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2019/12/04

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「四」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」』の冒頭の私の注を参照されたい。]

 

       

   『無存は大乘の入口に過ぎない』
    ――『大品經意』
   『師波よ、眞實の事を語る者はどうして
    自分の事を「※曇は寂滅を說く、寂滅
    の敎を敎へる」と云ふのであらう。師
    波よ、自分は肉欲、惡意、煩惱の寂滅
    を說く、自分は惡にして、不善の(心)
    の色々の狀態の寂滅を說く』
    ――『摩訶婆拘』四卷三一章七節。

[やぶちゃん注:「※」=(上)「賏」+(下)「隹」。音不明。「※曇」の小泉八雲の英文原文は“Samana Gotama”である。これは恐らく固有名詞ではなく、「沙門」で「男性の修行僧」の謂いである。

「無存」原文は“Non-existence”。「無」・「非存在」・「非在」。

「大品經意」「大品経」は「大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)」則ち、後秦の鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の「摩訶般若波羅蜜経」(まかはんにゃはらみつきょう)のことだが、これはその注釈の謂いか。

「師波」原文“Siha”。パーリ語の「先生・師」の意の漢訳かとも思ったが、判らぬ。

「摩訶婆拘」原文“Mahavagga”。これは上座部仏教の「パーリ仏典」の「パーリ律」において、出家修行者(比丘・比丘尼)が属する僧伽(僧団)内の作法・規則及びその由来を説いたパートである「犍度」(けんど/パーリ語ラテン文字転写(以下同じ):khandhaka:カンダカ)の中の大品(だいほん/Mahā-vagga:マハー・ヴァッガ)のこと。]

 

 『人[やぶちゃん注:原文のローマ字では「にん」。]を見て法を說け』と云ふのは、佛法は相手の能力に應じて說かるべき物である事を敎ふる日本の諺である、そして佛敎の大系統は實際學ぶ者の智力程度に應じて順次に進步的階段(普通は五段)に分けてある、或はその他の方法で學ばれるやうにしてある。それから色々の宗門及びそこから分れた宗派にも特別に色々の敎理があるから、――滿足な佛敎の本體學大意をつくるためにはこれ等の澤山の敎義の間に、重要なそして衝突しない總合をつくる事が必要である。普通の[やぶちゃん注:「一般の日本人が認識している」の意。]佛敎は私共が講究してゐたやうな槪念を含んでゐない事は云ふまでもない。人々は本當の輪𢌞と云ふもつと簡單な信仰を固守する。人々はを前生で犯した過[やぶちゃん注:「あやまち」。]の罰或は報[やぶちゃん注:「むくい」。]をなす法則と解して居る。人々は涅槃について餘り心を勞しない、それよりは極樂の方をもつと考へる。極樂と云ふのは多くの宗門の人々が、直ちに來世に於て、善い人々の魂によつて受けられると信ずる物である。近代の宗派のうちで、最大のそして最も富んだ宗門――眞宗――の信者は阿彌陀佛の助けによつて、正しい人は死後直に西方淨土――蓮華の極樂――に行かれると信じて居る。私はこの小さい硏究に於て一般の信仰、或は單に一信仰に固有の敎理の說明をするのではない。

 

註 私は因果、極樂、後生、――或はその外そのやうな言葉を聞かない日は一日もない。しかし普通の人で「涅槃」の言葉を使ふのを聞いた事はない、そして涅槃のやうな事について質問して見るといつもその哲學的の意味は分つてゐない事を發見した。それに反して日本の學者は涅槃を實在として、――極樂を一時的の狀態或は寓話として話す。

[やぶちゃん注:「佛敎の大系統は實際學ぶ者の智力程度に應じて順次に進步的階段(普通は五段)に分けてある」何を指して言っているか不明。旧天台教学などの「五時教」(釈迦一代の教説を五つの時期的展開として分類し、経典解釈に対応させたもの)辺りから引っ張り出したものか。]

 

 しかし涅槃に到達する事については、高い敎理にも色々の相違がある。或人はその最上の福德はこの世でも得られる、或は少くとも見られると云ふ、又或人はこの現在は餘りに腐敗して居るから完全な生涯はできない、ただ善根を積んで、もつとよい世の中に再生する特權を得て、最高の福德に達するその聖さを得る機會を望む事ができるだけだと云ふ。もつと優れた生存の狀態を他の世界に置くこのあとの方の意見は、日本に於ける現代の佛敎の一般の思想をよく表はして居る。

 

 人間と動物の生存狀態は所謂欲界に屬する、――その數が四つある。その下に地獄がある、それについて多くの不思議な事が書いてある、しかし欲界も地獄もその小論文の目的と關係して考へるには及ばない。私共はただ人間界から涅槃までの精神進步の行程に關係があるだけである、私共は現代佛敎と共に、死生を返る巡禮は、少くとも人類の大多數に取つては、この地上に於て最高の狀態に到達したあとまでも續かねばならない事を假定する。この行程はこの世の狀態から、外の優れた世界にまで及んで居る、――先づ六つの欲天から、――それから十七の色界を通つて、――そして最後に四つの無色界を通る、――そのさきに涅槃がある。

