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2019/12/21

ブログ百三十万アクセス突破記念 梅崎春生 蟹

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二八(一九五三)年四月号『明窓』に発表された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第一巻」を用いた。

 主人公の「僕」の履歴は概ね梅崎春生のそれと一致する。敗戦時、梅崎春生は満三十歳で、昭和十九年六月に海軍から再召集(昭和十七年一月に陸軍から召集を受けて対馬重砲隊に入隊したが、肺疾患のために即日帰郷している)され、佐世保相ノ浦海兵団に入隊し、暗号特技兵となり、終戦まで九州の各基地を転々とした。その間、昭和二十年初めには士官教育を受け、二等兵曹となっている。

 なお、この電子化は本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが百三十万アクセスを突破した記念として公開する。【2019年12月21日 藪野直史】]

 

   

 

 その男の名を、仮に名村富五郎としておこう。

 名村富五郎は、背丈は五尺二寸[やぶちゃん注:一メートル五十七センチ五ミリ。]ぐらい。背丈こそ低かったが、甲種合格になるだけあって、肩幅もひろく、頑丈な体つきをしていた。裸になると、その頑丈な胴体を、太く短い足が支えている。体つきや顔つきが、どこか蟹(かに)に似ていた。だから下士官や兵長たちから『カニ』という綽名(あだな)で呼ばれていた。

「やい。カニ。これを暗号士に届けてこい」

「カニ。この訳文は間違っとるぞ」

 まあちょっとそんな具合だ。

 カニと呼ばれることを、名村は喜んでいない。そりゃそうだろう。誰だってそんな綽名は、嬉しくないに決っている。そう呼ばれると、名村はぷっとふくれて仏頂面となる。そうするとますます蟹に似てくる。

 僕がこの男と初めて会ったのは、戦争中のこと。九州南部のQ海軍航空隊でだ。

 僕はその頃三十歳。応召の一等水兵で、この航空隊の通信科に配属されたのだ。佐世保通信隊で暗号術の講習を受け、そして単身ここにやって釆た。僕にとって、ここは初めての実施部隊だった。今までは教育部隊で、同年兵ばかりだったが、今度はそういうわけには行かない。僕はほとんど敵地に乗り込むようなつもりで、ここにやって來たのだ。実施部隊の辛さというものを、それまで度々聞かされていたから。

 名村富五郎は、やほりこの隊の通信料の上等水兵だった。

 僕は最初、カニというのを、可児(かに)という姓だとばかり思っていた。そして、実に風貌にピッタリした姓だと、ひそかに感心もしていたのだ。それが、綽名(あだな)と気がついたのは、入隊して三日目ぐらいだ。ほんとにカニ上水などと呼びかけなくてよかった。そんな呼びかけでもしていたら、上級者侮辱の故で、袋だたきの罰直(ばっちょく)にあったかも知れない[やぶちゃん注:「罰直」は所謂、軍隊内で行われた私的制裁、上級兵による下級兵に対する体罰、いじめである。梅崎春生はエッセイ「わが兵歴」(私の電子化)の中で『罰直。バッタと称して、つまり丸太で力まかせに尻をたたくのである。私は五本ぐらいなら辛抱出来たが、それ以上になると脳貧血を起した。私は生来痛さに弱い。バッタを受けて死んだ老兵も私は知っている』と述べている。]。この隊は有数の気風の荒っぽい部隊だった。勤務も辛かった。暗号の勤務も辛かったが、居住区の方の勤務、甲板掃除や吊床教練がなかなか大変だった。実施部隊で一等水兵が一番下級の兵なので、その辛さは言語に絶する。しかも季節は冬だ。南国とは言え、兵隊だから厚着するわけには行かず、寒気が肌にしみわたる。

 僕は陸軍のことは知らない。しかし映画の「真空地帯」などを観ると、上等兵が、時には一等兵が、割に権力を持っているらしい。海軍ではそういうことはない。兵隊で権力を持っているのは、兵長だけで、それ以下はほとんど権力はないのだ。罰直と言えば、上水以下ずらずらと整列させられ、兵長が殴(なぐ)ったり叩いたりすることになる。一水よりも、上水の方が余計叩かれる。整列は二晩か三晩に一ぺんずつ、必ずあった。あの精神棒という太い棒で、力まかせに尻を殴るのだ。

