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2019/12/01

小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「六」・「七」 / 大阪にて~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」・「三」』の私の冒頭注を参照されたい。原本との章番号の差異は、原本自体の誤りであることは既に『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「四」・「五」』の「五」の前の私の注で述べた。

 

       

 私は前の論文で、日本の都會は木造の小屋の荒野に過ぎないといつた[やぶちゃん注:本作品集の前の「心」(“Kokoro”。明治二九(一八九六)年刊)の第二話“THE GENIUS Of JAPANESE CIVILIZATION”。「日本文化の神髄」の第一章の終りで“A Japanese city is still, as it was ten centuries ago, little more than a wilderness of wooden sheds”(「日本の都会は、未だに十世紀前のように、木造の小屋の荒野に過ぎない」)と言っている。後日、電子化予定。]。して、大阪もまたこの例に洩れない。しかし家屋の内部に於ては、いかなる日本の都合の脆弱な木造建築も、多くは美術的構造である。して、恐らくは大阪ほど多くの立派な住宅を有する都會はないだらう。京都は實際庭園については、一應富んでゐる――大阪には庭園を設ける餘地が比較的に乏しいから。しかし私はただ家屋についていつてゐるのである。外面だけでは、日本の町は木造の納屋とか、厩舍の並んだのに過ぎないやうであるが、その町の家屋の内部は驚くばかり美麗なことがある。普通日本家屋の外側は、往々一種の面白い奇異な形はあつても少しも美しくはない。して、多くの場合に於て、裏側または側面の塀は黑く燒いた板で蔽つてある。その焦げて、堅くなつた表面は、いかなるペンキ或は化粧漆喰よりも、よく熱と濕氣に抵抗するといはれてゐる。恐らくは石炭小舍を除いて、これほどくすぶつた風のものは想像し得られないだらう。しかし黑塀の内側の方は、審美的の趣向、人を歡ばすものがある。比較的低廉な住宅でも、この點に於ては左程影響を蒙つてゐない――何故といふに、最少の費用を以て最大の美を獲るといふことにかけては、日本人は萬國の民に優つてゐるからである。一方西洋國民の中で、最も工業的に進步せる、實際的の米人は、最大の費用を投じて最小の美を獲ることに成功してゐるだけである! 日本家屋の内部に關しては、モールス氏の『日本の家庭』から、大いに學ぶことができる。しかしその立派な著書でさへ、この問題について唯だ墨繪ほどの觀念を與へるに過ぎない。しかもかかる内部の美趣の半ば以上は、殆ど名狀し難き色彩の愛撫的魅力に存してゐる。色彩美を說明するやうにモールス氏の著書に挿畫を施すことは、ラシネー氏の著書、『歷史的服裝』の出版よりは、もつと費用のかかる、困難な事業であるだらう。假令さうしてさへも、常夏の感情を捉へて、それを保つやう工夫されたと見え乍ら、部屋の隅每に、人目を待つてゐる和らいだ明かるさ、完全な平靜、優雅纎細の祕密は、依然想像され得ないであらう。日本の活花といふ藝術を少々知つたため、西洋で私共が花束と呼んでゐる下品な、或は寧ろ粗暴なものを眺めるに忍びなくなつたと、私は五年前に書いた譯者註一。今日では、また私は日本室に親炙してきたので、西洋室は幾ら廣かつたり、便宜に出來てゐたり、贅澤に裝飾してあつても、嫌ひになつたといふことを加へねばならない。もし今、私が西洋の生活に歸つたならば、七箇年間仙鄕に暮らした後、醜惡と悲しみの世界へ再び歸つたトマス・ザ・ライマ譯者註二のやうに感ずるに相違ない。

 

譯者註一 本全集第三卷二一六――二一七頁參照。

[やぶちゃん注:落合氏が指示しているのはここ(“Internet Archive”の画像)で、私の電子化注では『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (二〇)』の全パートである。

