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2020/01/19

ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:すでに本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」では来日後の全作品集の旧和訳の電子化注を完遂しているが、今回は私の怪奇談蒐集趣味から、来日前にラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題“SOME CHINESE GHOSTS”。「幾つかの中国の幽霊たち」)の電子化注に入ることとする。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。作品本篇「大鐘の靈」の原題は“THE SOUL OF THE GREAT BELL”(「大梵鐘の霊魂」)である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した。前の内扉の表紙には「龍圖公案」の文字が装飾のように記されてある。これは「りゅうとこうあん」と読み、明代の通俗小説の題名である。全十巻で作者未詳。北宋の名裁判官とされる龍図閣学士包拯(ほうじよう)を主人公とした裁判判例の形をとった小説集で、知られた同系の「棠陰比事(とういんひじ)」とともに日本に伝わって「大岡政談」物の成立に影響した。但し、で本書が同書を原拠としているかというとそうではない。さすればこそ、私は装飾と言ったのである。何かで同書名を見、この文字の様子をハーンは単にデザインとして直感的に気に入ったことからここに配したものかと思うのである(ハーンが選んだのかどうかは推測である。編集者が勝手に選んだ可能性もある)。しかし、「富山大学ヘルン文庫所蔵小泉八雲(ラフカディオ・ハーン[やぶちゃん注:これは「小泉八雲」にルビのように配されてある。])関係文献目録」の本作品集の書誌では、これについて――タイトル・ページに『「龍公図案」の印刷あり』――と解説するのであるが、私は、普通、そのような向きでこの四字文字群を判読はしないと考えるし、中国人も書きもしないだろうと思う。「龍公図案」という文字列の意味するところも私には半可通である。「龍顔」など「龍」は皇帝を意味するが、それにわざわざ「公」はまず附さないし、幻聖獸である龍を尊称で、その図案集というのもあってもおかしくはない。この「龍公図案」で正しいとされ、それが何を指すのかが判る方は御教授願えれば幸いである)で全篇視認出来る(本篇はここから。別な中国人のイラスト(左)と標題(右)ページで示した)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で、郷里島根県の松江中学及び後に進学した東京帝国大学に於いて、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)/小泉八雲(帰化と改名は満四十五歳の明治二九(一八九六)年二月十日。但し、著作では帰化後も一貫して Lafcadio Hearn と署名している)に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は第六高等学校、学習院教授を勤めた。謂わば、小泉八雲の直弟子の一人である。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。「!」の後には字空けはないが、一部で特異的に挿入した。傍点「ヽ」は太字に代えた。本作品集では行空けが有意に広い箇所(二行空け)があり、それは再現してある。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名か、或いは別名か、はたまた話柄の中の当該パートの中の象徴的対応文字列かとも思しい怪しい漢字文字列が掲げられてある。これはやはり漢字をあまり理解していない人物(ハーン自身かも知れない。書き順や画数及び正確な楷書単漢字をよく理解していないのではないかと疑われる部分が見受けられる)によって、ものによってはかなりデフォルメされてあるもので、本篇の「投罏成金」などは、まあ、穏当な字体ながら、ひどく小さく、「罏」の文字がやや窮屈に反り気味なっている。しかし、ともかくもそれを作者ハーンは面白おかしく思ってかくも各所に配したのであろうからして、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。以下でも同様に示すこととする。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。なお、註番号は全体に通し番号で振られてある(実際の原本ではこの注群は巻末の“GLOSSARY”(「用語集」)にあり、その数は膨大で、落合氏が引いたのはそのごく僅かな部分に過ぎない。則ち、原本は注形式ではなく最後に纏められている「用語集」として一括して載り、本文にはそれに対応する注記号は存在しない点は原本を読まれる際には注意が必要である。

 

 

  支 那 怪 談

 

