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2019/12/08

小泉八雲 作品集「心――日本内面生活の暗示と反響」始動 / (序)・停車場にて

 

[やぶちゃん注:本篇は来日後の第三作品集(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE (心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)であるが、以下のリンクで判る通り、「序」では標題部を漢字「心」で代えてある)は一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された)の序と第一話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認できる(「停車場にて」(原題“AT A RAILWAY STATION”はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。なお、この絵の少年は熊本第五高等学校時代に親しかった同僚英語教授佐久間信恭(のぶやす 文久元(一八六一)年~大正一二(一九二三)年:但し、熊本を離れる前にトラブルがあって疎遠となったようである。ウィキの「佐久間信恭」によれば、『性格の不一致により次第に対立を深め』、『ハーンは』五校『退職後の書簡において、佐久間は宣教師と結託して自分より優秀な教師のボイコットを首謀したと訴えているが、真相は不明である』とある)の親友で、小泉八雲も交流があった札幌農学校時代の同期生(二期生)高木玉太郎の長男弘(ひろむ:明治一九(一八八六)年生まれ)と考えられている。菌類のチャワンタケ(菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門チャワンタケ綱チャワンタケ目 Pezizales(盤菌類(Discomycetes))の研究家の個人サイト内の「ラフカディオ・ハーンが感動した少年のその後」によれば、『この少年は高木玉太郎という人の子供で、ハーンがこの子の顔の写真を見て純粋な日本の少年だと感動して借用したものである』『(高木に写真を送ってもらった事に対するハーンの礼状が最近八雲記念館に寄贈されている』)。『富士額で坊主頭、着物姿の』八『歳くらいの少年で、美少年というわけではないが端正で賢そうな顔をしている』。『高木はハーンの友人である佐久間信恭の友人であった』。『高木玉太郎には四人の子供がいた。長男弘、長女千代子、次女美代子、次男孝二の各氏で』。『長男弘(ひろむ)氏』の生年と『「心」の出版年から考えると』、『写真の少年は弘氏に間違いない』とあるからである(なお、何故、こちらのサイトにあるのはかというと、恐らく『因みに長女の千代子さんはキノコ学者川村清一の弟で陸水生物学者として著名な川村多実二と結婚している』とあることによるのであろう)。絵師は不明。また、偶然ではあろうが、この少年の顔、以下に示す「停車場にて」の子どもの顔にダブって、私には仕方がないのである。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。なお、標題や序の訳者は巻末分担表に指示がないが、恐らくは、この「停車場にて」の訳者田部氏が担当したものと思う。

 ネタバレしないように、後注を設けた。

 

 

   

     日本内面生活の暗示と反響

 

 

    詩人、學者、愛國者なる

     友人 雨森信成へ

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「雨森信成」(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバー。ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きでWE・グリフィスが化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師SR・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『MN・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のTA・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある。]

 

 

   

 この一卷のうちにある諸篇は日本の外面生活よりは、むしろ内面生活を取扱つて居る、――この理由で『心』と云ふ名稱の下にまとめられたのである。心の漢字は情緖的の意味で又心意とも解せられる、精神、勇氣、決心、情操、情愛、それから――私共が英語で『物の心』と云ふやうに、――内面の意味とも解せられる。

   一八九五年・九月十五日・神戶。

[やぶちゃん注:本書刊行時、小泉八雲は神戸におり、無職であった。熊本第五高等学校は明治二七(一八九四)年十月までに退職し(契約切れと、五高に馴染めなくなっていたこと(特に明治二四(一八九一)年(十一月十五日着)に五高に彼を招いて呉れ、敬意を持っていた校長嘉納治五郎が転任して以降)等の外に、著作への専念の希望もあった。神戸着は明治二十七年十月十日で、同月九日に『神戸ジャパン・クロニクル』社に記者として就職、神戸に転居していたが、疲労から眼を患い、この年の一月に退社していた。なお、この明治二八(一八九五)年年末十二月には東京帝国大学文科大学学長外山正一から英文学講師としての招聘を享けて受諾しており、時間ががかったが、翌明治二九(一八九六)年九月八日にセツと上京(セツは上京を八月二十七日とする)、九月十一日には帝大での授業を始めている。]

 

 

      第一章 停 車 場 に て

 

         明治二十六年六月七日

 昨日福岡から電報で、そこで捕へられた重罪犯人が、今日裁判のために正午着の汽車で熊本に送られる事を知らせて來た。一人の警官が今日罪人護送のために福岡へ出張してゐた。

[やぶちゃん注:本文前のクレジットは、底本では下五字上げインデントでポイント落ちである。]

 四年前一人の强盜が夜相撲町の或家に押入つて、家人をおどかして縛つて、澤山の貴重品を奪ひ去つた。警官のために巧みに追跡されてその盜賊は二十四時間内に贜品[やぶちゃん注:「ざうひん」。「贜」は「贓」の異体字。犯罪行為によって不法に手に入れた他人の財物。贓物(ぞうもつ)。]を賣捌く間もないうちに捕へられた。しかし警察署へ送られる途中鎖を切つて、捕縛者の劒を奪つて、その人を殺して逃げた。先週までそれ以上その盜賊の事は何も分らなかつた。