   *

 屢々夜の街頭で、特に祭禮の夜、ある小さな小屋掛けの前を、全然無言で鑑賞し乍ら通つて行く群集の光景に、私共の注意は引かれるだらう。その小屋掛けを覗いて見る機會を得るや否や、私共はそこには唯だ敷個の花瓶に花の小莖、或は花樹から新たに剪つた、輕い優美な枝を插したのがあるばかりのことを發見する。それは單に小さな花の展覽會だ。或は一層正確に云へば、活花に於ける巧妙なる技倆の自由なる展覽だ。何となれば日本人は私共野蠻人がする如く、花だけを亂暴に切り取つて、それを集めて無意味な團塊にするのでない。彼等は自然を熱愛するから、そんなことをしない。彼等は花の自然の美は、いかに多くその背景と裝置如何に因り、その葉や幹に對する關係如何に因るものであるかを知つて居る。して、彼等は自然が作つたまゝの一本の優美な枝や莖を選擇する。門外漢なる外國人諸君は、最初は毫もかゝる展覽を理解しないだらう。かゝる點に關しては、諸君の周圍に立つて見てゐる日本の最も平凡な人夫に比してさへ、諸君はまだ野蠻人だ。が、諸君が未だこの簡單な小展覽會に對する一般的興味を不思議と思つて見てゐる内に、その美が諸君の上にも生じてくるだらう。一種の天啓となつてくるだらう。して、諸君の西洋的自己優越感にも關らず、諸君が從來西洋で見た一切の花瓣展覽會は、是等の簡素なる數莖の自然美と比すれば、怪醜畸形に過ぎなかつたといふことを悟つて、屈辱を感ずるだらう。諸君はまたいかに花の背後にある、白又は薄靑の屛風が、洋燈又は提燈の光によつて、花の效果を增してゐるかに氣が付くだらう。何故と云へば、屛風は植物の影の美しさを見せるといふ特別の目的を以て排列してあるからだ。して、その上に投ぜられた莖や花の影法師は、いかなる西洋の粧飾藝術家の想像よりも遙かに美しい。

   *

但し、同書の他の後の方でも、小泉八雲は同様のことを言っている。『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (二)』の冒頭で彼は、

   *

 日本人の花の活け方を少小[やぶちゃん注:「少々」に同じ。]――この技術を實地に知得するには、生來の本能的な美感の外に、歎年の研究と經驗が要るから、唯それを見たばかりで――學び得た後で、其後で始めて人は西洋人の生花裝飾の思想は、全く野卑だと考へることが出來る。この觀察は何等輕卒な隨喜渇仰の結果では無くて、内地に長く居住して樹立し得た確信である。自分はただ日本の熟練家だけがその活け方を知つて居るやうな風に――花瓶の中へ單に小枝を突き込むのでは無く、恐らくは剪伐(つみき)つたり姿を正したり、雅(みや)び極まる手細工をしたりに全(ま)る一時間の骨折をして――活けた、唯一本の花の小枝の言ふに言へぬ美はしさが解るやうになつて來たから、だから西歐人が『花束』と呼ぶものをば、花の野卑な虐殺であり、色彩觀念に對する凌辱であり、蠻行であり、言語道斷である、としか今は考へられないのである。それと稍々同じ樣に、またそれに似た理由で、古い日本の庭はどんなものであるかを知つてから後(のち)は、我が本國の費用を盡した庭を想ひ出すと、自然を犯す不釣合な物を創造するのに富なるのが、何を爲し遂げ得るかの無智な誇示としか考へられないのである。

   *

と述べているのである。]

譯者註二 十三世紀に蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコットランド」。]ペリクシヤー州に住んでゐた名物男。豫言的の詩を作つた人。仙女に愛せられ、數年をその女の許でくらしたと云はる。

