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2020/02/23

三州奇談卷之三 聖廟の夢想 (注で甚だ勘違いが多いことに気づいたので大幅に改稿した)

三 州 奇 談 卷三

 

    聖廟の夢想

 加越能三州の大守正三位菅原利常卿は、正しく菅原の苗裔として、元祖大納言利家卿より連綿北陸の藩鎭なれば、武威最も盛(さかん)にして、諸國風を仰ぎ、知士百巧皆至る。されば遠く祖神の威を輝し、明曆三年小松の城北に一基の社頭を造立し、天滿神の眞像を勸請あり。洛北松梅院より連歌の宗匠たるべきを招き給ふ。則(すなはち)能順法師を以て永く此社の別當職に補せられ、彌々(いよいよ)拜崇の禮を盡し給ふ【能順は宗祇以來の名人、一代の句「連玉集」に出づ、略す。今の梅林院の祖なり。】

[やぶちゃん注:【 】内は二行割注。

「菅原利常」前田利家の四男で加賀藩第二代藩主前田利常(文禄二(一五九四)年~万治元(一六五八)年)。藩祖利家は前田家を菅原道真の子孫と称した。但し、これは史実かどうかは全く不明である。

「明曆三年」一六五七年。

「小松の城北に一基の社頭を造立し、天滿神の眞像を勸請あり」現在の小松城址の梯川(かけはしがわ)の東北(鬼門)対岸の小松市天神町にある小松天満宮(グーグル・マップ・データ)。サイト「まるごと・こまつ・旅ナビ」の同神社の解説によれば、『小松天満宮』はここに出る「梅林院」『(宮司宅)とともに造営された。その目的は、小松城、金沢城の鬼門の線上に正確に造営する事によって、怨霊から加賀藩を守ることだったといわれて』おり、『小松城の表鬼門にあたる艮(うしとら=北東)の方向に、守山城、金沢城、小松城を』一『本の線で結ぶ直線上に立地している。当時は病気や地震、台風等の天災などは怨霊が引き起こすものと考えられ、最も嫌われたのが鬼門という方角だった。小松天満宮はその鬼門鎮護のために造営された、加賀藩にとっては非常に重要な神社だった』。『小松天満宮の祭神は学問の神として知られている菅原道真公。前田家は菅原道真公を祖先と称したため、天皇家の祈願所であった京都北野天満宮から御祭神を遷座する事ができた。別当には北野天満宮から、当時の連歌の第一人者であり』、『都で上皇や公卿の連歌の指導も行っていた能順を招き、神具は全て北野天満宮を模し、社殿は北野天満宮の四分の一に縮尺され』たものを『造営』するという凝りようであった。『棟梁は加賀藩お抱えの名匠で、那谷寺の本堂・三重塔・護摩堂・鐘楼(国重要文化財)などや』、『高岡の瑞龍寺仏殿(国宝)などの建築に携わった山上善右衛門嘉広』で、『現在も創建当時の神門(四脚門、切妻、銅板葺)をはじめ、拝殿、石の間、幣殿、本殿(三間社、入母屋、銅板葺)が継承され、江戸時代初期の神社建築の特色を残している』とある。

「松梅院」京都市上京区にある北野天満宮の神仏習合時代の寺院の一つ。

「能順法師」(寛永五(一六二八)年~宝永三(一七〇七)年)は江戸前期の連歌師。京の北野天満宮の宮仕(みやじ)。明暦三(一六五七)年に加賀金沢藩主前田氏(この当時は第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)で、先代藩主前田光高の長男であるが、当時は年少であったため、祖父利常が補佐していた。但し、利常は翌万治元(一六五八)年に没した)に招かれて、小松桟(かけはし)天神社別当職(梅林院)となった。天和三(一六八三)年創建の北野学堂の初代宗匠を務めた。連歌集を「連玉集」とするが、正しくは「聯玉集」である。

