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2019/12/09

小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「四」・「五」 / 日本文化の神髄~了

 

[やぶちゃん注:本篇の書誌その他は『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「一」』の私の冒頭注を見られたい。]

 

       

 日本の國民生活に於ける前記の不永存性と小規模とに對し、之に伴なふ何か代償的の長所があるのではないか。それを探究することは徒勞ではない。

 

 この國民性の極度の流動性はその特徵の著しきものである。日本國民はその微分子が斷えず循環してゐる一物質の樣である。而して其運動からして變はつてゐる。西洋諸國の人民の移動に比して、一點から一點に到る運動は微弱でも、全體に於ては大きく且つ變化に富んてゐる。その建前は又遙かに自然である。西洋文明には存在し得ぬほど自然である。歐洲人と日本人との移動の比較は、或る高速度の振動と或る低速度の振動との比較によつて示すことが出來る。但しこの場合高速度の方は人爲の力が加はつてゐることを示すが、遲い振動の方にはさういふ事はない。而して斯ういふ種類の上の差異には外觀以上の意義がある。或る意味では、米國人は盛んに旅行する國民だと自ら思つてゐてよい。が、又他の意味では、さう思ふのは信に間違つてゐる。一般の米囚人は、旅行する點に於ては、一般の日本人には及ばない。勿論諸國民の移動を比較するには、單に少數の有產階級のみでなく、大衆・卽ち勞働者を主として考へなければならぬ。國内に於ては日本人は文明人の中で最も盛んに旅行する國民である。彼等が最も盛んに旅行する人民であると云ふのは、彼等が殆ど山脈から成つてゐる國土にありながら、何等旅行に對する障碍を認めぬからである。日本で一番旅行をする者は汽車とか汽船とかに乘せて貰はんでも困らぬ手合である。

 我々に在つては、一般勞働者は日本の普通勞働者よりも遙かに不自由である。彼等はその種々の力が集團凝結の傾向を有する西洋の社會の複雜なる機關のために拘束せられるのである。彼等が倚存[やぶちゃん注:「依存」に同じい。]せぬばならぬ社會上產業上の機關が、自己の特殊の要求に應じて、彼等をして常に他の本然の能力を棄てて、或る特殊の人爲的能力を發達せしめるやうにするからである。

 彼等は單に勤儉によつて經濟的獨立を得る事を不可能にする樣な生活の標準で暮らさねばならぬ故にさうなのである。さうした獨立を得るためには、同じ束縛から脫しようと等しく努力してゐる幾千の異數の競爭者に優つた異數の性格と異數の材能とを有つてゐなければならぬ。約言すれば、彼等の特異な文明が機械や大資本の力を藉りずに生活してゆく彼等の本然の力を萎えさせたがために、日本人の如くに自由でないのである。斯く不自然な生活を營む事は、やがて獨立した移動の力を失ふ結果になる。西洋人が移動する前には色々な事を顧慮しなければならぬ。日本人の方は何も顧慮することはない、彼等は何の造作もなく嫌な所を去つて好な所に往くのである。何も彼等を妨げるものは無い。貧窮は障碍でなく、却つて刺戟である。荷物といふ程のものは無く、あつても數分間に始末の出來るものである。道の遠近などは何の事はない。彼等は一日五十哩[やぶちゃん注:「マイル」。約八十キロメートル半。]を苦もなく飛ばす脚を具へてゐる。西洋人の到底生活して往かれぬ樣な食物から、多分の榮養を攝取することの出來る不思議な胃囊を具へ、更に彼等は、未だ不健全な衣服や過多な便利品や爐やストーヴから暖を取る事や、皮の靴を穿く習慣によつて害せられてゐないので、能く寒暑や雨露を凌ぐ體質を具へてゐる。

