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2020/02/26

ラフカディオ・ハーン 窯神譚 (落合貞三郎訳) /作品集「支那怪談」~全電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Tale of the Porcelain-God)はラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が刊行した作品集(来日前の本格出版物の中期の一冊に当たる)「支那怪談」(これは底本(後述)の訳。原題SOME CHINESE GHOSTS。「幾つかの中国の幽霊たち」)の掉尾の第六話である。本作品集は一八八七年(明治二十年相当)二月にボストンの「ロバート・ブラザーズ社」(ROBERTS BROTHERS)から出版された全六篇からなるもので、最後にハーンによる各篇についての解題が附されてある。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(クレジット・出版社(左)及び献辞(右。中国人の顔のイラスト附き)ページで示した)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらの(当該作品集翻訳開始部を示した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年四月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第一巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎は「ラフカディオ・ハーン 支那怪談 始動 / 献辞・序・大鐘の霊(落合貞三郎訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字に代えた。一部の「?」「!」の後に特異的に字空けを施した。訳者による註が本篇本文最後に纏められてあるが、参照し難いので、適切な段落末に分散して配した(表記は原注に同じとした)。

 なお、本作品集では各篇の最後に原作の漢名或いは話柄に関連する漢字文字列が掲げられてある(本篇ではここで「大清國」)ので、底本の活字表記の後に画像で示すこととした(上記の“Project Gutenberg”版に配されたそれを使用した)。

 また、最後に纏めて配されてある「解說」は纏めて最後にあるよりも、それぞれの各篇の最後に置いた方がよかろうと判断し、特異的に【ハーンによる「解說」】として、終わりに添えることとした。

 なお、またしても、本篇の本文前(原本のここの左ページ)にある以下の引用は省略されている(平井氏もやはりカットしている)。

   *

 

   It is written in the Fong-ho-chin-tch'ouen, that whenever the artist Thsang-Kong was in doubt, he would look into the fire of the great oven in which his vases were baking, and question the Guardian-Spirit dwelling in the flame. And the Spirit of the Oven-fires so aided him with his counsels, that the porcelains made by Thsang-Kong were indeed finer and lovelier to look upon than all other porcelains. And they were baked in the years of Khang-hí,—sacredly called Jin Houang-tí.

 

   *

無力乍ら、訳すと、

   *

Fong-ho-chin-tch'ouen」には、『陶工 Thsang-Kong は疑わしい時には何時でも、彼の瓶が焼かれている大きな窯の中の炎の様子を見て、その炎の中に住もうている火を守護する精霊に対し、疑義を訴えた』と書かれてある。そして、窯の火の精霊もまた、彼の助言を以って彼をよく助けたから、Thsang-Kong によって作られた磁器は、他如何なる陶工たちの作る磁器よりも実に繊細にして情愛に溢れていた。そして、それらは清の康煕の年間[やぶちゃん注:「康煕」の現行拼音は「kāng xī」で「Khang-hí」に近く、最後の「大清國」とも附合する。一六六二年~一七二二年。]に焼き上げられ――神聖なものとして「Jin Houang-tí」と称された。

   *

正確な訳がお出来になる方や書名・陶工名・元号・呼称の正しい漢字のお分かりなる方は、是非、御教授願いたい。]

 

   窯 神 譚

 

 誰が人間界で始めて高陵註十九と磁器――美しい花瓶の骨と肉、骨骼と皮膚――の祕訣を發見したのだらう? 誰が始めて凝乳の如く白い粘土の美質を見出したのか? 誰が始めて氷の如く淸らかな石胎――老人の白髮の如く枯れた山の戴く灰白土、發掘を待つ死んだ巨人の岩骨石肉の如く、白くなつた粉塊――を調製したか? 磁器の神々しい藝術を發見する事は、誰れ人の手に授けられたのか? 

註十九 高陵 Kao-Ling ――もとは陶工に、最上の粘土を供した山巖の固有名詞であつたが、後に轉訛して今日諸國に慣用の語となつた。支那の陶工の用語によれば、Kaolin 粘土を詩的に磁器の「骨」と呼び、tun 硅岩を「肉」と呼び、また兩者を合はせて燒いたものを Pe-tun-tse と稱した。兩者ともに分解せる長石斑岩から成つたものである。

[やぶちゃん注:「石胎」原文“tun”。原文の単語も(斜体になっているので中国語が疑われる)、訳も不詳。平井氏は『白*子(はくとんし)』(「*」=「木」の頭を出さない字)とするが、ますます判らない。識者の御教授を乞う。「石のはららご」(石の原初的胎児(ヒラニア・ガルパ)という比喩か?] 

 それは甞て人間であつたが、今や神に祀られ、陶業組合に加入せる幾萬の人々が、その雪白の像を拜する浦に授けられた。しかし彼の誕生地はわからない。恐らく、その傳說は、かの現代に於て二千萬の黑髮民族の生命を滅ぼし、また昔は Feou-linang の靑い山脈の中に火の寳玉の如く輝いてゐた景德鎭の都會――かの驚くべき磁器の都會さへも、地球の表面から抹殺し去つた怖ろしい戰爭のために消されたかも知れない。

[やぶちゃん注:「浦」後半に登場する陶工の名である。そこでは落合氏は「フー」とルビする。せめても、それをしないというのは読者に頗る不親切である。

Feou-linang」江西省景徳鎮市にある浮梁(ふりょう)県(グーグル・マップ・データ航空写真)。同市街地の東北部の山岳地帯。

「現代に於て二千萬の黑髮民族の生命を滅ぼし」、「景德鎭の都會」「さへも、地球の表面から抹殺し去つた怖ろしい戰爭」清朝の一八五一年に起こった洪秀全    (一八五一年~一八六四年)を「天王」とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって発生した大規模な内乱「太平天国の乱」のこと。「太平天国」が建国され、清軍が討伐する十三年後まで国は存在した。「長髪賊の乱」とも呼ばれる(最後のハーンの解説にも出る)。この戦火のため、景徳鎮は破壊され、御器廠の活動も停止し、一八六六年に李鴻章か蔡錦青を監督官として昔の御器廠の建物を再建、再度、御用品製作を企図したが、建物が竣工し焼造が再開されたのは、八年後の一八七四年のこととされる。因みに、同乱は本書刊行(一八八七年(明治二十年相当))の僅か三十六年前、景徳鎮の再生は実に十三年前のことであったことに注意しなくてはならない。]

