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2020/01/31

三州奇談卷之一 家狸の風流 / 三州奇談卷之一~了

 

    家狸の風流

 小松泉屋といふは、其先は淵崎(すのざき)泉入道慶覺(きやうがく)が後と云ふ。前田氏創業の始め、一揆の大家多くは皆町屋と成ぬ。されば此家も久敷(ひさしき)故にや、又は家產醬油を多く作りて、數百石の大豆を置く故にや。[やぶちゃん注:ここは読点であるべきところ。]昔より此緣の下に狸住(すま)ひて、夜更け人しづりては臺所へも出で、餘れる食を喰ふ事あり。家人皆常として怪まず。

 主(あるじ)は先代より風雅を好みて、伊勢凉菟(りやうと)此地に行脚せし時も爰に宿る。「七さみだれ」の撰者里冬といふは此人なり。

 されば今の主も、常に書院の硯を友とし花鳥と風情を盡す。此程江戶より聞ゆる句に、

  蘭の花只蕭然と咲にけり 秋瓜(しうくわ)

是を短册にし寫して机にすえ、庭のけしきと共に其秋情を味はれ居られしに、忽ち友人の誘ひ來りて、郊外に出で、夜とともに明(あか)す事ありて、翌日歸り見るに、きのふの短册半ばより下をちぎりありしほどに、主人大きに腹立て、

「家内の者にはかくすべきものなし。小兒はいとけなし、其力の及ぶべき事に非ず。是は必ず小童(せうどう)淸次(せいじ)がわざならん」

と引出してしかられけるに、

「曾て致さず」

との旨を斷れども、外に誰(たれ)すべき者もなければ、罪をいひわくべき方もなし。

 二三日過て、又机の上に一順を書きける紙有しに、是又少し端を引ちぎりてありし。

 主人兎角に

「是(これ)淸次ならん」

と叱る。

[やぶちゃん注:「一順」は「一巡」とも書き、俳諧で一座の人々が発句からそれぞれ一句ずつ出句したものが、一通り終わることを言う。]

 淸次は十二三の者なれば、大(おほい)に迷惑して、

「とかく此紙をさく者を見出さん」

と每度書院の間(ま)へ起出ですかし見るに、急度(きつと)[やぶちゃん注:遂に確かに。]其者こそ見付けれ。

 古き狸の此紙をさきて庭に出(いづ)るなり。

 淸次悅びて、主人に此趣(おもむき)をかたれば、主人もふしぎに思ひて、

「音なせそ」

と只二人庭を廻(めぐ)りて此躰(てい)をすかし見るに、狸一疋庭の隅に立ちて、頃しも葉月[やぶちゃん注:旧暦八月。]の月淸きに、引さきたる紙を前に置き、我(わが)はらを

「ぽん」

とたゝきては、かへりて背中に彼(かの)ちぎりたる紙をつけて見るなりける。

「是ぞ小皷(こつづみ)の體(てい)や見覺えけん。傳へ聞く、『むかし山中(やまなか)に鼓をよく打つありしに、狸來りて互に音をはげみ合ひて、一夜(いちや)あらそひしが、曉に至りて狸はらを打破りて死にけり』と聞しに、夫(それ)は上古の文盲なるものなるべし。我(わが)狸はよく人事を眞似ると聞しが、實(げ)にも紙を付(つけ)て音のよく出(いづ)ることや思ひけん、又は腹すじ[やぶちゃん注:ママ。]のしめかげんもありけるにや」

と、其志のをかしければ、快く月夜に立ち明かさせて、翌日は小豆飯など取はやして、其ふしぎをはらされしとぞ。

[やぶちゃん注:本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 狸囃子」の注で電子化しているが、底本が違うので全くの零からやり直した。なお、本篇は「三州奇談卷之一」の掉尾である。

「小松泉屋」石川県立図書館公式サイト内の「石川県関係人物文献検索」で、和泉屋嘉助・泉屋七郎・和泉屋自笑・泉屋太与・泉屋藤左衛門・和泉屋桃妖・泉屋又右衛門・泉屋又兵衛・泉屋与吉・泉屋与吉郎・和泉屋李下の名を見出せる。この内、和泉屋桃妖(久米之助)は既出の芭蕉に愛された宿屋の主人であるから、彼自身ならばそれを明記するであろうから外すとして、この中に当該の人物或いはその後裔がいると考えてよいのではないかと思われる。この内、恐らくは小松の住人で、醤油屋を営み、「淵崎泉入道慶覺」(次注参照)の後裔と称する人物であって、俳号を「里冬」とする者がそれとなるが、これ以上は私の探し得る範囲ではない。

「淵崎泉入道慶覺」これは「洲崎泉入道慶覺」(すのざきいずみにゅうどうきょうがく:現代仮名遣)の誤字か誤判読である。「加越能三州奇談」では正しく「洲崎」となっている。金沢市図書館の作成になる「金沢古蹟志」の「巻十三 城南柿木畠百姓町筋」に「洲崎泉入道慶坊伝」があり、ここここ(いずれもPDF)で詳細にその非常に詳しい事蹟が記されてある。その冒頭を電子化すると、

   《引用開始》

加賀古蹟考に云ふ。昔長享年間洲崎泉入道慶覺といふ一揆大將、並に一族兵郞十郞左衞門・孫四郞等、石川郡泉村の邊なる村に居住す。其の館蹟は何れの地とも知れざれども、今米泉村に兵庫の塚といふあり。此の邊增泉米泉など、何れも皆一族の居住所なるべしといへり。龜尾記に、米泉村に洲崎泉入道慶覺坊の古墳あり。村中字駒坂といふ所にあり。古松ありしかども近年立枯れと成る。といへり。按ずるに、泉入道が居館は米泉村にあり。飛耳集錄に、昔當國尾山の城本源寺の家老松田次郞左衞門は、河北郡の棟梁として小立野寶幢寺坂を城郭となし、尾山城の押さえに蟠居す。其頃、河南米泉鄕に洲崎兵庫と云ふ者あり。石川郡の押領使として、數年本源寺と威を爭ひ、折を伺ひ河北を襲ひ取り[やぶちゃん注:誰かの手書きで「らんと」に訂正。]、人を巧み謀る事歲久し。然るに松田と和睦し、次郞左衞門を米泉の館へ招き、酒宴中に次郞左衞門を討取り、夫より彼居城等へ又軍を向け、松田が甥石浦主水の居城石浦砦等を不日に攻落す云々。といへり。

   《引用終了》

とある。また、前者の前に彼の開山開基とする「洲崎山慶覺寺」の条があるが、ウィキの「慶覚寺(金沢市)」によれば、現在の石川県金沢市幸町(兼六園の北方直近)にある浄土真宗大谷派のこの寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)『本尊は蓮如から直に下賜された高さ』四寸八分の『阿弥陀如来像』で、『開山開基は洲崎兵庫次男の洲崎慶覚為信開基の慶覚は』、永享五(一四三三)年、『もと近江国馬渕郷の郷士洲崎兵庫次郎右衛門の次男として生まれ』、文明三(一四七一)年に『堅田で蓮如に帰依して慶覚の号を拝命する。国人武士として松根城や、尾山御坊の出城であった椿原山堡(現在の椿原天満宮)の城主をつとめたが、石川郡の泉村、米泉村、西泉村の三ケ村支配権を得た後』、文明八(一四七六)年に『米泉村』(現在の金沢市米泉町(よないずみまち))に『住み着いて道場を開いた。 一向一揆の指導的立場にあり、一向宗徒が冨樫政親を高尾城に攻め滅ぼした長享の一揆』(一四八八年)『では、総大将冨樫泰高の下で実質的なの指揮権を握った。高尾城攻撃に際し、洲崎十郎左衛門、河合藤左衛門、石黒孫左衛門らとともに一万騎を率いて、上久安(金沢市久安町)に陣取った』(この人物こそがこの洲崎泉入道慶覚その人である)。寛文元(一六六一)年、『三代慶順の代になって金沢市百姓町(現在の幸町)に移り』、『慶覚寺の寺号を受けた』とある。

「前田氏創業の始め」織田信長によって能登一国を与えられていた藩祖前田利家(天文七(一五三九)年(天文五年・天文六年とも)~慶長四年(一五九九)年)が、天正一一(一五八三)年の「賤ヶ岳の戦い」の後、豊臣秀吉に降って、加賀二郡を、さらに天正一三(一五八五)年)には佐々成政と戦った功績によって嫡子利長に、越中の内、射水・砺波・婦負三郡三十二万石が与えられ、三国にまたがり百万石を領する前田家領の原形が形成され、文禄四(一五九五)年には越中の、残る新川郡をも加増され、重臣の青山吉次が上杉家の越中衆(土肥政繁・柿崎憲家)から天神山城や宮崎城を受け取っている(以上はウィキの「加賀藩」に拠る)。

「伊勢凉菟(りやうと)」芭蕉晩年の門人で、麦雀や麦水の属した伊勢派俳諧の創始者である岩田凉菟(いわたりょうと 万治二(一六五九)年~享保二(一七一七)年)。伊勢山田の生まれ。本名は正致(「まさむね」か)。通称は権七郎。別号に団友・団友斎・神風館三世。北越・九州・中国各地に旅して勢力を広げた。編著「皮籠摺 (かわごずれ)(元禄一二(一六九九)年・江戸で板行・榎本其角序)・「山中集」(宝永元(一七〇四)年)などがある。しばしば俳諧関連でお世話になる個人サイト「私の旅日記~お気に入り写真館~」の「岩田涼菟」で目ぼしい句と事績が判る。

「七さみだれ」前注のページに正徳四(一七一四)年に『涼菟は曽北を伴い』、『再び北国行脚』したとあり、そこに「七さみだれ」とある(リンクがあるが、残念ながら機能しない)。「石川県史 第三編」の「第三章 學事宗教 第六節 俳諧」の「凉莵乙由等の來遊」に(以上はデジタル・アーカイブ検索閲覧システム「ADEAC」のページ。太字下線は私が附した)、

   《引用開始》

元祿十六年伊勢の涼莵杖を金澤に曳くや、萬子・北枝・牧童・里臼・從吾・長緒・八紫等皆之と交り、同國の乙由も來り會せり。既にして涼菟は乙由と相携へて山中に赴き、厚爲・桃妖等と賡和し、北枝亦追うて至れり。時に支考は能登より越中に入り、浪化を訪ふ。是を以て支考は涼菟と相遭はず、而して涼菟は浪化の遷化に先だちて之を見ること能はざりき。涼菟の寶永元年に出せる山中集はこの時の行脚記にして、行脚戻はその歸郷後の集なり。寶永三年美濃の人萬華坊魯九、初めて北國に下り、次いで春の鹿を刊行す。この書俳家の俗名を記するの點に於いて、最も價値を認むべし。正徳四年涼菟また曾北を件ひて加賀に來る。小松河北の連衆之を留め、安宅の懷舊に辨慶以下十二人及び富樫左衞門を題として各一句を捻り、別に五月雨の句を立句として七歌仙を次ぎ、その集を七さみだれと名づく。撰者は里冬にして、序文は宇中之を作る。先にいへる河南の連衆が八夕暮集を刊したるは、之に對する反抗運動にして、その河南・河北といへるは九龍橋を境界としたる地方的競爭たりしなり。涼菟はそれより金澤に入り、蘇守・玄扇等と風交せり。翌五年伊勢の人八菊北國に行脚し、小松の薄帋また之が爲に此格集を撰びたりき。

   《引用終了》

「里冬」同じ「石川県史」の「第六節 俳諧」の「支考の再現」を見ると、そこに(太字下線は私が附した)、

   《引用開始》

かくて支考の名聲益籍甚たりしが、彼は正徳元年秋自ら終焉の記を作りて踪跡を晦まし、故老亦相繼ぎて凋零せしかば、加賀の俳壇稍寂蓼を感じたりしが、四年秋支考の再び來遊するに及びて活氣を復したりき。この時越前の伯兎・昨嚢等亦之と行を共にして山中に入り、小松の塵生・宇中・里冬・朴人・乙甫・之川・之仲等を招きて、菊月朔日より十日に至る間、毎日歌仙を興行し、その集を菊十歌仙といへり。書中に『伯兎かつて此山中にあそびて、はじめて蓮二房にもてなされ、桃亭に三笑の交をむすびしは、すでに五年の先なるべし。』といへるは、先に述べたる山中三笑の雅會を指すものにして、その桃亭といへるは桃妖の亭なり。

   《引用開始》

とあった。ここで桃妖の名が別に出るので、先の私の認識に誤りはない。

「蘭の花只蕭然と咲にけり」「秋瓜」句は不詳だが、作者は多少庵秋瓜(たしょうあんしゅうか ?~寛政二(一七九〇)年)であろう。江戸生まれで、初め佐久間柳居に学び、後に柳居の弟子古川太無(たいむ)の門人となった。別号に止弦・松籟庵。句集に「多少庵句巣」、編著に「もゝとせ集」などがある。「近世奇談全集」は俳号を『秋風』とするが、誤判読と思われる。個人サイト「私の旅日記~お気に入り写真館~」の「多少庵秋瓜」で目ぼしいの句と事蹟が判る。

「小童(せうどう)」少年の下男。

「曾て致さず」「未だ嘗て一度たりともそのようなことを致したことは御座いません」。

「かへりて背中に彼(かの)ちぎりたる紙をつけて見るなりける」「振り返りって、自分の背中にその千切った紙片を貼り付けているように見える」。言わずもがなであるが、主人の謂うように、これがまさに「小皷(こつづみ)」(小鼓)の演奏に際して調子紙を裏革に唾で貼りつけて湿度を与え、その時の場所での最もよい音を出す仕儀と一致しているのである。調子紙の作法については、サイト「能楽トリビア」の「舞台で小鼓方が指をなめるのはなぜ?」に詳しい。

「山中(やまなか)」山中温泉の地名と私はとって、かく読みを附した。

「腹すじ」「すじ」(筋であるから「すぢ」が正しい)小鼓の表革と裏革を絞めている「緒(お)」のこと。能楽ではこれを「調緒(しらべお)」または単に「調べ」という。この緒を締めたり緩めたりすることで音色を調節するが、それを腹の筋(すじ)と洒落たのである。

「取はやして」「取り囃して」で、狸の風流心を言祝ぐ座興として「座をぎやかに取りもってやって」の意。

 最後に。私は狸の怪奇談の中では、ダントツで「想山著聞奇集 卷の四 古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」を挙げる。相応にがっしりとしたリアリズムを湛えた分量と、破綻のない展開の面白さ、そして哀しい結末の余韻がなんとも言えぬのである。

2020/01/30

三州奇談卷之一 那谷の秋風

 

    那谷の秋風

 自生山那谷寺(じせいざんなたでら)は、曾て聞く華山法皇芳躅(はうたく)の地とにや。「はだし坂」など云ふありて、故あることとぞ。七堂の靈場通閣の内陣には、西國三十三所の觀音の地の土を集めて、北方の土民をして遠く大慈悲の諸緣を授け給ふ。且つ那智・谷汲(たにぐみ)の頭字(かしらじ)を取りてぞ那谷寺とは名付(なづく)る事とかや。天然の石山にして、三像石は寺の奧庭の内に向ひて、山尾(やまのを)に突然たり。石するどく山氣深し。秋色いとゞ身にしむ故にや、古翁も、

  石山の石より白し秋の風   はせを

此所山を分け登りて還(ま)た低し。此の故にや、金澤希因も、

  分入れば石と成けり秋の空

とは聞へえし。

 一柱觀あり。俗、「傘の亭」と云ふ。一望西南の山海を盡す、景愛すべし。

 此邊り林中に諸堂の棟に顯れ出で、紅葉の中に莊嚴(しやうごん)の光を交(まぢ)ゆ。故に櫻の頃と云へども、秋風落葉の候には及ばず。

 又此山には瑪瑙(めなう)を產す。

 「菩提石」と云へるは甚はだ奇石なり。

 都(すべ)て寺中緣起・地理の事實は、予が書ける「三州圓通傳」に委(くは)しければ、爰には略しぬ。

 但し此那谷の「奧の院」と稱する地あり。郡(こほり)は能美(のみ)に分(わか)ると云へども、那谷の文字は同じ。兩寺ナテンと唱ふ。赤瀨村那谷觀音と云ふ。本堂は澗の中にして、拜殿に舞臺あり。飛驒の匠(たくみ)の作る所とかや。本尊は一寸八分の千手觀音なりしを、盜人の爲に、惜いかないつの頃よりかなし。今脇立(わきだち)のみ殘れり。【或(あるいは)曰く、此本尊今能州一宮にありと。】わき立は一尺許の木像二躰、殊勝さいはんかたなし。中尊はあらぬ物をすゑたり。

 この赤瀨村に「やす」と云へるものあり。其の形(かた)ちは一眼の蛇なり。此里に昔「やすな」と云ふ女【「やすな」の「な」は鄕言(きやうげん)[やぶちゃん注:方言。]の助語なり。】、人を疑ひ過(すご)し、此谷川に身を投じて死去し、化して蛇となる。其子孫とて、此赤瀨の中には小蛇といへども皆一眼なり。時ありて小松棧橋迄も下る事あり。其時は必(かならず)時あらずして洪水町をひたすと云ふ。小松河岸端と云ふに、燕山(つばめざん)本蓮寺と云ふは蓮如上人の姻族、今莊嚴巍々(ぎぎ)の道場なり。初は燕村にありしを、小松先(さきの)國主村上周防守城下へうつして歸依ありし。【燕村栗津湯本の近所、今は津波倉と云ふ。】古社あり。古物の獅子頭(ししがしら)、大同の年號殘る。今小松九龍橋と云ふ所に有り。書院に居ながら白根に對し絕景なり。彼(かの)「やすな」は本蓮寺の門徒にして、今に此寺の報恩講の中には必ず詣ると云ふ。雪中といへども水出で岸に溢れ、風雨烈敷(はげしき)日あり。土俗、

「赤瀨のやすなが參る日なり」

といふ。

 其川づたひには「蝶が淵」と云ふありて、折々人の首を釣上(つりあげ)ることありと云ふ。「皷(つづみ)が淵」といふには、底に

「たんたん」

たる聲聞ゆ。刎橋(はねばし)あり。「土合(つちあひ)」と云ふ橋もあり。折々飛龍を見ると云ふ。其下の道は「大野花坂」とて、面白き山道なり。

[やぶちゃん注:「自生山那谷寺」石川県小松市那谷町(なたまち)にある真言宗の寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。本尊は千手観世音菩薩像(三十三年毎に開扉される秘仏)。ウィキの「那谷寺」によれば、『寺伝によれば、養老元』(七一七)年に白山を開山したされる「越(こし)の大徳(だいとこ)」『泰澄法師が、越前国江沼郡に千手観音を安置したのが始まりとされる。その後』、寛和二(九八六)年、『花山法皇が行幸の折り』、『岩窟で輝く観音三十三身の姿を感じ、求むる観音霊場三十三カ所はすべてこの山に凝縮されるとし、西国三十三観音の一番「那智」と三十三番「谷汲」の山号から一字ずつを取り』、旧称の『「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名』した。『南北朝時代に戦乱に巻き込まれ荒廃した』が、『近世に入って加賀藩藩主前田利常が再建。この時の大工は』、現在の石川県羽咋市寺家町にある能登国一宮である『気多大社拝殿を建てたのと同じ山上』(やまがみ)『善右衛門である』。『前田利常は、江沼郡の大半を支藩の大聖寺藩に分置したが、この那谷寺がある那谷村付近は自身の隠居領としたため、その死後も加賀藩領となった』(『後に領地交換で』加賀藩支藩の『大聖寺藩領と』なっている)。

「華山法皇」花山天皇(安和元(九六八)年~寛弘五(一〇〇八)年/在位:永観二(九八四)年~寛和二(九八六)年)のこと。冷泉天皇第一皇子で母は摂政太政大臣藤原伊尹(これまさ)の娘懐子。寛和二年六月二十二日(九八六年(ユリウス暦)八月五日(グレゴリオ暦換算七月三十一日)、僅か二年足らず、しかも数え十九歳で宮中を出て、剃髪し、仏門に入って退位した。そこに右大臣藤原兼家(道隆・道長の父)の野望がうごめていたことは、さんざん古文の「大鏡」でやったじゃないか。如何にもいやらしい嘘泣き道兼が絶品だったね。尤もあれを好んでやった理由は大好きな安倍晴明が予知して式神を使うシークエンスがあるためだったし、そこで晴明の話に脱線出来たからだったのだが。だいたい、この花山天皇は性的に異常嗜好傾向のあった人物である可能性も強いのだ。ウィキの「花山天皇」にも、『花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話は』「大鏡」・「古事談」に『多い。即位式』(満十五歳)『の際、高御座』(たかみくら)『に美しい女官を引き入れ、性行為に及んだという話が伝わ』り、『出家後も好色の趣味を止めることなく』、『女性と関係を持ち』、女絡みの『「長徳の変」』(長徳二(九九六)年花山法皇二十九歳の時、中関白家の内大臣であった兼家の子藤原伊周と隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件。同年一月の半ばのこと、伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘「三の君」と同じ屋敷に住む「四の君」(藤原儼子。かつて花山天皇が寵愛した女御藤原忯子(しし)の妹)に花山法皇が通い出し、それを伊周が自分の相手の「三の君」に通っていると誤解して弟隆家と相談、隆家が従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いた(「百錬抄」ではそれに留まらず、花山法皇の従者の童子二人を殺して首を持ち去ったともある)。花山法皇は体裁の悪さと恐怖のあまり、口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がるのを待ち構えていた末弟道長に利用される形で、翌月、伊周・隆家はそれぞれ、大宰府・出雲国に左遷の体裁で流罪となった。但し、数年後に許されて京に戻った。但し、これによって道長が政権を握ることとなり、道隆を始めとする中関白家は排斥されることとなった)『出家後の話である。また、同時期に母娘の双方を妾とし、同時期に双方に男子を成している。その二人の子を世の人は「母腹宮」(おやばらのみや)「女腹宮」(むすめばらのみや)と呼んだ』とある。一方で、『法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し』、『修行に勤め、大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が「西国三十三所巡礼」として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となって』おり、『この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたと』も『され、この地には御廟所があり』、『花山院菩提寺とし西国三十三所巡礼の番外霊場となっている』。また、『彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造は』、『たびたび』、『人の意表を突いた』とも言われ、『特に和歌においては在位中に内裏で歌合を開催し』、「拾遺和歌集」の親撰や「拾遺抄」の増補もした『ともいわれ』ている才人でもあったことも言い添えておこう。

「芳躅」「はうちよく(ほうちょく)」とも読む。「躅」は「足跡」の意で、先人の業績・事跡を讃えて言う語。「那谷寺」公式サイトの「那谷寺について」の『「花山法皇」の行幸の伝説』(「伝説」とある通り、私は実際に行ったかどうかは頗る怪しいと考えている人間である)には、花山天皇は『藤原兼家の謀事によって出家させられ』たが、その後、『書写山円教寺や比叡山で修行、熊野へも巡拝、永祚(えいそ)元年』(九八九年:退位から三年後)には『北陸へ旅立たれました。同行する者は』僅か三『名の従臣だけでした。まず』、『白山へ登られ、次いで小松地域の寺を訪ねられ、最後に岩屋寺(那谷寺)を参詣されました。花山法皇は(西国三十三所の)那智山と谷汲山からそれぞれ一文字ずつ「那」と「谷」を取り、那谷寺と改名されたと伝えられています』。『那谷寺は温谷寺(うだにでら)・栄谷寺(さかえだにでら)とともに、天台宗白山三ヶ寺と言われました』とある。

「はだし坂」不詳。現存していない模様。

「七堂の靈場通閣の内陣」「那谷寺」公式サイトの「境内案内」を見ると、現在でも住職の居所である書院を除いて、鐘楼を含めれば、七堂を数える。

「西國三十三所」は近畿二府四県と岐阜県に点在する三十三ヶ所の観音信仰の霊場の総称で、ウィキの「西国三十三所」によれば、『これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼』及び霊場『であり、現在も多くの参拝者が訪れている』。本巡礼の「三十三」とは「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(一般に「観音経」の名で知られる)に『説かれる、観世音菩薩が衆生を救う』際には三十三の『姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し』、『西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる』ものである。勘違いしてはいけないのが、「西国」の地域限定からも那谷寺自体はそれには含まれていないということである。『三十三所巡礼の起源については』、兵庫県宝塚市の第二十三番札所である真言宗紫雲山『中山寺の縁起である』「中山寺来由記」や岐阜県揖斐(いび)郡揖斐川町にある『谷汲山華厳寺(三十三番札所)の縁起である『谷汲山根元由来記』などに大略次のように記されている』。養老二(七一八)年、『大和国の長谷寺』(後に第八番札所となる)『の開基である徳道上人が』六十二『歳のとき、病のために亡くなるが』、『冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説』いたものの、『世間の信用が得られず』、『あまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納めた。そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で』八十『歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていった』。『徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約』二百七十『年後、花山院』『が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)』(大阪府南河内郡太子町にあり、本尊は如意輪観音菩薩であるが、この寺も札所ではない)『の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)。仏眼が笈摺・納め札などの巡礼方式を定め、花山院が各寺院の御詠歌を作ったといい、現在の三十三所巡礼がここに定められたというのである』。『しかしながら、札所寺院のうち』、京都府京都市西京区大原野にある第二十番札所『善峯寺は法皇没後の』長元二(一〇二九)年の『創建である。また、花山院とともに札所を巡ったとされる仏眼上人は、石川寺の聖徳太子廟の前に忽然と現れたとされる伝説的な僧で、実在が疑問視されている。以上のことから、三十三所巡礼の始祖を徳道上人、中興を花山院とする伝承は史実ではない』ことがはっきりしている。『西国三十三所の前身に相当するものは、院政期の観音信仰の隆盛を前提として』、十一世紀頃に『成立して』おり、『史料上で確認できる初出は、近江国園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した』「寺門高僧記」中にある『「行尊伝」の「観音霊場三十三所巡礼記」と「覚忠伝」の「応保元年[やぶちゃん注:一一六一年。]正月三十三所巡礼則記文」である。行尊』(天喜三(一〇五五)年~長承四(一一三五)年:平安後期の天台僧。参議源基平の子。園城寺長吏・天台座主を勤めた)『の巡礼を史実と認めるか否か、異論が存在する』『が、これに次ぐ覚忠』(元永元(一一一八)年~治承元(一一七七)年:天台僧。藤原忠通の子。後白河上皇の出家に際して戒師や天台座主・園城寺長吏を勤めた)『の巡礼は確実に史実と考えられている』。但し、『この時期の三十三所の順序や寺院の組み合わせは様々で、何種類もの観音霊場巡礼が併存し、ひとつの寺院がいくつもの』別なグループの『観音霊場に数えられていた』。『庶民が』十一『ヶ国にもまたがる』三十三もの『霊場を巡礼することは、中世初めにはきわめて困難である』。『中世初めにおいては、三十三所すべてを巡る巡礼が主として各種の聖や修行者によって行われていたとはいえ、観音信仰の性格からして、一般俗人を排除することは考えにくいことであり』、『一国のみ、ないし限られた区間のみを辿る巡礼を重ねて、三十三所に結縁・結願することを願っての巡礼が行われていたと考えられている』。『長谷寺は平安時代初期頃から霊験著しい観音霊場寺院として、特に朝廷から崇敬を寄せられただけでなく、摂関期には藤原道長が参詣するなど、重要な観音霊場であった。こうした長谷寺の位置付けゆえに三十三所の一番となったと見られることから』、十一世紀末頃『と見られる行尊の巡礼が長谷寺から始まることは自然なことと考えられる』。一方、十二世紀後半の『覚忠の巡礼において、長谷寺から遠く隔たった那智山が第一番となる』の『には大きな変化があったと見なければならず、それには熊野詣の盛行と西国三十三所における熊野那智山の位置という』二『つの点』から『見なければならない』。『前者の例として挙げられるのは、後鳥羽院の』十三『回、後白河院の』二十七『回といった参詣であり、こうした盛行に影響されて』、『三十三所の順路が影響を受け』、十二『世紀後半には那智山を一番札所とするようになったと考えられている』とある。まだ引用元の解説は続くが、以下に語られる那谷寺の名の由来の二寺が出てきたここでやめておく。

「那智」和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗那智山青岸渡寺。西国三十三所第一番札所。本尊は如意輪観世音菩薩。十数年前、ここの宿坊尊勝院に泊まった。

「谷汲」岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびちょう)谷汲徳積(とくづみ)にある天台宗谷汲山(たにぐみさん)華厳寺。本尊は十一面観世音菩薩。

「天然の石山にして、三像石は寺の奧庭の内に向ひて、山尾(やまのを)に突然たり」三尊石。「那谷寺」公式サイトのこちらで画像が見られ、そこに『書院奥にひろがる庭園「琉美園」の池中央にそば立つ自然の岩面は』三『つに別れ』、『三尊石と呼ばれて』おり、『岩面の裂けた姿が阿弥陀三尊のご来迎に似ていることから名付けられ』たとあり、『江戸時代には滝が流れ落ちていたこともあり、現在も多くの雨が降ると滝が流れるさまを目にすることができ』るとある。

「石山の石より白し秋の風」本句は元禄二年八月五日(グレゴリオ暦一六八九年九月十八日)に詠まれた。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 74 那谷寺 石山の石より白し秋の風』を参照されたい。因みに、この日に芭蕉は長く旅を連れ添ってきた曾良と別れ、立花北枝とともに山中温泉を発ち、現在の石川県小松市那谷町にある自生山那谷寺を訪れ、再び山中温泉の前に泊した小松へと向かった。本名句は無論、那谷寺での一句である。石山とは境内の現在の「奇岩遊仙境」を指す(リンク先は「那谷寺」公式サイト内のページ)。

「金澤希因」金沢市立玉川図書館の近世資料「春季展 暮柳舎甫立没後百年俳書展」PDF)によれば、金沢の俳諧師初代暮柳舎(綿屋)希因(慶安三(一六五〇)年~寛延三(一七五〇)年)。通称は彦右衛門。「金沢古蹟志」には『暮柳舎希因先生は金沢観音町に住居し、俗名を綿屋彦右衛門と称し、家業酒造にて銭商売せられし也、本名は小寺氏なり」と記している。初号を幾因・申石子といい、北枝・支考・乙由に師事し、北枝の後を継いで百鶴園、後に暮柳舎を号した。芭蕉直門没後の北陸地方の重鎮であり、その門から天明中興に貢献した闌更・麦水』(本書の作者)『・二柳など錚々たる俳人が輩出した』とあり、しかもサイト「千代女の里俳句館」のこちらによれば、なんと! かの名女流俳人加賀千代女の直系の指導者であったことが判った。そこに『希因の俳諧集団である暮柳舎には新たな才能が集い、北越における伊勢派の重鎮として全国に知られて行きます』。『読本作家としても高名な建部涼袋(当時、都因と号する)は津軽の出身で、延享』二(一七四五)年に仮名技に来て、『希因に学んで』おり、『また、同じ伊勢派で画家の百川は、寛延元』(一七四八)年十二月には『北上し、加賀の俳人に書画の制作を広めて』、『ついで、伊勢から幾曉(春波)が来訪し、北越で生涯を終え』ており、『千代女は、寛延元年以降再び、俳諧の活動を再開し、多くの俳書に掲載されるようにな』るも、『希因が没し、加賀は最も重要な指導者を失』ったとあるのである。

「分入れば石と成けり秋の空」「石川県江沼郡誌」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクション)に本句を、

 わけ入れば石となりけり秋の雲  希因

の表記で確認出来る。

『一柱觀あり。俗、「傘の亭」と云ふ』不詳。那谷寺の中にあった茶室か?

「此山には瑪瑙(めなう)を產す」「那谷寺」公式サイトの「那谷寺について」に、『那谷の地はオパール、瑪瑙、水晶などが産出しており、那谷寺の観音堂には』十二『個の瑪瑙を有して』おり、『これを周防国(山口県)の大内義隆が所望したため、真宗本願寺の証如が那谷寺へ依頼』、五『個の瑪瑙を送り、遣明船で明国へと献上し』たとあり、『南北朝と戦国時代に那谷寺は』三『度も焼かれ』『たが、僧義円や霊山寺即伝などが訪れ、密教修験の道場となってい』た事実があるという。『密教修験と真宗は対立関係にあ』ったけれども、『那谷寺は証如と結びついていたようで』あるとある。

「菩提石」瑪瑙かと思ったが、サイト「石の街うつのみや」のこちらに、『石川産凝灰岩のなかで、最も不便な場所に産し、値段も高かった「菩提石」については、希少さも手伝って、東京・大阪で珍重されたことが分かっており、その「顔つき」も特異な石材でした。――赤褐色・褐色で、無数の穴が空いているのです。そして、意外なほど固くて緻密です』。『「水田丸石」「滝ヶ原石」の産地を含む(現在の)加賀市・小松市の山裾には、密度の高いものから多孔質のものまで、多様な凝灰岩を見ることができ、後者のタイプを名勝「遊仙境」「琉美園」とするのが、二つの地域の間に位置する那谷寺」に他なりません。那谷寺を訪れると、赤み・黄味を帯びた穴だらけの奇岩霊石がそそり立ち、何故か私たちが良く知る大谷の自然石を彷彿とさせます。この那谷寺から南西へ』二『kmほど山に入ったところに、大谷石と不思議な因縁があり、「幻の石材」と呼ばれて来た「菩提石」の集落(小松市菩提町)が位置しているのです』とあり、以下、続編があり、『原石や風化した状態では、顔色がさえないあばた面――赤み・黄味を帯びた灰色を呈し、中を割って見ても小さな穴だらけの「菩提石」は、さまざまな理由により、「幻の石材」とされて来ました。現在は、採石すら行われていません』。『その特徴的な形状から、「蜂ノ巣」とも呼ばれたこの石を求めて、かつての産地だった石川県小松市菩提町』(那谷寺の東にある)『を訪ねると、それが「幻である理由」をリアルに知ることができます。集落のはずれに建つ花山神社』『の石灯籠で明らかなように、決して「美麗」ではなく、むしろ「珍重」な石という印象を受け、小さな「蜂ノ巣」の塊をご自宅の前に飾っておられた地元の方に伺うと、「昔は細工物に使われたけれど、とうに出なくなったし、建材向きではないねえ」とのこと。また、現地で黄菩提の原石を発見し、それを掘り出していると、近所の人が「そんな不細工な石どうするの? この辺ならばヒスイやメノウだって見つかるのに!」と笑っておられました』とあって続く。これ以上の引用を避けたいので参照されたい。

『予が書ける「三州圓通傳」』ここで遂に本「三州奇談」がただの麦雀の書写本でないことが明確に示される。デジタル・アーカイブ検索閲覧システム「ADEAC」の「石川県立図書館」の「石川県史 第三編」の「第三章 學事宗教」の「第四節 國學(上)」に、

   《引用開始》

下りて寶暦・明和を中心として堀麥水あり。奇才縱横行く所として可ならざるはなく、その本領は俳諧に在りといへども、傍ら指を著述に染めて慶長中外傳・寛永南島變・昔日北華録・琉球屬和録・三國圓通傳・難波戰記・説弘難波録・北倭記事等を出し、又三州奇談・越廼白波の如き郷土的雜著あり。筆路何れも暢達にして毫も苦澁の跡を見ざるもの、葢し加賀藩に於けるこの種の作者中前後にその比を見ること能はず。

   《引用開始》

とあり、この「三國圓通傳」は「三州圓通傳」と同じだとしか考えようがなく、これによってここでは麦水自身が本文を書いていることが明白となるからである。

『那谷の「奧の院」』石川県小松市赤瀬町にある赤瀬那殿観音のことらしい。那谷寺とは直線でも五キロ以上離れており、かなりの尾根を越えないと行けない。「鶴来信用金庫」公式サイト内の「ふるさと紹介コーナー」のこちらで『那谷寺の奥の院』「赤瀬那殿(なでん)観音」として画像が見られる。その解説によれば、『この赤瀬那殿は、泰澄大師が白山より下山の際に所持していた黄金仏を安置し開いたといわれる』場所で、『この他に木像菩薩二体(源利作)や泰澄大師座像(勇馬作)など多くの佛像が安置され、巨岩の斜面に建つ懸造り(かけづくり)とも呼ばれる舞台造りの本殿は、まわりの老木と相まって四季を通じて風情がある』とある。

「郡は能美に分る」能美郡は弘仁一四(八二三)年に江沼郡の北部が分立して発足しているが、ウィキの「能美郡」によれば、天正八(一五八〇)年に『柴田勝家により検地が行われ、白山麓十八ヶ村の内、尾添村・荒谷村を除く白山麓十六ヶ村は越前国大野郡に編入』されるも、寛文八(一六六八)年に、『福井藩と加賀藩の間の白山を巡る権利争い(白山争論)の解決策として、福井藩領の越前国大野郡の白山麓十六ヶ村と、加賀藩領の本郡尾添村・荒谷村が幕府領とな』ったとする。しかし「加賀藩史料編外備考」などの『加賀藩側の史料では、この時をもって白山麓十八ヶ村がすべて加賀国本郡に編入したとしている』ものの、『江戸幕府が作成した「元禄郷帳」では「越前加賀白山麓」として、越前国郷帳の下に白山麓十八ヶ村が記載されており、白山麓を越前・加賀双方に所属させなかったとする見方もある』という。『その後の「天保郷帳」では白山麓十六ヶ村は越前国大野郡に、尾添村・荒谷村は加賀国本郡に記載されており、第』一『次府県統合の頃まで白山麓十八ヶ村の内、尾添村・荒谷村のみが本郡に帰属していたと考えるのが一般的である』とある。これと関係がある謂いなのかどうかは判らぬが、一応、記しておく。

「那谷の文字は同じ。兩寺ナテンと唱ふ」「ナテン」の読みは意味不明。

赤瀨村那谷觀音と云ふ。本堂は澗の中にして、拜殿に舞臺あり。飛驒の匠(たくみ)の作る「一寸八分」五センチメートル半弱。

「脇立」脇侍。- 天台・真言系では千手観音のそれは毘沙門天と不動明王であることが多い。

「能州一宮」石川県羽咋市寺家町にある気多大社。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。私は三度訪れている。

「赤瀨村」前の『那谷の「奧の院」』の最初のリンクを参照。いかの「やす」「やすな」(「な」を「鄕言の助語」と言っているが、正確には女性を表わす美称の接尾辞である)の話は、柳田國男の「日本の伝説」(昭和四(一九二九)年アルス刊)に出る。以下に示す(底本は「ちくま文庫」版全集第二十五巻(一九九〇年刊)を用いた。傍点「ヽ」は太字に代えた)。

   *

 蛇が片目という伝説も、また方々に残っているようであります。たとえば佐渡の金北(きんぽく)山の一つの谷では、昔順徳天皇がこの島にお出でになった頃、この山路で蛇を御覧なされて、こんな田舎でも蛇はやっぱり目が二つあるかと、独言(ひとりごと)に仰せられましたところが、そのお言葉に恐れ入って、以後この谷の蛇だけはことごとく片目になりました。それで今でも御蛇河内(おへびこうち)という地名になっているのだといいます。加賀の白山(はくさん)の麓の大杉谷の村でも、赤瀬という一部落だけは、小さな蛇までが皆片目であるといっています。岩屋の観音堂の前の川に、やすなが淵という淵がもとはあって、その主は片目の犬蛇であったからということであります。

 昔赤瀬の村に住んでいたやす女(な)という者は、すがめのみにくい女であって男に見捨てられ、うらんでこの淵に身を投げて主になった。それが時折り川下の方へ降りて来ると、必ず天気が荒れ、大水が出るといって恐れました。やす女の家は、もと小松の町の、本蓮寺(ほんれんじ)という寺の門徒であったので、この寺の報恩講には今でも人に気付かれずに、やす女が参詣して聴聞(ちょうもん)のむれの中にまじっている。それだから冬の大雪の中でも、毎年この頃には水が出るのだといい、また雨風の強い日があると、今日は赤瀬のやすなが来そうな日だともいったそうであります。(三州奇談等。石川県能美郡大杉谷村赤瀬)

 すがめのみにくい女といい、夫に見捨てられたうらみということは、昔話がもとであろうと思います。同じ話はあまりに多く、また方々の土地に伝わっているのであります。京都の近くでも宇治の村のある寺に芋を売りに来た男が門をはいろうとすると、片目の潰れた一筋の蛇が来て、まっすぐになって方丈の方へ行くのを見ました、なんだかおそろしくなって、荷を捨てて近所の家に行って休んでいましたが、ちょうどその時に、しばらく病気で寝てい た寺の和尚が死んだといって来ました。この僧も前に片目の尼を見捨てて、そっとここに来て隠れていたのが、とうとう見つかって、その霊に取り殺されたのだといいました(閑田耕筆)。あるいはまた身寄りも何もない老憎が死んでから、いつも一疋の片目の蛇が、寺の後の松の木の下に来てわだかまっている。あまり不思議なので、その下を掘ってみると、たくさんの小判がかくして埋めてあった。それに思いがのこって蛇になって来ていたので、その老僧がやはり片目であったという類の話、こういうのは一つ話というもので、一つの話がもとはどこへでも通用しました。中にはわざわざ遠い所から、人が運んで来たものもありましたが、それがいかにもほんとうらしいと、後には伝説の中に加え、または今までの伝説と結び付けて、だんだんにわれわれの村の歴史を、賑かにしたのであります。人が死んでから蛇になった、または金沢の鎌倉権五郎のように、魂が魚になったということは信じられぬことですけれども、両方ともに左の眼がなかったというと、はやそれだけでも、もしやそうではないかと思う人ができるのです。しかしそれならば別に眼と限ったことはない。またお社の前の池の鯉・鮒・鰻ばかりを片目だというわけはないのであります。何か最初から目の二つある者よりも、片方しかないものをおそろしく、また大切に思うわけがあったので、それで伝説の片目の魚、片目の蛇のいい伝えが始まり、それにいろいろの昔話が、後から来てくっついたものではないか。そういうことが、いま私たちの問題になっているのであります。

   *

また、私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(6) 神人目を奉る』でも語られてあるので、参照されたい。個人的に言っておくと、親鸞は思想家として好きだが、「やすな」をいつまでも救い得ず、災いを消すことが出来なかった浄土真宗には全く以って興味がない。私の高校時代に演劇部と掛け持ちしていた生物部の美しい先輩の女性は、同宗の強力な集団(今も新聞に出版広告が出ている)の親玉の娘であったが、彼女は今どうしているんだろう、などと、ふと思った。

「小松棧橋」不詳。「棧橋」というからには下流の河口近いものかと想像するが、現行では見つからない。記述順から以下の本蓮寺の近くの「梯川(かけはし)」で、小松泥町(現在の小松市大川町)から対岸に架橋していたと思われる橋か(T氏の御教授による)。現在は二本架橋されているが、その上流側の一本は「梯橋大橋」という名称である。

「燕山本蓮寺」石川県小松市細工町にある綽如上人の二男鸞芸が能美郡津波倉で創建した本願寺の系譜を引く由緒ある真宗寺院。ここ。寺蔵の「親鸞聖人絵伝」は当地では最も古いもので、江戸時代に一円の触頭(ふれがしら)を藩より賜ったとある。中庭には高山右近所縁の灯籠があるという。

「燕村」小松市津波倉町(つばくらまち)

「村上周防守」後の越後村上藩初代藩主村上頼勝(?~慶長九(一六〇四)年:別名・義明)。天正一一(一五八三)年に「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に助勢した主君丹羽長秀が、戦後、越前・若狭・加賀南半国(能美郡・江沼郡)を与えられた。これに伴い、能美郡の小松城に家臣であった彼が入って城主となっている。【2020年2月1日:改稿・追記】いつも情報を寄せて下さるT氏より以下のメールを戴き確定したので、改稿した。

   《引用開始》

 藪野様の解釈に間違いありません。ウィキの「村上頼勝」の「小松城主」の項に、天正一三(一五八五)年二月に小松の本蓮寺(浄土真宗)に彼が与えた寺領寄進状には「次郎右衛門尉頼勝」とあり、天正一六(一五八八)年七月五日付の秀吉朱印状には「村上周防守」と『あるので、周防守の受領名を用いだしたのはこの頃と思われる』とあるからです。また、燕山本蓮寺の沿革を道寺の公式サイトで調べると、室町時代の永禄九(一五六六)年に『小松・浜田町に寺基を移す』とあった後、江戸時代の寛文六(一六六六)年に『浜田町から細工町へ寺基を移す』とあることから、「村上周防守」頼勝(義明)(は小松・浜田町の本蓮寺に寄進したことになります。

   《引用終了》

「【燕村栗津湯本の近所、今は津波倉と云ふ。】古社あり。古物の獅子頭(ししがしら)、大同の年號殘る。今小松九龍橋と云ふ所に有り」この部分、国書刊行会本では『【燕村栗津湯本の近所、今は津波倉と云(いふ)。古社有(あり)。古物ノ獅子頭、大同ノ年號残る。】然(しか)るに今小松九龍橋と云ふ所に有り』となっている。割注部分の相違は読解に異同をきたすが、恐らくは国書刊行会本が正しいと思われる。「九龍橋」(くりゅうばし)というのが判らぬが、この橋が本蓮寺のある場所近くのではないのかと私推理している。2020年2月1日:改稿・追記】やはりT氏より情報を戴いた。それによれば、やはり国書刊行会本のそれが本来の割注部分であるとされる。氏は「古社あり。古物の獅子頭(ししがしら)、大同の年號殘る」の「古社」は現在の粟津の東方の小松市津波倉町にある津波倉神社(旧「津波倉八幡宮」)のことで、この獅子頭は「石川県能美郡誌」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)のこちらに写真で出るそれと同じで、本文には『神寶に』『木造獅子頭あり』とし、その『獅子頭は長さ尺餘にして、腮の裏に朱漆にて「粟津上保八幡宮、□□□、景久施入、元亭二年八月、燕動」と記せらる、こゝに元亭と記すものは元享の誤りなるべし』(□はママ。引用本自体の判読不能字表記)とあることを根拠とされておられる。また、「九龍橋」は九龍橋川が本蓮寺の南を流れていることMapion)、「西尾市岩瀬文庫 古典籍書誌データベース」の「加州小松之図」で、本蓮寺とその横を流れる堀(川)に「クリヨヲ橋」が描かれてある(中央僅かに左位置)ことから、現在の「九龍橋」の場所が特定出来ないが、YouTubeのzerohawkstar2氏の「九龍橋川と新しい橋 2010 小松市」1:33付近に出てくるとのことであった。いつもおんぶにだっこではいけないので、この橋を調べてみたところ、個人ブログ「てんもく日記」の「ブラオイラ#271(街道をゆく⑰小松京町編)」に「九龍橋」の写真と手書きの探索路の地図を発見、これでグーグル・マップを見ながらその位置を確認したところ、この中央の京橋交差点の南の「九龍橋川」に架かる橋が「九龍橋」であることが判明した。グーグル・ストリート・ビューのこれを見られたい。施工中のそれとは橋や周囲の建物がかなり違っているが、ストリー・ビューを右に振ると、YouTube1:30に写る道の向こうの鮮やかな藍色の切妻造りの建物が一致するので間違いない。何時もながら、T氏には感謝申し上げるものである。

「白根」白山のことであろう。

「報恩講」浄土真宗の宗祖(彼は新宗派を創始する意図はなく本来は「浄土真宗」とは「浄土宗」の真の教えほどの意味である)とされる親鸞の祥月命日(弘長二(一二六二)年十一月二十八日(グレゴリオ暦換算で一二六三年一月十六日)の前後に阿弥陀如来並びに宗祖親鸞に対する報恩謝徳のために営まれる法要。浄土真宗本願寺派では現在一月九日から十六日に行われる。

「其川づたひ」不詳。寺の前に暗渠らしきものが見えることは見える。

「蝶が淵」不詳。

「人の首を釣上ることあり」無論、怪異としての幻の首級である。

「皷(つづみ)が淵」不詳。

「たんたん」鼓(つづみ)の音のオノマトペイア。

「刎橋」これは前の「人の首を釣上ることあり」に絡んだ名前と読んだ。日本にゴッホのような跳ね橋はそうそうないと思う。

『「土合(つちあひ)」と云ふ橋』不詳。語意不詳。

「大野花坂」不詳。現在、この寺の周辺は完全に市街地化されていて、面影はない。]

三州奇談卷之一 鶴瀧の記事

 

    鶴瀧の記事

 山中四瀧の一つ鶴瀧、【又一名釣ケ瀧】湯元より五十町道、黑谷の城跡を越ゆる峠あり。下りて四十九院と云ふ里に入り、荒谷の道に着く。谿澗の道、山の尾を𢌞(めぐ)りて、漢𤲿中に遊ぶに似たり。澗水は皆鶴が瀧より落て二流に分れ、一つは大聖寺福田川となり、一つは動橋(いぶりばし)の内へ落ち、猶餘流ありて鵜川に分ると云ふ。鵜川合戰と云ふは爰なり。荒谷の河の中に島臺松と云ふあり。水中奇石の上に老松枝をたれ、忽ち白鶴を招くべき氣色(けしき)あり。里人の名づくる所宜(むべ)なり。木曾の寢ざめの床に類して小(ちさ)きものなり。此向ひに大石あり。昔名將の馬上にて登りし跡とて、駒の蹄の跡一尺許落入りて、七八十足跡もつらなり並ぶ一奇觀なり。此躰(てい)の石は所々に有るものにして、吉野の吉水院にもひづめの蹟の石あり。然共如ㇾ此(かくのごとき)足跡の多き大石は見ず。是所謂佛足石の類(たぐひ)成べし。瀧村を出て深森の古社あり。其中を通りて瀧の本(もと)へいたる。水を渡る石徑佳趣あり。兩道皆大斧劈(だいふへき)小斧劈、甚だ觀をなすによし。爰に或る人の作あり。寫を成さずといへる瀑布中の景を寫すに似たり。故に今之を書す。且つ京師名家の和作あり、並(あは)せ書す。

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。読点の後であるのはママ。標題は国書刊行会本と「加越能三州奇談」では「白瀧紀事」である。

「山中四瀧」「圍爐裏の茸」で既出既注。

「鶴瀧」「【又一名釣ケ瀧】」同前で既注したが、再掲すると、サイト「加賀市観光情報センター KAGA旅・まちネット」の「山中温泉 鶴ヶ滝」によれば(滝の地図と動画あり)、『大小』五『段の滝で、一番奥の最大のものは二筋に分けられており、高さ』は『五段』を『合わせて』三十メートルほどとされ』、『広場には鶴ケ滝不動王がまつられており、ここから眺める鶴ケ滝が最も美しく、しぶきをあげる二筋の滝の様は、鶴の足のようであると』いうこと『から』、『滝の名前の由来もここからきていると言われてい』るとある。

「五十町道」道程凡そ五・四五キロメートル相当の意。現在の山中温泉総湯から想定ルートを測ってみると凡そ六キロメートルほどはある。

「黑谷の城跡」「山中の隕石」で既出既注。

「四十九院」山中温泉四十九院町(しじゅうくいんまち)町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「荒谷」現在、鶴ケ滝自体が山中温泉荒谷町(あらたにまち)内にある。

「漢𤲿」南画の水墨画。

「動橋(いぶりばし)」この読みは国書刊行会本による。ここ。因みに、この名前は同じ加賀の小松と大聖寺の間に設けられた北国街道の旧宿場町の名前としてよく知られるが、この川名は下流に近いこの宿場に基づくものであろう。

「澗水は皆鶴が瀧より落て二流に分れ、一つは大聖寺福田川となり、一つは動橋(いぶりばし)の内へ落ち、猶餘流ありて鵜川に分ると云ふ」この記載は現行の地図を見る限りでは不審である。鶴ケ滝の谷水は、すぐに現在の動橋川(いぶりばしがわ)に合流し、動橋川はそのまま下って、柴山潟へ下っており、大聖寺川(「福田川」は異名)は尾根を隔てて西に流れていて、地図上で見る限りでは、現在の動橋川は大聖寺川には分流していないからである。また、ここは国書刊行会本では『猶(なほ)余流有(あり)て湯衆寺鵜川に分(わか)るといふ』とあり、「近世奇談全集」では『猶餘流ありて温泉鵜川に分ると云ふ』とあって、孰れも半可通な表現で、何が何だか判らない。一応、地形から前半を無効とし、「鵜川」は現在の動橋川ととっておく。

「鵜川合戰と云ふは爰なり」の前には国書刊行会本では、「鵜川は石を伐つて出す。土俗にカハ石といふ。『盛衰記』に所謂加州鵜川合戰と云ふもの書(しよす)也(なり)。」とある。個人サイト「北摂多田の歴史」の「多田蔵人行綱公と多田氏の研究」の「鹿ケ谷の変と加賀国鵜川にある叡山末寺」の章に、「鹿ケ谷の陰謀」が発覚(謀議に参加した北面の武士多田行綱(生没年未詳)の密告とされる)する直前に、

   《引用開始》

 鹿ヶ谷の密会後、行綱公が清盛に密告する前に、後白河帝と山門との間に争いごとが起こりました。入道西光の子で加賀守藤原師高と云う者がありました。その弟で藤原師経が目代を勤めていましたが、加賀国鵜川にある叡山の末寺との間で合戦をして寺を焼き払ったと言うのです。『高代寺日記』に次のように記しています。

「安元二年(1176年)四月、賀刕鵜河ノ僧国司ト間アリ、云々、七月、加賀国司藤原師高山徒ト云分アリ、師高カ弟ヲ師経ト云、目代トシ在国シ、山門末寺鵜河ノ僧ト相論シ、坊舎ヲ焼合戦セリ、」(高代寺日記)

「治承元年四月十三日、山門衆徒依白山之訴、加賀守師高並父西光法師、本左衛門尉師光雖訴申此両人、無裁訴之間、奉具神輿、参陣、依官軍禦神輿、後日、射神輿下手人禁獄、日吉祭延引、四月廿八日、夜、自朱雀門北至于大極殿、小安殿、八省院及神祇官焼失、火起樋口冨小路、京中三分之一灰燼、世人稱日吉神火、五月四日以後、座主明雲付使廳使被譴責、大衆張本之間、衆徒弥忿怒、五日、明雲座主解所職等、配流伊豆國之間、衆徒五千余人下會粟津□、奪取座主登山、已朝威如無、六月一日、六波羅相國禅門召取中御門、大納言成親卿已下祇候院中人々、召問世間風聞之説、其中西光法師、依有承伏之子細、忽被斬首畢、成親卿已下、或處遠流、或解官停任、叓起院中人々相議可誅平家之由、結搆之故、云々」(帝王編年記巻廿二)

 末寺は叡山に訴えて、叡山山門は院に師経と師高兄弟の処分を求めて強訴しました。院は師経を備後国に配流しますが、山門はそれでも不承知で、さらに国司師高を尾張国に配流することになりました。ところがあろうことか洛中から火の手が上がり大極殿や関白基房邸ら多数の家屋敷が焼亡すると云う事態になったのです。院はお怒りになり天台座主明雲を解任し伊豆国に配流することになりました。源頼政公に命じて明雲を伊豆に連行する途中、近江国粟津で僧兵等が明雲を取り戻します。その直後のこと、くだんの行綱公の密告があり事態が急変したと言うことです。

   《引用終了》

とある最初の引用が、ここに言う「鵜川合戰」のことである。所持する「源平盛衰記」を調べたところ、「巻第四 涌泉寺喧嘩」がそれであることが判った。涌泉寺は現在の石川県小松市鵜川にあったと比定されている。しかしここはこのロケーションとは全く離れていて話にならない(試みに計測してみても、鶴ヶ滝から二十キロ以上東北、動橋川の河口(柴山潟)からでも十四キロある)から、これは仮に「動橋川」が「鵜川」と呼ばれていたにしても筆者の勘違いとしか思われないのである。

「島臺松」不詳。少なくとも松は現存しない模様である。

「木曾の寢ざめの床」木曽川の水流によって花崗岩が侵食されて出来た自然地形である「寝覚の床」。長野県木曽郡上松町にある景勝地

「此向ひに大石あり。昔名將の馬上にて登りし跡とて、駒の蹄の跡一尺許落入りて、七八十足跡もつらなり並ぶ一奇觀なり」不詳。現存しないか。但し、後の「瀧村を出て深森の古社あり」の注も参照。

「此躰(てい)の石は所々に有るもの」私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の「柳田國男 山島民譚集」の「馬蹄石」のパートが参考になる(但し、全四十七分割と長い)。

「吉野の吉水院にもひづめの蹟の石あり」現在の奈良県吉野郡吉野町吉野山にある吉水(よしみず)神社。元は金峯山寺の僧坊吉水院(きっすいいん)であったが、廃仏毀釈によって神社となった。後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣楠木正成・吉水院宗信法印を配祀する。行ったことがあり、「弁慶の力釘」は見たが、公式サイトを見ても、馬蹄石は見当らない。

「佛足石の類(たぐひ)成べし」と言っているが、自然浸食によるものであろうか。実際見てみないと何とも言えない。なお、次注も参照。

「瀧村を出て深森の古社あり」滝のある手前の動橋川畔に荒谷神社があり、また、滝への流れに沿って遡ると、右岸のより滝近くに鶴ヶ滝不動明王というのもある(パネルを展開して写真を見ると、不動明王なのに、鳥居がばんばん立っている)。さて、この前者の地図の左パネルの写真を見ると、本殿の前に異様に大きな、しかもかなり新しい馬の銅像が奉納されて立っているのが判る。失礼乍ら、この山中の神社にしてこの像はなかなかクるものがある。或いはこれは先の武将の馬の蹄伝説に関わるものではなかろうかなどとちょっと感じたりした。

「大斧劈小斧劈」「劈」は「つんざく・切り裂く」の意で、地形の固有名詞ではなく、大小の崖の切り立ったさまを言っているのであろう。

「寫を成さず」あまりの壮観に絵に写すことが出来ない、という意であろう。

「和作」最初の七言詩に唱和した作の意。

 以下、底本では全体が三字下げで、二段組となっているが、行頭まで引き上げて一段とした。なお、最初の一篇と最後の一篇には底本には題名他がないが、国書刊行会本と「加越能三州奇談」を参考に底本と同じ仕儀で補った。また、諸本を比較し、底本のままでは対句表現として訓読上から納得し難い箇所が幾つかあったため、一部の訓点は底本以外のものを採用した箇所があることをお断りしておく(面倒なので特に指示していない)。各詩篇の間は一行空けた。

 

 鶴瀧遊事

白鶴飛泉白鶴飛

淵源遠上石崔巍

三千餘尺兩流落

四十九院一望微

山霧時晴熊羆窟

水煙常染薛蘿衣

斷崖濺ㇾ沫奔雷下

積翠滿ㇾ空宿鳥稀

劉阮豈無ㇾ求麻屑

許巢或有ㇾ曳牛韈

[やぶちゃん注:「韈」は意味から見て恐らく国書刊行会本の「鞿」が正しいように感ずる。後の訓読ではそれで示した。]

瀧村馬壯臨鳥道

荒谷人空餘釣磯

才不滴仙詩賦就

地如養老郡州遠

猿聲風落靑屛障

犬吠雲深白板扉

丘壑唯容濟勝具

風流誰懷戰勝肥

回ㇾ頭浩笑煙霞痼

遮莫人間萬事非

 

 遙和 前文略   京一品親王内萩野左中元愷

帝濺銀漢此巑𡵻

萬古靑屛馬掛看

山積紫氣天色暝

泉含白日練光寒

雙龍噴玉降陰壑

百電劉雲分重巒

誰挹迢々千仭水

學ㇾ僊跨ㇾ鶴永加餐

 

 同 堂上雲客 大江資衡

聞道賀中山色佳

妙工騰寫堪ㇾ舒ㇾ懷

三千飛瀑源從ㇾ漢

七々幽栖門是柴

白鶴衣霜翔曙嶺

翠屛繡蘚鎖秋崖

丹靑濟勝君兼美

無限賞心豈不ㇾ諧

 

 同 洛大儒篠三彌 武欽繇

名嶽中天映賀陽

憐君登嘯滿奚囊

屛巖重々花作ㇾ𤲿

香臺七々月微ㇾ霜

素龍朝飮紅霞

白鶴夜侵銀漢

勝情兼得丹靑色

千里使人鼓錦膓

 

[やぶちゃん注:一応、訓読を試みてはみるが、自信はない。意味も不明な箇所は不詳とした。本篇

 

 鶴瀧遊事(かくりゆうゆうじ)

白鶴飛泉(はつかくひせん) 白鶴 飛ぶ

淵の源(みなもと)の遠き上 石 崔巍(さいぎ)たり

三千餘尺 兩(ふた)つながら流落す

四十九院 一望 微かなり

山霧 時に晴る 熊羆(ようひ)の窟(くつ)

水煙 常に染む 薛蘿(せつら)の衣(え)

斷崖 沫(しぶ)きを濺(そそ)ぎて 奔雷(ほんらい)の下(もと)

積翠 空に滿ちて 宿鳥は稀れに

劉阮(りゆうげん) 豈(あ)に麻屑(ませつ)を求むる無し 

許巢(きよさう) 或いは牛鞿(ぎうき)を曳く有り

瀧村の馬壯(ばさう) 鳥道(てうだう)に臨み

荒谷(あらだに) 人 空しく釣磯(ちやうき)を餘す

才 滴仙せざるに 詩賦に就き

地 養老のごとくにして 郡州 遠し

猿聲 風落す 靑屛(せいびやう)の障(しやう)

犬吠(けんばう) 雲深くす 白板の扉(とぼそ)

丘壑(きうがく) 唯だ濟勝(せいしよう)の具(ぐ)を容(い)れ

風流 誰(たれ)か戰勝の肥(ひ)を懷かん

頭(かうべ)を回(めぐら)して浩笑すれば 煙霞 痼(こ)たり

遮莫(さもあらばあ)れ 人間(じんかん) 萬事 非なり

〇語釈その他

・「白鶴飛泉 白鶴 飛ぶ」言わずもがなであるが、白鶴は仙人の常用する乗り物である。筆者は瀧の名とともに、それをまず印象づけようとしたものであろうが、起筆の句としては捻りがない感じがする。

・「崔巍」高く聳えること。

・「熊羆」熊の棲み家の岩屋。

・「薛蘿」ツタ(蔦)類の総称。

・「奔雷」瀧の落ちる轟きを直撃する雷に喩えたもの。

・「劉阮」六朝時代の志怪小説集「幽明録」に載る話の登場人物二人の姓。梗概を記すと、漢の永平五年(西暦六十二年)に、剡(せん)県の劉晨(りゅうしん)と阮肇(げんちょう)が一緒に天台山へ薬草を採りに分け入ったが、道に迷って十三日も歩き回ったが、帰れなかった。飢えて死が迫った。その時、遙かな山巓に一本の桃の木があって、沢山、実がなっているのを見つけ、苦労して攀じ登り、その桃の実を食って元気を取り戻した。かくして山を下り、谷の水を飲んでいると、上流から蕪の葉が流れてき、またその後に胡麻飯を持った杯が流れてくるのを見つけた。これで人家があると知り、更に山を越えて行くと、大きな谷間で、二人の美人と出逢った。二美人が二人を家に導くと、そこは豪華な御殿で、多くの侍女もいた。二人はそれぞれこの二美人の婿となった。しかし十日経って、二人が帰りたいと言い出すと、前世からの福運でここに来たのだ、と説明して帰さず、そのまま半年が過ぎた。再び、帰還を望むと、罪業に引きずられているのだから仕方がない、と帰した。帰ってみると親類縁者や知人は総て死に絶えていて、村も全く変わっていた。訪ね当てたのは自分らの七代後の子孫であった。晋の太康八年(三八四年:行方不明になってから実に三百二十二年後)、二人は姿を消してしまったという。この中の仙境歓楽の様子が「劉阮天台」と称する画題となり多く描かれている。原文は以下(複数の中文サイトのものを校合してオリジナルに作ったものである)。

   *

 漢明帝永平五年、剡縣劉晨・阮肇共入天台山取穀皮、迷不得返、經十餘日、糧食乏盡、飢餒殆死。遙望山上有一桃樹、大有子實、而絕巖邃澗、永無登路、攀援藤葛、乃得至上。各啖數枚、而飢止體充。複下山、持杯取水、欲盥漱、見蕪菁葉從山腹流出、甚鮮新、復一杯流出、有胡麻糝。相謂曰、「此知去人徑不遠。」。便共沒水、逆流二三里、得度出一大溪、溪邊有二女子、姿質妙絕、見二人持杯出、便笑曰、「劉阮二郎捉向所流杯來。」。晨・肇既不識之、緣二女便呼其姓、如似有舊、乃相見忻喜。問、「來何晚邪。」。卽因邀還家、其家銅瓦屋、南壁及東壁下各有一大床、皆施絳羅帳、帳角縣鈴、金銀交錯、床頭各十侍婢、便敕云、「劉・阮二郎、經涉山岨、向雖得瓊實、猶尚虛弊、可速作食。」。食胡麻飯、山羊脯・牛肉、甚美、食畢行酒、有一群女來、各持三五桃子、笑而言、「賀汝婿來。」。酒甘作樂、劉・阮忻怖交幷。至暮、令各就一帳宿、女往就之、言聲淸婉、令人忘憂。至十日後、欲求還去、女云、「君已來此、乃宿福所招、何復欲還邪。」。遂停半年、氣候草木是春時、百鳥啼鳴、更懷悲思、求歸甚苦。女曰、「罪牽君當可如何。」。遂呼前來女子有三四十人、集會奏樂、共送劉・阮、指示還路。既出、親舊零落、邑屋改異、無複相識。問訊得七世孫、傳聞上世入山、迷不得歸。至晉太康八年、忽復去、不地何所。

   *

・「麻屑」あさくず。前の話の深山幽谷で餓えたシーンを踏まえるか。

・「許巢」許由と巣父。ともに伝説的な高潔の士で、許由は帝堯が彼らに「国を譲る」という申し出を口にしたのに対し、「聴いて耳が汚れてしまった」と言って水で洗い、同じくその話を受けた巣父は、その言葉で「川の水が汚れてしまった」と言って曳いて来た牛に水を飲ませずに帰ったとされる。彼らは道家思想に於ける究極の反権力のシンボル的存在で、やはり山水画の画題として好まれた。

・「牛鞿」底本の「韈」は「靴下・足袋」でピンと来ない。「鞿」なら「くつばみ」(家畜類(種に馬)の口にかませる道具)で腑に落ちる。

・「馬壯」馬丁。馬牽き。

・「鳥道」鳥しか通わないような険しい山道。

・「釣磯」釣りをする川岸の岩場。

・「滴仙」謫仙(たくせん)と同じか。地に落ちた仙人。この句と次の句はどうもカシっと判らぬ。自分の詩文の才能は大したものではないことを謙遜したものとしても、あまりいい句ではない。

・「地 養老のごとくにして」この地は空気も水を美味くて養老の桃仙郷のようだというのであろうか。されば、実際にはそれほど離れていない「郡州」(市街地)も「遠し」という気持ちになるというのであろうか。

・「障」「扉」孰れも緑なす断崖やずる剥けた岩山の換喩であろう。

・「丘壑」丘と谷。

・「濟勝の具」景勝の地を渡り歩くための道具。丈夫な足。健脚。「世説新語」の「棲逸篇第十八」の十六章『許掾好遊山水。而體便登陟。時人云、「許非徒有勝情、實有濟勝之具。」。』(許掾(きょえん)は好みて山水に遊ぶ。而して體(たい)は登陟(とうちよく)ぶ便(びん)なり。時の人云く、「許は徒(た)だに勝情有るに非ず、實に濟勝の具、有り。」と。)に基づく。

・「戰勝の肥」「韓非子」の「喩老篇」に基づく謂いのようである。「戰勝、故肥也」(戰勝す、故に肥えたり)で、「武士は食わねど」的価値観を真っ向から否定した韓非子らしい話である。中国や朝鮮では本来は太っている人間が優れているという認識があったことに基づく。詳しくは例えばこちらが話を分かりやすく纏めておられてよい。

・「浩笑」大いに笑うこと。

・「痼」「こびり付くこと」か。

 この詩、誰が作ったものか遂に探し得なかったが、全体的には力の入ったもので、相当な知識を持った人物の詠じたものと思われ、個人的にはなかなか好ましい一篇と存ずる。

 

 遙かに和す 京一品(けいいつぽん)親王の内 萩野左中 元愷(げんがい)

帝 銀漢を濺ぎ 此れ 巑𡵻(さんこう)

萬古の靑屛 馬 掛くる看る

山 紫氣を積み 天色 暝たり

泉 白日を含み 練光(れんくわう) 寒たり

雙龍の噴玉 陰壑(いんがく)を降(くだ)り

百電の劉雲 重巒(ちようらん)を分かつ

誰(たれ)か 迢々たる千仭の水を挹(く)まん

僊(せん)を學び 鶴に跨(またが)り 永く加餐(かさん)せん

〇語釈その他

・「京一品親王」「京」は京師(けいし)で京都、「一品親王」の「品」位は天皇と皇太子を除いた皇族の序列を示すもので、皇親王中では筆頭的な地位にあった。

・「萩野左中」不明。国書刊行会本では「京一品親王内」とこれはポイント落ちであるから、京一品親王の内の「萩野左」大弁(朝廷の最高機関である太政官職の最高位)に従った「中」(うち)の、という意味にもとれなくはないか。

・「元愷」これは大納言・中納言の別称。底本以外の諸本はみな「狄愷」とするが、「狄」は異民族を指す「えびす」で、ピンとこない。しかし、これでは名前を伏していることになっておかしい。そこで調べてみると、橘元愷(たちばなのもとやす 天徳四(九六〇)年?~?)なる人物がいることが判った。しかも彼は平安中期の三十六歌仙の一人で僧で歌人の能因法師(永延二(九八八)年~永承五(一〇五〇)年又は康平元(一〇五八)年:俗名は橘永愷(ながやす))の極めて近しい親族で、能因の実父とも兄とも養父ともされる謎めいた人物である。サイト「平安王朝クラブ」のこちらに詳細な事蹟が記されてある。そこに彼が永観二(九八四)年八月に懐仁親王(後の一条天皇)の立太子に際し、射礼の第一射手を勤めたらしいとあり、前書と齟齬しない可能性がある。但し、私は本篇の作者が彼だと考えているわけではない。参考までに言い添えたまでである。

・「帝」天帝。

・「銀漢」銀河。天の川。瀧をそれに喩えた。

・「巑𡵻」山が鋭く峙つ(そばだ)つことか。国書刊行会本では『巑岏』(さんぐわん(さんがん))となっており、これも「鋭く切り立っているさま」を言う。七言律詩であるから、二句目の「看」と韻が同じでないとだめだが、「𡵻」の韻は不明。しかし、「岏」は「看」と同韻であるから、ここは「岏」が正しい可能性が正しいように思われる

・「暝」国書刊行会本のみ『晴』とする。対句を考えると私は「瞑」でとりたい。「天色」で次の句に「白日」も出るのだから「晴」かとも考えたくはなるが、それでは捻りがない。これは実際に曾良は晴れていても、瀧を見上げたその場所の全体の鬱蒼とした薄暗さを指すように私には思われる。

「雙龍の噴玉」後の文で瀧は二筋となっている。「噴玉」は瀧水の飛沫(しぶき)の比喩であろう。

「陰壑(いんがく)」暗い谷。

「劉雲」連なった雲。

「重巒」重なりあって連なる山。

「迢々」遠く隔たるさま。

「挹(く)まん」「汲むことが出来ようか、いや、出来ない」と反語でとる。剣難にして神聖な瀧に近寄り難きを指すのであろう。

「僊」「仙」に同じい。仙術。

「加餐」養生すること。健康であること。

 

 同じく 堂上(だうしやう)の雲客(うんかく) 大江資衡(おほえのすけひら)

聞道(きくなら)く 賀中 山色 佳たりと

妙工 騰寫し 懷(ふところ)に舒すに堪ふ

三千の飛瀑 源(みなもと) 漢により

七々の幽栖 門 是れ 柴(しば)

白鶴の衣霜(えさう) 曙嶺(しよくれい)を翔(かけ)り

翠屛(すゐびやう)の繡蘚(しふせん) 秋崖を鎖(とざ)す

丹靑の濟勝 君 兼ねてより美し

無限の賞心 豈(あ)に諧(かい)ならずや

〇語釈その他

・「堂上の雲客」一般には平安中期以後に清涼殿に昇ることを許された者を指すが、以下の大江資衡の事蹟から考えて、単に公家出であることを言っているものと思う。

・「大江資衡」(享保一四(一七二九)年~寛政六(一七九四)年)江戸中期の儒者。京生まれ。初め、石田梅岩に、後に詩と書法を竜草蘆に学び、書は宮崎筠圃にも師事した。詩社「時習塾」をひらき、「唐詩紳」などの唐詩に関する書物を多く残した。

・「懷に舒すに堪ふ」第一句目から、実際にこの鶴瀧に来たわけではなく、誰かに瀧を描かせて、その絵を貰い、その実景を心中(「懷」)で想像し延べ広げ(「舒」)ることが出来た、深く心打たれた(「堪ふ」)ということであろう。

・「漢」銀漢。銀河。天の川。

・「七々」地名の四十九院であろう。後の叙述から、ここは地名の通り、古い時代に四十九の仏閣あったものかも知れない。しかし、この作者は「三州奇談」の作者と同時代人で、この頃には、後の文から寺はなかったものと思われる。まあ、ここは実際行っていないから、地名から想像したとしておこう。

・「幽栖」俗世間を離れて静かに住むことであるが、ここは仙人たちをこの地に夢想したものであろう。

・「白鶴の衣霜」白鶴の瀧に一面降りしきった白い衣のような霜。

・「曙嶺を翔り」一面の霜の降りたのを白鶴が飛びしきった跡と換喩したものか。

・「翠屛の繡蘚」蔦葛が覆った緑なす屏風のような絶壁であろう。

・「丹靑の濟勝 君 兼ねてより美し」よく判らぬ。絵師が丹精こめて描いて呉れた景勝たる「君」(白鶴瀧の擬人化か)はずっと古えから美しくあり続けている、の謂いか。

・「無限の賞心 豈に諧ならずや」反語。「限りなく心より褒め讃える気持ちが、これ、相応しくないなどと言えようか、いや、言えぬ」と謂うか。

 

 同じく 洛の大儒 篠三彌(しののさんや) 武欽繇(ぶきんえう)

名嶽 中天 賀陽に映ず

憐れむべし 君 登りて嘯(うそぶ)けば 奚囊(けいなう)を滿たせり

屛巖(びやうがん)重々(ちようちよう) 花 𤲿(ゑ)に作(な)せり

香臺七々 月 霜を微(かす)かにす

素龍 朝 紅霞(こうか)を飮みて下(くだ)り

白鶴 夜 銀漢を侵して翔(かけ)る

勝情 兼ねて得たり 丹靑の色

千里 人をして錦膓(きんちやう)を鼓(こ)せしむ

〇語釈その他

・「洛の大儒」京都の大儒学者。

・「篠三彌(しののさんや) 武欽繇(ぶきんえう)」江戸中期の儒者武田梅竜(享保元(一七一六)年~明和三(一七六六)年)。美濃生まれ。京都で伊藤東涯・堀南湖・宇野明霞に師事した。妙法院親王に仕え、武技を習って孫呉の兵法を精究し、詩にも優れた。名は維岳・亮・欽繇。字(あざな)は峻卿・士明・聖謨。別号に南陽・蘭籬。著作に「感喩」「唐詩合解」など。「篠三彌」は不明。

・「賀陽」ここは加賀国の謂いであろう。

・「奚囊」は詩文を入れておく袋。「奚」は「僕」、「囊」は「袋」の意で、これは私の好きな中唐の李賀が異民族の従者に錦嚢を背負わせ、詩を作ってはその中へ投げ込んだという「唐書」の「李賀伝」の故事に拠る。無論、ここは絶景を前に数限りなく吟詠することが出来たことの比喩。

・「花 𤲿(ゑ)に作(な)せり」これは実際に描いたのではなく、断崖絶壁に点々と花が絵ように美しく咲いていたというのであろう。

・「香臺七々 月 霜を微(かす)かにす」「香臺」仏殿の異称。やはり地名の四十九院のそれととっておくが、しかし、この作者も麦水と同時代人であり、実際に行って詠んだとしたなら、前の注で述べた通り、おかしい。実際には来ていないということにして読む。なお、別に問題がある。それは「微」で、国書刊行会本と「加越能三州奇談」では『凝』となっており、これだと「月 霜を凝らす」で遙かに腑に落ちる。ここは「凝」が正しいように思われる。

・「素龍」オーソドックスな龍。ここは瀧の換喩。

・「紅霞」朝日を受けた霞。

・「勝情」名景勝自体の真の性質(たち)。

・「錦膓」優れた詩文を讃える語。

・「鼓」奮い立たせること。]

 