 歐米人の履物の適否は普通に考へられてゐるよりも以上の意義を有つてゐる樣に思はれる。この履物が卽ち個人の自由の拘束を示してゐる。位格の高い事だけでも既にさうである。が、その樣式に於ては更に甚だしいものがある。歐米人の足は靴のために原の形から歪められて了つて、其目的のために進化し來たつた働きに堪へなくなつてゐる。其生理上の影響は足だけに止まらない。直接間接に移動機關に影響するのは當然、身體全部にその影響を及ぼす筈である。其弊害は全身だけで止まるであらうか。我々があらゆる文化の中に存してゐる最も愚劣な因習に從つてゐる事も、靴屋の橫暴に多年屈服し來たつた影響かも知れぬ。政治にも、風敎[やぶちゃん注:「ふうけう(ふうきょう)」。原文“social ethics”。「社会倫理」でよかろうが。]にも、宗敎制度にも、皮の靴を穿く習慣に多少關係のある缺陷があるかも知れぬ。肉體の壓屈に對する忍從は必らずや精神に對する忍從を助成する。

 普通の日本人――同じ樣な仕事にかけて西洋の職工よりは遙かに賃銀の安い日本の熟練工――は仕合せにも靴屋や仕立屋の世話にならぬ。彼等の足の恰好はよく、身體は健康で、心は自由である。彼が千里の旅行を思ひ立つたとすれば、五分間には旅の支度が出來る。彼の旅裝は七十五仙[やぶちゃん注:「セント」。前に述べた一ドル二万円として、一万五千円で高過ぎる。せいぜい二十五セントで十分だ。これは西洋人の旅装の最低金額を示したものかも知れぬ。]とはかからぬ。彼の手まはりは手巾[やぶちゃん注:手拭い。]一つに包める。十弗[やぶちゃん注:先の換算で現行の二十万円。]あれば一年の間働かずに旅が出來る。或は自分の腕だけでも渡つて步ける。或は又順禮[やぶちゃん注:「巡礼」に同じい。]して步く事も出來る。そんな事は野蠻人ならいくらでも出來る、といふかも知らぬ。其には相違ないが、文明人では誰れにも出來るとは言へぬ。而して日本人は過去少くも一千年来開明の民であつた。日本の職工が昨今西洋の製造業者を脅威する力を示してゐるのは是がためである。

 斯うして自由に移動し得ることを、我々は從來、歐米の乞食や浮浪人の生活と聯想することに馴れきつてゐたので、この事の眞の意義を正當に考へることが出來なかつた。我々は更に之を不潔と惡臭と云ふ樣な不快な事柄と聯想し來たつた。併しチェインバレン敎授が道破して居る樣に、『日本の群集は世界中で一番氣持ちがよい』[やぶちゃん注:ここで句点を打つべき。]浮浪人の如き日本の旅行者でも何厘といふ湯錢さへあれば每日入浴する。無ければ水で洗ふ。彼の包には櫛や小楊枝や剃刀や齒刷子が入つてゐる。彼は何事があつても鼻持ちならぬ樣になることはせぬ。行先へ着くと粗末ではあるが非のうてぬ着物を着た行儀のよいお客になりすます。

[やぶちゃん注:「チェインバレン」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年:ハーンとは同い年)はポーツマス近郊のサウスシー生まれ。参照したウィキの「バジル・ホール・チェンバレン」によれば、『彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり』、日本についての事典や文法書、「古事記」などの英訳、アイヌや琉球の研究でも知られる。『「王堂」と号して、署名には「チャンブレン」と書いた』。彼は若き日、『オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した』という(以下、アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。明治六(一八七三)年『五月二十九日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌一八七四年から一八八二年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。ついで一八八六年からは東京帝国大学の外国人教師となった。ここで彼は"A Handbook of Colloquial Japanese"(『口語日本語ハンドブック』、一八八八年)、"Things Japanese"(『日本事物誌』、一八九〇年初版)、"A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing"(『文字のしるべ』、一八九九年初版、一九〇五年第二版)などの多くの著作を発表した。"Things Japanese"の中で新渡戸稲造の著作』“BUSHIDO”に『触れているが』、『愛国主義的教授(nationalistic professor)と批判的である。さらに彼はW.B.メーソンと共同で旅行ガイドブックの『マレー』の日本案内版である"A Handbook for Travellers in Japan"(一八九一年)も執筆し、これは多くの版を重ねた』(「マレー」(John Murray)はイギリスの出版社。ダーウィンの「種の起源」を出版したことで私でさえも知っている当時の超弩級の出版元である)。『一九〇四年ごろから箱根の藤屋(富士屋)に逗留し近くに文庫を建てて研究を続けていたが、眼病にかかったため、一九一一年離日』し、この時、『東京帝大名誉教師となった。以降はジュネーヴに居住した。箱根宮ノ下では、堂ヶ島渓谷遊歩道を』「チェンバレンの散歩道」『と別称している』と記す。因みにまた、後にドイツに帰化した反ユダヤ主義の政治評論家で脚本家であったヒューストン・チェンバレン(Houston Stewart Chamberlain 一八五五年~一九二七年)は彼の末弟であり、彼は作曲家リヒャルト・ワーグナーの娘を妻としたことから、彼もワーグナー家と晩年、交流があったともある。なお、小泉八雲は親しかったが、晩年にはチェンバレンとは距離を置いたようである。引用は彼の名著「日本事物誌」(Things Japanese)の「Bathing」(入浴)の第61節(リンク先は英文ウィキソース)。]