     この書を

    私の友なる

     音樂家――

   黃金色の皮膚を有する漂泊の淸人に旋律の言葉を語り、

   彼等を感動させて、蛇皮の腹を有し、奇異の音を發する三絃を奏せしめ、

   彼等に勸めて、私のために叫音を發する月琴を奏せしめ、

   彼等を誘つて、その故國の素馨花の歌はしめたる――

   ヘンリー・エドワード・クレービールに捧ぐ。

[やぶちゃん注:ポイントに変化があるのは底本のママ原本では献辞者の名が頭に置かれている。

「ヘンリー・エドワード・クレービール」アメリカの音楽評論家から音楽学者となったヘンリー・エドワード・クレービール(或いはクレイビール)(Henry Edward Krehbiel 一八五四年~一九二三年:ハーンより四歳年下)。彼の英文ウィキはこちらであるが、あんじぇりか氏の『「怪談」をあらわした日本研究家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)について歴女が解説』の中に、二十二『歳の時にシンシナティ・エンクワイアラー社主筆に文才を認められて、』一八七四年二十四歳の時、同社の『正式社員』となり、『挿絵画家ファーニーとともに週刊誌「イ・ジグランプス」を創刊し、皮革製造所で起きた惨忍な殺人事件のルポを書き、事件記者』ともなった。『また、同じ記者仲間のヘンリー・クレビールとの親交を深め』、二十五『歳で下宿の料理人アリシア・フォリーと結婚するも、当時は異人種間の結婚が違法だった』ことから、『エンクワイアラー社を』退職し(引用元は『解雇』とあるが、諸年譜では解雇とはなっていないので訂した)、『シンシナティ・コマーシャル社に転職』したとある。銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)では、その殺人事件の条である一八七四年十一月七日(土曜)に『「タン・ヤード事件」起こる。ハーマン・シリングという男が殺され、または生きたまま炉で焼かれたという事件で』、三人の人物が『殺人容疑で逮捕された。友人クレイビールとともに現場へ駆けつけたハーンの記事は、その恐るべき事件の詳細を描ききって、センセーションをまき起こし、記者としての名を確立する』と、ここにハーンの友人として彼クレイビールが登場している。当時の彼は未だ弱冠二十であった彼の英文ウィキに戻って見てみると、まさにこの一八七四年に同じシンシナティの『シンシナティ・ガゼット』紙の音楽批評担当に就いている(一八八〇年十一月まで)ことから、社は異なるが、まさに若き記者仲間同士であったということが確認出来るのである。しかも本書の刊行(一八八七年)はこの年からは十三年も後のことで、ハーンもシンシナティを離れて、ニューオリンズにいた(クレイビールはその後『ニュー・ヨーク・トリビューン』の音楽担当編集者となっている)。しかも本書を彼に詩篇を添えて献呈するということは、その間も彼との音信は途絶えていなかったのであろう。

「三弦」原文“SAN-HIEN”。中国の伝統楽器である三弦(現代中国語カタカナ音写:サンシエン)。歌の伴奏楽器として人気があった。沖縄を経て日本の三味線となったルーツ。

「月琴」“YA-HIEN” 月琴(同然:ュエチィン)は同じく中国の伝統楽器。満月のような円形の共鳴胴に短い首(琴杵)を持つ。

「素馨花」(そけいくわ)。“JASMINE-FLOWER” 。シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ属ソケイ Jasminum grandiflorum。インドやパキスタンの高原地帯が原産で。古くから薬として使われ、花は女性の髪飾りとされる。花から採れる香油を「ジャスミン」といい、香料として使用される。]

 

 

   

 

 本書が微々たる一小卷たるに過ぎないことの最も有力なる辯解は、全く内容を成す材料の性質そのものが示してゐると、私は考へる。優等の傳說を蒐集するに當つて、私は特に怪異なる美を求めた。して私はサー・ウォーター・スコットの『古代歌謠の模倣に關する論』に於ける、左の卓見を忘れることは出來なかつた。『超自然怪異といふものは、人類間に頗る廣く且つ深く蒔きつけられたる、或る强い感情に訴へるものではあるが、しかし强ひてあまりに壓力を加へると、殊の外その彈力を失ひ易き一個の彈機のやうなものである』

 支那文學全般に亙つて通曉せんと欲する人々は、デュリアン、パヴィー、レミュザ、ド・ロスニー、シュレーゲル、レッグ、エルヴェ・サン・ドニー、ヰリヤムズ、ビオー、ヂヤイルズ、ワイリー、ビールの如き語學者、並びにその他幾支那學者の業績によつて、道を開かれてゐる。發見と征服の權利上、實際、中華國の物語の領域は、か〻る探檢家のものである。しかし彼等の跡を慕つて支那人の廣大神祕なる空想の樂園に遊ぶ些やかな[やぶちゃん注:「ささやかな」。]旅人は、そこに生えてゐる、幾つかの不思議な花――發光性の花、黑百合、一つ二つの燐のさうな薔薇――を、彼の奇異なる旅行の土產として、摘み取つてよろしいだらう。

 一八八六年三月十五日ニユー・オーリアンズにて

           ラフカヂオ・へルン

[やぶちゃん注:原本の「序」の前のページには「華」の漢字がやはりアクセント・デザインのように記されてある。最後のクレジットと場所・署名は上に引き上げた。

「サー・ウォーター・スコット」スコットランドの詩人・小説家ウォルター・スコット(Walter Scott 一七七一年~一八三二年)はロマン主義作家として歴史小説で名声を博し、イギリスの作家としては、存命中に国外でも成功を収めた最初の人気作家とされる。「古代歌謠の模倣に關する論」(“Essay on Imitations of the Ancient Ballad”)は一八三〇年のエッセイ。こちらで英文で全文が読めるが、ハーンの引用は注ナンバー78のあるところから三行上の部分から始まる。最後だけ、原文では“pressed upon.”ではなく、“pressed on,”となっている。