 其餘之を略す。詩中に云へる四十九院は、今村野(そんや)と成り、其所往々獨鈷(とつこ)・鈴(れい/りん)などの類(るゐ)の佛具の鍬に懸りて出(いづ)ると云ふ。屛風岩は山の尾にして、石立並(たちなら)びて幾廻(めぐ)りかならび、靑松上下に𤲿(ゑが)くがごとく、白岩は麓にありて閉(とざ)すが如し。瀧は二すじ[やぶちゃん注:ママ。]に下り、その坪殊に深し。此瀧の上へ登る路あり、景又佳なり。

 此所元來魔所にして、且猛獸の類(たぐひ)多し。里人敎へて曰く、

「鎗・鐡砲は元よりの事、網・さで・さしざをにても持行(もちゆ)く時は、瀧を登りても害なし」

と。さで樣(やう)の小さき網などを借して持たしむ。故を尋(たづぬ)るに、

「獵師に似る時は害なし。都(すべ)ての狩人(かりうど)の山へ入るに、殺氣有りて鳥獸先づ知る。故に追はざるに猛獸も遠く避(さく)るなり」

と云々。

[やぶちゃん注:「獨鈷」独鈷杵(とっこしょ)。密教で用いる法具である金剛杵の一つ。鉄製又は銅製で、両端が尖った短い棒状のもの。元は古代インドの投擲武器。

「鈴」「りん」は国書刊行会本の原本の原文本文(『トツコリン』とカタカナ)の読み。やはり金剛杵の一つである金剛鈴(こんごうれい)であろう。金剛の杵一端が鈴になっているもので、振り鳴らして仏・菩薩の注意を喚起して歓喜させる法具とされる。

「屛風岩」不詳。

「白岩」不詳。国書刊行会本では『白松岩』となっている。

「さで」さで網。「すくい網」とも呼ぶ。袋状の網地の口縁を木・竹・金具などで三角形・円形・楕円形・半円形などのさまざまな形状の枠に結び付けた「たも網」の一種で、一般には水産動植物を掬(すく)い捕る漁具を指す。

「さしざを」国書刊行会本では『棹(サシザホ)』とある。]

 爰に猶々思ふことあり。或醫家の内敎(ないけう)の壁書(へきしよ)を見しに、『醫は仁術なり』、然るに小兒必ず醫者をみると泣出(なきいだ)し、或は逃(にげ)かくる。故に好言(かうげん)を以て云(いひ)なだめ、菓子などをあたへて能(よ)くなづけ、さて脈・腹を見ることなり。醫は一つの權威あるもの故とはすれ共、密かに思ふに、小兒何ぞ權威を辨(わきま)へんや。今世(こんせ)の醫者殺氣ある故成(なる)べし。思へば、恐れても恐るべきは醫師のわざなり。書を學ぶ者は紙を費(つひや)し、醫を學ぶものは人を費すとは宜(むべ)なり。

[やぶちゃん注:最後の評言はなかなかに辛口で面白い。

「内敎」自身に課したスローガン。

「壁書」ここは家訓や座右の銘を書いて壁に掲げたもの。]

2020/01/29

三州奇談卷之一 山代の蜈蚣

 

    山代の蜈蚣

 山代の溫泉は大聖寺を去つて一里半、保賀(ほうか/ほが)の渡しと云ふ二天(にてん)の末の流(ながれ)一筋を隔てゝ、向の山の麓なり。平蕪(へいぶ)の田野竹村巷道(かうだう)平らかなる里つゞき也。湯は家々に取(とり)て、座敷湯にて、家ごとに二三ヶ所宛(づつ)上湯下湯の浴場(あみば)をこしらへ、自由過(すぎ)たる溫泉元なり。湯は淸く、香(かをり)又山中(やまなか)より薄し。然共、堀口何某の家に湯井(ゆせい)三つあり、湯涌返(わきかへ)りてすさまじ。是を掛樋(かけひ)にてとり、又山水を樋にて交へて家々にとり、大樣(おほやう)熊野湯の峰の如し。又水に交りて涌たまりあり。是は攝州有馬の湯のうはなり井の如し。男女、影をうつして口舌をなせば、水中に湯涌き上る又奇妙なり。山中より此地は湯出る數多しと覺ゆる所なり。

[やぶちゃん注:「山代」加賀市山代温泉(グーグル・マップ・データ)。

「保賀(ほうか/ほが)」読みは、前者は国書刊行会本の原本のカタカナ表記に基づき、後者は「近世奇談全集」のそれを示した。現在は加賀市保賀町(ほうがまち)である。東端を大聖寺川が流れる。現行、保賀中心部を抜けて山代温泉街に向かう国道百五十一号の保賀橋のみが大聖寺川に架橋するから、「保賀の渡し」もこの付近と考えてよかろうか。

「二天」これは山代温泉の東を流れる大聖寺川の上流、山中温泉の北端に当たる山中温泉二天町を指すものであろう。

「平蕪」雑草の生い茂った野原。

「竹村」一般名詞。竹叢。

「巷道」「路地」に同じい。

「上湯下湯」一般的な理解に従うなら、「下湯」は共同浴場的な気軽に入れる簡易なものとなるが、或いは泉質や温度に違いがあるのかも知れない。

「熊野湯の峰」日本最古の湯として知られる熊野の「湯の峰温泉」。小栗判官譚で彼が蘇生する「つぼ湯」で知られる。

「うはなり井」有馬温泉の妬湯(うわなりゆ)。「男女、影をうつして口舌をなせば」とあるが、一般伝承ではこの温泉が吹き出る井戸に、美しく化粧をした女性が立つだけで、湯が嫉妬したかのように吹き出したとされるかく名付けられたと伝えられている(現在は枯れて、すぐ裏手に新しい妬湯が掘られてある)。私の「諸國百物語卷之一 二十 尼が崎傳左衞門湯治してばけ物にあひし事」の本文及び私の注を参照されたい。]

 此湯本に豆腐屋三郞右衞門と云ふ人あり。蛇を遣ふことを覺え、又能く蛇を防ぐ故に、他の家には蛇多し、此家蛇なし。此人の物がたりに、

「此上の山おくに椎谷(しひだに)と云ふ所あり。野社(のやしろ)あり、椎數十本森をなす。此社地に雌雄の大白蛇あり。雄は長さ三間半餘(あまり)、雌は三間許もやあらん。久敷(ひさしく)見馴しに、或時行(ゆき)て見れば、雄蛇死してあり。いか成(なる)ことにや有けん。今は雌のみ殘れり」

と物かたりを聞きし。是は元文元年の頃かと思ゆ。

[やぶちゃん注:「豆腐屋三郞右衞門」不詳。

「椎谷」不詳。

「三間半」約六メートル三十四センチ。

「三間」約五メートル四十五センチ。

「元文元年」一七三六年。]

 又此頃予が友に夫由(ふいう)と云ふ人あり。寶曆某の年、大聖寺家中福島氏【名は源四郞】のもとにて、一怪物をみる。其形大なる男の拳(こぶし)程にして、黑漆百度(たび)ぬりし獅子頭のごとし。何物なることを辨ぜず。其故を尋けるに、福島氏敎へて云うふ、

「世に蜈蚣(むかで)蛇を制すといふ。故有哉(ゆゑあるかな)。我(われ)山代の山廻り役仰付(おほせつ)けられしに、久敷(ひさしく)山代の山入に有しが、里人の語りけるは、『此の奧に長さ四間餘の大蜈蚣ありて蛇を喰ひ、諸獸を服しけるを、村の者共集りて終(つひ)に打殺せり。其頭是にある』よし申(まうす)程に、我乞ひ求めて歸りぬ」

となり。實(げに)も手に取りてよく見れば、なる程百足虫(むかで)にまがふ所なし。其の堅さ甲鐵の如し。此山人家をはなれて遠からざるにさへ、かゝる異物の出來たるなり。然(しかれ)ば「山海經(せんがいきやう)」にも誠に其者あるべく、江州(がうしふ)百足山(むかでやま)の記事も疑ふべきにもあらず。扨は椎谷の雄蛇も、是が爲に破られしものか。

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。思うに、これは古い時代に山師が行った鉄の精製の際に発生したスラグの塊りではないかと私には思われる。しかしそれを大百足の遺骸とするのは故なきことではない。山師は百足を信仰したからである。これは私は地中に掘り込んだ坑道の形状がまさに百足に似ていたからでもあるように考えている。因みに、武士も百足を軍神のシンボルの一つとしていたから、この福島が貰い受けたというのも腑に落ちる。

「夫由」不詳。原著者麦雀の友人と思われる。

「寶曆」一七五一年~一七六四年。

「大聖寺家中福島氏【名は源四郞】」不詳。福島重次郎という人物なら見出せる。

「山廻り役」藩直轄の森林の管理体制における末端の職制。森林看視や植林・伐採作業の監督に当たった。

「四間」七メートル二十七センチ。

「山海經」中国古代の幻想的地誌書。全十八巻。作者・成立年未詳(聖王禹 () が治水の際に部下の伯益の協力を得て編んだとされるが仮託に過ぎない)。戦国時代の資料も含まれるが、前漢以降の成立と推定されている。洛陽を中心に地理・山脈・河川や物産・風俗の他、神話・伝説・異獣幻獣の記載がてんこ盛り。

「江州(がうしふ)百足山(むかでやま)の記事」「むかでやま」は近江の三上山(現在の滋賀県野洲市三上にある。標高四百三十二メートル)の異名。平安中期の武将藤原秀郷の百足退治伝説で知られる(但し、ずっと後の「俵藤太絵巻」(原話は南北朝以降の成立か)が淵源と推定される)。

 以下は、底本では全體が二字下げ。これは以下の注で述べるように、筆写者麦水の附記である。]

山代の奇事、此外に一向宗の寺へ矢島伊助といへる盜賊の頭(かしら)宿かれること、怪術しばしば目を驚かしてのち、天下大盜の物語りをなす。此事一件は、さきに一本を著はす。題して「越の白波」と云ふ。此中に委(くは)し。此段事長きが故に此書にはもらしぬ。

[やぶちゃん注:前注の論拠は、「越の白波」という書名による。こちら(金沢・石川に関わる事典の一ページ。PDF)に、

   《引用開始》

 コシノシラナミ 越の白波 堀麥水の著。現存のものは首卷と記されて、威盜熊坂長範・妖盜四井次郎兵衞・奇盜矢島伊助・竊盜白銀屋與左衞門の傳が記されて居る。この以外の續編が果して成つたのか否かは明らかでないが、恐らくは未完成らしい。

   《引用終了》

とあること、迷亭氏のブログ「それから 気ままに散策 城下町金沢」の「金沢 堀麦水の「三州奇談」とは (上)」に、「石川県史」の「国学」の条を引かれ、

   *

「宝暦・明和を中心として堀麦水あり。奇才縦横行く所として可ならざるはなく、その本領は俳諧に在りといへども、傍ら指を著述に染めて慶長中外伝・寛永南島変・昔日北華録()、又三州奇談、越廼白波[やぶちゃん注:「こしのしらなみ」。]の如き郷土的雑書あり。筆路何れも暢達にして毫も苦澁の跡を見ざるもの、蓋し加賀藩に於けるこの種の作者中前後にその比を見ること能はず。」

   *

とあることによる。なお、迷亭氏はこの後、

   《引用開始》

 この『石川県史』の編纂は日置謙であるが、日置は同書の「俳諧」でも、麦水と千代女とを比較して、「世人の評価以上に手腕を有したるは樗庵麦水なり」としている。

 日置は麦水の多才・多芸を絶賛しているが、なかでも『三州奇談』でその「奇才縦横」ぶりを十二分に発揮したといえよう。

   《引用終了》

と麦水と本書を高く評価されておられ、この前の部分でも、

   《引用開始》

『三州奇談』にはもととなる種本があったとされる。

『三州奇談』校訂者の日置謙[やぶちゃん注:私が底本としているもので、ここはその「三州奇談解說」の一節をもとに書かれておられる。]はこれについて、つぎのように述べる。酒井一調の「根無草」に住吉屋次郎右衛門が話を集めたとあるが、それは事実であろうが、その種本なるものはきわめて貧弱なものであっただろう。

 つづいて『三州奇談』の内容は、甚だしく荒唐無稽のことのみのように思われるが、それは麦水自身のねつ造にかかわるものではなく、そうした奇説恠談が民間にあったのを採集したことに本書の価値が認められ、存在の理由があるとしている。これをいいかえると、各話からは近世の人々がなにをみていて、それについてどのように考えていたかを読みとることが可能だということである。

 これはほかの史料とはひと味違う特徴的なことであり、郷土の伝承歴史文化を研究する文献のひとつとされる由縁だと考える。

   《引用終了》

と述べておられ、私も激しく同感するものである。

「矢島伊助」詳細不詳。]

2020/01/28

三州奇談卷之一 圍爐裏の茸

 

    圍爐裏の茸

 寶曆十一年秋の事なり。是も山中湯元の泊屋糸屋四右衞門と云ふ人あり。性質莊勇、川狩を好みて夏秋は常に川にあり。

[やぶちゃん注:「寶曆十一年」一七六一年。

「糸屋四右衞門」新城景子氏と藤田勝也の共同論文「近世における温泉町の空間構造 ―加州江沼郡山中温泉を事例として―」(『日本建築学会計画系論文集』(第五百六十九号・二〇〇三年七月発行・PDF)の中に、歴代の山中温泉『湯本十二軒』の表の中に宝暦五(一七五五)年のそれに『糸屋四右衛門』という名を見出せる。彼(後継かも知れぬが)は享和三(一八〇三)年のそれでは「湯番頭」として筆頭に出る人物である。まず彼と考えてよい。]

 此地の川は淵多く、水千仭の巖に碎けて、岩石多くは奇をなす。所謂「八岩四瀧」あり。其の八岩と云ふは、

  女夫岩  猫岩  堂岩  獅子岩

  烏帽子岩 牛岩  平岩  大岩

四瀧と云ふは、

  鶴ケ瀧 女郞ケ瀧 千足ケ瀧 翠簾ケ瀧

他鄕の人は、水に臨むも身をちゞむ。

[やぶちゃん注:「女夫岩」不詳。

「猫岩」「菅谷の巨蟒」以下、複数回既出既注。

「堂岩」不詳。

「獅子岩」不詳。見つけるには見つけたが、あまりにも南方(福井県勝山市丸岡町上竹田浄法寺山近く)なので採用出来ないと判断した。

「烏帽子岩」鶴仙渓にあることがサイト「ZEKKEI Japan」の「鶴仙渓」で判る。

「牛岩」不詳。

「平岩」句空の「草庵集」の記載か見て、黒谷橋の近くである。

「大岩」既に述べたが、先の「猫岩」の別称である。しかし、命数として別個に数えるからには、別な岩をこう呼称して、別に加えられた可能性が高い。

「鶴ケ瀧」サイト「加賀市観光情報センター KAGA旅・まちネット」の「山中温泉 鶴ヶ滝」によれば(滝の地図と動画あり)、『大小』五『段の滝で、一番奥の最大のものは二筋に分けられており、高さ』は『五段』を『合わせて』三十メートルほどとされ』、『広場には鶴ケ滝不動王がまつられており、ここから眺める鶴ケ滝が最も美しく、しぶきをあげる二筋の滝の様は、鶴の足のようであると』いうこと『から』、『滝の名前の由来もここからきていると言われてい』るとある。

「女郞ケ瀧」温泉街からはずっと離れて溪谷を東に詰めたところ山中温泉九谷町にある女郎ヶ滝

「千足ケ瀧」不詳。

「翠簾ケ瀧」温泉街から南下した山中温泉我谷町の我谷ダムから丸岡方面へ行った道路沿いに落差約十メートルの簾滝(みすだき)があるが、これか。候補情報を得たのは個人サイトのこちら。写真もある。]

 此あるじなんどは、千尺の岸を飛び、百尋の淵をさがす。

[やぶちゃん注:「千尺」三百三メートル。「岸」を垂直に切り立った切岸=崖ととり、それが接近しているとすれば、あり得ない話ではない。

「百尋」「ひろ」。水深では一尋を六尺とするから、百十五メートル。これは川の実測の淵の深さとしては全くあり得ない。]

 常に魚を得てはいろりに指しならべ、夜來の食客とともに俠氣を說(とき)て佛神も信ぜざりしに、或朝にやいろりに火をいけて灰をかきよせ置きし上に、あやしき茸(きのこ)三つまで生出(おひいで)たり。

 大いさ、指渡(さしわた)し數寸も有るべし。雙莖の物も一つありき。甚だ異物なり。

 家奴(いへのやつこ)怪(あやし)み驚き、主人を起して是を見せけるに、曾て怪まず、引ぬき捨けるに、三朝同じごとく茸生出けるに、主(あるじ)終にあやしまず引捨て々々して、晝は又忘れたるが如し。家内の婦女は、

「祈禱の加持の」

と云もてさわぎけれども、主只打笑ひて一つも心にさへざりしが、其精神濶達にして、色味の不動なる故にやよりけん、其後は、茸も生出ず、主人の心一つにて、家内の人も例のこととして怪まず、終にやみぬ。

 鐵心又怪を消す。珍らしからずといへども、有がたかりし心性なり。

[やぶちゃん注:「色味の不動」顔色一つ変えないポーカー・フェイスを謂うか。]

三州奇談卷之一 溫泉馬妖

 

    溫泉馬妖

 爰にいふ山中の藥師は、村の西北金剛山の嶺の畔(ほとり)にて、則(すなはち)水無山(みづなしやま)の尾(を)なり。七堂の靈地にて、國分山五字明王院醫王寺といふ。庭園に奇怪の水鉢(みづばち)ありて、天然の石にして龜に類(るゐ)せり。往來の風客(ふかく)雅章を致(ち)して山と川と對すべし。麓に「信連(のぶつら)屋敷」と云ふ跡あり。此溫泉は則(すなはち)長(ちやう)某公の開く所にして、溫泉の幕、寺の紋所、皆長家の定紋九曜(くえう)を用ふ。緣起數章あり。畫傳假名の緣起皆近作なり。爰に略す。但し建久[やぶちゃん注:一一九〇年~一一九八年。]の緣起、墨蹟古雅にして奇談とすべし。事跡の爲爰に寫し記す。

[やぶちゃん注:「金剛山」現行の山名としては確認出来ない。「水無山」の位置と「嶺の畔」という謂いからは、この付近(国土地理院図)であろう。但し、高いピークは「村の西北」ではなく、西南にある。

「國分山五字明王院醫王寺」複数回既出既注であるが、再掲しておく。加賀市山中温泉薬師町にある真言宗国分山(こくぶんざん)医王寺。山中温泉を開湯した法相宗行基(天智天皇七(六六八)年)~天平二一(七四九)年:河内国大鳥郡(天平宝字元(七五七)年に和泉国へ分立。現在の大阪府堺市西区家原寺町)生まれ)の創建と伝えられる温泉の守護寺として知られ、薬師如来を祀っていることから「お薬師さん」と呼ばれ親しまれている。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「五字明王院」の院号は今は使用されていない模様である。

「庭園に奇怪の水鉢ありて、天然の石にして龜に類せり」調べてみたが、見当たらない。現存しないか。

「信連屋敷」この後は見出せないが、山中温泉南町に長谷部神社があり、石川県観光連盟作成になる同神社の解説(地図あり)に、『山中温泉を再興したと伝えられる鎌倉時代前期の武士、長谷部信連を祀(まつ)ってい』るとし、『山中温泉は約』千三百『年前、北陸行脚で江沼国菅生神社に参拝中の僧行基が発見したとされ』いるが、『その後、兵乱のため温泉は一時荒廃し』、文治年間(一一八五年〜一一九〇年)、『傷ついた脚を流れに浸している』一『羽の白鷺を、能登の地頭・長谷部信連』(?~建保六(一二一八)年)『が見つけ、霊泉がわき出ていることを知って』、『山中温泉を復興したといわれ』ているとある人物と考えてよい。次注で判る通り、彼は長氏の一族である。

「長(ちやう)某公」サイト「戦国武将の家紋」の「長氏」によれば、『中世、能登の国人領主長氏は清和源氏を称している。そして、『長氏系図』には、源頼親から源季頼に至るまで、八代の人名が記されている。しかし、長氏は『拾介抄』に見えているように、長谷部で宿禰姓または連姓であり、清和源氏とは関係がなかった、とするほうが真実のようだ』。『長氏が歴史に足跡を記したのは忠連のときであった。忠連は信連の祖父にあたる人物で北面武士となり、のちに鳥羽天皇の滝口となった「正六位上長谷部宿禰忠連」である。滝口を勤め上げた者は馬允に任じられるという慣例に従って右馬允にまで昇進した。長氏を初めて名乗った信連は、『平家物語』に「信連は本所衆、長ノ右馬允忠連が子なり」と見え、年代的にこの忠連の子であっても不自然ではない。しかし、『吾妻鑑』には「長新大夫為連の男なり」と記され、「長氏系図」でも為連の子として記載されていることから、信連は忠連の孫で為連の子であったと考えられる』とあり、以下に詳細な事蹟が記されてある。その後に『信連の挿話として山中温泉を発見したことが』知られるとし、『一日、信連が領内を巡視した時、偶然にかれは白鷺が降り来たって葦原の小流に病脚を浸すのを見た。これが、もとで霊泉を発見し、のちに有名となる山中温泉の発端』となったとあり、『また、山中温泉が一名白鷺温泉とも呼ばれる由来でもある』とある。さらに、『信連の子五人は、それぞれ』領『内の村地頭となり、かれらの子孫が中世末期には長氏の「家の子」とよばれ、家臣団中では最高の家格を誇った。鎌倉時代は「惣領制」の時代であったから、惣領は本領地にあって名目的に全知行を領有し、庶子などに知行地を分与して赴任させた』とあって、『後世、長氏の家臣中で重きをなした此木長氏・上野長氏・宇留地長氏・山田長氏・阿岸長氏らはみな』能登国鳳至郡の主領『大屋荘の周辺部に位置し、その祖を信連の子としている。これらの五氏はともに「長谷部朝臣」と称し、長氏を惣領として強固な同族的結合を形成した武士団の、それぞれ一方の旗頭たちであったと考えられる』とある。これで腑に落ちたことがある。直前の「山中の隕石」に記された「山中十勝」の一つ「黑谷の城跡」である。」そこでは山中温泉東町にある鎌倉時代頃の山寨山中黒谷城と注し、サイト「日本城めぐり」のこちらで位置が判るとしたが、そのリンク先の解説で(恐らくは最初の)城主として『長盛龍』という名が記されてあることである。名前をどう読むのか不明だが、まさにこの人物は長谷部信連に連なる「家の子」の長一族の一人であったものと推定出来るのである。

 以下、縁起(現存するようである)は返り点のみ打たれたものが全文が一時下げで示されてある(諸本同じ)が、ここではまず白文で示し、その後に返り点に従って、私が推定で書き下したものを【 】内に示すこととした。一部で国書刊行会本を参考に読点に代え、記号も補い、読み易くするために段落も成形した。読みは私の推定で歴史的仮名遣で禁欲的に附した。訓読は返り点以外は総て私の勝手自然流であるから、底本その他の諸本の返り点を参考に御自身で読まれんことをお勧めする(特に最後の方の「又有印土迦勝王。曰此苑有泉。熱不可深。願爲決之。祖曰此爲溫泉有三緣所致。其一神業。其二鬼業。其三熱石矣。」は訓読がうまく出来ず、意味もよく判らない)。なお、このパートは前後を一行空けた。

 

加州山中村湯緣起

爰天平年中。聖武天皇御宇。加州江沼郡從山中嶺上。不思議紫雲靄峯。居住泉州菅原寺行基法師。尋登此嶺上。闞見彼紫雲源委。及八十老人現來。告于行基曰。溫泉此國發。開湯壺可與賜浴於衆人旨語。倏忽飛消空。行基隨其敎掘出溫泉。開三間四面湯壺。刻彫九寸非勝※1※2尊影於木像。[やぶちゃん注:底本ではここに奇体な文字(梵字の変形のように見受けられる)が入る。この左ページ六行目下から四字目からの二字分である。「近世奇談全集」だけがここを『刻彫九寸非迎尊影於木像。』とするが、これは承服出来ない。国書刊行会本は『刻彫九寸非晴□□尊影於木像。』と判読不能とする。]安置湯室二階。南白山妙理社。金銀卷柱。以瑠璃巖軒端。爲萬民守護。北佛閣森々。坊中比甍。可謂異國元閣通。脇辻小路狩野遠久爲湯番。不分冷溫。入湯輩。病者無不治。殊斷毒味。膚厭冷性浸潤。不誇酒宴。止瞋恚。偏信心輩頓逃病患。因玆※1※2經。我此名號一經其耳。衆病悉除。身心安樂矣。此經文意。信心輩名號一經耳。[やぶちゃん注:「加越能三州奇談」と国書刊行会本では『信心輩』の後が『※1※2名號一經耳』(ここでは前者に従って正字で示した)という文字列となっている。]諸病平愈。令成色身安樂所願也。誠經文明白者歟。雖然有漸後。承平年中。從將門叛逆砌。逮退轉期。至賤男賤女失吾栖。又本深山生茂。爰治承年中。高倉院御宇從京方引籠。居住塚谷村長谷部信連云者一官人。終日愛鷹馳登此嶺頭。徧視山中。折脚白鷺徐來。便入池水。暫出亦入亦出。終舒𦐂飛行。又經一七箇日。折脚白鷺。延堅固脚足憩葦間。官人忘他念則合鷹逸物。鷹去無難抓鷺落。官人慮其因由。[やぶちゃん注:ここは底本は「慮」が「應」である。訓読上の躓きのなさから、ここのみ国書刊行会本で訂した。]白鷺是白山妙理可使者。恐可恐謬上錯己矣乎。成意誓斷鷹足韋忽抛虛空則怪見葦間疏鑿溫泉自峨々巖石中穿出微妙藥師尊形。承聞往古行基法師。有開山所可溫泉是。貴哉。二百余年雖埋座淤泥。具足神通力。佛躰者毫厘無損。從此節安置迓躰於各別堂。學古風如形欲奉興。無程則成就威儀。然而貴賤輩。入此湯無病不治族。溫泉雖多涌。寒熱等分此也。彼是佛神誓甚深者也。偉哉異域有此儀。漢土明皇幸花淸池。樂安身法力。餘流於諸人不異。又有印土迦勝王。曰此苑有泉。熱不可深。願爲決之。祖曰此爲溫泉有三緣所致。其一神業。其二鬼業。其三熱石矣。抑信連繼絕。深忠勤于君忽酬天理。從關東鐮倉被召出賜能登國。現當二世悉地成乎。仍粗所記緣起狀如件。

 建久五年甲寅       金剛山醫王寺

【「加州山中村湯緣起」

 爰に天平年中、聖武天皇の御宇、加州江沼郡(こほり)山中(やまなか)の嶺の上より、不思議なる紫雲、峯より靄(かすみた)つ。泉州が菅原寺に居住せる行基法師、此の嶺の上を尋ね登り、彼の紫雲の源の委(くはし)きを闞見(かんけん)す。八十(やそ)に及べる老人、現はれ來たり、行基に告げて曰く、溫泉、此の國に發すれば、湯壺を開き、浴をもつて衆人に與賜(よし)すべき旨、語り、倏忽(しゆくこつ)として飛び、空に消ゆ。

 行基、其の敎へ隨ひ、溫泉を掘り出だし、三間四面の湯壺を開く。九寸の非勝※1※2の尊影を木像に於いて刻み彫り、湯室の二階に安置す。南に白山妙理社、金銀の卷柱に、瑠璃を以つて軒端を巖(かざ)り、萬民の守護と爲す。北に佛閣、森々、坊中、甍を比(きそ)ひ、異國元(げん)の閣の通りと謂ふべし。脇の辻小路、狩野遠久、湯番と爲す。

 冷溫を分たず、湯に入る輩(やから)は、病者、治(じ)せざる無く、殊に毒味を斷ち、膚(はだへ)冷性浸潤を厭はず、酒宴を誇らず、瞋恚(しんい)を止み、偏へに信心の輩、頓みに病患を逃(のが)る。

 玆(ここ)に因りて、「※1※2經」、我れら、此の名號一經、其れのみ。衆の病ひ、悉く除(の)け、身心、安樂たり。此の經の文意は、「信心の輩、名號一經のみ」たり。諸病平愈、色身(しきしん)の安樂の所願を成さしむるなり。誠(まこと)に經文、明白なる者か。

 雖然(しかるといへど)も、漸(やや)有りて後、承平年中、將門が叛逆の砌(みぎり)より、退轉の期に逮(およ)ぶ。賤男・賤女、吾が栖(すみか)を失ふに至る。又、本(もと)の深山と生ひ茂げりける。

 爰に治承年中、高倉院御宇、京方より引き籠り、塚谷村に居住せる長谷部信連と云ふ者、一官人なるが、終日(ひねもす)、鷹を愛し、此の嶺(みね)の頭(かしら)に馳せ登る。徧(あまね)く山中を視るに、脚を折れる白鷺、徐(おもむ)ろに來たり、便(すなは)ち、池水に入り、暫くして出でて、亦、入り、亦、出で、終(つひ)に𦐂(つばさ)を舒(ひろ)げて飛び行けり。又、一七箇日(ひとなぬか)を經て、脚を折れる白鷺、堅固なる脚-足(あし)を延ばし葦間に憩(いこ)ふ。官人、他念を忘れ、則ち、鷹の逸物(いちもつ)を合はす。鷹、去つて、難無く、鷺を抓(つか)み落とす。官人、其の因-由(よし)を慮(おもんぱか)る。

『白鷺は是れ、白山妙理が使者なるべし。恐れ、恐るべし、上(かみ)を謬(あやま)り、己(おのれ)を錯(あやま)てるか。』

と意誓を成して、鷹の足韋(そくゐ)を斷ちて、忽ち、虛空に抛(なげう)つ。

 則ち、怪しみ見る葦間に、溫泉の疏鑿(そさく)せり。

 峨々たる巖石の中(うち)より、微妙なる藥師の尊形(そんぎやう)、穿ち出づ。

 承り聞く、往古、行基法師、開山有る所の、溫泉は是れなるべし。

 貴きかな。

 二百余年、淤泥(おでい)に埋座(まいざ)せると雖も、神通力を具足し、佛躰(ぶつたい)は毫厘(がうりん)も損せる無し。

 此の節より、迓(むか)へたる躰は各別の堂に安置す。古風を學びて形(かた)のごとく、興(おこ)し奉らんと欲す。程無く、則ち、威儀を成就す。然して貴賤の輩、此湯に入り、病ひ、治せざるの族(うから)無し。溫泉、多く涌くと雖も、寒熱、等分にして此れなり。彼れ是れ、佛神への誓ひ、甚だ深き者なり。

 偉なるかな、異域に此の儀や有る。

 漢土の明皇、花淸池に幸(かう)し、安身法力を樂しむも、餘流の諸人、異ならず。又、印土(いんど)に迦勝王(かしやうわう)有り、曰(い)ふ、「此(ここ)の苑(その)に泉有り。熱きこと、深(はか)るべからず。願爲(ねがはく)は之れを決せん」と。祖、曰く、「此れ、溫泉と爲すに三緣有りて致さしむ。其の一は神業。其の二は鬼業。其の三は熱石なり」と。

 抑(そもそも)信連(のぶつら)絕えず繼ぎて、深く、君に忠勤して天理を酬(むく)ふ。關東鐮倉より召し出だされ、能登國を賜ふ。現當の二世の、悉く地と成るなり。

 仍(よ)つて粗(ほぼ)記す所の緣起の狀、件(くだん)のごとし。

 建久五年甲寅       金剛山醫王寺】

[やぶちゃん注:「天平年中」七二九年~七四九年。

「泉州が菅原寺」奈良県奈良市菅原町(すがわらちょう)にある法相宗清涼山喜光寺。行基創建と伝え、彼の没した地とされており、菅原寺とも呼ばれる。

「闞見」臨み見る。

「倏忽として」忽(たちま)ちのうちに。

「三間」五メートル四十五センチ。

「非勝※1※2」不詳。識者の御教授を乞う。

「白山妙理社」白山妙理権現の社。白山妙理権現とは十一面観音菩薩を本地仏とする白山権現(白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合神)の別称。

「異國元の閣の通り」私は「異國」である大陸の大国「元」(げん)の都市の、壮麗な仏「閣の」立ち並んだ「通り」の意でとった。

「狩野遠久」伝承ではここの地侍で、温泉源の探索も彼とともに行っているようである。

「冷溫を分たず」温泉の温度に関係なく。

「殊に毒味を斷ち」体内の有害な毒気を根から絶ち。

「膚(はだへ)冷性浸潤を厭はず」よく判らない。体温が以上に低い性質(たち)であるとか(その結果、熱い湯には入れないということか)、肌が荒れたり、糜爛したりしていても全く問題なく入湯でき(滲みる痛みを感じないということか)。

「酒宴を誇らず」意味不明。「酒宴を催すを禁忌とせず」の謂いかとも思ったが、「誇」ではそのような意味にはとれない。「近世奇談全集」では「誇」を「袴」とするが、これは誤植であろう。

「瞋恚」仏教の三毒・十悪の一つで、自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。

「※1※2經」私は「※1※2」を仏教の如来・菩薩・天部の孰れかの名の梵字と考え、それを冠した経文(きょうもん)=名号が存在するものと読んで、鍵括弧を附したものである。

「色身」ここは私は「肉体から離れられない現実世界での人間として存在」の謂いでとる。

(しきしん)の安樂の所願を成さしむるなり。誠(まこと)に經文、明白なる者か。雖然(しかるといへど)も、漸(やや)有りて後、

「承平年中」九三一年~九三八年。「平将門の乱」は一般に承平五(九三五)年から天慶(てんぎょう)三(九四〇)年とされる。

「治承年中、高倉院御宇」治承は一一七七年(安元三年八月四日改元)から一一八一年であるが、高倉天皇の在位は仁安三(一一六八)年からで、治承四年二月二十一日(ユリウス暦一一八〇年三月十八日)に安徳天皇に譲位しているから、この記載が正確ならば、僅か二年半ほどの閉区間となる。

「塚谷村」山中温泉塚谷町(つかたにまち)

「他念」ここは脚を折った鷺が池に出たり入ったりする不思議な行動に対する疑問・不審のことを指す。

「意誓」神に対する懺悔(さんげ)と誓約。

「足韋」鷹と自分の手を結んでいる鞣革(なめしがわ)で出来た紐。

「疏鑿」切り開かれて川や泉が流れ出ること。

「淤泥」滓(おり)と泥。

「古風を學びて形(かた)のごとく」古い礼節に則(のっと)って、知られた通りの正しい祭祀の礼式を以って。

「寒熱、等分にして此れなり」丁度、適温であることを謂うか。

「彼れ是れ」入湯する者たち皆誰もが。

「漢土の明皇」唐の玄宗皇帝のこと。

「花淸池」華清池。西安市街から北北東に約三十キロメートルにある温泉。楊貴妃が入ったことで(というよりそう書かれた白居易の「長恨歌」で)人口に膾炙する。

「餘流の諸人、異ならず」意味不明。「玄宗はそれで安心立命を保ったかも知れぬが、他の人々がその特別な恩恵を受けたわけではない」の謂いか?

「印土」インドだろう。

「迦勝王」不詳。

「願爲(ねがはく)は」訓読に自信なし。

「之れを決せん」その温度を正確に測定したいか? よく判らぬ。

「祖」不詳。誰やねん!?! まさか釈迦じゃないよねぇ?

「溫泉と爲すに三緣有りて致さしむ」最後は使役で読んだが自信はない。「真の温泉を生成する起原には三つの異なった所縁があって、それによって温泉となってこの世に初めて出現させられるものなのである」か? 訓読も意味も自信なし。

「建久五年甲寅」一一九四年。]

 

 湯もとの旅舍に、高屋何某と云ふあり。町屋と云ふは、隣にて、共に旅客をとむる湯元の宿なり。此里從來年每の正月と云ふ日には、夥敷(おびただしく)湯人あること、家々皆相撲場のごとし。近鄕遠里在々の者、公納の米を年の大晦日迄に濟ませて、夫(それ)より直(ぢき)に打連れ打連れ、此山中の湯に入來る。必(かならず)正月七日より十二三日迄に、上湯することなり。されば何百人と云ふを家ごとに宿すなれば、家々疊をあげて筵のみを敷き、家を明渡して仕切と云ふも大方はなし。其故は、晝夜となく湯に入りて、寢具と云ふも借らず、人々押合ひ居て、其(その)寒き者は湯にかけ込かけ込み、庭も二階も、都(すべ)て人にて詰たるが如く、何(いづ)れも土民のい賤しき者なれば、宿屋にも貌(かほ)を知ることも能はず。故に取違へて一回り許り隣の家に寢て、立つ時亭主の名を聞(きき)て驚く等のをかしきことのみまゝ多し。

 然るに、享保十二年[やぶちゃん注:一七二七年。]三年の頃にや、是(これ)に付(つき)怪しきことあり。此高屋並びに隣家の町屋と云ふ兩所に分ちて、夥敷(おびただしき)土民の宿しけるが、或夜高屋の奥座敷より

「馬のはなれ込(こみ)ぬ、ふまれな」

とおひ騷ぎけるより、次のの間中の間驚き立ち、夜半過(すぎ)の暗がり紛れ、互ひに踏合(ふみあひ)て、双方

「馬ぞ」

と心得、端の間端の間も大きに騷立(さはぎだち)、

「ゑいやゑいや」

と押合ふほどに、大戶の扉押破りて、門前へ人なだれをついて押出す。此人隣の町屋へも駈込(かけこ)みしにや、又是も奧よりや騷ぎ出けん、

「馬よ馬よ」

と云ひ騷ぎて、是も同じく漸々(やうやう)と門前へ逃出(にげいづ)る。其内には

「馬のふまれたり」

とて、大きになげく者あり。

「かみつかれたり」

と覺ゆる者は猶多かりける。

[やぶちゃん注:以上の最後の部分、国書刊行会本では『其の内には「馬のふまれたり」とて、大きになげく者有(あり)。「かみつかれたり」と肩をかゝへ打臥すものも有(あり)。「蹴られたり」と覚ゆるものは猶(なほ)多かりける。』となっている。]

 二時[やぶちゃん注:「ふたとき」。四時間。]許にて、漸々と靜まりける。取分(とりわけ)て高屋の旅人あやまちする人多かりける。夜明て色々吟味すれども、馬の入るべき樣(やう)もなく、又近鄕に「馬のはなれたり」と云ふ沙汰もなし。奧の間の人の寢おびれたる[やぶちゃん注:寝ぼけた。]夢にてぞありけん、ふしぎに此騷ぎとは成りたりける。

 驚く心發しては、山の樹も敵(かたき)とは見えけん。彼(かの)「徒然草」に有るも、鬼になりたる者の京へ登りしとや云ひける。皆是時の人の氣に感じては、ふしぎの變もあることにこそ。

[やぶちゃん注:最後のそれは「徒然草」の第五十段の以下。

   *

 應長[やぶちゃん注:一三一一年~一三一二年。]の頃、伊勢國より、女(をんな)の鬼(おに)になりたるをゐて上りたりといふ事ありて、その頃二十日(はつか)ばかり、日每に、京・白河の人、「鬼見に」とて、出でまよふ。

「昨日は西園寺にまゐりたりし。」

「今日は院へまゐるべし。」

「たゞ今はそこそこに。」

など言へども、まさしく見たりといふ人もなく、虛言(そらごと)と云ふ人もなし。上下(じやうげ)ただ鬼のことのみいひやまず。

 その頃、東山より安居院(あごゐん)の邊(ほとり)へまかりはべりしに、四條よりかみざまの人、皆、北をさして走る。

「一條室町に鬼あり。」

とののしりあへり。今出河の邊(ほとり)より見やれば、院の御棧敷(おんさじき)のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり。『はやく跡なきことにはあらざんめり』とて、人をやりて見するに、おほかた、逢へる者なし。暮るるまでかくたちさはぎて、はては鬪諍(とうじやう)起りて、あさましきことどもありけり。

 その頃、おしなべて、二、三日、人の患(わづら)ふことのはべりしをぞ、

「かの鬼の虛言は、このしるしを示すなりけり。」

といふ人もはべりし。

「應長」一三一一年~一三一二年。

「京・白河」単に「京」と言った場合は賀茂川西一帯を指し、その「京」の東が「川原」で、「白河」(白川)はその北を意味し、「京・白河」で京都中の意となる。

「西園寺」元左大臣西園寺公衡(きんひら 文永元(一二六四)年~正和四(一三一五)年)が邸宅を構えていた。関東申次として大覚寺統・持明院統問題に際し、権力を揮ったが、後宇多上皇の意志に反した親王擁立に動いたことで勘気を被り、大覚寺統から忌避されるようになり、晩年の権勢は衰えていた。また、彼はこの応長元年八月二十日に出家している。

「院」この場合は花園天皇の院政を執った伏見院を指す。洛南の離宮伏見殿に住んだ。

「安居院」京の北方の地で、昔の比叡山東塔の竹林院の里坊(宿坊)があった地。現在の京都市上京区大宮通にあったが、廃絶した。

「四條よりかみざまの人」四条通りよりも北の方に住む人。

「一條室町」現在の京都御所北西附近。

「今出河」今出川。京都市内の東北。

「院の御棧敷」院が賀茂の祭を見るために作られる桟敷の設けられる場所。

「はやく跡なきことにはあらざんめり」満更、根も葉もないことというわけでも、ないかも知れぬ。

「その頃、おしなべて、二、三日、人の患(わづら)ふことのはべりし」この年の春の三月から五月にかけて、京では伝染病が猛威を揮った(当時はこれを「田楽病」「三日病」と呼んだらしい。田楽舞の流行と軌を一にしていたからであろうこと(外部からの保菌者の有意な侵入)、「三日」が病態の期間を指すものとするなら、今も「三日ばしか」と呼ぶ風疹であった可能性が疑われる)。実はこの流行時は延慶四年中で、同年四月二十八日(ユリウス暦一三一一年五月十七日)に応長に改元したのも実はこの疫病によるものであった。しかし、ということは、その流行病(はやりやまい)がある前に予兆としてこの流言飛語が起こったと読まないとおかしいから、この都市伝説「鬼が来た!」事件は、叙述を厳密に信頼するなら、延慶四年の正月から三月の間の閉区間に起こったと考えてよいように思われる。]

2020/01/27

ラフカディオ・ハーン Yen-Tchin-King の帰還 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Return of Yen-Tchin-King”。「顔真卿(がんしんけい)の帰還」)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第四話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。一部の「!」の後に特異的に字空けを施した。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで右から左書きで「神僊可冀」。この「神僊」は「神仙」と同じで「神仙さへも冀(こひねが)ふべし」で「神仙でさえもそうなることを願うようなものだ」の謂いであろうとは思う。本文に出る「太上感應篇」には「所作必成。神仙可冀。」という文章は確かに存在するようである)。しかしこれらは漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるものであるが、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思って、かくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 最初に述べておくと、Yen-Tchin-King」は書家として知られた盛唐末から中唐の忠臣顔真卿(七〇九年~七八五年 拼音:YánZhēnqīng)のことである。ウィキの「顔真卿」によれば、孔子がその死を惜しんだ随一の高弟顔回の末裔を『称した。生まれは長安で』、「顔氏家訓」で『知られる』南北朝末期の大学者『顔之推の五世孫にあたる。顔氏は代々学問で知られ、また能書家が多く、世に学家と称された』。七三七年に進士に及第し、七四二年に『文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任した。ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ』七五三年に『平原郡太守に降格された』。『時まさに安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた時期に当たり、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、顔真卿は、族兄(お互いの五世の前の男系祖先が同じ)で常山郡太守であった顔杲卿』(こうけい)と『呼応して、唐朝に対する義兵を挙げた。その後』、七五六年には『平原城を捨て、鳳翔に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられた』。『しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相の元載のような実権者より妬まれ、反臣の淮南西道節度使李希烈に対する慰諭の特使に任じられ、そこで捕えられた。李希烈は真卿を惜しみ、自らの部下となるよう』、『何度となく説得したが』、『真卿は断固拒否し続け、唐への不変の忠誠心を表す「天中山」を記すに至り』、『李希烈は説得を断念、殺された』とある。死亡当時の皇帝は徳宗である。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 

    Yen-Tchin-King の歸還

 

 神靈の應報を論ぜる、尊い『感應篇』の第三十八章に、Yen-Tchin-King の傳說が述べてある。この立派な人物が世と去つてから、千年を經てゐる。彼の生存してゐたのは唐註十の盛時であつたから。

 

註十 唐時代――西曆六百二十年から九百二年に亙つて榮えた時代で、文學藝術を獎勵し、支那に最も華麗な文化の時期を與へた。第二章の話に擧げた三詩人は西曆七百七十九年より八百五十二年の間に盛名を揚げた人々である。

[やぶちゃん注:現行では唐代は六一八年から九〇七年とする。

「感應篇」「太上感感応篇」、既出既注であるが、再掲すると、南宋初期に作られた道教の経。善行を勧め、悪行を諫める善書の代表的な書物。作者と正確な成立年は明らかでないが、一一六四年よりも以前の成立である。一八三五年にスタニスラス・ジュリアンが“Le livre des récompenses et des peines”(「良き報酬と悪しき応報の本」の謂いか)として翻訳した。フランス語サイトのこちらで同書原文全文が読める(当該部を探すのは時間がかかるのでやめた。悪しからず)。ただ、この巻数や顔真卿では私は原文を見出すことが出来なかった。

「第二章の話に擧げた三詩人」「Ming-Y 秀才の話」に挙げた詩人は中唐の元稹(七七九年~八三一年)と、晩唐の詩人高駢(?~八八七年:訳文では「Kao-Pien」)・杜牧(八〇三年~八五二年:訳文では「Thou-mou」)である。ハーンの「七百七十九年」は元稹の生年であるから、まあいいとしても、「八百五十二年」は杜牧の没年であって、高駢の晩年を含まない(政治家としてはこの時期に彼は名を挙げているし、詩も作っている)から根拠がある年次ではない。

 なお、またしても、本篇の本文前にある以下の引用は省略されている(平井氏もやはりカットしている)。

   *

   Before me ran, as a herald runneth, the Leader of the Moon;

   And the Spirit of the Wind followed after me, — quickening his flight.

                                       LI-SAO.

   *

これは最後の「LI-SAO」から、「楚辞」の代表作で楚の屈原の「離騒」の中の一篇である(現在も英語ではかく表記する)。英文はなんだかよく判らぬが、これに合いそうな「離騷」の一節は、後段の第九小段の中の、

   *

吾令鳳鳥飛騰兮

繼之以日夜

飄風屯其相離兮

帥雲霓而來御

(吾 鳳鳥(ほうてう)をして飛騰(ひとう)せしめ

 之れに繼ぐに 日夜を以つてせしむ

 飄風(へうふう) 屯(あつ)まりて 其れ 相ひ離れ

 雲霓(うんげい)を帥(ひき)ゐて 來たり御(むか)ふ)

   *

かとも思われる。藤野岩友著「楚辞」(「漢詩大系」第三巻「楚辞」昭和四二(一九六七)年集英社刊)の当該部の訳を示す。

   《引用開始》

 私はまず鳳凰を飛びあがらせ、夜を日に継いで急行させた。ところが、つむじ風が集まっては離れながら、雲や虹を連れて出迎える。

   《引用終了》]

 

 さて、Yen-Tchin-King が六大法衙の一つの最高判事であつた頃に、兇惡の一將軍、にLi-hi-Iie といふものが、叛旗を擧げて、北方諸州の數百萬人を味方に寄せ、破壞の勢、猖獗を極めた。すると、天子はこの形勢を知り、且つ Hi-Iie は獰猛無比で、世の中で大膽の外、何ものをも尊敬することを知らない人物であることを知つたので、Tchin-King に命じて、Hi-Iie を訪ね、大義を說いてその心を翻へさせ、また彼に與みして[やぶちゃん注:「くみして」。]叛軍に加つた人民には、天子の譴責と警告の詔を讀みきかせるやうにした。それは、Tchin-King はその智と實直と勇氣にかけては、國中に有名であつたからである。して、天子は若し逆賊も忠義德操共に確乎不拔の士に耳を假す[やぶちゃん注:「かす」。]とすれぱ、彼は Tchin-King の言葉をこそ傾聽するだらうと信じた。そこで Tchin-King は職服冠冕を着け、また家を片附けて、妻子を抱擁してから、馬に乘り、天子の詔書を懷にして、單身叛徒の轟々たる軍に向つた。『私は歸つてくる。心配するな』これは彼が馬に鞭をあて、出立したとき、階段から彼を見戍つて[やぶちゃん注:「みまもつて」。]ゐた老僕に、告げた言葉であつた。

[やぶちゃん注:「六大法衙の一つの最高判事」当時の顔真卿の官職は憲部尚書(刑部尚書)・御史大夫で、前者は司法長官相当ではある。

Li-hi-Iieママ(原文は“Li-hi-lié”で、やはり「hi」であるが、ここは「Hi」でなくてはおかしい)。冒頭注で示した李希烈のこと。現行の英文表記は「Li Xilie」。

「職服冠冕」「しよくふくくわんべん(しょくふくかんべん)」。「冠冕」は冕板(べんばん:冠の頂に附ける板)を装着した冠(かんむり)で、通常は天皇・皇太子の礼服に付属するものであるが、ここはそうした最高位の代理人としての資格を示すためにそれを特別につけたということであろう。]

 

 

 Tchin-King は、遂に馬から下り、叛軍の營に入つて、それから、大勢の中を通りぬけて、Hi-Iieの面前に立つた。叛軍の大將は部下の諸將軍の間に高く坐つて、劍光刀影の稻妻と、數限りなき銅鑼[やぶちゃん注:「どら」。]の雷鳴に取りまかれ、黑龍の旗の絹の折目は彼の頭上に波を打ち、大きな火は彼の前にぱちぱち昔を立てで燃え上つてゐた。また Tchin-King は、その火の舌が人間の骨を甜めてゐて、人間の頭蓋骨が灰の中に黑く焦げて橫たはつてゐるのを見た。しかし彼はその火を眺めることも、また Hi-Iie の眼を覗き込むことをも恐れないで、天子の勅語の書いてある、芳香の薰ぜる、黃色の絹卷物を懷中から取り出だし、それに接吻してから、朗讀をしようとした。同時に群集は鎭まり返つた。そこで確乎たる朗かな聲で、彼は讀み始めた――

 『神聖なる皇帝は、叛徒Li-Hi-Iie 及び彼の部下の徒輩に告ぐ』

 すると、海の轟くやうな激忿[やぶちゃん注:「げきふん」。「激憤」に同じい。]怒號の聲と、『ひうー、ひうー、うー、うー』暴風に森が唸る如き猛惡な閧[やぶちゃん注:「とき」。]の聲が起こつた。それから、劍光散亂、銅鑼の響は脚下の地を動かした。しかし Hi-Iie が黃金を塗つた棒を振つたので、また靜かになつた。『いや、犬に吠えさせろ!』と、彼はいつた。そこで Tchin-King は、また續けた――

 『汝、最も噪急[やぶちゃん注:「さうきふ(そうきゅう)」。異様にせっかちなこと。]輕率なる者よ、汝はただ人民を驅つて、破壞の龍口へ陷る〻を知らざるか。汝はまた朕の國民は天帝の長子たるを知らざるか。この故に、書に曰く、徒らに人民を死傷に至らしむるものは、天これを生かさずと。汝は賢哲の定めたる法則――これを遵守して始めて、幸福繁榮を得べき法則を破らんと欲す。その罪最も重大にして恕す[やぶちゃん注:「ゆるす」。]べたらず。

 『朕の人民よ、朕は汝の皇帝にして、汝の父たり。汝等の滅亡を求むるものと思ふ勿れ。朕はただ汝等の幸福、繁榮、盛大を希ふ[やぶちゃん注:「ねがふ」。]のみ。汝等妄りに愚擧を以て天子の怒[やぶちゃん注:「いかり」。]を招くこと勿れ。狂熱盲動に走ることなく、朕の使者の賢訓を聽け』

 『ひうー、ひうー、うー、うー』と、一同は怒號して、ますます激昂した。遂にその叫びが山に反響して颱風の轟くやうであつた。して、今一度銅鑼の響は、聲を抑へ耳を聾した。Tchin-King Hi-Iie を眺めると、彼が笑つてゐたので、詔書は再び傾聽されないだらうと知つた。そこで、彼は

力の及ばん限り、使命を果たさうと決心して、傍目[やぶちゃん注:「わきめ」。]もふらずに終まで讀んで行つた。して、全部を讀み了つてから、その書を Hi-Iie に渡さうと欲したが、彼は受取らうと手を差し出しもしなかつた。則ち Tchin-King はそれを懷中にまた收め、腕を拱いて[やぶちゃん注:「こまねいて」。]、悠然賊魁[やぶちゃん注:「ぞくくわい(ぞっかい)」。賊の首領。]の顏を見守つて、待つてゐた。再び Hi-Iie が黃金を塗つた棒を振ると、轟々の音は止み、銅鑼の洞音も鎭まり、ただ龍旗の羽搏く音のみ聞こえるに至つた。すると、Hi-lie は、惡意の笑[やぶちゃん注:「ゑみ」。]を帶びていつた――

 『Tchin-King の犬め! 今忠誠の誓を立て、私の前に屈伏して、帝王に對する三拜の禮を以てせねば、その火の中へ投げ入れるぞ』

 が、Tchin-King は簒奪者に背を向け乍ら、霎時[やぶちゃん注:「せふじ(しょうじ)」。暫時。]身を屈めて天地を拜し、それから、不意に立つて、誰も彼を押へる遑[やぶちゃん注:「いとま」。]もない内に、燃え騰る[やぶちゃん注:「あがる」。]火炎の中へ跳び込み、兩腕を拱いて、恰も神の如くそこに佇立した。

 Hi-lie は愕然飛び上つて、部下に叫んだ。彼等は Tchin-King を火中より攫み出だし、裸の手のま〻彼の衣裳の炎を壓へて揉み消し、面と對つて彼を激賞した。して、Hi-lie さへも彼の座から下りて、甘言を吐いた。『君はなかなか勇敢至誠の人物だ。非常に尊敬に値する。どうぞ我輩と座を共にして、何なりとも食べて吳れ玉へ』

 しかし Tchin-King は儼然として彼を注視し乍ら、大きな鐘の音の如く朗々たる聲で答ヘた――

 『Hi-Iie め、苟も汝が憤怒と愚痴を續ける限り、私は決して汝の手たら何も受けないのだ。Tchin-King は叛賊や、人殺しや、盜賊の間に伍したとは決して世間に言はせない』

 Hi-Iie は俄かに激怒を發し、劍を以て彼を擊つた。して、彼は地に倒れて死んだ。死ねる際にも猶ほ、南方へ向つて――天子の宮殿の方に向つて、低頭敬禮しようと努めた。

 

 

 恰もそれと同時刻に、宮殿の奧の間にゐた皇帝は、足下に一人の姿が平伏するのに氣がついた。彼が言葉をかけると、その姿は立上つて、彼の前に現はれたのは Tchin-King であつた。皇帝は質問を發しようとした。しかしまだ皇帝が尋ねないうちに、耳慣れた聲は奏言した

――

 『陛下が臣に御依託になりました使命は仕遂げました。臣の微力の盡くし得る限り、勅命を成就致しました。しかし今や臣は他の主君に仕へるため、御暇乞ひを申上げねばなりませぬ』

 して、皇帝は壁間に描ける黃金の虎が、Tchin-King の姿を通して透視されたことを認めた。すると、冬の嵐の如く、颯と奇異なる寒さが室を通過して、姿は消え失せた。そこで、皇帝は彼の忠實なる臣が申上げた他の主君に仕へるといふことは、天上の幽界に歸つて行くのだと悟つた。

 また同時刻のこと、Tchin-King の邸の白髮の老僕は、いつも萬事整頓のさまを見るとき洩らす笑顏を示し乍ら、部屋々々を巡つて行く主人の姿を認めた。『お宜しう御座いますか、御主人』と老人は質ねた。して、『よろしい』といふ應答の聲は聞えた。しかし主人の姿は早くも去つて見えなかつた。

 

 

 かくて天子の軍勢は叛徒と奮鬪力戰したが、土地は血に染められ、火に焦がされ、累々たる死骸は川に流れて海の魚群を肥しても、依然戰爭は多年に亙つて續いた。それから、西北の荒漠に住む遊牧群が皇帝を援け[やぶちゃん注:「たすけ」。]にきた――彼等は悉く生來の馬術家であつて、各自强弩二百斤を引くほど、獰猛なる射手である。旋風の如く叛軍を襲ひ、雨の如く黑羽の矢を注いで、死の嵐を起こし、遂に Hi-Iie とその徒黨を敗つた。殘餘のものは、或は降服し、或は歸順を誓つて、秩序と政令は恢復されることになつた。しかしそれは、Tchin-King が死んでから幾春秋の後であつた。

[やぶちゃん注:「强弩」「きやうど(きょうど)」大型の横弓。

「二百斤」原文の単位は“pound”。換算すると九十・七二キログラム弱で話にならない。現代の日本の「斤」は六百グラムであるから、十二キログラムとなり、後者の換算で腑に落ちる。因みに唐代の「斤」は五百九十七グラム弱であるから有意な差は生じない。]

 皇帝は凱旋軍の諸將に、彼の忠臣の遺骨を携へ歸ることを命じた。それは勅命によつて建てられた靈廟へ、名譽の式を以て葬るためであつた。そこで諸將は無名の墓を探索し、それを發見したので、土を掘りのけ、棺を取り上げようと準備した。

 しかし棺は彼等の見てゐる前で微塵に崩壞した。何故なら、蟲がそれを蝕粍[やぶちゃん注:「しよくまう(しょくもう)」。「虫食って細かにすること」であろう。]させ、飢ゑたる土は其實を啖ひ[やぶちゃん注:「くらひ」。]盡くして、ただ空影のやうな外殼を殘しただけであつたからである。その空殼も日光に觸れると、直ちに消えてしまつた。それと同時に、一同の驚いたことには、そこには忠臣 Tchin-King の完全なる形姿が橫たはつてゐた。腐敗は彼の身に達してゐなかつた。また蟲類も其安息を妨げてゐなかつた。それたら、顏の生色も消えてゐなかつた。彼はただ夢をみてゐるさまに見えた――彼の婚禮の朝に於ける如く美はしく、また大きな堂塔の薄明かりの中に、眼瞼を閉ぢたるま〻微笑せる佛像の如き笑顏を呈してゐた。

 僧は墓邊に立つていつた。『これは實に天からの瑞徴です。かやうなさまに、天の力は、不滅の神の數に入るべき人々を保存します。死もか〻る人に勝つことは出來ず、また腐敗も彼等の近くに來ることは出來ないのです。たしかにかの偉人は天の神々の間にその座を得てゐます』

 それから、諸將は彼の死體を鄕國に運んだ。して、皇帝の命じた最高の式を擧げて、それを靈廟へ葬つた。そこに彼は永遠不朽となつて、禮服を着飾つたま〻眠つてゐる。彼の墓碑には、彼の偉大、叡智、德操の象徵と、官職の徽章、及び四つの貴い品が彫つてある。また神聖なる怪獸の石像が、その周圍を護り、神殿の如くに、奇異なる佛の犬註十一の像が、その前に番をしてゐる。

 

註十一 佛の犬――彫刻の表象として、支那藝術が最も怪奇なる作品を示せる非現實適の奇獸である。實際は獅子を誇張せるもので、また獅子の佛陀に對すゐ象徵的關係は周知のことである。かやうな神話的動物の像――時としては頗る堂々たるもの――が、寺院、宮殿、墳墓などの前ヘ一對をなして置かれ、尊嚴と神話の象徵となつてゐる。

 

神僊可冀

 

Gansinnkei

 

【ハーンによる「解說」】

 『Yen-Tchin-King の歸還』――私のこの飜譯には、思ひがけなき時代錯誤が含まれてゐるかも知れない。原文の物語は、『太上感應篇』に頗る簡勁に述べてある。說話家は帝王の名を擧げてゐない。また叛亂の起こつた時代をも、全く憶測に委ねた形になつてゐる。バーバー氏著『囘想錄』には、本篇に見えるやうな强弩善弓の一例として、彼が目擊した蒙古の射手は、耳と耳が合はんばかりに廣く両臂を張つて、二百斤の弓を曲げたといふことを記してゐる。

[やぶちゃん注:ハーンが危ぶむような「時代錯誤」はない。

「簡勁」「かんけい」。言葉・文章などが簡潔で力強いこと。

「帝王の名を」既に述べたが、顔真卿死亡時の皇帝は徳宗である。

「バーバー氏著『囘想錄』」不詳。アメリカの軍人ルシウス・バーバー(Lucius W. Barber  一八三九年~一八七二年)に“Army memoirs” というのは見出せるが、違うようだ。]

三州奇談卷之一 山中の隕石

 

    山中の隕石

 加州山中は古今の名溫泉、冷暖心に叶ひ、香芳ばしく水潔く、春秋殊に溫泉の氣快くして、近國は云に及ばず、百里の遠き病客も、千里雲客(うんかく)の行脚も、必(かならず)爰に暫く浩然(かうぜん)の氣を養ふ。

[やぶちゃん注:「浩」は「水が豊かなさま」で、「心などが広くゆったりとしているさま」を謂う。]

 一年(ひととせ)ばせをの翁もこの溫泉に感ありけん。

  山中や菊は手折らじ溫泉(ゆ)の匂ひ  翁

と聞え、桃靑(たうせい)の一字を授られし桃妖(たうえう)といふ人も、泉屋何某の家にして、近き頃迄存在なりし故に、翁の墨蹟も多く殘れり。

[やぶちゃん注:松尾桃青(とうせい)芭蕉は「奥の細道」の旅で、元禄二年七月二十七日(グレゴリオ暦一六八九年九月十日)に曾良とともに山中温泉に到着、八月五日まで八日間も滞在した。山本健吉氏の「芭蕉全句」によれば、宿所は湯本十二軒(山中温泉草創より営む十二の旧家)の一つ和泉屋(現在の温泉街中心部である石川県加賀市山中温泉本町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった温泉宿。現存しないものの、和泉屋に隣接していた現存する山中温泉最古の建築である宿屋扇屋別荘の建物を移築、芭蕉の資料を展示する「芭蕉の館」となっている。リンク先は公式サイト)、当主は未だ十四歳(満十三であろう)の久米之助(これは幼名で成人後は甚左衛門と名乗った)という少年で、彼の祖父及び父は貞門の俳人として知られていた。この時、少年久米之助も芭蕉に入門、桃妖(桃夭とも表記する)という号を貰っている。本句はこの少年に与えた句である。是非とも私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 69 山中や菊はたおらぬ湯の匂ひ』を読まれたいが、この少年への芭蕉の偏愛が、この直後の曾良との別れの主因であると私は大真面目に考えている。

 此地山水狹(せ)まりながら、「自(おのづか)ら雅趣あり」と、風人(ふうじん)[やぶちゃん注:風流人士。]の歌詠最も多し。猫岩は數里に人を送𢌞(さうくわい)し、桂淸水(かつらのしみづ)は七種(ななくさ)のやどり木蒼然として森をなす。

[やぶちゃん注:「猫岩」「菅谷の巨蟒」に既出既注。

「桂淸水」山中温泉の玄関口とも言える場所に立つ桂(ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum)の木の根元の岩から湧き出ている清水の名。ここサイト「全国巨樹探検記」のこちらでデータや画像及び「桂清水」が見られる。

「七種(ななくさ)のやどり木」これは本カツラの木の周囲に数多(「七種」)の樹木が宿るように添い生えているという謂いであろう。狭義のビャクダン目ビャクダン科ヤドリギ属セイヨウヤドリギ亜種ヤドリギ Viscum album subsp. coloratum ではない。]

 是のみにあらず、十景とて人々の詠を殘すものは。

[やぶちゃん注:以下、三段で示され、全体が二字下げであるが、二字下げ一段組で示した。]

  醫王の林花

  溫泉の烟雨

  無水の啼猿

  富士寫の雪

  黑谷の城跡

  桂淸水の螢

  蟋蟀橋の霜

  高瀨の漁火

  大岩の紅葉

  道明淵の月

  諸家詩歌略ㇾ之

[やぶちゃん注:山中温泉の景勝の命数「山中十勝」。

「醫王の林花」「傀儡有ㇾ氣」に既出既注の国分山医王寺の山の、「林花」は「卯の花」でミズキ目アジサイ科ウツギ(空木)属ウツギ Deutzia crenata のことかと思われる。

「溫泉の烟雨」温泉の湯烟りに添える雨か。

「無水の啼猿」これは山中温泉にある水無山(国土地理院図)の猿声のことであろう。

「富士寫の雪」これは山中温泉から直線で六キロメートル南方にある富士写ヶ岳(標高九百四十二メートル)の冠雪であろう。

「黑谷の城跡」山中温泉東町にある鎌倉時代頃の山寨山中黒谷城。サイト「日本城めぐり」のこちらで位置が判る。その解説によれば、現在は曲輪・堀切・井戸の遺構があるようである。

「桂淸水の螢」先の桃妖の句に、

 旅人を迎へに出れば螢かな

の句がある。

「蟋蟀橋の霜」蟋蟀橋(こほろぎばし(こおろぎばし))はここ。江戸時代に大聖寺川に架橋されたもので、ここから下流の黒谷橋にかけては「鶴仙渓」と呼ばれる北陸随一とされる景勝の溪谷である。「蟋蟀」の名の由来は、かつて行路が極めて危なかったので「行路危(こうろぎ)」と称されたとも、秋の夜に鳴く蟋蟀(コオロギ)の声に由来するとも言われる。ここも昔、行ったのに、全く覚えていない。

「高瀨の漁火」「いさりび」。「高瀨」は蟋蟀橋のすぐ上流で、現在、高瀬大橋が架かっている附近か。個人ブログ「明治の医塾生 馬淵良三日記」の『石川柳城「山中十勝詩畫帖」(2)』には、『春から夏に川を遡る鱸』(すずき:『明治時代の辞書には』「かじか」の『一種と書かれている』の漁火を焚いて魚を舟に誘う漁が行われた)とある。石川柳城(弘化四(一八四七)年~昭和二(一九二七)年)は日本画家で名古屋生まれ。京都で文人画を学び、詩や書もよくした。彼が山名温泉を訪れて十勝の詩画集を描いたのは、リンク先によれば、『大正時代の終わり』かと『思われ』るとある。但し、彼の命数はここに挙がっているものとは一部の謂いや内容が異なる。

「大岩の紅葉」この「大岩」は既出既注の「猫岩」のことらしい。

「道明淵の月」道明ヶ淵

「諸家詩歌略ㇾ之」(之れを略す)というのは、この場合、書き方から見て、麦雀の原型にはそれがあったのを麦水がカットしたことを指す可能性が高いように思われる。]

 昔は湯の井戶ありて、堀口と云ふ家ありける。今は其跡に湯宿土蔵屋(つちくらや)何某と云ふ人住めり。湯入(ゆいり)の客を入るゝ事、數百人に及ぶ大家なり。

[やぶちゃん注:「土蔵屋」不詳。但し、新城景子氏と藤田勝也の共同論文「近世における温泉町の空間構造 ―加州江沼郡山中温泉を事例として―」(『日本建築学会計画系論文集』(第五百六十九号・二〇〇三年七月発行・PDF)の中に、歴代の山中温泉『湯本十二軒』の表の中に宝暦五(一七五五)年のそれに『蔵屋三郎右衛門』という名は見出せる。彼がこの湯宿の主人であるどうかは判らぬ。]

 中頃[やぶちゃん注:筆記時点から、あまり古くない頃。]、未だ堀口何某住みける間に、此家に一夜落(おつ)る石あり。大きさ二尺或は三尺許とも見えたり。

 天井を破り、直に疊の上に落る音雷(かみなり)の如く、物みなをどり上り、行燈ゆりこぼれ、湯入の人々皆門前へ逃出(にげいで)けるに、此石に打(うた)れたる人もなし。

 又石の落つる所は見ゆれども、疊の上に破れたる所もなく、疊の上に石ありたるを見たる者もなし。一時[やぶちゃん注:二時間。]許騷ぎけるが、靜まつて元の如し。

 程なく此家の主(あるじ)替りて、今の土藏屋となれり。主人、俳名「山靜」と云ふ。益々さかえて、斯(かか)る怪異頓(とみ)になし。

 山代の湯にもかゝることありしと云ふ。

 俗に「溫泉神(ゆのかみ)のたゝり」と云ひ傳へし。

[やぶちゃん注:標題は「隕石」とするが、落下の現場の様態からは隕石ではありえない。民族社会的には「天狗の石礫(いしつぶて)」の一様態(激烈な音だけがして石がない場合もある)に頗る近い。

「山靜」不詳。

「山代の湯」加賀市山代温泉。山中温泉より大聖寺寄り。]

三州奇談卷之一 傀儡有ㇾ氣


     傀儡有ㇾ氣

 寶曆十年[やぶちゃん注:一七六〇年。]より、加州山中(やまなか)醫王寺に諸堂修造の願ひにより、芝居・富突[やぶちゃん注:「とみつき」。富籤(とみくじ)。]など御免をこうむり、門前更に三都の如し。

[やぶちゃん注:標題は「傀儡(くぐつ)氣有り」。「傀儡」は人形芝居の人形のこと。

「醫王寺」加賀市山中温泉薬師町にある真言宗国分山(こくぶんざん)医王寺。山中温泉を開湯した行基の創建と伝えられる温泉の守護寺として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 其中(そのうち)人形芝居は、淡路の政右衞門と云ひける者、年々に是より來りて芝居を初め、ことなう[やぶちゃん注:ここは「殊の外」の意であろう。]近里遠村群集すること、今や三四年に及びぬらん。其砌(そのみぎり)山代といふ湯元へも又芝居あやつりなど初まりて、あちこちと狂言の雜具(ざふぐ)など持運びける。年も暮るゝに及びて、山代・山中等の百姓庄屋などの藏ヘ此雜具を預け、明る春は人の群集すべき頃を考へて、又あやつりを初(はじむ)ることにありける。

[やぶちゃん注:「淡路の政右衞門」不詳。但し、淡路には国生み神話所縁の「戎舞(えびすまい)」を起源とするされる淡路人形浄瑠璃があり、この人物が実在した可能性は高い。]

 其雜具を預りし百姓の家の奧藏に、人形の長持をつみ置けるに、其藏の邊り、兎角人音して、何とも分(わ)きたる事はなけれども、

[やぶちゃん注:「何とも分(わ)きたる事はなけれども」何という人語なのかは判然としないけれども。]

「ちやちや」[やぶちゃん注:国書刊行会本は『ぢやぢや』。]

と云ふ聲して、いかさま人の二三十人集りひそめく體(てい)にも聞えける儘、家内よりは折々人出(いで)て窺ひ、後ろ道を通る人は

「何某殿には今夜も誰人(たれひと)ぞ客來のありけるにや」

など思ひて通りしとは聞へたり。

 是より心付きて伺ひければ、何の動靜もなし。又打捨て置けば、折には人の寄りたる心地して、思ひ回らせば、藏の道具ばかりにして人はなし。

「人形を多く預かりける故にや」

など、はじめは笑ひごとにいひもてならしゝが、其頃あやつりの淨瑠璃方に竹本折太夫と云ふ者に此事を語りければ、折太夫云く、

「人形には必ず斯くの如きの事ある事にや、常につかふ樂屋にても、よき人形は人形懸と云ふ物に、人の裝束して役場[やぶちゃん注:出番。]を待つが如く懸置き、雜兵(ざふひやう)[やぶちゃん注:その他大勢の下っ端役。]の人形は、手足打散らして懸棹に打懸置くことなり。彼(かの)よき人形の、人形懸に威儀を繕ひ立つ所の前にては、人形遣ひ其外の役の者共も、皆腰敬(こしうやま)ひして過ぐる[やぶちゃん注:腰を曲げて挨拶をして通る。]。尤作(いうさく)[やぶちゃん注:非常に優れた作り。]の人形も又多き物なり。彼程(かほど)に人形を敬はざれば、人形舞臺へ出(いで)て天然の威は付(つか)ざる物なり。されば、おのづから人の氣(き)入滿(いりみ)つるものにや。遣ふうちにも甚だ奇特(きとく)のことはあるものなり。况や夜動き騷ぎするは常のことなり。其中、別(わけ)て怪しく聞へしは、此二十年以前にや、我師たる人に或人のかたりけるは、

『江戶山の手の明(あき)屋敷に、いつの頃にか人の請地(うけち)[やぶちゃん注:家賃を支払いながらも実際の支配権を所有することか。]にて住みけるが、臺所よりはしりもと[やぶちゃん注:台所の下水の流し元。]迄は、別(わけ)て草深き所を刈盡(かりつく)し、土を置(おき)て家を建てけるが、或夕暮に、人の影いくらともなく

「むらむら」

と見ゆる程に、初めは心も付かざりけるが、後には誰彼も見合せて、

「不思議不思議」

と云ひ立てける。其時刻、夜にあらず晝にあらず、朝の五つ[やぶちゃん注:午前八時前後。]頃か、或は夕暮少し前ならん。慥かに行列をなして、色々の人影二三十人も行通ひ、臺所よりはしりのもと迄行くとおもへば、皆消失ぬ。いか樣(さま)日の移り、入日の差返(さしか)して

『遠近(をちこと)を行(ゆく)人の影移るにこそ』

と思へば、雨の日の夕方は尚更にありありと人の行通ふ影あり。分けて夕暮方の人影慥に見ゆる程に、人も聞傳へて見る。夜陰にもあらざれば、『恐ろし』とは思はざれども、後には何となく心に懸り、祈禱加持なんど賴みけるにも猶かはらず。或人聞合せて云けるは、

「是は何ぞの精物(せいぶつ)なるべし。其始まる所其終る所をよく見屆け、土を掘(ほり)て見よ」

[やぶちゃん注:「精物」超自然の精気を得た何物かのこと。付喪神(つくもがみ)の類。]

とて、心を付けてためしけるに、はしりもとゝ慥に覺えければ、此所を大勢にて土を掘返しけるに、一丈[やぶちゃん注:約三メートル。]許(ばかり)掘りて一つの長持を掘出しける。

「是にてこそ」

とふたを明けて見けるに、あやつりの人形五六十許入れてありけるが、衣裳も木も朽果(くちは)て、形は頭(かしら)のみ少し殘りける。よく問合せけるに、此屋敷の先(さきの)主人は直參の武士なりしが、人形を廻し、かぶきをなすことを好まれしが、其頃儉約の仰渡さるゝ折にてありけん、奢者放埒(しやしやはうらつ)の沙汰に落ちて咎めにあはれし故、其雜具を掘埋(ほりうづ)め、久敷(ひさしく)遠慮して、知行三の一にぞ暮しけるが、其間に死者ありし程に、斷絕して今(いま)明屋敷と成りける。五六十年許先(さき)の事なるとにや。

[やぶちゃん注:「かぶき」尋常を逸脱し、勝手気儘な、飛び切り派手で異様な感じの趣味を指す語。

「知行三の一」俸禄を三分の一に減らされたのであろう。]

 然共、此人形は名作の物にてもありけるにや、如此(かくのごとき)の怪をなして、人影の日暮每に顯れしとなり。

 此長持を掘出(ほりいだ)し、隅田川へ流し捨てゝより、此家に怪事絕えてなかりけり』

と人のかたりし。

 是に思ひ合せ侍れば、必(かならず)あやつりの雜具動搖をなす。あやしむに足らず」

とは語りける。

[やぶちゃん注:国書刊行会本はこの末尾に『実(げ)に氣の集(あつま)る所、左も有社(あるこそ)。』という一文が付帯する。

「竹本折太夫」義太夫節、人形浄瑠璃文楽の語り手である太夫の名跡に今も竹本織太夫がある。]

2020/01/26

ラフカディオ・ハーン 織姫の伝説 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Legend of Tchi-Niu”。現代の拼音では織女星の「織女」は「zhī 」であるからこれも「織姫」の当時の中国語ローマ字転写なのであろう)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第三話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで右から左書きで「太上感應篇」)。しかしこれは漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるものであるが、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思って、かくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 

   織姬の傳說

 

 老子の貴い書物の本文に附せられた『感應篇』といふ奇異なる註釋の中に、頗る古い一小話がある。その話が非常に美はしいため、始めて語つた人の名は、一千年間も忘れられてゐても、話だけは四億民の記憶の中に、恰も一たび習ふと、永遠に覺えられる祈のやうに、今猶ほ生きてゐる。支那の作者はこの話について、都會の名も、また州の名も擧げてゐない。たとへ最も古い傳說を述べる場合にも、か〻る省略は滅多にないことである。私はただこの話の主人公の名は、Tong-yong であつたことと、彼が約二千年前の漢時代に住んでゐたことだけを告げられてゐる。

[やぶちゃん注:「老子の貴い書物の本文」「老子」のこと。

「感應篇」「太上感應篇」。南宋の李石撰になる勧善書で、その内容は「老子」ではなく「抱朴子」を元にしていると考えられている。「太上」は「太上老君」で、道教の始祖とみなされる老子が神格化されたものである。個人ブログ「浄空法師説法研究」の「『太上感応篇』大意」がよい。

Tong-yong」平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「織女の伝説」では、『董氷』となっている。しかし、yong」は「氷」(bīng)ではなく「永」(yǒng)ではなかろうか? 「董永 織女」で検索を掛けてみたところ、日本語のブログ「福聚講」の「童子教解説・・4」で、

   《引用開始》

董永(とうゑい)一身を売りて、 孝養の御器(ぎよき)に備ふ。(二十四孝によると「董永(とうえい)はいとけなき時に母に離れ、家まどしくして常に人に雇はれ農作をし、賃をとりて日を送りたり。父さて足も起たざれば小車(せうしや)を作り、父を乘せて、田のあぜにおいて養ひたり。ある時父におくれ、葬禮をとゝのへたく思ひ侍れども、もとよりまどしければ叶はず。されば料足十貫に身をうり、葬禮を營み侍り。偖[やぶちゃん注:「さて」。]かの錢主(ぜにぬし)の許へ行きけるが、道にて一人の美女にあへり。かの董永が妻になるべしとて、ともに行きて、一月にかとりの絹三百疋織りて、主(ぬし)のかたへ返したれば、主もこれを感じて、董永が身をゆるしたり。其後婦人董永にいふ樣は、我は天上の織女(おりひめ)なるが、汝が孝を感じて、我を降(くだ)しておひめを償(つぐの)はせせりとて、天へぞあがりけり。

   《引用終了》

とあった。これは本篇との類似性が認められる。「童子教」は児童教訓書で、平安時代の僧安然著と伝えられる(著作年代は未詳)。全一巻。刊本は明暦四(一六五八)年刊。中世以降、童子の道徳教訓書として用いられたもので、儒書から日常的な教訓を選び、仏書から因果応報の説話を説く全 三百三十句から成る。特に近世には「実語教」とともに寺子屋などで使用され、教育史上、大きな役割を果した書である。さても、この名で辿ってゆけば、その原拠はやはり同様の目的で書かれた元の郭居敬の編纂した「二十四孝」の「董永」に行き着く。華藏淨宗學會出版になるカラー版の「二十四孝圖説」PDF)の「第十三孝【董永賣身】漢」(四十九~五十二ページ)を見られたい。梗概は邦文のウィキの「二十四孝」にあるが、まあ、孰れもまずは本篇を読まれた後に見られたい。

 さらに言っておくと、上記原本画像を見ると、判る通り、本篇の冒頭の前には(左ページ)、

   *

 

A SOUND OF GONGS, A SOUND OF SONG, — THE SONG OF THE BUILDERS BUILDING THE DWELLINGS OF THE DEAD : —

 

       Khiû tchî yîng-yîng.