[やぶちゃん注:『映画の「真空地帯」』野間宏の小説(昭和二七(一九五二)年二月河出書房刊の書き下しの、戦時体験に基づく陸軍内部の暴力性や非道・非合理を描いた長篇小説。毎日出版文化賞受賞)。映画化されたそれは新星映画社製作、監督・山本薩夫、脚本・山形雄策、主演の木谷一等兵役は木村功で、同年十二月十五日北星株式会社の配給で公開されているから、本篇の執筆時期が概ね推定出来る。「真空地帯」の原作の梗概及び映画作品のデータ(概ね原作に忠実)についてはウィキの「真空地帯」を見られたい。]

 名村は兵長たちから特に憎まれている様子で、整列の時殴られる本数は一番多かった。僕たちが三四本の時、名村は七八本も叩かれる。それは名村が実技はあまり出来ないくせに、ふてくされたようなところがあったからだ。それともう一つ、見逃せない原因がある。兵長たちはすべて志願兵だったが、名村は徴集兵だったのだ。つまり満二十歳で兵隊検査を受け、そして海軍に廻されて来たのだ。だから兵長らが、歳が十七八だのに、名村は二十一二ということになる。名村の方がはるかに年長なのだ。

 とかく志願兵は徴集兵をバカにし、あるいは憎む傾向が大いにあった。バカにするのは、自分等は志願して海軍に入ったのに、あいつらはのめのめと徴集されて来やがった、そんな気分かららしい。憎むのは、徴集兵は年長だし、二十まで地方にいて、社会的な経験を沢山積んでいる、女なんかも知っている、そんなことに対する憎しみのようだった。                  

 この隊の暗号科は、兵長が六人、上水が六人、そして僕ら一水が八人いた。その中で、徴集兵は名村一人、応召兵は僕と、木原という三十五六の男と二人。あとは全部志願兵ばかりだった。戦争末期のことだから志願年齢もずいぶん引下げられて十四五歳ぐらいのもいたくらいで、つまり僕なんか十四五の少年兵と一緒に、甲板掃除などに追い廻されていたのだ。僕等応召兵を除けば、兵隊の中では名村が一番年かさということになる。その名村が、三つ四つも年下の兵長から、バカにされたり殴られたりする。それが名村にはやり切れない風だった。

「ほんとにあいつ等は――」

 ある時、名村が僕に言ったことがある。

「シャバに戻ったら、足腰立たぬほどぶちのめしてやる」

 実際志願兵たち一般に共通した性格は、他人の苦痛に同情がないということだ。これは十四五歳から精神棒などで痛めつけられて成長して来たので、ふつう人間が持つ想像力を失ってくるのだろうと思う。その連中から追い超されるのは、名村のみならず、僕や木原にとっても、極めて憂欝なことだった。

 

 名村はあまり頭の働きが敏活でなく、暗号は下手だった。暗号作製も暇がかかるし、和訳させると間違いばかりする。それを兵長に言わせれば、

「お前はやる気がないんだ。やる気がなければ、やるようにしてやる」

 という具合で、殴られたりする。殴られても、頭が敏活になるわけじゃないから、名村の仕事ぶりは相変らずだ。

 名村の生家は、農家だということだった。だから、体格はいいし、力も強い。力仕事や甲板掃除には彼は向いている。ところが背が低いものだから、吊床操作には不適だった。ハンモックは梁(はり)にフックがあり、それに環をかけるようになっている。ところがこの部隊の梁は相当の高さがあり、飛び上ってそれに引掛けるのが骨なのだ。僕は背丈が五尺七寸[やぶちゃん注:一メートル七十二センチ七ミリ。]ばかりもあるが、それでも大昔労だった位だから、五尺二寸の名村にとっては大変な事だっただろう。環を掛けようと、ピョンピョン、小野道風の蛙(かえる)のように飛び上る。それがまた、兵長等の嘲弄の的となるのだ。

「何だい、その恰好は。平家ガニみたいな面(つら)しやがって」

 吊床訓練は、先に吊り終った者から走って行き、一列に並ぶ。たいていの場合、名村は後の方だ。上水のくせに一水より遅いのは何ごとかと、箒(ほうき)の柄で力まかせに尻を引っぱたかれる。名村は顔を歪めて、それを受けるのだ。