[やぶちゃん注:これでは「欲界」内に「四」パートがあって、「その下に地獄がある」とあるが、それはおかしい。「欲界」、則ち、本能的欲望、淫欲と食欲を属性として有した衆生が住む世界(それが上位の色界及びその上の無色界の下に位置するというのは正しい)は、「八大地獄」から「六欲天」(上から他化自在天(たけじざいてん)・化楽天(けらくてん)・兜率天(とそつてん)・夜摩天(やまてん)・忉利天(とうりてん)・四大王衆天(しだいおうしゅてん))であり、「地獄」もそこに含まれ、所謂、六道、他の「餓鬼」・「畜生」・「修羅」・「人間」・「天上」の各道が総て欲界に含まれるからである。さすれば空間のそれを言うなら「地下世界」と人の「地上世界」と、「空中世界(天界)の内の最下層界」=六欲天とで三パートが、細かに区分けを数えれば、「六欲天」と「六道」で十二パートが欲界に属することになるからである。

 肉體生活の要求――食物、睡眠、男女關係の必要――は欲界で引續き感ぜられる、――私共が『天』と云ふ言葉で普通理解する物より、もつと高い實際界であるらしい。實際そのうちの或境遇は私共自身の世界よりはもつと惠まれた行星――もつと有難い太陽によつて溫められるもつと大きな天體――に存在すると想像されるやうな境遇である。そして或佛經のうちには事實これを遠く離れた星座のうちに置く物もある、――そしてこのは星から星へ、銀河から銀河へ、宇宙から宇宙へ存在の限度まで通じて居ると云ふ

 

註 この存在の高等な境遇或はその他の「佛土」の天文學的限定は讀者の微笑を促すかも知れないが、實は否定のできない可能性をもつて居る。

 

 四王天[やぶちゃん注:「六欲天」の「四大王衆天」の異名。以下同じ。]と云はれるこのところの諸天の第一では、生命は年の數ではこの地球より五倍長く續くが、その一年はこの地球の五十年に相當する。しかしその住民は飮食や結婚の習慣は人間と同じである。そのつぎの天、三十三天[やぶちゃん注:=「忉利天」。]では生命の長さが倍になる、同時に外の一事情がそれに應じて進步する、そして下等な種類の感情はなくなる。男女の結合はやはりあるが、しかもクリスト敎の或長老が可能になる事を願つたやうな風、卽ち、――ただ抱擁だけで新生命を生ずるやうになる。第三天(焰摩天と云ふ)[やぶちゃん注:=「夜摩天」。]では生命の長さは再び倍になつて、最もかすかな觸でも生命を創造する。第四天或は滿足の天(都史多天)[やぶちゃん注:「としたてん」。=「兜率天」。]では生命の長さはさらに增加する、第五天、或は化樂天では、不可思議な新しい力が得られる。主觀の快樂は意の如く客觀の快樂に變はる、願も思想も創造の力となる、――そして見ると云ふ行爲でも受胎出生の原因ともなる。第六天(他化自在天)では、第五天で得られた力がさらに發達する、そして客觀的快樂に變はつた主觀的快樂は、――實際の物のやうに、――外の人にも贈られ、或は外の人とも分つ事ができる。しかし、一瞬の眺め、――眼の一瞥、――は新しいをつくる事ができる。

 欲界は凡て肉體的生活の諸天である、――美術家と愛人と詩人の夢に答へさうな諸天である。しかし落ちないでそれを通り越す事のできる人は――(そして云つて置くが、落ちる事はむづかしくはない)――超肉體的地帶に入る、そして先づ入るところは有心有事靜慮或は客觀の諸天である。それには三つある、――銘々にそれぞれ前のより高尙で、――梵衆天梵輔天[やぶちゃん注:「ぼんほてん」。]、大梵天と名づけられて居る。その次に無心無事靜慮と云ふ諸天が來る。それにも三つある、その名にはそれそれ少光無量光光音光或は朗音光と云ふ意味がある。ここでは一時の境遇に可能である最高度の超肉感的歡喜が得られる。その上に隨喜靜慮と名づくる境遇がある。そこには喜びも苦しみも、或は何の種類の强い感情も存在しない、ただ靜かな消極的な歡喜、――神々しい平靜の歡喜があるだけである。これ等の天よりもさらに高いのは隨喜樂靜慮の八界である。それは無雲天福生天[やぶちゃん注:「ふくしやうてん」。]、廣果天無煩天[やぶちゃん注:「むぼんてん」。]、無熱天善見天善現天色究竟天[やぶちゃん注:「しきくきやうてん」。]である。ここには快樂と苦痛、名と形は全くなくなる。ただそこには觀念と思想が殘るだけである。

 

註 讀者はこの考によつて、スペンサー氏の平靜の美しい定義を思ひ出す、――「平靜は無數の色から成立して居るが無色である白色に喩へられる、同時に樂しい又苦しい心の氣分は或光線の割合を增して、他の光線の割合を較減ずる事の結果である光の變化に喩へる事ができる」――「心理學原理」

