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2019/12/05

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「五」 / 涅槃――総合仏教の研究~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」』の冒頭の私の注を参照されたい。なお、本章冒頭の添え辞の改行は底本通りである。]

 

       

   ……『ある者は皆
   その複雜なる形、――天なり地なりに。
   暫らくの個性をかりに與へる
   精神と肉體の性質の
   集合體を離脫する』――『涅槃經』

[やぶちゃん注:「大般涅槃経」にはぴったりくる経文はない。但し、同様のことを同経では繰り返し語っていること、今までの引用と異なり、特異的な改行がなされていること(小泉八雲の原文でも同じ)などから、同経の語る概説として小泉八雲が作った感がするものではある。]

 凡ての目的論的系統には現代の心理學的分析の試驗にたへないやうな考がある、そして一大宗敎の臆說に關する以上の不充分な大意のうちには、疑もなく『形而上學者がいつも出られなくなる言葉の命題の迷路に出沒する信仰のいくつかの幽靈』が認められるであらう。しかし眞理も亦認められる、――卽ち倫理的進化の法則、進步の價、及び凡ての變化を超越せる不變の實在と私共との關係、これ等の達觀が認められる。

 人間が征服せねばならないと云ふ道德的進步の故障の絕大なる事についての佛敎の見解は、過去に關する私共の科學的知識、及び將來に關する知覺によつて充分に後援されて居る。これまでの精神的及び道德的進步は、理性や道德的感情よりも古い道德に對して、――原始的野獸生活の本能と肉慾に對して、――絕えず爭鬪して始めてなしとげられたのであつた。それから、普通の人は將來數百萬年を經過しないでは、惡い方の性質を脫する事は望まれないと云ふ佛敎の敎は、一つの理論と云ふよりもむしろ眞理である。ただ幾百萬囘の生れ變りによつて始めて、この現在の不完全な狀態に達する事もできのであつた、そして私共の最も暗黑な過去の暗黑な遺產が、今もやはり私共の理性や倫理感を左右する程に强いのである。道德の途への將來の前進の一步一步は、過去の數百萬の意志の集合の努力に反抗して蹈み出されねばならない。何故なれば、僧侶や詩人が、高尙な物への足場として使用するやうに敎へた過去の自我は死んでは居らない、なほ將來一千代程は死ぬらしくもない、――登つて行く足を捉へる力がある、――どうかするとその登る人を原始の粘泥の中へつき落す力さへある。

 それから欲望諸天に關する傳說については、――そこを通つて進む事は勝利を得た德がすでに得た物を拾てる力によるのだが、――俤敎は進化論的眞理の多い不思議な話を私共に與へる。道德的自己向上の困難は物質的社會狀態の改善と共になくなる事はない、――私共自身の時代ではかへつて增加する。世の中がもつと複雜になり、もつと多樣になるに隨つて、――思想も行爲の結果も同じく複雜多樣になる。智力の廣大、感性の上品、感情の博大、美感の强い活力、――凡てこれ等は倫理的機會を多くすると共に、又、倫理的危險をも多くする。文明の最高の物質的結果、及び快樂の可能性が增加すれば、自己征服の働きと倫理的平衡の力が必要になるが、これは古い下等な生存狀態には不必要で又不可能であつた。

 無常に關する佛敎の敎訓も亦現代科學の敎訓である、どちらか一方の言葉もそのまま他方の言葉になる、ハックスレイは最近のそして最も立派な論文の一つに書いた、『自然の知識は、益〻「天の凡ての唱歌團と地上の家具」とは、朦朧たる將成態から、――太陽と行星[やぶちゃん注:「恒星」に同じい。]と衞星の際限なき生長を通して、――物質のあらゆる變化を通して、――生命と思想の際限なき不同を通して、――恐らく私共がそれについて槪念ももたない、又、どんな槪念をつくる事もできない種類の存在を通して、――彼等が元來生じて來た名狀のできない潜伏狀態へ戾る進化の路に沿うて進む宇宙的實體の數塊の一時的體形に過ぎないと云ふ結論に導く。かくの如く、宇宙の最も明白なる屬性はその無常である事である』

 

註 「進化と倫理」

[やぶちゃん注:以上の段落の原文全文を示しておく。

 The Buddhist doctrine of impermanency is the doctrine also of modern science: either might be uttered in the words of the other. "Natural knowledge," wrote Huxley in one of his latest and finest essays, "tends more and more to the conclusion that 'all the choir of heaven and furniture of the earth' are the transitory forms of parcels of cosmic substance wending along the road of evolution from nebulous potentiality,—through endless growths of sun and planet and satellite,—through all varieties of matter,—through infinite diversities of life and thought,—possibly through modes of being of which we neither have a conception nor are competent to form any,—back to the indefinable latency from which they arose. Thus the most obvious attribute of the Cosmos is its impermanency."

これは、注にある通り、既出既注のイギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)の“Evolution and Ethics”(「進化と倫理」。一八九三年刊。Project Gutenberg”のこちらで原文全文が読める)の“II. EVOLUTION AND ETHICS.[The Romanes Lecture, 1893.]”(「進化と倫理」(ロマネスでの講演:一八九三年))のほぼ忠実な一節である。]

 

 そして最後に、佛敬は凡ての結合の不安定、遺傳の倫理的意義、精神的進化の敎訓、道德的進步の義務に關する十九世紀の思想と著しく一致するばかりでなく、又それは私共の唯物論と唯心論の說、造物者と特別の創造に關する說、及び私共の靈魂不滅の信仰を一樣に否む點に於ても亦科學と一致する。しかし佛敎は西洋の宗敎の基礎その物を拒否するにも拘らず、私共に大きな崇敎上の可能性を現示して、――これまで存在したどの物よりも貴い博い科學的信條を暗示する事ができる。人格的神の信仰の消失して行く時、――個人的靈魂の信念が不可能になる時、――私共が宗敎と呼んでゐた一切の物から、最も宗敎的な心の人も避けるやうな時、――世界的懷疑が倫理的向上心に絕えず增加する重みのやうになつて行く時、――そんな私共の智力的進化の時代に、光明は東洋から捧げられるのである。そこにもつと古いもつと大きな信仰、――不可思議の實在に對して變な擬人論的觀念を有しない、そして靈魂の存在を否定するが、それにも拘らず外の如何なる系統よりも優れた道德の系統を敎へて、如何なる種類の將來の實際知識も破る事のできない希望を有する大きな信仰、に面して、私共は立つて居る、科學の敎によつて更に强くなつたこのもつと古い信仰の敎は、數千年間私共がさかさにうらおもてに考へてゐた物である。唯一の實在はである、――私共が實體と考ヘた物はただに過ぎない、――有形の物は眞實の物でない、――そして肉體は幽靈である。

 

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