「宗祇」(応永二八(一四二一)年~文亀二(一五〇二)年)は室町時代の連歌師。姓は飯尾とされる。高山宗砌(そうぜい)、後に心敬に学んだ。文明四(一四七〇)年、東常縁(とうつねより)から古今伝授を受け、古典にも通じた。京都の種玉庵に公家や大名を迎えて連歌などの会を開いたほか、越後上杉氏・周防大内氏らに招かれて講じた。長享二(一四五八)年、北野連歌会所の奉行及び将軍家の宗匠となっている。旅の途次、箱根で死去した。]

 又金城の南玉泉寺は一遍上人の道場なれば、是(これ)にも靈夢ありて、眞像を安置し玉ひ、神盛益(ますます)盛んにして、菅家(かんけ)の支族は云ふに及ばず、元老知臣、都(すべ)て譜代恩顧の士、庶人渴仰の首を傾けずと云ふことなし。

[やぶちゃん注:「玉泉寺」石川県金沢市野町(のまち)に現存。初代藩主利長夫人で織田信長の五女玉泉院が、第二代藩主利常に請うて玉泉院を創建、玉泉院没後に玉泉寺と改め、玉泉院の位牌所となった。

 爰(ここ)に惠乘坊(ゑじやうばう)快全【又名、石良】最も連歌巧(たくみ)にして、淺井政忠・法橋能順と名を等うし、其頃此三子を以て達人とす。然るに快全元祿十五【壬午(みづのえうま)】春、不思議の夢想を蒙りける。幸(さひはひ)今年二月下(しも)の五日、聖廟八百歲御忌に當るを以て、其の法樂をして、此夢想事を卷頭として獨吟一千句を思ひ立つといへども、餘緣にさへられ、聊(いささか)本意を遂げざりしかば、快全密(ひそか)に思へらく、

『速(すみやか)に跡を隱し參籠せんにはしかじ』

と、忽ち在邑(ざいいう)を出奔し、此玉泉寺の廟社に籠り、七ヶ日を期とし全く此事をなす。

[やぶちゃん注:「惠乘坊快全【又名、石良】」「加能郷土辞彙」(国立国会図書館デジタルコレクション)のここに出る「北村惠乘」(きたむらえじょう)と同一人物であろう。そこに、『金沢喜田村屋の二代目で、初め彦左衞門と稱した。壯年より佛門に歸依し、四十歲の頃妻を離別し、家を三代彥左衞門に讓り、西方寺に至り剃髮して、惠乘と稱し、泉野玉泉寺門前及び卯辰最勝寺門内に草庵を結んで住んだ。惠乘傍ら和歌を好み、仙洞御所に五十首の詠を上り、橫山山城守任風に百首の獨吟を呈した。後に近江舟木村西光寺を再興し、また伊勢善光寺より招かれて之に住したが、伽藍の破損甚だしかつた爲、法華經・源氏物語等を講釋して資を得、遂に再建の功を遂げ、享保五』(一七二〇)『年四月十九日六十五歲を以て遷化した。案ずるに、惠乘坊快全の傳に、一名を石良といひ、連歌を以て能順。淺井政右と共に當時の達人と稱せられ、元祿十五年菅公八百年忌に玉泉寺の菅廟に參籠し、七晝夜に獨吟千句を聯ねたとある。この快全は卽ち惠乘と同一人であらう』とあるからである。

「淺井政忠」「政忠」は「政右」(まさすけ)の誤り。加賀藩士浅井源右衛門政右(?~元禄四(一六九一)年)。加賀藩士浅井一政(?~正保二(一六四五)年:近江浅井氏の一族。豊臣秀頼に今木源右衛門(いまきげんえもん)の名で仕え、「大坂夏の陣」の後は加賀藩に仕えた)の子。歌学・連歌・茶道の名人として知られ、能書家でもあった。能順の雅友として連歌にともに名を連ねている。号は素菴。