「彈機」(だんき)。原文は“spring”。「発条(バネ)」のこと。

「デュリアン」原文“Julien”。フランスの東洋学者で十九世紀フランスの代表的な中国学者として知られるエニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)。ウィキの「エニャン=スタニスラス・ジュリアン」を参照されたい。

「パヴィー」“Pavie”。フランスの旅行家・作家・東洋学者であったセオドア・マリーパヴィー(Théodore Marie Pavie 一八一一年~一八九六年)。九言語(中国語・満州語・ヘブライ語・アラビア語・ヒンドゥー語を含む)を用いることが出来た。「三国志」(一八四五年~一八五一年)のフランス語訳もある(彼のフランス語ウィキに拠る)。

「レミュザ」“Rémusat”。フランスの中国学者ジャン=ピエール・アベル=レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat 一七八八年~一八三二年)。ウィキの「ジャン=ピエール・アベル=レミュザ」によれば、『コレージュ・ド・フランス』(フランスに於ける学問・教育の頂点に位置する国立特別高等教育機関(グランテタブリスマン))『の初代中国学教授で』、『西洋の中国学の草分け。レミュザ以前にも』『中国を研究した学者はいたが、中国研究を専門とし、中国学教授をつとめたのはレミュザにはじまる』とある。パリに流行したコレラで若くして亡くなった。

「ド・ロスニー」“De Rosny”。フランスの日本学者・東洋学者であったレオン=ルイス=ルシィアン・プリュネル・ド・ロニー(Léon-Louis-Lucien Prunel de Rosny 一八三七年~一九一四年)。当時、フランスに於ける日本研究の第一人者であったが、生涯一度も日本を訪れることはなかった。詳しくは参照したウィキの「レオン・ド・ロニー」を見られたい。

「シュレーゲル」“Schlegel”。オランダの東洋学者・博物学者であったグスタフ・シュレーゲル(Gustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年:オランダ語音写では姓は「スフレーヘル」とも表記される)。ライデン大学中国語中国文学講座の初代教授。著書に「中国星辰考」などがある。一八九〇年にはフランスの中国学者・東洋学者アンリ・コルディエ(Henri Cordier 一八四九年~一九二五年)とともに歴史的に知られることになる中国学雑誌『通報』を創刊している。詳しくはウィキの「グスタフ・シュレーゲル」やそのリンク先を見られたい。

「レッグ」“Legge”。スコットランド出身のロンドン伝道協会の宣教師で、中国学者でもあったジェームズ・レッグ(James Legge 一八一五年~一八九七年)。四書五経を始めとして儒教や道教の古典を英訳した。中国名は理雅各(ウィキの「ジェームズ・レッグ」に拠る)。

「エルヴェ・サン・ドニー」“Hervey-Saint-Denys”。フランスの中国学者マリー=ジャン=レオン・マーキュ・デ・エルヴェイ・ド・サンドニ(Marie-Jean-Léon Marquis d'Hervey de Saint Denys  一七八〇年~一八四四年)。中国名「德理文」を持ち、特に唐詩を西洋に紹介した一人として知られる(彼の英文ウィキに拠った)。

「ヰリヤムズ」“Williams”。アメリカの外交官・宣教師で、言語学者・中国学者でもあったサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams  一八一二年~一八八四年)のことか。中国名は衛三畏。

「ビオー」“Biot”。フランスの、建築技師であると同時に中国学者でもあったエドルアール・コンスタン・ビオ(Édouard Constant Biot 一八〇三年~一八五〇年)。「周礼(しゅうらい)」フランス語全訳で知られる。

「ヂヤイルズ」“Giles”。イギリスの外交官で中国学者のハーバート・アレン・ジャイルズ(Herbert Allen Giles 一八四五年~一九三五年)。「華英辞書」の編纂によって特に知られ、「聊斎志異」や「荘子」などの英訳もしている。中国名は翟理斯。

「ワイリー」“Wylie”。イギリスのプロテスタントのキリスト教宣教師アレクサンダー・ワイリー(Alexander Wylie 一八一五年~一八八七年)か。中国伝道の過程の中で多くの中国研究や中国文学の研究を成した。中国名は偉烈亞力。英文ウィキの彼の記載はこちら

「ビール」“Beal”。イギリスの宣教師で中国仏教学者サミュエル・ビール(Samuel Beal 一八二五年~一八八九年)。ケンブリッジ大学を出、海軍布教師となり、中国に渡って、特に宗教について研究した。中国仏教研究の開拓者である。帰国後、ロンドン大学教授となった。著書に「漢訳仏典精要」他がある。

「一八八六年三月十五日ニユー・オーリアンズにて」明治十九年に当たる。当時、ハーンはニューオーリンズのタイムズ・デモクラット社(Times Democrat)の文芸部長(一八八一年から。主に日曜版を中心に記者として執筆した)であった。]

 

 

  大 鐘 の 靈

[やぶちゃん注:実は原文を見ると、標題の前ページに、

   She hath spoken, and her words still resound in his ears.