 吊床訓練は僕も苦手だったけれど、名村がいるおかげで、いくらかたすかっているようなものだった。その点について、名村も考えるところがあったらしく、一度僕と木原を兵舎のかげに呼んで、こう言ったことがある。

「お前ら、応召の一等兵のくせに、ナマイキだ」

 巡検の済んだあとの時間だ。兵舎のかげは暗くて、名村の表情は見えなかった。

「何がナマイキですか?」

 と木原がとんまな反問をした。

「なに。口答えするか!」

 名村は僕等二人を並ばせて、僕等の頰を二つずつ殴りつけた。そして言った。

「お前らは、吊床のやり方が早すぎる。俺より早くやったら、承知しないぞ」

 僕らは黙っていた。頰げたがヒリヒリと痛んだ。この名村の命令は、無理難題というものだった。名村が言う通りにすれば、兵長から僕らが殴られることになる。そんなムチャな話はない。

 僕と木原は、こんな具合にして、時々名村から殴られた。木原が一度怒って、僕に相談を持ちかけたことがある。

「野田兵長に訴えてやろうか」

 さっきも言ったように、殴る権力を持っているのは兵長だけで、上水のくせに一水を殴ったことが判れば、名村はひどい眼にあうに決っている。だから木原がそう言うのだが、僕はとめた。告口はいやだったし、またいずれ名村も兵長に昇進する筈だから、その節復讐されるかも知れない。そのことも考慮に入れる必要があったのだ。

 名村が僕らを殴るのは、いつも巡検後、しかも人目につかない暗がりでだ。上水が一水を殴っているところを、人に見られちゃ、名村も困るのだろう。しかも、面白いことには(あまり面白くもないが)、名村が殴るのは僕ら二人だけなのだ。志願兵の若い一水を殴るのは、控えているようだった。若い一水を殴ると、兵長に告口されると警戒したせいか。僕ら二人は老兵で、居住区でも孤立した存在だったから、安心して殴っていたのかも知れない。

 しかし木原がある時、こういう仮説を立てた。

「あいつ、年下から殴られてばかりいるんで、年長の俺たちを殴って、腹いせしてるんだぜ。きっとそうだ」

 この仮説は、あるいは正しかっただろう。しかしそんな名村の気持の動きを、僕は是認するわけには行かない。年下から殴られて辛ければ、年長者を殴ることを慎しむのが本道だ。そう僕は考えるのだが、名村はそう考えなかったのだろう。名村が僕らを殴るのは、どうも彼が忿懣(ふんまん)やる方なき時なのだ。むしゃくしやする気持を、僕らを殴ることによってはらす。それが彼のカタルシスなのらしい。カタルシスの道具になる僕らこそ、迷惑な話だったけれども。

 しかし僕らにとっては、兵長から殴られても、名村から殴られても、気持の厭さにおいては大差がなかった。どちらもはるか年下である点では同じだ。どちらも子供なんだ。

 子供と言えば、若い一水やあるいは上水の中に、身体の成熟を未だとげていないのもいたくらいだ。隊内には温泉が湧く。この隊のあるQ町というのは温泉地帯で、隊内にも湧口がひとつある。僕らは夜の甲板掃除後、あるいは巡検後、やっとそれに入れるのだが、一緒に入る若年兵の裸を観察すると、いまだに発毛がなくスべスべしてるのがいる。不具ではなくて、生理が発毛の段階まで達していないのだ。

「こんな連中と一緒にやってんだからな」

 木原が時折そう嘆くのも無理はない。服をつけるとちゃんとした上等水兵で、僕らが敬礼しなけれはならないのが、裸になると葱の白根のようにスべスべしている。あんまり愉快な気持じゃなかった。

 

 温泉風呂のことを、ちょっと書いて置こう。

 僕らが入るのは夜遅くなので、すっかりぬるくなっている。と言うのは、この湧口のはもともとぬるいので、将校や下士官が入る時は、石炭で加熱するのだ。それもせいぜい午後六時か七時までで、それ以後は本来の温度に戻る。摂氏何度ぐらいか、計ったことはないが、相当にぬるかったことは確かだ。とにかく僕らが、甲板掃除などで身体が冷え切って、しかも足にはヒビやアカギレが出来ているのに、服を脱いでいきなり飛び込んでも、全然沁みたり熱かったりしないのだ。実に快適にスポッと入れる。それはいいけれども、今度は出るのが大変なのだ。湧口の近くは、いくらか熱いが、そこは上水や兵長が入っているので、近づけない。湧口から一番遠いところで、我慢しなければいけない。

