フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 2019年11月 | トップページ | 2020年1月 »

2019/12/30

芥川龍之介 長への命 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本篇は「長(とこしな)への命(いのち)」と読み、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』の掉尾に載る「長への命」の漢字表記を参考にしつつも、新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)の「長への命」(但し、漢字は新字表記)を底本とした。しかし、同新全集の「後記」によれば、本篇は明治四一(一九〇八)年二月二十八日発行の回覧雑誌『碧潮』第三号所収であり、これは葛巻が配置した小学校時代ではなく(そもそもが葛巻自身が末尾に『(明治四十年頃、「くづれ」の署名で。回覧雑誌『碧潮』第三号)』と記しているように、彼は既に明治三八年三月に江東小学校を卒業し、翌月四月に三中に入学しているのである)、東京府立第三中学校三年次のものである。葛巻氏もそれは判っていて、後注で『このお伽噺は、必しも小学校時代のものとは云えないかもしれない。――しかし、その「日の出界」、「お伽一家」』(『お伽一束』が正しく、また、これは別回覧誌ではなく、『日の出界』の臨時号の名である)『(小学校時代)にはじまる、一連の回覧雑誌中の一例(サムプル)』(「例」のみのルビ)『として、ここに掲げる』という苦しい弁解をされている。しかし、これは同書のパート立てを全く逸脱していて納得出来ないし、流れとして、これをここへ持って来たいという意図は、まあ、判るとは言えるものの、だったなら、初めっから、逆編年形式とか、時代別などをしなければよかったではないかと私は思う。それぞれに注を附しておけば事足りることではないか。こういう妙なところに、葛巻氏が芥川龍之介の原稿を小出しに、しかも恣意的にちらつかせては、出そうか出すまいか、と、何やら思案されているような姿が私には垣間見えてしまうのである。

 以上、漢字を「未定稿集」に主に従って正字で示した以外(「竒」などのように新全集の方が正しい字体で記している箇所もある)、葛巻氏の整序(第一段落末の句点打ち等)を施した部分も含めて文字列(字空けや改行)は完全に新全集版に基づいたもので示した。

 なお、故あって、本電子化を以って2019年の最後の私の仕儀とする。……では……よいお年を――

 

   長への命

 

        

 愚なる國王ありき 如何にもして長への命を得むと思ひて 多くの從者(ズサ)を召しつれつ 遠く東方の諸國に不老の泉を求めぬ

[やぶちゃん注:「一」は「未定稿集」にはなく、後で「二」と出るので不審ではあった。

「ズサ」のルビは「未定稿集」にはない。]

 行き行きてアゼンスの市近く來りし時遂に一行はとある山かげの岩に不老の泉の銀の如く湧き出るを見出しぬ 王喜ぶこと不斜 自ら馬より下りて之を掬へば 竒しや 白髯雛面の老爺は忽ち綠髮紅顏の壯夫となンぬ 王歡喜して云ふ「嬉しき哉 我は長の命のうま酒を得たり」

[やぶちゃん注:「岩」「未定稿集」では『岩〔窟〕』と補正注を添えてあるが、ここは、いらぬお世話であると私は思う。

「不斜」「なのめならず」。

「掬へば」「すくへば」。

「竒しや」「あやしや」。「未定稿集」は「竒」が「奇」である。

「雛面」はママ。「未定稿集」は『皺面』とする。確かに「雛面」ではおかしく、葛巻氏のの断りなしの補正は正しいかとは思う。]

        

 春風秋雨億萬々年 逐に地球永遠に眠るべき――生命(イノチ)あるものの悉く亡ぶべき――時は來りぬ 然も愚なる國王は未死す不能也

 月明なる夜 彼は枯骨の岡に立ちて氷河をかくるヒマラヤの絕嶺をのぞみ白雪に掩はるゝヨーロツパの大陸を眺め月に澄みたる蒼空の無窮を仰ぎ長く嘆じて云ふ「あゝ長の命は苦しかりき」

[やぶちゃん注:「あゝ長の命は苦しかりき」「未定稿集」では『あゝ 長の命は苦しかりき』と字空けが入る。

「ヨーロツパ」は「未定稿集」では『ヨーロッパ』である。]

 

[やぶちゃん注:「アゼンス」ギリシャの首都アテネ(Athens)の英語読み。但し、この「國王」がどの時代の人物で、彼にモデルがあるやなしやも判らぬ。識者の御教授を乞う。

 さて、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の本篇の解説で坂本昌樹氏は(なお、そこで当時の芥川龍之介を『中学四年』とされているが、これは三年の誤りである)、『典型的な不老不死譚を逆手にとった作品構成の巧妙さが、後の芥川独特の機知を既に彷彿させている。無為な不老長寿に対する否定的発想は、二年後の「義仲論」』(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版。冒頭に初出書誌を示してある)『に於ける木曽義仲の評価「彼の一生は短けれども彼の教訓は長かりき」』(「三 最後」の最終段落の一節)『を連想させる。徒らな「長への命」を懐疑し、短いながらも充実した義仲の「男らしき生涯」を肯定する志向に、当時の芥川の関心の一面を窺うことも可能かもしれない』と述べておられる。同感であるが、寧ろ、芥川龍之介自身の最期を考えると、これは、また、酷く皮肉な一篇ともなっているということに気づくではないか。]

芥川龍之介 春の夕べ 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本二篇は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「春の夕べ」の漢字表記を参考にし、新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)の「春の夕べ」(藤沢文書館蔵。恐らくは葛巻義敏旧蔵品。但し、漢字は新字表記)の明治三六(一九〇三)年二月発行の回覧雑誌『日の出界』臨時発行号の『お伽一束』に基づいて構成表記し直したものである。則ち、漢字を「未定稿集」に従って正字で示した以外、葛巻氏の整序した部分も含めて文字列(字空けや改行)は新全集版に基づいたものである。

 本回覧雑誌については先の「彰仁親王薨ず」の私の冒頭注を参照されたい。葛巻氏は末尾に『(明治三十六年)頃、「芥川龍雨」の署名で。回覧雑誌「お伽一家」)』とするが、「家」は誤判読であろう。当時の芥川龍之介は江東尋常小学校高等科一年次の満十歳の終り(芥川龍之介は三月一日生まれ)であった。

 やや讀み難いが、躓く部分については後注を施した。]

 

   春の夕べ

 

「あさひに、にヽをヽ山の櫻の」

と今日學校でをそわつた唱歌をうたいながら樂しげに 步んできた二人の少年

「ねー重ちやん今日の「かすみてみヽゆる」んとこねー大へんむづかしかつたね」

「あゝ あたいは「さくらのはヽなの」のとこが一番むづかしかつたよ 美(ミー)ちやんと重ちやんは 何かいをゝとした時

「一寸をたづね申します」

と見苦しき老僧は こしをかゞめてといかけた

「あの○○町の方へ行くのはどういつたらよろしいのでしよう」

「エ あの○○町なの こゝをまつすぐにいつて この橫丁から三番目の橫丁をはいると つきあたりがそうよ」

と美ちやんは丁寧に指さしてをしへた老僧は

「有難う御座います 南無阿彌陀佛々々々々々々

とくりかへしてさししめされた方がくへ とぼとぼと步んで行つた

 

[やぶちゃん注:一読、芥川龍之介が心から尊敬して交わった先達の文豪泉鏡花の小説の冒頭のように見まごう。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同作品の篠崎美生子(みおこ)氏の解説でも、『会話文を多量に含むやわらなか文体には、泉鏡花の影響があることが想像される。「愛読書の印象」』(大正九(一九二〇)年八月『文藝倶樂部』初出)『によれば、芥川は「中学へ入学前から(中略)鏡花氏の「風流線」を愛読していた」とのことであるが、初期文章の段階で、既にさまざな文体が試みられていることは注目に値しよう』と述べておられる。さて、以下、表記上の問題点及び「未定稿集」との違いについて述べる。

・冒頭の「あさひに、にヽをヽ山の櫻の」は、まず、歴史的仮名遣の誤りは総てママ。なお、「ヽ」であって「ゝ」ではない点に注意されたい。「チュてん」とでも言うべきか、通常はカタカナの繰り返しにしか用いない記号である。「未定稿集」では『にーをー』と長音符である。私は正直、そっちの方が、唱歌を歌っているのであるからには違和感がない。実際、長音符使用は今回纏めて行った初期の文章に散見するからでもある。以下の何箇所かも葛巻氏のそうするように、長音符の方がいいだが、ここは皆、新全集に従った。この唱歌、歌詞を整序してみると、「あさひに」「にほふ山の櫻の」「かすみてみゆる」「さくらのはなの」である。しかし、完全にこれに一致するものは私は知らない。但し、知られた「さくらさくら」又は「さくら」(日本古謡とされるが、実際には幕末に江戸で子供用の箏の手ほどきの一曲として作られたもので、作者は不明)の歌詞と単語と表現が酷似しているから、恐らく、芥川龍之介が仮想の鏡花的幻想小説世界へのトバ口として、それを少し弄った架空のもののように私には思われる。もし、完全一致する歌詞があるとなれば、御教授願いたい。

・「をそわつた」「未定稿集」も新全集もママ。

・『「あゝ あたいは「さくらのはヽなの」のとこが一番むづかしかつたよ 美(ミー)ちやんと重ちやんは 何かいをゝとした時』の鍵括弧閉じるがないのはママ。「未定稿集」は「むづかしかつたよ」で鍵括弧を閉じ、しかもそこで改行している。葛巻氏による断りなしの勝手な整序である。「さくらのはゝなの」は「未定稿集」では「さくらのはーなの」である。

・「いをゝと」前に徴して見るに芥川龍之介は「いをーと」としたつもりかもしれぬ。「言はうと」の意の誤記或いは訛りである。「未定稿集」も新全集もママ。

・「よろしいのでしよう」の「しよう」は「未定稿集」も新全集もママ。

・『「有難う御座います 南無阿彌陀佛々々々々々々』の鍵括弧閉じるがないのはママ。前と合わせて、これは落としたというより、芥川龍之介は確信犯でそう表記したのであると私は思う。「未定稿集」鍵括弧を閉じてある。やはり葛巻氏による断りなしの勝手な整序である。

 「芥川龍之介未定稿集」が「全集」の中に晴れて正当に組み込まれることがなく、今に至るまで一種の鬼っ子のような扱われ方がされ、しかも総じて芥川龍之介研究者の間で葛巻氏の評判があまり芳しくないのは、彼が芥川龍之介の未定稿や原稿断片を小出しにして発表したことや、さらにはそれらを恣意的に結合したり、断りなしに書き変えたりしたからである。しかし本篇については以上のように原本と比べて見ると、全体に「未定稿集」版の葛巻氏の操作は、本篇を読むに躓かぬようにという配慮をされての手入れと言え、概ね納得出来る操作であるとは言える。寧ろ、近年の勝手な機械的な漢字の新字化や、歴史的仮名遣の現代仮名遣への変換に比べれば、私は殆んど罪がないものであるとも言おう。

 泉鏡花や夏目漱石や森鷗外ばかりではない――既に鷗外を物理的に読めない高校生は甚だ多い――芥川龍之介の正字正仮名の作品をさえ――若者たちの多くが物理的に読めなくなってしまう――「こんなもん、読めるわけねえじゃん」とほくそ笑んで言い出すのも――そう遠くないように思われる。高校の国語で「こゝろ」や「舞姫」はおろか――「羅生門」も読まずに卒業して最高学府へ進学する若者が、これからカリキュラム上から、事実、生れてくるのだ――私はそら恐ろしい気が、今、確かにしている。

芥川龍之介 昆虫採集記 (二篇) 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:本二篇は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「昆蟲採集記㈠」及び「昆蟲採集記㈡」を基礎底本としたが、「昆蟲採集記㈠」の方は岩波の新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)に原本画像に拠って載る(但し、漢字は新字表記)ので、それと校合した。

 その新全集「後記」によれば、「昆蟲採集記㈠」(新全集では『実話 昆虫採集記』。「実話」は新全集では右から左へ横書でポイント落ち。以下本文でもその題名をポイント落ち一字空けで採用した。なお、「未定稿集」では『昆蟲採集記㈠(實話)』となっている)の方は小学校時代に同級生数人と始めた回覧雑誌『日の出界』の第三編、推定で明治三五(一九〇二)年五月発行のそれに載ったものである(葛巻氏は『(明治三十六、七年)』と最後にクレジットしている)本回覧雑誌については先の「彰仁親王薨ず」の私の冒頭注を参照されたい)。当時の芥川龍之介は江東尋常小学校高等科に入学したばかりの満十歳であった。

 以上の通り、最初のそれは「實話 昆蟲採集記」とし、漢字表記は「未定稿集」に従ったものの、新全集のそれでは一箇所を除いて句読点が一切ないのを採用し、最後の採集参加者名簿も並べて下方三字上げインデントで記されてあるのを真似て、引き上げて各人改行で示した。「未定稿集」では本文に続いて句読点附きで記されてはあるものの、原本には『並べて下に記されている。もちろん彼』(芥川龍之介)『の筆蹟のまま』(回覧雑誌は手書きである)と注してある。

 実は芥川龍之介は昆虫少年であったのである。]

 

    實話 昆蟲採集記

 

余は五月六日友上瀧汎上瀧嵬野口眞造吉田春夫の四人とつごう五人昆蟲採集におもむいた

仲間の中での笑わせ屋の野口は種々な笑種を出て笑せるしくたびれやの吉田はくたびれたと妙な顏をする嵬先生はあついといつて蛙が小便をなめたような顏しているし汎君は平氣でさきへあるいて行く。余は唯腹が空たといふばかりでる

[やぶちゃん注:「上瀧汎」「こうたきひろし」か。こちらの近代資料刊行会のサイトの雑誌集成の『社会事業の友』の目次の、同誌第七十六号(昭和一〇(一九三五)年三月発行)の中の、『台湾総督府主催第八回社会事業講習会』に『釈放者保護事業に就て 上瀧 汎』とあるのは、姓名の特異性からみて、恐らく、後の、この人物ではないかと思われる。最初に記しているところを見ると、以下の上瀧嵬(こうたきたかし)の兄か?

「上瀧嵬」(明治二四(一八九一)年~?)は龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いたと関口安義氏の新全集の「人名解説索引」にある。龍之介の「我が交友錄 學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月『中央公論』)では巻頭に『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小說にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり』とある。

「野口眞造」(明治二五(一八九二)年~昭和四〇(一九七五)年)は芥川龍之介とは江東尋常小学校附属幼稚園入学時以来の友人で私立商工中学校卒後、染織工芸家となった。日本橋呉服屋「大彦」の次男で、父の経営をする問屋や工場で、染色の考案・製作を学んだ。大正一四(一九二五)年、父の死に伴って「大彦」を継いだ。昭和二(一九二七)年には「大彦染織美術研究所」を設立し、伝統的な染色刺繡の研究や復元及びそれらに自身の創案を加味した正統的衣装捜索を活発に行う。皇室慶事の調製、大劇場の緞帳や大パネルなども手がけている(以上は「芥川龍之介私的データベース」の彼の記載に拠った)。同じく「我が交友錄 學校友だち」に、『野口眞造 これも小學以來の友だちなり。呉服屋大彥[やぶちゃん注:「だいひこ」とも読む。]の若旦那。但し餘り若旦那らしからず。品行方正にして學問好きなり。自宅の門を出る時にも、何か出かたの氣に入らざる時にはもう一度家へ引返し、更に出直すと言ふ位なれば、神經経質なること想(おも)ふべし。小學時代に僕と冒險小說を作る。僕よりもうまかりしかも知れず』と記している。兄の功造とともに芥川龍之介とは終生交際が続いた。

「吉田春夫」芥川龍之介の江東小・三中までは同級生であった人物と思われ、三中時代の回覧雑誌『流星』(明治三九(一九二二)年四月発行)の近未来戦争小説「廿年後之戰爭」の終りで、

   *

空前の大發明

 大軍醫吉田春夫氏 あらゆる病患を癒すべき藥品を發見す原名ヨークオッコルと云ふ由空前の大發明也

   *

と登場させているからには回覧雑誌にも加わっていたか、せめても、その読者ではあったものと思われる。

「出て」「だして」。

「笑種」「未定稿集」では「種」に『だね』のルビを振るが、これは葛巻氏の添えであることが判る。

「空た」「すいた」。

「でる」「である」の脱字。]

 やがて上野公園へきた

 そこで「アゲハノチヤウ」及「トンボ」をとらゑたが余空腹のためて食事をした

[やぶちゃん注:「とらゑた」ママ。

「空腹のためて」ママ。葛巻氏は補正したようで「ためで」となっているが、それでもおかしい。寧ろ「ために」の誤記であろうと思われる。]

 それより步む事一里餘にして木立暗き山に出でた、他の者はそこでべんとうをしようとしたが向をみると一つの森林があるからあすこにしようと細道をつたわつてそこにゆき他の者はべんとうを食たが、我は柏餅をくつた[やぶちゃん注:「未定稿集」はここで改行なしで以下全部続いている。]

[やぶちゃん注:「べんとう」ママ。後も同じ。

「つたわつて」ママ。]

其後そばの立木をけづり[やぶちゃん注:「未定稿集」はここで改行なし。]

下のようにしたゝめた

               上瀧  汎

               芥川龍之助

               上瀧  嵬

               野口 眞造

               吉田 春夫

 

 

[やぶちゃん注:以下は「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「昆蟲採集記㈡」(新全集には載らない)。葛巻氏は末尾に『(明治三十六年頃、「芥川龍雨の署名で。回覧雑誌「日の出界」)』と記す。但し、明治三六(一九〇四)年五月以降に発行された『日の出界』は確認されていない。しかし、この葛巻氏の注の書き方は現物雑誌を前にしているとしか思われない。現存しないか。〔 〕は葛巻氏の補正挿入。「とらゑた」「ようよう」「かゑつた」の表記はママ。]

 

   昆蟲採集記㈡

 

 今迄に私が一番面白かつた事をといふのですか 宜しい私が一つ話て見ませう

 時は六月三十日晴天を幸に友人二人と つごう三人網をかついで昆蟲採集に出かけた

 みるとよこの木枝に一個のはちのすがあつた さあこれこそ今日の得物にせよと一同 其はちのすをとつたところが中より數匹のはち劒をふつて我等にむかつてきた

 一生けん命向見ずにかけだしたところが 前にあつたどぶの中へズルズルボチヤリ

 ようよう上へ上つた 上では友が多くのはち〔を〕とらゑた所だ

 が我が着物 泥だらけだから それをぬぎ 友が二枚きていた着物を一枚まとひようよう實家にかゑつた(終)

 

芥川龍之介 彰仁親王薨ず 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版・三種テクスト表示)

 

[やぶちゃん注:底本は、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』に載る「彰仁親王薨ず」(既に述べたが、本書の「初期の文章」大パートは逆編年配列(小パート内も)という特殊なものである)及び本篇を所収している岩波の新全集第二十一巻の「初期文章」(一九九七年刊)のそれ(但し、漢字は新字表記)を校合し、手を加えて、特異的に三種のテクストを示してある。

 その新全集「後記」や平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の関口安義・庄司達也編「芥川龍之介作品事典」及び新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、小学校時代に同級生数人と始めた回覧雑誌『日の出界』の明治三六(一九〇三)年二月二十五日臨時発行の「お伽一束」に掲載されたもの(江東尋常小学校高等科一年次の終り。芥川龍之介満十歳(十一直前)。芥川龍之介は三月一日生まれである)である。関口安義編「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「回覧雑誌」の項によれば、この回覧雑誌『日の出界』は『半紙を紐で綴じた』形態であり、『芥川は編集主幹的立場にあり、毛筆で清書している。ただし、「表紙絵は悉く養父道章の筆になるもの」』(この引用は底本の「芥川龍之介未定稿集」の大パート「初期の文章」の頭にある葛巻氏の注の引用)『だという』とある。現在、『日の出界』は刊行時期(一九〇二年と翌年)の異なる時期の発行になる四冊が見つかっており、他に明治三七(一九〇四)年発行の別な名称の回覧雑誌『實話文庫』の存在も判っている(回覧雑誌癖は府立三中時代も続いている)。

 本篇は明治三六(一九〇三)年二月十八日に満五十七歳で病死した小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王の死を悼むものである。

 小松宮彰仁親王(弘化三(一八四六)年~明治三六(一九〇三)年)は陸軍軍人で官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第八王子。安政五(一八五八)年に仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受けて純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任したが、慶応三(一八六七)年、復飾を命ぜられ、仁和寺宮嘉彰親王と名乗った。明治維新にあって議定・軍事総裁に任ぜられ、戊辰戦争では奥羽征討総督として官軍の指揮を執っている。明治三(一八七〇)年、宮号を東伏見宮に改めた。明治七(一八七四)年に勃発した「佐賀の乱」には征討総督として、また、同十年の西南戦争でも旅団長として出征、乱の鎮定に当たった。明治一四(一八八一)年、維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められ、翌明治十五年に宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで「小松宮」に改称している。親王はヨーロッパの君主国の例に倣って、皇族が率先して軍務に就くことを奨励し、自らも率先して範を示したのであった。明治二三(一八九〇)年には陸軍大将に昇進し、近衛師団長・参謀総長を歴任し、日清戦争では征清大総督に任ぜられ、旅順に出征している。明治三一(一八九八)年に元帥府に列せられた。一方で国際親善にも力を入れ、明治一九(一八八六)年にはイギリス・フランス・ドイツ。ロシア等のヨーロッパ各国を歴訪し、明治三五(一九〇二)年のイギリス国王エドワードⅦ世の戴冠式には明治天皇名代として臨席している。社会事業では日本赤十字社・大日本水産会・大日本山林会・大日本武徳会・高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。その他の功績の一つとしては蝦夷地(北海道)の開拓に清水谷侍従と共に深く関わった(以上はウィキの「小松宮彰仁親王」に拠った)。死因は過労による脳充血発作とされる。「芥川龍之介作品事典」の熊谷信子氏の本篇の解説で、『少年期の芥川がなぜ小松宮彰仁親王に傾倒していたのか、作家論からのアプローチが待たれるところである』と擱筆されておられるが、芥川龍之介は「追憶」(大正一五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載され、後に『侏儒の言葉』に所収された。リンク先は私の古い電子化注サイト版)で、

   *

       畫

 僕は幼稚園にはひつてゐた頃には海軍將校になるつもりだつた。が、小學校へはひつた頃からいつか畫家志願に變つてゐた。僕の叔母は狩野勝玉と云ふ芳涯の乙弟子(おとでし)に緣づいてゐた。僕の叔父も亦裁判官だつた雨谷に南畫を學んでゐた。併(しか)し僕のなりたかつたのはナポレオンの肖像だのライオンだのを描く洋畫家だつた。

 僕が當時買ひ集めた西洋名畫の寫眞版は未だに何枚か殘つてゐる。僕は近頃何かの次手(ついで)にそれ等の寫眞版に目を通した。するとそれ等の一枚は、樹下に金髮の美人を立たせたウイスキイの會社の廣告畫だつた。

   *

と述べている。海軍軍人というのは当時の男児の定番の希望ではあるが、彰仁親王の海外歴訪や活発にして多様な社会事業への参与などが、新時代の人物としての魅力を持っていたものとも言えるのではあるまいか。

 標題脇附の『――つゝしみて 芥川龍之助記――』は新全集の「後記」にも記されてある署名である。但し、新全集では前後のダッシュはないので、それを除いて示した。「芥川龍之助」の「助」表記は当時の彼の自筆署名に見られる。芥川龍之介は後年、この「助」の字を嫌い、その宛名で書かれた書信には返事を出さなかったという伝説もあるが、この「芥川龍之助」は底本の『〔小学時代㈡〕』の葛巻氏の最後の注に、この「助」は芥川家での慣用表記であって、実名はやはり本名「芥川龍之介」であって、この本名は『実父のみではなく、その実母共々の銘々でもあり、「長女初、次女久。長男芥川龍之」』(太字は底本では傍点「○」。以下、この注内引用では同じ)『と明らかに二回暑された、その実母の一冊の「手控え」を編者は今日も所蔵している』とあり、新原家除籍と芥川家への養子縁組のために明治三七(一九〇四)年八月三十日、『本所区役所に届けられた届では、まだ芥川家での慣用のまま、一時「龍之」として届けられ、間もなく彼』(芥川龍之介)『自身の意志も加わり、両親達が名付け、判決正本』(新原家推定家督人廃除の訴訟の判決を指す)『通り、「龍之」と改められた。因に養父道章(みちあき)は、その幼名を「長之助」とも言った』とあることで、芥川家で「助」の字が用いられた慣用名を名乗らされた理由もこれで判り、「芥川龍之介は芥川龍之助が正しい」とする風説はこれで誤謬であることがはっきりするのである。

 底本は各段落一字下げとなっているが、新全集版は字下げがない。後者に従った。また、底本も新全集も孰れも総ルビ(標題と数字を除く)であるが、それだけを示すと、甚だ読み難いことから、まず、①ルビを除去したものを示し、そのあとに、②読みを新全集(「後記」の「凡例」に原稿の読みはそのままに写したとする。現代仮名遣部分が殆んどで誤表記も複数認められる)で示し、その後に③底本の葛巻氏によって補正されたものらしい歴史的仮名遣に従ったそれを附したものを掲げることとした。

 

①ルビ排除版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風は凄颯として草木悲み雲は暗淡として山川憂ふ鳴呼之明治三十六年二月十八日曉天の光景にあらずや

此の日此の時元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下御腦症を以て橋場の御別㙒に薨去せらる

あゝ殿下の功烈かぞへ來れば日も亦た足らず殿下は實に故有栖川大將宮故北白川大將宮と共に明治の三柱とぞとなへられさせ給ふ

天は何故に我が國に幸をさづけざるぞ先に有栖川宮殿下を失ひ次に北白川宮殿下を失ひ今又小松宮殿下を失ふあゝ悲きかな

 

②一九九七年岩波書店刊の新全集「芥川龍之介全集」のルビに従った版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風(かぜ)は凄颯(せいさつ)として草木(そうもく)悲(かなし)み雲(くも)は暗淡(あんたん)として山川(さんせん)憂(うれ)ふ鳴呼(あゝ)之(これ)明治(めいじ)三十六年(ねん)二月(がつ)十八日(にち)曉天(ぎようてん)の光景(くわうけい)にあらずや

此(こ)の日(ひ)此(こ)の時(とき)元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下(げんすゐりくぐんたいしようだいくんいこまつのみやあきひとしんのーでんか)御腦症(ごのーしよう)を以(もつ)て橋場(はしば)の御別㙒(ごべつしよ)に薨去(がうきよ)せらる。

あゝ殿下(でんか)の功烈(こうれつ)かぞへ來(きた)れば日(ひ)も亦(ま)た足(た)らず殿下(でんか)は實(じつ)に故有栖川大將宮(こありすがわたいしようのみや)故北白川大將宮(こきたしらかわたいしようのみや)と共(とも)に明治(めいじ)の三柱(ちう)とぞとなへられさせ給(たま)ふ

天(てん)は何故(なにゆへ)に我(わ)が國(くに)に幸(さいはひ)をさづけざるぞ先(さき)に有栖川宮殿下(ありすがわのみやでんか)を失(うしな)ひ次(つぎ)に北白川宮殿下(きたしらかわのみやでんか)を失(うしな)ひ今(いま)又(また)小松宮殿下(こまつのみやでんか)を失(うしな)ふあゝ悲(かなし)きかな

 

③一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の正仮名ルビ版

   彰仁親王薨ず

       つゝしみて 芥川龍之助記

風(かぜ)は凄颯(せいさつ)として草木(さうもく)悲(かなし)み雲(くも)は暗淡(あんたん)として山川(さんせん)憂(うれ)ふ鳴呼(あゝ)之(これ)明治(めいぢ)三十六年(ねん)二月(ぐわつ)十八日(にち)曉天(げうてん)の光景(くわうけい)にあらずや

此(こ)の日(ひ)此(こ)の時(とき)元帥陸軍大將大勳位小松宮彰仁親王殿下(げんすゐりくぐんたいしやうだいくんゐこまつのみやあきひとしんわうでんか)御腦症(ごなうしやう)を以(もつ)て橋場(はしば)の御別㙒(ごべつしよ)に薨去(こうきよ)せらる。

あゝ殿下(でんか)の功烈(こうれつ)かぞへ來(きた)れば日(ひ)も亦(ま)た足(た)らず殿下(でんか)は實(じつ)に故有栖川大將宮(こありすがはたいしやうのみや)故北白川大將宮(こきたしらかはたいしやうのみや)と共(とも)に明治(めいぢ)の三柱(ちゆう)とぞとなへられさせ給(たま)ふ

天(てん)は何故(なにゆゑ)に我(わ)が國(くに)に幸(さいはひ)をさづけざるぞ先(さき)に有栖川宮殿下(ありすがはのみやでんか)を失(うしな)ひ次(つぎ)に北白川宮殿下(きたしらかはのみやでんか)を失(うしな)ひ今(いま)又(また)小松宮殿下(こまつのみやでんか)を失(うしな)ふあゝ悲(かなし)きかな

 

[やぶちゃん注:「橋場」現在の東京都台東区橋場(グーグル・マップ・データ)。

「別㙒」別荘。

「有栖川大將宮」有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう 天保六(一八三五)年~明治二八(一八九五)年一月十五日)。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の長子。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷運動を支持、元治元(一八六四)年に国事御用掛に任ぜられたが、同年の「蛤御門の変」(禁門の変)で長州藩士に荷担した故を以って謹慎を命ぜられた。慶応三(一八六七)年十二月、王政復古とともに総裁職に就任、翌年の戊辰戦争では、二月に東征大総督となり、官軍を率いて東下して江戸に入った。後、兵部卿・福岡県知事・元老院議長を務め、明治一〇(一八七七)年の西南戦争では征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣・参謀本部長・参謀総長を歴任した。日清戦争では広島大本営で軍務をとったが、病を得て没した(以上は小学館「日本大百科全書」他を参照した)。

「北白川大將宮」北白川宮能久親王(よしひさしんのう 弘化四(一八四七)年~明治二八(一八九五)年十月二十八日)か。伏見宮邦家親王第九子。青蓮院・梶井門跡を経て、安政五(一八五八)年十月、親王宣下により、能久の名を受け、得度して公現と称した。慶応三(一八六七)年五月、輪王寺門跡を相続したが、「鳥羽・伏見の戦い」の後、寛永寺で謹慎していた徳川慶喜を救解すべく、駿府城に赴いて、東征大総督熾仁親王に嘆願。その後、彰義隊に擁され、寛永寺に立て籠ったが、新政府軍の攻撃を受け、会津に脱走、奥羽越列藩同盟の盟主となる。明治元(一八六八)年九月、奥州が鎮定されると、謝罪状を提出、親王停止と謹慎処分を受けたが、翌年十月に赦免されて伏見宮に復した。同五年、北白川宮を相続した。一方それに先立つ明治三年十二月より、兵学研究のためにドイツに留学、明治十(一八七七)年に帰国した後、陸軍中佐・少中将と昇進し、明治二十八年には近衛師団長となって日清戦争に出征、台湾鎮定に当たったが、同年三月、台湾で抗日の兵が決起、その鎮圧に当たる中、台南にて病没した(以上は「朝日日本歴史人物事典」他を参照した)。彼は亡くなった時は陸軍中将であったが、死後に贈大将されている。]

2019/12/29

芥川龍之介 暑中休暇の日誌 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔小学時代㈡〕』の最初に載る「暑中休暇の日誌」に拠った。既に述べたが、本書の「初期の文章」大パートは逆編年配列(小パート内も)という特殊なものである。

 本篇は明治三七(一九〇四)年の七月二十一日(木曜)から同年八月三十一日(水曜)までの、当時、芥川龍之介が在学していた江東尋常小学校(現在の墨田区立両国小学校の前身であるが、明治四十一年に江東小学校は相生尋常小学校を併合して相生尋常小学校に変わり、校名変更が四度あった後、昭和二六(一九五一)年三月一日に東京都墨田区立両国小学校と校名変更している。「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)によれば、芥川龍之介在学当時の校名「江東」の読みは「こうとう」であり、また、関東大震災によって校舎が全壊・全焼したため、芥川龍之介の学籍簿等は、現在、残っていないとある)高等科(同小学校入学は満六歳の明治三一(一八九八)年四月で、高等科入学は明治三十五年四月)三年次の夏季休暇中の日記である。

 しかも、この年と、この日記の期間は芥川龍之介にとっては忘れられぬ年であったはずである。何故なら、先立つ同年三月九日、実家新原(にいはら)家では親族会議が行われ、龍之介を新原敏三の推定家督相続人から廃除する訴訟の請求が決せられ、五月四日、東京地方裁判所民事部法廷に十二歳の龍之介が当該訴訟の被告として出廷させられ、裁判長の尋問を受け、六日後の五月十日に推定家督相続人から廃除の判決を受けているからである。しかも、当該日には何らの記載もないが、実は夏季休暇の終わる直前、八月三十日、新原家から除籍され、芥川道章と養子縁組して(本所区役所へ届出)龍之介は芥川家の養嗣子となって、新原龍之介は芥川龍之介となったのであった。なお、本日記当時の芥川家は本所区小泉町十五番地(現在の墨田区両国三丁目二十二番十一号。グーグル・マップ・データ)にあった。

 平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」によれば、原稿が現存し、山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集」(一九九三年刊)に載り、新全集の宮坂覺氏の年譜の同年の記載の多くは、それ、則ち、本篇の原稿に依って記載されてある。私は「芥川龍之介資料集」の現物さえ見たことがないので、ここでは宮坂年譜の記載と内容を校合した

 標題脇には葛巻氏による、

   〔――満十二歳――〕

と言う添え辞があるが、除去した。

 読点は一切ない。〔 〕は葛巻氏による補正挿入で、多数ある。踊り字「〱」は正字化した。日録の間は行空けがないが、一行空けた。]

 

   暑中休暇中の日誌

 

 七月二十一日 曇後晴

 下女に搖り起されて 折角樂しく進んで居た夢の國を離れたのは 丁度五時三十分でした いやなセピア色をした雲が二ツ三ツ 御用[やぶちゃん注:右に葛巻氏による『〔五葉〕』の補正注がある。]の松の木のかげから靜かに吹き透る朝風にあほられて面白いよー[やぶちゃん注:ママ。以下、同様の箇所が何度も出てくるが、注しない。]に流れて行くのを眺めながら 朝飯をしたゝめました 食後一定の復習を完へ 二三の友人を訪れたり 地圖の制作や 作文の原稿を作つたりして 十時迄費しました

 十時半頃 弟と叔母とが來たので 折角樂しみにして居た讀書も 十二分に出來ませんでした 晝頃 弟が晝寐をしてゐる中に又々地圖や圖畫をかきました が 起きはしないかと氣づかふ有樣は とんだ賴山陽先生でありました 今夜 叔母と弟〔は〕自分の家に泊る事になりました 寢床九時二十分

 

[やぶちゃん注:今時の中一生も、当時の私も、自らを歴史家・漢詩人で画人としても知られた頼山陽(安永九(一七八一)年~天保三(一八三二)年)に擬するような仕儀は成し得ない。早くも芥川龍之介の自負が垣間見える。但し、事実、小学校入学時の芥川龍之介は洋画家志望であったことは余り知られていないであろうから、言い添えておく。

「弟」芥川龍之介の異母弟で七つ下の新原得二(にいはらとくじ 明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)。芥川の実父新原敏三と、実母フクの妹(芥川龍之介の叔母)であったフユとの間に生まれた。この当時は、未だ満五歳。龍之介がやさしい気遣いをしているのが微笑ましい。彼は父敏三に似た野性的な激しい性格の持ち主で、後、上智大学に進学したが、中退した。岡本綺堂について、戯曲「虚無の実」を書いたりもしたが、文筆には満足出来ず、後、日蓮宗に凝りだしたりして、しばしば芥川を悩ませた。芥川は死に際しての妻文(あや)宛の遺書の一つで、実姉ヒサ(底本編者葛巻義敏氏の実母で龍之介より四歲年上)及びこの得二とは絶縁せよと命じていたともされる(推定される当該部分が破棄されているために確言は出来ない)。私の「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」の私の注を参照されたい。

「叔母」新原(旧姓芥川)フユ。芥川龍之介にとっては義母でもあるが、彼は彼女のことを「芝の叔母」と呼んだ。]

 

 七月二十二日 曇後[やぶちゃん注:以下、なし。]

 起床 六時四十分

 今朝はステキに朝寢坊をしたが 復習 地圖共に少し許りやりました しかし 許〔り〕と云つても 決してなまけたのではないので 讀書は弟にかくれて思ふ樣やりました

 夕方弟や叔母とつれ立て叔母の家に赴きました 叔母の家は芝なので三田行の電車に駕して居ねむりを仕い仕い[やぶちゃん注:「しいしい」。]目的地(大げさですが)についたのは八時頃でした 寐床八時三十分

[やぶちゃん注:「寐床」「びしやう(びしょう)」と読んでおく。就寝。]

 

 七月二十三日 半晴半曇後雷雨[やぶちゃん注:土曜日。]

 今朝は昨日の失策を取りかへして臥床をはなれたのは午前四時でありました 直さま [やぶちゃん注:「すぐさま」。]屋根傳[やぶちゃん注:「づたひ」。]に火見に登〔つ〕て 淸らかな朝景色をながめた時の心持は眞に何とも言へない感にうたれて 丁度神樣の前へびざまづいた樣でありました 讀書で一日を暮しました 夕方 霹靂空をつんざき雷光目に燒金をさすが如しの恐しい光景が演ぜられて 自分は蚊帳の中にうづくまり「桑原桑原」をつゞけました 此の日の雷は大凡二十三所ばかりもをちた[やぶちゃん注:ママ。以下、同様の表記が多数出るが、注さない。]と云ふ事です 落雷した所のさけた竹のくづや杉の皮などをもらひに來る者がたくさんあるとは迷信者の多い世の中哉[やぶちゃん注:「かな」。] 但それが雷よけになると云ふので

[やぶちゃん注:「火見」「ひのみ」でこれは「火の見櫓」の略であるが、ここは家の屋根の上の物干し台のような場所であろう。]

 

 七月二十四日 半晴半曇

 晝迄は兼てたづさへて來た敎科書をひもときました 晝過 叔父及姊弟と共に新宿の角力を見物しました

 夕方 そばの草原でとらへた甲虫を御生大事とぶらさげて櫓〔太〕鼓の音に送られながら家に(叔母の)かへつたのは六時三十分でした 寐床七時三十分(頗る早寐です)

[やぶちゃん注:当時の夏場所は新宿で興行されていたものか。因みに面白いことに、先代の国技館は京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。幼少期の芥川龍之介の馴染みの遊び場である。但し、その旧国技館は明治四二(一九〇九)年竣工である。]

 

 七月二十五日 雨後曇

 起き上りざま雨戶を開けばチヨツ失敬な 太陽はザーザーザーザー雨をふらしているので「ひどい奴」と少からず太陽をうらんだが その恨言が聞えたと見えてやがて雨もふりやみました

 晝過 父がむかひに來たのでつれだつて家にかへりました かへりに星の光が二ツ三ツハイ左樣ならとでも云ふよーに雲間からもれていました。

[やぶちゃん注:「父」とは、ここでは未だ養子縁組が行われていない芥川道章(実母フクの兄)のことであることに注意。芥川龍之介は生れて未だ八ヶ月の時に母フクが精神疾患を発症したために、フクの実家であった道章の家に引き取られ、そのままそこで道章とその妻儔(とも)及び伯母フキ(実母フクの姉で道章の妹。芥川龍之介に大きな影響を与えた人物である)に養育されてきたのである。以下での単なる「父」は総て芥川道章である。]

 

 七月二十六日 曇後晴

 今朝起きぬけに日頃愛玩している樫のステツキ(木刀にちかい)をふりまはしながら 大川端を散步しました 綠の糸をたるゝ柳や まつくろな木立や 淸々した川の流れや 蟹の甲らをならべたよーな石崖などが のどかな朝日に照らされて 〔一〕緖によろこびの聲を上げて之をむかへるよーにかゞやき渡つています 此の趣のある氣高い[やぶちゃん注:ここに底本では『〔この間脫字〕』ありと葛巻氏の割注がある。]見とれて暫く往來に立づんで[やぶちゃん注:ママ。]をりました 家にかへつてから父に日記を見せたところが「もう一寸字をきれいに御書き」と云はれました

 

 本日 新宿から攜へてきた甲蟲を標本に製作し 又地圖に[やぶちゃん注:「に」の右横に葛巻氏は『〔は〕』と訂正注を施すが、寧ろ「には」の「は」の脱字とした方がよいようにも思われる。]一日をくれましたが 今日で全部出來ました

[やぶちゃん注:芥川龍之介は昆虫好きの少年であった。後に「昆蟲採集記」(二篇)を電子化する予定である。]

 

 七月二十七日 曇

 今日から二つ役目を〔引〕受けました 曰く庭掃除 曰く掃除 掃除と云ふのは 自分の居間と食堂と寐室とを兼ねている四疊半の一間を片づけるのです 復習讀書 例如

 夕方 のりの强いゆかたを着て庭の松の下の影に涼みました えも云はれぬ涼風に 思はず 夕月と此の秋風を吾一人こゝに占たり[やぶちゃん注:「しめたり」。]菩提樹の影の歌を思ひ出しました 松と菩提樹 夏と秋 ところ違へ 涼しさの甲乙はありますまい

[やぶちゃん注:一首の作者と出所は不明。識者の御教授を乞う。]

 

七月二十八日曇後雷雨

「今日は」と筆をもつてももう書きつゞけることは出來ない次第 一學期の御褒費[やぶちゃん注:ママ。褒美の芥川龍之介の誤字。]として兼て文してあつた蘆花の思ひ出の記がきたので 復習も何もかも休んで之を通讀しました 蓋しこの本は自分にとつては唯一の興奮ざい[やぶちゃん注:「劑」。]で 少なからず「勉强は幸福の基」と云ふ格言をたしかめる事が出來ました

 けれ共 むらむらも〔え〕出た勵[やぶちゃん注:「はげみ」。]の焰は いつ怠惰の水に消される事やら

[やぶちゃん注:「蘆花の思ひ出の記」德冨蘆花(明治元(一八六八)年~昭和二(一九二七)年:彼は「冨」字に拘ったのでここでもその表記を用いた)の自伝的長編小説「思出の記」(おもひでのき:明治三四(一九〇一)年五月民友社刊。初出『国民新聞』明治三三(一九〇〇)年三月から翌年三月連載)。小学館「日本大百科全書」から引くと、『九州の士族、菊池慎太郎は、幼時、家業の破産と父の死に』遇い、『母に家名再興を迫られて』、『発奮』、『やがて出郷』し、『苦難を重ね』て『帝国大学文科を卒業し、愛するお敏(とし)と結婚、在野の評論家として身をたてるまでになる。その間、キリスト教に触れ、自由人的な生き方に目覚める』。作品の終りの『帰省の場面に描かれている新吾の炭鉱経営と松村の農業』の生計の姿は、『蘆花の理想であった。明治前期の時代の上昇気運を明るく描いた浪漫』『主義文学の傑作で』、蘆花はチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens 一八一二年~一八七〇年)の名作で自伝的小説「デビッド・カパーフィールド」(David Copperfield:初出は雑誌連載で一八四九年から一八五〇年)を手本としつつ、『蘆花自身の思い出の断片を生かして書』いたものとされる。さても私も蘆花の大ファンなのだが、最初に「自然と人生」を読んだのは高校二年の時だった。ただ、蘆花の家庭小説は当時、「不如帰」(明治三十三年民友社刊。初出『国民新聞』一八九八年から翌年連載)で爆発的流行作家となり、多くの若者に読まれた。芥川龍之介の「小說を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」(大正八(一九一九)年一月一日発行の『新潮』初出。リンク先は私のもの)では『德富蘆花の「思ひ出の記」や、「自然と人生」を、高等小學一年の時に讀んだ』とある。本日記三年次であるが、これは記憶の錯誤というよりも、初出の『国民新聞』版を幾つか読んでいたものと混同している可能性もあろう。]

 

 七月二十九日 曇後雷雨

 昨日の日記は筆が走つて何だか解らぬ事を書いてしまつたので 後で氣がついたがもう駄目 後の後悔前にたゝずでした

 晝頃から叔母が(但弟をつれずに)來て 雜多な話をしている中にポツリポツリ豆粒(チト誇大なれど)の雨がをちてくると同時に ガラガラガラと前から恐がつていた雷公が 雷獸の皮ではつたらしい太鼓をたゝきはじめました しかしさのみはげしくはないです

 雨が晴れる 叔母が歸る 號外が出る 父が歸つてくる 蛙がとび出す 日が暮る 蚊音樂を奏す 足が赤くふくらがる 蚊張をつる 寐る 後は有耶無耶の鄕

[やぶちゃん注:「號外が出る」この日の号外とは日露戦争に於ける「旅順攻囲戦」の前哨戦のそれである。日本陸軍第三軍は同年七月二十六日に旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始し、その主目標を東方の大孤山とした。三日間続いた戦闘で、日本軍二千八百名、ロシア軍千五百名の死傷者を出し、三十日、ロシア軍は大孤山から撤退している。この明治三十七年七月二十九日附の『報知新聞』の『第二號外』の現物写真をオークション・サイトで見つけた。そこには(「●」は現物では中央が小さく丸く白抜きである。画像は小さかったが、拡大して以下のように全文を判読出来た)、

   *

   ●旅順の大海戰

      (敵艦隊の殲滅)

今朝七時旅順の敵艦は數を盡して突出し我東鄕艦隊と激戰を交へたり

敵艦は我艦隊の大打擊を受けて殆んど殲滅され我艦隊にも多少の損害ありたり

[やぶちゃん注:以上は上段。以下は下段で現物ではポイント落ち。]

右は部下の某所に達したる報道なるが我社の門司特派員より午前七時旅順方面に大砲聲ありたりと急報し來れる特電に照合すれば事實海戰ありしものゝ如し尙ほ確報を得て詳報すべし

   *

と読めた。芥川龍之介が見たものがこれとは限らぬが、まず、この事件の号外であろう。但し、前に記した前哨戦は陸軍によるもので、それと平行して海軍が海戦を行ったとする記載は私は見出せなかった。別にこうした海戦があったものか、それとも陸戦の誤認か、或いは、海軍が陸軍の孤山攻略に援護射撃をした結果としてロシア艦隊との間に小競り合いがあった事実か風説かが、よく判らぬ。]

 

 七月三十日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 今日は兼て入會すると云〔は〕れていた宇田君や 坂口君や 村越君や 深町君へ送りとゞける遊泳協會(自分の行つている水練場)の規則書を 前にも云つた 諸君へとゞけました 但深町君は住所がわからぬので宇田君に托してきました 其他 復習 讀書

 夕方 前の諸君(但深町君を除て)と柳橋の内外裝飾株式會社へ水泳帽子を求めに赴き歸途兩國廣小路の燈籠を見物しましたけれども あンまり面白い繪はなく 大體殘〔酷〕な繪や馬鹿馬鹿しい繪ばかりでした

[やぶちゃん注:成人した芥川龍之介が文字通りの「河童」で水泳が得意であったことはよく知られえいるが、この日記は――河童になる芥川龍之介の記録――でもあるのである。「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「江東小学校」の項のコラムによれば、『龍之介の江東小学校時代の頃の大川(隅田川)は、水は汚れておらず、水泳に適し、川端には水泳場が用意されていた。身体の弱かった龍之介は、級友の清水昌彦・吉田春夫らと、ここに通って水泳を習った』とある。また、芥川龍之介が恋慕した一人佐野花子氏(海軍機関学校英語教官であった時の同僚の若妻。芥川龍之介の研究者は一人残らず、彼女が芥川龍之介に愛されたと主張する当該書は妄想の類いとして全く問題にしないが、私は誤認やある種の病的な錯誤部分はあるものの、佐野花子氏のそれは芥川龍之介研究の中でもっと正当に扱われ、復権されるべき書物であると大真面目に思っている人間である)『「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (三)』のシークエンスが私は忘れられないが(同書は昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊で佐野花子・山田芳子(花子の娘)著)、芥川龍之介の「追憶」(大正一五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載され、後に『侏儒の言葉』に所収された。リンク先は私の古い電子化注サイト版)にも「水泳」の条がある。

   *

       水  泳

 僕の水泳を習つたのは日本水泳協會だつた。水泳協會に通つたのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通つた筈である。當時は水泳協會も蘆の茂つた中洲から安田の屋敷前へ移つてゐた。僕はそこへ二三人の同級の友達と通つて行つた。淸水昌彦もその一人だつた。

 「僕は誰にもわかるまいと思つて水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびつくりしてしまつた。ウンコは水よりも輕いもんなんだね。」

 かう云ふことを話した淸水も海軍將校になつた後、一昨年(大正十三年)の春に故人になつた。僕はその二、三週間前に轉地先の三島からよこした淸水の手紙を覺えてゐる。

 「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併發してゐる。妻は僕と同じ病氣に罹り僕よりも先に死んでしまつた。あとには今年五つになる女の子が一人殘つてゐる。………まづは生前の御挨拶まで」

 僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思ひ、なんとか云ふ發句を書いたりした。今はもう發句は覺えてゐない。併し「喉頭結核でも絕望するには當たらぬ」などと云ふ氣休めを並べたことだけは未だにはつきりと覺えてゐる。

   *

引用に登場する「淸水昌彦」(?~大正一四(一九二五)年)は江東小学校及び東京府立第三中学校時代の芥川龍之介の親友で回覧雑誌仲間の一人。明治三九(一九〇六)年の三中一年次生だった芥川龍之介が書いた、近未来の日仏戦争を描く、夢オチ空想科学小説「廿年後之戰争」(回覧雑誌『流星』に書いたもの)の中で、好戦の末、轟沈する『帝國一等裝甲巡洋艦「石狩」』の最期を報じる「石狩分隊長少佐淸水昌彦氏」として登場している。さらに、芥川龍之介の「本所兩國 附草稿 附やぶちゃん注」(昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回の連載(二日分が休載)で『大阪毎日新聞』の傍系誌『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記」を附して連載されたもの。芥川龍之介は大阪毎日新聞社の社員である)から「大川端」の一部を引用しよう。

   *

僕の水泳を習ひに行つた「日本ゆう泳協會」[やぶちゃん注:「ゆう」のひらがなはママ。]は丁度この河岸にあつたものである。僕はいつか何かの本に三代將軍家光は水泳を習ひに日本橋へ出かけたと言ふことを發見し、滑稽に近い今昔の感を催さない譯には行かなかつた。しかし僕等の大川へ水泳を習ひに行つたと言ふことも後世には不可解に感じられるであらう。現に今でもO君などは「この川でも泳いだりしたものですかね」と少からず驚嘆してゐた。

   *

「柳橋」東京都台東区柳橋(グーグル・マップ・データ)。

「兩國廣小路」中央区東日本橋にある両国橋の両袂を指す(グーグル・マップ・データ)。

「燈籠」名越祭りの燈籠祭りか。鎌倉のぼんぼり祭りみたようなものか。]

 

 七月三十一日 大雨大雷後曇

 本日は二十三日の雷のよーに鳴て鳴り通し をちてをちてをちとーしました なんぼ多く落るにしろ 三十五ケ所迄をちるとは 實に驚くより外はありません

 復習も何も休で 水の中ヘポチャポチャ入て遊びました 寐床八時

 

 八月一日 晴

 今日 朝から大島君が來たので 晝迄二人して遊びました 晝過 宇田 坂口 村越の諸君と水泳を試みたが(大島君も一しよに行つたが 御藏橋の邊に釣を見ていられた)水が獨待つている[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]のと大島君が待つているので 早くかへりました 四時頃大島君歸宅 寐床九時十分

[やぶちゃん注:「大島」大島敏夫。回覧雑誌仲間の一人。]

 

 八月二日 晴

 早朝 庭前で赤蛙を一匹殺しました 蓋し骨格を作る目的で

 復習 讀書 如例 綠のかげをなす柳の下で禁を破つて 晝寐をしました 晝過 いつもの如く水泳 寐床十時二十分前

[やぶちゃん注:「禁を破つて」こう書くからには、これは単に芥川龍之介自身が自身に課したものであったのであろう。]

 

 八月三日 曇小雨

 いやなまつくろな雲が二つ三つ北の方にあたまを出したと思ふともう空一面にひろがつて まるでうすゞみの樣な色になつたので 樂しい水泳も出來ず 復習と讀書とにふけりました。午前小雨がありました

 

 八月四日 曇小雨

 又今日も曇……雨さへショボショボふつてくるし「チエースト天とうの馬鹿野郞め」抔[やぶちゃん注:「など」。]と氣狂のよーにどなつたりしていました 今日も又讀書復習遊戲 寐床八時二十分

 

 八月五日 晴

 上天氣上天氣 紺丈色[やぶちゃん注:「紺靑色」の誤記。]をした限りない大空は 待ち兼ていた僕等にその顏を見せました 讀書復習例如水泳後ザツと湯をあびて いゝこゝろ持に寐たのは 九時十五分

 

 八月六日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 今日晝前は例によつて復習讀書洒掃 童すぎ水泳 夕方友人K生(名前は云はぬが江東學校の人ではない)と 明治座の活動寫眞を見物しました 寢床十一時

[やぶちゃん注:「洒掃」は「さいさう(さいそう)」で、「灑掃」とも書き、「洒」も「灑」もともに「水を注ぐ」の意で、水をかけたり、塵を払ったりして綺麗にすることで、「清掃」に同じい。]

 

 八月七日 晴

 今朝昨夜のつかれで八時迄寐すごしました 復習讀書水泳例如 但し復習はまだ少し寐い[やぶちゃん注:「眠(ねむ)い」の誤記。]ので十分に出來ませんでした 寐床八時十分

 

 八月八日 晴

 今朝? いや大分前から冒頭へ今朝ををく[やぶちゃん注:ママ。]が 今朝 朝の内は散步をし かえるとすぐ復習 と云ひたいが これは今日は休みました 讀書水泳例如

[やぶちゃん注:頭の部分は自分の自動作用に批判を述べているのである。流行作家になった後の芥川龍之介も、自身の創作活動の自動作用的傾向には敏感でよく自己批判をしている。「藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月発行『新潮』初出、リンク先は私のサイト版)の一節で龍之介はこう書いている。

   *

 樹の枝にゐる一匹の毛蟲は、氣溫、天候、鳥類等の敵の爲に、絶えず生命の危險に迫られてゐる。藝術家もその生命を保つて行く爲に、この毛蟲の通りの危險を凌がなければならぬ。就中恐る可きものは停滯だ。いや、藝術の境に停滯と云ふ事はない。進步しなければ必退步するのだ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは藝術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた。

   *]

 

 八月九日 晴

「水泳くらい愉快なものはあるまいよ 海國男子の本分とする云々」と云う議論をはいて大に水ををそれている[やぶちゃん注:「をそれ」「いる」孰れもママ。]所謂 猫また男をしてへこましたのは今朝の九時ごろでした 讀書復習例の如し

 

 八月十日 晴

 今日はもうずつと前に作り完つた地圖を出して見たところが アジア露西亞の部が氣に喰ぬので 新に作〔つ〕たり何かして晝迄を消しました[やぶちゃん注:「過ごしました」「費(ついや)しました」などの誤記か。] 其他無事

 

 八月十一日 晴

今日はひる前から弟と叔母とが來て晝前はまるで遊んでくらしました 晝過水泳 但今日は弟がいるので早くかへつてきました 弟は夕方「今日はおうちの方に花火があンのよ」と云ふてかへりました その日が芝浦の花火があつたので

 

 八月十二日 晴

 今日水練揚にいつて見ると 昨日迄僕と一つ五級生でいた人が四級生になつて居るので その譯をきいて見ると 昨日自分がかへつた後で試驗があつたとの事 自分少なからず否非常に怒り且非常に口悔しがりました 復習讀例如

 

 八月十三日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 水練の事で持ちきりますが 今日自分と靑田君とは四級生の試驗をうけて まづまづ及第しました

 うれしまぎれに直[やぶちゃん注:「すぐ」。]吉田君と協會をとび出して 柳橋へ級章を買に行きました

 

 八月十四日 晴

 晝前は復習讀書

 晝過は水泳

 最も今日は遠泳會を催す筈のが延期して やつぱりいつもの通り水泳があるのです

 

 八月十五日 晴

 復習は今日休で 遊戲と讀書とで晝迄を費し 晝すぎは例の通り水泳ですが 三級生や二級生にもぐらされて二三杯氷の變躰をのまされました

[やぶちゃん注:「氷の變躰」水の洒落。]

 

 八月十六日 晴

 復習水泳讀書等 例〔の〕如し 夕方宇田君と帽子をかひに行きました それから杉江君も訪て

 

 八月十七日 晴

 一寸云てをきますが 日記が七月の三十一日以來短くなつたのは あまり前に長たらしく書たので紙數に缺乏をつげそうなのです

 今朝自分の幼稚園時代の折物や何かをとりだして見ましたが 自分がこんなものを書いたり拵へたりしたかと思と何となく床しいよーな感が起て……その中に目の前へ幼稚園時代の人々の姿が夢のよーにあらはれて「御久しぶり」抔と昔の通な[やぶちゃん注:「とほりな」。]あどけない聲で話かける あゝ昔にかへつたかと顏をあげると矢張自分の部屋 なんにもいない 晝時の號砲にこのくだらない夢想をやぶられました

 水泳讀書共平日の通り 寐床八時十五分

[やぶちゃん注:当初より感じているが、この日誌は学校から提出を命ぜられているのではないかと私は推測している。ここの弁解染みた敬体で書かれたそれも、そうした提出物として教師に読まれることを強く意識しているのとしか思われない。

「缺乏をつげそうなのです」「そう」はママ。「つげそう」(正しくは「つげさう」)は「とげそう(同前「とげさう」)の誤記か、葛巻氏の誤判読ではなかろうか。

「幼稚園時代」実は江東小学校の濫觴は、「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房刊)の「江東小学校」の項によれば、明治五(一八七二)年に、少年期の芥川龍之介のフィールドであった回向院(グーグル・マップ・データ)の民家を借りて戸枝一(「とえだはじめ」か)が幼育社という寺子屋を起こしたのに始まるそうで、明治八年十月に回向院に隣接した場所に学舎が建ち、小学校となった初めから幼稚園が附属していた。芥川龍之介もその江東尋常小学校附属幼稚園に明治三十(一八九七)年四月五歳の時に入園し、一年間通っている。先に引いた芥川龍之介の「追憶」にも、

   *

       幼稚園

 僕は幼稚園へ通ひ出した。幼稚園は名高い囘向院の隣の江東小學校の附屬である。この幼稚園の庭の隅には大きい銀杏が一本あつた。僕はいつもその落葉を拾ひ、本の中に挾んだのを覺えてゐる。それから又或圓顏の女生徒が好きになつたのも覺えてゐる。唯如何にも不思議なのは今になつて考へて見ると、なぜ彼女を好きになつたか、僕自身にもはつきりしない。しかしその人の顏や名前は未だに記憶に殘つてゐる。僕はつひ去年の秋、幼稚園時代の友だちに遇ひ、その頃のことを話し合つた末、「先方でも覺えてゐるかしら」と言つた。

 「そりや覺えてゐないだらう。」

 僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心もちがした。その人は少女に似合はない、萩や芒に露の玉を散らした、袖の長い着物を着てゐたものである。

   *

とある。或いは……十二歳の芥川龍之介も……まさにその女の子の姿や声を……この時……思い出していたのではなかったろうか…………

「折物」不詳。折(をり)の物の脱字か。]

 

 八月十八日 晴

 起床五時十分前

 起き早々昨夜種板を入れてをいたカメラを小脇にして目的もなく手當次第二三枚うつしてかへりました

 現像もうまくいつてまあまあ ボンヤリ?出來ました 復習讀例如 但水泳も

[やぶちゃん注:「ボンヤリ?出來ました」はママ。「?」の後には字空けはない。

「種板」「たねいた」。写真の感光板。

「カメラ」ピンホール・カメラであろう。]

 

 八月十九日 晴

 今日は別段之と云て記すべき事もないので只明日の花火に使ふと云ふ摸造[やぶちゃん注:「もざう」。「模造」に同じい。]軍艦レトウイザンを見ました 復習讀書水泳例如

[やぶちゃん注:「軍艦レトウイザン」レトヴィザン(Ретвизан:原音音写は「リトヴィザーン」に近い/ラテン文字転写:Retvizan)はこの当時はロシア帝国海軍の戦艦。日露戦争に参加したロシア戦艦中で唯一のアメリカ製の軍艦であった。日露戦争の「旅順攻囲戦」でこの年の十二月六日に旅順港内で日本陸軍(第三軍。司令官乃木希典大将)麾下の二十八センチメートル榴弾砲の曲射砲撃により大破して沈没したが、戦後、引揚げられて修理され、日本海軍の戦艦「肥前」となった。ウィキの「レトウイザン(戦艦)」を見られたいが、勿論、ここはそれを模した、嘗ての両国川開き花火大会用のミニチュアの模造品である。次の日記でそれがどんな目に遇わされたかがよく判るが、まさか、芥川龍之介に限らず、同戦艦が文字通り、四ヶ月に日本軍によってこの模造品同様に沈没させられたばかりか、後に日本の戦艦になって蘇るとは、これ、思っていた者は誰もおるまいよ。

 

 八月二十日 晴[やぶちゃん注:土曜日。]

 今日の復習は解〔け〕なかつた「潅槪[やぶちゃん注:「灌漑」の誤字。]」の講義も出來て(これはこの講義が解ぬ[やぶちゃん注:「とけぬ」。]ので五六日前先生の所へうかゞいに上〔つ〕たのでそれが今日又あつたからです)まづ樂になつたので 讀書 晝過水泳 夕方から花火見物をしました しかし折角の軍艦燒打は見ませんでした

[やぶちゃん注:前半の部分は「灌漑」という文字と、その意味する行為がどのようなものであるかを理解し、自分で文章にすることであろう。今時、中学一年生には意味は分かっても、「灌漑」の漢字自体が殆んどの者が書けず、読める者も半分もいないであろう。]

 

 八月二十一日 晴

 復習讀書例如 今日水練場で三級生の試驗をしましたがその結果は十中の九箇九分の八は落第です 寐床九時二十分

[やぶちゃん注:「十中の九箇九分の八」九十九・八%の謂いか。]

 

 八月二十二日 晴

 復習は休んで讀書と遊戲とで一日を完りました 水泳にも行〔つ〕て それから書き落しましたが、一昨日夜になつてから弟が來たので それで復習を休〔ん〕だので言譯のよーですが一寸と云〔つ〕てをきます 今日夕方弟と叔母とは芝へかへりました 寐床十時二十分前

 

 八月二十三日 晴

 今年は昨年のよーに房州にも行〔け〕なければどこへも行〔け〕ないと云ふのは 親類に重病人が出來て食物萬端皆灌腸して腹中にをさめるので 完にはそれさへきかなくなつて仕まつたので親類の事ではあるしするからそれを見合せたのだそうです

 今年は河に飽きた躰を漫々たる夏の大海原にさらし 町に倦〔ん〕だ躰を鬱蒼たる樹林に橫へて仙人然たる境がい[やぶちゃん注:「境涯」。]にせめて休暇の半分もをくる[やぶちゃん注:ママ。]つもりであつたのが悉く破れて矢張東京の塵くさい空氣を呼吸する事になりました 讀書復習水泳いづれも例の如し

[やぶちゃん注:「昨年のよーに房州にも行〔け〕なければ」この前年の明治三六(一九〇三)年の夏には、千葉勝浦の鈴木太郎左衛門(芥川龍之介の実父新原敏三の経営する牛乳業「耕牧舎」の霊岸島支店にいた南雲多吉の親戚)に、新原・芥川両家の人々と一緒に訪れている。参照した新全集の宮坂年譜には『鈴木方には、この年から大正初年まで、ほとおんど毎年出かけた』とある。

「親類に重病人が出來て」不詳。義母である道章の妻儔(とも)の縁者であろうか。]

 

 八月二十四日 晴

 今日は復習を休〔ん〕で讀書と遊戲と水泳で日をくらしました 但今日水泳場で水泳帽子を失したので 今日四級になつた湊君とそれを藏前へ買ひに行きました

 

 八月廿五日 晴

 讀書復習水泳例如 水泳から歸〔つ〕てきて自分の部屋の市區改制を行〔つ〕て 本箱机等を整理しました

[やぶちゃん注:「市區改制」ウィキの「市区改正」より引く。都市近代化政策としてのそれは、明治二一(一八八八)年に『内務省によって東京市区改正条例』『が公布され、東京市区改正委員会(元府知事の芳川顕正が委員長)が設置された。建築物の規制などは当初検討されたものの』、『結局』、『行われなかった』。翌一八八九年には『委員会による計画案(旧設計)が公示され、事業が始まった』ものの、『財政難のため』、『事業は遅々として進まなかった』。しかし急激な『都市化の進展から事業の早期化が必要』となり、本日記の前年である明治三六(一九〇三)年に『計画を大幅に縮小(新設計)し』、『日露戦争後の』明治三九(一九〇六)年には『東京市に臨時市区改正局を設置、外債を募集して、日本橋大通りなどの整備を急速に進め』、大正三(一九一四)年に『ほぼ新設計』通りの『事業が完成した』。『主に路面電車を開通させるための道路拡幅(費用は電車会社にも負担させた)、及び上水道の整備が行われた。現在の日本橋もこの事業で架け替えられた。神田・日本橋・京橋付近では道路拡幅に伴い、従来の土蔵造の商家に交じって、木造漆喰塗の洋風建築が思い思いに建てられるようになり、人目をひいた。これらの建物は当時の建築家から「洋風に似て非なる建築」と評された』(太字は私が附した)とある。則ち、「市區改制」はまさにアップ・トウ・ディトな(或いは遅々として進まぬお役所仕事の皮肉もたっぷりと含んで)流行語であったのである。]

 

 八月二十六日 半晴半曇

 行く筈で無かつた海岸行が急に一日の淸興をむさぼる事にして大森行と定りました 處が此日は暑いどころか寒い(誇大ですが)ので單衣[やぶちゃん注:「ひとへ」。]の二三枚も重着[やぶちゃん注:「かさねぎ」。]をしてガタガタふるへていました 歸途アイルランド御伽噺の二人半助を求〔め〕てこれを見ながら夢の國に赴たのは午後八時四十分

[やぶちゃん注:……「大森」の「海岸」……「御伽噺」を帰りに買って貰う……おお!――あれだ! 芥川龍之介の「少年」だ!(大正一三(一九二四)年四月発行の雑誌『中央公論』に「三 死」までが、また同雑誌五月発行分に「少年續編」の題で「四 海」以下が掲載されたのを初出とする。リンク先は私の古いサイト版)……さてもその「四 海」を読まれたい。

「アイルランド御伽噺の二人半助」この日記よりも後の刊行だが、巌谷小波編「世界お伽噺」第六十編に「二人半助」という作品がある(こちらの書誌データに拠った)。時制の矛盾はあるが、単発の冊子でそれ以前に発売されたものとみて全く違和感はない。僕の少年期まではそんな薄手の御伽話の袖珍本があったものだ。但し、話の中身が判らぬ。識者の御教授を切に乞うものである。何てったって、アイルランドだよ!?! 芥川龍之介が最初に読んだアイルランドだよ! アイルランドは後の龍之介とは、これ、深い深い、縁があるんだ!!!

 

 八月二十七日 半晴半曇[やぶちゃん注:土曜日。]

 讀書復習共例如

 水泳はちと寒そうなので中止にしました 晝すぎ淸水君が訪れられて此間の試驗に君は及第したと云〔は〕れる あやしみながら水練場できくと 眞だと云ふので 淸水君と三級生の帽子を買に行きました 淸水君に本を貸して左樣ならとさけんで家にかへりました 寐床八時五分

 

 八月二十八日 半晴半曇

 今日は水練場に競技會がある日であるが 坂口君や村越君も行かないよーだから出席を見合せました 晝すぎ淸水君が本を返しに來られました すると間もなく淸水君の處の女中が來て淸水君は居ぬかと聞れる 「もうさつき御歸りです」と答へて歸しました さては淸水君は家にかへらぬで途中にどこかで遊んでいるなと思ひました 讀書復習例如

 

 八月廿九日 曇微少雨

 朝ばらばら降てきた雨もやがてやんでしまつて晴の樣な曇のよーな妙手古林[やぶちゃん注:「みやうてこりん」。「へんちくりん」に同じい。]な御天氣になりました 復習は休みました 晝過水泳 さぶいので二囘でかへつて來ました またまた本箱の整理で日を完りました

 

 八月三十日[やぶちゃん注:火曜日。]

 朝から怪しかつた空は晝迄こらへきれずふり出しました 復習讀書 其他無事

 今日荒井先生からいひつかつた粘土細工の「なす」が出來ました 但駄作です

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通り、この日、彼は新原家から除籍され、芥川道章と養子縁組し、龍之介は芥川家の養嗣子となり、晴れて「新原龍之介」は「芥川龍之介」となったのである。それは彼自身理解していた。それを全く日録に書かなかった彼の想いを考えると、私は涙を禁じ得ない。茄子のフィギアをもくもくと作る新生芥川龍之介を想うべし!

