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« 小泉八雲 日本の民謡に現れた仏教引喩 (金子健二訳) | トップページ | 小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「二」 »

2019/12/02

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“NIRVANA A STUDY IN SYNTHETIC BUDDHISM”。「ニルヴァーナ(涅槃)――包括的な仏教に就いての研究」)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第九話である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字とし、途中に挟まれる注はポイント落ち字で有意に字下げであるが、基本、行頭まで引き上げ、同ポイントで示し、前後を一行空けた。章の添え辞の経の引用は六字下げポイント落ちであるが、ブラウザでの不具合を考え、同ポイントで三字下げで始め、途中で改行を施した。なお、「四」で涅槃に到る過程に相違があり、それをチャート化した図版(八図からなる)があるが、これは“Project Gutenberg”]にある英語原版のそれを挿入した上で、底本の日本語のそれを併置した。全五章であるが、一部の章が長い上、仏教用語が満載で、注をかなり附けざるをえない箇所が多いことから、分割して示す。]

 

   第九章 涅 槃

      總 合 佛 敎 の 硏 究

  

   『須菩提に告ぐ、この經典は信仰の少き者、
    ――我相、人相、衆生相、及び壽者相を
    信ずる者によつて聞かるべき物にあらず』
    ――『金剛經』

[やぶちゃん注:「金剛經」や「須菩提」は前の「小泉八雲 日本の民謡に現れた仏教引喩 (金子健二訳)」の最後の私の注を参照されたい。「我相」は「自我という観念の実在を信ずる者」、以下、「人相」は同じく「人の生命という観念の実在」を、「衆生」は「衆生という観念の実在」を、「壽者相」は「長生する人存在という観念の実在」をそれぞれ信ずる者を指し、そうした誤った認識者には、この經典を聴く資格はないというのであろう。但し、この小泉八雲の英訳は、同経に全く同義の形の完全フレーズでは出ないように思われる。幾つかの箇所を繋ぎ合わせて、成文化したものであろう。例えば、「大乗正宗分第三」の、

   *

須菩提、若菩薩有我相、人相、衆生相、壽者相、卽非菩薩。

   *

であるとか、「正信希有分第六」の、

   *

若取法相、卽著我、人、衆生、壽者。何以故。若取非法相、卽著我、人、衆生、壽者。是故不應取法、不應取非法。

   *

また、「究竟無我分第十七」の、

   *

須菩提、若菩薩有我相、人相、衆生相、壽者相、則非菩薩。所以者何。須菩提、實無有法、發阿耨多羅三藐三菩提心者。

   *

といった箇所を合成したと目されるということである。平井呈一氏の恒文社版「涅槃 大乗仏教の研究」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)も訳では、『須菩提(しゆぼだい)、‥‥是(この)諸(もろもろ)の衆生(しゆじよう)にして‥‥若(も)し法相を取るも、卽ち、我人衆生寿者(がにんしゆじやうじゆしや)に著(ぢやく)すれば‥‥是故(これゆゑ)に法(ほふ)を取るべからず。』とリーダを挟んでおられるのである。]

 

 涅槃とは、佛敎徒の心に取つて、正に絕對の無、――完全なる寂滅の意味に外ならないと云ふ疑念が歐米に今も廣く傳はつて居る。この觀念は誤つて居る。しかしそれには半分の眞理を含んで居るがために誤つて居るのである。この半分の眞理は、今一つの半分と結合しなければ、價値も興味もない、否、分りもしない。ところでその半分については普通の西洋人の頭では疑うて見る事もできない。

 實際、涅槃は絕滅の意味である。しかしこの個性の絕滅と云ふ事を魂の死と解するやうでは、私共の涅槃の槪念はまちがつて居る。或は印度の汎神敎によつて豫言されたやうに、涅槃は有限を無限に再び吸收する事と解すれば、再び私共の觀念は佛敎と無關係になる。

 けれども、もし私共が、涅槃とは個人的感覺、情緖、思想の消滅、――自覺ある個性の分散、――『我(われ)』と云ふ言葉の下に包含さるべき一切の物の絕滅の意味であると云へぱ、――それなら私共は佛敎の一面を正しく云ひ表はして居る。

 