        HAO-KHIEOU-TCHOUAN: c. ix.

とあるが、落合氏はそれをカットしてしまっている。平井呈一氏の恒文社版の小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「大鐘の霊」では、

   《引用開始》

 嬌語ナホ耳朶ニアリ。――好逑伝 第九章

   《引用終了》

とする(但し、標題の後に配されてある)。「好逑伝」(こうきゅうでん)は清初の小説で「侠義風月伝」とも称する、全四巻十八回からなる当時の白話(口語)小説で、作者は「名教中人」とするが、事蹟は未詳。題名は「詩経」の「周南」の「関雎(かんしょ)」の「窈窕(えうてう)たる淑女は 君子の好逑(つれあひ)」に拠り、鉄中玉(てつちゅうぎょく)が悪人との葛藤の後に天子の仲介によって水氷心(すいひょうしん)と目出度く結ばれるという典型的な才子佳人小説。婦人の貞節を強調する儒教臭の強い作品であるが、類型化されたこの種の作品のなかでは人物の描写や構成に優れており、十八世紀半ば以来、英語・フランス語・ドイツ語等で十数種もの翻訳があり、ヨーロッパでは広く知られた作品であった(小学館「日本大百科全書」に拠る)。思うに、「中國哲學書電子化計劃」の同作の「第九囘虛捏鬼哄佳人徒使佳人噴飯」の二十二節の「言過還在耳、事棄尚驚心」の前半と思われる。「嬌語」は艶めかしく誘う女の言葉の謂いである。落合氏がカットしたのは、全体の添え字として相応しくないと思ったからか? にしても不当行為である。

 

 漏刻計が大鐘塔註一で時を示すと、木槌は金屬製怪物の緣を打たうとして扛げられる[やぶちゃん注:「あげられる」。]――巨鐘の緣には尊い佛敎の經文から取つた文句が彫つてある。巨鐘の響く音を聞け! 舌はなくても、その聲の太いこと!――KO-NGAIと響く。その深い音波の下に、綠色の屋根の、高く灣曲せる檐[やぶちゃん注:「ひさし/のき」。]に刻まれた、あらゆる小さな龍は、その黃金色の尾の尖端に至るまで振動する。あらゆる陶器製の樋嘴[やぶちゃん注:「ひはし」。]は、その彫り込んである場所で慄へる。堂塔のあらゆる小さな鈴も語り出さうと欲して戰く[やぶちゃん注:「をののく」、]。KO-NGAI! と寺院のあらゆる靑黃色の瓦は振動する。瓦の上の木製の金魚は空高く踠く[やぶちゃん注:「もがく」。]。佛陀の天上を示せる指は、香煙の靑霧裡に、參詣者の頭上に搖れる。KO-NGAI! と。いかにも雷の如き音だ。宮殿の蛇腹に刻まれた漆塗りの怪物は、悉くその火の色の舌とうごめかす。して、大きな激動の後に起こる無數の反響と、

[やぶちゃん注:「漏刻計」水時のこと。容器に水が流入(流出)するようにして、その水面の高さの変化で時を計るもので、中国では古代からあった。

KO-NAGAI」原文では“KO-NAGAI”と斜体(以下、注しないが、中国音らしきラテン文字表記は総て斜体である)。平井氏は先に挙げた恒文社版で、この「KO-NGAI!」を『珂愛(おんない)!』と、以下も総て、かく訳しておられる。ここではネタバレになるので注しないが、この文字の意味は後で判る。これは本底本の落合氏の「あとがき」の「支那怪談」によれば、自分(落合氏)には中国語の知識が全くないため、このラテン文字表記された中国語を何とか漢字表記に換えようとして、日本の『專門の諸人を煩はし、中華民國靑年會の人々に質ね、支那留学生に問ひ、苦心と奔走を重ねたのであるが、得る處は甚だ乏しかった』とされつつ、『それもその筈、本書は半世紀前の』フランスの『支那學先輩の著譯に據つたので』あって、フランスの『學者は南淸の無敎育者の口から耳にしたま〻の發音を』、フランス『語の綴りにて表現』したものが『多く、『北京官話を學べる邦人には解し難』いだけでなく、これは中国語の激しい変異を持つ地方語に精通している中国人にさえも、実は『見當がつかない』異様な『譯である』と、原表記をそのまま用いたことについての弁解をされていることで、一応は氷解する。