 

 八月三十一日

 朝の中は粘土細工の賽[やぶちゃん注:「さい」。骰子(さいころ)。]を作りました 復習讀書例如

 晝すぎ梅田君から借りていた本を返し それから坂口君を訪れました そこへ村越君が來たので 少し寒いかしれないが行つてみよーと水練場へ行〔く〕と今日は休業と大きくかいてありました それから淸水君の家で遊んで三人うちつれて家にかへりました

 但 坂口村越の兩君は家へよつて遊んでゆきました 夕方出校準備をしました 暑中休暇の日記は以上で完ります

 私はこの暑中休暇に於て地圖や圖畫や作文に此迄の休暇にうけない苦〔しみ〕をしましたが 又天造の寶庫 見渡す限り水天一髮の大海や綠の毛氈をしきつめしが如き草原や或は爆布となり或は溪水となる水についてや 種々雜多の事柄を記憶(オボエ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]ました これも休暇の賜物と云はなければなりますまい 休暇 その文字を以ても平日の勞を癒すのに違ないですが その中にあつて遊びつゝ目にふれ耳にきく事物について觀察したならば いと趣味ある事でありませう

[やぶちゃん注:「水天一碧」が知られる。これは「水と空とが一続きになって、一様に青々としていること」を言うが、誤字・誤判読とも断じ得ない。何故なら、「一髮」には遠くの山々等の景色が一本の髪の毛のように幽かに見えることの意があり、また、後の作であるが、明治四一(一九〇八)年刊行の押川春浪・阿武激浪庵(怒濤庵少尉)共著「冒險的壯快譚 水天一髮」があるからである。]

芥川龍之介 (明治四十二年十月廿三日、東京府立第三中學校 發火演習ノ際 芥川中隊長ヨリ發セラレタ命令) 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』の掉尾に載る「〔明治四十二年十月廿三日、東京府立第三中學校 發火演習ノ際 芥川中隊長ヨリ發セラレタ命令〕」に拠った。標題は〔 〕で括られているからには正字表現ではあるものの、葛巻氏が附したものと思われる。しかし、適当な標題がないので、これを( )に代えて標題とした。

 葛巻氏は特に注していないが、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同じような演習の記事である「芥川龍之介 十月二日発火演習記事」の方の解説によると、「義仲論」(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)・一學期柔道納會「十月二日發火演習記事」「前號批評」「編輯を完りたる日に」が載った、明治四三(一九一〇)年二月発行の府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』第十五号には、「十月二日發火演習記事」の前に『五乙』の『田中』の署名の「十月廿三日發火演習記事」が芥川龍之介の「十月二日發火演習記事」前に載っており、『それによれば』この時の演習では『芥川は中隊長の任に就いている』とあり、新全集の宮坂覺氏の年譜によると、これは「十月二日發火演習記事」に記された同校五年次の明治四十二年十月二日(土曜日)に行われた同校の「発火演習」(「芥川龍之介作品事典」によれば、『火薬だけを使って』実弾を込めずに『空砲を打つ射撃演習のことであるが、ここでは所謂』、『軍事教練と考えてよいだろう』とある)の二十一日後の、明治四十二年の同じ月である十月二十三日(土曜日)に参加した際の、この時は中隊長役となった芥川龍之介が発令した軍事演習命令そのものである。

 底本では「際」で改行して二行で表記している。ブログ・ブラウザでの不具合を考え、本文のそれは三行に分かった。【 】で括った部分は底本では二行割注で前後に括弧はない。命令本文は全体が一字下げであるが、行頭に引き上げた。命令本文には読点は一切ない。]

 

   (明治四十二年十月廿三日、

    東京府立第三中學校 發火演習ノ際

    芥川中隊長ヨリ發セラレタ命令)

 

   命令 【十月二十三日午前十時中矢切村南端に於て】

一、情報によれば敵の一部隊は金光明寺附近に出沒しつあり

二、我北軍部隊は市川停車場を占領する目的を以て、松戶街道を前進中なり

三、我中隊は此左側衞として、金光明寺附近に出沒する敵軍を警戒すべき任務を有す

四、第一小隊は前衞第二 第三小隊は本隊 本隊は第二小隊長之を指揮せよ

五、余は前衞と共に行進す

           中隊長 芥川龍之介

   ○敵に關する注意

  一、敵は帽に日覆を附せず

  二、空砲は三發を使用せよ

  三、漫に耕作地に入るべからず

[やぶちゃん注:「矢切村」千葉県松戸市にある「上矢切(かみやきり)」・「中矢切(なかやきり)」・「下矢切(しもやきり)」の三地区の総称で、嘗つては、それぞれ、上矢切村・中矢切村・下矢切村という独立した村であったが、松戸町との合併により、現在は松戸市の一部となっている。なお、その合併は明治二二(一八八九)年四月一日の町村制施行に伴うもので、松戸駅・小山村・上矢切村・中矢切村・下矢切村・栗山村が合併して東葛飾郡松戸町(旧)が発足しているから、本演習の際には最早村ではなかった。三年後の明治四五(一九一二)年の国土地理院図との対比で見られる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを見るに、本文にある「南端」は下矢切地区であることが判る。因みに、知られた「矢切の渡し」の東方直近に当たる。

「金光明寺」これは恐らく現在の市川市国分にある真言宗国分山国分寺(下総国分寺)である(グーグル・マップ・データ)。松長哲聖氏の優れた寺社案内サイトの同寺の記載に、『国分寺は』、天平一三(七四一)年の『詔勅によると「僧寺は寺名を金光明四天王護国之寺と為す」とあり、この年には下総国の国分寺として当寺が建立されたと』され、『其の後まで』、「国分山金光明寺」と称し、『薬師堂の別当を勤めていたといい、慶安』二(一六四九)『年には江戸幕府より寺領』十五『石の御朱印を拝領、明治』二二(一八八九)『年に国分山国分寺と改称したと』されるとあるから、この寺を「金光明寺」(こんこうみょうじ)と呼んで何らおかしくない。ロケーションも一致する。

「市川停車場」先の「今昔マップ」を見ても、現在の市川駅と同じ位置にある。

「松戶街道」千葉県道一号市川松戸線の愛称。千葉県市川市市川の国道十四号・千葉県道六十号市川四ツ木線(千葉街道)との交点である「市川広小路」交差点を起点として、松戸市小山の国道六号(水戸街道)、千葉県道五号松戸野田線・千葉県道五十四号松戸草加線(流山街道)との交点である「松戸二中前」交差点を終点とする県道。ここ(グーグル・マップ・データで「下矢切」をポイントし、その東を南北に走る同街道の中央に国道記号が見えるように示した)。]

2019/12/28

芥川龍之介 十月二日発火演習記事 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』に載る「十月二日發火演習記事」に拠った。

 葛巻氏は特に注していないが、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同篇解説や新全集の宮坂覺氏の年譜によって、本篇は前の「編輯を完りたる日に」等と同じく、明治四三(一九一〇)年二月発行の府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』第十五号に『五甲 芥川』の署名で載ったもので、同校五年次の明治四十二年十月二日(土曜日)に行われた、同校の「発火演習」(「芥川龍之介作品事典」によれば、『火薬だけを使って』実弾を込めずに『空砲を打つ射撃演習のことであるが、ここでは所謂』、『軍事教練と考えてよいだろう』とある)に参加した際の報告記事である。文中に出る「中隊長」「砂岡豐次郞」というのは無論、軍人ではなく、生徒である。この後に電子化する同月二十二日の発火演習の芥川龍之介の記録では、龍之介自身が中隊長のとして参加している。【 】で括った部分は底本では二行割注で前後に括弧はない。

 それにしても、同誌には実に、芥川龍之介による「義仲論」(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)・一學期柔道納會「十月二日發火演習記事」「前號批評」「編輯を完りたる日に」が載るというのは「編輯を完りたる日に」で、『本號は投稿の數が極めて多かつた。このすべてを揭載するのは到底不可能な事であつた。止むを得ず、其爲に投稿の全數の約三分の二を此號に揭げる事にした』と言っているのを、やや不快に感じた同誌の読者もいたであろうことは想像に難くはない気がする。少なくとも私ならそう思う。芥川龍之介のそれらが優れた文章群であることは認めるにしても、である。

 

   十月二日發火演習記事

 

○ 南軍靑山を發す。午前七時。十月の光、白秋の空にあふれて、農家の庭にコスモスの紅に咲き亂れたる、蕎麥の花白き畑に農夫の歌の聞ゆる、初秋の思自ら湧くを覺ゆ。軍既に澁谷をすぐれば、稻田の黃なるあなた、落葉せる林の上に國境の山々、紫にそびゆるを見る。

○ 澁谷を去る里餘にして、溫厚沈着の砂岡中隊長、命令を下して曰。

[やぶちゃん注:以下の中隊命令は底本では全体が一字下げで、二行に亙る場合は一字下げとなっているが、行頭まで引き上げ、前後を一行空けた。最後の署名も下三字上げインデントであるが、引き上げてある。]

 

  ○中隊命令 【十月二日午前八時四十分澁谷村西端に於て】

一、情報によれば敵は多摩川二子の渡しを通過しつゝあり。我大隊は敵の渡河を妨害する目的を以て、大山街道を二子方面に派遣せられたり。

一、我中隊は左側衞となり。下馬引澤村方向に出發せむとす。

一、第三小隊前衞、第二第一小隊本隊、本隊は第一小隊長之を指揮せよ。

一、余は前衞と共に行進す。

           中隊長 砂岡豐次郞

[やぶちゃん注:「多摩川二子の渡し」ここ(グーグル・マップ・データ)

「大山街道」大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の内の「青山通り大山道」。ウィキの「大山道」によれば、「矢倉沢往還」の別名で、江戸から大山へ向かう経路上で青山を通ることから、東京都内の一部箇所にて局地的に「青山通り大山道」と呼ばれる。江戸時代には江戸からの参詣道として盛んに利用され賑わった。その経路は赤坂――青山――渋谷――三軒茶屋――二子の渡しで、この演習ルートと完全に一致する。なお、私は大学のある教授の授業で(誰の何の授業だったかは忘れた)、『今の「青山通り」なんてえのは、昔は本当は「大山通り」だったのだが、格好つけて「青山通り」に代えただけだ』と教わった。しかし、ウィキの「青山通り」には、「大山」由来の記事はなく、『江戸時代には厚木街道と呼ばれていた。五街道に次ぐ主要な街道の一つであった』とある。しかし、厚木方面に向かう江戸庶民の大半は「大山詣で」であったはずだから、私は「大山通り」説を今も信じている。

「下馬引澤村」東京都世田谷区下馬。因みに、ここには源頼朝所縁の「葦毛塚」があることで私は知っている。私の『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(1) 「葦毛ノ駒」(1)』を参照されたい。また、三年後の明治四五(一九一二)年の国土地理院図との対比で見られる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを見られよ。「下馬引澤」の旧地名が記されてあり、その北に後に出る「砲兵練兵場」、「駒沢練兵塲」が広がり、その西端には「砲兵旅團司令部」が記されてあるのが判る。

「小岳」不詳だが、前の注の「今昔マップ」を見ると、練兵場東外に「宿山」、その南西に「蛇崩」の地名が認められ、この辺りが、丘陵状になっていた可能性を窺わせる。]

 

 令、既に下り、士氣大に振ふ。再落葉をふみて、林の道を辿れば、露草の花夢の如くさき出たる、戎衣の身にもうれしかりき。

[やぶちゃん注:「戎衣」(じゆうい(じゅうい)」は軍服のこと。この場合の「戎」は兵(つわもの)の意。]

○ すゝみて稻田を橫り、小岳の下に出づれば機を見ること石火の如き宮崎小隊長は、直に斥候を渡して敵情を窺はしめぬ。

○ 機は來れり。宮崎小隊先進み、西川中山の二小隊次いで手に唾して戰機を待ち、令一度下らば將に突破、敵陣を碎かむとす。しかも敵の臆病なる、未一彈を交へざるに悉く退却し、宮崎小隊をして、直に下馬引澤村砲兵練兵場の南端に出でしめたり。我軍既に地の利を得たり。宮崎小隊長の得意や知るべきのみ。

○ 然りと雖も、敵軍豈、空しく退かむ哉[やぶちゃん注:「しりぞかむや」。]。我先鋒、曠野の遠緣に出づると共に敵は、忽扇形の散兵線をひらき一擧にして我軍を破らむとする。砂岡中隊長、是に於て、秋水一閃、宮崎小隊をして、直に敵の中堅にむかはしめ、鳴彈始めて原頭の寂寞をやぶれり。

[やぶちゃん注:「秋水一閃」(しうすいいつせん(しゅうすいいっせん))は「秋水」が「切れ味鋭い研ぎ澄まされたような居合いの名刀」で、その眼にも止まらぬ一振りを言う語で、ここは果敢にして素早い判断を指している。

「原頭」(げんとう)野原のほとり。]

○ 敵亦之に應じて、猛射益急。敵兵の白帽の陰見する、敵將校の長劍の日に輝く、既に我軍の指顧にあり。顧て我軍を望めば、砂岡中隊長、從容として迫らず。中原〔一字不明〕準士官亦莞爾として其傍にあり。將に是サドワ原頭、ビスマークとモルトケとが、相見、相笑つて、墺太利[やぶちゃん注:「オーストリア」。]の竪軍を擊破せるの槪あるもの。我軍の意氣愈昂る。

[やぶちゃん注:「サドワ」一八六六年六月から八月にかけて起こったプロイセン王国とオーストリア帝国との普墺(ふおう)戦争に於いて、七月三日にボヘミア(ベーメン)中部のケーニヒグレーツ(現在はチェコの都市フラデツ・クラーロヴェー)とサドワ村(Sadová /ドイツ語:Sadowa:現在はチェコ)の中間地点で発生した「ケーニヒグレーツの戦い」(ドイツ語:Schlacht bei Königgrätz)が行われた場所。分進合撃(分散した部隊が集中するように機動・攻撃する軍略)に成功したプロイセン軍はオーストリア軍を包囲して決定的な打撃を与え、戦争終結を決定づけた。「サドワの戦い」とも呼ぶ。詳しくはウィキの「ケーニヒグレーツの戦い」を参照されたい。

「ビスマーク」言わずと知れたプロイセン王国及びドイツ帝国の「鉄血宰相」(Eiserne Kanzler)オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen 一八一五年~一八九八年)。

「モルトケ」プロイセン及びドイツ帝国の軍人で軍事学者。「芥川龍之介 一学期柔道納会」に既出既注ウィキの「ケーニヒグレーツの戦い」によれば、『部隊の前進により、プロイセン首脳(ヴィルヘルム』Ⅰ『世、ビスマルク、大モルトケ等)は』六月二十九日に『ベルリンを発して、ギッチン経由で戦場に接近し』、七月三日朝、『プロイセン王太子の率いる第二軍は未着であったが、地勢に有利なクルム高地のオーストリア軍』二十四『万に対し、第一軍とエルベ軍の約』十四『万のプロイセン軍が攻撃を開始し』て会戦、『前夜の雨は上がっていたが』、『泥濘の中で、優勢なオーストリア軍の抵抗にあい』、『プロイセン軍は進むことが出来なかった。特にオーストリア軍左翼に配置されたザクセン王国軍は高所の布陣により』、『プロイセン軍右翼のエルベ軍を苦戦させた』。『午前』九『時から午後』一『時まで』四『時間が経過したが』、『戦局を打開するはずのフリードリヒ』Ⅲ『世王太子の率いるプロイセン軍第二軍は現れず、本営では度重なる救援要請の伝令に観戦していたビスマルクが焦り出したが、葉巻のケースを差し出されたモルトケが、良い葉巻を選り好みしている様を見て「作戦を立てた人間がこれだけ落ち着いておれば大丈夫だ」と安心したという。このとき、ヴィルヘルム』Ⅰ『世も自ら総攻撃を命じようとしたが、モルトケに諫められたという』。『午前中からの戦闘はオーストリア軍が優勢であったが、午後になって約』十二『万人のプロイセン第二軍が戦場に到着し、作戦通りの三方からの包囲攻撃が成立』するや、形勢が『一転し、第二軍が攻撃したオーストリア軍右翼が崩れはじめると、中軍も動揺して退却が始まった。オーストリア軍司令官のベネディクは総予備を投入して一時クルム高地を奪回したが』、『大勢は覆せず、再度陣地を放棄して退却することとなった。プロイセン軍では奪取した高地に砲兵を挙げて退却するオーストリア軍を砲撃するだけでなく、騎兵と歩兵による追撃を続けた。オーストリア軍はエルベ川へ追い落とされて全滅する危機にあったが、砲兵』二百『門と騎兵師団』一『万が殿軍』(でんぐん:しんがり)『となって抵抗し、犠牲になることで退却を助けた』。『こうして戦闘は一方的な結果となり、プロイセン軍の死傷者は』九『千人に留まったのに対し、オーストリア軍の死傷者約』二万四千人、捕虜二万人、大砲の損失百八十七『門を数えた。モルトケはヴィルヘルム』Ⅰ『世に向かって「陛下は本日の戦闘に勝たれたのみならず、今回の戦争にも勝たれました」と言ったという』とある。芥川龍之介の謂いは、まさにその葉巻のシークエンスであろう。

槪[やぶちゃん注:「ガイ」。「おもむき」でもよいが、やはりここは音読みだろう。]

○ 戰酣[やぶちゃん注:「せん、たけなは」。]にして、西川中山兩小隊第一線に加はり、彈を飛ばす雨の如し。敵亦必死 銃火を我に加へ、銃聲地を搖りて拒守益嚴。時に令あり。「交互に着け劍」。

[やぶちゃん注:「敵亦必死 銃火を我に加へ」の字空けはママ。読点なし。]

○ 機既に熟す。然りテルモビレーを陷るべきの機は既に熟す。南軍の勝敗此一擧にあり。忽ち見る、白煙濠々として霧の如くなる中より、砂岡中隊長の長劍、白虹[やぶちゃん注:「びやくこう」と読みたい。]を吐いて、突擊に前への號令下ると共に、健兒一百 蹶然として奔流の如く突進するを。

[やぶちゃん注:「兒一百 蹶然として」の字空けはママ。読点なし。

「テルモビレー」紀元前四八〇年、ペルシャの三百万の大軍に対し、スパルタがレオニダス王以下、僅か四千の兵で戦い、激戦の末にスパルタが全滅した「テルモビレーの戦い」(「ピ」であることに注意)の戦地。世界戦史に於ける代表的玉砕戦として知られる。音写は「テルモピュライの戦い」とも。編集時の誤り、芥川龍之介或いは葛巻氏の判読の誤りともとれる。ウィキの「テルモピュライの戦い」によれば、『テルモピュライは、古くからテッサリアから中央ギリシアに抜ける幹線道路で、峻険な山と海に挟まれた街道は最も狭い所で』十五『メートル程度の幅しかなく、ペルシア遠征軍は主戦力である騎馬部隊を展開することが出来なかった。クセルクセスの命によってテルモピュライに突入したメディア・キッシア連合軍は、大量の戦死者を出しながらも』、『終日に渡って戦ったが、ギリシア軍の損害は軽微なもので、彼らを敗退させることができなかった』。『スパルタの重装歩兵を先陣とするギリシア軍の強さを目の当たりにしたクセルクセスは、ヒュダルネス率いる不死部隊を投入したが、優れた装備と高い練度を誇るギリシア軍を突破できなかった。ギリシア軍は、右手にペルシア軍のものを超える長さ』二・五『メートル以上の長槍、左手に大きな丸盾を装備し、自分の盾で左側の味方を守り、右側の味方に自分を守ってもらうファランクスを形成してペルシアの大軍と戦った。狭い地形を利用したファランクス陣形はまさに無敵であり、ペルシア軍の重圧をものともせずに押し返した。この時のスパルタの戦術は、敵前で背中を見せて後退し、ペルシア軍が追撃してきたところを見計らって向き直り、正面攻撃を行うというものであった』。『翌日もペルシア軍はギリシア軍と激突したが、状況は一向に変わらなかった。ペルシア軍の損害は増える一方で、ギリシア軍を突破する糸口すら見出せなかった。クセルクセスは状況を打開できずに苦慮したが、ギリシア人からの情報によって』、『山中を抜けて海岸線を迂回するアノパイア間道の存在を知り、これを利用してギリシア軍の背後に軍を展開することを命じた。ペルシアの不死部隊は土地の住民を買収し、夜間この山道に入った。この道を防衛していたポキスの軍勢』一千兵『は、ペルシア軍に遭遇すると』、『これに対峙すべく』、『山頂に登って防衛を固めたが、防衛する軍がスパルタ軍ではないことを知ったペルシア軍は、これを無視して間道を駆け降りた』『(一説に拠ると、夜道を登り来る不死部隊を見たポキスの軍勢は自国が襲撃されると思い、守備隊全員が帰国してしまったとも言われる)。夜が明ける頃、見張りの報告によってアノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは作戦会議を開いたが、徹底抗戦か撤退かで意見は割れた。結局、撤退を主張するギリシア軍は各自防衛線から撤退し、スパルタ重装歩兵の』三百人・テーバイ四百人、テスピアイ兵七百人の合計千四百人(又はスパルタの軽装歩兵一千人を加えて二千四百人)は、『共にテルモピュライに残った』。『朝になると、迂回部隊はギリシア軍の背後にあたるアルペノイに到達した。クセルクセスはスパルタ軍に投降を呼び掛けたが、レオニダスの答えは「モーラン・ラベ(来たりて取れ)」であった』。『決して降伏しないスパルタ軍に対して、クセルクセスは午前』十『時頃に全軍の進撃を指示』して、『レオニダス率いるギリシア軍もこれに向かって前進を始めた。それまでギリシア軍は、戦闘し終えた兵士が城壁の背後で休めるように、街道の城壁のすぐ正面で戦っていたが、この日は道幅の広い場所まで打って出た』。『凄まじい激戦が展開され、広場であってもスパルタ軍は強大なペルシア軍を押し返した。攻防戦の最中にレオニダスが倒れ、ギリシア軍とペルシア軍は彼の死体を巡って激しい戦いを繰り広げた。ギリシア軍は王の遺体を回収し、敵軍を撃退すること』、四『回に及び、スパルタ軍は優勢であった。しかし、アルペノイから迂回部隊が進軍してくると、スパルタ・テスピアイ両軍は再び街道まで後退し、城壁の背後にあった小丘に陣を敷いた』。『彼らは四方から攻め寄せるペルシア軍に最後まで抵抗し、槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯で戦った。ペルシア兵はスパルタ兵を恐れて肉弾戦を拒み始めたので、最後は遠距離からの矢の雨によってスパルタ・テスピアイ軍は倒された。テーバイ兵を除いて全滅した。ヘロドトスによれば、この日だけでペルシア軍の戦死者は』二『万人にのぼったとされる』。『この戦いでスパルタ人の中ではアルペオスとマロンの兄弟そしてディエネケスが、テスピアイ人の中ではディテュランボスが特に勇名をはせたという。また、重い眼病によってスパルタ軍のエウリュトスとアリストデモスが一時戦場を去った。エウリュトスは再び戦場に戻って戦って討ち死にしたが、アリストデモスは戦場には戻らず、その時は生きながらえた。翌年のプラタイアの戦いで彼は恥を雪(すす)がんと奮戦し討ち死にした』とある。場所はここ(同ウィキのの地図)。]

○ 步一步。躍一躍。銃劍霜の如く閃いて、遇進する、江河の堤を決するが如し、凛乎[やぶちゃん注:「りんこ」。きりっとして勇ましいさま。りりしいさま。凜然。]として聲あり。「乘込め。」喊聲大に起る。再考あり。「乘込め。」喊聲更に起る。三度聲あり。「突込め。」健兒大呼して劍戟をかざす、敵を去る僅に三十米。創尖相觸れむとして忽に休戰の令下る。

○ 休戰の令既に下る。南北兩軍の豼貅、野に滿ちてしかも野靜なる[やぶちゃん注:「の、しづかなる。]事人無きが如し。時正に十一時四十分。次いで渡邊小川兩先生の講評あり。演習是に終る。

[やぶちゃん注:「貔貅」「ひきう(ひきゅう)」はは伝説上の猛獣の名。一説に「貔」が♂、「貅」が♀ともされる。転じて「勇ましい兵卒」の譬え。]

芥川龍之介 一学期柔道納会 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』に載る「前號批評」に拠った。本篇には底本では標題に添え辞として、標題一字下げポイント落ちで、

 〔――中学五年――〕

とあるが、これは〔 〕表記と新字表記で判る通り、葛巻氏が添えたものであるから、排除した。葛巻氏は特に注していないが、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同篇解説で、本篇は前の「編輯を完りたる日に」等と同じく、明治四三(一九一〇)年二月発行の府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』第十五号に『五甲 芥川』の署名(本篇末尾にある)で載ったもので、同校五年次の『自らも出場した一学期の柔道納会の記録である』とあり、新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、本文にもある通り、前年の明治四十二年七月十九日に行われ、芥川龍之介(当時満十七歳で「白軍」)は『中堅として一人を破った』とある。

 踊り字「〱」は正字化した。]

 

   一學期柔道納會

 

○ 李の實も黃色くなれば、待宵草の花も咲きそめる七月十九日と云ふに、柔道部の納會が雨天體操場でひらかれる。

○ まだ試合のはじまらない道場の靑疊には、曖な日の光がさして、萩原先生が番組を見ながら、ニコニコ笑つてゐる。向うの隅では部員が大勢、小川先生をかこんで何か話してゐる。さうかと思ふと、吉田が謄寫版ですつた番組をくばつて步くのが見える。

○ 試合は校長の開會の辭と共にはじまる。一本勝負は石川先生、三本勝負は萩原先生が、檢證の勞をとつて下さる。

○ 試合にうつると直、紅軍の若武者井關が、白軍の戰士を四人迄倒した。これを紅軍の一番槍とする。次いで橋田(紅)が、又白軍を二人破る。白軍の意氣は頗る振はない。

○ 背の高い瀨川(白)が、其背の高いのを利用して紅軍の小冠者を三人も倒したが(一年の驍將[やぶちゃん注:「げうしやう(ぎょうしょう)」。強く勇ましい大将。]古澤も背の低い悲しさに脆くも抑へこまれて仕舞つた)白軍の旗幟[やぶちゃん注:「きし」。「旗と幟」から転じて「軍勢」或は「軍の形勢」。]は不相變亂れて、遂には紅軍の松田をして、撫斬[やぶちゃん注:「なでぎり」。]の功名を恣[やぶちゃん注:「ほしいまま」。]にさせた。稻村も松田に破られた一人だ。流石の稻村もよくよく景氣が惡かつたと見える。

○ 三本勝負に移つてからも、紅軍の意氣は益盛で[やぶちゃん注:「ますますさかんで」。]庭球部の重鏡石崎が(白)力戰して拒いだが、紅軍の雙槍將小川に、破られて仕舞ふと云ふ始末。白軍の運命は、愈孤城落月に迫つて來た。

[やぶちゃん注:「雙槍將」は「さうさうしやう(そうそうしょう)」で、「水滸伝」に登場する梁山泊第十五位の好漢董平(とうへい)の渾名。両手にそれぞれ一本ずつ槍を持っていたことに由来する。

「孤城落月」孤立した城と沈もうとする月。ひどく心細い様子の譬え。]

○ 然しながら白軍、豈人なからむやである。モルトケ將軍佐々木(白)の立つと共に、形勢は一變した。加納と中野(紅)とが相次いで破られる。

[やぶちゃん注:「モルトケ將軍」ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(Helmuth Karl Bernhard von Moltke 一八〇〇年~一八九一年) はプロイセン及びドイツ帝国の軍人で軍事学者。一八五八年から一八八八年にかけてプロイセン参謀総長を務め、対デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争を勝利に導き、ドイツ統一に貢献した。「近代ドイツ陸軍の父」と呼ばれる。最終階級は元帥(以上はウィキの「ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ」に拠った)。]

○ 佐々木が山田(紅)に拔かれると急に急霰の樣な拍手が起る。白軍の靑天飇長島が、躍然として白軍の陣頭にあらはれたのである。長島は張飛が長槍を橫へて堅陣を碎くやうに、一擊して山田を破つた、つゞいて精悍、機敏を以て知られた人見(紅)も亦、長島の橫捨身で仆される。長島が菅沼に拔かれると芥川が菅沼を破る。

[やぶちゃん注:「靑天飇」「せいてんへう(せいてんひょう)」は一点の雲無き晴天に突如吹く「飇」(つむじかぜ)の謂いか。]

○ 此時にもし紅軍の副將堀内が、短兵疾驅、白軍の中堅を衝かなかつたなら、紅軍は或は敗滅の恥辱を蒙つたかも知れない。堀内は芥川を破り、馬場を破り、(馬場は久しく稽古を休んだ後だつたので此勝負は、多少割引して見る必要があるかもしれない)直に白軍の副將角張と相對した。さうして分をとつた[やぶちゃん注:引き分けとなった。]。堀内は技に於て勝つてゐる。角張は氣に於て勝つてゐる。兎に角此勝負は注目する價値のある勝負だつた。

○ 兩軍の大將軍、加藤と淸水とが立つた。淸水(白)は氣鋭の飛將軍だ。驍名の轟いた古武者の加藤(紅)に比しても、敢て遜色を認めない。けれども此勝負は加藤が勝つた。加藤は矢張柔道部の領袖たるの技と力とを備へてゐる。かくして凱歌は紅軍によつて擧げられた。「漢家火德終燒賊。」白軍の旗幟は遂に蹂躙せられて仕舞つた。

[やぶちゃん注:「漢家火德終燒賊。」「漢家(かんか)の火德 終(つい)に賊を燒く。」。清の文学者袁枚(えんばい 一七一六年~一七九八年:食通で「随園食単」の作者として知られる)の詩「赤壁」の一節。サイト「関西吟詩文化協会」のこちらで詩全篇の原文・読み・語釈・字解が載る。それによれば、『漢家火德』は『蜀(漢)は五行(ごぎょう)(木=もく・火=か・土=ど・金=ごん・水=すい)からいって』、『火の徳を以て王となることになっていた蜀が魏を破るに』、『火攻めの計を用いたことに』基づく『表現である』とあり、『蜀漢の火德が、魏の曹操の軍を焼きつくし』たと訳されてある。]

○ 試合が完ると茶話會が講堂で開かれた。諸先生の御講話がある。窓からは、若葉の香がほのかにくゆらいで靑年らしい話聲と笑聲とが元氣よく響き渡る。會の完に試合の成蹟[やぶちゃん注:ママ。]によつて定めた級の發表がある。一級松崎、二級加藤、長田、三級峯、角張、堀内であつた。(五甲 芥川)

 

芥川龍之介 前号批評 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』に載る「前號批評」に拠った。本篇には底本では標題に添え辞として、標題一字下げポイント落ちで、

 〔――「学友会雑誌」――〕

とあるが、これは〔 〕表記と新字表記で判る通り、葛巻氏が添えたものであるから、排除した。葛巻氏は特に注していないが、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の書誌情報の中に、本篇は前の「編輯を完りたる日に」と同じく、明治四三(一九一〇)年二月発行の府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』第十五号に載った同雑誌の記事批評である旨の記載があり、東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の最終学年である五年次生の時のものである。「芥川龍之介作品事典」の関口安義氏の本篇の解説には全体に『寸評ながらことばを選んで的確に文章を批評している。歯に衣着せぬ批評である。批評家芥川龍之介の片鱗が、早くも現れているという点で興味深い文章である』と評しておられ、同感である。]

 

   前號批評

 

○ 流水吟(五乙 田中君)

 願くは書くに先立つて讀んで見給へ。詩として君の詩に對する時は其後に始めて來るだらう。正直の所、僕はこの、なつてゐないのを悲しむ者だ。

○ 瘦馬(五乙 春敬君)

 少し乾燥し過ぎた樣だ。「西窓の淡き光」の一節がよかつた。難を云へば技巧にも感情にも踏襲的な所が見える。同じ人の「インキ壺」は之を歌ふのにはより微細な情緖と、より鍊敏な感受性とを要する樣に思はれる。

○ 春二十句(四乙 空山居君)

 韻文欄の白眉である。「狂女來て」「とかくして」「山かげの」「宿とるや」がいゝと思つた。僕の最氣に入つたのは「はきたむる」である。栗色の裏庭に掃きためた古雛の袴の樣な落椿――僕も好きだ。「人稀に」は作者の得意な句であらう。「百卷の」「座敷から」「江に臨む」は感心しない。

○ 我書齋(二學年)

 同じ題でかゝれた五篇が五篇とも、皆嬉しく出來てゐた。僕には大原君のと永谷君のとが好かつた。大原君の寫眞の所や時間表の所はそゞろに人をほゝえませる。最後の一行は割愛したらどうだらうと思ふ。永谷君の曆や石膏細工の獅子もいゝ。トルストイの生立ち記の一節でも讀でゐるやうな氣がする。靑木君のは少し簡單な個條書のやうになりすぎてはゐないだらうか。袴田君のも此傾がある。僕は一寸した事だが同君の「妹の本箱の蓋の手掛がとれさうで中々とれない」と云ふのが面白かつた。梶川君のはきはめて達者に書いてあるがあまり器用に、「三尺の庭」を眞似たので大分感興を殺がれるやうだ。

 以上は僕の讀過の際の感じにすぎない。印象的な批評と云ふ事がゆるされるならこれだ。これは一寸エンファサイズしておく。

[やぶちゃん注:「トルストイの生立ち記」批評された原文が読めないのでよく判らないが、文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой/ラテン文字表記:Lev Nikolayevich Tolstoy 一八二八年~一九一〇年)の「幼年時代」(Детство:一八五二年)・「少年時代」(Отрочество:一八五四年)・「青春時代」(Юность:一八五六年)の三部作或いはその中の孰れかを指すものであろう。芥川龍之介は英訳で読んだものか徳田秋江訳の「生ひ立ちの記 青年編」があるが、これは単行本は明治四五(一九一二)年(東京国民書院)刊で本篇よりも後の刊行である。

「エンファサイズ」emphasise(英国英語)/emphasize(米国英語)は「強調する」の意。]

芥川龍之介 編輯を完りたる日に 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』の冒頭に載る「編輯を完りたる日に」に拠った(葛巻氏が中学時代をこの二パートに分けた理由は私にはよく判らない。ただ、この『〔中学時代㈡〕』パートは総てが東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の最終学年である五年次生の時のものではある。しかし、それを纏めたと言うのなら、もこちらに配するべきであるから、不審であり、そもそもが葛巻氏は底本に於いて逆編年体で作品を並べていることからも、このパートはそれに外れていて、それに従うなら、パート㈠と㈡は逆転してしかるべきであるから、それも解せないのである)。読みは「へんしふををはりたるひに」。本篇には底本では標題に添え辞として、標題一字下げポイント落ちで、

 〔――「淡交会学友会雑誌」――〕

とあるが(葛巻氏は底本では自身の文章は新字新仮名で記している)、これは〔 〕表記と新字表記で判る通り、葛巻氏が添えたものであるから、排除した。しかし、東京府立第三中学校の学友会の名称が「淡交會」であることは、芥川龍之介の諸書誌には出ず(確認したところ、現在の両国高等学校のそれも同名である)、この名称がこれで知れた。

 底本の末尾の葛巻氏が添えたクレジットは明治四十二年(一九〇九年)である。但し、これは執筆時で(執筆は本文にある通り、同年十二月六日)、以下が載った府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』は、翌明治四三(一九一〇)年二月発行の第十五号である。この第十五号は本篇で判る通り、芥川龍之介自身が編集委員の一人であり、しかもこれには、かの芥川龍之介の「義仲論」(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)も発表されている、芥川龍之介にとって忘れ難い本格論文の初出誌でもあるのである。「義仲論」は全三章から成る四百字詰原稿用紙換算で九十枚に及ぶ力作であり、龍之介自身が後に『一番始めに書いて出して見た文章』(「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」大正八(一九一九)年一月発行の『新潮』掲載)と名実ともに作家以前の作として自負する評論である。但し、上記引用に続けて龍之介は『しかし、當時ではまだ作家にならうといふやうな考は浮ばなかつた。將來は歷史家にならうといふやうに思つてゐた』という述懐も添えてこう。

 

   編輯を完りたる日に

 

○ 僕は僕たちの手になつた雜誌の發刊を嬉しく思ふ。これが僕たちの拓いたさゝやかな路だ。僕たちの挑げた微な燈火だ。僕たちの努力は遂にこれだけの事しか出來なかつた。

○ しかしながら祖先は夢み子孫は行ふと云ふ。僕は何年かの後に、僕たちの夢みてゐる或物を此雜誌から生み出す人のあるのを信じてゐる。僕たちは、新に編輯の任に當る人々の眞擊な努力が望ましいと思ふ。

○ 編輯は五學年の雜誌部の委員諸君と共にした。又校報欄は各學年の委員諸君を煩した所が多い。これはこゝに御禮を云ふ。

○ 表紙は、豐田君(五丙)が、カットは中塚君(五甲)高森君(五乙)水倉君(五乙)がかいて吳れた。併せて之もこゝろから感謝する。

○ 例年の事だが編輯の日が試驗に近かつたので、實は試驗と一緖になつたので、編輯の上には、幾多の缺點があるにちがいないと思ふ。殊に本號の發刊が非常に遲延したのも完く此爲に外ならないので、これは僕が吳々も御詫をする。

○ 本號は投稿の數が極めて多かつた。このすべてを揭載するのは到底不可能な事であつた。止むを得ず、其爲に投稿の全數の約三分の二を此號に揭げる事にした。一一、揭げなかつた投稿の名を擧げるのは煩しいからやめる。諸君は編輯者の意を諒として頂きたい。

○ 編輯を完つて此記を書く。靜な夜だ。外では風が海の樣な聲をたててゐる。掃きよせた落葉がかさこそとなる。僕は多少の滿足を以て、此稿の筆を擱いた。(十二月六日夜記)

[やぶちゃん注:文中に出る「中塚君」は恐らく、芥川龍之介の同級生の中塚癸巳男(「なかつかきしお」と読むか 明治二五(一八九二)年~昭和五二(一九七七)年)で、龍之介とは親友で、芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録「槍ヶ岳紀行」(リンク先は私のサイト版)に同行した他、当時の龍之介の旅にしばしば同行している。にしても、「投稿の數が極めて多かつた。このすべてを揭載するのは到底不可能な事であつた。止むを得ず、其爲に投稿の全數の約三分の二を此號に揭げる事にした」と述懐しながら、自分の大著「義仲論」を掲載している事実を見ても、龍之介が「義仲論」に並々ならぬ自信を持っていたことが窺えるのである。]

2019/12/27

芥川龍之介 梧桐(「筆の雫」) 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』の掉尾に載る『梧桐(「筆の雫」)』に拠った。本篇にはクレジットがない。一つ気になるのは、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の乏しい書誌情報の中、本篇については、底本の他に収録されているものとして山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集」(一九九三年刊。私は現物を見たことがない)を挙げているが、そこには『筆の雫 「梧桐」』としている点である。この書き方では「筆の雫」というアンソロジーの想定が可能で、その中の一篇として「梧桐」が書かれたと読めるからである。但し、「筆の雫」を冠した他の原稿などはない模様である。しかし、底本の書き方だと、そう採るよりは、初め「筆の雫」と題したが、その上に新たな題として「梧桐」と書いた(芥川龍之介の草稿や原稿を見ると、そのような形で改題したものが実際にあり、廃したがミセケチ風のものもある)と読む方が普通である。取り敢えず、底本の通りの題標記とした。なお、「芥川龍之介作品事典」ではこの「梧桐」を「あおぎり」と読んでいる(根拠不明)。されば私も一応、「梧桐(あをぎり)」と訓じておくことにする。文中の〔 〕は葛巻氏の補正挿入である。

 「膏雨」は「かうう(こうう)」と読み、農作物を潤おして生育を助ける雨・恵みの雨のこと。]

 

    梧桐(「筆の雫」)

 

 梧桐は君子也。木膚も葉もさらりとして如何にも、げに如何に曲事を嫌へばとて綠の練衣に同じ色の冠迄つけて亭々として我如く直かれと敎ふる〔に〕あらずや。然も余は梧桐を愛する也。

 學校の庭に梧桐あり。春の初、赤く芳しき若葉を出す。夜來の膏雨止み、空玉の如くになりたるに一抹紗の如き白雲のその梢にかゝりたる、又捨てられぬ趣あり。

 芝なる姉の家に梧桐の大木あり。初冬の頃には大いなる其葉枯れ、乾き落ちて、堆をなす。余は朝ほの闇き中に起きて、葉疎(まば)らなる其梢に有明の月を見き。

 月明らかなる夏の夜、其樹下に立てば月色溶々水の如くにして、樹影墨よりも黑く涼氣圏に浮動して身は水中に立つの思あり。之又佳。

 或年の秋、友と遠足して某寺に詣る時に、夕陽西山に落ち西空の金漸にあせて一鴉水の如き秋空を渡り群山蒼々として正に暮れなんとす。寺内人なく只梧桐兩三珠亭々として黃昏に立てり。徘徊稍久うして空を仰げば二葉三葉哀れをとゞめたる梧桐の梢に夢よりも淡き夕月の影を見たりき。

 

芥川龍之介 長距離競走の記 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『長距離競走の記』に拠った。本篇には末尾に明治三九(一九〇六)年十二月のクレジットがあり、これは新全集の宮坂覺氏の年譜に於いて、芥川龍之介十四歳の冬十二月二十二(土曜日)の条に、『朝、長距離競走に出場する』とある行事の記録、と言うより、謡曲や狂言の章詞をパロった戯文である。当時の芥川龍之介は東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)二年次生である。れば、この八月頃、『友人七人と深夜、午前』零『時に品川を発ち、横浜方面に向けて徹夜で歩く』とある。記載内容から府立三中の学校行事であったことが判る。]

 

   長距離競走の記

 

 名にし負はゞいざ言問はむ都鳥、我が思ふ人はありやなしやと、之は武藏野の片ほとりに住む學生にて候。さても此度長距離團體競走の擧ありと承り候ふ程に、只今之へと急ぎ候。水淀む「旅所橋(おかりやばし)」を立ち出でて、つきせぬ勳(いさを)とことは[やぶちゃん注:ママ。]に馨る[やぶちゃん注:「かをる」。]も床し、梅の花、天滿宮を橫に見て、行けば程なく中川や、逝く秋降しむ水の色、川添ひ柳淋しげに、眞菰うら枯れ蘆老へる[やぶちゃん注:ママ。]、逆井橋にぞつきにける、逆井橋にぞつきにける。謠にすれば早いものにて、之は早、出發點にて候。能がかりの足どり危く、明治卅九年十二月廿二日朝、一隊四十餘人の健兒と共に、ヒヨロリヒヨロリと逆井橋の出發點に赴きしはかく申す小生なり。

 我隊の出發は既に五分を餘すのみなれば列を正して、檀樹下に馳足進めの號令を待つ。二過ぎ、三分過ぎぬ。肥後先生は時計を睨みて立てり、柳先生は指揮杖を上げて立てり。三十秒、四十秒、五十秒、六十秒、驚破!「進め」の號令 耳元にひびきつ。

 四十の鐡脚は砂煙りを立て、出發點を出ぬ。

 陣々の風、砂をまいて來る。我等はその中を走りぬ。

[やぶちゃん注:「驚破!」の後に字空けはなく、「號令 耳元にひびきつ」の字空けはママ。

「旅所橋(おかりやばし)」現行では「たびしょはし」と音読みしている。東京都墨田区と江東区の間を流れる横十間川に架かる。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在の都立両国高校の東七百七十メートルほどの位置。

「天滿宮」亀井戸天神社。芥川龍之介が直進しているルートから北へ九百七十メートル以上離れるが、「橫に見て」であるから問題ない。但し、実際には旅所橋の東詰から直ぐ左方向となるので、道行文のために距離があったような感じで記してある。

「中川」現在の旧中川。この後の大正一三(一九二四)年に荒川放水路に放水を開始したことによって分断されたもとの中川の下流部分。

「眞菰」」単子葉類植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae族マコモ属マコモ Zizania latifoliaウィキの「マコモ」によれば、『東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行』とある。

「逆井橋」(さかいばし)は現在の旧中川に架かり、東京都江東区と江戸川区を結んでいる。ポイントしたのは「逆井の渡し跡」であるが、拡大すると、「新逆井橋」の下流直近の首都高の下に今一本架かっているのが見えるはずで、それが「逆井橋」である。

「檀樹下」ダンジユカ」と音読みしていようが、「檀」はニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus hamiltonianus。但し、坂井橋のたもとに事実、「マユミ」の木があったかどうかは判らぬ。本「まゆみ」は真弓とも書き、古くから弓の材として知られた歌語であり、また、冒頭で第九段をパロっ見せた「伊勢物語」の第二十四段に「梓弓(あづさゆみ)真弓(まゆみ)槻弓(つきゆみ)年を經て我がせしがごとうるはしみせよ」という歌があるのを、芥川龍之介は意識したようにも私は感ずる。

「馳足進め」「かけあしすすめ」であろう。]

芥川龍之介 夜行の記 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『夜行の記』に拠った。本篇には末尾に葛巻氏による明治三九(一九〇六)年のクレジットがあり、これは芥川龍之介十三歳の八月のこととして、諸年譜に記されてある東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)二年次の徒歩旅行の記録である。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この八月頃、『友人七人と深夜、午前』零『時に品川を発ち、横浜方面に向けて徹夜で歩く』とある。文中の〔 〕は葛巻氏の補正挿入や注である。底本ではこれは全体がややポイント落ちで右にずれているが、同ポイントで示した。なお、以下続く諸篇でも同じであるが、この注は繰り返さない。]

 

   夜行の記

 

       一

 相撲をとり終りて木馬を飛びしが一人去り、二人去りて、いつかMNRTの四生のみとなりぬ。夏の日の夕也。徹夜して遠足して見む乎とふと口をすべらしたるがMRTの三生は十五里[やぶちゃん注:五十八・九キロメートル。]内外ならば行かむと云ふ。

 N生は何とも言はず。テニスの選手にして劍道の達人也。少しは苦しい目に合はせて日頃の鼻を折るも一興ならむと思ひて强ひて行け行けとすゝめたるがN生も澁々ながら「さらば行かむ」と云ひ出した〔れ〕ば、實はさほど行きたくもなけれど今更嫌とも云はれず、日は來む土曜日の夜、行く先は橫濱と定めつ。

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年八月が正しいとすれば、四・十一・十八・二十五日の孰れかとなる。但し、この月、芥川龍之介は七日から千葉勝浦や小湊に遊び、十一日の土曜にその旅から帰宅したか、と宮坂年譜にあるので、後の盆の明けた十八日か、二十五日の孰れかの可能性が高い。]

 

       二

 雨痕泥濘にのこれる日也。夜十二時と云ふに同行七人(OBの二生も擧を聞いて加りぬ)品川の町を出立つ。

 皆夏服に草鞋をはきたるが、N生ひとり上衣を三枚迄重ねたるは用心よき男也。

 八幡村に差しかゝる。雨はらはらと降り出でたり。O生「雨にふられては大變也。引返さむ」と云ふ。弱い音の始也。

 皆諾かずして行く。

[やぶちゃん注:「諾かず」「きかず」。

「八幡村」現在の東京都大田区田園調布のこの附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。【2019年12月28日:削除(グーグル・マップ・データの以下同じは生かす)追記】いつも情報を頂戴するT氏より、以下の御指摘を受けた。

   《引用開始》

芥川が品川出発で横浜へ徒歩で行くのに、「東京都大田区田園調布」は途中経由地として西にずれ過ぎています。そこで、「八幡村」をウィキの「荏原郡」で探すと、存在しません。その代り、「八幡塚村」があり、明治二二(一八八九)年の町村制移行で、六郷村←雑色村、八幡塚村・町屋村・高畑村・古川村(現大田区)になっています。当時の言い方では「六郷村大字八幡塚」です。ブログ「都市化の過程で変遷する地名─東京都大田区六郷を例に─」の本文と地図を参照して下さい。この八幡塚であれば、まさに「六郷の渡し」があった場所で、東海道沿いになります。想像ですが、芥川のような東京市民は、「六郷の渡し」付近を「八幡塚」ではなく、「八幡」と言っていたのではないでしょうか? 以上から、小生は「八幡村」を「六郷村大字八幡塚」とし、現在の東京都大田区東六郷三丁目十ととります。

   《引用終了》

私も北にズレすぎていると思っていたが、調べを怠っていた。T氏の比定で目から鱗であった。いつもながら、T氏に心より感謝申し上げる。なお、この改稿により、後の注の一部も削除した。】]

       三

 六鄕川を渡る。

 雨やみ雲やぶれて星影水にあり。

 只一つ、灯の見ゆる農家に麥つくにもやあらむ、杵の音のせはしげに響くを後にして行けば、夜は兪深うして蟲〔一字不明〕々又喞々、稀に犬の吠ゆる聲あり。

 鶴見橋を渡る、二時也。

 T生こゝらにて野宿せむと云ふ。

 さらばとて鶴見川の川口に近き農家の軒下に入りて海苔粗朶堆くつみたる陰に休む。

 R生先鼾聲あり。次でT生、M生、O生、余。

 其夜夢なかりき。

[やぶちゃん注:「六鄕川」東京都と神奈川県の境を流れる多摩川の下流部の地域呼称。厳密には多摩川大橋付近から下流の呼称で、東京都大田区と神奈川県川崎市との境をなすが、ここは前の「八幡村」の同定が正しいとすれば、その「八幡」辺りから多摩川を下流方向に左岸を下ったもののように思われる

「兪」「いよいよ」。

「〔一字不明〕々」私が直ちに想起したのは「虫がしきりに鳴くさま」を言う「嘖々」(さくさく)である。私のそれは、私が偏愛し、芥川龍之介も好んだ中唐の鬼才李賀の、「南山田中行」の一節、「塘水漻漻蟲嘖嘖」(塘水 漻漻(れうれう) 蟲 嘖嘖)である。リンク先は私の古い原文・訓読・拙訳のページ。

「喞々」「しよくしよく(しょくしょく)」。虫がしきりに鳴くさま。

「鶴見橋」ここ

「海苔粗朶」「のりそだ」。海中に立てて、海苔を付着させるための木の枝。この辺りは幻の「アサクサノリ」(紅色植物門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属アサクサノリ Pyropia tenera。当該地区では既に絶滅したと思われていたが、ごく近年、多摩川河口附近で小群ながら、見つかっている)の産地であった。

「堆く」「うづたかく」。

「鼾」「いびき」。但し、「鼾聲」で「カンセイ」と音で読んでいよう。]

        四

 N生にゆり起されて目をさませば七生既に裝をとゝのへて枕に立てり。急ぎはねをきて草鞋はきなどしつ。

 寐き眼をこすりて立出づ。三時、鎌月空にあり。遙々としてほのかに風露肌に冷也。

行く行くR生「野宿は思ひしより壯快なるもの哉。熟睡何時、眞に一分の思なり」と云へばB生頭をふりて云ふ「否、余は瞬時もまどろまず。君の云ふ一分は余にとりて一年のみ。」衆生大に笑ふ。

 昨夜來の空腹たえがたければM生の發議によりて路傍の饅頭屋の只一軒起きたるに入りて出來たての饅頭三つ價一錢五厘づつなるを食ひて朝飯に代ふ。-人前四錢五厘也。財囊愈輕し。

 東天の白むころ、神奈川の町に入る。

[やぶちゃん注:初行の「七生」の右には葛巻氏により、『〔原〕』(「ママ」の意)とある。一行は芥川龍之介を含めて七人であるから、確かにおかしい。

「寐き」「ねむき」。

「神奈川の町」現在の神奈川県横浜市神奈川区東神奈川附近であろう。]

       五

 町の後の丘に上りて、出日を望む。

 空はれて海碧玉の如くなるに、紫の雲をひらきて紅暾の揚るを見る快思ふべき也。

 耳をすませば諸處に鷄鳴あり。炊煙、丘下の茅屋よりをこる。R生、朝風に嘯いて云ふ。

「生來、未嘗、かゝる壯快なる朝にあはず。」

[やぶちゃん注:恐らくは現在の横浜駅の西口の北の高台(グーグル・マップ・データ航空写真)である。当時は、下方まで海浜であった。六年後の明治四五(一九一二)年の国土地理院図との対比で見られる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のほぼ同位置のこちらを見られよ。私が指示した場所は、まさにかの歌川広重の「東海道五十三次」の「神奈川」宿の図ウィキの「神奈川宿」にある同図)に描かれた附近である。]

芥川龍之介 釈迦 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『釋迦』に拠った。本篇には末尾推定クレジットがなく、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」にも目ぼしい書誌情報は全く載らない。但し、底本は、パート内での配列は葛巻氏によって推定された逆編年構成にするという特徴あり、前の「出師表を読みて孔明を論ず」が推定で明治四一(一九〇八)年とし、本篇の次の「夜行の記」が明治三十九年で、こちらは確定であることが判っている。従って、本篇は明治三十九年から明治四十一年夏以前の閉区間が葛巻氏の考える推定執筆年代と推定し得る。ということは、芥川龍之介満十二、十三、十四歳、東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の一~二年或いは三年生ということになる。

 短文であること、しかも整然と整序されてあることから、何らかの授業の作文の下書き或いは清書であるようにも見える。]

 

   釋 迦

 

 迦毘羅の王家に男子あり。長じて成(ひととな)れり。幼にして俊明、武に長じ文に通ず。父王その勇を稱し母后その才を讚え、めとらしむるに美姬を以てす。

 紫雲三百の高樓をこむるのあたり、香煙三千の侍女をめぐるの邊、榮華の中に生れたる彼は又榮華の中に歿するを得たりし也。

 然れども彼は是を欲せず、富貴を見て浮塵の如く榮華を見る浮雲の如し。實に彼が胸裡に往來せるは如何せば生老病死を免れ得べき乎の大問題なりき。

 月冴えて光水の如くなる夜、人生の歸趨に苦しめる彼は遂に孤影飄然、愛馬に鞭(むちう)ちて遠く王城を逃れ出でぬ。爾來六星霜、或は雪山高く雲をぬく所、或は恆河深く藍を流す所、彼は慘澹たる苦業に身を委ねたるなりき。然れ共無上の正覺は却つて彼が跋提河畔なる沙羅雙樹の下に趺座せるとき、忽然として彼に一道の明光を與へし也。於是彼始めてその素志を貫きぬ。婆羅門一派の難業の愚なるを知りぬ。

 

[やぶちゃん注:「迦毘羅」は「かびら」で、「迦毘羅衞(衛)」(かびらえ(歴史的仮名遣「かびらゑ」):サンスクリット語ラテン文字転写(以下同じ)「Kapilavastu」(カピラバストゥ)の漢訳語)のこと。紀元前六世紀頃にネパール中央部でヒマラヤ山脈の南麓にあった釈迦族の都城及びその部族国家の称。釈迦、ガウタマ・シッダールタ(Gautama Śiddhārtha/パーリ語:Gotama Siddhattha では「ゴータマ・シッダッタ」/漢訳:瞿曇悉達多(くどんしっだった)の出生地。「迦毗羅衛」「迦毘羅城」などとも漢音写する。

「恆河」(こうが)はガンジス川(英語:Ganges)の漢音写。ヒンドゥー語やサンスクリットでは「ガンガー」(Gaṅgā)と呼び、これはヒンドゥー教の川の女神の名でもある。

「正覺」(しやうがく(しょうがく))は「無上正等覚」「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」の漢訳語の略で、「正しい仏の悟り」を指す語。

「跋提河」(ばつだいが)は「阿恃多伐底河(あじだばつていが)」の略。古代インドのマラ国の首都拘尸那掲羅(クシナガラ)を流れる川の名の漢訳で、釈尊は、この川の西岸で涅槃したことが「大般(だいはつ)涅槃経」に記されてある。

「沙羅雙樹」「沙羅」は「さら」若しくは「しやら(しゃら)」と読み、仏教の聖樹フタバガキ科の娑羅樹(さらのき)、則ち、アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta のこと。但し、本邦には自生しない。本邦の寺院ではツバキ目ツバキ科ナツツバキ Stewartia pseudocamelli が「沙羅双樹」と称して植えられていることが多いが、全くの別種である。]

2019/12/26

芥川龍之介 出師表を読みて孔明を論ず 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『雜感』に拠った。最後に葛巻氏によるクレジットが丸括弧で示されてあり、それは明治四一(一九〇八)年である。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」にも目ぼしい書誌情報は全く載らない。同年は三月一日を以って芥川龍之介満十六歳、東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の三年或いは四年生である。

 「出師表」(すいしのへう(ひょう))は一般名詞としては、臣下が出陣する(軍隊(「師」)を「出」す)に際して君主に奉る上奏文(「表」)を指すが、歴史上では普通、三国時代の蜀の丞相で軍師であった諸葛亮孔明(一八一年~二三四年)が、皇帝劉禅(二〇七年~二七一年:在位/二二三年~二六三年)に魏への北伐出陣に際して二二七年に奏上したものを指す。著名であり、特に述べられない場合、「出師表」とはこれを指す。 参照したウィキの「出師表」によれば、その内容は、『自分を登用してくれた先帝劉備に対する恩義を述べ、あわせて若き皇帝である劉禅を我が子のように諭し、自らの報恩の決意を述べた文である。陳寿の』「三国志」の『本文にも引用されている』ほか、「文選」・「文章軌範」・「古文真宝」等にも『収められており、諸葛亮の真作と考えられている』。『古来』、『名文中の名文とされており』、『「諸葛孔明の出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」』(「箋解 古文眞寶」の安子順の評釈部分)『と言われてきたほど、諸葛亮の蜀に対する忠義が如実に描写されていると言われてきた。北宋代の詩人蘇軾は「簡而盡』、『直而不肆」(簡素であって出し尽くされている。真っ直ぐであって乱雑ではない)と』、「老子」の五十八章にある『「是以聖人~直而不肆」を引用して高く評価し』ている。『なお「前出師表」は、漢代の古文の文体で書かれており、この時代に確立し』、『六朝から隋唐に流行した、駢文の装飾的な文体とは異なる趣を持っている。この為、唐代・宋代の古文復興運動でも三国時代の文章としては唯一重んじられていた』。東洋史学者『狩野直禎によれば、諸葛亮が尊敬していた楽毅の「燕の恵王に報ずるの書」の影響が見られ、楽毅の文章の本歌取りを行なっている所もあるという』。『諸葛亮が北伐(魏への遠征)に出発する前に、国に残す若い皇帝劉禅を心配して書いたという前出師表の内容は次の通りである』。『まず、現在天下が魏・呉・蜀に分れており、そのうち』、『蜀は疲弊していることを指摘する。そういった苦境にもかかわらず、蜀漢という国が持ちこたえているのは、人材の力であるということを述べ、皇帝の劉禅に、人材を大事にするように言う』。『さらに』、官僚の郭攸之(ゆうし)・費禕(ひ)・董允(とういん)・向寵(こうしょう)と『いった面々の名をあげ、彼らはよき人材であるから、大事にしなくてはならないと言い、あわせて後漢の衰退の原因は、立派な人材を用いず、くだらない人間を用いていたからだ』、『とも指摘する』。『最後に、自分が単なる処士に過ぎなかったのに、先帝である劉備が』三『回も訪れて自分を登用してくれたことにとても感謝していると述べ、この先帝の恩に報いるために、自分は中原に進出し、逆賊たる魏王朝を破り、漢王朝を復興させようとしているという決意を述べ、全文を次のように結ぶ』。『臣不勝受恩感激 今當遠離臨表涕泣不知所言』(『私は恩を受けた事の感激に打ち克つことが出来ません。今、正に遠く離れるに当たり涙を流し、言葉もありません』)とある。なお、孔明は二三四年春二月に第五次の北伐を行い、司馬懿(しば い)と長期に渡って対陣したが、同時に出撃した呉軍が荊州(現在の湖北省一帯)及び合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し、諸葛亮の挑発に乗らず、五丈原での対峙が続く中、孔明は病に倒れ、秋八月に陣中に没している。享年五十四であった。なお、「出師表」の原文・訓読・訳は個人サイト「I think; therefore I am!」こちらが非常によい。  

 ここで断っておかねばならぬが、私は「三国志」に至って冥い。されば、異様に注を附けざるを得ななかった。高校教師時代、漢文の試験ではろくに点数がとれない男子生徒で、「先生! 三国志を是非、授業でやって下さい!」と懇願する連中が何人もいたのを思い出す。恐らくは、横山光輝の「三国志」の愛読者達であったものと思う。判っておられる読者は私の小五月蠅い注は飛ばして読まれたい。

 なお、この強力な〈諸葛亮論〉は、同じ中学時代の最後にぶち上げた明治四三(一九一〇)年二月十日発行の『學友會雜誌』所収の、かの芥川龍之介の力作「義仲論」(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」を髣髴させ、酷似させるものがある(以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)。或いは、本篇は「義仲論」のためのプレ練習用素材ででもあったのではないか? とさえ強く感じられるほどである。

 

   出師表を讀みて孔明を論ず

 

 杜子美の句に曰、「三顧頻繁天下計。南朝開濟老臣心。出師未捷身先死。長使英雄淚滿襟。」と。吾人、出師表を讀で諸葛孔明の胸裡を思ふ。遂に一滴の淚なき能はざる也。將星、一度五丈原頭に落つるや、斗筲の輩空しく天下の大軍を誤り、漢家四百年の炎光一朝にして散じ、忽ちに豎子司馬昭をして英雄の名を成さしめたる、蜀の亡滅の何ぞ悲慘なるや。而して彼の一生の如何に壯烈なるや。請ふ、彼を泉下より起して、少しく語る所あらしめよ。

[やぶちゃん注:「杜子美」杜甫の字(あざな)。以下の引用は、以下の「蜀」の丞「相」諸葛亮の廟に謁した際の七律「蜀相」(しよくしやう(しょくしょう))から。

   *

 蜀相

丞相祠堂何處尋

錦官城外柏森森

映堦碧草自春色

隔葉黃鸝空好音

三顧頻繁天下計

兩朝開濟老臣心

出師未捷身先死

長使英雄淚滿襟

  蜀相

 丞相の祠堂 何れの處にか尋ねん

 錦官城外 柏(はく) 森森たり

 堦(かい)に映ずる碧草は 自(おの)づから春色にして

 葉を隔つる黃鸝(こうり)は 空しく好音(こういん)

 三顧 頻繁なるは 天下の計

 兩朝 開濟するは 老臣の心(こころ)

 出師 未だ捷(か)たざるに 身(み) 先(ま)づ死す

 長く英雄をして 淚 襟(きん)に滿たしむ

   *

少し語釈すると、「錦官城」は成都の西の城の名。「堦(かい)」は彼を祀った廟堂の階段・階(きざはし)。「柏」は裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis。中国では古くから墓地に植えられることで知られる。「森森」は立ち並んで生い茂っていること。「黃鸝」スズメ目コウライウグイス科コウライウグイス属コウライウグイス Oriolus chinensis。漢詩では「黃鳥」などとも書いて、よく登場する。本邦では日本海側に渡りの途中で稀に飛来する。「空しく」その人(孔明)はもうこの世にいないから言う。「三顧」次の注を参照。「天下の計」天下を安んぜんがための行為であったことを指す。ここの主語は劉備。「兩朝」劉備とその子劉禅の二代を指す。「開濟するは」参考にした一九六六年岩波文庫刊(全六冊)の「杜詩」(鈴木虎雄・黒川陽一訳注)の第四冊の注では、この表現は腑に落ちる注が見当たらぬとし、『開ㇾ心済ㇾ事の意であろうか』とされ、『親子二代の君に対してあますところなく胸のうちをひらいて仕事をなしたというのは』と訳しておられる。「捷(か)たざるに」勝利を得ることがないままに。以下、「五丈原の戦い」での戦病死を指す。

「斗筲」(とさう(とそう))は「一斗を入れる枡」と「一斗二升を入れる竹の器」の意で、 度量の狭いこと、器量の小さいこと。「としやう(としょう)」とも読む。

「豎子」(じゆし(じゅし)は「小僧っこ」「青二才」「未熟者」の意の卑称。ほら! 漢文の「鴻門之会」で劉邦を殺す気を失った項羽を見て、范増が吐き捨てるように項羽を指して罵っ言ったでしょが!

「司馬昭」(二一一年~二六五年)は魏の晋王(爵位)で相国となった政治家。孔明の没して二十九年後の二六三年、蜀漢討伐の軍を興し、蜀を滅ぼした。]

 始め、彼の隆中の臥龍窟に蟄して、靜に星雲の來るべきを待てるや、襄陽の司馬德操劉備に語つて曰、「儒王俗士豈知時務、知時務者在乎俊傑、諸葛孔明臥龍也。」と。

[やぶちゃん注:「隆中」(りゆうちゆう(りゅうちゅう))は若き頃の諸葛亮が住んでいた村の名。当時の荊州の州都襄陽県(現在の湖北省襄陽市襄州区)から約十三キロメートルのところにある小村(現在は襄陽市襄城区)。「三国志演義」では後に蜀漢を建国することになる劉備が彼を軍師として迎えるために諸葛亮の庵まで三度も足を運んだ。所謂「三顧の礼」の舞台となった場所。

「臥龍窟」(ぐわりようくつ(がりょうくつ))は「龍が潜んでいる岩穴」の意から転じて、ゆくゆく優れた人物として世に出る人が一先ず隠れ住んでいる所、大人物の隠れ家の意。次注参照。

「司馬德操」後漢末期の司馬徽(しば き ?~二〇八年)。徳操は字(あざな)。鋭い人物鑑定家として名を博した。諸葛亮を「臥龍」と呼んだのは彼であるともされる(但し、彼が従った同じ人物鑑定家龐徳公(ほうとくこう 一六三年~?)が既に名づけていたともされる)。やはり次注参照。

「儒王俗士豈知時務、知時務者在乎俊傑、諸葛孔明臥龍也」「三國志」の「蜀志」の「諸葛亮傳」の一節にやや手を入れたもの。但し、「王」は「生」の誤り。葛巻氏の誤判読の可能性が高いか。

   *

儒生俗士、豈識時務、識時務者在乎俊傑、此間自有伏龍、鳳雛。

(儒生・俗士、豈(あ)に時務を識(し)らんや。時務を識る者は俊傑にこそ在り。この間、自(おの)づから「伏竜」・「鳳雛(ほうすう)」有り。)

   *

「時務」とは、その時その時に応じた重要な仕事・急務の謂い。「鳳雛」は「臥龍」と同じで、孔明と同じく劉備に仕えた武将で政治家の龐統(ほうとう 一七九年~二一四年)のことを指して言ったもの。]

 是豈、彼が達眼を道破せる言に非ずや。

 彼は實に時務を知れり。襄陽城邊、靑山悠々として江水素絹の如き處、紅卷靑帙[やぶちゃん注:「こうくわん(こうかん)せいちつ」。多くの書物。]の中に起臥し、黃隴碧蕪[やぶちゃん注:「くわうろう(こうろう)へきぶ」。黄土の丘と緑の平野。]の間に耕せる、渺然たる二十七歲の一白面書生は、既に其胸裡に天下三分の大計大畧を抱きし也。

 而して彼は其企圖したるが如く、北、曹操を防ぎ、南、孫權に使し、よく漂泊の劉備をして、南面帝號を唱へしめたり。何ぞ、カブールがサルヂニアの小朝廷をして、伊太利統一の大業を企てしめしに似たる。

[やぶちゃん注:「曹操」(さうさう(そうそう) 一五五年~二二〇年)は魏の始祖。字(あざな)は孟徳。後漢末に「黄巾の乱」の鎮圧を機に勢力を伸ばし、中国北部を統一、南下を試みたが、「赤壁の戦い」に敗れ、呉の孫権・蜀の劉備とともに天下を三分した。魏王となり、死後、武帝と追尊された。

「孫權」(一八二年~二五二年)呉の初代皇帝。字は仲謀。二〇〇年、兄孫策の急死により、跡を継ぎ、土着豪族及び北から南下した名士の支持を得、巧みな政治的外交的手腕を揮って江南支配を達成した。劉備と連合し、曹操の南下を食止めた「赤壁の戦い」はその間に起ったものであった。二二二年に呉王となり、建元して「黄武」と称したが、当時はまだ魏の封策を受けていた。二二九年に皇帝の位について独立し、建業を首都とした。

「カブール」イタリア王国(一八六一年成立)初代首相カミッロ・カヴール(Camillo Cavour 一八一〇年~一八六一年:但し、「カブール」は爵位名であって、家名(姓)は「ベンソ」(Benso)である)でガリバルディ、マッツィーニと並ぶイタリア統一運動(リソルジメント)に於ける「イタリア統一の三傑」の一人(中世以降のイタリアは小国に分裂し、各国家はオーストリア・スペイン・フランスの後ろ楯で以って権力争いが続いていた)。

「サルヂニア」サルデーニャ王国(Regno di Sardegna)は十八世紀から十九世紀にかけて存在したサヴォイア家(Casa Savoia)が支配していた国家。領土は現在のイタリアとフランスに跨り、サルデーニャ島・ピエモンテ・サヴォワ・ニース伯領(アルプ=マリティーム県)を統治していた。その存続期間の大半において、王国の本拠はサルデーニャ島ではなく、大陸のピエモンテにあり、首都はトリノに置かれた。この王国は、十九世紀のイタリア統一運動に於ける中核となり、近代イタリア王国の前身となった。先のカミッロ・カヴールは元サルデーニャ王国首相であった。]

 しかも、氣鋭の年少政治家たる周瑜を動して、赤壁の水戰に曹操八十萬の大軍を破り、詩人をして「東風燒盡北軍湮滅長江不見痕」と歌はしめたる、其深謀に至りてはスタインと雖も彼に一步を讓らざるべからざるが如し。

[やぶちゃん注:「周瑜」(しゅうゆ 一七五年~二一〇年)は呉の孫権に従った武将。二〇八年冬の「赤壁の戦い」では、呉の孫権と蜀の劉備が連合して魏の曹操と戦い、魏に勝利した

『詩人をして「東風燒盡北軍湮滅長江不見痕」と歌はしめたる』これは中国の詩人と思って調べると時間を無駄にする(実は私も十五分ほど浪費した)。これは本邦の歴史家で漢詩人としても知られた頼山陽(安永九(一七八一)年~天保三(一八三二)年)の、「詠三國人物十二絕」の「周瑜」である。但し、引用に一部不備があり、これは芥川龍之介或いは編者葛巻氏の判読の誤りの両方が考えられる。

   *

 周瑜

東風燒盡北軍船

煙滅長江不見痕

怪得頻頻曲邊顧

煙滅長江不見痕

還無一顧向中原

   周瑜

 東風 燒盡す 北軍の船

 煙 滅して 長江に痕を見ず

 怪しみ得て 頻頻として曲邊に顧みるも

 還た一(いつ)として 顧りみて中原に向かふ無し

   *

以上は『立命館大學白川靜記念東洋文字文化硏究所』第七号(二〇一三年七月発行)所収の岡本淳子氏の論文「日本に於ける周瑜像についての一考察――江戸時代を中心に――』(抜刷・PDF)に載る原文と訓読にほぼ従った。芥川龍之介の本篇には「東風燒盡北軍船」の「船」がなく、「煙滅長江不見痕」の「煙滅」が「湮滅」となってしまっている。

「スタイン」プロイセンの政治家でナポレオン支配の時代に農奴制廃止・国民皆兵制・行財政改革に尽力し、ドイツ近代化の基礎を創ったとされるハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン(Heinrich Friedrich Karl, Reichsfreiherr vom und zum Stein 一七五七年~一八三一年)のことか? ナッサウの帝国騎士の出身で、ゲッティンゲン大学で法学を修め、一七八〇年、プロイセンの官吏となった。一八〇四年、商工業担当大臣となったが、国王の側近政治を批判し、一八〇七年一月に罷免された。しかし同年十月、「ティルジットの和約」直後,国家再建のために登用され、翌年十一月まで、事実上の首相としてプロイセン改革に着手した。在任中に「十月勅令」で農民の人格的自由を、都市条例で市民の自治を、行政改革で集権的内閣制度を実現したが、反フランス蜂起画策の廉(かど)でナポレオンの圧力により罷免された。しかし、内政改革はハルデンベルクに継承された、と平凡社「世界大百科事典」にはある。ちょっと、それ以外のここに出して比較になりそうな「スタイン」は私は他に知らない。]

 彼はかゝる眼の人たりしと共に、又大なる手の人なりき。一葉落ちて天下秋を知るの炯眼を、有せしと共に、又よく狂瀾を既倒に囘すの手腕を有したりき。

[やぶちゃん注:「狂瀾」(きやうらん(きょうらん))「を既倒」(きとう)「に囘」(めぐ)ら「す」は「崩れかけた大波を、もと来た方へ押し返す」の意で、比喩的に「情勢が乱れに乱れて、手のつけようのないほど、すっかり悪くなったのを、再びもとに返す」ことを言う。韓愈の文「進学解」に基づく。]

 彼に比ぶれば、荀或の如きは、小數を好む謀主のみ。張昭如きは、徒に剛直なる迂寒儒のみ。周瑜の如きは、輕敏濶達なる俊才のみ。治國平天下の大道に至つては遂に彼が獨擅場たらずばある可らず。

[やぶちゃん注:「荀或」(じゆんいく(じゅんいく) 一六三年~二一二年)は後漢朝の実権を握った曹操の下で数々の献策を行い、その覇業を補佐した政治家。曹操の魏公就任に反対したことから曹操と対立し、晩年は不遇であった。

「小數を好む」ちまちまとした小細工染みた権謀術数のことか。

「張昭」(一五六年~二三六年)は、呉の政治家。後漢の孫策の丁重な招きに応じて配下となった。孫策は死に臨んで、弟の孫権に「国内のことは張昭に問え」と遺言しており、「赤壁の戦い」の際には、曹操への降服を唱え、やがて孫権と対立するようになった。孫権は丞相を置く際、百官が推薦した張昭の任命を二度に亙って拒否し、皇帝としての即位の場では張昭の降服論を非難した。しかし、張昭は呉を代表する名士として尊敬を集め、江東の名士や豪族の支持を背景に、孫権に諫言を続けた。遼東の公孫淵の帰順を受け入れるべきではないと厳しくいさめた際には、無視されると、出仕しなくなった。公孫淵が張昭の諌言通りに裏切ると、孫権は張昭の家に謝罪に行ったが、出てこない。孫権は門に火をつけて張昭を脅し、漸く宮中に連れ帰って謝罪したとされる。「三国志演義」では降服論者の筆頭として論戦を挑み、孔明に言い負かされている(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 彼が當時の史家をして、「科敎嚴明、賞罰必信、惡として懲さざるなく、善として顯さざるなし。」と稱嘆せしめたる、彼が雲の如き幾多の人材を操縱して、よく蜀の小をして吳魏に對峙するを得しめたる、はた彼が干戈[やぶちゃん注:「かんか」。武器。転じて、戦争。]動かざるなき時に於て、蜀の邊隅に別乾坤を打開し、蒼生をして塗炭を免れしめたる、何ぞ彼が經綸の見るべきものある多きや。

[やぶちゃん注:ウィキの「諸葛亮」によれば、「三国志」の撰者である陳寿の評によれば、『「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている』とある。

「蒼生」人民。]

 陳震曰、「盡忠有於時譽者雖讐必賞、犯法怠惰者雖親必罰。」と。彼はかくの如く法を重じたり。法を重ぜしに非ず、法の精神を重ぜし也。瑣々たる形式を脫して、其處に至大至嚴の精神を認めし也。法の精神は「公」の一字にあり。而して彼は一點の私なかりき。彼は淚を揮つて、馬謖を斬れるに非ずや。彼は自ら責をひきて、職三等を下せるに非ずや。而して彼は劉備が孤を託せる李嚴をだにも罰するに、遠流を以てしたるに非ずや。

[やぶちゃん注:「陳震」(?~二三五年)は孔明と同時期に活躍した蜀の政治家。孔明は陳震を「老いてますます誠実な性格である」と賞賛している。

「盡忠有於時譽者雖讐必賞、犯法怠惰者雖親必罰。」勝手流で訓読しておく。

 忠を盡くし時に譽れ有る者は、讐(あだ)と雖も、必ず賞し、法を犯して怠惰なる者は、親と雖も、必ず罰す。

「馬謖」(ばしよく(ばしょく) 一九〇年~二二八年)は劉備に仕えた政治家で軍人。ウィキの「馬謖」によれば、『成都の県令・越巂太守を歴任した。並外れた才能の持ち主で、軍略を論じることを好み、その才能を諸葛亮に高く評価された。ただ劉備は彼を信頼せず、白帝城で臨終を迎えた際にも「馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要な仕事を任せてはならない」と諸葛亮に厳しく念を押したといわれる。しかしながら「才器、人に過ぎ、好みて軍計を論ず」と、俊英な馬謖の才能を愛した諸葛亮は』、『劉備の死後に彼を参軍(幕僚)に任命し、昼夜親しく語り合った』。二二四年の『春に、建寧郡の豪族の雍闓』(ようがい)『らが西南夷の有力者の孟獲を誘って謀反を起こした。馬謖が「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」と諸葛亮に助言したため、これが』「七縦七擒」(しちしょうしちきん:孔明が敵将の孟獲(もうかく)を捕らえては逃がしてやることを七回繰り返した末に、孟獲を心から心服させたこと。「蜀志」の「諸葛孔明伝」の注にあり、ここから「相手を自分の思いどおりに自由自在にあしらうこと」の故事成句ともなった)『などの作戦に繋がり、南征の成功と蜀の後背地の安定に寄与することになった』。二二八年春三月、『諸葛亮は第一次北伐に際し、彼に戦略上の要所である街亭(現在の甘粛省天水市秦安県)の守備を命じた(街亭の戦い)。諸葛亮が道筋を押さえるように命じたが、馬謖はこれに背き』、『山頂に陣を敷いてしまった。このため』、『副将の王平がこれを諫めたが、馬謖は聞き入れようとしなかった』。『その結果、魏の張郃』(ちょうこう)『らに水路を断たれ』、『山頂に孤立し、蜀軍は惨敗を喫した。同年』五『月、諸葛亮は敗戦の責任を問い』、『馬謖を処刑した。諸葛亮はこのために涙を流し、これが後に「泣いて馬謖を斬る」と呼ばれる故事となった』。裴松之(はいしょうし)『が注に引用する習鑿歯』(しゅうさくし)の「襄陽記」に『よると、馬謖は処刑される前、諸葛亮に宛てて「明公は私めを我が子のように思ってくださり、私も明公のことを父のように思っておりました。舜が』聖帝の血を引く鯀(こん)を誅し、『その子の禹を採り立てたように(私の遺族を遇し)、生前の交遊を大切にしてくださるなら、私は死すとも恨みはいたしませぬ」と手紙を書き残した。諸葛亮も馬謖の才能を愛し、目をかけていただけに、彼の処刑に際し』、『涙を流した。馬謖の遺児は処罰されることなく、以前と同様に遇されたという』。『習鑿歯は、諸葛亮が馬謖の起用法に失敗したことや、失敗したにもかかわらず起用され続けて』、『功績を挙げた過去の将軍を例に挙げ、諸葛亮が馬謖を処刑して、有用な人材を失ったことを批判している』。なお、「晋書」の「陳寿伝」では、「三国志」の『撰者である陳寿の父は馬謖の参軍であり、この時』、『馬謖に連座して髠刑(』こんけい:『剃髪の刑で宮刑に次ぐ厳重な処罰だという)に処されたという逸話が載る』。「三国志演義」では、『魏で曹叡(明帝)が即位した際、司馬懿が涼州への赴任を志願し、蜀への対策を行なっているという話を聞くと、司馬懿が謀反を起こすという噂を流すべきだと諸葛亮に進言する。その噂を信じた曹叡らが司馬懿を疑ったため、司馬懿は役職から外されることにつながっている。これを聞いた諸葛亮は出師表を出し、北伐を行なうことになる』という筋立てになっているらしい。

「李嚴」(?~二三四年)は三国時代の政治家で武将。ウィキの「李厳」によれば、『劉備に投降して重用され、諸葛亮とともに遺詔を受け高官に昇るも、晩年に失脚した』。『若い頃に郡の官吏となり、才幹の良さで賞賛を得た。劉表に取り立てられ、郡県の長をいくつか務めた』。二〇八年、『益州との境に近い秭帰県令を務めていたが、曹操が荊州に侵攻したため、劉表死後の混乱する荊州を見限り、益州へ逃れた。劉璋にも取り立てられ』、『成都県令となり、そこでも有能だとの評判を得た』。二一三年、『劉璋の要請により』、『益州入りしていた劉備が劉璋と仲違いを起こし、成都に侵攻した。この時、李厳は劉璋から護軍に任じられたため、軍を率いて綿竹関の守備に就くことになったが、すぐに劉備軍へ投降した。劉備から裨将軍に任じられた』。『劉備が成都に入城すると、犍為』(けんい)『郡太守・興業将軍に任じられた。諸葛亮・法正・劉巴・伊籍と共に蜀科』(法律)『の制定に尽力したという』。二一八年、『反乱を起こした盗賊の馬秦・高勝らの勢力』が『数万人に膨れ上がり、資中県まで到達した。李厳は郡管轄の兵五千の指揮を執』って『討伐し、馬秦・高勝らを処刑して晒し首にした。一方で、反乱に参加した人達は再び戸籍に復帰することを許された。また、越巂』(えつすい)『郡の賊の高定が反乱を起こし、新道県を包囲したとき』に『は、李厳は城を救援し』、『反乱軍を四散させた。この功績により、郡太守のままで輔漢将軍の地位を与えられた』。二一九年、『劉備は漢中を平定すると、群臣達に推挙され』、『漢中王となった。この群臣達の中に、興業将軍の李厳の名がある』。二二二年、『即位した劉備は荊州を占領した呉を討つため』、『東征したが、陸遜に大敗した。劉備は成都に戻ることが出来ず、白帝城を永安宮と改名し』、『そこに留まっていた』。『李厳は永安宮に呼び寄せられ、劉備から尚書令に任命された』。二二三年の『劉備臨終の際には』、『枕元に呼ばれ、同じく成都より呼び寄せられた諸葛亮と共に、太子の劉禅を補佐するよう遺詔を受けた。李厳は中都護となり』。『内外の軍事を統括し、永安に留まり鎮撫に当たる任務を与えられた。劉禅が即位すると、都郷侯・仮節となり、光禄勲の位を付加された』。『このころ、李厳は諸葛亮に手紙を送り、王を称して九錫を受けるよう勧めたことがあったという。これは諸葛亮に、将来の簒奪を勧めたものとも取れる行為であるが、諸葛亮は返書で「魏を滅ぼし、あなた方と共に昇進の恩恵にあずかることにでもなれば、その時には九の特典どころか十でも受けますよ」と、李厳の申し出を受け流す形で拒絶している』。二二六年、『前将軍に昇進した。諸葛亮は北伐のため』、『漢中に陣営を移したので、後方を李厳に任せるべく、彼の駐屯地を江州に移動させた。永安には陳到を置いたが、引き続き』、『李厳が統括するものとした。同年春、李厳は江州に大城を築いている』。『このころ、李厳は魏に投降していた新城の孟達に手紙を送り、諸葛亮とともに劉備から「遺詔を受けたことへの責任感を痛感している」と、胸の内を語った上で「良き協力者を得たい」と述べている。諸葛亮も孟達に手紙を送り、李厳の仕事振りを賞賛している』。二三〇年の秋八月、『魏の曹真が三方の街道から漢水に向かおうとしたため、諸葛亮の命により兵』二『万の指揮を執り漢中に赴き、政務を取り仕切った。江州は子が都督督軍に任じられ、留守の職務を執ることが許されている。諸葛亮は曹真を撃退した後も、再度の北伐に備えるため』、『李厳を漢中に留め、中都護の官位のまま全ての政務を取り仕切らせた』。なお、この頃、『「李平」に改名し』ている。二三一年『春、諸葛亮は再び北伐を行なった』が、『この時、李厳は軍糧輸送監督の任務についた。しかし』、『長雨による兵糧輸送の滞りを理由に、馬忠と督軍の成藩を派遣し、遠征中の諸葛亮にそのことを報告した。ところが諸葛亮が撤退して来た後、李厳は撤退したことを諸葛亮の責任にしようと謀った。さらに、劉禅にも上奏し』、『「丞相(諸葛亮)は敵を誘うために撤退した振りをしているだけでございます」と嘘をついた。このため』、『諸葛亮は李厳の出した手紙を集め、李厳の発言や要旨の矛盾を追及した。李厳はこの追及に敵わず、罪を認め』、『謝罪した。諸葛亮は劉禅に対し、これまで自らが李厳のいい加減さを知りつつも、才能を惜しみ任用し続けてきたことを率直に陳謝した上で、李厳を弾劾し』、『罪を明らかにすることを、上奏して求めた。李厳は免官となり庶民に降格され、梓潼』(しとう)『郡に流された。同年秋』八『月のことであ』った。『李厳と同郡出身である陳震が、呉へ使いに赴く前、諸葛亮に対し』、『「李厳は腹に棘をもっているため、郷里の者からも近付かれておりません」と説いた。陳震は李厳の欠点を棘と例え、諸葛亮はこれに対して棘には触れさえしなければよいと考えていた』。二三一年、『李平(李厳)が失脚すると、諸葛亮は蘇秦・張儀の様な事態が起こるとは思わなかったとして』、『陳震に』、『この事態を知らせるよう』仲介者へ『手紙を送っている』。『諸葛亮は李厳の地位を剥奪したが、子の李豊は罪を問わず、手紙を送って父の汚名を返上すべく仕事に励むよう』にと『諭している。李厳は失脚後、諸葛亮ならばいずれ自分を復帰させてくれると期待していた。しかし』、二三四年、『諸葛亮の死を聞くや否や、諸葛亮の後継者たちでは自分が復職することは二度とあるまいと嘆き、まもなく発病し』、『死去した』。子息の『李豊の官位は朱提太守にまでなった』とある。]

 彼の眼中唯「公」の一字あるのみ。彼は實にソロンの心を以てドラゴンの法を行ひし也。堯舜の行を以て、韓非の令を施きし[やぶちゃん注:「しきし」。]也。

[やぶちゃん注:「ソロン」(紀元前六三九年頃~紀元前五五九年頃)は古代アテナイの政治家・立法者・詩人、ウィキの「ソロン」によれば、『当時のアテナイにおいて、政治・経済・道徳の衰退を防ごうとして法の制定に努めたことで有名である。この一連の法制定は』「ソロンの改革」と『呼ばれ、短期間のうちに失敗したが、アテナイの民主主義の基礎を築いたとして、しばしば高い評価を受けている』とある。

「ドラゴンの法」荒御霊(あらみたま)を持った、龍のように強力にして厳格な「韓非」子の規矩的矯正的な「法」の公使の謂いであろう。]

 然れども彼は法を重ずると共に、又人を重んじたりき。彼は江海の如き度量と、淸月の如き襟懷とを有したりき。彼、王安石の嚴正あるに非ず、又司馬光の德望あるに非ず。しかも彼のよく人を容れ、人を用ふる瀟洒たる本領は、彼の逝くや、廖化をして、「我終爲左袵」と歎かしめしに非ずや。彼が遠く瀘を渡つて不毛に入り、南蠻の痒煙を犯して孟穫を七擒七縱したるが如き、讙詐百出、陰忍老骨なる曹猛德と對照し來れば眞に其徑庭も啻[やぶちゃん注:「ただ」。]ならざるを覺ゆ。參軍馬謖の誅せらるゝに臨で、「丞相常に我を見る子の如し。我黃泉の下に至つて何をか恨まむ。」と慟哭したる、豈是偶然ならむや。

[やぶちゃん注:「王安石」(一〇二一年~一〇八六年)は宋の政治家・文人。新法を開始して審議実施し、神宗の信頼の下、政府首班として新法を推進し、宋朝政治の積弊を改革した。「唐宋八大家」の一人に数えられる文章家で,詩人としても優れた。

「司馬光」(一〇一九年~一〇八六年)は王安石と同時期の宋の学者・政治家。地方官を歴任したのちに央政府に入ったが、革新派の王安石と合わず、退いて歴史書「資治通鑑(しじつがん)」の編集に専念した。哲宗が即位すると、その宰相となり、王安石の新法を廃し、旧法に復し、保守派の信望を集めたが、まもなく逝去した。その思想は儒学に老荘を交えたものであった。

「廖化」(れうか(りょうか) ?~二六四年)は蜀の軍人。ウィキの「廖化」によれば、『劉備が崩御すると』、『諸葛亮の参軍とな』って、魏北伐戦で活躍したが、二六三年、『魏が攻めてきた時、姜維・張翼と共に剣閣を守備し』、『最後まで鍾会軍に抵抗した』ものの、『先に成都が陥落したため降伏した(蜀漢の滅亡)』。二六四年、『洛陽に連行される途上で病死した』。『没年齢は』七十『歳代だった』模様である。「三国志演義」では、『黄巾賊の残党ながら、仲間の杜遠が拉致してきた劉備の妻妾に無礼を働いたため、 首を斬って関羽に差し出す。その際、賊出身の人物を家来にすることを嫌った関羽に拒絶されている。劉備が荊州を手中にした頃に物語へ復帰し、関羽の主簿(幕僚長)となる。 関羽が呂蒙に攻められ麦城へ逃げ込んだ時、上庸の劉封・孟達へ援軍を求めに走ったが、要請を拒否されて成都に走っている。関羽死後に劉封らの処罰を劉備に訴え、これが孟達の脱走と劉封の処刑につながっている』。『北伐の際には、諸葛亮指揮下の将として活躍する。あるとき、諸葛亮の策により魏の司馬懿を追い詰めるが、司馬懿が』、『わざと逃げ道の別方向に兜を落としたのを真に受け、誤った方向を追ったため』、『後一歩の所で取り逃してしまう。諸葛亮は廖化の戦功を評価したものの、もし関羽なら』、『司馬懿を捕らえることが出来ただろうと、思い耽ることになる』。『最期は正史と同様である』。同書では、『特に老将としての描写はないものの、物語の設定都合で、黄巾の乱から蜀漢滅亡まで』八十『年余の間、戦乱を生き抜いた』設定『になっている』とある。

「我終爲左袵」「我れ、終(つい)に左袵(さじん)と爲(な)す」。衣服の前を打ち合わせる際に左の襟を内側にして着ること。所謂、「左前」。中国では右衽を中華の風とし、左衽を夷狄(いてき)の習俗とした。ここは自身を心から信用してくれた貞節の人がいなくなった、だから私はこの場にあって異邦人だ。野蛮人だという意味であろうか。]

 經世家として、然り、經世家としての彼は、又將畧に於ても優に第一流たるに恥ざりき。吾人は彼が端倪すべからざる戰畧について、多く語るを要せず。唯、彼が敵手にして、しかも彼が知己たる司馬仲達が祁山[やぶちゃん注:「きざん」。]渭水の空營に投じて、「眞に天下の奇才也。」と歎賞したるを以て、彼が霸才を證せむのみ。誰か、公論の反つて敵讐の口に出づるを疑ふものぞ。

[やぶちゃん注:「經世家」(けいせいか)政治家。

「將畧」(しやうりやく(しょうりゃく))は「大将としての知略・将軍としての軍事上の計略」であるが、どうも前の「經世家として、然り、經世家としての彼は」とのジョイントが頗る悪い。

「司馬仲達」既に注で出てきた敵将である魏の政治家司馬懿(しば い 一七九年~二五一年)の字(あざな)。]

 然れども彼が偉なるは、彼が縱橫突破の軍畧の爲にもあらず。彼が治國平天下の政治的辣腕の爲にもあらず。人を容るゝ、光風の如くなる雅量の爲にもあらず。唯彼が義の存する所、身命を輕しとする、鴻毛の如きによるのみ。

 出師表は實に彼が此獻身的精神の結晶せる也。彼が滿腔の熱血の凝血せる也。感淚の滂沱として滴る所、謬奬の聲の自ら起れる也。

[やぶちゃん注:「謬奬」(べうしやう(びゅうしょう))。恐らくは、「謬」は通ずる「繆」の意「あざなう・からみつく」であり、「奬」は「すすめる・助け励ます」で、この二字で「集い結する」の謂いではないかと私は推察する。]

 吾人は之に烈々たる殉道殉義の大精神を見、炎々たる精進不屈の大雄心を見、而して又節操、峨眉天外なる諸葛孔明其人の英姿颯爽として現はるゝを見るを覺えざる不能る也。

 彼云はずや。「臣本布衣、躬耕於南陽、苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯、先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於艸廬之中、諮臣以當世之事、由是感激、遂許先帝以驅馳。」何ぞ其言の眞率なるや。彼は山陽が「有魚頳尾泣窮冬。枯轍無人憐嶮遇。」と歌へるが如く、隆中の艸廬に橫はれる眠獅なりき。而して劉備、龍種の尊を以て、三度之を野に顧るや、彼は彼自らの云へるが如く、其知遇に感激したり。「君ならで誰にか見せむ、梅の花、色をも香をも知る人ぞ知る」とは彼が劉備に對する眞情也。而して其深甚なる感激は、途に彼をして江畔、柳綠にして梅花、雪の如くなる、南陽の春色にそむいて彼が十有餘年の久き[やぶちゃん注:「ひさしき」或いは「ながき」。]に及びて、秋月に對しては洞簫を吹き、春雨に對しては琴を彈じて、靜に天下の風雲を洞觀したる彼が懷しき草廬を捨てしめたり。

[やぶちゃん注:「臣本布衣、躬耕於南陽、苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯、先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於艸廬之中、諮臣以當世之事、由是感激、遂許先帝以驅馳。」勝手流で訓読する。

   *

臣は本より布衣(ほい)、躬(みづか)ら南陽に耕(たがや)す。苟くも亂世に性命(せいめい)[やぶちゃん注:生まれながらに天から授かった性質と運命。]を全うし、聞達(ぶんたつ)[やぶちゃん注:世間に名が知れ渡ること。]を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙(ひひ)なるを以つてせずして、猥(みだ)りに自ら枉屈(わうくつ)し、臣を草廬の中に三たび顧(かへり)み、臣に諮(はか)るに當世の事を以つてす。是れに由りて感激し、遂に先帝を許すに、驅馳(くし)を以つてす。

   *

「山陽」先に注した頼山陽。

「有魚頳尾泣窮冬。枯轍無人憐嶮遇。」頼山陽の「詠三國人物十二絕句」(「三國」人物を詠ずる十二絕句)の「孔明」。

   *

   孔明

有魚頳尾泣窮冬

涸轍無人憐噞喁

誰料南陽半溝水

養渠忽地化爲龍

    孔明

 魚(うを)有り 頳尾(ていび) 窮冬に泣く

 涸轍(こてつ) 人として噞喁(けんぐう)を憐れむ無し

 誰(たれ)か料(はか)らん 南陽 半溝の水

 渠(かれ)を養ひて 忽地(たちまち)化して 龍と爲(な)る

   *

以上は、加藤徹氏の「頼山陽」「が三国志を詠んだ漢詩」というPDFファイルを参照した。その注に「頳尾」は「詩経」の「魴魚頳尾、王室如燬」に基づくもので、『魚が病気になると尾が赤くなる、という』とあり、「噞喁」は『魚が空気や餌を求めて、水面に口を突き出すこと』とされる。以下、加藤氏の訳。

   《引用開始》

 若いころの諸葛孔明は、道路の水たまりの中の魚だった。貧乏と寒さに苦しみ、誰からもかえりみてもらえなかった。南陽の狭い田舎は、小さなどぶのようだったが、そこで暮らしていた彼が龍のように飛躍して天下に名を轟かせると、一体だれが予測できたろう。

   《引用終了》

「君ならで誰にか見せむ、梅の花、色をも香をも知る人ぞ知る」これは「古今和歌集」の「巻第一 春歌 上」の紀友則の一首(三八番)。

   *

    梅の花を折りて人におくりける

 君ならで誰(たれ)にか見せむ梅の花色をも香をもしる人ぞしる

   *]

 於是、彼は漢室の興復を以て、彼が天職と信じたりき。死而後已は彼の本分也。中原[やぶちゃん注:「ちゆうげん」。]を掃蕩するは彼の使命也。彼は十字軍を起したる殉敎徒の如し。彼が灼々たる大理想の赤熱の前には、利害なく、富貴なく、黃金なく、紫綬なく、成敗なく、利純なければ也。

[やぶちゃん注:「死而後已」音読みするなら「シジコウイ」、訓読するなら「死して後(のち)已(や)む」。]

 彼が昆山の玉の如き節操を抱きて、大義の存する所、堂々として屈せざりしを以て、孫權が荆州を襲ひたる、はた曹操が河北に袁紹と對したると比す、孟德仲謀の擧は誠に双牛の角爭と選ぶ所なきを、思はずばあらず。曰、「庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還于舊都、此臣所以報先帝、而陛下之職分也。」と。又曰、「臣不勝受恩感激、今當遠離、臨表涕泣、不知所云。」と。何ぞ其言の惻々として人を動かすや。彼の偉大なるは實に是にあり。是を措いて、東吳の遊說を語り、木牛流馬を語り、蜀民が淚を垂れて私絮するを語る、孔明を知らざるの甚しと云ふべきのみ。

[やぶちゃん注:「昆山」中国古代の伝説上の山岳である崑崙山(こんろんざん)か。中国の西方にあって黄河の源とされ、玉を産出し、仙女西王母がいるとされた仙界。

「荆州」荊州に同じ。

「袁紹」(ゑんせう(えんしょう ?~二〇二年)は後漢末の群雄の一人。霊帝の没後に宮廷の宦官勢力を一掃し、献帝を擁した董卓(とうたく)を倒した。後、曹操と対立し、

官渡の戦い」で大敗して病没した。

「孟德」曹操の字。

「仲謀」孫権の字。

「庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還于舊都、此臣所以報先帝、而陛下之職分也。」「出師表」の一節。訓読すれば、

   *

 庶(ねが)はくは、駑鈍(どどん)を竭(つ)くして姦凶を攘(はら)ひ除き、漢室を興復して舊都に還(かへ)さん。此れ、臣の先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり。

   *

訳すなら、

   *

 冀(こいねが)はくは、我が愚鈍の智慧を使い尽くし、悪しき存在を毀(こぼ)ち払い除け、漢室を復興し、旧都洛陽に戻らんことを。これこそ、私が先帝の御恩に報い、陛下に忠心を尽くすところの務めにて御座る。

   *

「臣不勝受恩感激、今當遠離、臨表涕泣、不知所云。」同前であるが、やや表記が異なる。

   *

 臣不勝受恩感激。今當遠離。臨表涕零、不知所言。

   *

同前の仕儀で示す。

   *

 臣、恩を受けて感激に勝へず。今、當に遠く離(さか)るべし。表するに臨みて涕(なみだ)零(こぼ)ち、言ふ所を知らず。

   *

 臣たる吾、御恩を受け、感激に耐え得ませぬ! 今こそ、さあ、遠征に、いざ、出でんとすべき時! さても……この表に向かっておりますと……自ずと、涙が、こぼれ落ち、最早、申し上げるべき言葉も……忘れております。

   *

「惻々」可哀想に思うさま。憐れみ悲しむさま。

「木牛流馬」(ぼくぎうりうば)は孔明の創案とされる牛馬の形に似た機械仕掛けの兵器・食糧運搬車のこと。

「私絮」不詳。読みは「しじよ(しじょ)」だろうが、くだくだしい個人的な彼への追慕を語ることか?]

