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2020/02/24

三州奇談卷之三 白山の梟怪

     白山の梟怪

 加州一の宮白山比賣(しらやまひめ)神社は、神祕菊理媛(きくりひめ)と稱し奉り、神代よりの鎭座なり。

[やぶちゃん注:標題は「はくさんのけうくわい(きょうかい)」と読んでおく。狭義にはフクロウ目フクロウ科フクロウ属フクロウ Strix uralensis であるが、ここはフクロウ科 Strigidae に属する種群と言っておく。正しく同種であるとすると、本州中部を棲息域とするモミヤマフクロウ Strix uralensis momiyamae の可能性が高くなる。日本と中国では古くからあの鳴き声の不気味さと、「母親を食べて成長する」と考えられていたことから「不孝鳥」の冤罪の汚名を冠することが多く、晒し首の異名「梟首」も災いして、嘗てのイメージは悪い方に傾きがちであったと言える。博物誌は私の和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ)(フクロウ類)」を参照されたい。

 

「白山比賣神社」石川県白山市三宮町にあり、現行では白山比咩神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)と表記する。加賀国一の宮。白山(はくさん)山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る。ウィキの「白山比咩神社」によれば、『元は、手取川の畔にある現在の古宮公園の場所に鎮座していたが、室町時代に火災で焼失し、現社地に遷座した。また白山山頂の御前峰には奥宮も鎮座し、山麓の社殿はこれに対して「下白山」または「白山本宮」と呼ばれていた』。『社伝由緒によれば、崇神天皇の時代に白山を遥拝する「まつりのにわ」が創建された。元正天皇の霊亀』二(七一六)年に『安久濤』(あくど)『の森に遷座して社殿堂塔が造立された、と伝わる』とある。

「菊理媛」「くくりひめ」とも呼ぶ。ウィキの「菊理媛神」によれば、「古事記」には登場せず、「日本書紀」の『一書(第十)に一度だけ出てくるのみである』。『神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した』が、『泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、伊弉冉尊と口論になる』。『そこに泉守道者』(よもつちもりびと:黄泉比良坂の番人)『が現れ』、『伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った』。『つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、とある』。『菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない』。『この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。 夜見国で伊弉冉尊に仕える女神とも』、『伊奘諾尊と伊弉冉尊の娘』とも、伊弉冉が「故(かれ)、還らむと欲(ほ)ふを、且(しばら)く黃泉神(よもつかみ)と相論(あひあらそ)はむ」(「古事記」)『と言及した黄泉神』(伊弉冉以前の黄泉津大神)とも、『伊弉冉尊の荒魂(あらみたま)もしくは和魂(にぎみたま)』『あるいは伊弉冉尊』『の別名』『という説もある。いずれにせよ菊理媛神(泉守道者)は、伊奘諾尊および伊弉冉尊と深い関係を持』っており、『また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことから』、『シャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。ケガレを払う神格ともされる』。『神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる』。『菊花の古名を久々(くく)としたことから「括る」に菊の漢字をあてたとも』、『また菊花の形状からという説もある』、『菊の古い発音から「ココロ」をあてて「ココロヒメ」とする説もある』。『他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜(くく)り/潜(くぐ)る」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある』。『なお、神代文字で記されているとされる』「秀真伝」(ほつまつたえ)には、『菊理媛神が、天照大御神の伯母であるとともにその養育係であり、また万事をくくる(まとめる)神だと記されている』(本篇の次で「天照大神の母神」と言っているのはその敷衍であろう)。『白山比咩神と同一とされるようになった経緯は不明である。白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の祭神について、伊奘諾尊・伊弉冉尊と書物で書かれていた時期もあ』り、『菊理媛を白山の祭神としたのは』、平安後期の公卿で儒学者であった大江匡房が「扶桑明月集」の『中で書いたのが最初と言われている』とある。]