       Toû tchî hoûng-hoûng.

       Tchŏ tchî tông-tông.

       Siŏ liú pîng-pîng. 

 

   *

という添え字が認められるが、落合氏はこれをカットしている。因みに、平井呈一氏も訳していない。頭の部分は、

   *

銅鑼(どら)の音(おと)、歌の音(ね)、死者のための住み家を建てる建築家の歌――

   *

であろうか。以下は当時の中国語ローマ字音写であって自動翻訳が全く機能しないので、意味は分からない。出典が判れば探しようもあろうが。識者の御教授を乞うものである。カットされたのは今までのそれらと同じく本篇内容と直接の関係がないからであろうが、訳者としては不当な越権行為である。落合氏は他でもこうした恣意的行動をとっている。【2020年1月27日:追記】中国語の堪能な教え子に頼んでみたところ、早速に以下のようなメッセージを頂戴した。

   《引用開始》

結論ですが、掘り返そうとしても、巌のように硬い地面にツルハシも刺さりません。

 まず、拼音表記が確立する以前のアルファベット表記の揺れを念頭に様々な読みを当て嵌めますが、意味が通じません。字の上についているおかしな声調記号も目障りです。そこで次にハーンの本著作の英語版印影を当たってみました。そこに
一つの出版印影があり、同書ではこの部分、次の表記になっています。

        Qiu zhi ying-ying
        Du zhi huang-huang
        Zhe zhi dong-dong
        Xiu liu bing-bing

中国語を母語とする者、或いは中国語の心得ある者が何らかの意図を持って編集したものかどうかは分かりませんが、藁にもすがるつもりで敢えて漢字を想像します。

 一行目から三行目全てに現れる zhi の発音を見ると、どうしても「之」の字を当て嵌めたくなります。では他の部分は……。これがまた手に負えません。以下にいくつか脳裏に浮かぶ案を示します。

        Qiu zhi ying-ying
(求?)之(嘤嘤?盈盈?)
※「嘤嘤」は小鳥の鳴き声の擬音語
※「盈盈」は水が満ち溢れる様を表す擬態語

        Du zhi huang-huang
(讀?度?)之(惶惶?)
※「惶惶」はビクビク恐れる様子

        Zhe zhi dong-dong
(遮?)之(咚咚?)
※「咚咚」はトントンという擬音語

        Xiu liu bing-bing
※この行はまるで取っ掛かりが見つかりません。

上記の英語を中国語に翻訳した書物があれば是非見てみたいものですが、ここで力尽きました。お役に立たず、申し訳ありません。

   《引用終了》

何らかのオノマトペイアであるかという感じはしていた。向後、また何か分かったら追記する。なお、困難なお願いを調べてくれた教え子に心より感謝するものである。

 

 Tong-yong の母は、彼がまだ幼稺[やぶちゃん注:「えうち(ようち)」。「幼稚」に同じい。いとけないこと。]の時に死んでゐた。して、彼が十九歲の靑年になつたとき、彼の父もまた失せたので、彼は全然孤獨の身となつて、しかも何等の資產もなかつた。それは、彼の父は極めて貧しくて、彼の子を敎育するために、非常な窮境に陷つて、儲けたものから一錢をも貯へ置くことは出來なかつたからである。彼は慣例の葬式を行ひ、吉方の地に墓石を立てて、慈父の記憶に敬意を表する事が出來ないほど窮乏してゐるのを大いに歎いた。貧しいもののみが貧しいものの知り合である。彼の知人中、誰一人として、葬式の費用を辨ずるため、助力を與へ得るものはなかつた。この靑年が金を得る方法は、唯一つあつた――富農に身々買つて奴隷たることであつた。して彼は遂にさうしようと決心した。知人達は彼に思ひ止まらせようと、全力を盡くしたが駄目だつた。また將來の援助を約して、彼を賺かして[やぶちゃん注:「すかして」。]、その擧行を延ばさせようと試みても、無効に了つた。彼はただ答へて、出來ることなら、百囘彼の自由を賣つても、暫くなりとも、父の記憶を崇めないま〻[やぶちゃん注:「あがめないまま」。]放擲して置くには忍びないといつた。更にまた彼の靑春と腕力に信賴して、彼はその服役に對して高價を附することに定めた。立派な墓を建て得るやうな金高で、彼としては殆ど拂戾し得られさうもないほどであつた。

 

 

 そこで、彼は奴隷や負債者の身が賣りに曝らしてある、廣い公開の場所へ行つて、彼の服役代價と勞働者として彼の資格の目錄を書いた札を肩にぶらさげて、石の腰掛に坐つてゐた。札の文字を讀んだ多くの人々は、要求價格に對して侮蔑の微笑を洩らしただけで、一言も發せずに過ぎ去つた。他の人々は單に好奇心のあまり立停つて彼に尋ねた。虛僞の賞賛を以て褒める人々もあれば、また明からさまに彼の献身無私を馬鹿にして、彼の子供らしい孝行を笑ふものもあつた。かやうにして空しく長い退屈な時間が經つて、彼は殆ど主人を見出す事を絕望してゐると、一人の州の高官――威風堂々たる美男子で、一千人の奴隷を有し、廣大なる邸宅の持主――が、馬に乘つて近づいた。高官は其韃靼馬[やぶちゃん注:「だつたんば(だったんば)」。]の手綱を控へて、札を讀んで、奴隷の代價を思案した。彼は微笑もせず、助言もせず、質問も發しなかつたが、要求の價格を見、また靑年の立派で屈强な四肢を見て、無造作に彼を買つて、單に從者をして金高を拂はしめ、且つ必要の證書類を調製するやう命じただけであつた。

[やぶちゃん注:「韃靼馬」原文“Tartar horse”。「タタール馬」。タタールはモンゴルから東ヨーロッパに跨る広い範囲を指し、「韃靼馬」としては、漢の武帝の故事にある「一日千里を走り、血の汗を流す」と伝えられる大苑(フェルガーナ)の天馬「汗血馬」が有名。]

 

 かくて、Tong は心願を遂げて、小さな形ではあるが、巧妙なる技術家の意匠により、熟練なる彫刻師の腕によつて仕上げられて、見るものの眼を娛しましめさうな墓碑を立つる事を得た。して、まだ其設計中に、恭敬を盡くせる式は擧げられ、死者の口中へ銀貨を入れ、白い提燈を戶の上に吊るし、神聖な祈が誦せられ、また死者が仙鄕で要しさうな、紙で作つた一切のものが、淨められた火で燒かれた。それから、方位鍳者[やぶちゃん注:「はうゐかんじや(ほういかんじゃ)」。「鍳」は「鑑」の異体字。方角を占う者。]と巫術師が、いかなる不運の星も照らさないやうな埋葬地、いかなる惡鬼や龍も擾亂を加へないやうな安息の場所を選定した後に、美しい塚は建設された。して、幻の錢が途上に撒かれた。葬列は死者の家を離れて、祈禱と涕泣を以て、彼の慈父の遺骸は墓に運ばれた。

[やぶちゃん注:「死者の口中へ銀貨を入れ」こういう習慣が中国あったかどうかは確認出来ないが、ハーンは欧米の読者に腑に落ちる形でこのシークエンスを挿んだように感ぜられる。何故なら、古代ギリシャでは葬儀の際に死者の口の中に一枚の銀貨(「オボルス」と呼ぶ実際の通貨)入れるという習慣があったからである。これは死者が冥界の川(ステュクス(「憎悪」の意)或いはその支流とするアケローン(「悲嘆」)の川を渡る時に船の渡し守であるカローンに「渡し賃」として一オボルスを払わなければならないと考えられたことによる。日本の仏教の三途の川の渡し賃六文銭(六道銭)と同じである。

「幻の錢」“the phantom money”。紙銭(しせん)であろう。紙を切抜いて作った銭形。冥界でも金が必要と考えられて、概ね紙で作られた。地獄の沙汰も金次第式の古式の習慣である。]

 その後、彼は奴隷として彼の買主の勞役に服し始めた。主人は彼を住ませるため、小さな小屋を與へた。そこへ彼は祖先の名を認めた木牌を持つて行つた。すべて孝子は、このやうな木牌の前で、日每に祈の香を炷き[やぶちゃん注:「たき」。]、家庭の禮拜の優さしい勤行を營むのであつた。

 

 

 三たび春が花を以て土地の胸を薰らせ、三たび掃墓日註八といふ死者の祭が守られ、三たび彼は父の墓を掃除して、裝飾を施し、果實と肉を五重に積んで供ヘた。喪期は終つても、彼が父を哀慕する心は止まなかつた、歲は月の運行につれて進み、一時の喜びも、一日の

 

註八 掃墓日――一般に先祖を拜する日。天主敎に於ける萬靈日(オール・ソールズ・デー)(十一月二日)と同じもので、四月上旬、淸明の季節に營む。

[やぶちゃん注:「喪期」中国古代の服喪の期間は殷周の時代では父母の喪は三年であるが、春秋時代になると早くもこの制度は守られていなかった。本話は本篇では時代設定が示されていないが、原拠のそれは漢代であるから、Tong-yong はすこぶる古式に従って厳しく服喪を守ったことが判る。「孔子時代の葬儀エチケット」というページに「礼記」に記された葬送儀礼が非常に詳しく解説されてあるので、是非、参照されたい。

「天主敎に於ける萬靈日(オール・ソールズ・デー)」キリスト教で全ての死者の魂のために祈りを捧げる日である「死者の日」又は「万霊節(ばんれいせつ:All Souls’ Day)。ローマ・カトリック教会では正式には「The Commemoration of All the Faithful Departed」(「信仰を持って逝った人総ての記念日」)と呼ぶ。カトリック教会では「諸聖人の日」(諸聖人の祭日・万聖節)の翌日の十一月二日である。参照したウィキの「死者の日」によれば、『カトリックでは、人間が死んだ後で、罪の清めが必要な霊魂は煉獄での清めを受けないと天国にいけないが、生きている人間の祈りとミサによってこの清めの期間が短くなるという考え方があ』り、「死者の日」は『このような発想にもとづいて、煉獄の死者のために祈る日という性格がある』とある。]

 

愉快なる休憩をも彼に齎さなかつたが、彼は決してその服役を悲しまなかつた。また祖先の祭祀を缺くことはなかつた――その内に、たうとう稻田の熱病が激しく彼を襲つて、彼は病褥[やぶちゃん注:「びやうじよく(びょうじょく)」。]から起きられぬやうになつた。そこで、同じ仲間の勞役者達は、彼は畢竟死ぬるに相違ないと考へた。奴隷や家僕達は、全然家事や田畠の勞働に忙しかつたので、彼を看護するものもゐなかつた――彼等はすべて日出と共に働きに出掛け、漸く日沒の後痕れて歸つてくるのであつた。

[やぶちゃん注:「稻田の熱病」“the labor of the fields”。思うに、マラリアのことではないかと私は思う。]

 さて、病める靑年が衰弱疲憊[やぶちゃん注:「ひはい」。疲れ果てて弱ること。「疲労困憊(ひろうこんぱい)]に同じい。]の極、眠つたと思へば覺め、覺めてはまた眠に入つてゐるとき、見知らぬ美人が彼の側に立ち、彼の上に屈んで、彼の額に彼女の恰好よき手の、綺麗な長い指を觸れたことを夢に見た。して、彼女の冷んやりした接觸と共に、不思議に甘美な衝動が、彼を貫通して、彼のあらゆる血管は、新生命がしみ渡つた如く沸き立つた。驚いて目を開いて見ると、正しく夢に見た、魅惑させるやうな女が、彼の上に屈んでゐて、彼女のたをやかな手は、實際彼の鼓動打てる額を愛撫してゐた。しかし熱病の炎は最早消えてゐて、心地よき涼しさが今は身體のあらゆる纎維に滲透し、夢に見た衝動は、まだ激烈なも歡喜の如くに血中に踊つてゐた。同じ瞬間に、靜淑な訪問者の双眸は彼の兩眼と出逢つた。して、彼はそれが異常に美しく、燕の翼の如き曲線をなせる眉の下に、輝く黑い寶石の如く光つてゐることを知つた。したしその靜けき凝視は、水晶の中を透る光の如くに、彼を貫くやうに思はれた。して、何となく一種の畏怖が彼を襲つたので、脣頭まで上つた問ひの言葉を發音することを得なかつた。すると、まだ彼を撫で乍ら、彼女は微笑していつた。『私はあなたの御元氣を恢復させ、あなたの妻となるために參つたものです。お起き下さいませ。して、御一緖に禮拜を致しませう』

 女の朗らかな聲は、鳥の歌の如き諧調を有つてゐたが、その視線には儼然たる力があつて、彼には抵抗し難いもののやう思はれた。臥床から立上つてみると、彼の體力の全く囘復してゐるのを發見して驚いた。したし彼の手を捉へた、冷んやりした纎手は、非常に速やかに彼を導いて行つて、彼に驚愕の遑なからしめた。彼はいたにもして彼の困窮を語り、妻を養ふ力なきことを述べる勇氣を鼓するやうに努めたが、女の長い黑い眼には、何となく凛乎たるものがあつて、彼をして言葉を發することを得ざらしめた。して、恰も彼の心底を、その不思議な凝視によつて看破したたのやうに、彼女は同じ朗たな聲で彼にいつた。『私が支給致します』それたら、彼はそのみじめな姿と、ぼろぼろの衣服のことを考へて、恥辱の念に顏を赧らめた。]。しかし彼は女もまた庶民階級のやうな、貧乏らしい服裝であることを見た――何等の裝飾をも帶びないで、また足には靴さへ穿いてゐなかつた。彼がまだ言葉を發しない内に、二人は祖先の位牌の前へ來た。そこで、女は彼と共に跪いて祈つた。それから、酒杯――何處から齎したのか、彼は知らなかつた――を擧げて、彼に誓を立て、共に天と地を拜した。かやうにして、彼女は彼の妻となつた。

[やぶちゃん注:「儼然たる」「げんぜんたる」。厳(いか)めしく厳(おごそ)かなさま。動かし難い威厳のあるさま。

「抵抗し難いもののやう思はれた」ママ。「やうに」の脱字か。或いは落合氏の日本語の癖の可能性もある。

「臥床」「ふしど」。

「纎手」「せんしゆ」。細い手。

「遑」「いとま」。

「凛乎」「りんこ」。きりっとして勇ましいさま。凛々(りり)しいさま。

「赧らめた」「あからめた」。]

 

 それは不思議な結婚と思はれた。といふのは、その日にも、彼は妻にその家名や、里方の地名を尋ねることを敢てし得なかつた。また彼女について彼の仲間達が發した好奇的質問に對して、返答が出來ないばかりでなく、彼女もまたその名が Tchi であるといふだけで、自身のことについて、一言も云はなかつたからである。彼女の眼が彼に注がれてゐる間、彼は恰も自己の意志を待たぬものの如く、彼女に畏怖を感じてゐたけれども、したし彼は言ひやう無いほどに彼女を愛してゐた。して、彼の結婚以來は、彼の奴隷といふ考へが、彼を壓迫することを止めた。魔法の力による如く、小さな住家は變化された。その窮狀は可愛らしい紙細工によつて隱蔽された――綺麗な手品を使つて、費用をかけないで、巧妙な裝飾を施すことは、婦人のみがその祕訣を如つてゐる。

[やぶちゃん注:「Tchi」平井呈一氏は上掲訳で『織(ち)』とする。今の拼音では「zhī」(ヂィー)である。]

 每朝昧爽[やぶちゃん注:「まいさう(まいそう)」。明け方のほの暗い時。曙の頃。]に、また每夜歸宅の際、若い夫はよく調理された潤澤なる食膳が、彼を待ち受けてゐるのを見出した。が、實は終日機上[やぶちゃん注:織機(はた)の上。]に坐して、その地方では見られないやうな方法によつて絹を織つた。彼女が織るま〻に、絹は光澤ある黃金が緩やかに流れる如く、機から流れ出でて、その波動の上へ靑紫や深紅や碧綠の珍らしい形を現はし、幽靈のやうな騎士や、龍に牽かれた幻の戰車や、雲の尾を棚引いた軍旗を織り出した。龍といふ龍の髯には、不思議な眞珠がぴかぴかしでゐた。騎士達の冑[やぶちゃん注:「かぶと」。]には、順位の寶石が燦光を放つてゐた。して、每日 Tchi は、か〻る綾模樣ある絹の大きな一反を織り上げた。それで、彼女の機織[やぶちゃん注:「はたをり」。]の評判は、廣く傳播した。遠近から人々が驚くべき仕事を見物に集つてきた。して、それを聞き傳へた大都會の絹商どもは、使を Tchi に送つて、織物を依賴し、また彼女の祕傳の敎へを求めた。そこで、彼女は報酬として持參された銀塊に對して、希望通りに織つてやつた。しかし彼等が傳授を懇願に及んだ時、彼女は笑つていつた。「あなた方の中には、私のやうな指を持つてゐらつしやる方がありませんから、到底御敎へ申上げることは出來ませぬ』また實際、誰も彼女が機を織るとき、その指を識別することは出來なかつた。さながら速く翔つてゐる蜂の翼の振動む見る如くであつた。

 

 

 季節は移つて行つたが、Tong は決して缺乏を知らなかつた。彼の美しい妻は、實によく『私が支給致します』といふ契約を履行したのであつた。して、絹商輩の齎した、輝ける銀塊は、Tchi が家財を入れるために買つた、彫つて製作せる大櫃[やぶちゃん注:「おほびつ」。]の中に、段々高く積み上げられた。

 遂に或る朝、Tong が朝餐を了へて、畠へ出掛けようとするとき、妻は思ひがけなくも、彼を内に留まらせた。して、大櫃を開けて、それからら隷書註九といふ公文書體で書いた文書を取出して彼に與へた。彼はそれを視ると、欣躍絕叫した。それは彼の釋放の證書であつた。女は密かにその不思議な絹の代金を以て、夫の自由を買ひ取つたのであつた。

 

註九 隷書――支那の六書體の中、第二に位する。ヰリヤムス氏「中國」參照。……道敎の傳說によれば、天の命令は、最も古い印章用の書体(篆書[やぶちゃん注:「てんしよ」。])で書いてある。だから、電光に打たれて死んだ人の死體に印せられる表象は、その書體で書かれた裁判の宣告と見倣された。――(普通は五書體であるが、六書體としたのが、盬谷[やぶちゃん注:「しほのや」。]博士の說によれば、大篆、小篆、隷、楷、行、草、と數へたのであらうとのことである。――譯者)

[やぶちゃん注:丸括弧内が訳者落合氏による補足

「ヰリヤムス」アメリカの言語学者・外交官・宣教師・中国学者サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams  一八一二年~一八八四)か。中国名「衛三畏」。「中國」は一八九四年刊のThe middle kingdomであろう。

「大篆」周の宣王の時代に史籀(しちゅう)が作ったとされる漢字の古書体。篆文(てんぶん=「小篆」)の前身を成す。

「盬谷博士」日本の漢学者塩谷温(しおのやおん 明治一一(一八七八)年~昭和三七(一九六二)年)。東京帝国大学名誉教授。]

 

 『最早如何な主人に對しても、あなたは御苦役をつとめなさるに及びません』と彼女はいつた。『ただあなたのためにのみ御働きなさるのです。それから、また私はこの家を、中にあるもの一切と共に、買ひました。その上、南方の茶畠も、隣りの桑園も、すべて悉くあなたのものです』

 彼は嬉しさの餘り、覺えず彼女の前に平伏して拜まんばかりになつたが、彼女はそれを制止した。

 

 

 かやうにして、彼は自由の身となつた。それから、彼の自由と共に繁昌が伴つて來た。彼が貴い土地に與へたものは、百倍になつて歸つてきた。して、彼の僕婢輩は彼を愛した。また非常に無言ではあるが、したも非常に周圍の人々に親切なる、美しい主婦を祝福した。しかし絹機[やぶちゃん注:「きぬはた」。]はやがて手と付けられぬやうになつた。それは彼女が男の兒を生んだからである。それは頗る綺麗な子供で、彼がそれを眺めたとき、嬉し泣きをしたほどであつた。その後、實は全く子供の世話に沒頭した。

 さて、やがてその子供も母に劣らず驚異すべきものだといふことが明白になつてきた。赤ん坊は生まれて三ケ月目にものを言ひ、七ケ月目には聖賢の格言を諳誦[やぶちゃん注:「あんしやう(あんしょう)」。暗誦に同じい。]し、尊い祈を朗吟することが出來た。十一ケ月にならぬ内に、巧みに筆を使ひ、老子の訓言を立派に寫すことが出來た。して、寺僧は來て見て、この寧馨兒と談話を交へ[やぶちゃん注:「まぢへ」。]、その愛らしさと、その賢い言葉を感歎して、Tong を祝福していつた。『たしかに、この子供さんは天の賜[やぶちゃん注:「たまもの」。]です。天があなたを愛し玉ふ瑞徵です。あなたが百歲の福壽をお重ねなさるやう祈ります』

[やぶちゃん注:「寧馨兒」は「ねいけいじ」と読む一般名詞。「晋書」の「王衍伝」から。「寧馨」は中国晋・宋の頃の俗語で「あのような・このような」の意で、「すぐれた子・神童・麒麟児」の婉曲表現。]

 

 十一月のことであつた。花は枯れ、夏の薰りは消え、風は次第に冷かになつてゐた。して、Tong の家では夜の火が點ぜられてゐた。夫妻は心地よき火の光りを浴びつ〻、長時間共に坐して、夫は盛んに希望と欣びを談じ、將來傑れた[やぶちゃん注:「すぐれた」。]人となる子供のことや、親として幾多の計畫などを語つた。一方、妻はあまりに語らないで、夫の言葉に耳を傾けては、しばしば應答の笑を浮たべ乍ら、驚異の眼を彼に向けた。こんなに美しく彼女が見えたことは、未だ甞てなかつた。して、彼は彼女の顏を注視し乍ら、夜の更けるのも、火の低く沈んで行くのも、また風が窓外の落葉した樹間に鳴るのも打忘れてゐた。

 突然彼女は無言のま〻立上つて、彼女の手の中へ彼の手を執り、かの奇異な結婚の朝に於ける如く、靜かに彼を導き、夢の中に微かに笑を洩らしつ〻眠れる子供の搖籃[やぶちゃん注:「ゆりかご」。]へつれて行つた。その瞬間、彼の念頭に、彼女の眼が始めて彼の眼とぴつたり出逢つた際に感じたと同一の奇異なる恐怖が襲つてきた――その漠然たる恐怖を、愛情と信賴の心が鎭めたのであつたが、鬼神に對する恐怖の如く、決して全然逐ひのける[やぶちゃん注:「をひのける」。]ことは出來なかつた。すると、彼は全く我れ知らずに、見えざる偉力ある手の壓迫に隨つたやうに、神に向つて跪坐する如く、彼女の前に低頭した。それから、再び眼を擧げて女の顏を見るや否や、畏怖に襲はれて眼を閉ぢた。といふのは、彼女は此世のいかなる女よりも高く彼の前に聳え、彼女の周圍には日光の如き光耀があつて、彼女の四肢の光りは、衣裳を透して輝いたからであつた。しかし彼女の美はしい音聲は、あらゆる昔の優しみを帶びて、彼に語つた。『いよいよあなたから去つて行かねばなら時が參りました。實は私は人間から生まれたのではありませぬ。それ故、ただしばらくの間、化身となつて現はれてゐました。しかし私は私共の愛情の誓をあなたに遺しておきます――此綺麗な子供は、行末あなたに對して、あなたと同樣な孝子となりませうから。實際私はあなたの孝心の報酬として、天からあなたに遣されたのです。して、今は私の天の家鄕へ歸つて行かねばならぬことを、どうか御悟り下さい。私は女神の織姬で御座います』

 かく語つてゐる際にも、光輝は消えて了つた。して、彼は再び眼を開けると、彼女が永遠に去つたことを知つた――空の風が通る如く不可思議に、吹き消された炎の光りが、取り返しのつかぬやうに。しかし一切の戶は鎖ざされ、窓も悉く塞いであつた。子供は眠りの中に微笑し乍ら、依然として眠つてゐた。戶外では夜は明けかかつてゐた。空は急速に輝き出した。東天は太陽を迎へて、莊嚴華麗な黃金の高い門を開いた。すると、其光りに照らされた朝霧は、いろいろに色彩の移つて行く、驚くべき形狀に變つた――織姬の機で織られた絹の夢の如き、不思議な美しい綾織り模樣に。

 

太上感應篇

 

Taijyoukannnouhen

 

【ハーンによる「解說」】

 『織姬の傳說』――私の此話は『太上感應篇』第三十章に見える、次の傳說から取つた。該書は老子の作と稱せられ、約四十個の頗る珍らしい逸話傳說を收めてゐる――

 『漢時代に住んでゐた Tong-yong は極貧に陷りた。父を失つたので、彼は葬式を營み、墓を建てる資を得るために自身を賣つた。天帝がこれを憐んで、女神 Tchi-Niu を遣はしてその妻とした。彼女は夫が自由の身となるまで每日絹を織つた。後、彼のため一子を生んで、それから天へ歸つた』――ヂユリアン氏佛譯第百拾壹頁。

 この話の中で、幽靈、醫療、婚禮等の詳細なことに亙って、私は全然私自身の空想によつて書いたのではないといふことを證するため、私は讀者に、ヂヤイルズ氏著『支那畫房奇譚』第九十六章『不思議な妻』と題する一篇を參照されんことを望む。それによつて、私の物語は、少くとも支那思想と合致することがわたるだらう。(この物語は、初め『ハーパーズ、バザ―』雜誌に現はれたのを、今囘同雜誌の許諾を得て、こ〻に收めたのである)。

 

譯者註 「宋藝文志」に「太上感應篇」の一卷があつて、抱朴子が漢時代の道敎の諸戒を述べたものである。この書は宋以來、大いに流布したが、專ら閭巷細民が誦習したもので、士大夫間に於いては鄙薄視され、その註釋諸家もまた淺陋邱里の言が多かつたと「太上感應篇纉篇」(上下二卷)の序文に見えてゐる。譯者が手にし得た「纉義」(德淸愈樾撰)にも、また更に手を入れ得た「太上感應篇註」(東吳、惠棟撰)にも、本書引用の二つの物語は載つてゐない。多分一層通俗的な註釋書から取つたものだらう。

 

[やぶちゃん注:最後の織姫の別れの言葉は、私の尊敬する平井呈一氏のそれより、例外的にこの落合氏の訳の方が遙かに、いい。平井氏は常体で敬語なく、神威を露わにした台詞で訳されてあって、ちょっとキツ過ぎ、エンディングの極めてポエジックな情景描写の美しさを殺ぐ嫌いがあるからである。

「太上感應篇」既出既注。南宋初期に作られた道教の経。善行を勧め、悪行を諫める善書の代表的な書物。作者と正確な成立年は明らかでないが、一一六四年よりも以前の成立である。但し、ハーンはの言う当該の「第三十章」の話なるものを、中文サイトで見出すことが私には出来なかった。その代わり、タイピングしているうちに、どうもこの話、別に読んだことがある気が強くしてきた。そうだ! これは私の好きな、東晋の政治家で文人の干宝(?~三三六年)が書いた志怪小説集「捜神記」じゃないか! その第一巻にある以下だったじゃないか!

   *

漢、董永、千乘人。少偏孤、與父居肆、力田畝、鹿車載自隨。父亡、無以葬、乃自賣爲奴、以供喪事。主人知其賢、與錢一萬、遣之。永行、三年喪畢、慾還主人、供其奴職。道逢一婦人曰、「願爲子妻。」。遂與之俱。主人謂永曰、「以錢與君矣。」。永曰、「蒙君之惠、父喪收藏、永雖小人、必慾服勤致力、以報厚德。」。主曰、「婦人何能。」永曰、「能織。」。主曰、「必爾者、但令君婦爲我織縑百疋。」。於是永妻爲主人家織、十日而畢。女出門、謂永曰、「我、天之織女也。緣君至孝、天帝令我助君償債耳。」。語畢、凌空而去、不知所在。

   *

 漢の董永は千乘[やぶちゃん注:山東省。]の人なり。少(わか)くして偏孤(へんこ)となり、父と肆(し)[やぶちゃん注:ここは「町」の意。]に居り、田畝に力(つと)め、鹿車(ろくしや)して載せて[やぶちゃん注:歩けない父を小さな車に載せて牽いては。]自ら隨ふ。

 父、亡(ぼう)ずるも、以つて葬る無し。乃(すなは)ち自ら賣りて奴(ど)と爲し、以つて喪事に供す。主人、其の賢なるを知り、錢一萬を與へ、之れを遣ふ。

 永、行きて、三年喪、畢(をは)り、主人に還り、其の奴の職に供せんと慾す。

 道に逢へる一婦人の曰く、

「願はくは子(し)の妻と爲(な)らん。」

と。遂にこれと俱にす。

 主人、永に謂ひて曰く、

「錢は以つて君に與へたり。」

と[やぶちゃん注:ここでは主人は彼の孝志に対して見返りを求めずに金を与えたのだ、というのである。]。永、曰く、

「君の惠みを蒙り、父の喪、收藏せり。永、小人たりと雖も、必ず勤めに服し、力を致し、以つて厚德に報いんと慾す。」

と。主、曰く、

「婦人、何を能くするや。」

と。永、曰く、

「能く織れり。」

と。主、曰く、

「必爾(ひつじ)なれば[やぶちゃん注:謂うように必ず私のために働くというのならば。]、但だ、君の婦をして我が爲めに縑(けん)百疋を織らしめよ。」

と[やぶちゃん注:「縑」じゃ二本縒(よ)りの糸で細かく織った上製の絹布を指す。]。

 是(ここ)に於いて、永の妻、主人が家の爲めに織り、十日にして畢(をは)れり。女、門を出でて、永に謂ひて曰く、

「我は天の織女(しよくぢよ)なり。君の至孝なるに緣(よ)りて、天帝、我れをして債(さい)を償ふを助けしむるのみ。」

と。

 語り畢りて、空を凌(しの)いで去り、所在を知らず。

   *

「ヂユリアン」既出既注。エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)はフランスの東洋・中国学者。コレージュ・ド・フランスの中国学教授。こで示されたのは、一八三五年にスタニスラス・ジュリアンが“Le livre des récompenses et des peines”(「良き報酬と悪しき応報の本」の謂いか)として「太上感應篇」を翻訳したもの。フランス語サイトのこちらで同書原文全文が読める(当該部を探すのは時間がかかるのでやめた。悪しからず)。

「ヂヤイルズ氏著『支那畫房奇譚』」既出既注の、「華英辞書」の編纂によって特に知られるイギリスの外交官で中国学者であったハーバート・アレン・ジャイルズ(Herbert Allen Giles 一八四五年~一九三五年:中国名「翟理斯」)は、彼が一八八〇年に訳した清代の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)が著した志怪小説集「聊齋志異」の翻訳“Strange Stories from a Chinese Studio” のことであろう。英語原本の当該箇所を見つけたが(No. XCVI:“A Supernatural Wife”)、これが私の好きな「聊齋志異」のどの話に当たるかは、ちょっとお時間を戴きたい。判り次第、追記する。

『ハーパーズ、バザ―』“Harper's Bazaar” 調べると、『ハーパーズ・バザー』(Harper's BAZAAR)は、一八六七年にニュー・ヨークで創刊した世界最古の女性向けファッション雑誌とある。これなんかなあ?

「宋藝文志」元代に編纂された宋(北宋・南宋)を扱った紀伝体史書「宋史」(一三四五年完成)の中の「芸文志」のこと。

「閭巷細民」(りよかうさいみん(りょこうさいみん)民間の下層階級。

「鄙薄」(ひはく)で軽蔑。蔑(さげす)むこと。

「淺陋」(せんろう)は「知識や考えが浅くて狭いこと」。

「邱里」不詳。田舎染みた俚諺的内容ということか。

「太上感應篇纉篇」(さんぺん)は継いだ編で「続編」の意。清の考証学者兪樾(ゆえつ 一八二一年~一九〇七年)撰。

「纉義(德淸愈樾撰)」一八七一年刊。

『「太上感應篇註」(東吳、惠棟撰)』清の考証学者恵棟(一六九七年~一七五八年)撰。

 また、最後になって、中文サイトのカラーの絵入りで独立したページも発見した(先のPDFと同じ組織による作成のもののようで、挿絵も全く同じである)。原文と白話(中国語口語体)に直したものも載るので転載しておく(コンマを読点に代えた。漢字はママ)。

   《引用開始》

十三、【董永賣身】 漢

董永家貧、賣身葬親。天遣仙女、織縑完緡。

【原文】

 董永、性至孝、家貧、父死、賣身貸錢而葬。及往償工、途遇一婦、求為永妻。同至主家、令織縑三百疋乃回。一月完成、主大驚、聽永歸。至槐陰會所、婦辭永曰、吾織女也、天帝感君之孝、令我相助耳。言訖凌空而去。

 王應照謂、父死則葬、理之常也。孝子當貧乏無措時、賣身為之、亦求心之安而已。償工之日、仙女忽逢、織縑一月、已清債累。此時賣身窮人、債主不得役之、且不能學之、於以知久停親柩者之罪大矣。

【白話解釋】

 漢朝時候、有個叫董永的人、非常孝順。但是家裡很窮苦、父親去世後、沒有錢辦理喪葬、董永就賣身為奴、用賣得的錢來安葬父親。

 葬了父親以後、就依約要去做工償債。走到半路上、忽然遇到了一個女子、這位女子說自願和董永結為夫妻、就一同到債主家裡去做工。債主嚴苛地命他要織好三百匹的紗羅布料、才能抵掉賣身的錢、才可以回家。哪裡曉得、董永得到了妻子的幫助、不到一個月工夫、就全部織完了。債主非常驚訝、但還是要讓董永離開。

 他們走到了槐樹下(從前和妻子相會的地方)、妻子就要辭別董永、並說道:「我是天上的織女、天帝被你的孝心感動、特地派我來幫助你。」說完話、就騰空而去了。

   《引用終了》]

三州奇談卷之一 菅谷の鬼婦


    菅谷の鬼婦

 加州江沼郡(えぬまごほり)菅谷(すがたに)村平四郞妻は、橋立(はしたて)村傳右衞門と云ふ者の娘なり。夫婦睦まじく、子二人出生せり。平四郞親迄は、殺生を多くせし家なれども、今の平四郞は、大聖寺・森崎(もりさき)の邊(あたり)常に行通ふが故に、山家(やまが)の者ながら軍書の片端をも聞覺え、立振舞(たちふるまひ)も武骨にはあるざる者故、今程は大庄屋下役人となり、妻も山家にも似ず、かたの如く靜かなる者なりしが、或夜異行(いぎやう)の者さそへる樣に覺え、心忽ち替り、骨たくましくなり、氣猛く成けん、家夫平四郞が臥したる足の付根夜着より外に顯れてありしに、

「ほう」

と喰付(くひつき)たり。

[やぶちゃん注:「加州江沼郡菅谷村」「菅谷の巨蟒」で既出既注の石川県加賀市山中温泉菅谷町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)附近であろう。文字通りの深い谷の山家である。

「橋立村」石川県加賀市橋立町か。ここは御覧の通りの海浜地区で、菅谷は直線で十五キロメートル内陸となる。海辺の村からこの深山の村へ嫁入りしたとすれば、それだけでも環境の激変であり、実際にはそのカルチャー・ショックが積年していたとも考えられる。

「森崎(もりさき)」大聖寺や加賀市には森崎の地名は見当たらない。国書刊行会本と「加越能三州奇談」では『吉崎』とする。これなら、「吉崎の逃穴」に出た鹿島神社に繋がる吉加賀市崎町地区で腑に落ちる。

「武骨」はママ。無骨。

「かたの如く」一般の平均的主婦と同様に、の謂い。

「異行(いぎやう)」ママ。別本二本は『異形』とする。]

 此時口大きにさけ、齒は利(と)き劔の如く、股の間をしたゝかにかぶりおしける。

 平四郞、

「あつ」

と一聲さけび絕人(たえい)りける。

[やぶちゃん注:ここは失神したのである。]

 此音に驚き、家内灯を燈(とも)し來り是を見るに、平四郞が妻、只(ただ)鬼形(きぎやう)のごとし。

 其の肉を嚙む音、佳肴(かかう)をたしなむがごとく、長き舌を出(いだ)し、口のあたりの血をねぶり廻して居(ゐ)けるが、人々を見るも少しも驚かず、又二歲になる男子を引起し、裸になし逆樣(さかさま)に持ちて、足二本を一時に口へ押入(おしい)れける程に、寄れる人々飛付(とびつき)て

「是はいかゞ」

と多力の者ども二三人寄り、漸々(やうやう)と引放し、扨樣子を窺ふに、

「其二歲の子を喰(くは)せよ」

とはたりのゝしる。

 其中(そのうち)、近隣の醫(い)寄(より)つどひ、平四郞に氣付(きつけ)などののませけるに、息出で蘇りぬ。然れども、足つよく痛みて死生を知らず。

 妻女に

「いか成る故ぞ」

と云ふに、

「何も常に替りたる事はなし。只其夜子(ね)の刻[やぶちゃん注:午前零時前後。]頃に、人のさそう樣に覺えてより、頻りに人の肉を好む事渴(かつ)して水に向ふが如し。我今殺さるゝ事は、少しも恐るゝ所にあらず。二歲の子をあたへよ」

[やぶちゃん注:国書刊行会本は台詞の後半が『我今殺さるゝ事は、少しも恐るゝ所にあらず。只(たゞ)ねがわくば、あの小児をくらい尽して死につらん。はやく二歲の子をあたへよ』となっていて、こちらの方が凄惨なリアリズムが強い。]

と、やゝもすれば飛懸らんとするほどに、人々捨置き難く、大聖寺公場(こうぢやう)へ訴しに、卽刻足輕六人を指遣(さしつか)はされし。

 まのあたり今寶曆十三年の三月の事にて有し。

[やぶちゃん注:「公場」奉行所のことであろう。妻の謂いは乱心に加えて人肉食いの嗜好の表明と異常極まりないものであるが、しかしその自白によって殺意がはっきり示されており、自身の極刑も覚悟しているわけであるから、至極、尋常な対応である。

「寶曆十三年の三月」旧暦三月一日はグレゴリオ暦では一七六三年四月十三日で、すっかり春である。ここでこの謂いに、ちょっと気になることがある。本書の作者麦水は享保三(一七一八)年生まれで天明三(一七八三)年に没している。則ち、この宝暦十三年当時で、既に麦水は数えで四十六である。しかも「三州奇談」の完成はこの宝暦から明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されている。本書は先行する同じ伊勢派の俳諧師麦雀(生没年未詳。俗称住吉屋右次郎衛門)が蒐集した奇談集の散逸を憂えて再筆録したものとされているのであるが、そうすると、麦雀は麦水の年上の同時代に生きた人でなくてはならないのではないか? そうでなくては「まのあたり今寶曆十三年の三月の事にて有し」と麦雀は書かないだろう。しかしそうすると、麦水が奇談集の散逸を憂えて再筆録したというのがやや私には不審に思われるのである(散逸を憂えて、というのは相応の時間経過の後というニュアンスが付き纏うからである)。則ち、或いは再筆録だけではなく、麦水の体験談が既にここに挿入されている可能性をも考えねばならないということになろうかと考えるのである。但し、国書刊行会本の堤邦彦氏の解題を見ると、『当初は現行本の巻一・二とかさなる程度の小冊子であったものが、その後麦水没年に至るまでの間に書き足されて今日見るような正・続九巻の分量に増補されたものと』、研究者の日置謙『氏は推測している』とある。

 最後に。最後の一文から、この猟奇的な事件が実録であるということになる。強い他虐性から激しい妄想傾向を持った重い強迫神経症や統合失調症辺りが疑われるところではあろう。ただ、私はこの話柄、しょっぱなからどうも仏教説話的な臭いが纏わりついているように思われてならないのである。冒頭で、わざわざ「平四郞親迄は、殺生を多くせし家」がそれである。菅谷の立地とこの謂いから考えて、平四郎の親の代までは、代々が山家の猟師として獣類・鳥類の狩猟をずっと生業としてきたものと考えてよい。また、妻はその出身地から見て漁師或いは網元の娘であった可能性が高いのではないかとも思われるのである。則ち、この夫婦は孰れも仏教上から見れば、殺生を重ねてきた殺生の業(ごう)を重ねてきた存在であり、その間に生まれた子もまた、そのハイブリッドな業の中に組み込まれた宿命を担う存在だったのではなかろうか?

2020/01/25

三州奇談卷之一 敷地の馬塚

 

    敷地の馬塚

 菅生石部神社(すがふいそべじんじや)は、敷地の天神とて、大聖寺第一の靈社なり。此向に白幣(しろぬさ)を立(たて)たる數尺の地あり。是を「馬塚(むまづか)」といふ。洛(らく)の古俳、此所(ここ)にて

 なり平(ひら)が切(きつ)たといふは雜役(ぞふやく)か

といふ句あり。是に不審して其故を問へば。[やぶちゃん注:句点はママ。]

 むかし富樫(とがし)氏北國に威を振ひ、富樫三郞成衡(なりひら)と云者、京都將軍の命令を請けて西國を征伐し、歸路に及んで此大聖寺を通りしに、其頃十二月の事なれば、北國(ほつこく)寒(さむさ)甚(はなはだ)し。此夜しも大雪降りて、從者隨ふことあたはず。三郞一人駿馬(しゆんめ)に鞭打ちて、風雪を侵して進み行くに、雪降りて丈餘[やぶちゃん注:三メートル越え。]に及ぶ。况や一つの谷に駈落(かけおと)して、出(いづ)ることあたはず。暫く馬より下りて後陣を待つに、雪路(ゆきみち)踏みたがひて、一人も來らず。既に日は暮果て、詮方なく雪中に夜を明さんとするに、半夜の頃飢(うゑ)甚(はなはだ)し。三郞獨り言して

「我(われ)軍機ありて、心大きに急ぐ故に、衆に先達(さきだつ)て此の如きの危難に及ぶ。是又命(めい)[やぶちゃん注:運命。]なり」

といふ。

 時に此馬一たび嘶(いなな)きしが、踊り出(いで)て忽ちに去り、其(その)行く所を知らず。一時[やぶちゃん注:二時間。]許(ばかり)して、此馬又歸り來(きた)る。口に餅貮枚(にまい)をふくめり。

 三郞大きに悅び、此餅を喰いて飢を凌ぐ。夜明けしかば。[やぶちゃん注:句点はママ。]諸軍尋來(たづねきたり)て、終に道を踏開(ふみひら)く。此菅生の神社の前に出で、本道に就きて去(さら)んとす。

 此時三郞が乘(のる)所の馬、一つの藁屋(わらや)の門に至つて一步も動かず。三郞心いらちて頻(しきり)に鞭打つといへども、去らず。元來剛氣の大將なれば、刀を拔きて其馬をきるに、馬一步も動かず。只罪に伏するものの如し。數刀を請けて、馬終に死にけり。

 三郞大(おほき)にあやしみ、此藁屋の内をさがしみるに、この家のあるじと思しき男は食殺(くひころ)されて死してあり。餠の多く引ちらしてありけるにぞ。夜前馬來りて餠を得來りしは此家なり。我ために馬の勤勞せし事を思ふて、稱歎してやまず。終に此馬を此家のあとに埋めて「馬塚」と云ふと、古老の人物語れり。

[やぶちゃん注:「菅生石部神社」現在ではこれで「すごういそべじんじゃ」と読む。国書刊行会本では『菅生礒部の神社』となっており、これならまさに抵抗なく「いそべ」と読める。「近世奇談全集」では「いしべ」とルビするが、従えない。「石川県神社庁」の同神社の解説によれば、現在の加賀市大聖寺敷地町ル乙(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に鎮座し、祭神は菅生石部神で、『延喜式内の古社。敏達天皇禁裏御所に勧請御鎮祭あらせられたのを、用明天皇の御宇、越の江沼の地の農桑励の御思召を以て、御即位の元年』(敏達天皇十四(五八五)年九月(即位の月のようである)、『当地方鎮護の上五穀豊登万民富饒を御立願あらせられた。その後、天武天皇』の治世にも『御願神事』が『始められ、往古から一年両度の居入祭』(おりいさい)『には、勅使を遣して御衣神宝を奉られた等、古来、朝廷の御尊崇格別で、天慶』三(九四〇)『年には正四位下に昇格』し、また、『武門武将の崇敬も篤かった』。明治二九(一八九六)年、『国幣小社に列せられ、北陸道一円鎮護の神として五穀豊穣』・『疫病退散』・『安産育児守護の大神として』信仰されているとある。

「馬塚」菅生石部神社の手前、道を隔てた民家(石川県加賀市大聖寺天神下町)の道に面したところに現存する。大聖寺地区まちづくり推進協議会作成の「大聖寺 十万石の城下町」の「富樫の馬塚」によれば(地図もある)、『言い伝えによると、室町時代、吹雪で一命を失いかけていた冨樫三郎に餅をくわえてきて主人を助けた愛馬を、菅生石部神社の前で誤って切り殺してしまい、その愛馬を弔うため建てた馬塚』とし、また『一説では、菅生石部神社の神事『居入祭』で供えられた衣を埋めた塚ともいわれている』とある(いろいろ調べてみるとこの衣を埋めた場所というのが正しいようである)。同ページの説明版でより詳しい話が読める(クリックで拡大される)。必読。

「洛(らく)の古俳」京都の古い俳諧師。誰かは不明。

「なり平(ひら)が切(きつ)たといふは雜役(ぞふやく)か」ちょっと意味が半可通である。季語もないからまるでダメである。伝承をもとに想像してみるに、

「富樫成衡(とがしなりひら)が斬ったというのは、馬ではなくて雑役をこなす下男だったのではないか?」

という意味だろうか? しかしそれでは五七五の十七音が合っているだけの、捻りも何もない、ただの下らぬ物言いに過ぎなくなる。因みに国書刊行会本では「雜役か」が『敵役か』となっている。これだと、牽強付会すれば、

「動かなくなった馬のシークエンスでは、その馬を一瞬、芝居の『敵役』(かたきやく:但し、この読みでは字余りで締まりがなくなるから「てきやく」と読んでおく)に擬えて話を面白くしたものか?」

の謂いでとれなくもないか。判らぬ。先に言った解説版の最後を見ると、『江沼の総鎮護である菅生石部神社の尊き御神域で不敬な行いをしてしまった富樫は、これより後』、『神社の前を通ることを許されず』、『神社の裏山の小道を通ることとなった。これを富樫の隠れ道という』とある。あるいは、前の解釈では、

「このように後の富樫成衡への罰が相応に重いのは、無実の馬ではなく、実は無実の人を斬ったからなんじゃないか?」

と言っているともとれるか。なお、伝承では、以上の話の通り、彼が足利将軍の命を受けて西国を平定して帰る途中の吹雪の中の単独遭難の出来事となっており、大聖寺はその帰路の途中であるとするものの(即ち、彼の本拠地は北陸ではあるが、恐らくもっと北であるように読めてしまうのだが)、富樫氏は藤原利仁(芥川龍之介の「芋粥」の彼)に始まるとされる氏族で、室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名であるから、この辺りを通ることは日常的にあり得たと考えて何ら不思議ではない。しかし、このシークエンス自体が何となく嘘臭いではないか? 遠征からの帰路で、誰一人として彼に随行することが出来ずに、吹雪の中で餓えるという設定自体が私には明らかに変だと感じられる。だから馬ではなく、やっと一緒に吹雪の中で主人に従うことが出来たのは、雑役の従者一人で、さてもここで彼が飢えと寒さで癇癪を起して、その馬ではなく、その男を斬り殺したとする話もアリか? とも思えてくるのである。武人にとって馬は自分の命より大切であるというのは鎌倉時代からの常識で、癇癪を起して馬を斬り殺すというのは、どうもしっくりこないのだ。だから、前の句のような解釈が私には立ち騰(のぼ)ってきてしまうのである。この句、他の解釈があればお教え願いたい。

 今、耳無山(みみなしやま)の間にも馬塚あり。兩所いづれが實なることをしらず。かゝる變異の地なれども、今は人家と成りて、纔(わづか)に數尺の地を殘して、其事を知れる者も少なし。神靈も幸(さきは)ふ事はありとや。

[やぶちゃん注:「耳無山」不詳。この名の山は現在の大聖寺にはない。ただちょっと気になるのは直前の「長面の妖女」に出てきた「耳聞山」である。現在、この名前のバス停が大聖寺耳聞山町に存在するNAVITIME)。これの誤字ともとれるか。但し、現在の耳聞山町内には馬塚はない模様である。

「神靈も幸(さきは)ふ事はありとや」国書刊行会本では『神霊も幸(さき)ふ事は有(ある)にや』でこの方が意味がとれる。「このようにすっかり忘れ去られてしまったこの馬塚に、今でも神霊が言祝(ことほ)ぐために来臨することがあるのだろうか?」である。]

 此十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]許(ばかり)北に、宮村と云ふ所あり。いつの頃より草鞋大王(とひがみだいわう)のありて、群集(ぐんじゆ)夥(おびただ)し。都(すべ)て病者の宿願叶はずと云ふ事なく、或は久敷(ひさしき)聾(つんぼ)も耳忽ちに聞え、盲目の明(あか)りを得る者もあり。其外難病限りなく直り、近國遠村人押合ひて參る程に、田畑の間の道、四條五條の大路の如し。其參る所の神は森の中にして、大木の二股なる中に挾まりたる巨石なり。石はいつの代(よ)よりかありけん。ふと人の敬(うやま)ひ民(たみ)敬(けい)して、今は猥(みだ)りに馬上には其前を過ぎず。今寶曆の初年[やぶちゃん注:宝暦元年は一七五一年。]よりは、少しいひやみて、森の間(あひだ)人影盡きて、宿鴉(とまりからす/しゆくあ)のみ多く、彼の大王、又いづくにか飛(とば)れけん。國々にもある事にや、倭漢の諸書にも見へたり。餘り盛衰いちじるき故(ゆゑ)爰(ここ)に記す。

 彼馬塚も、富樫在所は甚だ靈驗の地なりしと聞及びしが、今は其所さへしらず。在京の業平にも混じて考へそこなふこともあれば、爰には如斯(かくのごとく)記したるなり。

[やぶちゃん注:「宮村」石川県加賀市宮町。これは同地区の北端にある現在の宮村岩部神社である。玄松子氏のサイトのこちらに本篇の紹介も合わせて資料が載る。それによれば、『創祀年代は不詳』で、『元は、石部薬師と呼ばれており、天神様と通称されている』とあり、「三州奇談」に『よると、いつの頃からか、草蛙(とびかみ)大王の社があ』ったとし、『大木が二股になっている中に挟まれた巨石が御神体。病気平癒に霊験があり、近国遠村の人々が参拝に押し寄せ、田畑の畦道が、まるで四条大路のようであったという』。『かように、薬師信仰と習合して、崇敬を集め、遠く高尾町や小松市にも、当社の遥拝所が存在するらしい』。『また、社殿を築けば』、『雷鳴が鳴ると云われ、古来より本殿はない』。『御神体石を囲む垣の高さは、人の背丈ほどで、ジャンプして』見てみたが、『木が数本あることしか確認できなかった。資料には巨石とあるが、それほど大きなものではないのだろう』とある。

「草鞋大王(とひがみだいわう)」国書刊行会本と「近世奇談全集」のルビから推定した。そのまま「わらぢだいわう(わらじだいおう)」と読んでよく、これはお馴染みの仁王門の左右に配される仁王のことを指す。祈願する人がその前に草鞋をぶら下げたところからの古い別名である。「とびがみ」は当て読みで「飛神」、即ち、他の地から飛来して新たにその土地で祀られるようなった神を指す語である。しかし、今は衰退し、人影も全くなく、カラスの巣くって群がっているばかりで、「彼の大王、又いづくにか飛(とば)れけん」とはかなり皮肉な洒落である。

「宿鴉(とまりからす/しゆくあ)」前者は国書刊行会本の原写本のカタカナの読みから、後者は「近世奇談全集」のルビ。

「在所」ママ。「近世奇談全集」では『在世(ざいせい)』でその方がよい。馬塚は以上の本文で二ヶ所伝承があるが、その孰れもが不確実と筆者は述べているから、ここでの謂いは齟齬しない。

「在京の業平」富樫成衡とは全く時代を異にしているから、「在京の」はおかしい。判読ミスが疑われる。「加越能三州奇談」と国書刊行会本は『在原の』とし、それが正しいものと思われる。]

三州奇談卷之一 長面の妖女


    長面の妖女

 大聖寺家中大河原氏のもとに、同郡片野といふ所の大池の邊(ほと)りより、女を一人やしなひけり。

[やぶちゃん注:「大河原氏」石川県立図書館の「石川県史 第二編」の「侍帳 人物名一覧」の「加賀藩・大聖寺藩」を見たが、大聖寺藩には「大河原」姓は認められない。加賀藩には大河原四郎兵衞(五百石)と大河原元之助(三百五十石)が確認出来るので、この縁者かも知れない。

「大池」現在の石川県加賀市片野町にある「片野鴨池」のことか(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「片野鴨池」を参照されたい。現在の片野地区ではこれより大きな湖沼はない。「水鳥多し。故に大聖寺家中の人、よく爰に遊ぶなり」とあるが、ウィキにこの池では『坂網猟(さかあみりょう)』という独特の鴨猟が行われ、これは元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に『大聖寺藩士村田源右衛門によって始められた猟法で、それ以降は大聖寺藩が武士の鍛錬のため』、『推奨された』もので、『池周辺の小高い位置(坂場と言う)から、熊手状の網を上方に高く投げ上げて鴨を獲る。江戸時代は武士のみが行うことが出来たが、明治時代に開放された』とあるのと一致する。]

 此片野の大池と云ふは、浦方近き山にて、池は山中に七つありと云ふ。怪多し。或は夜中數百人の聲して、池上に火を灯して語るを見るといふ人もあり。或は釣をたれに行しに、水何となくふえけるに、二三間[やぶちゃん注:三・六~五・四五メートル。]は退(しりぞ)きたれども、次第にふえ來りし程に、終に釣を止めて逸足(いつそく)[やぶちゃん注:「駿足」に同じい。]出して逃歸りしが、一二丁[やぶちゃん注:百九~二百十八メートル。]程去りてふり返り見るに、銀龍の童形(どうぎやう)なるが水上に顯れしを見たりとも云ふ。

[やぶちゃん注:「銀龍の童形」銀色をした龍の幼体のようなもの。]

 又は此池に池中の道あり。此中より大きなる顏出で、追へば入り引けばしたひして、一夜爰(ここ)に爭ひし人もあり。

[やぶちゃん注:「したひて」「慕ひて」寄って来て。]

 雨乞には必ず此池を祭る。水鳥多し。故に大聖寺家中の人、よく爰に遊ぶなり。

 されば此池の邊(ほとり)にて、少女を見付て連歸り、大河原氏の家に養ひしが、十二三年立ちて後、此小女(せうぢよ)頻りに伊勢へ參宮せん事を望む。國法に叶ひ難しといへども、少女の望せつなれば、ひそかに駕(かご)の者を雇ひて、此婦人を乘せて伊勢へ參ることをゆるされしに、小婦悅び辭しわかれ、駕の者と打連て旅立ちけるが、江州(がうしふ)柳ヶ瀨に至りて、

「爰より向ふにみゆるは、余吾の湖(うみ)成(なる)べし。あの邊へ連れ行け」

[やぶちゃん注:「國法に叶ひ難し」不審。大聖寺藩に婦女子単独の伊勢参宮を禁ずる藩法があったものか? あったとしたら、犬や豚でさえ行った(事実である。人々がその旨の書付を順に渡して実際に豚や犬が伊勢参宮をしたのである。私の「耳囊 卷之九 奇豕(きし)の事」を読まれたい)伊勢参宮を許さないというのはかなり異常な法である。先行する芭蕉の「奥の細道」にだって伊勢参宮に向かう新潟の遊女二人が市振の段に出る(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 60 市振 一つ家に遊女もねたり萩と月』を参照。それは創作だという批判は無効。遊女が伊勢参宮するというのが尋常なことだからこそそう書いたと言えるからである)じゃねえか! 絶対、おかしい! 女の一人旅がだめだというのなら別な下女でも下男でも何でもつけてりゃいいわけだろ!

「江州(がうしふ)柳ヶ瀨」近江国柳瀬(やながせ)。現在の滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬(グーグル・マップ・データ航空写真)。以下の「余呉の湖」からは北方へ五キロメートルほど離れているが、山間部なので湖が望まれてもおかしくはない感じはする。

「余吾の湖」ママ。普通は「余呉の湖」と表する。琵琶湖の北端から東へ二・四キロメートルほど離れた位置にある独立した湖ウィキの「余呉湖」によれば、『湖北岸には、羽衣伝説で天女が羽衣を掛けたといわれる「天女の衣掛柳」があった』(二〇一七年十月に台風により倒壊して現存しない。但し、これは伝説に纏わる『北野神社から移植された』二代目であった)。『日本最古の天女伝説の地といわれ』、『ほかの地域の羽衣伝説では、羽衣を掛けるのは松や岩などが多いが、余呉では柳といわれている』。また、別に『湖に入水した菊石姫の龍伝説もあり、菊石の投げた龍の目玉の跡がついたという「目玉石」があるほか』、『付近には蛇身の菊石姫が休んだといわれる「蛇の枕石」も知られる』とあり、本篇は前の銀色の幼龍や以下の展開から、この菊石姫伝承を下敷きにしたものであることが判る。サイト「余呉観光情報」の「菊石姫伝説 菊石姫の物語」に、その伝承が書かれてある。しかし、これ、ちょっと類を見ない超弩級に悲惨な話である。必読!

といひし程に、駕を下しければ、婦女は立出で、襟かきつくろひ、

「我(われ)爰に知るべあり、見廻(みまはり)て歸るべし」

とて、美しく着飾りてたる裝束の儘にて、此淵へ

「ざぶ」

と飛び入(いり)ぬ。

 駕の者ども大きに驚き、騷ぎのぞき見れども、幾尋(いくひろ)ともはからぬ深き淵なれば、せんかたなくに見合せけれど終に出ず。又何の動靜もなし。

 駕の者は此邊(このあたり)の里の家に一夜を明(あか)し、湖を窺へども、何の替る事もなき故、空しく是より歸りて、其趣を大河原氏へも語りしに、國禁なれば沙汰なしに事濟ぬ。

 此小女も慥かに親元といふ者もなし。容色は勝れながら、顏は長き方(かた)にてありたりと云ふ。

 又、同家中御坊主組(おばうずぐみ)に、津原德齋と云ふ人あり。此家の近所に「岡(をか)の庵(いほ)」とて致景の禪院あり。敷地、山のつゞきにして、人の遊會する所なり。夜半の頃にもや、德齋、我宿の中町と云ふへ歸らんとす。其道は福田川に添ふて、耳聞山(みみききやま)といふ少し高き松の群立(むらだち)たる所を越れば、町に入るなり。折節手提灯の火も消え、ともしに歸らんも便(たより)なし。

[やぶちゃん注:「御坊主組」藩庁の城主内で茶礼や茶器を取り扱う役の僧形の数寄屋(すきや)坊主のことか。

「津原德齋」不詳。

「岡の庵」不詳。以下の注も参照。2020127日:削除・追記】いつも情報を戴くT氏より、まず、有り難い(地区同定には是が非でも旧地図が欲しかった!)江沼郡の明治時代の地図(国土地理院明治四二(一九〇九)年測図の五万分一地形図)を“Stanford Digital Repository”(「スタンフォード(大学)デジタル・リポジトリ))で紹介下さり(「大聖寺地図」はこれ)、また、国立国会図書館デジタルコレクションの「石川県江沼郡誌」(大正一四(一九二五)年刊)もご紹介戴いたことを報告しておく。さて、この「岡の庵」の「岡」はT氏によれば、地名であって、現在の石川県加賀市大聖寺岡町(後の「敷地の馬塚」に出る菅生石部(すごういそべ)神社のある石川県加賀市大聖寺敷地の西隣り)であるとされ、この『岡より、大聖寺中町又は大聖寺仲町』(私が次注で示した前者のやや東北のここに別に存在する)『に帰るには、旧大聖寺川の屈曲部(大聖寺大名竹町から)から南下する旧大聖寺川の右岸(現石川県立大聖寺高等学校の西を流れる現大聖寺川からの取水路)を南下し(大聖寺耳聞山町の東。大聖寺高等学校南は旧三度川が西に流れ、旧大聖寺川と合流している)、辨天橋』など『で大聖寺町の中心部に入り、大聖寺中町又は大聖寺仲町に返る』というルートになろう、とされる。

「中町」石川県加賀市大聖寺中町2020127日:追記】或いはより可能性が高い上記で追加した大聖寺仲町。次注の追記を参照されたい。上記T氏は、『大聖寺仲町を候補にするのは、「舟より岸を見上るなれば、……」から、旧大聖寺川の舟から見えるのは、大聖寺中町よりも仲町の方がそれらしいと感ずる』と推論されておられる。私も同シチュエーションは大聖寺中町では、ちょっとおかしいと先に感じていた。これで納得出来た。

「福田川」不詳。但し、サイト「川の名前を調べる地図」のこちらで大聖寺の城跡の附近を拡大すると、北の大聖寺川の支流(南)である三谷川の左岸部分に大聖寺上福田町という地名を見いだせるから、或いはこの川の旧名かと思われる。藩庁直近で大聖寺川をかく異名したというのはちょっと考え難い気がする。2020127日:削除・追記】この川は大聖寺川の部分呼称の川名であった。T氏より、『大聖寺城近辺の「大聖寺川」が「福田川」と呼ばれていた証拠』として、『この「大聖寺古城之図」(拡大すると文字が読めます)』を示して下さった(「金沢市立玉川図書館近世史料館 所蔵文書データベース」内)。この絵図は弘化二(一八四五)年三月河野青龍正通筆写になる大聖寺城附近の絵図(享和四(一八〇二)年正月に「望宮候師之図」なるものを借り受けて仮に写したものとある。見ると、絵図の右側(こちらが北)に大聖寺川相当の部分に確かに『福田川』とある

「耳聞山」現在、この名前のバス停が大聖寺耳聞山町に存在するNAVITIME)。但し、現在は完全な市街地である。ただ、筆者も「少し高き松の群立(むらだち)たる所」と言っているから、有意な山である必然性はない。さて、以上を総合すると(津原の屋敷は現在の中町、川は三谷川(この川は南に伸びる部分(こちらが本流であろう)もある)、「山のつゞき」という表現から)、現在の加賀市南郷町の丘陵の麓辺り(グーグル・マップ・データ航空写真)に「岡の庵」という禅寺はあったのではないかと私は推理した。

「ともしに歸らんも便(たより)なし」灯を再びつけるために「岡の庵」まで戻るには帰路の半分を超えてしまっていたのであろう。それを選ぶのは如何にも不便甚だしいというのであろう。]

『よしや纔(わづか)の間(ま)ぞ』

[やぶちゃん注:「まあいいさ! もう、少しの距離だ。]

と思ひ行に、又六間ばかり先へ、提燈とおぼしき燈の行ける。

[やぶちゃん注:「六間」十二メートル弱。]

『幸(さひはひ)のあかり哉(かな)』

と思ひてしたひ[やぶちゃん注:「慕ひ」。]行くに、其間(そのあひだ)程近くなりて見れば、女の赤足(はだし)にて灯をさげ行く樣子なり。

『詞(ことば)や懸けん、或は知れる者にやあるべき』

など思ひ思ひ行く。

 此(この)ともし火も德齋の家の方へ行く程に、心ゆるして步み行く。德齋の宿は小路の折曲(をれまが)りにて、角(かど)は隣の屋敷なり。此塀越(へいごし)に大きなる榎(えのき)ありけるを、此程杣(そま)[やぶちゃん注:木樵(きこり)。]を雇ひて伐(か)りけるが、此夜も榎のもと三丈[やぶちゃん注:九メートル九センチ。]許りは殘りありけるが、此女其榎に寄添ひて、こちらを向き居(ゐ)けるに[やぶちゃん注:この部分は映画のマルチ・カメラ風になっていて面白い。]、折曲りなれば此事は知らず、ふと行懸(ゆきかか)りしが、灯の目より高く見ゆる程に[やぶちゃん注:提灯の灯が津原の目のお高さよりも優位に高い位置に見えたので。]、

「いかにや」

とふり仰向(あほむ)き見ければ、只今先へ行きし少女の、彼(かの)三丈ばかりの切株の榎とひとしく、其切口の頭を撫で居たり。德齋を見て振返りけるに、顏の長さ三丈許りもありける。胴の體(たい)は木(こ)がくれて見えず。恐しさ云はん方なく、しかも笑ひをふくみて見返りけるに、思ひがけざることなれば、

「あつ」

と云ひながら我家(わがや)へかけ込まれける。

 其後(そののち)、家僕を起し再び出で見るに、灯も女もなかりし。

 いかさま此あたりの古狸などのわざにや。

 此人(このひと)のみにもあらざりし、御長柄組(おながえぐみ)三四郞と云ふ者も、此邊りにて顏の三尺許りある女に逢たるとかや。

[やぶちゃん注:「御長柄組」近世の武家の職名。戦時に長柄の槍を持って出陣した騎馬の武士の一隊。道具衆。

「三尺」九十一センチメートル弱。]

 福田村市郞右衞門と云ふは漁獵(ぎよれふ)をする者なるが、折節此邊りにて、女の後ろむきて灯火を吹消し吹消しするを見る。

[やぶちゃん注:「福田村」現在、大聖寺上福田町大聖寺下福田町がある。孰れであっても大聖寺川の川魚漁師であろう。]

「舟より岸を見上るなれば、しかとしれざれども、低向(うつむき)たる顏ばせ三尺許りもあるべしと見えぬ。度々のことなれば、『例の者ぞ』と打過(うちすぐ)るなり。人に障る(さは)りたる事はなし」

とかたりぬ。

 實(げに)も狸にも狐にもせよ、化樣(ばけやう)の一調(いちてう)の物好(ものずき)はある事にこそ、飽かずもかく「長面女(ちやうめんぢよ)」とは變(へん)ずれ。案ずるに、大方此邊り何か老物(らうぶつ)の精にぞあるべき。

[やぶちゃん注:以上はややわかりにくいので現代語訳してみると、

「まことに、狸にもせよ狐にもせよ、何に化けるかは、それぞれに一定の得手・不得手・得意中の得意といったものがあるのであろうに、何故かよくもまあ、飽きもせずに「長面女」ばかりに化けるものじゃないか? 考えてみるに、これは狐や狸などではなく、大方、この辺りにあった年経た何かの『物』が変じた、ごく下級な妖怪なのではないかと推察できよう。」

と言った意味であろう。最後の「この辺りにあった年経た何かの『物』が変じた」「ごく下級な妖怪」というのは所謂「付喪神(つくもがみ)」のことであろう。付喪神とは、一般には、百年を経た器物や生物ではない物体に宿って、化けたり、人に害をなしたりするとされる精霊或いはその変化妖怪の自体のことを指す。]

三州奇談卷之一 石坂の瀑布


    石坂の瀑布

 熊坂村(くまさかむら)は大聖寺の南、七里にありて、兩邊に山をつゝみて中は田野なり。彼の長範(ちやうはん)が出生の地と云。爰(ここ)に「石坂の瀧」あり。淸冷の水、綠巖を流る。是を掬(きく)し吞(のむ)べし、甚いさぎよし。盜人の棟梁を育て立(たて)し所なりといへども、彼(かの)貪泉(どんせん)のさたはあらず。水は攝州有馬の「皷(つづみ)の瀧」の如く、石澗(せきかん)只屛風を立たる如く、二曲三曲地下へ下(くだ)るが如し。第二曲の瀧坪は、其水底はかるべからずといふ。上より見る瀧なり、下より仰ぎ見る地はなし。此巖下に石菖(せきしやう)生ず。石ともに切り拔て携來(たづさへきた)り、夏中の希翫となす。是を切崩す事多けれども、一冬にして巖石又元のごとしと云ふ。爰の上の山を越ゆれば、片野・黑崎へ出づ。是を高保越と云ふ。

 大聖寺の家中菅野覺左衞門といふ人、夜中用事ありて此道を通りしに、山半ば上りてとある石をふみ据ゑけるに、何者とも知れず、後ろより返しに眞底(しんそこ)[やぶちゃん注:ここは「完全に」という副詞であろう。]向ふに引くり返し打臥せける。しかも背へ上ると覺えて、重さ限りなし。

「心得たり」

とはね返さんとすれども、大小[やぶちゃん注:刀。]をしかと取らへて起さず。

「何ものぞ、名乘れ名乘れ」

と云ひけれども、音もせず。

「こはむねんむねん」

と刎返(はねかへ)しけるが、刀をねぢまげ、鞘も碎け折れて、一時(いつとき)[やぶちゃん注:現在の二時間。]許りにて、漸(やうや)く

「えいや」

とはね返しけるが、上には何もなし。松風の梢をならし、谷の水の沈々たるのみ。我ひとり只にもだへおめきけん。

「もし人の見ば、よき狂人にこそ」

と、一人笑(ひとりわら)ひして立しが、されども刀の曲りたる體(てい)、鞘のひらけたる體[やぶちゃん注:国書刊行会本では『ひしげたる様』で、その方がいい。]たゞごととは見へず。覺左衞門もさしも武力(ぶりよく)の人なれども、大汗になつて、只空しく是より戾りける。此噂より後、夜中には人みだりに通らずと云ふ。

[やぶちゃん注:「熊坂村」現在、大聖寺に接して(北陸本線大聖寺駅も含まれる)南方に広がる石川県加賀市熊坂町(石川県の南の端。グーグル・マップ・データ。以下同じ。なお、そこから少し南に離れて、福井県のあわら市熊坂もあるが、ここは違う)と考えて以下、沢山、考証を重ねたのであるが、後で、この「石坂の瀧」のある山を越えれば、「片野・黑崎へ出づ」とあるので、仰天した。何故なら、片野はここ(加賀市片野町)、黒崎はその北に接したここ(加賀市黒崎町)だからだ。ということは、この「石坂の瀧」のある「熊坂」というのは、現在の熊坂町とは縁もゆかりもない、この辺り(グーグル・マップ・データ航空写真)、大聖寺市街の大聖寺川を越えた北西の丘陵を乗り越す手前附近になくてはならないことになるからである。現在の地区としては「熊坂」ではなく、西から大聖寺福田町・大聖寺畑町・大聖寺岡町などである。国土地理院図も参照されたい。しかし、ここを昔、遙か南の「熊坂」と同じ地名で呼んでいたとするのは如何にも信じ難い気がする。2020127日:追記】後の「石坂の瀧」の注の追記を必ず参照されたい。

「七里」地図を見るに、七里では二十七・五キロメートルで、これでは話にならないと思っていた。他書二本を見るとここは『七鄕』となっている。この方が正しいと思われる。但し、当該地の古い地域割りを見出すことは出来なかった(現在の「熊坂町」の方なら、南北に細長くてかなり広大であるから、七郷あってもおかしくない気はしないでもないが)。【2020127日:追記】後の「石坂の瀧」の注の追記を必ず参照されたい。

「長範」熊坂長範は平安末期にいたとされる伝説上の盗賊。室町後期に成立したと推定される幸若舞「烏帽子折」や謡曲「烏帽子折」「熊坂」などで初めて登場する。牛若丸(後の源義経)とともに奥州へ下る金売吉次の荷を狙って盗賊集団を率いて美濃青墓宿(又は美濃国赤坂宿)に襲ったが、逆に牛若丸に討たれたという設定になっている。参照したウィキの「熊坂長範」によれば、諸作の内容から見ると、いずれも、南北朝から室町初期に成立したと考えられている「義経記」に出る『越後の住人で』、『大薙刀を操る藤沢入道の記述を元に創作された可能性が』高いことが、既に『江戸時代から指摘されてい』たとある。但し、幸若舞「烏帽子折」で『自ら語るところによれば、越後との国境にある信濃国水内郡熊坂に生まれた』とするから、ここの「熊坂」(但し、前の注で述べた如く不審)を「出生の地」とするのはメジャーな伝承ではないと思われる

「石坂の瀧」不詳。国土地理院図で確認してみたが、当該地には滝らしきものは見当たらないし、ネットでもこの名では掛かってこない(現在あるかなり大きな「下福田貯水池」も新しいものではないかと思われる。なお、上記の通り、位置的に無効なのであるが、南方の熊坂町の南方のこの辺りの「牛ノ谷峠」の北直下の谷(ここだと後に出る「上より見る瀧」という謂いがマッチしそうには思われる)とその東方の尾根を隔てた谷辺りに滝があってもおかしくない気はする(国土地理院図)。但し、加賀市作成になる「加賀市歴史文化基本構想」PDF)の中に、「表 2-5 『加賀江沼志稿』に記される滝名」(「加賀江沼志稿」は弘化元(一八四四)年成立で、江沼郡の沿革・村名・社寺などに関する地誌である)という表に、熊坂領内の大聖寺水系(支流)にある滝として「石坂滝」が挙がっているから、かつては確かにあったし、或いは今もあるのかも知れない。しかし「熊坂領」とはやはり、加賀国江沼郡(現在の石川県加賀市熊坂町付近)に相当するのでこの話とは齟齬する。どうにも悩ましい限りなのである。識者の御教授を乞うものである。2020127日:追記】いつも情報を戴くT氏より地理考証を頂戴した。

   《引用開始》[やぶちゃん注:メールにやや手を加えさせて戴いた。]

 他書二本を見ると、ここは確かに『七鄕』とあります。「石川県江沼郡誌」の「第十七章 三木村の名蹟」の「○熊坂」に、

   *

〔江沼志稿〕

熊坂。石坂、出村、花房、吉岡、庄司谷、畑岡、北原、七村の惣名也。(以下略)

   *

とあり、また、同書のこちらに、

   *

○石坂瀧 熊坂に在り。北原部落より國道に岐れ[やぶちゃん注:「わかれ」。]、西南熊坂川の流に沿いて進めば、五六町にして至るべし。往時この附近に石坂部落ありしが、今僅に一戶を存するのみ。瀧は幅狭して[やぶちゃん注:「せまくして」。]高からず。且つ之を下瞰すべしといへども、溪間に下る能はざるが故に、鑑賞を擅にする[やぶちゃん注:「ほしいままにする。]こと能はず、されど水淸くして魚多きを以て、釣魚の淸遊を試みるに足る。