「樋嘴」原文“gargoyles”。「ガーゴイル」は建築用語で、西洋建築の軒先などに壁面から突出して附けられた雨水の排水口を指す。中世以降は非実用として装飾的に作られる場合が多く、特に垂直性を強調するゴシック建築では、通常、ハイブリッドの幼獣キマイラの形をしており、上部に装着された。パリのノートル・ダム大聖堂の怪獣形のものがその典型である。ここは中国の古建築の屋根の端に見られる神獣像をかく言ったもの。]

 

註一 ‘Ta-chung sz’。文字通りには、『鐘の寺』。この建物は北京にあつて、恐らくは世界一の懸鐘を蔽ふてゐる。鐘は西曆一四〇六年、明の永樂皇帝の時代に鑄られ、十二萬斤以上の重さを有する。

[やぶちゃん注:「十二萬斤」一斤(きん)は現代日本では六百グラムであるから、七十二トン(現代中国では一斤五百グラムなので、六十トン。因みに本篇原話の書かれた清代、及び話柄内時制の明代のそれは孰れも約五百九十七グラムである)。ここに出るのは現在、「北京大鐘寺古鐘博物館」(覚生寺)(グーグル・マップ・データ)として整備されている旧大鐘寺の「永楽大鐘」は、現在は明の永楽一八(一四二〇)年前後に製造されたとされ、重さ四十六・五トン、最大直径四メートル(平均で三・三メートル)、縁部分の厚さが二十二センチメートルである。鐘には経文と呪文が漢字と梵字がみっちりと鋳込まれてあり、その総字数は実に二十三万字以上という。以上の数値は(株)カリヨン・センター制作のサイト「鐘(ベル)&カリヨン Bell & Carillon」のこちらに拠った。そこでは大鐘の写真も見られる。落合氏の鐘の重量はちょっと誇大に過ぎるように見えるが、どうもこれは落合氏が一般読者に判り易い「食パンの一斤」で換算したせいかも知れない。現代の食パンの一斤は三百五十から四百グラムとされるから、四十二から四十八トンとなって、現在の永楽大鐘の公式重量の範囲内に入るからである。

「永樂皇帝」(一三六〇年~一四二四年:在位/一四〇二年~一四二四年)明の第三代皇帝。姓は朱。ウィキの「永楽帝」によれば、『明の最大版図を築き、鄭和』(ていわ)に南海への七度に亙る大航海をさせる『などの事業を起こ』し、『気宇壮大な人であった。洪武帝とともに明の基礎を固めたのは永楽帝であると言える。しかし、宦官を重要な地位につけてはならぬという洪武帝の遺訓に反し』、『宦官を重用した。これは、皇位簒奪』(彼は甥である第二代皇帝建文帝を倒して帝位についた(靖難(せいなん)の変))『という負い目もあって』、『官人との間に信頼関係を築けず、また靖難の変の際に建文帝の朝廷で待遇の悪かった宦官を利用したことによる。永楽帝の治世に限って宦官の起用は成功であったろうが、後代における宦官による壟断の原因となった』とあり、また、『即位直後における建文帝一派の粛清は、父の洪武帝と同等の粛清とされ、「永楽の瓜蔓抄(つるまくり、芋づる式の意)」と後世に悪名高く評された』とある。冷血にして短気激情型の独裁権力者の面持ちは本篇でも以下でよく現われてくる。]

 

大きな美しい黃金のやうな唸り聲の不思議さ! それから、遂に巨大の音が、次第にとぎれとぎれの銀聲の囁きとなつて――恰も女が Hiai! と囁くやうに――消え行くとき、不意に耳の中で㗙音の嗚咽となつてしまふ。かやうな有樣に、此大鐘は殆んど五百年間、每日 KO-NGAI と響いてゐた。劈頭[やぶちゃん注:「最初(撞き始め)に」の意。]素晴らしい鏗聲[やぶちゃん注:「かうせい(こうせい)」。鐘を撞く音。]を發し、それから無量の美しい黃金のやうな唸りとなつて、次にはHiai! と、銀聲の低囁[やぶちゃん注:「ていせふ(ていしょう)」。低い囁(ささや)き。]になつた。して、古い支那の都の色彩に富める、あらゆる町々の子供達の中で、大鐘の物語を知らぬもの――何故に大鐘は KO-NGAI と響き、Hiai! と鳴るのかを語り得ないもの――は一人も無い。