 

註 日本人の集まつてゐゐ所はヂレイニヤムの花の樣な匂がする、と云ふエドウィン・アーノルド卿の評言を嘲笑しようとする批評家もあつたが、この形容は的中してゐる。「麝香」と呼ぶ香料は控へ目に使へば、ニホヒヂレイニヤムのかをりと取り違へられ易い。女子を交じへた日本人の寄合では、何時もほんのりとした麝香の匂がする。着てゐゐ衣類が少量の麝香を入れた簞笥の中に藏つて[やぶちゃん注:「しまつて」。]あつたからである。この軟かな匂の外には日本の群集には何の臭氣も無い。

[やぶちゃん注:「ヂレイニヤム」“geranium”。ゼラニウムのこと。フウロソウ(風露草)目フウロソウ科フウロソウ属 Geranium。同属には二百種類以上あるとされ、そのアロマは現在も好まれる。中でも精油を抽出し得る種群のものは薔薇のような香りがすることから「ローズゼラニウム」とも呼ばれる。

「エドウィン・アーノルド」(Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)はイギリスの新聞記者(探訪記者)・紀行作家・東洋学者・日本研究家・仏教学者・詩人として知られ、ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる。ウィキの「エドウィン・アーノルド」によれば、『キングス・カレッジ・ロンドンを経て、オックスフォード大学へ進』み、『卒業後、バーミンガムのKing Edward's School (KES) の校長とな』った。一八五六年、『東インド会社の斡旋でインド』の『プネーに開校されたサンスクリット大学に招かれ』、七『年間』、『校長を務めた』。『アーノルドは神秘思想の研究に専念したいと欲し』、『ブッダガヤを訪れて仏教彫刻を研究』、『インド滞在時にソローの引用したインドの経典『バガヴァッド・ギーター』を翻訳するなど、以後の研究材料を集めた』。一八六一年、『イングランドに戻り、『デイリー・テレグラフ』』(The Daily Telegrap)に入社し、以来、四十年に亙って、『『デイリー・テレグラフ』紙の記者を務め、後に編集長となるに至る。在任中にニューヨークに渡り、『ニューヨーク・ヘラルド』』(The New York Herald)『の記者の一員としてヘンリー・モートン・スタンリー』(Henry Morton Stanley 一八四一年~一九〇四年:イギリス・ウェールズのジャーナリストで探検家。アフリカ探検及び遭難したスコットランドの探検家デイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone 一八一三年~一八七三年)を発見した人物として知られる)『のコンゴ川探検に随行、エドワード湖の名付け親となる。その後、同世代最高の詩人として』、政治家セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes 一八五三年~一九〇二年:イギリス帝国の植民地政治家。南アフリカの鉱物採掘で巨富を得、植民地首相となり、占領地に自分の名「ローデシア」を冠した)『に認められた。アーノルドはその後、初代インド女帝ヴィクトリアより、イギリス領インド帝国が成立した後、爵位制度が公布されるに従って、ナイト爵に叙され』ている。『アーノルドはその後、文学活動を東アジア文学と英語詩の解釈に比重を置き、釈迦の生涯と故えを説く長編無韻詩『アジアの光』を刊行した。これはヒンディー語に翻訳され、ガンジーも愛読し、ジェームズ・アレンも引用している』一八八九年(明治二十二年)に『娘とともに来日し』、『日本の官吏・学者が開いた来日歓迎晩餐会の席上で』は、日本は「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」と称賛したという。『この後、福澤諭吉が自宅に招いて慶應義塾でアーノルドを住まわせ、物心両面にわたって援助を続けた。アーノルドは慶應義塾の客員講師となり、化学及び英訳を担当した』。『日本式の家に住みたいと希望し、福沢門下の麻生武平が所有する麻布の日本家屋に居を構え』、『滞在中に』三『番目の妻で』三十七『歳年下の黒川玉(Tama Kurokawa)と結婚した。また』、一八九一年には、アメリカの画家ロバート・フレデリック・ブルーム(Robert Frederick Blum 一八五七年~一九〇三年)の『挿絵とともに、『ヤポニカ』』(Japonica)『に日本の美を追求した紀行文を記している』。先の『バジル・ホール・チェンバレンとも交わり、日本各地を旅した』。『その後、ペルシャ、トルコ、タイを訪問して、仏教に関する翻訳を数多く手がけるようになる。東洋の典拠に基づいて、古今の仏教を徹底的に見きわめた価値ある論評を書き続ける。また、スリランカで仏教徒となった頃から菜食主義者となり、ロンドンにおける菜食主義の動きの発端となった』とある。「日本人の集まつてゐゐ所はヂレイニヤムの花の樣な匂がする」という出典は未詳。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「ニホヒヂレイニヤム」原文は“musk-geranium”。「musk」は「麝香」の意。ヨーロッパ南部原産で葉に芳香があるゼラニウム・マクロリズム Geranium macrorrhizumShu Suehiro氏のサイト「ボタニック ガーデン 草花と樹木のデジタル植物園」のこちらで草体と花が見られる。]