[やぶちゃん注:「有心有事靜慮或は客觀」原文“Ujin-ushi-shōryo, or Kak-kwan”。「靜慮」(せいりょ)は「精神を集中させる境地」を指し、「禅那」「禅定」などとも言われる。この三つの天は「初禅」と呼ばれる。

「無心無事靜慮」原文“Non-Existence (Mūjin-mushi-shōryo)”で英語は前に出た「非在」である。この三つの天は「第二禅」と呼ばれる。

「隨喜靜慮」小泉八雲は面倒臭くなったものか、天名をカットしている。下から少浄天・無量浄天・遍照天である。この三つの天は「第三禅」と呼ばれる。

「無雲天、福生天、廣果天」及び「無煩天、無熱天、善見天、善現天、色究天」を「第四禅」と呼び、後者の最上位層を特に「五浄居天」と称し、ここに属するものは寿命が尽きれば、そのまま仏と成るとされる。「福生天」と「廣果天」の間に「無想天」を置く説もある。

 ここの「註」はなかなかに私は好きなものであるので、原文を引いておく。

 One is reminded by this conception of Mr. Spencer's beautiful definition of Equanimity: ― "Equanimity may be compared to white light, which, though composed of numerous colors, is colorless; while pleasurable and painful moods of mind may be compared to the modifications of light that result from increasing the proportions of some rays, and decreasing the proportions of others." Principles of Psychology.

Principles of Psychology」は一八五五年刊。但し、その初版からはこれと同じ文字列は見出せなかった。]

 

 こんな超肉感的の界を通りぬける事のできる人は直ちに無色界に入る。これには四つある。第一の無色界では、凡て個性の感覺がなくなる、もと形の思想さへも滅して、ただ空無邊識無邊或はの觀念だけ殘る。第二の無色界ではこの無の觀念も消える、そしてその代りに識無邊の觀念が來る。しかしこの識無邊と云ふ平等觀は擬人的である、一種の煩惱である。それで第三界の無色界卽ち無所有處では消える。ここにはただ無限の無の觀念があるだけである。しかしこの界も、人の心の働きの助けによつて達せられる。この働きが止む、そこで第四の無色界に達する、――それを非想非々想處と云ふ。幾分人の心、――の究極の絕えかかつて居る顫動、――存在の最後の消えかかつて居るもや[やぶちゃん注:「靄」。]、――それがここに續いて浮んで居る。それが融ける、――そして無邊の天啓が現れる。自我の最後靈的の鎖から逃れて、夢を見てゐたが、直ちに涅槃の無邊の福德の中に入る。

 

註 涅槃と同意義に「無邊の福德」と云ふ言葉を使つた「彌蘭陀王問答」による。

[やぶちゃん注:「彌蘭陀王問答」は「一」に出て注した「彌蘭陀王問經」と同じ。]

 

 しかし凡ての人は以上に舉げた凡ての界を通過するわけではない、上る力に遲速のあるのは、打ち勝つべきの性質と、ならびにその人の天賦の德によるのである。或人は現世から直ちに涅槃に達する、或人はただ一度新しい生れ變りのあとで、或人は二囘三囘幾囘となしに生れ變つたあとで。同時に多くの人はこの世からすぐに超肉感的諸天の一つへ上る。こんな人は超と云はれるが、――そのうちで最高級の人は死後直ちに男として或は女として涅槃に達する。には二大別がある、――不還である。時として還は長い退步の性質を有する事がある。そして世界の成立の佛敎傳說によれば、最初の人々は光音天から落ちて來た人々であつた。進步の善體の敎理に關する著しい事實は、その進步は(甚だ珍らしい場合を除いて)直線に進む物とは考へられないで、波狀に進む物、――精神的運動律によつて進む物と考へられる。これはが涅槃に到達し得る色々の短い進路に關する不思議な佛敎の分類で例證される。この短い進路は不同に分けられる、――讀者は天と下界とに生れ變る數の同じ物、後者は不同な物である。この中間の階級には四通りある。日本の友人は私のためにつぎの表を作つてくれた、それによればこの問題が明瞭になる。

 

註 『大般涅槃經』にこの界に達した婦人の例がある、「阿難陀よ、難陀尼はこの世に人々を結びつける五つのきづなを破つて、最高の天に住む事になつて、――全くそこへ移つて、――そこから再び歸らぬ事になつた』

[やぶちゃん注:原始仏教時代から根強い仏教の変生男子(へんじょうなんし)説(如何なる布施や修行を積んでも女人は男性に一度生まれ変わらない限り涅槃には達し得ぬという女性差別)から考えると、極めて稀なケースと言える。あって当然、いいのだが、仏教が永く女人を差別してきた事実を隠蔽してはいけないと私は考えるので、敢えて注した。

 以下に、原本に配された図(ここここ)と底本訳本の図を挿入する。前者はProject Gutenberg”のこちらにあるもので(一枚目の下部のそれは図書館利用者の違法な書入れである)、後者は“Internet Archive”で全篇ダウン・ロードした底本から、トリミングし、かなり強い補正を加えて見易くしたものである。