   *

とあって、そのあとに本篇が引用されてあります。

 石坂は明治末に消滅集落になったので、地図に現われません。場所は多分、国土地理院地図の北原より南東に山に入る谷筋

と思われます。

   《引用終了》

やはりそうか! ここでT氏が示された場所は私が一番最初に同定候補と考えた地区の一つだったのである。にしても、「爰の上の山を越ゆれば、片野・黑崎へ出づ」という謂いは、地理上、齟齬すること甚だしい。或いは、麦雀の原本にはこの前に脱文があったか? それをおかしいと感じながらも忠実に麦水が筆写したか? そんなことを夢想した。本文の地理的齟齬の不審が解消されないので、ややごちゃつくが、公開した際の注はそのままに示した。

「貪泉」中国は広州の十キロメートル手前にある「石門」という地に「貪泉」という湧水があったという。その名は「この水を飲むと、際限ない欲望の虜(とりこ)になってしまう」という言い伝えがあったという。ピカレスク長範を育んだ地の湧水なればこそと危ぶむ向きを否定したのである。但し、ウィキの「熊坂長範」には、『もとは仏のような正直者であったが』、七『歳のとき伯父の馬を盗んで市で売った。これが露見しなかった事に味を占め、以来』、『日本国中で盗みを働き、一度も不覚をとらなかったという』(幸若舞「烏帽子折」)とある。

『攝州有馬の「皷の瀧」』ここ。有馬温泉の「有馬六景」の一つに数えられる、六甲山北麓にあり、その清らかな水質で知られる。高さ八メートルの直瀑。名は滝壺に落ちる水音が鼓(つづみ)を打つかのように聞こえていたことに由来するが、昭和一三(一九三八)年の阪神大水害のときに滝が崩壊し、後に、二段の段瀑であったものを現在の直瀑に変更して修復したが、それ以来、嘗ての鼓のような滝音は消滅したとされる(ウィキの「鼓ヶ滝公園」に拠った)。

「石澗」山の岩の間を流れる水。

「石菖」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus。花は淡黄色で、春から初夏にかけて開花する。

「高保越」「加越能三州奇談」及び国書刊行会本ではここを「高尾越」とする。当該地には現在、西南と東北に二つのルートがある(県道百四十三号と、県道十九号から分岐した道)が、グーグル・マップ・データでみると、前者に「蛇越え 坂網猟場」という鴨猟の猟場はある。

「菅野覺左衞門」不詳。全くの同名で伊達藩士がいるが、別人であろう。

「よき狂人にこそ」「お笑いの種となる格好の狂人と見做されてしまうところだったわい!」。

「鞘のひらけたる」鞘が割れて開いている。「ひしげたる」ならば、「拉げる」で、押されて潰れるの謂いとなる。]

2020/01/24

三州奇談卷之一 中代の若狐

 

    中代の若狐

 大聖寺寶曆辰の大火[やぶちゃん注:宝暦十年庚辰(かのえたつ)の二月七日(グレゴリオ暦一七六〇年三月二十三日)。前の「蛙還呑ㇾ蛇」参照。]後、國君[やぶちゃん注:藩主。当時は加賀大聖寺藩第五代藩主前田利道(としみち)の治世。この大火を始めとして災害多く、藩の財政は逼迫した。]の惠み普く、町並もあらあら昔の形にも歸りぬ。所々の深山(みやま)の大木、家梁の用に當て、夫々役人立合拜領あり。町々も此木を伐(きる)事のみに懸りし。

 矢尾屋何某が家にも拜領の材木ありて、家僕三人差越(さしこし)ける中に、吉兵衞とて愚實至極の者ありし。

 所は山中の奧、桂谷[やぶちゃん注:現在の山中温泉の北東の後背の山地である石川県加賀市桂谷町(かつらたにまち)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう。]の木相當りけるにぞ、遙々中代畷手[やぶちゃん注:「なかだいなはて」。現在の加賀市中代町。]・黑瀨繩手[やぶちゃん注:「くろせなはて」。現在の加賀市黒瀬町。「なはて」は文字が異なるが、田圃の中の真っすぐな畦道を意味する。地名としてもよく用いられた。]を越えて過行くなれば、夜をこめて出るとて超過(おきすご)しけん[やぶちゃん注:夜半まで寝ずに起きていたのであろう、の意。]。丑の刻[やぶちゃん注:午前二時。]頃、彼(かの)道をたどりたどり行きしに、折節火繩[やぶちゃん注:檜の皮・竹の繊維・木綿糸などを縒 ()って縄を作り、これに硝石を吸収させたもので火持ちがよい。振り振りして持ち歩き、種々の点火に用いた。]の火さへ消え、はるけき野路のたばこさへなぐさまで、火打をさがし石をたゝきけれども、火出(いで)ざる事こそ、跡にて思ひ廻せば怪しけれ。

 かゝる所へ飛脚體(てい)の人と見えて二人連、飛脚提灯[やぶちゃん注:通常、長い竹竿の先に吊るしたかなり大型の小田原提灯。一般には「御用」と書かれてあった。]に火をともし、主人は黑羽織、下人は紺色なる單物(ひとへもの)を着て、先に行く程に、追付て』『先づたばこ火の渴(かつゑ)をやめばや』と、我知らず[やぶちゃん注:無意識に。]隨ひ行くに、皆々[やぶちゃん注:三人とも。]うかとするやうにぞ覺へたる[やぶちゃん注:その瞬間は、うっかりして特にその飛脚と主人らしき者を不審に思わなかった。]。

 吉兵衞は、日比靜かなる者なれば、心を付て窺ふに、灯も人もあやしく覺へける。實(げ)にも飛脚の此奧へ通ふべき理(ことわり)にもあらず。狐などの所爲にもやと能々みれば、主人はいかにも化(ばけ)おほせたりと覺へて、笠の着ぶり[やぶちゃん注:「かぶり」のと訓じておく]、羽織の體(てい)、人とも見へけるが、下人は曾て人とは見へず。時ありては大きなる尾の折々ひよろひよろと見えけるにぞ。

 連の者を[やぶちゃん注:「を」は格助詞。古くは格助詞「に」の代わりに用いた例が古代からある。]さゝやき、

「是ぞ日頃聞く中代畷手の狐成(なる)べし。よく見よ、下人に尾の見ゆるぞ」

といひけるに、二人の連も心を付て是を見るに、未だ化得ざる體(てい)の者にやありけん、頻に尾のひらひらと見ゆるほどに、三人思はず吹出し、聲をあげて、

「扨も淺ましき化け樣(やう)哉(かな)、下人は尾もみへ、足も人にあらず」

と笑ひしかば、主人驚きたる氣色にてふり歸りて、下人を叱る體に見えしが、忽ち二人ともに低くなりて、中代なは手を駈行(かけゆく)。

「あれあれ彼(か)の聞(きき)及びし中代狐ぞ、さてさて常に聞しにも似ず、下手なる化樣(ばけやう)ぞ、打殺せよや」

と三人共に追懸しが、いづくへか逃れけん、草隱れして見えず成けり。

 彼(かの)提燈と見へしものは打捨て走りしが、跡にても白く光り薄く、草むらに殘りけるよし咄しぬ。

「何にかありけん、取りて歸らばよき見物(みもの)にもあらん」

など云ひて興じけるが、此後(こののち)中代繩手狐の人をたぶらかす事はやみぬ。

「狐だも[やぶちゃん注:副助詞「だにも」の音変化。]化(ばけ)そんじたるを恥かしく思ふこ深きにや」

と沙汰せり。人として爰(ここ)にては方便の顯(あらは)れ、彼處にてもうその尾ははげても、猶厚顏に世を渡る。せめて此(この)野狐程にも耻を知れとぞ思ふ。

[やぶちゃん注:「方便」ある目的を達するための便宜上の手段。

 いやいや――酩酊してロシアと戦争しようと言いつつ「おっぱい」を連呼して金のために辞職しない変態変節極まりない丸山穂高、性的認識の異なる少数者を否定して国会で下劣な野次を飛ばしても一切釈明もしない下劣な優生学の亡霊杉田水脈、夫婦で「つるんで」公職選挙法違反を犯しておいて一切謝罪もない税金泥棒河井夫婦のような代議士連中よりも、この妖狐らは遙かにまっとうである――

2020/01/23

三州奇談卷之一 蛙還呑ㇾ蛇

 

    蛙還呑ㇾ蛇

 古人絃歌を聞(きき)て世の治亂・國の興亡を知る。倭漢に其例(ためし)少なからず。今も其應驗(わうげん)ありけれども、是を知る人まれにして、空く虛事(そらごと)のみを云傳ふ。或は目のあたりためしある物も、跡にてはとかくに云もてあつかふ。是今の世俗の常なり。世は澆季とはいふべからず。

[やぶちゃん注:「澆季」(げうき(ぎょう))の「澆」は「軽薄」、「季」は「末」の意で、 「道徳が衰えて乱れた世・世の終わり・末世」の意。未来の大事大変を予兆すべく超自然的現象が起こるということは、所謂、天神地祇の見放した世でも末法の世でも「ない」と言っているのであろう。]

 是につゐて[やぶちゃん注:ママ。]云ふにはあらざれども、近年大聖寺の火災度々(たびたび)なるうち、大火事の前年[やぶちゃん注:後の記載から宝暦九(一七五九)年となる。]のことにや、福田橋尼懸所道(ふくだばしあまかけしよみち)と云ふ所に、村何某(なにがし)新右衞門といふ頭役(とうやく)の人の屋敷前に、蛙の蛇を吞むとて、人々あやしみぬ。人行き至りて見るに、蛇は一尺五六寸[やぶちゃん注:四十五センチメートル半から四十八センチメートル半。]もやあらん、國言(くにことば)に「アヲナムサ」といふ蛇なり。蛙は常に見る蛙ながら、少しは大いなるものなり。彼(かの)蛇を半(なかば)吞みて互にいどみしが、一日一夜ありて蛙終(つい)に蛇を吞けり。傳へ聞く、「三足の蟾(ひきがへる)はよく蛇を制す」と聞えしが、是は夫(それ)にもあらず、常の蛙なり。大きなると云へども異常にはあらず。しかもらくに蛇を吞ぬ。人々あやしみしが、其砌(そのみぎり)はまた或所の垣の内にも斯(かく)の如き事ありしと云ふ。其外にも蛙の蛇を吞みける沙汰ありし。

「さては蛙も蛇を吞むことにこそ」

と常事(つねごと)の樣に云ひける。

 其頃、旅僧の來合せ居けるが云ひけるは、

「蛇・蛙共に水部に生を受(うけ)て、何(いづ)れも吞む理(ことわり/り)はありながら、大小の勢懸隔し、必(かならず)蛙が蛇に吞まるゝこと常理(じやうり)なり。然れども蛇は『兌(だ)』に形(かたち)し、『巽(そん)』に居る蛙は、『兌』の澤(たくには生ずれども、三角の體(からだ)圓形を供(そな)へて離火(りくわ)に屬す。火澤(くわたく)は必ず睽(けい/そむく)なり。澤水(たくすい)の中(うち)火氣映ず。故に蛙・蛇を吞の變あり。今の世、何の變害か有べきなれば、只火災にのみ此事預(あづか)るべし」

と云ひしが、果して翌年寶曆十年辰の二月七日[やぶちゃん注:庚辰(かのえたつ)年。グレゴリオ暦一七六〇年三月二十三日。]、大聖寺上口(かみぐち)袋町(ふくろまち)と云より火出て、中新道(なかしんだう)へぬけ、折節魔風はげしく、熖所々に飛びて、觀音町・魚屋町・東西關町・越前町・三ツ屋・五間丁(ごけんちやう)・一本橋町・中すじ通(とほり)・馬場町通り・京町通り・山田町通り・鍛冶町(かぢちやう)・荒町(あらまち)・寺町・法花坊・鷹匠町通・との町・福田町・中丁・八間道・新橋町通り・番場町・福田片町・新町・相生町(あひおふちやう)・土町(つちまち)、終に町を盡して福田上村迄忽ちに回祿して、殊に願成寺(ぐわんじやうじ)・毫攝寺(がうせつじ)・慶德寺(きやうとくじ)・福壽院等の伽藍、さも莊嚴(しやうごん)のかゞやきしも、一朝の焦土と成りぬ。

[やぶちゃん注:標題の「呑」はママ。本文は総て「吞」で異体字(現行では前者が使用される)。「蛙還呑ㇾ蛇」は「蛙、還(ひるがへ)りて蛇を呑む」と訓じておこう。読みの内、「理(ことわり/り)」は私が両様に読んだ(前者で読みたいが、後で「常理」が出るので音読みの可能性もあることに拠る)。「睽(けい/そむく)」は参考諸本で右に「けい」、左に「ソムク」という意注的ルビがあるのを再現した。地名は「近世奇談全集」のここ(ここで言っておくと同書はルビの歴史的仮名遣に誤りがよくある)及び現存する町名や記録類等を参考に附した。

「福田橋尼懸所道」「懸所」は東本願寺に於いて御朱印を受けるところで「掛所」とも表記する。西本願寺では「役所」「兼帯所」と言うらしい(「吉崎の逃穴」で既出既注)。「尼」とあるので、この懸所は尼僧が運営しているものか。「福田橋」は現在の同名の橋は石川県加賀市大聖寺福田町にある(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が、懸所の位置は不明であるが、この橋を通る通りの旧名であろう。

「村何某(なにがし)新右衞門」変わった表記である。当初は村名を敢えて省略したものと思ったが、諸本も皆同じであるから、意味としては姓に「村」の字が入るもの(村田など)かとも思われるのだが、普通、こんな書き方はしない。私は「何某(なにがし)」の誤字かミセケチ或いは誤判読ではないかと疑った。調べてみると、そう判じているのではないかと思しい本篇の紹介記事を見つけた。昭和四(一九二九)年五月十二日発行の『聖城公論』(「九谷焼研究」や「大聖寺藩史」など郷土史研究の著者である宮本謙吾氏が昭和三年から数年間発行していた新聞)第四十五号(加賀市による作成・PDF)の岩田心水氏の「旗山心水(二)」の記事である。

「頭役」大聖寺藩の役職者ともとれるし、また、この語には寺院に於いて講や仏事・法会を司る役の意もある。「屋敷」とあるからには前者か。

「アヲナムサ」柳田国男は「青大将の起源」(昭和七(一九三二)年四月発行『方言』初出)でこのアオダイショウ(有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora)の異名「青ナブサ」を渉猟して、最終的に、この異名(酷似した同型呼称が複数ある)はこの加賀だけでなく、『北は青森県の一端から、南は波照間(はてるま)の島まで拡がっている』とする(但し、これは本文の後の「追記」に出るもので、これは恐らくは単行本「西は何方」(戦後の昭和二三(一九四八)年六月甲文社刊)に再録された際に附したものであろう)。例えば、広島でもアオダイショウを「なむさ」と呼ぶことは、「広島大学」の「デジタル自然史博物館」のこちらでも確認出来る。則ち、これは地方方言というよりも、全国区であった可能性があることを柳田は示唆している。なお、彼によれば、「なぶさ」は本来は『平和なる蛇の名で、これには少しでも悪い響きはない』と述べている。

「三足の蟾(ひきがへる)はよく蛇を制す」「蟾」(ひきがえる)は一般的には本邦では現在は本邦固有種と考えられているヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus と考えてよい(以下の中国産は別種)。「三足」とは後足が一本の前足とで三本の蛙のことを指す。捕食されて欠損したものや奇形で幾らも自然界に実在はするが、中国では蝦蟇仙人(がませんにん)が使役する「青蛙神(せいあしん)」という霊獣(神獣)がこの三足だとされ、「青蛙将軍」「金華将軍」などとも呼ばれて、一本足で大金を掻き集める金運の福の神として現在も信仰されている。それを形象した置物も作られて売られている。私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」に、

   *

蟾、三足の者、有り。而れども、龜・鼈(すつぽん)にも、皆、三足有るときは、則ち、蟾の三足も怪しむに非ざるなり。蓋し、蟾蜍は土の精なり。上は月-魄(つき)に應じて、性、靈異たり。土に穴して蟲を食ふ。又、山精を伏し、蜈蚣(むかで)を制す。故に、能く陽明經(ようめいけい)に入りて虛熱を退け、濕氣を行(めぐら)し、蟲𧏾(ちゆうじつ)を殺す。而して、疳病・癰疽(ようそ)・諸瘡の要藥と爲す。五月五日、東へ行く者を取りて、陰乾しにして用ふ。

   *

とある。リンク先で語注もしてあるので参照されたい。また同書には「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 田父(へびくいがえる)」の独立項もあるので合わせて読まれたい。

「常事(つねごと)」「当たり前・当然のこと」の謂い。半可通な輩に限って、よく言いそうである。

「旅僧」この行脚僧を装った怪しげな僧である。以下に語られるのは中国の道教思想にかぶれた者が言いそうなことである。

「何れも吞む理」蛙や蛇は孰れも獲物を丸のみにする性質がままあるという謂い。実際の生態学上では必ずしもそうではない。蛇は歯があり、獲物を食い千切ることはある。

「『兌(だ)』に形(かたち)し」「兌」は八卦の一つ。一番上だけが陰爻(けい)(易に於いて陽爻は一本線、陰爻は中心が欠けた二線になる。陽爻が「男性的」「剛健」「動く」「日向」などを表すのに対し、陰爻は「女性的」「従順」「止まる」「日陰」などの意味合いがある。易では、この陰と陽に分けた二つの爻を用いて卦を作る)のもの。自然界では「沢」、卦徳は「悦」、人では「少女」、属性は「金」、身体では「口」、易数は偶数の「二」(奇数の劣る)、方角では「西」を表わすシンボルである。

「巽(そん)」八卦の一つで一番下だけが陰爻のもの。自然界では「風」、卦徳(八卦の持つ基本的な特徴を表したものの一つ)は「入」、人では「長女」、属性は「木」、身体では「股」、易数は「五」、方角では「東南」を表わす。

「澤」水辺・水に関わる場所。但し、実際の蛇類は必ずしも水域に限定棲息はしない。

「三角の體」頭部の形状であろう。

「離火」輝く「火」。よく分からぬ。判ったように解説するこちらをどうぞ。個人的には「五経」の中で最も興味のないものが「易経」であるので、悪しからず。

「火澤」同前。こちらでヴィジュアルに説明されてある。

「睽(けい/そむく)」こちらで『火沢睽は、上に昇ろうとする「火」に対し、下に下がろうとする「沢」、さらにそむくという意味を持つ「睽」で構成されています。これは、反発し合ったり、うんざりするといった暗示と言えるでしょう。気に入らないことが多い運気でもあるでしょう。ただ、敵対意識を持つことで、向上できる意味も隠されています』とある。これ以上、語る意欲はない。

「澤水(たくすい)の中(うち)火氣映ず。故に蛙・蛇を吞の變あり」私には論理的整合性があるようには全く思われない。

「變害」天変地異及び騒乱。

「大聖寺上口(かみぐち)袋町(ふくろまち)」出火もととして一ヶ所の地名のように出るのであるが、「大聖寺上口」とは越前への通路で、中町から越前町・関町に通じ、関所が設けられていた場所である。次の注の附近と考えられる。「袋町」は現存しない。

「中新道」ここ

「觀音町」ここ以下、現行町名と一致す場所で示す。場合によってはその一帯及び周辺と考えられたい。素敵なことに以下の旧町名は殆どが現存する。以下、実はやるつもりはなかったが(どうせ誰も読まないからでもある)、やっぱり最低の僕の節は守った。

「魚屋町」ここであろう。

「東西關町」この付近

「越前町」ここ

「三ツ屋」ここ

「五間丁」大聖寺五軒町か。

「一本橋町」ここ

「中すじ通」不詳。前後の位置のそばではあろう。

「馬場町通り」この付近

「京町通り」この付近

「山田町通り」この付近

「鍛冶町」ここ

「荒町」ここ

「寺町」ここ

「法花坊」ここ。現行は法華坊町。別本では「法華坊」とある。

「鷹匠町通」この付近

「との町」殿町でここ

「福田町」ここ。現行ではかなり北に飛び地がある。

「中丁」ここ

「八間道」ここ。町名として実在する。

「新橋町通り」この一帯。現在は西に飛び地がある。

「番場町」ここ

「福田片町」この周辺

「新町」ここ

「相生町」ここ

「土町」不詳。

「福田上村」現在の大聖寺福田町か?

「願成寺」ここ。鍛冶町内。浄土真宗大谷派。

「毫攝寺」ここ。浄土真宗出雲路派。

「慶德寺」ここ。浄土真宗大谷派。

「福壽院」確認出来ない。現存しないか、寺名を変更したのかも知れない。この寺の名は私の経験上は浄土真宗ではないかなと思う。]

三州奇談卷之一 蘇子有ㇾ驗

 

    蘇子有ㇾ驗

 加州大聖寺に中野屋九兵衞と云ふ者あり。生質(うまれつき)强慾無慈悲にて神佛を輕(かろん)じ、罪業を恐るゝ事、夢許りもなし。利德のみに世を過しける。其報(むくひ)にや。子息九右衞門と云ふは、少しく慈悲も知り、生れ付朋友にも交りむつまじく、少しは親九兵衞が不仁義も是が爲にいひやむべきさま成しが、廿八の年(とし)世を早うして、又九兵衞が家内を取捌(とりさば)く。是にも無常は起らず、只今の利德のみに目をはたらかして、そろ盤の音を念珠ほどに所作とし暮しけるが、連合(つれあひ)の妻もほどなく死し、九右衞門の子安右衞門とて有しが、是も程なく死失(しにうせ)ける。

[やぶちゃん注:「少しは親九兵衞が不仁義も是が爲にいひやむべきさま成しが」「人徳のある息子のお蔭で、表向きは少なくとも親に対する批判を正面切って口にするものはあまりいないようであったが」の意であろう。

「無常は起らず」「商売から手を引いて楽隠居しても、現世で利を求めることの無常なることを悟る気持ちもまるっきり起らず」の謂いであろう。ただ、中野屋の商売が何であったかを記さぬのは話としては手落ちであろうと思う。]

 かゝる愁傷の打つゞきけるに、近隣にも

「中野屋の遠慮は常住事(じやうぢゆうごと)なり」

[やぶちゃん注:これは難しい。誹謗であることは判るが、それが迂遠な表現でなされてある。「遠慮」は「遠謀」でここでは「現世での利益のことのみについて先まで考え巡らすこと」を指し、「常住事」は前の「無常」に洒落たもので、「そうした我利我利亡者の性質(たち)は生きている間中、変わらない」、即ち、「馬鹿は死んでも治らない」的な謂いと私はとる。以下の続きから、この遠回しな批判は久兵衛の耳にも入ったもののようである。]

と云なしける。然共(しかれども)九兵衞、

「只是は浮世の常、驚くべきにも非ず」

と、いよいよ利德のみに眼を光らしけるが、今は只孫の中(うと)にても末の子なる左四郞と云ふもの一人のみぞ殘りける。是を夕に日に愛し暮しけるが、寶曆十二年[やぶちゃん注:一七六三年。]正月八日に、又此左四郞も不許(ふと)心地煩しが、忽ちに死(しに)けり。九兵衞、例(れい)の事に思ひ、少しも歎かず、手早く旦那寺に人を走らせ、忌中簾を下(くだ)し、悔帳(くやみちやう)店先に直し、近隣の人にも告渡(つげわた)りける。

[やぶちゃん注:「例(れい)の事に思ひ」日常に生ずる出来事の一つとして認識し。

「悔帳」通夜に参った者の来訪と香典(彼はこれが目当て)を記す帳面であろう。「直し」はその帳面をしかるべき場所に改めて置き据えるの謂い。]

 此他の習(ならひ)にて、一族親友打寄て野送りの葬具を拵(こしらへ)る事、家每の例(ためし)なれば、其親しきどち寄合(よりあひ)て、花を拵へ、菓子を積み、桶をはりなんどしけるに、九日の夜八ツ過(すぎ)[やぶちゃん注:午前二時(丑三つ)過ぎ。]の事にや、沐俗もさせ、小袖を逆樣にきせ、香華を備へ置ける亡者、折々に

「むくむく」

と起上る氣色(けしき)見へし程に、其夜詰居(つめゐ)たるは、豐田庄右衞門と云ふ足輕の役人、妻の一族にて居合(ゐあはせ)けるが、

「心得がたき事なり、二日二夜が間、死したる者の動くべき理(ことわり)なし。狐狸のわざならんには、猶更見屆(みとどけ)たきことなり」

とて、上の衣を打返して見たりけるに、少し息出で、手と胸の間にあたゝまり出來(いできた)りければ、

「扨は蘇生する」

とて、聲を出して

「左四郞左四郞」

と呼に、邊りの者も立騷ぎ、頻(しきり)に呼返しければ、

「うん」

と息を吹返して蘇生し、邊りの體(てい)を見て驚きながら、漸々(やうやう)に心を靜めて湯漬(ゆづけ)を好みける程に、人々忽ち悅びに引かへ、枕邊の人、俄に上下(かみしも)を脫捨(ぬぎすて)、僧を戾し、佛前を仕まひなど賑(にぎは)ひて、取持の者[やぶちゃん注:葬儀の接待に当たるためにいた者。]酒肴を好み出し、

「扨(さて)野送りの葬具は例のしわき親仁の事なれば、其元(そこもと)の時の分(ぶん)に取て置き給へ、跡は目出度祝ふぞ」

と、葬場の鱈汁前代未聞の一興にて有しと、其比の沙汰なり。

[やぶちゃん注:「其元(そこもと)」祖父吝嗇屋(しわきや)、基! 中野屋九兵衛を指すものであろう。ここ、左四郎の年齢が示されないのも恨みがある。かなり若いはずであるが、その彼がこの台詞や以下の記憶を語るには、ちと若過ぎるのでは異様とも言えるが、それはそれでまた面白いと思うのだが。]

 其後(そののち)左四郞人々にいひけるは、

「扨も扨も有難き所へ行居(ゆきゐ)たりし物かな。忘れぬ内に語らん」

とて、

「我、只寢入るが如く沈み入(いる)やうに覺えけるうちに、茫然として廣き所に行くともなく、一つの寺あり、結構[やぶちゃん注:寺の作りのこと。]云ふ計りなし。いづくともなく薰(かぐは)しき匂ひありて、有難く覺へ斤彳(たたず)みける。一人の御僧、美くしき顏(かんばせ)うるはしき衣にて手に鉢を持ち、さも奇麗なる菓子を盛りて通り給ふに、何となく此僧に隨ひ行べき心付きて、跡へ附きて寺院に入らんとするに、頻に其菓子一つ喰たきことやまず。然共餘り結構[やぶちゃん注:この場合はその僧の様子が極めて真面目であったことを指すのであろう。]に見へたる故、さも云ひ難くためらふうち、此御僧ふり向き、此菓子を一つあたへられ、嬉しさ限りなく、頓(やが)て食(たふ)べけるに、類ひなき味にぞ覺えける。今猶口の中あまきこと絕へず。僧の宣ひけるは、

『此門の中へ入べし、第三番目の堂にこそ、汝を尋(たづぬ)る人はあるなるものを』

と差しおしへ[やぶちゃん注:ママ。]給ひて立去り給ふにぞ、敎の儘に堂に行きければ、内よりもゆかしと聞えて立出給ふ人を見れば、別れて久しき祖母上と兄安右衞門となり。『是は是は』

と驚きければ、

『汝今度(このたび)は歸り行くべし、頓て逢見るべし』

となつかしげに撫廻し、弄(もてあそ)び給ふ。

『我は御僧に逢ひ此所(このところ)を習ひて尋來りぬ。菓子も與へ給ふぞ。うまきことにて侍りし。爰にもあらばたまへよ』

と云ひけるに、二人ともに打しほれ、

『汝は果報者にて其御菓子をもらひ侍る。我は善所(ぜんしよ)に有りといへども、跡に訪(と)ひ弔(とぶら)ひもなく、僧尼に施しもなき故に、目のあたり見ゆれども手に取ること能はず。斯く如くして久しく年を經れば、自(おのづか)ら慾心の基(もとゐ)と成りて惡趣にかはると、御僧の折々しめし給ふ有がたさに、けふ迄此菓子を得ざるなり。汝歸らば、此事を語りて、祖父君に施物も出し給へと吳々(くれぐれ)語れ』

[やぶちゃん注:国書刊行会本では最後の部分は「祖父君に何とぞ慈悲の心を以て世を立て、寺々へ寄進として施物も出し給ふと、吳々もかたれ』となっている。]

と示し給ひて

『早々外へ出(いづ)べし』

と、手を取て、寺門を押出さるゝやうに覺えしが、茫然として心付きたれども、何とやらんあたりの體(てい)心元なくうつゝのやうに覺えしに、呼(よば)はり給ふ聲を力にしかと心付たり。

『扨は蘇生して侍るか』

と、我も驚きながら、其後は題目のみ申す。御約束あれば參るものぞ」

とのみ云ひしが、程なく正月二十二日に再び實の死を遂ける。

[やぶちゃん注:実質、蘇生は十日未明であるから、蘇生期間は僅かに十三日間であったことになる。なお、「題目」とあるからこの家は日蓮宗であったことが判る。]

 かゝるまのあたりなるを見るにつけ、此世の樣を「さても」と驚くべきことなるに、此九兵衞、猶更驚かずして打過(うちすぎ)しが、或夜、殊の外苦しみける樣子に見えし。何にてか有けん、其後心急にあらたまり、自身にも懺悔(さんげ)して走り廻られける。猶末世を捨(すつ)るには及ばざれども、頓て千日寺參にも出べき志のよし、此程の取沙汰なり。

[やぶちゃん注:標題は「蘇子有ㇾ驗」「蘇(よみがへ)りし子、驗(しるし)有り」と訓じておく。この場合の「驗」は左四郎のあの世での奇異玄妙なる体験談と祖父への諌め、かくしてやっと最後の最後で九兵衛が改心することをまで含むものであろう。

 左四郎の葬儀の冒頭で「小袖を逆樣にきせ」とあるが、これは葬送儀礼の一つである「逆さ事(ごと)」の一つである「逆さ着物」のこと。遺体に死に装束を着せた後、死者が生前好きだった自身の着物をその上に被せる習俗が地方によってあり、この際には上下を逆にして襟元を故人の脚側へ、裾を故人の首元へ向けて被せるのである。特定の宗派とは無関係な古い習俗と思われ、死者の行く世界が現在の我々の世界とは逆(例えば昼夜が)であると考えたことに由来するともされる。但し、私は寧ろ、死者の魂の抜けた骸(むくろ)に邪悪な霊が入り込み、ゾンビのように再生することを阻止する一つの手段というのが本源ではないかと考えている。衣服は魂を包んでいたものとして聖的な呪力を持つからである。例えば、臨終の前後に屋根に上がって西の空に向かって当該人物の名を呼びながら、その人の着物を振って魂呼びをする習慣がやはり地方によってはあるのもその証左である。]

三州奇談卷之一 小野の老翁

 

    小野の老翁

 享保の末年の事にや、大聖寺の家士坂井數右衞門と云人は、年四十餘、武藝にも委(くはし)く、心も落付きたる沈勇の士といふべし。此家中の風俗、武事の爲にやあらん、夜と共に鳥狩(とがり)に出ること家業の如く、我一(われいち)と得物をあらそふ程に、人を誘ふことはなく、只一人出ることにぞ侍る。

 頃は冬枯の蔦かづら、枯葉ほろほろと松を下り、哀猿聲かれて、月さへ殊に足はやく入て、道たどたどしき町はづれを、此坂井氏も只獨り、夜半過とおもふ頃、しかも木下闇のさすとも知れぬ小野坂といふ山道に步み懸りけるに、向うへ行く人有り。灯を燈したる體(てい)故、

『我より先に行く人こそあんなれ、追付て誰ならんと見るべきものを』

と、頻に步みを早め行けば、此灯も又早く步(あゆみ)去る。立どまれば、又立とまる體なり。爰(ここ)にて心を付(つけ)てよくみれば、提灯・小行燈(こあんどん)などの灯にはあらず。只かゞやくけしき、星などの下(くだ)りたる類ひにぞ思はれける。

 いかにもあやしく、

「是非追付て眞性(しんしやう)を見ばや」

と、刀をくつろげ力に任せて進み行き、山の廻れる所にて、近々と追付き、急に高邊(たかきあたり)より下りて指覗(さしのぞ)けば、いか樣(さま)年の程九十許にもやと思ふ老翁の、手に玉(たま)をすゑ行き、此玉よりかゞやく光にぞ侍りける。後ろにも又人影の樣に見えける儘、其顏も見屆たくて、急に走り寄り指覗けば、後ろにも同じ年頃の老婆と見えけるに、後(うしろ)よりのびあがり、先へ行(ゆく)翁の持(もち)たる玉を

「ふつ」

と吹消すと見えしが、忽ち眞の黑闇(くらやみ)と成りて、一步も見えわかず。又二人の老人ども寂として聲なく、又いづくに去ることを知らず。

 或人云ふ、

「火を消したるは老婆が深切なり。是は、妖は正にして人は邪なり。玉光の老翁歸らば、必ず此事をあの方(はう)の奇談に留(とどめ)て、『怪に逢し』とは記し置成(おくなる)べし」。

[やぶちゃん注:「享保の末年」享保は二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日)に元文に改元している。一般に改元した場合は前の年号部分も含めて新しい年号で呼ぶことが多いし、後で「冬」と言っているからには、享保二十年の末のことととるべきであろう。

「坂井數右衞門」不詳。

「沈勇」沈着冷静でしかも勇気があること。

「鳥狩(とがり)」通常は鷹を使って鳥を狩ることを指す。2020127日:削除・追記】T氏よりメールを戴いた。T氏はこの『「鳥狩」は、「鷹を使って鳥を狩る」ではなく、網(霞網)・谷切網・はり網・袋網等を使う猟ではないでしょうか?』とされ、『優雅』というか『まどろこしい』しょぼくさい小規模な『網ではなく、もう少し大量捕獲』を目的とした『野蛮な』、『夜中に鳥を驚かせて飛び立つと』、『網にかかるような網猟ではないでしょうか? 少し西に「坂網猟場」もあります』から、とのこと。実は私自身、『夜間の鳥猟で鷹はないかも』と内心思っていた。納得である。

「小野坂」現在の大聖寺市街の北の石川県加賀市内の小野坂隧道附近かと思われる。

「星などの下りたる類ひ」比喩。

「眞性(しんしやう)」正体。

「刀をくつろげ」いつでも刀を抜けるようにして。

「後ろにも又人影の樣に見えける儘」老人の背後にも別な人影のようなものが見えたによって。

『後ろにも同じ年頃の老婆と見えけるに、後(うしろ)よりのびあがり、先へ行(ゆく)翁の持(もち)たる玉を「ふつ」と吹消す』このシークエンスが本篇怪異の肝(キモ)である。

「火を消したるは老婆が深切なり。是は、妖は正にして人は邪なり。玉光の老翁歸らば、必ず此事をあの方(はう)の奇談に留(とどめ)て、『怪に逢し』とは記し置成(おくなる)べし」極めて変わったエンディングである。翁と老婆はやはり「妖怪」なのだが、この人物に言わせると、彼ら妖怪らの方が正しい異界の存在であり、彼らにとっては坂井を含めた人間が「邪」、よこしまな存在であると謂うのである。老婆が見越入道のように延び上がって翁の玉の光を吹き消したのは、恐らく坂井数右衛門に対する親切であって、そのままでは坂井が異界へと踏み込んで取り返しのつかぬ事態になることを謂っているように私は思う。それに添えて、異界へと帰った翁は異界世界での本書のような「奇談集」に「かくかくしかじかの怪異に逢った」と逆に坂井との遭遇を「奇談」として記したことであろう、というのである。若干、本奇談集を逆手にとった楽屋落ち的な話ではある。]

2020/01/22

ラフカディオ・ハーン Ming-Y 秀才の話 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Story of Ming-Y”。平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)では原拠(本文中の私の注で後述)に則り、『孟沂(もうぎ)の話』となっている)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の第二話。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。「!」の後には字空けはないが、一部で特異的に挿入した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで「黒松使者」)。しかしこれは漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるものであるが、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思って、かくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 

   Ming-Y 秀才の話

 

   詩人Tching‐Kou は歌つた。『Sie-Thao の墓の上には、必らず桃の花が咲く』

[やぶちゃん注:以上の三字下げはママ。平井呈一氏は上記訳本で、

   《引用開始》

 詩人鄭谷が諷っている。「桃花マサニ開ク薛濤(せつとう)ノ墳」

   《引用終了》

「諷っている」は「うたっている」。「鄭谷」(ていこく 八四二年?~九一〇年?)は晩唐の詩人。宜春 (江西省) の人。八八七年に進士に及第し、官位は都官郎中に至った。字(あざな)は守愚。幼少の時から才名が高く、七歳で作詩したと伝えられる。清新な詩風で。写景・抒情に優れる。七言律詩「鷓鴣 (しゃこ)」がとみに知られ、そこから「鄭鷓鴣」とも呼ばれた。詩集に「雲台編」(全三巻) がある。引用は七言律詩「蜀中三首 其三」の第二句。「漢文委員会」の「紀頌之の漢詩ブログ」のこちらで全文と現代語訳が読める。「薛濤」(七七〇年?~八三〇年?)は知られた中唐の女流詩人。字は洪度。長安の良家の出身であったと言われるが、父が任地の蜀で死んだために妓女となった。詩才により、歴代の地方長官から愛顧され、また元稹・白居易・劉禹錫といった当代一流の詩人らとも交遊があったとされる。八一四) 年に浣花渓に隠棲した。魚玄機とともに唐代女流詩人の双璧とされる。現行の中国語では薛濤は「Xuē Tāo」であるが、次の段落に出る「美しき Sie-Thao」の「Sie-Thao」は彼女のことである。

 なお、原本を見ていただくと判る通り、これは添え字(斜体となっている)として挿入されたものである。

 さらに言っておくと、上記原本画像を見ると、判る通り、本篇の冒頭の前には(左ページ)、

   *

 

THE ANCIENT WORDS OF KOUEI — MASTER OF MUSICIANS

   IN THE COURTS OF THE EMPEROR YAO:—

 

   When ye make to resound the stone melodious, the

Ming-Khieou,—

   When ye touch the lyre that is called Kin, or the

guitar that is called Ssé,—

   Accompanying their sound with song,—

   Then do the grandfather and the father return;

   Then do the ghosts of the ancestors come to hear.

 

   *

という添え字が認められるが、落合氏はこれをカットしている。因みに、平井呈一氏も訳していない。思うにこれは、中国古代の理想的聖王の一人である「Yao」(現代中国語:Yáo)=堯(ぎょう)を讃えたものと思われる。何を元にしたのかは判らぬが、所謂、堯の伝承の一つである「鼓腹撃壌」(堯の時代に一老人が腹鼓を打って大地を踏み鳴らしては太平の世への満足の気持ちを歌ったという「十八史略」等に見える故事)に通底している内容と読める。一部の中国語ラテン文字転写がよく分からぬが(後注でその正体を示した)、それをごまかして力技で訳してみると、

   *

 

古代のいやさかの詞(ことば)――堯帝の宮廷に於ける伶人たちによる

 

    あなたが石の楽器「ミィン・キュウ」をメロディアスに響かせたとき、

    あなたが「キン」と呼ばれる琴、或いは「ススゥ」と呼ばれるギターをつま弾いたとき、

    それらの音(ね)に歌を添えると、

    それにつれて、祖父と父が帰って来、

    それにつれて、先祖の魂が聴きに来ます。

 

   *

石の楽器「ミィン・キュウ」というのは磬(けい)のことのようにも感じられ、「ススゥ」は不明だが、阮咸(げんかん)琵琶か月琴のようなものであろうか。カットされたのは本篇内容と関係がないからであろうが、訳者としては不当な越権行為である。落合氏は他でもこうした恣意的行動をとっている。

 讀者は彼女――美しき Sie-Thao ――は誰のことだかと私に尋ねるだらう。彼女の石の寢床の上では、既に千年以上も樹木が低語いてゐる。して、彼女の名の綴音は、木の葉のさらさらいふ音に伴はれて、多くの指を有する樹枝の戰くにつれ、明暗の翺翔につれ、數限りなき野花の、女の呼吸の如く芳ばしき息と共に、聽者の耳に達する。が、彼女の名を囁くばかりで、その外に樹木の語ることは解らない。また樹木のみが Sie-Thao の年齡を知つてゐる。しかし彼女については、かの講古人――僅々數錢の報酬を得て、謹聽する群衆に向つて、每夜古い物語を話す有名な支那の講談師――の誰からでも、幾分を聽くことが出來る。『今古奇觀』と題する書からも幾許を知ることが出來る。して、恐らくは該書に載つてゐる話の中で、最も驚くべきは、このSie-Thao の物語である――

[やぶちゃん注:「低語いてゐる」「さやめている」と訓じておく。「ざわざわと音をたてている」の意。

「翺翔」(かうしやう(こうしょう))は本来は「鳥が空高く飛ぶこと」或いは「思いのままに振る舞うこと」の意であるが、ここは陽光の気儘に射すことの擬人化。

「聽者」「きくもの」と訓じておく。

「今古奇觀」(きんこきくわん(きんこきかん))は明代の短編小説集(全四十編)。作者は「抱甕(ほうおう)老人」とするが不詳。明代末の成立と推定されている。最後のハーンの解説にある通り、本篇が素材とした原話は同書の「第三十四巻 女秀才移花接木元」である。中文ウィキソースのこちらで全文が読める。

 五百年前、明の孝宗皇帝の治世に、廣州府に Tien-Pelou といふ博學と恭敬を以て著はれた人がゐた。この人には美しい獨り息子があつたが、これ亦學問技藝並びに風采の優雅に於て、儕輩に比ぶものがなかつた。彼の名は Ming-Y といつた。

[やぶちゃん注:「明の孝宗皇帝の治世」第十代皇帝である弘治(こうち)帝。在位は一四八七年から一五〇五年まで。

「廣州府」現在の広東省広州市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

Tien-Pelou」原拠「古今奇観」に従えば「田百祿」である。なお、ここまでもそうだが、ハーンの中国語のラテン文字表記は現行の表記とは孰れも激しく異なる。但し、いちいちそれは指摘しないこととする。これは本底本の落合氏の「あとがき」の「支那怪談」によれば、自分(落合氏)には中国語の知識が全くないため、このラテン文字表記された中国語を何とか漢字表記に換えようとして、日本の『專門の諸人を煩はし、中華民國靑年會の人々に質ね、支那留学生に問ひ、苦心と奔走を重ねたのであるが、得る處は甚だ乏しかった』とされつつ、『それもその筈、本書は半世紀前の』フランスの『支那學先輩の著譯に據つたので』あって、フランスの『學者は南淸の無敎育者の口から耳にしたま〻の發音を』、フランス『語の綴りにて表現』したものが『多く、『北京官話を學べる邦人には解し難』いだけでなく、これは中国語の激しい変異を持つ地方語に精通している中国人にさえも、実は『見當がつかない』異様な『譯である』と、原表記をそのまま用いたことについての弁解をされているのである。しかし、ハーンの解説によって原拠は概ね明らかにされているわけであるから、原拠と照合すれば、かなりの箇所が漢字表記変換出来たはずなのであるが、落合氏は「あとがき」で、その時間がなかった、というようなことをさらに添えておられる。しかし、中身は拾い読みであったが、私は本篇の原拠である「今古奇観」を大学生の時に知っていた。中国文学専攻の学生ならまず知っている作品集であり、いやさ、国文学の学生でも江戸文学にも多大な影響を与えている作品であるからして知っていて当然である。そういい意味でちょっと真面目な学生なら、その「第三十四巻 女秀才移花接木元」の資料やメモを即座に落合氏に提供するだろう。その辺りがどうも不審で、かなり不満が残るところなのである(但し、事実、校了まで時間がなく、一部が漢字に変換できなかったとすれば、却って全篇全部をかく表記せざるを得なかった――一部が漢字表記で一部がローマ字というのは確かに翻訳の美学としてはいただけないとは言える――というのであれば、やや納得は出来る)。されば、本作品集全体を通じて、私は原拠と思われるもの及び平井呈一氏の訳から、可能な限り、漢字表記を注で復元しようと思う。

「著はれた」「あらはれた」。知られた。

「儕輩」「さいはい」。同輩。]

 この靑年が十八の歲を迎へたときに、父の Pelou Tching-tou の市の督學官に命ぜられたので、Ming-Y は父に伴はれて、そこへ赴くこととなつた。市の附近に、Tchang といつて、政府の特別高等なる委員を務め、富貴の身分の人があつた。この人は子弟のために良師を求めてゐた。新任督學官の到着を聞いて、この件について相談しようと思つて、Tchang は親しく彼を訪ねた。すると、たまたま彼の才藝に長ぜる息子に逢つて、談話を交はしたので、早速子供達のために Ming-Y を家庭敎師として招聘した。

[やぶちゃん注:「Tching-tou」原拠「古今奇観」に従えば「成都」、現在の四川省の省都チョンツーである。ここ

「督學官」原拠では「敎官」。教育行政監察官で日本の旧視学官相当の役である。

Tchang」原拠「古今奇観」に従えば「張」である。]

 さてこの Tchang 卿の邸は、市から數里を隔つてゐるので、Ming-Y はその聘せられたる家に、寄寓するのが、得策であつた。そこで、靑年は始めての淹留のため、一切必要の品を調へた。して、兩親は彼に別を告げるに當つて、賢い訓誡を與へ、老子並ぴに古聖の言を引用して彼に說いた。

[やぶちゃん注:「數里」原文は“several miles”。一マイルは千六十九メートル。明代の一里は五百五十九・八メートル。但し、原拠には距離は示されていない。後のシークエンスで夜出て、翌朝には帰れる距離であるように書かれてあるから、寧ろ、マイルで換算した方が(六掛けで十キロメートル弱)自然である。

「淹留」(えんりう(えんりゅう))は「長く同じ場所にとどまること」。「滞在」に同じい。]

 『美しい顏によつて、世界は愛に滿たもれる。しかし天はそれによつて決して欺かれるものではない。汝もし婦人が東から來るのを見たならば、西の方を見るがよい。もし少女が西から近寄つてくるのを認めたならば、汝の兩眼を東方に轉ずるがよい』

 後日に及んで、靑年がこの訓誡を注意しなかつたにしても、それはただ彼の若さと、生來愉快なる心の無思慮のためであつた。

 かくて、彼は出立して行つて、Tchang 卿の邸に起臥することとなつた。その中に秋が過ぎ、それから、また冬も去つた。

 

 春の二月になつて、支那人が『花朝』と呼んでゐて、百花の誕生日なる、芽出度い日が近づいた時に、Ming-Y の胸には兩親に逢つて見ようといふ眷戀の情が起こつた。そこで彼は Tchang 氏に其心を打明けた。主人は啻に許可を與へたばかりでなく、また銀二兩を强ひて彼の手に握らせた。それは『花朝』の祝節には、親戚朋友に進物を贈るのが、支那の慣習であるから、靑年をして兩親に何かの土產を持つて歸らせようと思つたのであつた。

[やぶちゃん注:「花朝」或いは「百花生日」「花神節」とも呼び、中国古代からあった伝統的な年中行事の一つ。節日は歴代王朝や地域によって異なったが、普通は旧暦二月十二日か十五日であった。その内容も花の種を蒔いたり、美しさを愛でたりなど、地方によって様々である(四方に広大で気候帯も寒帯から亜熱帯までであるから咲く花も開く日も大きく異なるから当然である)。明代の馬中錫は「宣府志」で、「花朝節、城中婦女剪彩爲花、插之鬓髻、以爲應節」(花朝節には、城内の女性たちが美花を剪(き)って髪に挿し、万物到来の春を言祝ぐ節句とする)と記す(中文ウィキの「花朝節」を参考にした)。

「眷戀」(けんれん)は「愛着の思いに惹かれること・恋い焦がれること」の意。

「啻に」「ただに」。]

 その日、空氣は花の香で眠氣を催すやうで、また蜂の唸り聲で振動してゐた。Ming-Y に取つては、彼が今通つて行く道は、多年の間、誰人も踏んだことがないやうに思はれた。草は路上に高く茂つて、兩側の巨樹は、彼の頭上に苔の生えた、大きな腕を交はし、道に暗い陰を作つてゐた。しかし葉陰は鳥の歌でそよそよと搖れ、森の深い奧は黃金色の蒸氣で輝き、寺院が抹香に薰ずる如くに、花の呼吸で芳ばしかつた。この日の夢みる如き樂しさは、靑年の心に浸み込んだ。して、彼は靑紫色の空高く搖れてゐる樹枝の下で、若い草花の中へ身を憇はせ[やぶちゃん注:「いこはせ」。「憩」の異体字。]、芳香と光を吸ひ、心地よき靜閑さを味はうとした。かやうに休息してゐる際、或る物音が彼をして野桃の花呪咲く陰の方に眼を向けしめた。すると、彼は淡紅色の花の如くあてやかな妙齡の一婦人が、花叢[やぶちゃん注:「はなむら」。]の裡に隱れようとしてゐるのを看た。僅かに一瞬間の管見であつたけれども、靑年は彼女の顏の美しさ、彼女の肌の黃金のやうな淸らかさ、蠶蛾[やぶちゃん注:「かひこが」。]が翼を伸ばした如く、優美な曲線を描ける眉毛の下に輝く彼女の長い明眸を認めざるを得なかつた。靑年は直ちに視線を轉じて、急に立上つて、行進を續けた。が、彼は木の葉の間から覗いた雙眸の魅惑的な印象に痛く惱まされたので、覺えず彼の袖に入れてゐた銀貨を落としたほどであつた。數分間の後、彼は背後から走つて來る、輕い跫音と、彼の名を呼ぶ女の聲を聞いた。非常に驚いて彼の顏を振向けると、彼は風采賤しからぬ侍婢を見た。その女は『私の女主人は、貴郞が途上に落としなされた、此銀貨を御拾ひ申して、御返しするやう私に申しました』と彼にいつた。靑年は丁寧に女に禮を述べ、女主人に宜しく傳言して吳れるやう賴んだ。それから、彼は芳香馥郁たる閑けさの間を通り、世に忘れられた路傍に夢みてゐる陰を越えて、進んで行つた。彼自身もまた夢心地になつて、枝が見た美しい女のことを考へて、彼は奇異に、心臟の鼓動が早くなるのを感じた。

 

 

 靑年が歸途、同じ道を通つて、かの優しい姿が瞬間彼の前に現はれたことのある地點で、再び足を停めたのは、また以前のやうな好天氣の日であつた。しかし今囘、彼は窮りなき樹林の遠い奧に、先きには氣のつかなかつた一軒の家――田舍の住宅の、大きくはないが、非常に優雅な――を認めて驚いた。その灣曲せる、鋸齒狀の二重屋根の輝いた碧瓦[やぶちゃん注:「あをがはら」。]は、樹葉の上に聳えて、蒼空の色と交り合ふやうに見えた。その彫刻を施せる玄關の綠黃色の意匠は、日光を詐びたる葉や花の精巧なる藝術的扮擬[やぶちゃん注:「ふんぎ」。対象(ここは花)に似せて形象してあること。]であつた。して、靑年は大きな陶器の龜を兩側に据ゑたる、階段の絕頂に、女主人が立つてゐるのを見た。彼の熱烈なる空想の女は、彼女に彼の感謝の使命を齎し歸つたのと同一の侍女を伴つてゐた。靑年が眺めてゐると、彼等の眼が彼に注がれてゐるのが認められた。彼等は恰も彼のことを語つてゐるかのやうに、微笑したり、話し合つたりしてゐた。して、内氣な彼も、遠くから美人に向つて會釋する勇氣を得た。彼の驚いたことには、若い侍女は彼に近寄つてくるやう手招きをした。そこで彼は赤い花の咲ける匍匐植物で半ば蔽はれた、田園風の門を開いて、階段の方へ通ずる靑々たる小徑に沿つて、驚異と臆病な喜悅の混ぜる感を抱き乍ら步を進めた。彼が接近すると、美しい淑女は退いたが、侍女は廣い階段に立つて彼を迎へた。彼が上つたとき、侍女は云つた――

 『私の女主人は、過日主人が私に命じて致させました些かばかりのことに對して、貴郞が御禮を述べようと思つてゐらつしやるだらうと存じまして、どうか貴郞がこの家へ御入り下さるやうお願ひ申上げます。主人は最早御評判で、貴郞を知つてゐますので、御目にかかりますれば仕合せと存じてゐます』

 靑年は羞かみ乍ら入つた。彼の足は森の苔の如く彈力を帶びた、柔かな莚の上に、少しの音をも立てなかつた。應接間は廣やかで、凉しく、新たに集めた花の香に薰つてゐた。心地爽かな閑靜が、家の中に遍く[やぶちゃん注:「あまねく」。]行き渡つてゐた。竹の簀戶[やぶちゃん注:「すど」。竹或いは葭(あし)の茎などで編んだ簾を枠にはめ込んだ透過性のある戸。]から洩れる數條の光の上には、空飛ぶ鳥の影が映つた。燃えるやうな色の翅を有てる[やぶちゃん注:「もてる」。]大きな蝶が入りできて、彩畫を施せる花甁の邊に霎時[やぶちゃん注:「せふじ(しょうじ)」。しばらくの間。「暫時」に同じい。]徘徊して、また神祕な森へ去つて行つた。すると、蝶の如く音も立でずに、この邸宅の若い女主人は、別の戶口から入つて、親切に靑年に挨拶した。靑年は胸へ兩手を上げ、低頭恭敬の鐙をした。女は彼が思つてゐたよりも一層丈が高く、美しい百合の如く纎靭[やぶちゃん注:「せんぢん」。しなやかであるが、丈夫で壊れやすい感じはしないこと。]であつた。彼女の黑い髮には、橘の乳白色の花が組み合せてあつた。靑白い絹の衣裳は、彼女の動くにつれて、色合が移り變つて、恰も水蒸氣が光の變化に伴つて色を遍ずるやうであつた。

 兩人が慣例の挨拶を了つて、席に就いてから、彼女は云つた。「失禮ながら、貴客は私の親戚、Tchang 氏の子供達を敎へ下さる、Ming-Y と申す、御方では御座いませんか。Tchang 卿の家族は、また私の家族ですから、あの子供達の先生は、私の親類の御一人としか思はれません』

 Ming-Y 少からず驚いて答へた。『恐縮ですが、貴家の御名と、また貴女と私の主人の御親類關係を伺はしていただきたいものです』

 『私の家は、Pingと申します』とこの貴婦人は答へた。『Tching-tou の市の古い家柄なのです。私は Moun-hao Sie と申すものの娘でありまして、矢張り Sie と申します。私はこ〻の Ping 家の Khang と申す靑年に嫁いだのです。その婚姻のため貴郞の庇護者と親類になつたのですが、私の夫は結婚後、間もなく亡くなりましたので、私はこの孤獨の地を選んで私の寡居の間、住居することに致しました』

[やぶちゃん注:「Ping」原拠「古今奇観」に従えば「」である。

Moun-hao」原拠「古今奇観」に従えば「文孝坊」である。

Sie」「Ping」原拠「古今奇観」に従えば「」である。

Khang」原拠「古今奇観」に従えば「」である。則ち、彼女の嘗ての亡き夫の姓名は「平康」である。

 と「寡居」(くわきよ(かきょ))は「やもめ暮らし」のこと。]

 彼女の聲には、小川の旋律の如く、泉の囁きの如く、睡眠を催すやうな音樂があつた。またその話し振りには、靑年が嘗て聞いたことのないやうな奇異に優美な趣があつた。しかし彼女が未亡人であると聞いたので、靑年は正式の招待がない以上は、長く彼女の前に留まつて居ることを欲しなかつた。そこで、彼に薦められた一椀の銘茶を啜つた後で、彼は立つて去らうとした。が、Sieは、ほど急に去ることを許さなかつた。

 『いや、貴郞』と女はいつた。『どうか、今暫く私の家に御留まり下さい。貴郞の庇護者は、折角貴郞がこ〻に御出になつたのに、私が立派な御客扱ひを致さないで、あの人同樣に御もてなし申上げなさつたといふことを萬一耳にしますれば、さぞ非常に立腹しませうたら。少くとも晩餐まで御留まり下さい』

 そこで靑年は留まつた。心中では窃かに欣んでゐた。それは彼女が未だ官嘗て見たことのないほど、美しい女と思はれたからであつた。して、彼は兩親以上に彼女を愛する氣持を感じた。かくて彼等が話をしてゐる内に、薄暮の長い影は徐かに[やぶちゃん注:「ゆるやかに」。]一樣の黑紫色に混じた。夕陽の太い檸檬色の光は、消え失せた。して、人間の生と死と運命を支配する三公註三と呼ばれる星宿は、北の空にその冷かに輝く眼を開いた。邸内には紅燈が點ぜられた。晩餐の食

 

註三 三公――大熊星座の六個の星が、二つづつ一組となつてゐるのを、支那の占星術者及び神話學者が、かく名づけたのである。この三組は更に大公、中公、小公と區別され、是等は北辰星と共に、天空の法廷を組織し、人の壽命及び運勢を支配する。(スタニスラス・ヂュリアン氏譯「太上感應篇」註による)

[やぶちゃん注:「北辰星」北極星の異称。

「スタニスラス・ヂュリアン」エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)はフランスの東洋・中国学者。コレージュ・ド・フランスの中国学教授。

「太上感應篇」南宋初期に作られた道教の経。善行を勧め、悪行を諫める善書の代表的な書物。作者と正確な成立年は明らかでないが、一一六四年よりも以前の成立である。一八三五年にスタニスラス・ジュリアンが“Le livre des récompenses et des peines”(「良き報酬と悪しき応報の本」の謂いか)として翻訳した。フランス語サイトのこちらで同書原文全文が読める(当該部を探すのは時間がかかるのでやめた。悪しからず)。但し、先行する一八一六年のジュリアンの先任者であった夭折の中国学者アベル・レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat:「大鐘の靈」で既出既注)によるフランス語訳がある。]

 

卓は設けられた。靑年は食卓の彼の席に就いたが、食べようとする氣はあまりに起こらないで、ただ彼と相對する美貌のことをのみ考へてゐた。彼が皿に盛られたる珍味を殆ど味はないのを見て、女は酒を傾けるやう、若い客に强ひた。して、兩人は數杯を共に飮んだ。それは紫色の酒であつた。酒を注がれた杯が一面に露を帶びる程に冷かであつたが、しかも不思議な火を以て、脈管を溫めるやうに思はれた。飮んで行くま〻に、靑年の眼には、一切のものが魔法による如く、一層輝いてきた。部屋の壁は後退り[やぶちゃん注:「あとじさり」。]して、屋根は高くなるやうに見えた。燈火は吊るせる鎖の上で、星の如く輝き、女の聲は遠く睡げな夜の空に聞える、佳調の如く靑年の耳へ浮かんできた。彼の心は擴大してきた。彼の舌は弛んだ。して、彼が敢然口に發し得ないものと思つてゐたやうな言葉が、彼の脣からら輕く飛んで出た。しかし女は彼を抑制しようとはしなかつた。彼女の脣は一つの微笑をも洩らさなかつたが、その長い明かるい双眸は、彼の讚辭に對して愉快さうな笑ひを見せ、またその熱烈なる欽仰嘆慕の凝視に對しては、愛情を籠めたる注意を以て應ずるやうに見えた。

[やぶちゃん注:「欽仰」(きんぎやう(きんぎょう))は「尊敬し慕うこと」。]

 女はいつた。『私は貴郞の非凡の御才能と澤山高尙な技藝に御熟達のことを噂に承つてゐます。氾は格別に音樂を修業致したといふのでは御座いませんが、少しばかり歌ふことを習ひました。折角貴郞のやうな專門のお方が御出下さいましたから、私は御遠慮申上げないで、どうか貴郞に私と共に御歌ひ下さるやう大膽にも御賴み申上げます。また私の樂譜を御調べ戴きますれば、非常に滿足に存じます』

 『私こそ光榮と滿足を感じます』と靑年は答へた。『かやうな稀有の御厚意に對しては、感謝の申上げやうがありません』

 侍女が小さな銀の呼鐘の響に應じて、樂譜を持つて出でて、また退がつた[やぶちゃん注:「さがつた」。]。靑年は女の手書の譜を取上げて、熱心に檢べた。書いてある紙は、淡黃色を帶び、薄紗の地貿のやうに輕くあつたが、文字は古風な美しさで、恰も黑松使者註四――かの蠅ほどの大いさの墨の精――によつて揮毫されたかのやうであつた。また、その譜に附いてゐる落款は、元稹や、Kao-Pien や、Thou-mou ――唐時代の偉大な詩人や音樂家――のものであつた。彼はかほどの貴重無比の寶を見て、欣然絕叫を禁じ得なかつた。また暫しも手から離す氣になれぬ程であつた。

 

註四 黑松使者――漢の Hiuan-tsong 帝が或る日、書齋にゐたとき、蠅ほどの小さな道士が、卓上の硯から現はれて云つた。『私は墨の精で、黑松使者といふ名のものです。眞に賢明な人が筆を執ると、その度每に、墨の十二神が墨の面に浮かぶものです。私はこのことを告げるために來ました」モウリス・ヤムテル氏著「支那の墨」(一八八二年、巴里出版)參照。

[やぶちゃん注:「元稹」(七七九年~八三一年)中唐の詩人・文学者。洛陽の人。字は微之。八〇六 年に科挙に及第して左拾遺となったが、権臣に憎まれ、河南尉に左遷された。その後も左遷と昇進を経、八二二年に宰相となったが、半年足らずで浙東監察使に転出し、武昌軍節度使に移って亡くなった。白居易と親交があり、唱和した詩も多く、また、ともに李紳の「新題楽府」に刺激された「新楽府」の創作にも熱心であったことから、「元・白」と並称された。唐代伝奇「鶯鶯伝」の作者でもある。ここは珍しく漢字変換されてある。しかし、以下の二人をローマ字表記にしている以上、前に私が好意的に言った統一性の観点からは逆にこれはおかしいということになる。

Kao-Pien」原拠「古今奇観」から「高駢」である。高駢(こうべん ?~八八七年)は晩唐の詩人。節度使。字は千里、幽州(北京)の人。禁軍の将校から身を起こし、安南都護・静海軍節度使・天平軍節度使・西川節度使・荆南節度使を歴任して功績を挙げた。「黄巣の乱」に際しては、浙東へ侵攻する黄巣軍を撃破し、一時的であったが、福建・広東方面への転進を余儀なくさせ、官軍の総帥となった。しかし後、揚州に居すわったままとなり、長安を占拠した黄巣軍の討伐には積極的ではなかった。

Thou-mou」原拠「古今奇観」から「杜牧」である。晩唐の著名な詩人杜牧(八〇三年~八五二年)は京兆万年 (陝西省西安市) の人。字は牧之。号は樊川 (はんせん) 。祖父は制度史書として知られる「通典」(つてん)の編者杜佑(とゆう)であった。八二七年に進士に及第して弘文館校書郎となり、比部員外郎を経て、八四二年、黄州刺史に転じた。以後、池州・睦州などの刺史を務め、中央に戻って中書舎人に昇任したが、まもなく没した。生来剛直で「阿房宮賦」を作って敬宗を諌めたり、「孫子」の注を書くなど、政治・兵法にも強い関心を持っていた。唐王朝の退勢挽回を図ったが、努力が実らぬまま、妓楼に遊ぶことが多くなった。晩唐らしい感覚的・退廃的な詩を残し、李商隠とともに「李杜」と並称され、杜甫に対して「小杜」とも呼ばれる。

「黑松使者」唐の筆記録「陶家瓶餘事」に、

明皇御案墨、一日見小道士如蠅、呼萬歲。曰、「臣、墨之精、黑松使者也。凡世有文者、墨上有龍賓十二。上神之、乃以分賜掌文官。」。

とある。「明皇」とは玄宗皇帝の別名である。ここの出る「漢の Hiuan-tsong 帝」を漢ではなく、唐とすれば(原文では“Thang dynasty”で、漢は現行で「hàn」なのに対して「唐」は「Táng」である)玄宗を現在の拼音で示すと「Xuán zōng」であるから、それっぽい。昔から好きなサイト「寄暢園」のこちらには、唐の滅亡後の五代の後唐に馮贄によって編せれた「雲仙散録」の邦訳が載り、

   《引用開始》

 『陶家瓶餘事』に言う。

 玄宗が使用する墨は「龍香剤」と呼ばれていた。

 ある日、玄宗は墨の上に動き回る物を見つけた。蝿かと思ったが、よく見てみるとそれは小さな道士であった。玄宗が叱りつけると、小道士は諸手(もろて)を上げて、

「万歳!」

 と叫んだ。そして、こう言った。

「臣は墨の精、黒松使者でございます。およそ文ある者の墨には龍賓(りょうひん、注:墨の神)が十二人おります」

 玄宗は霊妙なことと思い、この墨を文官に分け与えた。

   《引用終了》

とあるから、間違いなく唐の玄宗の逸話である。なお、本篇末に配された漢語画像はこれである。

「モウリス・ヤムテル」モーリス・ジャメテル(Maurice Jametel 一八五六 年~一八八九年)はフランスの外交官で中国学者。

「支那の墨」原文“L'Encre de Chine”(「中国の墨」)。]

 

 彼は叫んだ。『これは實に帝王の寶に勝さるほど貴重なものです。これこそ私共の生れない五百年の前に、歌つた諸大家の書です。よくも立派に保存されたものです! これはあの有名な「幾世紀後も石の如く堅く殘り、文字は漆の如くならむ」と云はれた墨ではありませんか? また、何といふこの譜の絕妙でせう! 詩人中の王で、五百年前四川省の刺史であつた Kao-pien の歌です』

[やぶちゃん注:「Kao-pien」は先に出た高駢。彼は西川(四川省西部)節度使であったことがあり、節度使は居城(会府)の州の軍事長官である刺史をも兼任し、軍・民・財三権を握る独立軍閥的存在であった。]

 『Kao-pien! 好きな Kao-pien!』と女は眼に奇異な光を湛へ乍ら呟いた。『Kao-pien はまた私の愛好作家です。貴郞と諸共に、彼の詩を古曲に合はせて歌ひませうよ――もつと今日よりは、人々が氣高くて賢かつた頃の音樂ですね』

 それか樂ら、彼等の聲は相合して、流暢なる美はしい音となつて、芳ばしい夜の中に鳳凰註五

 

註五 鳳凰――この寓意的の鳥に、幾分亞剌比亞[やぶちゃん注:「アラビア」。]の不死鳥(フヰーニツイクツス)と對應するのであるが、高五キユービツト(一キユービツトは十八吋[やぶちゃん注:「インチ」。]乃至二十二吋)、五色の羽毛を有し。五音の變調に歌ふと稱せられる。雌鳥は不完々なる調子で歌ひ、雄鳥は完々に歌ふ。鳳凰は支那の音樂に關する神話や傳說によく現はれてゐる。――(不死鳥は唯一無二の鳥で、亞刺比亞沙漠に於て六百年間生活する每に。埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]國ヘリオポリス市に行つて自ら身を燒き祭壇の灰と化し、それたら再び其灰燼中から、若返つて美しい姿を以て蘇生し、更にまた六百年を經る。かくして轉𢌞轉生、極まることなしと稱せられる。――譯者)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は河合氏による訳注である。

「鳳凰」私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう)(架空の神霊鳥)」を参照されたい。

「キユービツト」cubit(英語:キュービト)は古代(紀元前六千年頃にメソポタミアで生まれたとされる)より西洋の各地で使われてきた長さの単位。今日、キュビットを日常的に使用している文化は存在しないが、宗教的な目的、例えばユダヤ教などでは現在でも使われている。落合の「一キユービツトは十八吋乃至二十二吋」というのは、四十五・七~五十五・八センチメートルに相当する。時代や使用した民族によって微妙に異なるが、四十九センチメートル前後であるようである。詳しくはウィキの「キュビット」を参照されたい。

「ヘリオポリス市」(ラテン文字表記:Heliopolis)は現在のカイロ近郊に存在した古代エジプトの都市。よく知られている都市の名はギリシャ人によって名づけられたもので、ギリシャ語で「ヘリオスの町=太陽の町」という意。古代名では「Iunu」(イウヌ)或いは「On」(オン)と呼ばれていた。ここはヘルモポリスと並んで古代エジプトの創世神話の中心地として有名である、とウィキの「ヘリオポリス」にある。]

 

の聲の如く立騰つた[やぶちゃん注:「たちのぼつた」。]。しかも、間もなく、靑年は彼の伴侶の聲の魅力に壓せられて、唯無言恍惚のま〻、聞き入つてゐるばかりであつた。同時に室の燈光は朦朧となつて波動する如く見え、愉快の淚は双頰を傳つて流れた。

 かやうにして夜の時刻は移つた。それでも猶ほ彼等は話をつゞけ、冷たい紫の酒を飮み、唐代の歌を歌ひ乍ら夜を更かした。彼が立たうとしたのは、一たびではなかつたが、その度每に女は、銀のやうに甘美な彼女の聲で、昔の大詩人達や、また彼等が愛した女の話を始めたので、彼は魅せられたやうになつた。また彼女は非常に珍異怪奇な歌を歌つたので、聽覺の外、彼のあらゆる感覺は死んで了つたやうであつた。たうとう彼女が歌を止めて、彼の健康のために祝杯を學げた時、靑年は彼の腕を彼女の頸に捲きつけ、彼女の纎弱な頭を彼の方に引きよせて、酒よりも赤くて、甘き彼女の雙脣に接吻することを堪へ得なかつた。すると、彼等の脣は最早離れなかつた――夜は更けて行つたが、彼等はそれを知らなかつた。

 

 

 鳥は目醒め、花は朝暾[やぶちゃん注:「てうとん(ちょうとん)」。朝日。]に眼を開いた。して、靑年はいよいよ彼の可愛らしい妖術者に別れを告げねばならなかつた。女は玄關の壇まで伴いて行つて、懷たしげに接吻して云つた。『どうか、なるべく度々御出下さい。貴郞は祕密を洩らすやうな、信實のない人達と違つてゐることを、私は存じてゐますが、でも、まだお若いから、時としては御注意の足らぬこともありませう。どうは、私共の愛は、ただ空の星が知つてゐるだけだといふことを御忘れ下さいますな。誰人[やぶちゃん注:二字で「たれ」と訓じておく。]にも御話しをしてはいけません。それから、私共の幸福の夜の紀念として、この小さなものを御持ち下さい』

 かく云つて、女は精巧珍異の小さな品――孔夫子を崇めて、虹が作つたやうな、黃色の硬玉註六で、蹲踞せる獅子の形に作れる文鎭を――彼に呈した。靑年はやさしく、その贈物とそれを與へた美しい手に接吻して、『もし貴女が私を叱責下さるやうなことを、私が知りつゝ犯しますれば、神罰覿面です』と誓つた。して、彼等は互に誓を交はして別れた。

 

註六 硬玉――碧玉の一種である。藝術的材料として、常に珍重せられ、支那人は yuh と稱してゐる。「感應篇」に、孔子が孝經を完成してから、天を拜した時、深紅の虹が空から降つて、彼の足下で一片の黃色硬玉と變つたといふ珍らしい傳說がある。スタニスラス・ヂユリアン氏譯四九五頁參照。

[やぶちゃん注:「硬玉」翡翠 (ひすい)

「感應篇」註三で既出既注のフランスの東洋・中国学者エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)の一八三五年刊の「太上感應篇」の訳“Le livre des récompenses et des peines”のこと。

「孝經」十三経の一つで、長くは、孔子の作ではなく、孔子が曾子に対して孝について述べたものを曾子の門人が記録した書とされてきたが、最近の研究では戦国時代の偽作とされる。全一巻。儒教の根本理念の「孝」について、その徳たる所以や実践の具体的内容などを述べたもの。]

 

 その朝、Tchang の邸にへ歸つてたら、彼は生まれてから始めての虛言を吐いた。今や氣候も頗る惡くなつたから、母は彼にこれからら夜間自宅に泊つて吳れるやう求めたと告白し、道程は幾分遠いが、彼は强壯活潑であるし、新鮮なる空氣と健康なる運動が必要であると云つた。Tchang は、すべて彼の言を信じ、何等の異議を挿まなかつた[やぶちゃん注:「さしはさまなかつた」。]。そこで、靑年は夜間を美しい Sie の家で過ごすことが出來るやうになつた。每夜彼等はその初會を愉絕快絕たらしめたと同じ娛樂に耽つた。彼等は交る交る歌つたり、物語をした。彼等は碁を圍んだ―― Wang-Wang によつて發明された深遠なる遊戲で、戰爭の模擬である。彼等は花、樹木、雲、鳥、蜂について八十韵[やぶちゃん注:「ゐん」。詩賦・歌曲の総称。]の詩を作つた。が、すべての技藝に於て女は遙かに彼女の若き愛人を凌駕した。圍碁の際には、いつも彼の王將が包圍を受けて敗れた。詩作に當つては、女の詩は詞彩の調和、形の優美、想の古典的高尙に於て、彼のよりも常に勝つてゐた。して、彼等の選んだ題は、いつも最も難かしいものであつた――唐時代の詩人のものであつた。彼等が歌つた歌もまた五百年前のもの――元稹や、Thou-mou や、就中、名詩人で、四川省の刺史であつた Kao-pienの歌であつた。

[やぶちゃん注:「Wang-Wang」伝承では囲碁は聖王堯・舜が発明して息子たちに教えたとする。実際の文献上の初出は「論語」や「史記」である。このような話を私は寡聞にしらないが、この「Wang-Wang」というのは周の武王(拼音:Wǔ Wáng)であろう。平井氏もそのように訳しておられる。]

 かやうにして、彼等の戀の上に夏は榮えて、また衰へ、それからら、幻ろしの黃金のやうな霧と、不思議な紫色の影を伴へる、輝ける秋が來た。

 すると、偶然彼の父が、その子の主人に逢つたとき、質問を受けた。『最早冬も近くなつたから、貴下の息子さんは每夕市の方へ陷つて行くに及ばないではありませんか。道中は遠くもあるし、それに朝歸つてきた際には、疲れ果てたやうに見えます。雪の降る季節の間、なぜ私の家へ泊らせないのですか』彼の父は非常に喫驚して[やぶちゃん注:「びつくりして」。]、答へた。『閣下、愚息は市へも出でで參りませぬ。また此夏中、私共の宅へ參つたこともありません。多分惡習に陷まして、よからぬ友達と夜を過ごすので御座いませう――恐らくは賭博とか、或は花舫[やぶちゃん注:花街で船を根拠地とした遊女たちの集まる場所の意と思われる。]の女と酒を飮むのではありますまいか』しかし長官は答へた。『いや、そんなことは思ひもよらぬことです。私は未だ嘗て、あの靑年に何等の惡弊を發見しないのです。また、私の附近に酒舖や花舫や道衞の場所とてはありません。屹度同年配の愉快な友達を得たので、それと夜を過ごすために、さもなくば遊びに行くことを私が許さないと思つて、虛僞を云つたのでせう。どうか私が此祕密を發見し得るまでは、彼に何も云はずに置いて下さい。して、今夜私は家僕を遣はして、彼の彼を蹤けさせ[やぶちゃん注:「つけさせ」。]、行先を注意させますたら』

 父は直ちにこの提議に同意し、翌朝この提儀に同意し、翌朝 Tchang を訪ねることを約して、家へ歸つた。夜になつて、靑年が邸を出でて行くと、一人の僕が見えないやうに、遠くから彼についで行つた。しかし道の最も暗い處に達してから、靑年は宛然土地に吞み込まれたかの如く、忽然姿が見えなくなつた。長い間、彼を搜索しても無効であつたので、僕は非常に當惑して歸つてきて、そのことを報告した。Tchang は直ちに Pelou の許へ使を遣はした。

 一方、靑年は愛人の室へ入ると、彼女が淚を流してゐるのを見て、驚き、且つ困つた。女は彼の頸に兩腕を捲きつけて、咽びながら云つた。『私共は永遠に分たれねばならぬことになりました。その譯は貴郞に云へません。抑もの始めから、私は斯うなるものとは知つてゐました。しかしそれで、も暫くの間は、私にはあまりにも殘酷な損失、あまりにも案外な災難と思はれまして、泣かずには居られないのでした。今晚限りで私共はお互に復た迄ふことはないでせう。して、貴郞は一生私をお忘れ下さることは出來ないだら5うと存じますが、また貴郞は大學者になつて、富貴を授けられ、それたら、或る美しくて、貴郞を愛する女が、私を失ひになつたのに對して、貴郞を慰めるだらうと存じます。で、最早悲しいことはお互に語らないで、この最役の晚を愉快に過ごしませう。さうして、私の思ひ出が貴部郞に取つて、心苦しくならぬやう、また貴郞が私の淚より私の笑ひを記憶して下さるやう致しませう』

 彼女は淚の玉滴を拭ひ去り、酒と樂譜と絹糸の七絃琴註七を持出でて、彼をしで瞬間も、やがて來たらんとする別離のことを話させなかつた。して、彼女は夏の湖水が唯碧空のみを映ぜる靜けさと、憂慮悲哀の雲影が心の小さな世界を暗くしない前に於ける、胸裡の沈着平穩を詠ぜる古歌を彼のために歌つた。間もなく、彼等は歌と酒の喜悅に悲しみを忘れた。して、その最終の數時間は、彼に取つては彼等の最初の幸福の折よりも、更に無上のものに思はれた。