 出師表を讀でこゝに至り、孔明を憶ふてこゝに至る、吾人亦涕泣して云ふ所を知らざらむとする也。

 

芥川龍之介 雑感 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『雜感』に拠った。クレジットはなく、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」にも目ぼしい書誌情報は全く載らない。しかし、先の「近藤君を送る記」が東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の最終学年五年の折り(満十七歳)のものであるから、それと同時期かそれよりも前の中学時代の作と葛巻氏は判断しているということになる。末尾に「・・・」(この記号は恐らく葛巻氏による未完を意味する添え記号ととれる(底本の他の未完断片に同じような記号が使用されてある。また、芥川龍之介の未完断片には旧全集でもこうした処理が成されてあるものがある)が、断定は出来ぬのでそのまま示した)とある通り、未刊の断片。

 若き芥川龍之介の自負と鬱勃たるパトスが充満している。しかも既にして自らの自己撞着の末の悲劇の最期をさえ「揣摩」(しま:「揣」も「摩」はともに「おしはかる」の意で、ある対象の将来や他人の気持ちなどを推量することを指す)しているかのようにも読めることに、私は慄然とする。]

 

   雜 感

 

 天才の人は撞着の人也。超凡の生涯は撞着の生涯也。

 撞着の人、天才の人なるにあらず。天才の人、撞着の人たらざる不能也。時代に撞着するは時代の天才也。凡人に撞着するは平凡なる哲人也。時代の天才を容れず、凡人の哲人を知らずに、𡡅の鵬程に萬里を笑ふ、豈是偶然ならむや。

[やぶちゃん注:「𡡅」は中文サイトを見ても意味不明。

「鵬程に萬里を笑ふ」「鵬程萬里」(ほうていばんり)という熟語は、遙か遠く隔たった旅路・道程の喩え。または限りなく広がる大海の形容。前途が洋々たることの形容に用いられることもある。「鵬」は想像上の巨大な鳥。背中の大きさは何千里あるか判らず、旋風(つむじかぜ)を起こして九万里の上空に飛び上がるという。「程」は「道程」の意。出典は「荘子」の「逍遙遊」。「𡡅」を、例えば、ただの雌鶏(めんどり)ととれば、凡才が天才の驚くべき飛翔、勇躍力を馬鹿にするの謂いか。]

 既に時代、天才をいれず。撞着は誤解をうみ、誤解は不安をうみ、不安は猜疑をうみ、猜疑は嫌惡をうむ。於是滔々たる天下の凡人は天才を見て、不羈の狂者と罵り、不伴の鈍物と嘲り、不屈の痴漢と笑ふ。菫花、長松を仰いで「松檜は愚なる哉、花ひらかず。」と云へる古の物語のみ。

[やぶちゃん注:「不羈」(ふき)はここでは単に「並外れた」「とんでもない」の意。

「不伴」「ともに連れ添うことの出来ない」であろう。]

 幾多の天才が彼等の轗軻になき、彼等の不遇に哄ひ、しかも混沌たる凡俗の中に墮落する能はざるの、亦是が故にあらずや。

[やぶちゃん注:「轗軻」(かんか)は(「車が思うように進まない」の意から)「世間に認められないこと・志を得ないこと」の意で、後の「不遇」も同じ。

「哄ひ」「わらひ」。]

 然れ共、天才の達眼は所謂輿論の外に超越す。同一なる水平線上にある撞着の人より見れば不羈の狂者は一代の天才也。不伴の鈍物は一世の哲人也。是英雄英雄を知るの所以。鐘子期死して伯牙絃を斷てるの所以。荊軻死して高漸離再筑をうたざるの所以也。

[やぶちゃん注:「鐘子期死して伯牙絃を斷てる」春秋時代の楚の人鐘子期(しょうきし)は、琴の名人であった友人伯牙の音楽の理解者として知られ、その死後、伯牙は琴の糸を切って生涯演奏しなかったという故事に基づく。ここから互いによく心を知り合った親友を意味する「知音(ちいん)」の成句が生れた。

「荊軻死して高漸離再筑をうたざる」荊軻(けいか ?~紀元前二二七年)は戦国時代末期の知られた刺客。燕の太子の命を受け、策略を用いて秦王の政(後の始皇帝)を暗殺しようとしたが、失敗し、殺された。高漸離(こう ぜんり)は荊軻の親友。音楽をよくし、楽器の筑(ちく:中国古代の打弦楽器であるが、現物は今に伝わらない。琴に似ているが、弾奏するのではなく、竹(「竹」と「筑」は通音)の棒で弦を叩いて音を出した)を撃つのが巧みであった。荊軻による始皇帝暗殺失敗の後、隠れたが、筑を以って再び知られるようになり、始皇帝に召された。始皇帝は、高漸離が荊軻の友であることを知るが、高漸離の音楽の才を惜しんで、その眼を潰して、側近として置き、筑を撃たせては賞美した。後に荊軻の志を遂げるべく、始皇帝の前で筑を演奏している最中、鉛を仕込んだ筑を投げつけ、殺害しようとしたが、失敗、臣下によって誅殺された(以上はウィキの「荊軻」に拠った)。]

 再び云ふ。天才の人は撞着の人也。内なる非凡は常に外なる平凡にかくる。寸蛇を見て、その蛟龍たるを揣摩す、・・・

2019/12/25

芥川龍之介 桂園一枝をよむ 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『桂園一枝をよむ』に拠った。クレジットはなく、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」にも目ぼしい書誌情報は全く載らない。しかし、先の「近藤君を送る記」が東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の最終学年五年の折り(満十七歳)のものであるから、それと同時期かそれよりも前の中学時代の作と葛巻氏は判断しているということになる。

 「桂園一枝」(けいえんいっし)は歌集名で、江戸後期に刊行された国学者で歌人であった香川景樹(明和五(一七六八)年~天保一四(一八四三)年:鳥取藩士荒井小三次次男。香川景柄(かげもと)の養子となったものの、のちに離縁したが、そのまま香川姓を名乗った)の家集である。文政一一(一八二八)年に完成し、天保元(一八三〇)年に板行された。巻数は正編三冊・拾遺二冊で九百八十三首を収める。同じく国学者で歌人の小沢蘆庵(享保八(一七二三)年~享和元(一八〇一)年)が提唱した「ただごと歌」(人の心が発する自然の声をそのままに言葉にした歌)の主張を発展させ、優雅・清新な歌風を以って京都を中心とした歌壇に君臨した景樹の代表作。景樹の家風は明治初期までもて囃され、それを継いだグループが生れ、彼等は本歌集の名から「桂園派」と称された(明治後期に与謝野鉄幹や正岡子規ら和歌革新運動を起こした連中から批判を受けて衰退した)。景樹は「古今和歌集」の歌風を理想とし、紀貫之を「歌聖」と仰ぎ、それを実践するため、この歌集を自ら撰集した。歌集の構成は四季・恋・雑・雑体(長歌・旋頭歌・俳諧歌)から成る(以上は主にウィキの「香川景樹」に拠った)。]

 

   桂園一枝をよむ

 

 風止みて日品々、滿庭の落木疎影斜也。

 案頭、偶、桂園一枝あり。興じてよむ。眞情流露、淸泉のせゝらぐが如きもの、誠に一代の歌人たるに不恥。

 當時、二條流の跋扈したる中に超立して、その格式拘泥の陋習を嘲笑したる、素より高卓の識見あるにあらざれば不能。しかも彼の歌の淸新にして穩健、穩健にして眞率、眞率にして瀟洒、瀟洒にして俊逸、殆ど日本歌壇のウァーヅアースたらむとせるに於てをや。

 其一二を擧げむに

  松の實の雫をつらし柴の戶に 折々あらき雨の音かな

 正に是、蘇東坡が、歲行盡矣 風雨凄然 紙窓竹屋 燈火靑熒 時於其間 得小佳趣 なるもの。讀過冥想すれば、曠世の奇才を抱く景樹翁が、殘燈水の如くなる書齋に、雨聲の肅々をきゝつゝ獨り淋しく案じくれたるさま、髣髴として眼底に浮び來るを覺ゆ。

  妹と出て若菜つみにし岡崎の かきね戀しき春雨ぞふる

 情韵双絕。悠々として言外無限の恨あり。

  心なき人は心やなからまし 秋の夕のなからましかば

 透徹之言、以て此翁の風貌を想見するに足る。

  朝凪の網引やすらむ管浦の 霞をつたふ蜑の呼び聲

 何等の優趣ぞ、霞をつたふの一語添へ來りて、耳邊、殆蜑の呼聲をきかむとす。

  くれ竹の隣へかへる音すなり 日影に雪やとけわたるらむ

  こともなき野連を出でても見つるかな しぎの羽音のあはたゞしきに

 常套の裡、常套の語、しかも自ら雅意あるを見る。

  夕まぐれ嵐にをつる松の葉を 雨のあたると思ひけるかな

 無邊の幽情を三十一字の中に洩せるもの。芭蕉をして、天機を冷語の外にならしむると雖も、到底之にすぎず。

  限りなき大海原の波の音を 松にとめてもきく夜なりけり

 落想の豪宕なる。濤聲松籟を壓してあまりあり。

  みな人の春の野はらにあくがるゝ 玉の緖とけてあそぶ糸遊

若草の野に立ちてわすれ水の歌をきく每に、未嘗てこの感なくしてすぎしはあらず。四疊半の部屋にうづくまる時、試にこの歌を朗詠すれば、何となく神遠く氣伸ぶる如き心地せらるゝ也。

 

[やぶちゃん注:「二條流」鎌倉後期の二条為世の唱える風体を守った和歌の守旧派。京極・冷泉の各派と対立し、その歌風は保守的であったが、中世から近世にかけて歌壇の主流とはなった。但し、江戸時代には正統なそれは断絶しており、芥川龍之介の言うように「跋扈し」ていたとは言い難い。

「ウァーヅアース」イギリスの代表的なロマン派詩人ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth 一七七〇年~一八五〇年)。湖水地方の光景をこよなく愛し、自然と人間との霊交を謳い、平易な表現で純朴且つ情熱を秘めた自然讃美の詩を書いた。

「蘇東坡が、歲行盡矣 風雨凄然 紙窓竹屋 燈火靑熒 時於其間 得小佳趣」北宋の名詩人蘇軾(一〇三七年~一一〇一年)の以下の尺牘(書簡)の一篇。「毛維瞻(まういたん)」なる人物はよく判らぬが、内容から見て蘇東坡の気におけないかなり親しい友人であったものと思われる。中文サイトを読むに、北宋の詩人毛滂(一〇六一年?~一一二四?年)の父親である。

   *

   與毛維瞻

歲行盡矣。風雨凄然。紙窓竹屋。燈火靑熒。時於此間少佳趣。無由持獻。獨享爲愧。想當一笑也。

   *

  毛維瞻に與ふ

歲(とし)、行々、盡く。風雨、凄然たるも、紙窓・竹屋の燈火、靑熒(せいけい)の時、此の間(かん)に於いて、少しき佳趣を得。持して獻ずるに(よし)由無し。獨り享(う)くを愧(はぢ)と爲し、想ふに當に一笑すべきなり。

   *

国立国会図書館デジタルコレクションの坂井松梁著「ポツケッツト 漢文と候文」(明四四(一九一一)年求光閣刊)のこちらに、以下のような訳が載るので、電子化しておく(坂井松梁氏は生没年が不明であるので、著作権満了(恐らく間違いなく満了)の確認が出来ないので引用とする。読みは一部に留めた)。

   《引用開始》

最早餘日(よじつ)御座なく、風雨轉(うた)た凄然たる折柄(をりから)、御動靜(ごどうせい)如何(いかが)、小生紙窓(そそう)竹屋(ちくをく)靑燈(せいとう)を挑(かか)げ、閑味(かんみ)を愛する時、少(すくな)からざる佳趣を覺へ申候(まをし)、献上するに由(よし)なく、唯だ一人(ひとり)にて此樂(たのし)みを享有(けういう)するは、不本意の至(いたり)に御座候、御(ご)一笑下され度(たく)候、御都合にて御曳杖(ごえいじやう)如何(いかゞ)、早々、

   《引用終了》

「曠世」「くわうせい(こうせい)」。世に稀なこと。稀代。

「妹」(いも)「と出て」(いでて)「若菜つみにし岡崎の かきね戀しき春雨ぞふる」水垣久氏のサイト「やまとうた」の「千人万首」の香川景樹によれば、「妹」は景樹の妻包子(かねこ)のことで、文政三(一八二〇)年三月、景樹五十三歳の時に死別しており、『「岡崎」は今の京都市左京区岡崎(グーグル・マップ・データのこの附近。以下同じ)。景樹が妻と居を構えた土地』とある。歌柄から明らかに妻没後の一首。

「管浦」原家集を確認出来ないのだが、これ、「菅浦」の編者葛巻氏の判読の誤りではあるまいか? 「菅浦」ならば、琵琶湖北部湖岸の現在の滋賀県長浜市西浅井町菅浦である。ウィキの「菅浦の湖岸集落」によれば、『天皇に供える食物を献上する贄人(にえびと)が定着したのが始まりとされ』、『天平宝字』八(七六四)年に『藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の際に逃れた淳仁天皇の隠棲伝説も伝わ』るとある。

「蜑」「あま」。海士(あま)。

「幽情」心の奥底の想い。

「天機」造化の秘密。天地自然の神秘。

「冷語」冷淡な言葉。嘲る言葉。

「落想」心に浮かんだ想い。

「豪宕」「がうたう(ごうとう)」。気持ちが大きく、細かいことに拘らずに思うままに振る舞うこと。豪放。

「糸遊」陽炎(かげろう)、

「神遠く」「しんとほく」と読んでおく。神の持つ久遠なその霊力の意で採っておく。]

芥川龍之介 近藤君を送る記 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ・正字正仮名版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻(くずまき)義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『近藤君を送る記』に拠った。末尾には葛巻氏によって『(明治四十二年)』のクレジットが示されてある。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」によれば、初出は東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)学友会明治四三(一九一〇)年二月十日発行の『學友會雜誌』で、署名は『五甲 芥川』である。電子化ではその署名を題名の後に掲げて再現した。なお、この初出誌には、かの芥川龍之介の力作「義仲論」(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)も発表されている。

 本篇は、この前年の明治四十二年九月三日(満十七歳で第三中学校五年生(当時の旧制中学は五年制))、同級生であった近藤為次郎(名は新全集の書簡の人名解説索引に拠った。以下の進学事由もそれに従った)が江田島海軍兵学校(明治二一(一八八八)年に東京築地から移転した)入学のために去る(当時の海軍兵学校の受験資格は受験年齢に十六歳から十九歳という年齢制限があり、中学校第四学年修了程度の学力という条件があり、この近藤君はそれを満たしている。文中に出る近藤君の兄の帽子も海軍或いは海軍兵学校の帽子であろう)に際しての送別会が学校講堂で行われた事実に基づいて書かれた。この時、以下に記される通り、芥川龍之介は他の友人らともに祝辞送別のスピーチをしている。

 踊り字「〱」は正字化した。]

 

   近藤君を送る記

            五甲 芥川

 九月三日。近藤の江田島に去るのを會合を開く。合したのは百人ばかりの五年生だ。まだ初秋の事で、夕がた、水淺葱の花がほろほろとこぼれるのを見ると秋らしく思はれるが晝はまだ、百日紅の花がさいて、靑空には白い光のある雲が夏の姿を見せてゐる。近藤は紺がすりの單衣をきてにこにこ笑ひながらやつて來た。近藤と同じ鑄型で作つたやうな近藤の兄さんも來た。兄さんは白い筋の帽子を冠つてゐる。會は講堂で開いた。主任の先生も出席して下さつた。校長も中島先生も御出になる。僕等は唯嬉しい。喝采の聲が起ると演壇へ紺の制服をきた白面の靑年が立つた。山本だ。短い――しかしながら川勝先生のよりは長い――開會の辭述べて壇を下る。續いて茶菓が出る。俵田、中島、宮崎、筒井、長島、それから僕なんぞが無理に引つぱり出されて祝辭を述べる。寸鐡殺豚のやうなのばかりだつた。最後に近藤が答辭をやる。諸先生の御話しがある。中でも中島先生の祝賀の字義を解かれたのは大に振つてゐた。

 會は山本の閉會の辭と共に完つた[やぶちゃん注:「をはつた」。]。超えて五日。近藤は三時何分かの汽車で江田島へ去つた。健兒幸に健在なれ矣。

 

[やぶちゃん注:「山本」は芥川龍之介の親友山本喜誉司であろう。後に龍之介の妻となる塚本文の叔父で、二人を結びつけた人物である。

「中島先生」は先の勉誠出版の解説の中で『数学科の中島広太郎』とある。

「寸鐡殺豚」(すんてつさつとん)は芥川龍之介の造語で「寸鉄殺人」(寸鉄、人を殺す:急所を突けば、短い刃物であっても人を殺すことが出来るの意。短く適切な言葉で相手の急所や弱点を指摘すること)を、魯鈍な豚ぐらいしか殺せない、短くて的外れなものだったとおどけて言ったものであろう。

「矣」は漢文の断定を表わす置字で読まない。]

大和本草卷之十三 魚之下 萃臍魚(あんかう) (アンコウ)

【外】

萃臍魚 寧波府志曰一名老婆魚一名綬魚蓋其

 腹有帶如帔子生附其上故名綬魚其形如科斗

 而大者如盤又名琵琶魚呉都賦曰琵琶魚無鱗

 而形似る琵琶冬初出者俗多重之至春則味降矣

 ○國俗鮟鱇ト称ス未見出處恐可為妄称坂東ニ

 多シ尤珎賞ス西州ニハマレナリ臛トシテ食フ味甚ス

 クレタリ上品トス冬ハ味ヨク春ハヲトル叓寧波府

 志ニ云フカコトシ性温補無毒百病不忌

○やぶちゃんの書き下し文

【外〔品〕】

萃臍魚(あんかう) 「寧波府志」に曰はく、『一名、「老婆魚」。一名、「綬魚」。蓋し、其の腹、帶、有り。帔子〔(たれぎぬ)〕のごと〔きもの〕、生じて、其の上に附く。故に「綬魚」と名づく。其の形、科斗〔(おたまじやくし)〕のごとくして大なる者、盤のごとし。又、「琵琶魚」と名づく。「呉都の賦」に曰はく、『「琵琶魚」、鱗、無くして、形、「琵琶」に似る』〔と〕。冬の初、出づる者、俗、多く之れを重んず。春に至れば、則ち、味、降〔(おつ)〕る』〔と〕。

○國俗、「鮟鱇」と称す。未だ出處を見ず。恐らくは妄称と為すべし。坂東〔(ばんどう)〕に多し。尤も珎賞〔(ちんしやう)〕す。西州には、まれなり。臛(あつもの)として食ふ。味、甚だすぐれたり。上品とす。冬は、味、よく、春は、をとる叓〔(こと)〕、「寧波府志」に云ふがごとし。性、温補〔にして〕、毒、無し。百病に忌〔(い)〕まず。

[やぶちゃん注:本邦では硬骨魚綱アンコウ目アンコウ科 Lophiidae の内、食用にするのは、

キアンコウ(ホンアンコウ)Lophius litulon(♀は尾鰭の根元までの体長一メートルから一・五メートル程で、♂は五十センチメートル前後。太平洋北西部(日本・朝鮮半島・東シナ海)の水深五百メートル程までの深海に棲息する。なお、一般には「キアンコウ」の別称として「アンコウ」あるいは「ホンアンコウ」と呼ばれることがある)

と、

アンコウ(クツアンコウ)Lophiomus setigerus(全長四十センチメートル前後。インド洋・太平洋の全域の水深五百メートル程までの深海に棲息する。「キアンコウ」の口中は白っぽいのに対し、「クツアンコウ」の口中は黒地に黄白色の水玉模様を呈するという特徴がある)

である。参照したウィキの「アンコウ」によれば、『両種は別の属に分類されているが、外見は良く似ている。そのため、一般に市場では区別されて』おらず、孰れも『外見的な特徴は頭部が大きく幅が広いこと』と、身体が『暗褐色から黒色で、やわらかく平たい』ことである。『擬餌状体という誘引突起による待ち伏せ型の摂餌法をとる魚である』。『肉食性で、口が大きく、歯が発達している。海底に潜んで他の魚を襲うのに適するため、口はやや上を向いている。頭には』二『本のアンテナ状の突起があり、長い方には皮がついている。アンコウは泳ぎが下手なため、泳ぎの上手な魚を追い回しても逃げられてしまう。そこで、海底の砂に潜り、その突起の皮を水面で揺らし、これをエサだと思って寄ってきた魚を、丸呑みにして捕食する。突起の皮は擬餌針のような働きをする』。『アンコウは主に小魚やプランクトンを捕食するが、種によっては小さなサメ、スルメイカ、カレイ、蟹、ウニ、貝などを捕食するものもある。さらに、たまに水面に出て海鳥を襲うこともあり、食べるために解体した』ところ、『胃の中にカモメやウミガラス、ペンギンなどが入っていたという報告もある』とある。

「萃臍魚」「萃」は「集まる」の意であるから、アンコウの上部体表の凸凹や擬餌状体を臍の尾と比したものであろう。

「寧波府志」明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府の地誌。

「綬魚」「綬」は古代中国において官職を表わす印を身に附けるのに用いた組み紐のこと(官位によって色を異にした)。擬餌状体に基づくものであろう。

「其の腹、帶、有り」上部の胴部を指して以下、やはり擬餌状体を説明する。

「科斗〔(おたまじやくし)〕」蝌蚪(おたまじゃくし)。

「呉都の賦」西晋(二六五年~三一六年)の文学者左思(生没年不詳。一説に二五二年~三〇七年頃:斉国臨淄県の人。門閥の後ろ盾のない寒門の出身であり、官途は不遇だったが、文才に優れた)の代表作として知られる、魏・呉・蜀三国の首都を題材にした「三都賦」(「蜀都賦」「呉都賦」「魏都賦」)の一つ。「三都賦」「洛陽の紙価を高からしむ(洛陽紙貴)」の故事の由来となったことで知られる。但し、中文ウィキの「都賦の本文を見るに、

   *

於是乎長鯨吞航、修鯢吐浪。躍龍騰虵、鮫鯔琵琶。

(是に於いてか、長鯨、航を吞み、修鯢(しゆげい)、浪を吐く。躍龍、騰虵、鮫、鯔、琵琶あり。)

   *

と、「琵琶」魚は載るが、ここに出るような記載は見当たらない。調べたところ、栗山雅央氏の論文『「三都賦」と中書省下の文人集團 ――張載注の分析を中心に」(『六朝學術學會報』(第十三号・二〇一二年発行)所収。PDFでダウン・ロード可能)によって、この部分は「呉都賦」の劉逵(同じ西晋の官員)が「琵琶」に註した中に以下のように出ることが判った(一部に読点を打った)。

   《引用開始》

 『異物志』に云ふ、鯨魚、長き者は數里有り。或は沙上の土に死し、之を得れば、皆、目、無し。俗に言ふ、其の目、化して明月珠と爲る。『鄧析子』に曰く、鯨鯢を釣る者は、淸池に於て、ならず。一說に曰く、鯨は猶ほ鳳と言ふがごとく、鯢は猶ほ皇と言ふがごときなり。『異物志』に云ふ、朱涯に水虵有り。鮫魚は合浦に出で、長さ二三尺、背上に、甲、有り。珠文、堅强なれば、以て刀口を飾るべし、又以て鑢を爲るべし。鯔魚、形は鯢の如く、長さ六七尺。會稽臨海に、皆、之れ、有り。琵琶魚は、鱗、無く、其の形は琵琶に似たり、東海に、之れ、有り。

   《引用終了》

『國俗、「鮟鱇」と称す。未だ出處を見ず。恐らくは妄称と為すべし』ウィキの「アンコウ」の「語源」に、『「あんこう」の語源については「あんぐり」の語に由来するとの説や』、『「赤魚」の意味であるとする説など諸説ある』。『岩穴にじっとしている様子を「安居」と称したとも、「顎」「暗愚」が転訛したなどととも言われる。ただ』、ここに見るように、「大和本草」では「國俗鮟鱇ト称ス未見出處恐可為妄称」と『あり、江戸時代より』、『不明である。漢字表記はその音に「安康」のそれぞれの字に魚偏を付けた字(鮟・鱇)を当てたものである』。『「鮟」は古く中国でナマズを意味する「鰋」の異体字』である「𩷑」の『誤字として』は『見られるが、「鱇」は中国に使用例が見つかっておらず、国字とされる。漢語では「華臍魚」「綬魚」「琵琶魚」「老婆魚」などというが、現代中国語では日本語を輸入し』、『「鮟鱇」「鮟鱇魚」と呼』んでいるそうである。事実、中文ウィキのそれは「鮟鱇科」である。『「あんこう」が初めて文献に登場するのは室町時代で、文明』(一四六九年~一四八七年)以前に成立した』「精進魚類物語」に『おいてである』、同書は『擬人化させた魚鳥を戦わせる』という「平家物語」のパロディー版で、『作中に「あむかうの彌太郎」が登場する』。慶長(一五九六年~一六一五年)年間に成立した「日葡辞書」には『「Ancŏ l, angŏ」とあり、当時』、『「あんこう」「あんごう」どちらの読み方も存在した』ことが判る。但し、文明本「節用集」には「有足魚也。心氣良藥」と記してあり、「日葡辞書」にも『「川魚の一種で、足のある魚」とあることから、当時はサンショウウオを意味したとする説がある。現在でも』、『兵庫県や岡山県の一部でオオサンショウウオを「あんこう」と呼ぶ。更に房州弁では「あんごう」はヒキガエルを指す言葉として残っている』とある。

「坂東」関東地方の古名。「坂」は令制で駿河と相模との境を称し、「常陸国風土記」にも『相模國足柄の坂より東』とある。相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野の関東八ヶ国を「坂東八国」と呼ぶ。

「珎賞」「珎」は「珍」に同じ。珍味として賞すること。

「臛(あつもの)」肉を入れて煮込んだ熱いスープ。]

明恵上人夢記 83

 

83

            うつゝには之を持たず

一、同八日の夜、夢に、善根の目錄を以て上師に奉る。之を見せしめ奉るに、廿枚許りに書けり。師、之を一見す。其の表紙、てすさびの如くして、月輪圖(がつりんず)等有りて、眞言の事を記す。上師、「此は何事ぞ」とて、なくともと思召(おぼしめ)したる躰(てい)也。予、「てすさびに書きて候ひけるやらん」と申す。

  此は坐禪の前に率尓(そつじ)の行法を修す。

  修せざるは何(いか)にと思ひし間の事也。

  中間の善根をば、上師、之を隨喜せしめ給ふ

  と云々。

[やぶちゃん注:順列で承久二年十二月八日であろう(同年旧暦十二月は既に六日でユリウス暦一二二一年一月一日、グレゴリオ暦換算で一月八日である)。後の部分は覚醒後の明恵自身による夢解釈である。

「善根の目錄」「善根」は、よい報いを招くもとになる行為や、さまざまの善を生じるもとになるもので、それを洩らさず自ら書き綴った目録ということであろう。添えの原注はそのような大それたものを私は「現実にはこれを書いてもいない」という意。

「上師」今迄通り、母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈ととる。明恵はこの十二年前の建仁二(一二〇二)年に、この上覚から伝法灌頂を受けている。行慈は嘉禄二(一二二六)年の十月五日以前に八十歳で入寂しているので、この頃は存命である。

「月輪圖」底本(岩波書店一九八一年刊久保田淳・山口明徳校注「明恵上人集」)の注に『月輪のごとき円の上に地・水・火・風・空の五大を表す梵字を配置した図』とある。当該の文字は五輪塔や卒塔婆に刻まれるので親しいが(地(ア)・水(バ)・火(ラ)・風(カ)・空(キャ)と読む)、判らない方は仏師で仏像保存修復技師の松尾良仁氏の『「五輪塔」に就いて』を参照されたい。

「眞言」サンスクリット語の「マントラ」の漢訳語で「仏の真実の言葉・秘密の言葉」という意。

「なくとも」「無くとも」であろう。「殊更にこんなものはそなたには必要は無いであろうに」の謂いであろう。

「率尓の」「卒爾」と同じい。但し、ここは「軽率なこと」ではなく、「突然、思い立って、俄かに」の謂いであろう。]

□やぶちゃん現代語訳

83

 承久二年十二月八日の夜、こんな夢を見た――

 夢の中で、私は己れの善根に就いての目録――【こんなものは私は現実には一行たりとも書いていないし、心中にも思ってはいないのだが。】――を以って上師に奉った。

 しかし、これをお見せ申し上げたのだが――それは二十枚許りも書たものであったのだが――師は、これを一見された。

 その「前根目録」の表紙は、他愛もない手遊びの如くにして、「月輪図(がつりんず)」なんどを自ら描いてあって、それは真言の奥義を表わすものであった。

 さても、上師は、

「このようなものを書くとは一体、何の故ぞ?」

と仰せられ、

『このようなものを改めて書かずともよかろうに。』

と、お思になっておられる様子であられた。

 私は、

「何の。ただ他愛もない手遊びとして書きましたものにて御座います。」

と申し上げたのであった。

【この折り[やぶちゃん注:夢を見る前の現実の事実を指す。則ち、以上の「夢」は座禅による瞑想中の夢と解釈出来る。]は、座禅に入る直前、急に思い立ってある行法を修したのであった。『その修法を修せずにいるのは如何(いかが)なものか――いや――修せずんばあらず!』と、瞬時に思って修したのであった。私の未だ修行の中間(ちゅうかん)の善根を、わざわざ、上師は、私の夢に現われなさって、これを随喜なされたのである、と私は思ったのだ……】

 

譚海 卷之三 山下水と云箏の事 附武具御名器品々の事

山下水と云箏の事 附武具御名器品々の事

○營中の重器に、凡河内躬恆(おほしかふちのみつね)が所持の山下水といふ箏(こと)有。眞(まこと)に貫之が眞蹟にて、足曳の山下水は行かよひことのねにさへながるべらなりと云(いふ)和歌しるしあり。又蟬丸所持の琵琶といふものあり、又王羲之(わうぎし)・佐理(すけまさ)卿の眞蹟有。羲之は弘法大師にかよひ、佐理卿は東坡居士に似たりといへり。小倉色紙(おぐらしきし)は赤人の田子の浦の歌ありとぞ。神功皇后のゑびらのうつしといふもの有、京都の寺に本(もと)あるをうつさせられしと也、竹にてこしらへたる物也。又さかつらと云ゑびらは重器にて、殊に拜見成難(なりがた)き事也とぞ。豐臣太閤より進ぜられし十文字の鑓(やり)は、五三の桐の紋あり。又虎の皮のなげさやの鑓は、鎭西八郞爲朝の矢の根也とぞ。儲君(ちよくん)御持鑓(ごじやり)もその如くに、下取[やぶちゃん注:「取」には編者竹内利美氏により脇に『(板)』と補正注が有る。「したいた」。]うちて奉るとぞ。新古ともに分ちがたき程の出來也。只古身(ふるみ)は少しやせて見ゆるばかり也。御旗印は金の扇子也。長さ九尺、ほねのわたりは壹間なり。にくろめにて中の十本はくじらの骨也。東照宮御所持の御手槍は、御庭御步行(おんありき)にも隨身(ずいじん)ある事也とぞ。

[やぶちゃん注:「凡河内躬恆」(生没年未詳。一説に、貞観元(八五九)年頃~延長三(九二五)年頃とも)は平安前・中期の歌人。諸国で目(さかん)・掾(じょう)などの地方官を務め、延喜二一(九二一)年に淡路権掾(あわじのごんのじょう)となっている。この間、「古今和歌集」の撰者となり、同集には紀貫之に次ぐ六十首もの歌が採られている。三十六歌仙の一人。

「箏」ここは近世以後の代字(当て字)の「琴」と同義であろうと踏んで「こと」と訓じた。ここで言うそれが現在も残っているかどうかは私は不詳。同名異物の徳川秀忠が娘和子の嫁入り道具として作った琴「山下水」があるので注意されたい。

「蟬丸」平安前期の歌人。宇多天皇の皇子敦実(あつみ)親王の雑色(ぞうしき)とも、醍醐天皇の第四皇子ともされる謎の人物で、逢坂の関辺りに住んだ盲目の僧。「後撰和歌集」(天暦(九四七年~九五七年)末年頃には完成したか)以下に四首入集し、「今昔物語集」巻二十四・「平家物語」巻十一などにその名が見え、能及び近松門左衛門の浄瑠璃に「蝉丸」がある。琵琶の名手で、逢坂関明神に祀られてある。

「王羲之」(三〇七年~三六五年)は東晋の「書聖」とされる書家。琅邪臨沂(ろうやりんき)(現在の山東省)出身。その書は古今第一とされ、行書「蘭亭序」、草書「十七帖」などが有名。子で書家の王献之とともに「二王」と称される。

「佐理(すけまさ)」藤原佐理(天慶七(九四四)年~長徳四(九九八)年)は平安中期の公卿で能書家。藤原北家小野宮流で摂政関白太政大臣藤原実頼の孫、左近衛少将藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書の達人として知られる。

「小倉色紙」藤原定家筆と伝えられる「小倉百人一首」の色紙。「明月記」の嘉禎元(一二三五)年の条に、定家が嵯峨中院障子の色紙形に、天智天皇以下百人の和歌を書いた記事があり、世に称する「小倉色紙」はこれに相当すると言い、それならば、定家七十四歳の折りの書となるが、現存する複数の色紙は後世に筆写したものもあり、疑問な点が多い。

「五三の桐の紋」桐紋の内で一般的な、花序につく花の数が三・五・三である「五三桐(ごさんのきり/ごさんぎり)」。これウィキの「桐紋」の画像)。

「なげさや」貂(てん)・豹・虎などの毛皮を袋として鞘を包んで上端を長く垂らした投鞘(なげざや)のこと。

「儲君(ちよくん)」皇太子(東宮・儲王(もうけのきみ)の異名。

「下取→下板」不詳。鎗の刀身の下部(柄に差す上部)に板を打ち付けたものか。

「古身」刀身部か。

「壹間」一メートル八十二センチメートル弱。開いた扇子の横最大長であろうか。

「にくろめ」不詳。煮黒目(にぐろめ)か。硫化カリウム溶液を浸けて化学変化で黒に色上げしていく技法で、溶液の濃度や浸ける時間によって黒の濃さを調整することが出来る。]

甲子夜話卷之六 4 駿府へ御移りのとき神祖御詠歌幷後藤庄三郎藏御眞跡の色紙

6-4 駿府へ御移りのとき神祖御詠歌幷後藤庄三郎藏御眞跡の色紙

神祖、京の丸山を駿府へ御移しなされ、福田寺を刱建ありしときの御歌とて、

 松高き丸山寺の流の井

      幾とせすめる秋の月かげ

其時の御用に掛りしとて、後藤庄三郞が家に傳ふ。又關原御陳前、高野山聖方總代常住光院へ賜りし、御眞蹟の色紙今に山に傳ふ。

 旅なれば雲の上なる山こへて

      袖の下にぞ月をやどせる

此外御寄附の品々ありと云【右、林氏の小錄を移寫す】。

■やぶちゃんの呟き

恐らくは条末にある割注は本条のみでなく、前の三条、「甲子夜話卷之六 1 林子、古歌を辨ず」 2 定家卿詠歌」「同 3 詩歌降たる事」をも、内容からみて、総て含むものであろう。

「神祖」徳川家康。

「京の丸山を駿府へ御移しなされ」家康は江戸幕府開府(慶長八(一六〇三)年)以前には駿府を京都に匹敵する政治文化の中心地にしたいという願いがあった。慶長四(一五九九)年、鷹狩をしていた家康が賎機山(しずはたやま:標高百七十一メートル。現在の静岡県静岡市葵区内。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ))の麓で休憩した際、その辺りが京の円山の景色に似ているとして、翌慶長五年に京都円山の時宗慈円山安養寺の僧徳陽軒を招き、同山の南山麓に福田寺を創建した。境内には「流れ井」と称し、駿府城から湧水を引くなど、万事、京都風の設えとした。近くに鎌倉末期の文保元(一三一七)年創建の時宗安西寺があったことからその末寺となり、この一帯にも「丸山」という地名が与えられ、この福田寺の創建には金座役人として「駿河小判」の鋳造を担った後藤庄三郎光次が尽力した。福田寺は近代の明治四二(一九〇九)年になって安西寺に合併され、丸山の福田寺跡に安西寺を再興された。

「刱建」「さうけん」。創建に同じい。

「松高き丸山寺の流の井幾とせすめる秋の月かげ」本注で参考にさせて戴いた「安西寺」公式サイトのこちらによれば(古地図・写真有り)、

 松高き丸山寺の流の井

      幾とせすめる秋の夜の月

とし、慶長御(一六〇〇)年九月十三日に家康公が福田寺で詠んだ一首で、『この歌にちなみ、この地を丸山と言い、山号』が『「秋月山」とな』とあり、現在、『駿府の名水「流れ井」の傍らには』、宝暦三(一七五三)年に『建立された「流井の碑」が残ってい』るとある。

「後藤庄三郞」近世(江戸開府前)の金座の当主、以降、江戸幕府の御金改役(ごきんあらためやく)に与えられた名称。ウィキの「後藤庄三郎」によれば、『初代の後藤庄三郎光次に始まり、以後』、『世襲制の家職となった』。文禄二(一五九三)年、『橋本庄三郎は徳川家康と接見し』、二年後の文禄四年には『彫金師の後藤徳乗の名代として江戸に下向した。出身は美濃国加納城主長井藤左衛門利氏の末裔ともされるが』、『疑問視されている』。『庄三郎の本姓は山崎との説もある』。『庄三郎が京都の後藤家の職人として従事しているうちに徳乗に才覚を認められ、代理人に抜擢されたとされる』。『庄三郎は徳乗と家康に後藤庄三郎光次の名、五三桐紋の使用を許された。京都の後藤家は室町幕府以来の御用金匠であり、茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に京都の三長者と呼ばれた』。『当時、判金といえば大判のことであったが、家康は貨幣としての流通を前提とした一両小判の鋳造の構想があった。「武蔵壹兩光次(花押)」と墨書され、桐紋極印の打たれた武蔵墨書小判が現存し、これが』、『庄三郎が江戸に下向した当時』、『鋳造された関八州通用の領国貨幣であるとされている。』。『後藤庄三郎光次は文禄』四『年に江戸本町一丁目を拝領し、後藤屋敷を建て、屋敷内に小判の験極印を打つ後藤役所を設けた。この地は現在、日本橋本石町の日本銀行本店所在地にあたる』。また、慶長六(一六〇一)年には京都に、江戸幕府開幕後の慶長一二(一六〇七)年には駿府に、また、元和七(一六二一)年には佐渡に、『後藤役所出張所を設けて、極印打ちを開始した。さらに天領の金山、銀山を支配し、家康の財政、貿易などの顧問として権力を誇った。しかし』、『二代庄三郎広世以降は金座支配のみにとどまった。また、庄三郎光次は文禄五(一五九六)年三月付の『後藤徳乗、後藤四郎兵衛、後藤長乗に提出した証文において、後藤の姓を名乗るのは光次自身一代限りと宣誓していたが、結果的に反故にされ、徳川家の権威を背景に京都の後藤宗家も黙認したとされる』。『天領の金山から産出する公儀の吹金』(ふきがね:灰吹法(はいふきほう)による金・銀の抽出法による金銀の別称。金銀を鉱石などから、一旦、鉛に溶け込ませ、更にそこから金や銀を抽出する方法を言う)『を預り、小判に鋳造する場合の手数料である分一金は、慶長期初期は吹高』十『両につき金目五分であったが、後に後藤手代の取り分は吹高』一千『両につき』十『両と定められた』とある。

「關原御陳前」関ヶ原の戦いで「陳(ぢん)」(=陣)を張る前に。

「高野山聖方總代常住光院」「高野山聖方總代」の「常住光院」。江戸時代の高野山内の組織は学侶方・行人方・聖方の高野三方(三派)から成り立っていた。その当時の「聖方」の総代であった「常住光院」の謂いである。

「旅なれば雲の上なる山こへて袖の下にぞ月をやどせる」(「こへて」はママ)かの佐佐木幸綱のブログ「ほろ酔い日記」の「戦国武将の歌10 徳川家康 1543年(天文11)~1616年(元和274歳」に、『こんな歌とエピソードがあります。川田順『戦国時代和歌集』が引用する近藤重蔵』の「冨士之煙」に『出てくるものです。慶長五年(一六〇〇)九月十五日、関ヶ原の戦陣において、高野聖(こうやひじり)の総代・高野山常光院の僧へ家康が与えた歌だというのです。本当でしょうか。日付を見てください。関ヶ原の戦いのその日のことです。陣中見舞いの品を持ってきた高野聖に、家康が書き与えたというのです』。『関ヶ原の戦いは、九月十五日午前八時ごろ本格的な戦闘がはじまり』、『午後四時ごろには終結したとされています。その夜、書き与えたのでしょうか』とされて、

 旅なれば雲の上なる山こえて袖の下にぞ月をやどせる  徳川家康

(軍旅であるから、雲の上にそびえる山をも越えてきて、今宵は、わが鎧の袖の下に月下の夜景をながめたことである)

「冨士之煙」の『著者・近藤重蔵は、信頼していい人物と思われます。クナシリ・エトロフの探険で知られる幕末の探検家で、著書も多くあります。彼によれば、「大権現様(徳川家康)御真筆の御色紙」が、当時は高野山常光院に現存していて、彼自身がそれを写した、とあります』とある。

2019/12/24

小泉八雲 俗唄三つ (稲垣巌訳) / 「八百屋の娘『お七』の唄」 / 「俗唄三つ」~了 / 作品集「心」~了

 

[やぶちゃん注:本篇については、必ず『小泉八雲 俗唄三つ (稲垣巌訳) / (序)と「『俊德丸』の唄」』の冒頭注を読まれて後、お読みになられるよう、お願い申し上げる。

 原題は“THE BALLAD OF O-SHICHI, THE DAUGHTER OF THE YAOYA”。英語原本はここから。

 原文では上記の通り、「お七」は「おしち」で、思い人「吉三」は「きちざ」である。新墓地(小僧)で「吉三」という名は不審であるが、本情話を最も知らしめる濫觴となった井原西鶴の「好色五人女」の「卷四 戀草からげし八百屋物語」の原文を確認して見ると、武家の子吉三郎で、寺小姓(住職の側に仕え、雑用を務めた少年。男色の相手ともなった。所謂「稚児」)であるから腑、に落ちる。

 なお、「嗟呼!」(「ああ!」)と「あゝ!」の後には字空けがないが、特異的に字空けを施した。ここは特に後注を附した。

 本篇を以って作品集「心」は終わっている。]

 

   八百屋の娘『お七』の唄

 

 秋の鹿が仲間の啼き聲に似た笛の音に誘はれれ、獵人の矢玉の屆く所に入つて來る、そこで殺される。

 大方それと同じやうに、江戶で一番美しい五人の娘、其の綺麗な顏は丁度櫻の花のやうに都中殘らずをうつとりさせたのだが、其の五美人の一人が、戀の爲めに眼が眩んで其の刹那自分の命を捨てて仕舞つたのである。

 無分別な事をして仕舞つてから、彼女は江戶の町奉行の前に連れて來られたが、其の時、位の高い役人は若い科人にかう言つて訊問した、『お前は八百屋の娘、お七ではないか。そんな若い身空で。どうしてあんな恐ろしい放火罪を犯すやうな事になつたのだ』

 するとお七は、泣きながらそして自分の手を握り締めながらかういふ答辯をした、「本當に、あれが私の今迄に犯したたつた一つの罪で御座います。あれには特別譯があるのではありません、只だこれだけです、――

 『何時だつたか以前、大火事のあつた時、――隨分大きな火事で江戶中殆ど殘らず燒き盡くされましたが、――私共の家も燒け落ちて仕舞つたのです。それで私共三人――兩親と私――は外に行く所がないと知つたので、或るお寺に身を寄せて、私共の家が又普請の出來るまで其處に泊まりました。

 『若い者達二人を互に近寄せる因緣といふものは確に解らないもので御座います。……其のお寺に若いお弟子の坊さんが居りましたが、私共は思ひ思はれる仲になつたのです。

 『こつそり二人は逢引きして、お互に必らず見捨てないやうにと約束しました、それから私共は小指に附けた小さい斬り傷から血を啜り合つたり、起請を取り交はしたりして、お互にいつまでも可愛がらうと誓ひ合つたのです。

 『私共の枕が未だ定まつて仕舞はない内に、本鄕に新しい家が建てられて私共が何時でも入れるやうになつたのです。

 

註 此の珍らしい言ひ方に戀人同志が「枕を取り交はす」といふ日本の言葉が其の起原である。暗い所では、小さい日本の木枕はよくあつちこつち入れ代はりになる。それ故、「枕が未だ定らない内に」といふのは、二人の戀人が相變はらず夜分こつそりと互ひに會ひ續けてゐたといふ意味であらう。

[やぶちゃん注:小泉八雲は「新枕」(にいまくら)の離れ難くなる絶対的一線を超えるに至る前にというのをオブラートで包んで注している。いや、お七自身が「新枕」の意味を真には理解していないほどに精神的に幼かったとも謂い得るかも知れぬ。孰れにせよ、この注には、小泉八雲の乙女お七への哀憐の情を強く感ずる。]

 

 『けれども私が二世と契つた吉三樣に悲い[やぶちゃん注:「かなしい」。]お別かれを告げた日からは、其の方に手紙位貰つても私の心は落ち着きませんでした。

 『夜獨で寢床に入ると、いつも私は考へて考へ拔いたのですが、たうとう或る晚の夢の中で家に附け火をしようといふ恐ろしい考へが浮かんで來ました、愛(いと)しい綺麗な人に又會へるのにはこれより外方法がありませんから。

 『そこで、或る晚、枯草を一束取つて來て、其の中に火の附いた炭を幾つか乘せて、家の裏の物置にそつと其の束を入れました。

 『火事が起こつて、大騷ぎになりました、そして私は逮(つか)まへられて此處へ連れて來られたのです――おゝ。本當に恐ろしい事で御座いました。

 『私は決して、決してもう二度とこんな罪は犯しません。けれどもどうあらうと、おゝ、どうぞ私をお助け遊ばして、御奉行樣。おゝ、どうぞ私を憐れんで下さいませ』

 あゝ! 飾り氣のない言ひ譯だ!……だが彼女は年は幾つだ。十二ではないか。十三ではないか。十四ではないか。十四の後には十五が來る。嗟呼! 彼女は十五だつた、それで助かる譯には行かなかつた。

 それ故おじは掟に從つて宣告された。然し彼女は先づ丈夫な繩で括られて[やぶちゃん注:「くくられて」。]、日本橋と言ふ橋の上で七日間世間の人の眼に晒された。あゝ! 何といふ可哀相な見世物だつたらう。

 彼女の伯母達や從兄弟達、家僕の『べくらい』や角助(かくすけ)までが、淚に濡れた袖を何遍も度々絞つたのであつた。

 けれども、罪は許す事は出來ないので、お七は四本の柱に縛られた、薪に火は附けられた、火は熾え[やぶちゃん注:「もえ」]。上がつた。……そして哀れなお七は火の眞中に!

 

     飛んで火に入る夏の蟲

 

[やぶちゃん注:八百屋お七(やおやおしち 寛文八(一六六八)年?~天和三年三月二十八日(一六八三年四月二十四日:但し、生年や命日に関して諸説がある)は江戸前期の江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし、火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学・歌舞伎・文楽など、芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公となっている。詳しくは参照したウィキの「八百屋お七」を読まれたいが、一部を引いておく。『お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる「天和笑委集」(お七が処刑された天和三(一六八三)年から僅か数年後に板行された実録体小説。作者不明)によると、お七の家は天和二年十二月二十八日(一六八三年一月二十五日)の大火(「天和の大火」)で『焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなか』、『お七は寺小姓生田庄之介』『と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた』。但し、『現在では』、「天和笑委集」自体は概ね『当時の記録に当たって詳細に作られているが、お七の記録に関してだけは』、『著しい誇張や潤色(脚色)が入っているとされている。例えば』、「天和笑委集」には、『火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされるお七は華麗な振袖を着ていることにしているが、放火という大罪を犯して火あぶりになる罪人に華麗な振袖を着せることが許されるはずもないと専門家に指摘されている』。『実はお七の史実はほとんどわかって』おらず、『歴史資料として』は、元武家の僧で歌学者でもあった戸田茂睡著の「御当代記」の天和三年の記録部分に僅かに『「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されているだけである』という。『お七の時代の江戸幕府の処罰の記録』である「御仕置裁許帳」にも西鶴が「好色五人女」を書いた貞享三(一六八六)年『以前の記録にはお七の名を見つけることができ』ず、『お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も事実として知る事はでき』ないばかりか、『お七の家が八百屋だったのかすらも、それを裏付ける確実な史料はない』。『東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は』諸随筆類を『詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものであることを立証している。また、戸田茂睡の』「御当代記」のお七の記述部分も『後から書き加えられたものであり、恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定し、お七の実在にさえ』も『疑問を呈している』。『しかし、大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は』「御当代記」のそれの『後から書き入れられた注釈を含め』、孰れも『戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和』三年に『お七という女が江戸の町で放火したということだけは疑わなくてよいとしている。また、お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が』未だ生きている中で、作者不明ではあるが、『江戸で発行された』「天和笑委集」と大阪の西鶴が書いた「好色五人女」に、違いはあるものの、『八百屋の娘お七の恋ゆえの放火という点で一致しているのは、お七の処刑の直後から東西で広く噂が知られていたのだろうとしている』。『お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も、好色五人女がお七の処刑からわずか』三『年後に出版されている事から』、『少なくとも』、『お七のモデルになった人物はいるのだろうとしている。もしもお七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずの』、お七の事件から僅か三年後の西鶴の作品で『あれほど同情を集めるはずが無いとしている』。

 井原西鶴の浮世草子「好色五人女」は五つの独立した物語で構成されており、総て当時、世間に知られていた実話に基づくものである。書名は「好色」の二字を冠しているものの、各話の女性が現代的な語感で言う「好色」な人物であるわけではなく巻五の「恋の山源五兵衛物語(おまん源五兵衛)」以外は、皆、悲劇的結末を迎える物語となっており、女性たちは、時に、命をも賭けて一途な恋を貫いていると同時に、物語の語り口には滑稽味や露骨な描写なども多く見られ、現代の所謂「純愛物」の雰囲気とも趣を大きく異にしている(ここはウィキの「好色五人女」に拠った)。その巻四「恋草からげし八百屋物語」は、『自ら積極的に恋愛行動に移る町娘という、それまでの日本文学史上画期的な女性像を描き、お七の原典として名高い』。『西鶴の後続への影響は絶大なもので、特に演劇系統は西鶴を下地にした紀海音を基にするものがほとんどであり、西鶴が設定した恋人の名を吉三郎、避難先の寺を吉祥寺とすることを受け継いでいる作品が大多数を占めることからも西鶴の影響の大きさが推測される』。そのシノプシスは、師走二十八日の『江戸の火事で本郷の八百屋八兵衛の一家は焼けだされ、駒込吉祥寺に避難する。避難生活の中で寺小姓小野川吉三郎の指に刺さったとげを抜いてやったことが縁で、お七と吉三郎はお互いを意識するが、時節を得ずに時間がたっていく。正月』十五『日、寺の僧達が葬いに出かけて寺の人数が少なくなる。折りしも雷がなり、女たちは恐れるが、寺の人数が少なくなった今夜が吉三郎の部屋に忍び込む機会だと思ったお七は他人に構われたくないゆえに強がりを言い他の女たちに憎まれる。その夜、お七は吉三郎の部屋をこっそり訪れる。訳知りの下女に吉三郎の部屋を教えてもらい、吉三郎の部屋にいた小坊主を物をくれてやるからとなだめすかして、やっとお七は吉三郎と』二『人きりになる。ふたりは『吉三郎せつなく「わたくしは十六になります」といえば、お七「わたくしも十六になります」といえば、吉三郎かさねて「長老様が怖や」という』というあるように、『西鶴が「なんとも此恋はじめもどかし」というように』、『十六歳の恋らしい初々しい契りだった。翌朝』、『吉三郎といるところを母に見つか』ってしまい、『引き立てられる。八百屋の新宅が完成し』、『お七一家は本郷に帰る。ふたりは会えなくなるが、ある雪の日、吉三郎は松露・土筆売りに変装して八百屋を訪ね、雪の為帰れなくなったと土間に泊まる。折りしも親戚の子の誕生の知らせで両親が出かける。両親が出かけた後でお七は土間で寝ている松露・土筆売りが実は吉三郎だと気が付いて部屋に上げ、存分に語ろうとするが、そこに親が帰宅。吉三郎を自分の部屋に隠し、隣室に寝る両親に気がつかれないようにお七の部屋でふたりは筆談で恋を語る。こののち』、『なかなか会えぬ吉三郎の事を思いつめたお七は、家が火事になればまた吉三郎がいる寺にいけると思い火付けをするが』、『近所の人がすぐに気が付き、ぼやで消し止められる。その場にいたお七は問い詰められて自白し捕縛され、市中引き回しの上火あぶりになる。吉三郎は』、この時、『病の床にあり』、『お七の出来事を知らない。お七の死後』百『日に吉三郎は起きられるようになり、真新しい卒塔婆にお七の名を見つけて悲しみ自害しようとするが、お七の両親や人々に説得され』、『吉三郎は出家し、お七の霊を供養する』。

 なお、小泉八雲の本篇「俗唄三つ」の序の部分で、小泉八雲が引いている、「『八百屋お七』の』唄の『最初の四行』とする、

 

こゑによるねの、あきのしか

つまよりみをばこがすなり

ごにんむすめのさんのうで

いろもかはらぬえどざくら

 

の「ごにんむすめのさんのうで」というのは、明らかに西鶴の「好色五人女」を意識した謂いと思われ、後の「さんのう」は「山王」或は「三王」で、恋に命を懸けた「稀の代表格」の謂いであろうか?]

2019/12/23

小泉八雲 俗唄三つ (稲垣巌訳) / 「『小栗判官』の唄」

 

[やぶちゃん注:本篇については、必ず『小泉八雲 俗唄三つ (稲垣巌訳) / (序)と「『俊德丸』の唄」』の冒頭注を読まれて後、お読みになられるよう、お願い申し上げる。

 英語原本はここから。本篇原題は“THE BALLAD OF OGURI-HANGWAN”である。

 「小栗判官」は「おぐりはんがん」と読む。中世以降に伝承されてきた貴種流離譚の主人公で、彼を主人公とした物語の通称として知られる。知られたものでは、妻照手姫(てるてひめ)の一門に殺された小栗が閻魔大王のはからいによって蘇生し、姫と再会を果たし、目出度かの一門に復讐を遂げるというストーリーで、説経節をベースに浄瑠璃・歌舞伎などになって好んで上演された。常陸国小栗御厨(現在の茨城県筑西市)にあった小栗城の城主である常陸小栗氏の小栗満重や、その子小栗助重がモデルとされる。実在したとされる人物としての小栗判官は、藤原正清、名は助重、常陸の小栗城主で、京の貴族藤原兼家(延長七(九二九)年~永祚二(九九〇)年:道隆・道長の父で、室の一人に「蜻蛉日記」の作者藤原道綱母がいることで知られる)と常陸国の源氏の母の間に生まれ、八十三歳で死んだともされるが、十五或いは十六世紀頃の人物として扱われることもある。乗馬と和歌を得意とした。子宝に恵まれない兼家夫妻が鞍馬の毘沙門天に祈願し生まれたことから、毘沙門天の申し子とされる。簡単なシノプシスならば、参照したウィキの「小栗判官」を見られたい。詳細な(しかしかなり長い)ものは、サイト「み熊野ネット」の説教節「小栗判官」を丁寧に現代語で示した全七回が是非にもお薦めである。また、「鎌倉大草紙」版のそれは梗概が私の植田孟縉(もうしん)撰の鎌倉地誌「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の「照天松」の解説がコンパクトでよい。なお、一部の話柄で重要なロケーションとなる遊行寺が自宅に近く、展開上も郷土史研究している鎌倉の周辺と関わるものが多くある(照手姫が投げ入れられて殺されそうになるのは六浦の侍従川)ことから、私は本話が好きで、小栗が蘇生する、熊野の「湯の峰温泉」の「つぼ湯」も訪れて入った。]

 

    『小栗判官』の唄

 

   一語も落とさず申すなら、――之は小栗判官の物語。

 

       一 誕生

 名高い高倉大納言、又の名兼家は大層金持ちで諸方到る所に寶の藏を所有してゐた。

[やぶちゃん注:「高倉大納言」説教節での兼家の通称。但し、実際の藤原兼家の通称とは違う。]

 彼は火を支配する力を具へた貴い石を一つ、それからもう一つ水を支配する力を具へた石も持つてゐた。

 彼は生きてる[やぶちゃん注:ママ。]獸の足から拔き取つた、虎の爪も持つてゐたし、小馬の角も持つてゐたし、更に亦麝香猫さへ所有してゐたのである。

 

註 或る辭書には「麝香鼠」といふ譯が附けられてゐる。私に飜譯して吳れた人は「麝香鹿」といふ意味をほのめかした。然し、或る神話的な動物である事は明らかだから、

私は文字通り譯した方が良いと考へた。

[やぶちゃん注:それぞれの博物誌は、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ) (ジャコウネコ)」及び「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 麝香鼠(じやかうねづみ)(ジャコウネズミ)」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。但し、麝香鼠(哺乳綱獣亜綱トガリネズミ目トガリネズミ科ジャコウネズミ属ジャコウネズミ Suncus murinus)を除き(しかしそれも長崎県・鹿児島県及び南西諸島に分布するが、長崎県及び鹿児島県の個体群は帰化種、南西諸島の個体群は自然分布とされるものの、事実そうかどうかははっきりとしていない)、日本には棲息しない。]

 

 凡そ人間が此の世で手に入れる事の出來る物なら、別に何も不足した物は無かつたが、只だ後嗣だけが無かつたのである。彼はそれ以外悲みの種になる物は何も無かつた。

 彼の家に居る池ノ庄司と言ふ忠僕が、遂に彼に向つてかういふ事を言つた、――

 『鞍馬の靈山に祀つてある多門天の守護神が、御神德あらたかだといふので遠くでも近くても評判で御座いますが。それを見るに附けましても、何卒我が君が其の社に罷り越され祈禱なされますやう謹んでお願ひ致します、さうしますればお望みは必らず叶ふ事で御座いませうから』

 此の言葉を主人は受け容れて、早速其の社へ旅立つ用意を始めた。

 彼は大急ぎで旅をしたので直きに社に着いた。そして其處で、水を浴びて身を淨め、後嗣を授かるやうに全心を籠めて祈願したのであつた。

 三日三晩の間彼は食物といふ食物を一切斷(た)つた。然し總ては其の甲斐がないやうに思はれた。

 それ故兼家卿は、神が知らぬ顏をしてゐるのに自業腹(やけばら)を立て、社の中でハラキリを爲(し)でかして神殿を汚さうと決心した。

 おまけに、死んだ後で幽靈になつて鞍馬山に出沒し、九哩[やぶちゃん注:「マイル」。約十四キロメートル半。]の山路を登つて來る巡禮を片つぱしから邪魔してやる、嚇かしてやるぞと覺悟を決めたのである。

 もうほんの一時でも遲かつたら生命は危かつたらう。然し危機一髮といふ刹那、其の場へ忠義な池ノ庄司が馳け附けてセツプクを押し止めた。

 

註 セツプクとはハラキリといふ意味の漢語であゐ。ハラキリよりもつと上品な言葉のやうに思はれる。

 

 『おゝ、殿樣』と其の家來は叫んだ、『死なうなどとは餘りに早まつたお覺悟で御座いますぞ。

 『先づ何より先き、私に運を試させて下さいませ、私は殿樣の爲めに御祈禱を捧げますが、今までよりもつと上首尾になるかならぬか御覽になつて下さいませ』

 それから彼は二十一回沐浴した後、――七回は熱湯で、七回は冷水で、尙ほ其の上殘る七回に筅帚(ささら)[やぶちゃん注:「簓」とも書く。実用としては厨房で用いられる水洗用具で、竹筒の一端を細かく裂くか、又は細かく割ったタケを束ねて作り、鍋・桶などを洗うのに使う。名は使用時の擬音から出たとされる。]で以て自分の身體を洗ひ淨めた、――彼はかう言つて神に祈つた、――

 『若し神樣の御利益に據つて私の殿樣に御後嗣が授けられましたならば、其の時私は御社の庭に鋪く唐金[やぶちゃん注:「からかね」。青銅。]の鋪板を奉納致しませう、それをお誓ひ申します。

 『又御社の外に立て並べる唐金の燈籠も、それから御社の柱全部に被せる金無垢と銀無垢の延金(のべがね)も』

 神前に祈禱したまゝ三晚を過ごしたが其の三晚目に、多門天は信心深い池ノ庄司の前に姿をお現はしになつて彼に仰せられた、――

 『吾は汝の祈願を叶へて取らさうと只管[やぶちゃん注:「ひたすら」。]願うて、然るべき後嗣を遠く近く、――天竺までも唐までも、――探し求めた。

 『然し人間は天津御空の星の如く、或は數へ盡くせぬ濱邊の礫[やぶちゃん注:「つぶて」。小石。]の如く數限りなく居るものであるけれども、悲しい哉これならば汝の主人に授けてもよからうといふ後嗣は人間の種の中からは見出す事は出來なかつたのだ。

 『そこで遂に、他に爲すべきやうも無いと悟つて、遙か壇特山中に住む四天王の一人を父とすこ八人の中の一人〔の魂?〕[やぶちゃん注:小泉八雲自身の割注。]を以み取つて參つたのである。其の子を汝の主人の後嗣に取り立てて遣はさう』

 

註 四天王――世の四方を守護する、佛道の四人の提婆王。

[やぶちゃん注:「壇特」山(だんとくせん)は北インド(現在のアフガニスタン)のガンダーラに位置するとされ、嘗て釈迦の前身である須大孥太子(しゅたぬたいし)が菩薩行を修めたとされる霊地。

「提婆王」「だいばわう」。サンスクリット語音写で「デーヴァ」は「神」を意味する語。仏教では天部・天・天人・天神などと訳される。]

 

 かく言ひ終はると、神は社殿の奥深く入つて行つた。そこで池ノ庄司は己れの夢ならぬ夢からハツと眼覺めて、神前に身を平れ伏して拜する事九度、それより主人の家へと急いだのである。

 

 間もなく高倉大納言の奧方は懷姙した、そして目出度き十月が過ぎると安々と男の子を產んだ。

 不思議にも赤兒の額の上には、極てはつきりと而もわざとらしくなく、『米』といふ漢字が記してあつた。

 更に一層不思謳な事には彼の兩眼に四體の御佛(みほとけ)が映つてゐたのである。

 

註 眼の中の映像は佛と呼ばれる、卽ち此處に言ひ表はされた思想は子供の兩眼に像が二つ映る代りに四つ映つたといふ事らしい。超自然に者の子供は瞳孔が二つ有ると俗に言はれてゐるのだ。然し私に此の言葉の一般的說明をするだけに留めて置く。

[やぶちゃん注:小泉八雲が注しているのは所謂、英雄や聖王によくあるとされる重瞳(ちょうどう)のことを言っている。]

 

 池ノ庄司や兩親は喜んだ、そして子供には有若といふ名が――『有り有り』山の名に因んで――生まれてから三日目に附けられた。

[やぶちゃん注:実は稲垣氏は前の訳を略してしまったため、意味が解らなくなっていしまっている。原文では先の「壇特山中に住む」の部分は、“residing on the peak Ari-ari, far among the Dandoku mountains”(「壇特山脈のアリアリの峰に住む」)となっているのである。

 

        二 追放

 大層早く子供は成長した、そして十五歲になつた折、時の帝は彼に小栗判官兼氏といふ姓名と尊稱を贈り給うた。

 一人前の男に成つた時、彼の父は花嫁を娶つてやらうと決心した。

 そこで大納言は高位高官の娘一人殘らずに眼を著けたが、これといつて子息の嫁に成るだけの値打のあると思つた者は見當たらなかつた。

 然し若き判官は、自分は多門天から兩親に授けられた者であると知つて、其の神に配偶者の事を祈らうと決心した。そして池ノ庄司を連れ、多門天を祀つた社に急いだのである。

 其處で彼等は手を淨め口を嗽ぎ[やぶちゃん注:「すすぎ」。]、三晩も眠らずお籠もりして、其の間ずうつと勤行に時を過ごしたのであつた。

 然し彼等には仲間がゐないので、若い殿樣は淋しくてたまらなくなり、竹の根で拵へた、自分の笛を吹き始めた。

 其の美しい音に引き附けられたのであらう、社の池に住む大蛇が社殿の入口にやつて來て、――持ち前の恐ろしい形相を、可愛らしい宮仕への侍女のやうな姿に變へて、――其の妙音に聽き惚れてゐた。

 すると兼氏は自分の眼の前に、妻にと望む當の婦人が居るのだと思つた。又これは神樣が自分に選んで下さつた女だとも思つたので、彼は其の美人を轎(かご)に乘せて家に歸つた。

[やぶちゃん注:「轎」輿のような形状のもので、前後を人が腰或いは肩位置で持って運ぶタイプのものを指す。]

 然しかういふ事があつて間もなく恐ろしい嵐が突然都を襲ひ、續いて大洪水が起こつた。洪水も嵐も共に七日七晩引き續いたのであつた。

 天皇は此の徵候に甚(いた)く御心痛遊ばされ、これの原因を說明せしめやうとて、陰陽師共をお召しになつた。

 彼等はお尋ねに答へて、此の恐ろしい天候の原因は、連れ合ひを失くして其の腹癒(はらい)せをしようとしてゐる雄蛇の怒りに過ぎない。――蛇の連れ合ひといふのは外(ほか)でもない、兼氏の連れ歸つた美しい女である、と申し述べた。

 そこで天皇は兼氏を常陸の國に追放するやうに、且つ姿を變へてゐる雌蛇を直ぐに鞍馬山の上の池に連れ戾すやうにお命じになつた。

 かく天皇の一命によつてどうしても立ち退かねばならなくなつたので、兼氏は忠臣池ノ庄司唯だ一人を隨へ、常陸の國へ向けて出て行つた。

 

        三 文のやりとり

 兼氏がお國拂ひになつてからほんの僅はかり經つてから、一人の旅商人が商品を賣る目的で、常陸に遷(うつ)された殿の家を訪れた。

 お前は何處に住んでゐるかと判官に聞かれて、商人は答へて言つた、――

 『私は京都の室町と言ふ通に住んで居ります、名は後藤左衞門と申します。

 『持荷は支那へ仕出すのが色々變つたのが千と八種(いろ)、印度へ仕出すのが千と八種、それからもう一つ日本だけで賣り捌くのが千と八種あります。

 『ですから私の持荷全部と申しますと三千と二十四種の變つた商品から成り立つて居る譯です。

 『私の今迄出掛けた國々の事を聞かれれば、もう印度に三度、支那に三度も渡つて來たとお答へしますよ。日本でも此地(ここら)へは今度で七遍目の旅です』

 かういふ事を聞いたので、小栗判官は其の商人に尋ねた、妻とする値打のあるやうな若い娘を誰れかお前は知つてやしないか、自分は大名であるが、未だ結婚しないでゐるので、さういふ娘を探し當てたいのだから、と。

 すると左衞門は言つた、『此處から西の方にある相模の國に、橫山長者と呼ばれ、八人の子息を有つてゐる金持ちが住んで居ります。

 『長い間彼は娘の無い事を嘆いて、長い間お天道樣に娘の出來るやうにと祈つたのです。

 『娘は授けられました。そしてそれが產まれた後、兩親は、彼女に自分達よりもつと高い身分を授けるのが當り前だ、天照大神樣の有難いお蔭を蒙つて產まれ出たのだから、と考へました、そこで娘の爲めに一軒別な家を建てたのです。

 『あの方なら、本當に全く、他に有りつたけの日本の女より優れてゐますよ。外の女ならちつともあなたに適(ふさ)はしいとは思へませんね』          、

 此の話は頗る兼氏を喜ばした、そして彼は早速、左衞門に自分の仲人役を勤めて吳れるやうに賴んだ。左衞門も自分の力で出來る事なら判官の望みを叶へる爲めにどんな事でもしてやらうと約束した。

 そこで兼氏は硯と筆を取り寄せて、戀文を認め[やぶちゃん注:「したため」。]、そして戀文を結はく[やぶちゃん注:「ゆはく」。]時のやうな結び目を拵へてそれを結はいた。

 彼は姬に手渡して吳れるやうにとそれを商人にやつた、尙ほ役目の禮として、金百兩をも與へたのであつた。

 左衞門は何遍も何遍も平伏してお禮を述べ、いつも持つて步く箱の中に其の手紙を入れた。それから箱を背中に負つて、殿樣に別かれを告けた。

 さて、常陸から相模までの旅程は普通七日かかるのであるが、商人は夜も晝も一緖にして、休みもせずに大急ぎで行つたので、三日目の晝其處に辿り着いた。

 彼は乾(いぬゐ)の御所と呼ばれた家に入つて行つた、それは金持ちの橫山が一人娘、照小姬の爲めに建てたもので、相模國の『ソバ』郡にある。彼は其處に入る許しを乞うた。

[やぶちゃん注:「『ソバ』郡」原文は“the district of Soba”であるが、このような名の郡は昔もない。幾つかの「小栗判官」伝承に中では、シチュエーションは異なるが、「鎌倉大草紙」の話の中で、主人公が毒を盛られそうになり、遊女「照姫」の機転で命拾いする場所が、後代、高座郡大庭庄に比定されてあり、群名の「カウザ」や、庄名「オホバ」が近似性を感じさせるように私は思う。]

 所が嚴めしい門番は、此のお屋敷は名高い橫山長者の娘御、照手姬のお住ひで、男ならどんな人物だらうと入らせる事は出來ない、それどころか、番人共が――夜十人晝十人――極て、用心深く且つ嚴重に此の御殿を護つてゐるのだと知らせて置いて、彼にあつちへ行けと命令した。

 然し商人は自分が京都の室町の後藤左衞門である事、自分は其處でよく知られた商人であつて、人々からは栴檀屋[やぶちゃん注:「せんだんや」。]と呼ばれてゐる事、三遍印度に三遍支那に渡つて來たが、今は『日の出』の大帝國[やぶちゃん注:言わずもがな、日本国のこと。]に歸る七遍目の旅をしてゐる所である事などを門番達に話した。

 それからかうも言つた、『此處だけを除いたら、日本の宮殿なら何處も殘らす私を自由に入れて吳れるのだ。だから若しお前方が私を入らして吳れたら本當に有難く思ふよ』

 かう言ひ乍ら彼は銀の卷いたのを澤山取り出して、門番共に吳れてやつた。すると彼等は欲で目が眩んだ、そこで商人は、何の苦もなく、喜びながら入つて行つた。

 大きな外側の門を通り過ぎ、一つの橋を越すと、彼は身分の高い侍女達の部屋部屋の前に出た。

 彼は大聲を張り擧げて呼び掛けた、『えゝお局樣方、何なりと皆樣の御入用な物は私が此處に持つて居りますよ。

 『「上﨟方(じようらふがた)の召道具(めしだうぐ)」も殘らず持つて居ります。解櫛(ときぐし)も縫針も鑷子(けぬき)[やぶちゃん注:毛抜き。]も御座います、「項髮(たてがみ)」[やぶちゃん注:原文“tategami”。本来は馬の首の背側に生えている長い毛、鬣(たてがみ)を指すが、ここはそれを用いた鬘髪のことであろうか。]から、銀の櫛から、長崎產の「髢(かもじ)」[やぶちゃん注:髪を結ったり垂らしたりする場合に地毛の足りない部分を補うための添え髪。]から、さては有りつたけの種類の支那鏡まで持參致して居ります』

 するとお局共は、さういふ品物を見たいと思つて喜んで商人を部屋に入らせたが、彼は忽ら其處を一見女の化粧品の賣店のやうにして仕舞つた。

 

 然し頗る手早く取引きしたり賣り捌いたりしてゐる間にも、左衞門は自分の摑んだ好機を逃しにしなかつた。賴まれた戀文を箱から取り出して女共に言つた、――

 『此の文はね、確さう覺えて居りますが、私が常陸の或る町で拾つたものです、それでこれをあな方がお納め下されば、非常に嬉しく存じます、――美事に書いてあればお手本にお使ひになればよし、下手に書いてゐつたらお笑ひ草になさればよし』

 すると女中頭が、其の文を受り取つて。封筒の上書を讀み解かうとした。『月に星――雨に霰が――氷哉』

 けれども彼女は此の不思議な言葉の謎が解けなかつた。

 他の女共は、矢張り其の言葉の意味を中てる[やぶちゃん注:「あてる」。]事が出來ず、只だ笑ふより外仕樣がなかつた、それで餘りキヤアキヤア笑ふものだから姬君の照手が聞き附けて、皆の居る所へ出で來た、すつかり着飾つて、烏羽玉の[やぶちゃん注:「ぬばたまの」。]黑髮には被衣(かつぎ)を懸けて。

 自分の前の簾が卷き上げられると、姬は尋ねた、『どうしてみんなそんなに笑ふの。何か面白い事があつたら私にも樂ませておくれな』

 侍女共は其時答へて言つた、『別に何でも御座いませんが、都から參つた此の商人が何處かの町で拾つて來たと申す文が私共に解らないものですから。只だそれで笑つて居るので御座います。これが其の文ですが、上書からして私共には謎なので御座います』

 そして其の文は、開いた眞赤な扇の上に載せられて、姬君に恭しく捧げられた、姬君はそれを受け取つたが。其の筆跡の美しさに感心して、かう言つた、―

 『これ程見事な手跡を今まで私は見た事がない、これは弘法大師の御親筆か、文珠菩薩のお書きになつたもののやうだ。

 『一條家、二條家、三條家の殿樣は皆(みな)書のお手並で名高い方々だが、多分これを書かれた方は其の中のどなたかであらう。

 『それとも、此の考へが間違つてゐるのだつたら、確に此の文字は、今常陸の國で名の高い小栗判官兼氏の書いたものだと言はなければなるまい……此の文をお前達に讀んで聽かせませう』