 

Img_004

 

Img_005
Nehan



[やぶちゃん注:以下に、邦訳の画像の上部の和文キャプションのみを、各ページ、上段の右から左へ、次に下段の同方向で活字化しておく。後の説明のために、後に【 】で番号を振った。

   *

三つの同じ生れ變りによつて天から涅槃に達する【1】

[やぶちゃん注:図右上方に「涅槃」、上部中央に「天」、下部中央に「人」。以下同じ。]

 

三つの同じ生れ變りによつて人間界から涅槃に達する【2】

 

二つの同じ生れ變りによつて天から涅槃に達する【3】

 

二つの同じ生れ變りによつて人間界から涅槃に達する【4】

 

三つの不同の生れ變りによる【5】

[やぶちゃん注:以上以外に、左「→」の基の左中央に「人間以外」。]

 

三つの不同の生れ變りによる【6】

 

二つの不同の生れ變りによる【7】

[やぶちゃん注:ここでも左「→」の基の左中央に「人間以外」。]

 

二つの不同の生れ變りによる【8】

   *

ただ、原本の図の配置と邦訳のそれの違いが非常に気になる。訳文の「この短い進路は同と不同に分けられる」という謂いを受けて読む、

◎日本の読者は恐らく殆んどが、「同」の上部右から左へ、而して次に下部の「不同」を右から左へ見て――則ち、【1】から【8】までの順列で見て――納得するものと思う

のであるが、まず、原本ではそうした群として示されていないのである(改ページであるから邦訳図版のようには絶対に読めない)。欧米の読者が図をどのような順で読むのが普通かは私には分らないが、私の推測では英文の左から右という筆記原則から考えると、

◎欧米人は【1】の次に【5】を見て、以下、→【2】→【6】(ページをめくって)→【3】→【7】→【4】→【8】の順序で読むのではなかろうか?

小泉八雲は少なくともそう欧米人に読まれるように配したとしか私には思えないのである。その意図は不明であるが、まあ、最終的には意識の中で「同」「不同」の別で再度読み返して整理し直すのであろうが、小泉八雲は、この涅槃への階梯の種別理解のための図を、異様に複雑な認知をせざるを得ないように、確信犯で配置している、としか私には思われないのである。私の読み方は間違っていようか?(仮に縦優先であったなら、【1】→【2】→【5】→【6】→【3】→【4】→【7】→【8】となり、多少複雑な読み取りは改善される) 識者の御意見をお聴きしたい。

 

 これは空想的に見えるかも知れないが、凡ての進步は必ず律調的であると云ふ眞理と調和して居る。凡ての人はこの大旅行の悉くの階段を通るわけではないが、どんな進路によつてなりとも解脫を得た人は皆、生れ變りの特別の境遇に屬しないが、心的發達の特別の境遇にのみ屬する或種類の才能を得る。これが六神通である、――㈠神足通、如何な障礙[やぶちゃん注:「しやうがい」。「障害」に同じい。]あつても、――たとへば厚い壁でも、――どこへでも通れる力、――㈡天眼通、無限の視力、――㈢天耳通、無限の聽力――㈣他心通、外の人々の心を讀む力、――㈤宿命通、前生を思ひ出す力、――㈥漏盡通、思ふままに涅槃に入る力を有する無限の智慧。この六神通力は先づ聲聞[やぶちゃん注:「しやうもん」。]の階級で發達し、それ以上緣覺菩薩の階級で開展する。聲聞の力は二千の世界に及ぶが、緣覺や菩薩の力は三千の世界に及ぶ、――しかし佛の力は全宇宙に及ぶ。たとへば、この第一の神聖な階級では、いくつかの前生の事を記憶すると共に、同じ數の來生を豫見する力がある、――つぎのもつと高い階級では前生の記憶の數が增加する、――そして菩薩の階級になると、凡ての前生は記憶に現れて來る。しかし佛は自分の前生を悉く見るばかりでなく、これまであつた或は有り得る凡ての生涯、――それから凡ての過去、現在、未來の人々の過去、現在、未來の思想及び行爲を見る。……さてこんな超自然的力の夢は注意の價値がある、それに關する倫理的敎訓があるからである、――その敎訓と云ふのは、合理的な物でも考へられない物でも、どの佛敎の臆說にも識にも織込んである物、――卽ち自己否定の敎である。超自然的力は個人的快樂のために使用してはならない、ただ最高の善行のため、――敎理の宣傳、人の救のためにのみ使用さるべきである。それりも小さい目的のために使用すれば、その力がなくなつて、――必ず退步の途につく事になる註一。感嘆や賞讃を得ようとしてその力を示す事は、聖き事を弄ぶ事になる、それで世尊自らも不必要にそれを見せびらかしたと云つて一度ひどく弟子に非難された事が記錄にある註二

 

