フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「二」 | トップページ | 小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「四」 »

2019/12/03

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「三」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」』の冒頭の私の注を参照されたい。]

 

       三

   『須菩提、もし我、我相か、人相か、
    衆生相か、壽者相かを有すとせば、
    我又瞋恨の念を有するならん。……
    色、聲、香、味、觸を信ずる者は布
    施すべからず』――『金剛經』

[やぶちゃん注:これは「金剛経」の「離相寂滅分第十四」の、

   *

須菩提、如我昔爲歌利王割截身體、我於爾時、無我相、無人相、無衆生相、無壽者相。何以故、我於往昔節節支解時、若有我相、人相、衆生相、壽者相、應生瞋恨。須菩提、又念過去於五百世作忍辱仙人、於爾所世、無我相、無人相、無衆生相、無壽者相。是故須菩提、菩薩應離一切相、發阿耨多羅三藐三菩提心。不應住色生心、不應住聲、香、味、觸、法生心、應生無所住心。若心有住、則爲非住。是故佛說、菩薩心不應住色布施。須菩提、菩薩爲利益一切衆生、應如是布施。如來說、一切諸相、卽是非相。又說、一切衆生、卽非衆生。

   *

が元であろう。「瞋恨」は「しんごん」で、「瞋」(自分が蔑(ないがし)ろにされた」という自己愛憤怒から生ずる憎悪・嫌悪)から「恨」(他者を怨み続けること)は生まれる。最後の部分は果敢ない眼前の現象に囚われた布施はしてはならないことを言う。]

 

 自覺した自我の無常であると云ふ敎理は、佛敎哲學の最も著しい物であるのみならず、又道德的に最も重要なる物の一つである。恐らくこの敎の倫理的價値は未だ西洋の哲學者によつて正しく評價されてゐない。どれ程人類の不幸は、直接間接にこれと反對の信仰によつて、――安定性の物があると云ふ迷によつて、――性格、境遇、階級、信條の區別は不變の法則によつて定められると云ふ迷によつて、――それから變らない、不朽の、感覺ある靈魂が神の氣まぐれで無窮の福か或は永遠の火かに運命が定められると云ふ迷によつて、――起されたであらう。疑もなく永久の憎惡によつて動かされる神の觀念、――不變の狀態に定められる永久不變の實體のある靈魂の觀念、――償ふ事のできない罪と、終る事のない罰の觀念は、以前の社會進步の半開狀態では價値がないわけでもなかつた。しかし私共の未來の進化のうちには、これ等の槪念は全然なくなるべき物である、そして西洋と東洋との思想の接觸によつて、これ等の槪念の衰亡の速度が增すと云ふ好結果になるであらう。これ等の槪念によつて起つた感情が殘つて居る間は、本當の容赦の念、人類同胞の感、博大なる愛の眼ざめがあり得ないだらう。

 それに反して、恆久、有限的安定性を認めない佛敎、一時的現象としての外は、性格や階級や種族の差別を認めない、――否、神と人との相違をさへ認めない――佛敎は、根本的に容赦の宗敎である。阿修羅と天人は、同じのただ變化ある發現に過ぎない、――地獄と極樂はただ永久の平和に達する旅の一時の休み場に過ぎない。凡ての人類に取つてただ一つの法則、――不變の神聖なる法則があるだけである、――その法則によつて最低の者が最高の者の場所に上らねばならない、――その法則によつて最惡の者が最善の者にならねばならない、――その法則によつて最も卑しい者も佛にならねばならない。こんな敎法には偏見の餘地も憎惡の餘地もない。愚痴だけが誤りと苦みの源となる、そして凡ての愚痴は自我の解體によつて、結局無限の光明のうちに消散すべき物である。

 