「人を惠む佛が神のははそばら、紅葉も雪も深き白山」

と、本地堂(ほんぢだう)の奉納あり。むべ此神は天照大神の母神にてましませばこそ、斯はよみけん。其地は金城を隔つる事四里。麓に鶴來村あり。當國一の名酒を出し、巨家の酒店軒を並べ、四八(しはち)を市日(いちび)として、此山人の村々、爰に會す。

[やぶちゃん注:「本地堂」ウィキの「白山比咩神社」によれば、『白山本宮の社殿堂塔復興は、安土桃山時代に正親町天皇から白山宮復興の綸旨を受けた前田利家により』、『避難先の三宮の地で再建が始まり』、文禄五(一五九六)年に『竣工した』。『再建後の江戸時代は加賀藩主が神社の経営をみ、加賀一ノ宮・白山本宮である当社』『の神社社殿、そして社頭境内北側には神宮寺として』白山寺本地堂『(現在の北参道境内・白光苑周辺)が建立された。この時代、白山比咩神社は小松の天満宮と共に前田家にとって特別な存在であり』、『白山寺は江戸時代中頃に社の経営を』行った『加賀藩前田家が珠姫の菩提寺高野山天徳院の大檀那である縁で』、『真言宗に転じたと伝わる』。明治の廃仏毀釈により神宮寺であった白山寺は廃されて本地堂も現存しない

「鶴來村」石川県の旧石川郡鶴来町附近。現在、白山市。この附近。]

 「金剱(きんけん)の宮」に「砥(と)の池」あり、靈異尤も多し。又古城跡は怪巖亂れ崩れ、是(ここ)昔、高畠(たかばたけ)石見守住せしとかや。前は手取川の水逆卷き、直に海に下る。北陸道第三の大川なり。見るに肝すさまじく、目をとゞろかして流ると云ふべし。其間の岡は此神社なり[やぶちゃん注:地形から見て前の白山比咩神社のことであろう。]。

「山成向背斜陽裹、水似回流迅瀨間」

とは爰の景を述ぶるにこそ。地靈と云、神威と云、奇特(きとく)詞(ことば)に述べ難し。鹿(しし)を喰うて登山して、風雨の爲に追下(おひくだ)されたる事もあり。非道の立願(りふぐわん)して、卽時に罰を蒙りし類(たぐひ)多し。卷中に見るべし。

[やぶちゃん注:「金剱の宮」白山市鶴来日詰町にある金剱宮(きんけんぐう)。「石川県神社庁」公式サイト内の同宮の解説によれば(地図あり)、『古代出雲文化が早く海岸線を経て能登地方に及んだのに対し、この地方は大和文化の拠点であるばかりでなく、総じて県内では最も古い文化の発祥地であるから』、『神社の由緒でも有名なことがらを数多く残している。中世以来白山七社の一に数えられ、そのうち白山本宮・三宮・岩本とともに本宮四社といわれていた。神仏習合の当時、いわゆる七堂伽藍雲表にそびえ神官社僧、即ち神人衆徒多数をようしていた。安徳天皇の』寿永二(一一八三)年五月、『源義仲が倶利伽羅谷で平家の軍勢を打ち破ったが、これを金劔宮の神恩として、鞍置馬』二十『頭と横江庄を寄進し、それから』三『年の後、後鳥羽天皇』の文治二(一一八六)年二月十日には、『源義経が』奥州逃避行の途次、『本社に参拝一泊し、神楽を奉納している他、足利・富樫・前田等、歴代武門藩主の崇敬が篤かった』。『なお、和銅年間』(七〇八年~七一五年)『に当宮のご分霊を奉戴して移住したといわれる岐阜県郡上郡大和町字「劍」には現に金劍神社(こんけんじんしゃ)があり、御祭神も同一である。最近になり』、『福井県遠敷郡上中町武生にも金劔神社(かねぎじんじゃ)の存在が明らかとなった』とある。

