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2020/02/11

三州奇談卷之二 吉松催ㇾ雨

 
    吉松催ㇾ雨

 五穀寺稻荷社は、小松城内の鎭守にして、由緖ある靈場なり。近年小松町の小兒を粧ひて歌舞妓をなす事はやりて、山王・諏訪・多田八幡交々(こもごも)日限(ひぎり)を願ひて興行あり。其度々町々より幟・造り物、見物の賑ひ暫く花洛をうつすに似たり。

[やぶちゃん注:標題は「吉松(きちまつ)雨を催す」と読んでおく。「きつまつ」「よしまつ」でも別に構わぬ。

「五穀寺稻荷社」現在の小松城跡から東北直近の位置にある小松市大川町にある葭島(よしじま)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「石川県神社庁」の同神社の解説に(総て下線太字は私が附した)、『元、小松城中葭島に鎮座(前田利常公小松城に入る以前より)』し、『前田利常公』が寛永一九(一六四二)年九月、『多田権内奉行に命じて現社地に屋舗社堂護摩堂建立せられ』、『之を拝領し、又宝物什器を拝領する』。正保元(一六四五)年八月、『小松城の守護神稲荷大明神を遷座する。爾来藩主別段大社格に取扱われ、城内士族を氏子として毎年正月に国家安泰、五穀豊穣、商工業繁昌御祈祷を行う。前田利常公と縁極めて深き当社には古くより公の御霊を斎き祀る』とある。「五穀寺」という冠があるが、サイト「まるごと・こまつ・旅ナビ」の同神社の解説に、『現在の宮司さんのご先祖は、もとは能登の石動山天平寺の・高倉坊行蔵院空清(たかくらぼうぎょうぞういんくうせい)で、縁あって加賀藩前田家から金沢の犀川のほとりに土地を与えられて住んでいた。その頃に前田利常公に非常に気に入られたそうだ。その裏付けもきちんとあるとのこと』とあり、寛永一六(一六三九)年に『利常公が小松城に隠居する際、金沢から小松へ招かれ、現在とは違った場所だが、梯川』(かけはしがわ)『のそばに土地を与えられ』、『諸社堂を造営し』て『「五穀寺」と称した。しかし、洪水が起こった時に流され』、『大破してしまったので』、正保元年、『現在の場所に新たに社が建立された。その際に小松城の守護神として葭島に鎮座していた「稲荷大明神」を合祀し、「稲荷社」と称された』とある。詳しい経緯は「石川県能美郡誌」の同神社の解説(国立国会図書館デジタルコレクション)のここにあり、本篇も引かれてある。「五穀寺」を冠するのはこの「三州奇談」のみであるが、当時は神仏習合で元型建立に関わったのが僧であるから腑に落ちる名称と思う。

「山王」現在は小松市本折町にある本折日吉神社であろう。同社は古くは古府町にあって「石部山王総社」「府南山王明神」と呼ばれていた。

「諏訪」小松市大領中町にある諏訪神社か。以下の多太神社の南直近にある。

「多田八幡」既出既注の現在の小松市上本折町にある多太神社

「日限を願ひて」一定の日数で依頼して。

「花洛」花の都。京都。]

 然るに此稻荷に興行する每に、雨降つて興を失ふ。いろいろ日を換へ、或は日限を延ばしすれども、とかく雨天になること幾度といへども同じ。

「何樣(いかさま)寶物に雲龍の香爐あれば、是が爲ならんか」

[やぶちゃん注:「何樣」きっと。]

と、取隱せどもかわらず。或は神前に奉幣をさゝげ、手を盡せども、此芝居さへ始まれば、必ず雨降る。或人思ひ付(つき)て、舞臺の敷板(しきいた)の松の平物(ひらもの)[やぶちゃん注:国書刊行会本では以下『を皆取隠(とりかく)せしに、忽(たちま)ち雨晴れて四五日の興をぞ尽しける。』とあって以下の内容が続いている。その方が判り易い。]は、二口村と云所の神社の地の松なり。幾千年ふると云ひ傳へしも、近年村里困窮して、所々の大樹は伐りて出すにより、此松も賣出しけるを、小松泥町の何某買ひて、此稻荷の社地に預置きけり。

「面平(たひら)かに木厚く、舞臺の用に遺ひて屈强一の物なり」

とて、每度此材木を用ひしに、此松板に日さへ向へば、愁々として雨を催しける。

[やぶちゃん注:「平物」前に「敷板」とあるが、単なる舞台に敷くものだけでなく、歌舞伎の大道具の一つで、平たい板を切り抜いて立木などに見せかける「きりだし」などを「平物」と謂うので、広義の大道具のことととっておく。

「二口村と云所の神社」思うにこれは能美市西二口町にある西二口春日神社ではなかろうか。やや小松からは北に離れるが、同じ旧能美郡内である。

「小松泥町」既出既注。この葭島神社のある小松市大川町の旧名。恐らくは町の北を横切る梯川が洪水で氾濫して泥だらけになることに由来するものと思われる。]

 是に依て二日村に人を遺し問はせけるに、此松を伐りし日も、杣(そま)・木挽(こびき)二人とも、日あらずして物の襲はるゝ樣にて死しけるよし聞へし儘、彌(いよいよ)

「此松の故にこそ」

と、拜殿の傍へぞ引除けゝる。

 昔秦の始皇は、松俄に大木となりて雨を防ぎしと聞し。けふは又雨を降らしけるはいかに。松は兼て鱗甲(りんかふ)ありて、老いて龍に化すと云ふ。

「されば常に雲雨を呼ぶの妙ありけるにや」

と、皆人(みなひと)松の奇特(きどく)を感じける。

[やぶちゃん注:秦の始皇帝の逸話は以下の変形であろう。ブログ「羽田会の部屋」の「松の位の太夫職」から引用させて貰う。始皇帝が『外出した折、にわかに、夕立が降って来ました。あいにくと雨具の用意はありません。しかし、始皇帝は、そばにあった松の木の下で雨宿りをし、濡れずにすんだのです。これに感激した始皇帝は、「感心な松である」と言う事で、その松の木に「五位」と言う、高位な位階を授けたのです』。『そんな逸話から、売れている高級花魁は「何々太夫」となのります。太夫は「五位」です。つまり始皇帝から「五位」の位を授かった「松」と同じです。したがって、高級花魁を「松の位の太夫職」などと評する様になったのです』(後者の部分は面白いトリビアなので添えておいた)。]

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