 尤も彼よりも以前、既に陶窯の神靈は存在してゐて、無限の活動力から發生し、絕對最高の大靈註二十から流れ出でて現はれてゐた。何故なら、約五千年前に、黃帝は粘土を燒いて立派な器物を作ることを人々に敎へ、それから、その時代にすべての陶工は窯火の神を知つて、祈りの囁きにつれて彼等の粘土細工を營む車輪を囘はしてゐたからである。が、黃帝が死んでから三千年後に、天帝から窯神となるべき運命を授けられた人が始めて生まれたのだ。

 

註二十 太靈[やぶちゃん注:表記の違いはママ。道家思想であるからこの「太」が正しい。] Tao ――無限の實在、卽ち宇宙的生命、一切の諸相これから發する。Tao といふ文字は第一原因といふ意味に於ける「道」である。老子は道といふ語を一二の異れる意味に使つてゐるが、彼が最も重要なる哲學的意義を與へてゐる主旨は、道經の有名なる二十五章によく說いてある。[やぶちゃん注:改行はママ。]

この偉大なる支那の思想家の第一原因――不可知のもの――に關する見解と、他の東西兩洋諸哲學者の說との差異は、スタニスラス・ヂユリアン氏譯「道經」の序言、第十頁乃至十五頁に明晰に論じてある。

[やぶちゃん注:「スタニスラス・ヂユリアン」既出既注であるが、再掲すると、フランスの東洋学者で十九世紀フランスの代表的な中国学者として知られるエニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien 一七九七年~一八七三年)。ウィキの「エニャン=スタニスラス・ジュリアン」を参照されたい。

「道經」ジュリアンが一八四二年にフランス語訳した「老子道徳経」(Le livre de la voie et de la vertu:「美と道徳の書」)。]

 

 して、彼の神聖なる靈は、いつも陶房の煙と勞作の上を逍遙しつ〻、今猶ほ模型工の思考に力を、意匠工の創作力に優美を、釉藥工の手法に光輝を與へてゐる。實際、彼が天から敎へられた叡智によつて磁器の藝術は創められたのだ[やぶちゃん注:「はじめられたのだ」。]。彼の靈感によつて陶工のあらゆる奇蹟と、彼に追隨した人々の作れる一切の奇什珍器は完成されたのだ――

 すべての靑磁――明かなること鏡の如く、薄きこと紙の如く、磬の如く朗かな音を發し、欽宗帝の勅命に從つて、「雲の破れ目から見える譯者註一、雨後の空の如く靑き」色を呈してゐる。これらは實に磁器中、第一に位するもので、柴窯註二十一[やぶちゃん注:「さいよう」。]とも呼ばれ、いかに奸惡の徒も流石にこれを破碎する勇氣が出ない。高價な寳石の如くに眼を魅するから。

 

註二十一 窯 Yao ――支那の製陶の技術。歷史又は傳說に關する詳密の知識を得ようと欲するものは、ヂユリアン氏の名著「支那陶器史」(一八五六年巴里出版)を參照するがよい。私の「窯神譚」に擧げた諸種の磁器の名は、大抵該書から取つたものであゐ。是等の名に支那音にては音樂的妙味があるけれども、飜譯すれば興味索然たるを免れない。大部分は單に製造の中心地又は有名なる工場の名に因んだものである。例へば Chou-Yao Chou といふ土地の磁器である。また製造の時代によつて區別した名もある。或は役人の名を冠したものもある。直接に磁器の材料又は藝術的特質から命名したものは、遙かに稀である。

譯者註一 柴窰[やぶちゃん注:「窯」の異体字。以下、総て「ヨウ」と音で読んでおく。]の色について。形容句の原文は左の如くである。

  「雨過天晴レテ雲破ルヽ處、看顏色作スヲ將來

この窯は河南鄭州に在つて、柴世宗の創めたもの。右の句は世宗が陶器の式を欽宗帝に禀請する狀に見える。柴窰は雨過天靑を主色とし、滋潤細媚、實に古來諸客の冠冕である。

[やぶちゃん注:「磬」「けい」或いは唐音で「きん」とも読む。中国古代の打楽器で、枠の中に「へ」の字形の石板を吊り下げ、動物の角製の槌(つち)で打ち鳴らす。石板が一個だけの「特磬」と、十数個の「編磬」とがある。宋代に朝鮮に伝わり、宮廷音楽に使用され、日本では奈良以降、銅・鉄製の特磬を仏具に用いた。

「欽宗帝」原文は“Emperor Chi-tsong”。欽宗(一一〇〇年~一一六一年)は北宋の最後の第九代皇帝であるが、これはハーンの誤りか誤訳で、五代後周第二代皇帝の世宗柴栄(さいえい 九五四年~九五九年)のことである(落合氏はそれを訂する形で注を示しているが、「右の句は世宗が陶器の式を欽宗帝に禀請する狀に見える」という部分はよく意味が判らない)。五代で随一の名君とされる。「世宗」は現行のラテン文字綴りで「Shizong」。以下の「雨過……」を言ったのは彼とされている。平井氏はちゃんと『世宗』と訳しておられる。

「雨過天晴レテ雲破ルヽ處、看顏色作スヲ將來」調べてみると、世宗の命じたとされる台詞は、

 雨過天靑雲破處、諸將顔色作將來

或いは後半が、

 這般顏色做將來

で、落合氏の訓読は何だかよく判らないが、最後の「這般(しやはん)顏色將來に倣へ」だと意味が分かる。則ち、「雨上がりの空に雲と相い映ずる青天の色を成す陶器を、このたび、即刻に持って参れ!」であろう。但し、この文句、おかしい。「這般」は宋代の口語だからである。されば、この話(少なくともこの「這般顏色做將來」という文句)はずっと後代、宋以後に作られたものであろう。

「禀請」「ひんせい」或いは慣用読みで「りんせい」。上役や上部機関などに申し出て請求すること。申請。但し、前に述べた通り、意味不明で、出典も私には判らない。

「支那陶器史」“Histoire et fabrication de la porcelaine chinoise”(「景徳鎮陶録」という邦題があるようである)。

「鄭州」河南省鄭州(ていしゅう)市

「冠冕」「くわんべん(かんべん)」は本来は冕板(冠の頂きに附ける板)をつけたかんむりで、皇帝や皇太子の礼服に附属する。ここはそれ(至高の地位)から転じて「一番優れているもの・首位」の意。]

