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2020/02/09

石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版電子化注) 煙 一

 

[やぶちゃん注:本電子化注の底本その他については、「石川啄木歌集 一握の砂 (初版準拠版) 始動 /序・自序・附記・本文第一パート「我を愛する歌」(全)」の私の冒頭の注を参照されたい。

 なお、學燈社『別冊國文學』(第十一号)の岩城之徳編「石川啄木必携」(昭和五六(一九八一)年九月発行)の岩城氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、本パートの「一」は盛岡中学校時代の回想(全四十七首)を主とし、「二」は渋民時代の回想を主に収めたもの(全五十四首)である。(計全百一首)。]

 

 

    

 

病(やまひ)のごと

思鄕(しきやう)のこころ湧(わ)く日(ひ)なり

目(め)にあをぞらの煙(けむり)かなしも

 

 病のごと

 思鄕のこころ湧く日なり

 目にあをぞらの煙かなしも

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年十一月号『スバル』。]

 

 

己(おの)が名(な)をほのかに呼(よ)びて

淚(なみだ)せし

十四(じふし)の春(はる)にかへる術(すべ)なし

 

 己が名をほのかに呼びて

 淚せし

 十四の春にかへる術なし

[やぶちゃん注:明治四三(一九一〇)年の作として満二十四、この「十四」は数えであるから明治三二(一八九九)年相当となる。岩手県盛岡尋常中学校一年次末から二年次(四月一日附けで校名が岩手県盛岡中学校に変更された)に当たる。この年、啄木は後に妻となる堀合節子(啄木より八ヶ月遅れの同年(明治一九(一八八六)年十月)生まれ)と知り合っている。節子はこの年の三月二十四日に盛岡高等小学校を卒業し、四月一日に私立盛岡女学校二年に編入学している。]

 

 

靑空(あをぞら)に消(き)えゆく煙(けむり)

さびしくも消(き)えゆく煙(けむり)

われにし似(に)るか

 

 靑空に消えゆく煙

 さびしくも消えゆく煙

 われにし似るか

 

 

かの旅(たび)の汽車(きしや)の車掌(しやしやう)が

ゆくりなくも

我(わ)が中學(ちゆうがく)の友(とも)なりしかな

 

 かの旅の汽車の車掌が

 ゆくりなくも

 我が中學の友なりしかな

 

 

ほとばしる喞筒(ポンプ)の水(みづ)の

心地(ここち)よさよ

しばしは若(わか)きこころもて見(み)る

 

 ほとばしる喞筒の水の

 心地よさよ

 しばしは若きこころもて見る

[やぶちゃん注:「喞筒」「pump」の当て字。「喞」(音「ショク・ソク」)の字には「集(すだ)く・虫が集まって鳴く」と「かこつ・不平を言って嘆く」以外に「水を注ぐ」の意がある。手押しポンプ式の井戸のシチュエーションと私はとる。]

 

 

師(し)も友(とも)も知(し)らで責(せ)めにき

謎(なぞ)に似(に)る

わが學業(がくげふ)のおこたりの因(もと)

 