[やぶちゃん注:「相撲町」現在の熊本県熊本市中央区下通(しもとおり)(グーグル・マップ・データ)に「通り」の名として残る。その由来は江戸時代に細川藩お抱え力士がこの附近に居住していたことによるらしい。

「劒」当時の巡査は防具として短剣を佩刀していた。平成一五(二〇〇三)年に書かれた森良雄著「巡査帯剣の歴史」(PDF)によれば、巡査まで帯刀(洋刀(サーベル))の法的許可が下ったのは明治一五(一八八二)年である。因みに拳銃所持の許可はずっと遅く大正一二(一九二三)年以降であった(あまり知られていないが、それよりずっと以前の明治八(一八七五)年以降、永く本邦で普通に拳銃所持を許されていた職業がある。それは郵便配達夫であった)。第二次世界大戦敗戦後のごく初期の一時期は進駐軍に遠慮して自発的にサーベルを使用したが、昭和二一(一九四六)年一月GHQからの覚書によって拳銃携帯が許されて今日に至っている。]

 それから熊本の探偵がたまたま福岡監獄を見に行つて、その囚徒のうちに彼の頭腦に四ケ年間寫眞を燒きつけたやうになつてゐた顏を見た。看守に向つて『あれは誰です』と尋ねた『ここでは草部と記入されて居る窃盜犯です』と答があつた。探偵は囚人に近づいて云つた、

 『お前の名は草部ぢやない。野村貞一、お前は殺人犯の件で熊本へ御用だ』その重罪犯人は悉く白狀した。

[やぶちゃん注:「探偵」“detective”。刑事(英語では巡査も含むが、ここはまず刑事だろう)と訳すべきところである。]

 

 私は停車場への到着を目擊するために大勢の人々と一緖に行つた。私は憤怒を聞き又見る覺悟をしてゐた。私は暴力の行はるべき事さへ恐れてゐた。殺された警官は大層人望があつた。その親戚は必ずその見物のうちに居るだらう、それから熊本の群集は甚だ穩かとは云へない。私は又澤山の警官が警戒に當つて居る事と思つた。私の豫想はまちがつてゐた。

[やぶちゃん注:この「停車場」、駅は指示してもよかろう(実話である以上という点でである)。とある記事(冒頭で述べた理由からリンクを張らない)によれば、この駅は現在の「上(かみ)熊本駅」だという。当時は「池田駅」という名称で、九州鉄道の終点駅であったという。現在の熊本県熊本市西区上熊本二丁目にある「九州旅客鉄道(JR九州)」及び「熊本電気鉄道(熊本電鉄)」の「上熊本駅」である(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「上熊本駅」によれば、明治二四(一八九一)年七月に私設鉄道会社「九州鉄道」の「池田駅」として開業している(上熊本駅への改称は明治三四(一九〇一)年)。現在の熊本駅の北北東約三キロメートルの位置にある。]

 汽車は忙しさと騷しさのいつもの光景、下駄をはいて居る乘客の急ぎ足とでカラコロ鳴る音、日本の新聞と熊本のラムネを賣らうとする子供の呼び聲のうちに止まつた。

 埓[やぶちゃん注:「らち/らつ」。駅構内を仕切る囲い。]の外に私共は五分間程待つてゐた。その時警部によつで改札口から押されて罪人が出て來た、頭をうなだれてうしろ手に繩でしぱられた大きな粗野な樣子の男であつた。罪人と警官と兩方共改札口の前にとまつた、そして人々は前に押し出て、しかし默つて、見ようとした。その時警官は大股で呼んだ、――

 『杉原さん 杉原おきび、きてゐますか』

[やぶちゃん注:底本では「杉原さん」の後は字空け。脱字(脱記号)も疑われるが、敢えてママとした。原文は“Sugihara San! Sugihara O-Kibi! is she present?”であるから、ここは「『杉原さん!杉原おきび、きてゐますか』の「!」の脱字(誤植)の可能性が高い(本底本全集ではどの訳者も言い合わせたように殆んど「!」「?」の後の字空けをしない)。]

 背中に子供を負うて私のそばに立つてゐたほつそりした小さい女が『はい』と答へて人込みの中を押しわけて進んだ。これが殺された人の寡婦であつた、負うてゐる子供はその人の息子であつた。役人の手の合圖で群集は引き下つて囚人とその護衞との周圍に場所をあけた。その場所に子供をつれた女が殺人犯人と面して立つた。その靜かさは死の靜かさであつた。

 少しもその女にではなく、ただ子供だけに向つてその役人は話した。低い聲であつたが、大層はつきりしてゐたので、私は一言一句きく事ができた、――

 『坊つちゃん、これが四年前にお父さんを殺した男です。あなたは未だ生れてゐなかつたあなた母はさんのおなかにゐました。今あなたを可愛がつてくれるお父さんがないのはこの人の仕業です。御覽なさい、(ここで役人は罪人の顎に手をやつて嚴かに彼の眼を上げさせた)よく御覽なさい、坊つちやん、恐ろしがるには及ばない。厭でせうがあなたのつとめです。よく御覽なさい』