 だから僕らはおおむね、巡検後に入ることに決めていた。巡検後と言えば、眠る時間を使用することになり、勿体(もったい)ない話なのだが、しかしその時間は入浴者が少なく、湧口近くに行けるという利点があったのだ。

 ある時、僕と木原が入っていると、脱衣場の方から名村が裸で入ってきた。広い湯槽には僕ら二人だけだったのだ。たしかその夜、巡検後の整列があり、その後のことだから、巡検から一時間も経っていたと思う。名村は手拭いで軀(からだ)をしめしながら、じろりと僕らの方を見た。

 僕らはそろそろと身体を動かせて、湧口の位置を名村にゆずった。名村はざぶりとそこに身をひたした。

「お前らは、いつも今頃、風呂に入るのか?」

 と名村は不機嫌に質問した。

「そうです」

 木原がおとなしくそう答えた。すると名村はじろじろと僕らの方を見ていたが、

「おい。お前たちは、年はいくつになる。生年月日を言って見ろ」

 誰もいないものだから威張ってやがる、と思ったけれど、逆らうとうるさいので、僕らは生年月日を答えた。僕は大正四年生れだが、木原は、明治生れだ[やぶちゃん注:梅崎春生は事実、大正四(一九一五)年二月十五日福岡市生まれである。]。明治と聞いて、名村はちょっと表情を歪めた。

「なに。明治だあ?」

 そしてふと考え込む顔付になった。明治という年号から、自分の父親のことでも思い出したのかも知れない。しかしすぐ不機嫌な表情になって、

「おい。お前たち二人で、俺の身体を洗え。寒いから手早くやるんだぞ」

 ざぶざぶと流し場に上って行った。こちらはもっとあたたまっていたいのだが、止むを得ずざぶざぶと上って、手拭いに石鹸をつけ、蟹のような名村の身体を洗い始めた。もっと力を入れろ、こすり方が手ぬるい、などと名村が文句をつけるので、力まかせにごしごしやっていると、脱衣場の方から、

「こらあ、カニの野郎!」

 と怒鳴る声がした。はっと振り返ると、野田という若い兵長だ。名村はしまったと思ったらしく、あわてて僕らを突きのけようとしたが、もう遅かった。

「上水のくせに、背中など流させやがって!」

 そう言いながら、野田はつかつかと入って来た。

  僕らはその姿勢で、じつとしていた。すると野田は、いきなり名村の肩と腕を摑(つか)むようにして、ずるずると引張り、湯槽の中に力まかせに突き飛ばした。名村は湯煙を立てて、シャバン[やぶちゃん注:ママ。]ところがり込んだ。僕らは息を詰めて、それを眺めた。やがて名村の首が、ひょいと湯の表面にあらわれた。野田が大声で怒鳴った。

「上ってこい」

 野田の手には、大きな湯搔(ゆか)き棒が握られている。それを見ると、名村は顔色を変えて、眉の根をふくらませたが、やがて観念したように、ふてくされてのそのそと上ってきた。そして上半身をやや前に屈し、両手を伸ばして、尻を殴られる規定の姿勢をとった。野田の棒が大きく振り上げられた。肉と棒とがぶっつかる鈍い音が名村の尻に鳴って、名村はうっとうめいた。

「この野郎。この野郎!」

 棒はつづけざまに打ちおろされた。

 僕ら二人は流し場のすみから、その光景を見ていたわけだ。野田も名村も、まったくの裸だ。裸の男が、裸の男を棒でなぐつている。うすぐらい電燈の下で、それは何だか地獄の出来事のような、陰惨で残虐な感じだった。名村は野田から十本ばかり尻をなぐられ、とうとう動けなくなって、床にうずくまってしまった。野田はなおも罵声を発していたが、名村が動かないので、棒を捨てて湯の中にざぶりと飛び込んだ。裸だから、彼も寒かったに違いない。野田が上るまで、名村は流し場にうずくまって、動かなかった。皮膚が破れて、尻は血で濡れていた。