 師も友も知らで責めにき

 謎に似る

 わが學業のおこたりの因

[やぶちゃん注:これはその怠業の原因は実は師や友ばかりではなく、誰にも、即ち、啄木自身にも全くの「謎」のようなものであったというのであろう。近年の研究で啄木は低血糖症状を持っていたとされるが、返す当てもない多額の借金を絶え間なく重ねたこと、過剰なまでの女色癖、それに比して妻節子への異様な嫉妬心の発動、そしてこれら短歌群に見られるようなハイ・テンションとネガティヴなどん底の極端な回帰性を示す感情曲線を見るに、所謂、慢性的なかなり重い双極性障害(躁鬱病)が疑われるように私は思う。但し、啄木は小学校時代の卒業時は学業・行状・認定総てが五段階評定の最高位の「善」(盛岡仁王尋常小学校)で、中学校(岩手県で最初の中学校として設立された岩手県尋常盛岡中学校。途中で「尋常」を外して改名)入学試験は百二十八名中十番、第一年次修了成績は学年百三十一名中二十五番、二年次は百四十名中四十六番の好成績者であったから、そこまで以前、満十四歳頃以前に遡る内容ではない。但し、その後、教員の欠員と、学校内の教師支配による陰湿な雰囲気に対してそれを刷新すべきとする三年生と四年生が、授業ボイコットとストライキに発展、それに啄木も参加しており(三月一日附で県知事裁決による教員に大異動が発令されて同校校長・職員定員二十八名の内、校長以下実に二十四名が休職・転任・依願退職となっている。生徒側は首謀者とされた三年の及川八楼が諭旨退学で、完全な生徒側の勝利となった)、そのためでもあろうか、三年次は百三十五名中八十六番、四年次は百十九名中八十二番と急降下し、しかもこの四年次の学年末試験で不正行為を行ったとして譴責処分を受け、しかも五年次第一学期の成績も甚だ悪く、校則に照らすと、五年次を修了出来ずに落第する恐れが極めて高い状態にあった。その結果でもあろう、五年次の明治三五(一九〇二)年十月十七日、「家事上の都合により」を理由として退学願を提出し、受理された(この十月三十一日に上京した)経緯があるから(太字部の主たる事実は筑摩版全集筑摩書房「石川啄木全集」の「第八巻 啄木研究」(昭和五四(一九七九)年刊)の岩城之徳(ゆきのり)氏の「伝記的年譜」に拠った)、この一首はその閉区間のことととれるので、さすれば、この「おこたりの因」は実は「謎」ではなく、極めて明白な原因――学校組織への激しい不信感や、彼が行ったとされる不正行為への自己嫌悪、或いはそれが無実の濡れ衣であったとすればそれへの激しい怒り――が見てとれると言えるのである。

 

 

敎室(けうしつ)の窓(まど)より遁(に)げて

ただ一人(ひとり)

かの城址(しろあと)に寢(ね)に行(ゆ)きしかな

 

 敎室の窓より遁げて

 ただ一人

 かの城址に寢に行きしかな

[やぶちゃん注:「かの城址」前注も参照されたいが、追懐内の過去時制は盛岡中学校の四~五年次(満十五~十六歳)の頃のこととなる。同中学校は現在の盛岡第一高等学校の前身ではあるが、校舎の位置が全く異なり、当時は現在の盛岡市内丸、即ち、旧盛岡城の城跡内か辺縁にあった。]

 

 

不來方(こずかた)のお城(しろ)の草(くさ)に寢(ね)ころびて

空(そら)に吸(す)はれし

十五(じふご)の心(こころ)

 

 不來方のお城の草に寢ころびて

 空に吸はれし

 十五の心

[やぶちゃん注:「不來方(こずかた)」現在の岩手県盛岡市を指す言葉ウィキの「不来方」によれば、『「盛岡」が都市名として使われ始めた時期については諸説あるが、「不来方」は、少なくとも』五百七十『の間』、存在し続けている『由緒ある名であることから、現在』も『盛岡の雅称として使われることがある』。『南部氏による開府当時、居城名も「不来方城」』(現在の盛岡城のこと)『であり、この時、都市名として「盛岡」という地名は存在しなかった』。『伝承によれば、かつてこの地には「羅刹」』(らせつ)『と呼ばれる鬼がいて、人里を荒らしまわっていた。このことに困っていた里人たちが、三ツ石(盛岡市に現存する「三ツ石神社」)の神に祈願したところ、鬼は神によって捕らえられた。この時、鬼が二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残した。これが「岩手郡」、のちに岩手へと連なる地名の由来である。また、「二度と来ない方向」の意味で、一帯に「不来方」の名が付されたと伝えられている』。『また』これを祝祭して『「さぁさぁ踊れ」と人々が囃し、奉納した踊りが、「さんさ踊り」だとされ、現在でも盛岡の夏の風物詩として受け継がれている』。『不来方の改名は、三戸城下から進出した時の南部藩主南部利直が』、『この名を「心悪しき文字」と忌み嫌ったためと伝えられる。後に「森ヶ岡」次いで「盛岡」が城下町の名として用いられるまで、当地は「不来方」の名で呼ばれたと伝えられる。これは「永福寺」所在地の裏山が「森ヶ岡」と呼ばれたことに関わると見られる』。『永福寺の山号は、現在「宝珠盛岡山」である。「盛岡」は、江戸時代後期の元禄期、当時の南部藩主・南部重信と、盛岡城の鬼門を鎮護する真言密教寺院、永福寺・第四十二世清珊法印との連歌によって生まれたと伝えられる』。