註一 緣覺や菩薩の境遇に達した人は退步する事や、大きな誤りをする事はないが、それよりも低い精神の狀態ではさうでない。

註二 「毘那耶疏」――廣律小部、「東邦聖書」中一「ビナヤ本」カリバツガ第五、八、二、にある不思議な記を見よ。

[やぶちゃん注:「六神通」ウィキの「六神通」(ろくじんずう/ろくじんつう)によれば、『仏教において仏・菩薩などが持っているとされる』六『種の超人的な能力』・『神通力』のことで、『六通ともよばれ、止観の瞑想修行において、止行(禅定)による三昧の次に、観行(ヴィパッサナー)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したものである』とある。以下、引用は同じ。

「神足」(じんそく)「通」『機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力』。

「天眼」(てんげん)「通」『死生智(ししょうち』)とも言い、『一切衆生の過去世(前世)を知る力』。

「天耳」(てんに)「通」普通は『聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳』力。

「他心」(たしん)「通」『他人の心を知る力』。

「宿命」(しゆくみやう(しゅくみょう)「通」『自分の過去世(前世)を知る力』。

「漏盡」(ろじん)「通」『自分の煩悩が尽きて、今生』(こんじょう)『を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力』。

「聲聞」(しょうもん)はサンスクリット語の「シュラーバカ」(「声を聞く者」の意)の漢訳語。「教えを聞く弟子」の意。ジャイナ教でも同じ意味で用いる。仏教では元来、ブッダの教えを聞いて修行する出家・在家の仏弟子を意味したが、後代になると、教団を構成する出家修行者のみを指すようになった。大乗仏教では、「縁覚(えんがく)」・「菩薩」と共に「三乗」の一つ。釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子。「縁覚」・「菩薩」に対しては、仏の教説によって四諦(しだい)の理(苦・集・滅・道)を悟り、阿羅漢になることを究極の目的とする仏弟子。しかし、その目的とするものが個人的解脱に過ぎないことから、大乗仏教の立場からは小乗の徒として批判される様態である(複数の辞書記載を綜合した)。

「緣覺」サンスクリット語プラティエーカ・ブッダ(「独りで覚った者」)の漢訳語。「独覚(どっかく)」とも訳し、また、「辟支仏(びゃくしぶつ)」という音訳語も用いられる。仏の教えに拠らず、師なく、自ら独りで覚り、他に教えを説こうとしない孤高の聖者を指す。縁覚の観念は、もとはインドに実在した隠遁的な修行者(仙人)に由来するもので、仏教外のジャイナ教でもこの名称を用いている。仏教に取り入れられてからは、仏と仏弟子との中間に位する聖者と見做されようになった。大乗仏教ではやはり小乗の立場を表わすものとされ、大乗の立場を表わす「菩薩」より劣るが、他方、この三乗すべてが一乗(一仏乗)に帰すことも強調されている(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「毘那耶疏」(びなやしょ)の「毘那耶」はサンスクリット語「vinaya」の漢音訳。「律」と訳す。比丘・比丘尼に関する仏が制定した禁戒を指す。漢訳されたものに「四分律」・「五分律」・「十誦律(じゅうじゅりつ)」・「摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)」の四つがある。「疏」は経典への注釈(書)。

「東邦聖書」「東方聖典叢書」(Sacred Books of the East)。「一」に既出既注。以下の指示原文は英文サイトのここにあるものと思われるが、語学力なく、小泉八雲の指す「不思議な記」は私には読めない。]

 

 かくの如く一生ばかりでなく、無數の生、――一つの世界ばかりでなく、數へきれぬ世界、――自然の快樂ばかりでなく超自然の快樂、――人格ぱかりでなく神格――を抛棄する事は、寂滅と云ふ哀れな特權のためではなく、極樂が與へる物にも遙かにまさる特權のためである。それは相對から絕對へうつる事、――凡ての精神的及び肉體的のまぼろしが消えて全能全知の無色の光明に入る事の意味である。しかし佛敎の臆說では、短い人生の生れ變りや境遇を一度記憶する事ができたら、それが永存性と有する事、――諸佛は凡て一であると敎へてゐながら、涅槃に入つて居る諸佛も一々識別のできる永存性のある事について幾分暗示を與へて居る。どうしてこの一元論と涅槃に入つた者が、希望によつては下界の人性を再び取る事ができると云ふ色々の證言とを調和させる事ができよう。この點に關して『妙法蓮華經』に甚だ著しい文句がある、たとへば多寳如來が『玉座の上に全く滅して』坐り、そして『千萬億阿僧祇劫の間全く入滅してゐたが、今この妙法を聽きに來た大聖』として大聽衆に紹介されて、その前で話す事になつて居る。これ等の文句は統一のうちに多樣性があると云ふ謎を私共に與へて居る、それは多寳如來及び同時に現れた無數の他の入滅した諸佛はそのただ一人の佛の化身であると云はれるからである。