「砥の池」ウィキの「金剱宮」によれば、「天乃真名井(あめのまない)」を挙げ、『金剱宮の境内に湧く泉。天の真名井』『は天平年間』(七二九年~七四九年)『から伝わる古池とされる。戸の池、殿池とも言われた時代があり、「三州名蹟誌」等にも記録があ』り、大旱魃の『時も長雨の時も変わらぬ水量で知られる』。『「明星水」「天忍石水」として住民からの尊敬も篤い』とある。

「古城跡」鶴来地区の市街地の東南の舟岡山頂にある舟岡山城跡であろう。前田利家が金沢城に入城後、利家の家臣であった高畠石見守定吉(さだよし 天文五(一五三六)年~慶長八(一六〇三)年:尾張出身。前田利家に仕えて戦績を重ねた。利家の妹津世姫(長久院)を夫人に迎えている。他にも七尾城・越中宮崎城などの守将を務め、利家股肱の臣の一人として北陸攻略・鎮定に寄与した。利家の死後は息子の前田利長に仕え、「関ヶ原の戦い」の際には金沢城の留守を任されている。慶長四(一六〇二)年に致仕し、剃髪して京都に隠棲した。以上はウィキの「高畠定吉」に拠る)が入っている。慶長六頃、廃城となった。

「目をとゞろかして流る」何だか謂いがおかしい。国書刊行会本は『日蕩して』(ひとろかして)「近世奇談全集」では『目を蕩(とろ)かして』である。前が「見る」であるから、「目」はダブる感じが否めない。激流に陽が当たるのを見ると、太陽の光をそこにとろかして流しているように見えるという意味で、国書刊行会本を採りたい。

「山成向背斜陽裹、水似回流迅瀨間」自然流で訓読すると、

 山 向背に成る 斜陽の裹(うち)

 水 回流に似る 迅(と)き瀨の間(くわん)

か。

「鹿」「しし」は私の読み。獣。猪や鹿。]

 されば代々の國主崇敬を加へ給ひければ、莊嚴(しやうごん)巍々(ぎぎ)としていらか珠をのべたり。

[やぶちゃん注:国書刊行会本は頭の部分は『去(され)ば代々の国主崇敬を加へ、神威益々いちじるく、貴賤あゆみをはこぶ事最然也(なり)。年每に修造を加へ給ひければ、』となっている。

「巍々」厳(おごそ)かで威厳のあるさま。]

 御年[やぶちゃん注:ママ。国書刊行会本は『或年(あるとし)』。]、例の如く嚴命として、榊原市郞左衞門・崎田(さきだ)市三郞兩人奉行として、城下より數多(あまた)の番匠を召具し、此白山の神社に至りて修理あり。然るに諸職人共、晝は造作をなすと云共、夜は皆里に下りて宿りぬ。工匠の具悉く爰に在るを以て、小遣の男兩人を留(とど)めて非常を守らしむ。

[やぶちゃん注:「榊原市郞左衞門」藩士に数人の榊原姓あり。

「崎田市三郞」「加能郷土辞彙」のこちらに「崎田伊織」(さきだいおり)を挙げ、『伊豫西條城主一柳直興の金澤に御預となつた時附隨して來た人。直興逝去の後、伊織の子市三郞は堀田綱紀に召出されて二百石を賜ひ、本組與力となり、子孫相繼いだ』とある、その人物か子孫であろう。]

 然るに小夜更(さよふく)る頃、松風蕭颯(せうさつ)として哀猿(あいえん)嶺(みね)に叫ぶ聲いとゞかなしく、秋の夜のいねがてなる儘に、彼(かの)男拜殿に這出で、打仰ぎ見るに、良夜にして一點の雲もなく、月皎々としていまだ半天に懸り、松枝を交へ、古木しんしんとして誠に神さび、心もすみ渡る樹上に梟の宿(やど)して鳴くこと頻(しきり)なり。