 幾春も華の惠の露やこれ

   寶の珠の盛る岡山

『城下町として「盛岡」の名が定着、後に藩名そのものも「南部」から「盛岡」へ改められ』、『町名として「不来方」が残ること』も『無かった』とある。また、『現在の盛岡市中心部は「岩手郡仁王郷不来方」』(いわてのこおりにおうごうこずかた)『に相当する。その名は南北朝期には既に古文書に記されており、「陸奥話紀」の記載では、清原武則の甥・橘頼為が領主となっていたのが「逆志方」』で、これは「不来方」であるとされる。『南部氏は蒲生氏郷らの勧めでこの地への築城を決めたという』。但し、『一般に、南部氏が築いた盛岡城の別名が「不来方城」と解されているが、厳密には両者は別の城である』。永享一一(一四三九)年に『福士氏が城代として定着し、「不来方殿」と呼ばれたのが「不来方城」の始まりであり、「不来方城」を基礎に拡大して南部氏が築いたものが、後の「盛岡城」である』。『現在の岩手医科大学附属病院の北辺(盛岡市本町通)には、不来方町の石碑が残っている』;とある。

「十五」数えであるから明治三三(一九〇〇)年、盛岡中学校三年次に当たる。これが前の想定と齟齬するというのは当たらない。追懐はそこで止まらねばならない必要はないからである。寧ろ、ここで城跡で寝転んで空を見上げている、未だ成績のよかった聡明な少年啄木の面影は、寧ろ透明に幸福な追想として無限に美しいではないか。]

 

 

かなしみといはばいふべき

物(もの)の味(あぢ)

我(われ)の嘗(な)めしはあまりに早(はや)かり

 

 かなしみといはばいふべき

 物の味

 我の嘗めしはあまりに早かり

[やぶちゃん注:あくまで漠然としている。「あまりに早」い時期に「我」は「物の味」を「嘗め」た、それは確かな人生「かなしみ」の具体な対象現象であったというのである。前後の歌の追懐時制からジャンプすることなく考えるなら、私はこれが上京以前の盛岡中学校時代の追想でなくてはならないととる。さすれば、答えはすこぶる容易であるように思われる。それは――若い男の人生に於ける、ある大いなる「かなしみ」に何時か繋がるところの、ある「物」(対象現象)の持っている独特の「味」わい――である。恋愛である。筑摩書房版全集年譜を見ると、盛岡中学四年次である明治三四(一九〇一)年(満十五歳)の条の最後に、『この年堀合節子との恋愛が急速に進んだ』とある。『急速に』は意味深長である。

 

 

晴(はれ)れし空(そら)仰(あふ)げばいつも

口笛(くちぶえ)を吹(ふ)きたくなりて

吹(ふ)きてあそびき

 

 晴れし空仰げばいつも

 口笛を吹きたくなりて

 吹きてあそびき

 

 

夜(よる)寢(ね)ても口笛(くちぶえ)吹(ふ)きぬ

口笛(くちぶえ)は

十五(じふご)の我(われ)の歌(うた)にしありけり

 

 夜寢ても口笛吹きぬ

 口笛は

 十五の我の歌にしありけり

 

 

よく叱(しか)る師(し)ありき

髯(ひげ)の似(に)たるより山羊(やぎ)と名(な)づけて

口眞似(くちまね)もしき

 

 よく叱る師ありき

 髯の似たるより山羊と名づけて

 口眞似もしき

 

 

われと共(とも)に

小鳥(ことり)に石(いし)を投(な)げて遊(あそ)ぶ

後備大尉(こうびたいゐ)の子(こ)もありしかな

 

 われと共に

 小鳥に石を投げて遊ぶ

 後備大尉の子もありしかな

[やぶちゃん注:「後備大尉」後備役(こうびえき)の大尉。旧陸海軍で現役定限年齢に達した者又は予備役(現役を終わった軍人が一定期間服する兵役。平常は市民生活を送るが、非常時には召集されて軍務に服するもの)を終えた者が服したさらなる追加兵役。昭和一六(一九四一)年に廃止されて予備役に吸収されている。]

 

 

城址(しろあと)の

石(いし)に腰掛(こしか)け

禁制(きんせい)の木(こ)の實(み)をひとり味(あぢは)はひしこと

 

 城址の

 石に腰掛け

 禁制の木の實をひとり味はひしこと

[やぶちゃん注:「禁制の木の實」は無論、譬喩である。岩城氏前掲書によれば、『友人の小笠原謙吉宛ての』後の『明治三十九』(一九〇六)『年一月十八日の書簡の一節に、「早く十四歲の頃より続けられし小生と節子との恋愛は、」とあるので、すでにこの年盛岡女学校二年の堀合節子と恋愛関係あったことがわかる』とある。]