 野田が風呂を出て行ってしまうと、僕らは何だか放って置けなくなって、名村の傍に行った。背中から手を廻して、抱き起そうとした。名村の裸は、濡れた瓦みたいにつめたかった。抱き起そうとする僕を、名村がじろりと振り返った。口が動いた。

「覚えてろ!」

 そして僕のたすけを拒否しながら、名村はよろよろと立ち上った。

「余計なことするな!」

 その瞬間、僕はやはりこの名村に、同情と憐憫(れんびん)の情を強く感じていた。どんな強がりを言ったところで、つまりは彼は孤独なのだし、その孤独のやり切れなさを持ちあつかいかねているに違いなかったからだ。しかし、力をかそうとする僕の掌を、彼は力をこめてピシリと打った。

「余計なことをするな!」

 

 しかし、名村は、時に僕らを殴るとは言え、彼は志願兵たちよりも、僕らの方に親近を感じていたことは否めないと思う。僕らと名村は、志願兵たちの中では、異端である点で一致し、被害者である点で一致していたからだ。けれども彼は、僕らと親近であることが時にやり切れなくなって来るらしい。それは自分が惨めな被害者であることを、認めるようなものだからだ。

 上陸日(外出日のこと)が、時に名村と一緒になることがある。すると名村は、他の兵隊とではなく、必ず僕らの方に近づいて来て、行動を共にしようと言うのだ。断ったり渋ったりする気配を見せると、怒り出す。半強制的なのだ。

 僕らは名村に連れられて、町の共同浴場に入ったり(隊の風呂とは違って、湯も満々としているし、熱かった)、飲食店などに入ったりした。外出日というと、名村は朝から、割に快活になっている。一日の自由が確保されているという意識が、自ずと彼の態度を快活にさせるらしい。上陸員整列の前に、下士官や兵長に「上陸させて頂きます」とのあいさつを欠かしてはならないのだが、名村は一度などはそれを忘却して、お陰で翌日上陸員総罰直を食ったこともある。

 隊門を出ると、まああと数時間か十数時間は、自由の時間だ。僕も出来れば一人になって、自由にふるまいたい。何も好んで名村みたいな陰欝で気の利(き)かない若造と、行を共にしたくないのだけれど、上水の命令であれはいたしかたない。名村はそんな僕の気持も知らず、せっせせっせと歩き廻り、忙しく自分の自由を満喫するのだ。隊門から町まで、田舎の中を大路が貫いている。そこを歩きながら、この畠の風景が自分の田舎のそれに似ていると、僕にくどくどと説明して聞かせたりする。彼の生家は佐賀県の田舎で、彼は五人兄弟の一番末弟らしい。そんなことを問わず語りに話して聞かせる。そんな時の彼の話しぶりは、楽しげと言うよりも、イライラしているような具合で、そういう故郷の幸福に戻りたいという願望が、切なく胸にあふれているようだった。そして、その切なさを聞かせる相手に、彼は僕らを選ぶのだ。

 せまい町中だから、一廻りしてあちこち寄ったって、なにほどの時間もかかりゃしない。結局、名村が僕らを引っぱって行くのは、自分の下宿だ。

 下宿というのは、上陸の度にそこに寄って休息したりする民家のことで、ことに上水以上には必要なものだった。一水は、朝外出して、夕方には戻って来ねばならないが、上水は二度に一度、あるいは三度に一度、外泊が許される。そこでどうしても下宿が必要なのだ。

 名村の下宿は、町外れの小さな農家だった。その納戸(なんど)みたいな一部屋が、名村の部屋だ。名村の部屋と言っても、彼は五日か六日に一度の外出だから、他の外出日の兵と共同で借りていることになる。その部屋には小さなイロリがあって、その前に大あぐらをかき、豆や菓子をつまみながら茶を飲んでいる名村の姿は、実に陰気な幸福にあふれていた。

 僕らの帰隊時間は午後六時だ。しかし六時きっかりなどに帰ろうものなら、一等兵のくせにナマイキだと叩かれるから、五時半には戻っていなくてはならない。五時半に戻るには、名村の下宿を五時に出発せねば間に合わない。

