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2019/12/09

小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「二」・「三」

 

[やぶちゃん注:本篇の書誌その他は『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「一」』の私の冒頭注を見られたい。]

 

       

 斯く冥想してゐるとき、一大都會の記憶が喚起される。空高く築き上げられて海の如くに轟いてゐる都會である。その轟きの記憶が先づ歸つて來る。つぎに幻想が形を成して來る。立ち並ぶ家々の山、その間の街路の峽谷の光景である。煉瓦や石の絕壁の間を幾哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約一・六一キロメートル。]も跋涉し乍ら、寸地をも路まず、唯だ岩石の板を踏み、喧噪の雷霆の外何をも聞かなかつたので、自分は疲れてゐる 彼[やぶちゃん注:「か」。]の廣漠たる鋪石の路面の下深く、廣大なる洞窟の世界があつて、そこに水や蒸氣や火力を供給するために考案れた脈絡系統の層又層がある。兩側には幾十層列の窓を穿つた垂直面が屛立してゐる。日の目も見せぬ建築の斷崖である。仰げば蒼白な細布の如き空は縱橫無盡に裁たれてゐる、それは蜘蛛手に連らなる無數の電線である。右手の一廓には九千の人間が住んでゐる。向ひの家の借主は年額百萬弗の家賃を拂つてゐる。その先きの宅地を壓する大普請には七百萬弗の巨資もなほ足りぬのである。鋼鐡とセメント、眞鍮と石材とを以て造られ、費用を惜しまぬ欄干を附けた階段は十階二十階と續いてゐる。が、それを踏む者は無い、今は水力蒸氣力電氣力によつて昇降する。足を運ぶには餘りの高さに眼くらみ、行程も亦遠すぎる。この種の建物の十四階に五千弗の家賃を拂つてゐる友人は、一度もこの階段を踏んだことが無い。自分が今步いてゐるのも物好きにしてゐるので、用を足すためなら步きはせぬ。距離は遠く時間は貴重で、そんな悠長な骨折りをしては居られぬ。區から區へ、家から事務所へ、人は皆蒸氣の力で通ふ。家が高すぎ聲が屆かない。用を言ひ附けるにも應へるにも機械による。電氣の力で遠方の扉を開き、一指を動かして一百の家を照らし又暖める。

[やぶちゃん注:ここに出来する幻想の都会は欧米の当時の都会風景であるが、取り敢えず注しておくと、本書刊行(明治二九(一八九六)年三月)当時の為替レートでは、前年の一八九五年で一ドルは一・九八円で凡そ二円である。百万ドルは二百万円、明治三十年代で一円は現在の二万円の価値はあったとする信頼出来る単純換算値に従うならば四百億円、七百万ドルは千四百万円で千四百億円、五千ドルは百万円で二百億円相当となる。]

 凡そこの巨大たるや、堅く、嚴めしく、無言である。堅牢保存の實利的眼目に應用された數理上の力の巨大である。幾哩となく續いてゐる是等の殿堂、倉庫、店舖、その他名狀し難き各種の建物は美しいと謂はんよりは、寧ろ不快である。斯の如き建築を作り出した巨大なる生命、そは同情なき生命の巨大を感じ、彼等の絕大なる力、そは憐みなき力の絕大なる顯現を感ずるのみで意氣銷沈を覺える。是等は新しき產業的時代を建築に表はしたものである。而して車輪の轟き、蹄の音や人の跫音の騷がしさにはをやみもない[やぶちゃん注:「小止み無い」。少しの間も中断することがない。]。物一つ尋ぬるにも相手の耳に喚かねばならぬ。その高壓な環境の中に在つては、見るにも、理解するにも、動くにも、經驗を要する、馴れぬ者は恐慌の中に、暴風の中に、旋風の中にあるの感を有つ。而も凡て是れ秩序である。

 怪しくも廣き街路は、石橋鐡橋を架して、河を越え水路に跨がつてゐる。眼のとどく限り、叢立つ帆柱、蜘蛛手の帆綱が煉瓦や石の斷崖なる岸を隱して居る。錯綜極りなきその帆柱や帆桁に比しては森の木立も密ならず、さし交ふ枝も繁くはない。而も凡て是れ秩序である。

 

       