 たしかに私共が永久の人格、銘々に一つの化身だけの古い敎理を固執するうちは、今存在するやうな宇宙には何の道德的敎訓をも見出す事はできない。現代の知識は宇宙の行程に何等の正義をも發見しない、――私共に對して倫理的奬勵のために、提供してくれる精精のところは、その不可知力は單なる惡意の力ではないと云ふ事だけである。ハックスレイを引いて云へぱ、『道德的でもない、ただ單に無道德的』である。進化論的科學は、分散しない人格と云ふ觀念と一致するやうにはならない、そして私共は精神的發達及び遺傳の敎理を受け入れるとすれば、私共は又個體的解散の敎及び不可解の宇宙の敎をも又受け入れねばならない。それは又、實際、人間の高尙な能力は努力苦痛によつて發達した物である事、それから長く續いて、そのやうに敍述する事を私共に敎へて居る、しかしそれは又進化につぐに必ず解散がある事、――發達の頂上は同時に又退步の始まる點である事を敎へる。そしてもし私共は銘々皆單に死滅すべき種類の物、――草や木のやうに死滅すべき運命の物であるとすれば、――私共は未來を稗益[やぶちゃん注:「ひえき」。助けとなり、役立つこと。]するために苦しんで居ると云ふ證言に於て、どんな慰安を見出す事ができよう。私共が比較的不幸な境遇に生れて死ぬ事しかできない場合に、一萬年代も經たら、人類が多少幸福になれるかどうかの問題は、どうして私共の氣にかかるやうな事にならうか。或はハックスレイの反語を借りて云へば、『これから數百萬年後に、自分の子孫のうちで、ダービー競爭で勝つのがあると云ふ事實で、どんな償ひをイオヒッパスの馬譯者註がその悲哀に對して得られよう』

 

譯者註 北米、ニユメキシコ州のイオシーン河近傍から發堀[やぶちゃん注:ママ。]された骨から推定して世界最古の馬の一族となつて居る物。

[やぶちゃん注:「ハックスレイ」ダーウィンの進化論を支持して「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名でもって知られたイギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。但し、自然科学者としての彼は、事実はダーゥインの自然選択説よりも、寧ろ、唯物論的科学を志向しており、参照したウィキの「トマス・ヘンリー・ハクスリー」によれば、『ダーウィンのアイディアの多くに反対であった(たとえば漸進的な進化)』とある。引用は孰れも“Evolution and Ethics”(「進化と倫理」。一八九三年刊。Project Gutenberg”のこちらで原文全文が読める)の“INTRODUCTORY ESSAY”の冒頭にある“THE STRUGGLE FOR EXISTENCE IN HUMAN SOCIETY”(「人類社会に於ける存在の闘争」。一八八八年)の一節である。

「イオヒッパス」Eohippus。エオヒップス。哺乳綱 ウマ目ウマ科 Equidae の絶滅化石属であるヒラコテリウム属 Hyracotherium のシノニム。始新世(新生代第二期の約五千六百万年前から約三千三百九十万年前まで)に北アメリカ大陸及びヨーロッパ大陸に棲息していた哺乳類。現生するウマ科動物の最古の祖先と考えられている。和名は「アケボノウマ」。ウィキの「ヒラコテリウム」によれば、最初の発見は一八三八年で、アメリカではなく、イギリスのサフォーク州の河畔で、歯の化石のそれとする。

「イオシーン河」綴りは「Eocene」ではないかと思われるのだが、位置不明。ただ、「Eocene」は、これ、「始新世」の英語なんだけど?]

 

 しかし宇宙の行程も、佛敎徒のやうに、凡て實在は唯一である、――人格は眞如をかくす迷に過ぎない、――『我』及び『汝』の凡ての差別は、滅すべき感覺から織り出したまぼろしの幕である、――私共の小さい感官に現れた時間と場所も空しい影である、――過去現在未來は正にである――と考へて見る事ができたら、全く別種の樣子を示すだらう。ダービー競馬の勝利者がイオヒッパスであつた事を記憶する事が充分できるとしたらどうだらう。一度人間であつた生類が生死の凡ての幕を通して、進化の進化を悉く返して、無情から有情への第一のかすかな發生の時までも、囘顧する事ができたら、――闍多伽(じやたか)(本生譚)[やぶちゃん注:前者はルビ、後者は本文。但し、後者は田部氏の意訳添えである。]の佛のやうに、その無數の化身の經驗を記憶してゐて、それを別の阿難陀のためにお伽噺のやうに物語る事ができたらどうだらう。