 

 家財もなく、道具もなく、さつぱりした衣類を少し持つて暮らせることは、日本民族が生存競爭に於て持つてゐる勝味を示すばかりでなく、歐米の文明に於ける弱點の本質をも示すものである。是は我々の日常生活に於ける必需品の徒に[やぶちゃん注:「いたづらに」。]多數なることを反省せしめずには措かぬ。我々は肉とパンとバタが無くては暮らせぬ。硝子窓と爐火、帽子、白シヤツ、毛の下着、深靴[やぶちゃん注:ブーツ。]、半靴[やぶちゃん注:通常の靴。]、トランクや鞄や箱類、寢臺、蒲團、シーツ、毛布が無くては暮らせぬ。何れも日本人が無くても濟ます、否實際、無くて却つて樂に暮らしてゐる品物である。假りに白いシヤツと云ふ金のかかる一項目に就いても、それは歐米の衣服の非常に大切な一部ではないか。而も『紳士の徽章』と謂はれるリネンのシヤツからして無用な衣類である。別に暖かくもなければ好い氣持ちでもない。これは歐米の服裝に於て、甞ては贅澤な階級差別の遺風であつたが、今では袖の外側に縫ひ附けてあるボタンの樣に無意味無用の長物である。

[やぶちゃん注:「リネン」“linen”。フランス語でlinière(リンネル)。亜麻の繊維を原料とした糸織物。強く、水分の吸収発散が早く、涼感がある。夏物衣料などに用いられる。]

 

       