 その五時までの時間、イロリを囲んで名村と対坐しているわけだが、ふしぎなことには名村は自分のことばかりを話して、相手の話をほとんど聞きたがらないのだ。たとえば、自分の故郷のこと、自分の少年時代のこと、自分の友人のこと、などを次々に、誇らしげにあるいは詠嘆的に、僕らに話して聞かせる。そのくせ、僕らの経歴や故郷については、ほとんど興味を示さない風だった。無関心と言ってもいい位で、つまり僕らは彼にとっては、過去を持った現実の人間ではなく、単に水兵服を着た現象みたいにしか見えなかったのだろう。そうだ。僕らは単に相槌(あいづち)を打つ現象に過ぎなかった。

「お前らにゃ判らないだろう。え。俺の村の良さがさ」

 僕らはそんな名村の言葉にも相槌を打つ。

 そろそろ五時が近づいて、彼は外泊、僕らが帰隊の仕度を始めると、名村はふいに不機嫌な仏頂面(ぶつちょうづら)になる。あるいは毒々しい言葉で、僕らを嘲弄し始めたりするのだ。

「可哀そうなもんだな一等水兵は。たまにゃお前たちも、ハンモックじゃなく、ふつうの寝床に寝たいだろうな」

 その願望は強く僕らにある。それをちゃんと名村は見抜いていて、そんな厭がらせを言うのだ。僕らは形式的なあいさつをして名村の部屋を出る。うしろから名村が聞えよがしに言う。

「可哀そうなもんだよう、一等兵さまは」

 僕らは寒風が吹きぬける大路を、急ぎ足で隊門に戻りながら、今夜の、また明日からの日課のことを物憂く考えている。一晩布団にくるまって寝ようとも、翌朝六時には隊に戻って来ねばならんじゃないか。それがいかほどの幸福か。などとも思って見るのだが、やはりふつうの布団にくるまって、一人で眠るということは、なにか羨しいことだった。この気持は、軍隊生活の経験ある人でないと、判らない気持だろうけれども。

 

 名村富五郎上水がある夜ふしぎな脱走の仕方をした。いや、脱走と言ってはウソになるだろう。彼は夜中に突然居なくなって、翌朝九時頃、ぼんやりと痴呆のような表情で戻って来たのだから。

 それは冬にしては風のない、割にあたたかな夜だった。名村上水はその夜、防空電信室の当直に当っていた。防空電信室は、空襲の時に使用するために作られたものだが、その頃はまだ空襲がない頃だったから、時々巡検後の整列に使用されるだけで、誰か一人兵隊が当直として、無電機類の番をするだけだった。これは一人配置だし、ちょっと淋しいけれども。[やぶちゃん注:句点はママ。]仕事としてはラクだった。そこに居るだけでよかったのだから。

 で、名村はそこの当直で、一人だけだった。

 防空電信室というのは、大きな半地下濠で、頑丈(がんじょう)な仕切りで隔てられた部屋がいくつかある。建物から相当離れているから、しんしんと静かだ。物音一つも聞えない。空気はしめっぽく動かない。当直のいる部屋は、二十畳はどの広さで、周囲にはぐるりと無電機を置く棚があり、無電機もいくつかは乗っている。僕も一度この当直にあたり、一晩寝たことがあるが、孤独であることは楽しかったけれども、なんだか恐くて、うなされたりして良く眠れなかった。この配置はしかし、朝、割に寝坊が出来るので、上水以上が独占して、なかなか一水には廻して貰えないのだ。

 夜の十一時頃、ある下士官が用事があって防空電信室に行って見ると、当直用の毛布はしいてあったが、名村の姿は見えなかったと言う。便所にでも行ったのかと暫く待ったが、戻って来ない。名村はどこに行ったのかと、それでちょっとした騒ぎになった。それからあちこち探したけれども見当らない。

 翌朝になっても、名村の姿はどこにも見えない。暗号士や掌暗号長などが額を集めて相談している。他隊に知られると通信科のカブが下るし、と言って、かくして置いても責任問題となる。そんなところへ、どこからともなく名村の姿が、ひょっくりと暗号室に現われて来た。顔は痴呆のようにげっそりしているし、あちこちで転んだと見えて、事業服は泥だらけだ。