 

註七 琴 Kin  ――支那の樂器中、最も完全なもの。「愚者の琵琶」とも稱せられる。Kin といふ語は、また「禁」を意味する。支那人の信仰によれば、音樂は一邪念を去つて人間の情を、正しくする」から、このやうな名をこの樂器に與へむのだと云はれてゐる。ウヰリヤムス氏著「中國」參照。

[やぶちゃん注:「ウヰリヤムス」アメリカの言語学者・外交官・宣教師・中国学者サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams  一八一二年~一八八四)か。中国名「衛三畏」。「中國」は一八九四年刊の“The middle kingdom”であろう。但し、「琴」の語源がハーンの謂うようなものであることには私は留保する。]

 

 が、麗らかな黃色の朝が來ると共に、彼等の悲しみは歸つてきて、兩人は泣いた。再び彼女は愛人を送つて階段まで行つて、別れの接吻をした。その際、彼の掌中へ別れの贈物を押し込こだ――それは瑪瑙の小さな筆筒であつた。驚くべき彫刻が施され、堂々たる詩宗の卓を飾るに適はしいものであつた。かくて、彼等は幾多の淚を灑いで、永久に別れた。

 

 しかし靑年は、それを永遠の別れと信ずることが出來なかつた。彼は『否、明日は彼女を訪問しよう。私は彼女なくては生きて居られないし、また、彼女は屹度、私を迎へることを拒絕し得ないだらう』と考へた。こんなやうな考へに滿たされ乍ら、彼が Tchang の家に達すると、彼の父と彼の庇護者が、玄關に立つて待ち設けてゐるのを發見した。彼がまだ一語を發し得ない内に、父は詰問した。『其方は此頃每夜、何處で泊つてゐたのだ』

 彼の虛僞が露見したのを知つて、彼は何等の答をも敢てしなかつた。彼は父の面前で、頭を垂れ、赤面無言のま〻であつた。すると、父は杖を以て激しく彼を鞭撻して、祕密を打明けるやう命じた。たうとう一つには父に對する恐怖と、また一つには『父に違背する子は、百囘の鞭撻を以て罰すべし』と規定せる法律を恐れて、彼は彼の戀愛の歷史を口籠りながら述べた。

 Tchang は靑年の物語を聞いて、顏色を變へた。彼は呼んで云つた。『私の親戚に Ping といふ名はない。君が說明したやうな女のことを私は聞き及んだこともない。しかし、君は家大人に虛言を吐く氣にはなれまい。どうも、この事件には奇異な疑はしい點がある』

 そこで靑年は、女が彼に與へた財物――黃色硬玉の獅子、瑪瑙に彫刻せる筆筒、また美姬の創作にかかる詩――を示した。Tchang が驚くと共に Pelou も驚いた。二人とも瑪瑙の筆筒と硬玉の獅子は數百年も地中に埋れた趣を有することと、現代の工匠の模し得ない技巧なることを認めた。加ふるに、詩は唐代の詩風で、眞に傑作であつた。

 Tchang は叫んだ。「Pelou 君、私兵は察刻令息を伴つて、是等の不思議なものを得た場處へ行つて見て、私共で實際を調べて見ませう。屹度、令息は眞實を話してゐるのでせうが、私の腑に落ちないのです』して、三人相携へて Sie の住家の方へ赴いた。

 

 が、彼等が道中の最も木蔭の多い場所、蘚苔[やぶちゃん注:「こけ」と訓じておく。無論、広義のコケ・シダ類である。]が最も芳ばしく、蘚苔が最も綠色を呈し、且つ野桃の呆賞が最も紅く輝いてゐる場所へ達したとき、靑年は森七廷して凝視して、驚愕の叫を發した。碧瓦の屋根が高く聳えてゐた處には、今は唯靑い空虛があるのみで、綠黃色の家の正面が見えてゐた處には、輝いた秋の光りの下に、唯木葉のちらちらするのみであつた。して、廣い壇が延長してゐた處には、唯古色蒼然、蘇苔に深く蝕せられた一個の癈墳が、認められるのみであつた。その上に刻まれた名は、最早讀むことが出來なかつた。Sie 家は失せてゐたのであつた。

 突然 Tchang は手を以て額を叩き、Pelou の方に振今向いて昔の詩人、Tching-Kou の有名な持を誦した――

[やぶちゃん注:「Tching-Kou」冒頭に配された詩句の作者鄭谷である。]

 『Sie-Thao の墓上には必らず桃の花が吹く』

 彼は續いて云つた。『Pelou 君、令息を魅惑した麗人は、私共の眼前にその墓が立つてゐる彼女に相違ない。彼女は Ping-Khang に嫁ついだと言つたではないか。そんな名の家族はないが、それは實際近く市中にある廣い橫町[やぶちゃん注:主道路の左右に付属する横町の意。]の名です。彼女の云つたすべてのことには、暗黑な謎があつた。彼女は自身を Moun-Hiao Sie [やぶちゃん注:先に示した通り、原拠の「文孝坊の薛」のことである。]と稱した。そんな人名はない。そんな町名もない。しかし Moun [やぶちゃん注:平井氏は『文』とする。]といふ字と hiao [やぶちゃん注:平井氏は『孝』とする。]といふ字を合はせると、Kiao [やぶちゃん注:平井氏は『教』とする。]といふ字になる。お聽きなさい! Kiao 町にある Ping-Khang といふ橫町は、唐時代の名妓輩の住んでゐた處でした。彼女は Kao-Pien の詩を歌つたのではありませんか。それから、彼女は贈つた筆筒と文鎭には、「Oho-hai 府の Kao 所有の淸翫品」[やぶちゃん注:平井氏は『渤海府、所蔵の清玩品』とある。]といふ文字が刻まれるではありませんか。その府は最早存してゐないが、詩 Kao-Pien の思ひ出は殘つてゐます。彼は四川省の勅史であつて、また一大詩人でしたから。且つ彼が Chou [やぶちゃん注:平井氏は『蜀』と訳しておられる。旧蜀は現在の四川省、特に成都付近の古称である。]の地にゐた時は、彼の寵幸[やぶちゃん注:「寵愛」に同じい。]したのは美しい游妓 Sie ――當時のあらゆる女の中で優雅無雙であつた Sie Thao ――ではありませんでしたか。あの詩稿を彼女に贈つたのは、彼なのです。あの珍重すべき美術品を彼女に與へたのも彼なのです。彼女は死んでも他の普通の女達とは違ふのです。彼女四肢は、灰燼に歸したのでせうが、まだこの深林の中に、何か彼女のものが生きてゐます――彼女の幽靈が依然この森蔭の地に彷徨してゐるのです』

 Tcnang は言葉を止めた。漠然いひやうのない恐怖が三人を襲つた。薄い朝霧が、綠色の遠景を朦朧たらしめて、森の怪凄なる美を深めた。一陣の力なげな微風が吹いて、花香の尾を曳いて去つた――枯死せんとする花の最後の薰り――忘れられた衣裳の絹に縋り附く衣薰の微かな名殘りであつた。して、それが過ぎ去る時、樹木は沈靜を破つて、『Sie-Thao』と囁くやうに思はれた。

 

 

 息子のため、痛く心配して、Pelou は直ちに彼を廣州府にかへした。その土地で、後年 Ming-Yは彼の材能と學問のために榮位髙譽を得た。して、彼は名門の女を娶つて、德藝共に有名なる兒女達の父となつた。彼は決して Sie-Thao を忘れ得なかつた。しかし決して彼女のことを口にしなかつたとのことである。たとひ兒女達が彼の書机にいつも載つてゐた二個の美麗な品――黃色硬玉の獅子と瑪瑙の彫刻の筆筒――の物語をするやう求めることがあつても。

 

黑松使者

 

070

 

【ハーンによる「解說」】

 『Ming-Y 秀才の話』――私のこの話は『今古奇觀』といふ有名なる物語集の第三十四章にある妖怪談に基いて書いたもので、もと博學なるグスタフ・シユレーゲルによつて、初めて該書の第七章と第三十四章は佛譯されたのであった。シュレーゲル、ジユリアン、ガードナー、バアーチ、ダントルコル、バーアチ、ダンドルコル、レミユデ、パヴィー、オリファント、グリゼバッハ、エルヴエ・サン・ドニー、その他の諸家が、該書の第二、三、五、六、七、八、十、十四、十九、二十、二十六、二十七、二十九、三十、三十一、三十四、二十五、三十九章、合計十八篇を歐洲語に譯出してゐる。支那の原著は十三世紀に遡つてゐるが、既に當時に於て最も人口に膾炙してゐた說話を集めたのだから、その多くは更に古い起原に屬するものと思はれる。『今古奇觀』には四十個の物語が載つてゐる。

[やぶちゃん注:「グスタフ・シユレーゲル」オランダの東洋学者・博物学者グスタフ・シュレーゲル(Gustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年)。ライデン大学中国語中国文学講座の初代教授。

「ジユリアン」既出既注のフランスの東洋学者で十九世紀フランスの代表的な中国学者として知られるエニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)。

「ガードナー」原文“Gardner”。不詳。検索したが、ピンとくる人物がいない(以下の「不詳」は同前)。

「バアーチ」“Birch”。不詳。

「ダントルコル」“D'Entrecolles”。フランソワ・ザビエル・デントレコール(François Xavier d'Entrecolles 一六六四年~一七四一年)。中国名「殷弘緖」。イエズス会司祭で中国に伝道し、陶磁器の研究を行った。

「レミユデ」“Rémusat”。フランスの中国学者ジャン=ピエール・アベル=レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat 一七八八年~一八三二年)。

「パヴィー」“Pavie“。既出既注。フランスの旅行家・作家・東洋学者であったセオドア・マリーパヴィー(Théodore Marie Pavie 一八一一年~一八九六年)。

「オリファント」“Olyphant”。不詳。

「グリゼバッハ」“Grisebach”。不詳。

「エルヴエ・サン・ドニー」既出既注。フランスの中国学者マリー=ジャン=レオン・マーキュ・デ・エルヴェイ・ド・サンドニ(Marie-Jean-Léon Marquis d'Hervey de Saint Denys  一七八〇年~一八四四年)。

 私は正直、このハーンの作品以上に原拠「今古奇観」の「第三十四巻 女秀才移花接木元」(中文ウィキソースの原拠では相聞される詩篇も載り、雅ではあるけれども)を愛恋々に静かに訳しうる日本の詩人は向後も登場しないではないかと感じている(私はこの漢文を訳せる能力を持ち合わせていない。されば、長い原文を示すこともしないし、況や訳を示すことは出来ない。悪しからず)。しかし、パトスののっぴきならない要求を持たない似非作家ばかりのこの現代には――

三州奇談卷之一 砥藏の靈風

    砥藏の靈風

 慶長の頃、山口玄蕃(げんば)かたく籠りしは、則(すなはち)大聖寺也。其子右京戰死せし鐘が丸は、今の關所の上の山なり。曾て聞く、加州の大守利長公、慶長五年八月五日山口父子が城を攻(せめ)給ふに、城兵も聞ゆる勇兵なれば、爰(ここ)を先途(せんと)と防ぎ戰ひしに、加州の先手富田藏人(とみたくらうど)、此鐘が丸に一番乘して手柄をふるひ討死す。是より城中かたふき立(だち)ちて、終に落城に及ぶ。

 此富田藏人は、はじめ豐臣秀次公に仕ふ。秀次沒後に追腹の中に有ながら命をのがれしを、諸人嘲つて腰拔(こしぬけ)と呼び、久敷(ひさしく)浪人して有しを、我邦の先君利家公聞給ひ、

「勇士も一度の不覺は有物(あるもの)ぞ。諸人の口にあざけるは論ずるに足らず」

とて、一万石に召出され、終に此所(このところ)の軍に戰沒して美名高く、先君(せんくん)人を試み給ふ明(めい)、又天下に先(さきだち)ていちじるし。

 山口玄蕃は平日しはき者にて、金銀多く貯ふ。城既に落入らんとする時、其子右京亮來りて曰く、

「我君年頃士を輕んじて金銀を重んじ給ふ。今日いかんぞ金銀を出して戰かはしめざるや。我か子ながらも、日頃の恩愛薄しと雖も、子たるの道遁れざる所ぞ。早々御覺悟候へ。御先(おんさき)致すべし」

とて、則(すなはち)敗軍を引て打て出で、快く討死する。

 此時、右京の乳母共(とも)に戰場に臨んで討死す。剛强の働(はたらき)して、敵軍終に女たる事を知らずと云。

 山口玄蕃は、兼て「利長公攻來り給はゞ鐵砲にて撰(えら)み打(うち)にすべし」

とて、所を考へ藁人形を立て、是を試むるに一つも外さず。

 此日、利長公鯰尾(なまづを)の甲(かぶと)にて采配を取て下知し給ふを、慥に夫(それ)と見濟(みすま)し、彼(かの)鐡砲を構へ、二度迄切て放しけるに、鯰尾の甲の光、日の色に相映じて水筋にうつりきらめきて、目當(めあた)りをたがへ、二度ともあたらず。玄蕃運(うん)の叶はざるを知りて自害し果ぬとかや。

 其水筋今は城下の町中なり。「鯰橋」といへり。

 是より南に當りての坂下(さかのした)村と云ふに、「砥藏山(とくらやま)」と云ふあり。奇麓の地なり。小さき祠あり、何を祭ることを知らず。山の間砥石多く有りて、用ふる時は甚だ用をなす。されども、昔より此砥石を採ること、氏神の嫌ひ給ふとて採らず。若(もし)猥(みだり)に此砥藏山の石をとれば、忽ち大風起りて田畑荒れ、五穀實らず。故に强慾の商人は、米穀の買入をしては密(ひそか)に此事をなす。甚だ村里の難儀に及ぶ。是に依て夏の終より秋の末迄は、村々より番を附置(つけお)き、人の往來を赦さず。若(もし)常の日にても、强て砥石のほしき時は、夫より大きなる石を持行き、替て來る時は大風の災なし。又大風起る時、盜みし砥石を戾せば風忽ちに止むと云ふ。今猶最上の砥石累々として樹間に滿々たり。或人云ふ、

「是は山口玄蕃を祭る所なり。故に吝嗇(りんしよく)の氣今にあるなり」

と。誠にてや侍らん。

[やぶちゃん注:「砥藏」「とくら」。

「慶長の頃、山口玄蕃かたく籠りしは、則(すなはち)大聖寺也」山口玄蕃(げんば)は豊臣秀吉の家臣で加賀国大聖寺城(位置は後の「鐘が丸」注のリンク先を見よ)主であった戦国武将山口宗永(天文一四(一五四五)年~慶長五(一六〇〇)年八月三日)。ウィキの「山口宗永」によれば、天文一四(一五四五)年に『山口光広(甚介)の子として誕生。豊臣秀吉に仕え』、文禄二(一五九三)年、『大友義統』(よしむね)『の改易に伴い』、『豊後国に入り』、『太閤検地を実施』した。慶長二(一五九七)年、『小早川氏を継いだ秀吉の甥・小早川秀秋の補佐するため』、『豊臣政権から付家老として送り込まれ、小早川領にて検地を行ったり、慶長の役では朝鮮に渡って秀秋を補佐した。特に蔚山城の戦いでは小早川勢を率いて加藤清正らの籠城する蔚山倭城を救援したという。しかし、秀秋とは折り合いが悪く、秀秋が』慶長三(一五九八)年に『筑前国名島城から越前国北ノ庄城へ転封されると、加賀大聖寺城の独立大名に取り立てられた。その後、秀秋の転封は取り消され』、『旧領に戻ったが、宗永は加賀に留まった』。慶長五(一六〇〇)年の『関ヶ原の戦いでは、宗永は石田三成の西軍に与した』。七月二十六日に『東軍の加賀金沢の』前田利長(永禄五(一五六二)年~慶長一九(一六一四)年:加賀藩第二代藩主。藩祖前田利家の長男)は約二『万の軍を率いて金沢城を出撃し、西軍の丹羽長重の拠る小松城を攻撃するかに見えたが、急遽これを避け』、八月一日、『加賀松山城に入城した。宗永はその危急を聞いて大聖寺城の防備を堅め、北ノ庄城の青木一矩や小松城の丹羽長重に救援依頼の使者を出したが』、『間に合わなかった。翌』二『日、利長は九里九郎兵衛・村井久左衛門を使者として宗永に降伏を勧告したが、宗永は憤激し』、『これを拒否した』ため、『前田勢は城攻めを行った。守る山口軍も宗永の嫡男・修弘』(ながひろ)『が城近くに兵を潜ませて迎撃の指揮をとったが、前田勢の先鋒山崎長徳に発見され』、『敗北、山口勢は敗残兵を収容し』、『ただちに篭城戦の構えをとった。前田勢も先鋒の山崎隊に加えて長連龍隊などの後続の軍勢も参戦して城の外周で戦闘が展開された。修弘は果敢に出撃して前田勢に被害を与えたが、前田勢の鉄砲隊の一斉射撃を受けて、城内に退却』、『前田勢は押し進むが、宗永父子が率いる山口勢も反撃した。しかし』二万の軍の前に五百余の『兵しかいない山口勢では敵うはずもなく、ついに宗永は塀の上から降伏の意思を伝えた。ところが、多くの兵を失った前田勢はこれを許さず、城内に突入』、八月三日夕刻、『大聖寺城は陥落、宗永・修弘父子は自害』討死したとする。『宗永と修弘の墓は石川県加賀市大聖寺神明町にある全昌寺』(ここ(グーグル・マップ・データ))『にある』とある。

「其子右京」「右京亮」は宗永の長男山口修弘(生年未詳~(父に同じ))。父同様秀吉の家臣で長刀の達人。

「鐘が丸」旧大聖寺城の郭(くるわ)の一つ。跡が残る(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「今の關所」鐘が丸の北東山麓に現在、石川県加賀市大聖寺関町があるが、名の通り、ここが大聖寺の関所番所の旧地である。サイト「文化遺産オンライン」のこちらで確認出来る。

「慶長五年八月五日」日にちのズレはママ。筆写本も同じ日付。単に、もと、「三日」と書いてあったものをみな誤写したものかも知れぬし、当時はこの日付が正しいと認識されていたのかも知れない。しかし、やや不振が残る(後述)。

「爰(ここ)を先途(せんと)と」この連語で、「勝敗・運命などの大事な分かれ目・瀬戸際」の意で用いられることが多い。

「富田藏人」富田高定(?~慶長五(一六〇〇)年八月四日)のこと。伊勢安濃津(あのつ)城主富田一白の子として生まれた。三好康長の家臣で、羽柴秀吉の甥が三好信好(秀次)として養子となった頃から近侍して仕えたその後、秀次が養家を去る際についてきた「若江衆」の一人となった。天正一八(一五九〇)年には秀次より伊勢国飯野郡宮田村において二千二百九十二石の知行を与えられた。しかし、文禄四(一五九五)年七月に『秀次切腹事件があり、殉死しようと決心して京都の千本松原を死に場所に定めたが、死装束で大勢の群衆や友人等と別れの杯を重ねているうちに泥酔して、切腹を果たせぬまま昏倒した。これが人々に知られることになって、秀吉に咎められ、濫りに殉死を試みた者は三族を誅すとの命令が出された。このため』、『太閤の怒を憚って、自ら京都西山に幽居した』。『しかし秀吉の死後、前田利長がその将才を惜しみ、群臣の反対を押し切って』、一『万石で召し抱えること』なった。『関ヶ原の戦いでは、東軍の前田勢は加賀国に侵攻』、『高定は侍大将として先陣を務めて奮戦した。西軍の山口宗永・弘定親子を撃破して大聖寺城内に攻め込む追撃戦で先駆けし、一騎当千の働きを見せたが、ついには討死した』とウィキの「富田高定」にある。ちょっとこの没日が気になる。これだと、彼は奮戦したが、その場では亡くならず、山口親子の討死を知って安らかに亡くなったことになる。しかし本文の「是より城中かたふき立(だち)ちて、終に落城に及ぶ」や、「八月五日」という日付から見ると、この日付は自然である。しかし、そうすると、山口親子の没日の「八月三日」の方が怪しくなってくるのである。

「しはき者」「しはき」は形容詞「吝(しは/しわ)し」で、「出すべき金などを惜しんでなかなか出そうとしない・吝嗇(けち)だ・しみったれだ」の意。なお、これは現行でも西日本で使用され、近世以降の語であって、歴史的仮名遣も「しはし」か「しはし」かは不明である。

「撰(えら)み打(うち)」狙い撃ち。

「所を考へ」一発必中で即死を得られる部分を熟考し、の謂いであろう。

「鯰尾(なまづを)の甲(かぶと)」当世兜(「当世」は戦国時代以後に普及した甲冑具足類を江戸時代に呼称する際に被せた謂い)の鉢の形の名。鉢の天辺を細長く扁平に高く仕立てたもの。グーグル画像検索「鯰尾 兜」で先代利家愛用のものであるが、複数出る。

「水筋」通常は川の流れ。現在も大聖寺城跡の周囲には、すぐ北側を流れる大聖寺川から分流させたもの(或いは旧蛇行流路)と思われる流れが複数、近くの町屋の域内に認められる

「鯰橋」大聖寺地区まちづくり推進協議会制作のサイト「大聖寺 十万石の城下町」の「北国街道を歩く 其の参 (本町から西町)」のルート解説の中に、『本町との境の旧熊坂川に架かる鯰橋は、藩邸の外堀整備で同川を改修したとき鍛冶町から移されました』とある。同ページに地図があるが、その「B」の部分が現在の「鯰橋」で、そこを画面中心に持ってきて、少し拡大すると、「B」の流れの上流(東方向)に「大聖寺鍛冶町」がある。しかし、ここは大聖寺城陣屋跡からでも五百五十メートル以上あって、利長を狙撃し得る射程にはない(当時の火縄銃では特定狙撃の有効射程距離は長くても百メートルほどであろう)。

『是より南に當りての坂下(さかのした)村と云ふに、「砥藏山(とくらやま)」と云ふあり。奇麓の地なり。小さき祠あり、何を祭ることを知らず』不詳。地名・山名として現存しない。山自体が存在しない可能性もあるかも知れない。遠くない位置で何となく匂うのは、鍛冶町から南南西三百六十メートルほどの直近にある大聖寺地方町の「大聖寺 ふれあい広場 古九谷の杜」か。現在、鍛冶町から近場で緑があるのはここぐらいなものである。国土地理図では神社記号も直近にある。砥石を古九谷と見紛うことはあるまいが、その破片でも昔ここから出たならば或いは……などと夢想したのである。もっと離れた南西の丘陵の麓もあるが、ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)には前から何度も本文に出ている全昌寺があるから、筆者なら、その近くと言うのが自然であろうと思う。ともかくも識者の御教授を乞うものである。2020127日:削除・追記】T氏より電子化して下さった情報を戴いた。「石川県江沼郡誌」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の「西谷村」の「日置神社」の項に、

   *

○日置神社。字坂下[やぶちゃん注:現在、山中温泉坂下町があるが、元の坂下集落は九谷ダムに水没している。]に在り、村社にして天押日命[やぶちゃん注:「あめのおしひのみこと」。]を祭る。古へ砥倉山の麓に鎭座したりが、後世今の處に遷座すといふ。式内社にして俗に風の宮とも砥倉の宮とも稱へき。風の宮といふは、人若し神社の境内を穢しなどせば、大風忽ち吹き起ると傳へしによる。故に米商人等米價釣上[やぶちゃん注:「つりあげ」。]を策せんとする時は、此の宮に來りて惡戯をなし、神怒により暴風を起さしめんとするものあり。爲に往時は村の入口に番人を置きて警戒せしめしことあり。その警備の費用は之を藩より下賜せられたりといふ。

〔大日本史[やぶちゃん注:「神祇志」の条。]〕

日置神社、今在片谷[やぶちゃん注:「へきたに/へぎだに」。この村もダムに水没した。]坂下二村界、稱砥倉明神、蓋是、按片調幣伎、與日置相通、

[やぶちゃん注:最後は「按ずるに『片調・幣伎』、「日置」と相ひ通ず」と訓ずるのであろう。「片調」はちょっと不明だが、「幣伎」は「古事記」に「へき」と出、「日置」を「へき」と読めるから、「片調」も「へき」か。]

   *

とあり、国土地理院地図では、恐らく、この付近に相当すると指示して下さった。但し、『「砥藏山」の位置は不明』とのことである。ダム湖の中央に架かる橋が「日置大橋」、東北位置の山上に「坂ノ下峠」の地名を確認出来る。T氏がトリミングして下さった湖底に沈む前の地図をい以下に添える。

Photo_20200127105201



或いは、この付近のピークの一つででもあったのであろう。

2020/01/21

三州奇談卷之一 火光斷絕の刀

     火光斷絕の刀

 加州大聖寺の全昌寺は、元祿の頃芭蕉翁の行脚の杖を留られし梵院なり。其わかれの日門前の柳に一章を殘し、

  庭掃て出でばや寺にちる柳   は せ を

おしい哉(かな)其柳も近年の回祿のために跡もなけれども、其高名は世に聞え、其日の姿を彥根の五老井の人の書きたるに、翁の眞蹟を張りて爰(ここ)に猶殘れり。目のあたり其日にあふ心地ぞする。其頃曾良は一日前にやどりして、旅中のなやみ心細くや有けん【世に行るゝ芭蕉の句選に、此句を翁の句とし、金昌寺と誤る。】、

  夜もすがら秋風聞くやうらの山  曾  良

と聞へしも爰なり。實(げに)も浦風の吹越(ふきこ)しやすく、山ひとへに北海の大洋をへだつ佳景はしばらく論ぜず。

 元文年中[やぶちゃん注:一七三六年から一七四〇年。]の事にや、大聖寺家中に小原長八と云ふ人、用有て此寺の後ろを夜半頃通られしが、浦風の面に颯(さつ)とふくにしたがつて、向ふより火の丸風ゆらゆらと來(きた)る。此夜はことに暗闇なりしも、此火の光りにあたりも赤々(しやくしやく)と見えわたりけるに、長八が前に間近(まぢか)く飛來るを、長八も壯年の不敵者なれば、

「心得たり」

と拔打(ぬきうち)に

「丁(てう)」

と打切りけるに、手答(てごたへ)なく、只空を切るごとくなれど、火の玉は二ツに割れて、長八が顏に

「ひた」

と行あたりける。顏は糊などを打かぶせたる樣に覺え、兩眼(りやうまなこ)共に赤う見えすきて、我眼ながらあやしく、其邊(そのあたり)の山々寺院なども朱にて塗りたる樣に覺えければ、

『忽ち魔國鬼界の別世界に落ちやしぬらん』

と、袖を上げ兩手を以て頻に面(おもて)をこすり落(おと)すに、ねばねばとしたる松やにの如くなるもの、多く衣類に付て、次第次第に元のごとく物見え、一時ばかりにしてぞもとの闇夜とは覺えける。何の替りたる事もなけれども、心もとなく、其邊り近き知れる人のもとを叩き起し、やどりて灯を點して[やぶちゃん注:「ともして」。]見るに、ねばねばとしたる計りにて、何とも分つべき方なし。翌一日も貌(かほ)には糊の懸りし如くせんかたなかりし。されども何のたゝりもなし。

 久しくして、浦邊に老(おい)たる者に此事を尋ねけるに、

「海洋に生ずる海月(くらげ)と云物、時として風に乘じ飛行(ひぎやう)すること侍る。暗夜には火光(くわかう)のごとし。是等の類(たぐひ)にや侍らん」

と語りける。

「いかにも左(さ)にや。思ひ廻らせばなまぐささき匂ひも有ける樣にぞ覺へける」

とは云し。

[やぶちゃん注:本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 光明世界」の私の注で、国書刊行会本を参考に電子化している。底本違いで実際に本文の一部に有意な違いがあるので、再電子化した。

「全昌寺」現在の石川県加賀市大聖寺神明町にある曹洞宗熊谷山(「ようこくざん」と読むか)全昌寺(グーグル・マップ・データ)。大聖寺城主山口氏の菩提寺である。現行、海浜からは丘陵を隔てて、三・五キロメートルほどである。

「元祿の頃芭蕉翁の行脚の杖を留られし梵院なり」以下の句とともに、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 75 庭掃いて出でばや寺に散る柳』を是非、参照されたい。ずっと従ってきた曾良が、何故、芭蕉と分かれたかに興味があられる方は、『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 72 今日よりや書付消さん笠の露――曾良との留別』を見られたい。腹の病いでと一般には言われているが、ちゃんちゃらおかしい。もっとメンタルなものである。

「回祿」火災。

「彥根の五老井の人」近江蕉門で蕉門十哲の一人森川許六(きょりく 明暦二(一六五六)年~正徳五(一七一五)年)。名は百仲。「五老井」彼の別号の一つ。近江国彦根藩の藩士で絵師でもあった。

「世に行るゝ芭蕉の句選に、此句を翁の句とし、金昌寺と誤る」という割注は次に掲げる「曾良」の「夜もすがら秋風聞くやうらの山」のことを指す。「芭蕉句選」(華雀編・元文六(一七四一)年跋)「俳諧十家類題集」(屋島編・寛政一一(一七七九)年刊)で芭蕉作と誤伝する。「芭蕉句選」では、ここで指摘する通り、

  金昌寺といふ寺に泊る

終夜(よもすがら)秋かぜ聞(きく)やうらの山

である。

「小原長八」不詳。

「兩眼(りやうまなこ)共に赤う見えすきて、我眼ながらあやしく、其邊(そのあたり)の山々寺院なども朱にて塗りたる樣に覺えければ」これは何らかの理由で眼球及びその周辺の劇症型の急性炎症を起こしたものと私は考えている。後述。

「海洋に生ずる海月(くらげ)と云物、時として風に乘じ飛行(ひぎやう)すること侍る。暗夜には火光(くわかう)のごとし。是等の類(たぐひ)にや侍らん」シチュエーションとしては浦風がかなり激しく吹いていたと読めるから、実際に砂浜に打ち上げられたクラゲが、たまたま強風に煽られ、長八の顔面に附着することはないとは言えない。仮にその中に強毒性で乾燥した刺胞も極めて危険な刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica(別名「ハクションクラゲ」)、或いは、気泡体が風船のように発達する刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis なんぞであったなら、顔面が激しく炎症を起こし、眼は失明の可能性もあったやも知れぬ(両者は海浜に打ち上げられて時間が経ってもも刺胞は物理的に十全に機能するし、前者は乾燥させた粉末を忍者が目潰しに使っていたという説もある)。但し、これらの種は逆立ちしても赤色発光はしないから、まあここは伝承でも珍しい「海月の妖怪」ということにしておこうではないか。それが、また、面白かろうからに。]

2020/01/20

三州奇談卷之一 菅谷の巨蟒

    菅谷の巨蟒

 寶曆三年[やぶちゃん注:一七五三年。]の五月何(いづれ)の日とやらん。江沼郡(えぬまごほり)荒谷(あらたに)といふ所に、六兵衞・長吉と云兄弟の獵人(かりうど)ありて、元より剛氣壯力(さうりよく)著しく、鐵砲に妙有。百步に猛獸を打つに一つもたがはず、音と共に倒る。故に日ごとに獸を得る事、袋を探つて物を出すがごとし。

 此日亦兄弟打連れて菅谷(すがたに)と云へる所の奧を探し盡すに、風に臭氣あり。草木凋(しぼ)むように覺え、何となく空恐しく、谷を出しが、

『いづれの谷へ入ても斯る事はなし。此菅谷は、はじめて分入るとはいへども、斯(かか)る事は去(さる)にても何のわざにか有けん』

と立戾りて、友の獵人に相話せば、

「しらずや此奧には年久敷(としひさしき)巨蟒(うはばみ)有て、人一度是に觸るゝ時は生(いき)て歸らずと聞く。必(なららず)此(この)わざならん、早く歸り去るべし」

と云捨てゝ過(よぎ)る。其詞の下より、長吉身拵(みごしらへ)して立向ふ躰(てい)なり。六兵衞は

「何れへ行くぞ」

と問へば、長吉曰く、

「其形の知れざらんにこそ詮方なし。既にうわばみ[やぶちゃん注:ママ。]と聞ては、何ぞ退(しりぞ)き歸る事有べき。我手の中(うち)は、猶蒼海の蛟龍(かうりやう)と云とも相敵すべき技あり。何ぞ一匹の小蛇の爲に、谷も盡さずして歸る理(ことわり)あらんや。」

六兵衞も點頭して、共に今來(きたり)し谷道を再び進むに、實(げに)も藤蘿(ふじかづら)生ひしげり、巨木ひとりと折れくちて、爰(ここ)なん菅谷に猫岩(ねこいは)とかや、人の耳に聞ても恐るゝ所なり。路は亂石毒瘴(どくしやう)[やぶちゃん注:山川に生ずる湿熱性の危険な毒気。]一步も進むべからず。玉の二つものに玉藥あく迄込みて、兄弟立ならびて聲をひそめて窺ふ。頃は五月雨の雲くらく、空晴の日あし深く胸にさし返し、露けき岩頭に白き茨の花のちりがてにみへたる中に、

「さてこそ見ゆれ」

と指覗(さしのぞ)き見れば、大(おほい)さ二抱(ふたかかへ)にもあまりつべき牛の頭の如き物あり。万物(ばんぶつ)我には敵せざる鼻息は、むべ山風とも云つらん。人身(じんしん)をつんざくばかり臭氣あたりを拂ひ、岩にまとふて長き事は計るべからず。六兵衞・長吉ちつとも恐れず、筒先を揃へ、彼巨蟒の鼻頭(はながしら)をねらい濟して、互に

「どつ」

と火ぶたを切て放しければ、何かは少しもはづすべき、思ふ坪ヘ二ツともに血煙り立て打込みたり。

 忽ち山鳴り、樹木めきめきと動き出で、臭氣黑烟見るうちに暗黑となれば、兄弟は鐡砲打かづき、逸足(いつそく)出して迯出(にげだ)しけるに、谷中(たにうち)暗々たる氣の内に、風吹き岩くだけ、大木ねぢ折るゝ音すさまじく震ひけるが、半時許りありて一聲に

「どう」

と倒(たふ)るゝ音有ける。其響くこと、只大地も裂け坤軸(こんぢく)[やぶちゃん注:古く大地の中心を貫き支えていると想像されていた軸のこと。]もくだけやすらんと夥(おびただ)し。さしも剛氣の獵人ながら、

「此時には足なへ、腰(こし)力(ちから)なくて、ぐさと路に座しける」

とは咄しぬ。

 其後(そののち)は此谷中にはうはばみ死し居(をり)ぬと、しばしば人もおそれしが、日數たつに隨ひ、大聖寺家中よりも一二人行(ゆく)ぞと見へしが、夥敷(おびただしく)見物人行集(ゆきつど)ひ、終(つい)に其姿を引おろして尺を計るに、まはり八尺計(ばかり)[やぶちゃん注:約二メートル四十二センチメートル。これから計算すると蟒の胴の直径は七十七センチメートルにもなる。]、長さ九間餘[やぶちゃん注:十六メートル三十六センチメートル超。]あり。

「おもひしよりは短かき物なり」

と、家中見來りし人の物語なり。

 此鱗とて今此邊(このあたり)所々に殘れり。

 實(げに)にも是より谷淺く樹(き)かれて、夜陰も人の通ひ自由を得たり。

 二子(にし)は今も熊を打ち、豬(ゐのしし)を追ふて恙(つつが)なし。

「常に深谷幽谿に行通(ゆきか)ふといへども、此蛇を打し時ほどのおそろしさはなし」

とかたりぬ。

[やぶちゃん注:「菅谷の巨蟒」「巨蟒」は「すがたにのうはばみ」と訓じておく(「菅谷」は以下に示す通り、固有地名。後者は音なら「きよまう(きょもう)」であるが、こうなっては音読みする意味がない気がする)。さてもここに非常な問題がある。写本版は孰れも標題を「荒谷巨蟒」とし、本文中の一部でも蟒蛇の出た谷を「荒谷」としているからである。しかし、一読、これはやはり底本通りで「菅谷」が正しく、「荒谷」は致命的に誤りと判るのだ。何故なら、頭の部分で「江沼郡(えぬまごほり)」の「荒谷(あらたに)といふ所に、六兵衞・長吉と云兄弟の獵人(かりうど)」住んでいたとあるからである。最初に蟒が出現するシークエンスで、二人(或いは兄六兵衛)が『此菅谷』(実に国書刊行会本はここも「荒谷」なのである)『は、はじめて分入るとはいへども、斯(かか)る事は去(さる)にても何のわざにか有けん』と激しい疑義を感じていることから、この蟒蛇の出現した谷の名は絶対に住んでいる「荒谷」ではなく、初めて分け入った「菅谷」でなくてはおかしいからである。疑義のある人に言っておくと、ど素人が考えても、山の狩人が、自分の住んでいる広域地名「荒谷」の中に、行ったことのない「荒谷」があるというのは、これ、ちゃんちゃらおかしいことになってしまうからである。その「荒谷」地区が異様に広域で人跡未踏の地を含むというなら、まだしもだが、調べてみると、この「江沼郡荒谷」とは、恐らく現在の石川県加賀市中温泉荒谷町付近であり(現在のここは決して広域でない。但し、山深い場所である)、その南の西方の、尾根を幾つか越えたニキロメートルほど行った山中に、現在の石川県加賀市山中温泉菅谷町があるのである(グーグル・マップ・データ航空写真こちらを参照されたい。二つの町を確認出来るようにした)。そうして、現在の後者菅谷は東で大聖寺川沿いに有意な集落群を持っていて(荒谷には見当たらない)、最後の「今此邊」はこの蟒退治以降、「谷淺く樹(き)」枯「れて」(蟒の死体の放つ毒気によって枯れたのである)、「夜陰も人の通ひ」、「自由を得」るまでに開けたというのと一致するからでもある。

『いづれの谷へ入ても斯る事はなし。此菅谷は、はじめて分入るとはいへども、斯(かか)る事は去(さる)にても何のわざにか有けん』この台詞を敢えて私は二重鍵括弧の心内語にした。何故なら、山の怪に遭遇した時は、決してこちらから半端な言挙(ことあ)げをしてはいけないからである。中途半端な認識や軽率な行動をすることが致命的に危険であることは、「古事記」の倭建命(やまとたけるのみこと)の伊吹山の神の化身であった大蛇を誤認したことを持ち出すまでもないことである(それは彼の悲劇の死の最初の契機となっているのである)。山でお喋りは禁物だ。山の神や怪物が攻撃をかけようとその相手の情報に聴き耳を立てていると考えられたからだ。いや、実際、登山でもお喋りな奴は最初にバテるし、怪我もし易い。

「蛟龍」中国古代の想像上のプレ段階の龍の一種。水中に潜んでおり、雲雨に逢えば、それに乗じて、天上に昇って龍になるとされる。「みずち」。

「點頭」うなずくこと。

「藤蘿」所謂、蔦(つた)類の総称。

「猫岩」と呼称するからには人跡未踏の禁断の地ではないことが判る。2020127日:削除・追記】T氏よりメールを戴いた。

   《引用開始》[やぶちゃん注:やや表現を変えさせて貰った。]

 「加越能三州奇談」では「我谷の猫岩」となっており、猫岩は加賀市山中温泉東町一丁目に現存します(「Mapion」のデータ)。国土地理院地図ではここです。感想ですが、西谷と東谷の間の山は南に行けば高くなりますが、このあたり(菅谷より下流)では二千三百メートル級で人跡未踏の感じはありません。山中温泉なら、「奥の細道」ゆかりで俳諧を嗜む麦雀・麦水が訪れたとして良いように思います。

   《引用終了》

とあった。サイト「山中温泉料理飲食大図鑑」の「猫岩」に写真と解説があり、『通称「大岩」あるいは「大巌」と呼ばれる安山岩質の火山岩で、さしずめ山中のエアーズロックといったところ。 ちょうど大聖寺川下流の対岸に位置するため、古来より湯治客が最初に目にする景色として強い印象を与えている。古い言い伝えによると、その昔、ある石大工がこの岩を削り取ろうとした』際、『ふと気がつくと、血だらけの猫がその男を凝視していたという』。『現在では健康(特に眼)の守護神として』八月二十八日に『大祭が行われている』とあった。二十五の頃に父母と行ったから見ているはずなのだが、全く記憶にない。

「玉の二つものに玉藥あく迄込みて」単式鉄砲に、異例に弾丸を二つ込めて、しかもそれを射出するに可能な多量の火薬を入れたことを意味しよう。但し、銃身自身がそれに耐えられなければ爆裂して射手自身の命が危険になる確率が頗る高くなる。

「さてこそ見ゆれ」ここは実声と判じた。既に対象が邪悪な蟒に過ぎないと認めたからである。ここは逆に言挙げによる勝利性を高めると言える。

「むべ山風とも云つらん」「古今和歌集」の「巻第五」の巻頭に配された「秋歌下」の知られた文屋康秀の一首(二十二番)、

 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐(あらし)といふらむ

を掛けた洒落。「むべ」は「なるほど」の意。

「岩にまとふて長き事は計るべからず」毒気が岩、いや、谷を包んで、その致命的な窒息感は言うに及ばぬ、絶体絶命の事態であったことを謂う。

「黑烟」銃撃によって蟒の生命が瀕死になり、毒気を全身より発し、それが黒い煙のようになって谷全体を覆ったのである。

「逸足」「駿足」に同じい。

「半時」現在の一時間相当。

「大聖寺家」大聖寺藩。加賀国江沼郡及び能美郡の一部を領した加賀藩支藩。本時制の宝暦三(一七五三)年当時は第五代藩主前田利道(享保一八(一七三三)年~安永一〇(一七八一)年)の治世。彼の治世中は領内が多くの災害に見舞われたこともあり、藩の財政は逼迫していた。

「家中見來りし人の物語なり」この謂いから、原著者麦雀はその当時の藩士(或いは隠居した人物)から、直接、これを聴き書きしたことが判る。]

三州奇談卷之一 吉崎の逃穴

     吉崎の逃穴

 吉崎の里は加賀・越前の境。則(すなはち)加賀吉崎といふ有り、又越前吉崎といふ有り。水を隔てゝ國境なり。地は水によりて山を𢌞(めぐ)り、無双の勝景なり。

 眞宗の中興蓮如上人の舊跡城山嚴然として、「腰掛石」は草間に砥(といし)の如く、「瓶中(びんちゆう)の松」と云は、上人佛前の松の一色(ひといろ)[やぶちゃん注:一枝。]を取て指(さし)給ふに、此儘榮えしとにや。近年黑き苔付て六字名號の文字をなすと云ふ。松の立てる樣はさながら花瓶を出る物の如く、七つの道具皆揃へり。

 爰に東西本願寺の懸所(かけしよ)あり。莊嚴(しやうごん)巍々(ぎぎ)たり。三月廿五日には、蓮如上人御忌として、七ケ日が間隣鄕他國の道俗袖をつらねて夥し。前は瀨越・汐屋の浦をはさみて、波間に加島大明神いまそかりける。樹木森々、只一藍丸(いつらんぐわん)のごとし。此樹に宿る鴉、必ず加越の地を分つと云。此長井村は、初め越前に屬して、實盛出生の地といふ。【一説には越前のウネと云ふ所を實盛の生地といふ。】 蓮が浦・竹の浦、皆加越第一の名所也[やぶちゃん注:頭一字空けはママ。]。殊に吉崎は佛緣の地故か、人民等厚く佛(ほとけ)に奉仕し、平日も肩衣の老人、珠數の老婆多く行かよふ事隙(ひま)なし。

 寶曆十年の頃とにや、加賀吉崎の畑を打つ人、何心なく石をはね土を打返し居けるに、忽ち足もとどうと落入て、深き穴にぞ成(なり)ける。猶奧のいくばくともしれず。幸に口せばき所ありて、鍬の引懸りけるにすがりて、聲をかぎりに呼ぶと雖、折節あたりに畑打(はたうつ)人もなし。深き穴に落入しことなれば、遠き所よりは是をしらず。彼の口は葛の根にふさがりて、一露の甘きを樂しめば、[やぶちゃん注:「めれども、」としたいところ。]

「月日(つきひ)の二鼠(にそ)[やぶちゃん注:白と黒の二匹の鼠。昼夜・日月などに譬える。「月日の二鼠」で時の経過の譬えである。後注もした。]、葛の根を喰切とやらん、浮世のたとへも、けふの爰(ここ)ぞ」

と恐ろしくあしきに、いとゞ聲も出ず。されども浮世の緣や強かりけん、からうじて鍬の柄を力に、土に打立(うちたて)打立漸(やうやう)と上り出たりける。其後はのぞく人も恐れ驚きけるに、誰いふとなく、

「此穴極樂へ通じて、西の方へ深きこと測るべからず、彼(かの)國の近道なり」

などいひふらしける。實(げに)も繩を下(おろ)して見し人もありしかども、其深さ計りがたし。心からにや、折々は異香の薰する樣にも聞えける。心なき者は、

「むかしの古井戶か、亂世のぬけ道にか掘當りけん」

なぞいひし。一頃(ひところ)はしきりに見物も立集(たちつど)ひしが、風雨ごとに此道ふさがりて、今は元の田面(たのも)に成ぬ。是(これ)穴居の昔の家路にや、小野篁の忍び路にや。あはれ鎌倉の世なりせば、其奧をもさがさまほしき物を、今は新田が物好きもなかりけるにや、終に地獄𢌞(めぐ)りの沙汰も聞へずして止(やみ)ぬ。里人に尋れば、

「今猶此あたりは、其穴のことを恐れて、鍬も薄氷に打立る心地して、老鷄の步みを恐るゝに似たり」

と、一笑と共に聞へし。或人の曰く、

「佛穴は得がたし。是(これ)畑人不幸にして出る事を得しぞ」

と嘆ぜられし。是又一奇談成べし。

[やぶちゃん注:本篇は以前に「柴田宵曲 妖異博物館 穴」で電子化しているが、底本が異なる。また、柴田の梗概訳も参照されたい。

「吉崎の逃穴」標題は本来の原本の四字漢字表記では音読みであろうが、ここでは「脫穴」は「ぬけあな」と訓じてよかろう。このロケーションは越前吉崎、現在の福井県あわら市吉崎(グーグル・マップ・データ)で、本文にも出る通り、嘗つて吉崎御坊のあった周辺である。吉崎御坊とは、室町時代の文明三(一四七一)年七月下旬、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第八世法主蓮如(応永二二(一四一五)年~明応八(一四九九)年)が本願寺系浄土真宗の北陸に於ける布教拠点としてこの地にある北潟湖(福井県あわら市北部(一部は石川県加賀市にかかる)にある海跡湖。面積約二・一六平方キロメートルの汽水湖)畔の吉崎山の山頂に建立した寺院で、ここには北陸はもとより、奥羽からも多くの門徒が集まり、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び、寺内町を形成した。文明七(一四七五)年八月、戦国の動乱で焼失し、蓮如は吉崎を退去、永正三(一五〇六)年、朝倉氏が加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を「九頭竜川の戦い」で退けた後、未だ吉崎に残っていた坊舎をも破却したため、以後は原御坊は廃坊となった(以上はウィキの「吉崎御坊」に拠った)。

「水を隔てゝ國境なり」「水」は吉崎の北直近の石川県南部を流れる大聖寺川。

「腰掛石」「北陸に伝わる蓮如上人伝承」PDF)によれば、『ある夏のこと、何日も日照りが続き、村人たちは田んぼの水やりに忙しく、蓮如上人のお話を聴きに行く暇もなかった。蓮如上人は心配され、お腰掛け石の近くにあった水受けの水をすくい、お念仏を称えながらその水を振りまくと、ポツリポツリと雨が降り出したという。お腰掛け石には蓮如上人の温もりが今も残り、大雪の時でも一番はじめに雪が解けると伝わ』り、ここに蓮如が座っては、『美しい吉崎の景色を楽しまれ、和歌などを詠まれた』ことから、「お腰掛け石」と呼ばれるとある。現在、後の享保六(一七二一)年に吉崎御坊願慶寺(吉崎御坊とは本願寺からの任命による吉崎での本願寺直轄寺院を指すもので旧坊の吉崎道場の後身)となったその境内に現存する。同寺公式サイトのこちらで位置が確認でき(御坊跡の東北直近)、同サイトでは旧御坊の復元絵図なども見られる。また、サイト「ト⁠リ⁠ッ⁠プ⁠ア⁠ド⁠バ⁠イ⁠ザ⁠ー」のこちらで当該の石の写真が見られる。

「瓶中の松」「北陸に伝わる蓮如上人伝承」PDF)の「お花松」よれば、『蓮如上人が、いつものように本堂でお勤めなさった後、ほとけ様のお花松を抜いた。お庭に出て、お花松を丁寧に挿し木し、お念仏を称えられ、お供の者に、「もし、この松が根付いたら、吉崎御坊が栄えること間違いない」とおっしゃった。松は根付き、江戸末期まであったという。御山には初代の古株が残っており、その横に二代目の松がある』とある。fu345氏のブログ「福井の魅力を知りたいブログ(時々県外)」の「あわら市 蓮如上人と吉崎御坊、お腰掛け石とお花松の伝説」で前の「腰掛け石」と合わせて初代とする切り株や周辺の画像が見られる。この「お花松」とは仏前に供える枝葉の仏花の意。

「七つの道具」立花(りっか:花や枝などを花瓶に立てて生けること。たてばな)で基本となる七つの役枝(やくえだ:立花に於いて主要な役割をする枝)。「真」(構成の中心となる枝)・「副え」(「真」の枝に添えて引き立たせる枝)・「受け(請け)」(「副え」の枝に対して低く横に出ている枝。植生しているそれでは地面に近い枝を指すようである)・「正真(しょうしん)」(「真」の内で正面にある限定部分を指すようである)・「見越し」(「正真」の下方から上方へ突き出る枝を指すようである)・「流枝(ながし)」(下方の上へ向いて反り出した枝を指すようである)・「前置き」(生花では水際に挿すものとするので地面に最も近い張り出した枝或いは前にある草木のことであろう)。一部は小学館「大辞泉」に拠り、判らぬ部分は「西本願寺」公式サイト内の仏華の解説(七つどころか十三ある)を参考に推定した。

「懸所(かけしよ)」東本願寺に於いて御朱印を受けるところで「掛所」とも表記する。西本願寺では「役所」「兼帯所」と言うらしい。

「巍々」厳(おごそ)かで威厳のあるさま。

「三月廿五日」「蓮如上人御忌」蓮如は明応八年三月二十五日京の山科本願寺で数え八十五歳で没した。

「瀨越・汐屋の浦」現在、石川県加賀市側の大聖寺川右岸に大聖寺瀬越町が、その西部分に加賀市塩屋町(グーグル・マップ・データ)がある。この大聖寺川はその蛇行様態や浸水ハザード・マップを見るに、かなり往時とは異なっていた(もっとこの両地区に海が入り込んでいた)可能性が高いと思われ、南に細長く貫入する北潟湖を含めて「浦」は腑に落ちる。

「加島大明神」大聖寺川と北潟湖の分岐する砂州状の突出部(陸繋島)にある、鹿島神社(グーグル・マップ・データ)。現在、「鹿島の森」として保全されており、ウィキの「北潟湖」によれば、『大聖寺川と北潟湖に囲まれた海抜』三十メートル、面積約三万平方メートルの『小高い山林で、全域が石川県加賀市に属している。もともと孤島だったが』、貞享五・元禄元(一六八八)年『頃から始まった加賀藩の土木工事により砂州が発達し』、正徳三(一七一三)年『頃には陸続きになった。山全体に照葉樹の原生林が広がっており、うちイヌマキなどは当地が植生北限とされている』。この森は昭和一三(一九三八)年に『天然記念物に指定』『された』。『鹿島神社があり、山全体が神域である』とある。これは非常に興味深い描写である。何故なら、本文ではこの「鹿島大明神」は「波間」に鎮座されておられると言っているからである。麦雀の書いた本作の原型がいつ成立したかは不明なわけだが、本「三州奇談」の完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃とあるから、その時は陸繋島となったずっと後である。即ち、麦雀が原作を書いた時には鹿島神社は「波間」にあって、完全な陸繋島化はしていなかったということを意味するものと読めるからである。即ち、原作者麦雀がここを実見したのは、少なくとも正徳三年よりも明らかに以前であり、へたをすると、貞享五・元禄元年頃か、それ以前にさえ遡ると考えられるからである。さすれば、麦雀(但し、彼の生没年は未詳)の原作の完成が、その辺りの閉区間にあったと考えてよいのではないかと思われるからである。俳号の一部一致からは一見、麦雀と麦水は同時代人のように錯覚するが、これは伊勢派であるからに過ぎない。しかも麦水がこの原作が散逸するのを憂えて再筆録したのであるからには、原作が書かれてから相応の年月が経過していると考えるが妥当であると私は考えるからでもある。

「一藍丸」一つの暗い青緑色の塊り。

「此樹に宿る鴉、必ず加越の地を分つ」この鹿島大明神の神域の樹木に巣くっているカラスは、加賀と越前の地をそれぞれ認識し、どちらかの一方の国を縄張りとしていて、競合しないということであろう。カラスは熊野大社を見ればわかる通り、古くは神鳥であり、神使であった。

「長井村」吉崎の東に接する石川県加賀市永井(グーグル・マップ・データ)のことであろう。

「實盛」加賀国の「篠原の戦い」で鬚髪を黒く染めて奮戦し、安宅で討死にした老名将斎藤実盛(天永二(一一一一)年~寿永二(一一八三)年)。斎藤氏は代々越前を本拠地とした。また、彼が武蔵に移って長井に移り住み、長井斎藤別当と称した事実を考えると、ここでこの地名を「長井」と記しているのは、彼の別称に引かれた結果なのかも知れない。但し、ここが彼の「出生の地」というのは、あくまで伝承の一つで、彼は越前生まれではあるが、限定された出生地は不詳である。

「越前のウネ」不詳。ここに近いところでは(但し、近い必然性は全くない)、福井県あわら市畝市野々(うねいちのの)があり、少し離れると、福井県坂井市丸岡町長畝(ちょうのうね)がある。

「蓮が浦」福井県あわら市蓮ケ浦(グーグル・マップ・データ)。北潟湖の中央部の東岸地区。

「竹の浦」大聖寺地区まちづくり推進協議会制作のサイト「大聖寺 十万石の城下町」の中に「竹の浦館」があり(地図有り)、そこに、『竹の浦館が位置する瀬越町は、かつて多くの北前船主を輩出しました』。『この建物は』昭和五(一九三〇)年に『人材育成を願った北前船主をはじめ村の有志の方々の寄付により、『瀬越小学校』として建てられました』。『その後』、『「青年の家」として活用されていましたが、老朽化により取り壊しの計画が持ち上がりました』が、『地元の人々の建物を保存したいという強い熱意により』、『地域活性化と文化交流の拠点「竹の浦館」となり、各種のイベントや特産品の販売などを行っています』とあった。この名称からみて、この付近の、海が大聖寺川方向に貫入した部分の旧呼称と推定される。

「人民等厚く佛(ほとけ)に奉仕し」筆写本では「人民篤厚金僊(ホトケ)に奉仕し」(「ホトケ」のルビは二字へのそれ)。

「肩衣」(かたぎぬ)はここでは門徒の信者が看経(かんきん)の際に、着流しで肩に羽織るのに用いる衣のこと。

「寶曆十年」一七六〇年。徳川家重が家治に将軍職を譲った年。

「忽ち足もとどうと落入て、深き穴にぞ成(なり)ける」写本ではここは、「忽ち」はなしで、

足もとどうと落入て、見へぬ斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]に埋もれける。大に[やぶちゃん注:「おほきに」。]おどろき、土に取つき石にすがりするに、皆、落入て、深き穴にぞ成にける。

とあって以下の「猶奧のいくばくともしれず」に続く。

「彼の口は葛の根にふさがりて、一露の甘きを樂しめば」「見上げてみると、落ちた穴の入り口辺りは、葛の根がさわに生えて塞がっており、しかし、そこから僅かな露水が滴り落ちるので、それで露のような儚い命をひと時は生を楽しむことが出来ようけれども」と言ったニュアンスか。

「月日の二鼠、葛の根を喰切とやらん、浮世のたとへも、けふの爰(ここ)ぞ」『誰も来ず、時間がたてば、その葛の根も鼠(「月日の二鼠」の「鼠」から洒落たもの)に食い切られるやも知れず――さすれば、水を得る術もなくなり、渴えて死ぬ――そうした浮き世の生死不定(しょうじふじょう)の数々の譬えの謂うところも――まさにこの今のこの時のことじゃやて!』というような謂いであろう。なお、「月日の二鼠」は「月日(つきひ)の鼠」或いは単に「月の鼠」で、求那跋陀羅(ぐなばっだら)漢訳になる「賓頭盧(びんずる)説法経」(正しくは「賓頭盧突羅闍為優陀延王説法経(びんずるとつらじゃいうだえんさんおうせっぽうきょう)」)にある法話による古事成句である。それは、象に追われた人が木の根を伝って井戸に隠れていたところ、井戸口の周囲には四匹の毒蛇がいて彼に噛みつこうとし、また、頼みの綱である木の根をば、黒と白の二匹の鼠が齧(かじ)ろうとしていたというたとえ話で、象が「無常」、二匹に鼠が「月と太陽」=「昼と夜」、四匹の毒蛇が「地・水・火・風」の「四大」に譬えられてあり、これ全体が「この世に於いて瞬く間に月日が過ぎ行くこと」と「生死無常の様態」を比喩している。

「心からにや」気の持ちよう(西方浄土に繋がるというのをどこかで信じて)によるものか。国書刊行会版では『いつからや』とあるが、直後とのジョイントが悪い。

「折々は異香の薰する樣にも聞えける」時によってはえも言われぬ、何やらん嗅いだことのない香りが薫ずるようなこともあるやに聴いている。「聞(きこ)ゆ」には「匂いが自然に漂ってくる」の意があるから、そう訳しても問題ない。文章を粉飾することが好きな傾向のある筆者の狙いは、寧ろ、そっちかも知れぬ。

「心なき者」無風流な現実主義的な人。

「穴居の昔の家路にや」古え、居生活をしていた人々があって、その地下の家々のある集落へと通ずる通路だったのか。

「小野篁」(おののたかむら 仁寿二(八五三)年~延暦二一(八〇二)年)は公卿で文人。異名は野相公・野宰相、その反骨精神旺盛な気質から「野狂」とも称された。承和元(八三四)年に遣唐副使に任命されたが、同五年の三度目(前の二回は都唐失敗)の出発に際し、大使藤原常嗣が浸水していたため、篁の乗る船を求められた(嵯峨上皇に上奏して認可された)ことに憤慨し、病気と偽って乗船を拒否(遣唐使節は篁を残して渡海)、後に遣唐使の事業を風刺する痛烈な漢詩「西道謡」を作ったことで(現存しない)上皇の怒りを買い、隠岐に流された。二年後、召還されて同十四年に参議となった。博識多才で漢詩は白楽天、書は王羲之父子に匹敵するとまで言われた才人でもあった。「経国集」・「和漢朗詠集」・「古今和歌集」などに作品を残すほか、「令義解」の編集にも携わった。また、冥官(地獄の閻魔王の庁の役人)となって冥土と現世を往来したといった幻想的逸話も多く(「今昔物語集」・「江談抄」)、京都市東山区の珍皇寺や上京区にある引接寺の千本閻魔堂には現在もそうした伝承が残る。

「あはれ」ここは単なる感動詞。

「鎌倉の世なりせば、其奧をもさがさまはしき物を、今は新田が物好きもなかりけるにや」「新田」は鎌倉初期の武士で伊豆国御家人新田(仁田)四郎忠常(?~建仁三(一二〇三)年)のこと。源頼朝が挙兵した際に馳せ参じた直参の一人で、以後、頼朝の側近として仕え、元暦二 (一一八五)年三月には範頼に従って鎮西各地を転戦した。建久四(一一九三)年五月の曾我兄弟による仇討の際には、兄十郎祐成を斬っている。建仁三 (一二〇三)年には北条時政の命により、第二代将軍頼家の外戚比企能員を暗殺して一族を攻め滅ぼしたが、その後、頼家の命を受けて時政を除こうとして露見、逆に加藤景廉に殺された。さても、頼家は洞窟フリークで、建仁三(一二〇三)年六月、富士の牧狩りの際、彼に命じて、現在の知られた溶岩性洞穴である「富士の人穴(ひとあな)」(国土地理院図)の探検をさせたことを指す。私の「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士人穴に入る」を読まれたい。私が「吾妻鏡」も引用して細かに注してある。

「地獄𢌞(めぐ)り」「北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士人穴に入る」の四郎忠常の帰還後の報告部分を見られたい。

「佛穴」「得がたし」と言い、「是(これ)」、「畑人」はまっこと残念! 「不幸にして出」てしまったものだ「と嘆」いた、というのだから、これは前に出た一説の通り、この奇体な穴を西方極楽浄土への通路であったとするものであろう。先の電子化の「柴田宵曲 妖異博物館 穴」で私は注して、『流石、「三州奇談」、穴落ち農夫の田舎話に豪華な風雅をサンドイッチしている辺り、著者はやはりタダモノではない。最後の「佛穴(ぶつけつ)は得がたし。」は「仙骨(せんこつ)は得難し。」(「杜子春傳」染みた台詞だ。但し、そこでは「仙才之難得也。」であったが。リンク先は私のオリジナル・テクストである)のパロディか?』と述べた。この印象は変わらない。

2020/01/19

三州奇談卷之一 大日山の怪


[やぶちゃん注:以下、本底本(立国会図書館デジタルコレクションの日置謙校訂「三州奇談」(昭和八(一九三三)年石川県図書館協会刊)))では段落形成がなく、完全なベタ文なので、長いものはかなり読み難いことから、諸本を参考にしつつ、総てについて、独自に段落を成形することとし、直接話法箇所も改行することとした。各段落も現行の書式に従い、一字下げた。

    大日山の怪 

 爰(ここ)に云ふ、越の白根は知らぬ國無き名所、言續(いひつづ)けんは事古(ことふ)りたれど、彼(か)の「古今集」にも見えて、

  消はつる時しなければ越路なる

       しら山の名は雪にぞありける

となん。千古の眺望を盡して、今猶旅人の笠の端(は)だにさばかりに仰ぐなるを、一年(ひととせ)加州の太守松雲相公(しやううんしやうこう)の、

「此山の正面と云ふべきを𤲿(ゑ)に寫すべし」

と、𤲿工(ぐわこう)梅田何某(なにがし)にものせられしに、加越のかぎり普(あまね)く經(へ)めぐりて、終に加州小松の邊(ほとり)須天(すあま)といふ里のはづれを正面に究めて、圖(づ)し呈しけるを、公殊に御意に叶ひ、常の間の壁上(へきじやう)に懸けて愛翫なし給ふと聞きぬ。

 其地は白根のみか、北山の尾左の方に當りて大日山(だいにちさん)といふも見ゆ。是は富士に足高山(あしたかやま)のある如く、此山の左に匍(はひ)て彌々(いよいよ)白根の雄威を增す。抑(そも)大日山といふは、越の大德(だいとこ)泰澄大師の白山を開かんとして先(まづ)此山に宿ると、其邊(そのあたり)の土人の舌頭に殘り、大日山の絕頂には大きなる窟(いはや)あり。是泰澄の籠り給ふ跡にや。又半腹に池あり。夏天に雨乞をする時は、此池に鯖(さば)といふ魚を切りて投入るゝ時は、忽ち雨ふるといふ。地震に水潔(いさぎよ)く、麓はことに景するどからず、花草岩間に生じて人の目を慰むれば、人里遠しと雖、大聖寺・小松等の遊人、春花を追ひ又は秋禽を尋ねて、折には行通ふところなり。

 寬延[やぶちゃん注:一七四八年~一七五一年。徳川家重の治世。]某の年、新保屋(にひほや)何某二三人の友を催し、頃しも葉月[やぶちゃん注:旧暦八月。]の半過(なかばすぎ)、風未だ寒からず、日も亦强からねば、

「いざや此大日山に遊ばゞや」

と、破籠(わりご)[やぶちゃん注:檜の白木の薄板で作った食物の容器。内部に仕切りがあって被せ蓋(ぶた)をする。今の弁当箱。]樣(やう)の物に折節海邊の佳魚したゝか入れて、一僕に風呂敷の沈むまで荷はせて、「若(もし)暮(くれ)なば月かけて串の里の靑樓に宿らんよ」と、「朝風(ていふう)の吹井(ふきゐ)」と云ふ銘酒など汲交(くみかは)しつゝ立出でぬ。行々女郞花(をみなへし)に立ち、野草に座し、淸水を掬(きく)し、蜻蛉をたゝきなど、ざれもて行く程に、秋の日の未(ひつじ)の刻にも下(さが)りぬらん[やぶちゃん注:ここは昼飯がやや遅いものの「下り」とあるからには午後三時過ぎということになろうか。]、彼(かの)山もとに着きぬ。とある岩頭に辨當を下(おろ)し、靑氈(せいせん)[やぶちゃん注:青色の毛氈。]纔(わづか)に延べて、

「今日の獲物は非ㇾ熊(くまにあらず)、羆(ひぐま)に非ず、松茸・初茸(はつたけ)こそくしき[やぶちゃん注:「奇しき」。変わった珍味としての。]望(のぞみ)なれ」

と戲れながら、皆々木の根さがさんと岩陰、樹の間に分け入りて、暫くして立歸り見るに、彼の辨當を(おき)置たる所、更に何處(いづこ)と知れ難し。人々呼傳(よびつた)へて是を語る。皆々あきれて、

「是こそ一大事の物、普(あまね)く探せや」

と、數町[やぶちゃん注:一町は百九メートル。]の間あちこちと尋求めけれども、終に行方(ゆきかた)なし。彼の御室(みむろ)法師の兒(ちご)をさそへる興になさんとするにもあらず、

「慥に此松、岩が根」

と水の手寄(たより)も目角(めかど)有るに、ひたぶる其あともなし。人々あきれて邯鄲(かんたん)に步(あゆみ)を失ふ人々の如く、顏靑う見合はせて暫く詞もなし。

「猶未だ日(ひ)西山に高ければ、是を力に出でよや」

と、興も盡き力も拔けて、足弱車(あしよわぐるま)の下り坂に、途(みち)五六町[やぶちゃん注:五百四十六~六百五十四メートルほど。]も下りけるに、一僕餘りに打腹立(うちはらだち)て、

「我が置ける物なれば、只我のみの責のやうに覺えて、今一度探し見てん。獵人(かりうど)・木樵(きこり)などの業(わざ)ならんには、やわか生けてはおかじ」[やぶちゃん注:「やわか」は副詞「やわ」+係助詞「か」で、下に打消の推量の表現を伴って「よもや」の意。怒り心頭に発して「よもや生かしておいてなるものかッツ!」という罵りのニュアンスである。]

などいひて、人々の留(と)むるをも聞かず、二三町走り歸りけるが、怪しく空を見上げて暫く立ち、人々を招きけるに、

「何事ぞ」

といひいひ、皆々歸り來る。僕が指さす方をみれば、遙に[やぶちゃん注:「はるかに」。]水一筋を隔たる向ふの山の岨[やぶちゃん注:「そば」。崖。]、二丈[やぶちゃん注:約六メートル。]許(ばかり)なる古き松の枝の蓋(ふた)のごとくなる上に[やぶちゃん注:枝が広がってこんもりとし、あたかも蓋を覆ったようになったその上に。]、靑くひらめく物あり。能々(よくよく)みるに彼(か)は是(これ)毛氈なり。辨當も吹(ふき)まどはれて見えければ、

「さては猿などの所爲にこそ[やぶちゃん注:句点が欲しいところ。]惡(にく)き事なり。若(もし)猿などの居なばたゝき殺せよや」

と、人々脇差・棒など打振(うちふり)て、彼の松のもとへ、俠氣(けふき)に任せて茨(いばら)を飛び水を渡りてかけ行き、近く成(なる)まゝに是を見れば、彼辨當にまがふべくもあらねども、只手にすくひて松が枝に載せたるごとく、人のわざとは見えず、又寂として他の生類(しやうるい)の見えず[やぶちゃん注:別本では「生類も見えず」。]。其中に彼(かの)僕は松に攀登(よぢのぼ)りて、繩を付(つけ)て辨當をおろし、毛氈をかゝへて枝を飛下(とびお)る。皆々悅び、彼道を越(こえ)て元の地に戾り、さて開き見るに、風呂敷の包樣(つつみやう)・結び目も何の替ることなし。人々拾ひたる心地して、何の分別もなく食をくらひ酒を吞み、少し腹力(はらぢから)もつき、飢もやみたるまゝに、人々云合せて見るに、飯・煮染(にしめ)樣(やう)の物は有しかども、蟹・甲いかの類(たぐひ)を初め、都(すべ)て魚類の物一種もなし。蟹などは殊に多くしたゝめ入來れば、食ふともからの狼藉たるべきに、影もなし。思ひ𢌞(めぐら)す程、理(ことわり)の濟むべき物ならず。

「木の上に有し時も、只風などの吹きすゑしやうに居すわり、風呂敷も重(ぢゆう)も包樣(つつみやう)替らずして、たゞ魚物は消(きゆ)るごとくになかりしは、大日山と云へるにより、魚類を忌み給ふ地にこそ」

なんどいひいひ、歸る[やぶちゃん注:句点が欲しい。]興もつき、氣力もぬけて、道のよるべき遊興も心なしと、一(いつ)さんに我家に歸る。其後(そののち)も此一事のみ云出(いひいだ)しては不審はれず。

 或醫師の人に尋けるに、

「山𤢖[やぶちゃん注:読みを含めて後注参照。]蟹をおしむといふ事、書にも候へば、扨は山丈(やまをとこ)・野女(やまうば)の類(たぐひ)、魑魅魍魎の仕業(しわざ)にこそ」

と聞(きこ)へけるに、彌(いよいよ)心付て思ひめぐらせば、

「侠氣に任せて谷を渡り松をよぢたりしこと共(ども)、今思ひ出して身ふるはれ、毛孔(けあな)皆立ち、再び山に至らず。我のみか人にも異見することにぞ成(なり)ぬ」

と聞えける。

[やぶちゃん注:私は実は本篇を一度、電子化している。二〇一七年のお雛さまの日の『柴田宵曲 妖異博物館 「行廚喪失」』である。柴田は、かなり丁寧に本篇を本文で現代語訳している。それに私は国書刊行会本を参考に本篇を電子化してあるのであるが、今回は全くのゼロからやり直した。そちらの柴田の梗概も参照されたい。

「大日山」は福井県勝山市及び石川県加賀市と小松市に跨る標高千三百六十八メートルの山。嘗つては二十四キロメートル東方の白山と並ぶ修験道の山であったらしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「越のしらね」先条の白山のこと。

「消はつる時しなければ越路なる」「しら山の名は雪にぞありける」「古今和歌集」の「巻第九 羇旅歌」に載る凡河内躬恒の一首(四一四番)、

  越の國へまかりける時、白山(しらやま)を見て、よめる

 消えはつる時しなければこし路なるしら山の名は雪にぞありける

である。これは表の風雅な詩想とは別に一種の掛詞的遊戯、駄洒落でもあって、「越路(こしぢ)」は「來(こ)し」を、「雪」はその「來し」に対する「行き」を引き出すようになっているものであろう。

「加州の太守松雲相公」加賀藩の第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)。法名は松雲院殿徳翁一斎大居士であり、彼は参議であったが、「相公」(しょうこう)は参議の唐名である。ウィキの「前田綱紀」によれば、『叔父徳川光圀や池田光政らと並んで、江戸時代前期の名君の一人として讃えられて』おり、また、『隣国の福井藩との争いである「白山争論」』(延暦寺の末寺となった加賀国白山寺白山本宮・越前国霊応山平泉寺・美濃国白山中宮長滝寺の三者は白山頂上本社の祭祀権を巡って永く争いを続けたが、寛文八(一六六八)年、白山麓は江戸幕府の公儀御料となり、霊応山平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得した)『に決着をつけた。また、母の冥福を祈って白山比咩神社に名刀「吉光」を奉納した(これは現在国宝となっている)』ともある。

「𤲿工梅田何某」個人名は判らぬが、梅田家は江戸前期から幕末にかけて加賀藩御用絵師を代々務めた狩野派の家系として知られるから、その中の一人であることは間違いない。

「小松の邊(ほとり)須天(すあま)といふ里」現在の石川県小松市須天町(グーグル・マップ・データ)。白山の北西正面に当たる。

「足高山」静岡県の富士山南麓にある愛鷹山(あしたかやま)(グーグル・マップ・データ)の古名。最高峰は標高千五百四メートルの越前岳であるが、狭義には南方にある千百八十七メートルの愛鷹山峰を指す。

「泰澄」(たいちょう 天武天皇一一(六八二)年神護景雲元(七六七)年)は奈良時代の修験道の僧で当時の越前国の白山を開山したと伝えられ、「越(こし)の大徳」と称された。越前国麻生津(現在の福井市南部)で豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれ、十四歳で出家し、法澄と名乗った。近くの越智山に登って、十一面観音を念じて修行を積んだ。大宝二(七〇二)年、文武天皇から鎮護国家の法師に任ぜられ、豊原寺(越前国坂井郡(現在の福井県坂井市丸岡町豊原)にあった天台宗寺院。白山信仰の有力な拠点であったが、現存しない)を建立した。その後、養老元(七一七)年、越前国の白山に登り、妙理大菩薩を感得した。同年には白山信仰の本拠地の一つである平泉寺を建立した。養老三年からは越前国を離れ、各地にて仏教の布教活動を行ったが、養老六年、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜っている。天平九(七三七)年に流行した疱瘡を収束させた功により、孝謙仙洞の重祚で称徳天皇に即位の折り、正一位大僧正位を賜り、泰澄に改名したと伝えられる(以上はウィキの「泰澄」に拠った)。

「地震に水潔(いさぎよ)く」濁らないことであろう。

「大聖寺」石川県江沼郡にあった大聖寺町(だいしょうじまち)。錦城山に白山寺(廃仏毀釈により廃寺)末寺である白山五院の一つ大聖寺(同前)があったことに由来する。この付近(グーグル・マップ・データ。白山を含めて示した)。

「小松」現在の石川県小松市(グーグル・マップ・データ)の市街部。

「秋禽」秋の鳥の声。

「新保屋(にひほや)何某」不詳。

「月かけて」月を空に懸けてと洒落て言ったのであろう。

「串の里」現在の石川県小松市串町であろう(グーグル・マップ・データ)。

「靑樓」遊郭。

『「朝風(ていふう)の吹井(ふきゐ)」と云ふ銘酒』叙述から醸造元の銘柄と考えた。「朝風に」なら、朝の風に吹かれながら「吹井」という銘酒を景気づけに飲み交わして、でよかろうが。

「羆(ひぐま)」無論、食肉目クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensisは北海道、当時の蝦夷にしかいないが、毛皮としてはかなり古くからその存在が知られてはいた。おどけて言ったわけである。

「初茸」菌界ディカリア亜界 Dikarya担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科チチタケ属ハツタケ Lactarius hatsudake。本邦では非常に古くから食用とされてきた。

「木の根」の辺りを松茸・初茸あらのんかと「さがさんと」。

「呼傳(よびつた)へて是を語る」全員へ戻る前にそれを大声で伝えた。帰ってくる途中で、消えた弁当を探して貰うためである。

「御室(みむろ)法師の兒(ちご)をさそへる興になさんとするにもあらず」「御室(みむろ)法師」仁和寺の僧のこと。男色が黙認され、修行僧らの生活は堕落していた。ここは、「徒然草」の鼎を被ったかの話をまさに連想・想起させながら、滑稽、即ち、誰かが面白がって悪戯でわざとどこかへ弁当を隠したというわけでは、勿論、ない、という謂いであろう。既に未の刻で、全員、腹が減っているわけであるから、そのようなことであれば、まともに吊し上げを食らうことになる。

『「慥に此松、岩が根」と水の手寄(たより)も目角(めかど)有るに』確かに――弁当を置いた場所は――この松の――その形の岩の下――川の流れは――そう、この方角――と、概ね誰もがはっきりと正確な視認位置記憶をしているのにも関わらず、という意味であろう。「目角」は鋭く対象を観察して見切る能力のことである。

「ひたぶる」全く以って完全に。

「邯鄲(かんたん)に步を失ふ」「盧生の夢」の如き気持ちになること。説明するのも阿呆臭い。私はその話のフリークだからだ。私の『芥川龍之介 黃粱夢 附 藪野直史注 / 附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈 / 附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他』(サイト版)を読まれたい。ブログ版だってあるぜ。ただね、言っとくが――膨大だよ。

「足弱車(あしよわぐるま)」原義は車輪が堅固でない車であるが、ここはこの足弱連中の換喩。「下り坂」で膝ががくがくと笑いがちになって処置なしというのであろう。

「辨當も吹(ふき)まどはれて見えければ」引っかかっている青い毛氈は風でちらちらと時々少し舞い捲れているのだが、そこに、おりおり、載った弁当の片影も風に吹かれつつちらちらと垣間見えたので。