[やぶちゃん注:「音」一応、「しうおん」と呼んでおく。「」は音「シュ・ドウ・ノウ・ジョウ・ニョウ」(現代仮名遣)で、意味は例えば「人を叱る声」の意があるようである。原文のこの前後は “the sudden sibilant sobbing in the ears”で、「sibilant」は「シュー(シーッツ)という音」のオノマトペイアのようである。平井氏はこの前後を、『――あたかも女が「鞋(あい)!」と咡』(ささや)『くかのように――細く消えていきながら、にわかにすすり泣く歔欷(きょき)の声を耳につたえてくるのである。』と訳しておられ、「鞋!」(「靴!」の意)を除いて、躓かずに読めるのである。しかも平井氏の「鞋!」も、読み進めれば、自ずと難なく氷解するようになっているのである。現行の漢和辞典に殆ど載らないこの漢字を選んだ落合氏は読者への配慮が頗る足りないと思う。]

 

 さて、これが廣州府の學者、Yu-Pao-Tchcn の書いた、『百孝集』に載つてゐる、大鐘塔の巨鐘の物語である。

[やぶちゃん注:平井氏は「Yu-Pao-Tchcn」を『兪葆真(ゆほうしん)』(清代の作家)、「百孝集」の書名を『百孝図説』と訳しておられる。解説に出るので後でもまた注する。]

 約五百年前のこと、明の時代の天子、永樂皇帝はその高官 Kouan-Yuに命じて、百里の遠方へまで音の達するやうな天鐘を作れといつた。また彼は鐘に眞鍮を加へて、その音を强くし、黃金を加へてそれを深くし、銀を以て美しくせよと命じた。それから、鐘の表面と大きな緣には、聖經の文句を彫ることと、その鐘は北京の都の色彩に富める、あらゆる町に響き渡るため、帝都の中心に吊るすべきことをも命じた。

[やぶちゃん注:Kouan-Yu」平井氏は『関由(かんゆ)』と訳しておられる。

 そこで高官 Kouan-Yu は國中の鑄造師の頭領、有名な鐘鍛冶、及ぴ鑄造業に於ける、世に聞えた妙工を悉く集めた。それから、彼等は合金に對する材料を量り、それを巧みに處理し、模型、火、機械、及び金屬を鎔かすための大坩堝[やぶちゃん注:「だいるつぼ」。]を準備した。彼等は巨人の如く猛烈に働いた――彼等が怠つた事は休憩と睡眠と娛樂ばかりであつた――夜も晝も Kouan-Yu の命に從つて働き、一切の事、天子の諭旨を成就しようと努力した。

 が、金屬が鑄られて、土型を灼々たる鑄物から離して見ると、彼等の非常な勞作と間斷なき注意にも關らず、その結果は無効であつた。何故なら、金屬類が相互に離叛したからである――金は眞鍮を侮つて、一致することを肯じなかつた。銀は鎔けた鐡と混じようとはしなかつた。そこで、模型は今一度調整され、火は再び燃やされ、金屬も更に鎔かされて、一切の仕事が、面倒にも、また辛苦を重ねて繰返された。天子はこのことを耳にして、怒つてゐたが、何も云はなかつた。

 第二囘目の鑄造が出來た。しかし結果は一層惡かつた。金屬類は依然として頑固に互に混合することを拒んだので、鐘には少しも均一性がなかつた。して、その側面は龜裂を生じ罅隙[やぶちゃん注:「かげき」。罅(ひび)と隙間。裂け目。割れ目。亀裂。]が現はれ、その緣は固著して熔滓[やぶちゃん注:「ようさい」。スラグ(slag)のこと。金属の製錬に際して溶融した金属から分離して浮かぶ滓(かす)のこと。]を作つて、割けてゐた。だから、すべての勞作は、三度繰返されねばならなかつた。して、Kouan-Yu は非常に驚愕狼狽した。すると、天子はこれを聞いて、以前にも增して激怒した。それから、橙黃色の絹に認めて、龍の印を以て封緘せる書狀を使に持たせて、Kouan-Yu に送つた。その文句は次の如くであつた――

[やぶちゃん注:以下の書状は底本では全体が二字下げ。]

『明朝の尊嚴なる永樂皇帝から府尹[やぶちゃん注:「ふゐん」。]註二 Kouan-Yu に告げる。朕が汝に託した任務を二囘まで汝は誤つた。若し三たび朕の命を成就することが出來ないならば、汝の頭を頸から斷つてしまふぞ。恐惶して、命を奉ぜよ』

 

註二 府尹――西洋に於ける市長に比すべき。支那の都會の吏。

 

 