 約言すれば西洋人は永存のために建て、日本人は當座のために建てる。日本に於て永存の考を以て作られる日用品は少い[やぶちゃん注:底本は「作ら る」と脱字している。「作らるる」の可能性も否定は出来ないが、本書の場合、繰り返しの「るる」は圧倒的に「る〻」となることが多いので、かく補った。]。旅路の驛に着く每に損じては更へる草鞋。小幅幾つかを輕く縫ひ合はせては着、解いては洗濯する着物。旅館で客の代はる每につける新しい箸。窓にもなり壁にもなり、年に二囘張り替へる手輕な障子。秋ごとに表を替へる疊。この外枚舉に遑ない日常の事物が贊國民一般に永存せ裁物に甘んじてゐることを示す。

 普通の日本住宅はどんなにして出來るか。朝自分の家を出て、ぢき先きの四つ角を通る時に、そこの空地に竹の桂を立ててゐる者がある。五時間出てゐて歸つて來ると、その地所に二階家の骨組みが出來てゐる。翌日の午前には壁が泥と藁づた[やぶちゃん注:「藁苞(わらづと)」ならまだしも、聞き慣れぬ語である。「藁を纏めて束にした細長い蔦状にしたもの、藁束のことか? 原文は“wattles”で藁を網代型に編んだ壁の下地のこと。]とであらまし塗られてゐる。日の暮れには屋根に悉皆[やぶちゃん注:「しつかい(しっかい)。残らず。すっかり。]瓦が葺かれる。つぎの朝には疊が敷かれ、内壁の上塗りが仕上がつた。五日の中にその家が落成した。是は勿論安普請で、立派な家は建てて仕上げるのにずつと時がかかる。併し日本の都會は大部分斯ういつた風の建物で出來てゐる。家屋は粗末で金もかからぬ。

 

 支那の屋根の曲線が遊牧時代の天幕の記憶を傳へてゐるかも知れぬ、と云ふ意見に何處で初めて出會つたか、今想ひ起こすことは出來ぬが、その考は、自分が不實にも其を讀んだ本を忘れて了つたずつと後まで、自分の心に來往して、出雲に來て古い神社の、破風の端と棟の上とに奇異な十字形の突起を附けた、特殊の構造を見た時に、其よりは新しい建築樣式の可能なる起原に關する、彼の忘られた論文の筆者の提案が力强く想ひ起こされた。併し日本に於てはこの原始的建築の傳統以外にも、この民族の祖先が遊牧の民であつた事を示す事柄が多い。何時何處を見でも、我々が堅牢と呼ばんとするものが全然缺けてゐる。不永存と云ふ特徵が國民の外的生活の一切の物に認められる。唯だ僅に農民の昔ながらの服裝と彼の農具の形が例外である。その歷史に記された比較的に短い期間に於てすら、日本には六十餘の首都[やぶちゃん注:国府・藩庁のこと。]があつて、その大多數は全然跡をも留めぬと云ふ事實はさて措いても、日本の都市は一世代の間に改築されると槪說して差支ない、幾つかの神社佛閣と一二の厖大な城砦だけが例外をなしてゐる。が、通則として日本の都市は人一代の間に、形は兎もあれ、實質を變へる。火事や地震やその他の原因が幾分その理由と考へられるが、主な理由は家が永存する樣に建てられるのでないと云ふ事である。普通の人は祖先傳來の家を有つてゐない。凡ての人に親密なのは誕生の地でなくして、墳墓の地である。死者の安息の場所と、古い廟社の境域を除いては、永久なものとては殆ど無い。

 國土そのものが轉變の地である。河は水路を變へ、海岸は輪廓を變へ、平野は高さを變へる。火山は或は高まり或は崩れる。谷は流れ出づる熔岩や地滑りによつて堰かれる。湖水が生じた消滅したりする。實に二つなき『不二』の嶺の雪を頂いた奇しき姿に幾百年來畫家に靈感を與へた、その山の容[やぶちゃん注:「かたち」。]すら、自分がこの國に來てからでも、少し變つたと云ふことである。同じ短日月の間に全然容を改めた山も少くない。僅にこの國の大體の輪廓と。その山川の大體の容姿と、四季の變遷の大體とが固定してゐるばかりである。風景の美しさそれ自體からして大半幻覺的で、變化する色彩と去來する霧の美しさである。實にかかる風光に目馴れた者ならでは、大八洲の歷史に於ける、ありし實際の轉變も亦起こらんとする轉變の怪しき豫想も事なげに、立つ山々の霧の心は知る由もない。

[やぶちゃん注:富士山の形が変わったというのは小泉八雲の心理的印象の変化によるものであろう。]