[やぶちゃん注:「闍多伽(じやたか)(本生譚)」“Jatakas”。「ジャータカ」(Jātaka)の漢音写。仏教での「前世の物語」「本生譚(ほんしょうたん)」。釈迦がインドに生まれる前、ヒトや動物として生を受けていた前世の物語集。十二部経の一つで漢訳は「本生経」。

「阿難陀」阿難に同じ。Ānanda(アーナンダ)。釈迦の十大弟子の一人で、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから、「多聞(たもん)第一」と称せられた。禅宗では迦葉の跡を継いで、仏法付法蔵の第三祖とされる。「阿難陀」は漢語意訳では「歓喜」「慶喜」とも記される。但し、言うまでもないが、ここは仏教史での実在したとされる彼個人ではなく、別な時空間での彼に相当する人物の意である。]

 私共は形から形へと變る物はでは無く非我――あらゆる現象の背後にある一つの眞如――である事を知つた。涅槃に達せんとする努力は眞と僞、光明と暗黑、肉慾的と超肉慾的との間の永久の爭である、そして究極の勝利は精神的及び肉體的個性の全き解體によつてのみ得られる。自我の征服は一囘では充分でない、幾百萬の自我は征服されねばならない。卽ち僞りのは無數の時代の構成物で、――宇宙のさきまでも續く活力を有して居るからである。一つの蛹(さなぎ)を破壞して四散すれば、それが一々新しい蛹となつて現れる、――事によればもつと稀薄な、もつと透明なかも知れないが、同じやうな感覺的材料で織つた物、――無數の生命から遺傳した煩惱、激情、慾望、苦痛、及び快樂からが織り出した精神的及び肉體的織物が現れる。しかし何が感ずるのであらう、――まぼろしか實體かどちらだらう。

 自我意識の凡ての現象は誤りの自我に屬する、――しかしただ生理學者が云ふやうに、感覺は、感覺の說明をしない感覺傳通機官の產物に過ぎない。生理的心理學に於けると同じく佛敎に於ても、二つの感ずる實體の本當の敎はない。佛敎では唯一の實體はである、そしてこの實體に對して、僞りの自我は、それによつて正しい知覺が橫に曲げられ歪められる中間物、――そのうちに、そしてそのために感情と衝動が可能になる中間物の關係になる。無制限のは凡ての關係から離れて居る、私共の所謂苦痛や快樂をもたない、『我』と『汝』の相違、場所や時の差別を知らない。しかし人性の煩惱によつて制限されると、苦痛や快樂に氣がつく事は、丁度夢みる人が彼等の不實在的な事を意識しないで不實在を認めるやうである。自我意識に關する快樂苦痛及び凡ての感情は幻想である。誤りの自我は眠りの狀態が存在するやうにのみ存在する、そして感情、欲望、それから凡ての悲哀と激情はその眠りの幻影としてのみ存在する。

[やぶちゃん注:前段が「慾望」で、ここで「欲望」なのはママ。こういう差別化するのでもないただの訳語の文字の不統一というのは、電子化していて甚だ不愉快なことである。]

 しかし私共はここで科學と佛敎の分岐點に達する。現代の心理學は種族と個人の經驗を通して進化論的に發達しない感情を認めない、しかし佛敎は不死にして神聖なる感情の存在を信ずる。佛敎はこのの狀態に於て、私共の感覺、知覺、觀念、思想の大部分はまぼろしの自我にのみ關係して居る事、――私共の精神生活は利己主義に屬する感情欲望の流れと殆ど同樣である事、――私共の愛と憎、希望と恐怖、快樂と苦痛は迷である事を宣言する、――しかし又私共の知識の程度に應じて私共のうちに多少かくれてゐて、誤りの自我とは關係のない、そして無窮である高尙な感情があると宣言する。

 

註 「快樂と苦痛は觸から起る、觸がなければ起らず」――「阿吒婆拘」一一。

[やぶちゃん注:「阿吒婆拘」原文“Atthakavagga”。「阿吒婆拘鬼神大將上佛陀羅尼神呪經(あたばくきじんだいしょうじょうぶつだらにきょう)」のことか。「密教部(大正蔵)」に所収する。「漢籍リポジトリの「阿吒婆拘鬼神大將上佛陀羅尼神呪經――失譯」を見るに、

   *

如是等所觸惱者。所侵損者悉得除滅。

   *

がそれか。]