 

 

その後(のち)に我(われ)を捨(す)てし友(とも)も

あの頃(ころ)はともに書讀(ふみよ)み

ともに遊(あそ)びき

 

 その後に我を捨てし友も

 あの頃はともに書讀み

 ともに遊びき

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、この友というのは、『中学三年生のとき啄木の提唱で結成された英語の勉強会』「ユニオン会」の仲間を指すとされる。『メンバーは啄木と同級生』『五名』であったが、後、『結婚前後の啄木の行動を非難して彼等は交友を絶った』とある。]

 

 

學校(がくかう)の圖書庫(としよぐら)の裏(うら)の秋(あき)の草(くさ)

黃(き)なる花(はな)咲(さ)きし

今(いま)も名(な)知(し)らず

 

 學校の圖書庫の裏の秋の草

 黃なる花咲きし

 今も名知らず

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、この花を『「きれんげ」「こがねばな」と呼ばれる「都草」のことであろう』とされる。マメ目マメ科マメ亜科ミヤコグサ連ミヤコグサ属ミヤコグサ Lotus japonicusグーグル画像検索「Lotus japonicusをリンクさせておく。]

 

 

花散(はなち)れば

先(ま)づ人(ひと)さきに白(しろ)の服着(ふくき)て家出(いへい)づる

我(われ)にてありしか

 

 花散れば

 先づ人さきに白の服着て家出づる

 我にてありしか

[やぶちゃん注:初夏の訪れには誰よりも真っ先に白い夏服を着て家を出て闊歩する私であったよ、の意。]

 

 

今(いま)は亡(な)き姉(あね)の戀人(こひびと)のおとうとと

なかよくせしを

かなしと思(おも)ふ

 

 今は亡き姉の戀人のおとうとと

 なかよくせしを

 かなしと思ふ

[やぶちゃん注:「今は亡き姉」長姉サダ(婚姻後は田村姓)。啄木より十歳年上。明治三九(一九〇六)年二月二十五日肺結核のために三十歳で逝去した。岩城氏前掲書によれば、「姉の戀人」は渋民村の駐在所の巡査であった高橋隼之助(はやのすけ)で、『その弟はのちに医師となった友松等(ひとし)で啄木の小学校時代の同級生である』とある。]

 

 

夏休(なつやす)み果(は)ててそのまま

かへり來(こ)ぬ

若(わか)き英語(えいご)の敎師(けうし)もありき

 

 夏休み果ててそのまま

 かへり來ぬ

 若き英語の敎師もありき

[やぶちゃん注:「來(こ)ぬ」打消しである。

岩城氏前掲書によれば、この教師は『盛岡中学校助教諭美濃部三郎であろう。彼は明治三十二』(一八九九)『年十二月十六日盛岡中学校に就職し』たが、理由は不明だが、僅か二年足らず後の『三十四年九月二十六日付で依願退職となった。三十四年九月といえば啄木の夏休みの終わった直後のこと』であるとある。]

 

 

ストライキ思(おも)ひ出(い)でても

今(いま)は早(は)や我(わ)が血(ち)躍(をど)らず

ひそかに淋(さび)し

 

 ストライキ思ひ出でても

 今は早や我が血躍らず

 ひそかに淋し

 

 

盛岡(もりをか)の中學校(ちゆうがくかう)の

露臺(バルコン)の

欄干(てすり)に最一度(もいちど)我(われ)を倚(よ)らしめ

 

 盛岡の中學校の

 露臺の

 欄干に最一度我を倚らしめ

[やぶちゃん注:「露臺(バルコン)」フランス語“balcon”。英語は“balcony”。]

 

 

神有(かみあ)りと言(い)ひ張(は)る友(とも)を

說(と)きふせし

かの路傍(みちばた)の栗(くり)の樹(き)の下(した)

 

 神有りと言ひ張る友を

 說きふせし

 かの路傍の栗の樹の下

 

 

西風(にしかぜ)に

内丸大路(うちまるおほぢ)の櫻(さくら)の葉(は)

かさこそ散(ち)るを踏(ふ)みてあそびき

 