 神々こそは變はることなく、山の上なる御社に現はれ給ひ、木下の闇に優しき畏こさを漲らせ給ふ。姿も體も具へられぬ故であらう。御社は流石に人の住居のやうに忘られ果つることは無い。が社殿は皆僅の年月の間に改築される。中にもいと畏こき伊勢の神宮は、神ながらの慣らはしに從ひ、二十年每に毀たれる[やぶちゃん注:「こぼたれる」。]定めで、神木は割かれて數々のお守に作られ、參詣者に分かたれる。

 

 轉變の大敎義を汲く佛敎はアリアン族の印度から、支那を經て傳來した。日本に於ける初期の佛閣を建てた人々は、他の民族の建築者で、堅牢に建てた。鎌倉にある支那風の建築を見るがよい[やぶちゃん注:円覚寺・建長寺のことを指しているものと思われる。但し、その建築は邦人の大工の手になるものである。]。その周圍の大都府は跡も留めないのに、幾百年を經てなほ存してゐる。併し佛敎の精神上の感化は何處の國に於ても、人心を驅つて物質の安定を愛させることは出來なかつた。宇宙は一つの迷夢であると云ふ敎義、人生は無限の旅の束の間の息ひ、人に對し場所に對し、物に對する一切の執着は悲哀の種であると云ふ敎義、一切の願望を滅し、涅槃の願望をすらも減することによつてのみ、人間が永久の平和に達し得ると云ふ敎義は確にこの民族の古來の感情と調和した。彼等はこの外來の信仰の深き哲理には一向心を用ゐたことはないが、その轉變の敎義は、永い間に、深く國民性を感化したに相違ない。この敎義は悟道と慰藉とを與へた。萬事をけなげに辛抱する新たな力を與へた。國民の特性である忍耐力を强めた。日本の藝術は佛敎の感化によつて、事實創始せられたと謂はぬまでも、大いに發達したものであるが、そこにも轉變の敎義がその痕跡を示してゐる。佛敎は、天地自然は夢である、迷である、幻影である、と說いた。が、又その夢の消えゆく印象と捕へ、最高の眞理に照らして解釋することも政へた。

 而して日本人はそれをよく學んだ。咲き出づる春の花の紅の色に、蟬の現はれては又去る態に、色褪する秋の紅葉に、雪の怪しき美しさに、見る眼を欺く浪や雲の往きかひに、不斷の意義ある古き寓話の心を解した。火災、洪水、地震、疾病等の災禍すらも、絕えず彼等に寂滅の理を悟らしめた。

[やぶちゃん注:以下、底本では章末まで、全体が一字下げ。この後、一行空けた。複数の仏典から引用したものを羅列したように思われる。例えば、二段落目のもの

The Sun and Moon, Sakra himself with all the multitude of his attendants, will all, without exception, perish; there is not one that will endure.

は、例の「東方聖典」第十九巻(Sacred Books of the East Vol. 19)の“The Fo-Sho-Hing-Tsan-King:A Life of Buddha by Asvaghosha Bodhisattva,translated from Sanskrit into Chinese by Dharmaraksha A.D. 420,and From Chinese into English by Samuel Beal” の“VARGA 24. THE DIFFERENCES OF THE LIKKHAVIS.”の第1883節に

The sun and moon, Sakra himself, and the great multitude of his attendants, will all, without exception, perish ; there is not one that can for long endure;

と、ほぼ同文を見出せる。我々には孰れも馴染みの仏教思想で、それこそ「兒童無智者と雖も知悉する所」であるからして、私は総てを検証して出典を示す気は毛頭、ない。悪しからず。]

 

 時間の中に存在するものは凡そ死滅を見れず。森も山も、一切のものは斯くあるべく存在す。有情の萬物は時間の中に生まる。

 日も、月も、帝程天と雖も、數多の隨神と共に、皆悉く死滅す。一として永存するものはあらず。

 初には諸物固定す、終には皆分解す。新たなる結合は新たなる物質を生ず。蓋し自然には一定不變の本體なきを以てなり。

 凡て合成せるものは老朽す。凡て合成せるものは永存する事なし。一粒の胡麻に至るまで、凡そ合成物にして水存するはあらず。萬物は變遷す。萬物は本來分解性を有す。

 凡ての合成物は、悉く不永久、不安定にして卑しむべきもの、必滅にして分解す。消え易きこと蜃氣樓の如く、幻影の如く、泡沫の如し。陶工の作れる凡ての陶器が終に破碎するが如く、人間の一生も亦終はる。

 物質自體の信仰は之を述べ難く、又表はし難し。物質は物にもあらず、物外にもあらず、この理は兒童無智者と雖も知悉する所なり。

 

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