 以上述へた事が矛盾したやうに見えるのは、ただ私共西洋の自我に關する見解から來るのである。私共に取つては自我は感情、觀念、記憶、執意を意味する、そしてドイツの唯心論を知らない人には、意識は自我ではあるまいとさへ考へて見る事もなからう。それに反して、佛敎徒は私共が自我と呼んで居る物は皆僞りであると云ふ。佛敎徒はの定義を下して、人種の肉體的及び精神的經驗によつてつくられた、――この滅すべき肉體に凡て關係して、それと共に分散すべき運命を凡て有して居る感覺、衝動、觀念のただ單なる一時的總計と考へて居る。西洋の推理から見て、あらゆる實在のうちで最も疑ふべからざる物と思はれる物を、佛敎の推理では、あらゆる迷妄のうちの最大の物、そしてあらゆる悲みと罪の源とさへ述べて居る。『心、思想、及び凡ての感覺は生死の法則に服從する。自我の知識及び生死の法則には摑むべきところも、感官を以て知覺すべき物もない。自我を知り、感覺の作用を知れば、「我」の觀念の餘地、或はその觀念をつくるべき根據はない。「自我」の思想は凡ての悲みの基となつて、――世界を鎖で縛るやうになる、しかし縛るべき「我」のない事を發見すれば、凡そこれ等の望は切斷される』

 

註 「佛所行讃經」

[やぶちゃん注:「佛所行讃經」「ブッダチャリタ」(サンスクリット語ラテン文字転写(以下同じ):Buddhacarita)。「仏所行讃(ぶっしょぎょうさん)」のこと。古代インドの仏僧馬鳴(めみょう/アシュヴァゴーシャ 紀元後八〇年頃~一五〇年頃)の著作とされる仏教叙事詩で、釈迦の生涯に題材を採った、二十八編の韻文から成るサンスクリットの美文体文学(カーヴィヤ:kāvya)。サンスクリット原典は前半の十四編のみが現存し、後半は散逸した。参照したウィキの「ブッダチャリタ」によれば、『馬鳴はクシャーナ朝で活躍した代表的な仏教文学者だが、本作は後の時代のグプタ朝において進められることになる仏典のサンスクリット化の先駆でもあり、また、超人的存在としての仏陀を、説話や比喩の多用で表現する仏教文学を、確立・大成した作品ともされる』。「仏所行讃」は「ブッダチャリタ」を中インド出身の訳僧曇無讖(どんむしん Dharmakṣema:ダルマクシェーマ/漢名・法楽 三八五年~四三三年)が『漢訳したもの』とある。原文に当たることが出来ない(原文ページは見つけたが、接続出来ない)ので、平井呈一氏の恒文社版「涅槃 大乗仏教の研究」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)の訳にある当該の訓読文を恣意的に正字化して以下に示す(読みは一部に限った)。

   *

「心意及び諸根は、斯れ皆生滅の法なり。生滅の過(くわ)を了知(れうち)すれば、是れ則ち平等觀(びやうどうくわん)なり。是(かく)の如き平等觀を、是れ則ち身を知ると爲(な)す。身の生滅(しやうめつ)法(ほふ)たるを知らば、取(しゆ)無く亦受(じゆ)無し。如(も)し身(しん)の諸根を覺らば、我(が)無く我所(がしよ)無し。純一の苦の積衆(しやくじゆ)は、苦(く)生じ苦滅す。已に諸(もろもろ)の身相(しんさう)に、我無し我所無しと知らば、是れ則ち第一の、無盡淸凉處(むじんしやうりやうしよ)なり。我見(がけん)等(とう)の煩惱に、繋縛(けばく)せらるる諸の世間に、既に我所無しと見れば、諸縛悉く解脫せん。」

   *]

 

 以上の文句は甚だ明白に、意識は眞の自我ではない事、及び心に肉體と共に死ぬ事を暗示して居る。佛敎思想を知らない讀者は、つぎのやうな道理ある質問をするだらう、『それなら、業の說、道德進步の說、應報の說の意味がどうなるか』實際、西洋の本體的觀念を有するだけでは、『東邦聖書』にあるやうな佛典の飜譯の硏究を試みる事は、ペーヂ每に見たところ望みのない謎と矛盾とに對面する事にならう。私共は再生の說を發見するが、靈魂の存在は拒否されて居る。私共は現世の不幸は前世に犯した罪の罰であると聞かされて居るが、個人的の輪𢌞と云ふ事はない。私共は生類は再び個性を取ると云ふ記事を見るが、個性も人性も皆迷妄であると云はれる。深い種類の佛敎信仰を知らない人が、『彌蘭陀王問經』第一卷のつぎのやうな拔萃を果して理解する事ができるかどうかを私は疑ふ、――