 さて Kouan-Yu には、燦然と輝くやうに美しい娘があつた。Ko-Ngai といふその名は、常に詩人の口にのぼり、またその心は顏よりも更に美しかつた。Ko-Ngai は熱愛を以て父を愛したので、百人の立派な求婚者を拒んでも、彼女のゐなくなるため、父の家を淋しくすることを欲しなかつた。だから、龍印に封ぜられた、恐ろしい黃色の書狀を見ると、父のために心配して氣絕した。それから、正氣に返り、力も附いた扱、父の危難を思つては、休むことも寢ることも出來なかつたので、遂に密かに彼女の幾らかの寶石を賣却し、かくして得た資產を携へて、占星者の許へ馳せた。して、巨額の料金を拂つて如何にせば父の身の上にふりかかつてゐる危險を救ひ得るかを占はせた。そこで、占星者は天象を觀測し、銀河(私共の所謂、乳狀の道(ミルキー・ウエー)の狀況に留意し、黃道帶[やぶちゃん注:「くわうだうたい」。]の徵候を察し、五行の表と煉丹家[やぶちゃん注:「れんたんか」。]の祕書を調べた。して、長い間沈默の後、彼女に答へていつた。『少女の肉が坩堝の中で熔かされ、處女の血が金屬の熔ける際に混ぜられるまでは、金と眞鍮は決して婚姻を求めない。また銀と鐡も決して抱擁しないだらう』彼女は心中悲哀に滿ちて家に婦つた。が、その聞いたことを、すべて心に祕めて誰にも告げなかつた。

[やぶちゃん注:「黃道帶」黄道(おうどう:惑星からの見かけ上、天球上を恒星が一年かけて一周するように見える大円の経路のこと。科学的には黄道面は惑星そのものの公転軌道面と同義となる)を挟んで、南北に各八度ずつ、幅十六度で形成した帯部分。太陽・月及び主な惑星はこの帯の中を動く。黄道十二宮に相当する黄道十二星座があり、それらには星座名に動物の名の附いたものが多いことから、「獣帯」(じゅうたい)とも呼ばれる。

「煉丹家」西洋の錬金術に対応する古代中国の道士の術で、辰砂(しんしゃ:硫化水銀HgS。六方晶系の鉱物。純粋なものは朱色を呈する)を練って不老不死の薬を作ることを「煉丹」と言ったが、ここはそれに代表される道教の主要な先賢を指す。]

 

 遂にいよいよ、三度目に大鐘を鑄る、最後の努力の怖ろしい日が來た。して、Ko-Ngai は侍女と共に、父に隨つて鑄造所へ行つて、彼等は鑄型師の勞作と、流動體となつた金屬を政瞰視する壇止の席に就いた。すべての職工は、孜々汲々[やぶちゃん注:「ししきふきふ(ししきゅうきゅう)」。怠ることなく一心に勤めるさま。]、無言にて動き、火の呟く外には、何の音も聞えなかつた。して、火の呟く音は、大嵐の肉迫するやうな深い轟音と變はり、金屬の赤血色の池は、徐々と朝日の朱に輝き、朱は黃白の燦爛たる先に變じ、黃金は滿月の銀の顏のやうに、眩しいほど白くなつた。それから、職工達は狂號する炎に薪を給することを止めて、皆 Kouan-Yu の眼の上に彼等の眼を注いでゐた。すると Kouan-Yu は型に流し込む合圖をしようと準備した。

 しかし彼がまだ指を上げない内に、一聲の叫びが、彼の頭を振り向かしめた。して、すべての人々は烈火の轟々たる音を越えて、鳥の歌の如く、鋭く美はしく響いて、『お父さま、あなたのために!』といふ Ko-Ngai の聲を聞いた。彼女は叫ぶと共に、金屬の白い洪水の中へ跳び込んだ。熔鐡爐の熔けた金屬は、彼女を迎へて咆吼し、屋根までも素晴らしい炎の火花を跳ね飛ばし、土坑の際端から外へ勢よく溢れ出し、幾多の色彩ある渦卷く噴水を投げ上げて、それから電光、雷鳴、低囁を發しつ〻、慄へ[やぶちゃん注:「ふるへ」。]乍ら鎭まつた。

 そこで彼女の父は、狂氣の如く悲しんで、娘の後を追つて跳び込まうとしたが、腕力逞しいものどもが、彼を引き止め、確かりと[やぶちゃん注:「しつかりと」。]押へたので、たうとう絕え入るばかりに弱くなつて、恰も死人の如くに運ばれて家に歸つた。それから、Ko-Ngai の侍女は、苦悶眩迷、言葉も出ないで、小さな靴を手に持つたま〻、爐の前に立つてゐた。それは亡くなつた美しい女主人の眞珠と花の刺繡を施せる華奢な小さな靴であつた。といふのは、彼女は Ko-Ngai が跳び上つた時に、その足を捉まうとしたが、ただ靴を摑む事が出來たのみで、美麗なる靴はすつぽり脫げて彼女の手に殘つたからである。それで、彼女は全く狂人のやうに、それを凝と視てゐるのみであつた。

 