 

 科學は快樂と苦痛の究極の性質を不可解と云ふが、その無常の性質について佛敎の敎ふるところを幾分確かめて居る。兩方とも感情の第一要素でなく、むしろ第二の要素に屬するやうである、兩方とも進化、――本當の快樂も本當の苦痛もなくて、ただ極めてぼんやりした鈍い感情しかなかつた原始的狀態から、幾十億の生命の經驗を通して、發達した感覺の種類――であるやうに思はれる。進化が高ければ高い程苦痛が多く、凡ての感覺の量も一層多くなる。平均狀態が達せられたあとで、感情の量が減少し始める。美妙なる快樂と鋭敏なる苦痛は先づ消滅するに相違ない、それから次第にもつと複雜でない感情が、その複雜の程度に應じて消滅する、遂に凡て冷却して行く行星[やぶちゃん注:「かうせい」。「恒星」の同じ。]のうちに、最も下等な種類の生命にもあり得べき最も單純なる感覺も殘らなくなるだらう。

 しかし佛敎徒に隨へば、最高の道德的感情は人種や日月宇宙よりも長く生きる。粗野な性質の人に不可能な、純粹に無我の感情はに屬する物である。貴い性質の人には、その神聖なる分子は感覺を生じて來る、――煩惱の殼のうちに動いて來る事は丁度胎内で胎兒が動くやうである(それで煩惱の事を胎藏界如來の胎内〕と云ふ)もつと高い性質の人に取つては、自我的ではない感情は强く現れて出る、――まぼろしの自我の中から輝く事は丁度光明からの器を貫いて輝くやうである。個人よりも大きい純粹な無私の愛、――絕大の同情、――完全なる博愛はこれである。これ等の感情は人間の物でなく、人間のうちの佛の物である。これ等の感情が增大すると共に、自我の感情は悉くうすくなり弱くなり始める。まぼろしの自我の狀態は同時に淨化する、心の蜃氣樓のうちにの實體を暗くした不透明體は明くなり始める、そして無限の感覺は、光の戰慄のやうに、個性の夢を通つて神聖なる覺醒の方へ行く

 

註 「一切縛着の苦惱を解脫して究竟の樂を得るを大般涅槃[やぶちゃん注:「だいはつねはん」。]となす。癡愛[やぶちゃん注:「ちあい」。対象への盲目的な貪愛。的確な判断を失わせる執着心のこと。]等の心相悉く滅すればなり。癡愛の心相滅するが故に心性顯現して無量の德相を具へ難思の業用を示現す」。――黑田「大乘佛敎大意」

[やぶちゃん注:「胎藏界」(たいざうかい(たいぞうかい))は密教で説く二つの世界の一つ。大日如来の広大無辺な智慧を表象する「金剛界」の対で、こちらは大日如来の宇宙万物不変の本性である「理性(りしょう)」の面を表象する時空間を指す。仏の菩提心が一切を包み込んで育成することを「母胎」に喩えたもので具体的には蓮華によってシンボライズされる。

『黑田「大乘佛敎大意」』は「二」で既出既注。引用原本の「第二 解脱涅槃」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。]

 

 しかし眞理を求むる普通の人に取つては、この自我を淸淨にして、最後にそれを解體せしむる事は名狀のできない精進不退轉によつてのみできるのである。このまぼろしの個性は、ただ一生の間だけ續くが、それが天賦の性質の總計から、及びそれ自身の特別の行爲と思想の總計から、それに續く新しい結合、――新しい個性、――無我ののために新しい煩惱の牢獄を造るのである。名と形としては、誤りの自我は消散する、しかしその衝動は生き永らへて、再び結合する、そしてそれ等の衝動の最後の破壞――それ等の無形の活力の全滅――は幾十億の世紀を通して長い努力を要する。たえず燃えつくした激情の死灰の中から一層微妙な激情が生れる、――たえず煩惱の墓から新しい煩惱が生ずる。人間の激情のうちで最も强い物が最後まで殘る。それは超人間界までも遙かに押しよせる。その粗野な形が消え去つても、その偏向はやはりもとはそれから出たり、或はそれに織り込まれたりした感情、――たとへば美の感覺、及び美はしい物に對する心の喜悅、――に潜んで居る。下界ではこれは高尙な感情のうちに入れてある。しかし脫俗の境にあつては、この感情に耽る事には危險が伴ふ、觸れる事見る事は肉欲の束縛の鎖が切れたのを再び直す事にもならうから。兩性の凡ての世界以外に、そのうちで思想と記憶が觸知し得べき見らるべき客觀的事實となり、――そのうちで情緖的想像が實體になり、――そのうちで極めてつまらない願も創造的になると云ふ不思議な區域がある。