 日本が成就した眞に偉大なる事蹟に對し、何等巨大なる象徴の無いことは、日本文明の特殊の作用を證明する。永久にその樣な作用を續けることは出來ぬが、今日までは然ういふ風にして驚く可き成功を收めて來た。日本は、我々が考へてゐる樣な大きな意味では、資本なくして生產してゐる。日本は本質に於て機械的人工的になることなくして產業的になつて來た。米の大收穫は幾百萬の微々たる農場から產出する。絹は幾百萬の小さい貧しい家庭から、茶は無數の小さい畠から產出する。京都に往つて世界に知られた陶磁器の大家、その人の作品が日本よりはロンドンやパリで更に名高い名工に、何か注文しに往つて見ると、その工場と云ふのは、米國の農夫なら到底住めぬ樣な木造の小さな家であらう。五吋[やぶちゃん注:「インチ」。十二・七センチメートル。]程の高さの品物に對して二百弗も取る樣な七寶燒の名人は大方小さな室六つ程の二階家の裏で、彼の稀代の珍品を拵へてゐる。全帝國に鳴り響いた日本で最上の絹の帶地は、建築費五百弗とはかからぬ建物の中で織られてゐる。仕事は勿論手織りである。然し機械で織つてゐる工場、遙か大規模の外國の工業を倒すほど精巧に織つてゐる工場とでも、少數の例を除いては、大して其より立派ではない。長い輕い低い一階か二階の小舍で、歐米に於て幾棟かの木造の厩を建てる位しかかかりさうもない。然し斯うした小舍が世界中に賣れる絹を作り出す。時によると、庭口の上に揭げた漢字が讀めるのでないと、聞き尋ねるか、機械の鳴くやうな音か何ぞで、漸くその工場と昔の屋敷や舊式の小學校舍との見別けがつく位のものである。大きな煉瓦の工場や釀造場もあるが、その數は至つて少く、外人居留地に接近してゐる時ですらも、四邊の景色と不釣合に見える。

 歐米の怪異的な大建築や、雜騷極りなき機械は產業資本の大なる結合によつて實現したものである。然るに斯ういふ結合は極東に於ては存在しない。その樣に結合せらる可き資本からして存在しない。假りに數世代の中に、斯の樣な金力の結合が出來上がるにしても、建築物の構造に於て同樣の結合を豫想することは容易でない。二階建の煉瓦造りさへ主なる商業の中心地に於て好成績を舉げなかつた。其上地震が日本をして永久に建築を筒單にすることを餘儀なくさせてゐるらしい。國土そのものが西洋建築の强制に反抗し、時には鐡道線路を搖り枉げ[やぶちゃん注:「ゆりまげ」。]、押し流して、新しき交通制度にすら反對する。

 斯く組織されるに至らないのは產業のみではない。政府までが同じ樣な狀態を呈してゐる。皇位の外何物も確立してゐない。不斷の變遷は國策と同一である。大臣も知事も局長も視學官[やぶちゃん注:旧文部省及び地方に置かれた教育行政官。地方に置かれた視学官は視学の統轄及び学事の視察や教員の監督を行った。]も、凡ての文武の高官が極めて不定期に、驚く程の短期間に異動し、群小吏員は其餘波によつて散亂する。自分が日本在住の初年を過ごした縣[やぶちゃん注:島根県。]では五年間に四人の知事を迎へた。熊本在住の間、大戰[やぶちゃん注:日清戦争。]の初まるまでに、彼の重要地點の師団長[やぶちゃん注:熊本鎮台の後身である大日本帝国陸軍第六師団のそれ。]が三度代つた。そこの高等學校は三年間に三人の校長を戴いた。敎育界に於ける更迭の頻繁なことは特に著しいものであつた。自分の在職中にすら、文部大臣の更まること四度、敎育方針の改まること四度以上であつた。二萬六千の公立學校はその管理上各地方合議に支配せられ、他の勢力の影響がなくても、議員の改選ごとに始終改變するを免れない。校長や敎員が常に轉々してゐる。僅に三十を越したばかりで、國内の大抵の府縣に奉職したといふ樣な者もある。斯ういふ事情の下に、一國の敎育が何等かの効果を收めたといふことは、實に奇蹟的と謂ふの外あるまい。

 我々は常に、凡そ眞の進步、大なる發達には、或る程度の安定が必要だと考へてゐる。が、日本は何等の安定もなくして大なる發達の可能なことの論破し難い證左を舉げてゐる[やぶちゃん注:行末で句点がない。]その理由は種々の點に於て歐米の國民性と正反對な國民性に存する。本來一樣に移動的なこの國民は、又一樣に感動し易く、大目的の方に舉國一致して進んだ。四千萬の全一團を、砂や水が風によつて形をなす樣に、その主權者の意向によつて形成せられるに任せた。而してこの改造を甘受することはこの國民生活の舊態、卽ち稀なる沒我と完全なる信義の行はれた往時の狀態に屬してゐる。日本の國民性の中に利己的個人主義の比較的に少いことは、この國を危地より救ふものであつた。この國民をして甚だしき優勢に對抗して自己の獨立を保つことを得しめた。之に對して日本はその道德を創生し保存した二大宗敎に感謝して可い。一つは己が一家又は自己を考へる前に先づ君と國とを思ふことを個人に敎へた神道と、今一つには、悲しみに勝ち、苦しみを忍び、愛する者の消滅と厭へる者の暴虐とを永久の法則として受け容れもやうに各個人を鍛鍊した佛敎とに感謝して可い。