 

 それから、汝窯譯者註二――すべての磁器の中、第二に位し、時としては靑銅の模樣とその音調の朗々さを欺き、また時としては夏の海の如く靑く、厚く浮かべる粘液狀の雄魚精かと思はれるもの。

 

譯者註二 汝窰は河南の汝州にあつて、北宋時代の創設に係る。

[やぶちゃん注:「汝州」河南省平頂山市汝州(じょしゅう)市

「雄魚精」原文は“floating spawn of fish”で「魚が放卵したその浮いているような様態」。訳は「魚のオスの放った精子」の意であろう。]

 

 それから、官窯譯者註三――すべての驚くべき磁器の中、優秀の點に於て第三位を占め、朝の色彩を帶びてゐる――空の靑さを呈せる中に、黎明の薔薇色が咲いて、沼澤に住む長い脛を有する鳥の飛ぶのが朝暾に映じてゐる。

 

譯者註三 官窰は宋以來、官吏の監督を受けて製し、内府の用に供したのである。宋の大觀、政和の間、汴京(河南省開封府)にあつたもの。

[やぶちゃん注:「朝暾」(てうとん(ちょうとん))は朝日。

「大觀」北宋の徽宗(きそう)の治世で用いられた元号。一一〇七年~一一一〇年。

「政和」同前。一一一一年~一一一八年。

「汴京(河南省開封府)」「汴京」は「べんきやう(べんきょう)」と読む。現在の河南省開封市。宋(北宋:九六〇年~一一二七年)は「東京開封府」と称し、ここを首都とした。]

 

 また、哥窯譯者註四――完全なる磁器の中、第四位で、鮮魚の體の如く、麗はしき、薄い、變はり易き色を有し、或は蛋白石質に似せて作られ、乳と火を混じたやうなもの。名聲不朽の章氏兄弟の兄、生一の作品。

 

譯者註四 哥窰は宋の處州龍泉縣の人、章氏兄弟、瓷業を營み、兄の生一の作を哥窰と名づけた。

[やぶちゃん注:「哥」は「歌」の異体字でもあるが、それ以外に兄や目上や位の高い人物のを呼ぶ際にも用い、ここは「兄」の意。

「蛋白石」オパール (opal) の中国名。

「章氏兄弟」南宋(一一二七年~一二七九年)の陶工とされる。サイト「有田焼」の「竜泉窯(りゅうせんよう)」に(コンマを読点に代えた)、『中国の浙江(せっこう)省にあった窯で、宋代から明代にかけて膨大な量の青磁がこの窯で生産されていました』。『製品である青磁は東南アジア、イラン、イラク、エジプトなど広い地域に多量に輸出されていました』。『竜泉窯の青磁はおもに』二『種に大別され、白い胎土と朱色の砂の胎土を使った青磁は、「弟窯」または「竜泉窯」と呼ばれます。もう一方は、貫入と黒い胎土が特徴であり』「哥窯(かよう)」と『呼ばれています』。二つの『青磁の成り立ちは、南宋時代、浙江省竜泉県』(現在の浙江省麗水市竜泉市)『にいた、章生一と章生二という兄弟によって生み出されたという伝説があり』、『兄弟は代々製陶の家系で育ち、二人も父親の遺言によって、それぞれ窯を設け、それぞれに作品作りに励んでいました。弟である、章生二はまず陶器の色から手を』初め、『あらゆる色を観察した結果、最も優雅で高貴な色は青であると考え、青い磁器を製作しました。この青磁が南宋』の初代『皇帝、高宗に気に入られ、章生二の窯は官窯とされ、「弟窯」または「竜泉窯」が誕生しました』。『兄である、章生一も負けじと努力しましたが、彼は陶磁器の色でなく、陶磁器の製作技法にこだわり、「窯変」を、人工的な方法で作り出そうと試行錯誤を繰り返しました。ある年の』十二『月、生一の妻が夫に食事を届けにいったとき、夫である生一が窯の中に水を入れているのを見て、彼を助けるために、泉の水をかけて加勢し』、『火を消してしまいました。鎮火後の窯を見ると、なんと、すべての器に魚のうろこ状の亀裂が入り、「窯変」の陶器が生まれていたのです。こうして章生一が作り出した窯変青磁はあっという間に世間を騒がせ、皇帝への献上品となりました。章生一が兄であったことから、この窯変の青磁は「哥窯」と呼ばれるようになったそうです』とある。

「瓷業」(じぎやう(じぎょう))の「瓷」は「石焼の瓶(かめ)」であるが、ここは「窯」に同じい。]

 

 また、定窯譯者註五――完全なる磁器の中、第五位で、寡婦の喪服の如く白く、淚のやうな美しき雫が滴つてゐて、詩人 Son-tong-po が詠じてゐる磁器。

 

譯者註五 定窰は直隷省定州で作つたのを北定といふ。宋初の建設である。宋の南渡後、景德鎭で作つたものた南定といふ。

[やぶちゃん注:「Son-tong-po」かの北宋の政治家にして優れた詩人であった蘇東坡(一〇三六年~一一〇一年)のこと。現行の拼音は「sū dōng pō」。彼の賦「試院煎茶」に「定州花瓷琢紅玉」と詠まれてあるようだ。サイト「中国茶の世界」のこちらで全文が読める。

「直隷省定州」河北省保定市定州(ていしゅう)市であるが、この河合氏の言い方はおかしい。「直隷省」というのは、ほぼ現在の河北省に相当するものの、これは清代になって新たに作られた行政区画名であるからである。]

 

 また、Pi-se-yao 窯――色合が潜んでゐて、交互に出沒隱見する。日光の下に氷の色が變幻を示す如くだ。音に聞こえた詩人 Sin-in が讚へた磁器。

[やぶちゃん注:「Pi-se-yao 窯」敬愛する平井呈一氏の、恒文社版小泉八雲作品集「中国怪談集」(一九七六年刊)の「瓷(じ)神譚」の訳では『秘色窯』。以下でも平井氏の訳による漢字表記に多くを拠った。

Sin-in」平井氏は『徐寅』(じよいん)とされる。晩唐末期の詩人。「漢籍リポジトリ」の「欽定四庫全書」の「徐正字詩賦」を見たところ、「巻二」の[002-45a]の、