 が、か〻る慘事はあつたもの〻、天子の命令は奉ぜざるを得なかつた。して、いかに結果が駄目であらうとも、鑄型師の仕事は完成せねばならなかつた。しかし金屬の光澤は、以前に比すれば更に純白に見えた。またその中に葬られた美しい屍體の片影をも留めなかつた。こ〻に大規模の鑄造は濟んだ。驚いたことには、金屬が冷却してから、鐘は見るからに美くしく、恰好は完全、色はいかなる鐘にも優つてゐた。また少女の身體の痕跡をも留めなかつた。それは全然貴重なる合金に吸收され、よく混和せる眞鍮と黃金に交じり、銀と鐡の融合に加つたのだ。それから、人々が鐘を鳴らして見ると、その音調は他のいづれの鐘よりも深く、淸らかで、强かつた――百里の距離よりも一層遠くに達し、夏の雷の如く響いた。しかも、また大きな聲で、人の名、女の名―― Ko-Ngai の名を呼ぶやうに響いた。

[やぶちゃん注:「百里」「里」は原文も“li”となっている。清代の一里は五百七十六メートルであるから、五十七・六キロメートルに当たる。]

 

 

 それから、またこの鐘を强く撞き鳴らす合間々々に、長く低い鳴咽の聲が聞える。して、その嗚咽の聲は、恰も泣く女が Hiai! と呟くかのやうに、淚にむせび、哀訴する音を以て終はる。して、いつでも人々が巨鐘の黃金のやうな唸りを聞くときは、肅然沈默してゐるが、鋭く美はしい戰慄の音が空に傳つて、それから、Hiai! の咽び泣きが聞えてくると、北京の色彩に富める町々の、あらゆる支那の母達は、彼等の子供に囁いていふ。『お聽きなさい、あれは Ko-Ngai が靴を求めて泣くのです! あれは Ko-Ngai が靴を呼んでゐるのです!』

 

投 罏 成 金

 

028

 

[やぶちゃん注:「投罏成金」の「罏」は「爐」の通ずるので、「罏に投じて金と成る」(鎔鉱炉の中に身を投じて合金の生するを成就す)と謂った意味か。後の私の注で見る通り、これは原話の題名であった。字が大きいのは底本に合わせた結果である。]

 

【ハーンによる「解說」】

 『大鐘の霊』――この物語は「百孝集」(Pe-Hiao-Tou-Choue)と題せる物語集から取つたものである。支那の物語作者は、頗る簡明に此話を語つてゐる。博學なる佛國領事ピー・ダブリー・ド・チールサンは一八七七年に該書の一部を譯して出版した。その中にこの鐘の傳說も收めてあった。譯書は澤山の支那の畫で飾られ、Ko-Ngai が鎔けた鐡中へ跳り込む奇異なる小畫も附してある。

[やぶちゃん注:「ピー・ダブリー・ド・チールサン」フランス海軍士官で外交官のクロード・フィリベール・ダブリー・ド・ティエサン(Claude-Philibert Dabry de Thiersant 一八二六年~一八九八年:詳細事績は調べ得なかった)。彼が一八七七年にパリで出版した“La piété filiale en Chine”(「中国に於ける『親への孝』」)が当該書である。フランス語サイトのこちらで原文全篇がダウン・ロード出来、そこにハーンが依拠した“KO-NGAI”が所収されていることが確認出来た。但し、ここのデータでは「Ko-Ngai が鎔けた鐡中へ跳り込む奇異なる小畫」は確認出来なかった。そこで、原話である清代の兪葆眞(ゆほうしん:詳細事績未詳)作の「百孝圖說」を探してみたところ、しばしばお世話になる中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のこちらでやっと発見した。標題はまさしく「投罏成金」(右の電子化は「投驢成金」と誤っている)で、この画像版ページにハーンの言うシーンを描いた挿絵がある。原本画像に忠実に従い、電子化しておく(【 】は二行割注)。それはハーンも言うように、実は驚くほど短く、時代設定も場所も人名も何もかも皆、異なっていることが判る。

   *

  投鑪成金

吳李娥、父爲吳大帝鐡官治以鑄軍器、一夕錬金於鑪、而金不出吳令耗折官物者坐斬、娥年十五遂自殺鑪中、於是金液沸溢、塞鑪而下、遂成溝渠、注二十里、所收金億萬計、【孝苑】

   *

「吳大帝」とは三国時代の呉の初代皇帝孫権(在位:二二九年~二五二年)のことである。ハーンが言う図もここから取得出来たので、以下に掲げておく。

 

Touroseikin

 

原画像が傾いてしまっていて、しかも全体に薄いことから、回転と補正を加えて見易くした。なお、調べるうち、この原話は実はかなり知られたものであることが判った。例えば、同じ明代の倫彙編になる「欽定古今圖書集成」の「第三十九卷」(中文ウィキソース)の黃雲師の「王孝娥哀辭」の一節に、

   *

吳大帝時有女、父爲鐵官、冶不液、女自投冶中、鐵乃液。然後父刑免。

   *

とあるからである。]

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