古典のややこしい逆転――但し、私はこの逆転説を支持しない。後に注する――も記されてある)。ところが、さらなる問題があって、漢字表記の「蟋蟀」がそのまま一緒に移行したなら、問題はさほど大きくならなかったのだが、「蟋蟀」と書いて「きりぎりす」と読むことが実は近代まで生き残ってしまったのであった。これは実は多くの方は知っているはずなのだ。何故なら、高等学校の現代文の伝家の宝刀、強力定番小説である芥川龍之介の「羅生門」の冒頭にその通りに登場するからである(「きりぎりす」は原作では踊り字「〲」であるが、正字化した。太字は私が施した)。

   *

 或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門(らしやうもん)の下で雨やみを待つてゐた。

 廣い門の下には、この男の外(ほか)に誰もゐない。唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる。羅生門(らしやうもん)が、朱雀大路(すじやくおほぢ)にある以上は、この男の外にも、雨(あめ)やみをする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子が、もう二三人(にん)はありさうなものである。それが、この男(をとこ)の外(ほか)には誰(たれ)もゐない。

[やぶちゃん注:中略。]

 下人は、大きな嚏(くさめ)をして、それから、大儀さうに立上つた。夕冷(ゆふひ)えのする京都は、もう火桶(ひをけ)が欲しい程の寒さである。風は門の柱(はしら)と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗(にぬり)の柱にとまつてゐた蟋蟀(きりぎりす)も、もうどこかへ行つてしまつた。

   *

授業では、この芥川龍之介の「蟋蟀(きりぎりす)」を漢字の「蟋蟀」からコオロギと採るか、ルビの現在の「キリギリス」で執るかで揉めるわけだが、それぞれの鳴き声からこれは一「聴」瞭然であろうと私は断じた。則ち、芥川龍之介はこれを平安末期の舞台に合わせて、「蟋蟀」と書き「きりぎりす」の古名でルビを振ったのだと、私はペダンチックな芥川龍之介にしてごく自然に受け入れられる。そもそもが、キリギリスの音(おと)ではSE(サウンド・エフェクト)として全く以って相応しくなく、五月蠅過ぎる。羅生門の荒廃と寂寥、盗人になるかならぬかという狭間の下人の荒涼たる心象風景に相応しいのは寂しいコオロギの音(ね)でなくてはならない。――閑話休題。ではこの小泉八雲の「きりぎりす」はどうなるのか? 私は正直、「コオロギ」で採りたい気がしている。小泉八雲が如何なる資料を基にしたかが判るとよいのだが、私の感性上は、「松蟲」「鈴蟲」の後に並べる、しかも古典的世界のそれは、私は「コオロギ」でなくてはならぬと思うのである。恐らくは大谷氏もそれを考えて「きりぎりす」とローマ字表記されているものを「蟋蟀」としたものと私は思うのである。但し、平井呈一氏は恒文社版作品集の「虫の音楽家」(一八七五年刊)では『キリギリス』としておられる。後は読者にお任せしよう。ただ、これは再度、問題になる。

「竹田の里」京都市伏見区竹田附近

「小野の篠原」滋賀県大津市小野。他に滋賀県近江八幡市篠原町もある。孰れか判らぬが、前者であろうか。]

 

 其後、歌ふ蟲を育てて賣ることが儲けになる商賣になつてから、蟲聞きに田舍へ行くといふ慣習は段々流行らなくなつた。然し今日でも都會に住居つて居る人は、宴會など催す折、客にこんな小さな動物の音樂を味はしめる計りで無く、その音樂が喚び起こす田舍の平和の懷ひ出や感じを味はしめようといふので、時に歌ふ蟲を入れた籠を庭の灌木の繁みの間へ置いたりする。

 

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