   *

   貢餘秘色茶盞

捩碧融青瑞色新

陶成先得貢吾君

巧剜明月染春水

輕旋薄氷盛綠雲

古鏡破苔當席上

嫩荷涵露别江濆

中山竹葉醅初發

多病那堪中十分

   *

の七律がそれらしく思われる。]

 また、驚くべき Chu-yao 窯――擊つときに哀しげな叫びを發する蒼白の磁器。偉大なる詩人 Thou-chao-ling の歌へるもの。

[やぶちゃん注:「Chu-yao 窯」平井氏訳は『蜀窯』。

Thou-chao-ling」平井氏は『杜少陵』とする。則ち、杜甫である。これは、彼の「又於韋處乞大邑瓷碗」(又、韋(ゐ)が處に於いて大邑(だいいふ)の瓷碗(しわん)を乞ふ)である。

   *

 又於韋處乞大邑瓷碗

大邑燒瓷輕且堅

扣如哀玉錦城傳

君家白碗勝霜雪

急送茅齋也可憐。

  又韋が處に於いて大邑の瓷碗を乞ふ

 大邑の燒瓷(しやうじ) 輕くして且つ堅し

 扣(たた)けば 哀玉のごとく錦城に傳ふ

 君が家の白碗 霜雪に勝れり

 急(とみ)に茅齋(ばうさい)に送らば また憐むべし

   *

紀頌之氏の強力な杜甫のブログ「杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」のこちらに詳細な訳注があるので参照されたいが、その「瓷碗」の訳注に『焼き物の碗、臨邛の大邑で産出されたもの。平成都平原の西南部に位置する。成都市街からの距離は75キロメートル、臨邛は、秦の時代に置かれた県名。現・四川省邛耒県』とある。現在の四川省成都市大邑県なら、ここ。]

 また、Thsin-yao 窯――色は白或は靑。多くの鰭で激搖せる水面の如く皺がよつてゐる……しかも魚までも見える!

[やぶちゃん注:「Thsin-yao 窯」平井氏訳は『秦窯』。]

 また、Tsi-hong-khi 器と呼ばる〻花瓶――雨後の夕陽の如く赤い。それから、蠶蛾の翼の如く脆く、卵殼よりも輕い T’o-t’ai-khi 器。

[やぶちゃん注:「Tsi-hong-khi 器」平井氏訳は『吹紅器』。

T’o-t’ai-khi 器」平井氏訳は『脱胎器』。]

 また、Kia-tsing ――空虛の時は、眞珠のやうに白い茶碗であるが、不可思議な魔術的製法のために、一たび水を滿たすや否や、紫色の魚が群遊して見える。

[やぶちゃん注:「Kia-tsing」平井氏訳は『夾青』。]

 また、Yao-pien ――その色合が火の鍊金術によつて變つてくる。血の赤色で火に入つて、その中で蜥蜴の綠色に變はり、遂に天空の頰のやうな蒼色となつて出でてくる。

[やぶちゃん注:「Yao-pien」平井氏訳は『窯変』。]

 また、Ki-tcheou-yao 窯――夏の夜の如く全く靑紫色である。それから、銀と雪を混ぜたやうにきらきらする Hing-yao 窯。

[やぶちゃん注:「Ki-tcheou-yao 窯」平井氏訳は『吉州窯』。

Hing-yao 窯」平井氏訳は『清窯』。]

 また、Sieouen-yao 窯――熔爐中の鐡の如く赤いもの、透明で紅玉の如きもの、蜜柑の皮の如くざらざらした黃色のもの、桃の皮の如く柔かに紅いものなどさまざまある。

[やぶちゃん注:「Sieouen-yao 窯」平井氏訳は『宣窯』。]

 また、古い氷の如く罅燒になつて、綠色の Tsoui-khi-yao 窯。それから金龍がのたうち𢌞つて、縺れてゐる Tchou-fou-yao 窯。なほまた、淡紅色に畝だちて、蟹の爪の如くに鋸齒狀の稜角ある諸磁器。

[やぶちゃん注:「罅燒」「ひびやき」と訓じておく。

Tsoui-khi-yao 窯」平井氏訳は『砕器釉』として、窯名とせず、『青瓷』(青い瓶(かめ))とされる。

Tchou-fou-yao 窯」平井氏訳は『洪武窯』。これは明代の洪武年間(一三六八年~一三九八年)に焼造した官窯の名である。]

 また、眼晴の如く黑く、また輝ける Ou-ni-yao 窯。それから、天竺の人の顏の如く黑褐色なる Hou-tien-yao 窯。なほまた、秋の葉の如く光澤の枯れた黃金色の黃金窯。

[やぶちゃん注:「Ou-ni-yao 窯」平井氏訳は『烏金釉』(うきんゆう:清朝乾隆年間(一七三六年~一七九五年)の中国窯の中でも最も特色のある釉薬で、黒色でも最も光沢に富み、且つ透徹したもの)として、窯名とせず、『黒色の瓷器』(しき:かめ)の名とする。

Hou-tien-yao 窯」平井氏訳はここは『それからインド人の顔のような黄褐色の烏金釉』と訳され、その後に割注を入れて、『訳者注――ここに烏金釉二度出てくるが、これは八雲がテキストに用いたダントルコールの書牘』(しょとく:書簡)『に誤りがあるらしい。これについては、小林市太郎訳注ダントルコール著「中国陶瓷見聞録」を参照されたい』と述べておられる。同訳書は平凡社の洋文庫にある(私は未見)。但し、平井氏は『二度』と言っておられるが、落合氏の訳文でも判る通り、全く同じ綴りではない。ダントルコールは最後に附したハーンの解説に出るので、そちらで注する。]

 また、蜿豆の苗の如く綠色であるが、太陽に照らされた銀色の雲と天上の龍を染め出せる Long-kang-yao 窯。

[やぶちゃん注:「蜿豆」「えんどう」或いは「えんどうまめ」と訓じておく。

Long-kang-yao 窯」平井氏訳は『竜※窯』(「※」=「卸」-「卩」+「岡」)とあるが、この「※」は「鋼」の異体字(グリフウィキ)に近いので、「竜鋼窯」ではあるまいか? サイト「鶴田純久乃章」の「乾隆窯」の解説の中には、『従来絶えていた竜鋼窯および金窯の焼成を復興し』たとある。]