[やぶちゃん注:「モールス氏」エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は明治期に来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者でメーン州生、少年時代から貝類の採集を好み、一八五九年から二年余り、アメリカ動物学の父ハーバード大学教授であった海洋学者ルイ・アガシー(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になった。主に腕足類のシャミセンガイの研究を目的として(恩師アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたことへの疑義が腕足類研究の動機とされる)、明治一〇(一八七七)年六月に「お雇い外国人」として来日、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となった。二年間の在職中、本邦の動物学研究の基礎をうち立てて東京大学生物学会(現日本動物学会)を創立、佐々木忠次郎・飯島魁・岩川友太郎・石川千代松ら近代日本動物学の碩学は皆、彼の弟子である。動物学以外にも来日したその年に横浜から東京に向かう列車内から大森貝塚を発見、これを発掘、これは日本の近代考古学や人類学の濫觴でもあった。大衆講演では進化論を紹介・普及させ、彼の進言によって東大は日本初の大学紀要を発刊しており、また、フェノロサ(哲学)やメンデンホール(物理学)を同大教授として推薦、彼の講演によって美術研究家ビゲローや天文学者ローウェルが来日を決意するなど、近代日本への影響は計り知れない。モース自身も日本の陶器や民具に魅されて後半生が一変、明治一二(一八七九)年の離日後(途中、来日年中に一時帰国、翌年四月再来日している。電子化本文第一段落目を参照)も明治一五~一六年にも来日して収集に努めるなど、一八八〇年以降三十六年間に亙って館長を勤めたセーラムのピーボディ科学アカデミー(現在のピーボディ博物館)を拠点に、世界有数の日本コレクションを作り上げた。その収集品は以下に示す“Japanese Homes and Their Surroundings”や「日本その日その日」とともに、近代日本民俗学の得難い資料でもある。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の「モース」の項の執筆者であられる、私の尊敬する磯野直秀先生の記載で最後に先生は(コンマを読点に変更させて戴いた)、『親日家の欧米人も多くはキリスト教的基準で日本人を評価しがちだったなかで、モースは一切の先入観を持たずに物を見た、きわめて稀な人物だった。それゆえに人々に信用され、驚くほど多岐にわたる足跡を残せたのだろう』と述べておられる。私は実は彼が三十年以上前の日記とスケッチをもとに、一九一三年(当時既に七十五歳)から執筆を始め、一九一七年に出版した“Japan Day by Day”(「日本での日々」)を石川欣一氏(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年:ジャーナリスト・翻訳家。彼の父はモースの弟子で近代日本動物学の草分けである東京帝国大学教授石川千代松)が大正六年に翻訳したものを、ブログ・カテゴリ『カテゴリー「「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳』で全図版入りで全電子化注を二〇一六年二月に終えている。

「日本の家庭」モースが帰国後に刊行した“Japanese Homes and Their Surroundings”(「日本の家屋とそれらの環境」)。日本家屋を多数のデッサンや図表を用いて判り易く解説したもので、一八八五年(明治十八年)に出版された(但し、出版年には書誌に微妙な違いがあり、英語版ウィキの“Edward S. Morseでは一八八五年初版の一八八八年(ハーパー社)の再版版を掲げ、日本版ウィキの「エドワード・S・モース」ではただ一八八五年とする。出版経歴を精査された磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の三〇九~三一〇頁の記載に拠ると、一八八六年(明治十九年)となっているであるが、その記載を見ると、『以前からの取り決めにしたがって』、雑誌『ピーボディ科学アカデミー紀要』『の一冊として刊行されるとともに、イギリスの出版社を含めた三社から出版され』たとある。磯野先生には失礼ながら、ここで『とともに』と述べておられるものの、実はメジャーに公刊される前の紀要版初版のそれは、実は一八八五年に刊行されたものなのではなかろうか?)。訳書としては図版の大きさから、斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)をお薦めする。実は、先に示したブログ・カテゴリ『カテゴリー「「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳』でも同書にへの言及が数多く見られ、私はそれらについても可能な限り、本書の原文や図版を引用している。目ぼしいものを以下に掲げておく。絵を見るだけでも損はない(章題より後の部分は私が勝手に添えたものである)