 

註 業の敎理が偏向の遺傳に關する現代科學の敎と幾分合致するのは、性格のこの傳播と永續の問題についてである。

 

 この大きな巡禮の道の大部を通して、それから欲望の凡ての地帶に於て、抵抗の精神的の强さに應じて、誘惑が增加すると西洋の宗敎的語法では云はれよう。續いて上るに隨つて、娛樂の可能性が更に加はり、力が增大し、感覺が高まる。自己征服の報酬は非常に大きい、しかし誰でもその報酬を得ようとして努力するのは空虛を得ようとして努力する事になる。人は快樂の境遇として天ど望んではならない、天の樂みにする誤りの思想はやはり肉欲のいひもで結ばれると書いてある。人は神や天使となる事を願つてはならない。『比丘よ、「この德によつて私は天使にならう」と考へて如何程宗敎生活をやつても、その人の心は熱心、忍耐、努力の方へは傾かない』と世尊は云つた。福德を得た人の義務を最も明瞭に敍述した物は『金光明最勝王經』に出て居る物である。この大王はありとあらゆる富と勢力を所有するやうになつてから、快樂を遠ざけ、榮華を賤しみ、『諸神の美』を授けられた女王の愛を拒んで、彼女自身の脣で、彼が彼女を遠ざけるやうに彼女から彼に賴ませる。彼女は從順に、しかし自然の淚を流して、彼に從ふ、そして彼は直ちに存在しなくなる。德の力で得た賞與をこんなにして拒否するのは、更に一段高い境遇の生類に、更に幸福に生れ變るやうな助けになる。しかしどんな境遇も望んではならない。涅槃が達せられるのは涅槃に對する願その物がなくなつてからである。

[やぶちゃん注:「金光明最勝王經」四世紀頃に成立したと見られる仏教経典の一つで、大乗経典に属し、本邦では「法華経」・「仁王経」とともに「護国三部経」の一つに数えられる「金光明経」(Suvarṇa-prabhāsa Sūtra:スヴァルナ・プラバーサ・スートラ:「スヴァルナ」(suvarṇa)は「黄金」、「プラバーサ」(prabhāsa)は「輝き」で「黄金に輝く教え」の意)に、唐の義浄が自らインドから招来した経典を新たに加えて漢訳したもの。]

 

 そこで今度、私は佛敎の實體學の最も空想的なところへ少し入つて見よう、――そのうちに述べてある心的進化論の一通りの多少明瞭な槪念がないと、この敎理の暗示的價値が正しく判斷されない。たしかに私は讀者に、人間の知識で可能な究極の境以上に存在する物に關する說について考へて貰ひたい。しかし人間の知識の範圍内で硏究され調べられたところでは、佛說はどの外の宗敎的臆說よりも、よく科學的の意見と合致する事が發見される、そして佛說の或物は、現代の科學的發見の不思議な豫想である事が分る、――それ故私共自身の信仰よりも、遙かに古い信仰、そして最も博く發展した十九世紀の思想と遙かによく調和する事のできる信仰である事をただ想像するだけでも、尊敬すべき考慮の價値があると要求する事が不道理に見えるだらうか。

[やぶちゃん注:私は最終段落の小泉八雲の見解に激しく賛同する。しかし、その科学という倫理なき野蛮な増長慢が、科学技術の名に於いて暴走し、遂には人類を滅ぼすに至るまでにになってしまうことは、恐らくは小泉八雲先生は、予想されておられならなかったかとも思う。いや――それも見かけ上の生成と消滅の僅かな瞬時のことであってみれば――八雲先生はちょっと淋しく……いつものように……黙って……目を落とされるだけであろうか…………]

« 小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「二」 | トップページ | 小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「四」 »