 また、琥珀色の葡萄の花や、葡萄の葉の靑綠や、罌粟の花を描いたり、或は鬪ひ合つてゐる蟋蟀の形を浮彫にせる Tching-hoa-yao 窯。

[やぶちゃん注:「Tching-hoa-yao 窯」平井氏訳は『宣和窯』。「宣和」は北宋の徽宗の治世で用いられた元号である。一一一九年~一一二五年。]

 また、金粉の星を散らした蒼空色の Khang-hi-nien-ts'ang-yao 窯。それから、電光の閃過する火のやうな夜にも似て、黑色と銀色の壯麗なる Khien-long-nien-thang-yao 窯。

[やぶちゃん注:「Khang-hi-nien-ts'ang-yao 窯」平井氏訳は『康煕年臧窯』。「臧窯」(ぞうよう)は、ウィキの「中国の陶磁器」によれば、康熙一三(一六七四)年に漢人武将による反乱「三藩の乱」(雲南の呉三桂・広東の尚之信・福建の耿精忠が起こした)で『景徳鎮は大打撃を受ける。その後、清朝政府は景徳鎮の復興に当た』り、七年後の康熙一九(一六八〇)年、『康熙帝は官窯の復活を決め、翌年には内務府総官の徐廷弼、工部虞衡司郎中という官職にあった臧応選(ぞうおうせん)らが監陶官(督造官)として景徳鎮に派遣された』。『この時代の官窯では、陶工の人件費、材料費、運搬費から研究開発費まで国の予算でまかなわれるようになり、陶工は生活の不安なく、技法の開発に専念することができるようになった。清代の磁器は「倣古採今」を宗とし、宋・明の古典の真に迫った模作が作られるとともに、清代独自の創造も追求された』。『臧応選は』翌康熙二十年から同二十七年までの『間、景徳鎮に駐在し、鎮の作陶の指導監督を行った。臧応選にちなみ、この時期の官窯製品を「臧窯」とも呼ぶ』とある。

Khien-long-nien-thang-yao 窯」平井氏訳は『乾隆年臧窯』。乾隆年間は一七三六年から一七九五年まで。ただ、ハーンの綴りが異なるのが気になる。前は「ts'ang-yao」なのに、ここでは「thang-yao」である。ウィキの「中国の陶磁器」には続けて、『清の官窯では、臧応選のように中央政府から景徳鎮に派遣され、製陶の監督を行った官僚である監陶官が技術開発のために大きな役割を果たし』、『「臧窯」の他に、歴代の監陶官の名にちなんだ「郎窯」、「年窯」、「唐窯」等の呼称がある』とある。例えば「唐」は現行の拼音は「táng」である。これは或いは「乾隆年唐窯」なのではなかろうか?

 尤も Long-Ouang-yao 窯は除外だ。淫蕩な Pi-hi、猥褻な Nan-niu-ssé-sie、耻づべき春晝を描いたもので、陶窯の靈は顏を隱して逃げ去つたのであるが、奸惡なる Moutsong 皇帝の命令によつて作られた忌々しいもの。

[やぶちゃん注:「Long-Ouang-yao 窯」平井氏訳は『隆慶窯』。「隆慶」は明代の元号(一五六七年 ~一五七二年)。以下で注する第十三代皇帝穆宗(ぼくそう)の在位中に使われた。従って穆宗は「隆慶帝」と呼ばれる。

Pi-hi」平井氏訳は『「秘史」』。鍵括弧附きである(次も同じ)。

Nan-niu-ssé-sie」平井氏訳は『「男女秘戯」』。前とともにどんなシロモノか見てみたかったが、如何なる画像検索にも掛かってこない。残念!

Moutsong 皇帝」平井氏訳は『帝穆(ぼく)宗』。明の第十三代皇帝(一五三七年~一五七二年死在位:一五六七年~没年)。ウィキの「隆慶帝」によれば、先代の父『嘉靖帝の晩年、明朝は内政の乱れの他に、「南倭北虜」と称される倭寇とモンゴル系タタールによる侵攻にさらされていた。即位した隆慶帝は嘉靖期の弊政を改革すべく、嘉靖帝への諫言により罪を得ていた徐階・海瑞などの人材を登用し、それまで朝廷で権勢をふるっていた道士を一掃した。また』、『疲弊する国庫を建て直すため、海外貿易を開放し、倭寇とタタールに対してある程度の貿易を認める柔軟策で、対外的にも安定した時代を現出した』。『しかし隆慶帝自身は凡庸な皇帝であり、朝政を省みず、その政務は大学士に代行されていた。また酒色に溺れ、享楽を求めた生活のため』、三十六歳の若さで『崩御した』とある。]

 しかしすべてその他の、驚くべき形狀と實質を有し、魔術的に關節を附せられ、浮彫模樣の粧飾と施された花瓶類――花の萼窩のやうな鐘形を呈したり、鳥の嘴のやうに割けたり、蛇の顎の如く牙があつたり、小女の口の如く淺紅の脣を示せる孔口を有つたのや、蕈や蓮花や蜥蜴や女面馬足の龍に似たのや、不思議に半透明で、飯粒の白い光や霜の空幻なる組紐細工や珊瑚の開花に彷彿せるものなど。

 更にまた、磁器の諸神像――竈の神、墨の十二神、生れながら銀髮の貴い老子、叡智の書卷を摑める孔夫子、黃金の百合の具眞中に雪白の足にて立てる、美はしき慈悲の女神なる觀音、人民に庖厨を敎へた神の神農、長い眼は冥想に閉ぢ、脣は最高至上なる福祥の神祕なる微笑を洩らせる佛、白翼の鶴に跨つて空を乘つて行く長壽の神 Cheou-lao、肥え太つて、夢を見てゐる滿足と富の神 Pou-t'ai、それから、仁慈の手から永遠に紅色の眞珠の雨を降らす美しい才能の女神。

[やぶちゃん注:「Cheou-lao」平井氏訳は『寿老人』。道教の神仙で、「南極老人星」(カノープス:Canopus:りゅうこつ座α星)の化身とされる。酒を好み、頭の長い長寿の神とされ、不死の霊薬を含んでいる瓢箪を持ち、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従え、手にはやはり不老長寿の霊果である桃を持っている姿で描かれることが多い(ウィキの「寿老人」に拠る)。