[やぶちゃん注:「多寳如來」ウィキの「多宝如来」によれば、『サンスクリットではプラブータ・ラトナ Prabhūta-ratnaと言い、「多宝」は意訳である。法華経に登場する、東方の宝浄国の教主。釈尊の説法を賛嘆した仏である。多宝塔に安置したり、多宝塔の両隣に釈迦牟尼仏と合わせて本尊(一塔両尊)にしたりする』。「法華経」の「見宝塔品第十一」には、『多宝如来は、過去仏(釈尊以前に悟りを開いた無数の仏)の』一『人であり、東方無量千万億阿僧祇(あそうぎ)の宝浄国に住するという(「無量千万億阿僧祇」とは「無限のかなた」というほどの意味)。中国、朝鮮半島、日本を通じて多宝如来単独の造像例はほとんどなく、法華経信仰に基づいて釈迦如来とともに』二体一組で『表される場合がほとんどである。釈迦如来と多宝如来を一対で表すのは、法華経の第』十一『章にあたる見宝塔品(けんほうとうほん)の次の説話に基づく』。『釈尊(釈迦)が説法をしていたところ、地中から七宝(宝石や貴金属)で飾られた巨大な宝塔が出現し、空中に浮かんだ。空中の宝塔の中からは「すばらしい。釈尊よ。あなたの説く法は真実である」と、釈尊の説法を称える大音声が聞こえた。その声の主は、多宝如来であった。多宝如来は自分の座を半分空けて釈尊に隣へ坐るよう促した。釈尊は、宝塔内に入り、多宝如来とともに坐し、説法を続けた。過去に東方宝浄国にて法華経の教えによって悟りを開いた多宝如来は「十方世界(世界のどこにでも)に法華経を説く者があれば、自分が宝塔とともに出現し、その正しさを証明しよう」という誓願を立てていたのであった』。『この説話に基づき、釈迦如来と多宝如来を一対で造像したり』、一『つの台座に釈迦如来と多宝如来が並んで坐す並坐像(びょうざぞう)が作られた』とある。]

 この調和は多元的一元論と云はれる臆說によつてできよう、――卽ち獨立であつて、しかも互に相たよる[やぶちゃん注:「頼る」。]意識の群、――或は物質の言葉で純粹な精神の事を云へば、原子的精神究極からできて居る單一實在の臆說である。この臆說は、佛敎の文句には敎理的には述べてないが、本文にも註釋にも明瞭判然と含畜されて居る。佛敎のの一である事はヱーテルが一であるのと同じである。ヱーテルはいくつかの單位の集合としてのみ考へられる註一

[やぶちゃん注:「ヱーテル」“ether”。古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、実に永く想定され続けた、全世界・全宇宙を満たす一種の物質の名称。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地水火風に加えて、「エーテル」(「輝く空気の上層」を表わす言葉)を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では、全宇宙を満たす希薄な物質とされ、ニュートン力学では「エーテル」に対し、「静止する絶対空間」の存在が前提とされた。また、光や電磁波の媒質とも考えられた。しかし、十九世紀末に「マイケルソン=モーリーの実験」で、「エーテル」に対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経、遂に一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱し、「エーテル」の存在は否定された(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」に拠った)。但し、現在でも擬似科学や一部の新興宗教の中に「エーテルの亡霊」が巣食って蠢いている。

 以下の注は改行を入れて非常に長い。]

 

註一 この見地はハルトマンのと非常に違つて居る、ハルトマンは「個體の多元態は凡て現象論の範圍に應ずる」と云ふ(英譯第二卷、二三三)讀者はむしろガルトンの思想を想ひ出す。ガルトンの說では、「人間は自分自身よりも遙か高い生活の發現に、多少無意識に貢獻する事がある、――複雜なる動物の個體的細胞はもつと高い種類の人性の發現に貢獻するやうに」(「遺傳の天才」三六一)今引用した書物の同じペーヂに出て居るもう一つの思想はもつと佛敎槪念を強く暗示して居る、――「私共は銘々の人間を、超自然的に自然の中へ加へられた物と考へてはならない、むしろすでに存在してゐたが、新しい形となつて以前の狀態の一定の結果として、 分離したものと考へねばならない。……私共は又「個體」と云ふ言葉にだまされてはならない。……私共に銘々の個人を兩親から全然別にならないものとして、――不可知の無際限の大洋に於て、普通の狀態によつて上げられ、形成される波として、見るべきである」

[やぶちゃん注:「ハルトマン」前に注で掲げた「生の哲学」・新カント派・ユングなどに影響を与えたドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマン (Karl Robert Eduard von Hartmann 一八四二年~一九〇六年)。この、

“all plurality of individuation belongs to the sphere of phenomenality.”