「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 7 行灯 附“Japanese Homes and Their Surroundings”より「畳」の原文・附図と私の注」

同「第三章 日光の諸寺院と山の村落 5 美しい日本間と厠」

同「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 20 東京の住宅について」

同「第十一章 六ケ月後の東京 13 芝離宮」

同「第十三章 アイヌ 20 室蘭へ」

同「第十六章 長崎と鹿児島とへ 元垂水」

同「第十七章 南方の旅 欄間」

同「第十七章 南方の旅 京都にて 3 蜷川式胤実家」

同「第二十章 陸路京都へ 箱根寄木細工」

同「第二十章 陸路京都へ モース先生茶の湯体験記 その一」

同「第二十五章 東京に関する覚書(22) 変わった袖垣のある家」

同「第二十六章 鷹狩その他 (7)下駄箱」

なお、同書原本総てを見たい方は、Internet Archive”のこちらの版がよかろうかと存ずる(最初の図版ページをリンクさせた)。

「ラシネー」フランスの画家でイラストレーター、文化史家でもあったアルバート・チャールス・オーギュスト・ラシネ(Albert Charles Auguste Racinet 一八二五年~一八九三年)。

「歷史的服裝」ラシネが一八八八年にパリで出版した“Le costume historique”(「服装史」)。約五百葉の版画・三百葉の彩色画・二百葉のモノクロ画で、主な歴史的衣服・装飾品・インテリア・日常品等を描いたもの。グーグル画像検索「Albert Charles Auguste Racinet Le costume historiqueをリンクさせておく。素晴らしい色彩である!

「トマス・ザ・ライマ」“Thomas-the-Rhymer”(原文表記)は「小泉八雲 赤い夕日 (岡田哲蔵訳)」で既出既注。]

 

 世間で唱道されてゐる如く(尤も私はそれを信じ得ないけれども)、西洋書家は日本畫の硏究からさほど學ぶべきものがないといふ事は、ありうるだらう。しかし西洋の家屋建築者は、日本室の硏究から、莫大の事實――特に壁面の處置と着色法について――を學ばねばならぬと、私は確信する。これらの無數の室内樣式が、分類され得るか否かも、私には疑はしいやうに思はれる。十萬戶の日本家屋に就いて、二戶の内部が全然同一の場合はあるまいと、私は思ふ(勿論、極めて貧しい者の家屋を除いて)――何故といふに、設計家は避けうる場合には、決して同一設計を繰り返さないから。彼が敎へる敎訓は、種類の無盡藏なる變化と結合せる完全なる趣味といふ事である。趣味! それは私共の西洋の世界に於て、何といふ稀有の事だらう! また、それはいかに材料の如何を問はざる、直感的な、俗物に傳へ難いものだらう! しかし趣味は日本人の生得權である。それは到る處に存してゐる――たとひ境遇に隨つて、且つまた境遇に基づく遺傳に隨つて、發達の量を異にするとも普通一般の西洋人は、ただその比較的平凡な方の形式――主として輸出貿易によつて見馴れた種類――を認めるだけである。して、槪して西洋人が日本の因襲的趣味の中で、最も歎賞するものは、日本では寧ろ劣俗と見倣されてゐる。それは西洋人が、苛も本來美麗なものを歎賞するのが、間違つてゐるといふのではない。代價二仙[やぶちゃん注:「セント」(cent)。百セントが一ドル。当時の換算だと現在の三百円ほど。]の手拭に染め出した意匠さへ、眞に優れた畫のこともある。それは時としては、立派な美術家が描いたものなのである。しかし最高な日本趣味の貴族的嚴正――均勢、性質、調子、抑制など諸條件の決定に於ける、その精巧絕妙なる複雜――に至つては、未だ嘗て西洋人の夢想だもせざる處である。この趣味が天晴れ立派に發揮されてゐるのは――特に色合に關しては――私人の邸宅内部に及ぶものはない。一組の部屋の裝飾配置に於ける、色彩の規則は――たとひ餘程の種類を許容するにせよ――衣服の問題に於ける色彩の規則にも劣ることなく嚴密なものである。一私宅の色合の調子だけでも、その主人の修養程度を示すに充分である。ぺンキ塗や、ワニシ塗はなく、壁紙も張つてない――ただ特別な部分に色を着けたり、磨きをかけたり、また掃除や塵掃ひの際の用意として、壁の底に沿つて約一尺五寸ほどの高さに、一種の紙の緣を施しただけである。漆喰はさまざまの色の砂や、貝殼と螺畑の斷片や、水晶片や、雲母で製せられる。壁面は花崗岩を眞似たり、黃銅鑛の如くきらめいたり、濃厚な樹皮の塊に彷彿したりしてゐる。しかし原料は何であらうとも、その發する色合は、羽織や帶に用ひる絹の色合に於けると、同一の完全無缺な趣味を示さねばならない。……この美の内部世界――正しくそれが内部世界であるがために――は、一切まだ外來の漫遊者には鎖されてゐる。外來者は漫遊中、古風な宿屋とか、茶店を訪問するときに、そこの室内に於て、精々その暗示を發見しうるだけである。