Pou-t'ai」平井氏訳は『布袋』(ほてい ?~九一七年)。唐末から五代にかけて明州(現在の浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的仏僧。大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。ウィキの「布袋」によれば、常に頭陀袋を背負っていたことから「布袋」という俗称がついた。『出身地も俗姓も不明で』、『寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという』。『生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという』。『その姿は風変りであったが素直な気持ちの持ち主で、人々を満ち足りた気持ちにさせる不思議な力を持っていたという』。『その最期についても不思議な逸話が伝えられており、仙人の尸解に類し』た形で去ったとも言われる。『嶽林寺で遷化したと』も言うが、『埋葬されたにもかかわらず、後日、他の州で見かけられたと』も伝える。『その没後あまり時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が江南地方で行われていたという記録がある』。死に際して残した偈文から(リンク先に原文あり)、『実は布袋は弥勒菩薩の化身なのだという伝説が広まったと』もいう。『なお、布袋を禅僧と見る向きもあるが、これは後世の付会である』。『中世以降、中国では布袋になぞらえた太鼓腹の姿が弥勒仏の姿形として描かれるようになり、寺院の主要な仏堂に安置されるのが通例となった。日本でも、黄檗宗大本山萬福寺で、三門と大雄宝殿の間に設けられた天王殿に四天王や韋駄天と共に安置されている布袋形の金色の弥勒仏像を見ることができる。この像は西欧人に』は『マイトレーヤ(Maitreya 弥勒)と呼ばれる』とある。

「仁慈の手から永遠に紅色の眞珠の雨を降らす美しい才能の女神」平井氏はこの女神を『女神弁財天』と訳しておられる。但し、中国での弁財天の認識は菩薩型の強力な戦争神の女神イメージで、ここに示されたような、まさに日本人の憧れて憧憬するような、技芸のミューズ的女神のそれとはかなり異なるものである。]

 

 

 浦(プー)が人類に遣して置いた無類の藝術は、その幾多の祕訣は實際忘れられ、永久に失はれてゐることであらうが、窯神の物語は記憶されてゐる。孰れの老陶工でも、昔々終日拮据、戶外で顏料を碾いてゐる大陶房の盲目の老人達でも、浦は甞て卑賤なる支那の職工であつたのが、倦むことなき硏究と忍耐と天の靈感によつて遂に最大名工となつたことを語り得るのだ。彼は非常に有名になつたので、或る人は彼を鍊金術者と見倣し、石を金に化する『白と黃』といふ祕傳を知るものと思つた。また他の人々は彼を魔術師と考へ、屋根の瓦の下に呪文を唱へ込めた人の像を隱して置いて、夢魔の恐怖を以て、人を殺す凄い力を有するものとした。更にまた他の人々は萬物を支配する五行の神祕――星の流れの中にも、乳色の天河の中にも動いてゐる力――を發見した占星術者だと斷言した。少くともかやうに無智の輩は彼のことを噂した。しかし天子の側に侍せる、見識確固たる人々も、彼の妙技を激賞して、彼の巧みなる手觸に易々と扱はれ行く美しい材料を使用して、彼の制作の手に叶はぬといふ美術品が世にあるだらうかと話し合つた。

[やぶちゃん注:「浦(プー)」原文は“Pu”。平井氏訳は『風(ふう)』と訳しておられる。但し、「風」だと現代の拼音では「fēng」、「浦」は「」である。]

 すると、或る日の事、浦(プー)が天子へ貴い品を獻上した。それは閃めき燃えた黃鐡礦碩の實質を擬ねた[やぶちゃん注:「まねた」。]花瓶であつた――變色蜥蜴が燦爛たる花瓶の面にのたくり打つてゐた。しかも磁器の蜥蜴は看者[やぶちゃん注:「みるもの」と訓じておく。]が位置を變へる度每に色を變へた。天子は作品の壯麗に驚き、その職工のことを卿相官吏どもに尋ねた。彼等がそれは浦といふ無雙の陶工で、神か又は惡魔の靈感によつて知つたらしい祕訣を有することを答へた。そこで天子は立派な財物を待たせて官吏を彼の許へ遣はし、彼を御前へ召しよせた。

 賤しい職人は皇帝の前へ出でた。して、最敬禮――三たび跪いて、それから額を三たび、九囘づつ地に觸れて――を行つてから、勅命を待つた。

 すると、皇帝は彼にいつた。『朕は汝の獻品を見て非常に愉快を覺えた。して、その美しい器物に對し、汝に酬ゆるに銀五千兩を以てした。しかし汝もし朕の命ずるま〻のものを完成して吳れるならば、その三倍の報酬を與へよう。よく聽け、汝、無双の陶匠! 今や晚は、汝が生ける肉のやうな色澤風趣を有つ花瓶を作ることを欲する。但し――よく朕の希望を注意するがよい!――その肉は詩人の發する言葉に應じて匍匐し、觀念によつて動く肉、思想によつて戰慄する肉なのだ。この命に服從して、違背するな。朕は既に命令したのだ』

[やぶちゃん注:前段で「無雙」の表記がここでは「無双」となっているのはママ。因みに最終段落の「無双」もママ。]

 

 

 さて、浦は顏料を混ぜ合はせる職工の中で、花瓶の裝飾圖案家の中で、釉藥の上に彩色畫を描く職工の中で、色を光らす職工の中で、窯火を監視する職工の中で、要するに一切の陶工の中で、巧妙熟練を極めた人であつた。しかし彼は銀五千兩の恩賜を受けたにも拘らず、王宮から悲しみを懷いて去つて行つた。彼は獨りで考へた。『たしかに肉の美はしさの祕訣と、また肉が動く祕訣は、太上道の幽玄である。どうして人間が死せる粘土に知覺的生命の趣を附與し得られよう? 無限絕對者でなくて、誰が靈を與へることができよう?』

 さて、浦は製陶家の祕術たる色彩の巧妙と優雅の極致を發見してゐた。彼は薔薇の魔法的光耀や、心地よい紅色や、山綠と稱する綠色や、柔かな淡黃色や、燃えるやうな黃金色の美などの祕訣を見出してゐた。彼は鰻の色や、蛇の綠色や、菫の靑紫色や、熔爐の深紅色や、西洋の琺瑯細工師が永く求めて成功し得なかつた、酒精の炎の如く微妙で捕捉し難い洋紅色と藤色を發見してゐた。しかし彼はその指定ざされた仕事に對して戰慄した。彼の陶房の勞作[やぶちゃん注:「ろうさく」。労働。作業。]に歸つて行つたときに、彼はいつた。『どうして貧弱な人間の力で、觀念につれて肉が震動するのや、思想が不可思議に戰慄するのを粘土に現はすことができよう? かの永遠の太模型師たる神の魔力を人間で眞似ができる? 私が模型車[やぶちゃん注:轆轤(ろくろ)。]の上で一個の甕を圓めるよりも、百萬の太陽を作る方が、神の大能力に取つては更に容易なのだ』