 そこで封は開かれた、眞先きに讀んだ文句は『富士の山』であつたが、それを姬は身分の高い事を表はしてゐるのだと解釋した。それからつぎにかういふやうな種々な文句に出會つたのである、――

 

『淸水(きよみづ)小坂、霰に小笹、板屋に霰、袂に氷、野中に淸水(しみづ)、小池に眞菰、芋葉に露、尺永帶、鹿に紅葉、二叉川[やぶちゃん注:「ふたまたがは」。]、細谿川[やぶちゃん注:「ほそたにがは」。]に丸木橋、弦無し弓に羽拔け鳥』

 

 すると姬は文字の表はしてゐるのはつぎのやうな事だといふ事が解つた、

 『參れば會ふ。離れない。轉び會ふ』

 それから其の殘りの文句の意味はかやうである、――

 『此の手紙は、他人に何事も知られぬやうに、袂の中で開かなければいけません。祕密はあなたの胸だけに藏つて置いて下さい。

 『あなたは葦が風に靡くやうに、私に從はなければならないのです。私は何事にも一生懸命になつてあなたに盡くします。

 『始めの内どんな思ひ掛けない事で私共の間が割かれようとも[やぶちゃん注:「さかれようとも」。]。終ひにはきつと二人は一緖になるでせう。秋牡鹿が妻を戀ふやうに、それ程までに私はあなたを慕ひ求めてゐるのです。

 『たとひ長い間離れ離れになつてゐても、丁度上流で二筋に分かれてゐる川の水が出會ふやうに、私共は會ふでせう。

 『どうか、此の手紙の意味を判じ當てて、それを守つて下さい。私は仕合はせよきお返事をと望んで居ります。照手姬の事を思ふと私は飛んででも行けるやうな氣がします』

[やぶちゃん注:以上の段落は、頭に鍵括弧がないが、ここまでの表記から考えて特異的に入れた。]

 尙ほ照手姬は手紙の終りに、それを書いた人の名――小栗判官兼氏其の人――と共に、姬白身の名が宛名として書かれてあるのを見出した。

 さあ彼女は全く當惑した、まさか自分に宛てて書いてあらうとは始めは思はなかつたし、何の考へもなく、侍女共に大聲で讀んで聞かせて仕舞つたからである。

 何故かといふと頑固一徹な長者が、若しさういふ事實を知るやうな事になつたら、忽ち殘酷極る遣り口で以て自分を殺すだらうといふ事を彼女はよく知つてゐたからである。

 

註 長者といふのは本名ではない、佛蘭西語の「アン・リシャール」、「アン・リーシュ」と同じく、實は單に富める人といふ意味であゐ。然し此の言葉は田舍では今も猶殆ど本名と同じやうに使はれてゐる。其地方で一蠻金持ちで、通常權勢の有る人は屢〻「あの長者」と名指しされてゐる。

[やぶちゃん注:「アン・リシャール」“un richard”はフランス語の俗語で「田舎の大金持ち」や「成金」を指す。所謂、人名の「Richard」に懸けたやや馬鹿にした謂いである。

「アン・リーシュ」“un riche”は「金持ち」のこと。]

 

それ故『ワハ』野ケ原といふ荒野――怒り猛つて居る父親が自分の娘を殺すのに恰好な場所――の土に埋け込まれる[やぶちゃん注:「いけこまれる」。]のが恐くて、彼女は手紙の端を齒に當てがひ、片々に嚙み裂いて、奧の間へ引き下がつた。

[やぶちゃん注:「『ワハ』野ケ原」“the moor Uwanogahara”。遊行寺長生院に伝わる小栗判官伝承では主人公一行が盗賊横山一党に騙されて、毒を盛られ、棄てられる場所を「上野ヶ原」とする。ここは伝承では俣野村の街道寄り(現在の横浜市戸塚区原宿付近)と伝わっている。]

 所が商人は、何の返事も齎さずに常陸の國へ歸る譯には行かないと思つたので、ずるい事をして返事を受け取る事に決めた。

 そこで彼は、草鞋を脫ぐ間も遲しとばかり、急いで姬の後を一番奧の部屋の中にまで追駈けて行つて、大きな聲で叫んだ、――

 『おゝ、姬君樣。文字といふものは印度では文珠菩薩、日本では弘法大師が工夫されたものだと私は敎はつて居ります。

 『文字で書いた手紙をそんな風に引きちぎるといふのは、弘法大師の御手を引きちぎるやうなものぢや御座いませんか。

 『女といふものは男より汚れて居るものだといふ事をあなた樣は御存じないのですか。御存じがないから、それだから、女に生まれたゐなた樣はこんなに手紙を引きちぎるなんて大それた眞似をなさるんですか。

 『さあ、若しあなた樣が御返事を書くのがいやだと仰しやるなら、私は有りとあらゆる神々に御祈禱します、此の女らしくもない行を神々に告げ參らせて、あなた樣に罰を當てて下さるやうにお祈りしますぞ』

 すると照手姬は、驚き悲しんで、彼に祈禱は止めて吳れと懇願し、直ぐに返事を書くからと約束した。

 そこで彼女の返事は早速認められて、商人に渡された、商人はうまい工合に行つたので大いに喜び、箱を背負ひながら、急いで常陸に向けて出發した。

 

        四 兼氏が舅の同意なくして花婿となつた顚末

 大急ぎで旅をして、仲人は忽ち判官の家に着いた、そして主人に手紙を渡した、主人は嬉しさに兩手を慄はせ乍ら、封を切つた。

 返事は實に頗る簡單であつた、――只だかういふ文句だけ、『沖中舟(おきなかぶね)』

[やぶちゃん注:不審に思われると厭なので言っておくと、先の兼氏の文もこの照手姫の文も私はそれらが何故そのように解読出来るのかは知らない。]

 然し兼氏は其の意味をつぎのやうに推量した、『運不運は何にでも附き物ですから、恐れてはいけません、人に見附からぬやうに來て御覽なさい』

 そこで彼は池ノ庄司を呼んで、急ぎの旅に必要な支度を洩れなく整へるやうに言ひ附けた。後藤左衞門は案内者として仕へる事を承諾した。

 兼氏は彼等と同道した。皆が『ソバ』郡に着いて姬の家に近附いた時、案内者は殿樣に言つた。――

 『私等の前にある、黑い門の附いた家は、遠く名を知られた橫山長者の屋敷です。それから別に其の北の方にある、赤い門の附いた家は花のやうに美しい照手のお住ひです。

 『萬事拔け目のないやうに、さうすりやうまい具合に行きますよ』こんな言葉を殘して、案内者は見えなくなつた。

 忠義な家來に伴なはれて、判官は赤門に近づいた。

 二人が入らうとした時、門番等は邪魔しに掛かつた、名高い橫山長者の獨り娘。――お天道樣のお惠みによつてお產まれ遊ばした貴い御子――照手姬のお住ひに入らうとするとはあんまり圖々しいぞと言ひ立てながら。

 『お前達がさう言ふのはいかにも尤もだ』と家來は言つた、『だが私達は落人を探しに郡から參つた役人だといふ事を頭に入れて置かねばならんぞ。

 『此處は男子禁制の家だからこそ、中を調べて見ねばならんのだ』

 そこで番人共は膽を漬して、二人を通らせたが、見ると奉行所のお役人と思つた人達は庭に入つて行き、それから侍女共が大勢出て來て二人を客人としてお迎へした。

 照手姬は、あの戀文を書いた人が來たといふので夢かとばかり喜んで、晴着を着、肩に被衣を懸けて、戀人の前に立ち現はれた。

 兼氏も美しい人にこんなにして歡迎される事を大變に喜んだ。そして婚禮の儀式が、双方歡喜に滿ちて、取り行はれ、續いて盛大な酒宴が催されたのである。

 宴は頗る盛大であるし、皆も愉快でたまらないので、殿の從者共は姬の腰元達と一緖に踊つたり、一緖に音樂をやつたりした。

 當の小栗判官も、竹の根で造つた笛を取り出して、調べ床しく吹き始めた。

 すると照手の父親が、自分の娘の家でやつてる此の愉快さうなドンチヤン騷ぎを殘らず間きつけて、どういふ譯かと頗る驚き怪しんだ。

 然しどうして判官が彼の許しを受けすに娘の婿に成りすましたか其の次第を聞かされた時、長者は正氣と思はれぬ程に腹を立てて、ひそかに復讐の計畫を𢌞らしたのである。

 

        五 毒害

 翌日橫山は兼氏卿の許へ使をやつて、お互に舅として婿として挨拶の盃を取り交はす儀式を行ふから、自分の家に來るやうにと招待した。

 すると照手姬は、自分が夜、緣起の惡るい夢を見たので、判官に說き勸めて其處へ行くのを止めさせやうとした。

 然し判官は、姬の心配を氣にも留めず、若い從者を連れて、大膽に長者の住家へと出掛けて行つた。

 そこで橫山長者は喜んで、あらゆる山海の珍味を盛り立てた御馳走を幾皿も幾皿も拵へさせ、充分判官を饗應した。

 やがて、酒盛もそろそろ下火になりかけた時、橫山はお客樣の兼氏卿も何か御馳走して下さるやうにと所望した。

 

註 『御馳走』といふ言葉は本當は「肴」となつてゐる。酒に肴を添へるのはいつも定まりになつてゐた。それで「肴」といふ言葉は、酒宴の間に客に與へられる饗應ならどんなものに對しても用ゐられるやうに段々なつて來た、例へば歌とか踊りとかいふやうに。

 

 『馳走つて何です』と判官は尋ねた。

 『正直な所』と長者は答へた、『私はあなたの、素晴らしい乘馬のお手並を拜見させて戴きたいのです』

 『それなら乘りませう』と卿は答へた。そこで直ぐ鬼鹿毛[やぶちゃん注:「おにかげ」。]と言ふ馬が引き出された。

 此の馬は極て兇猛で本當の馬とは思はれぬ、寧ろ鬼か龍かとばかりの代物なので、敢て近づかうとする者さへ殆ど無かつた位であつた。

 所が判官兼氏卿は直ぐに樣馬の繫がれてゐた鏈[やぶちゃん注:「くさり」。]を解いて、驚くばかり樂々と其の上に乘つたのである。

 荒つぽい馬なのにも拘らず、鬼鹿毛は何でも乘手の仕たい放題の事をしない譯には行かなかつた。橫山のも他の人達も、並み居る者は皆、驚きのあまり口も利けなかつた。

 然し間も無く長者は、六曲屛風を取り出してそれを立て、其の屛風の上の緣に兼氏が馬に乘つて上がつた所を見せて吳れと賴んだ。

 小栗卿は、引き受けて、屛風の上端に乘り上がつた。それからつぎに眞直ぐ立つて居る障子の枠の上を通つて乘り進んだ。

 今度は碁盤が取り出されたが、彼は甥の碁盤格の目の上に自分は乘り乍ら馬の蹄をキチンと揃へさせた。

 最後に、彼は行燈の枠の上で馬に中心を取らせたのである。

[やぶちゃん注:“And, lastly, he made the steed balance himself upon the frame of an andon.”華奢な行灯の上で乗ったまま馬にバランスをとらせて落ちなかったというのである。]

 さあ橫山はどうして良いのか途方に暮れてしまつて、丁寧にお辭儀をしながら、やつとこれだけ物が言へたばかりであつた、――『御馳走樣、誠に有難う存じます、大層面白う御座いました』

 小栗卿は、鬼鹿毛を庭の櫻の木に繫いで座に還つた。

 所が三郞といふ其の家の三男が、判官を毒殺しようと父に說き付け、毒百足や靑蜥蜴の毒液や、竹の窪んだ節の中に長らく溜つて居た汚水やの混つてゐる酒を兼氏に勸めた。

[やぶちゃん注:「靑蜥蜴」(あをとかげ)は通常では日本本土では、ごく普通に見られる爬虫綱有鱗目トカゲ科トカゲ属ニホントカゲ Plestiodon japonicus の幼体を指す。幼体は体色が黒や暗褐色で五本の明色の縦縞が入るが、長い尾が鮮やかな青色を呈する。しかし、無論、毒はない。]

 判官や彼の從者共は、まさか毒の入つた酒だとは思はず、すつかり呑み盡くした。

 悲慘な事には、彼等の腹や腸に毒が沁み込んで、骨といふ骨は殘らす其の激しい毒の爲めにバラバラに碎けてしまつたのであつた。

 

 彼等の命は、朝露が草から消え去るやうに忽ち消え去つた。

 三郞と其の父は彼等の屍體を『ウハ』野ケ原に埋めた。

 

        六 漂流

 殘忍な橫山はかく娘の夫を殺した以上、彼女も生かしては置けないと考へた。それ故彼は自分の忠僕で鬼王[やぶちゃん注:「おにわう」。小泉八雲のローマ字表記では「おにおー」。]鬼次[やぶちゃん注:同前表記は「おにじ」。]といふ兄弟に、相模の海の沖遙かに姬を連れて行くやうに、そして其處で溺らして什舞ふやうに是非共命じなければならないと思つた。

 二人の兄弟は、自分等の主人は石のやうな心の人間だから別に說き伏せる方法は無いといふ事を知つてゐたので、只だ命令に從ふより外どうする事も出來なかつた。そこで二人は不運な姬の許に出かけて、自分等の遣はされた目的を話して聞かせた。

 照手姬は父の殘酷な決心に全く驚いて始めは何もかも夢だと思ひ、其の夢が覺めて吳れるやうにと熱心に祈つた程であつた。

 暫くして姬は言つた、『私は今迄の生涯中、承知の上で罪を犯した事は決して無い。……然し自分の身にどんな事が振りかからうと構はぬが、夫が父の家を訪ねてからどうなつたか、それが言葉で言へない程知り度くてたまらないのだ』

 二八の兄弟は答へた、『御主人樣は、あなた方お二人が正當な許しもなく御結婚なさつた事を知られて大變御立腹になり、あなたの御兄上三郞樣の考へられた企みをお取り上げになつて、若殿樣々毒害遊ばされまして御座います』

 これを聞いて照手は益〻驚き、無慈悲な事をする父親に罰が當たるやうにと祈願したが、それは尤もな次第である。

 然し姬は我が身の不幸をかこつ暇さへ與へられなかつた。鬼王と其の弟がすぐさま媛の着物を剝いで彼女の裸身(はだかみ)を蓙[やぶちゃん注:「ござ」。茣蓙莚(ござむしろ)。]に入れて簀卷きにしたからである。

 此の痛ましい包みが夜分寂から運び出された時に、姬と其の腰元共は、悲しがつて噎び泣いたり泣き喚いたりしながら、互に最後の別かれを告げた。

 

 鬼王鬼次の兄弟はやがて其の哀れな荷物々積んで遙か沖合に漕ぎ出した。けれども自分達ぎりになつた時、鬼次は鬼王に向つて、俺達は若奧樣を助けて上ける事にしよう、其の方がいいぜと言つた。

 これに對して兄は異議も唱へず直ぐ賛成した、そして二人は助ける工夫を𢌞らし始めた。

 丁度其の時主のない丸木舟が潮に流されてこちらへ近寄つて來た。

 早速姬は其處に移された。兄弟は、『これや全く仕合はせな事だつた』と叫びながら、奧樣に別かれを告げて、主人の許へ漕ぎ戾つた。

 

        七 賴

 哀れな照手を乘せた丸木舟は七日七晚あちこち波に搖られたが、其の間激しい雨風が起こつたのである。そして遂に直江附近で魚釣りをして居た漁夫達に見附けられた。

[やぶちゃん注:「直江」原文は“Nawoyé”。不詳。私の知る小栗判官伝承の一つでは、相模川を下ったことになっており、「ゆきとせが浦」という海浜に漂着することになっているが、この「直江」同様に不詳である。彼女の漂着地を現在の横浜市金沢区六浦の浜とするものもあるようだが、これは当地の侍従川伝承よるものか、以下に続いて語られる姫の再受難のロケ地への移動、或いは、相模湾の「ゆきとせが浦」から六浦の商人に売られそうになるという説経節に出現するエピソード等による変形・短縮によるものであろう。相模川から六浦では三浦半島を挟んで漂着の騒ぎどころではない。]

 所が漁夫達は此の美しい女はきつと妖魔に違ひない、此奴の仕業で幾日も永らく暴風雨(しけ)たのだと考へた。それで若し直江に住む一人の男が庇つて[やぶちゃん注:「かばつて」。]吳れなかつたら、照手は皆の橈[やぶちゃん注:「かい」。]で打ち殺される所だつた。

 さて此の男は、村上太夫といふ名であつたが、後を嗣ぐべき實の子が居なかつたので、姬を自分の娘として養ふ事に決めた。

 そこで家に連れ歸つて、賴姬と名づけ、隨分親切に扱つたが、其の爲め彼の女房は養女に嫉妬を起こして、亭主の留守の時は度々彼女に辛く當たつた。

 然し賴姫が自分から勝手に出て行かうとはしないのを見て、腹黑い女は彼女を永久に追ひ拂つてしまふ工夫を𢌞らし始めた。

 丁度其の折、端なくも人買ひの船が港に錨を下してゐた。言ふ迄もなく賴姫は其の人肉商人にひそかに賣られたのである。

 

        八 下女奉公

 こんな災難に遭つてから後、不運な姬は親方から親方へと七十五遍も轉々した。最後に彼女を買ひ取つたのは萬屋長兵衞と言つて、美濃の國の大きな『女郞屋』の持主としてよく知られた男であつた。

 照手姬は始めて新しい親方の前に連れて來られた時、穩かに口を開いて、自分は何一つ行儀や作法を辨へてゐないが許して吳れるやうにと賴んだ。すると長兵衞は身の上や生國や家柄などを殘らず話して聞かせろと言ひ渡した。

 然し照手姬は、自分の生國の名にしろ喋るのは智惠のない話だ、うつかりすると自分の夫が自分の父たる人に毒害された事を無理やりに白狀させられるかも知れないから、と考へたのである。

 そこで彼女は唯だ自分が常陸で生まれたといふ事だけ答へようと決心した。自分が、戀人たる判官卿の住んで居た國と同國の者だと言ふ事に或る悲い[やぶちゃん注:「かなしい」。]愉悅を覺えながら。

 『私は常陸の國で生まれました』と彼女は言つた、『けれども私は大層賤しい生まれですから苗字がありません。ですからどうぞ何か良い名を附けて下さい』

 そこで照手姬は常陸の小萩と名乘らされた、そして樓主に仕へて彼の商賣に精出して勤めるやうに言ひ渡された。

 けれども此の言ひ附けには彼女は從ふのを拒んだ、そしてどんなに卑しい事だらうが辛い事だらうが、當てがはれた仕事なら何なりとやりおほせますが、『女郞』の勤めは致し兼ねますと言つた。

 『そんなら』と長兵衞は腹を立てて呶鳴つた、『お前の每日の仕事はこれだけだ――

 『庭に繫いである馬にな、數なら百匹も居るわ、そいつら有りたけに飼葉をやるんだ、それから家にゐる他の連中殘らずに飯の時給仕をするんだ。

 『此の家に抱へてる三十六人の女郞共に、一番映(うつ)りのいいやうな恰好に髮を結つてやつてよ、おまけに麻を撚つて[やぶちゃん注:「よつて」。]絲にしたやつを七つの箱に一杯にするんだ。

 『未だあるわい、七つの竈[やぶちゃん注:「かまど」。]に火を焚いてよ、此処處から半道[やぶちゃん注:「はんみち」。一里の半分。]もある山の泉から水を汲んで來るんだぞ』

 照手は自分にしろ他のどんな生物にしろ無慈悲な親方が自分に負はしたこんな仕事を全部やりおほせる事は迚も出來ないといふ事を知つたので、我が身の不幸を泣き悲しんだのである。

 然し泣いたつて何の足しにもならない事を直きに氣附いた。そこで淚を押し拭つて、自分のやれる事をやつて見ようと雄々しくも決心した、それから前掛を締め、袂を後ろで結んで、馬に飼葉をやる仕事に取り掛かつた。

 神々の深いお惠みは理解する事は出來ない、然し此の事は確だ、彼女が始めの馬に食はせると、他の馬全部も、靈驗によつて、養ひ盡くされたのである。

 更に同じやうな不思議な事が、彼女が飯時に家の人達に旧字をした時にも、遊女共の髮を結つた時にも麻絲を撚つた時にも、竈に火を焚いた時にも、偶然に起こつたのである。

 けれども何にかより一番悲慘な事は水桶を肩に擔いで、遠くの泉に水を汲みに出て行く賴姬を見る事であつた。

[やぶちゃん注:「賴姬」は原文自体の混在。]

 桶に滿々(なみなみ)と湛へた水に變はり果てた自分の顏が映つてゐるのを見た時、其の時に彼女は全く絕え入るばかりに泣き悲しんだのである。

 けれども不圖むごたらしい長兵衞の事を思ひ出したところ、彼女は非常な恐怖を全身に覺えて、急いで自分の恐ろしい住家へと取つて返した。

 然し間もなく『女郞屋』の亭主は彼の新しい奉公人が並々の女ではないと見て取つて、大變親切な態度で彼女をあしらひ始めた。

 

       九 輓車

 さてこれから兼氏がどうなつたかをお話ししよう。

[やぶちゃん注:標題「輓車」は「ひきぐるま」と読む。原題は“DRAWING THE CART”。「車を引っぱること」。意味は後で判る。]

 加賀美の藤澤寺の、遠く名を知られた遊行上人は、絕えず日本中を行脚して全國に佛法を說いて𢌞つた人だが、偶〻『ウハ』野ケ原に差し掛かつた。

[やぶちゃん注:「加賀美」確かに原本は“Kagami”。「相模(さがみ)」の小泉八雲の誤り。

「藤澤寺」現在の時宗藤沢山遊行寺。俣野(現在の藤沢市西俣野や横浜市戸塚区俣野町・東俣野町)の領主であった俣野氏一族の俣野五郎景平が開基。景平の弟が遊行上人第四代呑海(文永二(一二六五)年~嘉禎二(一三二七)年)であった。少なくともこの謂いと人物によって、作品内時制はずっと引下げられる結果となる。]

 其處で彼は多くの鴉や鳶が一つの塚の附近をヒヨイヒヨイ飛び步いて居るのを眼に留めた。惹かれるやうに尙ほも近寄ると、見た所腕や足の無い何とも言はれぬ物が、毀れた墓石の碎片(かけら)の間に動いてゐるのを目擊したので、甚く驚いた。

 其の時彼は古い傳說を思ひ浮かべた、此の世で定められた壽命が未だすつかり終はらない内に殺される者は『餓鬼阿彌[やぶちゃん注:「がきあみ」。]』と言ふ姿になつて再現したり生き返つたりするといふ事である。

 自分の眼の前の物はさういふ不幸な亡魂に違ひないと彼は思つた。又彼の優しい心には此の氣味の惡るい物を熊野寺の溫泉に連れて行つて、さうして元の人間の姿に還れるやうにしてやらうといふ望みが起こつた。

 そこで彼は『餓鬼阿彌』の爲めに車を造つて、例の何とも言へぬ恰好の物を中に入れ、其の胸に大きな文字を書き誌した木の札を結び附けた。

 書かれた言葉はかうである。『此の不運なる費に憐れみを垂れよ。且つ熊野寺の溫泉(いでゆ)への道中に力を添へよ。

 『たとひ僅の距離たりとも綱を引きて此の車を輓き進めたる者は大なる福運を以て報いらるべし。

 『たとひ一步と雖も車を輓かば其の功德は僧侶千人を養ふに足り、二步輓かば其の功德は一萬の僧侶を養ふに足らん。

 『三步輓かば其の功德は親類緣者――父、母、或は夫――の亡者を成佛せしむるに足るべし』

 かくて其の道を通り掛かつた旅人共は忽ち此の纏まつた形もない者を憐んだ。或る人達は何哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは千六百九・三四メートルであるから、六掛けで九キロ六百五十六メートル前後。]も車を輓き又或る人達は隨分親切で何日も何日も一緖に輓いて行つた程であつた。

 さういふ次第で、大分長い事經つてから、車に乘つた『餓鬼阿彌』は萬屋長兵衞の『女郞屋』の前にやつて來た。常陸の小萩はそれを見て、書いてある事に非常に感動した。

 其の時彼女はたとひ僅一日でも良いからあの車が輓きたい、そしてかういふ情深い仕事をしたお蔭で自分の死んだ夫の爲めに功德を授けたいといふ望みが急に起こつて來たので、自分の親方にあの車か輓かうと思ふから三日のお暇を許して吳れと懇願した。

 これを賴むのに波女は兩親の爲めにと言つた、親方が事實を知ると隨分腹を立てるかも知れないと氣遣つて、夫の事は話すまいと思つたからである。

 長兵衞は始めは拒んだ、此の前に言ひ附けに從はなかつたから、たとひ一時間でも此の家から出て行く事はならんと嚙み附くやうな聲で呶鳴りながら。

 然し小萩は彼にかう言つた、『御覽なさい、親方。雄雞[やぶちゃん注:「をんどり」。]だつて陽氣が寒くなると自分の巢に行くし、小鳥だつて深い森に急ぐでしよ。人間も其の通り、災難のある時は慈悲の隱れ場に逃れますよ。

 『此の家の塀の外で暫く「餓鬼阿彌」が休んだのはきつと親方が親切な方だつて評判されてゐるからですよ。

 『それはさうと今若しあなた方が三日のお暇を下さりさへすれば、私は親方やお神さんの爲めに御入用なら命でも投け出すといふお約束を致しませう』

 さういふ譯で到頭けちん坊な長兵衞は說き伏せられて切な願ひを聞き屆ける事にした、そして彼の女房は許された日數の上に更に二日だけ附け足す事を快く請合つた。かくて五日間自由の身となつた小萩は嬉しくてたまらず、直ぐさま此の恐ろしい仕事に取り掛かつた。

 隨分と辛苦艱苦[やぶちゃん注:「しんくかんく」。非常な辛(つら)く苦しいことを重ねること。]しながら、不破ノ關、『ムサ』、番場、醒ケ井、大野、末永峠といふやうな場所を通り過ぎてから、彼女は有名な大津市に着いたが、それ迄に三日掛かつたのである。

[やぶちゃん注:「不破ノ關」古代東山道の関所の一つで、現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあった古い関所跡。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「ムサ」武佐。現在の滋賀県近江八幡市武佐町にあった宿場町。以下の二箇所よりも先で地理的に順列になっていない。

「番場」滋賀県米原市番場。もと中山道の鳥居本と醒井(さめがい)との間の宿場町。但し、次の醒ケ井より美濃の手前になり、やはり地理的には順列になっていない。

「醒ケ井」滋賀県米原市醒井

「大野」滋賀県栗東(りっとう)市荒張(あらばり)にある大野神社附近か。

「末永峠」不詳。]

 其處で彼女はもう自分は車を離れなければならないと知つた、其處から美濃の國へ歸るのには彼女には二日掛かるからである。

 彼女が大津へ來る迄の長い道中、眼を樂ませ耳を喜ばせるものとては路傍に生へた野育ちの綺麗な百合、雲雀や四十雀や樹々に囀る有りとあらゆる春の鳥の啼き聲、田植ゑしていゐる百姓の娘の歌、只だそれだけであつた。

 然しかうした眼に觸れ耳に觸れるものはほんの一時彼女を慰めただけであつた、といふのは之等は大槪在りし日を夢みさせ、望みなき今の有樣を想ひ出させて彼女を苦しめたからである。

 

 丸三日の間引き受けた激しい勞働の爲めに隨分疲れたけれども、彼女は宿屋に行かうとはしなかつた。翌日は置いて行かねばならぬ、其の不恰好なものの傍で最後の夜を過ごしたのである。

 『度々聞く事だが』と彼女は自分で考へた、『「餓鬼阿彌」は冥界(あのよ)の者だといふ話しだ。さうだとすると、此處にゐるのは私の死んだ夫の事を何か知つてるかも知れない。

 『此の「餓鬼阿彌」が眼が見えるか耳が聞こえるかしたらどんなにいいだらう! さうすれば口で言つても字で書いても、兼氏の事が訊かれる譯だ』

[やぶちゃん注:前の「!」の後は底本では字空けがないが、特異的に挿入した。]

 霧の懸かつた近くの山々の上に黎明(あさあけ)の光が射し始めると、小萩は硯と筆を手に入れようとて出掛けて行つた、そして間もなくそれを持つて車の置いてある所へ歸つて來た。

 それから、『餓鬼阿彌』の胸に附いてゐる板札の文字の下に、かういふ言葉を、唄で書き誌した――

 『おん身もとのお姿に復(かへ)らせ給ひ御歸國の運びに至り給はば、願はくば美濃の國なるおばか町、萬屋長兵衞の婢、常陸の小萩を訪(おとな)ひ給へかし。

[やぶちゃん注:「おばか町」“the town of Obaka”。不詳。遊廓街の通称か?]

 『おん身の爲め妾は辛うじて五日の間拘束なき身と成り申し、おん身の車を遙々此の地まで伐輓き參らせむ爲め三日を捧げ申しつ。かかるおん方に再び會ひまつらむ事妾に取りてまこと嬉しき事に候べし』

 それから彼女は『餓鬼阿彌』に別かれを告げ、家路を辿つて急ぎ歸つた、かうして車だけを殘して行くのは隨分心苦しい事ではあつたけれど。

 

        一〇 蘇生

 遂に『餓鬼阿彌』は有名な熊野權現の溫泉に運ばれ、そして、其の樣を憐れに思ふ慈悲深い人達の力添へで、身體の治る湯、効果(ききめ)を每日經驗する事が出來たのである。

 一週間經つとお湯の効果によつて眼と鼻と耳と口が元のやうに現はれた。十四日經つと手足は四本共そつくり元の形に戾つた。

 それから二十一日の後には其の何とも言へない恰好をした膏はすつかり姿を變へて、在りし頃のやうな五體揃つた立派な、本物の小栗判官兼氏に成つたのである。

 此の不思議な變はりやうをして仕舞つた時、兼氏は身の𢌞はり四方八方を眺め𢌞はして、自分がこんな見も知らぬ所へ何時どうして連れて來られたのか非常に驚き怪しんだ。

 然し熊野の權現樣の御利益により、物事は頗る工合よく定まつてゐたので、蘇つた兼氏卿は無事に京都二條の自宅に歸る事が出來た。家では彼の兩親、兼家卿と其の奧方は大層喜んで彼を迎へた。

 すると天子樣が、此顚末を逐一聽こし召されて、御自分の臣下の或る者が、死んで三年經つてから、かやうに生き還つたとは不思議な事であると思召された。

 そしてお國拂ひにされた程の判官の罪を快くお許しになつたばかりてはなく、尙ほ其の上常陸、相模、美濃の三箇國の領主たるべき事を彼に御任命遊ばされたのである。

 

        一一 面會

 或る日小栗判官は己が住家を後にして自分が治めるやうに任命された國々視察の旅に上つた。美濃に着いた時、彼は常陸の小萩を訪ねよう、そして彼女の並々ならぬ好意に對して禮を述べようと決心した。

 それ故彼は萬屋に宿を取つたが、其處ではどの部屋よりも一番立派な客間に通された、幾つもの金屛風や、支那の絨毯や、印度の掛布や、其の他隨分金のかかつた珍らしい品々で、綺麗にしつらへた客間である。

 兼氏が自分の面前に常陸の小萩を招ぶやうに言ひ附けた時、あの女は此の上なしの下司(げす)つぽい女に過ぎないし、餘り汚ならしくてあなた樣の前に出されないといふ返事であつた。けれども彼はそんな文句には構ひなく、其の女がどんなに汚なからうと直ぐに來させるやうに命ずるばかりであつた。

 それ故小萩は、いやでいやでたまらないのに、無理やりに殿の前に出されたのだが、始め衝立の蔭から覗くと、判官そつくりに見えたので飛び上がるばかりに驚いたのであつた。

 小栗は彼女が出て來ると本名を明かして吳れと賴んだ、が、小萩はかう言つて撥ね付けた、『本名を明かすなどといふ事柄は拔きにして、お酌を致すのでなければ、私は殿樣の御前を引退るばかりで御座います』

 然し彼女が行き掛けた時、判官は呼び止めた、『いや、暫くお待ちなさい。あなたの名を聞くには相當な譯があるのです、といふのは實は私はあなたが去年親切にも大津まで車に乘せて輓いて行つて吳れたあの「餓鬼阿彌」です』

 かう言ひながら彼は小萩の書いたあの木の札を差し出した。

 そこで彼女は全く昂奮して言つた、『こんなに元の御身體になられたあなた樣にお目に懸かるとはほんたうに嬉しう御座います。さあ今こそ喜んで私の經歷を殘らずお話し申しませう。唯だこれだけのお願ひがあります、殿樣、あなたに私はあの世の事を少小お伺ひしたいのです、あの世からあなたは還つていらつしやいました、そして其處には私の夫が、哀呼(ああ)! 今居るので御座います。

[やぶちゃん注:底本には「!」の後の字空けはない。特異的に施した。以降も同じである。]

 『私は(昔の今をお話すると胸が張り裂けさうです)相模の國『ソバ』郡に住む橫山長者の一人娘に生まれまして、名は照手姬と申します。

 『よく覺えて居りますが、哀呼(ああ)! 私は三年前に、身分のある名高いお方と結婚しました、名は小栗判官兼氏と言ひ、常陸の國に住んでゐた方です。けれども夫は毒害されました、三男の三郞に唆かされた[やぶちゃん注:「そそのかされた」。]私の父の爲めに。

 『此の私は父の咎めを受けて相模の海に沈められようとしました。今かうして生きてゐるのは父の忠義な家來、鬼王と鬼次のお蔭で御座います』

 其の時判官卿は言つた、『あなたは今眼の前に、照手の夫、兼氏を見てゐるのですよ。私は家來共と一緖に殺されはしたけれど、尙ほ幾年も久しい間此の世に生き永らへるやうに運命(さだめ)られたのです。

 『私は藤澤寺の偉いお上人に助けられて、車を當てがはれ、大勢の親切な人達に熊野寺の溫泉まで輓かれて行つて、其處で元のやうに丈夫になり、姿も元のやうに治つたのです。そして今は三箇國の領主に任命されて、何でも望み次第の物を手に入れる事が出來るのです』

 此の話を聞いて、照手は何もかもすつかり夢ではないのだとは殆ど信ずる事が出來なかつた、そして嬉し泣きに泣いたのである。それから言つた、『噫![やぶちゃん注:「ああ!」。後の字空けは同前。] 此の前お目に懸かつてから此のかた、私はどれ程憂い目辛い目に會つた事でせう。

 『七日七晚海で丸木舟にもられまして、それから直江潟で隨分危い所を、村上太夫といふ親切な人に助けられたのです。

 『其の後七十五遍も賣られたり買はれたりして、終ひに此處に連れて來られました、此處では私が女郞になるのを斷わつたばつかりに、有る限りの苦しみを受けて參りました。こんな淺ましい姿で今お目にかかるのは其の爲めです』

 人でなしの長兵衞の殘酷な振る舞ひを聞くと兼氏は非常に立腹して、直に彼を成敗しようとした。

 然し照手は命を助けてやるやうに夫に懇願した、かくて彼女がずつと以前長兵衞に約束した事――卽ち『餓鬼阿彌』の車を輓く爲め自分を五日の間自由にさせて吳れれば親方やお神に、入用なら、命でもやらうと言つた――あの約束を彼女は果たしたのである。

 之を長兵衞は心から有難がつた。其のお禮として判官には自分の厩に居る百頭の馬を贈り、照手には家にゐる三十六人の召使を與へた。

 そこで照手姬は相應に着飾つて、兼氏の君と共に出掛けて行つた。彼等は心の中を喜びで一杯にしながら相模への旅を始めたのである。

 

        一二 懲罰

 此處は相模の國のソバ郡、照手の生まれた土地てある。其の地は如何に多くの美しい思ひや悲しい思ひを彼等の心に呼び起こさせる事だらう。

 此處は亦、小栗卿を毒殺した橫山や其の子の居る所でもあるのだ。

 それ故三男の三郞は戶塚の原といふ荒野に連れて行かれて、其處で處刑された。

[やぶちゃん注:横浜市戸塚か。]

 然し橫山長者は罪の深い男ではあつたが、罰は受けなかつた。どんなに惡るくても兩親といふものは子供達に取つてはいつも日と月のやうなものでなければないからである。此の仰せを聞いて、橫山は自分のした事を深く深く後悔した。

 鬼王鬼次の兄弟は、相模灘の沖で照手の姬君を助けた廉[やぶちゃん注:「かど」。ここは評価すべき行いの意。]で澤山の贈物を頂戴した。

 かくて善人は榮え、惡人は減ぼされた。

 目出度く樂く、小栗樣と照手姬は共に都へ還り、二條の邸で暮らしたが、二人揃つた所は春の花のやうに綺麗であつた。

 

    目出度し。目出度し。

 

2019/12/22

小泉八雲 俗唄三つ (稲垣巌訳) / (序)と「『俊德丸』の唄」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“APPENDIX. THREE POPULAR BALLADS”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の本篇全十五話の後に附録として添えられてある。これが本篇でなく、附録であるのは、恐らく以下の冒頭に記されている如く、三篇が本作品集に刊行に先立つ、二年前の明治二七(一八九四)年十月十七日に築地で開催された「日本アジア協会」(Asiatic Society of Japan:明治五(一八七二)年に創立された日本の組織)の会合に於いて、オーガスタ・ウッド博士によって代読された作品という特殊な条件を伴うもの(ハーンはこの時、入りたての英字新聞『神戸クロニクル』紙(The Kobe Chronicle)の記者として仕事に忙殺されており、その場にはいなかった)、更に言えば、その朗読されたものの一部の原型は、これまた、溯る五年前の明治二四(一八九一)年に英字新聞『ジャパン・メイル』紙(Japan Mail)に投稿したものの一部という複雑な淵源を持つものだからであろう。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 底本本文は附録であるからであろうが、ポイント落ちであるが、上方へ引き上げて今までと同じポイントで示した。注は四字下げポイント落ち、引用は七字下げのポイント落ちその他と極めて複雑であるが、行頭或いは上部へ引き上げて本文と同ポイント或いはポイント落ちで示し、注や引用は前後を一行空けた。序の後の本篇原題は“THE BALLAD OF SHUNTOKU-MARU”である。

 訳者稻垣巖(いながきいわお 明治三〇(一八九七)年二月十五日~昭和一二(一九三七)年:パブリック・ドメイン)は小泉八雲の次男で、もと、京都府立桃山中学校英語科教員。明治三四(一九〇一)年九月に母セツの養家であった稲垣家へ養子縁組されて稲垣姓となった。大正九(一九二〇)年六月、岡山第六高等学校第二部甲類卒業後、翌七月に京都帝国大学工学部電気工学科入学、その後、転部したか、昭和二(一九二七)年三月に京都帝国大学文学部英文科選科を修了し、昭和三(一九二八)年四月、京都府立桃山中学校(現在の京都府立桃山高等学校)へ英語教師として赴任している。「青空文庫」で「父八雲を語る」(新字正仮名。初出はラジオ放送「父八雲を語る」で昭和九(一九三四)年十一月十五日とする)が読める。

 なお、本篇訳には旧日本に存在した差別に基づく、現在使用すべきでないおぞましい差別用語が頻出する。そこは、嘗てこのような謂われなき差別が永く存在したこと、今もその亡霊的意識が幾たりかの者の中に生き残っていて時に我々の前におぞましい差別としての侮蔑や表現として醜い姿を現わすという事実を忘れずに、批判的視点を堅持して読まれたい。又、そうした配慮からも、私の注釈も今までと異なり、軽薄な興味本位の差別助長を促すことのないよう、意識的に抑えてあることをお断りしておく。小泉八雲は終始、非常にフラットな意識・書き方を心掛けており、一貫して差別にも批判的であるが、しかしそれでも、中には誤った理解部分もあるように私には思われる(或いは差別の地方差に基づくものかも知れぬが)。さらにまた、稲垣巌氏が邦訳するに際して稲垣氏の当時の時代的限界性に基づく問題のある訳語や表現箇所も見られるわけで、そういう意味でも、何重にも注意を払って読み進められんことを厳に乞うものである。しかし、そうした有意な問題性はあるにしても、当時はまだ異国人であった Lafcadio Hearn が、先細りせんとする貴重な民俗芸能を採取するために、そうした差別された人々と膝を突き合わせて親しく接し、かくも優れた民衆芸能の体験談と詳細な採録を果たし、彼らの差別された歴史に強い同情の感を表わしておられることに、私は頭が下がる思いが同時にするのである。なお、私は高校教師時代、ある学校で人権・同和委員会の委員長を務め、全同協の全国大会にも参加したことがあり、一般的な方々よりは人権・同和問題についての知識や関心は相応に持っているつもりである。しかし、一言言っておくと、一律の「言葉狩り」によって差別がなくなるという単純な楽観的発想や、メディアがただただ指摘や議論を恐れて回避するために「ためにしている」自主規制コードという現象に対しては、強い違和感を持っている人間であることは言い添えておく。差別用語やそうした実際の現象としっかりと直に向き合い、そうした過去形・現在形の差別の病理を厳格に深く考えることこそが、今、求められていることではないかと考える人間である。

 それぞれが相応に分量があるので、歌謡ごとに分割して示す。]

 

    附 錄

 

  俗 唄 三 つ

 

  千八百九十四年十月十七日 日本亞細亞協會に於て讀まれしもの。

 

 千八百九十一年[やぶちゃん注:明治二十四年。]の春、私は出雲の松江に在る部落、『山(やま)の者(もの)』として知られてゐる特殊階級の人達の部落に行つて見た。行つて見て得る所のあつたものの幾分かは其の後『ジャパン・メイル』に手紙の形式で通信され、千八百九十一年六月十三日に出版されたのであるが、其の手紙から幾らか拔萃して、近頃の新聞種に提供の爲め、此處に引用するのも無駄な事ではなからうと思ふ。

 〔部落は松江の南端に位して、ちつぽけな谷に、といふより寧ろ市の後ろの半圓形を成してゐる丘の中の窪地に在る。上流社會の日本人なら殆ど誰れもこんな村に行つた驗しは無いし、普通の人達で貧乏此の上なしといつた者までが傳染病の中心地を嫌ふやうな調子で此の場所を忌み嫌つてゐる、といふのは道德的にも肉體的にも、汚らはしいといふ觀念が、其の住民達の名にさへ常に附き纏つてゐるからである。かかる次第であるから、其の部落は市の中心から步いて三十分以内で行ける所に在るけれども、松江に居を構へる者三萬六千人中其處を訪れた者は恐らく五六人もゐないであらう。

 松江及び其の附近には特殊民の四つの異つた階級がある。卽ち『はつちや』。『小屋の者』、『山の者』、及び菅田(すがた)の『穢多』である。

 『はつちや』の部落は二つある。之等は元(もと)死刑執行人であつて、其筋の役所に勤め種々な地位を得てゐた。彼等は昔の掟によつては穢多非人中最下級の者であつたけれども、役所勤めをしたり上長者に接觸したりして智識は充分に磨かれてゐたので世間の評判では他の特殊民より人間が高尙だといふ事になつてゐた。彼等は今では竹籠や竹行李の製造人である。彼等は平將門、平親王の一族郞黨の末であると言はれて居る。將門とは兵力を以て天皇の御位を奪ふ爲め由々しき謀叛を企てたといふ日本では今まで類のない事をして、有名な平貞盛卿に討ち取られた男である。

 『小屋の者』は獸を屠殺したり、其の皮を賣つたりする事を商賣にして居る人達である。彼等は、下駄履物商人の店以外、松江中何處の家にも入る事を許されない。元は浮浪人だつたが、或る有名な大名に運河の堤の上に小さい家――小屋――を建てて貰つて、松江で永住させられる事になつたのである。『小屋の者』と言ふ名は其の爲めである。本當の『穢多』に至つては、其の身分や職業が頗るよく知れ渡つてゐるから、此の點は說明するには及ぶまい。

 『山の者』は松江の南の外づれの山に住んてゐるからさう呼ばれるのである。彼等は襤褸紙屑業の一手販賣權を持つてゐて、古罎から毀れた機械類に至るまで、有りとあらゆる廢物の買手である。彼等の或る者は富んでゐる。實際、他の特殊階級に較べて、總體が榮えてゐるのだ。それにも拘らず、彼等に向けられる一般の偏見は、彼等に關する特別の法律が撤廢される以前の年と殆ど同じやうに相も變はらず强烈である。想像も附かないやうな事情が無い限り彼等の中誰れ一人奉公人として雇つて貰へる譯には行かなかつた。昔は最も綺麗な娘達がよく『女郞』に成つた。然しいつの時代にも其の娘達は、自分等の町内はもとより、隣町の『女郞屋』にも入る事が出來なかつた、だから遠い土地の遊廓に身を賣られたのである。『山の者』は今日では『車屋』に成る事さへも出來ない。どんな職業にしろ普通の勞働者として雇つては貰へない、尤も自分の素性を隱しおほせる見込みのあるどこか遠くの町へ行けば別だが。然しそんな狀態に在る事が暴露(ばれ)たら最後、彼は勞働者仲間に殺されようといふ容易ならぬ危險を冒す事になる。どんな事情の下にあつても『山の者』に取つては自分を一個の『平民』として通す事はむつかしい。何百年もの孤立と偏見が彼等の社會の風習を、それと見別けの附くやうに固めて仕舞ひ、型に嵌めて仕舞つたのである。其の言葉までが一種特別な奇妙な方言に成つて仕舞つて居る。

[やぶちゃん注:「それにも拘らず、彼等に向けられる一般の偏見は、彼等に關する特別の法律が撤廢される以前の年と殆ど同じやうに相も變はらず强烈である。」原文は“Nevertheless, public prejudice against them is still almost as strong as in the years previous to the abrogation of the special laws concerning them.”。まず、この「法律」とは、明治四年八月二十八日(一八七一年十月十二日)に明治政府が行った、穢多・非人等の卑称や身分の廃止などの旨を記した太政官布告、一般に「穢多非人ノ稱ヲ廢シ身分職業共平民同樣トス」を指す。ただ、英文がやや言葉足らずであるためか、意味がとりにくくなっている。「それにも拘わらず、彼らに向けられる公的な偏見は、彼らに関する特別法による差別呼称・差別身分の廃止以前の時期に於けるそれと、ほぼ同じように強烈なままである。」の謂いである。]

 私はかくも風變りな境遇に在り、特徵づけられて居る社會の事物を何か見たくてたまらなかつた。所が私は運よくも或る日本紳士に出會つた、其の紳士は松江の最も上流社會の人物でありながら、自分でも行つた事のない彼等の村へ私を連れて行く事を新設にも承諾して吳れたのである。其處へ行く途々[やぶちゃん注:「みちみち」。]彼は『山の者』に就いて種々珍らしい事を澤山、私に話して聞かせた。封建時代にはかういふ人達は『侍』に親切に取扱はれた。彼等は屢〻『侍』の邸の庭先きに入る事を許され、或は招かれて唄つたり踊つたりして、其の演技に對する纏頭(はな)[やぶちゃん注:「てんとう/てんどう」。貰った衣服を頭に纏ったところから、歌舞・演芸などをした者に褒美として衣服・金銭などの花(祝儀を)与えること。]を貰つた。彼等がかういふ貴族的な家庭までも樂ませる事の出來た其の唄や踊は他の人達には知られてゐなかつたもので、『大黑舞』と呼ばれでゐた。『大黑舞』の歌は、實に、『山の者』の先祖傳來の取つて置きの藝であつて、美的な情緖的な事柄に對する彼等の最高の理解力を表はしてゐたのである。前の時代には彼等は立派な芝居小屋に入る權利を得る事は出來なかつた。そこで『はつちや』のやうに、自分達だけの芝居小屋を造つたのだ。私の連(つれ)は更に言つた、彼等の唄や踊の出處を知つたら面白からう、彼等の唄は彼等特有の方言ではなく、純粹な日本語で述べるのだから。彼等は此の口で述べる文學を惡化せすに保存する事が出來たのであらうが、それも、『山の者』が讀み書きを決して敎へられなかつたといふ事實から推して考へると殊更奇妙である。彼等は自分等の集團に與へられた好機會に乘ずるといふ事さへ出來なかつた。僻(ひが)み根性は頗る根强くて、自分達の子供を公立の學校に入れて幸福にさせるなどといふ事は未だ及びも附かぬ事である。小さい特別な學校は出來ぬ事もなからう、けれども甘んじて敎師になる人達を得る事は恐らく少小の困難ではあるまい。

 

註 『メイル』に宛てた此の手紙が書かれた時以來、寬大にして偏見を抱かぬ松江市民の恩惠によつて、『山の者』の爲めに小學校が一つ建てられた。此の計畫は縣下の激しい非難を免れなかつたが、うまい具合に實際行つたらしい。

 

 其の村は窪地に立つてゐるが、それは洞光寺の墓地の直ぐ後ろに在る。部落は其の部落だけの神道の社を持つてゐる。私は其の場所の光景に甚く[やぶちゃん注:本篇のずっと後のルビから、「いたく」である。]驚かされた。自分は醜いものや汚いものを可なり多く目擊するだらうと思つてゐたからである。それとは反對に私は幾多の小綺麗な住宅を見た、家々の𢌞はりには立派な庭が附いて居るし、部屋部屋の壁には畫が懸かつてゐる。其處には澤山樹木が在つた。村は灌木や植木で靑々としてゐて、全く繪に描いたやうであつた。といふのは、ちつぽけな街路が地面の高低につれ、種々樣々な角度で山を攀ぢ上つたり下つたり――一番高い街路は一番低いのより五六十尺高い――してゐたからである。大きな湯屋や洗濯屋のあるのは、『山の者』が、山の向う側にゐる、隣りの『平民』のやうに淸潔な布を好むといふ事を證據立てて居た。

 直きに一群(ひとむれ)集つて、自分達の村に入つて來た見慣れぬ人達――彼等に取つては滅多にない出來事――をじろじろ眺めた。私の眼に映つた幾つもの顏は『平民』の顏に頗るよく似てゐたが、只だ違ふのは、醜いのになると一層醜かつたので、綺麗なのが對照上益〻綺麗に見えるやうに思はれた事だつた。私がいつか見た漂浪者共(ヂプシーズ)の顏を思ひ出させるやうな、人相の惡るい顏附も一つ二つあつたが、一方幾人かの小娘達は、それに反して、驚くばかり感じの良い目鼻立を具へてゐた。其處では『平民』同志が出會つた時にするやうな挨拶の交換といふ事が無かつた、上流社會の日本人だつたら、西印度の移住民が土着の黑ん坊にお辭儀するやうに帽子を脫(と)らうと寧ろ考へる事であらう。『山の者』共は自分達が禮をして貰はうとは思つてゐない事を態度で示すのが普通である。男は一人も私達に挨拶しなかつたが、幾人かの女は、優しく話し掛けて、會釋した。他の女共は、粗末な草鞋を編んでゐたが、物を尋ねても『えゝ』とか『いえ』とか答へるばかりで、私達を疑つてゐるらしかつた。私の連[やぶちゃん注:「つれ」。]は、女共が普通の日本の女とは違つた身なりをしてゐる事柄に私の注意を促した。例へば、極めて貧しい『平民』の間にでも服裝の一般法則はある。年齡に應じて、これは着ても良い、或は着てはよくないといふ一定の色合がある。所がかういふ人達の間では、可也年取つた女共までが眞赤な『帶』や種々な色の取り交じつた『帶』を締め、派手な柄の『着物』を着てゐるのであつた。

[やぶちゃん注:「漂浪者共(ヂプシーズ)」原文“gypsies”。“gypsy”は“gipsy”とも綴る。英語圏でも現行では「ジプシー」は差別的意味合いが強いので、今は使用すべきではないとされる。小学館「日本国語大辞典」によれば、バルカン諸国を中心に、アジア西部からヨーロッパ各地・アフリカ・南北アメリカ・オーストラリアなどに広く分布する民族。十世紀頃、故郷であるインド北西部から西に向かって移動を開始し、十五世紀にはヨーロッパ全域に達した。皮膚の色は黄褐色かオリーブ色で、目と髪は黒。馬の売買・鋳掛け・占い・音楽などで生計を営んでいたが、近年は定住するものも多い。その固有の音楽や舞踏は、ハンガリーやスペインの民族文化に影響を与えた。彼等の自称は「人間」の意の「ロマ」である。]

 町の通りで見られる女は、物を賣つたり買つたりしてゐるが、それは年嵩の者ばかりである。若いのは家に引込んてゐる。年嵩の女共はいつも妙な恰好をした大きな籠を携へて市に出て行くので、『山の者』だといふ事がそれで直ぐに解る。かういふ籠が幾つも幾つも、主もに小さい家の戶口に置いてあるのが眼に附いた。籠は背負つて行かれ、『山の者』の買ふ物は全部――古新聞、擦り切れた古着、空瓶、硝子の毀れ、古金屬(ふるがね)等――すつかり其の中に容れられる事になつてゐる。

 一人の女が到頭思ひ切つて私等を家に招き入れた、自分達の賣りたく思つてゐる何枚かの昔の繪双紙を見せやうといふのだ。私達は其處へ入つて、『平民』の家で受けるやうな丁寧な取扱ひを受けた。其の何枚かの繪は――廣重の畫も大分入つてゐたが――買ふだけの値打のあるものだといふ事が解つた。次いで私の連は『大黑舞』を聞かせて貰ふ事は願へまいかと尋ねた。大いに我が意を得た事には其の申し出は快く受け容れられたのである。それで私達が唄ひ手の一人一人に少々纏頭をやるのを承諾すると、前に見掛けなかつた連中だつたが、綺麗な顏をした若い娘達の小さな一隊が現はれて、唄ふ支度をした、片方では一人の婆さんが踊る用意を整へた。婆さんも娘達も藝を演ずる爲めに共に妙な道具を携へてゐる。三人の娘は紙と竹で造られた木槌のやうな形の道具を持つてゐる、これは大黑の槌を表はさうとしたものだが、それを左の手に摑み、右に一本の扇を打ち振つてゐる。

 

註 大黑は、通俗の信仰に於ては福の神。惠比壽は、勞働の守本尊である。かういふ神々の沿革に就いては「亞細亞協會々誌」第三卷にカルロ・プュイニの書いた「七福神」と題された一章(英譯)か見よ。又神道崇拜に於けるかかる神々の地位を記錄したものに就いては「知られぬ日本の面影」上卷を參照せよ。

[やぶちゃん注:「カルロ・プュイニ」(Carlo Puini 一八三九年~一九二四年)はイタリアの東洋学者。

『「知られぬ日本の面影」上卷」『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (九)』のことか。七福神についてちょっと書いてあるが、但し、期待するほどには詳しくはない。]

 

 他の娘達はカスタネツトのやうなもの――一本の紐で結び附けられた、二つの平べつたい堅く黑い木片――を用意してゐた。六人の娘は寂の前に一列を作つた。婆さんは二本の小さい棒を手に取つて、娘達の方を向いて座を占めた、一木の棒には縱の一部分に刻み目が附けてある。もう一本の棒で其の上を擦ると、奇妙なカラカラいふ音がするのであつた。

[やぶちゃん注:「カスタネツトのやうなもの」後に出るが、「四つ竹」のこと。本邦の伝統的打楽器の一つで、長方形の扁平な竹片を両手に二枚ずつ握り、曲節に合わせてカスタネットのように打ち鳴らす。

「二本の小さい棒」「一木の棒には縱の一部分に刻み目が附けてある。もう一本の棒で其の上を擦ると、奇妙なカラカラいふ音がする」これも伝統的打楽器の一つである「棒簓(ささら)」である多数の溝を彫り込んだ木製の棒を、細い棒で擦ることにより、「サラサラ」と音を発する。この音が呼称の由来であるが、一般には秋の稲穂が擦れあうそれの擬音とされる。]

 私の連は、唄ひ手が三人づつ二通り別々の組になつてゐるのを私に指し示した。槌と扇を手にしてゐる連中は大黑組で、彼等は唄を唄ふ事になつてゐた。四竹(カスタネツト)を持つてる[やぶちゃん注:ママ。]連中は惠比壽黨で、囃子方になつた。

 婆さんは小さい棒を擦り合はせた、すると大黑組の咽喉からは朗々たる美音が歌となつて勢よく嗚つて出た、私がこれまで日本で聞いたどんな歌とも全く異つたものであつた、一方四竹(カスタネツト)のカラカラ嗚る音は、極て口早に繰り出される言葉の句切り句切りにピツタリ拍子を合はせてゐた。

 初めの娘三人が何條(くだり)か或る數だけ歌つて仕舞ふと、他の三人の聲がそれに和して、不揃ひではあるが非常に面白い調子を產み出した、そして皆は囃子唄を一緖に唄つた。それから大黑組は別な唄を始めたが、少し經つてから、又合唱をやつた。やがて婆さんは時々可笑(をかし)な文句を二言三言口誦みながら、頗る奇妙な踊りを踊つた。群衆を大笑ひさせた。

 其のくせ、唄は滑稽なものではないのだ。『八百屋お七』と言ふ非常に哀れつぽい小唄である。八百屋お七は綺麗な娘であつたが、或る寺の所化なる、想ふ男と又の會ふ瀨を得んが爲めに附け火をしたのである、燒けたら自分の家の者は其の寺に避難しなければならなくなるだらうと考へて。所が露見して放火罪に問はれ、其の時代の嚴しい掟によつて生きながらの火灸りを言ひ渡された。宣告は實行された。然し犧牲の若さと美しさ。それと罪の動機が、世人の心に同情を呼び起こし、後になつて唄や芝居に仕組まれるやうになつたのである。

 役者達は、婆さんの外、誰れも歌つてゐる間に地面から足を持ち上げる者は居なかつた――然し皆自分の身體を唄に合はせてあちこちに搖り動かした。唄は一時間以上も續いたが、其の間聲の調子は決して惡るくはならなかつた。それで、言つてる[やぶちゃん注:ママ。]言葉は一つも解らなかつたけれども、聞いてゐて疲れるどころか、それがすつかり終はつた時には非常に惜しいやうな氣がしたのである。そして此の外國人の聽き手は、愉快さも覺えると共に、原[やぶちゃん注:「もと」。]の起こりがもう解らない程舊くからの偏見の犧牲にされた年若い唄ひ手に對する强い同情の念も起こつたのであつた〕

 

 以上『メイル』へ宛てた私の手紙からの拔萃は『大黑舞』に對する私の興味の沿革を物語つてゐるのだ。其後私は松江の友人、西田千太郞の好意によつて、『山の者』に歌はれるやうな唄を三つ筆記したものを手に入れる事が出來た、そしてそれらの譯文も後で私の爲めに作られたのであつた。私は、面白味の無いでもない民謠の例として、今思ひ切つて此の三つの唄の散文譯を――上述の譯文に基づいて――試みる事にする。出來るだけ念を入れ、且つ充分註解を加へて、全然文字通りに譯したら、勿論、有識階級の注意を惹くだけの事は尙ほ更あるだらう。とはいへ、かかる飜譯には、多くの時間及び根氣强い努力と共に、私の持ち合はせてゐない日本語の知識が必要である。原文其のものが學者式な飜譯を正當とするに足る價植のあるものなら、私は決して飜譯などを企てはしなかつたらう。然し自由に平易に取扱つても原文の興味は大して薄らぐ事のないやうな種類のものだと私は確信した。原文は、純粹の文學的立場からはどう見てもつまらないものであつて、何等雄大な想像力も示しては居らす、詩歌藝術と眞に稱せらるべきものは何一つ無いのである。私等は、かういふ韻文を讀むと、實のところ日本の本當の詩歌からは、――僅二三句選(と)つて見ても、讀む人の心に、申し分のない色彩畫を創り上ける事も出來るし、身に沁み渡るやうな驚くべき妙味を以て種々な事を想像させ、此の上なく優美な興奮を唆る事も出來るやうな、さうした作物からは――實際、餘程懸け離れたものだといふ事が解る。『大黑舞』は至つてがさつなものである。それが長らく人氣のあるのは、古代の英國民謠に較べてもいいやうな何等かの特質に據るといふよりも寧ろ其の非常に面白い唄ひ方に據るのだ、と私は思ふ。

[やぶちゃん注:西田千太郎(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。郷里島根県で母校松江中学の教師を務め、明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと深い親交を結んだ(当時は同校教頭であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなった(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。彼との交遊は『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」』の中に頻繁に登場する。]

 かういふ唄の基たる昔譚は尙ほ多くの異つた形式で存在してゐる、芝居に仕組んだものも中に在る。之等の昔譚[やぶちゃん注:「むかしばなし」と訓じておく。]が提供した藝術的な暗示は頗る數多いが、それに言ひ及ぶ必要はあるまい。然し數多い點に於て之等の昔譚の及ぼす勢力は今以て無くなつてはゐないといふ事を認め得るのである。ほんの一二箇月前に、私は工場から來たての、綺麗な更紗を何枚か見たが、それには小栗判官が鬼鹿毛[やぶちゃん注:「おにかげ」。]といふ馬を碁盤の上に立たせてゐる繪が附いてゐた。私が出雲で手に入れた三つの唄は其處で作られたのか、それとも餘所でかはつきり解らない、けれども『俊德丸』、『小栗判官』、『八百長お七』の物語は確に日水中到る所でよく知られてゐる。

 之等の散文譯と共に、私は協會に原文を提出する、それには『大男舞』の唄に關する地方の風習や、演技中の合間合間に唱へる滑稽な文句――下卑た剽輕な文句は時には飜譯を差し控へたが、――に就いての面白い說明書きを附け添へて置く。

 どの唄も皆同じ字數で書いてあるが、其の例を『八百屋お七』の最初の四行に取つて見る。

 

こゑによるねの、あきのしか

つまよりみをばこがすなり

ごにんむすめのさんのうで

いろもかはらぬえどざくら

 

 囃子は一節一節の定つた數の終りにではなく、寧ろ吟誦句の或る句切り、句切りに歌はれるらしい。唄ひ手の數もどちらの組にしろ定つた制限はない、隨分大勢でもいいし、ほんの少人數でもいい。私は出雲式の珍らしい折り返しの唄ひ方――一方の組の掛け聲『イヤ』といふ母音の響きと、他方で掛ける『ソレイ』といふ言葉の響とが交じり合ふやうにする仕方――は日本の民衆音樂に興味を持つ人が注意するだけの價値はあるだらうと思ふ。實際、私は確信してゐろ、民衆音樂や俗謠硏究者に對して頗る愉快な全く手を着けてない硏究範圍が日本では提供されてゐると。妙な囃子の附いた『豐年踊』の歌や地方每に違ふ『盆踊』の歌、遠い鄕々(くにぐに)の稻田や山の斜面からひよつくりひよつくり聞こえて來る。大抵は調子が好くて微妙な、あの風變りな歌の一段(くさり)、それらは日本音樂といへば聯想し勝ちなものとは全然違つた特質を持つてゐる、――西洋人の耳さへも、うつとりさせずには措かぬ一種の魅力を持つてゐる、といふのは鳥の囀りや蟬の鳴き聲と同樣に、魅力を感得してゐる自然性に合致してゐるからである。かかる旋律を、特別に纎細な其の音調と共に描き出すのは容易な仕事ではないだらうが、仕遂(しおほ)せたら骨折りだけの報いは充分あるだらうと私は信じない譯には行かない。之等は大昔の、恐らくは原始的の音樂精神を表はしてゐるのみならず、其の民族の或る本質的な特色をも表はしてゐる。乃ち其處には民衆音樂の比較硏究により民族情緖に關して知り得る事が屹度澤山あるに違ひない。

 然し、昔の百姓唄に頗る風變りな情趣を與へてゐる之等の特質が、『大黑舞』の出雲式な唄ひ方の中には殆ど目に附かないといふ事實は、恐らく後者が比較的近代的のものだといふ事を示してゐるのであらう。

 

 

   『俊德丸』の唄

 

   コリヤコリヤ!――面白さうに若い大黑と惠比壽が踊りながら出て來る。

 

 お話をお聞かせ申さうか、それともお祝ひの口上を述べやうか。お話とな。然らば何をお話したら一番よろしかろ。此の結構なお宅で一つ物語をしろとの仰せに與つたる以上、吾々共は俊德の物語を語ると致さう。

[やぶちゃん注:「俊德丸」は俊徳丸伝説(高安長者伝説)で語られる伝承上の人物。河内国高安の長者の息子で、継母の呪いによって失明し落魄するが、恋仲にあった娘乙姫の助けで四天王寺の観音に祈願することによって病が癒える、というのが伝説の筋で、この題材をもとに謡曲「弱法師(よろぼし)」・説教節「しんとく丸」。また浄瑠璃・歌舞伎「攝州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」などで知られる。説教節「愛護若(あいごのわか)」との共通点も多い。ウィキの「俊徳丸」を参照されたい。]

 昔、河内の國に、信吉(のぶよし)と言ふ大金持ちが確に住んで居た。信吉の總領息子は俊德丸と言つた。

 其の總領の俊德丸が僅三歲の時に母親が死んだ。五歲の時に繼母を授かつた。

 七歲の時に、繼母は乙若丸と言ふ男の子を產んだ。そして二人の兄弟は大きく成つた。

 俊德が十六歲になつた時、彼は京都に出掛けて、天神樣の御社にお供物を供へに行つた。

 其處で彼は社に參詣する人達千人と、歸つて行く千人と、殘つて居る千人を見た。三千人の人が集つてゐたのだ。

 

註 かういふ數は日本語では單に大群集を示したものに過ぎないので、正確な意味は持つてゐない。

 

 其の群集の間を萩山と言ふ金持ちの末娘が御社指して駕籠に乘つて行つた。俊德も駕籠で行つた、そして二つの駕籠は道を並んで通つたのである。

 其の娘を見詰めて、俊德は想ひを寄せた。そして二人は眼を見交はし戀文を取り交はした。

 此の事を俊德の繼母に阿諛(おべつか)者の召使がすつかり告げ口した。

 そこで繼母はこんな事を考へ始めた、若しあの若者が此の儘父親の家にゐたならば、東と西の物置倉も、南と北の穀倉も、中に建つてゐる家も、決して乙若丸の物にはなるまいと。

 それ故彼女は或る惡るい事を企んで、夫にかう言つて話し掛けた、『ねえ、旦那樣、家事上の務めを私に七日間は爲(し)なくてもよいといふお許しが願へませんでせうか』

 夫は答へた、『あゝ、いいとも。だが一體七日間に何がしたいといふのだ』彼女は言つた。『旦那樣と婚禮致します前に、私は淸水の觀音樣へ願を懸けました、それで今お寺に參つて願ほどきがしたいので御座います』

 主人は言つた、『よろしい。だがお前の連れて行きたいのは下男か下女かどつちだ』

 すると彼女はかう答へた、『下男も下女も要りません。獨りぎりで參り度う御座います』

 そして旅の事に就いて種々注意されても氣にも留めず、彼女は家を立つて、大急ぎで京都に向つた。

 

 京都の三條邊に着いた時、彼女は銀冶屋町通に行く道を訊いた。そして其處を探し當てたが、見ると鍛冶屋が三軒並んでゐた。

 彼女は眞中の店に入つて、鍛冶屋に挨拶し、かう言つて尋ねた、『鍛冶屋さん。ちよつとした細かい鐡の仕事をして貰へませんか』彼は答へた、『えゝ、奧さん、致しませう』

 そこで彼女は言つた、『頭の先きの無い釘を四十九本どうか拵へて下さい』すると彼は答へた、『家では代々鍛冶屋をやつて私は七代目ですが、頭の無い釘なんて今迄一度も聞いた事はありません、さういふ御注文は請合ひ兼ねます。どこか他でお求めになつたらいいでせう』

 『いゝえ』と女は言つた、『お前さんの店へ最初に來たのだから、他へ行かうとは思ひません。どうかお賴みだから、ねえ鍛冶屋さん、拵へて下さい』彼は答へた、『ぶちまけた話が、そんな釘を拵へるんなら、千兩戴かなくてはなりませんぜ』

 彼女は答へた、『若しすつかり拵へて吳れるのなら、お前さんの欲しいのが千兩だらうと二千兩だらうとそんな事はちつとも構やしません。拵へて下さい。ほんとにお願ひだから、ねえ鍛冶屋さん』さう言はれると鍛冶屋も釘を造る事を、きつぱり斷わる譯には行かなかつた。

 彼は鞴[やぶちゃん注:「ふいご」。]の神樣に禮を正しくする爲め、諸道具を全部きちんと取り並べた。それから、第一の槌を取り上けて、『金剛經』を誦(とな)へ、第二の槌を取り上けて『觀音經』を誦へ、第三の槌を取り上げて『阿彌陀經』を誦へた、――さうした釘は或る惡るい目的に使はれるのかも知れないと氣遺つたからである。

 かくして思ひ煩ひながら彼は釘を造り上けた。釘が出來上がると彼女は非常に喜んだ。そして左手で釘を受け取り、右手で錢を鍛冶屋に拂つて、別かれを告げて出て行つた。

 彼女が行つて仕舞つてから、鍛冶屋は考へた、『此の通り私は金の小判註一で千兩だけ持つてゐる。だが吾々の一生は旅人の休み場所と言つたやうなものに過ぎない、だから私は是非他人に何か憐れみを掛けてやり親切を盡くしてやらなければならない。寒がつてゐる者には着る物を與へてやらう、空腹(ひもじ)がつてゐる者には食べる物を惠んでやらう』

 そして地方地方の境や村々の果てに書札(かきふだ)註二を立てて自分の趣旨を告けたので、彼は大勢の人達に慈悲を施す事が出來たのである。

 

註一 小判は一つの金貨である。珍らしい形や模樣の小判が澤山に在つたものだ。最もありふれた形は楕圓形の平盤で、漢字の印されたものであつた。小判の或るものはたつぷり五吋[やぶちゃん注:「インチ」。一インチは二・五四センチメートルだから、十二・七センチメートル。]の長さがあり、厚さは四吋[やぶちゃん注:十・一六センチメートル。]あつた。

註二 世間一般に告げ知らせるものは通例木の札を柱に附けてそれに書き誌されるのである。田舍では丁度此の唄に示されたやうな告示板が今でも立てられる。

 

 彼女は途中で畫工(ゑかき)の家に足を止めて、一つ繪を畫いて吳れと賴んだ。

 畫工は彼女にかう言つて訊いた、『古い梅の木の繪を畫いて上けませうか、それとも年經た松を描きませうか』

 彼女は言つた、『いゝえ、古い梅の木の繪も、年經た松の繪も要りません。十六歲の男の子の繪姿が欲しいのです、脊は五尺有つて、顏に二つ黑子[やぶちゃん注:「ほくろ」。]の有る子のが』

 『そんなもの畫くのはお易い事ですよ』と畫工は言つた。そしてほんの僅な時間で其の繪姿を畫き上げた。それは俊德丸によく似てゐたので、彼女は喜んで其處を立ち去つた。

 俊德丸の繪姿を携へて彼女は淸水へと急いだ、そして寺の後ろに在る柱の一つに其の繪を貼り附けた。

 それから四十九本の釘の中、四十七本を以て繪姿を柱に打ち附け、殘る二本で兩眼を釘附けにした。

 そこで俊德丸を呪ひ終(おほ)せたとはつきり思ひ込んで惡るい女は家へ歸つた。そして愼(つゝ)ましげに『只だ今歸りました』と言つて、自分がさも貞實であり、正直であるやうに取り繕つた。

 

 さて繼母が俊德の身の上にかうして禍を祈願してから三四箇月經つて彼は重い病氣に罹つた。そこで其の繼母は祕かに喜んだ。

 彼女は夫の信吉に巧みに話し掛けた、『ねえ、旦那樣、俊德の此の病氣は大層惡るい病氣のやうに思はれます、こんな病氣に罹つて居る者を金持ちの家に置く譯には參り兼ねます』

 之を聞いて信吉は非常に驚き、且つ甚く悲しんだ、然しよく考へて見て之はどうにも仕樣のない事だと考へたので、自分の所へ俊德を呼んで、かう言つた――

 『倅や、お前の罹つてゐる病氣はどうも癩病らしいのだ。かういふ病氣に罹つてゐる者は此の家で此の儘ずつと暮らして行くといふ譯にはいかないのだ。

[やぶちゃん注:「癩病」「らいびやう」。ハンセン病。抗酸菌(マイコバクテリウム属 Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「らい予防法」が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く纏った「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か、菌名の方は未だに「らい菌」のままである。おかしなことだ。「ハンセン菌」でよい(但し、私がいろいろな場面で主張してきたように、単に差別の「言葉狩り」をしても意識の変革なしに差別はなくなりはしないのである。ここで私が指摘する差別の問題も実は全く同じものであると私は考えている)。]

 『だからお前の爲めに一番良いのは、佛樣の御利益(ごりやく)で身體が瘉るかも知れないといふ望みを以て、國を殘らず巡禮して步く事だ。

 『物置倉や穀倉は乙若丸にやりはしない、只だお前に、俊德にだけやる、だから屹度私等の所へ歸つて來なければいけないよ』

 哀れな俊德は、繼母がどんなに腹黑い女であるかも知らず、傷ましい姿で彼女に懇願した、『お母さん、私は家を出て巡禮になつてさまよはなければならないと言ひ附けられました。

 『けれども今私は眼が見えないのです、難儀せずに旅する事は出來ません。私は御飯を三度戴かなくても一日一度で滿足します、そして物置か納屋の隅にでも住まはして下されば嬉しいのです。けれども何處か此の家の近くに置いて戴き度う御座います。

 『どうかほんの暫くの間でも私を置いて下さいませんか。ねえお母さん、お願ひです、置かして下さいませ』

 然し彼女は答へた。『お前の今思つてゐるのは惡るい病氣のほんの起こり始めだから、私はお前を置いてやるといふ譯には行きません。さつさと家を出て行きなさい』

 

 それから俊德は、奉公人達に引立てられて、無理やりに家から庭に追ひ出され、激しく悲み嘆いて居た。

 すると獄道な繼母は、後から隨いて來て呶鳴つた、『お父さんのお言ひ附けだ、直ぐに出て行かなきやいけないよ、俊德』

 俊德は答へた、『御覽なさい、私は旅着もありません。巡禮の上着や脚絆が要ります、施しを受ける巡禮の頭陀袋も』

 かういふ言葉を聞いて惡るい繼母は喜んだ、そして彼が吳れといふ物全部を直に與へた。

 俊德は其の品々を受け取つて、彼女にお禮を述べ、痛ましい有樣にありながらも、出立の用意をした。

 彼は上着を着て木で出來たお護符(まもり)を胸に下け、頭陀袋を頸に引掛けた。

 彼は草鞋を穿いて堅く締め、竹の杖を手に取り、菅笠を頭に乘せた。

 そして『御機嫌よう、お父さん。御機嫌よう、お母さん』と言ひながら、哀れな俊德は旅立ちした。

 

註 巡禮及び巡禮着の詳細に就いては、「人類學協會雜誌」(一八九三年)に記載されたるチヤムバレーン敎授著「日本宗敎小行事註解」を見よ。其の論說には立派に圖解が施されてある。

[やぶちゃん注:「チヤムバレーン」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年:ハーンとは同い年)はポーツマス近郊のサウスシー生まれ。参照したウィキの「バジル・ホール・チェンバレン」によれば、『彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり』、日本についての事典や文法書、「古事記」などの英訳、アイヌや琉球の研究でも知られる。『「王堂」と号して、署名には「チャンブレン」と書いた』。彼は若き日、『オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した』という(以下、アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。明治六(一八七三)年『五月二十九日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌一八七四年から一八八二年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。ついで一八八六年からは東京帝国大学の外国人教師となった。ここで彼は"A Handbook of Colloquial Japanese"(『口語日本語ハンドブック』、一八八八年)、"Things Japanese"(『日本事物誌』、一八九〇年初版)、"A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing"(『文字のしるべ』、一八九九年初版、一九〇五年第二版)などの多くの著作を発表した。"Things Japanese"の中で新渡戸稲造の著作』“BUSHIDO”に『触れているが』、『愛国主義的教授(nationalistic professor)と批判的である。さらに彼はW.B.メーソンと共同で旅行ガイドブックの『マレー』の日本案内版である"A Handbook for Travellers in Japan"(一八九一年)も執筆し、これは多くの版を重ねた』(「マレー」(John Murray)はイギリスの出版社。ダーウィンの「種の起源」を出版したことで私でさえも知っている当時の超弩級の出版元である)。『一九〇四年ごろから箱根の藤屋(富士屋)に逗留し近くに文庫を建てて研究を続けていたが、眼病にかかったため、一九一一年離日』し、この時、『東京帝大名誉教師となった。以降はジュネーヴに居住した。箱根宮ノ下では、堂ヶ島渓谷遊歩道を』「チェンバレンの散歩道」『と別称している』と記す。因みにまた、後にドイツに帰化した反ユダヤ主義の政治評論家で脚本家であったヒューストン・チェンバレン(Houston Stewart Chamberlain 一八五五年~一九二七年)は彼の末弟であり、彼は作曲家リヒャルト・ワーグナーの娘を妻としたことから、彼もワーグナー家と晩年、交流があったともある。なお、小泉八雲は親しかったが、晩年にはチェンバレンとは距離を置いたようである。「日本宗敎小行事註解」は原題“Notes on some Minor Japanese Religious Practices”(「幾つかの細かな日本の宗教的慣習に就いての注記」)。]

 

 信吉は悲嘆に暮れて途中まで子息を送つて來て、かう言つた、『どうにも仕方がないのだよ、俊德。けれどもな、此のお護符に籠もつて居る有難い佛樣の御利益で、もしもお前の病氣が癒るやうな事があつたら、其の時は直ぐ私等の所へ歸つておいで、なあ』

 父親の此の優しい別かれの言葉を聞いて、俊德は心が非常に和らいだやうな氣がした、そして近所の人達に知られないやうに、大きな菅笠で顏を蔽つて、獨り步いて行つた。

 然し間もなく、自分の足が大層弱い事が解つて遠くへは行けるかどうか氣遣はれて來たし、又始終自分の家の方へ後髮を引かれる思ひがするので其の爲め度々立ち止まつてそちらの方へ振り向かずにはゐられなかつたやうな始末で、彼は又悲くなつたのであつた。

 

 何處にしろ人の住家に入つて行くなどといふ事は彼にとつてはむつかしい事なので。度々松の木の下や森の中で眠らなければならなかつた、けれども時としては運よくも、佛像の置いてある路傍の御堂などに宿を見つける事もあつた。

 或る時夜明け前の、朝も暗い中、一番鴉が飛び𢌞はつて啼き出す頃だつたが、亡くなつた母親が俊德の夢枕に立つた。

 そして彼女は彼に言つた、『倅や、お前の苦勞するのは獄道な繼おつかさん[やぶちゃん注:「ままおつかさん」と読んでおく。]が惡るいお呪(まじな)ひをしたからだよ。これから淸水樣にお參りして、身體の癒るやうに觀音樣にお願ひ申しなさい』

 俊德は不思議に思ひながら起き上がつた、そして京都へ向つて淸水へ向つて、路を辿つて行つた。

 或る日、旅の途中、彼は萩山と言ふ金持ちの家の門に立つて大聲で、『御報謝! 御報謝!』[やぶちゃん注:前の「!」の後には字空けはないが、特異的に挿入した。後も同じ。]と叫んだ。

 すると其の家の下女が、聲を聞いて出て來て、食物をやつたが、大聲で笑つて言つた、『こんなをかしな巡禮に何か施しをしてやらうと思つたら誰れだつて笑はずにはゐられやしない』

 俊德は尋ねた、『あなたは何故笑ふんです。私は河内の信吉と言ふ、金もあるし、よく人に知られた人の子息なのです。けれども惡るい継おつかさんに呪はれて、御覽の通りの姿に成つたのです』

 其の時、二人の聲を聞き附けて、乙姬と言ふ其の家の娘が出て來て、下女に尋ねた。『どうしてお前笑つたのだい』

 下女は答へた、『あの。お孃樣。河内から來た盲者(めくら)で、二十歲ばかりに見える男なんですが、御門の柱の所で鉦を鳴らして、大きな聲で。「御報謝! 御報謝!」と言ふんで御座いますよ。

 『だから私は綺麗なお米を少々お盆に載せてやらうとしたのです、所が私がお盆を右の手の方に差し出すと。向うぢや左を出すのです、それから私がお盆を左の手の方に差し出すと向うぢや右を出すんですもの。そんな譯で私は我慢が出來なくて笑つたんで御座いますよ』

 下女が年若い姬にかう言つて說明して居るのを聞いて、其の盲者は腹を立てて言つた、『あなたはよその人を莫迦にするなんて權利は有りませんよ。私は河内に居る、金が有つてよく知られてゐる人の子息(むすこ)なのです、俊德丸と言ふのです』

 其の時其の家の娘、乙姬は、不圖彼を思ひ出して、自分も大變に怒つて召使に言つた、『無躾に笑ふものぢやない。他(ひと)を笑ふ者は今に他から笑はれるよ』

 

 けれども乙姬は全く度膽を拔かれて暫くは堪へ切れずにぶるぶる[やぶちゃん注:底本は「ぶるるぶ」。誤植と断じて訂した。]震るへた、そして、自分の部屋に引き下がると、不意に氣を失つて仕舞つた。