[やぶちゃん注:「東邦聖書」は「東方聖典叢書」(Sacred Books of the East)で、ドイツ生まれで、イギリスに帰化したインド学者(サンスクリット文献学者)・東洋学者・比較言語学者・比較宗教学者・仏教学者であったフリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Müller 一八二三年~一九〇〇年)によって編集され、オックスフォード大学出版局によって一八七九年から一九一〇年にかけて刊行された、アジアの諸宗教の聖典の英語翻訳を集成した全五十巻からなる壮大な叢書。ヒンドゥー教・仏教・道教・儒教・ゾロアスター教・ジャイナ教・イスラム教の主要な聖典を収録している(ウィキの「東方聖典叢書」に拠る)。小泉八雲の愛読している叢書である。

「彌蘭陀王問經」ウィキの「ミリンダ王の問い」によれば、『Milinda Pañha』(『ミリンダ・パンハ)は、仏典として伝えられるものの一つであり、紀元前』二『世紀後半、アフガニスタン・インド北部を支配したギリシャ人であるインド・グリーク朝の王メナンドロス』Ⅰ『世と、比丘ナーガセーナ(那先)』(以下引用の「那伽犀那尊者」(なかさいなそんじや)は彼。小泉八雲の原文では“Nagasena”)『の問答を記録したものである。パーリ語経典経蔵の小部に含まれるが、タイ・スリランカ系の経典には収録されていない(外典扱い)。ミャンマー(ビルマ)系には収録されている』。『戦前のパーリ語経典からの日本語訳では』「弥蘭王問経」「弥蘭陀王問経」『(みらん(だ)おうもんきょう)とも訳される』とある。成立経緯や内容はリンク先を見られたい。 

 以下の引用は全体が一字下げ。ポイントは本文と同じである。]

 

王問うて曰く、『那伽犀那尊者よ、死後生れかへらない者はありますか』那伽犀那尊は答ヘた、『罪障ある者は生れかへり、罪障なき者は生れかへりませぬ』

『那伽犀那尊者よ、世に靈魂なる物がありますか』『靈魂と云ふやうな物はありませぬ』

(同じ記事がその後の章に、『第一義門から云へば、陛下よ、そんな物はありませぬ』と云ふ說明づきでくりかへしてある)

『那伽犀那尊者よ、この體から他の體へ轉移する何者がありますか』『い〻え、ありませぬ』

『那伽犀那尊者よ、輪𢌞のないところに、再生があり得ませうか』『さうです、あり得ます』

『那伽犀那尊者よ、將に再生せんとする者は、彼が生れかはるだらうと云ふ事が分るでせうか』 『さうです、陛下よ、それは分ります』

 

 當然西洋の讀者は問ふだらう、――『どうして靈魂なくして生れかへる事ができよう。どうして輪𢌞なくして再生があらう。人性なくしてどうして、再生の個人的豫想ができよう』しかしこんな質問に對する答は、今云つた書物には發見されない。

 今ここに出した拔萃は例外的に困難なところを提供して居ると想像する事は誤りである。自我絕滅說に關して、今日英語の讀者に達し得べき殆ど凡ての佛典に、夥しい證據がある。恐らく大般(だいはつ)涅槃經[やぶちゃん注:「Mahāparinirvāṇa Sūtra」(マハーパリニルヴァーナ・スートラ)。釈迦の入滅(=「大般涅槃」)を叙述し、その意義を説く経典類の総称。阿含経典類から大乗経典まで数種ある。]は『東邦聖書』にある最も著しい證據を與へて居る。涅槃に達する解脫の八種を叙して、私共が西洋の見方から、絕對的寂滅の行程と呼んでもよいと思ふ物を明細に說明して居る。その說明によれば、この八階段のうちの第一段に於て、眞理を追求する佛敎徒は未だ――主觀客觀の――形の觀念をもつて居る。第二段に於て、形の主觀的觀念を失つて、ただ外界の現象として形を見る。第三段に於て、もつと大きな眞理の知覺が近づく事を感じて來る。第四段に於て、形の凡ての觀念、抵抗の觀念、及び差別の觀念以上に達して、殘る物は無限の空間の觀念だけになる。第五段に於て、無限の空間の觀念が消えて凡て無限の平等と云ふ思想が來る。(ここは汎神論的唯心論の極度の境であると多くの人は想像するだらうが、それは佛敎の思想家が追求すべき道の半分の休息所である)第六段に於て『一切無』と云ふ思想が來る。第七段に於て無と云ふ觀念それ自身も消える。第八段に於て、凡ての感覺も觀念も存在しなくなる。それからそのあとに涅槃が來る。