 母親の肩越しに男の子はすつかりあけた眼で恐れるやうに見つめた、それからすすり泣きを始めた、それから淚が出た、しかし畏縮しようとする顏をしつかり、そして從順に、續いて眞直にぢつと見て、見て、見ぬいた。

 群集の息は止つたやうであつた。

 私は罪人の顏の歪むのを見た、私はその鎖も構はないで突然倒れて跪いて、そしてその間聞いて居る人の心を震はせるやうに悔恨の情極つたしやがれ聲で叫びながら、砂に顏を打ちつけるのを見た、――

 『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんして下さい、坊つちやん。そんな事をしたのは怨みがあつてしたのではありません、逃げたさの餘り恐ろしくて氣が狂つたのです。太變惡うございました、何とも申しわけもない惡い事を致しました。しかし私の罪のために私は死にます。死にたいです、喜んで死にます、だから坊つちやん、憐れんで下さい、勘忍して下さい』

 子供はやはり默つて泣いた。役人は震へて居る罪人を引き起した、沈默の群集はそれを通すために左右へ分れた。それから全く突然全體の群集はすすり泣きを始めた。そしてその日にやけた警官が通つたとき、私は前に一度も見た事のない物、めつたに人の見ない物、恐らく再び見る事のない物、卽ち日本の警官の淚を見た。

 群集は退散した、そしてこの光景の不思議な敎訓を默想しながら私は殘つた。ここには罪惡の最も簡單なる結果を悲痛に示す事によつて罪惡を知らしめた容赦をしないが同情のある正義があつた。ここには死の前に只容赦を希ふ絕望の悔恨があつた。又ここには凡てを理解し、凡てに感じ、悔悟と慚愧[やぶちゃん注:「ざんき」。自分の言動を反省して恥ずかしく思うこと。]に滿足し、そしてままならぬ浮世と定め難き人心をただ深く經驗せるが故に憤怒でなく、ただ罪に對する大なる悲哀を以てみたされた群集(怒つた時には恐らく帝國に於て最も危險な群集)があつた。

 

 しかしこの一挿話のうち、最も東洋的であるから、最も著しい事實は、罪人の親たる感じ、どの日本人の魂にも一大分子となつて居る子供に對する潜在的愛情に訴へて悔恨を促した事であつた。

 

 日本の盜賊のうちで最も名高い石川五衞門が或役人の家に入つて殺して盜まうとした時、自分に手をさしのべた子供の笑顏に氣を取られて、その子供と遊んでゐて、遂に自分の目的を果す機會が全く失はれたと云ふ話がある。

 この話を信ずる事はむつかしくはない。每年職業的犯罪者が小兒に對して憐みを示した事が警官の記錄にない事はない。數ケ月前地方の新聞に恐るべき殺人事件(盜賊が一家をみなごろしにした事件)が記されてあつた。眠つて居る問に七人の人が文字通り寸斷されたが、警官は一人の小さい子供が全く害をうけずに血の溜りに獨りで泣いて居るのを發見した。警官は加害者がその小兒を害しないやうにと餘程注意したに相違ない事の疑ない證據を見出した。

 

[やぶちゃん注:この事件については、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二六(一八九三)年の四月二十二日(土曜)の条に、『「九州日々新聞」に「停車場で」の素材となった記事が掲載される。これに基づく執筆の時期は不明である』とあり、以下、本文冒頭でクレジットされる日には本篇についての記載はない。本底本の「あとがき」で田部氏は、『「停車場にて」の記事は、著者が實際巡査殺しの犯人を停車場に迎へたのであつた』と記しておられものの、『第百九回「ラフカディオ・ハーンの会」ニュース』(二〇〇九年九月五日発行)によれば、『九州日日新聞』(明治二十六年四月二十二日付け)の記事を発見し、調査したところ、『ハーンが実際に池田駅(上熊本駅)に居合わせて犯罪者の到着を目撃したのではないらしいことが判った』とあり、田部氏の謂いは否定されるようだ。『作品化するに当って、ハーンが変更した事実は、①』巡査殺しの発生は、七『年前』のことであり、『子供は』七『歳で、母親に背負われてはいなかった。②犯人は佐賀から連行された。③人名(草部、野村貞一、杉原おきび)は』総て『ハーンの創作』であるとある。さても、幾つかのネット検索を掛けると、この事件について記した記事を見出すことは出来る。しかし、この犯人は処罰され、刑に服した以上(この犯行内容から考えて死刑ではなかろうし、一応、溯って明治の死刑執行一覧とその罪状を調べてみたが、見当らない)、その事件や裁判を穿鑿する気は毛頭、私には、ない。小泉八雲の本篇執筆の動機も奈辺――そのような鵜の目鷹の目の野次馬根性――にはないことは言うまでもないからである。

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