 さあ家中大騷ぎになり、大急ぎで醫者が迎へられた。然し娘は、どんな藥もちつとも受け付ける事が出來ず、只だ段々弱つて行くばかりであつた。

 そこで名の有る醫者が大勢遣はされた。彼等は一緖に立ち合つて乙姬を診察した、終ひに皆は姬の病氣は單に何か突然の悲みが原因になつたのだといふ事に診斷を下した。

 そこで母親は病んだ娘に言つた、『若しお前に何か人知れず悲しんでゐる事が有るのなら、隱さずに、私に話してお吳れ。それで何か願ひが有つたら、どんな事であらうと、それがお前に叶ふやうに骨折つて上げるから』

 乙姬は答へた、『ほんたうにお恥づかしう御座いますが、私の願つて居る事をお話し致しませう。

 『いつぞや此處へ參りました眼の見えぬ男は河内の方で俊德と言ふ金の有つて、よく人に知られた人の子息さんです。

 『京都の北野天神のお祭の時、私は御社に參る道で、其の若いお方にお會ひ致しました、其の折私共は戀文を取り交はして、お互にお約束をしたので御座います。

 『ですから私は、あの方が何處に居られやうと、探し當てるまでお尋ねするつもりで旅をしたいのですが、それが許して戴き度くてたまらないので御座います』

 母親は優しく答へた、『それは成る程いいだらう。若し駕籠が欲しかつたら駕籠でもいいし、馬がお好みなら馬で行けるやうにするからね。

 『誰れでもお前の好きな召使を選んで供をさせても構はない、それから欲しいだけの小判を持たして上げるよ』

 乙姬は答へた、『馬も駕籠も要りません、それから召使も。私は只だ巡禮者――脚絆や上着――と施しを貰ふ頭陀袋が有れば結構で御座います』

 乙姬がこんな事を言ふのは、俊德のした通りに全く獨りぎりで出掛けるのが自分の義務だと思つたからである。

 そこで彼女は兩親に別かれを告げ、眼に一杯淚を溜めて、家を後にした、『さようなら』といふ言葉も口の内で。

 

 あの山を越え此の山を越え、又山越えて彼女は進んで行つた、聞こゆるものとては野鹿の啼き聲と溪の流れの水音ばかり。

 或る時は路に迷つた。或る時は嶮しい崖を攀ぢ、進み難い小徑を辿つて行つた、いつも彼女は悲みに沈みつつ旅々續けたのである。

 やがて、彼女は自分の前方に――遙か、遙かのかなたに――『傘松』と言ふ一木の松の木と、『會うた』と言はれる二つの岩を眼に留めた。此の二つの岩を見た時に、彼女は俊德の事を考へて戀しくも思ひ、又望を繫いだのでもあつた。

 急いで先きへ行くと、熊野に行く五六人の人達に出會つたので、彼女は尋ねた、『あなた方は此方へおいでになる路で十六歲位の眼の見えぬ若者にお會ひになりはしませんでしたか』

 彼等は答へた、『いゝえ、未だ會ひません、けれども何處かで會つたら、何なりとあなたのお望みの事をお言傳(ことづて)しませう』

 此の答へを聞いて姬は大いに落膽した、そして戀人を探さうとしていくら骨を折つた所で何の甲斐もないだらうと考へ始めて、すつかり鬱ぎ[やぶちゃん注:「ふさぎ」。]込んで仕舞つた。

 終ひには餘り鬱ぎ込んだ結果、もうこれ以上彼を此の世で探さうとはすまい、だが來世ではあの人に會へようから、ぐづぐづせすに狹山池に身を投げようと心を決めた。

[やぶちゃん注:「狹山池」原文“the pool of Sawara”。平井呈一氏の恒文社版「三つの俗謡」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では『狭原(さわら)の池』と訳しておられる。位置不詳。]

 彼女は其慮へ出來るだけ急いで行つた。池に着くと、巡禮の杖をしつかりと地面に立てて、上着を松の木に引懸け、袋を投け捨て、髮を解いて島田に結つた。

 

註 死んだ女の結ふ簡單な髮型である。「知られぬ日本の面影」の下卷「女の髮に就いて』の章參照。

[やぶちゃん注:『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十八章 女の髮について (七)』である。「草たばね」という簡易な島田髷の髪型である。]

 

 それから、二つの袂に石を一杯詰めて、あはや水中に飛び込まうとした、其の時不意に彼女の前に立派なお爺さんが現はれた、年は見た所八十より少くはなく、白づくめの着物物着て、手には笏を持つてゐた。

 其の老人は彼女に言つた、『そんなに死ぬのを急ぐな、乙姬。お前の尋ねる俊德は淸水さんに居る。其處へ行つて會ひなさい』

 此の言葉は、實に、彼女がこれ以上望めない何より嬉しい報せだつたので、彼女は忽ち嬉しくてたまらなくなつて來た。自分は守護(まもり)神樣の御利益でかやうに救はれたのだ、そしてあゝいふお言葉を掛けて下さつたのは神樣御自らであつたのだと彼女は悟つた。

 そこで袂に入れた石を取り捨て、脫いだ上着を又着込み、髮を結ひ直して、大急ぎで淸水寺指して路を進んで行つた。

 到頭寺に着いた。三つの低い段々を昇りて、廊下の下にちらと眼をやると、戀人の俊德が菰を被つて、其處に橫になつて眠つてゐるのを認めた。で彼女は、『もし、もし』と彼を呼んだ。

 俊德は其の爲めパツと眼を覺まして、側に置いてある杖を摑んで呶鳴つた、『私が盲者だもんだから、近所の餓鬼共奴[やぶちゃん注:「がきどもめ」。]每日每日やつて來て嬲りをる[やぶちゃん注:「なぶりをる」。]』

 乙姬は此の言葉を聞いて、大層情なく思ひ、近寄つて哀れな戀人に手を掛けて言つた。

 『私はそんな惡るい、いたづらな子供ぢやありません、金持ちの萩山の娘です。京都の北野天神のお祭の時お約束しましたから、あなたにお目に懸かりに參つたのです』

 自分の戀人の聲を聞いたので俊德は喫驚して、すばやく起き上がつて叫んだ、『おゝ、あなたは本當に乙姬ですか。久し振りでした――だがあんまり不思議だな。全くうそぢやないんですか』

 それからは、互に撫(さす)り合ひながら、物も言はずに只だ潜々と[やぶちゃん注:「さめざめと」。]泣くばかりであつた。

 俊德は身も世もあらず悲しんでゐたが、然し程なく氣を取り直して、乙姬に向つて聲を强めて言つた、

 『繼おつかさんのお蔭で私の身體には呪ひが掛けられてゐます、それで見られる通り、私姿は變り果てて仕舞つたのです。

 『さういふ次第ですから、私は夫としてあなたと一緖になる事は迚も出來ません。此の儘でゐるとしても、腐(くづ)れて死ぬまでかうやつてゐなければならないのです。

 『だからあなたは直ぐ家に婦つて、そして幸福に華やかに暮らさなければいけません』

 然し乙姬は深い悲みに沈みながら答へた。『どうしてそんな事が出來ませう。あなたは全く眞面目でいらつしやるのですか。本當に正氣でいらつしやるのですか。

 『どうして、どうしてそんな事が。私はあなたの爲めなら命でも捨てようと思ふ程、あなたが戀しいばつかりにこんなに姿を扮(やつ)してゐるのです。

 『これから先きどんな事が起こらうと、今となつでは決してあなたを離しません』

 俊德は此の言葉を聞いて喜んだ、喜びもしたが又女の不敏さに胸が一盃になつて、一言も物が言へずに、泣いたのであつた。

 それから姬は彼に言つた、『あなたの惡るい繼おつかさんはあなたがお金持ちなばつかりにあなたを呪つたのですから、私だつて其の人を呪つてあなたの仇を討つてやる位恐れやしません、私も金持ちの子ですもの』

 さう言つてから、彼女は一心籠めて、寺の中の佛樣に申し立てた――

 『七日七晚の開私は此のお寺にお籠もりして、願を掛けて見ます。若しあなた樣に誠が有り、お慈悲が有りましたならば、どうか私共をお助け下さいまし。

 『藁葺きの屋根なんかはこんな大きな御普請にとつて適はしい屋根ではありません。私は小鳥の羽毛で屋根を附け換へませう、それから屋根の棟には鷹の腿[やぶちゃん注:「もも」。]の羽毛を被せませう。

 『此の鳥居にしても此等(ここら)の石燈籠にしても不細工なもので御座います、私は金の鳥居を建てませう、それから金の燈籠を千個、銀の燈籠を千個拵へませう、そしてそれに每晚明かりを附けませう。

 『こんな廣いお庭に期が無くてはいけません。私は檜を千本、杉を千本、唐松を千本植ゑ附けませう。

 『けれども若しこんなにお願ひしても俊德を癒して下さらなかつたら、さうしたら二人は向うの蓮池に一緖に身を投げます。

 『そして私共は死んだ後で、二匹の大蛇に化けて、此のお寺にお詣りに來る人々皆苦しめてやります、それから巡禮の通るのを路で邪魔してやります』

 所が、不思議な事には、こんな願を立ててから七日日の晚、彼女の夢枕に觀音樣かお現はれなさつて、『汝が祈願の筋は叶へて遣はす』と仰しやつたのである。

 

 忽ち乙姬は眼が覺めた、それで自分の見た夢を俊德に話して、二人で不思議がつた。二入は起きて、一緖に川へ降りて身體を淨め、觀音樣を拜んだ。

 すると、不思議な事には、盲ひた俊德の兩眼はパツと開いて、元のやうにはつきり見えるやうになり、病氣も失くなつて仕舞つた。餘りの嬉しさに二人共潜々と泣いたのであろ。彼等は共に宿屋を探して、其處で巡禮着を脫いで、さつぱりした着物を着た、それから駕籠と駕屁舁きを雇つてそれに乘つて家に歸る事にした。

 

 父親の家に着くと、俊德は大聲で叫んだ、『お父さんお母さん、私歸つて參りましたよ。有難いお札に書いてあるお呪(まじな)ひの功德で、御覽になれば解る通り、私の病氣は癒りました。あなた方は御無事ですか、お父さんお母さん』

 すると俊德の父親は、之を聞いて、馳け出て來て叫んだ、『おゝ、私はどれ程お前の身を案じて居た事か。

 『一寸の暇にもお前の事を思はない時はなかつたのだ。所が今は――お前に會つたり、一緖に連れて來た花嫁御に會つたりするとは、まあ何といふ嬉しい事だ』そして皆共に喜び合つた。

 所が、これに引き換へ、不思議極る事には獄道な繼母がそれと同時に眼が見えなくなり、手足の指が腐れ始めたのであつた、爲めに彼女は大變苦しんだ。

 其の時、花嫁と花婿は其の惡、[やぶちゃん注:読点にしては位置がやや下で薄い。「惡き」かも知れぬが、判読不能。]儘母に向つて言つた、『それ御覽なさい。業病があなたに取り忌いたのですよ。

 『癩(なり)ん坊は金持ちの家に置いとく譯に行きません。どうぞ直ぐに出て行つて下さい。

[やぶちゃん注:ルビの一字目は判読不能。私の知っているハンセン病の古い差別卑称には似たものがない。識者の御教授を乞う。「う」か「を」に似ては見える。【2020年1月7日:削除・追記】橋内武氏の論文「強制隔離政策下の療養所生活 ――長島2園を中心に」(『桃山学院大学総合研究所紀要』第四十四巻第三号・PDFでダウン・ロード可能)によって、ハンセン病患者の古い蔑称(差別呼称)が判った。その中に、原義不詳乍ら、『「なりん坊」(ぶうらぶら)』とあったので、それで補った。]

 『巡禮の上着と脚絆、菅笠と杖は差し上けます、さういふ品は殘らず、此處に用意がして御座いますから』

 其の時継母は、前に大變非道い事を自分でもしたのだから、死なずに助かる事さへ出來ないと悟つた。俊德と妻は大變に喜んだ、どれ程二人は嬉しがつた事だらう。

 一日にたつた一度少しばかりの食事をさせて吳れと繼母は彼等に賴んだ、――丁度俊德の賴んだやうに。然し乙姬は憂き目に會つてる女に言つた、『此處に置いて上ける事は出來ません、――納屋の隅でもいけません。さつさと出て行つて下さい』

 信吉も自分の惡るい女房に言つた、『どういふつもりで處に尻を据ゑて居るんだ。行くのにどれだけ暇が掛かるんだ』

 そして彼は女を追ひ出した、彼女はどうする事も出來ず、泣く泣く出て行つた、近所隣りの者に見られないやうに顏を隱さう隱さうとしながら。

 

 乙若は眼の見えぬ母親の手引きをして、共に京都に行き淸水寺に行つた。

 二人は其處に着くと寺の段々を三つ昇り、跪いて、觀音樣にお祈りして言つた、『もう一つ呪ひが掛けられますやう私共に力をお授け下さい』

 所が觀皆樣は不意に二人の前に姿をお現はしになつて、かう言はれた、『汝の願ひが善い事ならば、叶へても取らさうが、邪まな事とあつては最早一切構ひは致さぬ。

 『汝若し死ぬならば、其處に死に居らう[やぶちゃん注:「をらう」。]。身罷つたる[やぶちゃん注:「みままつたる」。]後は地獄に送り、黑金(くろがね)の大釜の底に落として、煠でて[やぶちゃん注:「ゆでて」。]くれうぞ』

 俊德の物語は之でお終ひ。扇をポンと一つ陽氣に叩いて止(や)める事に致さう。

目出度し、――目出度し、――目出度し。

[やぶちゃん注:最後の一行が行頭なのはママ。但し、この最後の二行はそれまでの本部によりポイント落ちで、事実はエピローグの口上である。]

小泉八雲 きみ子 (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“KIMIKO”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の第十五話、本篇部の最終話である(但し、この後に「附錄」として「俗唄三つ」が続く)。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 冒頭に入る短歌は全体が下方インデント六字上げポイント落ちであるが、上方へ引き上げた(名の字間はカットした)。注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、注は前後を一行空けた。傍点「ヽ」は太字に、傍点「○」は太字下線に代えた。

 訳者戶澤正保(底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している)氏については私の「小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保訳)」の冒頭注を参照されたい。]

 

     第十五章  き み 子

 

 忘らるる身ならんと思ふ心こそ

    忘れぬよりもおもひなりけれ  君子

 

       

 これは藝者町の或る家の入口の提燈に書いてある名である。

 夜見ると、此町は世界中の尤も珍妙な町の一である。船の甲板上の通路の樣に狹く、そして何れもきちんと閉めた店先きの暗くぴかぴかする木造普請――何れも霜のかかつた玻璃(ガラス)の樣に見ゆる小さい紙障子が附いて居る――は一等船室を想起させる。實際は何の建物も二階三階であるのだが、それが直ぐには分からない――特に月がないと――といふのは、一番下の室だけに燈火が點(つ)いて居て、そこは庇(ひさし)迄明かるいが、それから上は眞暗であるからである。燈火といふのは、狹い障子の後の燈火と、外に釣つてある提灯である――此提灯は各戶に一個づつある。町を見渡すのは此等の提灯の二行に並んで居る間からで――遠くの方は二行が合して、一本の黃色な光の棒になつて見える。提灯の或る者は卵形或る者は筒形で、中には四角又は六角のもある。そして何れも日本文字が其上に美しく書いてある。町は非常に靜かである――或る大きな展覽會の家具陳列室の閉鎖後といふ靜かさである。これは住人の大部分が不在であるからである――何れも宴會や他の酒席に侍して。彼等の生活は夜の生活である。

 

 南に向つて左側にある最初の提灯に書いである文字は『きんのやうちおかた』である。それは『おかたが住んで居る金の家』といふことを意味する。右側の提灯は西村といふ家で、みよつるといふ娘(こ)が居ることを告げて居る――みよつるといふ名は、立派に生活して居る鶴といふ意味である。左側の二軒目には梶田といふ家がある――そして其家には、花の莟といふ意味の小花と、人形(ひな)の樣に美しい顏の雛子が居る。其向ひは長江家で、其處には君香(きみか)と君子(きみこ)が居る……そして此二行の明かるい名の行列は、半哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約千六百九メートルであるから、八百五メートルほど。]も長く續いて居る。

 此最後の家の提灯の文字は、君香と君子の姉妹關係と――それからそれ以上の事實を示して居る、と云ふのは君子は二代目としてあるからである。二代目といふ語は飜譯すべからざる敬稱で、君子は君子第二號であるといふことを意味する。君香は君子の師匠で且つ主人である。彼女は二人の藝妓を養成したが、二人共君子といふ名であつた、或は寧ろ彼女が同じ名を二人に附けた。此同じ名を二度用ふるといふ事は、第一の君子――一代目――が有名であつたといふ事の誼據である。不運な、或は不成功であつた藝者の藝名は、決して其後繼者に附けられない。

 若し然るべき理由があつて其家へ入るとすると――其障子を開けて、訪問者のあることを告げる鈴の音を鳴らしながら――君香を見ることが出來よう――若し此小一座の藝人が其夜の招聘に出て居なかつたなら。そして彼女は甚だ怜悧で語るに足る女であることを見出すであらう。彼女は氣が向けば最も興味ある話――肉も血もある話――人間性の眞實を語る話――を語つて聞かすであらう。といふのは藝者町には傳說が――悲劇的、喜劇的、或は準樂劇的な――澤山あり、そして何の家にも話が遺つて居て、君香はそれを皆知つて居るからである。或る話は非常に恐ろしく、或る話は人を笑はせ、又或る話は人を考へさせる。初代の君子の話は此最後の部に屬する。それは最も珍らしいものの一つではないが、西洋人にも了解するに尤も困難ならぬものの一つである。

 

       

 一代目君子はもうここに居ない。彼女はただ記憶に道つて居るばか七―のる。君香が君子を職業上の妹とした時は、君香も極若かつた。

 『ほんとにすばらしい娘(こ)です』とは君香が君子を評した詞である。藝者商賣で評判を取るには綺麗であるか、甚だ怜悧でなければならない。有名な藝者は普通兩者を兼ねて居る――極若い時に才色兼備の見込みを附けて、仕込役に依つて選ばる〻のであるから。平凡級の唄女(うたひめ)ですら、年頃には相應の魅力を持つに相違ない――たとひ鬼も十八といふ日本の俚諺を作らせた『惡魔の美』なりとも。併し君子は綺麗以上であつた。彼女は日本人の美の理想に叶つて居た。そして其れは十萬人中の一人と雖も、容易に達せられぬ標準であつた。其上彼女は怜悧なばかりではない、萬[やぶちゃん注:「よろづ」。]藝に通じて居た。優雅な歌も詠むし、花も巧みに生ける、茶の湯も申し分なく出來る、刺繡もする、押繪もする。一言で云ふと。彼女は淑女であつた。彼女が初めて突き出された時は、京都の花柳界は色めき立つた。彼女は思ふままの勝利を得べく、玉の興が彼女の前にあることは明らかであつた。

 

註 此俚諺を精しく云ふと、鬼も十八、薊の花である。又龍に就ても同樣の俚言がある――龍(じや)も二十(はたち)といふ。

[やぶちゃん注:上記の俚諺は「鬼も十八番茶も出花」が知られ、それは「上方(京都)いろはかるた」の一つだからで、ほかに小泉八雲が註で示したものの他に、単独の「薊の花も一盛り」「鬼も十八茨も花」「鬼も十八蛇も二十」などの類句がある。

「押繪」布細工による貼り絵の一種。下絵を描いた厚紙(主に板目紙を用いる)を細かい部分に分けて切り抜き、それぞれの部位に適した色質の布片で包(くる)み(ときに綿を入れて膨らみをもたせる)、それらをもとの図柄に合わせて再編成する手工芸品。布や綿の質感によって、薄肉のレリーフのような立体感が生まれる。用布はおもに縮緬(ちりめん)・金襴・緞子・紗(しゃ)・羽二重(はぶたえ)など、部位によって「すが糸」(撚(よ)りをかけていない生糸)を用いる。顔や手足にあたる部分は、胡粉(ごふん)を塗ってから彩色したり、目鼻を描き加えたりする。芯にする板目紙は、生漉(きず)きの和紙を貼り合わせたもので、押し絵には十二枚合わせの「タコ」がもっとも多く用いられる。布と紙を接着するための糊としては、飯粒を練ったものが最良とされる。布で包み終わった各片は、裏からまち紙で止め合わせて最後に全体を台に貼り付ける。もっとも古い押し絵は正倉院宝物の「人勝(じんしょう)」だが、綿入れをしていない平面的なものである。これが江戸時代になって大流行し、手箱・額・羽子板などに仕立てられた。明治時代には婦女子の手芸の嗜みとして筆頭に挙げられていた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

 併し間もなく、彼女は又其職業にも完全に訓練されて居る事が明らかになつた。彼女は殆ど何(ど)んな事態の下にも、善處する事を敎へられて居た。といふのは、彼女に分からなかつた事は、君香が悉く精通して居たからである――美の强さと情の弱さ、約束の手管と無頓着の價値、其外男心のあらゆる愚痴と邪惡、こんな事は君香から敎へられたので、君子は餘り失策もせず淚も流さなかつた。次第に彼女は君香の願ひ通りになつた――少し許り危險な者になつた。夜飛ぶ鳥に於ける燈火もさうである、さうでないと鳥は衝き當たつてそれを消すであらう。燈火の義務は愉快なものを見える樣にするにある、惡意はない。君子にも惡意はなかつた、そして餘り危險ではなかつた。案じ顏の兩親[やぶちゃん注:確かに“parents”であるが、後に語られる君子の閲歴からはおかしい(少なくとも父は芸者に上がる以前に死んでおり、母もこの時にはもう亡くなっていた可能性さえある)。親代わり姉代わりの君香のことととろうにも複数形なので不可能である。何か小泉八雲の筆が滑った感じがする。]は彼女が堅氣の家に入らうともせず、又戀物語に身をやつさうともせぬ事を發見した。併し彼女は、血で誓書に署名したり、變はらぬ情のしるしに。左の小指の端を切れと女に迫つたりする樣な若者には、特に情深くしなかつた。こんな男には、思ひ返させる樣に皮肉な療治もしてやつた。彼女を身も心も獨占するといふ條件で、家屋敷を提供した二三の金持ちは、一層すげない目を見せられた。或る一人は、君香に莫大な代償を提供して、無條件に彼女を受け出さうと鷹揚な態度に出た。君子は感謝した――併し藝者を止めなかつた。彼女は肱鐡砲を食はすにも、憎みを買はぬ樣に巧妙にあしらつた、そして多くの場合、失望を癒やして遣る術を知つて居た。勿論除外例もあつた。君子を我がものとせぬ限り、生き甲斐なしと考へた或る老人は、或る夜彼女を宴席に招いて、一緖に酒を飮ませた。併し人の顏を讀むに馴れてる君香は、巧みに君子の盃へ茶を(全く同じ色の)入れ換へた、そして直覺的に君子の貴重な命を救つた――其遂[やぶちゃん注:「つい」。]十分後に此愚かしい老人の魂は、唯だ一人で、そして疑もなく大失望の狀態で、冥途に急ぎつつあつたのである。……其夜以後、君香は野良猫が小猫の番とする樣に君子を監視した。

 此小猫は熱狂的な流行妓(はやりつこ)となつた――當時の名物の一となり、評判の程となつた。彼女の名を記憶する外國の皇子もあつた。其皇子からダイヤモンドを贈られたが、彼女は身にも著けなかつた。其外苟くも彼女の機嫌を取るの贅澤に堪へ得る者から、莫大の贈物を受けた。一日でも彼女の恩惠に浴するを得んとは、凡ての貴公子原[やぶちゃん注:「ばら」。複数を示す接尾語。]の野心であつた。それにも拘らず、彼女は誰れにも我れこそはと思はせる樣な事はせず、又末懸けての約束を結ぶことを拒んだ。その事を云ひ出る者に對しては、彼女は自分の身分を辨(わきま)へて居る由を答へた。堅氣の女さへ彼女を惡るく云はなかつた――それは何處の家庭不和の話の中にも、彼女の名が出る事はなかつたからである。彼女は眞に自分の地位を守つたのであつた、歲月は益〻彼女を美化する樣に見えた。他の藝者にも評判になる者はある。併し誰れ一人彼女の壘を摩する者はなかつた。或る製造業者は彼女の寫眞を貼紙(レツテル)に使用する猶占權を得た、そして其貼紙で財產を作つた。

 

 併し或る日君子の心も遂に軟化したと云ふ、驚くべき報道が擴がつた。彼女は實際君香に別かれを告げた、そして彼女に望み次第の美服を買ひ與へ得る或る人と共に去つた――其或る人は彼女に社命的地位を與へ、彼女の香ばしからぬ前身を、人の口の端に上せまいと切望する人であつた――又彼女の爲めには十度死んでもよいといふ位で、既に戀の爲めに半分死んで居る人であつた。君香の言に依ると、其莫迦者は君子故に自殺しかかつたので、君子も氣の毒に感じ、介抱して舊態に復せしめたのだといふ。太閤秀吉は天下に恐ろしいものが二つある――それは莫迦と暗夜とだと云つた。君香は常に莫迦者を恐れて居たのであるが、たうとう莫迦が君子を連れて往つて了つた。君香は又全く利己的でなくもない心配顏で、君子は最早戾つて來ぬだらうと云つた、それは七生迄もといふ相惚れであつたからである。

 併し君香の言は全く當つては居なかつた。彼女は實際明敏であつたが、君子の魂の或る祕密な抽斗(ひきだし)を見拔く事が出來なかつた。若し出來たなら彼女は驚きの叫びを擧げたであらう。

 

       

 君子が他の藝者と異る所は血統の高い事であつた。蔀名を附ける前の本名はあいであつた。此名は或る漢字で書けばを意味する。同音の他の漢字で書けばを意味する。あいの歷史は愛と哀との歷史であつた。

 彼女は可なりの敎育を受けて居た。幼かつた時先づ或る老武士の私塾に遺られた。――そこでは少女達は、高さ一尺の小机を前にして座布團の上に坐つた、そして敎師は皆無給で敎へた。敎師は一般官吏よりも高給を得る今日では、却つて昔程正直でもなく又愉快でもなくなつた。彼女の學校の往復には、一人の下女が書物、硯箱、座布團及び小机を携へて送迎した。

 其後、公立の小學校に通つた。其れは丁度最初の近代的敎科書が發兌[やぶちゃん注:「はつだ」。「発行・発刊」に同じい。]された時であつた――其中には名譽、義務、善行等に就ての英佛獨の物語の日本譯が含まれて居た。何れも撰擇は妥當で、此世界には迚もない服裝をした西洋人の、罪のない挿畫が入つて居た。其懷かしいしほらしい敎科書は、今は既に稀覯書となつて、久しい以前から左程面白くも巧妙でもない、物々しい敎科書が使用されて居る。あい子は物覺えが善かつた。一年に一度の試驗の時には、或る大官が臨場して、生徒は皆自分の子でもある樣な口調で話して聞かせ、賞與を與へる時には銘々の柔らかい頭髮を撫でて遺つた。其大官も今は退隱せる政治家で、がてなくあい子を忘れて居るだらう――今日の小學校では、誰れも少女等を撫でて遺つて賞與を與へる者はない。

 其時あの廢藩置縣の改革が起こつて、高い階級に居た家族は、引き倒されて無位無祿となつた。そしてあい子は學校を去るやうになつた。色々の大悲劇が引き續き起こつて、遂に彼女には母と幼い妹のみが遺された。母とあい子とは、機織りの外何も出來なかつた。併し機織りだけでは生活の資に不足であつた。先づ家屋敷が――つぎに生活に必要でない品物がつぎからつぎへと――家寶、裝飾品、高價な式服、定紋入りの漆器などが――二束三文で、人の不幸で富み、所謂『淚の金』で成りがつた連中の手へ渡された。同族の武士の大部分は、皆同樣な難儀をして居たので、生きて居る人からの助力は得られなかつた。併し賣る物が無くなつた時――あい子の敎科書さへ賣り盡くした――助力は死人から求められた。

 あい子の父を葬る時、或る大名から拜領の大刀を棺の中に納めたが、それは黃金作りであつたと云ふ事を想ひ出したので、墓を撥いて精巧な細工の欛(つか)を平凡な安物と取り換へ、塗鞘の裝飾をも取り外づした。ただ中身だけは武士たる父に入用があるかも知れぬといふので其儘にした。あい子は古式に依つて埋葬する時、高級の武士の棺として用ゐられる赤土燒の大きな瓮[やぶちゃん注:「かめ」。「甕」に同じい。]の中に鎭坐して居る父の顏を見た。彼の顏立は墓の中に年月を經ても尙ほ崩れて居なかつた。そしてあい子が中身を戾した時凄い顏でよしよしと點頭く[やぶちゃん注:「うなづく」。]樣に見えた。

 到頭あい子の母は病みついて機も織れなくなる、亡者の黃金も消費されて了つた。あい子はいつた――『お母さん外に最早方法もありません、私を藝者に賣つて下さい』母は泣いて返事をしなかつた。あい子は泣かなかつた、併し一人で出て往つて了つた。

 彼女は昔、父の家で人を饗應する時、酌に雇はれる藝者の中に、君香といふ一本立の藝者が、屢〻彼女を可愛がつた事を想ひ出した。それで彼女は直に君香の家へ往つて云つた、『私を買つて下さい、お金が澤山入るのですから』君香は笑つて、いたはりながら食事を薦めつつ、彼女の話を聞いた――あい子は淚一滴こぼさずに思ひ切つて話した。君香は云つた『澤山なお金を上げる事は出來ません、私も少ししか持つて居ないのですから。併しこれなら出來ます――お母さんに仕送りをするといふ約束です。其方が貴女(あなた)を大金で買うより宜いでせう――貴女のお母さんは大家の奧さんでしたから、大金を巧(うま)く扱ふことは御存じないでせう。ですから貴女が二十四迄、でなければいつでも私にお金を返せるまで、私の家に貴女が居るといふ證文を書いて、お母さんの印判を戴いてお出なさい。さうすると私が溜まつただけのを金をただ上げますがら、貴女がそれをお母さんの處へ持つてつてお上げなさい』

 かうしてあい子は藝者となりた。そして君香は彼女に『君子』を襲名させ、そして母と妹を養ふといふ約束を守つた。母は君子が有名にならぬ中に死んだ、妹は學校へ通はせられた。前に話した事は皆これから後の事であつた。

 

 藝者の愛の爲めに死なうとした若者は、そんな事をするのは惜しむべき境遇に居た。彼は一人子息であつた。そして富もあり爵位もある彼の兩親は、彼の爲めには如何なる犧牲をも彿はうとして居たのである――藝者を嫁に取ることさへ。其上彼等は我が子の爲めに、彼女が同情を寄せたと云ふので、全く君子を嫌つては居なかつた。

 君子は行く前に、具眼學校を卒業したばかりの妹梅子の結婚式に列した。梅子は溫良で綺麗な娘であつた。其結婚は君子が取り持つたので、それには彼女が男に關する日頃の知識を利用した。彼女は醜男(ぶをとこ)で、正直で、舊式な商人――惡黨にはならうと思つてもなれぬ男――を選定したのであつた。梅子は姉の選定の賢明さを疑はなかつたが、果たして時が幸福な配合であることを證明した。

 

       

 君子が連れて行かれたのは四月の節であつた。連れ行かれた先きは、豫め彼女の爲めに準備された家で、凡て浮世の不快な現實を忘れる樣に出來て居た――高塀を𢌞らした、大きな植ゑ込みのある庭の、靜寂の中に迷ひ込んだ一仙宮といふ觀があつた。君子は其處で、日頃の善行のお蔭で、蓬萊國に生まれ替はつた樣な感を起こしたのであらう。併し春は過ぎて夏が來た――しかし君子は單に君子で居た。彼女は理由は謂はぬが婚禮の日を三度も延ばしたのであつた。

 八月の節になつて、君子は眞面目(まじめ)になつて、溫和に併し毅然として、結婚拒絕の理由を告げた、――『今迄永らく申し上げ兼ねて居りましたが、愈〻申し上げる時が參りました、私は生みの母の爲めと妹の爲めに、今迄地獄の住居[やぶちゃん注:「すまゐ」。]を致して居りました。それは今過去の夢となりましたが、私の胸の火傷(やけど)は治りません、それを治す力は此の世の中に御座いません。此樣な者が名家に入る資格が御座いませうか――貴君の子を生んだり、貴君の家を立てる資格は全く御座いません……どうぞも少し喋らせて下さいませ、惡るい事に懸けては私の方が貴君よりずつと色々存じて居りますから……又貴君の奧樣となつて、貴君の恥辱を曝したく御座いません。私はたが貴君のお相手、遊び友達、一時のお客――それも頂戴物を致さう爲めでは御座いません。私がお側に居られたくなる時――いえ、そんな時が屹度參りす――貴君はお目の覺める時が御座います。それは私を全くお忘れにもなりますまい、併し今の樣では御座いますまい――今のは迷ひです。私の心からの詞をよくお心にお留め下さい。何誰(どなた)か眞實(ほんと)によい奧樣が出來て、貴君のお子樣をお生みになるでせう。私は其お子樣を拜見致しませう、併し私は奧樣にはなりません、又母たる喜びを知つてはなりません。私はただ貴君の迷ひです――幻です、夢です、貴君の浮世の旅路に、ちらと差した影で御座います。たとひ後にはも少し善いものになると致しても、貴君の奧樣には決してなりません――此世でも彼世でも。も一度結婚せいと仰しやいませ――そしたら私はお暇を戴きます』

 

 十月の節になつて、何等推測すべき理由もないのに、君子は姿を消した――消え失せた――全く何處にも居なくなつた。

 

       

 彼女が何時、どうして、何處へ往つたか知る者はなかつた。近處の者も、彼女の通る姿を見た者はないといふ。初めは直ぐ歸つて來るだらうと思はれた。彼女のあらゆる美しい貴重な所持品――衣服、裝飾品、貰ひ物など、それだけで一財產であるのだが、そんなものは一つも持つて行かない。併し何の便りも何のしるしもなく數週間が過ぎた。何か不測(ひよん)な事でも、彼女の身の上に起こつたのではないかとも思はれた。それで方々の河を渫(さら)つたり、井戶を替へたうした。郵便や電報の問ひ合はせもした。信賴の出來る俾僕を搜索に走らせもした。懸賞も出した――特に君香は君子を受して居たから、謝禮はなくとも喜んで手掛からを尋ねたであらうが、それにも謝禮を提供して報告を依賴した。併し官權へは依賴しても無效であつたらう。逃亡者は惡るい事をしたでもなく法律を破つたでもない。尨大な國家の警察機關は、一靑年の氣紛れな戀愛沙汰で運轉せらるべきでない。數月は數年となつた。併し君香も、京都の妹も、さては此美しい藝者の讃美者數千人中に、一人も君子を再び見た者はなかつた。

 併し君子が豫言した事は事實となつた――時はどんな淚をも乾かしどんな憧憬(あこがれ)をも治す、いくら日本でも同一の失望の爲めに、二度と死なうとする者はない。君子の崇拜者は遂に思ひ返した。美しい新妻が選定されて、一人の男子さへ生まれた。そして又數年を經過した、君子が甞て住んだ仙宮には幸福が漂うた。

 或る朝其家へ、施物を求むる樣な風で、一人の旅の尼が來た。子供は尼の讀經の聲を聞いて門口に奔り出た。間もなく女中が例の白米の施物を持つて出で來て見ると、尼は子供を撫でさすつて、何か囁いて居るのを見て驚いた。其時子供は女中に云つた、『僕が遣る』――すると尼は大きな編笠の陰の下から、『どうぞ此のお子樣の手から、お遣はし下さいませ』と乞うた。それで子供は米を尼が持つ鉢の内へ明けた。すると尼は小兒に一禮して、問うた――『もう一度、坊ちやん、貴君のお父樣へ申し上げる樣に今お願ひした文句を仰しやつて下さいませんか』小兒は片言交りに云つた――『お父樣此世で再びお目にかかれぬ者が貴君のお子樣を拜見したので喜ばしう存じますと申します』

 尼は輕く笑つて再び彼を撫で、そして急いで往つて了つた。女中は愈〻きよろきよろして居る中に、子供は父に尼僧の傳言を云ふべく走り込んだ。

 併し此傳言を聞いた父の眼は霞んだ、そして子供を抱いて泣いた。門に來たのは誰れであつたといふことを彼は悟つた、そしてそれは彼のみが悟り得る事であつた――隱されて居た凡ての獻身的な意味も了解された。

 彼は思ひに耽つた、併し誰れにも漏らさない。

 彼と、彼が昔愛した女との距離は、今や太陽と太陽との・距離よりも大であると思つた。

 彼女はどんな遠い市(まち)の、どんな狹い、名もない通路(とほり)のうねりくねつた隅の、貧民中の貧民にのみ知られて居るどんな見すぼらしい小さい庵室で、此世を行ひ濟まして居るのやら、尋ねても無益(むだ)だと彼は思つた。恐らく彼女は其處に、無窮の先の差し來る前の、暗闇を待つて居るのであらう。其光に接する時こそ、大恩敎主の慈顏は彼女を見て微笑するであらう――其時こそ佛陀の聲は、人間の戀人の口より出るよりも、遙かに深い慈愛の調子でかういふであらう。――『お〻我が法(のり)の娘、汝は圓滿の道を行うた。汝は最高の眞理を信仰會得した――それ故我は來たつて汝を迎へ汝を拯ひ取る[やぶちゃん注:「すくひとる」。]』

 

2019/12/21

小泉八雲 祖先崇拝に就いて (戸澤正保訳) / その「四」・「五」・「六」 / 祖先崇拝に就いて~了


[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 祖先崇拝に就いて (戸澤正保訳) / その「一」・「二」・「三」』の私の冒頭注を参照されたい。]



        

 我々が若し我々の地位を負債者として考へ、又我々は其地位に、如何に處するかと考へるなら、西洋の道德的情操と、極東のそれとの間の著しき相違は明瞭となるであらう。

 

 生といふ事實が初めて十分に我々の自覺に入つた時、不可思議な其生の事實程、我々をして肅然たらしむるものはない、我々は知られざる暗黑の中から、一寸日光の中へ出現する、四邊を見𢌞はす、喜んだり苦しんだりする。我々の存在の震動を他の存在へ移す、そして再び暗黑の中へ歸還する。浪が此通りである。現はれ出る日光を捉へる、其運動を傳へる、そして再び海中に沒入する。植物も共通りに土から現はれ出て、其葉を日光と空氣との中に開き、花咲き、實のり、そして再び土と成る。ただ浪は知識を有たぬ、植物は知覺を有たぬ。人間の生も皆、地から出て地へ還る抛物線的の運動に外ならぬ樣に見ゆる、が人間の生は其短い變化の中間に宇宙を覺知する。此現象の嚴肅味は誰れもそれに就て何事をも知らぬといふ點に在る。凡ての事實中で此尤も平凡な、併し尤も不可解な事實――生其者[やぶちゃん注:「生そのものは」。]は、如何なる人も說明し得ない。それにも拘らず苟くも考へ得る凡ての人間は、自己に關して、早くから之を考へざるを得なかつた。

 

 自分は神祕の中から現はれ出る――自分は空と陸と、男と女と、それから彼等の事業を見る、そして自分は神祕の中へ還らねばならぬことを知る――併しこれが何を意味すもかは、最大の哲學者も――ハアバアト・スペンサー氏すらも――自分に告げる事が出來ない。我々は悉く我々自身に謎であり、又相互に謎である。空間や、運動や、時間や皆謎である[やぶちゃん注:ママ。「時間やも、皆、謎である」の意。]、物質も謎である。以前及び以後に就ては、新たに生まれた孩兒も、死人も、我々に何等の消息を齎さぬ。街兒は默し、髑髏[やぶちゃん注:「どくろ」。]はただ笑ふ。(齒をむき出して)のみである、自然は我我に何の慰藉をも與へぬ。自然の無形の中から有形が現はれ、それが又無形に還る――それだけである。植物は土となり、土は植物となる。植物が土に還る時、其生命であつた震動はどうなるのであらう。それは窓玻璃(ガラス)に結ぶ霜に、齒朶(しだ)の葉形(はがた)を作る力の樣に、目には見えずに存在を續けるのであらうか。

[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者・倫理学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。]

 無窮の謎の地平線内に、世界と共に生まれた無數の小さい謎が、人間の來るのを待つて居た。エヂバス[やぶちゃん注:Oedipus。オィディプス(エディプス)。]は一匹のスフインクスに出會つた。人類の出遇つたのは幾千萬匹であつたらう――何れも時の通路に沿う枯骨の中に跼つて[やぶちゃん注:「せぐくまつて」。]、順繰りに前よりも深いむつかしい謎をを提供しつつ。凡てのスフインクスの謎は悉く解かれてはなかつた。尙ほ未來の路には幾億萬のスフインクスが並列して、まだ生まれぬ生命を呑まんとして居る。併し今迄に解かれたのが數百萬ある。我々は我々を導く若干の知識――破滅の顋(あぎと)[やぶちゃん注:原文は“jaws”であるから、肉食獣の顎(あご)・口の意。]から獲來たつた[やぶちゃん注:「とりきたつた」。]知識の故に。今は不斷の恐怖なしに生存する事が出來るのである。

 

譯者註 希臘神話中の物語、スフンクスは人面獅身の怪物、辻に立つて通行人に謎をかけ、解けぬ時は之を喰ひ殺す、偶〻エヂパス此謎を解くと怪物は自殺したと云ふ。

 

 我々の知識は、凡て讓り受けた知識である。死者は彼等自身及び周圍の世界に就て――生死の法則に就て――求めらるべきもの、避けらるべきものに就て――生活と自然が欲するよりも痛ましからぬ樣にする方法に就て――正と不正、悲みと樂みとに就て――我欲の誤謬、親切の賢明、献身の義務に就て――凡て此等に就て學び得たる物の記錄を、我々に遺したのである。彼等は氣候風土季節に就て――日月星辰に就て――宇宙の運行と構成に就て、彼等の發見し得た凡ての物の知識を我々に遺したのである。彼等は又我々に彼等の謬想[やぶちゃん注:「びうさう(びゅうそう)」。誤った想念。原文は“delusions”で、「思い違い・勘違い」・「間違った信念・考え」・「妄想」・「錯覚」の意。]を遺して、我々をしてより大なる謬想に陷る事を免れしめた。彼等は彼等の過誤と努力、彼等の成功と失敗、彼等の苦しみと喜び、彼等の愛と憎み[やぶちゃん注:「にくしみ」。]の歷史を我々に遺して、我我の警告とし若しくは範例とした。彼等は我々の同情を期待した、其故は彼等は我々へ最大の好意と希望とを以て努力したからである。そして又彼等は我々の世界を作つたのであるからである。彼等は國を切り開いた、彼等は怪物を退治した、彼等は我々に尤も有用な動物を馴致[やぶちゃん注:「じゆんち(じゅんち)」。馴(な)れさせること。馴染(なじ)ませること。]し訓練した。『クレルボの母は墓の中で目覺めたそして深い土の中から彼に叫んだ、「[やぶちゃん注:「わらは」。]は其方が獵に連れて行く樣に犬を木に繫いで其方に遺して置いたぞや」』(フィンラント民謠集『カレバラ』第三十六章)彼等は同樣に有用な樹木草木を養殖した、又金屬の所在地と効用とを發見した。後年に至つて彼等は我々の所謂文明を造り出した――彼等が止むを得ず爲した誤謬の訂正を、我々の爲すに任せて。彼等か努力の總計は無算數である[やぶちゃん注:数えきれないほど巨数であること。]。彼等が我々に與へた凡ての物は、之が爲めに費やした無限の勞苦と考慮とを思ひやつたのみでも、確に非常に神聖であり非常に貴重である。けれども果たして西洋人の何人か、神道信者の如く每日つぎの樣な感謝の跡を述べやうと思ふ者があらう――『我々後裔の先祖、我が家族の先祖、我が血緣の先祖達よ――卿達[やぶちゃん注:「けいたち」。尊敬の二人称複数形。]に我々の家庭の始祖として我我はここに感謝の喜びを申し述ぶる』

[やぶちゃん注:「クレルボ」原文は“Kullervo”(但し、引用全体が斜体)。クッレルヴォ。ウィキの「カレワラ」によれば、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」(Kalevala:音写は「カレヴァラ」に近いようである。これは「英雄の地」の意)に登場する人間的な人物で、カレルヴォ一族の女が産み落とした男子で、怪力の持ち主であるが、まともなことが絶対に出来ない粗暴で残虐な人物(但し、「カレワラ」を採集編纂した医師で博物学者であったエリアス・リョンロート(Elias Lönnrot 一八〇二年~一八八四年)による創作が加えられて悲劇の主人公へとその姿が変えられているとあり、『クッレルヴォの物語は、本来はカレワラのそれ以外の部分とは孤立していたものであ』ったとある。リンク先の第三十一章から第三十三章「クッレルヴォの誕生と成長」、第三十四章から第三十五章「クッレルヴォの帰還」、第三十六章「クッレルヴォの最期」にシノプシスが書かれてあるので参照されたい。

「我々後裔の先祖、我が家族の先祖、我が血緣の先祖達よ――卿達に我々の家庭の始祖として我我はここに感謝の喜びを申し述ぶる」この引用は平井呈一氏の恒文社版「祖先崇拝の思想」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)の平井氏の訳者注によって、やはり、平田篤胤の「玉襷」の「十」にある「拜祖靈屋詞」(訓読するなら「みおやのみたまををろがむことば」か)にあるものを英訳したものであることが判る(原文には注記がない)。ただ、カタカナで絶対にルビが振られているが、非常に読みにくいので、以下にまず、原文(漢字のみである)だけを恣意的に正字化して引かさせて戴き、後にルビに従って訓読した漢字ひらかな混じり文をオリジナルに示す。

   *

遠都御祖乃御靈。代々能祖等。親族乃御靈。總氐此祭屋爾鎭祭留。御靈等能御前乎愼美敬比。家爾毛身爾母枉事有世受。夜乃守日乃守爾守幸閉宇豆那比給比。彌孫能次々。彌益々爾令榮給氐。息内長久。御祭善志久仕奉志米給閉登。祈白須事乃由乎。平祁久安祁久聞食幸幣給閉斗畏美畏美毛拜美奉留。

   *

遠(とほ)つ御祖(みおや)の御靈(みたま)、代々(よよ)の祖等(おやたち)、親族(うからやから)の御靈(みたま)、總(すべ)て此の祭屋(まつりや)に鎭(いは)ひ祭(まつ)る。御靈等(みたまたち)の御前(みまへ)を愼(つつし)み敬(ゐやま)ひ、家(いへ)にも、身(み)にも、枉事(まがこと)有らせず、夜(よ)の守(まも)り、日(ひ)の守(まも)りに、守(まも)り、幸(さきは)へ、宇豆(うづ)なひ給ひ、彌孫(いやひこ)の次々(つぎつぎ)、彌益々(いやますます)に榮(さか)えしめ給(たま)ひて、息内(いのち)長く、御祭(みまつ)り、善(うるは)しく仕(つか)へ奉(まつ)らしめ給(たま)へと、祈(いの)ます事(こと)の由(よし)を、平(たいら)けく安(やすら)けく聞(きこ)し食(め)し幸(さきは)へ給(たま)へと、畏(かしこ)み畏(かしこ)みも、拜(をが)み奉(たてまつ)る。

   *

「宇豆那(うづな)ひ」「珍(うづ)なふ」は「神が承諾する」の意。「彌孫(いやひこ)の」「いやひこ」は本来は日本神話の神の名で「ますます盛んなる男神(おとこがみ)」の意であろうが、ここは後の「彌益々(いやますます」と対で、一種の感動詞として使用している。]

 そんな者は一人もない。それはただ我々が死人に耳なしと考へるからばかりではない、我々は代々甚だ狹い範圍内に於ての外――家族といふ範圍内に於ての外、同情的に心で其人を想像する力を揮ふ樣に訓練されて居なかつたからである。西洋の家族といふも東洋の家族と比較して甚だ狹いものである。此十九世紀に在つては、西洋の家族は殆ど崩壞して居る――實際上、それは夫婦と丁年[やぶちゃん注:「強壮の時に丁 (あた) る年」の意で、一人前に成長した年齢の意。]に達する事遠き子供等を意味するに外ならぬ。東洋の家族といふは、啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]兩親と其血を分けたもののみならず、尙ほ祖父母と其血緣、曾祖父母及び其背後のあらゆる祖先を意味するのである。此家族の槪念が、同情的想像力を發達せしめ、遂に想像力に伴なふ情愛の及ぶ範圍は生ける家族の多くの群、及び亞群に迄も擴がり、國家危急の際には、一大家族としての全國民に迄も及ぶのである、これは我々が愛國心と呼ぶものよりも、遙かに深い感情である。更に宗敎的情緖としては、此感情は、あらゆる過去に限りなく擴げられる。愛や忠義や感謝やの混合した感情は、生ける血緣に對する感情に比すれば、漠然として居るのは止むを得ぬが、それと同樣に實在的な感情である。

 西洋に於ては古代社會の破滅後は、こんな感情は存在し得なかつた。古代人を地獄に落とし、彼等の事業の嘆美を禁じたる信仰――凡ての物に對する感謝をへブライの神[やぶちゃん注:唯一神ヤハウェ(エホバ)のこと。]に捧げる樣に我々を訓練した敎義――は過去へのあらゆる感謝の念を抑制する思考の習慣幷びに思考せざる習慣を作り上げた。つぎに神學の衰頽と科學の勃興と共に、死せる者は自ら擇んで彼等の事業を爲したのでない――彼等は必然に從つたので、我々はただ彼等から必然の結果を、必然的に承け繼いだのであるといふ敎へが現はれた。そして今日も我々は尙ほ、必然其者[やぶちゃん注:「そのもの」。]も、必然に從つた古人に對する我々の同情を促すことを、又其承け繼いだ結果は、貴重であると同樣に、感銘すべきものであることを、認めやうとはせぬ。そんな考は、我我の爲めに働く生ける人々の事業に關してさへ、我々には起こらぬのである。我々は購求した物、若しくは我々自身の有となした物の代價を考へる――がそれが生產者に費やさしめた努力に就ては、我々は考へる事を決してせぬ。否、ぞんな事に就て良心の表白めいた事を云つたなら笑はれるであらう。そして我々が過去の仕事の感銘的な意義にも、及び現在の仕事のそれにも、同樣に無感覺な事が、我々の文明の浪費を常とする所以を大略說明する――一時間の快樂に、數年の防備を無造作に消費する贅澤――心なしの富豪が幾千人となく、各〻全く不必要の欲望を滿足せしむる爲めに、幾百の生命の代價を蕩盡する不人情等は、之に依つて說明せられる。文明の食人鬼は、無意識的ながら野蠻人の食人鬼よりも一層殘酷で、そして餘計の肉を要する。大なる人間愛――は根本的に無用な奢侈の敵である、そして肉感の滿足、若しくは自己主義の快樂に、制限を設けぬ樣な社會には根本的に反對する。

 振り返つて極東を見ると、簡易生活といふ道德的義務は、遠い古から數へられて居る。祖先崇拜は、此廣汎な人間愛を發展させ培養したからである。我々には此愛がない、併し我々は單に我々を滅亡から濟ふ[やぶちゃん注:「すくふ」。]爲めにも、いつかは之を求めざるを得ざるの日が來るであらう。つぎに擧げる家康の二箇條の言は、極東の情操の例證である。此最大の日本の軍將兼政治家は、事實上帝國の主腦であつた時代に、親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]絹の古袴の塵を拂ひ、皺を延しつつ侍臣の一人に云つた、『予は袴が大切故、こんな事をするのではない。ただ此袴を作り出すのに、要せられた勞苦を思ふからするのである。これは一婦人の辛勞の結果で、それを予は大切に思ふ。物を使用しながら、其物を作り出すに要した時間と勞苦とを思はぬならば――それ程の想ひ遣りがなければ我々は禽獸と異らぬではないか』又彼が最も富める時代に、彼の御臺所が、餘り屢〻新衣を彼の爲めに新調するのを叱責して云つた詞がある。『予は周圍の大勢の國民と、子孫の事を思ふと、彼等の爲めに、予が所持品に就ても儉約を守るが予の義務であると思ふ』此簡單の精神は、未だ日本から棄てられてない。天皇皇后でさへ日常の居室では臣民と同じく質素な生活を續けられ、そして皇室費の大部分を災害の救濟に投ぜられる。

[やぶちゃん注:「家康の二箇條の言」これは「家康遺訓」「東照宮御遺訓」「御遺訓」「御遺戒」「成憲百箇条」など別名があり、内容も異なる伝本が残るものの一条か。但し、多くは現在では偽書とされているようである。江戸時代の人々は本物と信じていた。]

 

       

 極東に於て、祖先崇拜が生み出した樣な、過去への義務の道德的承認は、西洋にも遂には進化論の敎へに依つて發達するであらう。今日でさへ新哲學(進化論を意味す)[やぶちゃん注:丸括弧内は二行割注で、戸澤氏が挿入したもの。]の第一の原理[やぶちゃん注:ダーウィンのそれでは「自然淘汰(自然選択)説」である。しかし、この後の小泉八雲の叙述から見て、狭義のそれ、則ち、ダーウィンのそれではなく、ダーウィンも引用している、それよりも前の小泉八雲が私淑するハーバート・スペンサーの「第一原理」、則ち、「社会進化論」、広義の「適者生存」(survival of the fittest)を指しているように私には読める。言っておくが、「適者生存」(survival of the fittest)はダーウィンのではなく、スペンサーの造語である。]に通曉して居る者は、尤も普通な手工品をでも、其進化の歷史の幾分かを認めずに見ることは出來ない。かういふ人には尤も普通な手道具でも、木工若しくは陶工、鍛冶工若しくは刄物師の、個人能力の生產物とばかりは見えず、作法、材料、形態などに就て、數千年間繼續した經驗の造り出したものと見えるであらう。又如何なる器具でも、其の進化に要せられた莫大な年處[やぶちゃん注:「ねんしよ」。歳月。]と勞苦とを考へ、しかも感謝の念を經驗せざることは不可能であるであらう。將來の同胞は過去の物質的遺產を、死せる祖先と聯關して考へるに相違ない。

 併し廣汎な人間愛の發展に在つて、過去に負ふ物質的の恩義よりも有力なる要素は心靈的恩義の承認でなければならない。我々は我々の非物質的の世界をも――我々の内部に生きて居る世界をも――美しい衝動や情緖や思想やの世界をも――死者から讓り受けたのである。苛くも人間美が何であるかを科學的に了解する者は、尤も平凡な生活の、尤も平凡な狀態に於てさへ、神々しい美を見出し、そして或る意味に於て、我々の死者は眞に神々しくある事を感ずるであらう。

 

 我々が婦人の靈魂はそれだけで完全な、もの――或る特殊な肉體に適合せしむる爲めに特に作られた物と想像する限り、母性愛の美と驚異とは、十分に我々に知られないであらう。併し深く悟れば、幾萬億の死せる母から傳承した愛が、一人に詰め籠まれたのだと悟るに相違ない――又これでこそ、孩兒が聞かさる〻母の詞の無限の優し味も――又孩兒の眼と出合ふ母の眼の無限の情味も、說明されると悟るに相違ない。こんなことを知らざりし人間こそあはれである。けれども如何なる人間が遺憾なく此情愛に就て語り得よう。眞に母愛は神聖である。人間が認めて神聖と呼ぶ凡てのものは、此母愛に綜合されて居るのである。そして其最高の表明を吐露し傳達する凡ての婦人は、ただ人間の母たるに留まらない、彼女は神の母である。

 ここに性愛である初戀といふ幻覺の玄妙は說くを要しない、――何となればそれは死者の情熱と美とが復活して眩惑し欺瞞し蠱惑するのであるから。それは實に實に驚くべきものである、併しそれは悉く善ではない、何となればそれは悉く眞でないから。婦人の眞の美は後に現はれる――凡ての幻影が消失して、其まぼろしの幕の後ろに發展しつつあつた、いかなる幻影よりも美しい實體を現はす時に。かくして曝露された婦人の貴い魅力は何であらう。それは外でもない、死して埋められた幾百萬の心臟の愛情、情味、信義、無欲、直覺等である。それ等が凡て蘇生するのである――それ等が彼女自身の心臟の鮮(さは)やかに、暖かい鼓動の中に新たに鼓動するのである。

 最高の社會的生活に現はれる、或る驚くべき性能も、又別種の筋道で、死者に依つて建設される靈魂の構造を語つて居る。驚くべきは、眞に『凡ての人に凡てのら物であり』得る男、或は一身を二十、五十或は百の別の女となし――凡ての人を了解し、洞察し。推量を誤らず――個性的の自己を有せず、其代り無數の自己を有するが如くに見え――相手の心の調子にきちんと合はせた心で、それそれに異つた人に接するを得る女である。こんな性格は珍らしいに相違ない、併し何處の敎養ある社會ででも硏究して見ると、さういふ人間の一人か二人には必らず出遇ふものである。彼等は本質的には複合體の人間なのである――『我』といふものを單體と考ふる人でさへ、彼等を『非常に複雜』と評する程、明らかに複合的なのである。それにも拘らず、同一人間にかく四十五十の性格が現はる〻事は顯著な現象で(一身の經驗が積んで、其原因となる前の、靑年に普通現はる〻が故に顯著である)其意義を正直に認める人のないのを、自分はたた怪しむばかりである。

 或る種の天才の『直觀』と名づけられるものに於けるも、又此通りである――取り分け情緖の描寫に關する直觀に於て。沙翁[やぶちゃん注:“Shakespeare”。]の如き天才は古來の靈魂說では、永久に不可解と殘るであらう。テイヌは『完全なる想像力』と云ふ語で彼を說明せんと試みた――そして其語は眞理を穿つて居る。併し完全なる想像力とは何を意味するか。靈魂の無數世代――無數の過去生活が一身に復活したるもの。これを外にして何者ともそれを說明する事は出來ぬ……とはいへ、心靈複體說で尤も顯著なのは認知の世界に於てではない、愛、名譽、同情、任俠等の、尤も質朴な情緖に訴へる世界に於てである。

[やぶちゃん注:「テイヌ」“Taine”。底本では「ヌ」は脱字で白く空いている。フランスの哲学者で批評家・文学史家でもあったイポリート・テーヌ(Hippolyte Adolphe Taine 一八二八年~一八九三年)であろう。]

 

 『併し此學說では』或る批評家は云ふかも知れない、『任俠への衝動の源泉は、又犯罪の衝動の源泉ともなり得る。雙方共死せる祖先に屬する』。それは其通りである。我々は善と同樣に惡をも承認した。複合體――尙ほ進化し、尙ほ發展しつつある――であるから、我々は不完全なものを承認して居る。併し衝動の適者生存は、確に人類の押しならした道德狀態に依つて證明されて居る――ここに『適者』といふ語は倫理的意義で用ゐたのである。我々の所謂基督敎文明の下に、比類なく發展した、あらゆる不幸惡德罪惡にも拘らず、多く生活の經驗を有し多く旅行し多く考へた人には、過去の人類から我々が承繼した衝動の大部分は、善であるといふ事實は、明瞭であるに相違ない。尙ほ又社會の狀況が順當であればある程、人間も善良である事も確實である。過去を通じて善なるカミは惡なるカミが世界を統御することを常に妨げて來た。此眞理を承認すれば、我々の將來の正邪の觀念は非常に擴張せられるに相違ない。任俠の行爲若しくは凡て立派な目的の爲めの純善の行

爲は、從來考へられなかつた程尊重されると同時に――眞の罪惡は現存の個人若しくは社會に對するよりも、寧ろ人類經驗の總額、及び過去の倫理的向上のあらゆる努力に對する犯罪として、見られる樣になるに相違ない。乃ち其の善は一層尊重せられ、其の惡は一層嚴酷に判斷せられるであらう。そこで『倫理的法則は必要でない――人間行爲の正しい規約は常に良心に尋ねて知らるべし』といふ初期の神道の敎へは、現在の人間よりも、もつと完全な將來の人間に、承認せられること疑のない敎へである。

 

       

 讀者は云ふかも知れぬ、『進化論は如何にも其遺傳の說に依つて生者は或る意味で死者に支配せられることを示して居る。併し又死者は我々の内部にあるので、外部にあるのでない事を示して居る。彼等(死者)[やぶちゃん注:丸括弧は戸澤氏のサーヴィス。]は我々の一部分である――彼等は我々以外に別に存在を有して居るといふ證據はない。故に過去への感謝は、卽ち我々自身への感謝である。死者に對する愛は、卽ち自己愛であるであらう。乃ち貴下の類推論は不合理に終はるものである』と。

 否。其原始的な形式の祖先崇拜は、ただ眞理の象徵であるかも知れぬ。擴張された知識が、我々に强請するに相違ない新しい道德的義務――人類の倫理的經驗の獻身的な過去への崇敬服從の義務――の指示若しくは前兆に過ぎぬかも知れぬ。併し又それ以上でもあり得る。遺傳の事實は、心理的事實の半分しか說明して居ない。一莖の草木は十、二十、乃至百莖の草木を生じ、しかも之に依つて自己の生命を失はぬ。一匹の動物は多數の兒を生み、しかも其あらゆる肉體の能力と、少許の思考力を少しも滅少せずに生活を續け得る。子供は生まれても兩親は生存する。心的生活は確に肉的住活と同樣に遺傳される、けれども植物に於ても動物に於ても、凡ての細胞中の尤も特殊化せざる生殖細胞は、決して兩親の存在を奪はぬ、唯だそれを繰り返すだけである。絕えず繁殖しつつ各細胞は一種族の全經驗を運び傳へる、けれども其の種族の全經驗を後に殘して置く。ここに說明すべからざる驚異がある――肉的並びに心的存在の自己繁殖――兩親の生命から續々と放出される生命が、各〻完全體となり繁殖的となる事實是である[やぶちゃん注:「これである」。]。兩親の凡ての生命が、其子に與へられるならば、遺傳は唯物論を賛助するとも云ふことが出來る。併し印度傳說の神々の樣に『自己』は繁殖し、しかも十分な繁殖力を保留して舊態を維持する。神道は分裂に依つて靈魂が繁殖すると說く、併し心靈分出の事實は、如何なる說よりも限りなく驚くべきものである。

 

 大宗敎は皆遺傳では自己の全問題を說明し得ぬことを――本源(もと)の殘留せる自己の運命を說明し得ぬことを認めて居る。そこで彼等は一般に内的存在は、外的存在に關係せぬと考へる事に一致して居る。科學も實在の性質を決定し能はぬと同樣に、宗敎が提起し、疑問を決定する事が出來ない。又『死せる植物の生活力を構成して居る力はどうなるか』といふ疑問にも解決を得る事は出來ない。『死せる人間の心的生活を構成して居た感情はどうなるか』といふ問は更に一層難問である――尤も簡單な感情と雖も說明し得る人はないのであるから。我々はただ生存中は植物の體内若しくは人間の體内に於ける或る活潑な力が、絕えず外界の力と自ら調節して居た事を、そして内部の力が外部の力の壓迫に最早應じ得なくなつた後は――其時は内部の力が貯藏せられて居た體は、それを構成して居た幾多の原素に分解されたといふ事を知るに過ぎない。我々は其原素の終極の性質に就ては、幾多の原素を結合させる傾向の終極の性質に就てと同樣に全く無知である。併しながら我々は生の究極的要素は、それが造つた形體の分解後も生存すると信ずる方が、滅亡すると信ずるよりも至當であると考へる。自然發生說(スポンタネアス、ジエネレシヨン[やぶちゃん注:読点はママ。“spontaneous generation”。])(此名は命名を誤つたものである、何となれば、限られたる意味に於てのみ『自然(スポンタネアス)』といふ語は生の起原説に適用せられるものであるから)は進化論者の承認せざるを得ぬ學說であり、又物質それ自身も進化しつつあるといふ化學の證明を知悉して居る人を驚かし得ぬ學說である。眞の自然發生說は(有機體が壜の中へ浸(つ)けた草木から發生すると云ふ說ではなく、遊星の表面に發生する原始的の生命に就ての學說)非常な――否無限な――精神的な意義を有する。それは生命、思想、情緖のあらゆる潜在性は、星雲から宇宙へ、系統から系統へ、恒星から遊星若しくは衞星へ、そして再び逆に原子の旋風的混沌へ、轉々するといふ信念を要請する。又それは傾向性(テンデンシー)[やぶちゃん注:tendencies。]は太陽の酷熱にも殘存し――あらゆる宇宙的進展にも崩潰にも。殘存する事を意味する。原素はただ進化の產物に過ぎぬ、そして一の宇宙と他の宇宙との相違は、傾向性の作爲でなければならぬ――而して此傾向性は巨大複雜想像を絕する一種の遺傳に外ならぬ。其處に偶然はない、法則あるのみである。凡ての新しい進化は、其前代の進化に依つて影響せられる――丁度各個の人間の生が代々の祖先の生の經驗に依つて影響せられる樣に、舊形式の物質の傾向は、將來の新形式の物質に依つて承繼せられるのではなからうか、そして現在人間の行爲思想は、未來の世界の特質を作爲するに與り[やぶちゃん注:「あづかり」。]つつあるのではなからうか。鍊金術者の夢は最早痴人の夢であつたと云ふ事は出來ぬ。同樣に最早我々は古東洋の思想に於ける如く、凡ての物質的現象は、靈魂の傾向に依つて決せられるのでないと主張することは出來ない。

 我々の死者は我々の内部に於けると同樣に外部にも生存するにしてもせぬにしても――これは我々の比較的盲目な未開の現狀では決せられぬ問題である――宇宙の事實の證明は、神道の幽玄な信仰と一致することは確である、卽ち凡ての物は亡びたる物に依つて――人間の幽靈に依つてか、或は世界の幽靈に依つてか――決せられるといふ信仰と一致する。我々自身の生命が、今眼には見えぬ過去の生命に支配せられる樣に、疑もなく我が地球の生命及び地球の屬する太陽系統の生命も、無數の天體の幽靈に依つて支配されて居る。亡びたる幾多の宇宙――亡びたる幾多の太陽や遊星や衞星や――形式としては久しく暗闇の中に溶解し去つたが、力としては不死不朽で、永久に活動して居るのである。

 

 實に神道信者の樣に、我々は、我々の系圖を太陽まで遡ることが出來る。けれども我々は、我々の起原は其處にもなかつた事を知る。其起原は時間に於て、百萬の太陽の生命より、遙かに遙かに遠いのであつた――若し起原があつたといふのが、眞理に背かぬとすれば。

 進化論は、我々は物質も人間の心も其の常に變はりつつある表現に過ぎない所の、未知の究極と同一物であることを敎へる。進化論は又我々の各個は多くの者であることを、けれども我々の凡ては他の各個及び宇宙と同一物である事を――我々はあらゆる過去の人類を啻に我々自身の中に認めねばならぬのみならず、尙ほ又凡ての同胞の生命の貴さ美しさの中にも認めねばならぬことを――我々は他人に於て我々自身を尤もよく愛し能ふ[やぶちゃん注:「あたふ」。]ことを――形體は遊絲(いとゆふ)や幻(まぼろし)に過ぎぬことを――そして生者死者を問はず、凡ての人間の情緖は眞實(まこと)はただ無形の無窮にのみ屬するといふことを敎へる。

[やぶちゃん注:「遊絲(いとゆふ)」陽炎(かげろう)。小学館の「大辞泉」によれば、語源は未詳で歴史的仮名遣を「いとゆふ」とするのは、平安時代以来の慣用に過ぎない。また「糸遊」という漢字表記は和語である「いとゆふ」が「陽炎」の意の漢語「遊糸(ゆうし)」の影響を受けて出来た表記に過ぎないとし、さらに、晩秋の晴天の日に(ある種の)蜘蛛の子が糸を吐きながら、空中を飛び、その糸が光に屈折して、ゆらゆらと光って見える現象が原義で、漢詩にいう「遊糸」もそれであるされる、とある。]

ブログ百三十万アクセス突破記念 梅崎春生 蟹

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二八(一九五三)年四月号『明窓』に発表された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第一巻」を用いた。

 主人公の「僕」の履歴は概ね梅崎春生のそれと一致する。敗戦時、梅崎春生は満三十歳で、昭和十九年六月に海軍から再召集(昭和十七年一月に陸軍から召集を受けて対馬重砲隊に入隊したが、肺疾患のために即日帰郷している)され、佐世保相ノ浦海兵団に入隊し、暗号特技兵となり、終戦まで九州の各基地を転々とした。その間、昭和二十年初めには士官教育を受け、二等兵曹となっている。

 なお、この電子化は本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが百三十万アクセスを突破した記念として公開する。【2019年12月21日 藪野直史】]

 

   

 

 その男の名を、仮に名村富五郎としておこう。

 名村富五郎は、背丈は五尺二寸[やぶちゃん注:一メートル五十七センチ五ミリ。]ぐらい。背丈こそ低かったが、甲種合格になるだけあって、肩幅もひろく、頑丈な体つきをしていた。裸になると、その頑丈な胴体を、太く短い足が支えている。体つきや顔つきが、どこか蟹(かに)に似ていた。だから下士官や兵長たちから『カニ』という綽名(あだな)で呼ばれていた。

「やい。カニ。これを暗号士に届けてこい」

「カニ。この訳文は間違っとるぞ」

 まあちょっとそんな具合だ。

 カニと呼ばれることを、名村は喜んでいない。そりゃそうだろう。誰だってそんな綽名は、嬉しくないに決っている。そう呼ばれると、名村はぷっとふくれて仏頂面となる。そうするとますます蟹に似てくる。

 僕がこの男と初めて会ったのは、戦争中のこと。九州南部のQ海軍航空隊でだ。

 僕はその頃三十歳。応召の一等水兵で、この航空隊の通信科に配属されたのだ。佐世保通信隊で暗号術の講習を受け、そして単身ここにやって釆た。僕にとって、ここは初めての実施部隊だった。今までは教育部隊で、同年兵ばかりだったが、今度はそういうわけには行かない。僕はほとんど敵地に乗り込むようなつもりで、ここにやって來たのだ。実施部隊の辛さというものを、それまで度々聞かされていたから。

 名村富五郎は、やほりこの隊の通信料の上等水兵だった。

 僕は最初、カニというのを、可児(かに)という姓だとばかり思っていた。そして、実に風貌にピッタリした姓だと、ひそかに感心もしていたのだ。それが、綽名(あだな)と気がついたのは、入隊して三日目ぐらいだ。ほんとにカニ上水などと呼びかけなくてよかった。そんな呼びかけでもしていたら、上級者侮辱の故で、袋だたきの罰直(ばっちょく)にあったかも知れない[やぶちゃん注:「罰直」は所謂、軍隊内で行われた私的制裁、上級兵による下級兵に対する体罰、いじめである。梅崎春生はエッセイ「わが兵歴」(私の電子化)の中で『罰直。バッタと称して、つまり丸太で力まかせに尻をたたくのである。私は五本ぐらいなら辛抱出来たが、それ以上になると脳貧血を起した。私は生来痛さに弱い。バッタを受けて死んだ老兵も私は知っている』と述べている。]。この隊は有数の気風の荒っぽい部隊だった。勤務も辛かった。暗号の勤務も辛かったが、居住区の方の勤務、甲板掃除や吊床教練がなかなか大変だった。実施部隊で一等水兵が一番下級の兵なので、その辛さは言語に絶する。しかも季節は冬だ。南国とは言え、兵隊だから厚着するわけには行かず、寒気が肌にしみわたる。

 僕は陸軍のことは知らない。しかし映画の「真空地帯」などを観ると、上等兵が、時には一等兵が、割に権力を持っているらしい。海軍ではそういうことはない。兵隊で権力を持っているのは、兵長だけで、それ以下はほとんど権力はないのだ。罰直と言えば、上水以下ずらずらと整列させられ、兵長が殴(なぐ)ったり叩いたりすることになる。一水よりも、上水の方が余計叩かれる。整列は二晩か三晩に一ぺんずつ、必ずあった。あの精神棒という太い棒で、力まかせに尻を殴るのだ。

[やぶちゃん注:『映画の「真空地帯」』野間宏の小説(昭和二七(一九五二)年二月河出書房刊の書き下しの、戦時体験に基づく陸軍内部の暴力性や非道・非合理を描いた長篇小説。毎日出版文化賞受賞)。映画化されたそれは新星映画社製作、監督・山本薩夫、脚本・山形雄策、主演の木谷一等兵役は木村功で、同年十二月十五日北星株式会社の配給で公開されているから、本篇の執筆時期が概ね推定出来る。「真空地帯」の原作の梗概及び映画作品のデータ(概ね原作に忠実)についてはウィキの「真空地帯」を見られたい。]

 名村は兵長たちから特に憎まれている様子で、整列の時殴られる本数は一番多かった。僕たちが三四本の時、名村は七八本も叩かれる。それは名村が実技はあまり出来ないくせに、ふてくされたようなところがあったからだ。それともう一つ、見逃せない原因がある。兵長たちはすべて志願兵だったが、名村は徴集兵だったのだ。つまり満二十歳で兵隊検査を受け、そして海軍に廻されて来たのだ。だから兵長らが、歳が十七八だのに、名村は二十一二ということになる。名村の方がはるかに年長なのだ。

 とかく志願兵は徴集兵をバカにし、あるいは憎む傾向が大いにあった。バカにするのは、自分等は志願して海軍に入ったのに、あいつらはのめのめと徴集されて来やがった、そんな気分かららしい。憎むのは、徴集兵は年長だし、二十まで地方にいて、社会的な経験を沢山積んでいる、女なんかも知っている、そんなことに対する憎しみのようだった。                  

 この隊の暗号科は、兵長が六人、上水が六人、そして僕ら一水が八人いた。その中で、徴集兵は名村一人、応召兵は僕と、木原という三十五六の男と二人。あとは全部志願兵ばかりだった。戦争末期のことだから志願年齢もずいぶん引下げられて十四五歳ぐらいのもいたくらいで、つまり僕なんか十四五の少年兵と一緒に、甲板掃除などに追い廻されていたのだ。僕等応召兵を除けば、兵隊の中では名村が一番年かさということになる。その名村が、三つ四つも年下の兵長から、バカにされたり殴られたりする。それが名村にはやり切れない風だった。

「ほんとにあいつ等は――」

 ある時、名村が僕に言ったことがある。

「シャバに戻ったら、足腰立たぬほどぶちのめしてやる」

 実際志願兵たち一般に共通した性格は、他人の苦痛に同情がないということだ。これは十四五歳から精神棒などで痛めつけられて成長して来たので、ふつう人間が持つ想像力を失ってくるのだろうと思う。その連中から追い超されるのは、名村のみならず、僕や木原にとっても、極めて憂欝なことだった。

 

 名村はあまり頭の働きが敏活でなく、暗号は下手だった。暗号作製も暇がかかるし、和訳させると間違いばかりする。それを兵長に言わせれば、

「お前はやる気がないんだ。やる気がなければ、やるようにしてやる」

 という具合で、殴られたりする。殴られても、頭が敏活になるわけじゃないから、名村の仕事ぶりは相変らずだ。

 名村の生家は、農家だということだった。だから、体格はいいし、力も強い。力仕事や甲板掃除には彼は向いている。ところが背が低いものだから、吊床操作には不適だった。ハンモックは梁(はり)にフックがあり、それに環をかけるようになっている。ところがこの部隊の梁は相当の高さがあり、飛び上ってそれに引掛けるのが骨なのだ。僕は背丈が五尺七寸[やぶちゃん注:一メートル七十二センチ七ミリ。]ばかりもあるが、それでも大昔労だった位だから、五尺二寸の名村にとっては大変な事だっただろう。環を掛けようと、ピョンピョン、小野道風の蛙(かえる)のように飛び上る。それがまた、兵長等の嘲弄の的となるのだ。

「何だい、その恰好は。平家ガニみたいな面(つら)しやがって」

 吊床訓練は、先に吊り終った者から走って行き、一列に並ぶ。たいていの場合、名村は後の方だ。上水のくせに一水より遅いのは何ごとかと、箒(ほうき)の柄で力まかせに尻を引っぱたかれる。名村は顔を歪めて、それを受けるのだ。

 吊床訓練は僕も苦手だったけれど、名村がいるおかげで、いくらかたすかっているようなものだった。その点について、名村も考えるところがあったらしく、一度僕と木原を兵舎のかげに呼んで、こう言ったことがある。

「お前ら、応召の一等兵のくせに、ナマイキだ」

 巡検の済んだあとの時間だ。兵舎のかげは暗くて、名村の表情は見えなかった。

「何がナマイキですか?」

 と木原がとんまな反問をした。

「なに。口答えするか!」

 名村は僕等二人を並ばせて、僕等の頰を二つずつ殴りつけた。そして言った。

「お前らは、吊床のやり方が早すぎる。俺より早くやったら、承知しないぞ」

 僕らは黙っていた。頰げたがヒリヒリと痛んだ。この名村の命令は、無理難題というものだった。名村が言う通りにすれば、兵長から僕らが殴られることになる。そんなムチャな話はない。

 僕と木原は、こんな具合にして、時々名村から殴られた。木原が一度怒って、僕に相談を持ちかけたことがある。

「野田兵長に訴えてやろうか」

 さっきも言ったように、殴る権力を持っているのは兵長だけで、上水のくせに一水を殴ったことが判れば、名村はひどい眼にあうに決っている。だから木原がそう言うのだが、僕はとめた。告口はいやだったし、またいずれ名村も兵長に昇進する筈だから、その節復讐されるかも知れない。そのことも考慮に入れる必要があったのだ。

 名村が僕らを殴るのは、いつも巡検後、しかも人目につかない暗がりでだ。上水が一水を殴っているところを、人に見られちゃ、名村も困るのだろう。しかも、面白いことには(あまり面白くもないが)、名村が殴るのは僕ら二人だけなのだ。志願兵の若い一水を殴るのは、控えているようだった。若い一水を殴ると、兵長に告口されると警戒したせいか。僕ら二人は老兵で、居住区でも孤立した存在だったから、安心して殴っていたのかも知れない。

 しかし木原がある時、こういう仮説を立てた。

「あいつ、年下から殴られてばかりいるんで、年長の俺たちを殴って、腹いせしてるんだぜ。きっとそうだ」

 この仮説は、あるいは正しかっただろう。しかしそんな名村の気持の動きを、僕は是認するわけには行かない。年下から殴られて辛ければ、年長者を殴ることを慎しむのが本道だ。そう僕は考えるのだが、名村はそう考えなかったのだろう。名村が僕らを殴るのは、どうも彼が忿懣(ふんまん)やる方なき時なのだ。むしゃくしやする気持を、僕らを殴ることによってはらす。それが彼のカタルシスなのらしい。カタルシスの道具になる僕らこそ、迷惑な話だったけれども。

 しかし僕らにとっては、兵長から殴られても、名村から殴られても、気持の厭さにおいては大差がなかった。どちらもはるか年下である点では同じだ。どちらも子供なんだ。

 子供と言えば、若い一水やあるいは上水の中に、身体の成熟を未だとげていないのもいたくらいだ。隊内には温泉が湧く。この隊のあるQ町というのは温泉地帯で、隊内にも湧口がひとつある。僕らは夜の甲板掃除後、あるいは巡検後、やっとそれに入れるのだが、一緒に入る若年兵の裸を観察すると、いまだに発毛がなくスべスべしてるのがいる。不具ではなくて、生理が発毛の段階まで達していないのだ。

「こんな連中と一緒にやってんだからな」

 木原が時折そう嘆くのも無理はない。服をつけるとちゃんとした上等水兵で、僕らが敬礼しなけれはならないのが、裸になると葱の白根のようにスべスべしている。あんまり愉快な気持じゃなかった。

 

 温泉風呂のことを、ちょっと書いて置こう。

 僕らが入るのは夜遅くなので、すっかりぬるくなっている。と言うのは、この湧口のはもともとぬるいので、将校や下士官が入る時は、石炭で加熱するのだ。それもせいぜい午後六時か七時までで、それ以後は本来の温度に戻る。摂氏何度ぐらいか、計ったことはないが、相当にぬるかったことは確かだ。とにかく僕らが、甲板掃除などで身体が冷え切って、しかも足にはヒビやアカギレが出来ているのに、服を脱いでいきなり飛び込んでも、全然沁みたり熱かったりしないのだ。実に快適にスポッと入れる。それはいいけれども、今度は出るのが大変なのだ。湧口の近くは、いくらか熱いが、そこは上水や兵長が入っているので、近づけない。湧口から一番遠いところで、我慢しなければいけない。

 だから僕らはおおむね、巡検後に入ることに決めていた。巡検後と言えば、眠る時間を使用することになり、勿体(もったい)ない話なのだが、しかしその時間は入浴者が少なく、湧口近くに行けるという利点があったのだ。

 ある時、僕と木原が入っていると、脱衣場の方から名村が裸で入ってきた。広い湯槽には僕ら二人だけだったのだ。たしかその夜、巡検後の整列があり、その後のことだから、巡検から一時間も経っていたと思う。名村は手拭いで軀(からだ)をしめしながら、じろりと僕らの方を見た。