[やぶちゃん注:「洋紅色」“carminates”。深く鮮やかな紅赤色。カーマイン。この色(リンク先はサイト「伝統色のいろは」)。]

 

 

 しかし天子の命令は決して違背することはできなかつた。して、堅忍不拔の陶工は天子の希望を實現せんがために全力を發揮して努めた。が、幾日、幾週、幾月、幾季節の間、奮鬪しても徒勞であつた。また神々の助けを祈つても無効であつた。窯の靈に願ひ求めても駄目であつた。彼は叫んだ。『汝、火の精よ、私の願を聽き、私を助けてくれ。如何にせば、私が――粘土に生ける精神を吹き込むことのできぬ無力の私が――一聲の言下に躍り上がり、思想の一動一搖に感じ立つ肉の趣を、この無生物に活現し得られよう?』

 窯の精は、火の囁きを以て、奇異な答を彼に與へたのであつた。『汝の信仰は偉大で、汝の祈禱は凄い! 思想には人間がその過ぎ行く痕跡を認め得るやうな足があるか? 汝は私のために一陣の疾風を測量することができるか?』

 

 

 けれども、確固たる目的を以て、四十九囘までも浦は勅命を完成しようと試みた。惜しいかな、彼は空しく原料を浪費するばかりであつた。彼の力と彼の知職を蕩盡しても、成功は彼に笑顏を注がなかつた。して、災禍は彼の家を訪ね、貧窮は彼の室に坐し、悲慘は彼の竈に慄へた。

 時としては、試驗の際に、火に燒いてから、色彩が奇異に變つたり、或は灰臼に褪めたり、或は森林の黴[やぶちゃん注:「かび」。]の模糊たる色に煤けたりすることがあつた。すると、浦はかやうな災難を見て、窯の精に哀禱泣訴した。『汝、窯火の精よ、汝の助けがなくては、どうして私は光澤ある肉の趣と、生ける色の溫たい光を作り出せるだらう?』

 すると、窯の精は火の囁きを以て、神祕的に彼に答へた。『汝は天穹を美しくした無限の釉藥工の技術を學ぶことができるか?――彼の刷毛は光線である。彼の顏料は夕べの色彩である』

 また時としては、色彩が變はらないで、刺點を施し、丹精を注いで作つた表面が、熱の中で活きてきて、生ける皮膚の潑溂さを帶びさうになつてから――いよいよ最後に達してから、職工達のあらゆる骨折が徒爾[やぶちゃん注:「とじ」。無駄。]に歸することもあつた。何故なら、輕佻浮薄の物質は彼等の努力に叛逆して、ただ凋れた果實の皮の上にあるやうな怪奇な皺を生じ、または荒荒しく羽毛を剝がれた死鳥の肌膚に見る如き粒狀を呈するのみであつたから。して、浦は涕泣して、窯の精に叫んだ。『汝、炎の精よ、汝が助けを與へて吳れないでは、どうして思想につれて肉が竦動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。慎み畏(かしこ)まること。恐れて身を縮めること。]する狀[やぶちゃん注:「かたち」。]を模作し得られようか?』

 すると、窯の精は、火の囁きを以て神祕的に彼に答へた。『汝は石に魂を與へ得るか? 汝は花崗岩の山の内部に思想を浸み渡らせることができるか?』

 時としては、實際すべての勞作が失敗に了はらぬ場合もあつた。色は立派と思はれ、また花瓶の實質は、龜裂も、皺も、縮れもなくて、全く無瑕[やぶちゃん注:「むきず」。]のやうに見えた。しかし溫かい皮膚のしなやかさが見受けられなかつた。色合こそ肉のやうな表面も、金屬の粗厲[やぶちゃん注:「それい」。荒く鋭い感じであろう。]なる樣子と、硬い光を示すのみで、感覺ある物質の柔かな果肉性を模擬しようとの慘澹たる苦心は、何等の痕跡をも留むる事なく、窯火の息吹に一蹴されて了つた。浦は絕望の餘、窯の精に叫んだ。『汝、無慈悲の神よ、私は幾多の犧牲を捧げて汝を崇拜してゐるのに、私を棄てて顧みないのは、何の過失、何の罪のためであるか? 哀れなる私は、汝の救ひがなくては、どうして言葉につれて匍匐し、思想の擽る[やぶちゃん注:「くすぐる」。]ま〻に竦動する肉の趣を作り得ようぞ』

 すると、窯の精は火の轟きを以て彼に答ヘた。『汝は靈魂を分かつ事ができるか? 否! ……汝の作品の生命のためには汝の生命!――汝の花瓶の靈魂のためには汝の靈魂!』

 この言葉を聽くと、浦は胸に漲る怖ろしい決心を以て蹶起した。して、いよいよ最後の第五十囘目の試みとして、窯に入れる作品の準備にかかつた。

 百囘彼は粘土と硅岩、高陵と石胎を淘汰し、百度それを淸潔な水で淸めた。百囘位は倦むことなき手で、乳狀可粘物を捏ねて、最後に彼のみ知つてゐる顏料をそれに混じた。それから花瓶の恰好を作つては、また作り直して、遂にその柔和さは生きてゐるに見え、戰慄し、鼓動するやうに見えてきた。しかもそれは内部からの活力に發し、表皮の裏面に波立つ圓やたな肉から出でるかと思はれた。實際、生命の光澤がその面に浮たび、また量奧の實質中に滲透してゐて、血液の生々と輝いた組織のやうな紅色と、血管の網狀をなせる紫色を彷彿せしめ、全體の上には日光色に光つて、つやつやしい釉藥を着せて、女の磨き上げた肌を欺いてゐた。世界開闢以來、人間の技倆で、これに匹敵すべき作品は、未だ甞て作られたことがなかつた。