 西風に

 内丸大路の櫻の葉

 かさこそ散るを踏みてあそびき

[やぶちゃん注:現在の盛岡城跡公園の北から盛岡市内を貫通する「大通り」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があってそれかと思ったりするが、サイト「Stanford Digital Repository」の明治二十年代の盛岡の地図を見ると、公園の西側は広大な農学校の敷地であって、この通りは存在しないから、恐らくは城跡北西のかどを上がった現在の県道一号から二号に下って盛岡駅に行くルートがそれであろうか。因みに、その県道一号沿いの岩手県盛岡市中央通には「啄木新婚の家」がある。]

 

 

そのかみの愛讀(あいどく)の書(しよ)よ

大方(おほかた)は

今(いま)は流行(はや)らずなりにけるかな

 

 そのかみの愛讀の書よ

 大方は

 今は流行らずなりにけるかな

 

 

石(いし)ひとつ

坂(さか)をくだるがごとくにも

我(われ)けふの日(ひ)に到(いた)り着(つ)きたる

 

 石ひとつ

 坂をくだるがごとくにも

 我けふの日に到り着きたる

 

 

愁(うれ)ひある少年(せうねん)の眼(め)に羨(うらや)みき

小鳥(ことり)の飛(と)ぶを

飛(と)びてうたふを

 

 愁ひある少年の眼に羨みき

 小鳥の飛ぶを

 飛びてうたふを

 

 

解剖(ふわけ)せし

蚯蚓(みみづ)のいのちもかなしかり

かの校庭(かうてい)の木栅(もくさく)の下(もと)

 

 解剖せし

 蚯蚓のいのちもかなしかり

 かの校庭の木栅の下

 

 

かぎりなき知識(ちしき)の欲(よく)に燃(も)ゆる眼(め)を

姉(あね)は傷(いた)みき

人戀(ひとこ)ふるかと

 

 かぎりなき知識の欲に燃ゆる眼を

 姉は傷みき

 人戀ふるかと

[やぶちゃん注:「姉」はやはり長姉サダ。彼女は明治二四(一八九一)年(啄木五歳)十月二十一日に田村末吉(翌年に名を「叶(かのう)」と改名)と結婚した。岩城氏前掲書によれば、『啄木は中学時代の後半』、『この姉夫妻の家に世話になり、四年』次と五年次『は知識欲に渇して、手あたり次第に本をよみながら、独り高く恃していたので、その燃えるような真剣な目を』「人戀ふるかと」『心配したのであろう』とある。いや、彼女は誤ってはいない。既に述べたように、この時期、節子と恋愛関係も急速に進んでいたからである。]

 

 

蘇峯(そほう)の書(しよ)を我(われ)に薦(すす)めし友(とも)早(はや)く

校(かう)を退(しりぞ)きぬ

まづしさのため

 

 蘇峯の書を我に薦めし友早く

 校を退きぬ

 まづしさのため

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、『「友」は啄木の同級生古木巌。啄木はこの友人と中学四年のとき』、『回覧雑誌「三日月」を編集した。「せいの低い口の達者な文学青年で、徳富蘇峰の文体を真似た文章を書いた」(伊藤圭一郎『人間啄木』岩手日報社、昭和』三四(一九五九)年刊)『といわれる。明治三十五』(一九〇二)『年の秋盛岡中学校退学後』、『岩手郡太田村尋常小学校の代用教員となり、明治三十七年十二月』、『日本鉄道株式会社に就職。翌年七月』に『東北本線の車掌となった』とある。

「蘇峯」ジャーナリストで歴史家・評論家であった徳富蘇峰(文久三(一八六三)年~昭和三二(一九五七)年)。『國民新聞』を主宰し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全百巻の膨大な史書「近世日本国民史」を著したことで知られる。本名は猪一郎(いいちろう)。小説家徳冨蘆花の実兄。]

 

 

おどけたる手(て)つきをかしと

我(われ)のみはいつも笑(わら)ひき

博學(はくがく)の師(し)を

 

 おどけたる手つきをかしと

 我のみはいつも笑ひき

 博學の師を

 

 

自(し)が才(さい)に身(み)をあやまちし人(ひと)のこと

かたりきかせし

師(し)もありしかな

 