 僕らはそろそろと身体を動かせて、湧口の位置を名村にゆずった。名村はざぶりとそこに身をひたした。

「お前らは、いつも今頃、風呂に入るのか?」

 と名村は不機嫌に質問した。

「そうです」

 木原がおとなしくそう答えた。すると名村はじろじろと僕らの方を見ていたが、

「おい。お前たちは、年はいくつになる。生年月日を言って見ろ」

 誰もいないものだから威張ってやがる、と思ったけれど、逆らうとうるさいので、僕らは生年月日を答えた。僕は大正四年生れだが、木原は、明治生れだ[やぶちゃん注:梅崎春生は事実、大正四(一九一五)年二月十五日福岡市生まれである。]。明治と聞いて、名村はちょっと表情を歪めた。

「なに。明治だあ?」

 そしてふと考え込む顔付になった。明治という年号から、自分の父親のことでも思い出したのかも知れない。しかしすぐ不機嫌な表情になって、

「おい。お前たち二人で、俺の身体を洗え。寒いから手早くやるんだぞ」

 ざぶざぶと流し場に上って行った。こちらはもっとあたたまっていたいのだが、止むを得ずざぶざぶと上って、手拭いに石鹸をつけ、蟹のような名村の身体を洗い始めた。もっと力を入れろ、こすり方が手ぬるい、などと名村が文句をつけるので、力まかせにごしごしやっていると、脱衣場の方から、

「こらあ、カニの野郎!」

 と怒鳴る声がした。はっと振り返ると、野田という若い兵長だ。名村はしまったと思ったらしく、あわてて僕らを突きのけようとしたが、もう遅かった。

「上水のくせに、背中など流させやがって!」

 そう言いながら、野田はつかつかと入って来た。

  僕らはその姿勢で、じつとしていた。すると野田は、いきなり名村の肩と腕を摑(つか)むようにして、ずるずると引張り、湯槽の中に力まかせに突き飛ばした。名村は湯煙を立てて、シャバン[やぶちゃん注:ママ。]ところがり込んだ。僕らは息を詰めて、それを眺めた。やがて名村の首が、ひょいと湯の表面にあらわれた。野田が大声で怒鳴った。

「上ってこい」

 野田の手には、大きな湯搔(ゆか)き棒が握られている。それを見ると、名村は顔色を変えて、眉の根をふくらませたが、やがて観念したように、ふてくされてのそのそと上ってきた。そして上半身をやや前に屈し、両手を伸ばして、尻を殴られる規定の姿勢をとった。野田の棒が大きく振り上げられた。肉と棒とがぶっつかる鈍い音が名村の尻に鳴って、名村はうっとうめいた。

「この野郎。この野郎!」

 棒はつづけざまに打ちおろされた。

 僕ら二人は流し場のすみから、その光景を見ていたわけだ。野田も名村も、まったくの裸だ。裸の男が、裸の男を棒でなぐつている。うすぐらい電燈の下で、それは何だか地獄の出来事のような、陰惨で残虐な感じだった。名村は野田から十本ばかり尻をなぐられ、とうとう動けなくなって、床にうずくまってしまった。野田はなおも罵声を発していたが、名村が動かないので、棒を捨てて湯の中にざぶりと飛び込んだ。裸だから、彼も寒かったに違いない。野田が上るまで、名村は流し場にうずくまって、動かなかった。皮膚が破れて、尻は血で濡れていた。

 野田が風呂を出て行ってしまうと、僕らは何だか放って置けなくなって、名村の傍に行った。背中から手を廻して、抱き起そうとした。名村の裸は、濡れた瓦みたいにつめたかった。抱き起そうとする僕を、名村がじろりと振り返った。口が動いた。

「覚えてろ!」

 そして僕のたすけを拒否しながら、名村はよろよろと立ち上った。

「余計なことするな!」

 その瞬間、僕はやはりこの名村に、同情と憐憫(れんびん)の情を強く感じていた。どんな強がりを言ったところで、つまりは彼は孤独なのだし、その孤独のやり切れなさを持ちあつかいかねているに違いなかったからだ。しかし、力をかそうとする僕の掌を、彼は力をこめてピシリと打った。

「余計なことをするな!」

 

 しかし、名村は、時に僕らを殴るとは言え、彼は志願兵たちよりも、僕らの方に親近を感じていたことは否めないと思う。僕らと名村は、志願兵たちの中では、異端である点で一致し、被害者である点で一致していたからだ。けれども彼は、僕らと親近であることが時にやり切れなくなって来るらしい。それは自分が惨めな被害者であることを、認めるようなものだからだ。

 上陸日(外出日のこと)が、時に名村と一緒になることがある。すると名村は、他の兵隊とではなく、必ず僕らの方に近づいて来て、行動を共にしようと言うのだ。断ったり渋ったりする気配を見せると、怒り出す。半強制的なのだ。

 僕らは名村に連れられて、町の共同浴場に入ったり(隊の風呂とは違って、湯も満々としているし、熱かった)、飲食店などに入ったりした。外出日というと、名村は朝から、割に快活になっている。一日の自由が確保されているという意識が、自ずと彼の態度を快活にさせるらしい。上陸員整列の前に、下士官や兵長に「上陸させて頂きます」とのあいさつを欠かしてはならないのだが、名村は一度などはそれを忘却して、お陰で翌日上陸員総罰直を食ったこともある。

 隊門を出ると、まああと数時間か十数時間は、自由の時間だ。僕も出来れば一人になって、自由にふるまいたい。何も好んで名村みたいな陰欝で気の利(き)かない若造と、行を共にしたくないのだけれど、上水の命令であれはいたしかたない。名村はそんな僕の気持も知らず、せっせせっせと歩き廻り、忙しく自分の自由を満喫するのだ。隊門から町まで、田舎の中を大路が貫いている。そこを歩きながら、この畠の風景が自分の田舎のそれに似ていると、僕にくどくどと説明して聞かせたりする。彼の生家は佐賀県の田舎で、彼は五人兄弟の一番末弟らしい。そんなことを問わず語りに話して聞かせる。そんな時の彼の話しぶりは、楽しげと言うよりも、イライラしているような具合で、そういう故郷の幸福に戻りたいという願望が、切なく胸にあふれているようだった。そして、その切なさを聞かせる相手に、彼は僕らを選ぶのだ。

 せまい町中だから、一廻りしてあちこち寄ったって、なにほどの時間もかかりゃしない。結局、名村が僕らを引っぱって行くのは、自分の下宿だ。

 下宿というのは、上陸の度にそこに寄って休息したりする民家のことで、ことに上水以上には必要なものだった。一水は、朝外出して、夕方には戻って来ねばならないが、上水は二度に一度、あるいは三度に一度、外泊が許される。そこでどうしても下宿が必要なのだ。

 名村の下宿は、町外れの小さな農家だった。その納戸(なんど)みたいな一部屋が、名村の部屋だ。名村の部屋と言っても、彼は五日か六日に一度の外出だから、他の外出日の兵と共同で借りていることになる。その部屋には小さなイロリがあって、その前に大あぐらをかき、豆や菓子をつまみながら茶を飲んでいる名村の姿は、実に陰気な幸福にあふれていた。

 僕らの帰隊時間は午後六時だ。しかし六時きっかりなどに帰ろうものなら、一等兵のくせにナマイキだと叩かれるから、五時半には戻っていなくてはならない。五時半に戻るには、名村の下宿を五時に出発せねば間に合わない。

 その五時までの時間、イロリを囲んで名村と対坐しているわけだが、ふしぎなことには名村は自分のことばかりを話して、相手の話をほとんど聞きたがらないのだ。たとえば、自分の故郷のこと、自分の少年時代のこと、自分の友人のこと、などを次々に、誇らしげにあるいは詠嘆的に、僕らに話して聞かせる。そのくせ、僕らの経歴や故郷については、ほとんど興味を示さない風だった。無関心と言ってもいい位で、つまり僕らは彼にとっては、過去を持った現実の人間ではなく、単に水兵服を着た現象みたいにしか見えなかったのだろう。そうだ。僕らは単に相槌(あいづち)を打つ現象に過ぎなかった。

「お前らにゃ判らないだろう。え。俺の村の良さがさ」

 僕らはそんな名村の言葉にも相槌を打つ。

 そろそろ五時が近づいて、彼は外泊、僕らが帰隊の仕度を始めると、名村はふいに不機嫌な仏頂面(ぶつちょうづら)になる。あるいは毒々しい言葉で、僕らを嘲弄し始めたりするのだ。

「可哀そうなもんだな一等水兵は。たまにゃお前たちも、ハンモックじゃなく、ふつうの寝床に寝たいだろうな」

 その願望は強く僕らにある。それをちゃんと名村は見抜いていて、そんな厭がらせを言うのだ。僕らは形式的なあいさつをして名村の部屋を出る。うしろから名村が聞えよがしに言う。

「可哀そうなもんだよう、一等兵さまは」

 僕らは寒風が吹きぬける大路を、急ぎ足で隊門に戻りながら、今夜の、また明日からの日課のことを物憂く考えている。一晩布団にくるまって寝ようとも、翌朝六時には隊に戻って来ねばならんじゃないか。それがいかほどの幸福か。などとも思って見るのだが、やはりふつうの布団にくるまって、一人で眠るということは、なにか羨しいことだった。この気持は、軍隊生活の経験ある人でないと、判らない気持だろうけれども。

 

 名村富五郎上水がある夜ふしぎな脱走の仕方をした。いや、脱走と言ってはウソになるだろう。彼は夜中に突然居なくなって、翌朝九時頃、ぼんやりと痴呆のような表情で戻って来たのだから。

 それは冬にしては風のない、割にあたたかな夜だった。名村上水はその夜、防空電信室の当直に当っていた。防空電信室は、空襲の時に使用するために作られたものだが、その頃はまだ空襲がない頃だったから、時々巡検後の整列に使用されるだけで、誰か一人兵隊が当直として、無電機類の番をするだけだった。これは一人配置だし、ちょっと淋しいけれども。[やぶちゃん注:句点はママ。]仕事としてはラクだった。そこに居るだけでよかったのだから。

 で、名村はそこの当直で、一人だけだった。

 防空電信室というのは、大きな半地下濠で、頑丈(がんじょう)な仕切りで隔てられた部屋がいくつかある。建物から相当離れているから、しんしんと静かだ。物音一つも聞えない。空気はしめっぽく動かない。当直のいる部屋は、二十畳はどの広さで、周囲にはぐるりと無電機を置く棚があり、無電機もいくつかは乗っている。僕も一度この当直にあたり、一晩寝たことがあるが、孤独であることは楽しかったけれども、なんだか恐くて、うなされたりして良く眠れなかった。この配置はしかし、朝、割に寝坊が出来るので、上水以上が独占して、なかなか一水には廻して貰えないのだ。

 夜の十一時頃、ある下士官が用事があって防空電信室に行って見ると、当直用の毛布はしいてあったが、名村の姿は見えなかったと言う。便所にでも行ったのかと暫く待ったが、戻って来ない。名村はどこに行ったのかと、それでちょっとした騒ぎになった。それからあちこち探したけれども見当らない。

 翌朝になっても、名村の姿はどこにも見えない。暗号士や掌暗号長などが額を集めて相談している。他隊に知られると通信科のカブが下るし、と言って、かくして置いても責任問題となる。そんなところへ、どこからともなく名村の姿が、ひょっくりと暗号室に現われて来た。顔は痴呆のようにげっそりしているし、あちこちで転んだと見えて、事業服は泥だらけだ。

[やぶちゃん注:「掌暗号長」通信科内の暗号管理の実務エキスパートで、恐らくは兵曹長である。この上にさらに全体を統括する原則、海軍将校が就いた(狭義の「海軍将校」とは原則、海軍兵学校・海軍機関学校卒業生だけを指す。但し、兵学校選修学生出身の特務士官〔海軍の学歴至上主義のために大尉の位までに制限配置された後身の準階級で、叩き上げの優秀なエキスパートであっても、将校とはなれず、将校たる「士官」よりも下位とされた階級。兵曹長から昇進した者は海軍少尉ではなく、海軍特務少尉となった〕も特例として就けた)暗号科内の最高責任者である「暗号長」の職務を補佐し、全体を指揮監督する「暗号士」がいたものと想定される。

「事業服」海軍軍装の一種の正式呼称。正装の軍服ではないが、作業服の一ランク上のものであったらしい。ミリタリーグッズ・革ジャンの専門店「中田商店」のこちらのようなものかと思われる。]

「どうしたんだ」

「どこへ行ってたんだ」

 そんな質問に対しても、名村は蟹(かに)のように口から小さな泡をふきながら黙っている。熱病やみみたいな、ぎらぎらする眼付だった。

 やがて、彼がぽつりぽつりと話し出したことは、まことに奇怪だった。僕はその時当直で暗号室に詰めていたし、その話は僕のすぐ背後だったから、よく聞きとれたのだ。

 以下、名村の話。

 巡検ラッパがかすかに聞えて来たので、彼は毛布をしいて、事業服の上衣を脱いだ。そして毛布に入ろうとすると、通路の方から足音がして、扉から見知らぬ下士官の顔がのぞいた。

 名村はびっくりして顔を上げた。

 するとその下士官は、自分は看護科の××兵曹(その名は名村は忘れた)だが、一寸聞きたいことがあるから、看護科まで来て呉れ、と言う。そこで名村は起き上り、上衣をつけた。その間その下士官は扉の側に立って、じつと名村をにらむように見詰めていたと言う。

 上衣を着けて、名村はその下士官に連れられて、通路に出、そして防空電信室を出た。空には星がたくさん出ていた。暗い草地をしばらく歩くと、そこに小さな小屋のような建物があった。こんな建物があるとは、名村は夢にも思っていなかったので、彼はびっくりした。それは丁度、本部と防空電信室の中間ぐらいに位置していたと言う。(あとで実地検証したけれども、もちろんそんな建物はなかった)

 下士官はその建物の扉を押して入った。名村がためらっていると、下士官はふり返って、妙な笑い方をしながら、彼においでおいでをした。そこで名村も、変だと思ったけれども、ついに扉の中に入った。扉の中は、まっくらだった。

 ここでいきなり名村の記憶は途(と)切れる。あとどうなったか、何も思い出せぬと言う。

 ――気がついた時、朝の六時頃で、そろそろ明るくなりかかっていた。彼は山の中の、道もないようなところを歩いていたと言う。さし交す樹々の梢から、朝露がひっきりなしに落ちて、服はぐしょぬれだった。名村はびっくりした。何故自分がこんなところを歩いているのか、全然理解出来なかったのだ。

 それから必死になってムチャクチャに歩いている中に、小さな部落に出た。その部落の人に朝飯を食わせて貰って、今やっと戻って来たのだと言う。その部落は、隊から一里ほど離れたところにあった。

 この名村の陳述は、一時間ばかりかかってポツリポツリと行われた。そしてそれは、暗号長等に全面的に信用されたかどうか、僕は知らない。しかし結局、この事件は表沙汰にはならなかったようだ。表沙汰にすれば、名村は勿論(もちろん)のことだが、上級者の責任ということにもなる故だったのだろう。

 しかし僕にしても、名村のその陳述を信用するか否かになると、どちらとも決めかねる。信用する側に立てば、軍隊を脱出したいかねての欲望が、そんな夢中遊行を生んだとも思えるが、どうもそこらもハッキリしないのだ。

 僕は今でも名村のことを時々思い出す。あの若いのに陰欝な風貌や、蟹(かに)に似た姿体などを。

 あの航空隊にいる時、僕と木原に下士官候補を受けろという命令が来て、出発することになった。その時名村が感慨深げに言った。

「すると二箇月後は、お前らは下士官というわけだな。全くバカにしてやがるな」

 そして嘲(あざ)けるような声で笑った。僕はその笑い声を、思い出そうとすれば、すぐ耳の側で聞えるような近さで思い出すことが出来る。

 

2019/12/20

小泉八雲 祖先崇拝に就いて (戸澤正保訳) / その「一」・「二」・「三」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“SOME THOUGHTS ABOUT ANCESTOR-WORSHIP”。「祖先崇拝に就いての幾つかの考察)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の第十四話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。また、本篇は本作品集ではなく、雑誌『大西洋評論』(Atlantic Monthly)の初出(クレジットは不詳)である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 文中に入る添え辞は下方インデント一字半上げポイント落ち、注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、注は前後を一行空けた。引用も同ポイントで全体が四字下げであるが、引き上げた。傍点「ヽ」は太字に代えた。全六章と長いので分割して示す。

 訳者戶澤正保(底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している)氏については私の「小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保訳)」の冒頭注を参照されたい。]

 

      第十四章 祖先崇拜に就て

 

「阿難聞け、沙羅樹林周地十二里の間、一毛頭の尖端を以て衝きたる程の地と雖も、强剛なる靈鬼の普及遍在せざるはなし」

      ――「大般涅槃經」

[やぶちゃん注:「大般」(だいはつ)「涅槃經」「Mahāparinirvāṇa Sūtra」(マハーパリニルヴァーナ・スートラ)。釈迦の入滅(=「大般涅槃」)を叙述し、その意義を説く経典類の総称。阿含経典類から大乗経典まで数種ある。平井呈一氏は恒文社版「祖先崇拝の思想」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では、

   《引用開始》

「世尊(せそん)、阿難比丘、(あなんびく)、娑羅林(しやらりん)の外(そと)此(こ)の大会(だいえ[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「だいゑ」が正しい。])を去ること十二由(ゆじゆん)旬に在(あ)り、六万(まん)五千億(せんおく)の魔(ま)に繞乱(ねうらん[やぶちゃん注:現代仮名遣では「にょうらん」。])せらる。」

   《引用終了》

と訳しておられる。但し、この意訳の元とされた漢訳経文は不詳である。]

 

       

 祖先崇拜は、今も種々な目立たぬ形で、歐羅巴の最高文明國の或る者に、殘存して居るといふ事實は、餘り廣く知られてないので、現在そんな原始的な禮拜を實行しつつある非アリアン民族は、必然的に原始的な宗敎心に停まつて居る者のだと考へる者がある。日本を批評する者も、此輕率な判斷を下して居る。そして日本の科學的進步の事實や、高等な敎育制度の成功と、祖先崇拜の繼續とを、合はせて說明し能はざることを白狀して居る。神道の信仰と近代將學の知識が、如何にして並立するであらうか。科學上の專門家として名を博した人間が、尙ほ家庭の祠を拜し、鎭守の明神の前に額づくのはどうしてであらう。これは信仰の滅後に、形式のみが保留せられるというに過ぎぬであらうか。も少し[やぶちゃん注:ママ。]敎育が進步したなら、神道は形骸としてさへ、存在せざるに至る事は確實であるのではあるまいか。

[やぶちゃん注:「非アリアン民族」原文“non-Aryan race”。「アーリア」は「高貴」を意味するサンスクリット語「ārya」に由来し、インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語を用いる諸人種の内のコーカサス人種(コーカソイド)。本来はインドやイランに定住した一支派指し、人種・民族(race)名ではないが、この後、ナチスは「この人種は金髪・青い目・長身・痩せ型という身体特徴を持ち、その正統的代表こそがゲルマン民族である」としたことは周知の通りであり、“non-Aryan race”という考え方自体が差別的言辞として既にしてこの時代に欧米人の有意的優位の符牒として独り歩きしていて、かく語られていることを理解せねばなるまい。]

 かういふ問を發する人達は、西洋の宗敎の繼續に就ても同樣の問が發せられ、つぎの世紀まで、それが殘存するや否やに就ても、同樣の疑が述べられる事を忘却したと見える。實際、神道の敎義は、正敎(オーソドツクス)基督敎よりも、より多く近代科學と不調和なものでは決してない。極めて公平に硏究して見ると、神道の敎義は却つて不調和の點が少いと云ふを憚らない。其敎義は、我々の正義の觀念と衝突することが少い。そして佛敎の業(がふ)の觀念の樣に、科學上の遺傳の事實と著しい相似の點がある――其相似の點は、世界の何(ど)の大宗敎の眞理の一分子にも劣らざる、深い眞理の一分子を、神道が含有することを證明して居る。出來るだけ簡單に云ふと、神道に於ける眞理の特殊な分子は、生者の世界は死者の世界に依つて、直接に支配せられるといふ信念である。

 人の凡ての衝動或は行動は、神(かみ)の業(わざ)であるといふ事、及び凡ての死人は神(かみ)となるといふ事が、此宗敎の基礎觀念である。とはいへ、カミといふ語はディチー、ディビニティ、或はゴツドといふ語で譯されるが、實は此等の英語にある樣な意味は有せず、又此等の英語が、希臘、羅馬の古信仰に用ゐられる時程の意味をも有せぬといふ事は忘れてはならぬ。カミは宗敎外の意味で上(アバブ)に在る[やぶちゃん注:above。]者、優れたる(スーペリオー)[やぶちゃん注:superior。]者、上級なる(アツパー)[やぶちゃん注:upper。]者、高き(エミネント)[やぶちゃん注:eminent。「地位の高い・高名な・優れた」の意。]者を意味し、宗敎上の意味では、死後超自然力を得たる人間の靈を意味するのである。死者は『上に在る力』であり、『上級な者』――卽ちカミである。此思想は近代の神靈學の幽靈といふ槪念に酷似して居る――ただ神道の觀念は、眞の意味に於て民衆的(デモクラチツク)でない。神は其格式と力に於て相互に大いに異れる幽靈である――昔の日本社會の階級制度の樣な、靈的階級制度に屬して居る幽靈である。神は或る點に於ては、本質的に生者に優れて居るが、それにも拘らず、生者は神を喜ばし或は怒らし、滿足させ或は侮辱を感ぜしむる事が出來る――時には神の靈界に於ける境遇を改善することさへ出來る。そこで日本人の心には、死後の祭典は、眞劍事で決して遊戲ではないのである。例せば今年になつてからも(これは一八九九年九月に書いたものである)[やぶちゃん注:丸括弧内は二行割注。これは小泉八雲の原注をここに挿入したもの。]有名な政治家や軍人が、死後直に位階を進められて居る。遂此間も[やぶちゃん注:「ついこのあいだも」。]自分は官報で『陛下は最近臺灣で薨去した男爵山根少將に、勳二等旭日章を追賜せられる』旨を讀んだ。かういふ恩澤は、ただ勇敢な愛國者の記憶を尊重する爲めの形式と考へらるべきでない、又は遺族を表彰する爲めのみのものと考へてはならぬ。これは本質的に神道なので、凡ての文明國中、日本獨得の宗敎的特質である所の、現界靈界の密接なる關係を例證するものである。日本人の考では、死者も生者と同じく現存するのである。死者も人民の日常生活に參與し、どんな詰まらぬ喜びでも悲みでも、生者と共に分かつのである。家族の食事に侍し、家庭の幸福を監視し、子孫の繁榮を助け且つ喜ぶのである。或は練物行列[やぶちゃん注:「ねりものぎやうれつ」。広義の祭り・祝祭に於ける行列のこと。]に、或は凡ての神道の祭事に、或は武術の競技に、或は死者の爲めに、特に奉納したあらゆる興行物に、來會するのである。そして一般に献納の供物、下賜の尊稱を喜ぶものと思はれて居る。

[やぶちゃん注:「ディチー」“deity”。ラテン語の「dea」(神々)と「deus」(神)或いはサンスクリット語の「devatã」(女神・神々)や「divya」(天の、神々の)などの他のインド・ヨーロッパ語族の単語と同根。

「ディビニティ」“divinity”。「神性・神格・神位・神・神の研究・神学」などの意。語源はラテン語の「divinus」が語源でやはり「deus」がもと。

「男爵山根少將」日本陸軍の軍人山根信成(嘉永三(一八五一)年~明治二八(一八九五)年)。ウィキの「山根信成」によれば、『長門国(長州藩)萩(現・山口県萩市)出身』。『明治維新後、陸軍に入る。明治一四(一八八一)年に歩兵第十二連隊長となり、明治十七年には『歩兵大佐に昇進した』。明治十九年、『大阪鎮台参謀に就任』、明治二十一年、第四『師団参謀長に異動』、明治二三(一八九〇)年、『陸軍少将に進級し』、『歩兵第』七『旅団長に就任』明治二十七年、『近衛歩兵第』二『旅団長となり』、『日清戦争後の台湾に派遣され』、『乙未戦争』(いつびせんそう:日清戦争後の下関条約によって日本への台湾割譲が決まったが、上陸した日本軍に対し、清国の残兵や一部の台湾住民が抵抗し、戦闘となった事件)『に参加』したが、『翌年』十月に『台湾で戦病死した』。死に際して十月一日(実際の没日は同月二日)、『その功績により』、『臨終に際して華族に列し』、『男爵を叙爵し』、『子息の山根一貫(陸軍少将、侍従武官)が家督を継承した』とある。さすれば、小泉八雲の原注の意味は九月末に書き始めて、この部分では既に十月になっていたということになろう。]

 

 此小論文の目的には、神(カミ)は死者の靈として考へれば十分である――國土を創り出したと信ぜられて居る最初の神と、此神(カミ)とを區別することなどはせずとも。カミといふ語の總括

的な解釋はこれだけにして、再び、凡ての死者は此世界に住み世界を司宰し、人の思想行爲に感化を及ぼすのみならず、自然界の狀態にも影響を及ぼすといふ、神道の大觀念に還らう。本居翁は書いてる[やぶちゃん注:ママ。]、『神は季節の變更、風、雨、國家及び個人の幸不幸をも司る』手短に云ふと、彼等は凡ての現象の背後に在る見えざる力である。

[やぶちゃん注:最後の部分は本居宣長(享保一五(一七三〇)年~享和元(一八〇一)年)の「直昆霊」(なおびのみたま:明和八(一七七一)年成稿で全一巻。宣長四十二歳の時の著。かの「古事記伝」第一巻の総説に収められてあったが、死後二十四年経った文政八(一八二五)年には改めて当該部が単行本として刊行されている。表題は、「直毘神(なおびのかみ)の御靈(みたま)により、漢意(からごころ)を祓い清める」の意(直毘神は「穢れを払って禍(まが)を直す神」などと解される一柱で、日本神話の「神産み」に於いて、黄泉国から帰った伊耶那岐(いさなき)が禊(みそぎ)を行って黄泉の穢れを祓った際、その穢れから「禍津日神(まがつひのかみ)」が生まれてしまい、この禍津日神が齎す禍を直(ただ)すために生まれたのが直毘神であるとする)。本書は「古事記」の本質を体系的かつ簡潔に論述したもので、宣長の日本本来の純粋な古神道に還って「惟神(かんながら)」の道を説く、宣長の〈古道論〉を代表する著作である。私は同書を所持しないので、平井呈一氏は恒文社版「祖先崇拝の思想」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)の平井氏の訳者注にあるものを以下に漢字を恣意的に正字化して引く。『すべて比世中の事は、春秋(はるあき)のゆきかはり、雨ふり風ふくたぐゐ、又國のうへ、人のうへに、吉凶(よしあし)きよろづの事、みな悉(ことごと)に神のしわざと知るべし』。]

 

        

 此の古代的心靈學から引き出さる〻、尤も興味ある學說は、人間の衝動、行爲を死者の影響に原由するものとして說明する事である。此假說(ハイポセシス)[やぶちゃん注:“hypothesis”。音写は「ハイパサェスィス」に近い。]を、近代の思索家は、不合理のものと斷言する譯に行かぬ。何となれば、それは心靈進化の科學的學理が承認せざるを得ぬものであるからである。此學理に依ると、生者の腦髓は各無數の死せる生命が構成した作品を示すものである――各性格は無數の死せる善惡の經驗が多少不完全ながら相殺された總計である。我々が心靈の遺傳を拒否しない以上、我々の衝動と感情及び感情に依つて發展した高尙な能力は、字義通りに死者に依つて作られ、死者に依つて我々に讓られたといふことを、又我々の心的活動の一般方針も、我々に讓られた特殊の性向に依つて定められたものであるといふ事を、正直に拒否することは出來ぬ。かういふ意味では、死人はいかにも我々のカミであり、我々の凡ての行爲は、眞にカミに依つて影響せられる。形容して云ふと、凡ての心は幽靈の住家(すみか)である――神道が認める八百萬のカミよりも、ずつと多い幽靈の住家である。そして腦髓實質の一グレーン[やぶちゃん注:“grain”。重量単位。一ポンドの七千分の一で、約六十四・八ミリグラム。]に住む幽靈の數は、針の尖端に立ち得る天使の數に就て、中世の煩瑣學者[やぶちゃん注:原文“schoolmen”。「スコラ哲学者たち」の意。中世ヨーロッパで教会・修道院付属の学校や大学を中心として形成された神学・哲学の総称。教会の権威を認め高めて教義の学問的根拠づけがその属性である。続く皮肉からの戸澤氏に意訳であるが、後の平井呈一氏も同じく『煩瑣学者』と訳しておられる。]が考へた、取も留めもない空想を實現して餘りあるものと云ひ得る。科學的には、我々は小さな生ける細胞の中には、一種族の全生活が――幾百萬年の過去に、そして幾百萬の亡びた世界で感受した感情の總額が、貯藏せられることを知つて居る。

 併し針の尖端に集まるといふ點に於ては、惡魔も天使に劣らぬであらう。神道の右の說では、惡人と惡行を何と解釋するか。本居翁は之に答へて居る。『世の中に何にても間違つた事が行はれるのは、禍津神(まがつみ[やぶちゃん注:戸澤氏の施したルビであるが、ママ。ここは原文では“the evil gods”である。以下、戸澤氏は本文でも「まがつみ」という表記で訳してしまっている。「まがつみ」は通常、「わざわい・災厄」という現象自体を指すが、転じて「邪気」や「邪神」の意に使われることもなくはないようだが、ここは普通に「まがつかみ」と表記すべきであると私は思う。])の神と云はれる惡神達の所爲である。此神の力は大にして、日の神も天地創造の神も、時には制へる事が出來ぬ。まして人力にては、彼等の影響に抵抗すべくもない。惡人の榮華、善人の不運は、普通の正義の觀念に牴觸[やぶちゃん注:「牴」は「抵」の異体字。]する樣に見ゆるが、これで解釋することが出來る』あらゆる惡行は惡神の影響に依る、そして惡人は惡カミとなる。此極めて簡單な信仰には何等の矛盾がない――何等了解し難い點がない

[やぶちゃん注:宣長の引用部について、平井呈一氏は恒文社版「祖先崇拝の思想」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)は訳者注で「直昆霊」の原文を引いておられる。先と同様、漢字を恣意的に正字化して以下に示す。

   *

禍津日神(まがつびのかみ)の所爲(しわざ)こそ。いともかなしきわざなりけれ。萬の厄(まが)はみな此神の所爲(しわざ)也。すべて此世に有りとある事は。春秋(はるあき)のゆきかはり。雨ふり風ふくたぐひ。又國のうへ人のうへに。吉凶(よきあし)きょろ[やぶちゃん注:ママ。]づの事。みな悉(ことごと)に神のしわざと知べし。さて神には善(よき)もあり惡(あし)きも有て。所行(しわざ)もそれにしたがへば。大かたよのつねのことわりをもて定(さだ)めていふべきにあらす[やぶちゃん注:ママ。]。きはめてはかりがたき物ぞ。‥‥(中略)‥‥下なる諸人(もろびと)のうへにも。善惡(よきあし)き驗しるし)を見せて。善人(よきひと)はながく福(さか)え。惡人(あしひと)は速(すみや)けく禍(まが)るべき理(ことわり)なるを。さはあらでよき人も凶(あし)くあしき人も吉(よき)たぐひ。昔も今もおほかるはいかに。もし實(まこと)に天のしわざならましかば。かかるひが事あらましやは。」

   *]

 

註 自分は神道學者に依つて說明せられる、純粹な神道のみを論じて居るのである。併し日本では佛敎と神道とが相互に混淆して居るのみならず、支那の各種の思想とも交じつて居ることを讀者に告げ置くの必要がある。純粹の神道の思想が、其昔ながらの姿で、民間の信仰に存在して居るかどうかは疑はしい。又我々は神道に於ける靈魂複體の說に關しては――心靈の組織は本來死に依つて崩潰するものと考へられたかどうかに關しては明確でない。日本各地に於ける調査の結果、自分の意見では、複體靈魂に昔は死後も複體として遺ると信ぜられたらしい。

 

 凡て惡行を犯した者が、必然的にまがつみの神[やぶちゃん注:ここも英訳されて““gods of crookedness””(「『ねじ曲がってしまった状態にある不正なる存在としての神々』」の意)である。前に注したように、私には受け入れがたい。但し、私の電子化を読まれる読者諸君には五月蠅いだけであろうから、向後はこの不審注は出さない。]となるといふ事は確實でない、其理由は後に判かる。併し凡ての人は、善かれ惡かれカミ卽ち感化力となるのである。そして凡ての惡行は惡感化の結果である。

[やぶちゃん注:以上の段落は、原文では段落として独立しておらず、先の段落の末尾「――何等了解し難い點がない」と繋がっている。戸澤氏が注を挟んだ結果、或いは校正係が、一字下げて独立段落としてしまった可能性が疑われる。

 さて此の敎は遺傳の或る事實と一致する。我々の最善の能力は確に我々の最善の祖先の讓り物である。我々の惡性能は、惡、若しくは今、我々が惡と呼ぶ所のものが、嘗て優勢であつた人間からの遺傳である。文明に依つて我々の心に發展した倫理的知識は、我々の死せる祖先の最善の經驗から誤り受けた高尙な能力を增進せしめ、又承け繼いだ劣惡の性向を減殺せしめることを要求する。我々は我々の善きカミに叩頭し、服從し、我々のまがつみの神に反對するの義務がある。此の善惡兩神の存在の知識は、人間の理性出現と同時に發達したものである。凡ての人間には善神惡神が伴なうて居るといふ說は、形式こそ異れ[やぶちゃん注:「ことなれ」。『「こそ」~(已然形)、……』の逆接用法。]、大抵の大宗敎には附隨して居る。我々の中世の信仰も、我々の國語に永久の痕跡を殘す程度迄、此の既念を發展せしめた。けれども保護神、誘惑鬼の信念は其進化の跡をたどると、カミの信仰の如く、甞ては簡素であつた信仰の發達したものである。而して中世の信仰の此思想も、同樣に眞理に富んで居る。右の耳に善事を囁く白翼の天使、左の耳に惡を謐(つぶや)く黑鬼は十九世紀の人間の傍に隨行しては居ないが、彼の腦髓の中には潜んで居る。そして彼は屢〻彼等の聲を聞か分け、彼等の慫慂を感ずること、中世の彼が祖先と同樣である。

 近代の倫理觀よりすれば、神道では惡神も善神と同じく尊崇さる〻といふ事が面白くない。『帝(みかど)が天地の神祇を崇拜する如く、人民は幸福を得る爲めに善神にもなり、片怒りを避くる爲めに惡神をも祀る……善神の外に惡神もある以上、美味を供へ、管絃を奏し、歌舞を爲し、其外凡て神意を娛まする[やぶちゃん注:「たのしまする」。]事を行つて、惡神を和(なだ)めるの必要がある』(サトウ氏譯、本居翁の言)[やぶちゃん注:以上の丸括弧内は二行割注の原注。]事實上近代の日本では、惡神も和めねばならぬといふ、此明瞭な議論があるにも拘らず、惡のカミに供物を供へ敬稱を奉るといふ事は殆どない樣である。併し初期の宣敎師が、此信仰を惡魔崇拜と斷じた理由はここに在る――尤も神道では、西洋の意味の惡魔といふ觀念は決して現はれなかつたのであるが。神道の弱點と見ゆる所は、惡靈は之と戰ふべきでないと云ふ敎にある――この敎が特に羅馬加特力[やぶちゃん注:「ローマ・カトリック」。]的感情に厭はしく感ぜられる。併し基督敎の惡魔と、神道の惡靈との間には大なる相違がある。惡しきカミは死人の靈に過ぎぬので徹頭徹尾惡ではない――和(なだ)める事が出來るのであるから。絕對の純粹な惡といふ思想は極東にはない。絕對惡は確に人間にはない、從つて人間の靈にもない。惡しきカミは惡魔でない。彼等は單に人間の情慾に影響を及ぼす幽靈なのである、そして此意味に於てのみ情慾の神なのである。乃ち神道は、凡ての宗敎中の尤も自然的なもの、從つて或る點に於ては、尤も合理的なものである。神道は情慾其者を必らずしも惡とは考へぬ。ただ之に耽溺する度合、原因、事情に依つて惡となると考へる。幽靈であるから、神々は全く人間的である――人間の善たる性、惡なる性を、種々の割合に混合して所有する、併し大多數は善であるから、凡ての神の感化の總計は惡よりも善に近い。此見解の合理性を了解するには、可なり樂天的な人間觀を要する――日本の古代社會の情況が是認する樣な人間觀を要する。厭世家は純粹の神道家たる事は出來ぬ。此敎義は樂天的である、人間を大體善なりと信ずる者ならば、神道の敎に、和(なご)む可からざる惡がないのを咎めはせぬであらう。

[やぶちゃん注:「サトウ氏」イギリスの外交官でイギリスに於ける日本学の基礎を築いたアーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow  一八四三年~一九二九年)。イギリス公使館の通訳・駐日公使・駐清公使を務めた。日本名を「佐藤愛之助」又は「薩道愛之助」と称した。初期の日本滞在は一時帰国を考慮しなければ実に一八六二年から文久二(一八八三)年に及び、後の駐日公使としての明治二八(一八九五)年から明治三〇(一八九七)年を併せると、延べ二十五年間になる。詳細は参照したウィキの「アーネスト・サトウ」を参照されたい。引用元は不詳であるが、やはり平井呈一氏は恒文社版「祖先崇拝の思想」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)は訳者注で「直昆霊」の原文を引いておられる。先と同様、漢字を恣意的に正字化して以下に示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

‥‥天皇[やぶちゃん注:「すめらみこと」と訓じておく。]の、朝廷(みかど)のため天ノ下のために、もろもろの天神(あまつかみ)國神(くにつかみ)をも祠坐(まつりま)すがごとく、下なる人どもも事にふれては、福(きち)を求(おもと)むと、善神(よきかみ)にこひねぎ、禍(まが)をのがれむと、惡神(あしきかみ)をも和(なご)め祭り、‥‥(中略)‥‥善神(よきかみ)もありあしき神も有りて、所行(しわざ)も然(しか)ある物なれば、‥‥堪(たへ)たるかぎり美好(うまき)物さはたてまつり、あるは琴ひき笛ふき、うたひまひなど、おもしろきわざをしてまつる。これみな神代(かみよ)の古事(ふるごと)にて、神のよろこび給ふわざ也。‥‥」

   *]

 さて神道の倫理的に合理的な特質が現はれて居るのは、此惡靈を和めるの必要を承認する點にある。古代の經驗も近代の知識も、人間の或る性向を根絕しよう、若しくは麻痺せしめようとする事の、大なる誤謬であることを警告するに一致して居る――性向といふのはそれを病的に助長し、若しくは或る制御を加へぬと、人を放樅、罪過、其他無數の社會上の害惡に導くものをいふのである。動物慾や猿や虎の樣な衝動は人間の社會を作る前から存して居て、それが社會を毒する殆ど凡ての犯行を助くるのである。併し之を絕滅することに出來ぬ、之を安全に餓死せしむる事は出來ぬ。之を根絕せしめようとする企圖は、之と分離し難く混淆して居る高尙な情緖的性能の幾分を破壞する努力となる。原始的な衝動を麻痺せしめようとすると、人生に美と優し味[やぶちゃん注:「やさしみ」。]とを與ふる所の、併しそれにも拘らず情慾といふ古い土地に根を深く張つて居る所の、知的幷に情的の力を失はせる事になる。我我の有する最高のものは、其起原を最低のものの中に發して居る。禁欲主義は自然な感情と戰つて、却つて怪物を產出して居る。神學上の法規を、不合理に人間の弱點に適用すると、社會の紊亂を助長する。快樂の禁制はただ淫蕩を挑發する。我々の惡なるカミは或る和慰を要することは、道德の歷史が明らかに敎へて居る所である。人間には、まだ理性よりも情熱の方が强い、その理由は情熱は理性よりも比較にならぬ程古いからである――又情熱は嘗て自己保存に極めて必要であつたからである――又情熱は自覺の第一層を爲し、それから高等な情操が、徐々に發生したものであるからである。情熱に支配せられてはならぬ、併し情熱の太古以來の由緖ある權利を否定するのは危險である。

 

       

 死者に就て、こんな原始的な、併し――今は會得せられるであらうが――不合理ならざる信仰から、西洋の文明には知られてない道德的情操が發展した。此等の情操には考究の價値がある、それは尤も進步した倫理的思想と、そして進化論の會得の結果たる、義務感の異常な(まだ判明せざる)擴張と、此等の情操がよく合致するからである。爾分は我々の生活にこんな情操がないのを、喜ぶべき理由があるとは思はない――自分は寧ろ、此程の情操を修養するの必要が、道德上に感ぜられる時がありはせぬかと思ひたい。我々の前途の驚異の一は、確に久しい以前、何等の眞理を含まぬといふ臆定の上に、抛棄した信仰や觀念に復歸する事であらう――こんな事を考へるのは傳統的の習性から妄りに排斥を事とする人々に依つて、今尙ほ野蠻だ、異敎的だ、中世的だと呼ばる〻であらうが。科學の硏究の結果は野蠻人や、半開人や、偶像崇拜者や、修道僧やは、悉く別々の途を辿つて永遠の眞理の或る一點に到着せしこと、十九世紀の思索家に異らぬといふ證據を年々供給して居る。又我々は昔の占星學者や鍊金術者の說も、ただ部分的に誤つて居たので全然誤つて居たのでない事を今學びつつある。我々は如何なる目に見えぬ世界の夢も――如何なる神祕境の假說も、眞理の或る萠芽を含まぬものはなかつたと將來の科學が立證し得ぬはないと、想像すべき理由をさへ有つて居る。

 

 神道の道德的情操中第一位を占むるものは、過去に對する感謝の念――我々の情緖的生活に於て、眞に之に相當するもののない情操である、我々は我々の過去を知ること、日本人が彼等の過去を知るよりも優つて居る――我々は過去の凡ての事物狀態で記錄し、若しくは考察する無數の書籍を有する。併し我々は如何なる意味に於ても、過去を愛し過去に感謝の念を有するとは云ふを得ぬ。過去の功罪の批判的な承認――稀に過去の美によつてそそられる熱狂、多くは過去の誤謬の强烈な痛責、此等が過去に關する我々の思想感情の統計を表して居る。過去を顧みるに當つて、我々の學者の取る態度は必然的に冷かである。我々の藝術の態度は往々非常に寬大であるが、宗敎の態度は大抵辛辣を極める。如何なる見地より硏究するも、我々の注意は主として死者の爲した事業――或は見て居る間に、我我の心臟を常よりも少しく早く鼓動せしむる樣な、目に見ゆる造營物だとか、或は昔時の社會に及ぼした死者の思想行爲の結果だとか――に傾注される。併し過去の一般人間に就

ては――血族としての永く地中に在る無數人に就ては――全く考へぬか、若し考へれば、絕滅した種族に對する樣な好奇心を以て考へるのである。尤も我々も歷史に大なる痕跡を遺した或る個人の傳記に興味を見出す事はある――我々の情緖は偉大なる軍人、政治家、發見者、改革家等の記念に依つて動かされる――併しそれはただ彼等が爲した事業の偉大さが、我々自身の野心、願望、自尊心をそそるからで、百中の九十九は全く我々の我執を離れた愛他的の情操ではない。我々が尤も恩を受けて居る名悉なき死人に對しては我々は一顧をだも拂はぬ――我々は彼等に何の感謝をも愛情をも感ぜぬのである。我々は祖先の愛といふ樣な事が、如何なる形の人間社會に於てでも、眞實な、有力な、徹底的な、指導的な宗敎的情緖であり得る事を信ずるに困しむ[やぶちゃん注:「くるしむ」。]程である――併し日本ではそれが慥に事實なのである。祖先崇拜といふ樣な事は、其觀念だけでも我々の思考、感情、行爲とは全く風馬牛である。勿論其一部の理由は、我々と我々の祖先との間に、切實な精神的關係があるといふ信念を一般に我々が有たないからである。我々が非宗敎的である場合は、全く幽靈を信ぜず、若し又大いに宗敎的である場合は、死人は神の裁判で我々から引き離されたもの――我々の生存中は、全然我々から引き離されたものと考へる。尤も羅馬加特力敎國の農民中には、未だ死者は一年に一度――萬靈節(オール・ソールス・デー)(十二月二日)の夜――地上に歸ることを許されるといふ信念が存して居る。併し此信仰に於てさへ、死者は記憶以上の羈絆で、生者に繋がれてゐるとは考へられて居ない、そして彼等は愛よりも寧ろ恐怖を以て見られて居る――民間の傳說集を讀んでも分かる通りに。

[やぶちゃん注:「萬靈節(オール・ソールス・デー)(十一月二日)」丸括弧前者はルビ、後者は二行割注でこれは戸澤氏の挿入注である。原文は“the night of All Souls”。万霊節(ばんれいせつ:All souls' day)はカトリックで総ての逝去した信者の霊を祀る記念日。万聖節(英語:All Saint's Day/Hallowmas:全聖人を記念するキリスト教の祝日。西方教会では十一月一日、東方教会では聖霊降臨祭(キリスト復活後五十日目(昇天後十日目)に使徒たちの上に聖霊が火炎の舌の形で降ったこと(「使徒行伝」に拠る)を記念する祝日。この日が旧約の過越(すぎこし)の祝いの五十日目の五旬祭(五旬節)に当たっていたことから「ペンテコステ」(Pentecost:「五十番目」を意味するギリシア語由来)とも称する)後の最初の日曜日となっている。異教時代の新年祭に遡ると見られ,前夜(ハローウィーン)には火祭りなどが行われる但し、ハローウィーンは古代ケルト人のサムハイン祭が起源と言われ、これは死の神サムハインを讃えて新しい年と冬を迎えるための祭りで、この日の夜には死者の魂が家に帰ると信じられていた)の翌日、則ち、一般には十二月二日。二日が日曜の場合は三日。「死者の記念日」とも称する。この祝日はクリュニーの修院長オディロ(九九四年~一〇四八年) によって定められ、クリュニー派の伝播とともに急速に広まった(以上は諸辞書の記載を綜合した)。

「羈絆(ほだし)」音で「キハン」。「ほだし」と当て訓もする。「羈」も「絆」も、「繋ぎ止める(綱・繩)」の意で。「つなぎとめること」。また、「行動する際の足手纏いとなること」の意。「ほだし」は、もと「馬を繋ぐ繩」のこと。]

 日本では、死者に對する感情は、之と全く異つて居る。それは感銘的な恭謙[やぶちゃん注:

「きようけん」。慎み深く遜(へりくだ)ること。]な愛の感情である。それは民族の情緖中、尤も深く强いものであろらしい――特に國民的生活を指導し、國民的性格を形成する情緖であるらしい――愛國心も之に屬する、孝道も之に賴る、家族愛も之に根ざす、忠義も之に基づく。職場で戰友に道を開く爲めに、『帝國萬歲』と叫んで、わざわざ生命を投げ出す兵士――不甲斐なき、若しくは殘酷ともいふべき親の爲めに、默つて浮世の幸福を悉く犧牲に供する子女、今貧窮に陷つた親分に、甞て爲した口約束を果たす爲めには、友達も家族も財產も棄てて省みぬ子分、良人が他人に蒙らした損害を償ふ爲めに、白無垢の禮服で、南無阿彌陀佛を唱へながら、懷劍を咽喉に突き刺す人妻――此等は何れも目に見えぬ祖先の靈の意志を忖度し、其嘉納[やぶちゃん注:「かなふ(かのう)」。献上品などを目上の者が快く受け入れること。]の聲を聞いて爲すのである。新時代の懷疑的な學生の中にすら、多くの破壞された信念の中に、此感情だけは遺つて居て、古い情緖が今でも時に、『我々は祖先を辱しめてはならぬ』『祖先に敬意を拂ふは我々の義務である』等の文句で現はされる。自分が以前英語の敎師として雇はれて居た頃、かう云ふ詞の裏にある眞の意味を知らざりし爲め、作文の中でそれを訂正しようと思つた事がある。例せば『祖先の記憶に敬意を拂ふ』とする方が『祖先に敬意を拂ふ』といふよりも正しいと敎へた事がある。或る日自分は、死んだ祖先を生きた兩親であるかの樣に云ふは當たらないと、其理由を說明せんと試みた事を記憶して居る。多分學生等は自分が彼等の信仰を妨げんとすると疑つたであらう。日本人は決して祖先が『ただの記憶』となつたとは思はない、彼等の死者は生きて居るのである。

 

 若し我々の心に我々の死せる祖先は尙ほ我々の身邊にあり、我々の凡ての思想を知り、我々が云ふ凡ての詞を聞き、或は我々に同情し、或は我々を怒り、或は我々を助け、又我我の助を受くるを喜び、或は我々を愛し、又我々の愛を大いに要求するといふ確信が突然起こつたとすれば、我々の人生觀、義務觀も大いに變化するであらう。我々は過去に對する我々の義務を、尤も嚴肅に承認せぬばならぬであらう。然るに極東人には、死者が常に身邊に居るといふ考は、數千年間の確信であつて、彼は每日死者に物云ひ、幸福を祈つて居る。不治の大惡人にあらぬ限り、死者に對する義務を全く忘れる事はない。平田篤胤は云ふ、其義務を怠らぬ者は、決して神に對し、又は生ける兩親に對して不敬である事はない。『こんな人は友人にも忠實であり、妻子にも柔和親切であらう、何となれば此種の情愛の精髓は、眞實祖先に對する孝道であるのであるから』。日本人の性格中にある、不可解な感情の隱れた原由は、此情緖の中に求めねばならぬ。死に面する時の天晴れの勇氣、尤も苦しき献身的の行爲が爲さる〻時の悠揚たる態度なども、我々の情操の世界には緣遠いものであるが、それよりも更に緣遠い事は、日本の少年が初めて詣でた神道の祠前で、突然淚が眼に滂沱[やぶちゃん注:「ばうだ(ぼうだ)」。涙が止めどもなく流れ出るさま。]として浮かぶのを感ずる程、深い感動を受ける事である。其れ瞬間に彼は我々が決して、情緖的に認めぬものを自覺するのである、――現在が過去に負う洪大な負債と死者に對する敬愛の義務とを。

[やぶちゃん注:平田篤胤の引用は、やはり平井呈一氏の恒文社版「祖先崇拝の思想」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)の訳者注で、引用部の原拠である平田の「玉襷(たまだすき)」(平田が以前に門人向けに書いた神道の家庭での祭祀について記した「毎朝神拝詞記」を一般人向けに注釈したもの)の原文(十之巻所収)を引いておられる。先と同様、漢字を恣意的に正字化して以下に示す。

   *

「扨まづ先祖をかやうに。大切にすべき謂(イハレ)を心得ては。況(マシ)て天神地祇を。粗略に思ひ奉る人は。決して无(ナ)い筈(ハズ)のこと。又現に今生ておはし坐(マス)親を粗末にする人は无(ナ)く。神と親を大切にする心得の人は。まづ道の本立(ホンダテ)の固(カタ)き人故。その人必君に仕(ツカ)へては忠義を盡(ツク)し。朋友と交りては。信宲(マコト)[やぶちゃん注:「宲」(音「(ハウ(ホウ)」)は「𡧖」(音は同前)の誤字で、「収める」「仕舞い込む」或は「珍しく貴重なもの・大切にしまっておくもの」の意。]があり。妻子に對しては。慈愛ある人と成(ナ)りなる事は。論は无(ナ)いだに依て。先祖を大切にするが。人とある者の道の本だと云ので厶(ゴザル)。なぜと云に。其ノ先祖を大切にする行(オコナイ[やぶちゃん注:ママ。])が。則(スナハチ)いはゆる孝行で。孝行なる人に。不忠不義の行ひをする人は。決してなき物で厶。」

   *

「厶」は音「シ・ボウ・モ・コウ」で漢語といては「私」・「邪(よこしま)」・「何某(なにがし)」・「腕(かいな)」の意があるが、本邦では国字として「御座る」則ち「ある」の敬語として使用されることが多い。]

2019/12/18

小泉八雲 コレラ流行時に (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“IN CHOLERA-TIME”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)から出版)の第十三話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 文中に入る注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、前後を一行空けた。引用も同ポイントで全体が四字下げであるが、引き上げた。踊り字「〱」は正字化した。

 訳者戶澤正保(底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している)氏については私の「小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保訳)」の冒頭注を参照されたい。

 冒頭に、コレラに対する擬人比喩であるが、身体障碍を表わす差別的な読みが出たり、再録した俗謡に差別用語が出るが、批判的に読まれたい。

 なお、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二八(一八九五)年七月の条に、『マニラ、琉球に流行していたコレラが神戸にも流行のきざしをみせる。この頃のことが』本篇『「コレラ流行期に」で語られる』とある。「横浜検疫所」公式サイト内の「横浜検疫所の変遷」によれば、この明治二八(一八九五)年四月十日に、『金州(現在の中国遼寧省大連市)及び澎湖島地方(台湾)においてコレラが流行したことから、内務省が流行地域からの船舶に対して横浜港に航行する船舶で検査を受ける場合は「神奈川県長浜に寄停し検疫官の検査を受けるべき」』『とし、また、同年』七月三十日には『「台湾及び朝鮮国諸港」』『も検疫の対象になったため』、この検疫は同年十二月十七日まで続いた、とあり、『また、日清戦争に伴う戦地からの帰国者等に対する検疫について陸軍大臣からの要請を受け、陸軍検疫所設置までの間、内務省所管の長濱検疫所を含む検疫所で行うこととなり』、『同年、長濱検疫所では外国船や陸海軍関係船舶も含め』、七十二『隻の検疫を行い』、二十八『隻を消毒』、六『隻を停留とし』たとある。『なお、この年は、日清戦争に伴う戦地からの帰国等のためコレラが流行し』、五万五千百四十四人が感染し、実に四万百五十四人が死亡したと記す。]

 

      第十三章 コレラ流行時に

 

       

 最近の戰爭に於ける支那の重なる味方は、聾耳(つんぼ)で、盲目(めくら)で、條約の事も和平の事も少しも知らずに過ごし、今もなほ知らずに居る。併し日本軍の歸國を追うて戰勝帝國に侵入し、暑期中に約三萬人を殺戮した。殺戮は今も行はれつつあり、荼毘の烟は猶ほ絕えぬ。時とすると烟と臭氣とが、此市の背後の丘から、自分の家の庭園までも風に漂うて來る。そして自分に自分と等大の大人(おとな)を燒く費用は八十錢――現今の爲替相場で米貨約半弗――であることを想ひ出させる。

[やぶちゃん注:この明治二八(一八九五)年の為替レートでは一ドルは一・九八円。一円は現在の二万円相当であるから、一万六千円相当。現行の火葬料金のみでは安くて一万円ほど(公営)、私営では五万から十万円かかる。]

 自分の家の二階の緣側から、兩側に小さい商家の並んで居る、一筋の日本町がどん底まで見える。其町の方々の家から、コレラ患者が病院に運ばれて行くのを自分は見た――最後の患者は(遂[やぶちゃん注:「つい」。ほんの。]今朝)道の向う側に住む隣人で、陶器店の主人であつた。彼は家族の零す淚と泣き叫びにも拘らず、無理やりに連れて行かれた。衞生法はコレラ患者の私宅療養を許さぬ。けれども住民は科料及び其他の刑罰に觸れても、患者を隱匿しようと試みる。其故は避病院は入院患者夥多で、取扱ひが粗暴である上に、患者は全く親近者から隔離されるからである。併し警官は容易に欺かれぬ、彼等は直ぐ無報告の患者を發見し、擔架と人夫を伴なうて來る。殘酷の樣だが衞生法は殘酷でなければならぬ。隣人の妻は、泣いて擔架の後を追うたが、警官が遂に彼女を淋しい小さい陶器店に歸らしめた。店は今閉ぢられて居るが、店主に依つて再び開かる〻事は恐らくあるまい。

 かういふ悲劇は、始つたと思ふと直ぐ終結を告げる。遺族は法律が許すや否や、思ひ出多き所持品を取り片附けて姿を消す。そして町の普通の生活は、夜も晝も、何ま變つた事がなかつた樣に進行する。行商人は竹の棒と籠、若しくは桶、若しくは箱を携へて空屋の前を過ぎ、いつもの賣り聲をどなる。托鉢僧の行列は經典の文句を唱へながら通る。盲人の按摩は悲げな笛を吹く。夜𢌞りは溝板(どぶいた)の上に金棒を鳴らす、菓子賣りの子供は尙ほ太鼓を叩いて、女の子の樣な哀れつぽい優しい聲で、戀歌を歌ふ譯者註――

 

譯者註 此流行唄の原文見當たらず、止むを得ず英譯の意味だけを更に重譯す。

 

『お前と私は……長居をしたが、今來たばかりで歸る樣な思ひ。

『お前と私は……忘られぬは茶、宇治の古茶とも、新茶とも人は云はうが私には、美しい山吹色の玉露。

『お前と私は……私は電信技手、お前は電信受取人、私の送るのは心、お前の受け取るのも心、電柱が倒れうと、電線が切れうとこちや構はぬ。

 

 そして小兒等は常の樣に遊んで居る。彼等は叫んだり笑つたりして、相互に追ひあつたり、合唱して躍つたり、蜻蛉を捕へて長い糸に結び附けたり、或は支那人の首を斬るといふ、軍歌の疊句を歌つたりする――

 

    ちやんちやん坊主の首をはね

[やぶちゃん注:「ちやんちやん坊主」「ちゃんちゃん坊主」は差別用語で、中国人に対する当時の蔑称である。小学館「日本国語大辞典」によれば、「ちゃんちゃん」は中国人の「辮髪(べんぱつ)」(意味①)を指し、これは江戸時代、江戸の市中を、清の中国人の格好をして、鉦を「チャンチャン」と敲きながら飴を売り歩いていた者の、その鉦の音から出た語という、とある。「ちゃんちゃん」の意味③にははっきりと『かつて中国人を軽蔑していった語。ちゃんちゃんぼうず』と記し、仮名垣魯文の「西洋道中膝栗毛」(初編序文は明治三(一八七〇)年九月とある)が例文に引かれ、また「ちゃんちゃんぼうず」の項には、この差別語として国木田独歩の「愛弟通信」(明治二七(一八九四)年から翌年に『国民新聞』掲載)の日清戦争の「威海衛の戦い」(明治二八年一月二十日~二月十二日)に於ける艦隊攻撃の詳報の中での使用例が挙げられてある。]

 

 時とすると眞中の子供が一人消え失せる。併し殘つた者達が遊びを續ける。そしてそれは賢い仕方である。

[やぶちゃん注:何か不気味な描写である。次の段落との絡みの中で腑に落ちる。]

 

 小兒を燒く費用はたつた四十錢である。自分の隣人の中の一人は、數日前に其子を燒いた。其子が翫ぶ[やぶちゃん注:「もてあそぶ」。]のを常として居た小さい石は、鳶とのまま日向(ひなた)に橫たはつて居る……小兒が石を愛するといふことは、思へば不思議である。貧民の子と限らず、凡ての子供が或る年齡には石を翫弄物(おもちや)にする、何れ程外に翫具があつても、日本の子供は時に石を翫ぶ。子供の心には、石は驚くべき物であるので、そしてそれは然(しか)あるべき筈である。數學者の理解力を以てしても、平凡な石に無限の不可解があるからである。小さい頑童[やぶちゃん注:「ぐわんどう」。原文は“tiny urchin”。そのまま訳すと「小さな海胆」であるが、「urchin」はラテン語「ハリネズミ」が語源で、ここは「聞分けのない腕白小僧」。しかし、ここは後に続く描写から、寧ろ、小泉八雲の小児への愛称ととるべきであろう。]は、石に見懸けよりも深いものがあることを推察する、そしてその推察は實際天晴れである。若し愚かな大人が不實にも、其翫具は珍らしくも何ともないと告げなかつたら、彼はいつまでも石に倦きる事なく、絕えず其中に新しきもの、驚くべきものを發見しつつあるであらう。石に就ての小兒のあらゆる疑問に答へ得るのは、只だ大學者ばかりである。

 民間の信仰に依ると、隣人の愛兒は、今賽の河原で、小さい不思議の石を積み立てて居るのだといふ――多分其處では陰(かげ)の差さぬのを不審(いぶか)りつつ。賽の河原の物語に含まれて居る其の詩は、其主なる觀念の、全然自然的なる事である――凡ての日本の小兒が石を弄ぶといふ、其遊戲を幻の世界で繼續するといふ點である。

       

 兩端に大きな箱を下げた、竹の天秤棒を肩に擔いで、𢌞はつて來る羅宇屋[やぶちゃん注:「らうや」。「らう」は煙管(きせる)の火皿と吸口の間を繫ぐ竹管(インドシナ半島のラオス産の黒斑竹を用いたのがこの名の起こりという)で、その挿(す)げ替えを行う行商人。]があつた。一方の箱には、樣々の直徑、長さ、色合の竹と、それを金屬の煙管にはめ込む道具とを入れ、他の一方の箱には赤兒――彼自身の子供――が入れてあつた。時とすると其赤兒は箱の緣に伸び上がりで、通行人に笑ひかけるのを自分は見た。又時には箱の底に暖かさうに纏(くるま)つて熟睡して居るのを見た。又時には翫具を弄んで居るのを見た。此兒に翫具を與へる者も多數あると聞いた。其翫具の一つに、妙に死人の名札(位牌)に似たものがあつて、それは寢ても覺めても、屹度小兒の傍にあつた。

 ところが、過日自分は其羅字屋が天秤棒と、ぶら下げた箱を棄てて、手車を押して來るのを見た。其手車は、やつと彼の商賣道具と赤兒を入れるだけの大きさで、其積りで特に二室に仕切りで作られたものであつた。多分赤兒は重くなり過ぎて、原始的な運搬法では不適當になつたのであらう。車の上には、小さい白旗が樹てられて[やぶちゃん注:「たてられて」。]、それには『煙管屋宇替』及び『お助けを願ひます』といふ短い文句が走り書きに書いてあつた。赤兒は丈夫さうに又樂しさうに見えた。そして前にも自分の注意を惹いた位牌樣の翫具があつた。併し此度は赤兒の寢床と向かひあつた、高い箱の上に、眞直ぐにしつかりと立ててあつた。此車が近づいて來るのを見て居る中に、自分には突然其札は眞實位牌であるといふ確信が浮かんだ。日光が眞向に其上を照らしてお定まりの佛典の文句が明らかに讀まれた。自分の好奇心は動かされた。それで萬右衞門に命じて羅宇屋を呼び留めて、羅宇のすげ替へが幾つもあると告げさせた――それは實際の事であつた。間もなく車は自分方の門前に停まつて、自分はそれを見に出懸けた。

[やぶちゃん注:「萬右衞門」しばしば小泉八雲の作品に登場する家の老僕とするが、概ね実際にはセツ夫人のことであることが多いようである。ここも以下を読むと、実際にはそうであったように読める。]

 小兒は外國人の顏でも、少しも恐がらなかつた――愛らしい男の兒であつた。彼は片言(かたこと)を云つて、笑つて手を差し出したが、明らかに物を貰ひつけて居たのである。そして彼と戲れてる[やぶちゃん注:ママ。]中に、自分は位牌を熟視した。それは眞宗の位牌で、婦人の戒名卽ち死後の名が書いてあつた。萬右衞門が漢字を飜譯して吳れたのに依ると、つぎのやうな意味が書いてあつた。――『優越の淨境で厚遇せられ高位に置かる〻者、明治二十八年三月三十一日』其時一人の婢がすげかへを要する煙管を持つて來たので、仕事に取り掛かる此職人の顏を瞥見した。それは中年を越した男の顏で、昔は微笑を湛へたが、今は乾からびた古池といふ樣な口の周圍に、疲れた、同情をそそる樣な皺を寄せて居た。此皺は多くの日本人の顏

に、云ふに云はれぬ靜寂の表情を與ふるものである。間もなく萬右衞門が質問を始めた。此男に物を問はれて答へぬのは惡人でなくては出來ぬ事である。どうかすると彼(かれ)の懷かしい罪のない老いたる頭の後に、後光が――菩薩の後光――が射(さ)し始めるかと思ふ事がある。

 羅宇屋は之に答へて身の上話を話した。それに依ると此子供が誕生後二箇月で、彼の妻は死亡したのである。臨終の時彼女は云つた。『私が死んだなら、それから丸三年は、此兒を私の魂と一緖に居さして下さい。私の位牌から離れないやうにして下さい。さうすると、私が世話をして乳を飮ませますから――お前も知る通り、子供は三年乳を飮む筈のものですからね。此最後のお願ひをどうぞ忘れないで下さい』併し母親が死んで見ると、父親は今迄通りに働いて、其上夜も晝も世話の燒ける、小さい子供の世話とすることは出來ない、乳母を抱へる程の資力もない。それで彼は羅宇屋を始めた。それだと一寸も小兒を打棄(うつちや)らずに、少しの金を儲ける事も出來る。併し牛乳を買ふことも出來ないので、重湯(おもゆ)と水飴で一年以上小兒を養つて居る。

 それを聞いて自分は、小兒は至つて丈夫らしい、乳がなくて困る樣子は少しも見えないと云ふと、

 『それは』萬右總門が咎める樣な確信の口調で云ひ切つた、『死んだ母親が乳を飮ませるからです。小兒は乳に不自由なんぞするものですか』

 すると小兒は穩かに笑つた、恰も亡母の愛撫を感ずるかの樣に。

 

小泉八雲 前世の観念 (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“THE IDEA OF PRE-EXISTENCE”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の第十二話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 標題は仏教用語のそれであるから、私は本文中の「前世」は総て「ぜんせ」と読む。途中に入る添え辞や注は字下げ(前者は全体が下インデント二字上げ、後者は四字下げ)ポイント落ち(添え辞の最後の書名は添え辞本文より更にポイントが落ちる)であるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、底本の注は前後を一行空けた。傍点「ヽ」は太字に代えた。また、最初の「譯者註」は本篇末尾に置かれているが、頭の原注の前に挿入した。

 訳者戶澤正保(底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している)氏については私の「小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保訳)」の冒頭注を参照されたい。]

 

      第十二章 前 世 の 觀 念

 

『若し一比丘あつて過去世に於ける――一世、二世、三世、四世、五世、十世、二十世、五十世、百世、千世乃至幾一百千世の過去に於ける――己が雜多の身境を細大想起せんとせば、須らく心を靜寂の境に安置すべし――須らく事物を洞觀すべし、須らく獨坐專念すべし』   「アカンケーヤ經」

[やぶちゃん注:「アカンケーヤ經」“Akankheyya Sutta”。中部(Majjhima Nikaya:マッジマ・ニカーヤ:中編の経典集)の根本五十経篇の、「根本法門品」中の「願経」。]

 

       

 佛敎の生ける現實な雰圍氣中に、數年を過ごした思慮ある西洋人に、東洋人の物の考へ方を、特に我々と異らしむる根本的の思想は何であるかと尋ねたら、屹度『前世といふ思想』と答へるであらう。極東の心的生活の全體に沁み込んで居るのは、何物よりも此思想である。此思想は空氣の通ふが如くに普遍的で、あらゆる情緖を色づけ、直接にか間接にか、殆どあらゆる行動に影響して居る。其象徵は美術的裝飾の細部にすら始終現はれて居る。そして晝となく夜となく、時々刻々に其意味の語は、求めざる我等の耳に響くのである。住民の言葉は――家庭の用語、俚諺、宗敎上若しくは俗事上の嘆聲、悲哀、希望、喜悅、若しくは失望の表白等――悉く此思想を含まざるはない。憎惡の表現も愛情の言語も等しく影響せられて居る。それで『因果』或は『因緣』といふ語――避く可からざる應報なる業(ごふ)を意味する――は凡ての人の口に解釋なり、慰藉なり、罵詈なりに、自然に出で來るのである。百姓が或る嶮しい坂道で荷車の重みに筋肉の苦痛を感ずると、『これも因果だから仕方がない』と瘠我慢をいふ。婢僕達が喧噪をすると、『何の因果で、己れは貴樣の樣な奴と一緖に居るのか』といふ。無能者若しくは惡人も囚果で罵られる。賢人や善人の不幸も同じく因果で說明される。罪人は其罪惡を白狀して、『私の爲し)た事が惡るいといふ事は、爲(す)る時に知つて居たのですが、因果だから自分の思ふ樣になりません』といふ。戀仲を裂かれた男女は、前世の罪の結果で、此世で添はれぬといふ信念で死を求める。非道な迫害を受ける者は、これも忘れられた前世の過失を償ふので、永遠の天則として償はねばならぬものを償ふのだといふ自信で、憤りを慰めやうとする。……同樣に靈魂の未來(後世[やぶちゃん注:「ごぜ」。丸括弧内は底本では二行割注。戸澤氏による訳注である。以下同じものは注しない。])に云ひ及ぶ極平凡な場合でも、靈魂の過去(前世)といふ一般的の信念を包含する。母親が遊んで居る子供を誡むる時にも、惡るい事をすると、末代に外(よそ)の親の子として生まれる時に差障(さしさわ[やぶちゃん注:ママ。])ると云つて聞かせる。巡禮や乞食が施物を受ける時には、どうか旦那の來世が幸福なやうにと祈る。目も耳も衰へ始めた年老いた隱居[やぶちゃん注:原文も“inkyō”。]は、若い身體に生まれ變はらんとする變化の、差し迫つた事を樂しさうに語る。それから必然といふ佛敎上の觀念を意味する『約束』といふ詞、又は『前の世』、『諦め』[やぶちゃん注:以上三語は原文(左ページ下方)でも日本語のローマ字表記斜体となっている。]などといふ語は、日本人の普通の會話に始終出て來ること、丁度、『正しい』、『間違つてる』といふ語が英國人の會話に出て來る樣である。

 かういふ心理的空氣の中に永年住んで居ると、いつかそれが自分の思想へも侵入して、其處に樣々の變化が起こるのを發見する、前世といふ觀念に包含されてる[やぶちゃん注:ママ。]あらゆる考――如何に同情的に硏究しても、初めは只だ奇怪にばかり見えた、あらゆる信念――これ等が其の珍らしかつた時に有して居た不思議性、怪奇性を失つて、全く當然らしい外觀を呈して來る。色々の事物は此思想に依つて合理的と思はれる程な非常によい說明を與へられる。そして或る說明は、十九世紀の科學的思想で測つて見ると、確に全然合理的なのである。併し此思想を精確に判斷する爲めには、先づ泰西の靈魂の輪𢌞に關する、あらゆる觀念を抛棄して、心を白紙の狀況に置くことが必要である。といふのは泰西の靈魂に關する槪念――例へばピタゴラス派のでも、プラトン派のでも――と佛敎の槪念との間には、少しの近似もないからである。そして日本人の信念が合理的だといふことになるのは、正しく此[やぶちゃん注:「この」。]無近似からである。之に關する古來の西洋の思想と、東洋の思想との間の大な相違は、佛敎には我等の傳統的な靈魂――一つ一つの、薄い、戰慄(ぶるぶる)する、透明(すきとほ)る内在人、卽ち幽靈――が存在せぬ事である。東洋の『我(エゴ)』は個體ではない。又神靈派(グノスチツクス)の靈魂の樣な、數の極まつた複體でもない。想像し難い複雜さの統計若しくは合成――計へ切れぬ前世代の創造的思索の集中した合算なのである。

[やぶちゃん注:「神靈派(グノスチツクス)」“Gnostic”。グノーシス主義。語源はギリシャ語の「認識」の意。一、二世紀頃、地中海沿岸諸地域で広まった宗教思想及びそれに類した考え方。反宇宙的二元論の立場に立ち、人間の本質と至高神とが、本来は同一であることを認識することにより、救済、則ち、神との合一が得られる、と説く。マンダ教(イラクのティグリスやユーフラテス下流域及びイランのフージスターンに現存する、グノーシス主義の特異な混合宗教。教徒数は二千人前後と推定される。その名称は、教徒の用いるアラム語の一方言のマンダー(「霊知」の意)に由来する。教徒はアラビア語では「サービア」と称される。その最も特徴的な儀礼は流水で浸礼を行うことで、川は北方の山岳に天上より流れ下るとする観念によるもので、教徒は北方に向き、礼拝する)やマニ教(ササン朝ペルシャ(二二五年~六五一年)のバビロニアで生まれたマニが創始。三世紀以降、キリスト教・ゾロアスター教・仏教などの諸要素を加えて広く普及したが、十五~十六世紀に消滅してしまった。教義は光と闇・善と悪の二元的世界観に立ち、悪からの救済を重視した)はその代表的な宗教形態である(以上は三省堂「大辞林」他の辞書に拠る)。ウィキの「グノーシス主義」によれば、その二元論は『宇宙が本来的に悪の宇宙であって、既存の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは、誤謬である、とグノーシス主義は考え』、『「善」と「悪」の対立が二元論的に把握される。まず、善とされる神々が、この悪である世界の原因であれば、それは悪の神であり、「偽の神」である。となると』、『その場合、どこかに「真の神」が存在し、「真の世界」が存在するはずだ、と考える』。『悪の世界は「物質」で構成されているので、故に物質も悪と判断する。物質で造られた肉体も然りである。一方、「霊」あるいは「イデアー」が「真の存在」であり、「真の世界」である、と解釈される』。『善と悪、真の神と偽の神、また霊と肉体、イデアーと物質、という「二元論」が、グノーシス主義の基本的な世界観である。これが「反宇宙論」と合わさり、「反宇宙的二元論」という思想になった』。但し、その解釈から、『物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して』、二『つの対極的な立場が現れた。一方では禁欲主義となって顕われ、他方では、放縦となって現れる。前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を教える。後者は、霊は肉体とは別存在であるので、肉体において犯した罪悪の影響を受けないという論理の下に、不道徳をほしいままにするタイプであ』り、四『世紀の神学者アウグスティヌスがキリストに回心する前に惹かれたのは、前者の禁欲的なタイプであったと言われる』とある。]

 

       

 佛敎の解釋力と其學說が、不思議に近代科學の事實と一致する事は、心理學に於て、ハアバアト・スペンサアを其最大の探究者とする部門に、特によく現はれて居る。我々の心現的生活の少からぬ部分は、西洋の神學では說明の出來ぬ感情から成り立つて居る。未だ口のきけぬ小兒に或る顏を見ては泣かせ、或る顏を見ては微笑ましむる感情もそれである。未知の人に遇ふ時直に經驗する『好き』、『嫌ひ』もそれである。第一印象と呼ばる〻此好惡の感は、怜悧な小兒は正直に告白せんとする。『人は外觀で判斷してはならぬ』と敎へられても、小兒は心の中では決してその敎を信ぜぬのである。こんな感情を神學上の本能、直觀の意味で本能的とか直觀的とか呼んで見ても、それは何の說明にもならぬ――丁度特殊な開闢說の樣に、只だ疑問を生の神祕中に切り落とすだけである。吾人の衝動若しくは感動は、惡魔の憑依に依る外、一個人的以上であるといふ說は、今でも古風の正統論者には厭ふべき異端と思はれて居る。併し我々の深い感情の大部分は、超個人的であるのは今

や確である――我々が愛情的感情と稱するものも、又、壯美的感情と名づくるものも皆さうである。 感情の個性は科學に依つて全く否定される。初對面の戀譯者註に就ての解釋は憎惡にも適用せられる。雙方共超個人的である。彼の[やぶちゃん注:「かの」。]春と共に來去する漠然たる遊歷の衝動、秋に經驗する漠然たる鬱屈の感の如きも同樣である。――これは多分人類が季節に從つて移住した時代の、若しくは人間出現前からの遺物であらう。一生の大半を平野若しくは草原で過ごした後、初めて雪を戴いた山巓を望む者に感ぜられる情緖、さては大陸の奧地に住む者が初めて大洋を見、其永久の雷の如き浪の音を聞く時の感の如きも、又超個人的である。偉大な風景を見た時に起こる、必らず畏怖の念の雜じる喜び、若しくは熱帶の日沒の壯麗さが惹起す、云ふに云はれぬ憂鬱の混じる啞然たろ讃嘆――此等も個人の經驗だけでは說明は出來ぬ。尤も精神分析は此等の感情が非常に複雜で、個人樣々な經驗と錯綜して居る事を證明した。併し何れの場合でも深い感情の浪は、決して個人的でない、我々の出て來た祖先傳來の生の海から打寄せたものである。シセロ時代よりもずつと古い昔から人の心を惱まし、現代に於ては更に一層惱ます所の特殊の感情――實際は初めて見た土地を既に前にも見た樣に感ずる感情の如きも、同じ心理的範疇に屬するものであらう。外國の都市の市街、若しくは外國の風景の模樣を見て或る不思議な親密の感が心に起こると、一種の柔らかい氣味惡るい激動を覺えて、其解釋に有りもせぬ記憶を搔き立てさせられる。時には疑もなく、心裏に甞て存在した記憶の復活、若しくは建て直しに依つて、之に似寄つた感情が發生せられる事も實際ある。併しただ個人的の經驗で說明せんと試みると、全然不可思議といふより外なきものも澤山ある樣に思はれる。

 

譯者註 本篇中の「業の力」を參照せられよ。

[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサア」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者・倫理学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。彼は一八五五年に「心理学原理」(Principles of Psychology)を刊行している。

「精神分析」原文は“Psychological analysis”で、ここは「心理学的分析」と訳すのが至当と思われる。ジークムント・フロイトによって一八八六年に創始されたばかりの狭義の精神分析(英語:Psychoanalysis ドイツ語:Psychoanalyse)について、小泉八雲は他でまず言及しておらず、ここでの文脈でもこれは「精神分析学」を持ち出すものではなく、それまでの普通の心理学的分析法として百%読めるからでもある。フロイトがヒステリーの原因として幼少期に受けた性的虐待とする論文「ヒステリー研究」(Studien über Hysterie:ヨーゼフ・ブロイアー(Josef Breuer)との共著)を発表したのは本作品集刊行の前年の一八九五年で、かの「夢判断」(Die Traumdeutung)の出版は一九〇〇年である。恐らくはその中で展開されたフロイトの「汎性論」を、小泉八雲は高い確率でおぞましい恣意的妄想的理論と嫌悪したのではないかとさえ私は考えている。

「シセロ」ローマの政治家・哲学者マルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero 紀元前一〇六年~紀元前四三年)。ラテン散文の完成者。共和政末期の混乱の世に、最高の教養と雄弁を以って、不正の弾劾者・自由の擁護者として活躍したが、第一次三頭政治のもとで紀元前五八年に追放され、翌年、帰国するも自由な政治活動が許されず、哲学的著作に従事した。しかし、カエサル暗殺後、再び元老院の重鎮として活躍し、十四編の演説「フィリピカ」(Philippicae:紀元前四四年~紀元前四三年)でアントニウスを攻撃したが,第二次三頭政治成立後、暗殺された(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「業の力」既に電子化注した同じ戸澤正保氏訳になる「小泉八雲 業の力」。]

 

 我々の尤も平凡も感情の中にも、凡ての感情思想は個人の經驗より來る、從つて生まれたばかりの小兒の心は白紙であるといふ愚說では、決して解き得ざる謎がある。或る花の香、或る色合、或る音調に依つて刺激される快感、危險な或は有毒な生物を一見して、我れ知らず起こる嫌惡或は危懼、さては夢の中の名狀し難い恐怖――これ等は古來の靈魂說では凡て說明し得ぬ。香氣及び色彩に於ける快感の如き咸情の或る者は、種族の生命に深き根低を有して居る事は、グラント・アレン譯者註が其著『心理的美學』及び色彩感(カラーセンス)に就ての興味ある論文で、尤も有力に指示して居る。併し其久しい以前、彼の師で心理學者中の尤なるスペンサーは、經驗論では多くの種類の心裡現象を說明する事全く不可能なる事を明らかに證明して居る。『可能としても』スペンサーは云ふ、『經驗論は情緖に關しては知覺に關してよりも一層說明に困難を感ずる。凡ての願望、凡ての情緖は、個人の經驗より生ずるといふ說は、甚だしく事實と相違する。予はいかにしてかかる說を抱く者あるかを怪しまざるを得ぬ程である』。『本能』、『直觀』といふ樣な語は、舊來の使用法では眞の意味を有たぬ、今後は異つた使用法を取らねばならり事を、我々に示したのも亦スベンサーであつた。近代心理學の用語としては、本能は『組織化された記憶』を意味する、そして記憶其者も『初期の本能』である――卽ち本能とは、生の連鎖に於て、つぎの時代の個人に遺傳せられる印象の總計である。かく科學は記憶の遺傳を承認する、前世の出來事を一一記憶するといふ神祕的な意味でではなく、遺傳される神經系統の構成の、微細な變化に伴なつて、微細な追加が心に與へられるといふ意味でである。『人間の腦髓は、生の進化中に、或は寧ろ人間といふ有機體に達する迄の、幾つもの有機體の進化中に、受けた無限數の經驗の、組織化された記錄である。此等の經驗中の尤も普遍的で、尤も屢〻繰り返されるものの結果は、元利共立派に[やぶちゃん注:「元利」(がんり)「共」に、「立派」(りっぱに)。]遺伝された。そして徐々に高尙な知力となりで、孩兒の腦髓中に潜在する――それを孜兒は長ずるに從つて活用し發達せしめ、而して更に複雜化する――そして、それは細微な追加を附して、更に其子孫に遺傳される』註二かくして我々は、前世といふ觀念及び合成的『我』といふ觀念の、確實な生理的根據を得た譯である。各個人の腦髓には、其祖先である凡ての腦髓が受けた、想像を絕する程の無數の經驗の遺傳された記憶が、封入されてある事は爭ふの餘地がない。併し此過去に於ける自己に就ての科學的證明も、物質的に證明された譯ではない。科學は物質論の破壞者である。科學は物質の不可解なことを示した。そして情緖の終極的單位を憶定しながらも、心の祕密は矢張り不可解なることを白狀する。併し我々よりも幾百萬年も古い筒單な情緖の單位から、人間の凡ての情操、凡ての能力が建設された事は疑ひがない。ここに科學は佛敎と共に『我』なるものが合成體なることを認める。又佛敎の如く、現代の心の謎を、過去の心の經驗で說明する。