という引用は、調べたところ、彼の代表作「無意識の哲学」(Philosophie des Unbewussten :一八六九年)を、イギリス在住の哲学者で翻訳家のウィリアム・チャタートン・クープランド(William Chatterton Coupland 一八三八年~一九一五年)が、一八九〇年に分冊(全三巻)で英訳した“Philosophy of the unconscious, speculative results according to the inductive method of physical science”(「無意識の哲学――物理的科学の帰納的方法に拠る推論的帰結」)のVolume 2の、ここ(“Internet archive”の英訳本同書の当該ページ。右ページの下から九行目)である。

「ガルトン」イギリスの人類学者・統計学者・探検家で、初期の遺伝学者として知られるフランシス・ゴルトン(Francis Galton 一八二二年~一九一一年)。母方の祖父は医者で博物学者のエラズマス・ダーウィンで、進化論で知られるチャールズ・ダーウィンは従兄に当たる。

「遺傳の天才」“Hereditary Genius”(「遺伝的天才」)はゴルトンの一八六九年の著書。彼は一八八三年に「優生学」という言葉を初めて用いたことで知られており、本書の中では「人の才能がほぼ遺伝によって受け継がれるものである」と主張している。引用の、

 human beings“may contribute more or less unconsciously to the manifestation of a far higher life than our own,—somewhat as the individual cells of one of the more complex animals contribute to the manifestation of its higher order of personality.”

というのは、同書のGENERAL CONSIDERATIONS”(「一般的考察」)の掉尾(“Internet archive”の英訳本同書の当該ページ。左ページの最終文)である。]

 讀者に佛敎の臆說では涅槃には個性をも人性[やぶちゃん注:「じんせい」。ここは原文は“individuality or personality”であるから単に「人格」の意。]をも含蓄してゐない、ただ單に實體、――私共の言葉の意味で、精神體ではなく、ただ聖い意識だけ、――を、含蓄して居る事も記憶せねばならない。聖い精神と云ふ意味の「心」は、こんな實體を表はす言葉として日本の書物に使用される。たとへば「大日經疏」にこんな文句がある、――「の種子[やぶちゃん注:「しゆうじ(しゅうじ)/しゆじ(しゅじ)」。]が全く燃えつくして滅絕した時、その時眞空の佛心が得られる(佛敎の形而上學では、實體の高い狀態を說明する時にも「空性」[やぶちゃん注:「くうしやう(くうしょう)」。]と云ふ言葉を使用する事を云つて置く)「大藏法數」[やぶちゃん注:「だいざうほつす(だいぞうほっす)」。]の第五十一卷から取つたつぎの文句も亦興味があらう、――「經驗によつて如來は凡ての形、――宇宙の塵の粒程數へられない無數の形、――を有す。……如來は自ら欲する所へ、或は人の欲する所へ生れ出て、そこで、――生死の大海の上で凡ての衆生を濟度する。どこででも住むところ、見出せば、そこで體現する、これを意生身[やぶちゃん注:「いしやうしん(いしょうしん)」。]と云ふ……佛はをその體として、空間のやうに、淸靜のままである、これを法身と云ふ」

[やぶちゃん注:「大日經疏」(だいにちきやうしよ(だいにちきょうしょ))は仏典「大日経」(全七巻。大毘盧遮那(だいびるしゃな)如来(=大日如来)が自由自在に活動し、説法する様を描いた経典で、第一章が教理であって後は実践行の象徴的説明となっている)の初めの六巻三十一品に対する注釈書。インド僧で来唐した善無畏(ぜんむい)は七二四年から翌年にかけて「大日経」を漢訳したが、その際、合わせてその内容を解説したものを、筆記者であった一行(いちぎょう 六八三年~七二七年)が筆記して二十巻とした。その一部には一行自身の天台的解釈を混入してはいるが、本邦の真言宗(東密)に於いては「大日経」を学ぶ上での唯一絶対の権威書として、古来より尊重されて書である(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「空性」仮象としての総ての存在には、それだけでは個別に存在し得る自性(じしょう)は内在しないことを知ることというような意味であろう。

「大藏法數」中国、明代の仏教書。七十巻。寂照の編著。勅命によるもので、仏教の名数の一から八万四千まで全四千六百八十五項目が並べられる。「第五十一卷から取つたつぎの文句」というのは、ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像)の右ページの五行目に「意生身」が現われ、前後するが、その後に「大海」の比喩が出、「淸靜」と「法身」もあって、その間に「虛空」(=「空間」)も出る。前の「經驗によつて如來は凡ての形、――宇宙の塵の粒程數へられない無數の形、――を有す。……如來は自ら欲する所へ、或は人の欲する所へ生れ出」ずるというようなことも、その前のページにそれらしい(全読解は出来ないので、あくまで「らしい」である)ことが書かれているように読める。

 以下、「註」が終わって本文に戻る。]

 

は(日本の敎理のどの綜合的試みに隨つても)諸佛から成立した物としてのみ會得される。しかしここで讀者は、西洋の哲學者がこれまで進んで來た思想の門以上に進んで來た事を考へる。一切は一である、――銘々は結合して一切と同一になる。私共は究極の實在は意識ある者の無數の單位から成立して居る事を想像する事を命ぜられるのみならず、――又銘々の單位が永久に外のどの單位とも同一で、又將成態[やぶちゃん注:読み方と意味は私の後注を見られたい。]に於て無限である註二を信ずるやうに命ぜられて居る。凡ての生物の中心の實在は眞のである、それを取り圍む見える形と、考へる我とは業に過ぎない。佛敎は私共の物理學上の原子說の代りに、精神的單位の宇宙と云ふ臆說をもつて末たと云つても多少の道理があらう。それは私共の物理學的原子說を當然非難してはゐないが、こんな言葉で表はせるやうな地位を取つて居る、『諸君が原子と云ふ物は實は結合物、全然無常不確實な集合體であるから、全然實體ではない。原子はただである』そしてこの見方は暗示的である。私共は本質や運動の究極の性質については全然知らない、しかし私共は知られたる物は知られざる物から進化して來た事、私共の元素の原子は結合物である事、それから私共が物質と勢力と呼ぶ物は單一にして無限の不可知の實在の種々の現れに過ぎない事の科學的證據をもつて居る。