[やぶちゃん注:「ワニシ」ワニス。英語は「varnish」で「ヴァーニッシュ」の発音なので「ワニシ」は誤りではない。天然樹脂若しくは人造樹脂を、油性溶剤或いは揮発性溶剤に溶解させた塗料で、乾燥すると硬く透明となり、耐温湿性と絶縁性に富む塗膜となるため、油彩画・ヴァイオリン・床・帆柱・木工家具の仕上げや針金の被覆・紙鑢(やすり)の結合剤などに用いられる。]

 西洋の旅客中、日本の宿屋の妙味を解したり、或は單に身𢌞はりの世話についてばかりでなく、美しいものを作つて、眼をも娛ましめて、宿泊を愉快にするやう、大いに盡くされてゐることを考へる人が、幾らあるか知らんと私は思ふ。瑣々たる、癪に觸はつた事柄――彼等が蚤に攻められた實驗談や、彼等の親しく遭遇した不快なことども――を書いてゐる人は澤山ある。しかし每日新しい花が備へられ――いかなる歐洲の花屋も企及し得ないやうに活けられ――且つ屹度靑銅か、漆器か、陶器など、其の美術支那が置かれ、これに添ふるに季節の感情に適はしい一幅の畫を以てせる床の間の妙趣を書いてゐるものは、幾人あるだらうか? これらの瑣末な美的の待遇は、決して宿屋から代價を要求してゐるのではないけれども、茶代を遺る場合、これに對する、親切な心持ちを含ませるのが當然である。私は幾百軒の日本の宿屋へ泊まつたが、何等珍異なもの、または綺麗なものを見出し得なかつたのは、一軒しかない――それは新聞の鐡道驛で、客を捉へるため急造された、ぐらぐらした避難所のやうな宿屋であつた。

 大阪の私の宿に於ける、床の間について一言する――壁は砂と一種の鑢屑[やぶちゃん注:「やすりくづ」。“metallic filings”。]のやうなものを混ぜて塗つてあつたが、銀礦の美しい表面の如く見えた。床柱に結んである竹の花瓶には、一本は淡紅、他の一本は白の、美しい花盛りの、一對の藤の枝が挿してあつた。掛物――雄勁奔放、墨痕淋漓たる名家の揮毫――には、互に道を避けかねて、まさに鬪はんとする二匹の大きな蟹が、寫してあつた。して、『橫行世界』と題せる漢字によつて、畫興更に一段を加へてゐた。その意味は『世の中のことは、一切よこしまに行く』

 