 

註二 スペンサー「心理學原理」中「感情論」の一節。

譯者註 カナダ生れの英人、十九世紀の著述家。

[やぶちゃん注:「グラント・アレン」チャールス・グラント・ブレアフィンディ・アレン(Charles Grant Blairfindie Allen 一八四八年~一八九九年)はカナダ生まれのイギリスの作家(推理小説が有名)で自然科学者。「心理的美學」(Physiological Æsthetics)は彼が一八七七に書いた科学論文で、後の「色彩感(カラーセンス)に就ての興味ある論文」というのは、恐らく一八七九年に書かれた論文「色彩感覚――その起源と発達」(The Colour-Sense: Its Origin and Development)であろう。

『スペンサー「心理學原理」中「感情論」の一節』一八五五年刊の「心理学原理」(Principles of Psychology)の英語原文全文は英文サイトのこちらで読めるが、それで見ると、この引用は“CHAPTER VIII.: THE FEELINGS.”ではなく、その前の“CHAPTER VII.: REASON.”(「理性」)の終りの方で、小泉八雲の誤りである。]

 

       

 霊魂は無限數の合成體であるといふ觀念は、西洋流の意味での宗敎といふ觀念を、全く不可能ならしむるだらうと、考へる人も多いに相違ない。又舊來の神學上の槪念を棄つる事の出來ぬ人は、疑ひもなく、佛敎國に於てさへ、又佛典の證明あるにも拘らず、普通民の信仰は、靈魂は一個體であるといふ觀念を基礎として居ると想像するに相違ない。併し日本には、其反對の著しい證據がある。無敎育の民衆、佛敎哲學を硏究した事のない、尤も憐れむべき田舍漢でも、自己の複體なることを信じて居る。更に驚くべきは、原始的の宗敎なる神道にも、同樣の敎義が存在する事である。それから支那人、朝鮮人の思想にも、變つた形の同じ信念が存在する。極東の住民は凡て、佛敎の意味でか、或は神道が代表する原始的の意味でか(一種の分裂繁殖說)、或は支那の九星學[やぶちゃん注:占術の一つ。古代中国の「洛書」の図にあるとする九つの星(一白 ・二黒 (じこく)・三碧・四緑・五黄(ごおう)・六白・七赤 (しちせき))・八白・九紫)を陰陽道 で五行と方位に配し、それと個人の生まれた年とを相当させ、運命の吉凶を占うもの。]で作り上げられた怪奇な意味でか、禮魂を複體と考へる樣である。日本では此信念は一般的に行はれて居る事を、自分は十分に見屆けて居る。ここに佛典を引用するの必要はない。何となれば佛敎哲學をいふ迄もなく普通一般人の信念だけで、宗敎的熱誠は、複體禮魂の觀念と兩立して相悖らぬ[やぶちゃん注:「あひもとらぬ」。二つの対象の両立は道理に反していない。]といふ證明を供給し得るからである。日本の百姓は自分の心を、佛敎哲學が考へる程、若しくは西洋の科學が證明する程、複雜なものと考へて居ぬのは確である。併し彼は彼自身を複體と考へるのである。彼が心中に起こる善なる衝動と惡なる衝動との間の衝突は、彼の『我』を構成する樣々の祕密な意志の間の爭鬪と解釋する。そして彼は此善なる自己を惡なる自己から引き離すことを精神的な希望として居る――涅槃卽ち最高の幸福は、ただ最善の自己の遺留によつてのみ到達し得るものと信じて居るから。かくして彼の宗敎は、科學の思想から餘り離れてない所の――我々の故國の民衆が抱く傳習的の靈魂觀程離れてない所の心靈の進化といふ、自然な見解に基づいて居る樣に思はれる。勿論此等の抽象的な題目に就ての彼の考へは、漠然として何等の組織を有せぬものではある。併し其考への一般性質と傾向とは明らかである。そして彼の信仰の誠實なること、又は其信仰が彼の德性に及ぼす感化に就ては何等の疑もない。信仰が敎育ある階級の間に殘存する場合には、其思想は定義と理論とを附與せられるが常である。自分は其例として、二十三歲と二十六歲とになる學生が書いた作文中から各一節を引用する。引用する例は幾らでもある。併し自分の意味する所を示すにはつぎの二例だけで十分であらう。――

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では四字下げで最小のポイント落ちである。前後を一行空けた。]

 

 「靈魂の不死を云ふより愚なるはなし。靈魂は合成物なり、其要素は永久不滅ならんも、二度と同一なる割合に組み合はせらるゝことなし。凡ての合成物は其性質と樣式とを變ぜざるなし」

 「人間の生命は集成物なり。勢力(エネルギー)の結合に依つて靈魂は成る。人死すれば彼の靈魂は、其結合せるものの性質に依り、或は變じ或は變ぜず。或る哲學者は靈魂は不滅なりと云ひ、或る者は然らずといふ。何れも眞なり。靈魂は之を構成する組み合はせの變化に依つて、或は滅び或は滅びず。靈魂を構成する要素たる勢力は實に不滅なり、然れども靈魂の性質に、之が構成に要せらるゝ勢力の、結合の性質に依つて決せらる」

 

 さて此二篇の作文に表明された思想は、西洋の讀者には一見疑もなく非宗敎的と見ゆるであらう。併し實は尤も眞摯な尤も深厚な信仰と相悖らぬのである。さういふ誤つた印象を與へるのは『靈魂(ソール)』といふ英語が、我々の了解するものとは、全く違つた意味に用ゐられてあるからである。右の若き文章家に依つて用ゐられた意味の『靈魂(ソール)』は、善き幷に惡るき傾向の殆ど無限の組み合はせを意味する――卽ち靈魂は一種の合成物で、合成物であるといふ事實其者に依つて、のみならず又精神進化の永久の法則に依つて、崩潰の運命を有するものである。

 

       

 東洋の思想生活に於て、數千年間かくも重大な要素であつた此觀念が、西洋に於ては今日に至る迄發展し得なかつた理由は、西洋の神學に依つて十分說明せられる。併し神學が前世といふ槪念を、西洋人の心に全く浸透せしめざらしめたと云ふのは、正鵠を得たものでない。靈魂は一々新しく生まれた身體に賦與する爲めに、特に新たに作られたものであると信ずる基督敎の敎義は、公然前世を信ずることを許さなかつたが、一般の常識は遺傳の現象に於て此敎條(ドグマ)の矛盾を認めた。同樣に、神學は動物は本能と呼ばる〻一種不可解の機關で動かさる〻、自動木偶[やぶちゃん注:「でく/もくぐう」。人形。]に過ぎずと論じて居るのに、人民は一般に動物も理性を有することを認めた。三四十年前に流行した、本能及び直觀の說も、今日は全く不合理に思はれる。此等の說は、解釋としては用を爲さぬ樣に感ぜられたが、敎條(ドグマ)としては思索を中止せしめ、異說を禁ずる用を爲した。ウヮーズウァースの『忠實(フヰヂリチー)』及び不思議にも買被(かひかぶ)られた『不死の暗示(インチメーシヨン・オブ・インモタリチー)』は、十九世紀の初期に於てさへ、かかる題目に就ては、西洋の思想の極度の因循と幼稚さとを證して居る。犬の主人に對する愛は、實際人間の臆測を超越する程大である。併しそれはウヮーズウァースの夢想だもしなかつた理由でである。それから小兒の新鮮な情緖は、確にウヮーズウァースが與へた不死の觀念よりもより驚くべき或る者の暗示であるけれども、それを歌つた彼の有名な句が、ジヨン・モーレー氏に依つて無意味(ノンセンス)として斥けられたのは尤もである。神學の衰亡せぬ中は、心的遺傳、本能の眞の性質、生の統一等に關する合理的な觀念が、一般の承認を贏ち[やぶちゃん注:「かち」。「勝ち」に同じい。]得る筈はないのであつた。

[やぶちゃん注:「ウヮーズウァース」イギリスの代表的なロマン派詩人ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth 一七七〇年~一八五〇年)。湖水地方の光景をこよなく愛し、自然と人間との霊交を謳い、平易な表現で純朴且つ情熱を秘めた自然讃美の詩を書いた。

「忠實(フヰヂリチー)」“Fidelity”はワーズワースが一八一五年に出版した「詩集Ⅱ」(Poems Volume II)に載る。英文「ウィキソース」のこちらで読める。

「不思議にも買被(かひかぶ)られた」どうも小泉八雲はワーズワースがお嫌いらしい。

「不死の暗示(インチメーシヨン・オブ・インモタリチー)」一八〇四年に完成し、第二巻が一八〇七年に出版されたウィリアム・ワーズワースの長大な詩篇“Ode: Intimations of Immortality”(「オード(頌歌(しょうか))――不死の暗示」。邦訳では「霊魂不滅の歌」とも訳されている)。

「ジヨン・モーレー」ジョン・モーリー(John Morley 一八三八年~一九二三年)イギリスの自由主義政治家で作家・新聞編集者。]

 併し進化論の承認と共に、舊式の思想は崩潰した。擦(す)り切れた敎條(ドグマ)に代はるべく、到る處に新思想が現出した。そして東洋の哲學と妙に並行した方角に、一般の知的運動が始まるの觀を呈した。最近五十年間の科學の進步の未曾有の速さと複雜さとは、非科學者の間にも等しく未曾有の知的發展を促した。尤も高尙な尤も複雜な有機體も、尤も低級な尤も簡單なものから發達したといふ事、唯一の物質的基本譯者註が全生物界の基本なる事、動植物の間には限界線を劃する事を得ざる事。生物と無生物との差は、唯だ程度の差にして、種類の差にはあらざる事。物質も心靈と同じく不可解で、未知の同一な實在の、形を異にせる表現に過ぎざる事――こんな事は既に新哲學の常套語となつて了つた。神學が一度物質的進化を承認した以上、心靈的進化の承認も、無期限に延期すること能はざるは、豫見するに難からずである。人間をして後ろを顧ることを得ざらしむる古敎義の墻壁は、既に毀たれた[やぶちゃん注:「こぼたれた」。]のである。そして今日科學的心理學の硏究者には、前世といふ觀念は、學說の域を脫して事實の境に入り、自(おのづか)ら佛敎の解說は、合理的であることを證して居る。『遽てた思想家の外は』故[やぶちゃん注:「こ」。わざわざ入れてあるのは、彼の死が本作品集刊行の前年、則ち、作品集執筆の最中であったと想定される一八九五年六月二十九日とごく直近であったからであろう。次の「第十三章 コレラ流行時に」の素材は一八九五年七月である。]ハツクスリー敎授は書いて居る、『本來の不合理といふ理由で、之を排斥する者はないであらう。進化論其者の如く、輪𢌞の說は實在界に根抵を有する、從つて類推論が與へ能う[やぶちゃん注:「あたへあたう」。与えることが可能な。]だけの擁護を受け得るであらう』

 

註 「進化と倫理」六十一頁――一八九四年版。

譯者註 原形質の意味か。

[やぶちゃん注:「ハックスレー」生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。小学館「日本大百科全書」より引く。『ロンドンで医学を修めたが、もともと物理学に関心があったために、生体機能の物理・化学的側面を扱う生理学に興味をもった。生計をたてるために海軍の軍医となり、ラトルスネーク号でオーストラリア方面に航海し』(一八四六年から一八五〇年まで)、とくにクダクラゲ類』(刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目 Siphonophorae)『について優れた研究を行った。帰国後、王立鉱山学校教授となり、化石の研究や生理学、比較解剖学に従事。王立学会員となり』、一八八三年からは『同会長を務めた。腔腸』『動物の内・外胚葉』『が、高等動物の内・外胚葉と相同であることを示し、また』、従来の『頭骨は脊椎』『骨の変形したものであるとする「頭骨脊椎骨説」の誤りを正した』。『ダーウィンとは、航海から帰国後まもなく知己となり、終生』、『親交を結』び、彼の「種の起原」(一八五九年)が『出版されるや』、『ただちにダーウィン説に賛同し、ダーウィン自身にかわってこの説の普及者となることを決意し、「ダーウィンのブルドッグ」とよばれた。とくに』一八六〇年に『イギリス学術協会において、ダーウィン説の反対論者であった』司教サミュエル・ウィルバーフォース(Samuel Wilberforce 一八〇五年~一八七三年)を『論破したことは、その後の進化論の受容に大きな影響を与えた。しかしハクスリーは、ダーウィン説を無批判に受け入れたわけではなく、その欠陥も鋭く指摘し、またダーウィンが避けた人間の起源の問題にも言及した』とある。

「進化と倫理」“Evolution and ethics, and other essays”。一八九三年にオックスフォード大学で行われた彼の同題の講義にエッセイを附した刊本。引用部はここの右ページ(“Internet archive”の当該原書の画像)の十行目から。]

 

 さてハツクスリー敎授に依つて述べられた此擁護は甚だ强大である。それに依つて我々は幾億萬年を通じて、闇から光へ、死から生へと飛ぶ魂を見る譯でもなけれど、前世といふ主なる觀念は、殆ど佛陀自身が說明した形に確立されるのである。東洋の敎理では、心理的人格は、個體の如く崩壞の運命を有する集合體なのである。ここに心理的人格と云つたのは、心と心とを――『我』と『汝』とを匹別する所のもの、我々が自己と呼ぶ所のものを意味する。佛敎ではこれは一時的の幻影の集合とされて居る。そして之を成立せしむるものは業(ごふ)である。業で再生する所のものは無數の前世に於ける行爲と思想の統計である――そして其の各個は此總計を取る爲めに加へたり減じたりする神祕な計算法に於ける整數として、自餘のものに影響する。業は磁氣の樣に體から體へ、現象から現象へと傳達され、組み合はせ次第で狀態を決めるのである。併し業が集成し創造する結果は、結局神祕にして測る可からずと佛敎信者は認めて居る。併し結果を維持する總合力は、シヨウペンハワー[やぶちゃん注:ショーペンハウエル。]の所謂生きんとする『意志』に相當する『渴愛(タンヘイ)』[やぶちゃん注:原文“tanhā”。「タンハー」(パーリ語:Taṇhā)。ヴェーダ語(サンスクリット語の古形)では「トリシュナー」(tṛṣṇā)と呼ばれ、「渇き・欲望・願望」を意味する。肉体的・精神的「渇き・欲望・憧れ・欲求」を指し、典型的には「渇愛」(craving)と訳される。「欲愛」(パーリ語(以下同じ): kāmataṇhā:感官によって得られる刺激・快楽(カーマ)への渇愛)・「有愛」(bhavataṇhā:存在することへの渇愛)・「無有愛」(vibhavataṇhā:存在しなくなることへの渇愛」の三種に分類され、この力によって生きとし生けるものは輪廻に於いて死と再生を繰り返すとされる、とウィキの「タンハー」にある。]といふ、生の欲望に依つて生ずると稱せられる。我々はハアバアト・スペンサーの『生物學』に於て、此思想と不思議と近似する思想を認める。彼は性向と其變態(ヴアリエーシヨン)との遺傳を兩極性(ポラリチー)[やぶちゃん注:“polarities”。]に依つて說明する――生理學的單位の兩極性に依つて。此兩極性と佛敎のタンヘイ說との間には、相違よりも相似が著しい。業或は遺傳、タンヘイ或は兩極性は何れも其終極の性質に至つては說明すべからざるものである、此點は佛敎も科學も一である。注意を値する事實は、兩者とも異つた名の下に同じ現象を認めて居る事である。

[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサーの『生物學』」とは“Principles of Biology”(「生物学原理」)で一八六四年に第一巻が刊行されている。]

 

       

 鴛くべく複雜な方法に依つて、科學は東洋の古い思想と奇妙に調和する結論に達したのであるが、其事はやがて其結論は西洋の大衆の心に明瞭に理解せしめ得べきかといふ疑問を提起する。佛敎の實際の敎理が、只だ形式に依つて信者の大多數に敎へ得られる如く、科學の哲理も、只だ提示(サヂエツシヨン)に依つて――性來理智的の頭腦を刺激するに足る樣な事實、若しくは事實の配合の提示に依つて――大衆に敎へ得られるだらうとも思はれる。科學の進步の歷史は此方法の有効な事を保證する。そして高尙な科學の論議は非科學的民衆の理解を超越するが故に、其科學の結論も亦一般に了解せられぬだらうといふ推論には、決して强い理由はない。遊星の大いさと重さ、恒星の距離と構造、引力の法則、光、熱、色の意義、音響の性質、其外科學が發見した無數の事實は、此等の知識に到達した過程の詳細には全く無知な民衆にも、熟知されて居るのである。又我々は十九世紀中に於て、科學の大進步があつた每に、續いて民衆の信念も[やぶちゃん注:底本は「信念」と「も」の間に一字空けがあるが、誤植と断じて詰めた。]、大變化が起こつたと云ふ證據を有して居る。敎會も既に、尙ほ靈魂は一々殊別に作られるといふ舊說に縋りながらも、物質的進化論の大綱を認め、且つ將來とても、舊信仰の墨守、若しくは知的退步は當分豫想せられない。却つて更に宗敎的觀念に變化を生ずべきことが期待される。そしてそれも徐々にといふよりも、寧ろ急激に成就されるらしく思はれる。勿論其變化が如何なる性質のものであるかは豫言されぬ。併し現今の知的傾向より察すれば、心靈上の進化說も認められるに相違ない――たとひ直に神學學的思索に最終の限界を劃する程ではないにしても。そして『我』といふ槪念も、遂には此結果として發展した前世の觀念に依つて、變更されるに相違ない。

 

       

 此等の蓋然性(プロバビリチー)[やぶちゃん注:probability。元来は「確からしさ」の意。「必然」に対応する語で、「事物・現象の生起や、その知識の確からしさの度合い」を指す。それらの生起や知識そのものについては必然的であって偶然の入る余地はないものの、その場(時空間)に於ける必然的因果関係やそれに附随するところの条件が未知の場合、その確からしさの度合いは「偶然的である」とも言える。故にそこから「蓋然性」を「可能性と偶然性の絡み合った状態」と謂うことも出来る。蓋然性は経験的に法則化することが可能で、それが数量的に表わされる際には「確率」と成る。]は、もつと精しく考察する事も出來る。ただ科學を以て改造者に非らずして破壞者なりと考ふる人には、此蓋然性も蓋然性と認められぬであらう。併しかかる思索家は、宗敎的感情が敎條(ドグマ)よりも遙かに深いものであることを、又それはあらゆる形式の宗敎が死滅しても、後に遺るものであることを、又それは知力の擴張と共に、擴まり深まり强まるものであることを忘れて居る、ただ敎理としては、宗敎は遂に死滅すべきことは、進化論の硏究が到達する結論である。併し感情としての宗敎、或は人間をも星辰をも等しく造り上げる未知の力の信仰としての宗敎が、全く死滅すべしとは、今の處想像する事が出來ぬ。科學はただ現象の誤れる解釋を破壞するので、寧ろ宇宙の神祕を擴大し、萬物は如何に微小のものでも、限りなく驚くべく、又不可解のものであることを證する計りである。そして此信仰を擴大し宇宙情緖を擴張するといふ、科學の疑ふ可からざる傾向こそ、西洋の宗敎的觀念が、過去に前例なかりし程の變更を受け、西洋の自己といふ槪念が、東洋の自己觀に似寄つたものに固まり、そして現在の人格とか個人とかは、それだけで存在する實體だといふ憐むべき心理學的觀念は消滅するだらうといふ推察を許すのである。既に科學の敎ふる通りに、遺傳の事實や一般が了解し始めた事は、少くとも此等の變化の幾分かが行はるべき道を指示するものである。心靈進化の大問題に就ての將來の論議に於ては、一般人は科學に導かれて、尤も抵抗の少い道を進むであらう。そして其道は疑もなく遺傳の硏究であらう、其故は此現象は夫れ自身は難解だが、一般人の親しく經驗する所であるからである。そしてこれが無數の古い謎に、幾分の解答を與へるであらう。かくして將來の西洋の宗敎の形式は、總合的哲學の全力を擧げて擁護せられ、佛敎と異る所は、主として槪念の非常に精確なる所に存するのみにて、靈魂を合成體として認め、そして業(ごふ)の說に似た、新しい精神的法則を說くならんと想像するを得るのである。

 併しかういふと直に首肯し難いと考へる人が多數あるであらう。それ等の人はつぎの樣に云ふであらう、かういふ信仰の變更があるとすれば、それは思想が感情を咄嗟の間に征服し變更するものであらねばならぬ。然るにハアバアト・スペンサーも『世間は思想に依つては支配されぬ、感情に依つて支配せられるのである、思想は感情の案内役に過ぎぬ』と云つて居るではないか。論者の云ふやうな變化は、西洋に現存する宗敎心と宗敎的情操の力とを考ふれば、迚も有り得べきこととは思はれぬと。

 前世及び複體としての靈魂の觀念が、眞に西洋の宗敎心に背反するならば、滿足なる解答は爲し能はぬ。併し果たして背反して居るだらうか。前世の觀念は確に背反して居らぬ。西洋人の心には既に其準備が出來て居る。尤も崩潰の運命を有する合成體としての我といふ槪念は、物質的な絕滅といふ觀念にいくらも優らぬ[やぶちゃん注:「まさらぬ」。]やうに見ゆる――少くとも舊式の考へ方を棄つること能はざる者には。併し公明に反省して見ると、『我』の崩潰を恐る〻べき情的の理由がない事が分かるであらう。實際は無意識的にではあるが、基督敎徒も佛敎徒も、永久に祈禱をするのは此崩潰があればこそである。己が性質の惡るき部分を、己が愚と過失との傾向を、不親切な言動を爲さんとする衝動を――凡て己の高尙な部分に絡まり、最上の抱負を低下せしむる下劣な性能を抛棄したしと屢〻願はぬ者があらうか。けれども我々がしかく[やぶちゃん注:「然く」。そのように。]熱心に分離、除却、廢滅を願ふ所のものは、貴い理想の實現を助ける役天的も大なる能力よりも、寧ろ父母より傳承した心靈、我其者の一部分であるのである。我の崩潰といふことは、恐ろしい滅亡ではなく、我々の努力を注ぐべき目的物の一なのである。如何なる新しい哲學も、我中の最善の要素は、一層高尙な聯合を求め、益〻偉大な組み合はせに入り、遂に最高の啓示に接し、而して我々は無限の幻影を透して――凡ての自我を減却して――絕對實在を見るに至るを、欣求するものであると、思ふことを抑止する譯に行かぬ。

 我々は所謂原素なるものでさへ進化しつつあることは知つてるが、どんなものでも全く死滅するといふことの證據を有せぬのである。我々が現在在るといふことは甞て在つたこと、及び將來も在るであらうといふことの保證である。我々は無數の進化にも、無數の宇宙の興亡にも堪へて生存したのである。我々は全宇宙を通じて凡てが法則に支配せられることを知つて居る。如何なる原子が遊星の核心を構成するか、如何なる物が太陽の恩德を受くべきか。如何なる物が花崗岩や玄武岩中に入り、如何なる物が植物に入り、さては動物に入つて繁殖すべきかは、決して偶然が決するのではない。理性が類推法に依つて推論し得る限りでは、心理的にも物理的にも、凡ての最終の單位の宇宙に於ける歷史は、佛敎の業の說に於けるが如くに、確實に精密に決せらるべきものであらう。

 

       

 科學の影響が西洋の宗敎的信念の變更に與る[やぶちゃん注:「あづかる」。]唯一の要素ではない。東洋哲學もたしかに之に與るであらう。サンスクリット、支那語、パリー語の硏究、其他東洋各地に於ける言語學者の倦まざる努力は、急激な勢で東洋思想のあらゆる顯著なものを歐米に紹介しつつある。佛敎は西洋中に興味を以て硏究されつつあり、そして此等硏究の結果は、最高文化の心的產物となつて、年々益〻明確に現はれつつある。哲學の諸派は、時代の文學に於ける程眼に見えて影響を受けて居ない。『我』の間題の建て直しが到る處西洋人の心に侵入しつつある證據は、啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]當代の思想的散文のみならず、詩歌小說の上にも見出され得る。一時代前には有り得なかつた觀念が時代思潮を變更し、舊趣味を破壞し、より高尙な感情を發展せしめつつある。より大なる靈感の下に動きつつある創作的藝術は、前世の觀念の承認で、如何に全く新しい優れた感情が、又如何に從來想像し得なかつた感情が、又如何に驚くべき情緖の力の深まりが、文學に於て其地步を進めつつあるかを語つて居る。小說に於てさへ、我々は從來只だ一半球上にのみ生活しりつつあつたことを、又我々は半分の思想だけを考へつつあつたことを、又我々は現在といふ此半球截斷面上に過去と將來とを結び附け、かくして我々の情緖世界は初めて完全な球體に完成されるといふ、新しい信念を要することを學ぶのである。我は複體であるといふ明確な信念は、如何に珍奇な說に見えようとも、衆(メニー)は一(ワン)なら、生(ライフ)は統一(ユニチー)なり、有限なるものなし、ただ無限あるのみといふ、より大なる信念に達する、絕對必要な徑路である。『我』唯一無二と想像する盲目的な驕慢心が瓦解し、自己及び我執の念が全く破壞される迄は、無窮としての――大宇宙と同樣に――自我の知識は決して到達されぬ。

[やぶちゃん注:「パリ―語」南伝上座部仏教の経典(「パーリ語経典」)で主に使用される言語。古代インドの中西部で用いられた「プラークリット」(俗語)を代表する言語。]

 

 疑ひもなく、我は一であるといふ考は我執の見であるといふ、知的信念が到達せられる前に、先づ我々は過去にも生活したといふ情感的信念が發展するであらう。併し兎に角遂には、我の複合的性質は認められるに相違ない、――尤も神祕は神祕として遺るであらう。科學は生理的單位を假定すると同樣に、心理的單位をも假定する。併し何れの假定された單位も、數學的計量の極度の力を以てして、尙ほ計算する事が出來ない、――全く幽眇[やぶちゃん注:「ゆうべう(ゆうびょう)」。奥深く優れていること。「玄妙」に同じい。]の境に入つて了ふやうに見ゆる。化學者は硏究の目的の爲めに、極微の原子を想像せぬばならぬ。併し其想但したる原子が象徵する事實は、ただ力の中心であるかも知れない――否佛敎の思想に於けるが如く、無、渦(うづ)、空であるかも知れない『形は空である空は形である形なるものは空である空なるものは形である知覺と思想名と知識――凡てこれ等は空である』科學にも佛敎にも同樣に宇宙は一大幻影と化する――ただ知る可からず測る可からざる力の假の現はれと化する。とはいへ佛敎は『何處から』及び『何處へ』の問に佛敎一流の答を與へる――そして進化の大周期每に、前世の記憶蘇生(よみがへ)り、あらゆる未來が同時に眼前に展開せられ――天上の天迄も見渡さる〻程の精神的膨脹の時期の來るべきを豫言して居る。科學は此點に就ては沈默して居る。併し其沈默はグノスチツク敎徒の祕密な沈默である――奈落の女(むすめ)、靈鬼の母なるシゲーである。

[やぶちゃん注:「奈落の女(むすめ)、靈鬼の母なるシゲー」原文“Sigé”。「沈黙・静寂」の意で、別名を「エンノイア」(「思考・思い」の意)。プトレマイオス派グノーシス主義に於ける至高のアイオーン(グノーシス主義での高次霊の総称)の筆頭プロパトールの伴侶。]

 科學の十分なる承認を得て、我々が信じ得べきことは、驚くべき啓示が未來に我々を待つて居るといふ事である。近代になつて發達した新しき感覺と力とがある――音樂の感覺と數學者の生長して止まぬ能力である。尙ほ一層高尙な、今想像し得ざる能力が我々の子孫に進展するであらうと豫期するのは不道理でない。又疑もなく遺傳した或る心的能力は老年に及んで初めて發達するといふ事も知られて居る。然るに人類の平均年齡は確實に高まりつつあるのである。長壽の增進と共により大なる未來の腦髓の出現に依つて、前世を記憶する能力に劣らぬ能力が、突然發生する事があるかも知れぬ。佛敎の夢想は深遠にして容易に凌駕することが出來ぬ、何となればそれは無窮に觸る〻からである。併し誰れが其夢想は實現されぬと斷言し得るであらうか。

[やぶちゃん注:以上で本文は終わるが、本篇にはこの後に非常に長い“NOTE.”が付随している。底本ではそれを二行空けて「備考」と題し、全体を四行下げ最小のポイント落ちで訳してあるが、以下、完全に引き上げて同ポイントで示す。各段落の頭に字下げがないはママである。]

 

 

  備 考

右の一文を通讀せられた諸君に、御注意致し置く必要を感じた事は、自分は靈魂(ソール)、自己(セルフ)、我(エゴ)、輪𢌞(トランスミグレーシヨン)[やぶちゃん注:transmigration。]、遺傳(ヘレヂチー)[やぶちゃん注:heredity。]などいふ語を遠慮なく使用したが、此等の英語に佛敎哲學には全く不通の意味を有するといふ事である。英語の意味での靈魂(ソール)は佛敎にない。自己(セルフ)は幻影若しくは幻影の束(たば)である。或る身體から他の身體へ轉移するものとしての輪𢌞は、明らかに出處明確なる佛典の中で否定されて居る。故に業(ごふ)の說と科學上の遺傳の事實との間に存する類似は、迚も完全なものとは云うはれぬ。業は同一の複體我の生存を意味するのではなく、其傾向性(テンデンシー)[やぶちゃん注:tendencies。]の生存を意味するのである。そして此傾向性が新たな組み合はせをして、新複我を形成するのである。かくして形成された新しい存在は必らずしも人間の形を取らぬ、卽ち業は親から子に行くものではない。生の形態は業に因るものであるが、遺傳の系統とは關係がない。乞食の業體[やぶちゃん注:「ごふたい」。]は國王の肉體に生まで替はるかも知れない、又國王のそれが乞食の肉體に生まれ替るかも知れない。併し生ま替はつた者の狀態は何れにしても業の力で決せられるのである。

というふとかう云ふ疑問が發せられるであらう――「そんなら變はらずに繼續する各人の精神的要素――云はば業と云ふ殼(から)の中にある精神的の仁(たね)――正道に精進する力――は何であらう。靈魂も肉體も同樣に此世だけの組み合はせで、業(それも此世だけのものなる)が人格を作る唯一の原因であるとすると、佛敎の敎義の價値は何に在るか又何の意義があるか。業に依つて苦しむものは何か。幻影の中にあるもの――進步するもの――涅槃に到達するもの――涅槃に到達するもの――は何か。それは自己ではないか」否、英語の意味の自己ではない。我々が自己と呼ぶむのは佛敎では實在でないとしてある。業を結んだり解いたりするもの、正道に精進するもの、涅槃に到達するものは、我が西洋語の意味の我(エゴー[やぶちゃん注:ママ。])ではない。そんなら何かといふに、それは各人の佛性である。日本語では「無我の大我」――我欲なき大なる自己――と呼ばるる。此外に眞の自己はない。此自己が幻影に包まれてゐる狀態を如來識――胎内に在るが如くに未だ生まれざる佛陀――と云ふ。各人には永遠なる者が潜在して居る。それが實在である。も一つの自己は虛僞である――詐僞である――蜃氣樓である。死滅說はたゞ幻影の死滅を意味する。肉體的生活にのみ屬する所の情緖、感覺、思想等も、此複雜な幻影的自己を作る幻影に過ぎない。此虛僞なる自己の完全なる分解に依つて――恰も被膜を引きちぎりたる如くに、無窮の洞觀力[やぶちゃん注:ママ。]が現はれる。所謂靈魂(ソール)なるものはない。無窮の全大靈が凡ての生物の唯一無窮の要素である。其他のものは皆夢である。

涅槃に達した時、其處に殘るものは何か。佛敎の或る宗派の說に依ると永遠に於ける潜在性の同一自己(アイデンチチー)である――それ故に佛陀となつたものも又此世へ歸る事が出來ると。又他の宗派の說によると、潜在性以上の同一自己である、併し我々の意味する肉體的の同一自己ではない。或日本の友人は云石ふ――「ここに一塊の金を取つてこれを一個と云ふ。併へこれに眼にの印象を生ずると云ふ意味である。實際は之を構成する原子の群であつて、各原子は皆別々のものであり、各[やぶちゃん注:「おのおの」、]他の原子から獨立して居る。佛陀の境地に達したる者に在つても無數の心靈的原子が其通りに結合されてゐる。其無數の原子が一個の狀態を爲してゐる――けれども各原子は各獨立の存在を有する」と。

併し日本では原始的の宗敎(神道)が、平民級の佛敎の信仰に影響して多少の變化を生じて居るから、持別に日本人の『自己觀念』と云つても間違ひではない、たゞ一般の神道の思想を併せ考ふることが必要である。神道の靈魂の槪念に就ては極めて明瞭な證跡がある。併し神道の靈魂も複雜である――業體の樣に、單なる情緖、知覺及び意志の束ではなく、一人格を作る爲めに幾つもの靈魂が結合したものである。死人の靈は唯一として現はるゝこともある、數個として現はるゝこともある。靈は其單位を分離させることが出來る、そして單位の各個は特殊の獨立した行動を取る事が出來る。とはいへ此分離は一時的で複雜を構成する種々の靈魂は死後でも當然聯結するし、自發的に一時分離した後も又結合する。日本人民の大多數は佛敎信者であり同時に神道信者である、併し自己に關しては原始的の信仰(神道)の方が有力で、二信仰の混合せる中にもそれを明瞭に識別する事が出來る。多分これはの說のむつかしさを民衆の心に判かりよく簡易に說明する役目を爲したのであらう――どの程度迄とは自分は云ひ兼ねるが。要するに佛敎に於ても神道に於ても、自己はから子に傳へらるゝ要素でない――常に生理的血統に依る遺產でない。

此等の事實は、右の一文の題目に就て、東洋の觀念と我々のそれとの間の差が如何に大なるかを示すであらう。又此等の事實は、極東の二つの信仰の不思議な結合を成せるものと、十九世紀の科學的思想との間に眞の類似が存在するといふ槪念も、自己といふ觀念に關する用語に於て嚴密な哲學的精確さで會得せしむる事は殆ど出來ぬ事を示すであらう。實際佛敎哲學に屬する佛敎用用語の精確な意味を飜譯し得べき歐洲語は一つもない。

 

ハツクスリー敎授が「感覺及び感覺傳達機關」に就てなる論文中にて簡明に陳べられたるつぎの論旨から遠ざかるのは不當と思はれるかも知れない――「論じ詰めると感覺は、感覺中樞の物質の運動の樣式に對する意識上の等價物(エクイバレント)[やぶちゃん注:equivalent。]であるらしい。併し若し硏究を更に一步進めて、物質及び運動とは何ぞやと云へば、之に對する答に唯だ一つしかない。我々の知る限りでは引導とは我々の視覺、觸覺、筋覺に於ける關係の或る變化を指す名である。そして物質とは物理的現象の臆定的官實質で、此臆定は心の實質の臆定と同じく全く形而上的思索である」併し形而上學的思索は、終極の眞理が人間の知識の極限外にあるといふ科學的認定がおつむからとて決して止むものではない、寧ろ其理由で、却つて永續するであらう。全く止むやうな事は決してあるまい。形而上學的思索が無かつたら宗敎上の信念の修正が起こらない。修正がなかつたら、科學的思想と調和を保つ宗敎的進步が起こり得ない。であるから自分には、形而上學的思索は至當であるのではない、必要であるやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「ハツクスリー敎授」の「感覺及び感覺傳達機關」原文は“Sensation and the Sensiferous Organs”であるが、正しくは“Sensation and the unity of structure of sensiferous organs”(「感覚と感覚器官の構造の統一性に就いて」)で一八七九年発表のエッセイ。英文サイトのこちらで全文が読め、引用はその末尾から四段落目にある。]

我々は心の實質を肯定するとも或は否もするとも、或は思想とは、風が琴の糸に當たつて音樂が生ずる樣に、腦髓の細胞に或る不明の要素が作用して生ずるものであると想像するとも、或は運動とは腦細胞に固有にして振動の或る特殊なる樣式であると考ふるとも――神祕は尙ほ無限に神祕である。そして佛敎は尙ほ人知の憧憬に適(かな)ひ、道德的進步と唱和する貴い道德上の有効(ワーキング)な假說(ハイポセシス)[やぶちゃん注:working-hypothesis。「作業仮説」。更なる研究を行う基盤とするために暫定的に受け入れられるところの仮説。 最終的にはその仮説自体は放棄・否定されるとしても、その仮説を叩き台として批判に耐え得るよい強固な理論が生み出せることを期待して受け入れるに足る仮説を指す。]である。我々は物質的宇宙と呼ばるゝ實在を信ずるとも信ぜぬとも、尙ほ說明し得ざる遺傳の法則の――特殊化せざる生殖細胞に於て種族並に個人の性向の傳達せられる事實の――倫理的意義は、業の說の存在を肯定する。意識を構成するものは何であらうとも、之が凡ての過去及び凡ての未來への關係は疑ふ可くもない。又涅槃の說か公平な思索家の深厚な尊敬を失ふことはあり得ない。科學は既知の物質は心と同じく進化の產物である――我々の謂はゆる四行(地水火風)は「未だ分化せざる原始的の形の物質」から進展したといふ證明を發見した。而して此證明は佛敎の分出(エマネーシヨン)[やぶちゃん注:emanation。「発散・流出・放射」。]及び幻影(イリユージヨン)の敎義に含まるゝ或る眞理を猛烈に暗示して居る――乃ち凡ての形態は無形から、凡ての物質的現像は非物質的の統一體から進化せるものなる事――凡ての者は結局「欲情も惡意も倦怠もない狀態――個性の刺戟が最早存在せず、從つて太虛と呼ばれ得る狀態」に復歸することを暗示して居る。

 

2019/12/17

小泉八雲 薄暗がりの神仏 (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“IN THE TWILIGHT OF THE GODS”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の第十一話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。また、本篇は本作品集ではなく、雑誌『大西洋評論』(Atlantic Monthly)の一八九五年六月初出である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 文中途中に入る注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、前後を一行空けた。傍点「ヽ」は太字に代えた。また、最初の「譯者註」は本篇末尾に置かれているが、原注の前に挿入した。

 訳者戶澤正保(底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している)氏については私の「小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保訳)」の冒頭注を参照されたい。]

 

      第十一章 薄暗がりの神佛

 

       

 『ジヨス譯者註御存じですか』

 『ジヨスッ』

 『さうです偶像です、日本の偶像です――ジヨスです』

 『幾らか知つて居ます』自分は答へた。『併し澤山(たんと)は知りません』

 『先づ私の集めたのを見て下さいませんか。私は二十年間ジヨスを集めました。見るに足るものが幾らかあります。併し賣るのではありせん――大英博物館の外へは』

[やぶちゃん注:冒頭「一」とあるが、原文にはなく、また底本でも「二」はないので、戸澤氏の勘違いである。また、「ありません」は底本では「ありまん」であるが、脱字と断じ、特異的に訂した。]

 自分は此骨董商の後に尾いて[やぶちゃん注:「ついて」。]、古道具の雜然たる店を通り拔け、石疊の空地を橫ぎつて、並外づれて大きい土藏(ゴーダウン)へ往つて見た。凡ての土藏の樣に暗いので、自分には闇の中を上る階段をやつと見分ける事が出來た。商人は階段の下で停まつて、

 

譯者註 ジヨスの原語は Joss 素と[やぶちゃん注:「もと」。] deos 卽ち神といふ語を支那人が轉化して joss と發音せしより支那の神像の事を凡てかくいふに至り、更に擴張して日本の神佛像をもかく云ふ。

註これは極東の開港場にある耐火性の倉庫、語原は馬來語のgôdong。

[やぶちゃん注:「ジヨス」原文“josses”。単数形は「joss」。で戸澤氏が注するように、本来は中国人の祭る神像・仏像・偶像。単数形の発音は「ジョース」に近い。

「deos」ポルトガル語の「神」を意味する知られた「deus」(デウス)の古い綴り。

「馬來語」「マライご」「マレーご」。マレーシア語。

「土藏(ゴーダウン)」原文では“godown”で、原注で小泉八雲が述べている通りであるが、現行、マレー語の綴りは「gudang」(「倉庫」の意)のようである。原語の発音のカタカナ音写はある記載によれば「グダン」とある。]

 

 『直ぐ見える樣になります』彼は云つた。『私はジヨスを入れるばかりに之を建てました。併し今では小さ過ぎます。ジヨスはみんな二階にあります。さあお登りなさい。ただ御用心なさい――梯子が惡るいです』

 自分は登つた。甚だ高い天井の下は、丸で黃昏(たそがれ)の樣であつた。そしてその中で自分は澤山な神佛と面と向かひあつた。

 大きな土藏の薄暗がりで見ると、凄いばかりではない、幽靈の世界へでも往つた感じがする。羅漢や菩薩や佛達や、又それ等よりも古い神達が、薄暗い空間に滿ちて居る。それも寺院内に於ける樣に、秩序整然とでなく、驚愕に打たれて啞然とした如き狀態で、雜然と陳べられて居る。初めは幾つもある首や、破壞した背光[やぶちゃん注:原文“aureoles”。「オリョール」。聖像の頭部又は全身を囲む後光・光輪のことだが、現行では「光背」と表記するのが一般的。]や、威嚇の爲めに、或は祈禱の爲めに、擧げた手などの立ち込んだ中――蜘蛛の巢のかかつた隙間から來る光線に半ば照らされた、汚れた金箔の雜然とほのめく中から、何者をも判然と見別ける事は出來なかつた。併し段々眼が馴れて來ると、何の像といふ見別けがついて來た。種々の形式の觀音がある、色々のものついた地藏がある、釋迦がある、藥師がある、阿彌陀がある、佛と其弟がある。何れも甚だ古い。其作も皆日本のではない、又何れの國何れの時代のとも限つてない。朝鮮のもあり、支那のもあり、印度のもある――これ等は初期佛敎渡來の全盛時代に舶來されたものである。或る者は蓮華――靈界の蓮華の上に坐して居る。或る者は豹、獅子、虎、其他の奇獸――電光や死を象徵する――に乘つて居る。群集に支へられた黃金の玉座に坐して、闇の中を動く樣に見ゆる、三頭多手の凄い莊嚴な像があつた[やぶちゃん注:恐らく千手観音菩薩像であろう。一般的な千手観音像は十一面四十二臂であるが、正面と左右に大きな顔があり、頭部に残りの小さな首を配する本菩薩の作像の場合、暗い中では三面と見えると思う。]。火炎にくるまれて鎭座する不動もあつた。神祕な孔雀に乘つた摩耶夫人もあつた[やぶちゃん注:原文は“Maya-Fujin”であるが、私は「まやぶにん」と読いみたい(「ふじん」の読みが誤りであるわけではない)。ウィキの「摩耶夫人」によれば、パーリ語・サンスクリット語の「マーヤー」の漢音写。ゴータマ・シッダッタ(釈迦)の生母を指す。但し、「マーヤー」は一般にその固有名とされているものの、近年の学説では、一般名詞で「母」を意味する「マーター」の俗語形であって本名ではないともされる。]。又此等の佛像の中に、大もの甲胃姿や支那の聖賢の像が雜じつて居るのは時代錯誤的な六道の辻ともいふべき奇觀であつた。雷電を挿んで[やぶちゃん注:「はさんで」。]屋根まで伸び上がつた憤怒の形相凄まじい大きな像――暴風の權化の樣な四天王、廢寺の山門の守護神仁王の像などもあつた。それから又妖艷な女體像もあつた。蓮華の土に坐つた四肢のなよやかさ、妙法の數を數へる指のしなやかさ、これは恐らく或る忘れられた昔に、印度の舞姬の美貌から得來たつた理想であらう。上の方の、煉瓦のままの壁に沿うた棚の上には、小形の像が澤山あつた。黑猫の眼の樣に暗中に輝く眼のある鬼の像、半人半鳥で翼があり鷲の樣な嘴のある像――日本人の空想が生み出した天狗などがあつた。

 『いかがです』と骨董商は自分の驚いてる[やぶちゃん注:ママ。]樣子に滿足の笑を以て尋ねた。

 『大したものです』と自分は答へた。

 彼は自分の肩に手を懸け、耳ヘ口を寄せて誇りかに云つた。『五萬弗費やしましたよ』

[やぶちゃん注:「五萬弗」本作品集刊行は明治二九(一八九六)年で、その前年の為替レートで一ドルは一・九八円で約二円であるから、十万円、当時の一円を現在の二万円とする今までの換算で、二十億円相当にも上るが、ちょっと一骨董商が払う金額としては高額に過ぎる気がするし、この骨董商、後を読んでもらうと判るが、私には、廃仏毀釈による寺院の困窮衰亡に乗って、甚だ厭なおぞましい安値で仏像を買い叩く俗悪な骨董商であることが判然とする。]

 併し此等の彫像は、東洋に於ける美術の工賃が如何に安からうとも、忘れられた信仰に拂はれた代價は、そんなものではない事を語つて居る。又彼等は彼等を安置せる祠堂の石段を、信心の足で窪く摺り減らした、幾百萬の死せる信徒のあつたことを、彼等の祭壇の前に、小さい赤兒の衣服を掛け掛けした、幾多の母親のあつたことを、彼等に祈禱を籠める樣に敎へられた、幾代もの子供があつたことを、さては彼等の前に打明けられた、無限の悲哀と希望とに就て語つて居る。幾百年の崇拜の名殘は、彼等の流浪の後を追うてか、微かな床しげな香の移り香が、此塵(ごみ)だらけの場處にも漂うて居る。

[やぶちゃん注:「彼等の祭壇の前に、小さい赤兒の衣服を掛け掛けした」これは思うに、鬼子母神の祭壇を指すものと私は思う。そうしてこの時、小泉八雲が想起した記憶は、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(二〇)』のそれではなかったかと私は思うのである。そこで私はその寺を敢えて指示していない。しかしここではっきり言おう。これは私の家から目と鼻の先にある、神奈川県藤沢市柄沢の柄沢山宗休庵隆昌院であると私は踏んでいる。同寺の公式サイトでもその可能性を示唆されてあるのである。

 『あれは何と思召します』骨董商の聲が問うた。『あれが此中でも、一番傑作ださうです』

と彼は、三重の蓮華に坐した佛像を指差した――阿嚩盧吉帝濕伐羅(アバロキステバラ)――『稱名の音聲を觀る』といふ女菩薩。……彼女の名を稱ふれば嵐も憎みも鎭まり火も彼女の名にて消え惡鬼も彼女の名を聞けば退散す彼女の名を稱ふれば人も日輪の如く空中に佇立するを得……五体の優美さ微笑の溫雅さ、方に是れ印度樂園の夢である。

[やぶちゃん注:太字(底本では傍点「ヽ」)の最後の部分は「佇立す」までしかないが、私の判断で「る」まで太字とした。

「阿嚩盧吉帝濕伐羅(アバロキステバラ)」原文“Avalokitesvara”。観音菩薩。サンスクリット語ラテン文字転写で現行は「Avalokiteśvara」。仏教では他の菩薩如来と同様、男であるが、最も女性性の強い菩薩であり、ウィキの「観音菩薩」によれば、『インド土着の女神が仏教に取り入れられた可能性』が考えられ、また『ゾロアスター教においてアフラ・マズダーの娘とされる女神アナーヒターやスプンタ・アールマティとの関連』も『指摘されている』ている。]

 『觀音です』自分は答へた。『甚だ美しい』

 『隨分高い代價を拂つても欲しいといふ者がありませう』彼は賢(さか)しげな目配せそして云つた。『私も可なり出しました。併し槪して私は安く買ひます。こんな物は買手が少いし、それに内證で賣るのですからね、そこが私の附け目です。あの隅にあるジヨスを御覽なさい――大きな眞黑な奴、これは何でせう』

 『延命地藏です』自分は答へた。『長命を授ける地藏です。太變古いやうです』

 『ねえ。貴君(あなた)』と彼は又自分の肩に手を置いて云つた。『それを賣つた男は、私に賣つた爲めに、牢屋へ入れられましたよ』

と彼は心から笑ひこけた――彼自身の取引の巧妙さを思ひ出してか、國法を侵して佛像を賣つた男の不運な魯鈍を笑つたのか、自分には分からなかつた。

 『後になつて』彼は又云つた。『それを買ひ戾したいと云つて私が拂つた金よりも餘計を提供して來ましたが、私は應じませんでした。私は偶像の事を精しくは知りません、併しどれ程の値打があるかは知つて居ます。全國を探してもそんな偶像は又とありません。大英博物館は、それを手に入れたら喜びませう』

 『大英博物館へは何時送るお積りですか』自分は聞いて見た。

 『サア、先づ私は展覽會を開く積りです』彼は答ヘた。『ロンドンで偶像の展覽會をすれば全が儲かりますよ。ロンドン人は生まれてこんなものを見た事はありませんからね。そして敎會の人達は、うまく持ち込めば此種の展覽分を後援しますよ。傳道の廣告になりますからね「日本の偶像崇拜」とか何とか……其の小兒は如何です』

 自分は此時、片手は上を指し、片手は下を指して立つてる[やぶちゃん注:ママ。]、裸體の孩兒の金色の像――一誕生の佛陀――を見て居たのである。旭日が東天に昇る樣に彼は光明を放ちつつ胎内から出て來た。……彼は直立して悠然と七步步いた其足跡は七つの星の樣にいつまでも光つて居たそして彼は明瞭な語調でかう云つた。『佛陀は生まれた予に再生はない予は天上天下凡ての者を濟度せんが爲めに此度を限りに生まれ出た

 『それは所謂誕生釋迦です。靑銅のやうですね』

 『靑銅です』彼は指の節で件の像を叩いて鳴らしながら答へた。『銅の地金だけでも買ひ値よりは高いです』

 自分は、頭が殆ど天井に觸れて居る四天王を見上げて、『摩訶跋渠(マハバカ)』に書いてある彼等が出現の噺を思ひ出した。美しい夜であつた四人の大王は四邊を光明に充たしつつ聖き森に入つたそして鄭重に佛陀を禮拜した後東西南北に分かれて四大炬火の樣に立つた

[やぶちゃん注:「摩訶跋渠(マハバカ)」“Mahavagga”。上座部仏教の「パーリ仏典」の「パーリ律」に於いて出家修行者(比丘・比丘尼)が属する僧伽(僧団)内の作法・規則や、その由来を説いた領域を言う「犍度」(けんど/パーリ語ラテン文字転写:khandhaka:カンダカ)の「大品」(だいほん/パーリ語:Mahā-vagga:マハー・ヴァッガ)のこと。]

 『こんな大いな像をどうして二階に持ち上げましたか』自分が問うた。

 『引き上げました、床(ゆか)へ大穴を明けて入れたのです。實際困つたのは汽車で持つて來る事でした。彼等には初めての汽車旅行でした……併しこれw見て下さい、展覽會に出したら大評判になりませうよ』

 見ると高さ二尺許りの小さい木像が二つあつた。

 『何故これが大評判になるとお考へですか』自分は何げなく聞いた。

 『何だか分かりませんか。これは基敎[やぶちゃん注:「キリストきやう」と読んでおく。原文には特になく、単に“persecutions”(迫害)であるのに戸澤氏が添えたものである。]迫害の時に作られたもので、日本の惡魔が十字架を蹈み附けて居るところです』

 其木像といふのは、小さい寺の守護神に過ぎぬ。そしてX形の支柱に脚を載せて居るのである。

 『誰れかこれは惡魔が十字架を蹈み附けて居るところだと云ひましたか』と自分は蹈み込んで聞いた。

 『外に取り樣がないぢやありませんか』と彼は云ひぬける樣に答へた。『脚の下の十字架を御覽なさい』

 『併し惡魔ではありませんよ』自分は主張した。『そして此十字架の樣な物も、ただ平面を與へる爲めに、脚の下へ突(つ)つかヘたに過ぎませんよ』

 彼は默して失望の樣子を見せたので、自分は少し氣の毒に感じた。『十字架を蹈み附けて居る惡魔』は、日本の偶像の到着を報道するロンドンの廣告びらの客呼(まねぎ)文句としては、公衆の眼を引くこと請合であらう。

 『これはそれよりもつとよい物です』と自分は美しい組合像(グループ)を指して云つた。これは傳說に依る摩耶夫人の橫腹から、赤兒の佛陀が出懸かつて居る所であつた。彼女の橫腹から苦痛もなく菩薩が生まれ出たそれは四月の八日であつた

[やぶちゃん注:ウィキの「摩耶夫人」によれば、摩耶夫人は生没年不詳で、『コーリヤ族の出身とされ、釈迦族の王シュッドーダナ(浄飯王)に嫁いだ』。紀元前五六六年(紀元前六二四年・紀元前四六三年とする説もある)に『シッダッタを生み、シッダッタの生後』七『日後に没した』。『また』、『没して後は忉利天に転生したと仏伝には記される』。『シッダッタはその後、マーヤーの妹であるマハー・プラジャパティー(摩訶波闍波提)に育てられた』とされるが、『それは、シュッドーダナがマハー・プラジャパティーを後の王妃としたということのようである』。「ラリタ・ヴィスタラ」(「普曜経」・「方広大荘厳経」)などに『よれば、マーヤーはヴァイシャーカ月に』六『本の牙を持つ白い象が胎内に入る夢を見』、『シッダッタを懐妊したとされており、その出産の』さま『も、郷里に帰る途中に立ち寄ったルンビニーの園で花(北方伝ではアショーカ樹〈無憂樹〉、南方伝ではサール〈娑羅双樹〉)を手折ろうと手を伸ばしたところ、右脇から釈迦が生まれたと伝える』とある。]

 『それも靑銅です』彼はそれを叩きながら云つた。『銅製の偶像は段々少くなります。もとは銅像を買ひ上げて古金(ふるがね)として賣つたものです。少し取つて殼けば宜かつたのに。其當時寺から來る靑銅をお目に懸けたかつた――鐘だの、花瓶だの、偶像だの。鎌倉の大佛を買ひ取らうとしたのも其頃の事でした』

 『古金(ふるかね)としてですか』自分は問うた。

 『さうです。私共は金(かね)の量目(めかた)を計算して、組合(シンジケート)を組織しました。最初の附値は三萬弗でした。それで大儲けが出來る筈でした、あれには金や銀が澤山入つて居りますから。僧侶達は賣りたかつたのですが、檀家が承知しませんでした』

 『あれは世界の寶一つです』自分は云つた。『君達はほんとにあれを潰(つぶ)す積りでしたか』

 『さうですとも。勿論です。外に仕樣がないぢやありませんか。彼處(あそこ)にあるのは處女(ヴワージン)メーリーに似てますね』

[やぶちゃん注:「處女(ヴワージン)メーリー」原文“Virgin Mary”。言わずもがな、処女懐胎したイエス・キリストの母マリアである。]

 彼は小兒を抱かしめて居る女の、金箔を塗つた像を指した。

 『似で居ます』自分は答へた。『併しあれは鬼子母神といふ、子供を可愛がる、女神です』

 『人は偶像々々と云ひますが』渠は考へながら續けた。『羅馬舊敎(ローマンカソリツク)の寺院にはこんなものが澤山ありますね。私には宗敎は世界中何處でも、同じ樣に見えます』

 『君のいふ通りです』

 『佛陀の物語も基督の物語に似て居ますね』

 『或る度まではね』

 『ただ佛陀は傑刑にならなかつただけです』

 自分は答へなかつた。そしてつぎの經文を思ひ出した『世界中に芥子粒程の地といへども、彼が衆生の爲めに身命を捨てざりし地は殘つて居ない』其時突然自分にはこれが絕對に眞である樣な氣がした。大乘の佛陀はゴタマでない、如來でもない。人の心中にある佛性である。我々は凡て無窮の蛹である。各人は佛陀を含有する。千萬人も皆同一である。あらゆる人間は潜在的に佛陀であるが、幾代も幾代も色相の迷夢に耽つて居る。我慾の亡びる時こそ、釋尊の微笑は世界を再び美しからしむるであらう。貴い犧牲を拂ふ每に、人は覺醒の時機に近づき行く。そして幾代もの人間の無量數を思へば、今でも愛の爲めに、若しくは義務の爲めに、身命の捨てられなかつた土地が、地球上に一箇處でも殘つて居らぬことを、誰れが疑ひ得るであらう。

[やぶちゃん注:「色相」「しきさう(しきそう)」。肉眼で見ることの出来る見かけ上の仮の姿や形象。]

 

 自分は再び骨董商の手を肩の上に感じた。

 『兎に角』彼は愉快さうな語調で叫んだ。『大英博物館では皆、尊重されるでせうね』

 『だらうと思ひます。さうさるべきです』

 其時自分は此等の佛像が大英博物館といふ、死せる神々の洪大な墓所の何處かに押し込められ、豆肉汁(まめスープ)の樣な霧の下に、エヂプトやバピロンの忘られた神々と同居して、倫敦の喧囂に微かに戰慄して居る樣を想像した――併しそれは何の爲めにであらう。第二のアルマ。タデマ(畫家)[やぶちゃん注:以上は戸澤氏による二行割注。“Alma Tadema”。ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema 一八三六年~一九一二年)はイギリスのヴィクトリア朝時代の画家(但し、生まれはオランダ)。ウィキの「ローレンス・アルマ=タデマ」によれば、『古代ローマ・古代ギリシア・古代エジプトなどの歴史をテーマにした写実的な絵を数多く残し、ハリウッド映画の初期歴史映画などに多大な影響を与えたと言われる』とある。]をして、又亡びたる文明の美を描かしむる爲めか、英語の佛敎辭典の挿畫を豐富ならしむる爲めか、未來の月桂詩人を刺戟して、テニズンの『脂ぎつて、縮毛をしたアツシリアの猛牛』といふ形容にも劣らぬ、名文句を吐かしひる爲めか。確に其處に保存せられる事が無駄にはならぬ。因習的ならぬ我慾的ならぬ時代の思想家ならば、彼等に對する新たな尊敬を敎ふるであらう。人間の信仰が作り出した凡ての影像は、永久に貴い眞理の殼である。其殼でさへ貴い力を持つて居よう。佛の顏の和らかい靜かさと、冷やかな優しさは西洋人に靈魂の平和を與へ得るかも知れぬ。彼等は慣習に堕した信仰に倦き、醫師の來たつて、我は高きも低きも有德なる者も不信なる者も正しき者も正しからざる者も異端邪に醉ふ者も善にして眞なる信念を抱く者も一視同仁の眼を以て見る。と叫ぶのを待ち焦れて居るのである。

[やぶちゃん注:「テニズン」ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年)。美しい韻律と叙情性に富んだ作風により、日本でも愛唱されたが、小泉八雲も好きな詩人であったようで、『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「四」』や、『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲蔵訳) その「一」』の冒頭にも引いている。『脂ぎつて、縮毛をしたアツシリアの猛牛』(“oiled and curled Assyrian bull.”)は詩篇“Maud: A Monodrama”(「モード――独白劇」)の一節。英語全篇は英文サイトのこちらで読める。]

2019/12/16

小泉八雲 保守主義者 (戸澤正保訳) / その「五」・「六」・「七」・「八」/ 保守主義者~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 保守主義者 (戸澤正保訳) / その「一」・「二」・「三」・「四」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 硏究と熟考とは、靑年を、初め彼が思つたよりも、深入りさせた。偉大な宗敎としての基督敎の承認の後から、又別種の承認と、基督敎を奉ずる民族の文明に就ての色々の想像が起こつて來る。當時多くの省察に富む日本人には、否、恐らく國政を指導する敏感の人人にさへ、日本は全く外人の支配の下に移らんとする運命にあるやうに思はれたのである。尤も絕望ではなかつた。そして一縷の望だに殘る限り、國民の義務は明らかであつた。併し帝國に對して用ゐらるべき敵の力は抵抗すべくもない。そして其敵の力の强大さを硏究しながら、若き日本人は、抑も[やぶちゃん注:「そも」。]其力は如何にして何處より得來たつたかと、恐怖に近き驚嘆を以て怪しまざるを得なかつた。それは老牧師の斷言する樣に高級な宗敎に或る神祕的な關係を有するのであらうか。國家の繁榮は、天道の遵守と聖賢の敎に從ふ事の多少に依ると說く支那の古哲學は、確に此說を裏書きする。若し西歐文明の優れたる力は、実際西歐倫常[やぶちゃん注:「りんじやう」。常に守るべき人倫の道。]の優秀さを示すとせば、其高級な宗敎を採用し、全國民の改宗に努力すべきは、苟くも國を愛する者の明らかなる義務ではなからうか。其頃の靑年は支那の學問で敎育せられ、西洋の社會發達の歷史に通ぜざるは必然の理で、最高の物質的進步は、基督敎の理想とは相容れざる、又凡ての大なる道德と相反する、酷薄なる競爭に依つて重に發展したものだとは知るよしもなかつた。西洋に於てさへ今日無數の愚民は、兵力と基督敎の信仰との間に、或る神聖な關係があると想像して居る。そして我々の敎會の壇上から、政治的强奪を神意と認めたり、强力な爆藥の發明を神託と稱したりする說敎が爲されるのである。今でも我々の中には、基督敎を信ずる民族は、他敎を奉ずる民族を掠奪し絕滅せしめる天命を帶びてる[やぶちゃん注:ママ。]といふ迷信が殘つて居る。尤も偶には、我々は今でもトールとオヂン譯者註を信奉するものだといふ、確信を發表する人がある――此人達の說に依るとただ昔と異る所は、オヂンは今は數學者となり、トールの槌ムジヨルナーは、今は蒸氣で運轉せられるといふに過ぎない。併しこんな人は宣敎師からは、無神論者。恥知らぬ生を送る人と罵られる。

 

譯者註 何れも北歐神話中の神、トールは雷神にて、ムジヨルナーと云ふ槌を持つ、オヂンは學問敎化の神。

[やぶちゃん注:「トール」原文“Thor”。北欧神話に登場する主要な神の一柱であり、神々の敵である巨人と対決する戦争神として活躍する。ウィキの「トール」によれば、『考古学的史料などから、雷神・農耕神として北欧を含むゲルマン地域で広く信仰されたと推定されている。アーサソール(アースたちのソール)やオクソール(車を駆るソール)とも呼ばれる』。『北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は Þórr』で、『推定音に近い日本語表記はソール』である。『トールは北欧神話のみならず』、『ゲルマン人の信仰に広く見られる神であり、古英語の文献に見られる Þunor や古高ドイツ語での Donar もトールを指すとみなされている。時代を下ったドイツの民話ではドンナー (Donner) の名で現』われ、十九『世紀の作曲家ワーグナーの歌劇でも』、『この名称が使用されている。これらの語はいずれもゲルマン祖語の *þunraz まで遡ることができると考えられており、その意味は「雷」と推定されている』。『同じく北欧神話に登場する神テュール(Týr)やソール(Sól)とはそれぞれ別の神である』。『アース神族の一員』で、『雷の神にして北欧神話最強の戦神。農民階級に信仰された神であり、元来はオーディンと同格以上の地位があった。スウェーデンにかつて存在していたウプサラの神殿には、トール、オーディン、フレイの』三『神の像があり、トールの像は最も大きく、真ん中に置かれていたとされている』。『やがて戦士階級の台頭によってオーディンの息子の地位に甘んじた。北欧だけではなくゲルマン全域で信仰され、地名や男性名に多く痕跡を残す。また、木曜日を意味する英語 Thursday やドイツ語 Donnerstag などはトールと同一語源である』。『雷神であることからギリシア神話のゼウスやローマ神話のユーピテルと同一視された』。『砥石(他の文献では火打石の欠けら)が頭に入っているため、性格は豪胆あるいは乱暴。武勇を重んじる好漢であるが、その反面少々単純で激しやすく、何かにつけてミョルニル』(トールが持つ稲妻を象徴する柄の短い鎚(つち)で、「トール・ハンマー」という名でも知られる)『を使いながら』、『脅しに出る傾向がある。しかし怯える弱者に対して怒りを長く持続させることはない。途方もない大食漢』。『雷、天候、農耕などを司り、力はアースガルズ』(アース神族の王国の名)『のほかのすべての神々を合わせたより強いとされる。フルングニル、スリュム、ゲイルロズといった霜の巨人たちを打ち殺し、神々と人間を巨人から守る要となっており』、古ノルド語で書かれた歌謡集である『エッダにも彼の武勇は数多く語られている』とある。

「オヂン」原文“Odin”。北欧神話の主神で、戦争と死の神であるオーディン。ウィキの「オーディン」によれば、『詩文の神でもあり』、『吟遊詩人のパトロンでもある。魔術に長け、知識に対し』、『非常に貪欲な神であり、自らの目や命を代償に差し出すこともあった』。『北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は Óðinn (』この日本語音写は『オージンに近い)であり、オーディンは現代英語などへの転写形である Odin に由来する』。『オーディンの名は"oðr"(狂った、激怒した)と-inn(~の主 など)からなり、語源的には「狂気、激怒(した者)の主」を意味すると考えられる。またこうした狂気や激怒がシャーマンのトランス状態を指していると考えれば「シャーマンの主」とも解釈可能である』。『アングロサクソン人に信仰されていた時代の本来の古英語形は Ƿōden(Wōden, ウォーデン)であり、これは現代英語にも Woden, Wodan (ウォウドゥン)として引継がれている。また、ドイツ語では Wotan, Wodan (ヴォータン、ヴォーダン)という』。八『世紀にイタリアで書かれた』「ランゴバルドの歴史」では、『G(w)odan(ゴダン)という名前で言及されている』。『各地を転々とした逸話があることから、本来は風神、嵐の神(天候神)としての神格を持っていたといわれる』。帝政期ローマの政治家・歴史家であったタキトゥスが書いたゲルマニアの地誌・民族誌「ゲルマーニア」(紀元後九七年~九八年)では、『ゲルマン人の最も尊崇する神をメルクリウスと呼んだが、これはギリシア・ローマのヘルメース/メルクリウスと同じく疾行の神であったゲルマンの神ヴォーダン(オーディン)を指すものと推測される』。『オーディンはメルクリウス同様、知恵と計略に長けた神であり、ローマ暦で「メルクリウスの日」にあたる水曜日はゲルマン諸語では「オーディンの日」と呼ばれる』。『例えば、水曜日は英語では Wednesday、ドイツ語では Wotanstag (通常はMittwoch)、オランダ語では woensdag、デンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語では onsdagとなる』。北欧神話に登場する一本の架空の宇宙樹『ユグドラシルの根元にあるミーミルの泉の水を飲むことで知恵を身に付け、魔術を会得する。片目はその時の代償として失ったとされる』。『また、オーディンはルーン文字の秘密を得るために、ユグドラシルの木で首を吊り、グングニル』(槍の名。後にオーディンが持つアイテムとなる)『に突き刺されたまま』、九日九夜、『自分を最高神オーディンに捧げたという(つまり自分自身に捧げた)。この時は縄が切れて助かった。この逸話にちなんで、オーディンに捧げる犠牲は首に縄をかけて木に吊るし槍で貫く』。地上の大宮殿『グラズヘイムにある』彼の宮殿『ヴァルハラに、ワルキューレ』(ドイツ語:Walküre:「戦死者を選ぶもの」の意で、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性及びその軍団を指す)『によってエインヘリャル(戦死した勇者)を集め、ラグナロク』(古ノルド語:Ragnarøk:「神々の運命」の意で、北欧神話世界に於ける「終末の日」を指す)『に備え』、『大規模な演習を毎日行わせるという。この演習では敗れた者も日没とともに再び蘇り、夜は大宴会を開き、翌日にはまた演習を行うことができるとされる』。『愛馬は八本足のスレイプニール。フギン(=思考)、ムニン(=記憶)という二羽のワタリガラスを世界中に飛ばし、二羽が持ち帰るさまざまな情報を得ているという。また、足元にはゲリとフレキ(貪欲なもの』『)という』二『匹の狼がおり、オーディンは自分の食事はこれらの狼にやって自分は葡萄酒だけを飲んで生きているという』。『主に長い髭をたくわえ、つばの広い帽子を目深に被り』、『黒いローブを着た老人として描かれる』が、『戦場においては黄金の兜を被り』、『青いマントを羽織って』『黄金の鎧を着た姿で表』わされる。『また、トールと口論した渡し守ハールバルズの正体は変装したオーディンである』。『最後はラグナロク』で、『ロキ』(古ノルド語:Loki:悪戯好きの神。その名自体が「閉ざす者」「終わらせる者」の意。神々の敵であるヨトゥン(「霜の巨人」)の血を引いている。しかしオーディンの義兄弟となってアースガルズに住み、オーディンやトールと共に旅に出ることもあった)『の息子であるフェンリルによって飲み込まれる(または噛み殺される)結末を迎える』とある。]

 

 それはさておき、やがて若き武士は、親戚の反對あるにも拘らず、基督敎徒たらんと決心した。これは隨分大膽な行爲であつた。併し幼年時代の敎育の結果として、彼は堅い意志を有つて居たから、兩親の悲みに依つてすら、決心を曲げられる事はなかつた。祖先の宗旨を棄つることは。一時の苦痛を意味するばかりでない。廢嫡、舊友の輕蔑、身分の喪失、及び赤貧から來るあらゆる難儀を意味するのである。併し彼は武士敎育に依つて、己れに克つことを敎へられて居た。彼は憂國の士として、眞理の探求者として、己れの義務だと思ふものを見た、そして恐れ悔やずに之に突進した。

 

[やぶちゃん注:原本では次の章番号は「Ⅵ」でなくてはならないのに「Ⅶ」と誤っており、しかもそのまま後の章も「Ⅷ」「Ⅸ」とやらかしてしまっている。底本は無論、以下の通り、正しく「六」に修正され、後も「七」「八」である。]

 

        

 近代科學から借り來たつた知識の助力で、破壞した信仰の跡へ、西洋の信仰をはめ込まうと望む者は、舊信仰破壞に用ゐた議論は、新信仰に對しても同樣の破壞力を有するといふ事に氣が附かぬ。一般の宣敎師は、彼自身近代思想の最高標準に達しもせず、元來彼等自身よりも、より强き東洋人に少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の科學を敎へた結果が、どうならうと豫見する事も出來ぬ。そこで彼の弟子が聰明であればある程、其弟子の基督敎徒たる期間が短いのを發見して、驚き遽てて[やぶちゃん注:「あはてて」。]居る。科學を知らぬ爲めにのみ、佛敎の宇宙說で滿足して居た、優秀な頭腦の再信仰を打破するのは、非常に困難ではない 併し其頭腦の中へ、東洋の宗敎的情緖の代りに西洋のを、儒敎及び佛敎の倫理の代りに、長老敎會(プレスビテリアン)若しくは侵禮敎會(バプチスト)の敎條(ドグマ)[やぶちゃん注:dogma。ここは元来のフラットな「宗教・宗派に於ける教義」の意。]を置き代へようとするのは不可能である。我々の近代の福音布敎師は、此心理學的難關が道に橫はつて居る事に氣が附かぬ。ジエスイツト派や托鉢派(フライアー)の信仰が、其打破せんと力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]他宗敎と同樣に、迷信的であつた昔時に在つても、同樣な障害は存在して居た。されば其偉大な眞摯さと火の樣な熱心さで、驚くべき業積を擧げた西班牙[やぶちゃん注:「スペイン」。]僧も、彼の空想を十分に實現するには、西班牙兵士の劍を必要と感じたに相違ない。改宗の事業に取つては、今日の情態は十六世紀に於けるよりも更に不利である。敎育は宗敎を離れ科學を基礎として改造された。我々の宗敎は倫理上の必要事項として、社會が承認する一形式となりつつある[やぶちゃん注:行末で打たれていないが、句点が必要。]我々の僧侶の職務は、道德の警官と徐々に變更されつつある。そして我々の敎會の尖塔の林立は、信仰の增進を證するのでない、ただ傳統に對する尊敬の增進を意味するばかりである。西洋の傳統が極東の傳統となる筈はない。そして外國宣敎師が、日本に於て、道德警官の役目を演ぜさせられる筈もない。既に我々の敎會中の尤も開化せるもの、尤も廣濶な敎養あるものは、宣敎師の無用なることを認め始めたのである。併し眞理を見る爲めには必らずしも舊い獨斷主義を棄てるにも及ばぬ、完全な敎育は之を示すに十分である。それで最も敎育ある國民獨逸は、日本の内地に一人の宣敎師をも送つて居らぬ。宣敎師努力の結果として、肝腎な改宗者の年々の報告よりも一層著しきは、日本の宗敎の改革と、日本僧侶の敎育程度を向上せよと勸誘する、日本政府の布告であつた。尤も此の布告の出る久しい以前から、富める宗派は、西洋式の佛敎學校を建設した。眞宗の如きは、既に巴里(パリ)や牛津(オツクスフオード)で敎育を受けた學者――其名は世界中の梵語學者に知られて居る――を有して居た。日本は確に其中世紀式の宗敎より一層高き形式の宗敎を要するであらう、併しそれは古來の形式から發展したものであらねばならぬ――外からでなく内から發展したものであらねばならぬ。西洋の科學といふ堅甲[やぶちゃん注:「よろひ」と当て訓しておく。]佛敎こそ、日本人の將來の需要に應ずるものであらう。

[やぶちゃん注:「長老敎會(プレスビテリアン)」“Presbyterian”。長老派教会(Presbyterian Church)。十六世紀の宗教改革運動によって生まれたカルビニズムに基づくプロテスタントの一派。教会組織に長老制度を採用しているところから、この名称が生まれた。則ち、末端の各個教会に於いては、牧師の他に教会員から選出された一定数の長老(presbyter:ギリシャ語で「年長の・古参の」が原義)が運営に有意に参加し、それらの教会が地方ごとにその長老会を組織し、さらに数地方の長老会を以って大会が作られ、その上に全国総会が置かれるという、厳格な階層的教会組織を成しているのを特徴とする(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「侵禮敎會(バプチスト)」“Baptist”バプティスト派。プロテスタントの最大教派の一つ。「幼児洗礼」を認めず、自覚的信仰に基づく「浸礼」を主張して「バプティスト」と称する。信仰と生活の唯一の権威としての聖書・信仰者の洗礼・集められた信仰者の教会・信仰者の祭司性・各個教会の自治・教会と国家の分離などで、特色ある主張に立つ。その起こりは、十七世紀イギリス分離派ピューリタンのジョン・スミスに溯る。彼は迫害からアムステルダムに逃れたが、仲間の一人トマス・ヘルウィスが帰国し、イギリス最初のバプティスト教会をロンドンに組織した(一六一二年)。バプティストのアメリカにおける発展は目覚ましく、黒人の間でも最大の教派となり、ヨーロッパでは、イギリス・ドイツなどに信徒数が多く、その他の大陸でも活発な伝道が行われている。日本では、万延元(1860)年にゴーブルによって伝えられた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「ジエスイツト派」“Jesuits”。ジェスイット(Jesuit)は「イエズス会士」のことで、「ジェズイット派・教団」とは即ち「イエズス会」の異称である。

「托鉢派(フライアー)」“friars”。「托鉢修道会」。ウィキの「托鉢修道会」によれば、『ローマ・カトリック教会における修道会の形態のひとつであり、修道会会則により、私有財産を認めていない修道会をいう。特に、ドミニコ会、フランシスコ会、聖アウグスチノ修道会、カルメル会のことを指す』。『中世中期、荘園領主化した既存の修道会の腐敗に対する反省としてうまれた。元来は修道院が所属する教区内で、修道士が托鉢を行い、善意の施しによって生活して衣服以外には一切の財産をもたなかった。設立当初には修道会自体も一切の財産を保有しなかったが、修道会自体の保有規定はのちに緩和された』。『既存の教会や修道会に対する厳しい批判から、従来の聖職者と激しい衝突を招く場合もあった。しかし、フランシスコ会(フランチェスコ会)、ドミニコ会ともにローマ教皇から認知され、とりわけドミニコ会は異端討伐の先兵になるなど、ローマ教皇を中心としたヒエラルキーの中に徐々に組み込まれていった』とある。

「眞宗の如きは、既に巴里(パリ)や牛津(オツクスフオード)で敎育を受けた學者――其名は世界中の梵語學者に知られて居る――を有して居た」パリに事蹟を残している真宗僧は小泉了諦(りょうたい 嘉永四(一八五一)年~昭和一三(一九三八)年)と善連法彦(よしつらほうげん 慶応元(一八六五)年~明治二六(一八九三)年)であろうか。二人は同行で、インド・セイロンでサンスクリット語・パーリ語を修め、その後でパリ・ロンドン・オックスフォードを巡っている。オックスフォード大学に留学し、サンスクリット語学の権威となったのは南条文雄(ぶんゆう 嘉永二(一八四九)年~昭和二(一九二七)年:詳しくはウィキの「南条文雄」を見られたい)のことであろう。]

 

 橫濱に於ける我が若き改宗者は、宣敎師の失敗の著しい一例となつた。あらゆる物を犧牲に供して、一基督敎徒――或は寧ろ一外國宗派の一員――となつて、一年も經たぬ中に、彼は公然それ程高價に購つた[やぶちゃん注:「あがなつた」。]信仰を抛棄した。彼は宣敎師等よりも遙かによく當代の大思想家の著述を硏究し了解した。其宣敎師等は、彼の提出する問に答へる事も出來ず、ただ最初に其一部分を硏究すべく彼に勸めた書籍は、全體としては信仰に害あることを斷言するに過ぎなかつた。併し彼等は、其の書籍に存在すると稱する誤謬を證明すること能はざるが故に、彼等の警告は何の役にも立たなかつた。彼は初め不完全な理論に依つて、獨斷的敎條に引き入れられたのであつたが、廣く深い理論に依つて、其敎條を超越して仕舞つた。彼は公然と、其敎義は眞の理義、若しくは事實に基づいたものでないといふことを、又彼自身は、宣敎師が基督敎の敵と呼ぶ人々の、意見に從はざるを得ぬといふことを表明して、敎會を去つた。宣敎師等は之を墮落と稱し、それに就いて色々の惡評を立てた。

 併し眞の墮落はまだ遙か遠くにあつた。彼は同樣の經驗を有する多くの人と違つて、宗敎上の問題は、一時彼から退却しただけであつて、彼が今迄學んだ處は、これから學ぶべきもののいろはに過ぎないと承知して居た。彼は宗敎といふものの比較的の價値――保守抑制の力としての宗敎の價値には、全く信を失はなかつた。或る眞理――文明と宗敎との關係に就ての眞理――の曲解が、初めに彼を誤らせて、改宗せしめたのであつた。支那の哲學は、僧侶なき社會は、決して發達せぬといふ。近代の社會學が認むる所の法則を彼に敎へた。又佛敎は、虛說――事實として衆生に示さる〻寓話、形式、記號――も善行の發達を助ける方便として、價値と存在の理由を有することを敎へた。此見解からは基督敎も彼には少しも興味を失はなかつた。そして基督敎民族は、道德優秀だといふ――開港場の生活には少しも實現されていない事實――宣敎師の敎は疑ひながらも、彼は自ら西洋に於ける、宗敎の道德に討する影響を目擊せんと望んだ。卽ち歐羅巴諸國へ行き、彼等の發展の原因と、彼等の强大な理由を硏究せんと望んだ。

 彼はかう思ふと直に實行に取り掛かつた。彼をして宗敎上の懷疑家たらしめた知的活動は、同時に政治上に於ても彼を自由思想家たらしめた。彼は之が爲め、當時の政策に反對な意見を公表して、政府の怒を買つた。それで彼は新思想の刺激の下に、不謹愼な言行を敢てする凡ての者と同樣に、國外退去の止むを得ざるに至つた。かくして彼には、遂に世界中を彷徨するに至るべき放浪生活が始つた。初めには朝鮮に隱れ家を求め、つぎに支那に往つて敎師生活をしたが、最後にはマルセール[やぶちゃん注:“Marseilles”。フランスのマルセーユ。]行の汽船に搭乘する自分を見出した。彼は無一文であつたが、歐羅巴でどうして生活するといふことは考へなかつた。若くもあるし、身長(せい)は高し[やぶちゃん注:「たかいし」。]、力業には長(た)けて居るし、儉約で貧乏には馴れて居るし、自分といふものに十分な自信を有つて居た。それに彼を助けて吳れる樣な、外國人に宛てた紹介狀も有つて居た。