「居なば」「をりなば」であろう。国書刊行会本では『居(をら)ば』となっている。

「俠氣」義侠心。しかし、ここは食い物を猿に(と既に限定的に思い込んでいる)隠されたことへの腹立ちに発した、ただの粗野な性質(たち)のこと。

「水」小さな谷川の流れ。

「拾ひたる心地」あたかも拾い物をして得をしたかのような錯覚に陥って。

「蟹」ロケーションから季節的にはちょっと早いが、海産の甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目ケセンガニ科ズワイガニ属ズワイガニ Chionoecetes opilio と考えてよかろう。別に沿岸性のカニ類でもよいが、その蟹があれば、そこでは「食ふともから」(輩)」が先を争って食おうとして、「狼藉」紛々「たる」惨状となる「べき」ものであるとすれば、ズイワイガニしか私には考えられない(但し、これは一般論としてである。私は残念ながらズワイガニを美味いと思わない人間である)。

「甲いか」軟体動物門頭足綱二鰓亜綱コウイカ目コウイカ科コウイカ属スミイカ Sepia esculenta であろう。

「理(ことわり)の濟むべき物ならず」論理的に納得出来るような事態ではない。

「大日山と云へるにより、魚類を忌み給ふ地にこそ」この山を大日如来に関係づけ、仏教の生臭もの、動物の殺生を忌むという風に連想したもの。

「山𤢖」田山花袋・柳田国男編校訂「近世奇談全集」(明治三六(一九〇三)年博文館刊)ではこれに『やまざる』と振るのであるが、どうも気が進まない(少なくとも柳田國男はこんな読みは振らないと断言出来る)。それは直後にこの医師が人型怪奇生物である「山丈・野女」や「魑魅魍魎」を続けて、あたかもこの「山𤢖」と並列するように挙げているからである。しかしてそう考えると私はこれは断然、「やまわろ」或いは「やまをとこ」又は音で「さんさう(さんそう)」と読むべきだと考えるのである。「想山著聞奇集 卷の貮 山𤢖(やまをとこ)が事」を参照されたいが、「山𤢖」とは本来は中国に伝わる伝説上の生物或いは妖怪の名で、「山蕭」「山臊」とも書かれ、中国の古書「神異経」には、西方の深い山の中に住んでおり、身長は約一丈余り、エビやカニを捕らえて焼いて食べ、爆竹などの大きな音を嫌うとある。また、これを害した者は病気に罹るという。本邦の「やまわろ」という語は「山の子供」という意味で「山童」(やまわろ)と同じ意味であり、同一の存在であると見られていた。私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山𤢖(やまわろ)」も参照されたい。

「山丈(やまをとこ)」やはり私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山丈山姑(やまをとこやまうば)」を参照されたい。

「野女(やまうば)」やはり私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「野女(やまうば)」を参照されたい。]

ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:すでに本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」では来日後の全作品集の旧和訳の電子化注を完遂しているが、今回は私の怪奇談蒐集趣味から、来日前にラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の電子化注に入ることとする。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。作品本篇「大鐘の靈」の原題は“THE SOUL OF THE GREAT BELL”(「大梵鐘の霊魂」)である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した。前の内扉の表紙には「龍圖公案」の文字が装飾のように記されてある。これは「りゅうとこうあん」と読み、明代の通俗小説の題名である。全十巻で作者未詳。北宋の名裁判官とされる龍図閣学士包拯(ほうじよう)を主人公とした裁判判例の形をとった小説集で、知られた同系の「棠陰比事(とういんひじ)」とともに日本に伝わって「大岡政談」物の成立に影響した。但し、で本書が同書を原拠としているかというとそうではない。さすればこそ、私は装飾と言ったのである。何かで同書名を見、この文字の様子をハーンは単にデザインとして直感的に気に入ったことからここに配したものかと思うのである(ハーンが選んだのかどうかは推測である。編集者が勝手に選んだ可能性もある)。しかし、「富山大学ヘルン文庫所蔵小泉八雲(ラフカディオ・ハーン[やぶちゃん注:これは「小泉八雲」にルビのように配されてある。])関係文献目録」の本作品集の書誌では、これについて――タイトル・ページに『「龍公図案」の印刷あり』――と解説するのであるが、私は、普通、そのような向きでこの四字文字群を判読はしないと考えるし、中国人も書きもしないだろうと思う。「龍公図案」という文字列の意味するところも私には半可通である。「龍顔」など「龍」は皇帝を意味するが、それにわざわざ「公」はまず附さないし、幻聖獸である龍を尊称で、その図案集というのもあってもおかしくはない。この「龍公図案」で正しいとされ、それが何を指すのかが判る方は御教授願えれば幸いである)で全篇視認出来る(本篇はここから。別な中国人のイラスト(左)と標題(右)ページで示した)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で、郷里島根県の松江中学及び後に進学した東京帝国大学に於いて、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)/小泉八雲(帰化と改名は満四十五歳の明治二九(一八九六)年二月十日。但し、著作では帰化後も一貫して Lafcadio Hearn と署名している)に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は第六高等学校、学習院教授を勤めた。謂わば、小泉八雲の直弟子の一人である。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。「!」の後には字空けはないが、一部で特異的に挿入した。傍点「ヽ」は太字に代えた。本作品集では行空けが有意に広い箇所(二行空け)があり、それは再現してある。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名か、或いは別名か、はたまた話柄の中の当該パートの中の象徴的対応文字列かとも思しい怪しい漢字文字列が掲げられてある。これはやはり漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるもので、本篇の「投罏成金」などは、まあ、穏当な字体ながら、ひどく小さく、「罏」の文字がやや窮屈に反り気味なっている。しかし、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思ってかくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。以下でも同様に示すこととする。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。なお、註番号は全体に通し番号で振られてある(実際の原本ではこの注群は巻末の“GLOSSARY”(「用語集」)にあり、その数は膨大で、落合氏が引いたのはそのごく僅かな部分に過ぎない。則ち、原本は注形式ではなく最後に纏められている「用語集」として一括して載り、本文にはそれに対応する注記号は存在しない点は原本を読まれる際には注意が必要である。

 

 

  支 那 怪 談

 

     この書を

    私の友なる

     音樂家――

   黃金色の皮膚を有する漂泊の淸人に旋律の言葉を語り、

   彼等を感動させて、蛇皮の腹を有し、奇異の音を發する三絃を奏せしめ、

   彼等に勸めて、私のために叫音を發する月琴を奏せしめ、

   彼等を誘つて、その故國の素馨花の歌はしめたる――

   ヘンリー・エドワード・クレービールに捧ぐ。

[やぶちゃん注:ポイントに変化があるのは底本のママ原本では献辞者の名が頭に置かれている。

「ヘンリー・エドワード・クレービール」アメリカの音楽評論家から音楽学者となったヘンリー・エドワード・クレービール(或いはクレイビール)(Henry Edward Krehbiel 一八五四年~一九二三年:ハーンより四歳年下)。彼の英文ウィキはこちらであるが、あんじぇりか氏の『「怪談」をあらわした日本研究家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)について歴女が解説』の中に、二十二『歳の時にシンシナティ・エンクワイアラー社主筆に文才を認められて、』一八七四年二十四歳の時、同社の『正式社員』となり、『挿絵画家ファーニーとともに週刊誌「イ・ジグランプス」を創刊し、皮革製造所で起きた惨忍な殺人事件のルポを書き、事件記者』ともなった。『また、同じ記者仲間のヘンリー・クレビールとの親交を深め』、二十五『歳で下宿の料理人アリシア・フォリーと結婚するも、当時は異人種間の結婚が違法だった』ことから、『エンクワイアラー社を』退職し(引用元は『解雇』とあるが、諸年譜では解雇とはなっていないので訂した)、『シンシナティ・コマーシャル社に転職』したとある。銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)では、その殺人事件の条である一八七四年十一月七日(土曜)に『「タン・ヤード事件」起こる。ハーマン・シリングという男が殺され、または生きたまま炉で焼かれたという事件で』、三人の人物が『殺人容疑で逮捕された。友人クレイビールとともに現場へ駆けつけたハーンの記事は、その恐るべき事件の詳細を描ききって、センセーションをまき起こし、記者としての名を確立する』と、ここにハーンの友人として彼クレイビールが登場している。当時の彼は未だ弱冠二十であった彼の英文ウィキに戻って見てみると、まさにこの一八七四年に同じシンシナティの『シンシナティ・ガゼット』紙の音楽批評担当に就いている(一八八〇年十一月まで)ことから、社は異なるが、まさに若き記者仲間同士であったということが確認出来るのである。しかも本書の刊行(一八八七年)はこの年からは十三年も後のことで、ハーンもシンシナティを離れて、ニューオリンズにいた(クレイビールはその後『ニュー・ヨーク・トリビューン』の音楽担当編集者となっている)。しかも本書を彼に詩篇を添えて献呈するということは、その間も彼との音信は途絶えていなかったのであろう。

「三弦」原文“SAN-HIEN”。中国の伝統楽器である三弦(現代中国語カタカナ音写:サンシエン)。歌の伴奏楽器として人気があった。沖縄を経て日本の三味線となったルーツ。

「月琴」“YA-HIEN” 月琴(同然:ュエチィン)は同じく中国の伝統楽器。満月のような円形の共鳴胴に短い首(琴杵)を持つ。

「素馨花」(そけいくわ)。“JASMINE-FLOWER” 。シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ属ソケイ Jasminum grandiflorum。インドやパキスタンの高原地帯が原産で。古くから薬として使われ、花は女性の髪飾りとされる。花から採れる香油を「ジャスミン」といい、香料として使用される。]

 

 

   

 

 本書が微々たる一小卷たるに過ぎないことの最も有力なる辯解は、全く内容を成す材料の性質そのものが示してゐると、私は考へる。優等の傳說を蒐集するに當つて、私は特に怪異なる美を求めた。して私はサー・ウォーター・スコットの『古代歌謠の模倣に關する論』に於ける、左の卓見を忘れることは出來なかつた。『超自然怪異といふものは、人類間に頗る廣く且つ深く蒔きつけられたる、或る强い感情に訴へるものではあるが、しかし强ひてあまりに壓力を加へると、殊の外その彈力を失ひ易き一個の彈機のやうなものである』

 支那文學全般に亙つて通曉せんと欲する人々は、デュリアン、パヴィー、レミュザ、ド・ロスニー、シュレーゲル、レッグ、エルヴェ・サン・ドニー、ヰリヤムズ、ビオー、ヂヤイルズ、ワイリー、ビールの如き語學者、並びにその他幾支那學者の業績によつて、道を開かれてゐる。發見と征服の權利上、實際、中華國の物語の領域は、か〻る探檢家のものである。しかし彼等の跡を慕つて支那人の廣大神祕なる空想の樂園に遊ぶ些やかな[やぶちゃん注:「ささやかな」。]旅人は、そこに生えてゐる、幾つかの不思議な花――發光性の花、黑百合、一つ二つの燐のさうな薔薇――を、彼の奇異なる旅行の土產として、摘み取つてよろしいだらう。

 一八八六年三月十五日ニユー・オーリアンズにて

           ラフカヂオ・へルン

[やぶちゃん注:原本の「序」の前のページには「華」の漢字がやはりアクセント・デザインのように記されてある。最後のクレジットと場所・署名は上に引き上げた。

「サー・ウォーター・スコット」スコットランドの詩人・小説家ウォルター・スコット(Walter Scott 一七七一年~一八三二年)はロマン主義作家として歴史小説で名声を博し、イギリスの作家としては、存命中に国外でも成功を収めた最初の人気作家とされる。「古代歌謠の模倣に關する論」(“Essay on Imitations of the Ancient Ballad”)は一八三〇年のエッセイ。こちらで英文で全文が読めるが、ハーンの引用は注ナンバー78のあるところから三行上の部分から始まる。最後だけ、原文では“pressed upon.”ではなく、“pressed on,”となっている。

「彈機」(だんき)。原文は“spring”。「発条(バネ)」のこと。

「デュリアン」原文“Julien”。フランスの東洋学者で十九世紀フランスの代表的な中国学者として知られるエニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)。ウィキの「エニャン=スタニスラス・ジュリアン」を参照されたい。

「パヴィー」“Pavie”。フランスの旅行家・作家・東洋学者であったセオドア・マリーパヴィー(Théodore Marie Pavie 一八一一年~一八九六年)。九言語(中国語・満州語・ヘブライ語・アラビア語・ヒンドゥー語を含む)を用いることが出来た。「三国志」(一八四五年~一八五一年)のフランス語訳もある(彼のフランス語ウィキに拠る)。

「レミュザ」“Rémusat”。フランスの中国学者ジャン=ピエール・アベル=レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat 一七八八年~一八三二年)。ウィキの「ジャン=ピエール・アベル=レミュザ」によれば、『コレージュ・ド・フランス』(フランスに於ける学問・教育の頂点に位置する国立特別高等教育機関(グランテタブリスマン))『の初代中国学教授で』、『西洋の中国学の草分け。レミュザ以前にも』『中国を研究した学者はいたが、中国研究を専門とし、中国学教授をつとめたのはレミュザにはじまる』とある。パリに流行したコレラで若くして亡くなった。

「ド・ロスニー」“De Rosny”。フランスの日本学者・東洋学者であったレオン=ルイス=ルシィアン・プリュネル・ド・ロニー(Léon-Louis-Lucien Prunel de Rosny 一八三七年~一九一四年)。当時、フランスに於ける日本研究の第一人者であったが、生涯一度も日本を訪れることはなかった。詳しくは参照したウィキの「レオン・ド・ロニー」を見られたい。

「シュレーゲル」“Schlegel”。オランダの東洋学者・博物学者であったグスタフ・シュレーゲル(Gustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年:オランダ語音写では姓は「スフレーヘル」とも表記される)。ライデン大学中国語中国文学講座の初代教授。著書に「中国星辰考」などがある。一八九〇年にはフランスの中国学者・東洋学者アンリ・コルディエ(Henri Cordier 一八四九年~一九二五年)とともに歴史的に知られることになる中国学雑誌『通報』を創刊している。詳しくはウィキの「グスタフ・シュレーゲル」やそのリンク先を見られたい。

「レッグ」“Legge”。スコットランド出身のロンドン伝道協会の宣教師で、中国学者でもあったジェームズ・レッグ(James Legge 一八一五年~一八九七年)。四書五経を始めとして儒教や道教の古典を英訳した。中国名は理雅各(ウィキの「ジェームズ・レッグ」に拠る)。

「エルヴェ・サン・ドニー」“Hervey-Saint-Denys”。フランスの中国学者マリー=ジャン=レオン・マーキュ・デ・エルヴェイ・ド・サンドニ(Marie-Jean-Léon Marquis d'Hervey de Saint Denys  一七八〇年~一八四四年)。中国名「德理文」を持ち、特に唐詩を西洋に紹介した一人として知られる(彼の英文ウィキに拠った)。

「ヰリヤムズ」“Williams”。アメリカの外交官・宣教師で、言語学者・中国学者でもあったサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams  一八一二年~一八八四年)のことか。中国名は衛三畏。

「ビオー」“Biot”。フランスの、建築技師であると同時に中国学者でもあったエドルアール・コンスタン・ビオ(Édouard Constant Biot 一八〇三年~一八五〇年)。「周礼(しゅうらい)」フランス語全訳で知られる。

「ヂヤイルズ」“Giles”。イギリスの外交官で中国学者のハーバート・アレン・ジャイルズ(Herbert Allen Giles 一八四五年~一九三五年)。「華英辞書」の編纂によって特に知られ、「聊斎志異」や「荘子」などの英訳もしている。中国名は翟理斯。

「ワイリー」“Wylie”。イギリスのプロテスタントのキリスト教宣教師アレクサンダー・ワイリー(Alexander Wylie 一八一五年~一八八七年)か。中国伝道の過程の中で多くの中国研究や中国文学の研究を成した。中国名は偉烈亞力。英文ウィキの彼の記載はこちら

「ビール」“Beal”。イギリスの宣教師で中国仏教学者サミュエル・ビール(Samuel Beal 一八二五年~一八八九年)。ケンブリッジ大学を出、海軍布教師となり、中国に渡って、特に宗教について研究した。中国仏教研究の開拓者である。帰国後、ロンドン大学教授となった。著書に「漢訳仏典精要」他がある。

「一八八六年三月十五日ニユー・オーリアンズにて」明治十九年に当たる。当時、ハーンはニューオーリンズのタイムズ・デモクラット社(Times Democrat)の文芸部長(一八八一年から。主に日曜版を中心に記者として執筆した)であった。]

 

 

  大 鐘 の 靈

[やぶちゃん注:実は原文を見ると、標題の前ページに、

   She hath spoken, and her words still resound in his ears.

        HAO-KHIEOU-TCHOUAN: c. ix.

とあるが、落合氏はそれをカットしてしまっている。平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「大鐘の霊」では、

   《引用開始》

 嬌語ナホ耳朶ニアリ。――好逑伝 第九章

   《引用終了》

とする(但し、標題の後に配されてある)。「好逑伝」(こうきゅうでん)は清初の小説で「侠義風月伝」とも称する、全四巻十八回からなる当時の白話(口語)小説で、作者は「名教中人」とするが、事蹟は未詳。題名は「詩経」の「周南」の「関雎(かんしょ)」の「窈窕(えうてう)たる淑女は 君子の好逑(つれあひ)」に拠り、鉄中玉(てつちゅうぎょく)が悪人との葛藤の後に天子の仲介によって水氷心(すいひょうしん)と目出度く結ばれるという典型的な才子佳人小説。婦人の貞節を強調する儒教臭の強い作品であるが、類型化されたこの種の作品のなかでは人物の描写や構成に優れており、十八世紀半ば以来、英語・フランス語・ドイツ語等で十数種もの翻訳があり、ヨーロッパでは広く知られた作品であった(小学館「日本大百科全書」に拠る)。思うに、「中國哲學書電子化計劃」の同作の「第九囘虛捏鬼哄佳人徒使佳人噴飯」の二十二節の「言過還在耳、事棄尚驚心」の前半と思われる。「嬌語」は艶めかしく誘う女の言葉の謂いである。落合氏がカットしたのは、全体の添え字として相応しくないと思ったからか? にしても不当行為である。

 

 漏刻計が大鐘塔註一で時を示すと、木槌は金屬製怪物の緣を打たうとして扛げられる[やぶちゃん注:「あげられる」。]――巨鐘の緣には尊い佛敎の經文から取つた文句が彫つてある。巨鐘の響く音を聞け! 舌はなくても、その聲の太いこと!――KO-NGAIと響く。その深い音波の下に、綠色の屋根の、高く灣曲せる檐[やぶちゃん注:「ひさし/のき」。]に刻まれた、あらゆる小さな龍は、その黃金色の尾の尖端に至るまで振動する。あらゆる陶器製の樋嘴[やぶちゃん注:「ひはし」。]は、その彫り込んである場所で慄へる。堂塔のあらゆる小さな鈴も語り出さうと欲して戰く[やぶちゃん注:「をののく」、]。KO-NGAI! と寺院のあらゆる靑黃色の瓦は振動する。瓦の上の木製の金魚は空高く踠く[やぶちゃん注:「もがく」。]。佛陀の天上を示せる指は、香煙の靑霧裡に、參詣者の頭上に搖れる。KO-NGAI! と。いかにも雷の如き音だ。宮殿の蛇腹に刻まれた漆塗りの怪物は、悉くその火の色の舌とうごめかす。して、大きな激動の後に起こる無數の反響と、

[やぶちゃん注:「漏刻計」水時のこと。容器に水が流入(流出)するようにして、その水面の高さの変化で時を計るもので、中国では古代からあった。

KO-NAGAI」原文では“KO-NAGAI”と斜体(以下、注しないが、中国音らしきラテン文字表記は総て斜体である)。平井氏は先に挙げた恒文社版で、この「KO-NGAI!」を『珂愛(おんない)!』と、以下も総て、かく訳しておられる。ここではネタバレになるので注しないが、この文字の意味は後で判る。これは本底本の落合氏の「あとがき」の「支那怪談」によれば、自分(落合氏)には中国語の知識が全くないため、このラテン文字表記された中国語を何とか漢字表記に換えようとして、日本の『專門の諸人を煩はし、中華民國靑年會の人々に質ね、支那留学生に問ひ、苦心と奔走を重ねたのであるが、得る處は甚だ乏しかった』とされつつ、『それもその筈、本書は半世紀前の』フランスの『支那學先輩の著譯に據つたので』あって、フランスの『學者は南淸の無敎育者の口から耳にしたま〻の發音を』、フランス『語の綴りにて表現』したものが『多く、『北京官話を學べる邦人には解し難』いだけでなく、これは中国語の激しい変異を持つ地方語に精通している中国人にさえも、実は『見當がつかない』異様な『譯である』と、原表記をそのまま用いたことについての弁解をされていることで、一応は氷解する。

「樋嘴」原文“gargoyles”。「ガーゴイル」は建築用語で、西洋建築の軒先などに壁面から突出して附けられた雨水の排水口を指す。中世以降は非実用として装飾的に作られる場合が多く、特に垂直性を強調するゴシック建築では、通常、ハイブリッドの幼獣キマイラの形をしており、上部に装着された。パリのノートル・ダム大聖堂の怪獣形のものがその典型である。ここは中国の古建築の屋根の端に見られる神獣像をかく言ったもの。]

 

註一 ‘Ta-chung sz’。文字通りには、『鐘の寺』。この建物は北京にあつて、恐らくは世界一の懸鐘を蔽ふてゐる。鐘は西曆一四〇六年、明の永樂皇帝の時代に鑄られ、十二萬斤以上の重さを有する。

[やぶちゃん注:「十二萬斤」一斤(きん)は現代日本では六百グラムであるから、七十二トン(現代中国では一斤五百グラムなので、六十トン。因みに本篇原話の書かれた清代、及び話柄内時制の明代のそれは孰れも約五百九十七グラムである)。ここに出るのは現在、「北京大鐘寺古鐘博物館」(覚生寺)(グーグル・マップ・データ)として整備されている旧大鐘寺の「永楽大鐘」は、現在は明の永楽一八(一四二〇)年前後に製造されたとされ、重さ四十六・五トン、最大直径四メートル(平均で三・三メートル)、縁部分の厚さが二十二センチメートルである。鐘には経文と呪文が漢字と梵字がみっちりと鋳込まれてあり、その総字数は実に二十三万字以上という。以上の数値は(株)カリヨン・センター制作のサイト「鐘(ベル)&カリヨン Bell & Carillon」のこちらに拠った。そこでは大鐘の写真も見られる。落合氏の鐘の重量はちょっと誇大に過ぎるように見えるが、どうもこれは落合氏が一般読者に判り易い「食パンの一斤」で換算したせいかも知れない。現代の食パンの一斤は三百五十から四百グラムとされるから、四十二から四十八トンとなって、現在の永楽大鐘の公式重量の範囲内に入るからである。

「永樂皇帝」(一三六〇年~一四二四年:在位/一四〇二年~一四二四年)明の第三代皇帝。姓は朱。ウィキの「永楽帝」によれば、『明の最大版図を築き、鄭和』(ていわ)に南海への七度に亙る大航海をさせる『などの事業を起こ』し、『気宇壮大な人であった。洪武帝とともに明の基礎を固めたのは永楽帝であると言える。しかし、宦官を重要な地位につけてはならぬという洪武帝の遺訓に反し』、『宦官を重用した。これは、皇位簒奪』(彼は甥である第二代皇帝建文帝を倒して帝位についた(靖難(せいなん)の変))『という負い目もあって』、『官人との間に信頼関係を築けず、また靖難の変の際に建文帝の朝廷で待遇の悪かった宦官を利用したことによる。永楽帝の治世に限って宦官の起用は成功であったろうが、後代における宦官による壟断の原因となった』とあり、また、『即位直後における建文帝一派の粛清は、父の洪武帝と同等の粛清とされ、「永楽の瓜蔓抄(つるまくり、芋づる式の意)」と後世に悪名高く評された』とある。冷血にして短気激情型の独裁権力者の面持ちは本篇でも以下でよく現われてくる。]

 

大きな美しい黃金のやうな唸り聲の不思議さ! それから、遂に巨大の音が、次第にとぎれとぎれの銀聲の囁きとなつて――恰も女が Hiai! と囁くやうに――消え行くとき、不意に耳の中で㗙音の嗚咽となつてしまふ。かやうな有樣に、此大鐘は殆んど五百年間、每日 KO-NGAI と響いてゐた。劈頭[やぶちゃん注:「最初(撞き始め)に」の意。]素晴らしい鏗聲[やぶちゃん注:「かうせい(こうせい)」。鐘を撞く音。]を發し、それから無量の美しい黃金のやうな唸りとなつて、次にはHiai! と、銀聲の低囁[やぶちゃん注:「ていせふ(ていしょう)」。低い囁(ささや)き。]になつた。して、古い支那の都の色彩に富める、あらゆる町々の子供達の中で、大鐘の物語を知らぬもの――何故に大鐘は KO-NGAI と響き、Hiai! と鳴るのかを語り得ないもの――は一人も無い。

[やぶちゃん注:「音」一応、「しうおん」と呼んでおく。「」は音「シュ・ドウ・ノウ・ジョウ・ニョウ」(現代仮名遣)で、意味は例えば「人を叱る声」の意があるようである。原文のこの前後は “the sudden sibilant sobbing in the ears”で、「sibilant」は「シュー(シーッツ)という音」のオノマトペイアのようである。平井氏はこの前後を、『――あたかも女が「鞋(あい)!」と咡』(ささや)『くかのように――細く消えていきながら、にわかにすすり泣く歔欷(きょき)の声を耳につたえてくるのである。』と訳しておられ、「鞋!」(「靴!」の意)を除いて、躓かずに読めるのである。しかも平井氏の「鞋!」も、読み進めれば、自ずと難なく氷解するようになっているのである。現行の漢和辞典に殆ど載らないこの漢字を選んだ落合氏は読者への配慮が頗る足りないと思う。]

 

 さて、これが廣州府の學者、Yu-Pao-Tchcn の書いた、『百孝集』に載つてゐる、大鐘塔の巨鐘の物語である。

[やぶちゃん注:平井氏は「Yu-Pao-Tchcn」を『兪葆真(ゆほうしん)』(清代の作家)、「百孝集」の書名を『百孝図説』と訳しておられる。解説に出るので後でもまた注する。]

 約五百年前のこと、明の時代の天子、永樂皇帝はその高官 Kouan-Yuに命じて、百里の遠方へまで音の達するやうな天鐘を作れといつた。また彼は鐘に眞鍮を加へて、その音を强くし、黃金を加へてそれを深くし、銀を以て美しくせよと命じた。それから、鐘の表面と大きな緣には、聖經の文句を彫ることと、その鐘は北京の都の色彩に富める、あらゆる町に響き渡るため、帝都の中心に吊るすべきことをも命じた。

[やぶちゃん注:Kouan-Yu」平井氏は『関由(かんゆ)』と訳しておられる。

 そこで高官 Kouan-Yu は國中の鑄造師の頭領、有名な鐘鍛冶、及ぴ鑄造業に於ける、世に聞えた妙工を悉く集めた。それから、彼等は合金に對する材料を量り、それを巧みに處理し、模型、火、機械、及び金屬を鎔かすための大坩堝[やぶちゃん注:「だいるつぼ」。]を準備した。彼等は巨人の如く猛烈に働いた――彼等が怠つた事は休憩と睡眠と娛樂ばかりであつた――夜も晝も Kouan-Yu の命に從つて働き、一切の事、天子の諭旨を成就しようと努力した。

 が、金屬が鑄られて、土型を灼々たる鑄物から離して見ると、彼等の非常な勞作と間斷なき注意にも關らず、その結果は無効であつた。何故なら、金屬類が相互に離叛したからである――金は眞鍮を侮つて、一致することを肯じなかつた。銀は鎔けた鐡と混じようとはしなかつた。そこで、模型は今一度調整され、火は再び燃やされ、金屬も更に鎔かされて、一切の仕事が、面倒にも、また辛苦を重ねて繰返された。天子はこのことを耳にして、怒つてゐたが、何も云はなかつた。

 第二囘目の鑄造が出來た。しかし結果は一層惡かつた。金屬類は依然として頑固に互に混合することを拒んだので、鐘には少しも均一性がなかつた。して、その側面は龜裂を生じ罅隙[やぶちゃん注:「かげき」。罅(ひび)と隙間。裂け目。割れ目。亀裂。]が現はれ、その緣は固著して熔滓[やぶちゃん注:「ようさい」。スラグ(slag)のこと。金属の製錬に際して溶融した金属から分離して浮かぶ滓(かす)のこと。]を作つて、割けてゐた。だから、すべての勞作は、三度繰返されねばならなかつた。して、Kouan-Yu は非常に驚愕狼狽した。すると、天子はこれを聞いて、以前にも增して激怒した。それから、橙黃色の絹に認めて、龍の印を以て封緘せる書狀を使に持たせて、Kouan-Yu に送つた。その文句は次の如くであつた――

[やぶちゃん注:以下の書状は底本では全体が二字下げ。]

『明朝の尊嚴なる永樂皇帝から府尹[やぶちゃん注:「ふゐん」。]註二 Kouan-Yu に告げる。朕が汝に託した任務を二囘まで汝は誤つた。若し三たび朕の命を成就することが出來ないならば、汝の頭を頸から斷つてしまふぞ。恐惶して、命を奉ぜよ』

 

註二 府尹――西洋に於ける市長に比すべき。支那の都會の吏。

 

 

 さて Kouan-Yu には、燦然と輝くやうに美しい娘があつた。Ko-Ngai といふその名は、常に詩人の口にのぼり、またその心は顏よりも更に美しかつた。Ko-Ngai は熱愛を以て父を愛したので、百人の立派な求婚者を拒んでも、彼女のゐなくなるため、父の家を淋しくすることを欲しなかつた。だから、龍印に封ぜられた、恐ろしい黃色の書狀を見ると、父のために心配して氣絕した。それから、正氣に返り、力も附いた扱、父の危難を思つては、休むことも寢ることも出來なかつたので、遂に密かに彼女の幾らかの寶石を賣却し、かくして得た資產を携へて、占星者の許へ馳せた。して、巨額の料金を拂つて如何にせば父の身の上にふりかかつてゐる危險を救ひ得るかを占はせた。そこで、占星者は天象を觀測し、銀河(私共の所謂、乳狀の道(ミルキー・ウエー)の狀況に留意し、黃道帶[やぶちゃん注:「くわうだうたい」。]の徵候を察し、五行の表と煉丹家[やぶちゃん注:「れんたんか」。]の祕書を調べた。して、長い間沈默の後、彼女に答へていつた。『少女の肉が坩堝の中で熔かされ、處女の血が金屬の熔ける際に混ぜられるまでは、金と眞鍮は決して婚姻を求めない。また銀と鐡も決して抱擁しないだらう』彼女は心中悲哀に滿ちて家に婦つた。が、その聞いたことを、すべて心に祕めて誰にも告げなかつた。

[やぶちゃん注:「黃道帶」黄道(おうどう:惑星からの見かけ上、天球上を恒星が一年かけて一周するように見える大円の経路のこと。科学的には黄道面は惑星そのものの公転軌道面と同義となる)を挟んで、南北に各八度ずつ、幅十六度で形成した帯部分。太陽・月及び主な惑星はこの帯の中を動く。黄道十二宮に相当する黄道十二星座があり、それらには星座名に動物の名の附いたものが多いことから、「獣帯」(じゅうたい)とも呼ばれる。

「煉丹家」西洋の錬金術に対応する古代中国の道士の術で、辰砂(しんしゃ:硫化水銀HgS。六方晶系の鉱物。純粋なものは朱色を呈する)を練って不老不死の薬を作ることを「煉丹」と言ったが、ここはそれに代表される道教の主要な先賢を指す。]

 

 遂にいよいよ、三度目に大鐘を鑄る、最後の努力の怖ろしい日が來た。して、Ko-Ngai は侍女と共に、父に隨つて鑄造所へ行つて、彼等は鑄型師の勞作と、流動體となつた金屬を政瞰視する壇止の席に就いた。すべての職工は、孜々汲々[やぶちゃん注:「ししきふきふ(ししきゅうきゅう)」。怠ることなく一心に勤めるさま。]、無言にて動き、火の呟く外には、何の音も聞えなかつた。して、火の呟く音は、大嵐の肉迫するやうな深い轟音と變はり、金屬の赤血色の池は、徐々と朝日の朱に輝き、朱は黃白の燦爛たる先に變じ、黃金は滿月の銀の顏のやうに、眩しいほど白くなつた。それから、職工達は狂號する炎に薪を給することを止めて、皆 Kouan-Yu の眼の上に彼等の眼を注いでゐた。すると Kouan-Yu は型に流し込む合圖をしようと準備した。

 しかし彼がまだ指を上げない内に、一聲の叫びが、彼の頭を振り向かしめた。して、すべての人々は烈火の轟々たる音を越えて、鳥の歌の如く、鋭く美はしく響いて、『お父さま、あなたのために!』といふ Ko-Ngai の聲を聞いた。彼女は叫ぶと共に、金屬の白い洪水の中へ跳び込んだ。熔鐡爐の熔けた金屬は、彼女を迎へて咆吼し、屋根までも素晴らしい炎の火花を跳ね飛ばし、土坑の際端から外へ勢よく溢れ出し、幾多の色彩ある渦卷く噴水を投げ上げて、それから電光、雷鳴、低囁を發しつ〻、慄へ[やぶちゃん注:「ふるへ」。]乍ら鎭まつた。

 そこで彼女の父は、狂氣の如く悲しんで、娘の後を追つて跳び込まうとしたが、腕力逞しいものどもが、彼を引き止め、確かりと[やぶちゃん注:「しつかりと」。]押へたので、たうとう絕え入るばかりに弱くなつて、恰も死人の如くに運ばれて家に歸つた。それから、Ko-Ngai の侍女は、苦悶眩迷、言葉も出ないで、小さな靴を手に持つたま〻、爐の前に立つてゐた。それは亡くなつた美しい女主人の眞珠と花の刺繡を施せる華奢な小さな靴であつた。といふのは、彼女は Ko-Ngai が跳び上つた時に、その足を捉まうとしたが、ただ靴を摑む事が出來たのみで、美麗なる靴はすつぽり脫げて彼女の手に殘つたからである。それで、彼女は全く狂人のやうに、それを凝と視てゐるのみであつた。

 

 が、か〻る慘事はあつたもの〻、天子の命令は奉ぜざるを得なかつた。して、いかに結果が駄目であらうとも、鑄型師の仕事は完成せねばならなかつた。しかし金屬の光澤は、以前に比すれば更に純白に見えた。またその中に葬られた美しい屍體の片影をも留めなかつた。こ〻に大規模の鑄造は濟んだ。驚いたことには、金屬が冷却してから、鐘は見るからに美くしく、恰好は完全、色はいかなる鐘にも優つてゐた。また少女の身體の痕跡をも留めなかつた。それは全然貴重なる合金に吸收され、よく混和せる眞鍮と黃金に交じり、銀と鐡の融合に加つたのだ。それから、人々が鐘を鳴らして見ると、その音調は他のいづれの鐘よりも深く、淸らかで、强かつた――百里の距離よりも一層遠くに達し、夏の雷の如く響いた。しかも、また大きな聲で、人の名、女の名―― Ko-Ngai の名を呼ぶやうに響いた。

[やぶちゃん注:「百里」「里」は原文も“li”となっている。清代の一里は五百七十六メートルであるから、五十七・六キロメートルに当たる。]

 

 

 それから、またこの鐘を强く撞き鳴らす合間々々に、長く低い鳴咽の聲が聞える。して、その嗚咽の聲は、恰も泣く女が Hiai! と呟くかのやうに、淚にむせび、哀訴する音を以て終はる。して、いつでも人々が巨鐘の黃金のやうな唸りを聞くときは、肅然沈默してゐるが、鋭く美はしい戰慄の音が空に傳つて、それから、Hiai! の咽び泣きが聞えてくると、北京の色彩に富める町々の、あらゆる支那の母達は、彼等の子供に囁いていふ。『お聽きなさい、あれは Ko-Ngai が靴を求めて泣くのです! あれは Ko-Ngai が靴を呼んでゐるのです!』

 

投 罏 成 金

 

028

 

[やぶちゃん注:「投罏成金」の「罏」は「爐」の通ずるので、「罏に投じて金と成る」(鎔鉱炉の中に身を投じて合金の生するを成就す)と謂った意味か。後の私の注で見る通り、これは原話の題名であった。字が大きいのは底本に合わせた結果である。]

 

【ハーンによる「解說」】

 『大鐘の霊』――この物語は「百孝集」(Pe-Hiao-Tou-Choue)と題せる物語集から取つたものである。支那の物語作者は、頗る簡明に此話を語つてゐる。博學なる佛國領事ピー・ダブリー・ド・チールサンは一八七七年に該書の一部を譯して出版した。その中にこの鐘の傳說も收めてあった。譯書は澤山の支那の畫で飾られ、Ko-Ngai が鎔けた鐡中へ跳り込む奇異なる小畫も附してある。

[やぶちゃん注:「ピー・ダブリー・ド・チールサン」フランス海軍士官で外交官のクロード・フィリベール・ダブリー・ド・ティエサン(Claude-Philibert Dabry de Thiersant 一八二六年~一八九八年:詳細事績は調べ得なかった)。彼が一八七七年にパリで出版した“La piété filiale en Chine”(「中国に於ける『親への孝』」)が当該書である。フランス語サイトのこちらで原文全篇がダウン・ロード出来、そこにハーンが依拠した“KO-NGAI”が所収されていることが確認出来た。但し、ここのデータでは「Ko-Ngai が鎔けた鐡中へ跳り込む奇異なる小畫」は確認出来なかった。そこで、原話である清代の兪葆眞(ゆほうしん:詳細事績未詳)作の「百孝圖說」を探してみたところ、しばしばお世話になる中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のこちらでやっと発見した。標題はまさしく「投罏成金」(右の電子化は「投驢成金」と誤っている)で、この画像版ページにハーンの言うシーンを描いた挿絵がある。原本画像に忠実に従い、電子化しておく(【 】は二行割注)。それはハーンも言うように、実は驚くほど短く、時代設定も場所も人名も何もかも皆、異なっていることが判る。

   *

  投鑪成金

吳李娥、父爲吳大帝鐡官治以鑄軍器、一夕錬金於鑪、而金不出吳令耗折官物者坐斬、娥年十五遂自殺鑪中、於是金液沸溢、塞鑪而下、遂成溝渠、注二十里、所收金億萬計、【孝苑】

   *

「吳大帝」とは三国時代の呉の初代皇帝孫権(在位:二二九年~二五二年)のことである。ハーンが言う図もここから取得出来たので、以下に掲げておく。

 

Touroseikin

 

原画像が傾いてしまっていて、しかも全体に薄いことから、回転と補正を加えて見易くした。なお、調べるうち、この原話は実はかなり知られたものであることが判った。例えば、同じ明代の倫彙編になる「欽定古今圖書集成」の「第三十九卷」(中文ウィキソース)の黃雲師の「王孝娥哀辭」の一節に、

   *

吳大帝時有女、父爲鐵官、冶不液、女自投冶中、鐵乃液。然後父刑免。

   *

とあるからである。]

2020/01/17

三州奇談 電子化注始動 / 卷之一 白山靈妙

 

[やぶちゃん注:「三州奇談」は加賀・能登・越中、即ち、北陸の民俗・伝承・地誌・宗教等の奇談を集成したもので、金沢片町の蔵宿(くらやど:藩の年貢米の売却のために置かれた御用商人)の次男で金沢の伊勢派の俳諧師で随筆家(歴史実録本が多い)の江戸中期の俳人で実録物の作家であった堀麦水(享保(一七一八)年~天明三(一七八三)年:金沢生まれ。通称は池田屋平三郎、後に長左衛門。初号は可遊・葭由。号は四楽庵・樗庵など。俳諧は中川麦浪・和田希因らに師事し、伊勢・京都などへ引杖しつつ、俳諧師としての実力を養成した。貞享期(一六八四年~一六八八年)の蕉風俳諧を顕彰し、「貞享正風句解伝書」などを著した。中興期復古運動の中でも異彩を放った俳人である。実録物としては「慶安太平記」など多数の作がある)が、先行する同派の俳諧師麦雀(生没年未詳。俗称住吉屋右次郎衛門)が蒐集した奇談集を散逸を憂えて再筆録したものとされる(後の坂井一調の「根無草」の記事に拠る)。「三州奇談」完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定される。正編五巻九十九話、続編四巻五十話で全百四十九話からなる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの日置謙校訂「三州奇談」(昭和八(一九三三)年石川県図書館協会刊)とする。但し、疑問箇所等は、正編は同じ国立国会図書館デジタルコレクションの中島亀太郎著「加越能三州奇談」(個人出版・明二八(一八九五)年刊。異題であるが、同書の正編の活字化である)を、続編は同じく国立国会図書館デジタルコレクションの田山花袋・柳田国男編校訂「近世奇談全集」(明治三六(一九〇三)年博文館刊)を参考にする予定である。また、正編では、所持する堤邦彦・杉本好伸編「近世民間異聞怪談集成」(「江戸怪異綺想文芸大系」高田衛監修・第五巻も参考にした。同書の底本は国立国会図書館蔵本とあるが、こちらは写本である。但し、正編のみで漢字は新字である)も参考にした。前記の書誌も同書の堤氏の解題に拠った。なお、何故、最初のものを底本としたかというと、本文が整序され過ぎている傾向がかなりあるものの、その結果、写本底本のものに比べて躓く部分が有意に少ないこと、ひらがな変換や送り仮名が概ね頷ける形で行われていること、他の筆写本に数多ある歴史的仮名遣の誤りが有意に補正されてあることに拠る。但し、恨むらくはルビが一切ない点ではある。これについてはこの後で述べる。

 底本では冒頭に全巻の目録が載るが、これは公開の性質上、あまり意味を持たないと私は判断するので省略することとした。

 底本にはルビがなく、読み難い箇所も多々見られるので、上記の複数の書籍と校合し、丸括弧で歴史的仮名遣で推定の読みを禁欲的に附した(一部は先に挙げた近世奇談全集」のルビ(パラルビ)等も一部で参考にはしたが、従えないものもあった)。一部で鍵括弧や「・」(これは底本でも使っている)等も追加して添えて読み易くした。踊り字「〱」は正字化した。二行割注は【 】で挟んで同ポイントで示した。]

 

三州奇談 卷一

 

    白山の靈妙 

越の鍾靈(しやうれい)なるものを「白山(しらのやま)」といふ。雪華天に聳え、峰四方に標(へう)す。崚嶒(りやうさう)百里ばかり、其最も神秀ものは「大女(おほなんぢ)」是也。其峯山の半腹に在り。又「隱女(をんなんぢ)」といふ。遙望すれば、壁立萬仭、嵯峨嶙峋(りんじゆん)として雲車象輿(うんしやざうよ)の常に歸往する所、秀氣天に薄(せま)り、人間の能く躋攀(せいはん)する所に非ざる也。山僧善心曰く、「貧道(ひんだう)山中に住すること凡そ十稔(ねん)、頗る山の窈窕(えうてう)を諳(そら)んず。かの『大女』に陟(のぼ)ること既に幾回なるに、前に人間(じんくわん)に在りて瞻望(せんばう)する所のものと形勢都(すべ)て異なり。こゝに指點するに、諸峯を𤲿(ゑが)くに似たるもの有るなし。杳然(えうぜん)終に其地を得ず。故に余曾て臆斷せり。大女・隱女蓋し別に二峰也。大女は皆登るべし。其(それ)隱女なるものは唯之を望むべく、求むるときは則ち隱匿して臻(いた)るべからず。古名も空しからず」と。他の登る者も云ふこと亦復(また[やぶちゃん注:二字でかく訓じておく。])此(かく)の如し。何(いかん)ぞ其の神なるや。或は曰く、「蓋し有ㇾ之(これあらん)。曾て古記を讀むに、それ蓬壺(はうこ)を求むる者、遠く之を望めば雲の如く、巍然(ぎぜん)として海上に標す。乃ち近づけば所在を沒失(もつしつ)す。其人に非ざれば、則ち日夜粉碎すとも、敢へて臻ること能はず」。我日本亦此くの如きもの有り。怪ならざれば則ち神、神ならざれば卽ち怪。これ此書卷第一を作れるゆゑならし。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

山僧善心は滑稽名「梅石」、加州大聖寺人、食家吉崎屋の族(うから)。破產して佛門に歸し、越前平泉寺に入り。兼て白山山上の室堂(むろだう)に住す。因(ちなみ)に善心曰く、「別山の社中積雪の門常に山風有り。且一日赤蛇を見る。長さ二尺餘り、色火の如し。又鵜鳥(うのとり)有り。人の聲を聞けば羽毛を脫す。道者(だうじや)拾ひ得て守と爲すと。

[やぶちゃん注:まず、中島亀太郎著「加越能三州奇談」の当該序章び堤邦彦・杉本好伸編「近世民間異聞怪談集成」(写本底本)を見るに、本来、この序章(本文自体にこれを神霊にことよせて本書巻頭の靈妙な序章として祝祭していることが確信犯で窺える)ののみは漢文訓点附きで書かれてあったものと推察される。以下に正字である前者のそれを白文で示す(既に上記の訓読文(但し、表記・表現に有意な異同がある)があるから訓点は排除した。但し、句読点がないと比較しづらいことから、後者の句読点と鍵括弧を参考に附した。因みに、この二者にも異同があり、親本は同じ写本ではないと思われる)。

   *

    白山靈妙

越之鐘靈[やぶちゃん注:ママ。]者曰白之山。雪華聳天、雲峰四標。崚嶒百里所、其尤神秀者大女是也。其峯在山之半腹、又曰隱女。遙望之、壁立萬仭、嵯峨嶙峋雲車象輿常所歸往、秀氣薄天。非人間能所躋攀也。山僧善心曰「貧道住山中凡十稔焉、頗諳山之窈窕。陟彼大女既已幾囘、非從人間所瞻望者。形勢都異、於是指點盡諸峰而罔有所似者。杳然終不得其地。故余曾臆斷大女隱女蓋別二峰。大女皆可登。其隱女者可惟望之。求則隱匿不可臻焉。古名不空。」他登者、言復亦如此。奈其神。或人曰、「盖有之矣。曾讀古紀、夫求蓬壺者、遠望之如雲、巍然標海上。乃近之則沒失所在。非其人則雖日夜粉碎之、不能敢臻。」我  日本、亦有如斯者。不怪則神、不神卽怪。是所爲此書開卷第一者邪。

[やぶちゃん注:「日本」の前の字空けはママ。改行が正式と思うが、尊敬表記として腑には落ちる。以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

山僧善心滑稽名梅石、加州大聖寺人、良家吉崎屋之族。破產肆佛門、入於越前平泉寺。兼住之白之山上室堂。因善心曰、別山之社中積雪之門、常有嵐。且一日見赤蛇。長二尺强也、如火。亦有鵜鳥。聞人聲脫羽毛。道者、得拾爲守。

   *

中島亀太郎著「加越能三州奇談」の当該序章の基本、訓点に従って訓読したものを示すが、恣意的により読み易くして、底本本文と比較しやすくするために、句読点を適宜変更し、読点を増やし、段落形成を行った。訓読法は私のポリシーに従い、助詞・助動詞はひらがな、出すべきと判断する送り仮名を概ね出してあるので注意されたい。一部の送りがない箇所は推定で施し、一部で濁点がないと絶対におかしい部分にのみ濁点を打った。

   *

    白山靈妙

 越の鐘靈なる者を「白の山」と曰ふ。雪華、天に聳へ、雲峰、四も[やぶちゃん注:「よも」(四方)にの謂いか。]標す。崚嶒、百里所(ばか)り、其の尤も神秀なる者は「大女(をゝなんち)」[やぶちゃん注:左ルビで表記は「ヲヽナンチ」でママ。後もそうだが「なんぢ」と濁ってよいと思う。]、是れなり。其の峯、山の半腹在り、又、「隱女(をんなんち)」と曰ふ。之れを遙望すれば、壁立萬仭、嵯峨嶙峋として、雲車象輿、常に歸往する所、秀氣、天に薄(せま)る[やぶちゃん注:「セマシ」のようにも見えるが、国書刊行会本の訓点に従った。]。人間の能く躋攀する所に非ざるなり。

 山僧善心、曰く、

「貧道、山中に住すること、凡そ十稔、頗る、山の窈窕を諳ず。彼の『大女』に陟る既已(すで)に[やぶちゃん注:「ニ」は「既」にしか送られていないが、二字で読んだ。国書刊行会本には「已」はない。]幾囘なるに、人間より瞻望する所の者に非ず。形勢、都て異なり、是に於いて、指點、諸峰を盡すに、似る所の者、有ること罔(な)し。杳然、終に其の地を得ず。故に、余、曾て臆斷して、『「大女」・「隱女」、蓋し、別に二峰[やぶちゃん注:「二峰とし、」がよいか。]。「大女」は、皆、登るべし。其の「隱女」なる者、惟だ之れを望むべし。求むるときは、則ち、隱匿して臻るべからず。古名、空しからず。』」。[やぶちゃん注:最後は「と」が内外に欲しい。]

 他して[やぶちゃん注:ママ。]登る者も、言ふこと、復亦、此くのごとし。奈(いか)んぞ、其れ、神なりや。

 或る人、曰く、

「盖し、之れ、有らん。曾て古紀を讀むに、夫(か)の蓬壺を求むる者、之れを遠望すれば、雲のごとく、巍然として海上に標す。乃ち、之れ近ければ、則ち、沒して所在を失す。其れ、人に非ざるなば[やぶちゃん注:国書刊行会本は『非れば』。]則ち、日夜、之れを粉碎すと雖も、敢へて臻ぶ[やぶちゃん注:送り仮名は「フ」。「およぶ」と訓じてかく振った。]能はず。我が

日本、亦、斯くのごとき者の有り。怪ならずんば[やぶちゃん注:送り仮名なし。後の対句の送り仮名に合わせた。]、則ち、神、神ならずんば、卽ち、怪。是れ、此の書の開卷第一。と爲しせしむ者か。

[やぶちゃん注:最後は「所」に送りがないので、使役でとった。以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

 山僧善心は滑稽の名「梅石」、加州大聖寺の人、良家吉崎屋の族。破產佛門に肆す[やぶちゃん注:「しす」で「連なった」の意で採るが、写本筆者の「歸」の誤判読の可能性が高い。]。越前、平泉寺に入る。兼ねて之[やぶちゃん注:「この」と訓じておく。「ス」と送り仮名するが、それでは読めない。]白の山上、室(むろ)堂に住す。因みに、善心、曰く、「別山の社中、積雪の門、常に嵐有り。且つ一日、赤蛇を見る。長さ二尺强(あま)りなり。火の如し[やぶちゃん注:国書刊行会本では『色如ㇾ火』。]。亦、鵜鳥、有り。人聲を聞きて、羽毛を脫す。道者、拾ひ得て、守と爲す。

   *

 以下、底本本文に即して語注する。

「白山」石川県と岐阜県の県境(石川県白山市及び岐阜県大野郡白川村)に聳える活火山(グーグル・マップ・データ)。両白(りょうはく)山地の中心を成す。最高峰の御前峰(ごぜんがみね:標高二千七百二メートル)・大汝峰(おおなんじがみね:二千六百八十四メートル)剣ヶ峰(二千六百七十七メートル)を中心とし、「白山」はその総称である。南方の別山と三ノ峰を加え、白山五峰と称されることもある。山頂部に千蛇ヶ池、翠ヶ池などの火口湖があり、南には溶岩流が形成した弥陀ヶ原がある。周囲には石川県・福井県・岐阜県の 三県に亙って大日ヶ岳・経ヶ岳などの古い火山群と、同時代に噴出した大日山・戸室山などがあり、実はこれら白山火山帯と呼ばれる火山形成の最後に白山が誕生したとされている。奈良時代の僧泰澄がここを宗教道場として開山したと伝えられ、富士山・立山とともに山岳霊場として古くから知られ。加賀・越前・美濃からの参詣道が開かれ、参拝者を集めてきた。「越の白山(しらやま)」として詩歌にも登場する。但し、本篇の表題のみに関しては、本書の各章全部が漢字四字で示されていることから、「はくさんれいみやう」と音読みしておくべきである。

「鍾靈」(しょうれい)「鍾」は「集める」の意があり、越の国のあらゆる神霊の集まる霊山の意であろう。私は当初「鎭」の誤記か誤読ではないかと思ったが、「鎭靈」とするテクストはなかった。しかし、漢文体の二種の「鐘」では意味が通じない。

「雪華天に聳え」雪を被った複数の峰が花弁のような形を成して聳えという謂いであろう。

「標」(ひょう)「す」は、複数の峰がそれぞれ目印となって仰がれることを謂うのであろう。

「大女(おほなんぢ)」(おおなんじ)及びその異名「隱女(をんなんぢ)」(おんなんじ)という山名の読み方は、本篇を取り上げて解説されてある千葉徳爾氏の論文『越の白山――「三州奇談」にみる白山関係の伝承―1』PDF)での読みに従って、それを歴史的仮名遣に直したものである。同論文では、その中で、一部を除いて、本篇の主要な箇所を現代語でしかもわかりやすく訳してある。必見。

「崚嶒」(りょうそう)山が高くしかも重なること。

「百里」誇張表現。両白山地は長く見積もっても百キロメートルほどしかない。

「嶙峋」(りんじゅん)山が嶮しく聳え立つさま。

「雲車象輿」(うんしゃぞうよ)これは山稜に発生する大きな雲を神霊が載る車に譬え、また、山の「象車」(しょうしゃ)と謂って、中国で王者の徳沢に応じて出現するという山の精の載る車(輿)を、やはり雲に擬えたもの。

「薄(せま)り」諸本の訓読に従った。「肉薄」のそれである。

「躋攀(せいはん)」攀(よ)じ登ること。登攀。

「善心」僧の法名であるが、詳細事蹟不詳。資料なし。

「貧道(ひんだう)」貧弱にして愚昧な道者(修行者)である拙僧。僧善心の自己卑称。

「稔(ねん)」「年」に同じい。

「窈窕」(ようちょう)山水自然の持つ奥深いさまを指す。

「瞻望」(せんぼう)遠く見渡すこと。

「指點」指し示すこと。

「諸峯を𤲿(ゑが)くに似たるもの有るなし」「盡」と「畫」の異体字「𤲿」は崩れていると判読は困難だ。漢文原体の「盡」では「指點、諸峰を盡すに、似る所の者、有ること罔(な)し」で、寧ろその訓読の方が腑に落ちる気がする。即ち、「一つ一つの峰を全て指さして確認してみるのだが、一つとしてそれ以前に見たのと似たような峰がないのである」の謂いである。これはメタモルフォーゼする神霊の峰のシンボライズであろう。但し、「𤲿(ゑが)く」を心内に「思い描く」(そして記憶する)の意で採れば、同じ意味で理解は出来る。

なお、千葉氏の『越の白山――「三州奇談」にみる白山関係の伝承―1』では、この辺りを(失礼乍ら、原文に必ずしも忠実な訳ではない)『山麓で望んだ光景と大汝頂上から眺めるのとは、山のようすがまったく異なってしまう』とある。当初、私もそうとったのだが、山麓と頂上近くでは様子が全く違うというのは当然のことであって、しかもそれでは、後の「終に其地を得ず」が今一つ明確に理解できないのである。

「杳然」(ようぜん)遙かに遠いさま。また、深く幽かなさま。

「終に其地を得ず」ついさっき見た眼前に峰でさえ、自分は動いていないのに違った峰と認識されるのであるから、遂にそれぞれの一峰の物理的存在を、自身、捉えることが出来ないと言っているのであろう。そう解釈して初めて以下の善心の言う「大女」峰とその異名と思っていた「隱女」峰は「蓋し別に二峰」なのであると臆断したという述懐の意味が腑に落ちてくるのである。以下から、「大汝が峰」はその場所が判る、しかし、同じはずの「隠女(おんなんじ)ヶ峰」の峰のある地は遂に判らないという意味でもよい。よいが、ここまでの文脈中では、そのように「隱女」が峰限定的に述懐していないのも事実である。千葉氏の『越の白山――「三州奇談」にみる白山関係の伝承―1』では、実はこの難解な部分を初めから解消するために、実は『最高峯は大汝と呼ばれます。また、その半腹を隠汝(おなんじ)とい』うとされているのである。私の初回、「大女」のピークがあり、そこに至る中腹に「隱女」のピークがあると読もうとした。しかし、それではそこでのその書き方が微妙に変だし、後の「別に二峰也」と、これまた微妙に齟齬するように感じて最初から読解をやり直した経緯があるので、やはり千葉氏の解釈には従えないのである。

「大女は皆登るべし」大汝が峰は、皆、誰もが登ることが出来る。

「臻(いた)る」「臻」は「至る。届く。及ぶ。来たる」などの意がある。

「古名も空しからず」この場合、空しくないのは「隱」の字を含む「隱女」の方であろう。しかし、それが古名である確証はない。また、「をんなんぢ」(隠女)が元でそれから「おほなんぢ」(大汝)へ転訛する可能性はこれ、否定も出来ない。寧ろ、あり得そうでさえある。

「或は曰く」ある人がこの不思議な現象について次のようなことを言っている、という挿入である。

「蓋し有ㇾ之(これあらん)」思うに、そのような不思議なことはあってもおかしくはないであろう。

「古記」古いある記録。

「蓬壺」(ほうこ)は古代中国で東方海上に浮遊しているとされた仙境蓬莱山の異名。

「巍然(ぎぜん)」山などが高く聳え立っているさま。また、ぬきん出て偉大なさま。

「沒失」(もっしつ)」見失うこと。

「其人に非ざれば」この「其(そ)の、人(ひと)に非(あら)ざれば」と読んで、ここは『「其の」は特定の資格、仙界に入ることが出来る超能力を持った「人」でなければ』の謂いで採る。

「粉碎」「粉骨碎身」の略。敢へて臻ること能はず」。

「ならし」連語で断定の助動詞「なり」に推量の助動詞「らし」の付いた「なるらし」の転じたものであるが、近世以後、推量の意味が減じて、単に断定を避けた婉曲的表現として用いられたものである。

「滑稽名」ここは俳号か狂名であろう。筆者は俳諧師であるから、その縁がこの僧とはあった可能性が高い確率で想起出来る。

「梅石」法名と同じく不詳。資料なし。

「大聖寺」石川県江沼郡にあった大聖寺町(だいしょうじまち)。錦城山に白山寺(廃仏毀釈により廃寺)末寺である白山五院の一つ大聖寺(本来の寺は現存しない)があったことに由来する。この付近(グーグル・マップ・データ。白山を含めて示した)。

「食家」原漢文の「富家」の誤判読であろう。

「平泉寺」福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある現在の平泉寺白山(へいせんじはくさん)神社(グーグル・マップ・データ)。廃仏毀釈までは霊応山平泉寺という天台宗の有力な寺院であった。ここに記された中で、唯一私が行ったことがある場所である。ウィキの「平泉寺白山神社」によれば、『江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受けたが、規模は』六坊に二ヶ寺で寺領は三百三十石であった。但し、寛保三(一七四三)年、紛争が『絶えなかった越前馬場』の平泉寺と加賀馬場の白山比咩(しらやまひめ)神社との『利権争いが』、漸く『江戸幕府寺社奉行によって、御前峰・大汝峰の山頂は平泉寺、別山山頂は長瀧寺(長滝白山神社)が管理すると決められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した』。『明治時代に入ると』、『神仏分離令により』、『寺号を捨て』、『神社として生きていくこととなり』、『寺院関係の建物は』総て廃棄された。明治五(一八七二)年十一月には『江戸時代の決定とは逆の裁定が行われ、白山各山頂と主要な禅定道』(ぜんじょうどう:山岳信仰に於いて、禅定(=山頂)に登ぼるまでの山道を指す。禅定道の起点は修行の起点でもあり、起点またはその場所を「馬場(ばんば)」と呼ぶ)は『白山比咩神社の所有となっ』てしまっている。原型の筆者麦雀の生没年が未詳であるが、諸条件から考えると、この幕府の禅定道裁定の寛保三年というのはちょっと微妙である。本書完成時はまず、その後であるから問題ないが、原著者のそれだとすると、この裁定以前であった可能性が高いように思われる。

「室堂」修験者や行脚僧が宿泊したり、祈禱を行ったりする堂。白山のそれは現在の白山室堂ビジター・センター(グーグル・マップ・データ)にあった。標高約二千四百五十メートル。

「別山の社」麓の本社ではなく、別に山上に設けた社。この場合、善心は平泉寺で修行しているから、平泉寺が設けた祠(やしろ:神仏習合期で、しかもここは修験道とも濃密に絡んでいるので何らおかしくない)のそれであろう。

「積雪の門」社殿の門の固有名詞か。白山は冬季はがっちり雪に埋もれるから、この名はしっくりとくるようには思う。

「山風」思うに、高高度で風が常時あるのは当たり前に過ぎるから、ここは原漢文の「嵐」(強風・烈風)の一字を分解してしまった誤判読であろう

「鵜鳥(うのとり)」高高度の白山山頂にウ(まずは内陸にもいるカツオドリ目 ウ科ウ属カワウ Phalacrocorax carbo)がいるはずがない。千葉氏の『越の白山――「三州奇談」にみる白山関係の伝承―1』で、『鵜に似た鳥』の謂いで『雷鳥』(キジ目キジ科ライチョウ属ライチョウ Lagopus muta )『のこと』であることが判った。であれば、腑に落ちる。

「道者」道心者。]

2020/01/16

甲子夜話卷之六 5 大猷廟、天海僧正へ柹を賜はる事

6-5 大猷廟、天海僧正へ柹を賜はる事

天海僧正は、神祖の御時より眷注を被りし長壽の人なり。一日猷廟の御前にて柹を賜ふ。喫して其核を懷にするを御覽ぜられ、僧正何にするよと問はせられければ、持歸て植候と答ふ。仰に、高年の人無益のことにとありければ、天海申すは、一天四海を知しめさるゝ御方は、かゝる性急なる思召然るべからず。無ㇾ程この柹の生立上覽に呈せん迚、退出せり。年を經て、僧正柹を多く器に盛て獻上す。猷廟いづくの產物ぞと御尋ありしに、左候、これは先年拜受せし柿核の、生長して所ㇾ實なりと申上ければ、上を始め奉り、その席に有合ふ諸人、歎服せざるは無りしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「大猷廟」徳川家光(慶長九(一六〇四)年~慶安四(一六五一)年:将軍在位/元和九(一六二三)年から没年まで)。

「天海僧正」(天文五(一五三六)年?~寛永二〇(一六四三)年:この生年が正しいとすれば実に数え百八歳)は、天台僧。号は南光坊。諡号は慈眼大師。会津出身。比叡山・興福寺などで諸宗について学び、川越の喜多院などに住した。徳川家康の帰依をうけて政治にも参与し、日光山を授けられた。家康死後、家康を久能山から日光山に東照大権現として改葬し、江戸上野に寛永寺を創建、天海版と呼ばれる「大蔵経」の版行を発願した(完成は没後)。事蹟のよく分からない部分がある謎の家康のブレーンで、実は明智光秀が生き残って彼となったという珍説さえある。本篇が何時の出来事であるか不明であるが、家光が将軍職となった年だとしても、推定生年からは八十七歳である。

「眷注」特に目にかけてそばに置いたことを指すようである。

「核」「たね」。

「生立」「おひたち」。

「所ㇾ實なり」「所」は使役で「みのらしむるなり」「みのりせしむるなり」であろう。

譚海 卷之三 御讓位の節の事

御讓位の節の事

○往古は天子の寶璽(ほうじ)六つありしが、亂世をへて悉く紛失せりとぞ。今世もし一つを得て奉る人あれば、宮人に拜せられるゝといへり。天明五年[やぶちゃん注:ママ。]春、筑前黑田氏領所叶崎(かなのさき)と云所にて、地を掘て金印壹を得たり。倭奴國王(かんのわのなのこくわう)の四字有、後漢孝武帝[やぶちゃん注:ママ。]賜るもののよし。當時筑紫に熊襲(くまそ)有て、使を通じたるに賜りたる者にやと云り。

○御讓位の時、院の御所へうつらせ給ふ御供に、時の關白殿束帶にて、三種の神寶を隨身(ずいじん)有。同じ院の御所へ參られ、直に又新帝へ神寶を御渡有由にて、關白殿引返し神寶を持歸り、禁中へ納めらるゝ也。院の御所へ御移の時鳳輦(ほうれん)也。舁(かく)所の棒四角に稜ありて、殊に重きやうす也。數十人にて舁事にして、舁人は皆地子(ぢし)免許の町人勤(つとむ)る也。是は前年出火の時火内裏に及しに、駕輿丁間にあはざる事ありしを、京都の町人走り參り、鳳輦を舁てのけ奉りし勞によりて、長く地子免許ありしより、今に鳳輦をば此町人かく事になれりとぞ。京都の町人地子免許の者は、門に諸役免許の札をかけ置也。

[やぶちゃん注:目録から、二つを並べて採った。

「天明五年春」金印の発見は現在は天明年間(一七八一年~一七八九年)とし、或いは天明四年二月二十三日(一七八四年四月十二日)に限定する説もあるウィキの「漢委奴国王印」に拠る)。

「筑前黑田氏領所叶崎(かなのさき)」これは博多湾に突き出た現在の福岡県福岡市東区大字志賀島(しかのじま)の叶浜(かのうがはま)(グーグル・マップ・データ)である。ウィキの「漢委奴国王印」には、大正三(一九一四)年に『九州帝国大学の中山平次郎が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定した。その推定地点には』大正一二(一九二三)年に『「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された』。しかし、その後、第二次世界大戦後、二回に亙って『志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出された』。『ただし、志賀島には金印以外の当時代を比定できる出土品が一切なく、志賀海神社に祀られる綿津見三神は漢ではなく』、『新羅との交通要衝の神であり直接の繋路はまだ見出されていない』。後に二回、『福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されている』とある。しかし、「福岡市博物館」公式サイト内の「金印」によれば、『出土地について文献には「叶崎(かなのさき)」と「叶ノ浜」の二通りの記述が登場します。ここにいう「叶崎(かなのさき)」は「叶ノ浜」に含まれる海に突き出た部分と考えられます。金印の出土地点を最初に推定したのは病理学者でもあった九州考古学の草分け中山平次郎で、大正時代の初めのことです。その根拠となったのは古老の記憶と志賀海神社宮司の安雲(あずみ)家に伝わる『筑前国続風土記附録』の付絵図の描写によるものでした』とあって、さらに『金印の出土地は中山平次郎が推定したように石碑から海に向かって右斜め前に行ったところとするのが妥当のようです』とある。現在の「金印公園」は東区大字志賀島内であり、リンクの地図でも判る通り、現在の叶浜よりもやや南東の位置にある。まあ、古くはこの金印公園から現在の大字叶浜一帯を「叶浜」と呼んでいたと考えれば、齟齬はない。因みに、「叶う」というのは「大きな船が停泊することが叶う浜」という意味であろうという記載を個人ブログ「ひもろぎ逍遥」のこちらで見出せた。また、ウィキによれば、『水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち』、『金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に』人為的に『隠されていた』(太字下線は私が附した)ということになる。『発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は』「後漢書」に『記述のある金印とはこれのことであると同定し』、「金印弁」という『鑑定書を著している』とある。ここに出る「後漢書」のそれは「卷八十五」の「列傳卷七十五 東夷傳」にある、

   *

建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬

(建武中元(けんぶちゆうげん)二年、倭奴國(わのなのくに)、貢を奉じて朝賀す。使人、自ら「大夫」と稱す。倭國の極南の界(さかひ)なり。光武、賜ふに印綬を以つてす。)

   *

を指す。「建武中元二年」は紀元後五十七年に相当する。また、ウィキには『九州王朝説』(歴史学者古田武彦によって戦後に提唱された七世紀末まで九州に日本を代表する王朝「邪馬台国」があり、太宰府がその首都で、それが倭国の前身であるとする説。但し、現在は学問的にも邪馬台国論争でも支持されていない)『では、皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い』『(金印は陪臣に与えるものでない)こと』、『及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」=「倭国王」に与えられたものである。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはなく、卑弥呼が賜ったとされる金印も「親魏倭王」であり』、『倭王に対して下賜されたものである。「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の国璽として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が使われ続け、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたとし、従って「漢委奴國王」印の最後の所有者は卑弥呼であったと』している(いた)とある。

「後漢孝武帝」後漢王朝の初代皇帝光武帝(紀元前六年~紀元後五七年)の誤り

「筑紫」(ちくし/つくし)福岡県のほぼ全域を指す古称であるが、さらに古くは九州全体或いは九州中南部を称する語でもあった。ここは後者で採るべきか。

「熊襲(くまそ)」記紀の伝承では、九州中南部に住み、長く大和朝廷に服属しなかった種族とされ、「風土記」では球磨噌唹(くまそお)と連称しており、「くま」は肥後国球磨郡地方を、「そお」は大隅国噌唹郡地方を指す。熊襲はこれらの地方に勢力を揮った種族と考えられるが、確かなことは不明で、人種・民族の系統も不詳ながら、隼人(はやと)族(古代南九州に居住していた部族。主として大隅・薩摩地方を根拠地としていた。五世紀中頃には大和朝廷に服属し、勇猛敏捷であったため、徴発されて、宮門の警衛や行幸の先駆などを勤めた)と同一種族で、南方系民族とする説もある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

【二条目】

「隨身」身辺に供としてつき従うこと。

「鳳輦」屋形の上に金銅の鳳凰を飾りつけた輿(こし)。土台に二本の轅(ながえ)を通し、肩で担(かつ)ぐ。天皇専用の乗り物で、即位・大嘗会・御禊(ごけい)・朝覲(ちょうきん)・節会などの晴れの儀式の行幸に用いた。

「地子(ぢし)免許」「地子」は「ちし」とも読み。律令制下に於いては、諸国の官有地を農民に貸し付けて上納させた地代を指し、定額は収穫の五分の一であった。位田・職田・没官(もつかん)田・乗田など、地子を納める田を「輸地子田」といった。荘園制下の地子は、田地に課せられる年貢に対して、公事、殊に畑や屋敷に課せられる税を意味し、銭による納入の場合が多かった。江戸時代に於いては、地子は専ら、町屋地に課せられる税の意に用いられ、銀或いは銭を以って納めた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ここはそれを納める義務を朝廷から公式に免除されたことを指す。

「前年」「さきのとし」で、広義の記載時よりも前の年の謂いで、これは宝永五年三月八日(一七〇八年四月二十八日)に京都で発生した「宝永の大火」であろう。禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上し、九条家・鷹司家を始めとする公家の邸宅や、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした四百十七ヶ町、一万三百五十一軒が焼けた。天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に発生した天明の大火でも御所が延焼しているが、本篇は「譚海」の「卷三」所収なわけだが、底本の竹内利美氏の解題によれば、「卷二」から「卷四」は最新記事でも天明五年が下限であるから、それではない。

「丁間」「ちやうかん(ちょうかん)」或いは「ちやうけん(ちょうけん)」であろう。「丁」は「町」で「町屋」、庶民の住む区画の謂いで、「間」はその街路の幅のことと思われる。ここは鳳輦が大き過ぎて、町屋の間を抜けて避難する(本文の「のけ」(退く))際に難渋したのを、その町人たちが自発的に担いで渡し、ことなきを得たことを指していよう。]

2020/01/15

大和本草卷之十三 魚之下 鰊(かど) (ニシン)

【和品】

靑魚 鰮ニ似テ大ナリ長一尺餘味鰮ニ似テマサレリ冬

 春多クトル總州常州奥州殊津輕蝦夷等ノ海ニ多

 シ朝鮮ヨリモ來ル故筑紫ノ方言髙麗鰮ト云東醫

 寳鑑ニ此魚ヲ記ス其形狀カドニ能合ヘリ昔年朝鮮

 人ニ或人カドノ魚ヲタツ子シニ靑魚ト云ヘリ又一名ヲ

 ニシント云其子乾タルヲ俗ニカズノ子ト云世俗コレ

 ヲ年始及婚嫁ニ用ユ四五日水ニ浸シ水ヲカヘテ醬

 油煎酒ニ浸シ食フ或酒糟味醬ニツケテ食ス〇案

 本草所謂靑魚与此別ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

靑魚(かど) 鰮(いはし)に似て、大なり。長さ一尺餘り。味、鰮に似て、まされり。冬・春、多くとる。總州・常州・奥州、殊に津輕・蝦夷等の海に多し。朝鮮よりも來たる。故、筑紫の方言に「髙麗鰮(〔こうらい〕いはし)」と云ふ。「東醫寳鑑」に此の魚を記す。其の形狀、「かど」に能く合けり。昔年、朝鮮人に、或る人、「かどの魚」をたづねしに、「靑魚」と云へり。又、一名を「にしん」と云ふ。其の子、乾(ほし)たるを、俗に「かずの子」と云ふ。世俗、これを年始及び婚嫁〔(こんか)〕に用ゆ。四、五日、水に浸し、水をかへて、醬油・煎酒(いり〔ざけ〕)に浸し、食ふ。或いは、酒の糟〔(かす)〕・味醬〔(みそ)〕につけて食す。

〇案ずるに、「本草」に所謂、「靑魚」〔は〕此れと別なり。

[やぶちゃん注:条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii益軒は「かど」という異名をその形状由来として納得している。私も生態のとんがった頭部や、身欠きニシンのかっちかちのそれから「角」を連想して無批判に納得しそうなったが、改めて調べてみると、どうも違うようである。国立国会図書館「レファレンス協同データベース」の『山形では、「にしん」のことを「かど」と言うらしいが、由来を知りたい』という質問に対する回答に、『新庄市HP中、かど焼き大会の項目に、「東北地方では、産卵のために押し寄せるニシンを門口で獲れたことからカドと呼ぶようになった」とあり、由来にも触れられてい』るとあったので探すと、確かに「新庄市」公式サイト内の「新庄カド焼きまつり」に、『カドとは、「鰊(ニシン)」のこと。東北地方では、産卵のために押し寄せるニシンが門口で獲れたことからカドと呼ぶようになったと言われ、春の産卵期に北方の海に現れることから「春告魚(はるつげうお)」とも呼ばれ』、『新庄は、豪雪地帯のため、冬期間は鮮魚の入手が困難で』あったことから、『雪解けと共に入荷するカドを焼いて酒を酌み交わし、春の到来を喜び』合ったとあり、現在でも『新庄の春の風物詩になってい』るとある。習性に加えて春の祝祭的由来は名称として説得力がある。因みに、ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のニシンのページの「地方名・市場名」の欄では「カズノコ(数の子)」という名称についても、『卵巣を「数の子」としたのは、秋田でニシンを「カド」といい、その「子」で「かどの子」が訛って「かずのこ」になった。これに「数の子」と漢字を当てた』とある。また「漢字・語源」の欄には、『「鰊」という漢字は「東の魚」』(東日本で捕れる魚)『から』で、別字「鯡」は『魚に「非(あらず)」、というのは歴史的に面白』く、『江戸時代に米のとれない松前藩が』、米の『代わりにニシンを年貢として徴集した』ことに由来するという説が掲げられてあり(この松前藩云々は他でも書かれてあるが、正説かどうかは私は留保したい)、また『「二身」という』表記も『あり、これは内蔵を取り去り』、二『つ割りにする。その身を「にしん」であるとした』と記されてある。

「髙麗鰮(〔こうらい〕いはし)」この呼称は今も残る。他に「えびすにしん」「ちょうせんにしん」の異名もあるようである。

「東醫寳鑑」(とういほうかん/トンイボガム)は李氏朝鮮時代の医書。全二十三編二十五巻から成る。御医(王の主治医)であった許浚(きょしゅん)著。ウィキの「東医宝鑑」によれば、一六一三年に『刊行され、朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布した』とある。

『朝鮮人に、或る人、「かどの魚」をたづねしに、「靑魚」と云へり』ウィキのハングルで書かれた「ニシン」を見ると、確かに漢字で「靑魚」とあった。因みに、中国語ウィキのニシン類には「鯡」が一般的に使用されているのが判る。「鯡」は中国に元からあった漢字ではあるものの、原義は「魚のはららご(卵巣)」で、これは恐らくは日本からの逆輸入的使用(というより、本邦ではカズノコを食すようになった際に「ニシン」に漢語「鯡」を当てた(国字化した)と考えてよいようにも思われる。中国では魚卵は嘗ては一般的に好まれる(身体によい)食材ではなかったと私は聞いている)による一致なのではないかとも私は考えている。

「味醬〔(みそ)〕」古くは味噌をこのようにも表記した。]

第一書房昭和一二(一九三七)年二月刊「家庭版小泉八雲全集」第五巻 田部隆次氏「あとがき」

 

[やぶちゃん注: 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。当該「あとがき」本文はここ。なお、本巻は四人の訳者による共訳であるが、「あとがき」は田部隆次氏によるもののみである。最後の田部氏の署名はポイント上げでもっと下方にある。