譯者註 蟹の步き振りが傍若無人と見立てて、「橫行世界」と題せる讚句を、「世事すべて邪行す」といふ意味に取つてあるのは、通辯者[やぶちゃん注:小泉八雲に大阪行に随伴した通訳。]の誤解とすれぱ、面白い誤解でゐゐ。しかし或は先生が、意識的に特にこのやうな解釋を選ばれたのかも知れない。いづれにしても。この橫へそれた解釋、人生一般的に特に廣い解釋の方が、文趣更に一段を加へてゐる。

[やぶちゃん注:恐らくはその画幅に書かれていたのは「橫行天下」ではなかったか? 所謂、世界を勝手次第に自由に闊歩するの謂いではあるまいか? ただ、そこに横這いしか出来ない蟹が対面した絵を配したのは俳味に富んで面白いと私は思う。]

 

       

 私の大阪滯在に於ける最後の日は、買ひ物に費やした――それは主もに玩具屋と絹布商の方面であつた[やぶちゃん注:「二」に『玩具製造者は南久寳寺町と北御堂前』、『反物商は本町』とあった。位置はそちらの私の注を参照されたい。玩具屋は長男一雄と巌のため、後者は妻セツのためであろう。]。或る日本の知人が、自身も商人であるが、私を伴れて𢌞つて、私の眼が痛んでくるまで珍らしい物品と見せた。私共は有名な絹布商店へ行つた――群集が非常に雜沓を極めてゐたので、日本の店に於て、椅子と勘定臺を兼ねた疊の吊床[やぶちゃん注:「つりどこ」。上の方は床の間の形に造ってあるが、下の床板がなく、座敷の畳がそのまま続いている簡略な床の間。「壁床」とも呼ぶ。]へ押し分けて達するのが、可也の骨折りであつた。そこで幾十人の踝足[やぶちゃん注:原文“barefooted”であるから、「裸足」の誤植と思われる。]の輕快な少年が、走つて商品の束を顧客へ運んでゐた。何故といふに、かやうな商店では、商品を棚へ載せて陳列するといふ事がないからである。日本の販賣員は疊の上の彼が坐つてゐる場處を離れない。彼が客の欲するものを承つてから叫んで命令を發すると、少年が間もなく兩腕で一杯見本を抱へて走つてくる。客が選擇をした後に、擴げられた商品は、また少年の手で卷いて收められ、店の背後の耐火倉庫へ運び去られる。私共の訪問の際、疊の吊床の大部分は、さまざまの色、種々の代價の絹布や天鵞絨[やぶちゃん注:「ビロード」。]が、投げ散らされて、絢爛陸離[やぶちゃん注:「りくり」。美しく光り煌(きら)めくさま。]たる混沌を展開してゐた。玄關の近くに、福の神のやうに肥つて、陽氣な顏の、稍〻老いた監督[やぶちゃん注:番頭であろう。]が、繰り込む客を注意してゐた。二人の鋭い眼付の男が、店の中央の臺に立つて、ゆるゆる反對の方向へと轉じながら、窃盜の見張りをしてゐた。また他の番人も、橫の入口に陣取つてゐた。(序に、日本の萬引は甚だ巧妙である。大抵の大商店が、一箇年間に、彼等のために蒙る損害は、可也に多額だと、私は告げられた)店の側翼の建物の、低い天窓の下には、高さ二尺にも足らぬ小さな机を前にして、ずらりと並んだ簿記係、會計係、通信係が忙殺されつつあるのを、私は見受けた。夥しい販賣係は、銘々同時に澤山の客に應接してゐた。商賣の多忙さは烈しかつた。しかも執務の迅速は、組織の徹底的の完全を證明した。私はこの店が幾何[やぶちゃん注:「いくか」。]の人を使用してゐるかを尋ねた。して、私の知人は答へた――

 『多分ここには二百人もゐませう。まだ數個の支店があります。この店では、仕事が餘程つらいのです。しかし勤務時間は、普通の他の絹物商店よりも短くて、一日十二時間を越えることはありません』