 

註二 この佛敎思想の半分はテニスンの句に實際現はれて居る、――

「原子に於て、内部へ無限に、全體に於て、外部へ無限に」

[やぶちゃん注:「私共は究極の實在は意識ある者の無數の單位から成立して居る事を想像する事を命ぜられるのみならず、――又銘々の單位が永久に外のどの單位とも同一で、又將成態に於て無限である事を信ずるやうに命ぜられて居る」この太字(底本は傍点「ヽ」)を誤植と考える方がいるかもしれぬが、正しいのだ。ここの原文は、

We are not only bidden to imagine the ultimate reality as composed of units of conscious being,—but to believe each unit permanently equal to every other and infinite in potentiality.

と「and infinite in potentiality」だけが斜体となっているのである。但し、訳は、

   *

、「將成態に於て無限である事」を信ずるやうに、命ぜられて居る。

   *

ぐらいにして欲しかった。さて、「將成態」であるが、仕方ないが、これはルビもない以上は「しやうせいたい(しょうせいたい)」と読まざるを得ないと私は思う。そんな熟語は日本語にはない。ただ、これは訓読すれば「將(まさ)に成らんとする(狀)態」と読めることは判る。さすれば、英語原文の「infinite in potentiality」を考えて見れば、意味が一致は、する。則ち、「可能性としての無限であるという様態であること」を、信ぜよ、と命ぜられているというのである。……いや……しかし……流石に……この「将成態」の造語はひど過ぎる……と……私は思いますがね……田部先生!?!

「テニスン」ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年)。美しい韻律と叙情性に富んだ作風により、日本でも愛唱されたが、小泉八雲も好きな詩人であったようで、『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲蔵訳) その「一」』の冒頭にも引いている。引用は“Boundless inward, in the atom; boundless outward, in the Whole.”であるが、これは、一八三五年に創られ、一八四二年に詩集「Poems」で公開された、物語詩の失恋の長詩である“Locksley Hall ”(ロックスリー・ホール:英文ウィキにはこの詩の独立したページ「Locksley Hallがある。全篇は英文サイトのこちらを参照)の、一八八六年に創った続篇“Locksley Hall  Sixty Years After”の第一パートの末尾の一連(全篇は英文サイト(前のリンク先とは別)のこちらを参照)、

Sent the shadow of Himself, the boundless, thro' the human soul;

Boundless inward, in the atom, boundless outward, in the Whole.

の後半である。ここだけ訳しても意味なかろうが、

彼自身の影へと、その無限の魂へ――人としての魂を通して――送った……

無限の内界へ、原子の中へと、無限の外界へ向かって、全(すべ)てへ。

か。平井呈一氏の恒文社版「涅槃 大乗仏教の研究」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)の注では、引用部を『微塵は内に限りなく、全』(すべて)『は外面(とのも)に限りなし』と訳しておられる。……いい訳だな……文学だな……詩だな……]

 

 不思議な佛畫がある、一見したところでは外の日本の繪のやうに熟練なる筆の思ひ切つた運びでできて居るやうだが、丁寧に檢査すると、もつと遙かに不思議な風にできて居る事が分る。その姿、その容貌、そのころも[やぶちゃん注:「衣」。]、その後光、それから背景、霞や雲の色や見映[やぶちゃん注:「みばえ」。]までも、――悉く調子や線の微細な點までも、顯微鏡的な漢字の集合でできて、――位地に隨つて着色し、光と影の必要に應じてその濃厚を異にしてある。要するに、この繪は全部經文でできて居る、卽ち微細な文字の寄木細工(モザイツク)である、――その一字づつもいくつかの畫(かく)の結合で、聲と意味とを同時に表はして居る。

 私共の宇宙はそんな風にできて居るのだらうか、――想像のできない親和力によつて性質と形狀を有するやうになつた單位の結合の結合の結合の結合でのみでき上つた際限のない幻影であらうか、――今は濃い影になつて密集したり、今は戰慄する光と色とになつて震へたり、――いつでもどこででも或洪大なる技術によつて兩極性のある一つの大きな寄木細工(モザイツク)になるやうに集められるが、それでも銘々の單位がそれ自身で不可解な複雜物であり、そしてそれ自身又象徵であり、文字であり、無限の謎の解けない文句の單一なる文字であると云ふやうにできて居るのであらうか。……化學者と數學者に尋ねて見よう。

[やぶちゃん注:これは小泉八雲が夢想した、拡大しても拡大しても文字が見える幻想の無限の曼荼羅であろう。]

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