 なお、幾つかの事項や人名等については、今まで電子化注の中で施してきたので、ここでは繰り返さない。その代わり、各作品には私の当該篇に直接にリンク(分割の場合はその初回)を施して便宜を図った。その関係上、一部に半角開けを施した。]

 

      あ と が き

 

 『東の國から』は一八九五年、ボストンのハウトン・ミフリン會社、及びロンドンのオスグッド・マックイルヴヱン會社から同時に出版された。出雲時代の友人西田千太郞氏に捧げてある。重に熊本時代の見聞に基づいて居るこの十一篇のうち「夏の日の夢」は『ヂヤパン・デイリー・メイル』に、「博多にて」 「永遠の女性に就て」 「赤い婚 「叶へるの四篇は『太西洋評論』に、その以前發表された物である。

 「九州學生」のうち、譯者が註に書いた當時の生徒の名は全部安河内麻吉氏の敎示によつた事を述べてここで謝意を表したい。當時は生徒の數も少なかつたので、文科と法科は勿論、理科工科も共通學課は時として一緖に授業を受けた事を注意すべきである。

 

 『心』は一八九六年、ポストンのハウトン・ミフリン會社、及びロンドンのオスグツド・マツクマックイルヴヱン會社から同時に出版された。友人雨森信成(のぶしげ)氏に捧げてある。熊本時代の物一部分を除いて大部分神戶時代になつた十五篇のうち「日本文化の眞髓」 旅行日記より」 「戰感」 神佛の黃昏時[やぶちゃん注:この訳題は本篇では「薄暗がりの神佛」である。当該篇訳者が田部氏でなく、戸澤正保氏であるための齟齬に過ぎない。]の四篇は、その以前『大西洋評論』で發表されて居る。附錄の唄三つ」は出雲松江附近の或部落を訪うて得た物である。

 これ等の諸篇は多くは事實に基づいて居る。たとへば「停車場にて」の記事は、著者が實際巡査殺しの犯人を停車場に迎へたのであつた。「戰感」 コレラ流行時に」 つけ」の記事も皆事實であつた。コレラ流行時に」の著者の家は神戶市中山手通、七丁目番外十六番にあつた。

 著者は夫人にいつも話を聞くやうに、屑屋でも魚屋でも珍らしい經驗をもつた人の話を尊重して聞くやうにと云つた。神戶で門つけを呼び入れて歌を聞いたあとで御馳走をしてできたのがこの一篇であつた。この歌の原文は一つから二十まである數へ歌。大阪の男女が京都の疏水で心中した事實を歌つた物。女が遺書を書いて居るところと、二つの新しい墓の繪があるだけ。歌の文句は「一つとせー、評判名高き西京の今度開けし疏水にて、浮名を流す情死の話」と云ふやうな物であつた。しかし十吉と云ふ男の名も、若菊と云ふ女の名も、印刷者發行人の名まで變へてある。

 

     昭和二年二月  田 部 隆 次

 

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 勇子――追憶談 (戸澤正保訳) / 作品集「東の国から」全電子化注~了 / 来日後の作品集全電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“YUKO: A REMINISCENCE”。「勇子――一つの追憶」)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の最終話である第十一話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者戶澤正保は前の「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)」を参照されたい。

 本篇で語られる畠山勇子(慶応元(一八六五)年~明治二四(一八九一)年五月二十日)は、ウィキの「畠山勇子」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、安房国長狭郡鴨川町(かもがわまち)横渚(よこすか)(現在の千葉県鴨川市横渚(グーグル・マップ・データ))に『畠山治兵衛の長女として生まれ』た。『畠山家は鴨川の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。五歳で父を失い、十七歳で隣の千歳村(現南房総市)の平民に嫁いだが、うまくいかず二十三歳で離婚』し、『東京に出て』、『華族の邸宅や横浜の銀行家宅の女中として働いた後、伯父の世話で日本橋区(現・中央区)室町の魚問屋にお針子として住み込みで奉公する。父や伯父の影響で、政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読み、店の主人や同輩たちから変人とみなされていた。大津事件』(明治二四(一八九一)年五月十一日、来日したロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(当時二十二歳)が、大津において、警備の巡査津田三蔵に斬られて負傷した事件。その裁判を巡って、政府側と大審院長児島惟謙(いけん)との見解が対立、紛糾した。皇太子一行が人力車で京町筋を通行中、路上の警備にあたっていた津田巡査が,突然、抜剣して皇太子の頭部に切りつけた。その動機は、皇太子の来遊が日本侵略の準備であるという噂を信じたためであった。旧刑法では謀殺未遂は死刑にならなかったが、政府側はロシアの報復を恐れ、不敬罪を適用して死刑にすることを企図し、裁判に強力に干渉した。しかし、大審院の臨時法廷は、大津地方裁判所で同月二十七日に開かれ、犯人は謀殺未遂に立件され、無期徒刑を宣告された。津田は七月二日に北海道標茶町(しべちゃちょう)にあった釧路集治監に移送・収監されたものの、身体衰弱につき、普通の労役ではなく、藁工に従事したが、同年九月二十九日に急性肺炎を発症、翌三十日未明に獄死している)『が起こるや、国家の有事としきりに嘆いたが、周囲は「またいつもの癖が始まった」と相手にもしなかったという』。『そうした中、ロシア皇太子が本国からの命令で急遽』、『神戸港から帰国の途につくことになった。それを知った勇子は、帰郷するからと』、『奉公先の魚問屋を辞め、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。榎本は貿易商で、島津・毛利・山内・前田・蜂須賀ら大名家が幕府に内緒で銃を買い入れていた武器商人で、維新後は生糸の輸出で財をなしていた。勇子は伯父ならば自分の気持ちを理解してくれるだろうと考え、「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と口説いた。伯父は一介の平民女性が国家の大事を案じてもどうなるものでもあるまいと諫めたが、思い詰めた勇子は汽車で京都へ旅立った』。『勇子は京都で様々な寺を人力車で回った後、五月二十日の午後七時過ぎ、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀った。しかしすぐには死ぬことができず、すぐに病院に運ばれて治療が施されたが、気管に達するほどの傷の深さゆえ』、『出血多量で絶命した。享年二十七。当時の日本はまだ極東の弱小国であり、この事件を口実に大国ロシアに宣戦布告でもされたら国家滅亡さえ危ぶまれる、彼女はそう判断したのである。伯父や母、弟にあてた遺書は別に郵便で投函しており、総計十通を遺していた』。『その壮絶な死は「烈女勇子」とメディアが喧伝して世間に広まり、盛大な追悼式が行われた』とある近代の稀に見る憂国の烈女である。ハーン(小泉八雲)は事件発生直後から強い衝撃とシンパシーを彼女に持ち、来日後の第一作品集“Glimpses of Unfamiliar Japan”(明治二七(一八九四)年九月刊)で早くも彼女のことを記している(私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (二)』を見られたい)。また、本作品集刊行から七ヶ月後の明治二八(一八九五)年十月の京都旅行の際には彼女の墓を参って(『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』の私の注を参照)、『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「七」』の一章全部を彼女を語ることに費やしている。

 最初のクレジットはややポイント落ちの下六字上げインデントで、聖書の引用は、ややポイント落ちの九字下げで、連続して二行で表示されてあるが、ブラウザの不具合を考え、引き上げて恣意的に改行し、同ポイント四行で示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   *

 なお、本篇を以って、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)来日後の十二冊の作品集総てのオリジナル電子化注をブログ・カテゴリ「小泉八雲」にて完遂した。本格的に手をつけたのが、『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一)』で二〇一五年六月十七日であったから、途中、ブレイクした時期があるが、足掛け四年七ヶ月かかった。その間、「八雲会」様ほか、多くの方々からエールを送られた。心より感謝申し上げる。私の一つの小泉八雲の区切りとなったが、向後も、ゆっくらと来日前の作品群のそれに取り掛かりたいと思っている。

 

  勇子――追憶談

            明治二十四年五月

 

   誰れか勇敢なる婦人を見出すべき――

   勇敢なる婦人は貴重にして

   容易に國内に見出されず――

               拉典譯聖書

[やぶちゃん注:「拉典」(ラテン)「譯聖書」とあるが、表記は現代英語である。これは「ヴルガータ」(ラテン語:Vulgata)で、これはラテン語の「editio Vulgata」(「共通訳」の意)の略で、カトリック教会の標準ラテン語訳聖書のことを指す。これは「旧約聖書」の「箴言」の最後の第三十一章の中の第十節である。「文語譯舊約聖書」(昭和二八(一九五三)年版)から(ここを参考にした)当該部を引くと、『誰(たれ)か賢(かしこ)き女(をんな)を見出(みい)だすことを得(え)ん』。『その價(あたひ)は眞珠(しんじゆ)よりも貴(たふ)とし』である。]

 

 『天子樣御心配』。天の子宸襟を惱まし給ふ。

[やぶちゃん注:「宸襟」(しんきん)は「天子の御心」の意。]

 町は不思議にしんとして、萬民喪に居るが如き靜けさである。行商人さへ平常より低い聲で賣り步く。何時も朝早くから夜屈くまで雜沓する劇場も悉く閉鎖した。あらゆる遊び場、あらゆる興行物(みせもの)――花の會まで閉鎖した。あらゆる宴席料亭も同樣である。淋しい藝者町に三味線の音一つ聞こえねば、大きい旅人宿に酒飮み騷ぐ者もなく、客は低聲[やぶちゃん注:「ひきごゑ」。]で話すばかり。道行く人の顏にも平生の微笑は何處へやら、町角の貼紙は宴會や餘興の無期延期を報じて居る。

 こんな火の消えた樣な淋しさは、大きな天災若しくは國家の危機――大震災、首都の破壞、宣戰の布告の樣な報道のあつた後に起こるべきだ。併しそんなものは實際何もない――ただ天皇叡慮を惱まし給ふと云ふ報道があつた計り。それに國内幾千の都會を通じて、同じ憂愁の雲に掩はれ、萬民主君と悲みを同じうするの衷情を表して居る。

 君王の悲みを悲む此偉大な表現の直ぐ後から、過(あやま)てるを正し、損はれたるを償はんといふ、自發的の願望が一般に起こつて來た。此願望は直に衷情から出て、天眞爛漫な、無數の形で現はれた。殆ど各地各人から慰問の書面や電報、又は珍らしい献上品が國賓に宛てて送られた。富めるも貧しきも、重代の品物や、貴重な家の寶を取り出して、負傷した皇太子に捧げたのである。其外露國皇帝に傳送すべき無數の書面が認められた――皆何れも自發的に個人が爲したのである。或る奇特な老商人は自分を尋ねて來て、露國皇太子襲擊に對する全國民の深厚な悔恨の意を表はす電文――全[やぶちゃん注:「すべて」か。衍字のようにも思われる。]露國皇帝への電報――を佛語にて認めて吳れと乞うた。自分は丹精をこめて認めてやつたが、高貴な方への電文の文言には、全く無經驗であることを云つて聞かせた。『お〻それは關(かま)ひません』彼は答へて云つた、『セントピータスバーグの日本公使宛てに送ります。間違ひがあつたら公使が形式通りに直して吳れませう』自分は更に、電報の料金を承知して居るかどうかを尋ねて見た。處が彼は正確に百餘圓と計算した。これは松江の小商人に取つては莫大な支出であつた。

[やぶちゃん注:「セントピータスバーグ」“St. Petersburg”。サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)は現在のレニングラード州の州都(グーグル・マップ・データ)。当時はロシア帝国の首都であった。

「百餘圓」明治二四(一八九一)年当時の一円は現在の二万から三万円相当。]

 頑固な老サムラヒ達は、これとは全く異つた荒つぽい方法で彼等の所感を示した。大津で露太子警衞の任に當つた一高官は、特別便で、利刀と書面とを受け取つたが、其書面には、早速切腹して、男子の面目を完うし、兼て遺憾の意を表せと書いてあつた。

 一體日本人には、神道の神と同樣、二種類の魂(たましひ)がある。和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)とである。和御魂はただ補償を求め、荒御魂は贖罪を要求する。今や國民の生活を掩ふ暗澹たる大氣の中に到る處此の相反する衝動の奇なる震動が、恰も二種の電氣の如くに感ぜられる。

 

 遠い神奈川の或る富家に一人の若い娘の婢女(めしつかひ)が居る。名は勇子(ゆうこ)と云ふ。これは勇敢といふことを意味する、昔の武家風の名である。

[やぶちゃん注:「神奈川」原文もママ。彼女は横浜の銀行家宅の女中であったことはあるが、事件当時は既に注した通り、東京にいた。情報が錯錯綜していたものと思われる。また、前に示した通り、以下、ハーンは一貫して彼女を元武家の出としているが、彼女は農民の娘であり、縁者にも元武家はいない。その自死の苛烈果敢凄絶であったことから、これもそうした事実でない認識が広くなされたものと思われる。

 四千萬の同胞が悉く悲しんで居るが、勇子の悲みは群を拔いて居た。何故(なぜ)何(ど)うしてといふことは西洋人には十分に了解(わか)らぬ。が、彼女の全身は感動と、我々には極漠然としか分からぬ衝動とに領せられて居る。善良な日本少女の精神の一端は我々にも解せられる。其精神の中には戀もある――但し深く靜かに潛在して居る。汚濁を受け附けぬ純潔もある――其佛敎的象徵は蓮花である。又梅花にかかる初雪の樣に纖細な感觸もある。又武家傳來の死を恐れぬ氣性が、音樂の樣に和らかな温順さの中に潛んで居る。堅實で素朴な宗敎心もある――神佛を味方にして、日本の禮節に背かぬ限りの心願を掛けるに憚らぬ衷情からの信仰がある。併しこれと此外の色々の情感の上に、全體を統率する優越な一つの情緖があるが、それは西洋の語では表現することが出來ない――忠義(ローヤツチー)といふ譯語では全く物足りない、寧ろ我々の所司神祕的興奮に近い或る者で『天子樣』への極度の崇拜歸依の心である。これはただ個人一代の感情ではない。押し詰めると、忘れられたる遠い遠い過去の闇へ遡る先祖傳來の不朽不死の道念と意志である。彼女の肉身は、我々西洋人のとは全く異る過去の憑依せられた靈の住家(すみか)である。――其過去に於ては無數劫の間、凡ての日本人は一人の如くに、我々とは異る風に、生き、感じ考へたのである。

 

 『天子樣御心配』此報道に感應して男勇子の心には何か献上したいといふ燃ゆる樣な願望が直に湧き起こつた――制すべからざる願望ではあるが、給金から剩(あま)した僅少の貯への外には、何一つ所持せぬ彼女には全く無望であつた。けれども此熱望は執着して彼女に少しの平和をも與へぬ。夜になると彼女は考へに沈んで、自分に色々の問を發すると、祖先の禮が彼女に代つて答へるのである。『天子樣の御心配を安め奉るのに、何を献上したら宜からう』『汝の一身』と聲のない聲が答へる。『併し妾にそれが出來ませうか』と彼女は心許なげに問ふ。『汝には兩親とも無い』と聲が答へる、『さればとて汝の力では何を献上する事も出來まい。汝は我々の犧牲となるがよい。聖植の爲めに一命を抛つのは最高の忠義、最高の悅びではないか』『そんなら何處で』と尋ねると、『西京で』と沈默な聲が答へる、『古例に則つて死ぬ者の玄關口で』

 夜が明けると、勇子は起きて太陽を拜する。朝の任務を終はる。暇を乞ふ、許される。つぎに取つて置きの晴衣と、一番華美(はで)な帶と、一番白い足袋を着ける。これは天子樣の爲めに命を捨てるに相應しくする爲めである。一時間後には京都への旅に上つて、汽車の窓から滑り行く風景を眺めて居る。其日は美しい日で、遠方は眠たげな春霞で靑くぼかされ、見る目に心地善い。彼女は此好風景を祖先が見た樣に見て居る――併し西洋人には不思議で怪奇で美しい、古い日本畫帖での外、そんな風に見る事は出來ぬ。彼女は生の悅びを感ずる、併し彼女が生きて居れば、其生は將來如何に樂くなるだらうなどとは夢にも想はぬのである。彼女の死後も世界は昔通りに美しいだらうと思つても、何の悲みも伴なはぬのである。彼女は佛敎的の憂欝に壓せられて居ぬ、全く古神道の神々に身を委ねて居る。其神々は淸淨な森の薄暗がりから、又後へ飛び行く小山の上の古い祠(やしろ)から、彼女に微笑を向けつつあるのである。そして多分神の一柱は彼女に伴なうて居るのであらう。死を恐れぬ者に墓を宮殿よりも美しく見せる神、死神(しにがみ)と呼ばれる、死を願はしむる神が伴なうて居るのであらう。彼女には未來は暗黑でない。彼女はとこしへに山上の日の出、水面の嫦娥[やぶちゃん注:「じやうが(じょうが)」。中国古代の伝説上の月に住むとされる仙女の名。羿(げい)の妻であったが、夫が西王母から貰い受けた不死の薬を盗んで飲み、月に入ったとされる。転じて「月」の異称となった。ここは水面に映る月影からの連想であろう。原文は“Lady-Moon”である。]の微笑、四季の永久の魔術を見るであらう。歲月は幾𢌞轉しても、彼女は八重の霞の彼方、松の森陰の靜寂の中の、美しい場處々々に住むであらう。彼女は又梅花の雪を吹く微風の中に、流泉の淙々[やぶちゃん注:「そうそう」。水が音を立てて流れるさま。]の中に、綠野の沈默を破る樂い囁きの中に、靈妙な生を經驗するであらう。併し先づ、何處か此世ならぬ薄暗い座敷で、彼女の來るを待つ血族に逢つて、こんな事を聞くだらう、『けなげな擧動(おこなひ)を致したな――それでこそ武士(サムラヒ)の娘ぢや。サア、上がれ、今夜は汝故(そなた)に神々が我等と御會食下さる筈ぢや』

[やぶちゃん注:神人共食は神道の神祭の最も重要な秘儀の一つである。]

 

 娘が京都に着いた。時は夜が明けて居た。彼女は先づ宿屋を見附けて、それから上手な女髮結の家を探(さが)した。

 『どうぞこれを磨(と)いで下さい』勇子は小さい剃刀(これは女の身じまひには缺く可からざる品である)を髮結に渡して云つた、『此處に待つて居ますから』と買つたばかりの新聞を開いて、帝都からの最新情報を探した。其間、店の者は無禮を許さぬ嚴肅な美しい態度に打たれて、不思議さうに眺めて居た。顏は子供の顏のやうに穩かだが、聖上の憂慮の件を讀んでる中に、心の中では祖先の靈が小休みなく勁いて居る。『早く時が來ればよい』と考へた。『併し待つて居よう』小さい刄物は遂に遺憾なく磨ぎ上げられたのを受け取り、少し許りの賃錢を拂つて、宿に歸つた。

 宿屋で二通の書面を認めた。一通は兄への遺書、一通は御膝下の高官への見事な訴狀で、粗末ながら若き命一つ、贖罪の爲めに進んで捨てた微衷を酌んで、天子樣の御憂慮を鎭めさせ給はれと祈るのであつた。

 彼女が再び宿を出た時は、暁前の最も暗い時で、四邊は墓地のやうに寂寞として居た。街の燈火も數少く且つ微かであつた。彼女の下駄の音が妙に音高く響いた。見て居るものは星計り。

 問もなく御所の奧深い御門が眼の前に現はれた。其影の中へ忍び込んで、祈禱を小聲で唱へながら跪いた。さて古式に則つて丈夫な軟らかい絹の長い腰帶を取つて、衣裳をしつかりと身體に結(ゆは)ひつけ、膝の上で結び留めた。それは盲目的な苦悶の刹那に、どんな事があらうとも武士(サムラヒ)の娘は取り亂した死姿(しにざま)を見せてはならぬからである。それから沈着(おちつい)た正確さを以て咽喉を切ると、滾々と脈を搏つて血が流れ出た。武士の娘はこんな事を間違はぬ。動靜脈の所在を心得て居るのである。

 

 日出の頃、巡査が冷たくなつた彼女と、二通の書面と、それから五圓なにがしの入つて居る財布を發見した。(彼女は葬式の費用にはそれで十分と思つたのだ)そして屍骸と携帶品とを取り片つけた。

 

 此顚末は電光の樣に直に數百の都會に報ぜられた。

 帝都の六新聞は此報道を受け取つた。そして皮肉な記者は、あらぬ事共を想像し、此献身的行爲に有り勝ちな動機を發見しようと力め[やぶちゃん注:「つとめ」。]、隱れた罪惡とか、家庭の悲劇とか、戀の失望とかを探らうとした。併し否、彼女の淸廉な生活には、何の祕密も何の缺點も何の卑吝[やぶちゃん注:「ひりん」。いやしいこと。]な點もなかつた。半開の蓮の莟もそれと淸さを爭ふに足らぬ。それで皮肉な記者も、武士の娘にふさはしい立派な事ばかりを書いた。

 天子も此事を聞こし召され、陛下の赤子が如何に陛下を愛するかを知ろし召され、悲歎を止めさせられた。

 大臣達も聞いて、玉座の陰で相互に囁き合つた。『凡ての物は變はるだらう、併し國民の此心だけは變はらぬであらう』

 

 それにも拘らず、政府の高等政策で、政府は知らぬ振りをして居た。

 

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 横浜にて (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“IN YOKOHAMA”)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の第十話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 本篇の「一」章目はその最後の方で語られるように、ハーンが来日した明治二三(一八九〇)年四月中の時制であり(来日は四月四日。ハーン満三十九歳(ハーンの誕生日は六月二十七日))、「二」の再訪は、その四年四ヶ月後の明治二七(一八九四)年の七月のこと(ハーン四十四歳)と思われる。銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)を見ると、この時、ハーンは五高に嫌気がさしてはいたが、この横浜・東京への旅自体は表立った新たな就職運動のためではなく(そうした相談などは行われた可能性はある)、基本、純粋に夏休みの旅行(長野にも行くつもりだったが、結局、旅券の範囲外であったために断念している。但し、単身の旅である)として企画したものであったと考えられる。七月十四日横浜着(船)で、概ね横浜のホテルを定宿として東京のチェンバレンや友人の家を行き来したり、友人らと鎌倉などで泳いだり、箱根の宮ノ下などに泊まりに行ったりもしている)。七月三十一日に船で帰路についた。横浜が拠点となっているから、この半月の閉区間内に、この「一」で訪ねた横浜の寺へ、「二」の再訪が行われたと考えてよい

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者戶澤正保は前の「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)」を参照されたい。

 注(後者は全体が四字下げポイント落ち)は、上方或いは行頭まで引き上げて同ポイントで示し、注や引用の前後を一行空けた。最初の引用は、ややポイント落ちの六字下げで連続して二行で表示されてあるが、ブラウザの不具合を考え、三字下げで恣意的に改行し、同ポイント三行で示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。]

 

  橫濱にて

 

   我等は今日美しい光景に接した――

   美しい夜明け――美しい日の出

   ――我等は大悟の士が流を橫斷したのを見た。

             ――「雪山經」

[やぶちゃん注:「雪山經」原文“Hemavatasutta”は佛教大学大学院文学研究科仏教学専攻の中西麻一子氏の論文「カナガナハッリ大塔仏伝図の研究」(PDF)に『初期経典の韻文資料 Suttanipāta の古層に位置する』経典とある。]

 

       

 地藏堂は、小店ばかり並んで居る町の、露地の奧に潜んで居るので、探すのが容易でなかつた。二軒の家の狹い庇間(ひあはひ)にある露地の入口は、風の吹く度にはためく古着屋の暖簾で掩はれた。

[やぶちゃん注:最後は「掩はれた。」は「掩はれていた。」或いは「掩はれていたのである。」「掩はれていたからである。」と訳すべきところである。]

 暑いので小さい堂の障子は取り外づされ、本尊は三方から拜まれた。自分は黃色い疊の上に、勤行の證、經机、朱塗りの木魚などの佛具が並んで居るのを見た。須彌壇[やぶちゃん注:「しゆみだん」。仏像を安置する台座。仏教宇宙観で世界の中心に聳えるとする須弥山(しゅみせん)を象ったものという。一般に四角形で、通常は重層式。]の上には子供の亡靈の爲めに涎懸けを着けた石の地藏があつた。更に其尊像の上には長い棚があつて、金箔を塗つた極彩色の二三の小像が載つて居た――頭から足まで背光のある地藏尊、燦爛たる阿彌陀佛、慈顏の觀音及び亡者の判官である閻魔大王の恐ろしい像などが。それより又上には奉納の繪がどつさり雜然と揭げられて居た。其中にはアメリカの繪入新聞から取つた版畫を額にしたのが二つあつた。一つはヒラデルヒア博覽會の光景、他の一つはジユリエツトに扮したアデレイド・ニイルソンの肖像であつた。本尊の前には普通の花瓶の代りにガラス製の壺があつて、それには『レイン、クロード(佛國產の李)[やぶちゃん注:丸括弧内は二行割注。戸澤氏のサーヴィス注である。]果汁、貯藏請合、ボルドウ市ツーサン、コーナー會社』と書いてある貼紙が張つてある。それから線香の入つて居る箱には『香味豐富――ピンヘツド紙卷』といふ文字が書いてある。之を寄附した善人は、此世でもつと高價な寄附をする見込みがなかつたのであらう。そしてこれでも外國品である故に美しいと思つたのであらう。又こんな不調和にも拘らず自分には此堂が實際綺麗に見えた。

[やぶちゃん注:「ヒラデルヒア博覽會」“Philadelphia Exhibition” 。フィラデルフィア万国博覧会。ここでの時制の十四年前の一八七六年(明治九年)五月十日から十一月十日までアメリカのペンシルベニア州フィラデルフィアで開催された国際博覧会でアメリカ合衆国独立百周年を記念して催されたもの。三十五ヶ国が参加し、会期中一千万人が来場した。参照したウィキの「フィラデルフィア万国博覧会」によれば、『明治政府は輸出振興・外貨獲得を図るため、西郷従道を最高責任者として外国政府最大の予算で出展し、多数の大工を派遣し』、『日本家屋の専用パビリオンを建てた。日本茶、陶磁器の工芸品やその他伝統的産品に加えて』、『最優秀の生糸や絹織物等の展示を行った。特に絢爛豪華な有田焼(伊万里焼)の一対の大きな色絵雲龍文耳付三足花瓶(銘款「年木庵喜三」』(としきあんきぞう)『)は注目を集め、同博覧会の金牌賞を獲得した。日本の出展物は後進国と見なされていた日本への関心と評価を非常に高めた。『ニューヨーク・ヘラルド』紙の記者は、「ブロンズ製品や絹ではフランスに優り、木工、家具陶磁器で世界に冠たる日本をなぜ文明途上と呼べるだろうか」と記事に書いた』。なお、『グラハム・ベルが「電話」を出展している』とある。同花瓶は「鹿鳴館の器:活動状況報告ブログ」のこちらで復刻されたものが見られる。

「ジユリエツト」“Juliet”。シャークスピアの「ロミオとジュリエット」の彼女。

「アデレイド・ニイルソン」“Adelaide Neilson” リリアン・アデレード・ニールソン(Lilian Adelaide Neilson 一八四八年~一八八〇年)はイギリスの舞台女優。ここでの時制の十年前に三十二の若さで亡くなった。University of Washington Libraries」のサイト内のこちらに、ハーンが見た当該の写真かどうかは判らぬが、一八七二年に撮られたジュリエットに扮した彼女のポートレートがあった。あたかも観音菩薩像のようである。これが須弥壇に飾ってあっても私は違和感を持たないだろう。

「レイン、クロード(佛國產の李)果汁」“Reine Claude au jus” (これを含む引用部は書かれてあった通りのフランス語で書かれてある。ハーンはフランス語に堪能であった)。Reine-claude(レーヌ・クロード)は英語で「グリーンゲージ」(Greengage)と言い、プラム(スモモ)の一種であるバラ目バラ科サクラ属スモモ属セイヨウスモモ亜種グリーンゲージPrunus domestica ssp. italica のことである。酸味はなく、ジューシーで、特に芳醇な香りを持ち、最高級のデザート・プラムとして知られる。果実の写真と品種一覧の載るフランス語ウィキの「Reine-claude」をリンクさせておく。

「ボルドウ市ツーサン、コーナー會社」“Toussaint Cosnard: Bordeaux”。ボルドーのトゥサン・コスナール(社)。因みに「トゥサン」(フランス人の姓に多いから、これは合名会社名かもしれぬ)は「万聖節」(tous saints:「全ての聖人」が元。「諸聖人の日」。カトリック教会典礼暦では十一月一日)に由来したもの。

「ピンヘツド紙卷」“Pinhead Cigarettes”アメリカ製の紙巻き煙草の商品名。グーグル画像検索「Pinhead Cigarettes」をリンクさせておく。]

 龍を出してる[やぶちゃん注:ママ。]羅漢の不氣味な繪のある衝立が奧の室(ま)を仕切つて居た。そして姿は見えぬ鶯の聲が境内の靜けさに床しさを添へて居る。赤猫が衝立の陰から出て來て我等を眺めたが、又使命を傳へるかの如く退却した。間もなく一人の老尼が現はれて、歡迎の意を述べ、上がれと乞うた。彼女の滑々(すべすべ)と剃つた頭はお辭儀をする度に月の樣に輝いた。我等は靴を脫いで、彼女の後から衝立の後ろの、庭に百しり、小さい室へ姐つた。そして一人の老僧が布團[やぶちゃん注:座布団。]に坐つて、低い机で書き物をして居るのを見た。老僧は筆を差し措いて我等を迎へた。我等も彼の前の布團に席を占めた。彼の顏は見るも愉快げな顏で、取る年波の描いた皺は、悉く善なるものを語つて居た。

[やぶちゃん注:「我等」後で出るが、この時のハーンには奇特な案内を買って出た通訳の出来る青年学生(後の語りからも判るが、この学生はこの寺の住職とは懇意である)が同行していた。]

 尼が茶と法(のり)の車の印(しるし)してある菓子を運んで吳れた。赤猫は自分の側に丸くなつて寢た。そして老僧は語り出した。彼の聲は太くて優しい。寺の鐘の響に伴なふ、豐かな餘韻のやうに、靑銅(からかね)のやうな音色がある。我等は彼が身上話を聞く樣に談話を仕向けた。彼は八十八歲になつて。眼も耳もまだ若い者同然だが、慢性のルーマチスの爲めに、步行が叶はぬといふ。二十年間、三百册で完成するといふ日本の宗敎史を書いて居るが、既に二百三十册だけ稿了したさうである。そして殘部は來年中に書き上げたいと云つて居る。彼の背後の小さい本箱には、きちんと綴ぢた原稿が嚴(いか)めしげに詰まつて居た。

[やぶちゃん注:「法の車」とは釈迦が説いた仏法の真理である四諦(したい:苦諦(人生の現実は自己を含めて自己の思う通りにはならず、「苦」であるという真実)・集(じっ)諦(その「苦」は総て自己の煩悩や妄執などあらゆる欲望が聚って生ずるという真実)・滅諦(それらの欲望を断ち切って滅し、解脱して涅槃(ニルヴァーナ:ラテン文字転写:Nirvana)の安らぎに達して悟りが開かれるという真実)・道諦(その悟りに導く実践を示す真実)と、それを実践するに必要な八正道(はっしょうどう:正見(正しいものの見方)・正思惟(正しい思考)・正語(偽りのない言葉)・正業(せいごう:正しい行為)・正命(正しい職業)・正精進(正しい努力)・正念(正しい精神の集中)・正定(せいじょう:正しい精神統一))を象徴する輪形の仏具である法輪のこと。形象されるそれは古代インドの投擲武器であるチャクラムを転じたものである。

「ルーマチス」“rheumatism”。リューマチ。関節炎と同義に用いられることもあるが、実際には関節だけでなく結合組織にも発生する、激しい痛みを伴う炎症症状の総病態を指す。発生が体の一部であったり、全体であったりもする。「リューマチ」という語はギリシア語の「流れる」が語源で、痛みや腫れが体のあちこちを流れて動くように感じられることに由来する。より広範には「リウマチ性疾患」という表現がとられて、膠原病と呼ばれる結合組織の重い一連の難病をも含んでいる。具体的には「急性関節リウマチ」や「慢性関節リウマチ」が主なもので、さらに「筋肉リウマチ」・「強直性脊椎炎」・「痛風」なども含まれる。進行すると、関節の変形や強直をきたす。主原因は未確定なものの、アレルギー説が有力ではある。]

 『併し、此人のやつてる計畫が間違つて居ます』と自分の伴れて居る學生の通譯子が云つた。『其宗敎史が出版される事はありますまい。奇蹟談やお伽噺の樣な、有り得べからざる噺ばかり集めてるのです』

 (自分はどうぞ其噺を讀みたいものだと思つた)

 『そんなお年にしては、大層御丈夫に見えますね』と自分は云つた。

 『どうやら、あと數年生きられさうで御座います』老人は答へた。『が、此歷史を書き上げるだけしか生きて居ようとは願ひません。書き上げたら、私は動く事も出來ぬ、あはれなものであります故、早く死んで生まれ替はりたいと思ひます。こんなに片端になるといふは、何か前世で罪を犯したものと見えまする。併し、彼岸に段々近寄ると思ふと嬉しう御座います』

 『生死の海の向う岸といふ意味です』と通譯が云ふ。『御存じの通り、其海を渡る船が法(のり)の船で、一番遠い岸が涅槃です――ニルバナです』

 『我々の身體(からだ)の弱點とか、災厄とかは』自分が問うた。『みんな前生に犯した過失の結果でありませうか』

 『我々の現在は』老人が答へた。『我々の過去の結果であります。日本では萬劫(まんごう)、囚業』(いんごう)の結果だと申します――これは二種類の行爲であります』

[やぶちゃん注:「いんごう」のルビはママ。歴史的仮名遣は「いんごふ」。植字工が前に引かれて誤植したか。]

 『善と惡との』自分は問うた。

 『いや、大と小とであります。人間に完全な行爲と申すは御座いません。どんな行爲にも、善もあり惡もあり、丁度どんな名畫でも好い處もあり、惡るい處もあると同じで御座います。併し行爲の中の善の總額が惡の總額よりも多い時には、丁度名畫の長慮が短慮に優る時の樣に、結果は精進となります。此精進で惡が凡て徐々に除かれます』

 『併しどうして』自分が尋ねた。『行爲の結果が肉身に影響を及ぼします。子は父祖の道に從ひ、强い弱いも父親から承け繼ぎます。但し靈魂は父祖から受けるのでありませんが』

 『因果の鎖は手短に說明する事は容易でありません。それを悉く悟得するには、大乘を硏究せねばなりませぬ。又小乘をも硏究せねばなりませぬ。それを御硏究になると、世界といふものも、ただだ行爲故に存在するといふことをお悟りになりませう。丁度字を習ふのでも初めは大層むつかしいが、後には上達して何の苦もなく書く樣に、行爲を正しい方へ正しい方へと振り向ける努力も、絹えず繰り返せば習慣になります。そして其努力は彼世[やぶちゃん注:これで「あのよ」と読む。]までも繼續致します』

 『前世を記憶する力を得る人がありませうか』

 『それは滅多にありません』老人は首を振つて答へた。『その記憶力を得るには、先づ菩薩であらねばなりません』

 『菩薩になることは出來ませんか』

 『今の世では出來ません。今は汚濁の世で御座います。初めに正法の世が御座いました、其時は人の壽命も長う御座いました。つぎに色相の世になりまして、人間は其間に最高の眞理を離れました。そして今は世界が墮落致して居ります。今の世では善行を積んでも佛にはなれません。と申すは世間が腐敗して壽命が短いからで御座います。併し信心深い人は、德を積み常に念佛を唱へますれば、極樂には參れます。極樂では正法を行ふことも出來ます。日も長し壽命も長う御座いますから』

 『私は經文の英譯で』自分が云つた。『人は善行に依つて順々に前よりも優れた住生(しやう)へ生まれ替はり、其度每に、前よりも優れた能力を得、前よりも優れた悅びに包まる〻といふことを讀みました。富や力や美や、又美女や、何でも人が此世で欲するものが手に入る樣に云つてあります。すると精進の道は進めば進む程段々むつかしくなるに相違ないと思はぬ譯に參りません。といふのは、若し此經文が、眞なら、人は佛法の修業に依つて煩惱の對象から離れ得れば得られる程、又之に復歸させようとする誘惑が益〻强くなるからであります。さうすると德の酬いはそれが却つて妨げとなるやうに思はれますが』

 『そうでありません』老人が答へた。『持戒自制に依つてそんな此世の幸福を得るやうになつた者は、同時に靈力と眞知を得て居ます。一生を進める每に己れに打勝つ力も勝して往つて、遂に物質を離れた無色相の世界に生まれます。さうなると低級な誘惑は御座いません』

 赤猫は此時下駄の音で不安さうに身動きをした。が、尼に尾(つ)いて入口の方へ出て往つた。二三の來客が待つて居るのであつた。それで老僧は彼等の精神上の要望を聞かんが爲め、暫し容赦を乞ふ旨を告げた。我等は直に新參の客に席を讓つた。――彼等は何れも氣持ちのよい人間で、我等にも挨拶した。一人は子息を亡(な)くした母親で、其子の冥福を祈るやうに、讀經を請ふのであつた。今一人は病める夫の爲めに、佛の憐れみを得ようとする若い女房で、あとの二人は遠い處へ往つた誰れかの爲めに[やぶちゃん注:これは原文と並びから考えて物理的に遠いところであって、あの世ではない。]、佛の助けを乞はうとする父と娘であつた。老僧は一同に慈愛に滿ちた挨拶をした後、子を失つた母には地藏の版行繪を與へ、病める夫を持つ女房には、洗米の紙捻りを與へ、父と娘には何か尊い文言を書いて與へた。自分には、ふと全國の無數の寺で、每日無數の無邪氣な祈禱がかうして行はれて居るのであるといふ考が浮かんだ。又誠實な愛情から來る凡ての心配、希望、苦悶といふやうなもの、及び神佛にしか聽かれない、あらゆる謙遜な悲歎を思ひ浮かべた。通譯の學生は老人の書棚を漁り始めた。そして自分は考ふべからざるものを考へ始めた。

 生――創(つく)られたのでない、従つて始めなき、統一體としての生――我々は只だ其明かるい影のみを見る生――永久に死と戰ひつつ、常に征服せられ、しかも常に生存する生――それは一體何であらう――何故にそれは存在するのであらう。何百萬囘か字宙は消失した――何百萬囘か復活した。消失するごとに生も共に消失するが、つぎの週期には再現する。宇宙は星雲となり、星雲は宇宙となる。星や遊星の群は永久に生まれ、永久に死滅する。新たに大凝聚が行はれる毎に、燃える球體は冷却し、成熟して生となり、生は成熟して思想となる。我々各個の靈魂は幾百萬の太陽の熱を潜つたに相違ない――將來も更に幾百萬の宇宙の消滅に遇ひ、しかも生存するに相違ない。記憶も如何にかして、如何なる處にか生存し得ぬであらうか。或る知られざる方法と形式とにて、其記憶が生存せぬとは我々は斷言し得ぬ――過去に在つて將來を記記憶すとも云ふべき、無限の洞觀力の如くに。多分涅槃の深淵に於けるが如き無盡の夜の中に、過去詐將來の夢が永久に夢みられつつあるのであらう。

 

 檀家の者等は謝意を述べ、地藏に少し許りの供物を供へ、それから我等にも挨拶しで歸つて行つた。我等は小さい机の側の故(もと)の座に還つた時、老人は云つた。

 『世の中の悲歎を誰れよりもよく知るのは僧侶で御座いませう。西洋人は金はあるが、矢張り西洋にも苦惱は多いさうですね』

 『ハイ』自分は答へた。『西洋には日本によりも却つて苦痛が多いでせう。金持ちの快樂は日本よりも大きいが、貧民の苦痛も大きいでせう。我々西洋人の生活は日本よりも困難です。其理由ででせう。我々の思想は此世の不可解に惱さる〻事が多いのです』

 老僧は之に興味を持つらしかつたが、一言も云はなかつた。自分は通譯の助力で詞を續けた。――

 『西洋諸國の多くの人々が、常に心を惱ます三つの大きな疑問があります。(何處から)(何處へ)(何故)と云ふのであります。それは人生は何處から來たか、何處へ行くか、そして何故に存在し、何故に惱むかといふ意味であります。西洋の最高の哲學は、それを解き難き謎だと申します。けれども同時にそれが解けぬ限りは、人間の心に平和がないと白狀致して居ります。凡ての宗敎は其說明を試みましたが、何れも異說まちまちであります。私は此疑問の解決を得ようとして佛書を漁りました。そして何れよりも立ち優つた解答を見附けそした。それでもまだ不完全であるので、私を滿足させる事は出來ません。貴僧のお口から、少くとも第一と第三の疑問の解答を伺ひたいと存じます。私は證明や議論は一切伺はうとは致しません、ただ結論の御敎義を承りたいのであります。一切の物は始めは宇宙心靈にあるのでせうか』

 此質疑に對して自分は實は明快な答辯を豫期しなかつた。それは『一切漏經』といふ經の中で、『考ふべからざる物』とか、六愚說とか、『茲に物あり、此者何れより來り何れに行くか』などと論議する者を、非難する言を讀んだ事があるからである。然るに老僧の答は、歌の樣に訓子よく音樂的に聞こえだした。――

[やぶちゃん注:「一切漏經」(いつさろきやう(いっさいろきょう))。原文“Sabbâsava”。これはパーリ仏典経蔵中部に収録されている第二経の「Sabbāsava-sutta」(サッバーサヴァ・スッタ)で、「一切煩悩経」とも呼ばれる。「漏」(ろ)は「煩悩」の異名。個人サイトのこちらで日本語の現代語訳が読める。ただ、ハーンが言っているのがどこかは、この訳ではよく分からない。敢えて言えば、第一章の第二に、「有漏に関して、正しく観察する。我が存在するという、常恒の囚われを諦めて、我が存在しないという、断滅の捕われを諦める」というのがそれっぽい感じはする。香光書郷氏の「一切漏經注:巴漢校譯與導論」(繁体字・PDF)という中国語訳のそれがあるが、残念ながら私には読み下せない。悪しからず。

「六愚說」不詳。]

 『一個體として考へた萬物は、發展繁殖の無數の形式を經て、宇宙心靈から出現したのであります。萬物は其心靈の中に潜在的に久遠の昔から存在したのであります。併し我々が心と呼ぶものと、物と呼ぶものとの間には、本質の相違は御座いません。物と呼ぶものは我々の感覺、知覺の總計で、それは皆心の現象であります。物の本體に就ては、我々は何の知識も御座いません。我々は我が心の諸相以外の事は何も知りません。心の諸相は外部からの影響若しくは外力に依つて心の中に現はる〻もので、此影響外力を指して物と申します。併し物と心と申すも又無窮の實在の二つの相に過ぎません』

 『西洋にも』自分は云つた。『それに似た說を敎ふる學者があります。それから近代將科學の深淵な硏究も、我々が物質と呼ぶものは、絕對の存在を有しないと說くやうです。併し貴僧の仰しやる無窮の實在に席しまして、それが何時如何にして、我々が物と心と區別する二つの形式を初めて生み出したかといふ、佛の敎はないでせうか』

 『佛敎は』老人が答へた。『外の宗敎の樣に、萬物が天地開闢といふ事で創造(つく)られたとは敎へません。唯一無二の實在は宇宙心靈で、日本語で眞如と申します。――これが無窮久遠の實在其物で御座います。さて此無窮の心靈は自體の中に自體の幻影を見ました。丁度人が幻覺で眼に映つた物を實物と思ふ樣に、此宇宙實在も自體の内で見た物を外物と思ひ違へたのであります。此迷妄と我々は無明と申します。其意味は光を發しないとか、照明を缺くとか申すのであります』

 『其言葉を、西洋の或る學者は』自分が口を挿んだ。『「無知」と譯しました』

 『私もさう聞いて居ります。併し我々が用ふる言葉の意味は「無知」といふ言葉で現はす意味とは違ひます。寧ろ誤つた敎化とか、或は迷執の意味であります』

 『そして其迷執の起こつた時に關しては、何と敎へてありますか』

 『最初の迷執の起こつた時は、數へ切れぬ遠い過去で、無知(むし)卽ち始めを超越して居ると申します。先づ眞如から非我といふ第一の差別が出現して、それから精神上並びに物質上のあらゆる個體が起こり、又同樣にあらゆる情と慾とが出て、それが生死流轉の緣を作つたので御座います。だから全宇宙は無窮の實在からの出現であります。けれども我々は其無窮の實在に依つて創造(つく)られたとは申されません。我々の本元の我は宇宙心靈であります。我々の内には宇宙我が、最初の迷執の結果と共に存在して居るので御座います。此迷執の結果の裏に、本元の我が包まれて居る狀態を、我々は如來藏卽ち佛(ほとけ)の胎と申します。我々が何の爲めに努力するかと申すと、只だ此無窮の本元我に歸着する爲めで、其處が佛陀の根本で御座います』

 

注 如來藏は梵語で Tathâgata-gharba と云ふ。Tathâgata は日本語で如來で、佛の最高の稱號である。先人の來るが如く來る人といふを意味す。

[やぶちゃん注:平井呈一氏は恒文社版「横浜で」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)で、この原注の後に訳注を附しておられ、そこには、

   《引用開始》

訳者注 金剛般若経に「無ㇾ所従来、亦無ㇾ所ㇾ去、故名如来。」とある。如は真如、つまり真如より来生せるもの、すなわち、真理より顕現したものという意味で、仏のことをいうのである。

   《引用終了》

とある。漢文部を正字に直して勝手流で訓読しておく。

 從(よ)つて來たる所、無く、亦、去れる所、無し。故に「如來」と名づく。

この経の意は腑に落ちる。――α以前から既にして在り、Ω以後にも在り続けるのだ。――]

 

 『も一つ疑義がありますが』自分は云つた。『それに就て佛敎の敎へを承りたい。我が西洋の科學は、我々の目に見ゆる此宇宙は、無限の過去に於て無敷囘、替り番に展開したり、崩壞したり致したので、無限の未來に於ても、又無數囘滅したり現はれたり致すに相違ないと申します。又印度古哲學や佛典の英譯にも同樣の事が述べてあつります。併し遂にはあらゆる物に最終の消滅、永遠の靜止の時が來たらうとは敎へてありますまいか』

 彼は答へた。『いかにも小乘には、宇宙は過去に於て無數囘現はれたり消えたりを反復した。將來の無限劫の間にも、又替り番に崩れたり立て直したりするであらうと說いであります。併し又一切の物は遂には永久に涅槃の狀態に入るであらうとも說いてあります』

 これとは筋違ひであるが、併し抑制し難い空想が突如として此時自分の胸に起こつた。科學は絕對靜止の狀態を攝氏の零下二百七十度卽ち華氏の零下四百六十一度、二といふ公式で表はすといふことを思ひ出したのであつた。併し自分はただ云つた。

[やぶちゃん注:理想気体の状態方程式から導き出された値ではケルビンやランキン度の絶対零度は、セルシウス(摂氏)度で マイナス273.15 ℃、ファーレンハイト(華氏)度でナイマス459.67 °Fである。]

 『西洋人の頭には絕對靜止を、幸福の狀態とは考へ難いのですが、佛敎の涅槃といふ思想は、無限の休止、普遍的の不動といふ思想を含むのでせうか』

 『否』と老僧は答へた。『涅槃は絕對自足、凡てを知た。凡てを見る狀態であります。我我はそれを全然不活動の狀態とは思ひません。却つて凡ての繋縛を脫した大自在の境地と想像致します。いかに名我々は肉體のない感覺若しくは知覺の境地を想像する事は出來ません。我々の五感も思想も肉體といふ條件に隷屬するのでありますから。併し我々は涅槃は無限の視力、無限の安心の境地であると信じます』

 

 赤猫は老僧の膝の上に躍り上がつて、氣樂さうに圓(まる)くなつた。老人はそれを撫でてやつて居る。自分の通譯子は小さく笑つて――

 『肥えて居ますね。前世に善行を積んだのでせう』

 『動物も』自分は問うた。『前世の功罪に依つて、境涯が定まるのでせうか』

 僧は嚴肅に自分に答へた。

 『凡て生物の境涯は前世の境涯に依るので、生は一であります。人間に生まれるのは幸運であります。人間であればこそ我々は幾何かの敎化を受け、功を積むの機會もあるのであるが、動物の狀態は心の闇の狀態で、誠に憐惘の至たりであうます。どの動物でも眞に幸福だとは考へられません。併し動物の生活にさへ、限りなき境涯の相違が御座います』

 後は暫く沈默が續いた――猫の咽喉を鳴らす音が折々聞こゆるばかりであつた。自分は丁度衝立の上に見える、アデレード・ニールソンの肖像を見た。そしてヂユリエツトを思ひ出し、又自分が若し立派に日本語で話し聞かせることが出來たら、沙翁の驚くべき情熱と悲哀の物語に就て、僧は何といふだらうと考へ𢌞らした。其時突然其疑惑に對する返答であるかの如く、『法句經』の第二百十五節の文句が胸に浮かんだ――『愛より悲は來り、悲より恐は來る、愛に繋(つな)がれぬ者は悲もなく恐もなし』

[やぶちゃん注:「法句經」(ほっくきょう)は「ダンマパダ」(パーリ語ラテン文字転写:Dhammapada)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形で伝えた韻文のみからなる経典の一つ。語義は「真理(dhamma)の言葉(pada)」の意。かなり古いテクストであるが、釈迦の時代からは、かなり隔たった時代に編纂されたものと考えられている(ウィキの「法句経」に拠る)。同経の「愛樂品(あいげうほん)第十六」に、

   *

非處(ひしよ)に就きて是處に就かず、利を棄てて、愛樂を取るものは、是處に就きたる人を羨むに至る。

愛せるものと會ふこと勿かれ、惡(にく)めるものと會ふこと勿かれ、愛せるものを見ざるは苦(く)、惡めるものを見るも亦、苦なり。

されば何物をも好愛する勿かれ、愛者と別るるは禍(わざはひ)なり、人に愛憎なければ纏結(てんけつ)あることなし。

愛好(あいかう)より憂悲(うひ)生じ、愛好より怖畏(ふゐ)生ず、愛より脫(のが)れたるものには、憂悲なし、焉(いづく)んぞ怖畏あらん。

   *

とある。]

 『佛敎は』自分は尋ねた。『一切の性愛は禁止せらるべきものと敎へるでせうか。性愛は必然的に修業の障りとなうませうか。私は眞宗の僧侶の外、凡て僧侶は結婚を禁ぜられて居ることを承知致して居ります。併し俗人には獨身といふことに就て、何ういふ敎がありますか存じませぬ』

 『結婚は道の障りともなり、又助けともなります。それは場合によります。凡ては場合次第であります。若し妻子の愛の爲めに、憂世のはかない名利に餘り酷(ひど)く執着する樣ならば、そのやうな愛は障礙[やぶちゃん注:「しやうがい」。障害に同じい。]となりませう。併し之に反して、妻子の愛の爲めに獨身の狀態に於てよりも、純潔に非利己的に生活する事が出來るならば、結婚は修道の大なる助けとなりませう。大智の人には結婚の危險が多く、小智の人には獨身の危險が一層大であります。又時としては情熱の迷ひが性來利根の人を大智に導くことも御座います。これに就てお噺があります。大目連(だいもくれん)、これは普通目蓮で通る人ですが、此人は釋迦の弟子でありました。處が美男なので一人の娘に思ひつかれました。然るに目蓮は既に僧籍に入つて居るので、夫に持つことは出來ぬと、娘は失望して竊に嘆いて居りました。が遂に勇氣を奮ひ起こして釋迦の前に行き、心のたけを打明けました。其詞もまだ終はらぬ中、釋迦如來は彼女に深い眼りを投げかけると、彼女は目蓮の樂しい妻となつた夢を見ました。樂しい幾年月かが夢の裡に過ぎ去ると、此度は悅びと悲みの雜じつた幾年かが過ぎました。すると突然夫が死んで了ひました。それで彼女は生きて居られぬと云ふ程の悲歎に遇ひまして、其苦悶の中に目を覺ますと、如來は微笑して居られます。そして彼女に申さる〻やう「妹よ、御身は凡てを見た。御身の欲する通りに選ぶがよい――目迢の妻となるとも、或は目蓮が既に入つて居る高き道を求むるとも」そこで彼女は髮を切つて尼となりましたが、後には輪囘[やぶちゃん注:「輪𢌞」の誤植であろう。]の苦を脫れる境涯に達しました』

 

註 梵語にては Mahāmaudgalyāyana。

[やぶちゃん注:原文では“Mahâmaudgalyâyana”。目連(Maudgalyāyana:マウドガリヤーヤナ/パーリ語:Moggallāna:モッガラーナ/漢意訳:菜茯根・采叔氏・讃誦/音写:目犍連・目健(腱)連)は古代インドの修行僧で、釈迦の十大弟子の一人。本来、正しくは「目犍連(もくけんれん)」であるが、「目連」と呼ばれることが多い。優れた神通力の使い手として「神通第一」と称された。釈迦の直弟子中でも、舎利弗と並ぶ二大弟子として活躍したことから、「Mahā」(マハー:摩訶=「大」)を冠して「マハーモッガラーナ」=「摩訶目犍連」「大目犍連」などとも記される(ウィキの「目連に拠った)。]

 

 暫し自分はかう考へた。此噺は愛の迷妄が人を成道に導くといふ事を示しては居らぬ。又娘の入道は强ひて苦惱を知らしめられた直接の結果で、愛の結果ではないと。併し間もなく、彼女に見せつけられた夢も、利己的な下劣な人間には、立派な結果を生ぜしむることもなかつたらうと考へ直した。又自分は現今の世態では己が將來の運命を前以て知らされることは、云ふ可からざる弊害を伴なふであらうと考へ、我々の將來が目に見えぬ幕の後ろで作られる事は、我々の多くに取つては幸であると感じた。それから自分は又、其幕を揚げて覗く能力は、其能力が人間に眞に有益であるやうになれば、直に發展するか或は新たに得られるであらうが、それ迄は望はないなどと想像した。そして云つた。

 『未來を見る力は悟道に依つて得られませうか』

 僧は答へた――

 『得られます。六神通を得る所迄修業が進みますれば過去も未來も見ることが出來ます。此力はは前世を思ひ出る能力と同時に起こります。併し左樣な悟道の域に達することは、只だ今の世では甚だ困難で御座います』

 

 通譯子は此時自分にもう辭去すべき時だと密かに合圖をした。我々は少し長居を爲過ぎ――其點には寬大な日本の作法で測つても長過ぎた。自分の突飛な質問に答へて吳れた好意を謝した上で附け加へた。――

 『まだ承りたい事が澤山ありますが、今日は餘り長くお邪魔を致しをした。又別に出ましても宜しいでせうか』

 『喜んでお迎へ致します。何卒幾度でもお出で下さいませ。まだお分かりにならぬ所は何でも御遠慮なくお聞き下さい。悟を得、迷を霽らすのは熱心な探究に依るのみで御座います。いやどうぞ度々お出で下さい――小乘に就てお話しが致したう御座りますから。そしてこれを何卒お納め下さい』

と彼は自分に二個の小さい包を渡した。一つは白い砂――善人の靈が死後巡拜に出懸けるといふ善先寺の祠堂の砂で、も一つは極小さい白い石で、舍利卽ち佛陀の遺骨であつた。

 

 其後自分は幾度も此親切な老翁を尋ね度いと思つたが、學校と雇傭契約をしたので、橫濱を去り幾多の山を越えて赴任した。それで其後は彼に遇はなかつた。

[やぶちゃん注:これは実に明治二七(一八九四)年刊のハーンの来日後の記念すべき第一作品集のワン・シークエンス、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (七)』の、マルチ・カメラによる別映像なのである。但し、僧との仏教の宇宙観の論議はやや創作されている感じが私にはかなりする。孰れにせよ、先行作の同ロケーションと比較あれかし。なお、ハーンが松江中学に赴任するために東京を立ったのは八月下旬で、ここに同伴者として登場している青年真鍋晃と一緒であった。

 

       

 自分が再び地藏堂を見る迄に、五年の歲月は徐に過ぎた。其五年は悉く此條約港から遙かに遠い處で過ごしたのであつた。其間に自分の内外に多くの變化が起こつた。日本の美しい幻(まぼろし)――初めて其魔力ある雰圍氣の中に入る者には、殆ど氣味惡るい程に感ぜられる妖美も、自分には實際長らく感ぜられたが、遂に全く消え失せた。自分は魅惑されずに有の儘に極東を見るやうになつた。しかも大いに過去の感動を思慕して止まなかつた。

 併し其感動は或る日復活した――ほんの一瞬の間だけ。自分は橫濱に來て、も一度山の手から、四月の朝に浮かべる神々しい富士の山靈を凝視した。其偉大なる春の光の靑く漲れる裡に、自分が初めて日本を見た日の感じが戾つて來た。美しい謎に充ちた世に知られぬ仙境――特殊の日輪と、獨得の色澤ある大氣とを有する妖精の國の光彩に、初めて驚喜せる感じが戾つて來た。自分は再びかがやかしい平和の夢に浸つた、眼に映る物悉く再び心地よき幻となつた。東洋の空は――極めて淡い白雲のあるかなきかに點々せるぱかり、涅槃に入らんとする靈魂の如くに曇りなき――再ぴ佛陀の空と化した。朝の色は次第に濃くなり行き、枯木も花咲き、風は薰り、生きとし生ける者愛憐の情を起こさざるはなかりしと云ひ傳へた、釋迦降誕の日の面影を現ずるに至つた。漠然たる香氣は四方(よも)に薰じて聖師再來を告ぐるが如く。通行人の顏さへ凡て聖誕の豫感で微笑する樣に見えた。

 間もなく靈氣は四散して、物は皆俗惡に見え出した。自分が經驗した凡ての幻、地上の一切の幻は實物の如く、宇宙の森羅萬象は却つて幻の如く思はれ出した。是に於て無明といふ詞が想ひ出された。そして自分は直に地藏堂の老いたる思索家を尋ねようといふ氣になつた。

 其界隈は大分變つて居た。古い家は消え失せて、新しい家が驚く程櫛比して建ち並んだ。併し自分は遂に彼の露地を發見した、そして彼の[やぶちゃん注:「かの」。]記憶して居た通りの小さい寺を見附けた。入口の前には女達が立つて居た。そしずて若い一人の僧が幼兒と遊んで居た。が、其幼兒の小さい鳶色の手は、僧の綺麗に剃つた顏を弄(なぶ)つて居た。其顏は切長(きれなが)の眼を有つた、利根[やぶちゃん注:「りこん」。「利発」に同じい。]さうな親切さうな顏であつた。

 『五年前に』自分は拙い日本語で彼に云つた。『私は此寺へ參りました。其時年老(とつ)た坊(ぼん)さんが居ましたね』

 若い坊さんは赤兒を其母らしい女の腕に渡して答へた――

 『ハイ、彼の老僧は亡くなりました。それで私が代りました。何卒お上がり下さいませ』

 自分は上がつた。小さい須彌檀は變はり果てて、あどけない美しさは無くなつて了つた。地藏は尙ほ涎掛の中から微笑して居るが、其外の佛達は消え失せた。同樣に繪馬類も――アデレード・ニイルソン孃の肖像も――見えなくなつた。若僧は自分を老僧が書き物をして居た室で寬(くつろ)がせようと試みて、烟草盆を自分の前に据ゑた。例の書物のあつた隅を見たがもう無かつた。凡てが變つたやうであつた。

 自分は尋ねた――

 『何時老僧はお亡くなりになりました』

 『遂去年の冬』と僧は答へた。『大寒[やぶちゃん注:「だいかん」。陽暦一月二十一日頃。旧暦では前年十二月中であるが、この場合は前者であろう。即ち、明治二六(一八九三)年一月である。]の節に亡くなりました。脚を動かせないので、大分寒さに惱まされました。これが位牌です』

 彼は床の間に行つて得體の知れね瓦落多[やぶちゃん注:「がらくた」。]――大方佛具の破片であらう――の亂雜に載つて居る棚の間から、左右に花の挿してあるガラス瓶を置いた小さい佛檀の扉を開いた。中には黑漆へ金字を書いた新しい位牌が見えた。彼は其前へ燈明を點し、線香を一本立てて云つた。

 『一寸失禮致します。檀家の者が待つて居りますから』

 自分はかうして獨り取り殘されたので、位牌を見、小さい燈明の動かぬ炎と、線香の炎(ほのほ)と、線香の靑くゆるやかに上る烟を凝視(みつ)めながら、老僧の靈は此中に居るだらうかと初めは怪しんだが、暫しの後には眞に居る樣な氣がして、口の中で彼に話し懸けた。つぎに自分は佛壇の兩側にある花瓶には、まだボルドーのツーサン、コーナア會社[やぶちゃん注:「一」と表記が異なるのはママ。]の名が附いて居、線香箱には、香味豐かな紙卷烟草の銘が入つて居るのに氣が附いた。室を見𢌞はすと、自分は又赤猫が日當りのよい隅の方に眠つて居るのを見附けた。側へ往つて撫でてやつたが、自分を覺えても居ず、眠さうな眼を開きもしない。が前よりも毛艷があつて幸福らしかつた。入口の方で此時悲しさうに呟く聲が聞こえたが、やがて僧の聲で相手の半解[やぶちゃん注:一部のみが聴こえ、全体は判然としなかったことを指す。]の答を氣の毒さうに繰り返すのが聞こえた。『十九歲の女、フム、それから二十一歲の男――さうですね』其時自分は歸らうとして起ち上がつた。

 『御免下さい、もう一寸お待ち下さい』僧は何か書いて居た顏を上げて云つた、女達は自分に禮をした。

 『いや』自分は答へた。『お邪魔致しますまい。私はただ老僧にお目に懸かりに來たのですが、む位牌にお目に懸かりました。これは少しばかりですが靈前へ、それからこれは貴僧(あなた)へ、何卒(どうぞ)』

[やぶちゃん注:「靈前」は厳密には「佛前」とすべきところ。仏教では一般に亡くなって四十九日までは「霊」の状態にあるとされるが、四十九日を過ぎると成仏して仏になるとされているからである。]

 『暫くお待ち下さい咄せ、お名前を承り度う御座いますから』

 『多分又伺ひませう』自分はごまかすやうに云つた。『老尼もお亡くなりになりましたか』

 『いやいや、達者で寺の世話を焼いて居ります。只だ今外出致しましたが、直ぐ戾りませう。お待ち下さい。何か御用でもお有りになりはしませんか』

 『ただ御祈禱を願ひませう』自分は答へた。『私の名はどうでも宜しいです。四十四歲の男、其男に尤もふさはしい物が得られるやうにお祈り下さい』

[やぶちゃん注:「四十四歲」底本は「四十二歲」であるが、原文は“forty-four”で正しいハーンのこの「二」の時制での年齢を言っているので、誤訳或いは誤植と断じ、特異的に訂した。。]

 僧は何か書き下した。自分が彼に祈つて吳れと依賴したことは、確に自分の心の眞底の願ではなかつた。併し佛陀は、失はれた幻の復歸を願ふやうな、愚かしい祈禱には耳を藉さぬであらう事を自分は承知して居た。

 

2020/01/14

脱落していた『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (七)』を挿入した

情けないことに、2015年にブログ・カテゴリ「小泉八雲」で行った「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」の内、「第三章 お地藏さま (七)」をアップし忘れていたことに、今頃、気づいた。再校正と注を増やして先程、当該並びに合うように、遡った日付でこちらにアップした。お詫び申し上げる。

2020/01/13

ブログ1310000アクセス突破記念 梅崎春生 歯

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二九(一九五四)年九月号『改造』に掲載された。当時、春生は三十九歳である。本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログがグ1310000アクセス突破を突破した記念として公開する。【2020年1月13日 藪野直史】]

 

   

 

 ちいさい時から粗食ばかりしていて、それがたたったんでしょうな。三十になるやならずで、歯ががたがたになった。それに戦争のせいもある。戦争じゃ実際苦労しました。

 僕は一人息子で、両親には早く死なれて、じいさんばあさんの手で育てられたんです。だから僕の少年時代の食事はと言えは、ばあさんがつくる関係上、どうしても老人好みの食事ということになります。朝はその地方の習慣で茶がゆ。茶をたきこんだ水気の多いかゆです。副食物は葉菜(なっぱ)や茄子(なす)の古漬けだけ。腹がだぶだぶしてくるから、何杯もおかわりするわけには行かない。昼は小学校ですから、弁当。ところが小学校の僕のクラスには、妙な気風があって、昼食どきになるとお互いの弁当をのぞき合う。おかずが梅干とかタクアンならよろしいが、かまぼこだの卵焼きだのが入っていると、皆があつまって、「ゼイタク」「ゼイタク」「ゼイタク」とはやし立てるんです。先生も黙ってそれを眺めているという具合で、ゼイタクなおかずを持ってきた奴は、弁当箱のふたで内容をかくすようにして、こそこそと卑屈に食べる。そうしたくなければどうしてもタクアンの二片だけで我慢することになります。質朴剛健の気風は栄養を摂(と)らないことにあると、そう皆考えていたらしいのです。夜は夜で、また老人好みのあっさりした副食物。じいさんもばあさんも冬瓜(とうがん)の煮たのが大好きで、その時節になると毎晩冬瓜の煮つけが食膳に出る。これにはうんざりしましたな。僕は今でも冬瓜の煮たのを見ると身ぶるいが出ます。

 つまり僕は少年時代において、以上のような食生活を送り、蛋白質だの脂肪だのカルシューム、其の他いろいろ成長に必要な成分がたいへんに不足した。三十前後で歯ががたがたになった、のは、第一にはこれが原因です。歯がうちそろって一挙に老衰期に入ってしまったらしい。

 そこでこの際志を立てて、歯の徹底的治療、徹底的てこ入れをしようと思い立った。抜くべきは抜き、削るべきは削り、補填(ほてん)すべきは補填する。今のままのジリ貧状態で行けば全滅してしまうにきまっているので、そう思い立ったのです。思い立っては見たものの、先立つもののことを考えて、はたと当惑した。

 僕が今勤めているところは、都内の某盛り場にあるパチンコ屋で、台数も多いし、割に繁昌しています。僕の仕事は、店番とか玉の出し入れ、それに見様見真似で釘の調整もやるので、主人にも重宝(ちょうほう)がられていますが、でも考えて見るとあまりいい職業じゃありませんねえ。第一生産的なところが全然ない。全く不健康な仕事です。そして給与はと言えば、割と店は繁昌しているくせに、主人がケチンボで、あまり良好でない。

 主人がケチンボではあるし、パチンコ屋という商売ですから、もちろん我々従業員たちは健康保険に入っていない。歯をなおそうと思い立ったある日、僕は主人に向って、歯の治療をするから僕たち全員を健康保険に入れて呉れ、と要求したのですが、主人はせせら笑って僕の要求を一蹴した。パチンコ屋と健保とはつり合いがとれないと言うのです。どこがつり合いがとれないのかと訊ねてみたら、どこと言うわけでなく、感覚的に調和していないと言う。もともとこの主人は異常感覚の持ち主で、もりそばに砂糖をまぶして食うような男ですから、言うことも他人とはすこし変っている。歯の方もずんずん悪くなるし、堅いものが全然嚙めなくなってきた。憂欝でしたな。あちこちが思い出したようにズキズキ痛むし、しかも金はないと来ている。

 そこへ忠さんという男があらわれた。

 忠さんというのは、僕の店の顧客で、しょっちゅうパチンコ弾(はじ)きにやってくる。そして僕と口をきき合うような仲になったのですが、歳も僕と同じくらいで、さっぱりしたいい男でした。某出版社の雑誌編集の方をやっていて、編集なんて仕事はよっぽど暇なものらしいですな。毎日のようにパチンコやりにやってくる。時には僕を引っぱり出して、酒を飲ませて呉れたりする。お礼ごごろというわけではないが、よく玉の出る台を僕は忠さんに教えてやったり、また主人の眼をぬすんで玉をザラザラ出してやったこともあります。それで忠さんは僕におごった分ぐらいは結構取り戻しているようでした。

 その忠さんが僕の顔を見て言いました。今年の初め頃のある寒い日です。

「どうしたんだい、そんなふくれっ面をして。お多福風邪にでもかかったのか」

「歯が痛いんだよ」と僕は仏頂づらで答えました。「ほんとに歯が痛いぐらい憂欝なことはないよ」

「歯医者に行けばいいじゃないか」

「それがそう行かないんだよ。間に合せの治療したって仕方がないんだ。全部がもうがたがたになっているんだから」

「じゃ根本的に直したらどうだい。歯なんてものは、放って置くと、命取りになることもあるんだよ」

 そこで僕は、現在のところ治療代がないこと、主人に健保加入を要求中であること、健保加入の暁に総入れの予定であることなどを説明してやりました。すると忠さんは僕の頰ぺたを眺めながら言いました。

「しかし、そんなに腫れ上っているんだから、治療も早い方がいいぜ。取り返しのつかないことになると大変だ。何なら間に合せに俺の健保証を貸してやろうか」

「そうだね。そう願えると有難いな。でも、君が病気になると困るだろう」

「俺は大丈夫だよ」忠さんは胸をどんと叩きました。「俺は当分病気する暇なんかないよ」

 忠さんはその頃ある女性に恋をしていて、それで忙しくて病気する余裕なんかないとのことでした。そういう幸福な人間からなら、健保証をちょっと拝借しても差支えなかろうと、僕も借りる決心をした。こういうことになったと言うのも、健康保険に入れて呉れない主人が悪いのだし、更に進めて現在の政府の政策が悪いとも言えるでしょう。まったく辛いのは庶民ばかりです。

 で、忠さんの保険証を持って、即日近所の歯科医の門を叩いた。

 その歯科医は四十がらみの頑丈な男で、ちょっと大工か左官のような感じの身体つきでした。でも歯科医と大工左官は大いに似たところがある。どちらもノミやクギを使うし、またセメントを使用する。削ったり穴をあけたりかぶせたり、対象が歯と材木の違いだけで、あとは大して変っていないのではないでしょうか。そして歯科は他の医科にくらべると、どうも発達が遅いように、僕は思います。歯を引き抜くに釘抜きをもってする。この方法は神代時代でもやっていたに違いもりません。も少しスマートなやり方はないもんでしょうかねえ。二千年も経つのに同じ方法でやっているとは、歯科にたずさわる人の努力が足りないと、そう断定しても差支えないでしょう。そう僕は思います。

 そこで僕は診察室に通され、れいの電気椅子に似た椅子に腰かけさせられた。戸棚にはさまざまの形のノミやヤスリや釘抜きが、ピカピカ暦き上げられて、人を脅やかすようにずらずらと並んでいます。上には金属製のアームが、歯をギシギシ削ってやろうと待ちかまえています。僕は観念して、椅子の上で大口をあけました。

「こりやひどいな」歯科医は一応僕の歯を点検し終ってそう言いました。「あなたぐらいの若さでこんなにガタガタなのは珍らしいですな。あなたは過去において、堅しものに嚙みついた覚えはありませんか」

「そうですねえ」

 と僕は考え込んだ。現在まで石にかじりつくような苦しい生活をして来ましたが、まさか本物の石に嚙みついた覚えはありません。

「そう言えば戦争中、人間の腕に嚙みついたことがありますが、まあそれくらいなものです」

「それかも知れませんな。歯の根がそろってぐらぐらにゆるんどる」

 人の腕に嚙みついたというのは、正確に言うと終戦後のことです。終戦の時、僕は陸軍の下級兵士として、北支の棗荘(ソソウ)というところにいた。ここは炭坑があるところです。終戦と同時に、在留邦人をも含めた二千名がえんえんと列をつくって、済南(サイナン)目指して出発しました。そして済南において国府軍に武装を解除されたんです。そこから乗船地の青島までの行軍、これが辛かった。

[やぶちゃん注:「棗荘」現在の棗荘(そうしょう/そうそう)市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「棗荘」は拼音で「Zăozhuāng」、カタカナ音写では「ザオヂュアン」であるから、「ソソウ」というルビは日本語としても中国語としてもおかしい。「台児荘(たいじそうしだいじそう)の戦い」(日中戦争中の昭和一三(一九三八)年三月から同年四月七日までの間山東省最南部の台児荘付近で行われた戦闘。台児荘の攻略を企図した日本軍部隊が中国軍の大部隊に包囲されて撤退し、徐州作戦の引き金となったもので、中国側が「抗戦以来の大勝利」を宣伝したことでも知られる)の舞台であった。無論、内地勤務であった梅崎春生自身の体験でなく、戦後の彼の作品の多くと同じく、本作は外地体験者の聴き取りによるものである。

「済南(サイナン)」山東省済南(カタカナ音写:チーナン)市。青島(チンタオ)も確認出来るスケールにしておいた。直線で繋いでも棗荘から済南を経由して青島までは五百キロメートルはある。]

 線路はほとんど爆撃で寸断されているので、大部分が徒歩です。済南で武装解除されたから武器は持たない。その武器を持たない僕らに向って、途中の土民達が襲撃をかけてくるのです。もちろん僕らは集団だから、正面切っては襲って来ない。ちょっと列を離れたり遅れたりすると、ワッと襲いかかって袋だたきにする。あるいはどこかに引きずって行く。これは日本人に対する憎悪もありますが、ひとつには僕らが携えているもの、たとえば時計とか服とか毛布、そんなものを欲して襲撃してくるのです。

 そして悪いことには、僕は部隊本部付の通信隊で、えんえんたる列の最後尾についていたのです。最後尾というのはもっともねらわれやすいところで、現実に通信隊員の中からとうとう三名が次々にやられてしまった。送り狼みたいについて来るんですから、油断もすきもありません。また戦友の一人がワッとやられているととろへ、単身たすけに行くなんてことは、これはもう不可能です。向うは多勢だから、ついでに自分もやられてしまうからです。武器でもあれは別ですが、徒手空拳ときている。

 済南を発して五日目の夕暮のことです。宿営地の部落に入る直前で、僕は小便がしたくなったものだから、立ち止つて小便をした。あたりは一面薄墨色の夕闇です。周囲にちょっと人影が見えなかったものですから、つい油断して放尿しているところを、背後からさっと襲いかかられた。

 そいつは六尺近く一もある、体格のいい土民でした。それに腕力もすごかったですな。僕をうしろから羽がいじめにして、むりやりに引きずって行こうとする。僕は大声を出してわめき、そしてはげしく抵抗した。夕闇のかなたか、四五人の走ってくる人影が見える。もちろんこちらの味方でなく、大男の一味です。もう連中に来られては最後だと思った。袋叩きに叩き殺され、裸にされてしまうと思った。腕力ではとてもその男にかなわないから、僕はもう無我夢中で身体を曲げ、大男の二の腕にがぶりと嚙みつきました。

 その大男の腕は固かったですねえ。まるで材木みたいに固かった。嚙みついた僕の歯の方がぐらぐらつとした位です。大男はうっとうなって、羽がいじめの手をゆるめた。そのすきに僕は男の手からのがれ出て、持ち物を全部地上に投げ捨て、一目散に走り出しました。大男は僕を追おうとしたらしいが、地上の物品を仲間にとられてはまずいと考えたのでしょう。迫って来なかった。もし追っかけて来たら、向うの方が足が早いにきまっているし、たちまちつかまえられたに違いありません。持ち物を捨てたのは、ほとんど無意識の動作でしたが、そのことが僕に幸いしたのです。

 それから二三日の間、僕は飯が咽喉(のど)に通らなかった。歯が痛くて、飯が嚙めないからです。そこでおかゆをつくって咽喉に流し込んでいました。よっぽど力をこめて嚙みついたんでしょうねえ。

 僕の歯の老衰を早めたのは、この事件もたしかに一役買っています。大きく言えば戦争というものが僕の歯をがたがたにした。まったく憎むべきは戦争です。タクアンや塩せんべいをパリパリ食べる楽しみを、戦争が僕から奪い取ったわけです。これは小さなことではありません。人生の幸福というものは、おおむねこのような日常の幸福から成り立っているものですから。

 

 それから僕は毎日、あるいは一日おきに、その山田歯科医院に通うことになりました。なにしろ大部分の歯が多かれ少かれ修理を必要としているのですから、順々にやるとしても、相当な日時がかかります。しかし忠さんの健保証のおかげで、経済的負担はまぬかれた。

 で、忠さんの方はどうしたかと言うと、三月の初め頃からピタリと店に来なくなってしまった。恋愛の方で忙しくて、パチンコまでに手が廻らないのだろうと思っているうちに、ある日僕は腹が痛くなった。売薬を買ってきて服用したが、痛みはますますひどくなる。そこで内科医の診察を乞うと、虫垂炎だという診断で、すぐ手術の必要があると言うのです。そこで即座に入院して切って貰いました。

 ことわりもしないで悪いと思つたけれども、背に腹は替えられず、これも忠さんの保険証を使用させて貰った。手術台に上りながら、僕は考えました。忠さんは歯ならびはいいから、歯科医にかかることはないだろうが、急性虫垂炎にはかからないとは限らない。もし今年にでも虫垂炎にかかり手術を受けるとすると、忠さんは健保証の上において、虫垂炎手術を二度受けたことになる。すると思さんは虫様突起を二本持っているということになり、ちょっと具合が悪くはないか。そう思ったが、もうその時は仕方がありませんでした。そして手術はかんたんに済みました。