 自が才に身をあやまちし人のこと

 かたりきかせし

 師もありしかな

[やぶちゃん注:石川啄木自身が、結局、この轍を踏んだと言える。

「自(し)」「其(し)」で「自分」の意の反照代名詞(自称・対称・他称の別に拘わらず、「彼(私・あなた)は自分(おのれ)の愚かさに気付いた」の「自分」「おのれ」などのように、その動作が動作主自身に返ってくることを表わす代名詞)の一つ。平安の昔からある古語である。]

 

 

そのかみの學校一(がつかういち)のなまけ者(もの)

今(いま)は眞面目(まじめ)に

はたらきて居(を)り

 

 そのかみの學校一のなまけ者

 今は眞面目に

 はたらきて居り

[やぶちゃん注:全集年譜によれば、最終的に退学することとなる(明治三十五十月二十七日附)、盛岡中学校五年次一学期成績報告書では修身・作文・代数・図画の四教科で成績不成立、課目中の英語訳解・英文法・歴史・動物が不合格点であり、出席時数百四時間に対し、欠席時数は実にその倍の二百七時間もあった。文字通り、「學校一のなまけ者」であったと言える。]

 

 

田舍(ゐなか)めく旅(たび)の姿(すがた)を

三日(みか)ばかり都(みやこ)に曝(さら)し

かへる友(とも)かな

 

 田舍めく旅の姿を

 三日ばかり都に曝し

 かへる友かな

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、初出は明治四三(一九一〇)年三月二十八日附『東京朝日新聞』。「友」の『モデルは啄木の中学時代の友人で「岩手毎日新聞」の編集長岡山儀七(ぎひち)(不衣(ふい))といわれる。岡山は』この時、『新聞社主催の東京遊覧団体を連れて三日ばかり上京したが、この歌はこの時の儀七を詠』んだものとされているらしい。発表日辺りの啄木はといえば、担当していた「二葉亭全集」第一巻の校正が終わった頃に当たっている。]

 

 

茨島(ばらしま)の松(まつ)の並木(なみき)の街道(かいだう)を

われと行(ゆ)きし少女(をとめ)

才(さい)をたのみき

 

 茨島の松の並木の街道を

 われと行きし少女

 才をたのみき

[やぶちゃん注:「茨島(ばらしま)」は現在の地名として地図上で探すのが非常に困難だが、「Stanford Digital Repository」のこちらで、盛岡の北の「くりやがは」(厨川)の東北本線の駅を探し、そこを少し線路上で北上すると、道路が交差する部分を見出せ(「種馬育成所」の東)、そこに「茨(バラ)島」の地名を見出せる。他にも「茨島」の旧地名があるようでもあるが、恐らく現在の岩手県盛岡市下厨川鍋屋敷のここで間違いないと思われる。何故なら、この部分、現在、新幹線が下を走り、それを「盛岡市厨川茨島(ばらしま)跨線橋」と呼んでいるからで、「岩手県」公式サイト内の「都市計画課」が作成したと思われる「いわての残したい景観」の「盛岡市厨川茨島跨線橋附近から見る4号線北方の景観」の解説に(下線太字は私が附した)、『盛岡から北上する国道には、昔から道の左右に赤松、ケヤキその他の広葉樹の大緑木がトンネルの様に路上を覆っていて、まるで市街地をはずれると突然原生林の中に導び』かれたかの『ような気分にさ』せ『られる、全国でもまれに見る素晴らしい景観、環境でした。現在は開発に依り虫食い状に緑の景観が破壊された部分もありますが、まだまだ充分価値ある景観として守り、また愛していきたいものです』。平成一七(二〇〇五)年には『国土交通省岩手河川国道事務所などにより、この区間の松並木の愛称が「巣子の松街道」と決まりました』とあり、本歌のロケーションと一致するからである。]

 

 

眼(め)を病(や)みて黑(くろ)き眼鏡(めがね)をかけし頃(ころ)

その頃(ころ)よ

一人(ひとり)泣(な)くをおぼえし

 

 眼を病みて黑き眼鏡をかけし頃

 その頃よ

 一人泣くをおぼえし

[やぶちゃん注:岩城氏前掲書によれば、友人『宮崎郁雨の思い出によると』、『中学校を退学した直後の啄木は「くろめもんつ」と呼ばれ』てい『たという。黒眼鏡の紋付姿の男の意』という。但し、この時期に彼が眼疾患を患っていたことは年譜などには見られない。]

 

 

わがこころ

けふもひそかに泣(な)かむとす

友(とも)みな己(おも)が道(みち)をあゆめり

 