 『給料は何うです?』と、私は質ねた。

 『給料はありません』

 『この店の一切の仕事は、無報酬で行はれるのですか?』

 『多分一人や二人、極上手な販賣係は、少しばかり貰つてゐませう――給料といふのではありませんが、每月少額の特別報酬です。それから、老監督(あの人はここに四十年も勤めてゐます)は、給料を受けてゐます。その他のものは食料以外、何も貰ひません』

 『よい食料ですか?』

 『いえ、極安い、粗食です。誰れでもここで年季奉公――十同年乃至十五年――を勤めた舉句には、自分で獨立して一軒の店が持てるやう、補助を與へられることになります』

 『大阪のすべての商店で、みなこんな情況ですか?』

 『さうです――何處でも同樣です。しかし今頃は澤山の丁稚が、商業學校の卒業生です。商業學校へ送られたものは、餘程遲くなつてから奉公を始めます。そして、子供から敎へ込まれたやうな、よい丁稚にならぬといふことです』

 『外國商館に傭はれてゐる日本人の店員は、もつと立派に暮らしてゐますよ』

 『私共はさつ思ひません』と、私の知人はきつぱり云つた。『成程、英語を上手に喋つて、外人の取引のやり方を知つてゐるものは、一日に七時間か、八時間働いて、一箇月五六十弗を貰ひますが、待遇が日本の商店で受けるのとちがひます。怜悧な人は外人の下に働くことを好きません。外人は日本人の店員や召使を非常に虐待したのです』

[やぶちゃん注:この人物のドル換算はおかしいと思う。当時の為替レートでは一ドルはほぼ二円であるから、五十ドルでも百円に相当し、明治三十年代の一円を現在の二万円相当とする推定に則れば、二百万円になり、あり得ない。二万円は高い換算額であるにしても、明治二十八年当時(本書刊行は明治三〇(一八九七)年)の大卒初任給が二十円、給与所得者年収二百四十四円であるから、如何に外国商館勤務でもこんなには貰えていないはずである。]

 『しかし今はさうではないのですか?』と、私は尋ねた。

 『多分あまり虐待しますまい。それは危險だと知つたのです。しかし昔は擲つたり[やぶちゃん注:「なぐつたり」。]、蹴つたりしたものです。日本人は丁稚や召使へ不親切な言ひ方をするのさへ、恥づかしいことと思つてゐます。ここのやうな店には、不親切な待遇といふことは、少しも存在してゐません。主人も監督も決して粗暴な言葉を發しません。御覽の通り、大人も子供も無給料で、

このやうに勉强して働いてゐます。外人がたとひいくら澤山の給料を出しても、こんな風に日本人を働かせることはできませんよ。私も外同商館で働いて、知つてゐます』

 日本の商賣や、技巧を要する工業に於て、氣の利いた奉公振りは、大抵無給だといつても過言ではない。恐らくは、全國の商賣仕事の三分の一は、賃銀なして行はれてゐるだらう。主從の關係は、双方の側に於ける完全なる信任となつてゐる。また道德的狀態の最も低級なものによつてさへ、絕對服從が確實に守られてゐる。これは私の大阪滯在中、最も深く印象された事實であつた。

 奈良への夜行列車が、大都會の賑やかな喧囂から私を運び去りつつある際、私はこの事實について不思議がり乍ら考へてゐた。私は數里に亙る屋根の上にてゐる上に――惠み深い仁德天皇の宮へ、永遠に煙の供物を捧げつつある、幾多工場の林立せる煙突の上に――夕闇が深くなりつつ行くのを眺めながら、猶ほそれを考へつづけた。不意に、無數の軒燈がきらめいてゐる上に――電燈が白い星の如く點々たる上に――次第に增し行く暗がりの上に――私は夕陽の名殘の赤い光の中へ輝いて聳立せる、堂々たる天王寺の古塔を見た。して、その塔の象徴せる信仰が、日本の最も偉大な都會の、あらゆる富と元氣と力の根抵なる、忍從と愛と信賴の精神を作ることを助けたのではないだらうかと、私は自ら尋ねてみた。

 

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