 同じ經は、怖の死と建べるに常つて、怖が建かに第一、第二、第三、第四の瞑想の階段

をへて、『無限の空間だけが現れて居る心の狀態』へ、――それから『無限の思想のみが現れる心の狀態』へ、――それから特に『何物も全く現れない心の狀態』へ、――それから『意識と無意識との間の心の狀態』へ、――それから『感覺と觀念の兩方共、全く消え去つた心の狀態』へ、通過するやうに表はしてある。

 佛敎の一般觀念を得ようと魔面目に考へる讀者に取つては、こnな引證は必要である、卽ち原因結果の連續の根本的敎理と雖も、自我の實在を同じく否定して、同じやうな謎を暗示して居るからである。無明は行、卽ちを生ずる、は識、識は名色(みやうしき)、名色は六處(ろくしよ)、六處は觸、觸は受、受は愛、愛は取、取は有[やぶちゃん注:「う」。]、有は生[やぶちゃん注:「しやう」。]、生は悲と老と死を生ずる。疑もなく讀者は十二因緣の破滅に關する敎理を知つて居るから、ここにそれを詳しくくりかへす必要はない。しかし讀者は觸を止めて受を滅し、受を止めて名色を滅し、名色を止めてを滅する事を、この敎から想ひつく事ができる。

[やぶちゃん注:「無明」「むみょう」(ここでは面倒なので以下、現代仮名遣で示す)以下、十二因縁が示される。この「無明」は十二因縁の因果の結果であり、過去世の始め無き、迷妄の光無き「煩悩」のこと。その因果の連鎖を完全に断つことによって、輪廻も消滅するとするのである。

「行」「ぎょう」は「業」(ごう)と同義。

「識」「しき」。好悪に基づく区別・差別による不完全で偏頗な擬似認識。

「名色」「みょうしき」。精神的な存在と物質的な存在。人の擬似認識の対象となるものの総称。

「六處」「ろくしよ」。六つの人の不完全な感覚器官機能。眼・耳・鼻・舌・身(触覚)と意識感覚。

「觸」「そく」。「六処」の感覚器官に対し、それぞれの外界の感受擬似対象が接触すること。広く外界との接触の表現。

「受」「六処」による見かけ上の感受感覚・認識。

「愛」愛欲。仏教では広く母子の親愛も当然のこととして含まれる。

「取」執着。愛欲に伴って生ずる妄執。

「有」「う」。人が、見かけ上で「生存している」と認識する(される)状態。

「生」「しょう」。人として仮に生まれ、生を享ける、ということ。

「悲と老と死」十二因縁では「老死」で、あらゆる仮存在の老化と見かけ上の死を指す。そこで終わらず、迷いある限り、再び無明へと返っては因果を繰り返すのである。]

 

 明らかに、こんな文句によつて提供もれた謎を豫じめ解(と)かないで、涅槃の意味を學ばうとする事は望み難い。今日飜譯によつて英語の讀者に親しくなつて居る經文の本當の意味を理解する事のできる前に、神と靈魂、物質、精神に關する普通の西洋の觀念は佛敎哲學には存在しない、それに代る物は西洋の宗敎思想に於て丁度それに相當する物のない槪念である事を理解する事が必要である。特に、讀者は靈魂に關する神學的觀念を念頭から去つてしまう事が必要である。すでに引用した文句から見ても、佛敎哲學には個人的輪𢌞、及び單獨的永久的靈魂のない事が明らかになつて居る筈である。

 

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