 この虫垂炎も、結局は歯に原因したもののようです。医師の話によると、虫垂炎の一原因として、暴飲暴食があげられるそうで、だからよく月曜日にこの病気はおこるとのことです。半ドンとか休日には人間の心もゆるんで、とかく暴飲暴食するものらしいです。僕の場合は、歯が治療中だし、よく食物が嚙めない。ろくに嚙まないまま吞み込むということになる。定量食べていても、不消化に終るから、つまり暴飲暴食と同じことで、それが虫垂炎の原因になったらしいのです。どこまでも歯がたたつて来ます。

 この虫垂炎の入院期間もあり、歯の治療は相当長びきました。

 保険証のために、山田医師はもちろん僕のことを田井忠次(忠さんの名)だと思つていて、治療の合い問に世間話として、出版界の景気などを訊ねてくる。これには弱りましたが、いい加減に調子を合せてごまかしていました。ところがある日、とうとうウソがばれました。というのは、山田医師が僕の店にパチンコをやりに来て、僕とパッと顔を合せたのです。僕はすっかりまごまごして、身の置きどころがなかった。山田医師はにやりと笑って、すぐ傍のパチンコ台にとりつきました。僕はその時パチンコ台をあけて、玉の流れる調整をしていたんですから、山田医師は僕が客でなく、使用人だということを一目で見破ったらしい。

 でも、お医者さんがパチンコやろうとは、僕も考えなかったですな。もちろん医者がパチンコやってはいけないというわけはないけれど、うちの主人の言い草ではないが、どうも医者とパチンコとはつり合わないような気がします。山田医師のやり方を横目で眺めていると、職業柄小手先が器用なせいか、なかなかよく入つているようでした。

 山田医師は僕の店に一回パチンコやりに来ただけで、それ以後は来なかった。そして翌日から、僕に出版界の動向など訊(たず)ねなくなってしまいました。インチキの件も黙認ということになったらしい。

 そして五月の末に、とうとう歯の治療は終りを告げました。治療中にもたびたび主人に健保加入を交渉したけれども、主人は頑(がん)として聞き入れなかったのです。もっともこれは従業員側の団結力の不足のせいもありました。健保加入でワイワイ騒いでいるのは僕だけで、他の連中は手前が目下病気ではないものですから、そつぽ向く傾向が大いにありました。朝から晩までガチャンジャラジャラと、あの地獄のような騒がしさの中にいては、頭もすっかりぽけてしまうし、考え方も大へんエコゴイスティクになってしまうのです。いつか仲間の一人が、近所の露店から二十日鼠を三匹買つて来て、籠に入れて店に置いたところ、たちまち三匹が卍巴(まんじともえ)になつて喧嘩し始め、一日も経たないのに三匹とも悶死してしまった。もちろんこれは店内の不潔な空気と騒音のなせるわざです。こわいようなものですねえ。

 では、あれから忠さんはどうしたか。いろいろ気にはしてたんですが、ずっと御無沙汰をしていて、やっと治療も済んだものですから、お礼かたがた保険証返しに忠さんの出版社を訪れました。じめじめした天気の日でした。編集室は二階にあつて、見渡したところ忠さんの姿は見当らないようなので、そこで忙しそうに働いている女の人に訊ねてみると、おどろいたことには忠さんは突然気が狂って、三月末から精神病院に入院しているという。僕は思わず持っていた菓子箱を床に落してしまった。

 何でもその女の人の話では、忠さんはある女に失恋して、そのショックで気が変になったという話でした。向うで訊ねるから、僕は忠さんの従弟だとウソを答えた。だからくわしくいろいろと話して呉れたのです。病院はどこだと聞くと、神奈川県にある某私立精神病院だとのこと。それから遠廻しにさぐりを入れて見ると、やはり健康保険で入っているらしい。そして気が変になつているから、保険証のありかも判らないので、同僚が再交付の手続きをとり、それでやっと入院したんだそうです。僕は愕然としました。すると忠さんは神奈川県の精神病棟に収容されていながら、毎日か一日ごとにぬけ出して、歯の治療をやっていたことになります。入院が三月末だから、虫垂炎の方はツジツマが合うけれども、歯の方はごまかしようがありません。誰が見たってこれは変だと思うに違いない。

 忠さんの社を辞して、僕は大急ぎで山田病院を訪れました。そして山田医師に会い、歯の治療代のうち四月と五月の分は健保ではなく自費として払うから、と申し出たところ、山田医師はびっくりしたように「もう遅いですよ。点数の請求を出してしまったから」

 との答えでした。僕はがっくりと頭をうなだれました。一体これはどういうことになるんだろう。

 忠さんの保険証の注意事項を読むと、その第六条に『不正にこの証を使用した者は、刑法により詐欺罪として懲役の処分を受けます』とあります。この一条がかねてから気にかかっていたのですが、まあどうにかなるだろうと多寡(たか)をくくっているうちに、こんな形のどんづまりが来た。『不正にこの証を使用した者』はさし当り僕でしょうが、しかし忠さんも任意にこの証を人に貸したことにおいて不正を犯している。また山田医師もそれを黙認したことによって不正に加担したと言えなくもない。では三人とも懲役処分を受けるのでしょうか。

 でも考えてみれば、病気を治療するのは医者の使命であるし、病者は充分なる治療を受ける権利がある。そういう権利や使命をへんな具合にねじ曲げているものが現在にたしかにある。僕は自分の不正使用をそれでごまかすわけではありませんが、近頃医者の坐り込み、患者の坐り込みが、各地で頻々とおこっています。もちろんこれはねじ曲りに対する正常な抵抗だと思います。済南で僕に襲いかかった大男と同じく、羽がいじめにしてくれは、腕を嚙み切っても逃げねばなりません。それにはやはり頑丈な歯が必要だということになるでしょうねえ。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 叶へる願 (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“A WISH FULFILLED”。「成就されたる願い」)はラフカディオ・ハーン(彼が帰化手続きを終えて「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であり、未だこの時は「小泉八雲」ではない。但し、帰化後の出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)来日後の第二作品集「東の國から」(底本(後述)の訳題。原題は“OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN ”。「東方から――新しき日本での夢想と研究」)の第九話である。本作品集は一八九五(明治二八)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された全十一篇からなるものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。なお、本篇は本作品集発行の二ヶ月前の『大西洋評論』(Atlantic Monthly)一八九五年一月号を初出とする。このタイミングを見るに、ハーンは作品集として送った原稿をダブって雑誌に公開した可能性が高いように思われる。ハーンは実はこの版元の一つである「ホートン・ミフリン社」とは、後に版権を独占したいと言われて怒り、一悶着ある。彼自身が自由人であろうとしたように、自作品の自由も、彼には欠かせないものであったであろう。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 なお、この前に配されている「赤い婚禮」(原題“THE RED BRIDAL。戶澤正保訳)は既に昨年の夏、個別に電子化注してある。なお、以上のリンク先のものは底本が後のもので異なるものの、確認したところ、そのデータ自体が本底本を親本としていると推定され、有意な違いは認められなかったので再電子化は行わない。

 訳者戶澤正保は前の「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 博多にて (戸澤正保訳)」を参照されたい。

 引用や原注・訳者注(後者は全体が四字下げポイント落ち)は、上方或いは行頭まで引き上げて同ポイントで示し、注や引用の前後を一行空けた。最初の古代ギリシャの詩句は、ややポイント落ちの六字下げで連続して二行で表示されてあるが、ブラウザの不具合を考え、三字下げで恣意的に改行し、同ポイント四行で示した。

 言わずもがなであるが、本篇は日清戦争勃発直後(明治二七(一八九四)年七月二十五日から翌年四月十七日まで。正式な宣戦布告は一八九四年八月一日)に書かれた作品(作中の最初の原注参照)である。]

 

  叶へる願

 

   汝肉體を去り自由なる精氣の中に入る時、

   汝は恒久不滅の神となるべし

   ――死も最早汝を領することなかるべし。

                  希臘古詩

 

      

 街(まち)には白い軍服と喇叭の音と砲車の轟きとが充ち滿ちて居た。日本軍が朝鮮を征定したのは歷史上これが三度目だ、そして支那に對する宣戰の詔勅は市の新聞に依つて、眞赤な紙へ印刷して布告された。帝國の陸軍は悉く動員された。第一豫備兵も召集された。そして兵士は隊をなして熊本へ溢れ込みつつあつた。幾千人かは市民の宿へ割り當てられた。兵舍と旅館と寺院だけでは、通過の大軍を宿すことが出來なかつたからである。併しそれでも尙ほ足りなかつた、いくら特別列車が全速力で、下ノ關に待たせてある運送船指して、北へ北へと輸送しても。

[やぶちゃん注:「支那に對する宣戰の詔勅」「淸國ニ對スル宣戰ノ詔勅」。冒頭注に示した明治二七(一八九四)年八月一日のそれ。「帝国電網省」内の「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅 (日清戦争開戦の詔勅 明治27年8月1日)」(リンクをホームページにしか許可されていないので以下にアドレスを貼り付けておく。http://teikoku-denmo.jp/history/kaisetsu/other/nisshin-kaisen-shousho.html)で新字であるが、原文・訓読文・現代語訳が読める。]

 それにも拘らず、大軍の移動といふことを考へて見ると、市は驚くべき程靜かであつた。兵士は授業時間中の日本の學生の如く靜肅で從順で、威張り散らす者もなければ、けばけばしい擧動をする者もない。佛敎の僧侶は寺院の庭で彼等に說敎して居る。練兵場ではわざわざ京都から來た眞宗の法主に依つて既に大法會が擧行された。數千の兵士は彼に依つて阿彌陀の保護に託せられた。一々若い頭顱[やぶちゃん注:「とうろ」。頭。]の上に剃刀を載せるのは、進んで現世の欲望を棄てるといふ象徵で、それが兵士の授戒であつた。神道の神社では到る處神職と市民に依つて、昔國の爲めに戰死した者の靈と、軍神とに祈願が籠められつつあつた。藤崎神社譯者註

 

譯者註 熊本の古社八幡宮。

[やぶちゃん注:現在の熊本県熊本市中央区にある藤崎八旛宮(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。熊本市域の総鎮守。応神天皇を主祭神とし、神功皇后・住吉三神を相殿に祀る。社名は「幡」ではなく「旛」と書く。これは天文一一(一五四八)年)の後奈良天皇宸筆の勅額に基づくものである。参照したウィキの「藤崎八旛宮」によれば、承平五(九三五)年、『敕願により藤原純友の乱の追討と九州鎮護のために、国府の所在地であった宮崎庄の茶臼山に石清水八幡宮から勧請を受けて創建された』。『九州の石清水五所別宮の一社で』、『鎮座のとき、勅使が馬の鞭としていた石清水の藤の枝を地面に刺したところ、芽を吹き枝葉が生えたので、「藤崎」を社名としたという伝承がある。国府八幡宮として国司や朝廷の崇敬を受けた。鎌倉時代以降は歴代領主の崇敬を受け、江戸時代には熊本城の鎮守社とされた』が、明治一〇(一八七七)年、西南戦争で社殿を焼失し、現社地に移転して復興した』とある。当時の小泉八雲の居住地はこの中央付近(現在の復元された小泉八雲旧居は熊本で最初に住んだ場所でここからは少し南のこちらである)で神社の西北西七百メートル付近で、ごく近い。]

 

では守札を兵士に配付しつつある。併し一番莊嚴な儀式は、日連宗の名刹本妙寺のそれであつた。これは朝鮮の征服者、ジエシユイツトの敵、佛敎の擁護者であつた、加藤淸正の靈が三百年間眠れる處である。――此處は參詣人の唱へる南無妙法蓮華經の題目が大浪の樣に響く處だ――又此處は神と祀られる淸正公の小さい肖像を入れた寺院形の珍らしい護符を賣つて居る處である。此寺の本堂幷びに長い並木路に沿ふ兩側の末寺では、特別の法會が行はれ、淸正の宦へ神助を仰ぐ特別の祈禱が上げられた。三百年間本堂に保存された淸正の甲冑、兜、太刀は姿を隱して了つた。これは或る人の說では軍紀を鼓舞する爲めに朝鮮へ送られたのだと云ふ。又夜な夜な寺の庭でも蹄の音が聞こえて、再び日の御子の軍を勝利に導かんと、墓穴(おくつき)より出現せる淸正の幽靈が過ぐるを見たなどといふ者もある。疑ひもなく田舍の素朴な勇剛な靑年兵士の中には、それを信じた者も多からう――恰もアゼンの兵士がマラソンでセシウス將軍の在陣を信じた如くに。殊に多數の新募の兵には熊本その者が既に偉人の傳說で神聖化された驚愕の市と見え、其城は朝鮮で立て籠もつた城砦の設計に倣つて淸正が築いたもので、世界の不思議とも見えたのであらうから、尙ほ更の事である。

[やぶちゃん注:「本妙寺」熊本市西区の熊本城北西にある日蓮宗発星山本妙寺。日蓮宗の熱心な信者であった肥後熊本藩初代藩主加藤清正の墓であって彼を祀ったところの浄池廟(じょうちびょう)があることで知られる。

「ジエシユイツト」“Jesuit”。ジェスイットは文字列を見れば判る通り、イエズス会士のことで、ジェズイット教団、即ちイエズス会の異称である。

「アゼン」“Athens”。ギリシャの首都アテネ(Athens)の英語読みであるが、であれば「アゼンス」の方が一般的。

「マラソン」“Marathon”。地名。ギリシャ・アッティカ地方のアテネ北東にある村マラトン(ラテン文字転写:Marathṓn)。古代ギリシア時代の紀元前四九〇年に発生した「マラトンの戦い」(アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシアの遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦い)で知られる。陸上競技マラソンはこの戦いでの故事に由来する。

「セシウス」“Theseus”。テーセウス。ギリシア神話に登場する伝説的なアテーナイの王にして国民的英雄。ミノタウロス退治などの冒険譚で知られ、ソポクレースの「コローノスのオイディプース」では憐み深い賢知の王として描かれる。ヘーラクレースほどではないが、大岩を持ち上げるほどの怪力を誇る。プルタルコスの「英雄伝」では古代ローマの建国の父ロームルスとともに、アテーナイを建国した偉大な人物として紹介されている。「マラトーンの戦い」ではアテナイ軍の先陣に立ってペルシア軍に突っ込み、アテナイ軍の士気を大いに高めたという伝説があり(ここまではウィキの「テーセウス」に拠った)、ここはそれに付随した伝承の一つ(軍神としてのテーセウスが来臨していると信じたこと)と思われる。]

 こんな騷ぎの最中に市民は不思議に靜かにして居た。外見だけでは外人には迚も一般の感情は推測されぬ。

 

註 此一文は一八九四年(明治二十七年)の秋、熊本で書いたのである。國民の熱誠は凝聚して靜肅となつた。其外見上の靜けさの下には封建時代の獰猛さが燻(くすぶ)つて居た。政府は幾千とも知れぬ義勇隊――重に劍客の申し出を謝絕せざるを得なかつた。若しそんな義勇隊を召集したなら一週日の中には十萬人の應募者は得られたらうと思ふ。然るに敵愾心は意外な、又更に痛ましい方法で顯はれた。出陣を謝絕されたので自殺した者が多數ある。地方の新聞紙から手當たり次第に二三の奇怪な實例か引用しよう。京城に居む某憲兵は大島公使を日本に護送することか命ぜられたので、戰場へ行くことが出來ぬので無念の餘り自殺した。又石山といふ一士官は病氣の爲め所屬の聯隊が朝鮮に向け出發する日に、行を共にすることが出來ぬので病床から立ち上がり、天皇の聖影を拜した後、劍を拔いて自刄した。大阪の池田といふ兵士は何か軍紀に背いた廉で出征を許されぬと聞き、我れと我が身を銃殺した。混成旅團の可兒大尉に、彼の聯隊が忠州附近の一要塞攻擊中病氣で卒倒し、無意識の狀態で病院に收容されたが、一週間後に意識を恢復すると卒倒した處へ行つて(十一月二十八日)自殺した――其時の遺書は「ジヤパン デーリー メール」がつぎの如く飜譯した。「予は病氣の爲め此處に停まり、予が部下の要塞襲擊に參加するを得ざりしは、終生拭ふ可からざるの恥辱なり。此恥辱を雪がんが爲めに余はこゝに死す――予が哀情を語るべく此一書を遺して』

東京にある一中尉は、己が出征後、母のない一人の少女を世話する者もないので、其幼兒を殺して、發覺せざる中に己が隊と共に出征した。彼は其後戰場に、我が子と冥途の旅を共にすべく、死を求めて遂に之を得た。此一事は封建時代の殺伐な氣象を思ひ起こさしむる。武士(サムラヒ)が勝算なき職場に出る時、妻子を豫め殺して出陣した話がある。それは武士が戰場で思うてはならぬ三つの物を忘るゝに都合がよいからである――卽ち家、妻子、及び我が命。妻子を殺した後の武士は死に物狂ひに働く事が出來る――敵に情(なさけ)をもかけねば、敵の憐れみをも乞はずに。

[やぶちゃん注:冒頭に明治二七(一八九四)年秋に執筆した旨の記載があるが、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の同年の一月の条に『二十五日(木)付で、チェンバレンより、依頼しておいた「熊本籠城の唄」の翻訳が送られる。後に「願望成就」』(本篇のこと)『のなかで利用されることになる』とあって、実際に最後の章にその歌(軍歌)が出現する。私は本篇と全く無関係にこれが成されたとは思い難いことから、実は本篇の漠然とした構想は実際にはこの頃か、或いはこの前の年辺りにあったのではなかろうかとも思われるのである。無論、日清戦争勃発前に当たるわけであるが、熊本の第六師団が住まいに近かったこと、戦争のキナ臭ささは半島や中国との関係の中で漂い始めていたことから、私はそう(戦争の予感から、若き兵の出陣と、その中に自分の嘗ての教え子が含まれるであろうことを想定しての漠然たる予感的構想設定をすること)考えて構わないように感じている。

 公衆の靜肅さは特に日本的であつた。民衆は個人の樣に、感動すればする程、外見上は益〻自制的になるのである。天皇は在鄕の兵士に酒肴と、慈父の如き愛憐の詔書を下賜された。國民も之に倣つて便船每に酒、食糧、果物、菓子、烟草其他各種の寄附品を送りつつある。高價の寄附に堪へぬ輩は、草鞋を贈りつつある。全國民は軍事資金に献金しつつある。熊本は決して富める市ではないが、尙ほ貧富とも全力を盡くして其忠誠を證明せんと力めつつある[やぶちゃん注:「つとめつつある」。]。商人の小切手、職人の紙幣、勞働者の銀貨、車夫の銅貨、雜然混淆して、何れか同胞の爲めに微力を致さんと奢侈を戒め、冗費を省きたる結果にあらざるはない。子供すら献金した。そして其同情ある小献金は謝絕されなかつた。それは普遍的な愛國心の動きは決して挫折されぬ樣にとの注意からである。併し又豫備兵の家族の爲めに特別の寄附金募集が町々で企てられた。――豫備兵は既に結婚して、大部分は低級の職業に從事して居るのだが、突然召集されたので、妻子は糊口の道を失うたから、其糊口の道を立ててやらうと、市民が自發的に嚴然と誓つて努力しつつあるのである。こんな非利己的な同胞の愛を背後に有する兵士が、兵士としての義務を十二分に盡くすべきは疑ふの餘地がない。

 そして彼等は盡くしたのである。

 

        

 自分に逢ひたいといふ兵士が玄關に來て居ると萬右衞門が云つた。

 『萬右衞門、それは兵隊の宿を此家(ここ)へ割り附けようといふのではあるまいな――此家は狹過ぎるから。何の用だか聞いてお吳れ』

 『聞きました』萬右衞門が答へた。『あの兵隊は貴君(あなた)を御存じ申して居ると申します』

[やぶちゃん注:「萬右衞門」しばしば小泉八雲の作品に登場する家の老僕とするが、概ね実際にはセツ夫人のことであることが多いようである。但し、同居していたセツの養祖父は稲垣万右衛門という名であり、実際、別な作品では年譜と照合すると時に彼であることもあるが、この場合はセツの方がしっくりくるように思われる。特に第二章の本篇の終わりのシークエンスは本当は彼女でなくてはならないと感ずる。]

 自分は玄關へ出て行つて見ると、軍服姿の好靑年が、自分の現はれたのを見て微笑して帽子をとつた。自分には見覺えがない。併し其微笑には覺えがある。一體、何處で見たのだらう。

 『先生眞(まこと)に私をお忘れになりましたか』

 又暫くいぶかりながら自分は彼を凝視した。すると彼は穩かに笑つて名を名乘つた――

 『小須賀淺吉です』

 自分が兩手を差し出した時、自分の心臟まで彼の方へと躍つた。

 『さあお上がりお上がり』自分はどなつた。『併し君は實に大きく立派になりましたね。分からなかつたのに不思議はない』

 彼は靴を脫ぎ劍を外づしながら、小娘のやうに赤面した。彼は授業中間違つた時も、賞められた時も、此通りに顏を赧く[やぶちゃん注:「あかく」。]した事を想ひ出した。明らかに彼は松江の中學で十六歲の羞恥(はにかみ)がちの少年であつた時と同樣に、今でも尚ほ淸新な心を有して居るに相違ない。彼は暇乞ひの爲め、自分を訪問する許可を得て來だのだが、彼の聯隊は明朝、朝鮮へ出發するのだといふ。

 自分は彼を引き留めて會食した。そして往事を談じた。――出雲の事、杵築の事、其外色々愉快な事を話した。初めは知らずに渠に酒を勸めたが、彼は決して飮まなかつた。軍隊に在る間は、決して飮酒せぬと母に約束して來たといふことを後(あと)で知つた。それで酒の代りに珈琲を進めて彼が身上話を引き出さうと力めた。彼は卒業後富める農家である一族に助力する爲め故鄕へ歸つたのであつたが、學校で學んだ農學が大分役に立つたといふ。一年後に十九歲に達した村の凡ての靑年と共に、徵兵候補として寺へ召集され、規定の檢査を受けた。處が檢査官の軍醫と司令部の少佐との會議で一番に合格し、つぎの入營期に引き出された。そして十三箇月の勤務の後伍長に昇進した。彼は軍隊が好きであつたのだ。初めは名古屋に居たが、つぎに東京へ轉じた。併し名古屋の聯隊は朝鮮に出征せぬのを知つて、熊本師團へ轉勤を願ひ出でて許されたのであつた。『私は非常に嬉しいです』と彼の顏は軍人らしい喜びを以て輝きつつ叫んだ。『我々は明日立つのです』そして喜びを露骨に發表したのを恥づるが如く又顏を赧くした。自分はカーライルの、誠實な心を誘ふものは快樂でなくて、苦難と死だと云つた深い言葉を思ひ出した。自分は又――これは日本人には云へない事だが――此靑年の眼中の喜悅は、自分が今迄に見た何物よりも、婚禮の日の朝の花婿の眼の色に髣髴たるものであると思つた。

[やぶちゃん注:「カーライル」イギリスの歴史家・評論家トーマス・カーライル(Thomas Carlyle 一七九五年~一八八一年)。出典未詳。]

 『君は覺えて居ますか』自分は問うた。『君は學校で陛下の爲めに死にたいと云つた事がありましたね』

 『ハイ』笑ひながら彼は答へた。『そして其機會が來たのです。私にばかりではない。級友の多くにも』

 『みんな何處に居ます』自分は問うた。『君と一緖かね』

 『いや、みんな廣島師團に居ました。今はもう朝鮮に往つて居ます。今岡(先生御記憶でせう。身長(せい)の高い男です)と長崎と石村――これだけは皆、成歡の戰爭に參加しました。それから敎練の先生であつた中尉――御記憶ですか』

[やぶちゃん注:「成歡の戰爭」「成歓(せいかん/ソンファン)の戦い」は日清戦争の最初の主要な陸戦。「成歓・牙山(がざん/アサン)の戦い」とも呼ぶ。ウィキの「成歓の戦いによれば、一八九四年六月八日、葉清国軍(北洋陸軍・歩兵約二千五百名・山砲八門)が牙山に上陸し、七月二十四日には三千八百八十名に達した。七月二十三日午前二時、日本軍の混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が郊外の駐屯地龍山から漢城に向かった。民間人を徴用して『電信線を切断し、歩兵一箇大隊が朝鮮王宮を攻撃し、占領した。日本は国王高宗を支配下に置き、大院君を再び担ぎだして新政権を樹立させた』。二十五『日、朝鮮の新政府は清国の宗主権破棄を宣言、大鳥圭介公使に対して牙山の清国軍撃退を要請した』七月二十六日には混成第九旅団に『その旨が伝達されて』いる。七月二十八日に『日本軍は牙城に』籠る『清国兵を攻撃するため』、進発、七月二十九日午前三時二十分、『佳龍里おいて清国兵の攻撃により』、歩兵第二十一連隊第十二『中隊長松崎直臣歩兵大尉が戦死し(日本側初の戦死者)、他数名が死傷した(安城の渡しの戦い)』。午前八時三十分、日本混成第九『旅団は成歓の敵陣地を制圧』した。『大島旅団長は清国軍の主力が牙山にあるとし』て、七月二十九日『午前に全旅団に牙山へ向け出発を命じた。午後』三『時頃、牙山に到達したが、清国軍は敗走していた』。『この作戦の日本側の死傷者は』八十八『名なのに対して、清国兵は』五百『名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡』していた。また、この「安城の渡しの戦い」で歩兵第二十一連隊の『木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る』とある。最後の知られたエピソードについては、「小泉八雲 戦後雑感 (石川林四郎訳)」の「二」の本文と原注及び私の注を参照されたい。

 『藤井中尉か、覺えて居る。退職士官だつたね』

 『併し豫備でした。彼(あ)の人も朝鮮へ行きました。先生が出雲を去られてから、男の子をも一人儲けられました』

 『僕が松江に居た時は、女の子が二人、男の子が一人ありましたね』

 『さうでした。今は二人男の子があります』

 『そんなら家族は大分心配して居ませう』

 『中尉自身は心配しません』靑年は答へた。『戰爭で死ぬのは名譽です。戰死者の家族は政府で世話して吳れます。だから士官邊は少しも心配がありません。ただ――子息がなくつて死ぬのは一番悲むべきです』

 『僕には解せない』

 『西洋ではさうでありませんか』

 『却つて我々は子供があるのに死ぬのが尤も悲むべきだと思ひます』

 『どういふ理由でせう』

 『善良な父は凡て子供等の將來を心配しませう。若し突然父親が居なくなつたら、子供等は色々の難儀をしようぢやありませんか』

 『日本の士官の家族はさうでありません。子供は親戚で世話するし、政府からは扶助料が下がります。だから、父親は心配するに及びません。だが子供が無くて死ぬ者は氣の毒です』

 『といふのは妻と其他の家族が氣の毒だといふのかね』

 『いや當人が氣の毒です、夫自身が』

 『それはどうして。子供があつたつて死人には何の役にも立つまいぢやないか』

 『子供があれば後を繼ぎます。家名を保存します。そして供養を致します』

 『死者への供養ですか』

 『さうです。お分かりになりましたか』

 『事實は分かつたが、感情が僕には分からない。軍人は皆、今でもこんな信念と有(も)つて居ますか』

 『有つて居ますとも。西洋にはそんな信念はありませんか』

 『今はないね。昔の希臘人や羅馬人はそんな信念を有つて居ました。祖先の靈は家に遺つて居て、供養を受け、家族を守護すると思つて居ました。彼等が何故さう思つたか我々にも幾分分かります。併し彼等が何う感じたか、それは判然(はつきり)分かりません。それは我々自分[やぶちゃん注:ママ。]が經驗しない、若しくは遺傳しない感情といふものは、分かるものでありませんから。同じ理由で僕には死者に對する日本人の其の感情は分かりません』

 『そんなら先住は、死は凡ての終はりだ、とを考へですか』

 『いや僕の不可解(わからない)のはさう考へるからではない。或る感情が遺傳する――或る思想も多分遺傳する。死者に就ての君の感情と思想、又死者に對する生者の義務感といふものは、西洋のとは全然違ひます。我々には死といふ槪念は生者からのみならず、此恍からの全き別離を意味するのです。佛敎も死者は長い暗い旅行をせねばならぬ事を說いてるぢやありませんか』

 『冥途の旅ですか。さうです、みんな其旅を致します。併し我々には死を全き別離とは考へません、我々は死者も我が家に居る如く考へて、每日言葉をかけます』

 『それは知つてます。僕に分からぬのは其事實の背後の思想です。若し死人が冥途へ行くのなら、何故佛壇の祖先に供物を供へ、實際在す[やぶちゃん注:「ます」。そこにおられる。]が如くに祈禱をしますか。一般俗衆はかうして佛敎の敎と神道の信念を混同して居ませんか』

 『多分混同して居る者も澤山ありませう。併し全くの佛敎信者にも死者への供養と祈禱は、同時に異る場處でなされます。――檀那寺でも又家庭の佛壇で島』

 『併しどうして靈魂が冥途に在ると同時に、此世の樣々な場處に在ると考へられるでせう。たとひ靈魂は分割されると信ずるにしても、それだけでは此矛盾を說明し盡くされません。佛敎の敎へに從ふと、死人は後世で裁判を受けて、居處を決せられるやうになつて居ますから』

 『我々は靈魂は一にして又二に又三にもなるものと信じて居ます。我々は靈魂は一人のものとして考へますが物質的のものとは考へません。丁度空氣の動く樣に同時に幾箇處にも居られるものと考へます』

 『或は電氣の樣に』と自分は補つた。

 『さうです』

 

 此の若き友の心には明らかに冥途と家庭の供養といふ二つの槪念は、調和し得ぬものとは思はれぬのであつた。多分如何なる俤敎哲學の學者にも、此二つの信念が重大な矛盾を含むものとは見えねだらう。『妙法蓮華經』は佛の境界は廣大無邊――大氣の涯(はて)なきが如しと說いて居る。又久しく涅槃に入りたる佛に就ては『其完全なる滅後と雖も、十方世界を徘徊す』と宣べて居る。又同じ經は凡ての佛達の同時に出現せし由を說きたる後、釋迦をして宣せしむらく、『是皆我が分身なり。其數は恒河の砂の如く千萬無量なり。彼等は妙法を實現せんが爲めに現はれたり』併し平民の無邪氣な心に、神道の原始的な思想ともつと的確な佛敎の靈魂裁判の敎義との間に、眞の調節が出來て居ない事は、自分には明らかに見ゆる。

[やぶちゃん注:「恒河の砂」「ごうがのすな」。「恒河沙(ごうがしゃ)」。「恒河」はガンジス川を意味するサンスクリット語「ガンガ」を漢音訳したもので、「恒河沙」とは「ガンジス川にある無数の砂」の意であり、もともと「無限の数量」の例えとして仏典で用いられていた。例えばここでハーンが引く「法華経」の「堤婆達多品」(だいばだったほん)」の中の「恒河の砂ほど多くの衆生が仏の教えを聴く」がよく知られ、漢字文化圏に於いてはこれが数の単位の一つとなった。その数量は時代・地域により異なり、人によって解釈が分かれるが、一般的には1052或いは1056とも言う(以上はウィキの「恒河沙」に拠った)。]

 

 『君はほんとに死を生と同樣に、又光と同樣に考へますか』

 『さうですとも』微笑しながら答へた。『我々は死後も家族と一緖に居ると思ひます。兩親や友達にも逢ふでせう。卽ち此世に遺つて居るでせう――今と同樣に光を見ながら』

 (此處で突然自分には或る學生が義人の未來を論ずる作文の中で『彼の靈は永久に宇宙を翺翔[やぶちゃん注:「かうしやう(こうしょう)。空高く飛ぶこと。]と書いた言葉が新しい意味を以て、思ひ出もれた)

 『ですから』淺吉は續けて云つた。『子供のある人は元氣好く死ねるのです』

 『飮食物の供物を子供が靈魂に供へるからですか。そしてそれがないと靈魂は困るのですか』と自分は問うた。

 『そればかりではありません、供養よりも、もつと重大な義務があります。それは誰れでも死後に、自分を思慕して吳れる者を要求するからです。お分かりになりましたか』

 『君の言葉だけは分かりました』自分は答へた。『君の信念の事實だけは分かりました。感情は僕には解せません。僕には僕の死後、生きてる[やぶちゃん注:ママ。]者から思慕されても幸福になるとは考へられません。いや僕は死後に何等の愛をも感知し得るとは想像されません。して君はこれから戰爭に遠くへ往くのだが――子供のないのは不運だと思ひますか』

 『私が。いや、私自身が子供です――末の方の子供です。兩親はまだ生きて居て丈夫です。そして、兄が世話をして居ます。私が殺されたら、私を思つて吳れる者が澤山あります――兄弟や姉妹やそれから幼い者もあります[やぶちゃん注:底本は「ありす」。特異的に補った。]。我々兵士は別です。我々はみな、極若いですから』

 『何年間程』自分は尋ねた。『供物は死人に供へられるのかね』

 『百年間です』

 『たつた百年間』

 『ハイ、寺でも百年間だけしか、祈禱と供養は致しません』

 『そんなら死人は百年で追懷されずともよくなるものですか。それとも彼等は遂に消滅するのかね。魂魂の死滅といふ事があるのかね』

 『いや、百年後にはもはや家に居なくなるのです。生まれ更はるのだとも云ひますが。又或る人は彼等は神になるのだと申します。そして神として尊敬し、一定の日に床の間で供へ物を致します』

 

 (これは普通行はれて居る解釋であるが、これと不思議にも相反せる思想に就て聞いた事がある。非常に德望のある家では、祖先の靈が物質的の形態を取つて、數百年の間、折折現はれるといふ傳說があるのである。昔、或る千箇寺參詣者(まゐり)[やぶちゃん注:前三文字へのルビ。]が、遠い或る邊鄙の地で二人の靈魂を見たといふ記錄を遺して居る。彼等は小さい朦朧たる形態で『古銅器の樣に黑い』と云つてある。彼等は口はきけないが、低い呻く樣な聲を發する。又每日供へられる食物を食ひはせぬが、ただ暖かい湯氣を吸入する。彼等の子孫の云ふ處に依ると、彼等は年々益〻小さく、益〻朦朧となるといふ)

 

註 これは日蓮宗の名ある寺を千箇處巡拜する信者の事で、此旅行を終はるには數年を要するのである。

[やぶちゃん注:このハーンの言う伝承やそれを記録したものを私は寡聞にして知らない。識者の御教授を乞う。]

 

 『我々が死者を思慕するのは甚だ變とお考へですか』淺吉は啓ねた。

 『いや』自分は答へた。『それは美しい事だと思ひます。併し西洋の一外人としての僕には、其慣習は今日のものらしくない、寧ろ昔の世界のものらしく思はれます。古希臘人の死者に對する考は、現代の日本人に大分似て居つたらうと思ひます。ペリクレスの時代のアゼンの兵士の感情は、多分明治時代の君等と同じであつたらう。君は學校で、希臘人が死者に犧牲[やぶちゃん注:「いけにへ」と訓じておく。]を供へた、英雄や愛國者の靈に敬意を拂つた事を讀んだでせう』

[やぶちゃん注:「ペリクレス」(紀元前四九五年?~紀元前四二九年)は古代アテナイの政治家でアテナイの最盛期を築き上げた政治家として知られるのことである。

「アゼン」「一」に既出既注。“Athens”。アゼンス。ギリシャの首都アテネ(Athens)、アテナイのこと。]

 『讀みました。彼等の習慣の中に我々のに似て居るのがあります。我々の中で支那と戰つて倒れる者も同樣に敬意を拂はれるでせう。神として崇められるでせう。天皇陛下すら敬意を寄せられるでせう』

 『併し』自分は云つた。『先祖の墳墓の地を遠く離れて、外國で戰死するのは、西洋人にすら、甚だ氣の毒に思はれます』

 『いやいや。鄕里の村や町には戰死者の爲めに記念碑が建てられませう。そして屍骸は燒いて骨にして日本に送ります。少くともそれが出來る處ではさう致します。ただ大戰の後ではむつかしいでせう』(突然ホーマーの詩の記憶(おもひで)が胸に漲(みなぎ)つて、『屍の山が其處にも此處にも絕え間なく燒かれた』といふ古戰場の幻影(まぼろし)が自分の眼に浮かんだ)

[やぶちゃん注:「ホーマー」“Homer”。紀元前八世紀後半頃のギリシャの盲目の吟遊詩人ホメロス(ラテン文字転写:Homēros)のこと。小アジア西岸地方に生まれとされ、ギリシャ各地を遍歴したと伝えられる。二大英雄叙事詩「イリアス(イリアッド)」「オデュッセイア」の作者とされ、古来、最高の詩人と称されてきている。その二大詩は古代ギリシャの国民的叙事詩として、文学・教育・宗教・美術などに多大の影響を与えた。以上は「イリアス」の序文一節。英文ウィキソースのこちらで当該箇所(第二パラグラフの最後)が読める。]

 

 『そして此戰爭で殺された兵士の靈は』自分が問うた。『國難の時には、國を護り給へと常に祈られるのだらうね』

 『さうですとも。我々は全圖民に敬愛せられ、崇拜されるのです』渠は既に死ぬと極まつた者の樣に『我々』と云つたが、それは、全く自然に聞こえた。暫し沈默した後で又續けた――

 『去年學校に居る時行軍を致しましたが、其時意字(いう)地方の英雄の靈の祀られてある神社へ參りました。それは丘陵に圍まれた美しい淋しい處で、祠(やしろ)は高い樹木で蔽はれて居ます。そしていつでも薄暗く、冷たい靜(しん)とした處です。我々は祠の前に整列しましたが、一人も物云ふ者はあしませんでした。其時喇叭が、職場への召集の樣に神の森に鳴り響きました。そして私の眼には淚が出ました――何故とも分からずにです。同輩を見ると、みな私と同樣に感じたらしいのです。多分先生は外國人ですから、お分かりになりますまい。併し日本人なら誰れでも知つて居る、此感情をよく表現した歌があります。それは西行法師といふ高僧が昔詠んだものです。此人は僧侶にならぬ前は武士であつて、俗名を佐藤憲淸と云ひました。――

 

 なにことのおはしますかは知らねとも

      ありかたさにそなみたこほるる

 

[やぶちゃん注:「意字(いう)地方」現在の島根県松江市意宇町があるが、ここは「地方」と言っており、これは旧意宇郡(おうぐん)で、現在の松江市の一部(大橋川以南及び大根島・江島)であろう。ウィキの「意宇郡」の地図でその広域一帯が確認出来る。同郡は後の明治二九(一八九六)年四月一日に八束郡となっているから齟齬はない。而して、意宇郡内で最も知られた古い神社は熊野大社で、祭神は「伊邪那伎日眞名子(いざなぎのひまなご)加夫呂伎(かぶろぎの)熊野大神(くまののおおかみ)櫛御氣野命(くしみけぬのみこと)」であるが、これは素戔嗚尊の別名であるとするから本文の「英雄」と一致する参照したウィキの「熊野大社」によれば、「伊邪那伎日真名子」は「イザナギが可愛がる御子」の意で以下、「加夫呂伎」は「神聖な祖神」、「熊野大神」は鎮座地名・社名に大神をつけたもので、実際の神名は「櫛御気野命」ということになり、『「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である』。これは「出雲国造神賀詞」に出る神名を採ったもので、「出雲国風土記」には『「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなぎのまなご くまのにます かむろのみこと)」とある。現代では櫛御気野命と素戔嗚尊とは本来は無関係であったとみる説も出ているが』、「先代旧事本紀』」の『「神代本紀」にも「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、少なくとも』、『現存する伝承が成立した時には』、『すでに櫛御気野命が素戔嗚尊とは同一神と考えられていたことがわかる。明治に入』ってから、『祭神名を「神祖熊野大神櫛御気野命」としたが、復古主義に基づいて神名の唱え方を伝統的な形式に戻したまでのことで、この段階では素戔嗚尊とは別の神と認定したわけではない。後の神社明細帳でも「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」とあり、同一神という伝承に忠実なことでは一貫しており、別の神とするのはあくまでも現代人の説にすぎない』とある。

「なにことのおはしますかは知らねとも」「ありかたさにそなみたこほるる」原文は日本語のローマ字表記四行書きで、「なにごとの」「おわしますかは」「そらねども」「ありがたさにぞ」「なみだこぼるる」となっている。本歌は西行が伊勢神宮に参拝した際に歌ったとされるものであるが、古来、真贋の論争が喧しいものである。整序すると、

 何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに淚こぼるる

である。]

 

 自分がかういふ經驗談を聞いたのは、これが初めてではなかつた。自分が敎ふる學生の多くは、古い神社の緣起と朧氣な嚴肅さとに依つて喚起された感情を語るに躊躇しなかつた。實際淺吉の此經驗は深海の漣と同樣、決して單獨のものではなかつた。彼はただ一民族共有の祖先傳來の感情――神道の漠乎たる併し測り知られぬ深さを有する情緖を述べたに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「深海の漣」はママ。原文は“a fathomless sea”であるから判らぬではないが、「測り知れぬ底知れぬ大海」で「大海」の方が漣(さざなみ)としっくりくる。

「漠乎」(ばくこ)測り知れない広さを指す。「乎」は強調の助字。]

 我々は軟らかい夏の闇が落ちかかる迄話し續けた。星と兵營の電燈が諸共に閃き出した。喇叭が鳴つた。そして淸正の古城から、雷の樣な一萬の兵士の歌ふ太い聲が夜の中へ轉げ出した。――

 

      西も東も

        みな敵ぞ、

      南も北も

        みな敵ぞ。

      寄せ來る敵は

        不知火の

      筑紫のはての

        薩摩潟。

 

 『君もあの歌を習つたかね』と自分が聞いた。

 『習ひました』淺吉が云ふ。『兵士は誰れでも知つてます』

 それは籠城の歌『熊本籠城』といふ軍歌であつた。我々は耳を欹てて[やぶちゃん注:「そばだてて」。]聞き入つた。その偉大な合唱の響の中に、詞の幾分を聞か分くることも出來た。

 

      天地も崩る

        ばかりなり

      天地は崩れ

        山川は

      裂くる例の

        あらばとて

      動かぬものは

        君が御代。

[やぶちゃん注:以上の歌詞は各行が短いので、底本の位置で示した。これは西南戦争に於ける熊本鎮台の籠城作戦(籠城した鎮台軍は三千三百名)を主題とした軍歌「熊本籠城」(作詞者不詳・音源は探してみたが、見当たらない)の一部。前者は冒頭部分で、後者は中間部の一節。全篇はブログ「陸・海軍礼式歌」のこちら(電子化されてある。但し、一部表記に問題がある)、或いは国立国会図書館デジタルコレクションの「新撰軍歌集」(明治二一(一八八八)年・熊本楽善堂刊)のこちらで画像で読めるが、後者で照らし合わせると、前の「筑紫」は「ちくし」とルビし、「薩摩潟」は「薩摩方」となっている(前者は「薩摩潟」)。後の方は「天地も崩る」が「天地も崩るゝ」となっており、「山川」が「山河」、そして「裂くる例の」は「烈(さけ)るためしの」となっている。前者のそれは「裂かる例の」となっているから、折衷して「裂(さけ)る例(ためし)の」が穏当か? 但し、ハーンの原文では「さくる」となっており、個人的には「裂くる例の」がしっくりくる気はする。なお、「薩摩潟」の場合は薩摩国の南方の海上を漠然と言ったものであろう。薩摩潟という潟や入り江及び沿岸地名は実在しない。後者はその事実を意識して「方」としたものかも知れない。]

 

 暫しの間淺吉は歌の强い律(リズム)に合はせて肩を搖りながら聞いて居たが、突然目覺めた者の如く笑つて云つた。――

 『先生、お暇致します。今日はお禮の申し上げ樣もありません、非常に愉快でした。併し先づ』――と胸から小さい包みを出して『どうぞこれを納め下さい。久しい以前に寫眞をと仰しやいましたが、紀念(かたみ)に持つて參りました』

と立ち上がつて劍を着けた。自分は玄關まで送り出して彼の手をぢつと握つた。

 『先生、朝鮮から何をお送り致しませう』彼は問うた。

 『手紙さへ貰へばよい』自分は云つた。『つぎの大勝利の後でね』

 『筆さへ握れましたら、それは屹度』彼は答へた。

 さて銅像の樣に身體を眞直ぐにして、制規の軍人式敬禮を行つて、闇の中へ大股に淸消えて了つた。

 自分は淋しい客間へ歸つて冥想した。軍歌の轟きが聞こえる。汽車の囂音が聞こえる。其汽車は幾多の若き心、幾多の貴い忠義、幾多の立派な誠と愛と勇とを載せて、支那の稻田の疫癘[やぶちゃん注:「えきれい」は「悪性の流行病・疫病」の意であるが、ここは戦争の換喩。]の中へ、死の旋風の眞中央(まつただなか)へと運び去るのであつた。

 

       

 地方の新聞紙に依つて發表された長い戰死者名簿の中に、小須賀淺吉の名を發見した日の夜、萬右衞門は客間の床の間を祭祀用に裝飾して燈明をつけた。花瓶には花を一杯挿し、色々の小さい燈火を並べ、靑銅の小さい鉢に線香を燒‘た)いた。準備が調つた處で自分を呼んだので、床の間へ近寄つて見ると、中に淺吉の寫眞が小さい臺の上に立ててあるのを見た。その前には飯、果物、菓子などが小さく並べてあつた――老人の供物である。

 『多分』萬右衞門がおづおづ云つた。『旦那が何とか物を云つて上げたら、淺吉の靈が喜びませう。旦那の英語が了解(わか)りませうから』

 自分は彼に物を云つた。すると寫眞は線香の煙の中で微笑むやうに見えた。併し自分の云つた事は、彼と神々にばかり分かる事であつた。

[やぶちゃん注:ここに登場する松江中学時代の教え子「小須賀淺吉」なる人物は、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)を見ても、このような教え子の訪問事実が出てこず、ネットで検索をかけても本篇を紹介する記載でヒットするばかりであった。辛うじて「富山八雲会」公式ブログの二〇一〇年三月十五日の「3月例会報告」(「富山八雲会」二〇一〇年三月十三日に行われた例会の報告記事)の『1 輪読会「願望成就」…担当:木下・綿谷』の中に『小須賀浅吉自体は実在しない?』とあるのを見い出せた。或いはモデルの教え子はあるかも知れぬが、実在する人物ではないようだ。議論の内容から見ても、これだけの信仰論議を英語でし得る、この年齢の、この設定の人物というのは、ちょっと考え難い気はする。……にしても……この話……元教師であった私の胸を刺すものがある…………

2020/01/12

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戸澤正保訳)/その「六」から「九」/「柔術」~了

 

[やぶちゃん注:本篇の書誌や私の凡例は前の『小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 柔術 (戸澤正保訳)/その「一」から「五」』を参照されたい。]

 

       

 日本は間もなく基督敎の採用を世界に宣言するだらうとの豫想は、往時の他の豫想程不道理なものではなかつた。けれども今になつて見ると一層不道理であつたやうに思はれる。そんな大きな期待を基づけるやうな前例は何處にもなかつたのだ。東洋人種で基督敎に改宗したものは未だ甞てなかつた。英國治下の印度に、舊敎宣傳の大努力も遂に水泡に歸した。支那では二百餘年の傳道の後、基督敎といふ名さへも嫌惡せられるに至つた――それも理由なしではない。西敎の名で支那に對する幾囘かの侵掠が行はれたからである。近東の方面でも東洋民族の改宗事業はさつぱり捗(はかど)らない。土耳其人[やぶちゃん注:「トルコじん」。]、アラビア人、モーア人或は何れの同敎徒をでも改宗せしめ得る望みは露程もない。猶太人改宗協會の思ひ出の如きはただ一笑を博するに足るばかり。併し東洋人種を度外に措いても、我等は誇るに足るべき改宗事業は爲してない。近代史の範圍内では基督敎國は、苟くも國民的生活を維持し得るの望みある民族に、其敎理を採用せしめ得た例はないのである。二三の蠻族或は滅亡しつつあるマオリ種族の間に於ける傳道の、名目計りの成功の如きが、通則であるに渦ぎない。那翁[やぶちゃん注:「ナポレオン」。]の所謂宣敎師は政略上大いに有用なることありといふ、少しく皮肉な宣言にでも聽かぬ限り、我等は外國傳道會社の全事業は何の效果もなき精力と、時間と、金錢との大浪費に外ならぬといふ結論を避くる事が出來ぬ。

[やぶちゃん注:「モーア人」“the Moors”。モロッコ・モーリタニアなどのアフリカ北西部に住み、イスラム教徒でアラビア語を話す人々の称。本来はマグレブの先住民ベルベル人を指したが、十五世紀頃からはイスラム教徒全般を指すようになった。

「猶太人」(ユダヤじん)「改宗協會」原文“the Society for the Conversion of the Jews”。侮蔑的な“Jews”と前後から、ユダヤ教徒をキリスト教に改宗させる組織らしいが、この英名ではヒットしない。但し、平井呈一氏の恒文社版「柔術」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)でも『ユダヤ人改宗協会』と訳されてある。識者の御教授を乞う。

「マオリ種族」原文“Maori races”。底本は実は「マリオ種族」とあるが、誤記或いは誤植と断じて、特異的に「マオリ」と訂した。しかし平井氏も『マリオ』とやらかしているし、ネット上にも驚くべきことに「マオリ族」の真面目な記載で「マリオ族」が氾濫しており、一人の筆者が「マオリ」と「マリオ」を混淆して記載しているものも認められる。ウィキの「マオリ」によれば、マオリ(マオリ語ラテン文字転写:Māori)は、『アオテアロア(ニュージーランド)にイギリス人が入植する前から先住していた人々で』、『形質的・文化的にはポリネシア人の一派をなす。マオリとは、マオリ族の用いる言語マオリ語では本来』、『「普通」という意味で、マオリ自身が西洋人と区別するために』「普通の人間」という『意味でTangata Maoriを使い出したにもかかわらず、イギリス人が発音しにくいという理由で、Tangata(=人間)ではなくて、Maoriを採用したのが由来とされる』とある。「ブリタニカ国際大百科事典」の「マオリ族 Maori」には(コンマを読点に代えた)、『ニュージーランドのポリネシア系先住民。初期の移住は』九『世紀以前に行なわれたと考えられ』、一三五〇『年頃』、『再びタヒチ方面より大移住があり、それとともにマオリ文化の開花をみた。伝統的社会組織の最大単位ワカ(部族連盟)は、伝承のうえで』は、十四『世紀に大船団を組んで来島した際』、『船を同じくした者の子孫により形成されている』という。『社会的に機能する最大単位は、先祖を共有するイウ(部族)であるが、土地を共有するなど』、『日常生活に最も重要なのは、その下位集団のハプウ(氏族)であった。砦を中心に村落を形成し、サツマイモ、ヤムイモ、タロイモ、ヒョウタンなどの掘棒耕作や森林採集などを生業としていた。マオリの彫刻技術は有名で、村の集会所は多くの神像や螺旋文様で飾られていた。最高神イオ、森林神タネ、海神タンガロアなどを信仰していたが、現在ではキリスト教化している。人口はニュージーランド総人口の約』十五『%を占め(『二〇〇七年現在『)、伝統文化を尊重するとともに、近代文化に巧みに適応した生活を送っている』とある。]

 

註 名目計りと云つたのは、傳道の眞の目的達成は單に不可能であるといふ事實に基づくのである。此問題は、ハアバアト・スペンサアに依つてつぎの數行に明瞭に論斷されて居る。――「何處にても特殊の敎義の伴なふ特殊の神學的傾向は多くの社會問題を斷ずるに偏頗に流るゝは避く可からず。或る一の信條を絕對的に眞なりと考へ、從つて他の之と異る信條を絕對的に虛譌[やぶちゃん注:「きよか(きょか)」。偽り。インチキ。]なりと考ふる者に在つては、一信條の價値は相對的のものなりとの推定を爲す能はず。各宗敎に大體に於て、其宗敎の存在する社會の部分的一要素なりとの考へ外道として忌み退け、彼の獨斷的なる神學的系統は凡ての場處凡ての時代に適合するものなりと考ふ。彼は之を蠻族の中に移し植うるも適當に了解せられ、適當に歸依せられ、而して自身經驗せるが如き結集を彼等の上に及ぼすことを疑はず。此の如き偏見に捉へらるゝが故に、彼は凡て民族は其天分より高き政體を受け入るゝこと能はざるが如く、分に過ぎたる宗敎をも受け入るゝこと能はず、强ひて之を受け入れしむれぱ、政體と同じく、名目計りは同じくも實質は甚だしく劣等なるものに堕するといふ實證を閑却するなり。換言すれば彼の特殊なる神學的傾向は彼をして社會學的眞理の重要なるものに盲目ならしむ」

[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサア」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者・倫理学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。以上は彼の一八七三年刊の「社会学の研究」(The Study of Sociology)の“CHAPTER XII. the theological bias.”(「神学上の偏見」)の一節。]

 

 十九世紀の最後の十年期といふ今日に於ては、兎に角其理由は明白である。宗敎といふものは超自然に就ての一獨斷說である計りでない。一人種の全倫理的經驗、多くの場合に於ては其賢明なる國法の基礎となりたる太古の傳說、及び其社會的發展の記憶竝びに結果、此等のものの綜合されたものが宗敎なのである。されば宗敎は本質的に種族的生活の一部分で、他の全く異れる種族の倫理的、社會的經驗に依つて――換言すれば外國の宗敎に由つて、取つて代はらる〻は常道でない。又健全な社會狀態にある國民は、其倫理的生活と深く契合[やぶちゃん注:「けいがふ(けいごう)」。合わせた割り符のようにぴったりと一致すること。]せる信仰を自ら進んで棄てられるものでない。或る國民は其敎條(ドグマ)を改造する事はあらう、進んで他の信仰を受け入れる事さへもあらう。併し進んで古い信仰を棄てる事はあるまい、縱令其古い信仰は倫理的にも社會的にも無用の長物となつて居るとしてもである。支那が佛敎を入れた時、支那は古聖賢の經書をも、原始的の祖先崇拜をも棄てはしなかつた。日本が佛敎を入れた時も、日本は神の道を棄てなかつた。古代歐羅巴の宗敎史にも同樣の例は擧げられる。尤も寬容な宗敎のみが、其宗敎を生み出した民族以外の民族に入れられる。但しそれは既存の宗敎の外に追加せられるので、既存のものに、取つて代はるのではない。古代佛敎傳道の大いに成功せし所以は其處に在る。佛敎は他宗敎を吸收はしたが取つて代はる事はせなんだ。他信仰を其廣大な組織の中に合併して、之に新しい釋義を與へたのである。然るに囘敎と基督敎――西部基督敎――とは始終不寬容の宗敎であつて、何物をも合併せず、凡てに取つて代はらうとのみした。基督敎を入れるには、特に東洋の一國に入れるには、其國在來の信仰の破壞のみならず、同じく在來の社會組織の破壞をも必然に惹起す[やぶちゃん注:活用形はママ。]事になる。然るに歷史の敎ふる所に依れば、こんな大袈裟な破壞はただ暴力に依つてのみ成就される。若し非常に進步した社會ならば、尤も殘忍な暴力を要する。過去に於て基督敎宣傳の重な道具であつた暴力は、今でも我等が傳道の背後に存する。只だ我等は露骨な劍鋒の代はりに、金力と威嚇とを置き換へた、或は置か換へた振りをする。折々は基督敎徒たる事の證據に商業上の理由で其威嚇を遂行する。例せば我等は戰爭に依つて强要した條約の條項に於て、宣敎師を支那に强ひつける。そして砲艦で彼等を掩護し、自ら進んで殺された人間の生命に、莫大な償金を强請する。だから支那は何年每かに代償金を拂はせられ、我等が基督敎と稱するものの價値を年と共に學びつつある。かくてヱマースンの、眞理は或る者には事賞で證明せられる迄は了解せらる〻事なしといふ金言が、最近支那の正直な抗議に依つて證明せられた。其抗議といふのは支那に於ける宣敎師の侵害の無道を責めたものである。宣敎師騷ぎは遂に純粹の商業的利益に惡影響を及ぼすであらうと云ふ事が發見せられなんだら、此抗議も決して傾聽されなかつたあらう。

[やぶちゃん注:「ヱマースン」アメリカの哲学者・作家・詩人ラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson 一八〇三年~一八八二年)。引用元は不詳。]

 併し以上の所論にも拘らず、實際一時は日本の名目だけの改宗は可能と信ぜしむべき相當の理由があつた。人は日本政府が政治上の必要に迫られて十六、七世紀の驚くべきジエシユイツト傳道を絕滅せしめた後、基督敎徒といふ語は憎惡と輕蔑の語となつた事を忘るる事は出來ぬ。

[やぶちゃん注:「ジエシユイツト」“Jesuit”。ジェスイットは文字列を見れば判る通り、イエズス会士のことで、ジェズイット教団、即ちイエズス会の異称である。]

 

註 此傳道は一五四九年八月十五日[やぶちゃん注:以上は無論ユリウス暦によるもので本邦では天文十八年七月二十二日であった。因みに、グレゴリオ暦で換算すると八月二十五日になる。]九州の鹿兒島に上陸した聖フランシス・ザビエーに依つて開始された。面白い事にはスペイン若しくはポルトガル語のパドレの轉訛バテレンといふ語は二世紀前に日本語となつたのだが、それが今でも或る地方では民間に殘つて居て魔法遣ひといふ意味に用ゐられる。も一つ記すに足る面白い事は、自分に見られずに家の外の通行人を見る事の出來も一種の竹製の簾がキりシタン(クリスチヤン)と呼ばれる事である。

[やぶちゃん注:最後に出る竹製の「キリシタン」と呼ばれる「簾」というのはネットで検索しても出てこなかった。ご存じの方はご教授願いたい。]

グリツフイスは十六世紀に於けるジエシユイト傳道の大なる成功は、半ば羅馬舊敎の外形と佛敎の外形とが相似て居るに依ると說明して居る。此如才なき推定はアーネスト・サトウ氏の硏究に依つて確證された(「日本亞細亞協會紀要」第卷第二部を見よ)氏は山口の領主大内氏が傳道師に與へた「佛法の說敎」を許すといふ免許狀の模寫を公にした――基督敎は初めは佛敎の高等なものと取り違へられたのである。併し日本から出したりジエシユイト敎徒の文書、或はもつと流布して居るシヤールポアの著書をでも讀んだ人は、傳道の成功がこれで完全に說明されてゐるとは思はぬであらう。此問題は顯著な心理的現象を吾人に示すものである――恐らく宗耽史上に再び反復(くりかへ)される事のあるまじき現象で、ヘツケルに依つて傳染的と宣やられた情緖的活動の珍らしい形式に似寄つて居る。(ヘツケルの「中世の傳染病」を見よ)古ジエシユイト敎徒は近代の傳道會社よりも遙かによく日本人の深い情緖的性質を了解して居た。そして彼等は驚くべき鋭敏さを以つて、種族的生活のあらゆる源泉を硏究し、それか利用することを知つて居た。彼等でさへ失敗した處に現代の福音宣傳者が成功を望むのは無用である。ジエシユイト傳道の最盛時に於てさへ、たつた六十萬人の信者を有したと稱するに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「グリツフイス」ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis 一八四三年~一九二八年)のことであろう。アメリカペンシルベニア州フィラデルフィア出身の理科教師・牧師・日本学者・東洋学者で、ニュージャージー州のオランダ改革派教会系の大学ラトガース大学を卒業したが、同大学で同時期に福井藩から留学していた福井藩士日下部太郎(弘化二(一八四五)年~一八七〇年五月十三日(明治三年四月十三日):卒業二ヶ月前に結核で現地にて急逝)と出会って親交を結び、その縁で来日し、藩主松平春嶽の招きで福井藩藩校であった藩校明新館に化学・物理の教師として赴任した。明治四年七月に「廃藩置県」によって十ヶ月滞在した福井藩が無くなったが、翌年、フルベッキや由利公正らの要請により、大学南校(東京大学の前身)に移り、明治七(一八七四)年七月まで物理・化学及び精神科学などを教えた。明治八(一八七五)年の帰国後は牧師となったが、一方でアメリカ社会に日本を紹介する文筆や講演活動を続け、一八七六年には“The Mikado's Empire”を刊行している(構成は第一部は日本通史、第二部が滞在記)。以上はウィキの「ウィリアム・グリフィス」に拠った)。彼が「十六世紀に於けるジエシユイト傳道の大なる成功は、半ば羅馬舊敎の外形と佛敎の外形とが相似て居るに依ると說明して居る」のが如何なる書かは不詳。

「アーネスト・サトウ」イギリスの外交官でイギリスに於ける日本学の基礎を築いたアーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow  一八四三年~一九二九年)。イギリス公使館の通訳・駐日公使・駐清公使を務めた。日本名を「佐藤愛之助」又は「薩道愛之助」と称した。初期の日本滞在は一時帰国を考慮しなければ実に一八六二年から文久二(一八八三)年に及び、後の駐日公使としての明治二八(一八九五)年から明治三〇(一八九七)年を併せると、延べ二十五年間になる。詳細は参照したウィキの「アーネスト・サトウ」を参照されたい。

『山口の領主大内氏が傳道師に與へた「佛法の說敎」を許すといふ免許狀』「大内氏」は大内義隆と、最後の大内義長(義隆の討ち死にした後に、元大内氏に家臣で討った側の陶晴賢(すえのはるかた)が大友義鎮(よししげ=大友宗麟)の弟を迎え、かく名乗らせて大内家を継がせた)を指す。小泉八雲の遺作となってしまった小泉八雲「日本――一つの試論」(原題“Japan: An Attempt at Interpretation”)の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(61) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅵ)」には後者が発布した免許状が画像で載る。本文も参照されたい。

「シヤールポア」フランス人のイエズス会宣教師ピエール・フランシス・エグゼヴィア・ド・シャルルヴォア(Pierre Francois Xavier de Charlevoix 一六八二年~一七六一年)。一七三六年(本邦では享保二一・元文元年相当)に刊行した「日本の歴史と概説」(“Histoire et description generale du Japon”)が知られる。「国際交流基金情報センターライブラリー」のこちら(PDF)の同書の解説によれば、『シャルルヴォアが布教活動を行った場所は新大陸で、彼自身が日本に来たことはないが、日本への布教に関心が高く、本書以外にも日本のキリスト教史の本も出版している』。『出版に際しては、鎖国以前に書かれた書物や鎖国後に来日したオランダ人を介して知った知識や情報をもとに、文献をまとめて刊行したものと思われ、誤りが多いとの指摘もあるが、当時のヨーロッパ人の日本観に与えた影響は大きい』とある。

「ヘツケル」ドイツの医師で医学史の大家ユストゥス・フリードリッヒ・カール・ヘッカー(Justus Friedrich Karl Hecker 一七九五年~一八五〇年)。「中世の傳染病」(原題は“Die großen Volkskrankheiten des Mittelalters.”)一八六五年に刊行した論文。英訳全文“THE EPIDEMICS OF THE MIDDLE AGES.(「中世の疫学」)がこちらで読める。ハーンの引用箇所は、恐らく八度使用されている“contagious”の最後の八番目、「Ⅴ」のパート内のそこである。]

 

 併し其後世界は變化した、基督敎も變化した。そして三十餘の異れる基敎[やぶちゃん注:短縮表記はママ。]の宗派が、日本改宗の名譽を贏ち得る[やぶちゃん注:「かちえる」。「勝ち得る」に同じい。]に汲々した。正統不正統の重なる[やぶちゃん注:「おもなる」。]異說を代表する、此等多數の敎條(ドグマ)の中から、日本は確に己が好むままの形の基督敎を選み得たのだ。そして國内の事情も西敎の輸入には何時の代よも都合よかつたのだ。社會の全組織が一時中心まで崩壞した。佛敎は國敎たる保護を解かれて、よろめき出した。神道も持ち堪(こた)へはむつかしさうに見えた。大武士階級は廃棄せられた。統治の組織は一變せられた。地方は戰爭に依つて震駭せしめられた。數百年間帷幄の後ろに在しり帝(みかど)は、突然前に現はれ出でて臣民を驚かした。騷然たる新思想の潮は、あらゆる国風を一掃し、あらゆる信仰を破碎せんと威嚇した。そして基督敎の國禁は再び法律に依つて解除された。事は之に留まらなかつた。政府は社會再建の大努力の時に當つて、基督敎の問題を實地に硏究した――丁度外國の敎育、陸海軍の制度を硏究したと同樣に、敏活に虛心坦懷に硏究した。委員を設けて外國に於ける罪惡、不德の防止に鬪する基督敎の勢力を調査せしめた。但し結果は、十七世紀に於ける、蘭人ケンぺルが日本人の道德に就て下した、公平な判斷を裏書するに過ぎなかつた。『彼等は彼等の神に大なる尊崇の念を表し、樣々の方法にて崇拜す。予は思ふ行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]の正しきことに於て、生活の淸きことに於て、而して表面に現はれたる信心深さに於て、彼等は遙かに基督敎徒を凌駕すと附言するを得と』手短に云ふと、彼等は賢明にも、基督敎は、東洋の社會情態に不適切のみならず、西洋に於ても、倫理的勢力としては、佛敎が東洋に於けるよりも有效ならずと斷定した。慥に『人はその父母を離れ其妻に合ふ』べしといふ敎へを採用することは相互救濟の精神の上に立てる、家長本位の家族的社會には、國家経營の大柔術に於て失ふ所多くして得る所少かるべきは、明らかである。

[やぶちゃん注:「蘭人ケンぺル」エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kämpfer一六五一年~一七一六年:現代ドイツ語読みの音写では「エンゲルベアト・ケンプファー」が近い)はドイツ北部レムゴー出身の医師で博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した「日本誌」の原著者として知られる。出島の三学者の一人であるが、戸澤氏はこんな変なところでいらぬサーヴィスをして間違えている。彼はオランダ人ではないウィキの「エンゲルベルト・ケンペル」によれば、『オランダ東インド会社の船医として勤務し』、『その後、東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりを感じていた時に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった。こうしてケンペルはシャム(タイ)を経由して日本に渡』り、元禄三(一六九〇)年に『オランダ商館付の医師として、約』二『年間出島に滞在した』。元禄四年と翌五年には『連続して、江戸参府を経験し』、将軍『徳川綱吉にも謁見した。滞日中、オランダ語通訳・今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した』。彼の没後十一年目の一七二七年に、その遺稿が英訳され、ロンドンで“The History of Japan”として出版された、とある。なお、“Internet Archive”のこちらで当該英訳書(全三巻)を縦覧し、幾つかのフレーズで調べてみたが、ハーンの引用符に相当する一節は見出し得なかった。或いは、ハーンが内容を纏めたものかも知れない。]

 

註 近頃佛國の一批評家は、日本に於て慈善事業や慈善的設備の比較的少きは此人種が人道に缺くる所あるを證するものと斷言した。併し事實は舊日本に於ては相互扶助の精神が、かゝる設備を不必要のものと爲したのである。又西洋に於てかゝる設備の數多きことは、我等の文明が慈悲心よりも寧ろ不人情に富めることを證明するといふのも事實である。

[やぶちゃん注:「佛國の一批評家」不詳。]

 

 敕令に依つて日本を基督敎國とする望みは全く絕えた。社會の建て直しで、基督敎をどんな手段ででも國敎としようとする橋運も段々減少した。今後暫くの間は、多分宣敎師も、彼等の職務以外の事に立ち入るにも拘らず、大目に見られるに相違ない。併し彼等は何等の善事をも成就すまい。そして其間に彼等が利用せんと欲する者に却つて利用せられるだらう。一八九四年[やぶちゃん注:明治二十七年。]には、日本に新敎約八百人、ローマン・カソリツク九十二人、グリーク。カソリツク[やぶちゃん注:“Greek Catholic”。ギリシャ正教会(東方正教会)。]三人の宣敎師が居た。然らば日本に於ける凡ての外人宣敎師の費やす總費用は一年一百萬弗[やぶちゃん注:為替レートは明治二三(一八九五)年で一・一九円、明治二十八年で一・九八円であった。中をとって一・五円として百五十万円、後になるが、明治三十年代の一円は現在の二万円という換算に従えば、三百億円にもなる。]以下ではあるまい――恐らくは以上であらう。此大支出の結果として、新敎の諸派は五萬の信者を得、兩カソリツクも略〻同數を得たと稱する――但し三千九百九十萬の不信者を殘してである。宣敎師の報告は嚴密に批評せぬのが風習になつて居るが實は惡るい風習だ。其風習に背いて自分は露骨に云ふが、以上の數字でさへ全く當てにはならぬ。ローマン・カソリツクの宣敎師は、遙かに小なる資金で、彼等の競爭者と同じ程の功續を擧げたと稱するのは注目に値ひする。そして彼等の敵さへも其功績の確實さを承認するのであるが、彼等は先づ小兒の敎化より始めるのは確に合理的だ。併し宣敎師の報告に全く疑を懷かぬ譯には行かぬ。それは最下級の日本人の中には、金錢の補助若しくは職業を得る爲めに改宗を誓ふことを辭せぬ者が澤山あるのを知つてる[やぶちゃん注:ママ。]からである。又貧少年の中には外國語の敎授を受ける爲めに信者を氣取る者もある。又一時信者となつた上で、公然彼等の舊來の神々に復歸する靑年のある事も絕えず聞く所である。又洪水、飢饉、地震などの時、宣敎師が外國よりの寄贈品を分配したと思ふと、直に多數の改宗者を得た報告がある、それを見ると改宗者の誠意が疑はる〻のみならず、傳道者の道義心をも疑はざるを得ぬ。とはいへ日本に一年一百萬弗の割で百年間振り撒いたら大なる結果が得らる〻であらう。但し其結果の品質は想像するに難くないが、感服は出來ぬであらう。そして土着の宗敎は自衞の爲めの敎化力も資金も共に微弱なのであるから、其點大いに他の侵蝕を誘發する。幸[やぶちゃん注:「さひはひ」。]今や帝國政府は敎育上佛敎を補助せんとするの樣子が見えるが全くの空賴みでもあるまい。一方基督敎國は遠からず其尤も富める傳道會社も大きな相互扶助會社と變形しつつあることを認めるだらうといふ、少くとも微かな可能性がある。

 

       

 日本は、明治の年代が始まると間もなく、内地を外國の工業的企業に開放するであらうとの說は、基督敎に改宗するであらうとの夢と同樣に、はかなく消えて了つた。日本は事實上外人の移住に閉鎖されたままであつた、今でも閉鎖されて居る。政府自らは保守的政策を固守せんとはせず、條約を改正して日本を大規模な外資輸入の新市場たらしめようと種々に畫策した。併し結果は國民の進路は政道に依つてのみ左右せらるべきでない、それよりも誤謬に陷り易からざる或る物――卽ち民族本能に依つて指導せらる〻ものであることを證明した。

 世界最大の一哲學者は、一八六七年(慶應三年)に書いた著書の中でこんな判斷を下した。『其型式の極限まで發展し盡くし、均衡不安定の域に達した社會に、崩壞の始まる方式の好例は日本に依つて供給された。人民が經濟組織して仕上げた建物は、新たな外力に觸れざりし限りは殆ど不變不動の狀態を維持した。併し歐洲文明の衝擊を受くるや否や――一部は武力的侵入の、一部は商業的動機の、又一部は思想的感化の衝擊を受くるや否や此建物はばらばらに崩れ始めた。今は政治的崩壞が進行中である。多分間もなく政治的再建が起こるであらう。併し、それはどうあらうと、外力に依つてこれまで惹起された變化は崩壞への變化である――作成運動から破壞運動への變化である』スペンサー氏の所謂政治的再建は速に起こつたのみならず、其作成的進行が甚だしく又突然に妨害せられざる限り、望ましき限りの建て直しなることは殆ど確實と思はれた。併しそれが條約改正に依つて妨害せられるかどうかは甚だ疑はしい問題のやうに思はれた。或る日本の政治家は、外人の内地雜居の爲めに凡ての障害を除かうと熱心に運動したが、或る者は之に反して内地雜居は、未だ安定せぬ社會組織の中へ攪亂的分子を輸入するもので、新たな崩壞を來たすこと請合であると感じた。前者の趣旨は現條約を愼重に改正して雜居を許せば、帝國の收入は增加するに相違なく、而かも入り込み來る外人の數は極めて少數であらうといふにあつた。併し保守的思想家は、國を外人に開放する其の危險は外にある、多數流入の危險ではないと考へた。そして此點に於て種族本能は之に唱和した。それはただ漠然と危險を感知したのであるが、たしかに眞理に觸れて居た。

 

註 スペンサー著「第一原理」第二版一七八節。

[やぶちゃん注:以上はハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)の“First Principles”(一八六七年・第二版)の“CHAPTER XXIII.: DISSOLUTION.”(「第三十三章 崩壊」のここ(“Internet Archive”の画像。左ページの下から七行目から)。]

 

 其眞理には二側面がある、其一側面は西洋側ので、亞米利加人には能く知られて居る筈だ。西洋入は平等の勝負では、どうしても生存競爭に於て、東洋人に叶はぬ事を知つた。彼は濠洲に於て込合衆國に於ても、東洋人の移住を防止する法律を通過する事に依りて此事實を十分に白狀した。それにも拘らず支那日本の移住民へ加へた侮辱に對して、莫迦らしい多くの道義的理由を述べ立てた。併し其の理由はただつぎの數語に盡きる。――『東洋人は西洋人よりも安價に生活し得る』然るに日本に於ける、他の一側面の理由はかういふ風に述べる事が出來る――『西洋人は或る都合よき條件の下に、東洋人を壓倒する事が出來る』都合よき條件の一は氣候の溫和な事である。も一つの[やぶちゃん注:ママ。]條件はそれよりも重要な條件で、西洋人は競爭の權利を悉く具備する上に、攻勢を取る力を有するといふことである。彼は其力を用ふる積りであるかどうかといふ事は常識的論點でない。彼はそれを用ふることが出來るかどうかが其の論點だ。用ふることが出來るとなると、彼が將來の攻略的方針の性質は、工業的か、財政的か、政治的か、或は三者を打つて一丸となしたものか、などと云ふ議論は全く時間の浪費であるだらう。西洋人は、結局反對者を粉碎し、資本の大合同に依つて競爭を麻痺せしめ、富源を專有し、生活の標準を土着の人民の力以上に高める事に依つて、日本民族を押し除け、己れ之に取つて代はらぬまでも、之を勝手に統御するの手段方法を見出すに至るかも知れぬといふ事を知れば十分である。アングロ・サクソン[やぶちゃん注:“Anglo-Saxon”。五世紀頃、民族大移動でドイツの北西部からブリテン島に移住したアングル人とサクソン人の総称。現在の英国民の根幹を成す。]の統治下に、幾多の劣弱な民族が或は滅び或は亡びつつある處もあるのである。日本の樣な貧乏な國に於ては、外資の輸入だけでも、國家の危險を生み出さぬと誰れが保證し得ようか。勿論日本は西洋の一强國に依つて征服せられるのを恐れるには及ばない。如何なる一外國に對してでも、本土に依つて、己れを守る事は出來る。又强固の聯合軍の侵入の危險に面する事もあるまい。西洋諸國間の嫉妬は、土地攻略の目的でばかりの侵掠を不可能ならしむるであらう。併し餘り早く内地を西洋人の移住に開放した爲めに、布哇(ハワイ)の運命に陷ることなきやといふ事だ土地は外國人の所有に歸し、政治は外國人の勢力に依つて按排せられ、獨立は有名無實となり、祖先の領土は遂に、一種の混合民族より成る、工業的共和國と變形せられはせねかといふことは日本の恐る〻所で、これは尤もの事である。

 

註 こゝに東洋人といふのは勿論日本人の事である。西洋人が支那人に打ち勝たうとは、數の上の不權衡[やぶちゃん注:「ふけんかう(ふけんこう)」。「不均衡」に同じい。]がどれ程であらうと、自分には信ぜられぬ。日本人でも支那人と競爭する事の出來ぬのを認めて居る。無條件の内地雜居に反對する最上の諭據の一は支那移住民の危險なる事である。

 

 

 以上は日支戰爭の起こる前迄、兩派に別かれて猛烈に諭諍された諭旨であつた。其間政府は困難な協議に時を移した。反動的國粹論を排して國を開放するのは非常に危險だ、併し開放せずして條約を改正するのは不可能に思はれた。西洋諸强國の日本に對する壓迫は、彼等の敵意ある聯合が、外交に依り若しくは兵力に依つて妨げられざる限り、繼續することは明らかであつた。此窮境を救つたのは靑木の敏腕に依つて爲された英國との新條約であつた。此條約に依れば國は開放せられる。併し英國人は土地を所有する事が出來ぬ。借るにしても、日本の法律に從へば、賃貸人の死亡と共に消滅する賃貸期間だけ土地を保有する事が出來るのである。沿岸航海は彼等に許されぬ――舊來の開港場にまでさへである。