 併し故鄕の地を再び蹈む迄には、長い年月を經過せねばならなかつた。

 

       

 其長い年月の間、彼が見た樣に西洋文明を見た日本人は他にない。彼は毆米二洲を胯にかけ[やぶちゃん注:「またにかけ」。]、多くの都市に住み、色々の職業に働いた――或る時は頭腦で、併し多くは手で――そして彼の周圍の生活の、最高最低、最善燒最惡を硏究することが出來た。併し彼は極東の眼を以て見たので、其判斷の仕方も我々の仕方ではなかつた。西洋が東洋を觀るのも、東洋が西洋を見るのも同じ事である――ただ異る處は、各自が尤も尊重する處のものは、他に尊重されぬがちであるといふことである。そして雙方とも半分は正しく、半分は間違つて居る。又完全なる相互の了解は甞てなかつたが、今後とてもある筈はない。

 西洋は彼には凡ての豫期よりも大きく見えた――巨人の世界の樣に。そして錢もなく友もなく、大きな都會に一人ぼつちで立つ時に、いかな大膽な西洋人をさへ、弱らせる所のものが、此東洋の一浪客を弱らせたに相違ない。それは幾百萬の忙しげに往來する市民には振り返つても見られぬといふ感に依つて、話し聲も聞こえぬやうな小止みなき車馬の轟きに依つて、巨大な建築物といふ生命のない怪物に依つて、心も手も安價な道具として、出來る限りの極度迄虐使する、富の力の偉大なる表現に依つて、喚起される漠然たる不安の感である。恐らく彼はドレイがロンドンを見た樣に歐洲の都市を見たのであらう――薄暗いアーチの重なり合つた陰氣な莊嚴さ、見渡されぬ迄つぎからつぎへと續く花剛岩の洞窟、麓には勞働の海が逆卷く石造建築の山、さては數世紀に跨がつて[やぶちゃん注:「またがつて」。]、徐々に集大成さるろ力の凄さを展開する洪大な場所――かういふ風に見たのであらう。併し日出をも日沒をも、又天(そら)をも風をも斷絕(たちき)つて見せぬ、無限に續く石崖と石崖との間に、彼に訴ふる美といふものは少しもなかつた。大都市に我々を惹き附ける所のものは、悉く彼を厭がらせ若しくは抑壓した。明かるい巴里ですら、間もなく彼を倦き倦きさせた[やぶちゃん注:「あきあきさせた」。]。それでも巴里は、彼が長く逗留した初めての外國都市であつた。佛國の弓術は、歐洲民族中の尤も天才的な國民の、審美的思想を反映するものとして、大いに彼を驚かした、併し少しも彼を樂ませなかつた。尤も彼を驚かしたのは、裸體の習作であつたが、其處に彼は只だ、彼が受けた禁欲主義的の敎育が、不忠不義に次いで、尤も癈棄すべく敎へた、人間の弱點の公然な告白を認むるに過ぎなかつた。近代の佛國文學も又彼を驚かした。彼は小說家の驚くべき藝術を了解し得なかつた。描寫の技巧の價値は、彼には見えなかつた。若し歐羅巴人がそれを了解する如く、彼をして了解せしめ得たとしても、彼はただ、才能をこんな製作に用ふることは、社會的腐敗を意味するものとの確信を棄てなかつたであらう。そして段々巴里の豪奢な實生活中に、當時の文藝に依つて與へられた信念の實證を見出した。彼は娛樂場、劇場、オペラなどへも往き、禁慾主義者と武士の眼を以て之を見た。そして西洋の價値ある生活といふ觀念は、何故に極東の放蕩懦弱[やぶちゃん注:「だじやく」。積極的に物事をしようとする意気込みを持たないこと。]といふ觀念と異る所なきかを怪しんだ。彼は流行社會の舞蹈場へ行つて、極東の淑德感には容すべからざる[やぶちゃん注:「ゆるすべからざる」。]、肉體露出の女禮裝を見た――これは巧みに、日本婦人をして愧死[やぶちゃん注:「きし」。深く恥じて死ぬこと。]せしむるに足る所のものを、暗示するやうに出來て居る。そして甞て日本に在つて、日本人が夏日炎天の下に、自然な、愼ましやかな、健康的な、半裸體で勞働して居るのを、西洋人が非難した言葉を思ひ出して、奇怪の感に打たれた。彼は又多數の大敎會(カシドラル[やぶちゃん注:“cathedral”。英語のそれの発音は実は「カテドラル」ではなく、「キャシードラル」に近い。])や敎會[やぶちゃん注:原文は“churches”。]を見た。そして其の直ぐ側に、惡の殿堂や、怪しげな美術品の密賣に依つて繁榮する商舖を見た。彼は偉い說敎師の說敎も聞いた、僧侶嫌ひの人々が、信仰と愛とを蔑視する暴言にも耳傾けた。富豪社會をも見た、貧民窟をも見た、兩者の裏面に潜む魔窟をも見た。併し宗敎の『抑制力』に至つては、更に見る處がなかつた。西洋の世界には信仰といふものはなかつた。ただ虛僞、假面と快樂追求の自己主義の世界で、宗敎の支配は受けずに警察の支配を受けるのみであつた。要するに人間としてそんな處に生まれたくない世界であつた。

 

註 佛國の畫家。

[やぶちゃん注:フランスの画家ポール・ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré 一八三二年~一八八三年)のこと。アルザス地方のストラスブール生まれ。彼の主な活動拠点はパリであったが、一八六九年にロンドンに開いたドレ画廊は大成功を収め、同年から四年に亙って、イギリス人ジャーナリストで作家のウィリアム・ブランチャード・ジェロルド(William Blanchard Jerrold 一八二六年~一八八四年)とともに、ロンドン市内のスラム街や阿片窟などにも出向き、実に百八十点の版画を描いて、“London: A Pilgrimage”(「ロンドン――巡礼の旅」)を共著で出版している。小泉八雲は恐らくは同書やロンドンで描いた版画群を想起したものであろう。参照したウィキの「ポール・ギュスターヴ・ドレ」にある、ロンドンの悲惨な貧民街セブン・ダイアルズを描いた大英図書館蔵の版画(Seven Dials一八七二年)をリンクさせておく。]

 

 佛國よりも陰氣な、堂々たる力强い英國は、又別種な問題を考へさせた。彼は永久に增長する英國の富と、其陰に永久に增殖する醜汚の堆積を硏究した。彼は大きな港が諸國の貴重品――大部分は掠奪品――で塞(つま)つて居るのを見た。そして英人は今も祖先の如く海賊の國民なることを知つた。そして若し此國が只だ一箇月でも、他國をして食糧を供給せしむることが出來ぬとなつたら、數千萬の住民の運命はどうなるだらうと考へた。彼は又世界最大の都市の夜を醜惡ならしむる賣色、强欲の風を見た。そして見ぬ振りをする傳統的の僞善と、現狀に感謝を述べる宗敎と、必要のない國に宣敎師を送る無智と、病氣と惡德とを傳播せしむるに終はる、莫大な慈善事業とに啞然とした。彼は又諸國を旅行した英國の一偉人が、英國人の一割は常習的罪人か、或は貧民であるとの陳述書を見た。

 

註 「我々は知的修養に於ては野蠻の狀態を遙かに超越したが、道德に於てはそれ程の進步を見ない……我が國民の大多數は全く野蠻人の道德律の上に出でず、多く場合には却つて其下に下つた。道念不足は近代文明の大汚點である……我々の社會的及び道德的の文明は今も野蠻の狀態にある……我々は世界で尤も富める國である。それに我が人口の約二十分一貧民であり、三十分一は明白な罪人である。之に發見されざる罪人と、全然若しくは幾分か個人の慈善(ドクトル・ホークスリーの調査に據ると、ロンドンのみでも、年々七百萬磅[やぶちゃん注:「ポンド」。]の金が此目的に消費される)に依つて生活する貧民を加へて見ると、我が人口の十分一以上に確に實際上の貧民と罪人とであゐと信ぜられる」――アルフレツド・ラツセル・ウレース

[やぶちゃん注:イギリスの博物学者(生物学者・人類学者・地理学者)アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)。彼の事蹟その他は私の「進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマン」の本文及び私の注を参照されたい。以上の本文と「註」での引用はインドネシアとマレーシアに於ける探検と発見の記録である「マレー諸島」(The Malay Archipelago一八六九年刊行)の一節である。「ドクトル・ホークスリー」“Dr. Hawkesley”は不詳。

「七百萬磅」試みに明治三(一八七〇)年の為替レートで換算すると(この年、初めて一円銀貨が作られた)、一ポンドは四・八八円であるから、凡そ五円として、三千五百万円、明治初期の一円は恐らく現在の二万円を軽く越す価値があったと思われるが、それで取り敢えず二万円としても、七千億円という途方もない金額になる。]

 

 無數の敎會と、無數の法律があるのに此有樣である。確に英國の文明は、彼が進步の源泉だと信ずべく數へられた基督敎の力(實際はありもせぬ)を示すこと、他の國々の文明よりも少い。英國の市街は又彼に別種の事實を語つた。佛敎都市にはそんな光景は見られない。此文明は、正直者と狡猾漢との間の、又弱者と强者との間の、不斷の醜い爭鬪を示して居る。暴力と奸智とが結託して、弱者を此世の地獄に突き落として居る。日本にはこんな情況は夢にもなかつた。けれどもこんな狀況の全く物質的な結果及ひ智力的な結果は、ただ驚くべきものであると白狀せざるを得なかつた。そして彼は想像を絕する惡を見たけれども、又貧富兩者の中に多くの善をも見た。之が提供する大きな謎、無數の矛盾は、彼の力には解釋することが出來なかつた。

 彼は彼が足を蹈み入れたどの國の人間よりも英國人を好んだ、そして英國紳士社會の風習は、日本の武士(サムラヒ)、にどこか似て居るといふ感を與へた。彼は彼等の四角張つた冷やかさの後ろに、友愛や永續性の親切――彼が一度ならず經驗した親切――の大なる可能性を、滅多に使用されぬ情の深さを、又世界の半ばを支配し得た大なる勇氣を見透(みすか)す事が出來た。併し人間の功積の現はれて居るもつと大きい世界を見る爲めに、米國へ向け英國を去る前に、單なる國籍の相違といふ事は彼に何の興味をも與へなくなつた。西洋の文明を次第に驚くべき全體として見る樣になつた爲め、國籍の相違は朦朧として見えなくなつて仕舞つた。ただ到る處に――帝國、王國、共和國の何れを問はず――同樣な無慈悲な必要の活躍と同樣に驚くべき結果とが展開され、又到る處に全く極東の思想とは正反對な思想が基礎とされて居るのを見た。こんな文明は、それと唱和する一の情緖をも起こし得ぬもの――其中に住む間は愛すべき何者をも見出し得ず、永久に去らんとしても、悲むべき何者をも見出し得ぬものと考へざるを得なかつた。それは彼の魂と離る〻こと、丁度他の太陽の下にある他の遊星に於ける生物界の如くであつた。併し彼はその文明がどれ程人間の勞力を費やしたかを理解もし、どれ程の强い脅威であるかと感じもし、又其智力がどれ程廣く擴がつて居るかと推察もした。而かも彼はそれを憎んだ――-その恐ろしい全く計算的な機械作用を憎んだ、其功利的な鞏固さ[やぶちゃん注:「きようこさ(きょうこさ)」。強くしっかりして、ゆるがない様子。「強固」に同じいが、強固の場合は歴史的仮名遣は「きやうこ」。]を憎んだ、其習性、其貪欲、其盲目的な殘忍、其の途方もない僞善、其欲望の不正、其富の橫着さを憎んだ。道義的には此文明は言語道斷なものである、常識的には殘忍酷薄なものである。測る可からざる程深い墮落を其中に認めたが、彼が靑年時代の理想に匹敵する理想は少しも認められぬ。要するにそれは大きな餓狼的爭鬪であつた[やぶちゃん注:原文“It was all one great wolfish struggle;”。「それは一つの大きな、狼のように獰猛にして貪欲なる闘争であった」。]――然るに其中にも、實際善と認めざるを得ぬものがあるのは何故か、それは彼にはただ不可思議であつた。西洋の眞の偉大さは只だ知的である。單純な知識の高い高い冷(つめ)たい山の樣なもので、其永久の雪線の下では、情的理想は死滅する。日本の仁と義との文明は其幸福の會得に於て、其道義的憧憬に於て、其大なる信念に於て、其歡喜的な勇氣に於て、其素朴さと其謙讓さに於て、其眞面目(まじめ)な事と、足る事を知る事とに於て、確に西洋の文明よりも比較にならぬ程優つて居る。西洋の優越は倫理的でない。其優越の點は數へ切れぬ苦艱[やぶちゃん注:「くかん/くげん」。「苦難」に同じい。]を經て發達し、そして弱肉强食の道具に用ゐられた知力に存する。

 それにも拘らず、西洋科學の論理は、爭ふ可からざるものと彼も承知して居るのであるが、其科學は彼に其文明の益〻擴大すべきことと、苦惱は抵抗すべくも避くべくも測るべくもなく世界中に氾濫すべきことを告げた。日本は新しい形式の行動を學び、新しい形式の考へ方に熟達するか、然らざれば全然滅亡するか、他に取るべき方法はない。かう考へてる[やぶちゃん注:ママ。]中に疑問中の疑問が湧いて來た。それは凡ての聖賢が一度は考へねばならなかつた疑問で、『宇宙は道義的であるか』といふ疑問であつた。此疑問に佛敎は尤も深遠な解答を與へて居る。

 併し道義的であらうと非道義的であらうと、それは人間の微小な感情で宇宙の進行を測つたもの、[やぶちゃん注:最後に「に過ぎないのであり、別に」ぐらいを補わないと日本語として意味がとりにくい。]彼には論理で破る事の出來ない一の確信が殘つて居た――たとひ日月星辰から抗議を持ち込まれようとも、人間は未知の終點に向つて、全力を書くして最高の道義的理想を追ふべきものであるといふ確信が殘つて居た。日本は必要上外國の科學を習得し、敵の物質文明を、多分に採用するの止むを得ざるに至るであらう。併し如何に必要があつても、日本は其正邪の觀念、義務と名譽の理想を、そつくり棄てる譯には行かぬ。彼の心中にはやがて、徐々に一の成算[やぶちゃん注:成功する見込み。]が形成された――其成算は、後日彼を一國の指導者たらしめ、一世の師たらしめたのであるが[やぶちゃん注:この部分はモデルである雨森信成の事蹟とは好意的に捉えても一致しない。]、それは極力あらゆる國粹を保存し、何物にても國民の自衞に必要ならぬもの、若しくは國民の自己發展に益なきものの輸入には、大膽に反對しようといふのであつた。失敗しても恥にはならぬ上に、少くともそれで價値あるものの幾分かを崩壞の渦から救ふ事が出來よう。西洋の生活の浪費的なる事は、其快樂慾と苦悶過多よりも一層感銘を彼に與へた。彼は自國の赤貧に其强味を認めた。其非利己的な勤儉に、西洋と競爭し得る唯一の希望を懸けた。外國の文明は、それを見るにあらざれば了解し能はざる、自國文明の價値と美點とを了解せしめた。そして彼は故圖歸參の恩命の來る日を待ち焦れた。

 

       

 日出の少し前、曇りなき四月の朝の透明(すきとほ)る暗さの中をすかして、彼は再び故國の山を見た――眞黑な周圍の海から紫がかつた黑色に聳え立つ、遠くの高いきつたりとした山嶺を見た。彼を永の流浪から連れ歸りつつあつた汽船の後の方は、地平線が徐々に薔薇色の光で充たされつつあつた。甲板の上には、もう若干の外人が大平洋上の富士の、最も美はしい初姿を見んものと待ち構へて居た――曉の富士の初姿は、此世で、或はつぎの世までも、忘られぬ物の一であつたから。彼等は山脈の長い行列を凝視した、そして其の朧(おぼろ)げな、ぎざぎざした輪廓の向うの暗がりには、星がまだ微かに光つて居るのを見た――併し富士は見えない。『アー』と一人の船員は問はれて答へた。『貴君方は眼の附け處が低過ぎます。もつと上を御覽なさい、もつと高い處を』それで彼等は空の眞中近くまで眼を上げた。すると曉の色で不思議な幻(まぼろし)の蓮華の樣に、薄赤くなつた偉大なる頂上が見えた。其壯觀に打たれて彼等は沈默して仕舞つた。忽ち萬年の雪は金色に變はり、やがて白色になつた。其時は太陽が地平線の弓形を飛び越し、暗い山脈を飛び越し、一寸見(ちよつとみ)には星の上までも飛び越して、其光線を富士の頂上に投げつけて居たのであるが、巨大な裾野はまだ眞暗であつた。やがて夜は全く明けはなれた。軟らかい靑い光は天空に漲つて、凡ての色彩は眠りから覺めた。――そして來客の眼前には、橫濱の明かるい港が開いて居た。そして麓は見えぬ神聖な峯が、無窮の蒼穹に雪の精の如くに凡てを壓して居た。

 我が流浪者の耳には、尙ほ『アー眼の附け處が低過ぎる。もつと上を御覽なさい、もつと上を』が響いて居た――そして彼の胸に脹れ上がる、大きな抑へ難き情緖と漠然たる節奏を作(な)してゐた。間もなく凡ての物が朦朧となつた。上空の富士も、其下の霞がかつた靑から、綠に變はり行く小山嶺も、さては灣内に群がる船舶も、其外近代日本を形成する何物も見えなくなつた。ただ舊日本だけが見え出した。春の香りを微かに湛へた陸地の風が、彼の面を吹き、彼の血に觸れると、長く閉ぢて居た記憶の室から、彼が一旦抛棄して忘れんと努めた凡ての物の面影が飛び出した。彼は亡き人々の顏を見、年經りたる彼等の聲を思ひ浮かべた。彼は再び父の屋敷に居た時の小兒に歸つた。明かるい室から室へと彷徨(うろつ)き𢌞はり、疊の上に樹影の顫るへる日向(ひなた)で遊んだり、自然の風景を模した庭園の淺綠の夢の樣な平和さに眺め入つたりした。彼は再び邸内の祠へ、又は祖先の位牌の前へと、朝の禮拜に、彼の小さき歩みを導く、母の手の肌觸りを感じた。そして、今思ひついた新たな意味を以て、大人の唇で小兒の單純な祈誓をつぶやいた。

 

[やぶちゃん注:私は『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (六) ――ハーンが最初に行った寺を推定同定する――』の注で、本篇のこの最後の帰国の客船からの富士を見るシークエンスには、小泉八雲自身が来日した際に見た富嶽の感動が強く影響していると考えた。それを証明するために、ラフカディオ・ハーンが日本に着いて最初に記した紀行文“A WINTER JOURNEY TO JAPAN”の一節も原文と訳文(孫引き)を引いておいたので参照されたい。この記事は出版社ハーバー社特派員であったハーンが実に日本到着後、最初に手掛けた仕事として、本社へ送った記事である(但し、この直後に同社の彼に対する不当な扱いへの不満から、ハーンの方が契約を直ちに破棄したことは既に書いた)。]

2019/12/15

小泉八雲 保守主義者 (戸澤正保訳) / その「一」・「二」・「三」・「四」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“A CONSERVATIVE”。「或る一人の保守主義者」)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の第十話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 標題後の添え歌は、ややポイント落ちで、上句九字下げ位置であるが、引き上げ、同ポイントで示した。また、文中の途中に入る注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、前後を一行空けた。

 訳者戶澤正保(底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している)氏については私の「小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保訳)」の冒頭注を参照されたい。

 なお、本篇は一種のモデル小説であり、そのモデルは本作品集冒頭で本書が献呈されている、雨森信成(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)その人である。再掲すると、彼はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバーの一人で、ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きで』ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis 一八四三年~一九二八年:アメリカペンシルベニア州フィラデルフィア出身の理科教師・牧師・日本学者・東洋学者。ニュージャージー州のオランダ改革派教会系の大学ラトガース大学を卒業したが、同大学で同時期に福井藩から留学していた福井藩士日下部太郎(弘化二(一八四五)年~一八七〇年五月十三日(明治三年四月十三日):卒業二ヶ月前に結核で現地にて急逝)と出会って親交を結び、その縁で来日した。明治四年七月に「廃藩置県」によって十ヶ月滞在した福井藩が無くなったが、翌年、フルベッキや由利公正らの要請により、大学南校(東京大学の前身)に移り、明治七(一八七四)年七月まで物理・化学及び精神科学などを教えた。明治八(一八七五)年の帰国後は牧師となったが、一方でアメリカ社会に日本を紹介する文筆や講演活動を続け、一八七六年には“The Mikado's Empire”を刊行している(構成は第一部は日本通史、第二部が滞在記)。以上はウィキの「ウィリアム・グリフィス」に拠った)『が化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師S・R・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『M・N・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のT・A・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある人物である。

 彼が本篇のモデルであることは、例えば、モト氏のサイト「日本式論」の「小泉八雲『ある保守主義者』」にも記されてある。但し、リンク先は本篇の簡略梗概となっているので、「第一節 ある保守主義者 雨森信成」をお読みになった後は、本篇に戻られ、後の部分は本篇読後に読まれんことをお薦めする。なお、それによれば、平川祐弘氏の「破られた友情――ハーンとチェンバレンの日本理解」(一九八七年新潮社刊)の「日本回帰の軌跡」に彼についての解説が載るらしい(私は未見)。なお、中川智視氏の論文「ある「西洋の」保守主義者 ラフカディオ・ハーンと一九世紀のアメリカ」(PDF)が非常に良い。やはり、読後に読まれたい。

 やや、長い(全八章)ので分割して示す。]

 

        第十章 保守主義者

 

 あまさかる日の入る國に來てはあれと

           やまと錦の色はかはらし

[やぶちゃん注:原文のローマ字表記に概ね従うと(「きては」は「きてわ」であるが、従わない)、

  あまざかる日の入る國に來てはあれど

     やまと錦の色はかはらじ

である。雨森の欧米遊学中の詠歌であろうか。]

 

       

 彼は内地の或る市に生まれた。其處は三十萬石の大名の城下で、外國人の來た事のない處であつた。高祿の武士であつた彼の父の屋敷は、城主の城を繞る濠の外にあつた。屋敷は大分廣く、後ろの方と周圍には、自然の風景を模した庭園があつて、其中に軍神の小さい祠があつた。今から四十年前には、かういふ屋敷が澤山あつたのである。藝術家の眼には、今でも歿つて居る少數のかういふ家屋は、仙女(フエーリー)の宮殿の樣で、其庭園は佛敎の極樂の夢のやうに見ゆる。

 併し武士(サムラヒ)の子は當時は嚴酷に訓練された。自分の書かうとする彼にも空想に耽る時間などはなかつた。父母の愛撫を受ける期間は痛ましくも短かつた。袴着の式――當時の大禮――もせぬ中から、出來るだけ乳臭い恩愛の手から引き隱し、子供氣の自然な衝動を制へる[やぶちゃん注:「おさへる」。]樣に敎養され勁た。家庭で母の傍に居られる間だけは、好(すき)な程母に甘へようとも、母に連れられて戶外(そと)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を步んで居るのを見附けられると、『まだ乳を飮むか』などと、遊び仲間からからかはれるのが常であつた。しかも母の傍に居られる時間は決して長くはなかつた。凡て優長な娛樂は敎養上嚴禁されて居た、そして病氣の時の外、衣食の滿足すら許されなかつた。殆ど目が利(き)けだすと直ぐ、義務を生存の指針と考へ、自制を行爲の第一要件と考へ、苦と死とを、一身に取つては輕いものと考へる樣に指導された。

 家庭内の眼につかぬ安居に於ての外、靑年期の間中、決して弛まない冷やかな沈着を養成しようといふ、此スパルタ的訓練には、更に一層凄い方面があつた。男の子は血を見ることにならされたのである。彼等は死刑の執行を見る爲めに連れ行かれ、そして何等の感動を表はさぬやうに仕込まれた。又歸宅すると、梅干の汁を混(ま)ぜて血の色に染めた飯を十分に喫して、潜んで居る恐怖の念を消すやうに仕向けられた。それよりももつとむつかしい事さへ、幼い男兒に要求せられる事があつた。――例へば、深夜刑場に獨りで行つて、勇氣の證據として、生首を持ち歸ることなどである。武士の間では、死者を恐れることは、生ける人を恐れると同樣に、輕蔑すべきものと考へられたのである。武士の子は何物をも恐れぬと證明されねばならなかつた。その證明に强要される態度は、完全なる冷靜さであつた。空威張[やぶちゃん注:「からいばり」。]も臆病の態度と同樣に擯斥された。

[やぶちゃん注:「擯斥」(ひんせき)は「退けること・除(に)けものにすること。「排斥」に同じい。]

 男の子が生長すると、快樂は重に、武士が不斷の戰爭準備である體力の練習――弓術、乘馬、相撲、劍術等に求めねばならない。遊び相手が幾人か彼の爲めに選ばるる。併しそれは彼よりも年嵩(としかさ)な家來の子で、武術の練習を補助する能力を有せぬばならぬ。彼等は又水泳、小舟の漕法をも敎へて、彼の筋力を發達せしめねばならない。彼は每日の大部分をこんな體育と、支那古典の硏究とに費やさしめらる〻のである。食物は潤澤であつても美味ではない。衣服は儀式の時の外は、薄くて質素である。そして暖を取る爲めに、火を用ふる事は許されぬ。冬の朝稽古に筆が握れぬ程手が冷えると、氷の採な水に手を突込んで、血行を恢復するやうに命ぜられる。足が寒氣で凍(こご)えると、雪の中を走り𢌞はつて、暖める樣にと命ぜられる。武家特殊の儀禮の訓練は、更に一層嚴であつた。そして彼の帶に挾める小さい刀は、伊達や玩具でない事を早くから敎へられる。又其用ひ方や、武家の掟(おきて)が命ずる時には、びくともせずに、何時でも、直に我が命を斷つ術を敎へられる

 

註 「それは眞實其方の父の首か」と或る領主が七歲になる或る武士の子に問うた。其子は直に事情を推察して仕舞つた、彼の前に据ゑられた斬り立ての首は、實は父の首ではなかつた。領主は騙されて居たのだつた。併し更に騙すのが必要であつた。それで小兒は死せる父に對する樣な悲嘆を表にして、生首を拜した後、次に自分の腹を切つた。其殘酷な孝心の表現で領主の疑は消えた。其間に勘氣を蒙つた父は、首尾克く[やぶちゃん注:「しゆびよく」。]逃げおほせた。此子供の話は日本の劇や歌に今でも仕組まれてある。

 

 又宗敎に關しても、武士(サムラヒ)の子の敎育は特殊なものであつた。彼は先づ古神道の神々と、祖先の靈を崇めることを敎へられ、つぎに支那の經書を讀ませられ、つぎに又佛敎の哲理と政義の幾分と敎へられた。併し同時に極樂地獄は、ただ無智の者への寓話で、優越の士は、ただ正道の爲めの正道の愛と、普遍の法則としての義務の會得とに依つてのみ、行ひを正し、卑吝の心を抱くべからざる旨を敎へられた。

[やぶちゃん注:「卑吝」「ひりん」。卑(いや)しくて吝嗇(けち)なこと。]

 少年期から靑年期に移ると、段々彼の行爲は監督を受けなくなる。自己の判斷で行動するの自由が次第に與へられる――併し過失は決して看過されず、重き犯罪は決して恕せられる事はなく、理由(いはれ)ある非難ある非難は死よりも恐れねばならぬ、といふことを十分承知の上でである。他の一方に於て、靑年の武士が大いに警戒すべき樣な、道德上の危險は甚だ少かつた。娼妓は多くの地方の城下には嚴禁されて居た。そして小說や劇に反映されて居た樣な、道義に關係のない俗界の俗事にさへ、若い武士は通じて居なかつた。彼は柔弱な情愛とか戀情とかに訴へる小說稗史を、全く男らしからぬ讀物として排斥する樣に敎へられた。それから觀劇も彼の階級には禁ぜられて居た

 

註 武家でも女子に、少くとも多くの地方では。芝居に行くことが出來た。たゞ男子は出來なかつた――行けば武士の作法を破ることになる。併し武士の家庭では、或は屋敷内では、特殊の私的興行が演ぜられることもあつた。其場合には旅稼ぎの役者を雇ふのである。自分は、今迄芝居へ行つた事がないと云つて、觀劇の招待に決して應じない溫良な老士族を多く知つて居る。彼等は今でも武士作法を守つてゐるのである。

 

 かう云ふ譯で、舊日本の善良な地方的生活では、若い武士は類稀なる[やぶちゃん注:「たぐひまれなる」。]純心純情の人となる事が出來た。

 

 自分が描き出さうとする若い靑年武士も、此の[やぶちゃん注:「かくの」。]如くに生ひ立つたのである――勇敢にしで禮儀正しく、克己心に富み、悅樂を排し、そして、愛の爲め忠義の爲め名譽の爲めには、卽座に一命を捨つるを辭せざる男となつたのである。併し體骼と精神に於ては、既に一角[やぶちゃん注:「ひとかど」。]の武士ではあつたが、まだ年齡に於ては殆ど子供に過ぎなかつた。其頃の事である、初めての黑船の來舶で國を擧げて驚倒する椿事が起こつたのは。

 

       

 海外に航する者は死に處すといふ家光の政策は、二百年の間、日本國民をして外國の事に全く無智ならしめた。海の彼方に發展しつつあつた巨大な强国に就ては、何も知られてなかつた。長崎には蘭人の居留地が永らく存在して居たが、日本の眞の地位――十六世紀式の東洋の封建制度が、三百年の先輩なる西の世界に壓迫されて居る狀態――に就ては何等啓發せしめる處がなかつた。其西の世界の驚くべき實況は、話して聞かせても日本人の耳には小兒を喜ばせる爲めの作り話の樣に聞こえたであらう、若しくは蓬萊宮の昔噺と一緖に考へられたであらう。『黑船』と呼ばれた米國艦隊の來舶に至つて、初めて政府は自國の防備の手薄さと、外患の切迫とに目を覺ましたのであつた。

 やがて第二次の黑船來航の報道に依る國民の興奮は、間もなく幕府の外國と戰ふの力なきことの暴露に依る驚愕に伴なはれた。これは北條時宗の時の蒙古來襲よりも、更に大なる危險の迫つた事を意味するに外ならない。蒙古の時は國民は神助を神に祈り、天子も親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]伊勢の大廟で、祖先の靈に擁護を乞うたのであつたが、其祈りは聽き屆けられ、天地晦蒙、雷鳴電閃、神風吹う起こつて、忽必烈[やぶちゃん注:「クビライ」。元王朝初代皇帝。]の艦隊は沈沒せしめられた。此度とても、神助を乞ふ祈禱の捧げられぬ筈はなかつた。事實無數の家庭、幾千の神社で祈禱が行はれた。併し此度は神々も應じない、神風は起こらなかつた。我が主人公の少年武士も、父の庭内にある八幡の小さい祠に祈つたが、しるしがないので、神々も力を失つたか、或は黑船の異人は、より强い神々の擁護の下にあるかと疑つた。

 

       

 間もなく、夷秋は驅逐されぬに決定した事が明らかになつた。彼等は西からも東からも、幾百人となく入り込んで來た。そして彼等と保護するあらゆる手段が講ぜられた。彼等は日本の土地に、彼等自身の珍妙な市街を建てた。政府は更に、凡ての學塾に於ては、西洋

 

註 德川幕府。

 

の學問を學ぶべきこと、英語の講習は公敎育の重要課程たるべきこと、公敎育其者[やぶちゃん注:「そのもの」。]も、西洋流に改造せらるべきことを命令した。政府は猶ほ國家の將來は、懸かつて外國の國語と科學との、硏究練達にあるべかことを宣言した。卽ち此等の硏究が良好な結果を生み出す迄の間は、日本は實際上外人の支配に委ねられるといふ譯である。尤も事實はかう宣言せられた譯ではないが、此政策の歸着する所は明らかであつた。此事情が分かつた爲めに起こつた猛烈な感動の後に――民衆の大沮喪、武士の制へ附けた憤激[やぶちゃん注:“the suppressed fury of the samurai”。「武士階級の激怒」。]の後に――强い好奇心が起こつた。それは優勢な武力を見せただけで欲するものを得ることの出來た、無禮な外人の外貌性格に就てであつた。此一般的な好奇心は、夷狄の風習と居留地の異樣な市街を圖にした、安價な彩色版の大量な刊行と配付とに依つて、幾分か滿足せしめられ力た。外人の眼には其のけばけばしい木版畫は、諷刺畫(カリカチユア)としか見えなかつた。併し畫工の目的は、決して諷刺畫の積りではなかつたのである。彼は實際彼の眼に映つた通りに描かうと試みたのであるが、眼に映つた處は、猩々の樣な赤い毛の生えた、天狗の樣に鼻の高い、變痴奇[やぶちゃん注:「へんちき」。「へんてこ」に同じい。主に歌舞伎批評で明治期に生まれた語のようである。]な形と色の衣服を着、倉庫か牢屋の樣な建物に住んで居る、綠眼の怪物であつたのである。國内に幾百千と賣られた此等の版畫は、色々の不思議な觀念を與へたに相違ない。併し見馴れぬものを描き出さうとする試みとして、決して惡意あるものではなかつた。我々

が其頃の日本人の目にどういふ風に映つたかといふ事――いかに醜惡に、怪奇に、滑稽に見えたかといふのを了解する爲めには、此等の古版畫を硏究するがよい。

 城下の若武士達は、問もなく西洋人を見る機會を得た。それは藩侯に依つて、彼等の爲めに召し抱へられた敎師で英國人であつた。彼は藩兵に護衞せられて來た。そしても士として彼を厚遇せよとの命が下つた。彼は木版畫の外國人の樣に、全く醜くはなかつた。尤も毛は赤く眼の色は變つて居た。併し顏はさういやな顏ではなかつた。彼は直に倦まざる觀察の目標となり、又永くさうであつた。どれ程彼の一擧一動が注視せられたかは、西洋人に關する明治以前の珍妙な迷信を知らぬ者には推察されない。西洋人は知的で恐ろしい動物とは考へられたが、一般に普通の人間とは思はれなかつた。彼等は人間よりも、寧ろ動物に近いものと考へられた。彼等の身體は毛深く珍奇な形態を有し、齒は人間の齒とは異り、内臟は特殊なもので、道念[やぶちゃん注:「だうねん(どうねん)」。道義心。]は動物の道念であると考へられた。武士(サムラヒ)はさうでもないが、民衆が外人を見て畏懼したのは、形態上からではなく、迷信からの恐怖であつた。日本人は農民でも決して臆病ではなかつたのである。併し彼が當時の外人に對する感情を知るには、日本兩國に共通であつた、超自然力を備へて、人間の形態を裝ひ得る動物に就て、又は半人半神の動物の存在、又は古い繪本にある荒唐な動物――脚の長い、手の長い、そして髯のある怪物(足長手長)で、怪談の挿畫に描かれたり、或は北齋の筆で滑稽に描かれたりして居るものに就ての、古い信念を若干知悉することを要する。實際新來の異人等の容貌は、支那のヘロドタス[やぶちゃん注:歴史家の換喩。]に依つて語られた架空談に確證を與ふる樣に見え、彼等が着けた衣服は、人間ならぬ部分を隱蔽する爲めに、考案された樣に思はれたのである。それで新來の英國人敎師は、幸にも、自分は其事實を知らずに居たが、珍獸を觀察する樣な態度で内々觀察されて居た。それにも拘らず、學生からはただ鄭重に禮遇されて居た。彼等は『師に對しては影を蹈むこともならぬ』と敎ふる支那の經典に從つて彼を遇した。兎に角武士(サムラヒ)の學生には、師が苟くも敎へ能ふ[やぶちゃん注:「あたふ」。]限りは、其完全に人間たると否とは問題でなかつた。義經は天狗から劍法を授けられたのである。其外、人間ならぬ者が學者であり、詩人であつた例がある

[やぶちゃん注:「足長手長」「あしながてなが」。中国及び日本に伝わる妖怪。一種のみでなく、足長人と手長人という人形怪人二種を指す総称。ウィキの「足長手長」を引く。『足長人は「足長国」の住民、手長人は「手長国」の住民。その名の通り、それぞれ脚と手の長さが』、『体格に比較して非常に長いとされる。海で漁をする際には、常に足長人と手長人の』一『人ずつの組み合わせで海へ出て、足長人が手長人を背負い、手長人が獲物を捕らえるという』。『これらの存在は、中国の古代の』幻想地誌である「山海經」(せんがいきょう)に『記されている長股(ちょうこ)』・『長臂(ちょうひ)という足の長い・手の長い異国人物の伝説が起原であると考えられている』。明の『王圻』(おうき)とその次男王思義『が編纂した中国の類書』(百科事典)「三才圖會」(全百六巻。一六〇九年成立)にも出、その記述等をもとに医師寺島良安によって江戸時代中期の正徳二(一七一二)年頃に成立した「和漢三才圖會」では巻第十四「異國人物」に「足長」が「長脚(あしなが)」、「手長」が「長臂(ちやうひ)」として所載し、それぞれ脚の長さは一丈余(一丈は三・〇三メートル。実は「三才図会」では前者が二丈、腕の長さが二丈とするのを、良安は「難信」(信じ難し)として、孰れも「謂丈餘而可矣」(丈餘と謂ひて可ならん)と訂している)。『また、長脚人が長臂人を背負って海で魚を捕るということも記されており』(「長脚」の条に「三才圖會云長脚國在赤水東其國人與長臂國近其人常負長臂人入海捕魚」(「三才圖會」に云はく、『長脚國、赤水の東に在り。其の國人、長臂國と近し。其の人、常に長臂人を負ひ海に入りて魚を捕る』)とある(続く後半を略した)。以上は所持する「和漢三才図会」原本に拠って私が書いた)、『日本ではこれを画題とした絵画が御所の中に設置されている「荒海障子」(あらうみのしょうじ)にも描かれている』。室町時代の「塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう:行誉らによって撰せられた百科辞書「塵添壒嚢鈔」には、『中国の王宮には奇仙・異人・仙霊のあやしき人といった画題の絵画を描く風習があったというので』、『それにならって我が国の皇居の荒海障子も描かれたのでは無いだろうかと記してある』。『また、中世ころの仏教説話では龍宮に足長と手長が存在してるという物語があったようで、そこでは龍王の眷属として登場している』。江戸時代にも『風来山人(平賀源内)の戯作』「風流志道軒傳」(巻四)『には足長と手長が登場して』おり、『挿絵にも描かれており、そこでもやはり足長人が手長人を背負っている』。『また、葛飾北斎、歌川国芳、河鍋暁斎といった画家が戯画などに描いているほか、都市部などで興業がおこなわれていた生人形(いきにんぎょう)の題材としても取り扱われ、製作されていた』(引用先に画像有り)。また、『江戸時代に書かれた松浦静山による随筆』「甲子夜話」の巻之廿六の第六条目の「平の海邊にして長脚を見る事」には(原本を確認して追記した)、『平戸のある武士が月の綺麗な夜に海で夜釣りをしていたところ、九尺』許り(二メートル七十三センチほど)の『脚を持つ者が海辺をさまよっており、ほどなく天候が急転して土砂降りに遭ったという逸話が語られている。その者の従者の語るところによれば、それは足長(あしなが)と呼ばれる妖怪で、足長が出没すると必ず天気が変わるとされている』。「甲子夜話」の『原文では前半に』先の「和漢三才図会」の『文を引いて長脚と長臂について述べているが、この平戸に現われた「足長」は特に俗にいわれる中国の伝説にもとづいた「足長手長」と同一のものであるわけではなく、足の長い点から「足長」と呼ばれているもので、「手長」のようなものも付き添っていない』とある。また、本邦のそれについては別に独立したウィキの逆転した巨人異人或いは鬼神「手長足長」があるので、それも引いておく。『手長足長(てながあしなが)は、秋田県、山形県、福島県、長野県、福井県などに伝わる伝説・昔話に登場する巨人』異人。『その特徴は「手足が異常に長い巨人」で各地の伝説は共通しているが、手足の長い一人の巨人、または夫が足(脚)が異常に長く妻が手(腕)が異様に長い夫婦、または兄弟の巨人とも言われ、各地で細部は異なることもある。手の長いほうが「手長」足が長いほうが「足長」として表現される』。『秋田では鳥海山に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていた。鳥海山の神である大物忌神』(おおものいみのかみ)『はこれを見かね、霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされる』。『それでも手長足長の悪行は続いたため、後にこの地を訪れた慈覚大師』円仁『が吹浦』(現在の山形県の鳥海山大物忌神社)『で百日間』、『祈りを捧げた末、鳥海山は吹き飛んで手長足長が消え去ったという』。『また消えたのではなく、大師の前に降参して人を食べなくなったともいわれ、大師がこの地を去るときに手長足長のために食糧としてタブノキ』(クスノキ目クスノキ科タブノキ属タブノキMachilus thunbergii:八~九月頃、球形で黒い果実が熟す。果実は直径一センチほどで、同じクスノキ科 Lauraceae のアボカドに近い味がする)『の実を撒いたことから、現在でも三崎山にはタブノキが茂っているのだという』。『福島の会津若松に出現したとされる手長足長は、病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま。磐梯山の古名)の頂上に住み着き、会津の空を雲で被い、その地で作物ができない状態にする非道行為を行い、この状態を長期にわたり続けたという。その地を偶然訪れた旅の僧侶がことの事情を知り、病悩山山頂へ赴き、手長足長を病悩山の頂上に封印し、磐梯明神として祀ったとされている』。『このことをきっかけに、病悩山は磐梯山と改められ、手長足長を封印した旅の僧侶こそ、各地を修行中の弘法大師だったと言われている』。『福井の雄島にある大湊神社には、安島に最初に住んでいたのが手長と足長だったと伝わる。足長が手長を背負って海に入り、手長が貝』『をその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという』。『上記のような荒ぶる巨人としての存在とは別に、神・巨人・眷属神としての手長足長、不老長寿の神仙としての手長足長もみられる』。『室町時代に編纂された』「大日本国一宮記」(だいにほんこくいちのみやき:日本国内の一の宮の一覧)に『よると、壱岐(長崎県)では天手長男神社が国の一の宮であった』『とされ、天手長男(あめのたながお)神社と天手長比売(あめのたながひめ)神社の』二『社が存在していた』。『長野の上諏訪町(現・諏訪市)では、手長足長は諏訪明神の家来とされており』、『手長と足長の夫婦の神であるといわれ、手長足長を祀る手長神社、足長神社が存在する』。『この二社は記紀神話に登場している出雲の神である奇稲田姫(くしなだひめ)の父母・足名稚(あしなづち)と手名稚(てなづち)が祭神とされているが、巨人を祀ったものだという伝承もある』。『また、建御名方神』(たけみなかたのかみ)『が諏訪に侵入する以前に、諏訪を支配していた神の一つで、洩矢神』(もれや(もりや)のかみ)『と共に建御名方神と戦ったとされる』。『これら社寺に関連する「てなが(手長)」という言葉について柳田國男は、給仕をおこなう者や従者を意味していた中世ころまでの「てなが」という言葉が先にあり、「手の長い」巨人のような存在となったのは後の時代でのことであろうと推論している』。「大鏡」(十一世紀末成立)の第三巻の「太政大臣伊尹(これただ/これまさ)」(藤原伊尹(延長二(九二四)年~天禄三(九七二)年:平安中期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣藤原師輔の長男))伝には、硯箱に『蓬莱山・手長・足長などを金蒔絵にして作らせたということが記されており、花山院』(十世紀末)『の頃には、空想上の人物たる手長・足長が認知されていたことがわかる。これは』先に出た王圻の「三才圖會」などに『収録されている中国に伝わる長臂人・長股人(足長手長)を神仙図のひとつとして描くことによって天皇の長寿を願ったと考えられる』。『天皇の御所である清涼殿にある「荒磯障子」に同画題は描かれており、清少納言の』「枕草子」(第二十段)にも、既に『この障子の絵についての記述』(「淸涼殿の丑寅(うしとら)の隅の、北の隔てなる御障子(みさうじ)は、荒海の繪(かた)生きたるものどもの恐ろしげなる手長、足長などをぞ描(か)きたる、上(うへ)の御局(みつぼね)[やぶちゃん注:弘徽(こき)殿。]のをおしあけたれば[やぶちゃん注:いつも開けっぱなしにしているので。]常に目に見ゆるを、にくみなどして笑ふ。」)『が見られる』。『物語文学のひとつである絵巻物』「宇治橋姫物語絵巻」には、『主人公のひとりである中将を取り囲んで現われる異形の存在(「色々の姿したる人々」)として、みるめ・かぐはな・手なが・あしながという名が文章上では挙げられている』。『岐阜県高山市の飛騨高山祭の山車装飾、市内の橋の欄干の彫刻など手長足長のモチーフが多く見られ』、『これは嘉永年間』(一八四八年~一八五五年)『の宮大工が彫刻を手名稚と足名稚として高山祭屋台に取り付けたものが由来』『とされている。手長足長に神仙としてのイメージと、「山海経」や』『浮世絵などの絵画作品を通じての異民族・妖怪としてのイメージ、双方からのイメージが江戸時代後期には出来上がっていることがわかる』とある。]

 

註 かういふ話がある。菅原道眞(今天神として祀らるゝ)の師であつた、 大詩人都良香が、京都の御所の羅生門[やぶちゃん注:原文はちゃんと“Ra-jo-mon”なのであるから、正しく「羅城門」と訳すべきところである。]を通る時、丁度其時浮かんだ詩の一句を高らかに誦した――氣霽れて[やぶちゃん注:「はれて」。]風新柳の髮を梳る[やぶちゃん注:「けづる」。なお、以下の字空けはママ。] ――すると直に門内から重い嘲る樣な聲が唱和して云つた――氷融けて波舊苔鬚を洗ふ――都良香は見𢌞はしたが誰も居ない、家に歸つて弟子達に顚末を告げて、二句を反復唱へて聞かした。すると菅原道眞は第二句を讃めて曰つた――「實に第一句は人語である。併し第二句は鬼語である」と。

[やぶちゃん注:「都良香」(みやこのよしか 承和元(八三四)年~元慶三(八七九)年)は貴族で文人。主計頭(かずえのかみ)都貞継の子。最終官位は文章博士(もんじょうはかせ:大学寮紀伝道の教官(令外官)。文章生に対して漢文学及び中国正史などの歴史学を教授した。唐名は翰林学士)従五位下・大内記・越前権介。ウィキの「都良香」によれば、『清和朝初頭の』貞観二(八六〇)年、『文章生に補せられ』、『文章得業生を経て』、貞観十一年に『対策に及第し、翌』貞観一二(八七〇)年、『少内記に任官』した。『同年に菅原道真が対策を受験した際、その問答博士を務め』ている(この事蹟から小泉八雲の「師」という表現は正しい)。また、その翌貞観十三年の太皇太后『藤原順子の葬儀に際して、天皇が祖母である太皇太后の喪に服すべき期間について疑義が生じて決定できなかったために、儒者たちに議論させたが、良香は菅原道真と』とも『に日本や中国の諸朝の法律や事例に基づき、心喪』五『ヶ月・服制不要の旨を述べた』。貞観一四(八七二)年には式部少丞・平季長と』とも『に掌渤海客使』(渤海使の接待係)『を務める一方、自ら解文を作成して言道(ことみち)から良香への改名を請い、許されている』。貞観一五(八七三)年、『従五位下・大内記に叙任され』、貞観一七(八七五)年『以降は文章博士も兼ねた』。貞観十八年に『大極殿が火災に遭った際、廃朝』(天皇が服喪や天変地異などのために朝務に臨まないこと。但し、諸官司の政務は平常通り行われる)『及び群臣が政に従うことの是非について、明経・紀伝博士らが問われた際、良香は同じ文章博士の巨勢文雄と』とも『に、中国の諸朝において』、『宮殿火災での変服・廃朝の例はないが、春秋戦国時代の諸侯では火災に対して変服・致哭の例があることから、両者を折衷して廃朝のみ実施し、天皇・群臣は平常の服を変えるべきでないことを奏し、採用されている』。『陽成朝初頭の』元慶元(八七七)年には『一族の御酉』(みとり)らとともに『宿禰姓から朝臣姓に改姓した』。『詩歌作品を作る傍ら』、『多くの詔勅・官符を起草し』、貞観一三(八七一)年より編纂が開始された「日本文徳天皇実録」にも関与したが、完成する前』享年四十六で逝去した。『漢詩に秀で歴史や伝記にも詳しく、平安京中に名声を博していた。加えて立派な体格をしており』、『腕力も強かった。一方で貧しくて財産は全くなく、食事にも事を欠くほどであったという』。家集に「都氏文集」があり、『詔勅や対策の策問などの名文がおさめられている。漢詩作品は』「和漢朗詠集」・「新撰朗詠集」などに入集しており、勅撰歌人でもあって、「古今和歌集」に一首が収められてある。また、各種の伝承を記した「道場法師伝』」・「富士山記」・「吉野山記」等の作品もある。「富士山記」には『富士山頂上の実情に近い風景描写があ』り、『これは、良香本人が登頂、または実際に登頂した者に取材しなければ知り得ない記述であり、富士登山の歴史的記録として重要である』。『漢詩にまつわる説話が複数伝えられており、後世においても、漢詩人として評価されていたことが窺われる』。『ある人』(ここで小泉八雲が言っている本人ではない)『が羅城門』『を通った時に、良香の詠んだ漢詩を誦したところ、門の鬼が詩句に感心したという』(「江談抄」「本朝神仙伝」)。『良香が晩夏に竹生島に遊んだ際に作ったという「三千世界は眼前に尽き。十二因縁は心裏に空し。」の下の句は竹生島の主である弁才天が良香に教えたものであるという』(「江談抄」)。『また、活躍時期がやや異なるにもかかわらず、良香と菅原道真が一緒に登場する説話・逸話が見られる』。『良香の家で門下生が弓遊びをしていた際、普段勉学に追われていることから、とうていうまく射ることはできないであろうと道真に弓を射させてみたところ、百発百中の勢いであった。良香はこれは対策及第の兆候であると予言し、実際に道真は及第したという』(「北野天神縁起」)。『菅原道真に昇進で先を越されたことから、良香は怒って官職を辞し、大峰山に入って消息を絶った』。百『年ほど後、ある人が山にある洞窟で良香に会ったところ、容貌は昔のままで、まるで壮年のようであったという』(「本朝神仙伝」)。なお、ここで澤が示している漢詩は表記がおかしく、

氣霽風梳新柳髮 氷消浪洗舊苔鬚  都

 氣 霽(は)れては 風 新柳の髮を梳(けづ)る

 氷 消えて 波 舊苔(きうたい)の鬚(ひげ)を洗ふ

で、「和漢朗詠集」上の「早春」に御覧の通り、良香の詩句として載るものである。孰れも擬人法を用いたもので、事実、古来より賞讃され、二句目は鬼神の作と呼ばれた。

 

 併し禮節の假面を少しも外づさずに、外人敎師の習性は精細に視察された。そして其視察を比較しあつて、出來た最終の判斷は全く喜ばしいものではなかつた。敎師自身は兩刀手挾んだ弟子達から、己れにどんな評釋が下されたかは夢想だも爲し得なかつた。又敎室で作文を監督して居る中に、つぎのやうな會話の行はれて居るのを了解し得たとて、彼[やぶちゃん注:ここ以下では、この第「三」章の終りまで「彼」(かれ)は外人教師を指す。]が心の平和は增進される事はなかつたらう――『彼(あ)の肉の色を見給へ、柔らかさうではないか。造作もなく一擊で首は落ちるだらう』

 或る時彼は、彼等の相撲の取り方を試みさせられた。それはただ慰みの爲めと彼は想像した。併し實は彼等が彼の體力を測る企てであつた。そして彼は力士として高い評價を贏ち[やぶちゃん注:「かち」。「勝ち」に同じい。]得なかつた。『腕は確に强い』一人が云つた。『併し腕を使ふ時、身體(からだ)の使ひ方を知らぬ。そして腰が甚だ弱い。片附けるのに骨は折れぬ』

 『外國人と』他の一人が云つた。『戰ふのは樂だと僕は思ふ』

 『劍で戰ふのは樂だらう』も一人[やぶちゃん注:ママ。]が答へた。『併し彼等は鐡砲や大砲の使用法は、我々よりも上手だよ』

 『我々だつて上手になれるさ』最初の一人が云つた。西洋の戰法を習つて仕舞へば洋兵は恐る〻に足らん』

 『外人は』はも一人が云つた。『我々の樣に丈夫でない。直ぐ疲れる、そして寒氣に弱い。我々の先生も冬中室にどつさり火をおこして置くぢやないか。我々は五分間も其處に居ると頭痛がして來る』

 

 こんな事があるにも拘らず、若者等は敎師に對しては親切であつたので、敎師も彼等を愛した。

 

       

 大地震の樣に、豫告なしに大變事が起こつた。大名制度は郡縣制に變更される、武士階級は癈止される。全社會組織が改造される事になつた。我が靑年武士は、敢て忠勤を領主から天子に移すを困雖とも思はず、又彼[やぶちゃん注:ここでは戻って主人公の青年を指す。]の一家の富は、此瓦解の爲めに損はれることもなかつたが、此出來事は彼の心を悲痛に滿たしめた。彼は此改變に依つて國家の危機の大なることを知り、又古來の高い理想と、あらゆる大切と考へた物の消滅を感じた。併し徒に懊惱することの無益な事をも知つた。今は自己改造に依つてのみ國民は其獨立を救ひ得る。國家を愛する者の明瞭な義務は、此必要を認め、將來の舞臺に男らしい演出を見せる爲めに、己れを適當に訓練するに在る。

 武士の學校で、彼は大いに英語を學び、どうやら英人と話し得る自信を得た。そして長い髮を切り、兩刀を棄て、英語の稽古を、有利な狀況の下に繼續する爲めに、橫濱に出た。橫濱では凡てが見馴れ聞き馴れぬ物だらけで、初めは不快の感を懷いた。日本人さへ其處では外人との接觸で變つて居た。皆が皆野鄙で粗豪[やぶちゃん注:「そがう(そごう)」。荒っぽく、猛々しいこ。]で、彼の故鄕では平民もせぬ樣な言動を平氣でして居た。外國人に至つては、更に不愉快な感を與へた。折しも新居留民は、被征服者に對する征服者の態度を取り得た時で、開港場の生活は、今日よりずつと放慢であつた。煉瓦や漆喰塗りの木造建築物は、例の彩色版の異國風習圖の、不愉快な思ひ出を新たにした。そして西洋人に關する少年時代の空想を、容易く拂ひ退ける事が出來なかつた。廣い知識と經驗に基礎を置いた理性は、十分に彼等の何者たるかを理解したが、感情の上からは、彼等も同じく人類であるといふ感がしつくりと起こらなかつた。人種的感情は知力の發展よりも古い、そして人種感に伴なふ迷信は容易に取り除き難い。其上彼の武士魂も、時に見るもの聞くものの醜惡さに搔き立てられる――强さを挫き弱きを助けようといふ、父祖傳來の熱血を湧き立たせる出來事が多かつた。併し彼は知識の妨害物として、こんな反感を征服しようと努めた、國家の敵の眞相を靜かに攻究するのは、愛國者の義務であつたから。彼は遂に偏見なしに周圍の新生活を觀察するやうに自己を訓練した――其缺點と同樣に其美點をも、其短處と同樣に其長處をも。すると、彼は其處に仁愛を發見した、理想への憧憬をも發見した――其理想は、彼自身の理想とは異つて居るが、彼の祖先の宗敎と同樣に、幾多の戒律を要求するので、尊敬すべきものであることを知つた。

 此了解から、彼は敎育と敎化の事に沒頭して居る、一人の老牧師を愛し且つ信ずるに至つた。其老宣敎師は此若き武士には非凡な適合性があるのを見拔いたので、特に彼を改宗せしめたいと思つた。そして彼の信賴を得る爲めの勞を惜しまなかつた。彼は何くれと彼を助け、佛蘭西語、獨逸語、希臘語、拉典語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]までも少しづつ敎へた上に、可なり大量の書籍を悉く彼の侍祐閲讀に提供した。歷史、哲學、旅行記、小說を含む外國の書籍を涉獵することは、日本の學生に取つて容易に得られぬ特權であつた。彼は感謝を以て之に酬いた。それで書籍の所有主は後に苦もなく此祕藏弟子に、『新約全書』の一部を讀ませることに成功した。若者は『邪宗』の敎義の中に、孔子の說に似たる道義を發見し、驚嘆した。彼は老宣敎師に向つて云つた。『これは我々には新しい事ではありません、確に善い敎です。私はこれから此本を讀んで、そして熟考しませう』

 

2019/12/14

小泉八雲 業の力 (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“BY FORCE OF KARMA”。言わずもがな乍ら、「カルマ」は業(ごう/歴史的仮名遣「ごふ」)である。サンスクリット「カルマ」(ラテン文字転写:karman:サンスクリットの動詞語根「クリ」(為(な)す)が語源。「羯磨(かつま)」と漢音写し、「KARMA」はその音転写された英語)に由来し、「行為・所作・意志による身心の活動とその結果の蓄積、及び、そうした身心の生活の行き着くところとしての宿命」を指す。特に狭義上では「過去(世)での善悪を問わない行為が必ず自分に返報される」とする因果応報の法則と同義で、もともとは仏教以前のインドの占星術の基である「ヴェーダ」哲学の根底に流れる思想である)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の第九話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 文中途中に突如入る注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、前後を一行空けた。

 標題後の添え辞はポイント落ち下インデント三字上げであるが、引き上げた。また、文中の途中に入る注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、前後を一行空けた。

 訳者戶澤正保(底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している)氏については私の「小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保訳)」の冒頭注を参照されたい。]

 

      第九章 業の力

 

『愛人の顏と朝日の顏は見上げる事が出來ぬ』 ――日本俚諺

[やぶちゃん注:原本では、

“The face of the beloved and the face of the risen sun cannot be looked at.”― Japanese Proverb.

であるが、こんな「ことわざ」は誰も知らぬ。流石に小説家でもあられる平井呈一氏は恒文社版「因果応報の力」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では、この添え辞を、

   《引用開始》

好いたお方と朝日の顔は

  眺めようとてかなやせぬ

       ――日本のことわざ

   《引用終了》

と美事正鵠を射て素敵に訳しておられる(因みに、これは諺ではなく、近世の恋の都々逸である)。]

 

       

 近代科學の敎ふる所に依ると、初戀の熱情は、當該個人に取つては『全く凡ての之に關する經驗に先きだつものである』。語を變へて云ふと、凡ての感情中、尤ち嚴密に個人的なるべく思はる〻ものが、實は全く一個人の事件ではないのである。哲學も又久しい以前に同じ事實を發見して居る、そして戀情の神祕を說明する理窟は非常に面白い。科學は今迄の處、此題目に就ては嚴密に僅少の推察を提供するに留めてある。これは誠に遺憾である。といふのは、形而上學者は何時(いつ)の時にも適當に細述した說明を與へる事が出來ぬから

 

註 先天的であるの意、ハアバアト・スペンサー「心理學原理」中感情論の一節。

[やぶちゃん注:「ハーバート・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。当該引用(原文引用部“absolutely antecedent to all relative experience whatever”)という引用は、一八五五年刊の「心理学原理」(The Principles of Psychology)の第八章「感情」(CHAPTER VIII.: THE FEELINGS.)にあるセクション二百四(§ 204)の以下の末尾部分である。

   *

That the experience-hypothesis, as ordinarily understood, is inadequate to account for emotional phenomena, will be sufficiently manifest. If possible, it is even more at fault in respect to the emotions than in respect to the cognitions. The doctrine maintained by some philosophers, that all the desires, all the sentiments, are generated by the experiences of the individual, is so glaringly at variance with hosts of facts, that I cannot but wonder how any one should ever have entertained it. Not to dwell on the multiform passions displayed by the infant, before yet there has been such an amount of experience as could by any possibility suffice for the elaboration of them; I will simply point to the most powerful of all passions—the amatory passion—as one which, when it first occurs, is absolutely antecedent to all relative experience whatever.

   *

このスペンサーの前振りの条件は科学的でない心理学(私は若き日に心理学者になりたいと思っていたが、現在、追試実験不能の、動物心理学・実験心理学の一部分野を除く大方のそれは極めて非科学で怪しい擬似科学であると考えている)の中で、やや厳密さを感じさせて曖昧領域がやや明確化され、不完全ながら限定化されてはいる。されば、一応、安心して小泉八雲の引用も受け入れられるという気がする。そうして、改めて言うまでもなく、普通――人間個人の最初の恋――とは――精密な意味に於いて――科学としての生物学的意味に於いても――母への恋――である――ということは言うまでもない。我々個人にとっての「最初の他者」「恋人」とは原理的に「母」とイコールである。スペンサーがことさらに注意喚起をして除去しようとし、小泉八雲が、以下、青年期まで時間を短縮して恋の成立を解くこと自体が(これは無論、逆に小泉八雲も母喪失感のトラウマがのっぴきならないものであることを指しているのである。小泉八雲は終生、「母の肖像画が欲しい」と言い、「それが手に入るなら、金は幾らかかってもいい」と常々言っていたことを忘れてはならない)私は「マヤカシ」であると考えるし、「科学的」でないと考える。]

 

である――或は愛人の初めての一瞥は、戀する者の靈魂に、神聖な眞理の或る眠れる先天的な記憶を喚起すと敎ふるか、或は戀の幻影は、體現を求むる未生[やぶちゃん注:「みしやう」。]の靈魂に依つて作らるると敎ふるか、何れにしてもである。併し科學も哲學も極重要な一の事實――戀する者自身は自由選擇を爲(す)るのでない、彼等は只だ或る外力に動かさる〻のであるといふ事に就ては一致する。科學は此點には更に一步を進めて居る、初戀の責任は死せる祖先に在る、生ける當該者にはないと述べて居る。で初戀には或る種の幽玄な記憶(おもひで)があるやうに思はれる。尤も科學は佛敎とは異つて、我々は特殊の狀況の下に、前生を思ひ出し得るとは斷言せぬ。生理學に基礎を置く心理學は、此個人的の意味に於ける記憶の遺傳を不可能と斷ずる。併しより多く漠然とはして居るが、より强い記憶――無算數の祖先の記憶の總額――幾億兆京とも知らぬ經驗の總額――は遺傳するものなることを認めて居る。かくして心理學は我我の尤も不可解な感應――矛盾する衝動――不思議な本能又凡ての不合理に見ゆる愛惜、憎惡の念、――あらゆる漠然たる喜悅、若しくは悲哀の感等を說明することが出來る――これ等はただ個人の經驗だけでは說明の出來ぬものである。併し其心理學も未だ初戀に就ては、我々の爲めに多くを解釋するの餘裕を有たぬ――目に見えぬ過去の世界との關係に於ては、初戀こそ、凡ての人間の情緖中で、尤も幽玄にして尤も神祕なものであるが。

 我が西洋では此謎はかう云ふ風に現はれる。順當に强健に發達する靑年には、女性に對して、自己の肉體の優越感より生ずる、原始的の輕蔑を感ずる、一種の退化的時期が來る。併し丁度かうして少女等との交際が少しも面白くなくなつた時に、彼は突然戀の狂熱に罹るのである。彼の生涯の通路を、今迄見た事のない一人の乙女――併し他の人間の女子と異らない――普通人の眼には少しも驚嘆するに足らぬ――が橫斷する。其瞬間に大浪の押し寄する樣に、血が彼の心臟に吶喊[やぶちゃん注:「とつかん(とっかん)」。]する。そして彼の感覺は攪亂される。それから後狂熱の終はる迄、彼の生は全く其新發見の乙女に把握される。併し彼は其女に就いては何事も知らぬのである。ただ日光も彼女に觸る〻と一層美しく見ゆるといふ事を知るだけである。其蠱惑から彼を引き離すことは人間の知識では出來ぬ。併し一體其蠱惑力は誰れ人[やぶちゃん注:「たれびと」。]が有するのてあらう。其生ける偶像が有する力であらうか。否、心理學は我々に告げる、それは偶像崇拜者の心の中に潜む、死せる祖先の力である。死せる祖先が魔術を施すのである。愛する者の心の激動は祖先の激動である。一少女の手の最初の觸感で、彼の血管中を馳け𢌞る電氣の樣な戰慄も、同じく祖先の戰慄であると。

 併し何故に死せる祖先は他の女を排して其少女だけを欲するかが、此謎の意味深い點である。獨逸の大厭世家[やぶちゃん注:ショーペンハウエルのこと。彼の「恋愛は個人のためにあるのではなく種族のためにある」といった性愛の論理観を指すのであろう。]が提供した解決法は、科學的も心理學とは調和せぬ。死せる祖先の選擇は、進化學的に考へると、豫知よりは寧ろ記憶に基づいた選擇であるであらう。そして此謎は愉快ではない。

 實に或る合成寫眞に於けるが如く、過去世に彼等(死せる祖先達)を愛した凡ての女の面影が、彼女に復活して居るが故に、彼女を欲するのだといふ、ロマンチックな可能性はある。併し同樣に彼等が報いられずに愛した、凡ての女の合併せる魅力が、幾分彼女に現はれて居るが故に、彼女を欲するのだといふ可能性もある。

 假りに此不氣味な後說を取ると、情熱といふものは幾囘埋められても、死滅もせず休止もせぬものだと信ぜざるを得ぬ。酬いられずに愛した者が死ぬるのは、ただ見掛けだけで、實は其願望を叶へる爲めに、幾世代も他の人の心の中に生きて居るのである。彼等は多分幾世紀でも、愛した形態の再現を待つのであらう――永久に靑春の夢の中に、漠然たる記憶の綾を織り込みつつ。さればこそ、到達されぬ理想だの――惱める靈魂が、誰れとしも分からぬ女に憑依せられるなどといふ事實が存在するのである。

 處が極東では考へ方が違つて居る。自分がこれから書かうとして居ることは、彌陀の解釋法に關するものである。

 

       

 最近甚だ特殊な事情の下に死んだ僧侶がある。彼は大阪附近の一村落の、古い淨土宗の一派に屬する寺院の僧侶であつた。(其寺院は關西線で京都へ行くとき、汽車の中から見える)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は原文は“(You can see that temple from the Kwan-Setsu Railway, as you go by train to Kyoto.)”である。「關攝(くわんせつ)」鉄道というのは今も昔もないのだが、これは「関(西の)摂(津と京都間に走る)鉄道」と読めなくはない。そもそもがこれが「關西」本「線」の誤記なのだとするのは、私には鉄道趣味はないが、どうも、腑に落ちない(但し、平井呈一氏も恒文社版「因果応報の力」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では、注なしで『関西線』と訳してはおられる)。関西(本)線、少なくとも現在の愛知県の名古屋駅から亀山駅・奈良駅を経て大阪市浪速区の難波駅に至る鉄道本線としての関西本線は加茂などの京都府南部を通りはするが、それで「京都に行くとき」と言わないのではないかと私は思うからである。これは寧ろ、彼が執筆時に居た、神戸から東海道本線で京都に向かう際の鉄道「關」西にある大阪の旧称「攝」津の「鐡道線」を指しているのであり、大阪府に入ってすぐに線路から見える浄土宗寺院であると言っているのではないかと私には思われるのである。それだと、浄土宗で数ヶ寺に絞られる。しかし、路線も寺も、断定もしなし、寺の具体的候補も指示はしない。何故なら、この僧と寺の名誉のために私はそれを穿鑿したくないからである。

 彼は若く、眞面目で、そして非常に美しかつた――僧侶にしては美し過ぎたと女達は評した程である。彼は昔の佛師が作りた阿彌陀佛の美しい尊像の一體の樣に見えた。

 村の男達は彼を純潔な博識な僧と思つて居たが、それに間違ひはなかつた。併し女達は彼の道德と學問のみを考へなかつた。彼は彼の意志とは關係なく、ただの男として女を惹き附ける不運な魅力を有つてに居た。彼は村の女達許りではなく、他村の女達にも、宗敎的でなく讃美された。それで彼等の讃美は彼の硏究を妨害し、彼の默想を攪亂した。彼等は立派な口實を見附けては、全く彼を見、彼に話しかける爲めばかりに、常住[やぶちゃん注:ここに読点が必要。]寺へ出入した。そして僧として答へる義務がある疑問を發したり、僧として拒むことの出來ぬ奉納物を贈つたりした。中には宗敎上の法問で無く、彼を赤面せしめる樣な問を懸ける者もあつた。性來彼は溫順なので、町の蓮葉娘が、田舍娘には云ひ切らぬ樣なこと――そこなことを云ふなら歸れと命ぜざるを得ぬ樣なことを云つた時でも、辭を嚴にして威嚴を保つことは出來なかつた。それで内氣娘の無言の讃美から、若しくは阿婆摺れの諂諛[やぶちゃん注:「てんゆ」。侫(おもね)り諂(へつら)こと。「阿諛(あゆ)」に同じい。]から、畏縮すればする程、迫害は增大し來たつて、遂に彼が一身の苦艱[やぶちゃん注:「くかん」。辛い目に遇って苦しみ悩むこと。「艱難(かんなん)」に同じい。]となるに至つた。

 

註 日本では俳優が下級の多情な娘達も同樣な魅力を及ぼし、其魅力を殘酷に利用することは往々あるが、僧侶がこんな蠱惑を振るふ例は滅多にない。

[やぶちゃん注:「蓮葉娘」「はすつぱむすめ(はすっぱむすめ)」。活発で軽弾みな行動をとる若い女性の卑称。語源は諸説さまざまで、蓮の葉が風や水面(みなも)の波でゆらゆらするさまや、蓮の葉の朝露がころころと転がるさまを行動のそれに模したという説、蓮の葉商人は季節ごとに商品が変わった事、キワ物やマガイ物といった意味などから転用されたという説、また、井原西鶴の「好色一代女」(貞享三(一六八六)年板行)に上方の大店の問屋で雇用された上客を接待するための閨(ねや)をともにする女性として「蓮葉女」なる女が描かれており、そうした淫売的職業の名が由来だとする説などもあり、定かでない(ここはウィキの「蓮の葉」などを参照した)。

「阿婆摺れ」「あばずれ」。人ずれしていて厚かましく、品行のよくない女を指す卑称(現代では女性にのみ使われるが、江戸時代までは男にも使った)。漢字表記は、当て字で特に意味がなく、単に漢字音として「阿婆」の字が当てられたという説と、中国語で「年を取った女性」を指す「阿婆」という言葉から取られたとする説があるが、そもそもが余り発祥が判らぬ。近世語であろう。]

 

 彼は兩親を久しい前に失つて、浮世の羈絆(ほだし)はない。それで彼の職務とそれに伴なふ硏究にのみ沒頭し、禁制の情事を念頭に置くことは欲しなかつた。異常の美貌――生ける偶像の美貌――が只だ彼の不運であつた。彼が取り上げる事の出來ぬ[やぶちゃん注:如何にも生硬な訳である。「とても口にすることのできないような忌まわしい」というニュアンスである。]條件で富を提供する者もあつた。娘達は彼の脚下に身を投じ彼の愛を嘆願してはねられた[やぶちゃん注:「嘆願して」、「はねられた」。彼に拒絶されたの意。どうも戶澤氏は読点がお嫌いらしいが、どうにも当たり前の日本語としては読み難い。]。艷書は絕えず送られたが、いつも返事はない。或は『岩が根枕』だの『面影に寄る浪』だの『別(わ)れても末に逢はんとぞ思ふ小川』だのと云ふ古典的な謎の樣な文句を書いたのもあり、又或は技巧を弄せずに、只だ打附けにしめやかで、初戀の告白の切なる情の溢れて居るのもあつた。

[やぶちゃん注:「羈絆(ほだし)」正しくは音で「キハン」。「羈」も「絆」も、「繋ぎ止める(綱・繩)」の意で。「つなぎとめること」。また、「行動する際の足手纏いとなること」の意。「ほだし」は、もと「馬を繋ぐ繩」のこと。

「禁制の情事」江戸時代は浄土真宗は教祖親鸞が妻帯を許し、自らも妻帯したことから、真宗の僧は一般的な僧侶の女犯の罪には問われなかった。浄土宗の開祖法然は僧の妻帯を許容する立場をとっが、自らは妻帯しなかった。さすれば、ここで狭義の「禁制」というのは厳密には当たらない。但し、本書刊行は明治二九(一八九六)年であるが、この頃までは、日本の仏教全体の僧の対して、その妻帯を仏教戒律上から禁制の破戒であると批難する傾向は、実際、仏教界内外に強くあった。しかし、明治三十年代に入ると、こうした批判は仏教界内部でも急速に力を失ってゆき、宗派を問わず仏教全般に僧の妻帯が当たり前となってゆくようになってゆくのであった。

「或は『岩が根枕』だの『面影に寄る浪』だの『別(わ)れても末に逢はんとぞ思ふ小川』だのと云ふ古典的な謎の樣な文句を書いたのもあり」原文“Some were written in that classical enigmatic style which speaks of “the Rock-Pillow of Meeting,”and “waves on the shadow of a face,” and“streams that part to reunite.””である。平井呈一氏は恒文社版「因果応報の力」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では、『そういう恋文のなかには、「逢うことの千曳(ちびき)の岩を枕にぞ」とか、「面輪(おもわ)によする仇浪の」とか、流れても末は一つの思い川」とか、いやうに古風な掛けことがの多い文句で書かれたものもあれば、』と如何にも小説家らしい心の行き届いた訳をなさっておられる。]

 こんな手紙にも初めの中は、若僧の心動かざること彼が似て居る佛像の樣に、人目には見えた。併し實の處彼は佛ではない、弱い人間に過ぎなかつた。そして彼の境遇は辛いものであつた。

 或る一人の少年が寺へ來て、一封の手紙を渡し、送り主(むし)の名を囁くが否や闇の中へ逃げて往つた。後で寺の納所坊主[やぶちゃん注:「なつしよばうず」。寺院で会計・庶務を取り扱う僧。]の證言に依ると、僧は其手紙を一誦[やぶちゃん注:「いちじゆ/いちしよう(いっしょう)」。僧だからと戶澤氏はかく訳したのだろうが、原文は普通に“read”で、こないなもん、「誦」(声に出して読む)するはずもなく、訳として不適である。]し、再び封筒に入れて、疊の上の座布團の傍へ置いたといふ。それから久しい間、默想に耽るかの樣にぢつとして居たが、やがて硯箱を出して、宗門の上長宛てに一書を草し、それを机の上に置いた。つぎに時計と汽車の時間表を見も。時間は少し早かつた。夜は眞暗で風が吹いて居る。暫く佛壇の前に平伏して祈禱を捧げた。さで闇を衝いて寺を出で、丁度時間に汽車の線路へ着いた。そして岬一發の急行列車が囂々と進み來る影を見ながら、線路の中央に跪づいた。つぎの瞬間には、鐡軌(レール)を血みどろにして橫たはつた彼の殘骸は、提灯の光で見ただけでも、疇昔[やぶちゃん注:「ちうせき(ちゅうせき)」。「昔日・昨日」の意。]の不思議な美貌の讃美者を絕叫せしめるに十分であつた。

 

 上長に宛てた手紙は發見された。それにはただ彼は精神の力を失つたのを感じて。罪を犯さぬ爲めに自殺と決心した旨を述べであつた。

 も一つの手紙が置いたままに、床の上に橫たはつて居た――其手紙は女言葉で書かれてあつて、片言隻語も悉く謙讓な愛の詞でないものはなかつた。凡ての艷書の如く(艷書は決して郵便には託されぬ)日附もなく、名もなく、頭字(かしらもじ)もなく、封筒にも宿處が書いてない。我々の佶屈な英語に譯すと、不完全ながらつぎの樣なものである。

[やぶちゃん注:以下、手紙の引用は底本では全体が一字下げである。但し、ポイントは本文と同じである。なお、「ちよつと」のルビは「一瞬時」三字に当てたもので、「不束な」は「ふつつかな」と読む。「可祝」は「かしく」で、女性の手紙の末尾に用いる結語の挨拶。「かしこ」の音変化。]

 

 かやうな事を申し上げるのは、大それた事でせうが、申し上げずに居られませんので此手紙を差し上げます。賤しい私は、過ぐる彼岸會の折にお姿を拜見してから物思ひを始めました。そしてそれからといふもの一瞬時(ちよつと)も忘れる事が出來ません。のみならず日增しに思ひの淵に沈む計りで、眠ればお姿を夢に見、覺めてお姿の見えぬ時は、心は闇で空虛で、ただ泣いて計り居ります。此世に女と生まれて來ましたからには、身分の高いお方にも、嫌はれまいといふ大それた願を起こしました、不屆をお許し下さいませ。及ばぬお方と知りつつ此樣に心を惱ますとは何といふ愚かな心なしの仕業で御座いませう。でも此心を押へ附ける事は迚も出來ぬと諦めましたので、其心の奥から出て來る不束な詞を、不束な筆に寫して御覽に入れるので御座います。何卒哀れのものと思召して下さい。お願ひで御座いますから、すげない御返事をお遣はし下さいますな。これもただただ卑しい胸から溢れ出たものと、不憫の奢に思召し、只だ切なさ遣る瀨なさの餘りに、厚かましくも、此文を差し上げる心の程を――お慈悲を以て――御推察の上御判斷下さいませ。お情深い御返事を、一日千秋の思ひでお待ち申し上げます。めでたく可祝。

  御存じの者より戀し懷かしの方樣まゐる。

 

       

 自分は佛敎に精延せる日本の友人を訪ねて、此出來事の宗敎的觀察に就て質問した。自分には、其自殺は人間の弱さの告白としても、壯烈な行爲と思はれたのであつた。

 然るに友人はさう思はなかつた。却つてそれを非難した。聞いて見ると、罪を遁れる爲めに、自殺を考へるだけでも、佛陀は之を精神的に――聖者と伍する資格なしとて――勘當したものだと云ふ。彼の[やぶちゃん注:「かの」。]自殺せる僧はといふと、釋尊が愚者と名づけた者の一に該當する。己れの肉體を破毀して、罪の源泉を破毀したと想像し得るのは愚者のみであるといふのである。

 『併し』自分は抗議した。『此人の生活は純潔でした――彼は、意識せずに、他人に罪を犯させない爲めに、自ら死を求めたと假定すれば如何でせう』

 友人は皮肉に微笑した、そして云つた。

 『昔、家柄のよい容貌も美しい日本の女で、尼にならうと思つた者がありました。或る寺へ往つて、望の程を述べた處が、住持の上人は彼女に云ひました。「御身はまだ若い。今迄殿中の生活をなされたさうな。俗人の眼には甚だお美しい。其お顏故に、俗界の快樂に還らうといふ誘惑が、何れ參るでござらう。且つ又御身の願ひは一時の悲嘆から起こつたものぢや。お望みを叶へる事は出來申さぬ」併し彼女は尙ほ餘り熱心に懇願したので、上人は寧ろ打棄(うつちや)るがよいと考へて往つて了(しま)つた。彼女は一人取り殘されて、見𢌞はすと室には大きな火鉢――眞赤におこつた炭火の――がありました。彼女は其處にあつた火箸を眞赤になる迄燒いて、それで恐ろしくも顏を突き刺して傷つけ、其美しさを永久に破壞して了ひました。其時上人は肉の燒ける臭氣に驚かされて、急いで來て見ると、此有樣を見附けて嘆きました。併し彼女は、聲さへ震るはさずに、再び懇願しました。「私が美しいからとて、お弟子には取らぬと仰せられましたが、今はお取下されませういか』其處で彼女は入道を許されて尼となりました……さて何方(どちら)が優れて居りませう、此女の方でせうか、それとも貴君が感服しておいでの若僧の方でせうか』

 『併し顏を傷つけて醜くするのが、あの際、彼の[やぶちゃん注:「かの」。]僧の取るべき義務でしたらうか』と自分は問うた。

 『そんな事はありません。此女の行爲でも、誘惑の防禦としてのみ爲したのなら、取るに足らぬものでしたらう。自己毀損はどんなのでも佛法では禁じてあります。彼女は其禁を犯したのです。併し彼女は直に道に入り得る爲めに顏を燒いたので、罪に抵抗する意志の弱さを燒いたのではありませんから、彼女の過失は小さい過失でした。之に反して自殺した僧は大罪を犯したのです。彼は彼を誘惑した女共を改心させ、道に導くべきであつたのです。彼は弱くてそれが出來なかつた。若し又僧として罪を避ける事が出來ぬと感じたら、屑よく[やぶちゃん注:「いさぎよく」。]還俗して、俗人としての戒律を持せんと試みる方がよかつ