 いと物すごかりしに、一人の男天性輕忽(けいこつ/きやうこつ)[やぶちゃん注:「軽率」に同じい。]なる者なれば、只一聲應じて彼(かの)鳥の眞似をなしけるに、怪しや此鳥梢を離れて、近く社頭の棟に下(お)り鳴くこと頻なり。

 彼男も興ある事に思ひ、重ねて應ずるに、次第に近く來(きたり)て、庭に下り鳴くこと元の如く、斯くして聲を爭ひしに、爰の嶺(みね)彼處(かしこ)の梢より、數多の梟おり來て、社頭の瑞籬(みづがき)・欄干・おばしまに充ち滿ちて其數幾千羽と云ふことを知らず。

 爰に至りて彼者大(おほき)に驚き怖れ、いかんおもすることなし。

 今一人の男竟に走りて、此怪を社司に告ぐる。

 神主曰く、

「時として如ㇾ此(かくのごとき)奇事あり。若(も)し人爭ひ負(まく)る時は、必ず死亡の災(わざはひ)ありと云ふう傳へり。いざや里人を語らひ、此害をまぬかれしめん」

と俄に數輩をかり催して、面々聲の限りおめき叫びて爭ひける程に、漸々(やうやう)夜も東雲(しののめ)の頃にもなれば、怪鳥どもはちりぢりに立去りて、程なく曉の鐘も鳴りしに、遂に一羽も見へず成りにける。

 是陰鳥の故にや。

「人の寐言にこたへて負(ま)くれば害あり」

といふ。

「山陰の地にはかゝる怪も有にや」

と此(この)奉行榊原氏の物語なり【神主家系は下道(しもつみち)なり。建部(たけべ)・椋部(くらべ)の二家なり。今建部一家となる。椋部は浦方の在名に殘ると云ふ。】

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。

「蕭颯」現代仮名遣「しょうさつ」。もの寂しいさま。特に秋風が吹いて心細いさま。

「下道」下道氏は古代の備中国・吉備国の豪族で吉備氏の系統で、吉備真備の本姓も下道である。

「建部」ウィキの「建部氏」によれば、『著名な建部氏としては、日本の古代氏族の一つである建部氏がある。日本武尊の名代部(ヤマトタケルノミコトを奉斎する軍事的部民)で、倭建尊から建部を正字とする』。「日本書紀」や「出雲国風土記」あり、『古代大和朝廷から各地に配置された屯田兵のような軍事集団であったとされる』とある。この「建部」がそれであるかは不明。

「椋部」飛鳥時代の官吏で、椋部秦久麻(くらべのはたくま)という人物がいる。推古天皇三〇 (六二二) 年、聖徳太子の死後、妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が太子を偲んで作らせた「天壽國曼荼羅繡帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」の製作監督を務めたと伝えられる。この「椋部」がそれであるかは不明。

「椋部は浦方の在名に殘る」嶋田良三氏のサイト「ののいち地域事典」のこちらの「石川郡」に、『石川郡が一郡として、はじめておかれたのは、八世紀の弘仁十四年(八二三)六月という』とされ、「日本紀略」に『「加賀郡管郷(かんごう)十六、駅四のうち、八郷一駅をさいて石川郡をおく、地広く人多きゆえなり」とかかれてありますように、石川郡は加賀郡(後の河北郡)から別れておかれた郡です』。『石川郡がおかれたときの八郷一駅というのは、古い書物によりますと、富樫(とがし)、中村(なかむら)、椋部(くらべ)、三馬(みんま)、拝師(はやし)、井手(えて)、味知(みち)、笠間(かさま)の八郷と比楽(ひらか)の一駅であったろうといわれています』とある。ここでは「くらべ」の読みであるが、実際「椋部」は「くらべ」とも読む。而して海浜に白山市倉部町が現存し、ここは鎌倉時代には「椋部」の表記で記録がある地名である。]

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