 

 今日は硬化の傾向が見えてゐる。支那の呪であり弱味であつたと全然同樣な官僚主義の形成を誘致する樣な變化の危險が見える。新敎育の道德的効果は物質的の効果に比ぶ可きものが無かつた。純然たる利己と云ふ一般に認められた意味での『個人性』の缺如と云ふ非難は、つぎの世紀の日本人に對しては大方加へ得ぬであらう。學生の作文までが智力を單に進取の武器と見倣す新しい觀念と、甞てなかつた侵略的主我主義の情操とを反射してゐる。佛敎思想の消えなんとする名殘を胸中に留めて斯う書いてゐるものがある。『人生は本來無常である。昨日は富裕にして今日は貧困な者を屢〻見る。是は變化の法則による人間の競爭の結果である。吾人は競爭を免れ得ない。假令それを望まずとも、相互に鬪はなければならぬ。如何なる武器を執つて鬪ふべきか。其は敎育によつて鍛へられたる知識の劍を以てする』

 抑も[やぶちゃん注:「そも」。そもそも。]自我の敎養には二つの形式がある。一方は高貴なる性質の非凡なる發達に到り、他は之に就いて成るべく言はざるを可とするものを意味してゐる。然るに新日本が今攻究せんとしてゐるものは前者ではない。自分は人間の心情は、全國民の歷史に於いてもなほ、人間の理性よりは遙かに優つて貴重なものであり、人生のスフィンクスの凡ての殘忍な謎に答へるにも、比較に絕して勝つてゐることを、早晚示すであらうと信ずる一人であることを告白する。自分は今なほ、昔の日本人は、彼等が德に優れたることを智に優れたるよりも勝されりと考へてゐるだけで、歐米人よりも人生の難問題を解決するに近かつたと信じてゐる。終に臨んでフェルディナン・ブルンチエールの敎育に關する所論の一部を引用して結論に代へて見たい。

[やぶちゃん注:「フェルディナン・ブルンチエール」フェルディナント・ブリュンチエール(Ferdinand Brunetière  一八四九年~一九〇六年)フランスの作家・批評家。以下の引用元は不詳。]

 『一切の敎育的方策は、つぎに記すラメネーの名言の意味を人心に嵌入[やぶちゃん注:「かんにふ(かんにゅう)」はめ込むこと。]して之を深く印象しようとする努力が無いなら、無効に終はるであらう。「人間社會は相互の授與、卽ち人が人のために、或は各人が他の凡ての人々のために献身することに基づいてゐる。而して献身こそ凡ての眞の社會の要素である」然るに吾人はこの事を約一世紀間忘れ去らうとして來たのである。それ故、若し吾人が改めて敎育を受けることになれば、それはこの事を學ぶためにするのである。これを辨へねば、社會もなく敎育も無い。既存の目的が人を社會のために養成するのであるなら、たしかに然うである 個人主義は今日社會の秩序の敵であると同時に、敎育の敵である。初からさうであつた譯ではないが、さう成つて來たのである。永久に然うではないであらうが、今は慥にさうである。そこでこの個人主義を亡ぼさうとは努めぬまでも(さうするのは一方の極端から他の極端に陷ることになる)吾人は家族に對し、社會に對し、敎育に對し、國家に對して何をしようといふにも、個人主義に敵對してその事が行はれるのだ、と云ふことを認めなければならぬ』

[やぶちゃん注:「ラメネー」フェリシテ・ロベール・ド・ラムネー(Félicité-Robert de Lamennais 一七八二年~一八五四年)はフランスのカトリックの聖職者で思想家。キリスト教社会主義者でもあった。ラムネーの引用元は不詳。]

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