 わがこころ

 けふもひそかに泣かむとす

 友みな己が道をあゆめり

 

 

先(さき)んじて戀(こひ)のあまさと

かなしさを知(し)りし我(われ)なり

先(さき)んじて老(お)ゆ

 

 先んじて戀のあまさと

 かなしさを知りし我なり

 先んじて老ゆ

[やぶちゃん注:本書出版時、啄木は満二十四歳。私の偏愛する中唐の鬼才李賀の「長安有男兒 二十心已朽」(長安に男兒有り 二十にして心已に朽ちたり:「贈陳商」)を想起させる。]

 

 

興(きよう)來(きた)れば

友(とも)なみだ垂(た)れ手(て)を揮(と)りて

醉漢(ゑひどれ)のごとくなりて語(かた)りき

 

 興來れば

 友なみだ垂れ手を揮りて

 醉漢のごとくなりて語りき

[やぶちゃん注:前掲書で岩城氏はこのモデルを金田一京助とされ、『金田一氏もその思い出』「回想の石川啄木」昭和四二(一九六七)年八木書店刊]『の中でこの歌が同氏を歌った作品であることを認めている』とある。]

 

 

人(ひと)ごみの中(なか)をわけ來(く)る

わが友(とも)の

むかしながらの太(ふと)き杖(つゑ)かな

 

 人ごみの中をわけ來る

 わが友の

 むかしながらの太き杖かな

 

 

 

見(み)よげなる年賀(ねんが)の文(ふみ)を書(か)く人(ひと)と

おもひ過(すぎ)ぎにき

三年(みとせ)ばかりは

 

 見よげなる年賀の文を書く人と

 おもひ過ぎにき

 三年ばかりは

 

 

夢(ゆめ)さめてふつと悲(かな)しむ

わが眠(ねむ)り

昔(むかし)のごとく安(やす)からぬかな

 

 夢さめてふつと悲しむ

 わが眠り

 昔のごとく安からぬかな

 

 

そのむかし秀才(しうさい)の名(な)の高(たか)かりし

友(とも)牢(らう)にあり

秋(あき)のかぜ吹(ふ)く

 

 そのむかし秀才の名の高かりし

 友牢にあり

 秋のかぜ吹く

 

 

近眼(ちかめ)にて

おどけし歌(うた)をよみ出(い)でし

茂雄(しげを)の戀(こひ)もかなしかりしか

 

 近眼にて

 おどけし歌をよみ出でし

 茂雄の戀もかなしかりしか

[やぶちゃん注:前掲書で岩城氏は、『盛岡中学時代』、『一級下の文学仲間で、後年』、『産婦人科医として活躍した小林茂雄を歌』ったものとし、「茂雄の戀もかなしかりしか」というのは、『啄木の妹光子に寄せた初恋である』と明言されてある。]

 

 

わが妻(つま)のむかしの願(ねが)ひ

音樂(おんがく)のことにかかりき

今(いま)はうたはず

 

 わが妻のむかしの願ひ

 音樂のことにかかりき

 今はうたはず

[やぶちゃん注:「音樂のことにかかりき」音楽に関わることに携わることであった。]

 

 

友(とも)はみな或日(あるひ)四方(しはう)に散(ち)り行(ゆ)きぬ

その後(のち)八年(やとせ)

名擧(なあ)げしもなし

 

 友はみな或日四方に散り行きぬ

 その後八年

 名擧げしもなし

 

 

わが戀(こひ)を

はじめて友(とも)にうち明(あ)けし夜(よる)のことなど

思(おも)ひ出(い)づる日(ひ)

 

 わが戀を

 はじめて友にうち明けし夜のことなど

 思ひ出づる日

[やぶちゃん注:岩城氏は前掲書で、節子との恋愛は『十四歳ころより始』まった『初恋で』、それを『友に打ち明けたのは』、『その翌年の中学三年生のときであろう』と述べておられる。明治三三(一九〇〇)年四月から翌年三月までとなり、年譜ではその明治四十三年中に二人の関係は親密になったとされる。]

 

 

 

絲(いと)きれし紙鳶(たこ)のごとくに

若(わか)き日(ひ)の心(こころ)かろくも

とびさりしかな

 

 絲きれし紙鳶のごとくに

若き日の心かろくも

とびさりしかな

[やぶちゃん注:岩城氏の前掲書によれば、初出は明治四一(一九〇八)年十一月三日附『岩手日報』。]

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