[やぶちゃん注:「掌暗号長」通信科内の暗号管理の実務エキスパートで、恐らくは兵曹長である。この上にさらに全体を統括する原則、海軍将校が就いた(狭義の「海軍将校」とは原則、海軍兵学校・海軍機関学校卒業生だけを指す。但し、兵学校選修学生出身の特務士官〔海軍の学歴至上主義のために大尉の位までに制限配置された後身の準階級で、叩き上げの優秀なエキスパートであっても、将校とはなれず、将校たる「士官」よりも下位とされた階級。兵曹長から昇進した者は海軍少尉ではなく、海軍特務少尉となった〕も特例として就けた)暗号科内の最高責任者である「暗号長」の職務を補佐し、全体を指揮監督する「暗号士」がいたものと想定される。

「事業服」海軍軍装の一種の正式呼称。正装の軍服ではないが、作業服の一ランク上のものであったらしい。ミリタリーグッズ・革ジャンの専門店「中田商店」のこちらのようなものかと思われる。]

「どうしたんだ」

「どこへ行ってたんだ」

 そんな質問に対しても、名村は蟹(かに)のように口から小さな泡をふきながら黙っている。熱病やみみたいな、ぎらぎらする眼付だった。

 やがて、彼がぽつりぽつりと話し出したことは、まことに奇怪だった。僕はその時当直で暗号室に詰めていたし、その話は僕のすぐ背後だったから、よく聞きとれたのだ。

 以下、名村の話。

 巡検ラッパがかすかに聞えて来たので、彼は毛布をしいて、事業服の上衣を脱いだ。そして毛布に入ろうとすると、通路の方から足音がして、扉から見知らぬ下士官の顔がのぞいた。

 名村はびっくりして顔を上げた。

 するとその下士官は、自分は看護科の××兵曹(その名は名村は忘れた)だが、一寸聞きたいことがあるから、看護科まで来て呉れ、と言う。そこで名村は起き上り、上衣をつけた。その間その下士官は扉の側に立って、じつと名村をにらむように見詰めていたと言う。

 上衣を着けて、名村はその下士官に連れられて、通路に出、そして防空電信室を出た。空には星がたくさん出ていた。暗い草地をしばらく歩くと、そこに小さな小屋のような建物があった。こんな建物があるとは、名村は夢にも思っていなかったので、彼はびっくりした。それは丁度、本部と防空電信室の中間ぐらいに位置していたと言う。(あとで実地検証したけれども、もちろんそんな建物はなかった)

 下士官はその建物の扉を押して入った。名村がためらっていると、下士官はふり返って、妙な笑い方をしながら、彼においでおいでをした。そこで名村も、変だと思ったけれども、ついに扉の中に入った。扉の中は、まっくらだった。

 ここでいきなり名村の記憶は途(と)切れる。あとどうなったか、何も思い出せぬと言う。

 ――気がついた時、朝の六時頃で、そろそろ明るくなりかかっていた。彼は山の中の、道もないようなところを歩いていたと言う。さし交す樹々の梢から、朝露がひっきりなしに落ちて、服はぐしょぬれだった。名村はびっくりした。何故自分がこんなところを歩いているのか、全然理解出来なかったのだ。

 それから必死になってムチャクチャに歩いている中に、小さな部落に出た。その部落の人に朝飯を食わせて貰って、今やっと戻って来たのだと言う。その部落は、隊から一里ほど離れたところにあった。

 この名村の陳述は、一時間ばかりかかってポツリポツリと行われた。そしてそれは、暗号長等に全面的に信用されたかどうか、僕は知らない。しかし結局、この事件は表沙汰にはならなかったようだ。表沙汰にすれば、名村は勿論(もちろん)のことだが、上級者の責任ということにもなる故だったのだろう。

 しかし僕にしても、名村のその陳述を信用するか否かになると、どちらとも決めかねる。信用する側に立てば、軍隊を脱出したいかねての欲望が、そんな夢中遊行を生んだとも思えるが、どうもそこらもハッキリしないのだ。

 僕は今でも名村のことを時々思い出す。あの若いのに陰欝な風貌や、蟹(かに)に似た姿体などを。

 あの航空隊にいる時、僕と木原に下士官候補を受けろという命令が来て、出発することになった。その時名村が感慨深げに言った。

「すると二箇月後は、お前らは下士官というわけだな。全くバカにしてやがるな」

 そして嘲(あざ)けるような声で笑った。僕はその笑い声を、思い出そうとすれば、すぐ耳の側で聞えるような近さで思い出すことが出来る。

 

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