「元祿十五【壬午】」一七〇二年。

「今年二月下(しも)の五日、聖廟八百歲御忌に當る」菅原道真の忌日。彼は延喜三年二月二五日(九〇三年三月二十六日) に大宰府で薨去した。享年五十九。]

 卷頭は夢想の發句

  そが中に梅が香うれし神の松

  久しき 年も 立歸る空     快 全

  朝鏡 けふ 若水の 顏みえて

 第二發句 梅が香に朝霜けぶる垣根哉

 第三發句 夕露に鎭まる梅の匂ひ哉

第四・第五と終に十に滿つ。斯く功を積(つみ)し内に、既に第五日に至り、聊か心疲るゝ事ありし。然るに此家中岡島喜三郞は、故備中が孫にて采邑(さいいう)四千石を領し、是も天性風雅の志深く、彼(かの)能順・快全共(とも)交り淺からざりしが、此日須臾(しゆゆ)まどろめる内、忽ち異相の老人衣冠を正し來り告(つげ)て曰く、

「汝しらずや、惠乘坊今玉泉寺に在りて獨吟の千句を法樂す。然るに今日燒香を絕して、日頃の望(のぞみ)を失はんとす。急ぎ汝彼所(かのところ)に至りて其志願を助くべし」

と、ありありと覺えて忽然と夢さむる。

[やぶちゃん注:「岡島喜三郞」「故備中が孫」「故備中」は加賀金沢藩士で重臣の岡島一吉(かずよし 永禄二(一五五九)年~元和五(一六一九)年)。織豊・江戸前期の武士を始祖とする家系。一吉は十七歳で藩祖前田利家に仕え、「小田原攻め」などで戦功を立て、「大坂冬の陣」では第二代藩主前田利常に従った。

「須臾」暫く。一瞬。]

 喜三郞奇異の思(おもひ)を發して、先づ事の由を伺ふに、果して

「惠乘坊社中にありて然り」

と云ふ。始終符合の如し。

 岡島氏大(おほき)に驚き、

「是全く聖廟の神敎なり。老松の明神をして、告知(つげし)らしめ給ふにぞ」

と、爰に於て沐浴齋戒し、微妙公より拜領せし「有明」と云ふ名香を懷にし、速に彼所に至り、彼名香を快全に與へて、終に其志願を遂げ、神の德君の德を感じて、第十に至りて

 梅が香や今より代々(よよ)の松の風

と吟じ上(あげ)て、望み足りぬ。

 此軸は今に存在せり。此外此神の靈德、近くは百五十年御忌にも數々の靈異、委(くはし)く述(のぶ)るに辭たらず。

[やぶちゃん注:快全の句には私はなんら心打たれない。悪しからず。

「老松の明神」菅原道真は没後に御霊(ごりょう)として神格化され、天満大自在天神となったが、その眷属の第一の神に老松(おいまつ)大明神がいる。菅原道真の家臣で牛飼であったとされる島田忠興(ただおき)を神格化したもので、ウィキの「天満大自在天神」によれば、生前に、天拝山に登る道真の笏を持ちお供したという。本地仏は不動明王』とされ、「神変霊応記」「託宣記」に『よれば、天神から笏』『を預り、天神の側に座し、天神の補佐・代行する神』で『気性が荒い。寿命の延長、植林・林業に関する願いを叶えてくれるという。ただし、どのような願いもまず老松神に祈り、その後、天神に祈らなければならないという。天神が影向』(ようごう)『の所に種を蒔き松を生やすという』。「太平記」では、『紀伊山中十津川で追ってから逃げる護良親王一行を』十四、五『歳の童子の姿で現れた老松神が救ったという。その時、親王が持っていた北野天神のお守りをみると』、『口が空き、中に入っていた御神体が汗と土で汚れていたという』。また、謡曲「老松」では、『老人の姿で化現している』。『近世に入り』、『道真の師である島田忠臣と同一視されるようになった。道真を老松神として、道真の北の方を老松女』『として祀られることもある』とある。]

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