 それから、浦は手傳ひの人々に tcha の材木で盛に窯火を燃やしつづけさせた。が、誰にも彼の決心を告げなかつた。しかし窯が赫々と輝き始め、彼の作品が熱火の中に咲き出でて紅潮を呈するを見てから、彼は炎の精の前に身を屈めて呟いた。『汝、火の精、火の主よ、私には汝の言葉の眞理がわかつた。靈魂は決して分けることはできない。だから、私の作品の生命のために私の生命! 私の花瓶の靈魂のために私の靈魂!』

[やぶちゃん注:「tcha」平井氏は『松薪』と訳しておられる。但し、現在の松の拼音は「sōng」である。ハーンの綴りのもとは不明である。どうも私に何か別の種の木のように思われてならない。]

 

 

 そこで、九日と八夜の間、窯は絕え間なく tcha の薪を供給され、また九日と八夜の間、職工述は驚くべき花瓶が炎の息吹によつて薔薇の如く輝いて、晶化するのを監視した。第九夜になつてから、浦は仕事も殆ど出來上つて、成功は確證されたからといつて、すべて疲れた連中を寢に就かせた。『もし夜が明けてから私がこ〻にゐなくても、花瓶を窯爐から取り出すことを恐れるな。勅命通りに、仕事は完成されてゐると思ふから』と彼はいつた。職人達は歸つて行つた。

 しかしその第九夜に、浦は炎の中へ入つて、彼の身命を窯の精に獻げた――彼の生命を彼の作品の生命とし、彼の靈魂を彼の花瓶の靈魂としたのであつた。

 して、十日目の朝、職工達が珍妙なる陶器を取り出すためにきた時、浦の骨さへも亡くなつてゐた。しかし不思議! 花瓶は生きてゐた。言葉につれて動き、思想の擽るま〻に匍匐する肉のやうであつた。して、指で軽打する每に、聲と名を發した。その作者の聲、その作者の名――浦。

[やぶちゃん注:この後のみ、二行でなく、一行空け。]

 

 かくて、天子はこの話を聞き、また驚異すべき花瓶を見てから、側近の者どもにいつた。『いかにも、信仰の力、服從の力によつて、奇蹟が演ぜられた! しかしかやうな殘酷な犧牲の行はれることを、朕は決して欲したのではなかつた。朕はこの無双の技術家の力は、神々から來たものか、惡魔から出でたものか――天からか、地獄からか――を知らうと欲したのみであつた。今や實際浦は神々の中に位を占めたのだ』して、天子は痛く彼の忠實なる臣のために悲しんだ。しかし彼はこの驚くべき藝術家の靈に對して、神のやうな尊敬を拂ふべきこと、彼の名は永遠に崇めらるべきこと、それから、中華國のすべての都會と、すべての陶房に、彼の立派な像を設けて、幾多の職工は常に彼の名を呼び、彼等の勞作の上に彼の祝福を求むるやうにすべきことを命じた。

 

大 清 國

 

[やぶちゃん注:「清」はママ。]

 


175

 

【ハーンによる「解說」】

 『窯神譚』――始めて支那の製陶術の祕訣を歐洲へ偉傳へた宣敎師ダントルコル氏は、百六十年前に書いた――

 『支那の帝王は彼等の存命中は、最も恐ろしい神のやうなものである。して、彼等は何ものも彼等の希望を妨げ得ないものと信じてゐる…… 
 甞て或る皇帝が一つの見本通りの陶器を作るやうにと嚴命した。その製作は全然不可能であるといふ答を得たので、彼の願望は却つてますます募つてきた……半神の如き皇帝の命を受けて、その事業の監督と促進に當つた官吏は、職工輩を遇するに粗暴を極めた。可愛相にも職工達は、その資力を盡蕩し、非常なる骨折を拂つて、しかも報酬としてただ打擲[やぶちゃん注:「ちやうちやく(ちょうちゃく)」。]を受けるのみであつた。一人の職工は絕望窮策の餘、烈火の中へ跳び込んで、直ち燼となつた。しかし恰もその際窯中で燒いてゐた陶器は、完全に美麗なる結果を呈し、皇帝の嘉賞を博したとのことである……それから、かの不幸なる最期を遂げた陶工は、英雄として仰がれ、彼の像は製陶守護の神として祀られた』

 ダントルコル氏は安樂の神 Pou’t’ai の像を、眞正の竈神の像と間違へたらしい。それはヂヤツクマール氏及び他の諸氏が指摘してゐる通りだ。しかしこの誤謬はその神話の美を壞はすものではない。またダントルコル氏は景德鎭に於ける支那人の友が、彼に話したままを寫したものと思はれる。この他の諸點に關して、この天主敎宣敎師の記事の信憑するに足ることは、スタニスラス・ヂユリアン氏並びに他の諸大家の硏究が、ただますます保證して行つたばかりである。ヂユリアン氏並びにサルヴエター氏の兩大家は、その天晴れ立派なる佛譯の『景德鎭陶錄』(この書は私がこの小話を書くに當つて、非常に役に立つた)の中に、ダントルコル氏の書簡から長いことを引照し、また眞摯なる硏究家として最上の賞讃を彼に捧げてゐる。私の知り得た限りでは、この神話については、彼が唯一の典據となつてゐる。また他の事柄に關して彼が確言したことが、歲月の精嚴なる取捨によく堪へてゐのるのは驚くばかりである。して、長髮賊の亂が景德鎭を亡ぼし、その貴い工業を萎縮させてから以來、佛國宣敎師の文書と記事は、廣くその價値を認めらる〻に至つた。物語の主人公の名として、私は安樂の紳と區別するため、ただ添附字を省いて、單に浦(プー)といふ名を用ひた。

[やぶちゃん注:「ダントルコル」フランソワ・ザビエル・デントレコール(François Xavier d'Entrecolles 一六六四年~一七四一年)。中国名「殷弘緖」。イエズス会司祭で中国に伝道し(一六九八年到着)、江西省で最初に布教活動を行った後、一七〇六年から一七一九年にかけては中国フランス系イエズス会総督となり、その後、北京のフランス居留地長官を務め、北京で没した。一方で特に中国の陶磁器の研究を行ったことでも知られる。

「安樂の神 Pou’t’ai」本文で注した通り、「布袋(ほてい)」のこと。

「サルヴエター」先に示した“Histoire et fabrication de la Porcelaine chinoise”をスタニスラス・ジュリアンと共訳した、フランス人化学者で磁器研究をしていたアルフォンソ=ルイス・サルヴェータ(Alphonse-Louis Salvetat 一八二〇年~一八八二年)である。]

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